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『錯乱排球女と妄想吹奏男についての覚書』 作者:狂都大学文学部 / 未分類 未分類
全角11971文字
容量23942 bytes
原稿用紙約39.8枚
それは僕が作楠学院高等部の二年生だったころの情景だ。

僕は勉強しか出来なかった。顔も良くない。眼鏡でなんとかごまかしている。五
十米走は九秒を切ったことが無いし、球技をやらせれば常に野次を受ける身にな
る。そんな劣等感まみれの自分にある唯一の利点が勉強だった。一番好きなのが
生物。嫌いなのが、やはり数学。あんな学問消えてしえばよいといつも思うのだ

 変数が二個ならまだよい、三個になって三元連立方程式を立てなければならな
くなると、頭がもやっとしてくるのだ。不快感が酷くなり、暑くなって、おでこ
の上2センチ辺りのところに、薄い濁ったピンク色の靄が架かったみたいになるの
だ。僕の事を攻撃するみたいに。そうだった。毎週日曜に僕は数学を勉強しなけ
ればならなくなったんだ。理由? 世界で一番嫌いな数学を勉強しなければならな
い理由? 簡単だ。僕には留年が懸かっている。それだけだ。今回の中間で僕は思
いもしない点数を受け取ってしまった。今まで平均点以上を取っていた(取らない
と母に叱責された)僕には信じられない点数だった。

 六月。梅雨の少し前の、うだる青空。僕は校舎の非常階段を下り切った、コン
クリ固めのその場所で、廃棄処分の決まったキャスター付きの鉄琴を眺めていた
。これでも充分練習できるなあと思う。今日は土曜日。僕は今日部活に入って初
めてのサボりを決行した。鞄も持っているし、沓も履いている。もう帰っていい
はずだ。後輩の姿も見えない。そうだ。僕はもう高校二年生なのだから、後輩に
へつらう必要は無いのだ。自分より上手かったとしても。

…ごう…

僕は風を感じた。いきなり清々しくなった。空がいきなり青くなったみたいだ。
僕はキャスター付きの鉄琴の直ぐ下に広がる、長い長い急な坂を見る。あれを駆
け降りてよく友と遊んだ。そういう事を思う。突然、僕にとてつもなく変な考え
が浮かんだ。もしこれにのって、この坂道を滑り降りたらどんなに楽しいだろう
か。だがそれは出来ないことだろう。風が僕の背中でも推さない限り。
だが。
風は意地悪にも吹いて来た。
そしてそれが鉄琴のキャスターを転がし、坂に行き着かせた事は言うまでもない
。僕はそれを止めようと思った。

非現実へと転がり落ちようとする鉄琴を追い掛ける為に、僕は

ぼくは


鉄琴に飛び乗った。



途端に恐ろしいスピードが僕を襲った。周りの景色の動きの早さ。僕は叫び続け
た。僕の髪の毛の一本一本が風に、風圧に踊り、靡いている。緑の木々があっと
言う間に僕から過ぎ去り、だが次々に新しいそれが視界の真横を突き抜ける。目
の前の景色等恐ろし過ぎて直視出来ない。僕は目をつむった。そして必死に鉄琴
を掴んだ。僕に刺さる快感のような恐怖!!



僕は上を見た。

太陽が照り付けていた。


僕は


僕は


現実と非現実の間を滑り落ちていた。




ッガッッシャウゥゥン!!!




体中が痛い。

道の中程で倒れ込んだ鉄琴から吹っ飛ばされ、僕は重傷を負うはずだった。『は
ずだった』と言ったのは、僕がまるで鉄琴からふわりと飛び降りたかの如くに無
傷だったからだ。僕は、目をつぶったままよろよろと歩き、気付くと白い霧の中
に居た。よく目を擦ってみると、ああ。そこは巨大な温室の中だった。ぬんとし
た堪え難い熱気に、今まで朦朧としていた意識は更に僕の存在を異世界へと歩ま
せた。静か過ぎて虫も鳴かず、なぜか色も少ないこの温室。何故だか知りたいが
今の僕には眼鏡がない。乳白色に霞んだ景色が僕を惑わせる。眼鏡はポケットの
中にあった。
僕はそれを掛けた。恐るべき真実が判明する。鉄琴が突き当たりの温室に突っ込
み、僕は柔らかい温室の土に転がり込んだ、そういうことだったのだ。土があま
り服に付かなかったのは、勢いよく僕が回転していたからである。だがそれより
も驚くべきことが解った。

広い広い温室に咲き乱れていたのは、月下美人ただ一種だけだったのだ。


蠱惑的と呼べてしまうほど強い芳香。自らを濡らして咲くその艶やかさ。僕は月
下美人が大好きだった。一度接吻をした。夜遅く、彼等が夜中に咲き誇るのを待
って、母にばれないように逢瀬を重ねた。寝巻姿のままで庭に降り彼等に呼び掛
け、頬を寄せる。研究の為に兄が作った鉢植えのそれは、触ることは愚か近づく
ことも許されないはずだった。だが夜。彼等は僕の愛しい友達だ。あのねっとり
とした真っ白い花弁の隙間に舌を捩込み、互いの粘液を交ぜ繰り合わせる。卑猥
な音さえ聞こえてきて、僕はその音に毎夜酷く悶えた。そして朝が弱くなった。
 だから月下美人は、僕にとってすれば悪戯の目撃者なのであった。僕は夢想し
た。何故か白昼に咲き誇るこの月下美人達が、毎夜僕に凌辱された仕返しをする
ことを。そのぬるりとした花弁を延ばして、僕の肌という肌をなでまわす様を。
息が上がって来た。白い霧の中に浮かび上がる妖艶な友に見入られ始めた。熱気
に当たり始めたのだ。僕は、目の前にあった一輪を掴み、舌を突き出してそれに
埋めた。苦みのこもった甘みが口の中に広がり、堪らない。その背徳さに、僕は
思わず喉の奥で嬌声を漏らしてしまった。



舌から糸を垂らすようにして未練がましく接吻を終え、僕は目を冷ました。巨大
な温室を走り抜け、帰ろうと決心しかけた。僕は香りの中に走っていた。


ッハーイッ



遠くから声が聞こえた。温室の香りの壁に挟まれて、小さくなっているが、それ
ははっきりしていた。


僕は振り返った。



縦に長い温室の、僕が突っ込んだ所と反対側に、そこだけ暗くなっている所があ
る。そこからだ。僕は振り返って見た。僕の、進むべき道だ。何でその時そう思
ったのだろう。 そうだ僕は、正義とか希望とかそういうものに関しては決定が激
しく遅い僕は、こういう無駄で無益な決定についてはとても判断が早いのだ。享
楽と耽美と官能。全く無益なそれにだけ、僕は俊敏だ。僕は負傷した鉄琴を置き
去りにし、その柔らかな土を踏み付けながら、陰の方向へと歩き続けた。



 …ッハーイッ



僕はもう一度声を聞いた。その弾き出されるような叫び声は、さっき僕から発せ
られた嬌声とは対極に位置していた。あれが欲しい。僕は直線的にそう思った。
欲しくて欲しくてしょうがなく思った。だから僕は行く。目の前には今、不確定
な木陰が現れている。白い霧にかかった、緑の影。その中央にある、温室の出口
。それをバコォッと勢いよくあける。その一瞬だった、[我ヲ誘イシ風ニ似給フ風
神、ごうト吹キ給ヒテ、我ヨロケタリ。温度差が室内と室外の気圧を変え、凄ま
じい風が吹いて来る。しかもそれは一瞬だけだったから、彼にいっそう強い印象
を与える]風と共に、楠だろうか椨だろうか木葉がざわめいた。僕は見た。異次元
への二つ目の通り道に、息を飲んで目を見張った。出口から、木に囲まれた永遠
に続くような薄暗い上りの階段があって、そのまた最上段にぽっかりと青空が覗
いている。林冠ギャップの様だった。僕は高度差について考えた。そうか、今ま
で必死で坂をくだって来たのだから今こんな壮大な上りを見ているのも必然の理
だ。僕は階段を上り始める。一段一段が森の土の様で、やはらかに濡れていたの
を忘れなかった。



ザワワァァァッ…




ザン … サアアアアアッ



風はたまに吹くようだ。




…きゅうけぇぇぇっい!…




あの声が聞こえた。


サワッザーーーー




しばらくして僕は階段を上り切った。そこは高台になっている。目下に広がるそ
の景色は美し過ぎて、おもわず溜息が出た。まるで玩具箱をひっくり返したよう
な感じ。透明な温室と、白い建物と、銀のガス塔が青々しいそして清々しい海を
背景にして、幾何に配列されていた。…だが直ぐに後悔した。そこは明らかに立
ち入り禁止の区域だったからだ。立ち並ぶ銀色のガス塔や、水晶の様に透き通っ
た温室達。美しいが本来僕には触れられない者共だ。気付いた。ここが工場のよ
うな所で有るということに。僕のような怠慢学生の立ち入るべき所ではないとい
うことに!

僕は恐くなった

その僕を或建物の影から見つめる、なにかのユニフォーム姿の人が見えた。かな
り遠くからだから何者か解らなかったが、次の瞬間僕はそれのせいで凍り付くこ
とになる。彼女は、どすの効いたよく通る声で、僕を睨みながら叫んだ。海をも
凍らせるようなその声で!


『この覗き野郎め!』




時が停まった。

僕は近眼をひんむいて凝視する。

それは僕目掛けて弾丸の如くに走り出す。僕は泡を吹きそうになる。そしてよろ
ける足先で森の階段に振り返り、落ちるかの如くに走り降りる。僕を追い掛けて
ゆく弾丸のそれは速い。僕は振り返れない。ただひたすら階段を降りている。そ
の階段の長い事!緑の影に囲まれて静寂と共に歩いて上った距離が未曾有の物に感
じる。もう風の音も鳥の声も聞こえない。僕が感じるのはただ焦躁と恐怖だけで
ある。走り続けた。だが僕の事である。やはりいくら急いでも遅い足はそれほど
の奇跡を起こさない。がむしゃらに走ったが、後続の足音はどんどん大きくなっ
てゆく。そして僕のひ弱な足が悲鳴を上げ始めた。いでよアデノシン三燐酸。僕
はいま疲弊している。耐えられなかった。恐くて悲鳴を上げた。


「ひぇええぇえ!」


 そして遂に。目まぐるしく流転する緑の影と青い風の横で、僕はなにかに躓い
たのだ。僕は仰向けに倒れた。倒れ込もうとするその時、僕は『彼女』を見た。
一瞬だけ。だが一生続くだろう鮮烈な印象と共に。

彼女は倒れ込んだ僕を見下ろしていた。真っ白なユニフォームに濃紺の模様。そ
こには古めかしく布地に似つかない漢字で「京大研株式部梶vと縫われていた。
背が塔の様に高くて、見下ろす目はまるで描いたかのように細く、その眼光は森
の日蔭の中でも炯炯としていた。短い髪もやはり茶金に燃えていた。僕にはない
物、強さ、清々しさ、逞しさ全て…その強靭そうな肉体に詰め込まれていたのを
見ていた。幻影の果てに。



そこからは記憶がない




僕は学校の保健室にいた。跳び起きて辺りを見回すと、顔なじみの保健室の先生
がいた。(よく身長(152a)をはかる為)

「あんた、京大研に迷い込んだんだって?」 先生は台帳に何かを書き込みながら
聞かれた。

「はい?」
 その三文字を思い出すのにはかなり時間がかかったので、先生に先に言われて
しまった。

「だから、京大研。京都大学付属研究所株式部。海浜にあったでしょ」
そう先生が言われた所で、僕の頭の中の紺色で縫われた三文字がやっと浮かび上
がって来る。

「坂下ったとこのですか?」
 あの鮮烈な思い出を誰が忘れられることが出来るだろうか。

「あん。あの、植物園みたいな所ね。あそこに行ったら帰ってこれないはずなの
に、よく帰って来れたね…」


「帰れないんですか?」

「ああ、あそこはヤバイから。」

あの銀色の桃源郷が悪魔の棲みかにさえ思われる発言だった。



その日、僕は丁寧に先生に礼を言い、足を少し引きづりながら校門を出た。僕は
空を見上げた。清々し過ぎる空が徐々に薄く雲かかるのが解った。からだ中の痛
みはまだ残っているが、それより鮮烈な思い出が残っていたのだ。僕は忘れない
。脳が忘れても、なぜ体が忘れられるだろうか。



月曜日 三時間目 数学



今日は日曜日から降り続いている雨がしとしとと鳴っている。かと言って寒い
わけでもなく、皆蒸し暑い空気に嫌気がさしていた。僕は教科書を見た。「みた
」というのはそれが配られて十秒も経っていないからである。それは今日から必
修の数学三の教科書であった。なぜ高二の僕が数Vを今からやらなければならな
いのだろうか。しかも僕の志望している学校は薬学部(男の癖によく薬剤師を目指
せるなと大人には言われる)なので数Vどころか数Bもいらないのである。全く無
駄だ。全く眠いのだ。微分や積分が少しでも僕の身長を延ばす助けになれるだろ
うか。いやならない。僕は段々と眠くなってきた。こういうときは無理に授業を
聞いたほうが無駄だ。爆睡して全ての授業料が無駄になるからである。適当に空
想や妄想を繰り広げ、必要最低限の事項さえ聞き漏らさないようにすればいいの
である。僕は実行した。甘美と享楽の世界に、半分身を沈めた。… 僕が自慰をす
るときや、陰欝な妄想に耽る時、いつも決まった『相手』が現れる。その娘は真
っ黒い長髪とくりくりした茶色い目を持ち、肌はぽてっと色白である。背が低い
。声は甘く高くて、僕
を兄として慕う。

その娘を胸に抱き締め、僕は溜息を着いた。柔らかい胸の感触を感じながら、僕
は彼女の耳を舐めた。途端に彼女のからだがぴくんと波打ち、僕に体を擦り寄せ
て来た。僕は我慢がならなくなり、彼女をベッドに押し倒した。

そうか、CosXを微分すると-SinXになるのか。よし。


僕は妹の開けた胸に顔をくっつけて、小さな胸の中に埋まっている突起を舌でい
じめた。柔らかい感覚のそれをつっつく毎に、妹はア行の音を全て交ぜたような
嬌声を上げた。それに合わせくねくねと体を動かす妹。嫌がっているのか、感じ
ているのか。それとも。

ああ、対数Eはとても不思議な数だ。神秘さえ感じられた。


僕は妹の口を僕の唇で塞ぎ、早急に舌を捩込んだ。だが、僕の抱いている人が、
妄想のなかで

消えてしまった。

僕は妹を探した。布団の中に、部屋を出て二階に、一階に、そして遂に僕は家を
出て探し回った。走り回った。僕の誰にも取られないはずの宝物が取られてしま
った。妹。独りっ子の僕の、心の中にだけ棲んでいた妹を、今日いきなり取られ
てしまった。なぜだ、なぜだ!僕の妹を返せ!暗鬱ないじめを続けた僕が悪かった
のか?でも。だれだ!


僕は悶えて走り続けた。疲労はなかったが、絶望だけがつもりゆく。返せ。返せ
返せ返せ!


僕の妹を返せ!



また保健室にいた僕。

「妹尾。あんた最近おかしいんじゃないかね、授業中に椅子に座った間々失神す
るなんて。男らしくないぞ。」

保健室の先生が僕をからかった。

「失神してたんですか!?」

「うん。いきなり数学の授業中、頭を撃たれたみたいにがくっと下げて。そのま
ま白目向いて突っ伏してたんだとさ。担架に乗せられて運ばれてたよ、あんた。


そんなにショックが強かったのか。あの「事件」は。呆然とした。

「先生も、妹尾は最近勉強のことで疲れてるんじゃないかって心配してたぞ。…
数学は補講やってくれるらしいから、まあ、落ち着いたらいってきなよ。」
外を見ると、既に日が暮れかかり、雨足は強くなっていた。大丈夫、今日の傘は
台風装備の大きな黒傘だ。

「あの、先生、一つ聞きたいことが…」

僕は前々から抱いている疑問をぶつけた。
「あっ…僕を土曜日此処まで運んだ人って、もしかして茶髪で長身の人でしたか?
あの、」

先生はきっぱりと答えた。

「ああ、京大研排球部の唐沢星でしょ。まさか生で見れるとはねえ。」

「生?」

さっぱり意味が解らなかった。

「あのチーム、あの人のおかげで実業団最強なわけさ。新聞見たことない?ほら、
代表メンバーとかで…」

新聞は毎日読むが、スポーツ欄だけ飛ばして読んでいる。興味がないからだ。先
生は保健室を出た。僕はその後直ぐにベッドから跳ね起きて、靴を履きつつ数学
準備室に向かった。彼女のその御姿が、先生の言葉で余計に輝かしく思えて来た
。僕は数準を目指しながら、もう一目、もう一目彼女を見たいと強く願った。妹
が消えてしまった理由等、今は解らなくてもなんともない。それが理由なのかも
しれない。僕の妹よ。さようなら。

二人きりの補講を受けた後、僕は一人で帰ることになる。僕は薄暗い玄関から、
闇を覗いた。ぞっとするような碧い碧い空に、たらされたた闇の釉薬が永遠に地
平線まで続き、そこから轟音と共に降り注ぐ水晶の如く巨大な雨滴の群。黒い傘
をその懐の中に差し出せば、途端にそれ以上の轟音が続くだろう。僕は一人で振
られる雨が恐い。それは極単純な理由からだろう。音が末恐ろしい。それは幼子
が大きな音から逃れようとする行動からの系譜だろうか。目をつむったってもつ
んざくその雨足から、僕は逃げていた。やはり逃げていた。安全へと逃げるので
はなく、理性へと逃げていた。ああ大きな音がする。僕の感情が、大きな音によ
って、予想もしない方向へとずれてしまうのがこわいのだ。僕は非常階段の隣に
いた(非常階段を使って帰ったほうが濡れないのだ。) そのしたにはとろとろとし
た闇を抱えた、あの坂が続いていた。坂が続いていた。僕は衝動で自分が動くこ
とに恥じらいを感じる人間だ。だが今日は違う。この雨が僕に意味を与えた。そ
うだ。これは衝動等ではないはずだ。だが恋でも羨望でも愛でもないだろう。誰
も感じたことのない感情を胸に抱き
締めながら、僕は走り始めた。闇の中を逆落としに。黒い傘を片手に持ち、僕は
確かに走っていた。彼女に出会う為に。そう彼女に出会う為に!!


僕が走った理由はもう一つある。放置して来た鉄琴が気になったからである。別
に取り戻す元気も謝罪する勇気も僕は持ち合わせていないのだが、確認する好奇
心だけはなみなみと満ちているので、僕は坂を下っていたのだ。とめどなく鳴る
雨の轟音を耳に、僕は進み続けた。自分の足音でぐらつきそうな傘の柄を必死に
抱いて、今自分が進んでいる道を一生懸命に忘れようとしながら僕は歩いた。し
ばらくしてその感覚は消えていった。だんだん快活になってきて、雨音が気にな
らなくなった時分には罪を侵している自分が何故か誇らしげだったのを覚えてい
る。進むことに悪意はなかった。恐怖さえなくなった。

だから、まさにだから、僕がその坂の途中で、不似合いなスーツをずぶ濡れに
しながら、疲れきった顔を持つ高背の少女を見つけてしまったのは、偶然とは言
い難い何かの力のせいであると思わざるを得なかった。 女は少女になっていた。
外灯に恨めしげな視線を投げ掛けながら、ぼろぼろになったその体を引っ提げて
、坂を上っていた。それは僕に怒号を浴びせたバレーの選手ではなく、僕と同い
年くらいの、普通の女の子だったのだ。彼女はうなだれながら歩いていたが、ゆ
っくりと顔を上げ、僕を見下ろした。目があった。雨音がひどくなったように感
じた。


ッドザァァァアァァァ……




「貸しな。」


僕はあっけなく傘を奪われた。見上げる程の大女に奪われた。あああ。僕は夢中
でその女に付いて行く。濡れるからだ。付いていったところで彼女はデカいから
傘が高い。雨粒は容赦なく僕に降り注いだ。

「悪いな。パクられた。ったく。」

「あ…いえ…」

僕は取りあえず恐縮することにした。そして前々から気になっている事を話した


「あの。僕は…」


「覗きじゃないんだろ。」

渇いた声。御名答だ。

「そうですッ。学校から鉄琴が転がって来ちゃって、それで謝ろうとしてたんで
す!あとっあと失神している僕を担いで持ってきてくれたんですか?重いのにお疲
れ様でした。あとありがとうございましたッ!!」
僕はこの時一切の緊張が解かれるのを感じた。一気に喋ったので文法がめちゃ
くちゃだった。メールだったら(爆)もいいところだ。と言っても僕は携帯なんて
持っていないが。

「重かったぜ。だげんこれでおあいこだな。あ、あの木琴もらっていいか?」

「鉄琴ですね、いいですよ、今ならばちもサービスです。」

「ばちってなあにさ」

「叩くやつです。」
僕たちはそうして取り留めのない事を話し続けた。僕はこの人が相当疲れていて
、しかも今重度の淋しがりやであることが段々解って来た。そして彼女が大衆に
対してはヒーローのような存在でもある事も。それで僕は余計にこの人が好きに
なった。僕はそんな風に人の横顔を洞察するのが好きだったのだ。


急行もない学園線の終点は、夜遅くともなると人気が殆どなくなるのだ。トタ
ンの屋根は雨粒にばりんばりんと鳴り、所々に雨漏りのバケツが置いてある。僕
は先ず母に電話した。勿論公衆電話でだ。ひどい雷雨だから遅延の可能性がある
事、だから自宅近くの駅に着いたらもう一度自宅にかけること等を伝えて、僕は
受話器をおいた。
「家、東沢海岸なのか?」

唐沢さんは丁寧にハンカチで鞄や服を拭きながら聞いた。

「や。次の遥松です。迎えに来てもらうんで。」

あなたはどこですか?と聞こうと思ったが僕は躊躇した。僕に唐沢星の所在を訪
ねる資格等ないのだ。だが彼女は聞かれずとも答えてしまった。
「あたし、西綾原ね、近いじゃん。」
それは僕の駅と四駅たらずしか離れていない、学園線からいつも乗り換える所だ
った(と言うことは僕の駅は乗り換えてから四駅のところにある)あまりにもあっ
けらかんと答えられてしまったので、僕はなんだか恥ずかしくなって顔を伏せて
しまった。そんな僕の顔を唐沢さんがにこっと笑いながら覗き込む。
「あたしに惚れ込んだか?あははははそりゃないね。そういや木琴男、君の名前は
なんだい?」

僕は体中に電撃が走るのを感じた。

「せせっ……妹尾…和紀です…。」

僕は真っ赤になった。真っ赤になって僕は顔を伏せてしまった。恥ずかしくて恥
ずかしくて泣きそうだった。でも嬉しかった。

「あたしは唐沢星だ。セイの字はお星様の星だよ。」

きっとこの選手は僕が勉強ばかりしていてバレーの事なんか全然解らないとでも
思い込んでいるのだろうか。まあ現に僕はそうだった。あの日までは。月曜日の
昼休み。僕は図書館に趣き、今まで読んだこともないバレー雑誌を片っ端から読
んで、彼女に関する記事を探しまくっていた。保健の先生に名前を聞くまえだっ
たので、絵だけをたよりに。もちろん数学もちゃんとやった。留年だけはしたく
ない。


予定の時間よりだいぶ遅れて電車は来た。雷雨のためにのろのろ運転だった。僕
たちは蒸し暑さを感じながらその僕たち以外利用者がいないぼろ電車に乗った。
僕は七人座席の端の席に座り、手摺りにもたれた。そして鞄の中からカセットウ
ォークマンを出し、耳に付けて聞いた。大会で演奏する曲だった。僕は彼女が反
対の端に座ると思っていた。そして疲れきって泥の様に眠り込んでしまうと期待
した。それは淋しい期待だった。
「何聞いてんのさ。」
彼女は隣にいた。音圧の低いテープは彼女の声を阻まなかった。僕はまた酷く高
潮した。赤く染まった頬を彼女はその強靭な指でつついた。
「クラシックですよ?聞きます?」
僕は見上げて彼女を見つめた。切れ長の、だが幼さの残る目を見つめ続けた。何
百年か何万年。だけどこの世界にとっては約四秒。「聞く。」

いよいよ僕等の体は密着し始めた。イヤホンのコードが短すぎたため、彼女は首
を折って僕に近づかなければならなくなったのだ。一瞬石鹸の香りがした。うな
じから香る制汗剤だった。


だが、そうだ、だが、僕は非情な事に、ああ。僕は男だったのだ。列車が運転速
度を早めた。軽快に流れる景色は身の毛がよだつかの如く漆黒で、恐かった。列
車はけたたましい音を立てて走っていた。その音が僕の聞いている『ベル・エレ
ーヌ』の美しいオーボエのソロを掻き消した。僕はそのバックに聞こえるマリン
バ(木琴)の伴奏を一生懸命頭の中の楽譜と照らし合わせていた。…それは一つ目
の駅、泰斉駅を発車した直後の事だった。二つ目のワルツに入る直前で、テープ
がもうすぐ終わる所だった。

落雷した。


さっきから鳴っていた雷鳴が、特別大きく、赤い光りとともに窓の外へと落ちな
さった。僕はテープから僕の大会でやる木琴パートを聞きとるのに全神経を傾け
ていたので、さほど動じなかったが。

「きゃぁあっ」

その音に驚いて、いや恐くなったのだろうか、唐沢さんはびくっとその高背を波
打たせて、強く僕を抱き寄せた。あまりに力強く抱き締められたため、僕は思わ
ず声を上げた。また何秒か経ち、電車はがくんと止まり、そして全ての照明が落
ちる。
…このような時、普通の乗務員なら直ぐに車内を巡回し、乗客の安全を取り計ら
うだろう。だがその日の落雷はかなり危険であったし、乗務員もまさか今の時間
帯に乗客がいるだなんて思ってもいなかったのだろうか。しばらく彼等は来なか
った。それが運命だった…

彼女は依然首を曲げていたので、僕の耳には彼女の怯えた吐息が聞こえ続けた。
そして強く抱き締められたために、僕は高背の彼女の鳩尾に顔を埋めざるを得な
かった。僕はだめだった。


「これは僕を挑発してるんですか?」



僕は、彼女の背中に腕を回した。更に密着する二人の体から、するするとイヤ
ホンが落ちた。耳から外れたのだ。闇の中だと、男というのはなぜこうも卑劣な
のだろうか?

僕はいまだ雨粒に濡れている指をそっと彼女の唇に這わせた。そのほてった頬に
痺れながら。そして少し躊躇した。今自分がやっていることがいかに残酷か判り
始めて来たからだ。だが僕は諦められなかった。今思い出せばかなり不自然な体
勢で、僕は無理に首を延ばし、そして彼女も無理に屈んで、僕は唇を彼女のそれ
に重ねた。それから二人の熱い舌が絡まり合うまであまり時間がかからなかった
のは言うまでもない。長い口づけを終えて、僕はいきなり酷く冷静になり、震え
てしまった。
「唐沢さん…」

「セイがいい。まだ高二だし。」

「じゃあ…同い年ですね…あの…」

喉が掠れるかの如くのひそやかな声で、僕は謝罪を請うた。

「もういい。」

そう言ってまた強く抱き締められた。互いの体温が流動して行く様がよく判る。
暗闇の中で僕の目は、興奮と後悔と羞恥で変になってしまいそうだった。二人は
再び熱い口づけを交わした。さっきよりも甘美に僕が舌をまさぐったからか、セ
イの喉からか細い、だが甲高い嬌声が漏れた。雷鳴と、雨音と、遠い街の明かり
と、無視されても回るテープの唸る音と、ビブラフォンの上から続いている泣き
そうな幽玄。



僕はゆっくりと彼女に蹂躙され始めた。白く外灯に透ける僕のワイシャツの、ま
るで貝で出来ているかのごと乳白色に光るボタンに、彼女はその傷だらけの指を
かけた。僕の、まだ少年の首筋に、熱い彼女のキスマークが施されて行く。僕は
この「逆」の状況が決していやではなかったが、変な意地みたいなものが芽生え
て、気付いたら彼女を長い座席に押し倒していた。互いの吐息が聞こえる迄に近
づいて、今度は僕が彼女の首筋に甘く歯を立てた。舌先が紡ぐ唾液の綾か、嬌声
の奏でる死への葬送か。テープはもう既に止まっているのに、僕の耳には永遠に
その唸り声が聞こえ続けるだろう。服の上からセイの胸の丸みを緩く掴む。一人
の男になってから初めての感触は、やさしい、からだが溶けてしまいそうな柔ら
かさだった。僕は決意した。彼女の背広に手を付け、それを剥ごうと試みたのだ


そこで物音が聞こえた。全く幸いだ。僕は直ぐに体を起こし、彼女も一瞬で起き
上がっていた。二人とも髪の毛が見事に乱れていて、互いに少し笑った。乗務員
が僕たちのいる両を通り過ぎると同時に、電気は再び流れ始めた。いきなり電気
が着いたので目がなれていなく、二人は暫く目をぱちぱちさせていた。

「楽しかった?」
そのいつものあっけらかんとした顔で彼女が問う。
「…楽しかった、です。ありがとうございました。」
まるで遊園地に連れていってもらった親戚の子供である。僕は自分で言って吹き
出しそうになった。
「メアド、教えて、妹尾。」

「もってません」

お互いにほてった顔で、淡々と会話を進めて行く。それがいやにおかしくて、そ
して寂しかった。

「ファックスならあるんですけど…」

「じゃあそれで。」

僕は渡された紙切れに、数字の羅列をちょちょいと書いた。

「できたら夕方がいいですね。」

「わかった。あした直ぐ書く。」

そう言って。彼女は立ち上がった。電車が西綾原に到着したのだ。



電車が、僕一人を乗せて、雷雨の中を駆け抜ける。雷はもうだいぶ治まったらし
い。一瞬の出来事だった。彼女は雷だ。一瞬で、痺れるような興奮と恐ろしい熱
病を遺して逝ってしまった。まだ顔が熱い。走れ、走れおんぼろ電車。僕が、雷
雨の冷風に吹きざらしになって、全ての熱を忘れるため。走れ、走れおんぼろ電
車。僕の未来から彼女を消し去るために。だが悲しいことに、やはり僕は男だか
ら、いや、いまは青春だから、僕は望んでいるのだ、彼女の明日のファックスを





キョウダイケン ハイキュウブ ロク
6/1


妹尾様へ。


こんにちは。手紙を書くのは久しぶりだ。唐沢セイです。改めて始めまして。私
は京大研排球部に所属しています。小さい頃から両親がいなくて、気付いたら研
内で育てられてきたんだ。今は綾原に住んでるんだけど。んで今はその借りを返
すために一生懸命働いてるのだ。勿論馬鹿だから研内の仕事なんて出来ないから
、バレーやってるの。私なんだか強いらしくて、次の世界大会では選抜メンバー
に選ばれるらしい。でもそれほど強くないとね、借りを返せないからね。

(中略)

君の鉄琴。可愛い音がして好きだ。今は体育館に放置してある。まるで君みたい
だな。忘れてたよ、大事なことを言うのを。君が好きだ。大好きだ。本当に好き
だ。



返信はこの番号にください。


唐沢。







前編 終


2004/07/23(Fri)22:38:04 公開 / 狂都大学文学部
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依然として胃もたれスタイルは変わっておりません。サクロン片手にご賞味ください。
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