- 『願いを叶えてくれた人』 作者:アイスキュロス / 未分類 未分類
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全角9484文字
容量18968 bytes
原稿用紙約31.6枚
夏を迎えた日差しを見上げ、眩しさに目を細める。
かざした掌の隙間から漏れた太陽の足が、ちらちらと揺れた。
見下ろせば、ざあざあと音を立てる川の流れが、やはり太陽に照らされて輝いている。
紅葉とは程遠い時期だが、それでもこの関東の奥地にある山脈と岩だらけの川に囲まれたこの地は、自然美を楽しむ観光客達で賑わっている。
僕もそんな異邦人の中の一人だ。
朝に駅に着いてから歩き通しで、もう随分山奥まで歩いてきた。ハイキングルートを外れて一時間、周りにはリュックを背負ったおじさんやおばさん達の姿も見えない。
そして辿り着いた、古くはあるが立派な吊り橋を丁度真ん中まで渡る。
そこから眺める周囲の自然全てが、今は僕一人だけのものだ。
少しだけ胸を打つ何かを感じて、拳を握りしめる。
僕は、この場所で死ぬつもりだった。
死んだらどうなるのだろうか。
少し考えるけど、うまく頭がはたらかないので止める。
眼下の川まではどのくらいあるのだろうか。小さなデパートの屋上くらいの高さはあるかもしれない。下は岩だらけだし、まず十分と言えるだろう。
しかし手すりは僕の肩まであるし、その上にはしっかりバリケードも張られている。乗り越えるのは大変そうだけど、なんとかならないことはない。
もう一度太陽を見上げる。
――今からにしようか。
そう考えると、一瞬だけ、朝早くに出てきた家で僕の帰りを待つ、何も知らない両親の顔が脳裏に浮かぶ。
今すぐでなくてもいいかもしれない。
中途半端な後悔が腹の底でうずいた。
かつ、かつ、かつ。
一定のテンポで板を踏む靴音と、吊り橋全体に伝わるわずかな揺れ。誰かが来たのを感じて、僕は僕の来た道へと振り返った。
足音が止まる。けど誰もいない。
そして僕は反対側を見やると、丁度僕の居るところから十m程の所に、夏らしい白いワンピースに、清潔そうなつば広の帽子を乗せた女性が立っていた。
サテンテープの胸元のワンポイントが風に流れているのに目が行って、それから彼女の顔に視線が動く。
帽子で落ちた影の向こうから、僕の顔を見つめている彼女の瞳が見えた。
観光客というより、別荘に遊びに来た金持ちの令嬢といった様子の女性が、どうしてこんな山奥にいるのかという疑問が浮かぶが、それを整理するより早く彼女は僕に会釈した。
戸惑いながら会釈を返す。
そして彼女は目を細めてにこり、と笑った。
僕は思わず息が詰まりそうになった。
今まで僕の記憶の中に、にこりと笑った人はいなかった。
大きな口を開けて笑うクラスメイトとか、逆に口の中だけでくつくつと笑う気持ちの悪い奴はいた。目を逸らして口元だけ笑ってみせる先生もいたし、あははと笑う両親もいた。
けど、こんな透明な表情をする人を見るのは初めてだった。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
女性の挨拶に気後れしながら返答すると、いつの間にか彼女は僕のすぐ近くまで来ていた。
丁度僕と同じくらいの身長で、僕よりも幾らか年上に見える女性。
僕はすぐに目を逸らしたけど、彼女は風に吹かれる帽子を押さえながら、また言葉を続けた。
「ここ、曰く付きの橋ですよ」
近くで聞いた彼女の声は、雲のようにふわふわと柔らかかった。僕は相変わらず彼女の顔を見なかったけど、彼女はまだじっと立っていた。
「この橋はよく飛び込みをする方が居るんです」
「……はぁ、はい」
「観光客の方ですか?」
「…………」
「そうですか。あの……」
何を理解したのかは分からないけど、彼女はそう言いながら視界の隅でゆっくりと動き始めた。
慌てて彼女の方を見た瞬間、谷を吹き抜く大風が橋の上を通り過ぎた。
「きゃっ」
僕に両手を伸ばしていた彼女の黒髪がぶわりと広がると、帽子が勢いよく舞い上がって、青空へと飛ばされていく。
「あっ」
「帽子……っ!」
風に大きく揺れる橋の上を、まるですり足のように、たたたと走って帽子を追い掛けようとする彼女を目で追いながら、僕も自然に走り出す。坂を駆け下りた時のように足下がおぼつかなかったけど、それでも僕は走った。
ほんの数mの幅の橋は早足で走り始めた頃には、もう反対側の欄干に手が届く。
追い掛けようとしていた僕と彼女は、そうして欄干に手を掛けた姿勢で立ち止まった。
飛んだ帽子を目で追うと、殆ど真上に舞い上がったようで、運が良ければぎりぎり自分たちの居るあたりに落ちてきそうに思えた。
息を飲んで、じっと空を見守る。
「ん……しょ」
ふと近く聞こえた声に、僕は視線を戻すと、ワンピースの彼女は手すりに足をかけ、太いワイヤーに手を掛けて欄干に昇ろうとしていた。
「危ないよ、ちょっと!」
僕は彼女の服に手を掛け、引っ張る。力を入れるのが怖くてほんのわずかしか引けなかったけど、彼女はそれに気付いて僕の方を見下ろした。
「でも、帽子」
「いいから!」
焦りと異変に対する恐怖で敏感になった背中が、徐々に大きくなってくる風を感じる。もう一度大風で揺れたら、危ない……。
僕は思いきり彼女の脇腹を掴むと、自分ごと倒れても構わないつもりで引っ張った。
「きゃあ!」
どしん。
想像通り、僕の足は彼女の体重を支えきれずにもつれて、倒れる。一瞬凄まじい衝撃を頭に感じて、鼻と口から空気が漏れ、堅く閉じた目が飛び出そうに弾かれた。
じんじんと傷む余韻に苦しみながら目を開ける。横向きに倒れたために後頭部は打たずに済んだ僕の頭を、彼女の背中と橋の床板がサンドイッチにした。
「痛……」
「だ、大丈夫ですか?」
倒れ込んだ後、慌てて立ち上がる彼女を薄目で見つつ、僕は頭を振る。
「いや、そちらこそ」
タフなつもりはないけど、見ず知らずの人に心配をかけたくないので、すぐに立ち上がった。
「ごめんなさい、本当に」
「いえ……」
答えながら空に帽子を探す。
探した帽子は、既に風に吹かれてずっと下流の空を流れて、川縁の石畳のほうへと落ちていって居た。
「帽子……すいません」
「あ! いえ、いいんです。ごめんなさい、ご迷惑をおかけして」
「こちらこそ、すいません」
口では僕に謝っていても、帽子を残念そうに目で追っている彼女はある意味正直だった。
欄干から下を見る。
都会っ子の僕には詳しいことは分からないけど、帽子が石畳に落ちたのなら流される心配はないし、下に降りてまた戻れば、帽子を取ってくることが出来る。
「はあ……どうしよう」
「あの、近くで待っていて下さい。下降りて取ってきます」
「え?」
「降りられる場所を探してきます」
「ちょっと、危ないですよ、風強いし」
行こうとした僕の手を彼女が掴む。
夏の日差しに当てられているとは思えないほど、真っ白な手の感触が僕の手首を包む。そのあまりの滑らかさに、僕は思わず足を止めた。
力を入れて引っ張れば壊れてしまいそうで、そのまま動けなくなる。
「いえ、いいんです。気にしないで下さい」
彼女の心配そうな目に見つめられるのがいたたまれなくて、目を逸らしながら答える。
「僕、山登り好きなんで、あのくらいなら、すぐ行って戻れます」
「でも……」
「元はと言えば僕の責任ですし」
「…………」
彼女の力が緩んだ時を狙って、僕は振り返らずに、元来た道へとずんずん歩き出した。
途中の崖には傾斜の緩い場所があったし、下流に行けばハイキング用の道もあるはずだ。
日射しの中を、駆けるような早足で行く。
見ず知らずの他人のために何かした記憶なんて殆どない。せいぜい電車で席を譲ったとか、それくらいだ。
けど、今日くらいいいだろう。
実際川に降りるのは難しくなかった。
時間はかかってしまったけど、傾斜の緩いところから足場を選んで行くだけで、せいぜいズボンを汚した程度のロスしかなかった。
帽子は橋のすぐ近くの岩影に挟まって、風にも飛ばされずにいた。
帽子を取り、橋を見上げる。
ぱたぱたと揺れる白いものが、頭上の橋の欄干に見えた。
そのさらに上から、僕を見下ろしてくる彼女の顔。どこか涼しい木陰ででも休んでいてくれればよかったのに、ずっとそこにいたのだろうか。
僕は彼女に帽子を振ろうとして見上げた後、ふと頭の上で揺れているのが彼女のスカートだということに気付いて、俯いたまま帽子を振って、降りた場所へとまた駆け足で戻り始めた。
急ぎ通しだったせいか、胸の動悸が止まらなかった。
「大丈夫ですか?」
傾斜の上から声が聞こえた。
「はい、すぐ、登りますから」
木の幹に手を突いて、彼女が僕を心配そうに見ていた。
下りよりも険しい道のりだったけど、ゆっくり行けば問題なさそうな傾斜。でも心配そうに見つめられていると思うと、緊張する。
「本当に、ごめんなさい、わざわざ……」
頭上から何度も何度も僕を心配して、謝ってくる彼女の声を聞きながら、僕はじっと俯いて慎重に登り続けた。
「ありがとうございます」
「いえ」
深々と頭を下げる年上の女性に、僕は気後れして何も言えなかった。
そもそも、家族以外の女性とこんな距離で話したことが、どれだけあっただろうか。
「助かりました、飛ばしてしまった私が悪いのに」
感謝しきっているらしい彼女は、しきりに僕に自分が悪いということと、僕に対しての謝辞を繰り返していた。
「いやその、これも思い出ですから」
「思い出?」
「いや……今日って日の」
はっと帽子が飛ぶ前の彼女の様子を思い出し、無駄なことを言い過ぎたと悟る。
「思い出、ですか?」
「いや、なんでもないです」
「思い出ならいつだって作れるじゃないですか」
「…………」
「あの、何をそんなに思い詰めて……」
「リエ!」
すぐ近くから、叱責するような女性の声が聞こえた。
びくりと弾かれるように振り返る目の前の女性の頭を追って、僕も振り向く。
「姉さん……」
「リエ、またなの? そういうことは止めなさいと何度も言い聞かせているでしょう」
木陰に溶け込むような深い黒のスーツに身を包んだ女性が、セルフレームの眼鏡の奥から彼女を冷ややかに見つめていた。目の前の、リエと呼ばれた女性と、リエに姉さんと呼ばれた彼女。
よく見ればどこか面影が似ている。二人は姉妹のようだった。
「ごめんなさい、でも」
「言い訳はいらないわ。帰ります」
「でも……」
「分かってます、でも帰ります」
「…………」
木の幹をぎゅっと掴み、リエは俯いていた。
一瞬だけ、彼女のその表情が、僕自身と重なって見えて、僕はどきりとした。
「あの、ちょっと」
僕は一歩だけ前に出て、「姉さん」に向けて言った。
「この人は、僕のせいで帽子を落としてしまって、それでずっとこんなところに居なければならなかったんです。この人は悪くありません」
ずっとリエに向けられていた視線が、するりと動いて僕に向けられた。緊張感で汗が垂れる。
が、すぐにその視線は僕から関心を失い、リエの方に戻った。
「さあ」
「……はい」
「あ、あの……」
何か言おうとしたが、言葉が出ない。
「姉さん」に手を引かれるようにして歩き出したリエは、何度も僕の方を振り返りながら、最後に一言だけ言った。
「思い出はまたいつでも作れますから!」
僕にはその意味がよく分からなかった。
それから、僕はあの橋に戻らなかった。
気持ちは変わっていないはずだったけど、歩いては疲れ果て、疲れ果てては木陰で休み、休んではまた歩き、一度登山道に戻って買ったジュースを飲みながら、どこまでも歩き続けた。
帰りの電車賃も残らない財布をポケットにしまうと、太陽が傾きかけた山の中をいつまでも歩く。財布は捨ててもよかったが、唯一の所持品を手放してしまうのは何か寂しかったし、身元が分かるものを何か持っておかなければという、訳の分からない行儀の良さもつきまとったせいで、捨てられなかった。
歩きながら、何を考えていたのか覚えていない。
三歩歩いたら、三歩前の記憶がうやむやになっているような、そんな気分だった。
だけど、ずっと僕はリエのことが頭から離れなかった。
どうせもうこの先はないのに、いや、だからこそなのか、彼女のことが気になる。せめてもう少し知りたかった。
そんなことを思いながら、僕は私有林の表示がある囲いの近くで立ち止まる。
フェンスの周りにまとめてある、化学繊維を束ねた黄色と黒のロープを見つけた。
あの橋に戻るのは、なんとなく気分が悪い。
別にこだわりはないし、これでもいいだろう。
そう思って僕はロープを手に取った。
どこでもいいのだが、ここは違う気がして歩き出す。
そして下生えの中をしばらくあるいたところで、僕は立ち止まった。
丁度いい高さで、瘤も十分な足場になりそうな木がある。ロープをかけるのは苦労しそうだが、それくらいいいだろう。
僕は一旦ロープを置いて、ズボンが汚れるのも気にせず、ひんやりとした石の上に腰掛けた。
長かったのか短かったのか判断は出来ないけど、これで終わりだと思うと、感慨深いものはあった。
「あの、こんにちは」
「うわ!」
僕は突然の声に弾けるように立ち上がった。
「わ、私です、さっきの!」
「あ」
振り返る。
相変わらずの真っ白なワンピースを着たリエが、そこに立っていた。
「あの、しっかりお礼も言えなかったし」
「そんな……いいんですよ」
僕は地面に置いたロープを足でずらして、草むらの中に隠した。
「あの、お腹空いてませんか?」
「え?」
「私、料理できないから、だから、こんなものしかないんですけど」
恥ずかしそうに後ろ手に隠した包みを、彼女は僕に向かっておずおずと突き出す。
僕はそんなリエの様子をぼんやりと見つめながら、熱に当てられたような頭のままで両手を差し出し、受け取った。
重さと感触から、おにぎりだろうということが分かった。
「あの、座ってもいいですか?」
リエはいつの間にか僕のすぐ側に立っていて、僕が腰掛けていた石の隣を視線で探っていた。
「え、ええ、どうぞ」
この状況にどこか違和感を覚える。
いや、違和感だらけで、どうであれば正常なのかという状態すら掴めない。
けど、僕はそれをはっきりと言葉に出来なかった。
「ありがとう。ごめんなさい、上手くできなかったけど……開けてみてくれます?」
「はい」
僕は包み紙を開く。中には、予想通りおにぎりが三つ。まだ作りたての温かさが残っており、それぞれ微妙に形が違って、海苔も傾いていたから、はっきりと手作りということが分かった。
「いかがですか?」
「あの、いいんですか?」
「是非どうぞ」
「は、はい。頂きます」
僕は端の一つを取り上げて、てっぺんに一口かじりついた。
「ど、どうでしょう?」
「ああ、あの……」
口の中のものをごくりと飲み込んで、続ける。
「美味しいです」
「ありがとうございます」
普通の味だったし、なにがしかの感動を味わえるような気持ちじゃなかったけど、そう答えずにはいられなかった。
「これは梅干しで、こっちとこっちはおかかです。一つはシャケにしようかと思ったんですけど、間違えちゃって……」
握りしめたおにぎりを、僕は慌てて食べた。
「そんなに慌てなくても、おにぎりは逃げたりしませんよ」
「いえ、その」
「これも思い出になりそうですか?」
「え、あ……」
唐突な言葉に、僕は三つ目のおにぎりの最後の一口を食べ終えようとしていた手を止めた。
「え、ええ、多分」
「良かったです。また思い出、増えましたね。でも、これからだって」
「リエ!」
再び、あの声。それが今度は僕のすぐ側で聞こえた。
「姉さん……」
「あなたは自分が何をしているか分かっているの?」
「でも……」
「言い訳は許さないわ。あなたのしていることは、私たちが全て間違っていると言っているのと同じことよ。それだけの経験があなたにはあるの?」
「…………」
「帰ります。次はないわよ」
「はい」
立ち上がるリエの背を見て、僕もまた立ち上がる。
「待って下さい、お二人は……」
「あなたは」
「姉さん」は、はっきりと僕を見つめ、冷たい視線で僕を射抜きながら言った。
「自分がしようと思っていることをしなさい」
暗闇に幽霊を見たような、そんなとてつもない悪寒が背筋を縦横無尽に走り、僕は思わずその場に座り込んでいた。
自分がしようと思っていることしようと思っていることしようと思っていることしようと思っていることしようと思っていることしようと思っていることしようと思っていることしようと思っていることしようと思っていること……
この人は、この人たちは!
全身から血の気が引いていくのが分かり、目の前がぐるぐると回った。
リエが僕に何か言っているようだったが、何一つ頭の中に入ってこない。
真っ白な世界の中で、リエの持っていた違和感も整理されていく。
当てもなく歩いていた僕をどうして見つけられたんだ。そしてどうしてこの森の中を気付かれることもなく、すぐ近くまで来られたんだ。何より、こんな森の中を歩いてどうしてワンピースは汚れ一つなく真っ白で、しかもどうしておにぎりは温かいんだ!
そして何より、「しようと思っていることをしなさい」……!
いつの間にか、周囲には僕一人だけになっていた。
「幽霊……なのかな。嘘だろ……」
言葉に出すと、再び寒気が走った。
いつの間にか、あたりは夕暮れの温和な光に包まれていた。
心は決まっていたはずなのに、夜のとばりが訪れるのが恐ろしくて、僕は走るように山を下りた。
とにかく道路に、人気のある場所に出たかった。
夕闇迫る山の中を無闇に歩き続けるだけで、無事下山できるとは思わない。けど、僕は歩き続けた。
そして僕は、奇跡的にか、道路へと出ることが出来た。
幽霊が居るなら、神様もいるのだろうと不謹慎な考えが脳裏に浮かび、慌てて取り消す。神様が居るなら、僕は間違いなく天国へは行けないだろうから。
とぼとぼ道路を歩きながら、僕は財布をとりだして、中身を見た。
よしんばこれから町に降りたとしても、もう何をする金もない。結局この山の中で、今日、あの「姉さん」が言ったように僕は……。
ふと、山頂の方から車のヘッドライトがこちらに向かってくるのが見えた。
結構な速度だ。峠攻めというわけでもないだろうが、この山道では乱暴な運転と言えるだろう。
そうだ。
何も自分でしなくてもいい。あの速度の自動車に、この山道でぶつかれば、飛ばされた僕は隣の石垣に直撃するか、下へと真っ逆様だ。どっちにしても確実だろう。
迫ってくる自動車に見つからないように、石垣に身をつけるようにしてタイミングを計る。
高まる緊張感の中、僕はとにかく最後に何かしておかなければいけない気がして、せわしなく両手で全身を探った。
と、ふとポケットの膨らみに手を突っ込んで、そこに入っていたものを取り出す。
中にあったのは、包み紙にくるまれた、おにぎりの最後の一口だった。
「ひっ」
あの時の動転した思考の中で、僕は何故こんなものをこうして大事に持ち出していたのだろうか。恐ろしさを感じてそれを投げ捨てようとするが、何故か腕には力が入らなかった。
車のヘッドライトが、硬直している僕の眼前を走り抜けていった。
「……」
機会を逃した。
この場にいてもしょうがない気がして、僕はゆっくりと下りの道を歩き始めようとした。
「妹の粗相のせいで、随分と苦労をかけているようね」
僕は、半歩先が突然崖になったかのように足を止める。
この、冷たい声。
びりびりと全身を走る悪寒から声も出ず、走りだそうとしても恐怖で指一本動かせなかった。
「本来ならあなたはあの橋で、ほんの三十分ほど悩んだだけで、結局その一生を終えるという運命だった」
「あ……ああ……う……」
「怖がらなくてもいいのよ。どんな事情があろうと、人は必ずこの日が来る。あなたはこの日を、自ら望んで迎えたというだけのこと」
後ろを振り返る余裕など無い。だけど、見るまでもなく僕の背後にいる人物が誰なのか分かった。
恐怖に凍り付いた全身の中で、ただ瞳だけが自由に動く。
「けど、それを乱したのが私の妹よ。だから、これは正式な謝罪。運命は変わらない。けど、その執行者は、執行者であるが故に運命を操作できる。だから、代わりというわけではないけれど、あなたには選ぶ権利をあげましょう」
唾を飲み込む力もなく、口の隙間から垂れた一筋をすすり上げる余裕もなかった。
「一つは当初の予定通り。あなたは二日後の未明、下流の岸で発見されることになるという道。もう一つは……」
「姉さん!」
「何故また来たの!」
突然語調を荒らげた背後の声に、震えながらも、僕は振り返った。
真後ろに立っているのは、予想と寸分違わぬスーツ姿の「姉さん」。そしてもう一人の声の主は……
「リエさん!」
僕は思わず彼女の名前を口に出していた。
「彼は、この人にはまだまだ思い出を作る権利があるはずです。運命って何ですか。それはこんな風に人の気持ちを踏みにじっていいものなんですか!?」
「黙りなさい。そんな疑問、百万の仲間達がそれぞれ百万回も繰り返してきたわ。あなたは世間知らずなだけよ」
「世間知らずだっていい、誰も答えを見つけてなくてもいい、それでも私は、認められないんです!」
「あなたには罰が必要かしら、リエ」
「そんなもので私の話が聞いてもらえるなら、幾らでもして下さい」
「私は手を下さないわよ」
「姉さん……?」
「姉さん」は、僕の目の前でそう言って、押し黙った。
リエさんは、睨むような視線を送っていた「姉さん」から僕に視線を移すと、じっと僕を見つめた。
そして、あの時、初めてリエさんと会ったときとまったく同じ、限りなく純粋な笑顔で、僕に「にこり」と笑いかけた。
その後、リエさんは僕に何か言おうとしていたようだった。
けど、僕はそれを聞いてはいなかった。
何故なら、僕は彼女の背後から猛スピードで迫っている乗用車に気付いて、彼女に向かって猛然と走り込んでいたからだ。
彼女の表情が変わったのは分かった。
僕がどんな顔をしていたのかは分からなかった。
そして僕は、彼女を突き飛ばして、無事救うことが出来たのかどうかも分からなかった。
僕の体は、物凄い速さのじどうしゃにぶつかlて;ばらあっばあs;l」d:lっs0らえ
ぬ。
「言い忘れていたわね。彼の選べるもう一つの道は、不慮の事故。ハイキング中に、暴走車に跳ねられて即死という、幾分社会的に穏便な道よ」
「そんな……」
「そして、あなたへの罰。あの少年は、紛れもなく、限りなく純粋な感情で、自動車に跳ねられそうになっていたあなたを助けようとして、最期を迎えたという事実」
「嘘、嘘……」
「あの少年も災難だったわね。死神が自動車に跳ねられて死ぬとでも思ったのかしら。ふふふ」
「いやあああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!1」
「無計画な甘さが何を招くのか、覚えて置きなさいサザリエル」
道路の真ん中に崩れ落ち、少し前まで少年だった一部を抱えながら泣き叫ぶ少女の背を突き抜けて、まるで何事もないかのように暴走集団が爆音を立てながら走り抜けていった。
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2004/07/20(Tue)02:05:27 公開 / アイスキュロス
■この作品の著作権はアイスキュロスさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
初めまして、アイスキュロスと申します。
まずはこの拙文を最後までお読み下さった方にお礼を申し上げさせて下さい。本当に有り難う御座いました。
投稿小説というものに参加させて頂くのは初めてで、緊張しております。
至らぬ点などあるかもしれませんが、ひらにご容赦下さい。
さて、内容は読み切り短編なのですが、ありきたりなテーマを、ありきたりな文体で描いただけで、斬新さもないかもしれませんが、もし感想など頂けましたら幸いです。
乱筆乱文失礼いたしました。では。