- 『アンスリウム・期日の華(花物語)〜後半(完結+あとがき)〜』 作者:石田壮介 / 未分類 未分類
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全角14558.5文字
容量29117 bytes
原稿用紙約44.3枚
ああ!君の心にもアガパンサスが咲きますように!
鵜金は顔を死んでしまうのではないかと思える程真っ赤にして、眼前の原稿へ叩きつけるかの如く書き付けていた。夜中の二時だった。ほんの数時間前まで、下にはかんながいた。鵜金はまたもや期日に遅れたのだ。
最近になって、彼は漸くその遅延の原因を突き止めた。そうしてその真理に目覚めた時、羞恥と幸福感と息苦しさに苛まれた。
鵜金はかんなを好きになっていたのだった。年甲斐もなく、我を忘れて夢中になってしまったのだ。一度火がついた彼の情熱は留まる事を知らず、事ある毎にかんなの姿を思い描いては、はぁと溜息を洩らした。この至上の幸福を与えてくれた天に向かって、感謝の言葉を囁いた。あの菊松でさえも、キューピットに見えていた。彼に今まで金をやっていたのは、因果だったのだ。このかんなを授かる為の試練を与えてくださったのだと恐縮さえした。冗談みたいな話だが、建築中の家の前を通り過ぎた時、門前で大工が鉋で木材を削っているのを眼にして、悶えてしまった程だった。
とにかく、すぐにでも会いたかった。そして、口説こうかと何度も本気で考えた。かんなはまだ人妻ではないという事実が、何より鵜金の心を揺さぶったのだ。淡い希望を抱かせた。彼は台所に立っては彼女の手料理を妄想し、居間にいては一緒にお茶を飲み、書斎に入っては優秀な編集者になり、床に就いては肌を寄せ合った。見えない同居人が鵜金の家に住んでいた。
ところが、いざ期日になると鵜金は一挙に現実に引き戻され、本物のかんなに申し訳なく思うばかりだった。凄まじい情念の力は、彼の自覚をさえ奪っていたのだった。
小説を書き終えた頃には、もう四時を過ぎていた。空は綺麗な紫をしていて、先刻書いたアガパンサスのような色だなと、鵜金はもしかすると首尾良くいくのではないかと、訳の解らないこじつけをした。
階下へ多少覚束ない足でフラフラと降りていくと、鵜金は居間へ出た。かんなが座って待っていはしないかと思ったのだ。しかし、当然ながら部屋は真っ暗だった。
「…そんな事ないか」
鵜金は空腹だったので、台所へ向かった。冷蔵庫の中を覗く。しかし、これと言って食べれるものはなかった。キャベツと茄子が僅かに残っていたが、調理をする気力は皆無だった。心なしか食材が減っているように思えて、はてとなったが、どうでも良いやと立ち上がって踵を返す。台所を出ようとすると、不図テーブルの上に何かがあるのに気付いて足を止めた。皿うどんだった。皿うどんがラップにかけてあった。鵜金は感動した。芽が出たばかりの新進作家にこれだけ待たされたら、立腹して苦情の一つや二つも言うものだ。それが文句を言うどころか、皿うどんまで作ってくれている。何と心の優しい人だろう。鵜金は狂喜した。
傍らの書置きには、
お仕事お疲れ様です。
皿うどん、良かったら食べてください。
これから眠られると思いますが、
原稿は居間のテーブルに置いてくだされば結構です。
それでは、ソファーお借りします。
おやすみなさい。
鵜金は、まさかと思って居間へ向かった。居間の暗闇に目を凝らしてみると、確かに奥のソファーに何か黒い輪郭が窺えた。耳を澄ましてみると、静かでやはり慎まし気な優しい寝息が聞こえた。
鵜金は原稿を持ってきて、テーブルにそっと置くと、向かいに座って、その様子にうっとりした。かんなは横向きになって、こちらへ穏やかな寝顔を向けている。身を縮めて、寝ている姿が謙虚だった。それは、猫のようなしなやかな丸みを帯びて、愛らしかった。
カーテンの隙間から漏れる光が白さを増す。蝉はまだ鳴かない。程好く生暖かい空気を裂いて、秒針だけが鋭く響いた。鵜金は心臓の鼓動が、この秒針に重なるのを感じた。胸の内側が、何か槍のようなもので、トントンと突っつかれている気がした。そして、鵜金はだんだん変な心持ちになってきたのだった。
これは先程からピクリとも動かないが、人形か。寝息も聞こえる。腹が凹凸を描いているのも解る。しかし、彼にとって、この好きな人が眼前に寝ている奇妙な光景自体が未だに信じられなかった。何故この人はここにいるのだろう。それは原稿を取りに来たに違いないが、何故、泊り込みの上に皿うどんまで用意して迎えてくれるのだろうか。鵜金は立ち上がった。かんなの面前に座った。気配に鈍感なのか、かんなは表情一つ変えず、寝入っている。唇が繊細な起伏をしている。人間の肉体は、なんと複雑且つ精巧に作られているのだろう。鵜金はかんなの唇に吸い込まれていった。顔と顔が三寸程に接近し、いよいよ鵜金の心臓は高鳴った。まるで太鼓を打ち鳴らしているような感覚が何度も体中を突き抜けた。口づけしたら、眠り姫のように目覚めてしまうだろうか。いや、それだったら良いが、かんなは軽蔑するかも知れない。いやいや、これだけ近づいて起きないのだから、口付けをしたところで起きないだろう。いやいやいや、起きたところで彼女は嫌がらないかも知れないじゃないか。
鵜金の体は唇を欲していた。その衝動は理性と言うものを完全に無視していた。かんなの唇は、柔らかな弾力と潤いを帯びて、薄闇に艶やかな色気を放っている。或いは、これが結婚を目の前に控えた女性のなまめかしさと言うものかも知れない。
鵜金は、もしかんなが目覚めてしまったら、倒れたかと思って心配で覗き込んだら、突然目覚めたのにビックリして、思わずぶつかってしまったのだ。と全く信憑性の無いうそを言う事にして、腹を決めた。
ん、
鵜金の唇が近づく。三寸…二寸…。
ミーンミンミン…
「うわっ!」
突然の蝉時雨に、鵜金は驚いて身を退いた。勢いでテーブルに脇腹を打ちつけた。
「あたた…」
鵜金は胸の中にすうっと冷たい空気が流れ込むのを感じた。冷や汗がどっど吹き出た。かんなが起きやしないかと思ったのだ。しかし、幸いにも彼女は起きなかった。
すっかり我に返って冷め切った心には、もうそんな冒険を冒す勇気はなかった。鵜金は、止めよう、馬鹿馬鹿しいと生きた心地のしないまま、向かいのソファーに横になった。疲れ切った体には、蝉の音もさえ子守唄に聞こえる。鵜金はあっと言う間に眠りに落ちた。
目覚めると、かんなの姿はなかった。テーブルには原稿の代わりに書置きがあった。
お疲れ様です。
すっかり真夏だと思われた先日の猛暑は序の口で、いよいよその厚さは気を失いかけんばかりのものになった。家の中にいても、眩暈がする。鵜金は、本当の猛暑とは感覚的なものではなく、殺人的なものだと改めて実感した。
鵜金は、居間のソファーで戦国時代の総大将の如く、股を開いて鷹揚に構えていた。テーブルには、少し厚みのある封筒が置かれている。前回、前々回と迷惑をかけたのに反省して、今回は余裕を持って書き上げたのだった。更に、この前の皿うどんのお礼も兼ねて、ケーキとハーブティーも用意した。本音を言えば、万事はかんなと話をしたいが為の所作でしかないのであるが、今回は彼なりに誠意を見せなければと、力を入れたのだった。
「こんにちは」
と、玄関に声がかかった。
「はいはい!」
鵜金はいそいそとかんなを出迎え、居間へ招き入れた。
「これが、今回分です!」
鵜金は、自身満々にかんなへ手渡した。かんなは渡された封筒をチェックした。きっと、あの控え目な愛らしい笑顔が見れるに違いない。女神の微笑みなのだ。と、鵜金は期待して、思わず顔が綻んだ。
ところが、彼の予想に反して、酷く神妙な面持ちで、ありがとうと言ったのみだった。そして、それじゃあ、失礼しますとソファーから立ち上がった。
「あ、ケーキと紅茶でもどうです?」
「ありがたいんですけれど、今日はすみません。ちょっと用があるもので…」
かんなは、伏目勝ちに言った。上の空な感じだった。明らかに様子がおかしい。
「今日はどうなされたんです? 何かあったんですか?」
「いえいえ、何でもありません。それでは…」
かんなは言い捨てるように言うと、逃げるように出て行った。鵜金は一人取り残されて、ぽかんとするばかりであった。
何か、失礼な態度を取っただろうか。鵜金は考えてみたが、全く思い当たらなかった。それではまさか、この前の一部始終を見ていたのだろうか。俄かに背筋が冷えた。しかし、それだったら、あの場でさっと起きて見せれば良い事だし、彼女の性格からして、寝たフリは余りにも意地が悪過ぎる気がした。
鵜金は後ろめたい気持ちに、一時間程苦悩したが、曖昧な結論しか出なかった。
「もっと単純に考えよう!」
かんなの仕事がただ単に増えただけかも知れない。彼女だってこの仕事を道楽でやっている訳ではないのだ。成績が良ければ、仕事も増えよう。それはそれで喜ばしい事だ。自然と忙しくなるもの当たり前だし、話せる時間が少なくなるのも仕方が無い事なのだ。鵜金は、そう勝手に解釈して、床に就いた。
こんなくさくさした気持ちなぞ、早くなくなってしまえ!
水平線の向こうに入道雲が見える。こりゃ一雨来るなと、鵜金は思った。案の定、ポツポツと雨が降り出し、ねずみ色の雲が瞬く間に空一面を覆った。容赦のない激しい雨に変わった。目下の小さな町は、冷たい雨に冷やされてか、シューっと白い靄が立ち昇った。
鵜金は窓を閉めた。そして、畳にごろんと寝転がって、漫然と天井を見つめた。鵜金は雨が嫌いだった。それと言うのも、あれ程露骨に悲し気な色になるのは、どことなくチープに感じるからであった。彼の小説には、雨の日は一日もない。
鵜金がウトウトとし始めた頃、ガラガラと騒々しい音がした。雷でも落ちたのだろうと鵜金はまた目を瞑ったが、おい!おい!と言う声に跳ね起きた。菊松だった。戸を開けて入ってきたのだった。
例によって居間で落ち合うと、菊松は、やぁと挨拶して腰掛けた。
「何の用だ?」
「君はそういう態度しか取れんのか」
雷雲が咆哮した。菊松はいつになく緊張した面持ちをしていた。足を組んでくつろいでもいなかった。これは只事ではないと、鵜金も改まった表情をした。
「どうした?」
「八百万、くれないか?」
「八百万!?」
鵜金は驚愕した。今まで菊松は幾度となく、金をせがんできたが、多くても十万程度だった。この緊張した表情に八百万と云う大金、いよいよ尋常ならざる事件だと、鵜金は悟った。
「…どうして?」
鵜金は恐る恐る、訳を訊いた。
「それは言えない」
「何故?」
「だから、言えないんだ」
二人は黙然とした。雨が激しく屋根を打ち鳴らした。凄まじい轟音が響いた。近くに落ちたのだろう。
「勿論、只でとは言わない」
「ふむ…」
「交換条件だ」
「交換?」
鵜金は生唾を飲み込んだ。菊松は上目遣いで彼の様子を神経質そうに見据えながら、ニヤと薄笑みを浮かべた。
「かんなを抱かせてやる」
霹靂が走った。鵜金はまるでそれに打たれたかのように全ての思考が麻痺した。それは悪魔の囁きであったに違いない。
「今…何て言った?」
「かんなを抱きたいだろう?」
「気でも触れたのか?」
「至ってまともだよ」
「まともな人間が、姉を売ったりするか?」
鵜金は激しく憤りを覚えた。どんな理由であれ、実の姉に娼婦まがいの事をさせるなんて、気違いの沙汰だ。懲らしめてやる!と拳を振るわんとまでなった。しかし、拳を振るう事はなかった。どころか、憤激の念はみるみる消沈した。悪魔の霹靂は鵜金の欲望をしっかりと掴んでいたのだ。そうして、後ろめたい記憶が彼を縛りつけた。千載一遇のチャンスではないか。と、本心が語りかけてきさえした。
菊松は、深刻な顔をして、黙り込んでいた。そうして、ぽつりと言った。
「やるのか、やらないのか? それだけを聞きたい」
「あ…いや…」
「佐川、かんなが好きだろう?」
「………」
「一つだけ言っておく。これは、かんなの為でもあるんだ。駄目なら、他をあたる。色好い返事を期待してるよ」
そう言って、菊松は懐から、二つ折りのメモ用紙を取り出し、テーブルに置いた。
「それじゃあ」
菊松は出ていった。鵜金は金縛りにでもあったかの如く、その場から動けなかった。どうしたら良いのか、とち狂いそうだった。
「良いじゃないか、まだ人妻じゃないんだから」
帰り際に居間へ残した菊松の捨て台詞が頭の中を幾度も反響した。
これは人間として間違っている。鵜金はそう決め付けて、幾度も用紙を破ろうと試みた。しかし、彼の中に渦巻く欲望の奔流は凄まじい勢いで彼を溺れさせ、理性は決壊した。
鵜金は、二つ折りの紙を震える手で開いた。
八月二十日水曜日夕方七時
横浜プリンセスホテル 2405号室
お金は翌日振り込む事
住菱銀行金沢支店 167851924
俺は君が来る事を祈っている。
菊松
澄み切った空の下に広がる横浜の街並みは圧巻の一言であった。何故こんなに密集しなければならないのだろうと思える程、陸地はビッシリと大小のグレーで敷き詰められていた。あの一際高いグレーは、ランドマークであろう。あの真っ赤で華々しい門がある辺りは、中華街であろうか。鵜金はそんな具合に必死に心の高鳴りを紛らわしながら、2405号室の前へ立った。ついに着いてしまった。
いや、待て。まだ引き返せるぞ。このまま入って、本当に良いのか。鵜金は扉の前で最後の問いかけをした。ここまでにも、身支度をしている時、家を出る時、電車に乗る時、ホテルに入る時、何度も自己に問いかけをした。しかし、如何に理性が奮闘しても、『かんなの為』と言う菊松の声が脳裏を過ぎると、忽ちに風化してしまうのであった。その大儀の前には理性等、無力であった。いや、鵜金にとって最も看過ならざる理由は、『駄目なら、他をあたる』と言う言葉に他ならなかった。何処の者とも知れぬ男の薄汚い性欲にかんなが穢される事が、何より耐えられなかった。無論、抱いたところで鵜金自身もその一人にしかならない。しかし、どうせ慰み者になるのであれば、せめて自分の手で抱いてやりたい。嫌われたとしても、世間の欲にまみれた悪鬼にかんなを渡すわけにはいかない。彼女が好きだから、彼女の犠牲になろう。
鵜金はドアをノックした。手が震えていた。ドアがゆっくりと開く。中からかんなの顔が覗いた。意外な来訪だったか、かんなは大きく目を見張ったが、直ぐ様彼女なりに割り切ったようで、
「どうぞ」
と、陰鬱な顔つきで、招き入れた。
かんなは、前を歩いてベッドまで来ると、仰向けに寝転んで、鵜金を見つめた。彼女の眼差しには全く生気が感じられなかった。まるで、人形のようだ。いや、人形ですらもっと存在感があった。
死体よりも人形よりも希薄なこの不思議な物体に、鵜金は思わず辟易した。どうしても、こうなってしまった理由を聞かなくては、罪悪に取り殺されてしまう気がした。
「どうして、こんな事を」
「………」
「かんなさん」
「………」
「…僕はあなたの事が好きだ。だから、こうして来た」
「………」
「たまらなく、あなたの事が好きなんです」
「………」
かんなは何も答えなかった。鵜金は熱いものが込み上げてくるのを感じた。息苦しくなった。泣いてはいけない。かんなも泣きたいのだ。涙を流してはいけない。
鵜金は、歯を食い縛った。
「僕は非常に辛い」
「………」
「何を言っても無駄か」
鵜金はシャツを脱ぐと、彼女の上へ被さった。かんなは、彼を両手で柔らかく抱きすくめた。お互い何も言わない。冷たい肌の感触のみが伝わった。そこには、背徳等と言う言葉では語り切れない孤独があった。それでも、鵜金はむしゃぶりついた。欲の塊と化し果てるしかなかった。
二時間程交わって、二人は別れた。鵜金は部屋を出ると、走り出した。ホテルを出て、電車を降りて、家へ帰って、床に入るまで、その足は止まる事はなかった。
人間は皆、訳があってそこにいる。
誰の言葉だったか、或いは自分の言葉だったか、鵜金は窓枠に頬杖をつきながら、漫ろに思い出した。
この言葉にあの日の事を当て嵌めるならば、かんなは八百万が必要だから、ホテルにいた。鵜金は彼女が好きだから、ホテルにいた。そんなところだろう。
欲望を晴らした後には、何も残らなかった。ただただ、愛も何もない、空虚なかんなのぬくもりだけが、体に残っていた。翌週には新しい担当が原稿を取りに来た。かんなの事を聞いてみると、彼女は八月二十一日に退職したらしかった。恐らく、原因は鵜金だろう。幾度か携帯にかけてはみたが、いずれも電源が入っていないという通知のみだった。
かんなは、今どうしているだろう。上手くやっているだろうか。鵜金は自身はどう思われていようと構わなかった。恨まれていても良いと思った。ただ、刹那的にも愛した女性が不幸に陥るのが、何より我慢がならなかった。
「ちわぁっ!ツツミ出版の三上ッス!」
魚屋みたいな威勢の良い声があがった。新しい担当だ。今週分を取りに来たのだ。鵜金は居間で今週分を手渡した。
「いやぁ、暑いッスねぇ! もう秋になるってのに」
三上は朗らかな笑顔を向けると、不慣れな手つきで、内容を確認し始めた。
「どうだい?」
「ん!良いッス!さすがは大先生!」
「口達者だね」
「お世辞だけが取り柄ッスから!」
三上は照れくさそうに頭を掻きながら、言った。鵜金はこの『お世辞だけが…』と言うのが、大層気に入っていた。この三上と言う新人担当は不思議な男で、嘘を嘘とはっきり言うのであった。自分の気持ちに異常なまでに正直な男なのである。初めは余りの不躾に度肝を抜かれたが、なかなかどうして気持ち良く言うものだから、鵜金は憤りよりも寧ろ、小気味良さを感じて、その毒舌に妙味を覚えるのだった。
「あ! 筑波さんの事、聞いてきたッスよ」
「どうだった?」
「婚約者さんの会社が大変だったみたいッス。相当の借金があったとか。やめる直前の筑波さんは、金を作る為にあっちこっちしていたって話ッスよ。辞めちまいましたけど、どうなんスかね? 大丈夫なんスかねぇ?」
「ふむ…」
鵜金は合点がいった。かんなは八百万が必要だから、ホテルにいた。しかし、金の為ではない。かんなの父親は、会社が大きくなるまで、結婚させないと言った。会社が倒産すれば、二人の未来はない。全ては婚約者の為だ。彼と結婚する為に、身を犠牲にしたのだ。何と言う愛情の深さだろう。何と一途な女だろう。それに比べて、自分自身は何と狭小な存在なのだろう。鵜金は深い罪悪とかんなの哀れな程の忠誠に胸が苦しくなった。そして、自分の行動が悔やんでも悔やみきれなかった。黙って八百万を置いて帰れば良かった。
「三上さん、気分が悪いから今日はもう帰ってくれないか?」
「へ?」
舐めるように読んでいた三上は、間の抜けた声をあげた。
「いや、ちょっとね」
「いいッスよ。じゃ、これは持ち帰りますんで。修正箇所があったら、後で連絡するッス」
「ありがとう」
三上は、いえいえ、正直こういうのはムカつくんスけどね。と本音を言って帰っていった。
鵜金は書斎へ戻ると、再び頬杖をついて外を眺めた。太陽は乱暴な光を彼の顔へ投げつけてきた。蝉は仰々しく叫んでいる。水平線からは色んな船が、顔を出したり引っ込めたりしている。何も変わってはいない。
この日常を退屈と言った自分は馬鹿者だ、と鵜金は思った。日常の繰り返しが退屈だなんて、飛んだ勘違いだとも思った。しかし、何はともあれ、これで一件落着したのだ。あの八百万で、会社は借金を返済しただろう。かんなも幸せに暮らすだろう。思い残す事はない。
鵜金は、心持ち物寂しい感覚にとらわれた。自分の救われぬ行為を、かんなは少なからず軽蔑し、疎ましく思うだろう。恐らく、もう会う事は叶わない。それが辛い。いやいや、かんなが幸せになってくれるならば、それはそれで良いのだ。彼女は身を犠牲にした。自分自身は心を犠牲にしよう。
鵜金は深呼吸をした。そして、心中でお互いの新たな道を歩もうと、かんなに別れを告げた。新作を書こうと思い立って、原稿用紙を置き、ペンを走らせた。珍しくスラスラと書けた。
「おい!」
菊松の声がかかった。鵜金は、新作が思った以上に捗っていたので、居留守を装うかと考えたが、ふとかんなの事が浮かんで急いで階下へ降りていった。
橋渡しをしたのが菊松だから、きっとかんなの近況を知れるだろうと考えたのだ。のみならず、かんなに伝言をもらってはいないだろうかと想像した。もしかしたら、感謝されるかも知れない。そんな事まで考えた。
「やあ」
「おっ、今日は愛想が良いね。何かあったのか?」
「いや、新作を書いてた」
「ほぉ…」
「そっちはどうだい?」
「ぼちぼちだな」
菊松はそう言って、頭を掻きながら、ニヤリと頬を吊り上げた。さては何かあったなと鵜金は睨んだ。彼は良い事があると頭を掻く癖があった。
「まあ、あがれよ」
「ああ」
鵜金と菊松は居間へ入った。例によって例の位置へ座った。菊松は足を組むと、懐中から煙草を取り出し、ふんぞり返ってくつろいだ。
「おい、何があったか知りたいか?」
「いや、別に」
「まあ、聞けよ」
「ふむ…」
「ついに出るんだよ!」
「何が?」
「何がって…、小説だよ!小説! 俺を何だと思ってるんだ」
「ほぉ、掲載されるのか?」
「いや、自費だが、今度のは傑作だぞ。『青き頃の東雲』という題なんだが、家出少年が旅先の明け方を見て、人生を憂う話だ」
「…よく解らんが、面白いんだろう?」
「面白い! 是非買ってくれ」
「解った」
鵜金は快く頷いてみせた。そしてすかさず、かんなの方はどうしてるかと尋ねた。
「おまえまだ、アレの事が好きなのか?」
「いや、そういう訳じゃない。会社も辞めたらしいじゃないか」
「…まあ、色々とあるさ」
「色々って?」
「そう、人の家に首を突っ込むもんじゃない」
「気になるじゃないか。僕は彼女の為にお金を渡したんだから」
鵜金がそう言うと、菊松は楽天的な表情から思いつめたような深刻な顔に変わって、俯いた。
「すまない…」
「彼女に何かあったのか?」
鵜金は、何か事故でもあったのだろうかと心配した。お金が足りなかったのだろうか。
「実は…、あれは嘘なんだ」
「嘘?」
「姉は俺の小説の為に身を売ったのだ。俺を悪魔と罵るなら罵るが良い。ただ、他の誰の為でもない。俺の将来の為に貞潔を破った姉の愛情だけは認めてほしい」
「…何を言ってるんだ?」
「ん?」
「彼女は借金をしていたのだろう?」
「だから、それは嘘なんだよ」
「いやいや、ちょっと待て! お前の小説の為なのか?小説? まさか、自費って…」
鵜金は嫌な予感がした。菊松の眉間が少し強張るのを見た。
「彼女の旦那さんの会社が借金をしていたのだろう?」
「………」
「その為に彼女は犠牲になったんじゃなかったのか?」
「どこでそれを?」
「新しい担当から聞いたよ」
二人は沈黙した。じっと見詰め合った。鵜金は菊松の返事を聞きたくなかった。彼がそんな人外を犯してしまったと思いたくなかった。菊松は友達だ。共に文芸の頂点を目指す戦友ではないか。友よ、訳を言ってくれ。拠所ない事情を述べてくれ!
「…知ってたのか。まあ、そういう事もある」
「会社はどうなった?」
「相変わらずだよ」
「彼女を騙したのか!」
「おいおい、そこまで俺は酷い男じゃないぞ! ちゃんと金は分けたさ」
「幾らだ?」
「二百万。十分だろう?あれなら、それ位なもんだ」
菊松は、微笑を浮かべて言った。菊松という人間の本性が張り付いているようで、薄汚く卑劣な顔だった。
「それにしても、下品な女だよ。旦那の為って言って、易々と体を売るんだからな」
「………」
「なぁ、佐川。女なんてそんなものさ。体を売ってなんぼのもんさ。どうだ? かんなをもう一度抱かないか? 借金は完済してないし、おまえまだ好きなんだろう?」
鵜金は立ち上がった。そして、微笑みを浮かべる菊松に飛び掛った。
おまえが何をしたと言うのだ。金を騙し取っただけではないか。借金が返せると弱みに付け込んで、かんなの旦那への愛情を無惨にも踏みにじったのだ。この男は悪魔だ!
鵜金は拳を振り上げた。この男はこの場所で成敗しなければならない、と思った。
しかし、菊松は平然としていた。そして、
「殴るのか?」
とぽつりと言った。これが鵜金の激情を鋭く突き刺し、押し留めた。
おまえは、金で女をそれも姉であり、人の嫁になる予定の女を買ったのだろう。これが公になれば、新進作家の鵜金にとって、どれ程の打撃になる事か。いや、鵜金自身は良しとしよう。かんなの生活はどうなるであろう。
鵜金は憤激の内に過ぎった冷静を見つめた瞬間、一気に背筋が凍った。自分の立場が脅かされる事が途方もなく恐ろしかった。そうして、殴る事が誰を守る事になろう。鵜金は腕を下ろすと、がっくりと項垂れた。
「今日は日が悪かったようだ。帰る」
菊松は襟を直し、去っていった。心なしか口元があざ笑ってるかのように見えた。
海原をアメリカの軍艦が颯爽たる姿を見せ付けるかの如く、横切っていった。菊月の風は依然凄まじく、吹き付けられるだけでうんざりした。団扇を煽いでも、こんな熱気の中だから効果はなく、鵜金はシャツを汗で半透明に染めながら、ただただ何処か一点を見つめている日々を送っているのだった。それはさながら痴呆患者のようであった。
かんなにもう一度会いたい。あれから、四六時中願うようになった。何度か電話帳を手にした事もあった。しかし、どんな顔をして会えば良いのか。自身は金で買った愚か者なのだ。その上、その金さえ満足に払っていない。そう考えると、連絡を取るのが恐ろしくなって、いつも諦めた。
彼女は怒っているか、軽蔑しているか。少なくとも、鵜金を恨んでいるだろう。八百万のところを二百万しかよこさなかった裏切り者に映っているに違いないのだ。
鵜金は原稿用紙を見つめて唸った。ああ、この瞬間に家の前をかんなが通り過ぎてはくれないだろうかと、全く見込みのない妄想にすがって、外を眺めてみたりもした。
「五日か…」
鵜金は何気なく自分を顧みた。菊松と会ってから、五日間が過ぎていた。こうして呆然としている事に何の価値があろう。鵜金は自分がふと情けなくなってきた。これで、何度目になるか、鵜金は原稿用紙にペンを向けた。目を背けたくなった。しかし、今度は強靭な意志を以って、これを退けた。結局こうしていても、何も変わらないのだ。書くしかない。
鵜金は決心して、あぐらをかいた足が根を張りそうな位にどっしりと構えた。そして、一気呵成にペンを走らせた。
こんにちは、酷い残暑ですね。かんなさんはいかがお過ごしですか。
寝冷えしたりはしていませんか?僕は、あなたに会いたいです。決して、
もう一度抱きたいと言う意味ではありません。全て事情は聞きました。
僕はあなたをとても一途な女性だと感じました。そうして、力になって
あげたいとも思いました。この間は、僕の手違いで二百万しか振り込ま
れなかったようですね。残りの六百万をお渡ししたいのです。だから、
是非もう一度お会いしたい。あなたはきっと軽蔑しているでしょう。こ
んな僕を最低の人間だと恨んでいるでしょう。それに一々弁解はしませ
ん。僕のしでかした過ちは、取り返しのつかない事なのだと自覚してお
ります。ほんの一瞬で良いです。お金をお渡しするだけでも構いません。
今一度、会ってはいただけませんか。
返事お待ちしております。
佐川 鵜金
不躾な手紙だと鵜金はふと思ったが、いや、これで良いと思い直した。気取った事を言えば、きっと弁解するだろう。これは、けじめなのだ。潔くいかなければならない。
鵜金は更正も何もせずに急いで封筒に入れて、糊付けをした。三上にこの封筒が出版社へ届いたら、そのままかんなの家へ転送してもらうように頼んで、丘を下ったところのポストへ投函した。投函した後も、鵜金は全く落ち着かなかった。逆に送ってしまったと言う動揺が、あれこれと色々な後悔を生み、思い悩むのだった。
五日後、宅急便が送られてきた。送り主の欄には、筑波かんなの名があった。
鵜金は、その異様に大きな箱を貪るように開けた。返事が一刻も早く読みたくて、また、返って来ないのではないかと不安でたまらなくて、この五日間は一睡もしていなかったのだ。
中を覗くと、ベールのかかった鉢植えと、無骨な茶封筒が一つ入っていた。鵜金はまず、茶封筒を開けてみた。
拝復 お手紙ありがたく拝見いたしました。
新秋の候ようやく秋気の訪れを感じるようになりましたね。佐川様は
お元気でしょうか。私達の方は返済の目処もつき、順調です。その節は
ご心配をおかけして、大変申し訳ありませんでした。
手紙にもう一度会いたいと書かれておりましたね。佐川様には短い間
でしたが、良くしていただきました。また、この間の御厚意ありがたき
ことこの上無く候にございます。けれども、今回のお誘いの件は、失礼
ながら、御断りさせていただきたいと思います。申し訳ありません。ま
た、この手紙を以って、最後にしたいと思います。もう会わない方が良
いでしょう。
最後に、私は決してあなたを恨んだりはしていません。そして、あな
たの行動を軽蔑してもいません。
あなたが私を好きになっていた事は知っていました。前にも言いまし
たが、顔つきや様子で解るのです。日に日に執筆が遅れ、あなたが欲望
に堪えているのが、私には痛い程伝わってきました。そして、辛かった。
あの日にあなたに抱かれて、私はむしろ良かったと思っています。始め
は勿論驚きましたが、あなただったからとても安心できました。
そんなに自分を責めないで下さい。あなたは、私が好きだったから、
私を抱いた。それは自然な事です。
それから、もう弟には近づかない方が良いと思います。弟は金の為な
ら手段を選ばない男です。あなたにはこれ以上迷惑をかけたくありませ
ん。どうかよろしくお願いします。
お花、よろしければ飾って下さい。
それでは、益々のご活躍を祈っております。さようなら。
敬 具
筑波 かんな
鵜金は読み終えると、箱から鉢植えを取り出した。覆いを取ると、天竺葵の鮮やかな赤が広がった。
「この人は馬鹿だ…」
鵜金はそう呟くと、涙を流した。
九月の中旬を過ぎても、真夏の残り火は未だ衰える事を知らず、灼熱の陽光は全てを焼き尽くさんばかりだった。
鵜金は、そんな陽気を直上に浴びながら、庭へ出てストレッチをしていた。汗の止め処なく滴り落ちる様は、三十過ぎの男と考えると、なんとはなしに危惧しない訳にはいかぬ光景であったが、外見はともあれ、彼は休憩の一つも入れる事無く、次々と手際良くこなした。まるでどこぞの修行僧の如く、それこそ無心だった。
「おい!」
ところへ、菊松の声が玄関先から聞こえた。
「こっちだ」
鵜金が声をあげると、生垣の間から、ニヤニヤと口の両端を持ち上げて出てきた。
「おっ、運動か? 珍しいな」
「最近、ジョギングしてるんだよ。運動不足だからね」
「そりゃ、良い心がけだ。部屋に篭って陰気臭い事ばかりやっているんだから、たまには外へ出てそれくらいすべきだ」
「どうだ? 筑波も」
「俺か?」
「そんな大した距離じゃない。走れるさ」
鵜金は涼しい表情をして言った。さすがの菊松もこれには聊か辟易して、
「俺はいいよ」
と、力無げに言った。しかし、鵜金はまあまあと背中を押して、門外へ追いやった。そうして、勝手に走り出したものだから、菊松も仕方なしに追いかけた。
下り坂の闊葉樹の並木は、幾筋もの光の柱を落としていた。天から何かが舞い降りてきそうだった。
鵜金はこれを神の光だと思った。きっと天使がやって来るのだ。そして、かんなもその一人なのだ。ここ数日で大分走り慣れた体は軽快に動き、この陽気に高揚してか、心地良いリズムを体中に伝えた。計画通りだ、と鵜金は思った。
丘を下り、商店街へ出る。遥か先がステンドグラスみたいにもやもやとしていた。まだ主婦も現れぬ昼下がりの街は、静けさに満ちていた。
鵜金は足音の微かな反響を耳にしながら、かんなの事を考えた。
あの冷たい素肌には、どれ程の無念が込められていたろう。抱かれたくもない男に抱かれたのだ。辛くない筈がない。そして、今度は菊松が寄り付くのだ。金をくれと、脅しに来るのだ。多分会社も脅されるだろう。自分自身もこれから脅されるに違いない。しかし、そんな災いは、自分自身だけで良い。かんなは天使だ。地獄へ落ちてはならない。
丘を登り、門前へ着いた。振り返ると菊松の姿はなかった。これも計画通りだ。
数分して、菊松がよろめきながら登ってきた。
「…やっと着いた」
「どうだ?」
「とにかく、中! …中へ入れてくれ!」
二人は例の居間へ向かった。菊松はソファーに倒れ込むと、
「水! 水をくれ!」
と、偉そうに言った。鵜金は、冷蔵庫からスポーツドリンクを持ってきた。
「ん、何だこれ? 甘いな」
「スポーツドリンクだよ」
菊松は納得のいかない顔をして、驕慢な態度を取ったが、この渇きには代えられぬと一気に呷った。鵜金もちびちびと飲んで喉を潤した。
「なんだ? 涼しげな顔をして、気に食わん」
「毎日走っていれば、こうなる」
「まあ、いい。それより、十万もらいたい」
「解った」
鵜金は戸棚の金庫から、十万を抜き取り、封筒へ入れて渡した。
「悪いね〜」
と、全く悪いと思っていない様子で、飄々と言った。どころか薄笑みさえ浮かべていた。鵜金の弱みを手に入れた今、菊松に恐れるもの等何もなかった。金の湧く泉を手に入れたのだ。この余裕の笑みは哀れみと嘲りから、彼に向けられたものだろう。
しかし、鵜金はそんな様子を見ても落ち着き払っていた。哀れこそは菊松だと蔑視していた。彼は知らないのだ、と呟いた。
「ところで筑波は恋について、どう思う?」
「なんだ? 藪から棒に」
「いや、なんとなくさ」
「一言で言うと、くだらんな。だいたい好きになるなんてのは、顔が良いとか、体が魅力的だとか、そんな理由があってだろう。美人も婆になっちまえば、それまでさ。それを永遠の愛だ恋だ言う時点で馬鹿気てる。まして、そいつの為に何かしようなんて思う奴は気違いだな」
そう言ってのけると、菊松は大笑した。そして、用をたしにいった。
〜彼は知らないのだ〜
〜思いやるという事を〜
〜そして、彼は知らないのだ〜
〜恋の恐ろしさを〜
十分経っても一時間経っても、菊松はトイレから戻ってくる事はなかった。鵜金は、スポーツドリンクを勿体なさそうにちびちび啜りながら、便器へ顔を突っ込んだまま、倒れているのだろうなと想像した。彼にはそれで調度良いと思った。触れてはならないところに触れたのだ。菊松は恋の荒れ狂う情念に焼かれたのだ。
鵜金は菊松を見に行こうと立ち上がろうとした。しかし、直ぐに止した。そうして、ジギタリスを捧げた彼に静かに乾杯をした。
「友よ、ありがとう」
鵜金はスポーツドリンクを一気に飲み干した。
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2004/07/12(Mon)03:03:28 公開 /
石田壮介
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■作者からのメッセージ
書き終えました。大分疲れた。
最後まで読んでくれた方々、本当にありがとうございました。m(_ _)m