- 『グローブと麦わら帽子』 作者:ドンベ / 未分類 未分類
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全角29342.5文字
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原稿用紙約110.7枚
本当はわかっていたんだよ。
俺は“それ”を打たれたんだから。
― グローブと麦わら帽子 ―
一日目
ザザァ……ザザァ……。
打ち寄せる波。
「待ってよーっ」
駆け回る水着。
「二号、働け」
……ヒゲ親父。
二日目
まだ七月に入ったばかりだというのに、そこにはうざったいほどの人が溢れていた。
夏休み前であるせいか年齢層は若干高く、それを見て平和な国だなぁとか考えてる俺は高校生。
いわゆるテスト休みを利用して、このビーチに出稼ぎに来ていた。
「二号っ!」
野太い声で呼ばれる。
断っておくが、二号というのは俺の名前じゃない。
俺の名前は奥野秀哉。
十七歳。
日本経済を裏で支える財閥の御曹司で、今は帝王学の研修中だ。
嘘だ。
言ってみたかっただけだ。
「二号!」
「うぎゃ……」
耳元でマスターの声が聞こえたと思ったら、次の瞬間には殴られていた。
さらに耳を引っ張られ、
「聞こえてないのかぁっ!」
「い、いたたたぁっ! ごめんっ、働くっ。働くからっ!」
「さっさと店の掃除しろっ!」
「わかった! ギブ!」
必死に叫びながら試合続行不可能を訴える。
マスターは俺の耳を離すと、
「てめぇはさっきから気が入ってねぇぞ! そんなに水着見るのが楽しいかぁっ!?」
「水着は大好きだ」
「うむ、俺も大好きだ」
「……」
「……」
「……」
「二号っ!」
「うわぁっ!」
颯爽と身を翻し、ほうきを持って店の裏に避難する。
あの漁業で鍛えられた筋肉相手にしてたら、体がいくつあっても足りない。
店の裏に逃げてしまったら水着が見られなくなるが……まぁ、時間はたっぷりある。
何せここは海の家で、目の前に広がるのはビーチなのだから。
海の家『サマー様々』。
センスの悪いオーナーが親父ギャグを華麗な言葉遊びと勘違いしてそのまま店の名前に採用したらしい。
ついでに言えばこの海の家、俺のバイト先。
夏なのに寒風吹き荒むその様は一見の価値ありだ。
そして、その海の家の店長が、さっき俺の外耳を引きちぎろうとしたヒゲ親父。
店員には総じて自分をマスターと呼ぶよう教育している。
いや、むしろ強要している。
どう考えてもあの外見に横文字は似合わない。
たぶん漢字も似合わないから、せいぜい平仮名が限界だ。
あいつの頭も平仮名が限界だ。
そうに決まってる。
「二号」
駐車場に続く店の裏手を掃除していたら、マスターにそう声をかけられる。
見ると、普段はハーフパンツにTシャツ一枚で営業してるマスターが、アロハ羽織って薄手のチノパンをはいていた。
ハワイに行った夢でも見ていて、現実との区別がつかなくなったのだろうか。
この筋肉バカならあり得る。
「二号」
マスターは俺の目の前まで来て、再び同じように声をかける。
「何ですか?」
「接客しろ」
「えっ? でも、掃除がまだ……」
「これから少し、俺は店を空ける。だからその間、お前も店に出てろ」
それは好都合だ。
「今日は客が多い。一号一人じゃ無理だ」
「はい。わかりました」
「客に失礼のないようにしろよ」
「えぇ、もちろん」
日に焼けた体を揺らしながら、マスターが歩き去っていく。
あれで今年五十になったというのだから、人間ってのは底知れない生き物だ。
まぁ、筋肉は別にして、記憶力は順調に減退しているようだが。
「……さて。営業しますか」
微笑みながら呟いて、店に戻る。
ほうきを用具入れに戻し、店員用のエプロンを着用して仕事再開。
「おー、奥野」
店のカウンターにはいると、同じ店員で大学生の森野さんに声をかけられる。
言うまでもないが、彼が一号。
「ちょっと俺、出前行ってくるから、ここいいか?」
「……出前って何ですか?」
「頼まれたんだよ、可愛いお姉さんにさ。シーフード焼きそばと夏の思い出を運んでくれって」
「……」
それはたぶん出前とは言わない。
加えて言うなら夏の思い出も注文されてないはずだ。
「そんなわけだから」
そう言って、森野さんはプラスチックの容器に入った焼きそばを形だけ携え、店を出た。
「……さて」
店内を眺める。
店内には客用の椅子とテーブルがいくつか置いてあるが、今現在、そこには誰も座っていない。
砂浜には相変わらず人が溢れているが、二時という時間も影響してか、客が多いというマスターの言葉とは裏腹に今は暇な時間帯らしい。
カウンター内に置かれた丸イスに腰を下ろし、ぼーっと浜辺を眺める。
「……」
ここへ来て二日目になる。
そろそろ二号という呼び方にも慣れた。
あれは単に、マスターが僅か一週間だけのバイトの名前を覚えたくないから使っている呼称で、深い意味はない。
年功序列くらいはあるのかもしれないが、詳しいことは不明。
今年は求人に対する応募者が少なかったらしく、バイトは俺と森野さんの二人だけ。
厨房担当のカズさんという人がいるが、彼は裏方で滅多に表には出てこない。
しかも、カズさんは十一時から三時までしか店にいないので、それ以降に入った食い物の注文は、在庫次第ということになる。
そんな怠慢経営でやっていけるのかとも思うが、どうやらあのマスターはこの店を始めて長いらしく、過去の経験と照らし合わせてそれで十分と判断したとか。
悔しいことにその言葉通り、昨日と今日を見る限り、在庫不足で文句を言われたことはない。
こうして自然を前に仕事をすれば、客も店員もおおらかになれるのだろう。
マスターの記憶力はおおらかすぎるが。
「……」
青い海が夏の太陽を反射して光った。
慣れ親しんだ都会を離れ自然に抱かれれば気も紛れるかと思ったが……どうやらそう簡単なことではないらしい。
重い気分が足枷になり、森野さんのように一夏の間違いを起こす気にもなれない。
一ヶ月前までは、俺も水着を見るだけで元気になる健康な高校生だったのに。
「すいませーん」
「はい」
「氷イチゴ二つ欲しいんですけど」
「……」
水着が登場した。
淡いピンクのビキニ。
胸についたリボンが最高。
色々と元気になった。
「店員さん?」
「……これは失礼」
頭を下げる。
ダメだ……営業中は妄想しちゃダメだ。
真面目に接客しないと、あのマスターに外耳どころか内耳まで持っていかれる。
でもなぁ……このふくよかな胸は凶器だよなぁ。
「あの、氷イチゴ二つ……」
「ちょっとジャンプしてみましょうか」
「えっ……」
「氷イチゴ二つですね。少々お待ち下さい」
「……」
慌てて容器を取り出し、電動のかき氷製造器にセットする。
冷凍庫から取り出した氷を中に入れ、蓋を閉めてスイッチオン。
うるさいノイズが三十秒ほど流れて、かき氷の出来上がり。
それにイチゴのシロップをかけ、客の前に戻る。
「氷イチゴ二つで四百円になります」
「あ、はい」
「五百円お預かりします」
人肌に暖まった硬貨を受け取り、レジをはじく。
百円玉一枚とレシートを客に手渡し、
「百円のお返しです」
「はい」
「ありがとうございました」
客が歩き去っていく。
その背中はすぐに、明るい笑い声に囲まれて消えた。
「……場違いだなぁ」
苦笑しながら呟く。
やっぱりどこかが狂ってる。
こうなることは覚悟していたはずなのに。
ここまで引きずるとは思っていなかった。
俺と森野さんは、簡単に言うとただの“つなぎ”だ。
マスターの幅広い人脈もあって、本来ならこの店の店員は、走れて泳げて潜れるという三拍子揃った海の男が務めるはずなのだ。
しかし、毎年のように夏をここで過ごす彼らにも、各々の都合というものがある。
仕事をしている人もいれば、大学に通ってる人もいる。
そんな彼らの事情と、世間の常識を無視してやってくる海水浴客とを合わせて考えた結果、一週間という短い時間の、つなぎのバイトが必要だったのだ。
だからマスターはバイトの名前を覚えないし、すれちがうだけの客の記憶にも残らない。
そんな環境は、今の自分にちょうどいいと思っていた。
「ありがとうございました」
小さな子供連れの女性が、トロピカルドリンクを持って歩き去っていく。
店に出てから、そろそろ一時間がたつ。
それほど忙しくないとは言え、休憩できるほど暇でもない。
あれから何人もの他人とすれ違い、僅かな言葉を交わして別れた。
「こんにちはー」
「あ、いらっしゃい……」
店に一人の少女が現れた。
よそ見をしていた俺は、慌てて立ち上がるが、
「あの、フルーツジュース一つ下さい」
「……」
言葉を失う。
目の前に立つ少女……彼女は間違っている。
何が間違っているかって、水着を着ていない。
これはもう、この海の家の存在意義を揺るがす一大事と言っても過言ではない。
「あの……店員さん?」
「水着はどうした」
「えっ……」
「ここをどこだと思っているのだっ」
「きゃっ」
少女が一歩、後ずさった。
しかし、これだけは譲れない。
水着だけは譲れない。
男の子だもの。
「ねぇ、君。ここがどこだかわかってる?」
「……ビーチ」
「そう。じゃあ間違いに気付くよね? おじさん怒らないから言ってごらん?」
「……」
「あらあら? わからないのかな? じゃあ説明してあげよう。ビーチって言うのはね、若い肌を大気に解き放ち、潮の香りと日焼けあとをつけるための場所なの。わかるでしょ? だからほら、そのワンピ脱ぎ去ってごらん。大丈夫、おじさんが見守っていてあげるから」
「……変態」
「これは失礼なことを。おじさん、正義の使者だから、猥雑な感情なんて持ってない。ほら、心配せず――」
「二号っ」
「うぎゃぁ……」
気が付いたら後頭部に衝撃を受け、前のめりにダイブしていた。
ささくれだった木の床が肌に擦れて痛いこと痛いこと……。
「こらぁっ、二号!」
「あ……マスター」
「てめぇ、真面目に接客しろと言ったのを忘れたのかっ」
「してましたよ。ビーチの何たるかを知らない若者に特別授業までしちゃいました」
「するなバカ野郎っ!」
「いたぁ……」
再び殴られた。
痛い……頭が痛い。
耳の奥で除夜の鐘が聞こえる。
うわぁ……身体の仕組みって不思議が一杯……。
「悪かったな、飛鳥ちゃん。こいつはまだ、二日目でよ」
「……」
マスターがさっきの少女に話しかけた。
飛鳥……これはあの少女の名前だろう。
と言うことは、二人は知り合い?
「……今年は質悪いですね」
「そう言われると返す言葉もなぇや。飛鳥ちゃん、変なことはされなかったか?」
「一応“まだ”されてません」
言って、女がこっちを見る。
ふんっ、ふざけるなよ。
俺だって水着着てない女などに興味はない。
「飛鳥ちゃん、注文は?」
「あ、フルーツジュースを一つ」
「おう。じゃ、すぐ作るから。座って待っててな」
「はい」
マスターに笑顔を向けて、少女が日陰の椅子に腰を下ろす。
見ると、少女の肌は夏という単語にさえ不釣り合いなほどに白く、体も華奢だった。
麦わら帽子の陰からのぞく髪の毛は、これもまた夏の海にはあまり似合わないストレートの黒髪。
接客したのが森野さんでも、この彼女が場違いだと感じるだろう。
「二号」
「……ん?」
マスターに呼ばれ、振り向く。
マスターはその手にフルーツジュースを持って、
「これを彼女のとこに持って行け」
「いや……俺ですか?」
「日本語が通じないのならバイト辞めろ」
「……マスターが行けばいいじゃないですか」
突き放すような言葉に、思わず邪険になる。
マスターは厳しい表情で俺を睨むと、
「持っていくついでに謝ってこい」
「そんなものは、水着着てないあの女が――」
「行け」
「……」
ジュースの入ったグラスを突きつけられる。
拒否できる雰囲気じゃなかった。
「……わかりましたよ」
うなずいて、渋々グラスを受け取る。
それからカウンターを出、海を眺めていた彼女の前にグラスを置き、
「お待たせしました。フルーツ――」
「どうも変態さん」
「……」
カチーンときた。
きたのだが……我慢だ。
マスターが見てる。
こんなガキっぽいことで一々目くじら立てては――、
「今年は厄年みたいね」
「……」
独り言のように、女が呟き始めた。
「マスターにはもう長い間お世話になってるけど、こんなに店員の質が悪い年も初めてだわ」
「……」
「一時的とは言え、こんな店員にお金払うなんて、マスターも可哀想」
「……」
「ねっ、そう思わない? 店員さん?」
プッツン。
「……ちょっと。何か言いなさいよ。謝るとか――」
「貧乳」
「なっ、なんですってっ!?」
女が立ち上がった。
きつい目で俺を睨みつけ、
「あんたっ、客に対してなんてこと言うのよっ!」
「ふんっ。俺の客は水着の女オンリーだ。偉そうなことはワンピ脱いでから言え」
「へっ、変態っ!」
「何とでも言え。だが割合的にマイノリティのお前になにを言われようと、痛くもかゆくもない」
「あんたっ――」
女が腕を振り上げた。
足を踏み出して俺との間合いを詰め……そして、その腕が振り下ろされることは、なかった。
「えっ……?」
「んっ、はっ、はぁっ……あぁっ」
「飛鳥ちゃんっ!」
「……えっ?」
女が胸を押さえてうずくまる。
マスターが慌てて駆け寄ってくる。
倒れそうになるその肩を抱き、心配そうに顔をのぞき込みながら。
「大丈夫か? 飛鳥ちゃん。深呼吸して」
「あっ……は、はい。もう……」
頼りない足取りで彼女が立ち上がる。
水滴を滴らせるグラスを手に取り、それを一口飲んで、小さく息をつく。
額には、玉のような汗が浮かんでいた。
「……もう大丈夫です」
「ホントか? 無理は――」
「平気です」
彼女がマスターに笑顔を向ける。
でもそれは、まだ弱々しかった。
「帰ろう。な? 今日は日差しが強すぎる」
「そうですね……ごめんなさい、迷惑かけて」
「なに言ってんだ。そりゃこっちのセリフだ。……ほら、裏に車あるから」
二人が歩き出す。
俺に背を向けて……、
「待てよ」
声を、かけていた。
「……」
無言でマスターが振り返る。
彼女はマスターに肩を支えられながら、力無い瞳を俺に向ける。
もう、何の感情も浮かばない瞳を。
「俺、まだ言いたいことが――」
「黙れ」
「……マスター」
「二号。てめぇはここで、黙って仕事してろ」
「……」
「今度何かしでかしたら、問答無用でクビだ」
言い切って、二人はまた歩き出した。
一人、がらんとした店に残される。
「……」
「あのー。ここ、ビールって売ってますー?」
「……はい」
客が来た。
三日目
三食付きの住み込みバイトとしてここに来たはずだった。
だが、詳しく話を聞いてみると、食事は場合により二食になるらしく、どうしても腹が減った場合は自己調達。
しかも朝食が。
「……釣れねぇ」
時計を見る。
午前五時。
こんな時間に何をしているのか、そろそろ自分でも不思議になってきた。
釣り竿を垂れて早一時間、餌の交換以外に竿をあげた記憶がない。
「あぁっ、やってられるか」
言って、竿を放り出す。
そのままその場に寝そべる。
一面雲のない澄んだ青空が目に入った。
「……なぁにが入れ食いだ」
つい一時間前に聞かされた言葉。
慣れない時間に目を覚まし、目を擦る俺にマスターは言った。
『今日は“不漁”だった。だから朝飯は自分で何とかしろ』
いくら従業員とはいえ、そんなことを言われて納得できるはずもなく、俺は聞き返す。
『ちょい待った。昨日はちゃんとあったじゃないですか』
『昨日は“大漁”だった』
『……』
『言いたいことはそれだけか?』
それはこっちのセリフだ……と思ったが、あの漁業関係者相手に口に出せるはずもなく。
あの後、釣り竿とバケツを無料で支給され、一応マスターお勧めの入れ食いスポットも教えてもらった。
だが、その結果がこれ。
バケツの水は干上がって底が見えている……否。
水をくむ必要すらなかった。
これだから海の男はアバウトで嫌いだ。
「あ〜ぁ、どうするかなぁ」
快晴の空を見ながら考える。
朝食にありつけないとなると、今日一日のバイトが不安だ。
生まれてこの方、親元で暮らしていて、朝食を抜いたこともない。
つい最近までスポーツマンだったわけだし。
脂肪は燃費悪いんだよなぁ。
さらに言えば金もないし。
「森野さんはコンビニだろうなぁ……」
ここから二キロほど歩いた場所に、一応、コンビニがあるらしい。
金のある人間はそこで飯を調達すればいいのだが、俺はまったくと言っていいほど金がない。
ここにくるまでの交通費で、ほぼ完全に底をついた。
元々、バイトなんて金のない人間のすることだ。
森野さんのように目の保養と言う目的だけで働ける方がおかしい。
裕福な人間はいいよな。
「釣るしかないか」
呟いて起きあがる。
まだ五時半。
あと一時間も粘れば、焼き魚の一匹くらいは腹に収められるだろう。
「さぁて」
自分の世界から心を乱す全てを取り除けば、なにも考えずに時間を過ごせると思っていた。
まったくもって勘違いの逃避行だ。
何も無ければ無いほど、心は記憶で埋め尽くされていった。
「マースター!」
「ん?」
「一年ぶりーっ」
「おー、加奈ちゃんじゃねぇか」
太陽が天頂にさしかかる頃、一人の水着ちゃんが店にやってきた。
彼女は入ってくるなりマスターを呼びだし、そしてその腕に抱きつく。
「久しぶりー。元気だった?」
「おーう。元気だったぞ。加奈ちゃんも元気そうだな」
「へっへー。OLは体が資本だからねー」
「そうか。あのやんちゃだった加奈ちゃんも、とうとう社会人か。……で、男の一人も出来たか?」
「それがねー。昨今の男には見る目がなくて。今日は同僚と」
言って、彼女は後ろを振り向く。
その視線の先に、二人の水着ちゃんが立っていた。
「上手くやってるみたいだな」
「ま、頭は悪いけど、人付き合いだけは得意だったから」
「そういやぁ、去年は浜辺の視線独占してたなぁ」
「もーマスターやめてよー」
楽しそうに笑いながら、マスターと女がじゃれあう。
昼時でひっきりなしに客が入れ替わるこの時間でも、彼女の存在は特別らしい。
マスターに言わせてみれば、これが経験の為せる技なのだろう。
俺に言わせりゃ働けの一言で終わるが。
「奥野、こっち手伝ってくれ」
「あ、はい」
森野さんに呼ばれ、慌ててカウンターに戻る。
厨房からカズさんが出てきて、出来たてほやほやの焼きそばを置いて、再び急ぎ足で厨房に戻る。
こんな時間はいい。
なにも考えずに済むから。
「すいませーん。ホットドック二つくださーい」
「あ、はい。ただいま」
人でごった返す店内を見て、昨日そこにあった、記憶の中の影を追った。
午後二時半。
やっと客の流れが落ち着く。
マスターはカウンターに腰を下ろし、スポーツ新聞を眺めている。
森野さんは今、恒例の“出前”中。
「……あの」
しばらく客が来なさそうなのを確認して、マスターに声をかける。
マスターは視線だけをこっちに向け、
「なんだ」
「聞いてもいいですか?」
「だから、なんだ」
「昨日の子のこと」
「……」
マスターの手が止まる。
それでも新聞を閉じようとはせず、
「やっと反省したか」
「……まぁ、一応」
「遅い」
「ですよね……」
マスターの言葉にうなずく。
そうだ……いつだって俺は、気付くのが遅すぎる。
これでもかってくらい壊してからじゃないと気付かない。
刻まれた傷を見て、初めて傷つけた事実に気付くように。
ただのバカだ。
「……あの子、この辺の子ですか?」
「違う」
「そうですか」
「……」
「……裏の掃除してきます」
立ち上がり、ほうきを手にとって店を出ようとする。
そこで、
「すぐ近くに避暑地があるのは知ってるか?」
「……えっ?」
声をかけられた。
振り返ると、相変わらずマスターは新聞に目を向けている。
ただ、その視線は所在なさげに泳いでいた。
さすがは海の男、非常にわかりやすい。
「あの子は毎年、この時期になるとここにくる」
「はぁ」
「ここは夏でも、都心ほど暑くならねぇ。静養にはいい場所だ」
「ふ〜ん……えっ?」
聞き慣れない言葉に思考が止まる。
一瞬……いや、それより遥かに長い時間をかけて、
「……静養?」
聞き返した。
マスターはため息をこぼし、そしてやっと新聞を閉じて、
「わかるだろ。そう言うことだ」
「……」
苦しそうな吐息。
したたり落ちる汗。
震える足。
「……どこが、悪いんですか?」
恐る恐る尋ねる。
だが、返ってきたのはにべもない答だった。
「知らねぇ」
「はっ?」
「俺はただの海の家のマスターだ。そしてあの子は、常連だけどただの客だ」
「随分……冷たいですね」
「自分に何も出来ないからって俺を責めるな。後悔は自分で抱えろ」
「……哲学ですか? 洒落てるじゃないですか」
「茶化すなバカ野郎」
マスターが立ち上がる。
そのまま店を出ようとして、
「……居場所になってやれりゃ、いいんだけどな」
「はぁ?」
「結局、夏の終わりと一緒に終わるんだよ。毎年顔を合わせちゃいるが、それはただ、毎年始まって終わってるってだけの話だ」
「意味がわかりません」
「だったら必死に考えろ」
「……」
「店番してろよ」
マスターが歩き去った。
人のいない店内に、一人だけ残される。
それからしばらく、必死に考えた。
もちろん、意味なんてわからなかった。
「俺は年上が好きなんだよね」
森野さんが言った。
どうやら今日の“出前先”は年上だったらしい。
「それにさ、人妻って響きが最高じゃん?」
しかも人妻だったらしい。
あんたはバイト先で何をしてるんだ。
「いやー、夏はいいよなぁ。暑いせいで、みんな色んなとこが弛んじゃってるし」
「直球ですね」
「全力ストレートを打ち返されりゃ、諦めもつくだろ?」
「まぁ……そうかもしれないですね」
苦痛を伴った呟きをもらして、浜辺を見る。
だいぶ人が減っている。
時間は午後五時。
あと一時間で閉店時間だ。
そんな時間に、彼女はやってきた。
「いらっしゃい」
「……」
「ごめんなさい」
頭を下げる。
どうせ謝るなら早いほうがいい。
森野さんの言うとおりだ。
俺はただ、全力のストレートが投げたかっただけだった。
「……気持ち悪い」
全力のストレートは簡単に打ち返された。
しかも、
「悪いものでも食べたの?」
バットのおまけ付き。
受け止めたらケガしそうだから、無難にスルーする。
「ご注文は?」
「クリームあんみつ」
「少々お待ち下さい」
「あなたの奢りね」
「……」
ヘルメット投げつけられた。
滅茶苦茶だ。
「……少々お待ちを」
答えてカウンターに戻る。
冷蔵庫からクリームあんみつの材料を取り出していると、森野さんに声をかけられた。
「おい、奥野。あの子なに? 可愛いじゃん」
「地元の子ですよ」
「へぇ〜。お前も隅に置けないねぇ」
「……そんなんじゃないですよ」
クリームあんみつ完成。
それを持って、定位置らしい日陰の席に腰掛けた彼女の元へ行く。
背中に刺さる森野さんの視線が痛い。
「お待たせしました」
「どーも」
「それじゃ、ごゆっくり」
「言われなくてもそうするわ」
「……でしょうね」
苦笑してカウンターに戻る。
森野さんが興味津々の視線を投げかけてくるが、今は気付かないことにする。
グラスを洗う振りをしながら。
何も見ないように。
なにも聞こえないようにしながら。
「……」
心のどこかが疼いた。
四日目
午前十一時をすぎる頃、海沿いの国道を歩いていた。
仕事をさぼったわけじゃない。
これも立派な仕事だ。
その立派な仕事の内容。
――買い出し。
「あのマスターそのうちぶっ飛ばしてやる」
自分が焼きそば用のキャベツ買い忘れたからって、立場の弱いバイトに責任を押しつけるとは。
しかも、すぐそこにあると言われたスーパーが実は五キロ離れた場所にあるという驚愕の新事実。
周辺住民に尋ねてその事実が判明したとき、思わずエスケープしたくなった。
「重いな、これ」
右手に提げたビニール袋には、キャベツだけで五玉入っている。
さらには青のりやらソースやらまで頼まれたから、両手がふさがって走ることもままならない。
出来るだけ急げと言われたのだが、これは正当な理由になるだろうか。
「……暑い」
空を見上げると、ここ数日と同じく、容赦なく照りつける太陽が目に入った。
せめて帽子でもかぶるべきだったと思ったが、後の祭り。
ビーチまであと三キロ、汗水垂らして歩くしかない。
そんなことを考えていた俺の目の前に、見たことのある背中が現れた。
「……」
白いワンピに麦わら帽子といういつも通りの格好をした彼女は、波の音を体全体で感じるように、ゆっくりと歩いていた。
このまま黙って後ろを歩くのも、無言で追い越すのも気まずいと思ったから、その後ろ姿に声をかけた。
「こんちわ」
「え……」
彼女が振り向く。
そして、驚いたように目を見開く。
その瞳に負の感情が混ざっていなかったことに……胸をなで下ろす。
「散歩?」
足を止めた彼女にあわせ、立ち止まって尋ねる。
彼女はゆっくりと驚きの感情を咀嚼し、
「……そう」
「暑いけど、大丈夫?」
「なにが?」
「身体の方」
「……」
睨まれる。
敵意と言うより、そこにあったのは恐れの感情。
「……どうして知ってるの?」
「マスターに無理言って教えてもらった」
「……」
「ごめんなさい」
頭を下げていた。
あぁ……そう言えば昨日もこんなことしたな。
「……謝るようなことじゃないわよ」
呟いて、彼女は歩き出した。
俺もスーパーの袋を持ち直し、その隣に並ぶ。
「そっちは買い出し?」
視線を前に向けたまま、彼女がそう尋ねてくる。
その言葉からは、ついさっきの話題を避けたいという思いがありありと感じられた。
だから単純にその言葉にうなずいた。
「そう。どうやらあの海の男は、責任転嫁が趣味らしくて」
「……マスターが?」
「バイトだから文句言える立場じゃないけどね」
「当たり前じゃない」
「だよね。でもまぁ……アバウトだよ、海の男は。特にマスターは。よく言えば器が大きいってことなんだろうけど……あの人の器は大きすぎる上にサビ付いて穴開いてる」
「……」
神妙な面もちで睨まれる。
あぁ、そうか。
知り合って長いって、マスターも言ってたな。
怒られるのかもしれない……そう思っていた俺の横で、意外な声が響く。
「……ふふっ」
「……えっ?」
「面白いわ、今の」
「はぁ?」
「マスターの話。確かにそうかもね。マスターはたまに、ビックリするくらい大ざっぱだから」
「……」
どうやら同意してくれたらしい。
これには驚いた。
「こき使われてるの?」
「まぁ、ね。今度何かしたら、問答無用でクビだから」
「あんなコトしたら、普通は即クビよ」
「申し訳ないとは思っているけど謝りたくはない」
水着フェチは俺に残された最後の牙城だ。
「いいんじゃない、それで」
「……」
「ちょっと……その顔はなによ」
「いや、認めてもらえるとは思ってなかった」
「そりゃ……認めるわよ。……わたしだって、着れるなら着たいんだから」
「……」
そう彼女が呟いたときに表れた感情は――憧れ。
精一杯手を伸ばし、それでも届かなかった物に対する、純粋で僅かに諦念の混ざった憧れ。
それは掛け値なしに尊く、尊いからこそ悲しい……言ってみれば、叶わなかった夢。
明確すぎる壁。
「……軽率だった」
「えっ?」
「猛省してる」
言いながら頭を下げる。
マスターの言葉を思い出した。
――居場所になってやれりゃ、いいんだけどな。
確かにその通りだ。
この感情を前にして、半端な良心や同情は意味を成さない。
そんなものは、ただの偽善に終わる。
隣に並んで共に終わりを見る覚悟がなければ。
始まって終わるだけ……その言葉の意味が、今ならよくわかる。
結果に追随することしかできないことの哀しみ。
それを望まれないものの虚しさ。
「……やっぱり悪い物でも食べたんじゃないの?」
バットが飛んできた。
「ねぇ、急にどうしたの?」
「俺はいつでも素直だ」
「あ、なるほど」
納得された。
「わかりやすいね……いいよね、そういう生き方」
「そんなに大した物じゃないぞ」
「そうね……“持ってる人”はみんなそう言うよね」
「……」
「あっ――」
彼女の足が止まった。
そして、慌ててこっちを振り向く。
「ご、ごめんっ。今のはそういうつもりじゃなくて――」
「誤魔化さなくたっていい」
「……えっ?」
「羨望や憧憬は、別に悪い物じゃない。純粋に望むことが……悪いことであるはずがない」
「……」
それはほとんど自分に向けて言った言葉だった。
それを否定されたら、俺がそこにいる意味はなくなってしまうから……もう、その場所はなくなってしまったけど。
ただ、全力投球をしたかった。
「……ずっと同じ場所から悲鳴を上げてるだけなら、それはただの無い物ねだりだけど」
「……えっ?」
「でも……全力で求めたことのある人間には、そういう言葉を口に出す権利が、あると思う」
そうやって、俺は、傷つけた言い訳を探すのか。
……クソ野郎。
「なんか、人が変わったみたい」
「はぁ」
「名前は?」
笑顔で尋ねられる。
彼女は自分の顔を指さし、
「わたし、中野飛鳥。あなたは?」
「あぁ……」
自己紹介か。
そういえば、まだだったな。
「俺は――」
言って、自分の顔を指さそうとして、指せないことに気付いた。
「……奥野です」
「あれ? どうしたの?」
「理不尽な上司の命令を思い出した」
ついでに全速力という要求も思い出したけど、こんなクォーターマラソンみたいな距離を伏せたまま買い出しに行かせたマスターが悪い。
忘れることにしよう。
「……意味、わからないんだけど」
「理解してしまうとやるせなくなるから、知らない方がいいと俺は思う」
「……?」
「行こう」
言って、歩き出す。
全速力は無理としても、わざわざ遅らせるようなことをして、怒るきっかけを与えなくてもいいだろう。
「わたしね、心臓が弱いの」
隣に並んだ彼女が、何気ない口調で話し始めた。
その言葉は突然のようで、当然のようでもあった。
「生まれ持った体質って言うのかな……薬で治るものじゃないんだよね。だから、出来ることは待つことくらいしかないの」
「……こんな暑い中、出歩いてていいのか?」
「太陽の光を浴びることは、悪いことじゃないんだって。だから、散歩は毎日してる」
「あぁ……それで、あの店に」
「そっ」
彼女が無邪気に微笑む。
潮風が麦わら帽子を揺らした。
「ここに来るようになったのは、五年くらい前から。避暑にね……ここ、朝と夜は涼しいでしょ?」
「言われてみれば」
昼間は夏らしい暑さだが、それにしたってカラッとした爽やかな暑さだ。
朝晩も、クーラー無しの部屋で普通に寝られるのだから、俺が思うよりずっと、都心よりは涼しいのだろう。
「マスターとは五年来の付き合い。いい人だから。細かい事情を説明したことはないけど……気にかけてくれて」
「あの……一つ、聞いていい?」
「あ、なに?」
少し引っかかっていたことを口に出す。
「高校生?」
「うん」
「じゃあ、今学校は?」
「テスト休み」
間髪入れずに返ってきた返事は、予想していたいくつかの答の中で、一番安心させられるものだった。
だが、
「でもね、テストは受けてない」
「……えっ?」
「学校……行ってないんだ、今年」
「……」
その時初めて、彼女の表情に明確な影が落ちた。
「去年の秋にね……倒れちゃって。しばらく入院してて。それ以来、親が気にしちゃってさ」
「……」
「昔から心配性だったんだけど、最近はそれがひどくなっちゃって。困るよねー、この学歴社会の時代にさー。ただでさえ置いてかれるのが怖いのにさー」
「……」
「心配して治るものじゃないんだから、学校くらい行かせてくれてもいいと思わない? ねぇ?」
「……」
「……ずるいな、その沈黙」
彼女は困ったように笑いながら呟いた。
「ホントはね……恥ずかしいんだって。こんな病弱な娘を人前に出すのが」
「……」
「うちの親、結構大きな会社のお偉いさんなんだよね……だから」
だから……なんだというんだ?
そんなことが理由になるとも思えなかった。
弱いから諦めるという理屈が、一番、嫌いだった。
「着いたよ」
「……えっ?」
気付くと、すぐ目の前にビーチがあった。
今さらのように、楽しそうな声が耳に届き始める。
「ほら。早く行かないとマスターに怒られるよ?」
「あぁ……それはイヤだな」
「でしょ? だから……ほらっ」
「うわっ……」
背中を押される。
重い荷物のせいで二・三歩よろけてから、振り返る。
彼女は麦わら帽子を目深にかぶり直すと、
「……わたし、今日はこれで帰るから」
「寄ってかないの?」
「いい……なんか、疲れたし」
「飲み物くらいなら奢るけど」
「ダメだよ。せっかく働いて得たお金を、無駄なことに使ったら」
「……」
無駄なことではないと言おうとして……言葉が出てこなかった。
無駄ではないその意味を聞かれたときの言い訳を考えてしまった。
「じゃあね」
小さく手をあげて、彼女が歩き出す。
しばらくその背中を見送っていたが……追いかけるには、覚悟が足りなかった。
一日の仕事を終えて、従業員宿舎に戻ってくる。
宿舎と言っても打ちっ放しのコンクリの粗末なアパートで、部屋は全て六畳一間。風呂トイレ洗濯機は全て共用。脱衣場の隣に置かれている黒電話を初めて見たときは、思わず「なめてるのかっ!」とつっこんでしまった。
「奥野、いるかー?」
「……はい?」
午後八時をすぎる頃。
支給された晩飯『焼きそばの余り』を食っていたところに、森野さんが現れた。
森野さんは一日の疲れなど微塵も感じさせない顔で、
「ちょっとさー、頼みたいことあるんだよね」
「なんですか?」
「実はさー、俺、これから一夏の思い出作りに赴かなければならんのよね」
「……」
ホントにあんたはなにしてるんだ。
「んで、しばらく部屋空けるんだけど……もしマスター来たらさ、言い訳しといてくれねぇ?」
「言い訳ですか」
「そっ。散歩に行ってるとかさ」
「別に正直に言っても怒られないんじゃないですか?」
五十代にしてまだ水着が好きだとか豪語してる人だし。
むしろ怒られたら、それはそれで腹立つだろう。
「一応だよ、一応。万全には万全を期してってな」
「はぁ……まぁ、いいですけど」
「サンキュ。……あ、それと」
立ち去ろうとした森野さんが、立ち止まる。
「今日は洗濯、しない方がいいぞ」
「……はい?」
「明日は朝方から、雨降りそうだから」
「……ホントですか?」
「別に十割当たる予想じゃねぇけどさ。これでも俺、海に来た回数だけは多いから、わかるんだよな。夕方の空見れば」
「すごいですね」
「使えねぇ特技だよ。……んじゃ、あとよろしく」
ヒラヒラと手を振りながら、森野さんが部屋を出る。
晩飯を抱えながら、部屋の隅に積まれた汗まみれの服を見る。
「……まぁ、いいか」
確かあと一枚、換えがあったはずだ。
下着だけ昨日洗っておいたのが、こんな所で生きてくるとは。
「さっ、飯」
気を取り直して焼きそばを食べ始める。
冷めていて美味くもなんともないが、問題は明日の朝食だ。
雨が降って“不漁”だった日には、目も当てられない惨劇が……。
「海の神様お願いだから僕のために尊い命を分けてください」
その日は窓の外に向かって何度も願を掛けてから布団に入った。
ほとんど野生だった。
五日目
「雨の日はやっぱこんなもんですかねー」
「そうだな。海に入りゃ結局濡れるんだから、関係ないと言えばないんだろうが……寂しいなぁ」
「ですよねぇ」
「心に穴が空いたみたいだ」
「俺は視力落ちそうで困るなぁ」
「……」
ピンク成人が二人並んで、がらがらのビーチを見ながら意味不明な憂鬱に耽っている。
一応、俺もピンク星人の仲間ではあるが、こいつ等はもう末期だ。
頼むから仕事してくれ。
「雨はうざったいだけだよなぁ……」
マスターが小さく呟く。
それにつられて、空に目を向ける。
「……太陽の光は身体にいい、か」
森野さんが昨日言ったとおり、今日は朝早くから雨が降っていた。
気まぐれに強くなったり弱くなったりしながら、いっこうに止む気配はない。
おかげでビーチにはほとんど人影がなく、元気なサーファー達が沖に漂っているのが見える程度。
そんな状況で仕事しろなんて言ってみても、実際、やることはほとんど無い。
今朝から数えて、五回、グラス磨きラリーを往復してしまった。
つまり激暇だ。
誰か仕事をくれ。
「一号、将棋させるか?」
「あ、いいっすね」
「俺に勝ったら晩飯を奢ってやるぞ」
「マジっすか? 強気ですねー」
「海の男に敗北の二文字はない」
「……ウドの大木」
「二号、何か言ったか?」
「皆目見当もつかない……なんちって」
「一号」
「はいはーい」
「……」
なんだこの店は。
時計の針が午後一時をまわっても、ビーチは閑散とした状態のままだった。
昼過ぎ、腹を減らしたサーファーが集団で来店したが、彼らが帰って以来、客は来てない。
シェフのカズさんはそれぞれのメニューに五食ずつの在庫を作って、もう帰ってしまった。
森野さんは今、客席で小説を読んでいる。
マスターは財布とにらめっこしている。
そして俺は、スポーツ新聞を読んでいた。
「……夏だね」
広いとは言えない紙面に、派手な見出しが踊る。
やはりスポーツをするなら夏ってことなのだろう。
ウィンタースポーツもマイナーというわけではないが、野球やサッカーと比べたら、どうしても競技の認知度が落ちる。
スケートの世界大会よりもプロ野球選手の契約更改の方が一面になる時代だ。
ウィンタースポーツに従事する方々は、さぞや悔恨の極みにあることだろう……なんて、そんなことはないか。
「ホント、この時期はありとあらゆるスポーツやってるよな」
紙面の一部にサマージャンプ大会という文字を見つけて、思わずそう呟く。
夏に行われるスポーツは、そのジャンルを問わず。
参加するものを拒むことなく。
誰もがその輪に加わることが出来る。
「ま、それも……」
自ら勝負を捨てさえしなければ、の話だが。
「二号」
「……あん?」
突然の呼びかけに、思わず返事がおざなりになった。
これはいかん。
「なんでしょう、マスター」
「これ」
「……」
マスターからビニール袋に入った何かを差し出された。
受け取り、中をのぞくと、お好み焼きが二つに、自販機の清涼飲料水が二本。
「……昼飯なら、さっき焼きそば食いましたよ。しかもシーフードのヤツ」
ついさっきの出来事。
どうせ客なんて来ないから、今日は好きなもの食っていいぞと言われて選んだシーフード焼きそば。
いつもまかないで食わされてるのは、シーフード焼きそばのシーフードを抜いた部分だ。
つまり焼きそばだ。
「いいから。これ持って埠頭に行ってこい」
「はぁっ? ……もしかして職場イジメですか?」
「バカ野郎」
殴られた。
これは腹いせだろう。
森野さんに将棋で負けたからって俺を殴るな。
「……見ろ」
言って、マスターが店の外……だいぶ離れた場所にある、港の埠頭を指さした。
そこは以前、入れ食いスポットというガセネタをもらって、二時間粘ったあげく朝食に海草食わされたという悪魔的スポット。
塩味の水草は別段美味いわけでもなく……っていうかぶっちゃけ不味くて、もう二度と食いたくない。
そんな悪夢が蘇り、目を逸らそうとした俺の視界に、小さな傘が目に入った。
「あれ……」
「わかるな?」
「……はい」
「昨日は仲良さそうに歩いてたじゃねぇか」
「……見てたんですか? 助平」
「うるせぇ」
「いてぇ」
殴られた。
「どれだけ気を張ったって、限界は来るもんだ」
「……また哲学ですか?」
「黙れ。これでも結構悔しいんだ」
「俺は……明後日には、この土地を出る人間ですよ」
「わかってる。でも……そんな人間じゃなきゃできねぇことがあるかもしれねぇ」
「……」
「物理的な距離が関係ないことくらいわかってんだ」
そう言ってマスターは、憂いのこもった瞳で彼女を眺めた。
小さく……戯けるように、俺があと三十若けりゃなぁ……なんて呟いていたが、彼女を見つめるその視線は、男としてのそれではなかった。
父親のようでもあり、兄のようでもあった。
それはつまり、隣に寄り添うには年を取りすぎたと言うことで、だから余計に辛いのだろうと、素直に思った。
「……行って来ます」
ビニール袋を持って歩き出す。
「上手くやれよー」
「……」
森野さんが顔も上げずに呟いた。
「……ま、努力はします」
自信のない心境をそのまま言葉に出す。
森野さんは軽く手をあげただけだった。
店の入口で、忘れ物の傘を一本手に取り、
「……あ」
そこで一度、立ち止まる。
後ろを振り向き、
「マスター」
「なんだ」
「これって……」
「あん?」
「有給ですよね?」
「えっ……」
「やほー。有給もらっちった」
傘を軽く持ち上げて挨拶する。
それから、すぐそこにある灯台を指さし、
「そこ、座らない?」
「あ……」
「階段の下。まだ濡れてないし」
「……」
彼女がうなずくのを待たず、その場所に腰を下ろす。
彼女はゆっくりと、僅かな距離をおいて、俺の隣に座った。
「これ、マスターの差し入れ」
そう言いながら、お好み焼きとウーロン茶を取り出す。
「昼飯って食った?」
「……ううん」
「んじゃ、ちょうどいい」
俺はもう食ったが……まぁ、これは別腹ってことで。
「なんか……ごめんね、わざわざ」
「いいって。ほら、雨の日って暇だし」
「うん……」
「どうせ店にいても、時間もてあますだけだしね」
そう言って、店の方を振り向く。
シャッターが降りていた。
「……これ、イジメだと思う人」
「残念ながら……」
彼女が挙手する。
やっぱりそうか……ちょっと泣きたくなってきた。
「サーフィンしてた人達が帰っちゃったからだよ」
楽しそうに微笑んで、彼女がそう言う。
確かに、さっきまで沖を浮游していたサーファーが見当たらない。
だが、それが本当の理由だろうか。
ここ五日間を思い返してみると、イジメという言葉に該当する出来事がいくつかあるのだが……まぁ、いいか。
笑顔が見られたから。
「これ、箸」
「あ、ありがと」
「んじゃ、食おうか」
「うん」
彼女がうなずいたのを確かめて、お好み焼きに箸をのばす。
それは生ぬるくて決して特別美味しいわけではなかったけど、雨の埠頭で食べるお好み焼きには独特の風情があり、少しだけ青春の味がした。
「……ここで、なに考えてたと思う?」
食べ始めてしばらくした頃、そんなことを聞かれる。
ウーロン茶を一口飲んで、答える。
「自由研究の課題」
「……わたし、小学生?」
「外れた?」
「ううん……正解、かな」
彼女は儚げに微笑んだ。
「タイトルはこれからのわたし」
「……はい?」
「自由研究っ」
「あぁ……」
一瞬で忘れてた。
彼女は呆れたようにため息をこぼし……それから、少しうつむいて。
「時々ね……考えちゃうんだ。すっごく悪いこと」
「俺が聞いてもいいこと?」
「聞いて欲しい。……ホントはずっと、誰かに聞いて欲しかった」
「……」
その誰かに彼女が何を望むのか。
それを彼女の瞳から読みとろうとしたけれど、麦わら帽子にさえぎられ、見ることが出来なかった。
彼女はうつむいたまま、先を続ける。
「壊したくなるんだよね……このままずっと、望むだけの生活を続けるくらいなら……いっそ、壊してしまえばって」
「……壊、す?」
「そう。わかるでしょ? わたしの身体は、人よりずっと壊れやすいの。だから――」
「――っ!」
「……ごめんなさいっ」
彼女の肩に手を伸ばしていた。
強制的にこっちを向いた彼女の膝から、勢い余ってペットボトルが転がり落ちる。
それはアスファルトの埠頭を転がり、海に消えていった。
「考える、だけだから……痛いから、離して」
「……わるい」
一気に沸騰した頭が、それと同じ速度で冷えていく。
……怒ってどうする。
俺に怒る資格があるのか?
無いに決まってる。
俺はあの時、望む場所にたどり着けないなら、いっそ壊してしまえと……でも、それでも。
「……やめて欲しい」
「わかってるよ……考えるだけだから」
彼女が困ったように微笑んだ。
その微笑みの理由は、俺にはよくわからなかった。
「でも……さ。自分でも最低って、わかってる……でも、考えちゃうよ。もう何年も、こんな生活が続いてる。……今年は、学校まで、行けなくなった」
そしてその理由は、決して病気のせいじゃなく。
「どうしていいかわからないの……これでもわたし、頑張ってきたつもりだから。元気になりたかったから……水着だって、着てみたかったから……」
「……」
「だから……奥野君の言葉は、嬉しかった」
「……えっ?」
てっきり責められているものだと思っていた俺は、その言葉で顔を上げる。
振り向いた俺と目のあった彼女は、少しだけ頬を赤く染め、
「ほ、ほら、言ってくれたでしょ? ……全力で求めたあとなら、望むことも、憧れることも……悪くないって」
「あぁ……」
思い出す。
同時に、それが自分に向けて発した言葉であったことも。
「わたしはさ……望んじゃいけなかったから。望んだり、憧れたりするってことは、今ある生活に満たされてないことを、自分で認めることだもんね……そんなの、優しくしてくれるみんなに、失礼だから」
「……」
その言葉は、間違ってはいないのかもしれない。
間違いではないのだろう。
正しいのかもしれない。
くそったれな偽善者の理屈に乗っ取って考えれば、それは節操をわきまえたとても人間らしい理屈で、正しいに違いなかった。
……でも、そこまで聞き分けよくしなければならない理由が、どこにある?
一番悲鳴を上げたいのは……きっと、他の誰よりも、苦しみを知っているのは。
「……これにて愚痴は終了」
彼女が小さく呟いた。
灰色に滲んだ水平線を眺めながら、
「ありがと。ホントに嬉しかったんだ、あの言葉。わたしはこのまま、ずっと変わらず……ううん、いつか、限界がきちゃうかもしれないけど。……その時までは、憧れててもいいよね? 普通の人の、普通の生活を、無条件で……ただ、憧れるだけで――」
本当にいいのか?
それで。
「えっ? お、奥野君?」
彼女の声が震えた。
それは驚きと戸惑いによるもので、その感情の原因は、力一杯握りしめたせいで音をたてて潰れる、俺の右手にあるペットボトルだった。
「どっ、どうしたの!? ねぇ――」
「よくねぇよっ!」
叫んでいた。
あの時と同じように……戦う前から負けていたあいつらに、それを“求めた”時のように。
「勝つことの何が悪い! 上を目指すことのどこが間違ってるっ! 今で勝手に満足するなよっ! なんのために自分を見つめ直したと思ってるんだっ……ただ、全力投球がしたかっただけじゃないかっ。劣っていることくらいわかってた……でも、負け方ってのがあるじゃないか。納得のいく負け方を求めて何が悪いっ……そしていつか、勝って終われる日を夢みて……何が悪いんだよっ」
「お、奥野君……?」
「可能性なんてどうでもよかった……自分がまだ、終わってないことを確かめたかった……それだけなのに」
「あっ、あのっ! 奥野く――」
そこで、何かを言おうとしていた彼女の言葉が止まった。
振り向かなくても、彼女の視線が俺の顔に向けられていることはわかった。
まさか……と思ったが、あり得ない話じゃなかった。
数瞬後、
「――金森第一高校野球部……一年生エース」
懐かしい言葉が耳に届いた。
去年の秋季大会。
野球の名門でもなんでもない高校の野球部が、都の代表まであと一歩のところまで上り詰めた。
新聞ではエース一人の力によるまぐれのような勝ち方と酷評され。
それでも、チームメイトに助けられてきたと必死に主張したエースで四番。
奥野秀哉。
努力すれば報われる……それを純粋に信じて、その瞬間がすぐそこに迫っていると思っていた。
そして、そう思っていたのは俺だけだった。
「うそ……? テレビ、で……見た? えっ、でも……」
「……たぶんそれ、当たってる」
「じゃあ、奥野秀哉って――」
「そう。関東大会出場がかかった試合で、暴力事件起こして降板させられた間抜けなエース――」
純粋に信じ続けて、そのせいでまわりが見えていなかった、愚かで哀れな……見せしめのスケープゴート。
「――それが、俺だ」
夜になると、分厚く空を覆っていた雲が晴れ、星空が望めた。
都会から少し離れた夏の夜空に瞬く星は力強く、そこに輝いているだけで価値があるように思えた。
この星空の下で、明日の試合に思いを馳せて眠る高校球児達のことを、想った。
「……」
あの日――
――あの日。
試合は二対ゼロで負けていた。
下馬評を見ても、ほとんど勝つ見込みはなかった。
それでも、信じていた男がいた。
二点ビハインドのまま終盤にさしかかり、それでも捨ててない男が、一人だけ、いた。
そいつは、知らなかった。
『俺等のレベルで関東大会行ったって、恥かくだけじゃねぇ? 負けようぜ、この試合』
ベンチ裏で、そんな会話が交わされていたことを。
俺は九回表のマウンドに立つ直前まで、知らなかった。
「おーい、奥野」
「……森野さん」
部屋のドアがノックされたと思ったら、森野さんが立っていた。
何やらにやけた顔で、
「……で、どうよ?」
「はい?」
「首尾はどうだって聞いてんのっ!」
叫ぶように言って、森野さんは俺の背中を叩く。
その痛みに苦笑する。
これがこの人なりの気遣いだとしたら……ごめんなさい。
「たぶん……嫌われました」
「はっ? お前、なにしたの?」
「いや……何かをしたって言うか。俺って言う人間に愛想を尽かされたという感じで」
「おーいおい、意味不明だぞ青春小僧」
大学生なんだからこれくらい理解してくれ。
「ケンカしたのか?」
「それとは、ちょっと違いますけど……」
彼女は驚きを顔に残したまま、尋ねた。
『どうしてここにいるの? ……甲子園は?』
なにも答えられなかった。
俺はその場に上がる権利を、自ら放棄したのだから。
理想という言葉と引き替えに。
『予選……やってるでしょ? 今の時期は……』
まるでそれが嘘であることを望むような口調。
そして、
『こんな所でバイトしてる場合じゃ無いじゃないっ!』
悲痛な叫び声は結構効いた。
「……昔から純粋に信じてたんですよね」
「はぁ? それ、なんの話だよ?」
「あ……すいません。感覚的な話になるんですけど……」
「あー、はいはい。オッケーよ。俺、文系だしねー。わかる? 和服着てソーセキの真似したりする学部よ?」
そんな学部だと思ってるのはたぶん森野さんだけだ。
「ほらほら、人生の先輩に話してみ? 適切なアドバイスもらえるぜ?」
「……じゃあ」
少し前のことを思い出す。
それほど辛いことではなかった。
「俺……信じてたんですよ。努力すれば報われるって言葉……ホント、笑っちゃくらい純粋に」
「あーそりゃ笑うわなぁ。ガキだ」
「……で、ある日、その信じてたものが、消えたんです。しかも、同じこと信じてると思っていた仲間の手で、消されたんです」
「んーんー、わかるよー。責任転嫁ねー。したくなるよなー。俺も本命の大学落ちたときは、試験官が男だったのを理由にしたしねー」
「それは理由になんねーですよ」
「なるっつーの。美人だったら、割合にして八割くらいモチベーション上がるしよ」
上がりすぎだろ。
……あぁ、何だかこの人に話すの、無駄に思えてきた。
「おーい、おーくーのー。続けろー」
「あ……はい」
続けるのか……ま、いいか。
思い出したついでだ。
「えっと……俺、それで、言ったんですよ、その仲間だと思ってた奴らに」
「何をだ?」
「……やる気無いなら辞めちまえって」
「ふーむ」
「俺の足引っ張るなら、消えろって……」
「うーむ」
「……」
それが、二ヶ月前の出来事。
夏の予選に入る前だった。
そして、消されたのは俺の方だった。
そういうお話。
「んー、大体わかった」
「そうですか」
「おう。つまりこーゆーことだろ?」
わざとらしく人差し指をピンと立てて、森野さんは言った。
「おめーは自分で勝手に信念貫いてよ、それで失敗したとき? それを他人のせいにしてー……んで、あろうことか、リソーを押しつけた、と」
「……厳しいですね」
「あったり前だろー? 社会をなめんなよー?」
森野さんが俺に詰め寄ってくる。
ほとんど鼻の頭が触れそうな距離まで顔をよせ、
「結局てめー、負けたときの言い訳が欲しかったんだろ? ハッパかけるって建前でよー、ホントはこう言いたかったんじゃねーの?」
それは、秋季大会のあの日以来、心のどこかで渦巻いていた思い。
「負けても俺のせいじゃない」
「……」
「違うかー、奥野ー」
「……厳しいっす」
「そーだ。人生は厳しー」
「それから森野さん」
「あーん? なんだ?」
「酔ってるでしょ」
さっきから酒臭くてたまらない。
「バーカ。ポン酒なんて酒のうちに入らねーよ」
「それはどんなアンパイアでもストライクです」
「うーるせー」
言うと同時に、森野さんは倒れた。
仰向けに寝そべり、無意味に天井を指さしながら……それでも、その言葉は止まらない。
「そんなんじゃおめー、女にもてねーよ? 俺みたいにねー、正直に生きなきゃ。恨み言だってなんだって、口に出しゃーいーのよ。そして、一人じゃ寂しーから助けてくださいっておねだりすんの。そーすりゃねー、女はいちころよ? もうパクッと開いちゃってさー」
「なんの話ですか、それ」
「わかんねーの? 股よ、股」
うるせぇ黙れ。
「彼女はさー、そりゃ辛いだろーよ。キボーも無いかもしんねーし、リソーなんて言ってらんねーかもしれねーけどさ。そーゆーの、誰かが言わなきゃダメじゃん? 甘ったれたコゾーの戯言でもさー。てめーだったらよー、一番弱音きーて欲しー相手は誰だ? 責任とか怖がってんじゃねーよ」
「あの……それ、どうして知ってるんですか?」
「マスターがぺーらぺらしゃべってたぜ?」
「……」
あの野郎。
俺の時は聞くまで答えなかったくせに。
「どーよ? 俺のジンセーロンは?」
「とても酒臭かったです」
「だろー? やっぱ俺文系だろー?」
もうダメだな、この人。
部屋に運ぶか。
「森野さん……ちょっと、肩、失礼します」
言って、寝そべる森野さんの肩を担いで立ち上がらせる。
完全に力の入っていない身体を引きずり、隣の部屋に移動する。
そして布団の上に寝かせ、その上にタオルケットをかける。
「……それじゃ、お休みなさい」
電気を消して、泥酔状態の森野さんに向かって言う。
返事はない。
短く息をついて、暗い部屋をあとにする。
「おくのー」
呼び止められた。
「……なんですか?」
「俺ってかっこいいべ?」
「サイコーに」
「だーよなー」
「では」
今度こそ本当に森野さんの部屋を出る。
音を立てないようにドアを閉め……、
「……厳しいですよ」
きつかった。
ずっと気付かないふりをしていた場所に、まさかこんな形で向き合わされるとは……ホント、森野さん。
あなたは最高だ。
「……でも」
部屋に戻り、窓の外に目をやる。
うち寄せる波音を聞きながら、
「遅すぎた……気がします」
六日目
空は少し曇っていた。
それでも、戻ってきた夏の暑さに、ビーチは賑わっていた。
今までと何も変わらない。
森野さんは出前に行ってるし、マスターは旧知の水着ちゃんとじゃれあってるし。
誰か仕事してくれ。
「あのー」
「あ、今行きます」
ほんの少し、思いを巡らす時間もない。
新しい客が来て、注文を受けて、商品を渡し、金を受け取る。
その繰り返し。
いつもと何も変わらない。
「……」
ただ一つ、彼女が現れなかったことをのぞいては。
夜が来た。
怠慢な店長と同僚のせいで疲れた身体を横たえ、ぼーっと天井を見つめる。
こうしてこの場所で寝るのも、今日で最後になる。
明日は定時まで働いて……そして、俺がここにいる意味は、無くなる。
「弱音……か。それは難しいですよ、森野さん」
今は夏の間違い制作中の森野さんに語りかける。
あの頃の俺は、自分があのチームの核だと信じていた。
自分が頑張ればまわりもついて来てくれると信じていた。
でも……そうじゃなかったって、言うんですか、森野さん。
悲鳴を上げて泣きつけばよかったって……他のみんなに歩調を合わせればって……、
「……そうかもしれない」
限界がある、それが一人ということだとしたら。
隣に立つべき人は、同じだけの力を持つ誰かじゃなく。
躓いたときに後ろから支えてくれる……そんな誰か。
そんな存在を、彼女が求めていたのだとしたら。
「……だからマスターじゃダメなのか」
マスターはきっと強い。
長く生きてる分、長く生きただけの強さを持ってるだろう。
でもマスターは知っていた。
強さは引っ張ることは出来ても、支えることは出来ない。
彼女のまわりには、引っ張ってくれる人間は、たくさん存在する。
大会社のお偉いさんだという父親だって、娘のためだ、出来ることがあればなんだってするだろう。
いや……きっと、なんだってしてきた。
そして、そんな想いが重荷になった時。
『てめーだったらよー、一番弱音きーて欲しー相手は誰だ?』
「……あー、バカ。俺のバカ」
呟いて体を起こす。
部屋の隅に置いてあるスポーツバックをたぐり寄せ、その一番奥から、茶色い固まりを取り出す。
「これだけは……捨てられなかったんだよな」
野球部を抜けて以来、野球を思い出させるものは全て処分してきた。
ユニフォーム、スパイク、帽子、スコアブック、雑誌、ルールブック、好きな選手のポスター……プロのゲームを観戦したときの半券まで。
全て捨てたけど。
このグローブだけは、捨てられなかった。
それは――、
「……ん?」
部屋の外で音がした。
コンクリートの階段を、誰かが上ってくる足音。
「森野さんか? ……あの人早い方なのか?」
呟きながら立ち上がる。
部屋のドアを開けると、
「あ……」
「ご、ごめん……来ちゃった」
夜なのに、麦わら帽子。
展開が急すぎる……こんなの、頭がついていかない。
状況が理解できない。
慌てて下着を片づけている俺はなんなんだ。
早くしろ。
布団をたたむかどうか悩んでる俺はなんなんだ。
阿呆だ。
目の前に座っているのは……彼女。
決まってるじゃないか。
「あの、ごめん……飲み物とか、何も無くて」
「あ、いっ、いいのっ。こちらこそお構いなくっ」
「……うん」
「えっと……」
「……」
「……」
気まずい沈黙。
その間、約五分。
「……ごめんなさい」
沈黙を破ったのは、彼女の方だった。
彼女は麦わら帽子を胸に抱え、上目遣いでこっちを見ながら、
「あの……昨日は、ごめんなさい」
「……いや」
謝るのは、こっちだ。
「俺こそ。いきなり、叫んだりして……」
「でも……わたし、詳しい事情も知らないくせに、偉そうなこと言って……」
こんな所にいてもいいの?……と、涙目で言って立ち去った彼女。
当然のことながら、昨日森野さんにしたような話を彼女に聞いてもらう時間はなかった。
話すつもりも……本当は、叫ぶつもりも。
無かったに決まってる。
昨日までは。
「聞いてもらっていいですか」
「――えっ?」
「俺の懺悔」
「……」
彼女の目が俺の目を捉える。
口は開かない。
その沈黙を、勝手に肯定と受け取って。
「まずは俺の……自分勝手な俺の、昔の話から」
自分一人でベストを尽くした気になっていた俺の……今度は俺の愚痴を。
聞いて欲しい。
「スポーツ見るのがね、好きだったの」
夜の浜辺を歩きながら、彼女が呟く。
あれから俺達は、部屋を出、波打ち際を並んで歩いていた。
「高校野球とか、特に大好きで……ほら、わたし、去年の秋は、入院してたから……」
「あ、そっか」
「うん。……見てたんだ、テレビ。すごく一生懸命に投げる……奥野君の姿」
東京の大会だから、もちろん東京限定の放送ではあるけど。
それでも……あの日、母親が言っていた。
テレビに出るとは思わなかったと。
「……気になってたんだ。負けてたけど、いい試合だったから、余計に……九回で交代した、一年生エースのこと。ずっと、気になってて」
そう言ってから、彼女は足を止める。
俺の方を振り向き、
「こんなトコで会えるとは思ってなかった」
「実物見て幻滅したでしょ」
「どうかな……どうだと思う?」
「惚れた?」
「残念でしたー」
ふられた。
ちょっと泣きそう。
「でも……うん。会えてよかった」
「そう言ってくれると嬉しい」
「理由、わかったからね。それだけでもよかったよ」
「……」
それだけだったら……俺は、辛いな。
「ありがとう」
「……ん?」
「バイト、明日まででしょ?」
「あぁ」
「だから……最後に」
最後……それは、バイト期間の、最後?
これで、最後?
「今日は……ありがとう、言いたくて」
「別に大したことしてないと思うけど」
「わたしは弱音聞いてくれただけで、嬉しかったから」
「それは俺も同じ。だいぶすっきりした」
「うん……」
うなずいて、彼女はそのまま、うつむく。
もう用は済んだはずなのに……歩き出すことが出来ず。
始まって、終わるだけなんて――これが最後なんて。
「あの埠頭の先端って、入れ食いスポットなの、知ってた?」
「――えっ?」
「マスターからの情報でね」
戸惑った表情で、彼女が顔を上げる。
それからわざと目を逸らし、
「加えて言うならガセネタなんだけどね」
「……ダメじゃん、それ」
「まぁ、そうなんだけど。でもほら、あのマスター、大ざっぱじゃない? だからさ、検証してみようと思って」
「……えっ?」
それは約束と言ってしまうにはあまりにも間接的で。
意志と言ってしまうにはあまりにも脆弱だったけど。
「明日の朝、もう一回チャレンジしようと思ってる。これで釣れなかったら、あのマスター嘘つき決定」
「あの、奥野君――」
「明日の朝……バイトの前だから、せいぜい六時半くらいまでしか時間はないけど」
「……」
「俺はあそこで、釣り竿垂れながらのんびりやってるから」
彼女の顔を見つめ、それから勢いよく頭を下げる。
「えっ……奥野君?」
「……」
バカみたいだ……回りくどくてガキっぽい。
でも……今の俺に出来るのは、支えることじゃなくて。
証明すること。
その道が、まだ残されている。
求めれば奇跡だってつかめると。
証明できたなら――、
「さて」
頭を上げる。
そして、尋ねる。
「釣れるかな?」
「えっ――あ、どうだろ。わたし、釣りってやったことないから……」
「前回の朝飯は磯風味の水草だったんだよね」
「……水草?」
「あぁ……別名、海草」
「それは釣れたことにならないなぁ」
困ったように彼女が笑う。
マスターは物理的な距離は関係ないと言ったけど……その笑顔は、手が届きそうなほど近くて。
耐えるのが、辛くて。
「わたし、そろそろ帰るね」
「うん。送ってこうか?」
「いいよ。……明日、早いんでしょ? 入れ食いの検証」
「あ、確かに」
柔らかい微笑みに、誘われるように苦笑する。
これからもこうして……彼女は笑っていくのだろう。
あの日、瞳の奥に見た羨望や憧憬を抱えながら。
目の前の誰かに、笑顔を与え続けていくのだろう。
俺の知らない場所で。
「あぁ……」
「えっ? どうしたの?」
「いや……なんかちょっと泣きそう」
「えっ?」
「あ、なんでもない」
後ろ髪引かれる思いを断ち切る。
別れ際くらい鮮やかに……こんなことを言ったら、森野さんは怒るだろう。
でも、もう少しだけ、時間を下さい。
甘ったるい夢や理想を、素面で語れるようになるまで。
全てを、思い出に変えて。
「それじゃ、俺はこれで」
「あ……うん。そうだね……」
――その、名残惜しむような呟きも。
「やっぱ送ってく?」
「大丈夫っ」
――強がりみたいな笑顔も。
「道路渡るときは手上げるんだよ?」
「わたしは小学生じゃないっ」
――すぐに本気になる子供っぽさも。
「じゃあね」
「……う、ん」
――微かに滲んだ呟きも。
今は全部、胸に納めて。
もう一度、歩き出す。
……そして、
『さよなら』
重なった別れの言葉は、波音に紛れ、消えていった。
最終日
『やっぱり、好きなんだよね』
『この気持ちだけは、嘘じゃないんだ』
『もう……隠すのも、無理っぽいし』
『だから、今、宣言しておくね』
マスターが目の前に仁王立ちしている。
こんな時だというのに、その厳つい表情は変わらない。
むしろ、断腸の思いで……てな雰囲気を感じる。
だが、いくら経営難だからと言って、それだけは認めない。
「……バイト代だ」
マスターが封筒を取り出した。
取り出すまでに随分と時間がかかった。
目の錯覚でなければ、その腕は震えている。
ふざけるのもその辺にしなさい。
「ほら、感謝し――」
「ありがとうございます」
「あぁん……」
あっさり受け取ったら、面白い声が返ってきた。
しまった……録音しておくんだった。
「……じゃあ、一号も」
言って、マスターが森野さんにも、同じ封筒を差し出す。
「お世話になりました」
森野さんは恭しく頭を下げて、それを受け取った。
大人だ。
「……じゃあな、一号。二号」
「マスター。それ、毎年言ってるんじゃないですか?」
「う、うるせぇなっ」
森野さんの茶々に、マスターが本気になって応える。
それから不意に背を向け、
「……さっさと行け。電車、無くなるぞ」
そう言って、店の中に消えた。
「あぁ……なるほど」
マスターが名前を覚えない、その理由。
それは――、
「行こうぜ、奥野」
「……そうですね」
森野さんに促され、歩き出す。
一度だけ、後ろを振り返って。
「――っ!?」
こっちをのぞいていたマスターが、慌てて物陰に隠れた。
「可愛いじゃん、あのマスター」
「五十代なのに」
「そうだなぁ。二十歳の女だったらなぁ」
「まだ言うか」
「なぁ、奥野。一週間で四パクは記録だと思わねぇ?」
「パクとか言うな」
そんなことを言いながら、ビーチをあとにする。
一夏の……思い出と共に。
『えっ――い、いきなりっ!?』
『そ、そんなコト言われてもっ……』
『ダメだよ……だってわたし達』
『ちょ、ちょっと待って――』
「奥野、お前、どっち方面?」
「港区ですけど」
「ブルジョワジーめっ! 人類の敵めっ!」
「いっ、痛いですって!」
海水浴客も姿を消した、閑散としたホームで。
過ぎる時間を惜しむように言葉を交わす。
顔を合わせることは……たぶん、最後だから。
奇跡と、偶然と、まぐれと、出会い頭が揃わなければ、たぶん無理だから。
それでも、その可能性はゼロではないわけで。
「はぁ……ったくさぁ、お前、もっとなんとかならなかったわけ?」
「……なんのことですか?」
「かーのーじょ」
「あぁ……」
苦笑する。
この人は女ばっかりだ。
「まぁ、俺は俺のペースで行きます」
「はぁ? てめぇ、その曖昧な言い方はなんだ? 俺が理系だからってバカにしてんのか?」
「いつの間に転部したんだあんたは」
ため息と共に、風が揺れる。
線路の遥か遠くに、ここに来るときに一度だけ乗った車体が見え始める。
「あ〜ぁ。これで終わりかぁ」
森野さんが大袈裟に呟く。
「どうしたんですか?」
「俺、また明日から学校だよ。めんどいなぁ」
「……なんですって? じゃあ今までは?」
「サボりだよ、サボり。明日から大変だぜ? どうしてくれんだよ」
知るか。
「あ〜ぁ……終わり、なんだよなぁ」
「……そんなに学校がイヤですか」
「そうじゃなくてよ」
「はい?」
「苦手だな……こーゆー空気」
「……」
その、ふと漏らした一言の言葉に、一週間という時間の長さと短さを感じ。
そして、
「女と別れるときは楽なのになぁ」
「……」
やっぱり森野さんは森野さんだった。
『始めるよ、野球』
『でも……今度はゼロから、始めたいんだよね』
『だから、これ。……預かってくれない?』
『ドラフトか……大学野球で名前売って、戻ってくるから』
乗り換えの駅で、降りる必要のない森野さんまで、わざわざ電車を降りる。
特に話すこともなく、通り過ぎる人並みを眺めながら。
「……お前、ケータイ持ってるよな?」
「あ、はい……持ってますけど」
「番号……」
そこで森野さんは、一度、言葉を句切って。
十秒ほど、考えて。
「……やっぱやめとくか」
そう、言った。
「なんかさ、こんなことしたら……重みが消えそうじゃん?」
戯けるように言ったその言葉には、それなりの重さがあって。
「それに……またすぐに、会えそうな気がすんだよな」
リアリストだと思っていた森野さんの意外な一面に驚き。
「……ま、無理だとは思うけどさ」
言葉とは裏腹な笑顔に誘われて。
「会えるんじゃないですか……そのうち」
そう、呟く。
そこには希望と……やっぱり希望を、込めて。
「……」
森野さんが、俺の顔を見つめる。
長い間見つめて……、
「お前が女だったらなぁ〜」
「やっぱりそれですか」
その言葉に安心した。
「よし、帰るか」
強い調子で、森野さんが言う。
こんなことじゃ、マスターをバカに出来ない。
森野さんも……俺も。
「またな」
「そうですね……また、機会があったら」
「んじゃ」
軽く手をあげて、森野さんは停車中の電車に――、
「こらそこっ!」
駆け込み乗車して怒られていた。
「……さて」
発車の騒音で苦笑を誤魔化して。
家に向かって歩き出す。
久しぶりの我が家。
「……あぁ、そうだ。その前に――」
『あ、や、野球!? ……なんだ、野球かぁ』
『えっ? ……どういう意味?』
『――こ、これっ。グローブじゃないっ』
『あっ――じゃ、じゃあわたしもっ。これっ』
「ん? あれ? 秀哉か?」
「おっちゃん、久しぶり。グローブ売ってくれ」
「野球はやめたんじゃなかったのか?」
「ちょっとね……人生の転機が訪れて」
「ふられたか?」
「うるさい」
その日、バイト代のほとんどをつぎ込んで、無くしてしまった野球道具を揃えた。
こうやって少しずつ、失った時間を埋めて。
「んで、どうする? 今さら野球部には戻れねぇだろ?」
「土下座でもするよ」
「ほぅ……これはこれは」
「……なに?」
「えらい大失恋だなぁ」
「だからうるせぇ」
「わっはっは! なんだ? プロポーズでもしてきたのか?」
「いや……」
それは……まだもう少しだけ、先の話だ。
『麦わら帽子……いいの?』
『う、うんっ。わ、わたしもそれ無くても平気になるように頑張るからっ』
『おー、偉い』
『だからっ! 嘘ついたら怒るからねっ!』
『任せて。……で、さぁ』
『あ……なぁに?』
『その、戻ってきたときの話なんだけど……』
『……えっ?』
『水着着てくれる?』
『ばかぁっ!』
一つの夏が、終わった。
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2004/07/02(Fri)23:42:32 公開 / ドンベ
■この作品の著作権はドンベさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
久しぶりに投稿してみます。
軽いノリの恋愛ものですが……やたらと長くなってしまいました。読むのが疲れるかもしれません。読んでくれた人、本当にありがとうございます。
HPで公開することを前提に書いたので、句点やセリフ(「〜〜」←これ)の後は、基本的に改行しています。読みにくいと思われる人がいるかもしれませんが、その点は了承していただきたいです。
感想や批評、甘口辛口厳しいもの、なんでもかまいません。一言いただけると嬉しいです。よろしくお願いします。