- 『紅夜 一日目上〜四日目下』 作者:junkie / 未分類 未分類
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全角40383.5文字
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[紅夜 1日目 上]
___朝
その日の朝、俺はいつものように家を出た。
通学路の見慣れた町並みをノロノロと歩いていく。
俺の住んでる町は結構田舎で、通っている高校の回りにはこれといってめぼしい建物が無い。だから学校から結構離れていても、学校の様子が嫌というほど見える。
だから俺はその日も、学校の異常にすぐに気がついた。
いつもならたいして人がいるはずのない校門に、その日に限っては人だかりが出来ていて、その上パトカーの姿までがあった。
俺はその様子を見た瞬間走り出した。
その人だかりの原因に心当たりがあった。その予想が合たっているかもしれないという不安に俺は駆られて、夢中で校門まで走った。
「頼む。黒瀬じゃないでくれ!」
口に出してそう願ったのか、心の中でそう願ったのか……今ではもう覚えてはいない。
もうこの記憶自体がどこかぼんやりとしている。
それでも絶対に変わることの無い事実。
それは…
___それは俺が彼女を見殺しにしたということ
ゆっくりと眼をあけるとそこにはいつも通りの自分の部屋の天井があった。
時計を見ると時間は朝の6時30分。目覚まし時計が鳴るよりも早く起きたのは何日ぶりだろう。俺の中では驚異的とも思える起床時間だ。
俺は布団から起きると、目をこすりながらボーっとさっきまで見ていた夢の内容を思い出した。
「あれからもう一年か」
その夢は、一年前のある事件の日から俺が毎日見続けている夢。その夢のおかげで、俺は良くも悪くもあの日のことをこの一年間、一日たりとも忘れたことは無い。
「……まぁ、もうアイツを忘れるのは一生無理だろうな」
そんな独り言を呟きながら、俺は着ていた服を脱いでハンガーにかけてある制服に着替える。
ふと自分の胸を見た。
そこにはあの夢と同じように、この一年間肌身離さずつけているネックレスがある。銀の鎖に羽ばたく鳥のレリーフ。女物のそれは、男の俺がつけると酷く不恰好に見える。
それでも俺がこれをつけている理由、それはこれが唯一の彼女の形見だからだ。
グッとネックレスを握る。
彼女というのは、黒瀬綾香という俺と同じ高校に通っていた女子のことだ。無口で色が白くて髪が長かったことから、クラスの奴に”貞子”なんて呼ばれて不気味がられていた。
でも俺はそんな彼女を好きになった。理由は分からない。ただ好きだった。俺と黒瀬はある日をきっかけにだんだんと仲良くなって、短い間だったが付き合いもした。
彼女にはある力があった。
それは人の憎悪や殺意などの悪い感情を読み取る力。それは普段決して垣間見ることの出来ない、人の感情の負の面ばかりを見てしまう物。彼女は言っていた。人のそういう心を感じてしまうのは辛い、と。
その力のせいだろう。彼女は人に近寄れなくなり、いつからか無口で暗い性格になってしまった。
そして一年前、彼女はとうとう……
「……てやっ!」
沈んでいく感情を誤魔化すために、俺はバシと顔面に一発平手打ちをした。何をしたって現実は変わらない。それならせめて表向きは明るく生活をしたい。俺は何か決心のようなものをしながら制服を羽織った。
制服に着替え終わって自分の部屋を出る時に、壁にかけてある鏡を見たら左の頬が赤くはれていた。どうも強く叩きすぎてしまったようだ。
「あんた、今日は早いわね。調子でも悪いの?」
食卓に入るなり、母さんがわざとらしい程に驚いたという表情をしながら言った。まぁ普段より1時間も早く起きてきたんだから、驚くのも無理は無い。それでも、「調子でも悪いの?」というのは何か引っかかる。
「そんなに驚くこと無いでしょ。俺だってたまには早起き位するさ」
と言っても、確かに今までの自分の高校生活の中でこの時間に起きたのは両手で数えられるほどしかないが。
「ふーん。ま、早起きするのはいい事だから問題ないけど、まだ朝ごはんできてないからちょっとまっててよ。」
そう言うと母さんは台所に戻っていった。
俺はそれを聞くと、返事もせず台所を出てぶらぶらと居間に行った。適当に部屋の中央にあるソファーに座り、TVのスイッチを入れる。
ブラウン管の中では、中年男性のニュースキャスターが淡々と朝のニュースを紹介していた。
「…それでは次のニュースに参りたいと思います。昨日午後4時ごろ○○市のゴミ処理場で男性の遺体が発見されました。遺体には特に外傷はなく、死因は原因不明ということですが、このような事件が同市ではすでに40件近く起こっており、また遺体のどれもが人目を避けるかたちで放置されていることから、警察では同一人物の毒物による凶悪な連続殺人事件ではないかとして真相を追究しているとのことです。」
俺はこのニュースを聞いて唖然とした。
40件近く? つまり40人もの人が同じ市内で原因不明の死を遂げたってことか? 不気味な事件だ。
しかし、それ以上に俺を唖然とさせた理由は別のところにある。それは○○市というのが俺の住んでいるこの町であるということだ。
思い出してみれば、確かにどこかの噂でそういうことを聞いた気もする。
「怖いわねぇ。」
いつからそこにいたのか、後ろに立っていた母親が突然しゃべった。
「うわっ。ちょっと、いきなり声を出さないでよ」
「あぁ。ごめんごめん。なんだかニュースに見入っちゃって。……それよりご飯できたわよ」
「あ、本当? わかった。今行く」
今日は早起きしたせいか、いつもより腹が減っている。俺は急ぎ足で食卓へ向う。
TVからレポーターが事件現場で何やらしゃべっている。その画面は見覚えのある町並みを写していた。
___ところで、自己紹介をするのを忘れていた。
俺の名前は水島涼士。今は高校3年で、推薦入試でもう大学も決まった。残るはもう2ヶ月後の卒業を待つばかり。学校は結構前から自由登校になっているんだけど、家にいても特にやることがないのでとりあえず学校には毎日行っている。
(って。俺は一体誰に話してるんだ?)
自分でもよく分からなかった。
朝食を食べ終わり、適当に時間を潰していたら、気がつけば時計の針は7時50分を指していた。学校へは歩きで30分。俺は自転車で通学してるからその半分もあれば充分間に合う。そう考えるとこの時間は余裕がありすぎだ。かと言ってこのまま家で時間を潰しているのもつまらない。
「途中でコンビニでもよるかね」
俺は誰に言うわけでもなく呟くと、居間のテーブルの上に置いてあったカバンを持って玄関に行き、そして靴を履いた。
「それじゃあ、行ってくるよ。」
ドアノブに手をかけながらそう言うと、台所の方から母親の「いってらっしゃい」という声が帰ってきた。
外は物凄く寒い。冬真っ只中という雰囲気を嫌というほどかもし出している。俺は夏はそんなに好きではないが、冬の比ではない。俺は寒いというのはそれだけで犯罪だと思うほど嫌いなのだ。
「あーいやだいやだ。早く春になれよまったく」
小声でそう呟きながら、自転車のサドルをまたぐ。
町の景色は冬というのもあってとても寂しい。葉が枯れ落ちた並木道の中を自転車で走り抜けてゆく。この辺は町の中でも特に人気の無い場所で、今朝も人っ子一人見当たらない。それがまた風景の寂しさに拍車をかけていた。
その寂しさを我慢しながら5分ほど自転車を走らせる。そして、もう並木道も終わろうかという時の事だ。俺は突然吐き気に襲われた。それがあまりに酷いものだったので急いで自転車を止めて休憩してみたものの、吐き気は一向におさまる気配はない。
「う。何だ……一体?」
俺はなぜ今自分が吐き気を催しているのかわからなかった。しかし自転車から降りて気分を落ち着かせているうちに何となくその原因が分かってきた。
原因が分かったというか、何か物凄く嫌な気配を感じるのだ。まるで生物の本能が何か危ないものを察知し、そしてそれを激しく拒否しているかのような感覚だ。
その気配は並木道から横に伸びる細い道の向こうから感じる。その向こうにあるのは確か公園。俺は急いで自転車にまたがり、その公園に向ってペダルをこいだ。
自分に害を与えるものに自ら近づいて行く。自分でも何でそんな愚かなことをするのか分からない。……おそらくはやってはいけないと言われると、ついやりたくなってしまうという裏返しの感情という奴のせいだろう。というか単純に怖い物見たさかもしれない。
横道に入ってすぐに公園の向こうから人が歩いてくるのが見えた。それは全身を真っ黒な洋服でまとった女性だった。コートにスカートそして靴、髪の毛まで漆黒の長髪ときている。気配はその女性からのものだった。
その女性に近づけば近づくほど吐き気と頭痛は酷くなる。
___その正体は紛れも無い「殺意」
その黒い女性は今まで俺が感じたことの無い程の殺意を発している。それが誰に対するものであるかは分からない。少なくとも自分に向けられたものではないとは分かるのだが、それでも俺はその殺意を怖れずにはいられなかった。……全身がビリビリと震える。
すれ違う瞬間、俺は恐る恐る彼女の顔を見た。
その顔は、彼女が漂わせている禍々しい殺意とは裏腹に白くて美しいものだった。が、そんな事が気にならない程彼女のある部分が目立っていた。
それは”眼”。
彼女の眼はまるで鮮血のように真っ赤な色をしている。それは冗談でもなんでもない。ただ単純に紅かった。
そしてその眼を見た瞬間、俺は何か頭の中を探られるような感覚に襲われた。まるで自分の思考の全てを見透かされるような感覚。
その、まるで獲物を追う獣の様な眼に、俺は恐怖とは全く別な感情を覚えていた。
理由はわからない。いや本当は分かっているのかもしれない。しかし、俺はそれを認めてはいけない気がした。
気がつけば。
俺は逃げるように自転車をこいでいた。
時間は8時。
あまりに気が動転していたせいか、俺はコンビニによることもせずそのまま学校に来てしまった。
(この時間は早すぎだよな)
俺がこの時間にここにいるのはとびきり異常な事だ。それでも来てしまったものはしょうがない。俺は諦めて教室に入ることにした。
下駄箱で、さっきの女のことを思い出す。
今までの人生で感じたことのないほどの頭痛と吐き気を起こさせる殺気を放つ女。しかし、それでも俺に”アレ”が無ければその殺気に気がつくことはなかっただろう。
そう、俺が黒瀬の形見であるこのネックレスさえしていなければ……
黒瀬には人の負の感情を感じる力があった。だからその黒瀬の形見であるこのネックレスには彼女の”呪い”がかかっているのだろう。俺もまた、このネックレスをつけている間は、彼女と同じように人の憎悪や悲しみといった負の感情を感じてしまう。それは物凄く辛い事だけど、俺は黒瀬への償いのつもりで今の今まで常に肌身離さずつけてきた。おかげでこの一年間見たくもないのに人の憎悪を嫌と言うほど見てきた。
だからこそ分かる。
さっきの女の殺意は尋常なものではないということを。
(だからなんだって言うんだ)
少なくともあの黒女の殺意は俺に対するものではなかった。それなら俺には関係のないことじゃないか。触らぬ神にたたりなしって奴だ。
(あんな女のことはとっとと忘れなきゃ)
階段を上がって行く。俺のクラスは4階。おかげで今まで遅刻ギリギリに登校してくるときは痛い目に合わされてきた。そんな階段を上るのもあと2ヶ月。そう考えると寂しさがこみ上げてくる。
階段を上り終え、廊下を歩いて、見慣れた教室の前に立つ。
(どうせ誰もいないんだろうな)
そう考えながら教室のドアを開いた。
やはり誰もいないよう……だっと。予想に反してクラスの端の方の席に一人、男子がポツンと座っていた。
彼の名前は上山友彦。
明るい、というより能天気な奴らばかりの俺のクラスの中でただ一人だけ物静かで控えめな性格の生徒。そのせいで上山はクラスの典型的なイジメられっこだった。
俺はイジメに参加こそしなかったものの、そのイジメを止めさせることも出来ずにただ見ているだけだった。
それでか、俺は上山に少なからず罪悪感を持っている。
「よっ。早いじゃないか上山。いつもこんなに早く来てるの?」
ありきたりな挨拶を投げかける。
「あ、うん。……まぁね。」
「へぇ。偉いな上山は。」
そういうと上山は、「いやぁ」なんて、照れたような仕草をした。
「そういえば上山も大学自己推薦だったよね?どうだった?」
俺は彼のことをあまり知らない。よって自然と彼との会話の題材は種類が限られてくる。
「うん。一応受かった……」
そういうと今度はよりいっそう照れたという仕草をした。
「お。やったじゃん! おめでとう!」
俺は上山の肩をバシバシと叩きながら、大きな声で言った。
「うん。ありがとう」
そう言うと上山はニコリと微笑んだ。その姿は、今まで彼にもっていた暗いというイメージを微塵も感じさせない明るいものだ。
(なんだ。暗い奴だと思ってたけど、全然そんなことないじゃん)
その後も上山と色々な話をしていたら、あっという間に授業の時間になった。
先生が教室に入ってきたので、俺も自分の席に戻る。担任は定年間近といった感じの男の教師だ。朝の20分ほどの時間を使って、なんだか熱心に「今が最後の追い込みだ」とか何とかと力説していた。生意気ながらも、すでに大学の決まっている俺にとっては関係ない話である。だから、俺は無視してただずっとボーっとしていた。
やがて一時間目の授業が始まった。科目は数学V。俺は一応理系だから授業は大学のためにも聞いておくべきなのかもしれないのだが、なにぶんやる気が出ない。そもそも暇つぶしに学校に来るなんてのが間違っているのだろうけど、実際暇つぶしで来てるのだからしょうがない。
(早く授業終わんないかな)
そんなことを考えながら窓の外を眺める。ただボーっとしているというのは予想以上に退屈なものだ。本当に俺は何をしに来てるんだろう。
そんな自問をしているうちに、気がつけば俺はウトウトと寝てしまいそうになっていた…
[紅夜 1日目 下]
___それはある夜の思い出
窓の外には明るい満月。
……これは黒瀬綾香が彼女の一番大切な物だと言うネックレスを俺に手渡した時の記憶。
銀色の鎖に鳥のレリーフをつけたそれは、あまりそういうものに興味の無い俺にも純粋に美しいと思えるものだった。
「これ、私のお母さんの形見。私の一番の宝物。あなたに貰って欲しいの」
そう言って彼女は俺にそのネックレスを差し出した。
彼女の眼はどこか寂しげで、鬼気迫るものがある。
俺はそんな大事なものはもらえないと、返そうとした。
しかし彼女はネックレスを手渡してすぐにどこかへ走り去ってしまった。
あっけにとられていた俺は追うことが出来なかった。
それ以来彼女は帰ってこない。
黒瀬のお母さんの形見は、その時から俺の黒瀬の形見になった。
なぜ俺は彼女のメッセージに気がつけなかったのだろう。
___彼女の一番大事なものを俺に渡したっていうことは、つまりそういうことじゃないか
「……んっ」
机の上でうつ伏せにしていた上半身を起こす。
気がつけばどうやら俺は居眠りをしていたらしい。教室ではまだ授業の真っ最中のようだった。が、しかし様子が変だ。先生が教卓にいない上に、なぜかクラスの奴らが俺を見ている。
(え? 何一体?)
「お目覚めかね、水島君?」
「うわああああああああ!!」
突然の声にびっくりして俺は飛び上がった。後ろを振り向くとそこには数学の山田が立っている。クラスの奴らがゲラゲラと笑い出した。
「ちょっと、お前大学決まったからって調子に乗ってるんじゃないの? 俺の授業で寝るなんていい根性してるじゃない。なんだったら永遠に寝かせてあげてもいいんだよ?」
山田はにこにこしながら恐ろしげな事を言ってる。その笑顔が余計に恐ろしい。その様子を見て回りの奴らが一層ゲラゲラ笑う。
(……ちくしょう。なんという屈辱。この恨み忘れまいぞ山田)
悪いのは俺なのに、なぜか腑に落ちない俺は半ば逆ギレ的な怒りを山田に対して密かに燃やした。
その授業は何とかそれだけで終わってくれた。休み時間に友達の小橋が俺の席に来て「お目覚めかね、水島君?」なんてイヤミを言ってきたこと以外は。
その後の授業も俺は上の空だった。窓の外を眺めたり、ノートに落書きしたり、寝たり。実に非有意義な時間の過ごしかただ。
そうしているうちに昼になったので、俺は小橋と購買にパンを買いにいった。狭い購買には嫌気がさすような人ごみが出来ていた。
その中を強引に押し進みながら、俺は弁当の中で一番安い焼肉弁当を買い、小橋と教室に戻る。すると上山が一人で弁当を食べているのが目に付いた。俺は何となく上山を誘って一緒に弁当を食べる事にした。
弁当を食べながら適当な雑談をする。上山は朝以上に活発に自分の趣味は読書だとか、好きなTV番組は何だとか、とりとめも無く色々な話をしてきた。ノリがいい性格の小橋はその話を聞くと、色々なジョークを返して俺と上山の笑いを取って行く。
その上山の笑顔は本当に楽しそうな物だった。
***
気がつけばあっと言う間に放課後になっていた。
俺が帰る仕度をしていると、廊下から小橋が「早く帰ろうぜ」と声をかけてくる。
俺はコイツと性格があまり似てないと思うのだが、なぜだか昔から気が合う。だから何だかんだ言って俺と小橋はいつも一緒に行動していた。
「今行くって」
そう返事をして俺は廊下に向って歩き出した。
「なぁ水島。俺が大学受かったらどっか遊びに行こうぜ。」
「どっかって、例えば?」
「うーん。伊豆とか」
「なんで伊豆なの? 男2人で温泉旅行でもしようってか。嫌な話だな。それにそもそもお前大学受かるのかい? 浪人ってオチかもよ?」
「テメェ。自分は大学受かってるからって!」
俺は小橋の言葉を笑い飛ばす。それを顔を真っ赤にして怒る小橋。
実にくだらない会話だけど、俺はそんな事が最高に楽しかった。
その最中。下駄箱で靴を履き替えていた俺は、校門の端の方に上山を見つけた。3人くらいの生徒と一緒だ。どうも、そいつらに絡まれているらしい。その3人の顔は知っている。みんな同じクラスの奴だ。不良というわけではないが、中途半端に悪ぶって集団で自分たちより弱い奴にちょっかいを出して楽しんでいる奴らだ。俺は前々からあいつらのことが気に食わなかった。
あいつらは別に強いわけじゃない。ただそれは俺も同じ事で、喧嘩の強さは似たようなものだ。しかし今は運のいいことに小橋がいる。率直に言って小橋は強い。その上正義感も強く、最近じゃそうそうみかけないタイプの人間だ。
「水島」
小橋も上山に気がついたのか、俺に声をかけると上山が絡まれてる方向を目で合図した。
「ん。OK」
そう言って俺と小橋は上山の方向に近づいた。上山と3人組の間に割って入る。
「お前ら上山に何やってるんだよ?」
小橋がそう言うと、3人組はギョッとした顔をして、なんだかよくわからない事をモゴモゴと言った。しかし、、小橋が無言の圧力で睨みつけているうちに「チッ」とか何とか舌打ちをして、おずおずと帰って行った。
「平気か上山?」
俺は上山に声をかけた。見ると、上山は俯きながらブルブルと震えていた。
___俺は最初それは恐怖で震えているのだと思った。しかし上山が顔を上げた瞬間、俺は上山から恐ろしく冷たい感情を感じた。
……それはまるで、今朝のあの紅い眼の女のような。
上山はその冷たい感情を抑えるので震えているようだった。
でもすぐに上山は微笑んで、いつもの顔に戻った。
小橋を見ると、なぜかアイツは怖い顔で上山を見ていた。何かに戸惑っているかのような表情。俺にはその顔の理由が分からない。
「水島君、小橋君。助けてくれてどうもありがとう」
その上山の声を聞くや否や、小橋もまたいつもの顔に戻った。
そして少し間を置いた後小橋は口を開いた。
「おうよ、今度から困った時は俺たちに言えよ。いつでも追っ払ってやるからさ、あんな奴ら。な? 水島」
威勢のいい小橋の声。
「ん? あ、あぁ。そうだよ上山。困ったときはいつでも相談してくれ」
さっきの上山の冷たい感覚に気をとられ俺は少し返事をするタイミングが遅れた。しかし今の上山は普通だ。どうも今のは俺の勘違いだったらしい。
俺と小橋のセリフを聞くと上山はまた「ありがとう」と頭を下げた。
3人で帰る途中、小橋はあんな奴らは一人じゃ何も出来ないとか、上山だって根性を出せば倒せるとか、色々しゃべっていた。
「じゃあ、俺たちの帰る方向あっちだから。車に気をつけてな、上山」
小橋がガハハと笑いながらいまいち訳のわからない事を言う。
「車に気をつけろって、高校生に言う言葉か?」
まぁこの訳のわからなさが、小橋の小橋たる由縁なのだが。
上山はそれを聞いて、アハハと笑いながら「うん! 気をつける」なんて返事をした。上山は最後に手を振って別れた。
それを見送る小橋の顔は、なぜか少し悲しげだった。
小橋の家は俺の家に帰る途中にある。だから嫌でもこいつの家の前は通るし、コイツの家にはしょっ中お邪魔している。というかもう第ニの我が家といった感じだ。
「水島、上がってけよ。俺の受験勉強に付き合ってくれるよな?」
いつもの事なので、俺は軽く「いいよ」と返事をして、小橋の家に上がった。”勉強に付き合う”というのは別に本当に俺がコイツに勉強を教えたりするわけではない。小橋は割りと頭がいいし、そもそも文系だから俺が教えるようなことはない。俺はただ隣に座ってマンガとか雑誌を読んだりするだけだ。俺に言わせりゃ隣でマンガなんか読まれたら勉強をする気なんて起きないと思うのだが、小橋いわく「水島がいたほうが集中力が出る」らしい。
コイツの物の考え方は今でも理解に苦しむ。しかし、先に言った通り、これが小橋達也という男なのだ。
マンガを読んで時間を潰す。小橋はあーとかうーとか喘ぎながら勉強している。そんな時間が続いた。ふと時計を見るともう7時30分になっている。
「小橋、俺もうそろそろ帰るわ」
「え? もう帰るの? もう少しいいじゃんよ」
「そう言ってもなぁ」
「そんならウチで夕飯食ってけよ。いま母ちゃんに言って来るからさあ」
「え、いや。って、待てよおい!」
俺の制止も聞かず、小橋は本当に俺がここで夕飯を食べるとおばさんに伝えに行ってしまった。
こうなるともうどうしようもない。おばさんは一度夕飯を食べていけと言い出すと俺がいくら悪いからと断っても、食べていくと言うまで勧誘するのだ。
「今日はここで食べる以外に道はなさそうだな」
俺は結局無駄な抵抗はしないで素直に食べさせてもらう事にした。
***
……そんなこんなで夕飯を食べて、小橋と小橋のおばさんと話していたら、あっという間に夜の9時になった。一応家には連絡をしておいたが、流石にそろそろ帰らなくてはならない。
「じゃあ、俺帰りますんで」
「あら、もう? 何なら泊まっていってよ。水島君がいてくれた方が達也が勉強するから助かるし」
「いや、親がうるさいもんですから」
「う〜。それなら仕方ないわね。……しょうがない、じゃあ水島君また来てね」
「はい。夕飯ご馳走様でした。」
「あ、そうだ水島君」
「なんですか?」
「ここのところ物騒な事件が起きてるみたいだから気をつけてね。なんだったら車で送っていくわよ?」
「いや、もう俺も18ですから心配無用ですよ。それに自転車を置いたままだと、また取りに来るのも面倒ですし。」
「そう? それならいいんだけど……本当に気をつけてね。”物騒なところ”には近づいちゃだめよ。」
「はい。わかりました」
そう挨拶して俺は小橋家を後にした。
……外は夜の9時なので当然暗い。その上この辺りは街灯も人も少ないときている。さらに今夜は月明かりも無く、それこそ真っ暗に近い状態だ。この雰囲気はあまりに寂しすぎる。
「とっとと帰ろ」
何度も言うのだが、この町ではまだ夜の9時だというのに、誰一人としてすれ違う事も無い。物音一つしないこの空間は、まるで別の世界にいるような錯覚を与えてくる。
それから自転車で10分ほど走っただろうか。今朝、紅い眼の女とすれ違った並木道の横道の側まで来た。全身黒い服で、眼が紅くて、殺気を放つ。そのどれもが不気味と言える要素だ。今朝と違って道は真っ暗闇の上、何も音がしない。
(もしこの状態であの女が現れたら…)
そう考えて俺は顔を青くした。
そんな時だった。横道の奥の公園の方から何か物音が聞こえた。普段ならこの時間には絶対に人がいることは無いはずだ。しかし確かに俺は誰かの話すような声を聞いたのだ。だが問題は、普段誰もいないはずの公園から人の声が聞こえたということではない。それなら、俺だって適当に不良でもたまってるのかな、と見当をつけて深くは気にしないだろう。
問題はそこが今朝あの女をみた場所であることと、ご丁寧にその話声の方向から”あの殺気”を感じる事だ。吐き気を催す頭痛。それは今朝の女のものと全く同じだ。
(おいおい冗談だろ? 何を考えてるんだよ俺は)
今ここで公園に向えばタダではすまない事はもはや俺の本能が察している。行けば確実にやばい。しかし……それでも俺は自分の見に行きたいという欲求を抑え切れなかった。
(ちょこっと覗くだけなら…)
俺は自転車から降りて、ゆっくりと、できるだけ物音を立てないように公園の入り口へと向った。
公園の周りは木で囲まれていて、俺は相手に見られないようにその陰に隠れてこっそりと公園の中を見渡した。ブランコなどの遊具のある場所には誰もいない。そこで野球をする広場を見た。その広場の中央には、2人の人影がある。
(やっぱり)
2つの人影の内、一人は予想通りあの紅い眼の女だった。彼女の黒い服は完全に夜の闇に溶け込んでいて、”殺気”を感じなければ見つけるのさえ難しい。彼女は片手に何か黒い棒のようなものを持っている。それは今朝は持っていなかった物だ。
次にもう片方の影を見る。暗くてよく見えないが、雰囲気や、その長身とガッチリした体格から男であるのは間違いない。
すると。
「女。さっさと刺青師の居場所を教えたらどうだ? そうすれば貴様の命は助けよう。もとより人の命などに興味は無いからな」
男の声だ。何やら刺青師という奴の居場所を聞いてるらしい。
しかし女は答えない。
「くくくくく。答えないか……それは”刺青”と”紅眼”からの自信か?」
女はまだ何もしゃべらない。男は続ける。
「ふん。よいだろう。それなら貴様を餌に奴をおびき出すまでの話だ」
そう言いながら男は女に向けて片手を前に突き出した。と、男の手のひらの中で何かが渦巻いたと思った瞬間、そこから女に向ってまっすぐに伸びる棒のようなものが飛び出した。
(刺さる!)
その棒の伸びる速さは眼で追うことが出来ないほど速い。女が避けられ無いのは確実だった。
ガキィィィィン!!
夜の公園に響き渡る金属音。
何が起こったのかあまりの速さで分からない。ただ、男の手から伸びた棒のようなものは真っ二つになっていた。どうやらあの女が棒の伸びる速さよりも素早くそれを切ったらしい。
その動きの速さは、彼女の異常なまでの運動能力のおかげであることは言うまでもないが、それだけではない。その”切る”動作には、その目的を達成する以外の無駄な動きは一切省かれていた。まるで獲物に襲い掛かる獣のような姿だ。
……よく見ると、赤い眼の女が持っていた棒のようなものが2本になっている。
俺が棒だと思っていた物。それは刀だった。刃まで真っ黒な日本刀。その刀は月明かりさえないこの闇夜の中でなおも回りの光を吸い込み、その刃から闇を放っているようにさえ見えた。さっきは刀を鞘に入れていたのだろう。今は右手に刀、左手に鞘を持っている。
……男の放った棒のような物体は真っ二つに切られた瞬間、まるで蒸発するかのように消えた。その光景はあまりに現実離れをしている。
男が「フン」と鼻を鳴らす。
「今夜はまだ全力を出すわけには行かない。まだ”仲間”も本調子ではないからな。刺青師を捕まえるのはそれからでも遅くは無いだろう」
男は闘うのをやめ、引こうとしているようだった。
しかし女は違う。女の殺気はどんどん膨れ上がっているようで、それに伴って俺の頭痛も激しさを増した。
(ぐ……こんなところにずっといたら頭がどうにかしちまう)
俺はこの場を去ろうと、公園に背を向けた。
その瞬間、公園の方から”俺に向って”男の声が聞こえた。
「貴様。一部始終覗いて、生きて帰るつもりか?」
俺はとっさに後ろを振り返った。
みれば公園の中央で男が俺に向って右手を伸ばしながら笑っている。
気がついた時には、
俺の胸は男の腕から放たれた棒のような刃で、
貫かれていた……
……
[紅夜 2日目]
黒瀬がくれたネックレスをして、2日後くらいだったかな? 俺が始めて人の負の感情を直に感じたのは。その人は別に何の変哲も無いサラリーマンみたいなおじさんだったんだ。でも俺はその人とすれ違う瞬間に、その人から物凄い怒りを感じた。
その人の負の感情は黒瀬のネックレスを通して、俺の頭に伝わってきた。まるで脳みそに包丁を突き刺したように。その人の怒りが誰に対するものとかは分からなかったけど、見た目には特に怒ってる風でもなかったし、本当に普通のおじさんだった。そんな人が心の中であんな恐ろしい感情を抱いているなんて……
俺はそれに驚いたと言うより愕然としてしまった。
それからというもの、俺は毎日のように他人の負の感情を感じてきた。
教室でクラスの奴と何となく話している時。道を歩いていてたまたま人とすれ違う瞬間。家に帰れば親からだっって。怒り、悲しみ、絶望、嫉妬、憎悪に殺意。本来なら見てはいけない人々の感情が、ことあるごとに俺の心を貫いた。
黒瀬は言った。
「私は人の憎悪や悪意を見る力がある。私はそれを感じるのが辛い」
それがこれ程だなんて、俺は実際に体験するまでその辛さを理解してやることが出来なかった。
だから俺は後悔しているんだ。
彼女をこの苦しみから救えなかったことを。
黒瀬を見殺しにしてしまったことを。
___黒瀬。どうか俺を許してくれ……
(ふぅ……結局今日もアイツの夢だったな)
眼を閉じたまま俺は心の中でそう言った。毎日見る夢とはいえ、黒瀬のことを思い出すとやはり心が痛む。
それでも俺はいつものようゆっくりと眼を開いた。そこにはいつものように俺の部屋の天井が……
……あれ?
俺がその状況を認識するまで5秒くらいの時間を要した。
「うわああああああああああ!! だ、誰ですか、あんたは!!!」
俺が眼を覚ました瞬間、俺の目の前にあったのはいつもの天井ではなく、見たこともない30歳くらいの男の顔だった。その男は顔立ちは結構若いんだけど、真っ白な髪の毛がその人の顔を老けて見せている。格好はというと、まるで江戸時代の人間のような和服を着ていて、酷く時代錯誤な雰囲気を醸し出している。 よく見てみれば、俺が今着ている服もいつもの寝巻きではなく、着物のような服だった。
しかし、とりあえずそんなことはどうでもいい。問題は何で見知らぬ人が今俺の目の前にいるのかだ。
「お! もう眼を覚ましたのか。予想以上の回復力だなお前。」
男は嬉々としてそう言った。
「何訳のわかんないこと言ってるんですか! なんで俺の部屋にアンタみたいな知らない……」
セリフを言い終える前に、俺は周りの様子に初めて気がついた。
「あれ、ここ……俺の部屋じゃないぞ?」
俺がいる部屋は、見慣れない和室だった。6畳ほどの部屋に、木の壁、襖、そして障子。生け花の姿もある。それはいかにも純和風といった部屋だった。
しかし一体なんでこんなところに?
俺は起き上がって、回りを確かめようとした。しかし、その瞬間体中がズキリと悲鳴をあげた。
「痛ッ」
「おいおい、あんまり無理するなよ。お前、命は助かったけどまだ傷は完全には治ってないんだからな」
「え?」
傷……? 傷ってなんだ? 命は助かったけど?
考えてみると、昨日俺は何をしたのかよく覚えていない。昨日……昨日は確か、学校の帰りに小橋の家によって、その後小橋のおばさんに夕飯を食べさせてもらって、それで……
「そうだ! 公園!!!」
確か俺は公園で、訳のわからない男に胸を貫かれて……
俺はあわてて胸を見た。一応ふさがってはいるが、そこには確かに何か火傷の跡のような傷がある。
「何で俺、生きてるんだ?」
これはおかしい。あの攻撃は確実に俺の胸を貫いていた。医学知識がない俺にも、あれが即死に値する攻撃だったと言うことは分かる。
それならなんで、俺は今ここにいるんだろう……
「ははは。何が起こったのかわからないって顔をしてるな。まぁそれも無理は無いか」
男はなにが楽しいのか、ゲラゲラと笑いながら言った。
「ありがたく思えよ。お前を助けてやったのはこの俺なんだからな」
男は笑い声は抑えたが、それでもニヤニヤとだらしの無い顔をしている。
「助けたって……悪いんですけど、俺は昨日の夜から何が起こったのか全然わからないんですよ。説明してもらえますか? 昨日一体何があったのか」
全く理解することの出来ない状況の中で、俺は出来る限り落ち着いてそう言った。
「ん……昨晩のことは俺から話してもいいけど、それよりも実際に昨日現場にいた紫郷(しきょう)に説明してもらった方がいいだろう。紫郷、昨日何があったのか説明してあげてくれ」
男がそう言うと部屋の奥の襖が開いて、そこから一人の女性が部屋に入ってきた。……それは昨日の紅い眼をした女だった。
俺は息を呑んで覚悟したが、今の彼女からは昨日のような恐ろしい殺意は全く感じられない。どうやら俺の命を狙うということでは無いようだ。俺はほっと一息ついた。
そこでなぜか白髪の男が口を開いた。
「その前に、そういえば名前を言ってなかったな。改めて、俺の名前は龍水(りゅうすい)、こいつの名前は紫郷。あ、お前の名前は持ち物見させてもらったから知ってるぞ。よろしく頼むぜ水島ちゃん」
俺はあっけに取られながらも一応「はぁ」と返事をした。
「……面と向ってあなたと会うのはこれが初めてね、と言ってもあなたとは昨日だけで2度ほどお目にかかってるけど」
唐突に紫郷という紅い眼の女性がしゃべった。
「まずは謝らなければならないわ。一般人だったあなたを巻き込んだことを」
紫郷さんはその赤い眼をゆがめて、すまない、と言う表情をした。
「その、紫郷さん? よくわからないけど、そのことはいいんだ。あれは確か俺が勝手に公園に行ったんだ。……だからむしろ謝らなきゃいけないのは俺のほうかもしれない」
「いいえ。私は本来こういうことが起こらないために存在しているんだから、あなたが気にすること無い。完全に私の失態だわ」
昨日のあの姿を見ていていたので俺は彼女に身構えていたが、紫郷さんと言う人は意外といい人のようだ。あの”殺意”からは予想も出来なかったけど……
「まぁ、とりあえずそのことはおいといて。聞きたいことがいくつかあるんだけど、いいですか?」
「えぇ」と頷く紫郷という女性。
「まず、俺は確か昨日胸を変な奴に貫かれて即死に近い状態のはずだった。なのに何で俺は今生きてるんですか?」
俺はとりあえず、今最も疑問に思っていることを聞いてみた。
「それはさっきも聞いたと思うけど、龍水さんのおかげよ」
紫郷さんがそう言うと、部屋の奥に立っている龍水さんが、得意げに鼻を鳴らした。
「彼はね、刺青師なの。ただし普通の刺青師じゃない。彼が彫る刺青には魔力が宿る。その力や性質は、彫られた人によって差はあるけどね。……ちょっと上着を脱いで自分の体を見てみて。」
なぜだか俺は一瞬ドキッとうろたえたが、まさかそんなことはないだろう、と気を取り直して言われたとおりに上着を脱いで自分の上半身を眺めた。
……なるほど。さっきは傷に気を取られてて気がつかなかったけど、全身に黒い模様のような刺青が彫られている。
正直、俺はあまりの衝撃に声も出せなかった。
魔力が宿る。普通ならそんなことを信じる奴なんていないだろうけども、昨日のあんな場面を見せられちゃ否定なんかできっこなかった。そもそもそういう不思議な力は、すでに黒瀬のことで知らないわけじゃない。
要するに俺は全身に物凄い爆弾を抱えてしまったと言うことだ。
「驚く気持ちは分かるわ。でもあなたはそうするしか道は無かったのよ。病院に連れて行ってももう手遅れだったし。刺青の力だってあそこまでの傷だと治せるかは分からなかったんだから」
そう言われて俺は我に帰った。そう、この人たちは俺を助けてくれたんじゃないか。それなのに、俺はこの人たちに少なからず敵対心を持ってしまったなんて……馬鹿だ。
「あの。助けてくれたことは本当に感謝してます」
「そんなにかしこまらなくていいわ。お互いさまだもの。それより、何か他に聞きたいことは?」
聞きたいこと……そういえば、そもそも俺は自分を殺そうとした相手を知らない。
「あの。公園にもう一人いた奴はなんなんですか? なんか手から変のものを出したりしてましたけど」
それを聞いた瞬間、紫郷さんは一瞬顔を曇らせたが、その後に何かを決心したかのように口を開いた。
「そうね。あなたも”刺青”をした以上普通の人間じゃないんだから、説明しないといけないわね」
”あなたももう普通の人間じゃない”
……覚悟はしていたが、実際に聞くと結構厳しい言葉だ。
「アイツの名はシュウギ。あなたも何となく分かっているかもしれないけど、アイツは人間じゃない。人間と妖魔の交配種。ストレートに悪魔と言ってもいい。まぁ私たちは妖人(ようと)って呼んでるけどね」
魔力、妖魔、悪魔、妖人……抵抗のある単語ばかりだけど、ここは黙って聞くしかない。
「私はね、そういう奴らの中で人間に害を及ぼす妖魔と妖人を退治するのが生業なの。その上、ここにいる龍水さんは訳有って妖人に狙われているから、その警備っていう意味もあって常にそういう連中と闘っているってわけ」
「そういえば、確かにシュウギとか言う奴は刺青師がどうとかって言ってた。」
「そう。その刺青師があそこにいる龍水さん。……彼が狙われる理由だけど、今までの話で大体わかるわね?」
「龍水さんが彫る刺青の力……ですか?」
「その通り」
「でも妖人っていうのはもう魔力を持っているんでしょう? それなら刺青の力なんていらないじゃないですか」
「それは違うわね。刺青をすると今までの魔力も増加するから、それも狙われる理由のひとつだし、そもそもそれは狙われる本当の理由じゃないわ。……質問をするけど、妖人の平均寿命ってどれくらいだと思う?」
「え…」
突然の質問に俺は困惑した。でも、化け物なんだから寿命もおそらく化け物じみているのだろう。おれはそう予測して答えた。
「うーん。200歳くらいですか?」
「ハズレ。正解は30〜40歳ってところね。あいつらは魔力という力を得たぶん、体への負担が通常の人間の比ではないの。通常の妖人なら30代前半くらいが寿命ね。魔力の強い妖人ほど体を蝕むのが酷いから、早い奴なんて10代で体が崩れて行くわ」
俺は意外な答えに少し驚いた。しかしそれもわかる気がする。変な力はどんな形であれ己を蝕んでいくものだというのは、嫌と言うほど知っているから。
「だからね、妖人っていうのは人間よりずっと生きるってことに対して貪欲なの。しかも魔力の強い奴ほどその思いが深いから厄介ね。妖人は”不死”を手に入れるために変な儀式にすがって、人間の生き血をすすったりする奴も少なくない。……たいがいそんな儀式はデタラメに過ぎないんだけど。」
……人間の生き血をすする儀式。その言葉に俺はふと昨日の朝のニュースを思い出した。
「この町で起こってる連続殺人事件って知ってますよね? それももしかして、その妖人の儀式の犠牲なんですか?」
「えぇ。たしかにあれもシュウギ、あるいその仲間の仕業ね。だけどあれは儀式とかの類ではないわ。おそらくあれは純粋な食事。妖人には人間の魂を食す輩が少なくないから。」
何てことだ。もう、この町で40人もの人がその、シュウギとかいう奴等の犠牲になっているのか。
「……で、話は戻るけど」
彼女は俺の表情を察しつつ説明を続ける。
「アイツらは、生きるっていうことに貪欲だって言ったわよね? そこでどこで知ったのか知らないけど、妖人の一部が龍水さんの刺青の力に眼をつけたのよ。あなた自身が典型例だけど、この刺青は人を死ににくい体にする力がある。決定的な致命傷を受けても回復してしまう力。奴らはそれに目をつけた。それにそもそも龍水さん自身が”不老”の力を持っているからね。まぁ不死ではないんだけど。……ねぇ、また質問だけど龍水さんって今いくつだかわかる?」
俺は少し間をおいた後、見たままに「30歳?」と自信なさげに答えた。
「またハズレ。龍水さん、答えてあげて」
そういうと紫郷さんは龍水さんに振り向いた。
「んー。よく覚えてないけど2000歳くらいじゃない?」
そのあまりに突拍子も無い答えに、一瞬俺はふきだしそうになった。
2000歳? これは不思議の世界ではなくて、もはやお笑いの域に達している。
「信じる信じないはあなたの勝手だけど、彼は不老の力を持っているのよ。刺青と不老の力。それが彼の狙われる理由って訳ね」
半ば強引に話をまとめる。
「まぁ、俺はあくまで不老ってだけで不死じゃない。心臓を潰されたり首を切られりゃ流石に死ぬぞ」
物騒なことを龍水さんサラリと言った。その姿はとても2000歳とは思えない。
「ねぇ。もしかしてこの刺青をされると、俺も不老になっちゃうんですか?」
俺はふと浮かんだ素朴な疑問、というか不安を投げかけてみた。
「安心しろ。まぁ確かに死ににくくはなるけどな、その刺青に生物本来の寿命を延ばす力は無い。まぁ一般の人間よりは長生きするだろうけど、どんなに頑張ったって150歳が限界だな」
150歳でも十分過ぎるほどに異常だけどね……
「まだ他に質問はあるかしら」
質問。そう言えば……シュウギ……俺はあいつがあの後どうなったのか知らない。奴は俺を刺した後どうしたのだろう?
「シュウギって奴はあの後倒したんですか?」
「残念だけど、逃してしまったわ。あの時は何よりあなたを助けるのが先だったから」
やっぱり……俺のせいで。
「すみません、俺が首を突っ込んだばかりに」
「だから気にしなくていいのよ。私だってあの時我を忘れて、本来なら気がつけた筈のあなたの存在を察知できなかったんだから」
一時の静寂が部屋を満たした。今までは現状を把握するのに必死で気がつかなかったけど、この部屋は畳のいい香りがする。その臭いを嗅ぐとなんだか気持ちが安らいだ。
「とりあえずもう質問は無いようね」
俺は黙って頷く。
「最後に言わなければならないんだけど、あなたにはシュウギを倒すまで家には帰ってもらう訳には行かないわ。あなたはシュウギに顔を見られてるし、何より今はもう刺青があるからね。もしあなたが帰ればあなただけじゃなくあなたの回りの人達も危険にさらすことになる」
何となくその言葉を予想をしていたせいか、俺は特に驚くことも無かった。しかしよくよく考えれば、俺は無断で一晩家に帰らなかったことになる。親が心配して警察に届けでも出していたら後々厄介だ。今は一刻も早く家に連絡を入れなければならない。
「あの、俺の携帯はどこですか? 確か昨日制服のポケットに入れておいたはずなんですけど」
「あ、ごめんなさい。あなたの荷物は別の部屋においてあるの。今もって来るわね」
そう言う紫郷さんは部屋を出て行った。その少し後に、急に龍水さんが何かを思い出したように声を上げた。
「そういや言い忘れたけど、刺青は念じることで出したり、消したりできるんだぜ。凄いだろ? あ、でもだからってケガが完治しない間は消すなよ。刺青が消えると”力”も消えるから不味いことになる」
龍水さんはいかにも自慢げに刺青のを説明してくれた。
刺青を出したり、消したりできる。まぁこれで一応は自分の体を人前に出せないという不安は消えたってことだ。
「お前の刺青は阿修羅を模している。その種類の刺青が合う奴は少ないから、大事にしてやってくれ」
「阿修羅ですか……」
阿修羅といえば、帝釈天とか言う神様と年中殺し合いをする異教の神だ。
でも、物騒という思いはなった。むしろ俺は強い味方が出来たような安心感に包まれた。
***
その後、紫郷さんが俺の携帯を持ってきてくれた。俺は家に電話をかけ、適当に「小橋の家に泊まる、期間は分からない」と、言い訳をして力押しで携帯を切った。おそらくこの嘘はすぐに見破られるだろう。それでも今のところ俺はこれ以外にうまい言い訳を思いつくことが出来なかった。
龍水さんが無理はしないで寝たほうが言いというので、俺はお言葉に甘えてもう一寝入りさせてもらうことにした。実際、まだ体中が痛み、とても動けるような状態じゃない。
龍水さんと紫郷さんが部屋から出て行くと、黙って布団にもぐり込んだ。
そのまま布団の中でじっとしていると、しばらくして部屋の外から2人の話し声が聞こえてきた。
「それで、シュウギの行方の方は掴めたのか?」
「いいえ。さっき公園を見てきたけれど魔力の痕跡が消えていた。恐らくは仲間の仕業だと思う」
「やはり……か」
「あれだけの魔力を一晩で片付けるのは不可能だわ」
「仲間の方は昼間も活動できるってことか。だとするとそいつは妖人じゃなくて妖魔の可能性が高いな」
そう言うと龍水さんは唸った。
「コイツは予想以上に厄介だ」
俺には二人の会話の内容はいまいちよく分からなかったけど、それでも緊迫した空気は伝わってきた。
……ふと、こうしている間にもまた誰かがシュウギという妖人とその仲間に襲われているのだろうか、と考えた。
それなら一刻も早く倒さなければならない。俺に出来ることがあるのかは分からないけど、少なくとも手伝えることがあるのなら協力したい。そう心に決めた。
そのうちにだんだんと睡魔が襲って来た。
意識がと遠のいで行く……
部屋にはただ畳の香りだけが漂っていた。
[紅夜 3日目 上]
___またあの日の夢
俺は校門の前に出来ている人だかりに向って走り出していた。辺りは近くに止まっている救急車やパトカーの放つ光で赤色にチカチカと照らされている。
俺はただ願った。黒瀬でないことを。
真っ白になっていく頭の中では何度も何度も彼女の姿が浮かんでは消えた。
何事にも無関心そうな無表情な顔、時より見せてくれたささやかな笑顔……そして前日の何かを失ってしまったような悲しげな顔……
校門に着くなり、俺は無我夢中で人ごみを掻き分けた。とにかく何が起こっているのか知りたい一心で。
そんな時、俺は突然後ろから声をかけられた。
「水島っ!」
後ろを振り向くと、その声の主は小橋だった。
小橋は俺と黒瀬の関係を唯一知っていて、そして誰よりも理解してくれている。
「おい小橋! 一体何が起きたんだよ!!」
嫌と言うほど予想できてしてしまうこの騒動の原因に、俺は頭をかき混ぜられ完全に理性を失っていた。
そう。前日に黒瀬とあんなことがなければ俺はこんなことをこれ程気に留めるはずがない。
その半狂乱状態の俺を心配してか、小橋は強い口調で言った。
「落ち着け水島! 落ち着いて聞いてくれ」
小橋が俺の肩を強く握る。俺はその小橋の言葉に理性を少しだけ取り戻した。
「なぁ小橋。……何なんだよ、この騒動は」
小橋の表情が曇る。そしてとても辛そうな顔をしながらもゆっくりと口を開いた。
「……黒瀬が屋上から飛び降りたらしい」
___その瞬間、世界はただ真っ白くなった。……チカチカと点灯する紅い光を除いては。
……眼を覚ませば昨日の和室だった。
俺は見慣れていない部屋に少し抵抗感を覚えたが、その感覚もすぐに薄れて行った。部屋には紫郷さんの姿も、龍水さんの姿もない。例の如くただ畳の香りが漂っているだけだ。
……夢のせいだろうか、俺は汗ばんでいる。
俺はまるで日課であるかのように胸のネックレスを掴んだ。そしてゆっくりと瞼を閉じてあの日のことを思い出す。
黒瀬が飛び降り自殺を図ったその前日に、俺は彼女にこのネックレスをもらったのだ。
あの日から俺は彼女を止めれなかったことをずっと後悔し続けてきた。だが、どんなに後悔しようと現実は変わることはない。黒瀬は死んで、俺は彼女を見殺しにしたのだ。
俺はため息をつくと、両腕を上に伸ばして んっ と間延びをした。そのとき気がついた。
体が動く。
昨日はあんなに全身が痛んで上半身を上げることすら出来なかったのに、今は全くなんともない。胸を見るとシュウギに刺された傷もほぼ完治していて、注意して見なければその痕が分からないほどだ。
これが……刺青の力。
刺青は消えていた。おそらく傷が完治したので自動的に刺青のスイッチみたいなものが切られたのだろう。
(たいしたもんだな)
だが俺はそう驚く反面この力に恐怖を覚えた。この回復力は、人間どころかもはや生物の力をはるかに上回っているからだ。……ふと考えた。もし魔力を持った人間を妖人というのなら、俺はもう十分それに当てはまるのではないかと。
(……嫌だ)
俺は自分の考えを即座に否定した。少なくとも俺は人間だ。
……俺はそう自分に言い聞かせた。
ガラッ
突然和室の奥の襖が開いた。襖を開けた主が部屋に入ってくる。その正体は紫郷さんだった。服装はやはりいつものように上下とも黒で固められている。その格好は朝のこの和やかな雰囲気にはあまり似つかわしくはなかったが、彼女が着ていると嫌味な感じは全くしない。
「あら、もう起きてたの? 意外と早起きなのね。……まだ朝の6時前よ」
紫郷さんが意外そうな顔をして驚く。……その姿はどこかで見覚えがある気がした。
「そりゃあ、昨日一日中寝てましたからね。嫌でも早く起きます」
「そう言えばそうよね。ごめんなさい、なんだか失礼なことを言ったみたいだわ」
「いや、気にしないでください。そういう反応慣れてますから」
俺の苦笑交じりの返事に、紫郷さんは「そう」と小さく頷いた。
「傷の方はどう? 龍水さんの話だともうほとんど完治してるって話だけど」
「はい。もう何処も痛くないですし、平気みたいです」
「よかった。ご飯は食べに来れる? 無理なら持ってくるけど」
「いえ、これ以上動かなかったら体がなまりますから」
「それじゃあ朝ご飯はもう少し時間がかかるけど、その前に何か欲しいものある?」
襖の辺りに立ったまま紫郷さんが言ってきた。
「うーん。そうですね、じゃあ水を一杯ください。汗をかいたせいか喉が渇いちゃって」
「わかったわ。まってて、今持ってくるから」
そう言うと彼女は クルッ ときびすを返して部屋を出て行った。
紫郷さんはすぐに戻ってきた。手には水の入ったコップを持っている。彼女は俺の布団の隣に正座すると はい とコップを差し出してくれた。俺は布団から上体を起こすと、そのコップを受け取り、どうもすみませんとお礼を言うと、その水に口をつけた。
ゴクゴクゴク
汗をかいた上に、昨日からほとんど何も飲んでなかったせいだろう。俺はあっという間にコップの中の水を飲み干した。
「はぁ……生き返る」
俺のその言葉を聞くと「老人みたいだ」なんて言って紫郷さんは口に手を当てて笑った
俺の隣で正座をしている紫郷さん。その背筋はピンと伸びている。黒く長い髪。その黒でより強調される白い肌。俺はその全てを正直に美しいと思った。
無意識のうちに俺は彼女に見とれてしまう。
あぁ、俺はなんてバカなんだろう。
気がつけば、俺は紫郷さんに黒瀬の姿を重ねていた。今初めてそう思ったわけではない。始めて並木道の横道ですれ違った時から、俺は何となく彼女に黒瀬を見出していた。
……でもそれは許されないこと。
彼女の紅い瞳は、見つめているとどこまでも吸い込まれていってしまいそうだ。ただそうしているだけで、俺は心の全てを見透かされてしまうような気がする。でもそれは最初の時のように脅迫めいたものではなく、むしろ安堵を覚える。
「……何?」
ずっと自分を見つめている俺の視線に不信感を抱いたのか、彼女がふいにそう口にした。
「え? あ、いやその……なんでもないです」
まさか、紫郷さんは綺麗だなぁと思って見つめてしまいました、なんて言えるほど俺は大物じゃない。俺はとっさに、誤魔化すべく口を開いた。
「そういえば、紫郷さんて何歳なんですか?」
話題を変えるために、と言うのもあるのだが、これは昨日から彼女に聞いてみたかったことでもある。龍水さんの事例もあるから、念のため「実は2000歳です」なんてことがないようにと確かめみたいと思っていたのだ。
俺の質問が意外だったのか、それともこれは女性に聞くような話題ではないのか、彼女は少し怪訝そうな顔をした。
「私? 私は20よ」
その答えに俺は心底ほっとした。
「よかったぁ」
「安心していいわ。私は人間だから」
そう言いながら彼女は微笑んだが、すぐに何かに気がついたように微笑むのをやめ、そして少し暗い顔になってセリフを言い直した。
「ただ……”普通”ではないけどね」
彼女はそう言うと、一瞬寂しそうな遠い眼をした。
”普通ではない”
わざわざ意味を考えることもない言葉だ。言葉の通り彼女は普通ではない。
おそらく、彼女の体にも龍水さんの刺青が彫ってあるのだろう。そうでなければ公園でのあんな動きが出来る訳は無いし、そして何よりその紅い眼が彼女がまともな人間の域から外れた存在であることを証明している。改めてそれを実感したせいか、それとも他の何かに原因があるのか、彼女からは計り知れない暗い感情が伝わってきた。
俺はなんだか気まずくなったので、場の雰囲気を変えようと話を変えた。
「ところで、龍水さんと紫郷さんて親子なんですか? なんだか随分雰囲気が違いますけど」
龍水さんは明るくて快活というイメージだが、紫郷さんは物静かといった雰囲気である。更に紫郷さんが龍水さんを”さん”付けして呼んでいることもあり、2人は当然だが親子と言う風には思えなかった。
「いいえ、実の親子ではないわ。でも、私は本当の父親のような存在だと思ってる。まぁ、あえて言うなら龍水さんは育ての親ね」
「育ての親? じゃあ、本当のご両親はどうしたんですか?」
「死んだわ。正確に言えば殺された……」
しまった。と思った時には既に後の祭りだった。俺は無意識に人の心の領域に足を踏み入れようとしてしまったことを後悔した。
場の空気が一気に重くなる。
……六畳の和室には、彼女の深い悲しみと、そして何に対するとも分からない確かな憎悪だけが充満していた。
そうこうしているうちに、龍水さんが部屋に入ってきて、「朝食が出来たぞ」と言って俺と紫郷さんを食卓まで連れて行った。
龍水さんが朝食を作るというのは少し意外だった。俺はてっきり紫郷さんが作るのだとばかり思い込んでいたからだ。
円形の食卓、ちゃぶ台を高級にしたような机の上にはすでに朝食が並べられてあった。メニューは、焼き魚に白米。そして味噌汁にたくあん等の漬物。昨今の日本の家庭では滅多にみかけないような純和風かつ質素な朝ご飯だ。
「すみません朝食まで作って頂いて」
「なんだよ。遠慮なんかしないでどんどん食ってくれ。おかわりも沢山あるぞ」
そういうと龍水さんは炊飯器をバシバシと叩いた。
「それじゃあお言葉に甘えて。いただきます」
それに続いて紫郷さんも「いただきます」と食べ始めた。
食事中、龍水さんに胸の傷の事を聞かれたので、俺はもう治ったみたいですと答えた。それを聞くと龍水さんは俺の体をなめ回すように見て、うんうん、と納得した。龍水さん曰く、刺青には大きく分けると魔力の上昇、運動能力の強化、治癒能力の発達という3つの要素があるらしいのだが、この内どれが強く現れるかは個人差らしい。ただ、これらの能力は普通どれかが高ければどれかが低くなるという性質で、平均の力を10とすると、例えば魔力の上昇率が15の場合は運動能力の上昇率は5になるという具合だそうだ。
俺の阿修羅という刺青は戦闘タイプに分類されるらしい。これは本来なら魔力と運動能力が主に向上する物と言う事だが、不思議なことに俺の場合は治癒能力も平均以上の力があるようで、龍水さんは「コイツは珍しい」としきりに唸っていた。ただし、俺は最後に「紫郷程ではないだろうけどな」と小さく呟いたのも聞き逃さなかったが。
***
……それから2時間。なぜか今俺は龍水邸の庭にいる。
食事はとっくに済ませている。端的に言うと龍水さんの作った料理はとてもおいしかった。その食事を食べた後、俺は1人畳の部屋に戻り気持ちよく休んでいた。
その静寂を破ったのは紫郷さんだった。彼女は部屋に入ってくるなり「もう体の調子は平気なのよね?」と聞いてきた。俺がはいと答えると、彼女は「それじゃあ、後10分くらいしたら庭に出てきて」と言った。
俺は10分後言われた通りに靴を履いて庭に出た。
そして今に至るわけだ。
庭は家屋同様純和風で統一されていて、一面芝で覆われている。まるで小さな草原のようだ。端の方には石で囲われた池までもあり、中では赤と白の鯉が泳いでいる。さらにその傍らでは鹿おどしが カコーン という音まで響かせている始末だ。
その庭のど真ん中で、俺は紫郷さんに「はい」と木刀を渡された。俺はそれを反射的に受け取る。
「……? なんですか、一体」
「ちょっと強引だけどね、あなたにはこれから私と剣術の練習をしてもらうわ」
「へ」
突然のことで俺は一瞬彼女が何を言っているのか分からなかった。
「言ったでしょ。あなたはもう普通の人間じゃないの。その刺青を入れた以上はね。いざとなったらあなたにもシュウギを倒すのを手伝ってもらう事になるわ。基本的には私だけで闘うつもりだけど、予想外のことは起こるもの。そういう場合に備えて、あなたにも剣術の一つでも練習して貰わないと」
「で、でも俺剣術なんてやったことないですよ。剣道とかそういうの全然わかんないし」
「だから練習してもらうんじゃない。……じゃあ、とりあえず基本的な素振りの練習でもしてもらおうかしら。……木刀を構えてみて」
俺はなんだかよく分からなかったが、仕方がないので適当に木刀を握ってかまえて見せた。
それをみて紫郷さんがいくつかアドバイスを入れた。
「まず、持つ手は左手が下よ。……両手の間隔は拳一つぶんくらい開けて。握り方は雑巾を絞るような感じね。それが出来たらとりあえず木刀を振り上げてみて。……違う違う。そんな高く上げなくていいわ。おでこの所で止めて。そう、そして振り下ろす……」
俺は言われた通りに一連の動作を出来るだけ忠実に行った。
何度かそんな事を繰り返すうちに、紫郷さんが声を発した。
「じゃあ、大体分かってきたところで、素振り500本。怠けないで、一回一回集中して振るのよ」
「ごひゃっぽん?」
初心者の中の初心者にいきなり素振り500本を命じるのはあまりにステップを飛ばしすぎではないかと思ったものの、それがもう彼女にとっての時間的猶予のなさを証明しているのは明白だった。
___もう何十人もの人が犠牲になっているんだ
「はい、それじゃあ始め」
その声を聞くと、俺は無言で木刀を降り始めた。
***
果たして何時間たったのだろう?
俺は昼食の時間を除いて、ぶっ続けで、木刀の素振り、それに合わせた足の動かし方、更に実戦における基本的な防御の仕方など等をレクチャー&実践させられた。そのおかげで心も体ももはやフラフラの状態だ。
午前10時にはじめた稽古が終わったのはもう辺りが夕方になろうという時だった。
「はぁはぁはぁ……もうだめ。死ぬ」
俺はドサッと地面に大の字に倒れこむ。
「お疲れ様。あなたなかなかいい筋してるわよ。というより驚異的ね。まさか一日で全ての基本的動作をマスターするとは思わなかったわ」
そのほめ褒め言葉も聞いてる余裕が無いほど俺は疲れていた。
「これなら刺青の力さえ発動させれば今すぐにでも実戦に出れるレベルよ。そうね、善は急げって言うし、今夜にでも私と稽古試合をしてみましょうか」
俺はその言葉に青ざめた。稽古試合というのは、練習であれ実際に戦わなければならない。ということは、下手をすれば物凄く痛い目に遭うということである。
……最悪だ。
「じゃあ、疲れてるみたいだから夜までゆっくりと休んでおくといいわ。今のうちに言っておくけど、練習だからって手加減はしないわよ。覚悟しておいてね」
恐ろしい事を言うと、紫郷さんは一足先に家の中へ戻っていった。
[紅夜 3日目 下]
時間は午後9時。夜は正にあっという間にやってきた。
俺は半ば死を覚悟して庭に出た。靴を通して芝生の感触がする。和風の庭はただ月明かりによってのみ照らされていた。
その中央で紫郷さんは無言で立っている。やはり黒で固められたその服装は完璧なまでに夜の中に溶け込んでいた。
「夜を選んだのは」
唐突に紫郷さんが口を開く。
「夜を選んだのはそれがもっとも実戦に近いから。古代種である妖魔ならともかく、妖魔と人間の混血である妖人はその存在自体がとても不安定で欠陥を持つ場合が多い。だから妖人の多くは魔力が飛躍的に上がる夜にのみ活動するの。よって妖人との戦いは必然的に夜になる」
紫郷さんはまるで塾か何かの講師みたいに淡々と述べる。
「だから闇に慣れなければまず闘うことすら出来ない」
その声はどこか冷たいものを感じさせる。それは、公園で見た時の彼女に近い。俺はこれからその彼女と戦わなければならないのかと思うと身が震えた。しかし、こうして物怖じしているばかりではいられない。
「昼間は妖人の力は低下するんですか?」
「ええ」
「それなら夜よりも、むしろ昼間闘った方がいいじゃないですか。なぜわざわざ相手の得意な夜に?」
この言葉は自分自身でもなかなか的をえている気がした。しかし紫郷さんは俺の言葉に顔色一つ変えない。
「奴らが何処にいるのか見つけられるのならそうしているわ。でもね、昼間において基本的に妖人はその姿を己のねぐらに隠す。徹底した隠蔽と防衛作を仕掛けてね。これはどんなに馬鹿な妖人でもそうするわ。奴等はみんな昼が最大の弱点であることを知っているし、そしてその間に身を潜める拠点が何より大事であるということも知ってる。その隠れ家を見つけるのは容易なことではないわ。だから昼間にダラダラと妖人を探すよりも、奴らが活動する夜に一気に叩いた方がずっと効率的なのよ」
俺は むぅ と声を唸らせた。確かにそう言うことなら夜に闘わなければならないのかもしれない。それでも俺はなるべく安全に昼間に闘いたいのだが。
……安全、と言えばそもそもなぜ俺がこのようなことをしなければならないのかよく分からない。そうだ。普通こういうのは警察とか自衛隊の仕事ではないのだろうか? 当然、紫郷さんは自衛官には全く見えない。それなら彼女はなぜこんなことをしているのだろうか。
「夜闘わなければならないのは一応納得しました。……ただ、もっと根本的なことで質問なんですけど。こういう事って普通警察とかの仕事ではないんですか?」
そう言った瞬間 ギロリ と紫郷さんの目つきが怖くなったような気がした。俺はそれが気のせいであることを心から祈った。彼女はため息のようなものをつくと、再び喋り出した。
「妖魔や妖人の存在は一般市民には決して明かされることはないわ。警察などの公的機関の人間も一部を除いて知ることを許されない。ただ、確かに国営の対妖魔・妖人組織も有るわ。でも彼らは致命的に経験が少ない。彼らがやることなんて妖人の調査と、事件の事後処理くらいのものだわ。だから実際は大昔からの伝統的な退魔や封魔の家元が妖人退治をやっているの。ただし、もう一度言うけどその仕事は決して一般人に知られてはならない」
「なんでですか? こういうのって探す人が多いい方が効率よく妖人を見つけられると思うんですけど……」
「そうね。確かにそうだわ。ただし、それが逆効果なのよ。いい? 妖人は人間の姿をしていて、人間の社会にもぐりこんでいるの。あなた魔女狩りの話を知らない? 魔女を殺すという大義のもとに”魔女ではない”多くの無実の人々が殺されたわ」
俺は思わず「あ」と声を上げた。
「わかったようね。そう。人間と見た目がそっくりである妖人は普通の人間では見極めることはほとんど不可能だわ。そうなればみんなが疑心暗鬼になるでしょうね。誰が妖人なのかわからない。でも妖人は確実にどこかにいる。その不安は確実に人間の社会を狂わせるわ」
「だから一般人に力を借りることは出来ないってことですか。……人間同士の内乱を防ぐために」
「そういうこと」
彼女は他人を頼るのなんて諦めなさいと言い放った。
「ただし一般人ではない人になら助けを借りられるわ。この町には有名な封魔の家元があるから、そこに頼めば力を貸してくれるかもしれない」
「本当ですか? それならぜひその人たちにお願いをしてください」
「そうね。と言うよりもう既に明日頼みに行く予定は立ててあったんだけど。……でもね、そんなことはどうでもいいの。今はあなたの稽古の時間なんだから、それ以外の事を考えるのは後ででいい」
うぐ……このまま練習をはぐらかそうと思ったのだが。作戦失敗だ。
「……話すことはもうないわ」
そう言うと、突然彼女の表情が無くなった。気のせいか、眼の紅が濃くなっているように見える。
「刺青……阿修羅を出して」
俺に語りかけてくる声。その声には人間味が失われているような気がする。俺はいよいよかと腹をくくった。足元に置いておいた木刀を拾う。
(くそっ。こうなりゃヤケだ。出ろ……刺青!)
心でそう念じると、体の内から力が湧き上がるのを感じた。それと同時に、全身に黒い模様のような刺青が浮かび上がる。ギザギザとしたその模様は笹の葉を連想させた。
……軽い。体が物凄く軽い。地面を蹴ればそのまま家の屋根まで飛べそうな気分だ。その上、腕に握っている木刀はまるで重さを感じない。片手で、まるで何も持っていないかのように振り回せる。これが刺青の力。傷への回復力だけでなく己の身体能力までも上昇させる。
その様子を黙って見ていた紫郷さんが口を開く。
「魔力がまるで6本の腕のように……あれが阿修羅」
彼女はいつのまにか口調まで恐ろしげになっている。無表情と思えたその顔は微かに笑みを浮かべていた。
「私の刺青は”龍”。あなたと同じ戦闘型の力よ」
紫郷さんが持っていた木刀を腰の位置で、まるで居合い抜きをしようとする侍のように構えた。
それが合図だった。
彼女が地面を蹴ったと思った瞬間、彼女がすぐ目の前まで跳んで来た。2人の距離は5メートルほどあったが、彼女はその距離をトンッと一度軽く跳んだだけで詰めてきた。と同時に彼女は腰に当てていた木刀を真一文字に振る。
俺はすかさず横に飛んで彼女の木刀を避けた。刺青がある今、身体能力だけでみるなら俺も劣ってはいない筈。俺もまた、たった一度の跳躍で5メートル以上は跳んだと思えた。地面に脚がつくとすかさず身構え、五感を集中させる。
「後ろかっ!」
俺は後ろから殺気を感じ取り、またもや思い切り前に跳んだ。相手の殺気を感じ取る力。よくよく考えれば俺にはそんな力があるではないか。そう、黒瀬のネックレスの力。敵や、敵の放つ攻撃には少なからずも確実に敵意や殺意が含まれている。例え本気の勝負でなくてもそれは変わらない。ネックレスは俺にどの方向から、どのような殺気が、どれくらいの速度で近づいてくるかというのを脳に直接叩き込んでくる。これなら例えそれが死角からの攻撃でも、その存在を360度感じ取ることが出来るという訳だ。
これなら少しは出来るかもしれない。
俺は淡い希望を抱いた。
しかしそのささやかな希望もすぐに打ち砕かれる。
「今の攻撃。完全に死角からの攻撃だった……おかしい。あなたの技量であれをかわせる筈は無いのに。なぜ」
彼女は俺を呆然と見つめている。その眼はやはり血のように紅い。
その白い肌を露出した顔が浮かべているのは驚きの表情ではなく、あの獲物を見つめる肉食獣のような顔だった。
そんな紫郷さんの姿を見て俺は確信する。やはり彼女には勝つことが出来ない。……だからと言って、このまま引き下がる訳にもいかない。
どうすればいい。
俺は考えた。避けるばかりではいけない。しかし、俺は避けることしか出来ない。反撃の方法は必然的に絞られる。彼女の攻撃を避け、それで生まれた隙を討つ。当たり前の戦法だが、それが一番有効だという確信がある(と言うかそれしか出来ないのだが)。彼女の攻撃は見たところ一撃一撃の威力を重視した技の様だ。一発の攻撃に威力があるかわりにあまり連続して技を出せない。つまり、一度木刀を振ると多少なりそこに隙が生まれやすい。狙い目はそこしかなかった。
しかし、リスクも大きい。俺が反撃できる間合いで彼女の木刀を避けるのはやはり難しいのだ。
だが、状況は俺にそれ以外の戦法を考えさせてくれる余裕はくれなかった。
彼女はまたもや腰の位置で木刀を構え、眼にも留まらぬ速さで俺に突進してくる。俺はネックレスの力でその殺意が何処をどのように攻撃しようとしているのかを必死に感じ取った。
(さっきと同じ、腰から横に一直線か)
俺は彼女の真横に伸びる木刀を地面に右手をつき、出来る限り体を屈めて避けた。上目に紫郷さんを見る。その顔はただ驚いているだけだ。
「今だ!」
俺は左に構えていた木刀を思い切り振りかざした。
捕らえた。
そう確信した。
しかし俺の木刀は彼女の腹をかするだけだった。直撃はしていない。彼女は今まで以上のスピードで後ろに跳躍して俺の攻撃を避けたのだ。もはやその姿は獣という形容ではおさまらない。
「……驚いた。まさか一撃でも当てられるとは」
そう言う彼女の姿に全くダメージは無い。しかしかすっただけでも彼女にとっては意外な出来事だったのだろう。その反応の仕方は異常だ。
彼女は俺に顔を向けると、その紅い眼で刺すような視線を送ってきた。そこからは確かな”殺意”が感じ取れる。
これはまずい。
本能がそう言った。
「私は……負けない」
そう言いながら、彼女は木刀を構えもせずただ右手でぶらりと下げ、そして跳躍することも無くのろのろとこちらに近づいて来た。視線は俺を捉えているのか、宙を捉えているのか分からない。理由は定かではないが、明らかに紫郷さんの様子はおかしかった。
その姿は生物として、俺との能力の差を否応無く証明して見せた。
「紫郷さんっ!! 」
俺は叫んだ。今の彼女は確実に常軌を逸している。ここで正気になってもらわなければ俺は本当に殺されるかもしれない。
しかし、それでも彼女はまるで壊れた人形のように虚ろな目を俺に受けながら近寄ってくる。俺はもう一度、今度はさっきよりも力強く彼女の名前を叫んだ。
「あ……」
その声を聞いて彼女は呟いた。
「……私、何を」
まるで悪夢から覚めたかのような顔をしながら、彼女は手を額に置き、そしてそのまま下に俯いた。
「ごめんなさい。……練習だって言うのに、私」
顔面蒼白になる彼女。
「俺はいいんですけど。大丈夫ですか? 今の様子は普通じゃなかったですよ」
それを聞くと彼女は「わからない」と首を横に振った。
「紫郷さん、今日はもう休んでください」
「そうね……そうするわ」
しかし一向に彼女は全く動こうとしない。顔も下に俯いたままだ。まるで時間が止まったように、俺もまたその場から動くことが出来なかった。
「私……」
突然の紫郷さんの声。
「私、両親を妖人達に殺されたの」
俺はその突然の言葉に動揺を隠し切れなかった。酷く寂しげな声。それは吹けば消えてしまいそうなほどにか細い物に思える。
「私の家は退魔の家でね。妖人を殺すのが仕事なの。でも逆に妖人たちはそれに目をつけて、ある日の夜集団で私の家を襲ったわ」
唐突な話の始まりに俺は彼女がまだ少し正気でないのを感じた。果たして彼女は俺に話しているのか、それとも自分自身に語りかけているのか……
「両親だけじゃなくて、私自身も瀕死の重傷を負わせられた。全身を吹き飛ばされて、両目を潰されて。……今も眠ればあの日の事を夢に見る始末よ」
俺が昨日彼女から感じた悲しみと憎悪は、俺の想像を遥かに超える深くて恐ろしいものだった。彼女から感じる負の感情は、おそらく世界中の妖人を全滅させても収まる物ではないだろう。
俺は彼女が酷く哀れに思えた。
「でも、私は龍水さんに命を救われたわ。あなたのように刺青をいれてもらってね。眼だって、魔力なんておまけもついてるけど龍水さんのおかげでまた手に入れることが出来た。……私が生きる目的はただ一つ、妖人を殺す事。だから、私は絶対に負けちゃいけないんだって、殺さなければいけないんだって、ずっとそう思ってて」
彼女はやはり少し錯乱しているようだった。それはあまりに脆そうで、俺はとても見ていられない。俺はただ純粋にそんな彼女を守りたいと思った。何から守るのかは分からない。ただそうしなければいけないんだと思った。
紫郷さんは俯いていた顔を上げた。
「あの夜は紅かったわ。家も地面も父も母も私の体も、全てが血で紅かった」
俺は。
俺は何も言えなかった。気の利いたセリフも、気休めの言葉も、ただの一言も考えられなかった。抱き止めようと思ったけど、体を動かすことも出来ない。
そう。俺は何も出来ない。今は何をやっても、彼女を崩してしまいそうだから。
「ごめんなさい。私、今夜はおかしいわ。きっと今日が両親の命日のせいね」
彼女は最後におやすみと言い残して家に入っていった。
俺はやはり彼女の姿を見送ることしか出来なかった。
[紅夜 4日目 上]
___ここは何処だろう?
上も下も分からない。俺はただ闇の中に浮いている。無音で、ただ純粋に何処までも広がる闇。
俺がもう既に通り過ぎてしまった過去。
反芻されるべき過去を思い出さないのなら、ここはただの無の世界だ。
新しく物が生まれる事の無い、過去を贖罪するだけの時。
しかし何も現れる筈のない真っ暗な視界の中に突然一人の少女の姿がポツンと現れた。あまりに唐突な出現だったが、俺はその少女を不思議だとは思わなかった。
俺はその人を知っている。
「黒瀬」
俺がそう呼びかけても彼女は答えない。ただ彼女の瞳が俺を見つめて来るだけだ。
雪のように白い肌に、何処までも引き込まれる深い黒をした瞳。そのコントラストは俺がかつて何よりも好きだったもの。今でもまだ何よりも焦がれているもの。
彼女に言いたいこ事は山ほどある。あるのにいざ目の前にすると言葉が思い浮かばない。
それでも俺はこの言葉だけは絶対に言わなければならない。
「……ごめん」
彼女を苦しみから救えなかったことに対する謝罪。
それが、あの日から俺がずっと言いたかった言葉。
黒瀬はその言葉を聞くと微笑んだ。本当に少しだけど。でもその顔は悲しそうに見える。
彼女は少し間を空けると口を開いた。
「いいの、私あなたのことを恨んでなんかないから」
「でも……」
「……あなたはいつまでも私に囚われてるべきではない」
分かってるんだ。その微笑が無理してること。だから。
「そんな悲しいこと言うなよ」
その言葉に黒瀬は微笑むのを止めて、左右に首を振った。
「あなたはもうあの人を見ているから。それを束縛するわけにはいかない」
言い返す言葉が見つからない。
それは本当のことだから。
それでも俺は黒瀬のことを忘れられないし、忘れたくない。
「死んだ私のことよりも、生きてる彼女を想って。あの人を救えなかったら今度こそ私はあなたを許さない」
その言葉に俺は気がついた。
やっぱり黒瀬もまた紫郷さんに自分の姿を重ねているんだろう。どちらも深い悲しみの中に生きてきたから。
だから今度こそ俺は守りたいんだ。
「正直、今の俺に何が出来るかなんてわからない。でも、もう後悔はしたくない」
「その言葉だけで十分」
黒瀬の心からの笑顔。恐らくはこれが最後の……
「生きている間は気がつかなかったけど、ふと思うの。人の苦しみが分かるってことは、人のその苦しみを取り除いてあげれるってことじゃないのかなって。私には出来なかったけど、あなたならきっとできる」
俺もそうありたいと思う。それは理想なんだ。でも人の苦しみを感じ取りそれを受け止め、更にその苦しみから人を救うと言う事は人間として強くなければ出来ない事。俺はその理想に近づく事ができるのだろうか。
「誰かを救おうと思えるだけで。あなたはもう十分な力を持ってる」
名残惜しそうな顔をすると彼女はそう口にした。
「言いたかった事はそれだけ。あなたの言葉を聞けて、それだけでもう私に悔いは無いわ」
その言葉と同時に闇の中に浮かぶ彼女の姿もだんだんと色あせて、薄くなっていく。だんだんと闇に消えていく黒瀬の姿。俺はそれを見ていられなかった。もっと話したいのに、もっと一緒に居たいのに。俺にはどうすることも出来ない。黒瀬は最後に消える瞬間に一言「さようなら」と残した。
いつかこの日が来ることは予想していたけど、それでも実際に直面するとやはり黒瀬と分かれるのは辛い。
例えこれが夢の中だと分かっていても黒瀬との別れはこんなにも
___悲しい
朝。
どんなに辛いことがあっても時間は無情に過ぎていく。まるで俺のこと等は知らないとばかりに、朝は必ずやってくる。
黒瀬が死んだ日も、シュウギに胸を刺された日も、そして今日も朝はやってきた。
俺はいつものように、夢の内容を思い起こす。
今日の夢はいつもと違ってあの日の記憶ではなかった。今と言う時の中での別れ。それが夢の中でまで彼女が俺から本当に離れてしまったのだと実感させる。
唐突にちょっとした不快感を覚えて、ふいに頬に手をやった。手に何か濡れた感触が伝わる。
「俺……泣いてるのか?」
情けないな。そう呟いて俺は服の袖で眼の涙をゴシゴシと拭った。
「泣いたって過去を変えられる訳じゃないんだ」
昨日の夜の紫郷さんの姿が思い出される。
あの冷たくて深い悲しみは尋常なものではなかった。その悲しみが紫郷さんの心を削っていったのだろう、あの時の彼女は確実に壊れていた。生き物のそれとは思えない冷たい声。光を宿すことも無くただ宙を捉えるだけの紅い瞳。狂った殺意。そして妖人を殺し続けなければいけない彼女の運命。
その姿は哀れとしか言いようが無い。
だから俺は絶対に彼女を守ってみせる。今度こそ黒瀬の二の舞にしないために。
もう俺は二度とあいつみたいな人を出させたくないんだ。
ガラッ
例の如く突然襖が開いた。襖を開けた主は言わずもがな紫郷さんだ。俺は昨日のことと、今さっきの決意のこともあって正直紫郷さんを見て緊張してしまっている。
しかし紫郷さんを見てみれば、当の本人はまるで昨日のことなど忘れてしまったかのような平然とした様子だ。
「おはよう。今日も早起きのようね」
そう言う彼女の顔は笑顔まで浮かべていた。
「え……あ、その」
俺は緊張のあまり言葉を出すのもままならない。
「朝食はもう龍水さんが作っておいてくれてるから、少ししたら食卓の方に来てね」
「ゎ、わかりました」
俺が返事をすると彼女は振り返って部屋から出るしぐさをした。しかし襖の前で俺に背を向けたまま突然立ち止まった。
「それとね水島君」
今までの口調が一転して、突然まじめな声で彼女は俺の名前を呼んだ。俺の手のひらから冷や汗が出てくるのが分かる。
「はい」
「……昨日のことは悪かったわ。もうあんな失態は見せない。だからあの事は忘れて」
彼女の声は微かに震えているようだった。
「俺はあんなに辛そうな紫郷さんの姿を忘れることなんて出来ません。……そういうの、紫郷さん一人で抱え込んでるところは見たくないです」
それを聞くと彼女は感情の無い眼で俺を見つめた。
「あなたこそ……」
そう言うと彼女はそのまま振り返ることも無く部屋から出て行ってしまった。
***
食卓には既に龍水さんと紫郷さんが座って食事を食べ始めていた。龍水さんが大きな声でおはよーさんと言ったので、こっちもおはようございますと返した。
机の上には既に俺の食器が並べられている。メニューはご飯、味噌汁、納豆、菜花のおひたしとジャガイモなどの煮物。いつも通り和食だった。実は俺はあまり和食というものが好きじゃない。でも龍水さんの作るものは別だ。これなら毎日でも食べたいと思うほど彼の作る食事はおいしい。
「いただきます」
食膳の挨拶を口にすると俺は食事に手をつけた。やはり予想通りどれも美味い。白米だけでも美味いと思えることからして、恐らく米の炊き方に至るまで相当にこっているんだろうなと思った。
「ところで」
先にご飯を食べ終わった紫郷さんが、食卓にお箸を置きながら俺に話しかけてきた。
「昨日も話したけど、今日はこの町の有名な封魔の家元さんの所に行くからあなたにもついて来てもらうわ」
「俺もですか?」
「えぇ。知っておいた方がいい事もあるだろうから。時間は1時頃に出るわ。忘れないでね」
「はい」
「それともう一つ、朝食を食べ終わったら昼まで剣の稽古だから。そっちのほうも忘れないように」
「ぶっ」
思わずご飯粒を吐いてしまった。
そうですよね、毎日練習するんですよね。
はぁ。欝だ……
「何?」
紫郷さんがジロリと視線を送ってくる。はっきり言って怖い。
「いえ、何でも無いです」
そんな会話をして、朝の一時は過ぎていった。
***
……空は澄み渡り、太陽はさんさんと輝いている。まだ2月だと言うのにまるで春のような爽やかな陽気の中、そんな世界から隔離されたかの如く、俺は一人広い芝生の庭の真ん中で寝そべりだらだらと汗をたらしていた。
「はぁはぁ……も、もうだめ。死ぬ」
「今日の練習はこのくらいでいいわね」
ほとんど刺青の力を使わずに3時間の間で素振り1000本。そして更に腹筋、腕立て伏せまでやったのに、それをこのくらいと言い放った紫郷さんの声に俺は絶望した。しかしまぁ、とりあえず練習が終わったのだから一安心だ。
「さてと、そろそろ時間ね。家本さんの所に行かなければならないから、少し休んだら洋服に着替えてきて。汗もかいただろうし、流石にその和服じゃ外だと目立つから」
「その退魔をしている人の家はどこにあるんですか?」
「近いわよ、ここから一時間も歩かないわ」
そう言いながらそれを聞いて俺は何とか立ち上がると、背中についた誇りを手ではたいた。
「ふぅ……じゃあ着替えてきます」
頷く紫郷さんを後ろ目に確認して、俺は玄関に向って歩いた。
着替え終わって玄関から出ると、家の門の前に紫郷さんが立っていた。木で出来た引き戸の門はやはり立派なつくりで、まさしくこの武家屋敷のような家に相応しいものだ。
「それじゃあ行くわよ」
「はい」
2人で一緒に門を出る。
龍水さんの家は周りを木で壁のように囲っているので外の様子が分からない。そもそもこの屋敷自体が何処にあるのかということも知らなかった。おかげで俺は自分の見ている光景を疑った。
ここは俺の通っている学校から歩いて30分もあれば来れる住宅地の一角だ。この辺りは俺の活動範囲だからよく知っているはずなのだが、今まで一度も俺はあんなにでかい和風の御屋敷を見たことがない。
どうなっているのだろうと思い、俺は今出てきたばかりの門に振り返った。
「あれ?」
俺はまたもや自分の眼を疑った。
おかしなことにさっきまでそこにあったはずの龍水さんの家の門がなくなっているのだ。今俺の視界に移っているのはただの民家の壁だけで、何処にもあの武家屋敷のような門はない。
それは何度眼をこすってみても同じことだった。
「驚いた? これは結果の力よ」
「結界?」
「そう、結界。妖人たちに家の存在を悟られない為のね。本当は家の門はすぐそこにあるし、ちゃんとあなたの目にも写ってる。でも結界の力でそれに気がつくことが出来ないのよ」
「見えているのに気がつかない?」
「えぇ。例え眼に門の姿が映っていても、脳がそこに門があると認識できなければ結果的には消えてしまった様に錯覚してしまうのよ」
「よくわからないですけど……これじゃあ何かあった時に戻れないですよ」
「大丈夫。そういう時にはこれがあるから」
紫郷さんは上着のポケットから何かお守りのようなものを取り出した。文字のようなウネウネとした模様が描かれている長方形の木の板だ。
「これを手の平に握っていれば結界の効果を無効に出来るわ。はい」
言われるがままにそれを受け取ってみる。
そして気の札を手に取った瞬間、突然俺の視界の中に今さっき俺が出てきたばかりのあの武家屋敷のような門が現れた。お守りを渡されるまでまるで空気みたいに見えなかったのに、これはなんとも不思議な感覚だった。
「凄いですね、これ」
「でしょう。大事なものだから絶対になくさないでね」
そう言われて俺は念入りにズボンのポケットにそのお守りを押し入れた。
「じゃあ私についてきて」
紫郷さんはそう言って先に歩き出した。その後ろについて俺も後を追う。
住宅街の道をまっすぐに突き進み、突き当りの信号を右に、そしてその道に沿って歩き今度は左の横道に進む。その先にあるのは学校で、紫郷さんと俺はその横を通り過ぎていく。ここのところ曜日感覚が無くなっているので正確には言えないが、昼間からグラウンドに生徒が一人もいないことからして今日は土曜日か日曜日だろう。
やがて校門の前まで来ると、その前のただまっすぐな通学路を歩いていく。この辺りは非常に建物が少ない。紫郷さんと俺は見慣れた町並みの中を歩いていく。俺がこの町並みを見慣れているのも無理はない、だってここは俺の通学路で、今までの約3年間ほぼ毎日通ってきたのだから。
(世の中何処に何があるかなんてわかった物じゃ無いな)
町に徘徊する人の魂を食う化け物、誰にもその存在を悟られることの無い時代錯誤な武家屋敷。そして毎日通った通学路の先の封魔という職業の人の家。
まったくもって、出来ることならこんなことは知らないで生活したかったものだ。
俺はここ数日のことを思い出してどっと精神的に疲れがたまった。
「もうすぐよ」
俺の前を歩いたまま、紫郷さんは振り向くこともなくそう言った。
ここは俺の家と学校の中間辺りの位置で、勿論ここもまた嫌という程見慣れている場所だ。
「着いたわ」
「え?」
俺は彼女の言葉と自分の目を疑った。確かにここ数日はあまりに異常な生活を強いられてきたけれども、それでもまさか”俺のありきたりな日常”までもこっちの世界に引きずり込まれるなんて、驚嘆というよりもう絶望するしかない。
紫郷さんがここだと言う家は特に何の変哲も無い普通の民家。
……と言うか小橋の家だった。
[紅夜 4日目 下]
「……? 知ってるの? ここ」
少し不思議そうな顔をする紫郷さん。
「知ってるも何も……」
今まで毎日のように上がりこんで来たんですけど。
「そういえばこの家の息子さんも高校生って言ってたわ。友達?」
「えぇ」
あらそう。と言う彼女には特に驚いた様子も無かった。
「この家の仕事が封魔って言うことを知らなかったのも仕方ないわ。前にも言ったけど、一般人にはそういうことを知られてはいけないから」
そう言われても俺はやはり絶望せずにはいられない。まさか小橋がこっちの世界の人だったなんて。
「ここで話していても仕方ないわ、とりあえず上がらせてもらいましょう」
そのセリフと同時に彼女はインターホンを押した。小橋の家の中にインターホンの音が響く。数秒たって、インターホンから小橋のおばさんの声がした。
「はい?」
「今日伺う約束をしていた紫郷です」
「はいはい。話は龍水さんからも聞いてるわよ。どうぞ、あがってちょうだい」
聞き慣れたはずのおばさんの声。しかし今日はそれが酷く遠い存在のものに聞こえた。
玄関に入るとそこにはおばさんが立っていて、俺たちを迎え入れてくれた。
おばさんはもうこの数日間何があったのかを知っているようで、俺を見るととてもすまなそうな顔をしていた。
「ごめんなさい、水島君。あの時私が無理に夕食に引き止めなければ、こんなことにはならなかったのに」
俺は何度も気にしないでくださいと言ったが、それでもおばさんの顔は曇ったままだ。
そのやり取りを何度か繰り返した後、おばさんは俺と紫郷さんを和室に招き入れた。
「どうぞ座って」
和室の真ん中には長方形の机が置いてあり、そこには既に小橋と、恐らく俺達と同年代と思われる見知らぬ女性が隣り合って正座していた。俺は小橋の顔を見ると、小橋も俺の顔を見た。
「よう水島。この数日散々だったみたいだな」
小橋は俺の気も知らずにいつものように笑顔を浮かべている。
「簡単に言ってくれるじゃないか。こっちは死にそうになったんだぞ」
俺は本当にいつもと変わらない小橋の姿になんだか苛立った。
「気持ちは分かるけどな、そうぴりぴりすんなって。今生きてんだから問題ないだろ」
「ったく。お前は本当に能天気な奴だな」
そう言いながら俺は小橋の正面に腰を下ろして正座した。紫郷さんもそれに続いて俺の横(見知らぬ女性の正面)に座る。みんなが座り終えるのを見て、最後におばさんが俺と小橋の中間の位置に座った。
「所でそこの女の人は? 兄妹がいるって話は今まで聞いた事ないけど」
面倒臭かったので、俺は単刀直入に小橋の隣にいる少女に眼をやりながらそう言った。彼女の髪の毛は肩より少し上の位置で切られていて、色は薄い茶色をしていた。年齢は俺と同じくらいだろうか? その顔はまだどこかあどけない。しかしその無表情な顔とキレのあるつり眼で、俺は彼女に大人びた印象を受けた。
「あぁコイツね。コイツの名前は山塚冴子。その、えーとなんて言えばいいんだろう。うちの封魔、と言うか退魔見習いってとこかな? 俺と一緒に妖人を倒す修行をしてる。勿論兄妹じゃないぜ、ひょんなことからの腐れ縁みたいなもんだ」
「ちょっとまて。いつから私が退魔見習いになんてなった? 私はお前と修行なんてしているわけじゃない。ただ”遊び”でやっているだけだ」
山塚という少女の見た目はとても大人しそうに見えるのだが、口調の方はずいぶんと恐ろしい。俺はその彼女の印象のギャップに驚いて、思わず彼女の姿を眺めた。
そうやって彼女を観察した矢先、ふと俺は彼女のある異常に気がついた。それは容姿の異常ではなく心の異常。
(……抜け殻)
彼女の心はカラッポだ。彼女からは何の感情も感じない。
俺は黒瀬のネックレスをつけている限り、普段どんな人からでも多少の負の感情を感じる。それは勿論、人によって大小はあるのだけど、それでも何も感じないという人はいなかった。しかしこの少女からは全く何も感じない。それはまるで生きる人形、はたまた人間にそっくりなロボットであるかの様だ。それはとても恐ろしい。
俺はとっさに彼女から目線をそらせた。
場の空気を察してか、おばさんは強引に山塚さんに俺と紫郷さんのことを紹介した。山塚さんは特に興味もないという様子で、「どうも」と一言だけ挨拶をしてきた。そして場が静まり返る。
「さてお互い自己紹介も終わったところで、そろそろ本題の話しに入ろうかしら」
そう言っておばさんは俺と紫郷さんを見つめた。
「率直に言うわね。私達にシュウギを倒すのを手伝って欲しいって事だけど、それは出来ないわ」
「え」
俺はショックのあまりつい声を漏らしてしまった。紫郷さんとおばさん達が戦ってくれれば俺の出る幕なく今回の事件が終わってくれると思っていたのに。
「なぜですか?」
紫郷さんもその言葉が意外だったのか、とっさにそう口にした。
「実は本当につい最近のことなんだけど、別件の妖人退治の仕事が入ってしまったのよ。今回の仕事はちょっと今までに類を見ない奴でね、あなた達に手を貸せる時間を作れそうに無いの」
「そんな……」
俺の希望はどん底にまで落とされた。
「ただシュウギについては今までいくつか調べが付いてるから、その情報を教えてあげることは出来るわ。今の私達に出来るのはそれくらいね」
「いえ。そういう事情ならそれだけで十分です」
申し訳なさそうな顔をしているおばさんも、紫郷さんのその言葉を聞いていくらか顔が明るくなった。
「まずシュウギの魔力の性質について。あなた達ももう知っていると思うけど、奴の魔力の性質は非常に珍しいわ。特異とも言える。魔力の物質化、それが奴の力」
それを聞くと小橋は「へぇ」と感心したような声を漏らした。おばさんは話を続ける。
「魔力の物質化の力を持つ者は一世紀に3〜4人程度と言う話だから、その魔力の特異性は尋常なものでは無いわね。ただしそれが最大の欠点でもあるわ。妖人はほとんどの者がその体や能力に何らかの疾患を持つと言われているけど、シュウギはその中でも特に酷いみたい。奴の場合は……」
「魔力の慢性的な漏洩」
そこで紫郷さんが口を挟んだ。
「その通り。シュウギは己の意思とは無関係に体から魔力が垂れ流れてしまうという疾患がある。そのせいで恐らく魔力が下がる昼間の間は身動きすらとれないでしょうね。例え夜であっても大量の魔力を必要とする魔力の物質化を何度もやれば、あっという間に体力を消耗してしまう」
そこで一旦話を切ると、おばさんは机の上に置かれていたコップを取り中身のお茶を口にした。
「アドバイスだけど、シュウギと戦う時はできるだけ持久戦に持ち込みなさい。確かに奴の力は厄介だけど、魔力を浪費させて体力を奪えば決して手ごわい相手ではないわ」
俺達はその言葉を聞いて小さく頷いた。
「問題はむしろシュウギの仲間ね」
おばさんの声を聞き、突然紫郷さんの表情が変わった。とても真剣な目つきになっている。
「実はこっちの方は私達でもよく分かってないの。分かっていることは仲間は恐らく一人ということと、そいつはおそらく妖魔であるということだけ」
見ればしゃべっているおばさんの表情もまた紫郷さん同様強張っているみたいだ。
「妖魔は妖人とは違って不完全な生き物ではないわ。古来からの魔の血を色濃く残す妖魔は、魔力を使う生物として完成された存在。妖人のように致命的な欠陥を持つこともなく、寿命も人間かあるいはそれ以上。はっきり言ってかなり厄介な相手だと思う」
シュウギに胸を刺されてからいったい何度目の絶望だろう。俺は倒れそうになる気分を必死でこらえた。
なぜか小橋もまた非常に辛そうな顔をしていた。何かを酷く悲しむようなその顔は、つい数日前に見てばかりのような気がした。
「ただこの妖魔はずいぶん実戦経験が少なさそうね。魔力に本格的に目覚めたのは最近のようだから。これは不幸中の幸いね。いい? 例え相手が妖魔でも必ず弱点はあるわ。それが実戦経験の少ない者ならなおさらよ。あなたたちなら落ち着けば必ず倒せる」
自信を持って。そうおばさんは最後に付け足した。
「何か聞きたいことはあるかしら?」
少し考える様子を見せた後、紫郷さんが口を開いた。
「なぜその妖魔がシュウギに加担を?」
「さあ……むしろその理由はあなたが一番分かっているんじゃない?」
その言葉に紫郷さんは微かにうろたえた様だった。
その後一時間ほど様々な話しをした後、俺達は戻ることにした。
玄関で靴を履いて、それではと一礼する。
「そうそう水島君、あなたの家にはちゃんと私の家に泊まってるって口裏を合わせておいたから、その事は安心しておいてね」
「どうもすいません」
玄関のドアに手をかける。
「そして、紫郷さん。この件が片付いたらあなたともう一度ちゃんと話したいことがあるの。森神家の事について」
紫郷さんはおばさんのセリフに酷く驚いて、そしておばさんの顔をまっすぐに見た。
「……知っていたんですか? 私のことを」
「えぇ。知ってるも何も、あなたのご両親とは子供のころからの親友だったからね」
その声に一層驚く素振りを見せる紫郷さん。
「分かりました。シュウギを倒したらその後は必ず」
「約束よ」
おばさんがそう言うと小橋が俺にもしゃべらせろとばかりに顔を出してきた。
「じゃあな水島。覚悟を決めろよ」
いつもの事ながら元気で明るい小橋の声。何となくいけ好かないが、こいつを見るとこっちまで元気になった気がする。
「ああ。任せろって」
その声に俺もできるだけ元気に返事を返し、俺たちは小橋家を後にした。
龍水さんの家に戻った後、俺はまた紫郷さんの厳しい特訓を受けさせられた。不思議なことにわずか1日や2日程度しか練習をしていないのに俺はどんどん己の技量が上達していくのを感じた。
しかし練習が辛いことに変わりは無く、4時間後には死にそうな形相で食卓の前に座って夕飯を口にしていた。
「おいおい、平気か? 紫郷の訓練は並みのものじゃないからな、このままじゃ殺されるかもしれないぞ」
その様子を見て龍水さんが話しかけてきた。冗談めかしながらも、龍水さんは俺のことを心配してくれているようだ。
「確かにこのままの状態だとそのうち死にかねませんね。けど、この2日間でもだいぶ慣れてきたからたぶん平気だと思います」
「そうか。でも体には気をつけなきゃならん。今日はもう寝ろ」
時間は午後8時。まだ寝るのには多少早すぎる時間だが、今の体の状態と龍水さんの言葉もあって大人しく寝ることに決めた。
今、俺の部屋として借りている6畳の和室の部屋に戻って布団を敷くと、俺はあっと言う間に眠りについた。
[5日目へ続く]
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2004/08/09(Mon)22:36:35 公開 / junkie
■この作品の著作権はjunkieさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
読んで頂いた方、どうもありがとうございます。
やっとストーリも中盤。4日目が終わりました。それにしても割とのほほんとした一日。小橋親子もなんか微妙。気にしない。いや気にしろ自分。
それはおいておき、これから感想はこっちで書こうかなと思います。
髪の間に間にさん、お世話になっております。シーンのごたごた。おっしゃる通りですね。黒瀬の夢と、小橋家乱入の2つをうまく話しにまとめることが出来なかったなぁ、と思います。出来る限り気をつけて行きます。
それと、バイ夫さんの葬儀は僕も行きますので、おまんじゅうください。