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『コード・オア・コード (序〜序・九』 作者:春一 / 未分類 未分類
全角62957.5文字
容量125915 bytes
原稿用紙約217.95枚

 ―序―

 
 彼のメロディは、侵されつつあった。
 彼のメロディの中に、不協和音が紛れ込んだのである。
 その不協和音は初め、ただ一つの音符に過ぎなかったが、やがて両隣の音符を、五線を侵食し、ついには楽譜全体を蝕んでしまった。
 その不協和音は初め、単なる胸の痛みにすぎなかったが、やがてそれは広がり、四肢を侵食し、ついに彼は眠ったままとなった。
 今や、彼が不協和音となりさがっていた。
 彼の意識を取り巻く彼自身が、その全ての間違った旋律が、残りの一音符――本物のメロディとして生きる彼を、包んで喰らおうとしている。
 彼は、消滅を覚悟した。
 自分の存在の、消滅を。
 が、
(…いやだ…)
 彼はそう覚悟するには、諦めるには、若すぎた。まだ十にも満たない子供だったのである。
 生死。
 そんな複雑な事象について、彼は今まで一度も考えたことはなかった。ただ、その現象の先にある不安、誰もが持つその不安から『そうなりたい』とは思わなかった。当然の、ごくごく普通の願望である。
 しかし今の状況は、彼のその最低限の願いを適えることすら拒んでいた。万に一つの可能性がない訳ではないが、厳しすぎた。
 喰らおうと蠢く、闇。
 生きようと足掻く、命。
 と、
 そこで幸いにも、『それ』は命に、最後の一つの音符に味方したのである。
 それは、単なる偶然。運命の気まぐれ。味方した『それ』にすら選ぶことは出来なかった、『結果として彼が助かる』、ただそれだけのこと。
 それは、一枚の楽譜。
 その楽譜が放ったのは、不可思議で青白い、冷たさを感じさせる光だった。
 その光が揺らぎ、狼の姿を紡いで、闇を喰らう。
 引きちぎる、
 噛み砕く、
 喰らう、
 喰らう、
 喰らう、
 喉を鳴らして、飲み込む。
 それは状況的には味方だったが、彼は恐怖する。何故なら彼は、単なる光と闇という物質的な関係ではなく、何か体組織的な生生しさというものをその光景に感じたからである。
 戦慄が膨れあがって、彼は飛び起きた。体中から噴出している汗は、最初から冷たかった。
 白い部屋だった。
 彼はベッドの横に人影を見つける。
 焦点が合い、像を成す。
 彼と同じくらいの歳の女の子が、必死に涙を堪えながら彼の方を見ていた。
 ああ、帰って来たんだな、と彼は思った。
 女の子は彼の胸にすがりついて、ダムが決壊したように大声を上げ、泣きじゃくり始めた。
 彼は、照れて赤くなった頬を少し掻いてから、ぽん、と、女の子の頭に手を置き、撫ぜてやった。
 撫ぜる度髪飾りの鈴が、ちりり、と鳴った。

 そして彼に残されたのは、この少女ただ一人だった。
 この少女以外の大切だった色々なものを代償として、
 彼には、あるメロディが聞こえるようになったのである。




 




 ―第一楽章―



 



 「聞くことから始めよう」





 
 七月二十日 県立望星【ぼうほし】高等学校 三階の教室

 空も心も晴れ晴れとしていて、浮き足立った気分の生徒達のざわめきの中


 ざんばらの髪、やや鋭い目つき。しかしどこかクールになりきれていないような、あどけなさを残す少年。
 大きな瞳、肩くらいの栗色の髪。小柄で、彼と同い年とは思えないような幼い表情。よせばいいのに髪飾りに鈴などつけているため、さらに子供っぽく見えてしまう、そんな少女。
 後者が前者に、駆け寄りながら話しかけた。鈴の音が陽気に響く。
「ソロ、成績どうだった?」 
 ソロ、と呼ばれた彼は、長い間机の中に置いたままにしていた教科書達を鞄につめながら、一学期終了の安心感からか、ふう、と軽い溜息をつく。
「…いつもどーおり。ん、でも音楽が上がったかな」
「え、いくつ?」
「10」
 10段階評価中の10。これ以上上がることのない数。
 彼は心中ではそれなりに嬉しく思っていたが、それを努めて声に出さないように心がけていた。この年頃にありがちな、見栄である。
 幼馴染はそれを聞き、大きな目をさらに見開いて驚く。
「10? だって今まで、8ばっかりだったよね?」
「ああ、けど、今回は実技ばっかだったから」
 そうなのである。今度の一学期は音楽の試験には筆記がなく、歌だけの実技だった。普通の高等学校ならば、音楽の試験には期末考査しかない。一発勝負、且つ得意な実技で来た試験だったので、彼は「10」という一般的に良いとされる栄光を勝ち取とることが出来たのである。
 彼は、何故か音楽の実技に関しては異常に良く出来た。どこぞでピアノを習っていたとか、音楽関係の部活に所属しているとかいう訳でもないのに、歌では決して音程を違えることがなく、指揮をすれば的確で、終いには初めて見る楽譜を読みながらヴァイオリン演奏(!)をすることすら出来た。
 ただ、筆記試験に関しては別である。どの作曲家がどの曲を作っただとか、ロマン時代が云々だとかいう知識は、彼の異常なまでの音楽センスをもってしても、どうすることも出来なかった。一度聞いた曲がなになにだ、と言い当てることは出来たが…。
 そっかなるほど、と彼女は納得する。三歳の頃からの付き合いなので、彼のその才能(?)については勿論良く知っていた。
「鈴音はどうだった?」
 彼が聞くと、鈴音と呼ばれた彼女は少し嬉しそうに言う。
「ふふん、こっちも上がったよ? 総合で1だけだけど」
「ほう、頑張ったね。偉いな、鈴音は」
 と、彼は褒めの意思表示として、且つ日々の日課(十年間続けている日課である)として、彼女の頭にぽんと手をやる。
 対象である鈴音も十年間変わらぬ執念と意思で、上目使いならぬ三白眼でソロを睨み、十年間変わらぬ対応を行う。
「……。妹扱いしないでよ」
 と、手を振り払い――は何故かせずに、抗議だけ。
 その後の彼の返答も、変わらずの味を出す。勿論手は、鈴音の頭に置いたまま。
「妹扱いなんかしてないよ? ただ、手を置くのに丁度いい高さだったからさ」
 詳細を挙げると、音坂ソロ:176cm、烏丸鈴音:148cm、である。確かに、丁度いいっちゃあ丁度いいのかも。
「…いつか追い越してやる…」
 十年前ならまだ見込みはあったろうが、今となっては不可能――…もとい、手遅れだった。   

 幼馴染同士で、同じ学校に通っているのも珍しい。
 ただこれは、当人達曰く、『成り行き上、仕方なく』なのだそうだ。
 事実は闇の中、もとい当人達の胸の中に葬り去られている訳である。――と、こんなことを書き連ねていると、二人の猛抗議が来そうなのでここで終わるこ――、うわもう来た邪魔だあっち行ってろのろけは今度聞いてやる髪引っ張るな痛い痛い。
 
 帰りがけ、ソロはいつものように鈴音と昇降口を出ようとすると、
「おっと、音坂、帰るのか?」
 クラスメートの一人、神崎夜一【かんざきやいち】が声をかけて来た。彼はソロの、高校入学以来の友人である。高校での友達は、クラスが変われば友達も変わるというありがちな傾向に流され、二年になってからはメンツががらりと変わっていたが、夜一は部活(剣道部である)が一緒なせいもあって、例外だった。 
「ん、帰る。今日ちょっと用事あるから。先生には適当に言っといてくれよ」
 と、ソロは苦く笑う。部活の顧問が、ちょっと怖いのである。竹刀でぶっ叩く、などという前時代的で横暴な行為には及ばないが、次に練習に出た時、とてつもない威圧感と緊張感を持って『稽古をつけられ』るのである。それでも筋の通った先生だから、ソロは彼を嫌ってはいない。いわゆる『厳しいけどいい先生』である。
 夜一は用事と聞いて、少し指で顎を撫でてから、鈴音を一度見(その際彼女は『こんにちは』と挨拶)、もう一度ソロの顔を見てから、無駄で蛇足なことは何一つ言わず(これが彼の流儀なのだ)、ただ一言。
「“無常神速の殲滅を”――…グッドラック」
 ぱん、と片手をソロの肩に乗せ、もう片方の親指を持ち上げる。表情は、何故かハードボイルドが見せるような笑みを漂わせている。
「「馬鹿」」
 二人がハモり、夜一は今度は外国人のように、肩をすくめた。



 外は暑い。
 二人の家――ではなく、隣同士に並ぶ二人の家は、ギリギリ学校の徒歩圏内である。
 であるからして、約25分間の道のりを歩き通すことになる。電車で通うには、微妙に近い距離である。帯に短し襷に長し、な位置だった。
 川沿いの土手を大分歩き、その川を横断する長めな橋を渡り、商店街を越し、やっとこさ住宅街。帰宅である。
 普段は自転車通学をしている二人だったが、今日は違う。今朝になって鈴音の自転車がパンクしていたことに、鈴音本人が気付いたのである。彼女はソロの自転車への便乗を希望したが、彼は男の、子供っぽい見栄を最後まで貫き通し、それを拒みきったのである。しかしながら、自分だけ自転車に乗って行けるような白状者でもないので、彼は優しくも鈴音と徒歩で学校に行ったのである。
 ここまで二人が一緒に通学することを前提に話したが、実際いつもそうしていた。当人達はまた『習慣上、仕方なく』を決め込むであろうが、作者の主観としてそれは――また出たやめろコンセント抜くなわああ。
 襲われる間にも、二人は商店街まで歩いていた。
 そこは円筒を半分にしたような、透けた屋根のあるアーケード街だった。この町の買出しの拠点として、主婦はもとより、大型の電気店やレコードショップもあるので、若者の姿も珍しくない。最近にしては稀な、以外に賑わっている商店街だ。
 「ようこそ望星商店街へ」と、お決まりの文句の書いてある、入り口のアーチをくぐったあたりで、鈴音が鞄から小さな冊子を取り出しながら切り出した。
「何時から行く?」
 例の、用事の話である。二人は「あくまで幼馴染として」映画に行くことを約束していた。
 部活をすっぽかしてまで行くこの予定だったが、ソロとしては、ある理由から、
「ああ――…どうしようかな…。鈴音が決めていいよ?」
 自分で、刑の執行の時間を決めるのは嫌だった。
 鈴音はそれを聞き、当然のようにむくれる。
「あのね、女の子っていうのはね、引っ張って行ってくれるような頼りがいのある男の子が好きなんだよ?」
 それとこれとは、別である。普段なら大体ソロがリードしている。実際それは、鈴音の行く先や時間を調べる手際があまりに悪い(パンフレットにお茶をこぼしたり、パソコンを爆発させたり等)から、という合理的な理由からだったが。
「ともかく…、今回はそっちが決めていいよ。本当に」
 と、苦い笑みを浮かべるソロ。
 鈴音はますますむくれて、
「わかりましたぁー。こっちで勝手に決めますよ」
 下唇を突き出す。その子供っぽい仕草を見、ソロは、そんなんだからガキ扱いされるんだよ馬鹿、と思うも、彼女の機嫌を損ねているので口には出さない。
 鈴音が映画の時刻の表記されている冊子をぶつぶつ言いながら繰っているのを尻目に、ソロは側まで来ていた電気店のウインドウに並ぶ、大小様々、性能も様々な、全て同じチャンネルを映すテレビを見た。
(同じ画像を映すことで、違いを見極めろとでも?)
 と否定的な気持ちを抱きつつも、目はミラーハウスに入った人間のように全く同じ動作をとる、ニュース番組の男性アナウンサーに吸い寄せられていた。
『昨夜未明、××県××市望星町の住宅街の路上に、男性が倒れている所を付近の住民が発見し、男性は近くの病院に搬送されました』
 これだけなら、ニュースにならなかっただろう。
「うわぁ、××県、この町?――怖いね」
 いつの間にか冊子から目を外し、鈴音も彼と同じ方を見ていた。怖いと言ったその口調には、まだ呑気さが漂う。
『――搬送先の病院で、男性は「やめてくれ、喰わないでくれ、」などと、うわごとのように叫んだ後、発見されてから7時間後に死亡、死因は不明…』
 これだけでも、まだニュースにはならない。
 が、次の瞬間、どこかの地図が表示された。二人には見慣れたそれは、この地域の地図だった。大まかな地図なので、主要な建物以外は省略されている。が、二人にはその空白が誰の家で、どんな人が住んでいるというのが大体わかってしまうので、少なからず戦慄が走る。
 次に、地図のいくつかの場所に×印が浮かび上がった。
『この印のつく地点で同様の事件が多数発生しており、いずれの場合も、うわごとのように大声で叫ぶ、死因が全く不明といった共通点が――』
「うわあ、こんなに…。全然知らなかった。ソロ、気をつけようね?」
 ぱっ、とテレビは、携帯電話のコマーシャルに切り替わった。が、ソロはまだテレビをじっと見ている。そして、
「…どうして今まで――かなかった…耳を――いでいた……もう――…」
「ソロ?」
 まだ、食い入るように見ている。――いや、テレビを見ているのではなく、頭の中で渦巻く全く別のことに集中していた。
「ソロく〜ん?」
 顔の前で鈴音の小さな手が残像を残すのを見て、ソロは我に返る。そして、重々しく短い声で言った。
「今日、やめよう。映画」
「え!? なんで!?」
「いいから、やめよう」
 鈴音は少し考える。そして、ソロのこの焦りようの原因を、勝手ながら見出した。
「あ、わかったぁ。今のニュース見て怖くなって、映画も嫌になったんでしょ?」
「馬鹿、違う」
「嘘。ソロくんったら怖がりぃ〜♪」
「馬鹿言ってないで、今日はさっさと帰るぞ」
「…ほんとに帰るの?」
 ソロのあまりの怖がりよう(と、彼女は解釈している)に、鈴音は流石に心配になる。と、同時に、約束をお流れにされる怒りも沸く。
「ああ、今日はマズい。ていうか、明日も明後日も」
 両者がせめぎ合って、結局勝ったのは。
「随分引きずるんだねぇ……。ま、いいか」
 と、鈴音はてくてくと、彼と別の方向へ歩きだした。
 それを見て、映画の内容以外のある理由から、ソロは本気で焦る。
「おい、どこ行くんだよ?」 
「映画。一人で行くからいいもん」
 と、すでに破裂寸前の頬。お姫様、ご立腹である。
 ソロは嘆息して、従うことにした。この、『ハムスター級頬袋』が膨らんだ暁には、鈴音が絶対に言う事を聞かないのがわかっていたし、一人にするのも危険すぎた。
「わかった。一緒に行くよ…」
 今話題の、ホラー映画を見に。
 鈴音は、泣いた烏ならぬ怒った姫様がもう笑った、といった表情とソロに飛びつかんばかりの勢いを持ち、彼と並んで歩いてゆく。
 全く我侭極まりない妹だ、と嘆息し、彼女の頭に手を置いてから(その際の抵抗は、今回はない)ソロは、十年振りに“耳”をそばだてる。
 こんな幼馴染でも、失う訳にはいかなかった。
 いや、失いたくなかった。
   
  
 

 商店街から映画館までは、大体徒歩で十数分かかる。鈴音の歩調に合わせれば、遅い時には二十分。
 その間、彼は全神経を耳に集中させ、そして、
(! ――いた)
 まだ、アレがいた。
 しかし、聴覚の感度を、さらに上げると、
(? 違う…?)
 それは、彼が昔見たそれとは違う、別種のもの。
 彼は疑問を抱きつつも、なるべくそれを幼馴染に悟られないように歩く。正義のヒーロー(自称、及び役立たず)の辛さ、もとい美学である。
「それでね、そこで、窓を破って原型をとどめてないギリギリでカラスがぱりーんっ! って…」
 ネタバレしているホラー映画を、どうして見に行く必要があるのだろうか。という疑問は置いておく事にして、鈴音は幼馴染のただならぬ様子に、やっと気付き、
「ソロ、どうしたの?」
 上目に彼を見上げる。
「いや、別に?」
 言ったその顔は、険しい。鋭い目つきがさらに鋭くなっていて、怖い。
 さっきからこうだった。何故か曲がり角の度、「こっちはやめとこう」と言い、遠回りばかりしていた。
「ソロ、何か私に隠し事してない?」
「何が」
 返って来る言葉が、毎回短い。これでは彼女ではなくても(と、鈴音は思っている)淋しい。
 それでもさっきわがままを言ってしまった引け目を感じて、そしてソロの、何かに真剣になっている顔をなんとなく見ていたくて、黙っている。根拠はないが、何か意味あることなんだろうなと考えさせられるほど、その表情には説得力があった。
 そのソロが、どこか遠くを見たまま初めて声をかけてくる。
「鈴音」
「ん? なに?」
「ごめん」
 鈴音は小首をかしげる。謝られるようなことを、されただろうか。むしろ謝るべきなのは、こっちに違いなかった。
「何が、ごめんなの?」
「ん、何となくね。ともかくオレから、離れないで」
 『オレから離れないで』。字面、滅茶苦茶に、それこそ反則気味にカッコいい言葉である。が、全く意味がわからない。ここは真っ暗闇の洞窟でもなかったし、怪物の巣食う古びた洋館でもなかった。
 鈴音はきょとんとしてから、それでもなんとなく、彼の手を緩く握っておく。
 刹那、
 その、鈴音の手の、少し汗ばんだ柔らかい感触を感じ取った瞬間、
 同時に、
 それが動いた。ソロはそう感じた。それも、こちらに向かって、
「『こんなに速く』!?」
 鈴音がその声に、びくりとする間も半秒、
「乗れ!」
 小さな彼女に向けられたのは、大きな背中。
「ぇ? え?」
「っいいから!!」
 ソロ鬼気迫る様子に気圧され、鈴音はその背中に飛び乗る。
「振り落とされるなよ」
 思い切り走り出した。
 広い場所に出なくては、と彼は思った。
 逃げるにしても、『戦うにしても』、どこか広い場所にと。
 同時に、自分への不甲斐なさが沸いてくる。どうして気付かなかった。
「ど、どうしたの?」
 舌を噛まないように注意を払いながら、鈴音が声を張って来る。が、彼はこれを無視した。
 そして彼が見つけたのは、児童公園。
 子供が見えるが、関係ない。そこが戦場になってしまえば、『獲物以外に危害の対象はなくなる』。
 公園に飛び込んで、砂場の前、一番開けた場所にソロは立ち、どこからそれが来るのか計る。
 突如飛び込んできた、大きいお友達に子供達は釘付けとなり、
 突如飛び込んできた、おんぶの兄妹に父兄の方は目を剥いた。
 そして、ソロは計る。いや、聞く。
 それがどちらから来るのか、
 それがどれ程の大きさなのか、
 それがどれだけの速度で迫るのか、
 そして、
 計った速度は、音よりも速かった。
 そして、周りの全てが色褪せ、固まり、その場を全く突然に支配し、そいつは来た。
 ソロは十年振りに、この“域”に囲まれる感覚を覚える。しかし、その“域”を紡ぐそいつの現れ方、及び容貌は、全く経験したことのないものだった。
 それは黒い、流動的な何かで構成された、人型をしたものだった。いや、影の中から人間を半分だけ出したような、しかし腕と胴だけがソロの身長の倍ほどもある、人型。
 出現方法は、俗に、いや、他に表現の方法もなく、瞬間移動。あり得なかった。『音として存在する』奴等が、空気の振動なしに、全く突然に現れたのである。だからソロは、こいつとの距離を見誤った、いや、聞き誤ったのである。
 やがて、その流動的な体が、ぐりん、とこちらを向くのがわかって、
 見つけたのは、人型の頭部に無数に点在する、金色の星。
 見つけたのは、人型の頭部に笑みを浮かべる、下弦の月。
 眼と口なのだと、ソロは理解する。
 そして、固まった幼馴染をしっかりと抱え、手のひらに自分の力を紡ぐ。
 彼にしか奏でることの出来ない“メロディ”を。
 青白い光とも鋭い旋律ともつかない、彼だけの“メロディ”が小さくも獰猛に右手の平に収束し、逆巻く。
 勝算はまるでなかった。
 自分の“メロディ”の紡ぎ方を覚えているだけだったから。
 “メロディ”をもっと多く引き出すものが、手元になかったから。
 この程度の“メロディ”では、音符を吸収され、奴の糧となるのがオチだった。
 彼は舌打ちして、それでもせいぜい攻撃的に笑う。右手の平から広がり、拳に収束する、狼のように。
 ソロは狼をさらに具現させ、密度を与える、そして、
「“リゾルー…――っ!?」
 瞬間、
「“グラツィオーソ”」
 滑らかで力強い、イタリア語の声が響いた。
 続いてどこからか、血色の旋律が舞い上がった。
 黒く細い影が、ソロの眼前であざ笑う目玉達に、幾重にも巻きついていた。
 巻きついた、一連の過程は捉え切れなかった。ただ気がつけば、『巻いてあった』。
 人型をミイラ状に巻き上げたのは、無尽、千変万化の黒いリボン。全てに血色の術式が施してあり、脈打つように明滅している。
 よく見れば、それは五線。そのリボンは紛れもなく、黒地に血色の音符が並んだ、楽譜だった。
 やがて、動けなくなったそいつに絡みつくリボンの一端が、一端が、一端が持ち上がり、その薔薇の棘のような先端が、目標を捉える。
 そして、
「調律」
 凛とした、抑揚のない死刑宣告と共に、リボンの槍達が、絡みついた自分達ごとそいつを貫いた。
 口を塞がれていたそいつは、くぐもった短い叫びと共に一度、びくりと体を振るわせ、そして動かなくなった
 そしてそいつ――不協和音――は金色の光の音階となり、耳響く不快な音色として、霧散した。
 そいつの断末魔以外に何も音を残さず、
 敵の消滅という、事実のみを残した、
 静かな殲滅だった。 
 やがてへたり込んでいたソロが言う。
「いつか…、――いつかこうなるとは思っていたけど」
「そうやってあなたは、ずっと耳を塞いできたのね」
 凛とした声で、手厳しくそう言った黒いリボンの使い手は、少女だった。
 すらりとした体躯に似合う、いずれも黒の、短いスカートと膝上のソックスに、どこまでも黒い、髪と瞳。
 凛々しく鼻筋の通ったその表情と白い肌は、アンティークドールを思わせる。
 人差し指で、血色の五線の描かれたリボンを弄ぶその妖しの姿は、ソロの同類、


 “調律士”と呼ばれている。 














 ―序・二―







 彼は病院から、忽然と姿を消した。
 ベッドの上に置いてあった置手紙には、こうあった。


 



 すずねと、おじさんおばさんへ。


 おれはこれから、すごくすごくとおいところへ行ってきます。

 だけどぜったい、かえってくるね。

 だからしんぱいしないで、おうちでまっててください。

 おねがいです。おれをさがして、みんながくるしくなるところがみたくありません。





 おじさんとおばさん、つまり鈴音の両親は、すぐに辺りを探し回った。
 しかし時すでに遅し、彼はもう望星町のどこにもおらず、結局二人は警察に連絡をした。
 その、皆が慌てふためいて彼を探す中、
 
 鈴音だけは、じっと動かなかった。
 彼を信じていた、という訳ではない。本当は心配しているのだから、信じているなどというのは、自分に対する偽りにすぎない。 
 ただ彼が起き上がった時のように、耐えていたのである。
 たった四行の手紙の中に、勝手ながら、しかし彼の本当の気持ちを見出してしまったからである。











 ―第二楽章―






 「どうも、初めまして」

 




 気付けば、セピア色に褪せていた空間は漆黒に満ちていた。
 物の影――樹木や遊具、そして人形のように佇む親子に太陽の光が遮られている部分は、全て血色に見える。
 いつの間にか、この空間の支配者が変わっていたのである。
 その漆黒の自分の庭の中で、一輪の白い花として凛然と咲く少女の横顔に、ソロは見とれていた。
 精巧な人形のような、美しすぎるつくりもののような顔立ち。腰ほどまである髪や瞳の色は黒だったが、一見して外国人と判断がつく。
 金色の音階が散った辺りをじっと見つめる、どこまでも深い輝きを宿すその瞳には、僅かに憂いの色が映っているようにソロには見えた。
 しかし一番肝心なことを思い出して、彼は陶酔の世界から呼び戻される。
「あ、あの、助かったよ、ありがとう」
 少女はソロの方を、色のない瞳で向き直る。
 そして鈴音をおぶったソロを見、その手に調律士として絶対に欠かせないものがないことに気付く。
(……モチーフを持ってない?)
 じっと漆黒の瞳に見つめられるソロは、その場にいづらくなる。固まった鈴音をおんぶしたままなので、尚更ばつの悪い感じがする。
 が、やがて、
「あなた」
 何かを訝っているような表情で声をかけられた。ソロはそれに、必要以上に焦りながら答える。
「ぇあ、あ、ああ。何?」
「あなた、蒼い狼の“メロディ”を奏でる調律士を知らない?」
 聞いた、直後。
 ばたん、とソロの心の扉が、音をたてて閉じた。
 先刻の自分の紡いだ“メロディ”を聞かれていなかったのだな、と心から醒めたように安心する。
 もう『あんなこと』は、たくさんだった。世の中の全ての理不尽と物騒と、そして絶望とが自分に襲い掛かってくるような――…そんな状況には二度と陥りたくない。
 自分が死ぬのは、嫌だ。
 相手を調律する(殺す)のも、嫌だ。
 そして何より、自分の大切な『たった一人の家族』――鈴音を巻き込みたくなかった。
 彼には当然の如く彼女の具体的な目的はわからなかったが、このまま自分の正体を明かしたら、どう転んでも『面倒なこと』に巻き込まれてしまうだろうと思った。命がけの、『面倒なこと』に。
「知らない。ていうか、狼って?」
「本当に何も知らないの?」
「知らないも何も、オレと同じ力を持ってる人に会ったのは、今度が初めてさ」
 聞いた直後、少女の顔に深く暗い影が落ちた。それは大きな期待を寄せていたアテが完全に外れた時の、失望にも似た表情だった。
「――そう、ごめんなさい。人違いだったみたいだわ」
 ソロはそれを見て胸を痛めるも、何も言わない。
 彼女は彼に背を向け、傍らに置いてあった茶色いトランクを持ち上げる。随分古びていて、金具が所々錆付いている。ソロはそれが、美術の授業で使った油絵の具のケースに似ていると思った。
 そのトランクの取っ手を掴む、その動作と共に、
 しゅるりしゅるりしゅるり、と、まるで生き物のようにリボン達が一斉にうごめいた。
 やがてリボン達は二本になり、宙に浮いて彼女の元へ届くまでの間に丁度いい長さに縮み、さらには彼女の髪にリボン結びをきめ、うなじ程の高さで可愛らしく結わえた。殲滅の為の道具から、女の子らしい装飾品に早変わりである。
 その様子を、目を剥いて見送っていたソロは言う。
「すごいな。それも――」
 調律士、という言葉を使い慣れていると不自然なので、
「――あんたの力なのか?」
 トランクを持ち上げ、二つ結いになったことで幾分か印象の幼くなった少女は、しかし語調は冷たいまま、呆れたような間を持たせてから返す。
「……あなた、『そうなって』からどれくらい経つの?」
 やぶへびか、とソロは危惧する。まさか、十年ですと答えられるはずもないので、
「先月からかな。急に変な物とか音とかが、聞こえるようになっちゃってさ」
 と出鱈目を吐いてみる。それから、先月ってのはどうだったかな、と考える。一ヶ月程度で『そうなった』ことを受け止め、さらには同類に出会い、驚きも少なにこんなにはきはきと対応が出来るのかどうか、と。
 しかし、その同類である彼女は大して疑る様子もなく、ただ深く重く嘆息した。よほど“蒼狼のメロディの調律士”に重要な用があるらしかった。
「…本当になりたてだったのね。巻き込んでしまってごめんなさい」
「いやでも、向こうが襲って来ただけだから…」
「いいえ、それでも、あなたの『大事な人』を音域の中まで入れることを許したのは、こちらの手落ちだわ」
 ソロはその言葉の中に、小さな違和感を覚え、そして訊く。
「『おんいき』って?」
 違和感は二つあったが、弁解というか抗議も面倒なので、特に気になった一個だけ。
 問われた少女は、淀みなく答え始める。
「さっき、周りの空間――いえ、場所かしら。あなたを取り巻く世界の色が、変わったでしょ?」
 不思議な言い回しなのは外国人だからかな、とソロは思いつつ、頷く。
「それが“不協和音”や私たち“調律士”が外の人たちに動きを気取られないようにする為の、“メロディ”の使い方の一つなの。力量によって大きさを自由に変えられる、防音設備みたいなものね」
 なるほど、とソロは思った。確かに“不協和音”達が思い切り暴れる為に、それは欠かせないものだった。彼ら自身の音は“調律士”にしか察知出来ないにしても、侵食中の人間が悶え苦しむ(ソロは侵食の経験者として知っていた)様子を他の人間に見られたら不自然に思われ、何人もの人間を襲うことは難しくなって来る。
 彼は昔、これを使ってすらいなかった。『向こう』がそのことに焦って、慌てて展開していたのを思い出す。
 それからソロは、周りの漆黒を見渡して、
(あの時は、紅色だったな)
 しばし、暗い感慨に浸る。
 もう何も言おうとしない様子のソロに、少女がお役御免とばかりに声をかけた。 
「他に質問は? なければ私はもう行くわ」
 ソロはうーん、と唸る。疑問だらけの時(半分知ってはいるが)改めて「質問は?」と問われると、中々浮かばないものだ。
 唸って、五秒。少女が少し、苛つくのがわかった時。
「――あ、そうだ。もう一個。……あいつらは、何であんなに速く追いついて来れたんだ?」
 苛つき気味だった少女は、質問の内容にやや態度を変える。確かに、これには説明が必要かもしれないわね、と前置きしてから、
「あれも特殊なんだけど、“メロディ”の使い方の一つね。……あなた、楽譜読める?」
「ああ、少しはね。それと関係が?」
 ソロは見栄により少し謙遜してそう言ったが、少女はそれを当然のことながら知っている。調律士は皆、音楽に愛されているからだ。知っていて、一応確認したのである。
「ええ。それはD.C.(ダ・カーポ)って私達は呼んでるけど、簡単に言えば、『一度行ったことのある場所ならいつでも行ける』って使い方ね。Codaをマーキングしておいて、後からそのマーキングした場所に一瞬で飛ぶの」
 簡潔に言い放たれたその言葉の裏にある事実に、ソロは戦慄した。
 奴等から逃げることを、現実に耳を塞いで逃げ回ることを、世界は許してくれなかったのである。
 目の前が真っ暗になるような気がした。この町にいて、奴等に見つかった場合、どう足掻いても逃げることが出来ないのである。
 絶対に、戦いたくはなかった。何故ならその先にあるのは、相手にしろ自分にしろ、死だけだからだ。
(いや、でも――)
 しかし一筋の光明にソロは気付いて、顔を上げた。
「その…Codaってやつをマーキングした箇所ってのは、この町にどれくらいあるんだ?」
 その言葉は、彼にとっては一つの活路だったが、戦場に身を置く少女にとっては『戦えるはずの者が逃げ出す算段を組んでいる』ようにしか見えなかった。彼女は先刻、彼の身を少しでも気遣ったことを馬鹿馬鹿しく思った。はなから個人的な目的の為に“不協和音”を調律しているのであって、人助けをしている訳ではないので、こう思うのは当然だった。
 少なくない嫌悪感を抱き、心中で吐き捨てる。
(そうやってずっと、耳を塞ぐのね)
 しかし彼女には、彼の心を調律する義理も意欲もなかった。胸中の毒を表情に出さないように努め、しかし語調は冷たく、
「……まだこの町には数箇所しかないわ。ただD.C.が発動しないと場所が把握出来ないから、当面は相手の動き待ち。因みに、さっきの雑魚が移動して来た場所のCodaは、もう消したわ」
 雑魚、の部分を強調してそう言った。
 そんな細やかな皮肉には気付かないソロが思い返すと、ここはあのニュースに映っていた地図の×マークの一つだった。気付かなかったことを、鈴音を巻き込みかけたことを恥じる。
 そして、少女はいきなり不機嫌になって(ソロにはそう見えた)、お役御免とばかりに言った。
「…もうないわね?」
「ああ、もうないかな。本当に色々わかったよ。ありがとう」
 少女は、
(本当にもういいのかしら…? 響器のことを、まだ話していないのに)
 そう思うも、実際他人にかまけている余裕は少なかった。先の苛立ちもまだ残っていたので、向こうがそうならそれでいい、と頭を切り替えて音域を解こうとする。
 解こうとして、思い出した。
「そういえば」
「何?」
 もう公園の端まで歩いていた少女が振り返ったのを見、ソロはもう一度警戒を強めた。
 しかし、彼の心配していることと彼女のやろうとしていることは、違った。
「その子、“調律士”ではないのよね?」
「? ああ、そうだけど」
 ソロは彼女が何を言わんとしているのかわからず、彼女に指さされ、不安げな表情のまま時の止まっている背中の幼馴染の顔を見た。
 不気味だった。固まった、とは言葉ばかりで、揺すれば髪が動いたし、背中にあたる微妙な感触も一応は柔らかい。
「その子は普通の人間なのに、音域に入ってしまったわ。だから、記憶の混乱が起こってしまうの」
「はあ、――どうして?」
「例えば私。この音域に入る前、私は彼女の目の前にはいなかったでしょ?」
「うん」
「それじゃあこの音域を解いて私が目の前にいた時、彼女はどう思うかしら」
「ああ、なるほど」
 矛盾が出てしまう。はたまた、この抜群にスタイルのいい、鈴音にとって嫌味ですらあるこの少女が、ソロと自分の前に瞬間移動でもして来たことになってしまう。理不尽な怒りと混乱と焼きもち(ソロの経験からの推察による)が同時に鈴音に沸いてきて、ソロが弁解に困り果てるのは間違いなかった。
「それじゃあ、どうするんだ?」
「眠らせるわ」
「どうやって?――っていうか、何でそうするんだ?」
「眠りっていうのは、自分がいつそうなり始めたのかわからないでしょ? だから記憶のつじつま、というよりは誤魔化しね――を合わせるのに丁度いいの。いつのまにか寝ちゃった、で全部片付くわ」
「なるほどなるほど。で、どうやるんだ?」
 次の瞬間、
「キスよ」
「へえー、キスね。キス……………………………………………。って、はあ――――!!?」
「仕方ないでしょ? そうしなきゃ片付かないんだから。自分のメロディを他人に送り込むには、この方法が一番安全なの」
 言いつつ、何故かくすりと笑った。
 くすり、と。安全なんかではない。
 ソロは背筋を誰かに舐められたような、妖しい戦慄を覚えた。
 少女の目は、いつのまにか熱に浮かされたようにとろんとし、舌なめずりこそしなかったが、その口には常に妖しい微笑が漂っていた。
 ソロはこの暑いのに、いつの間にか鳥肌が立っているのを覚える。少女の黒ずくめの服が一層その妖艶さを際立たせ、ソロは恐怖を膨れ上がらせる。
 まさか、こいつは――
「や、やめとこうよ。な?」
「どうして?」
「だって、女同士、だし……」
「でもやらなきゃ、矛盾が生まれるわ」
 言い、ソロを強く睨む。ソロは西洋の伝説の怪物に見られた騎士よろしく、その場に石化した。…勿論彼女にそんな力はないが。
 そして彼女は緩慢に、鈴音を抱いてソロから剥がし、その顔に吐息を吹きかけるように言う。
「ふふ、あどけなくって可愛い……。あなたの妹?」
「い、や、おさななじ、み」
 なあんだ、という顔になる少女。ソロは固まったまま、彼女の方を向くことが出来ない。
「なら口は、駄目なのね。あなた達どうせ、まだキスも済ませてないんでしょ?」
 いや、済ませていた。
 しかし、言えない。ともかくこの危険な少女から、鈴音の唇を護らなくてはと、ソロは決意する。
 かろうじてこくこくと頷く。
「じゃ、ほっぺね」
 鈴音の頬をさすり始める少女。ソロには見えていないが、その光景は、ちょっと仲が良すぎな姉妹が抱き合い、姉妹愛以上の意思を持って見詰め合っているように見える。
「やわらかい」
 ソロの戦慄は、極値に達する。
「ぷにぷにしてて…。あれ、何て言うのかしら、――そう、お餅みたいだわ」
 腕から無意識に“メロディ”が紡ぎ出されるのを必死に堪える。自分の中の狼が、色んな意味での危機を察知していた。
「それじゃあ、いくわよ?」
(――――っ!)
 キン、と腕から、シャープが落ちてしまった。
 その音に掻き消され、例のあの音は聞こえなかった。
 終わって尚、硬直しているソロに少女が言う。
「終わったわよ?」
 振り向くと、鈴音の寝顔がそこにはあった。不安に揺れる瞳が安らかに閉じられ、今は寝息を立てている。
「それじゃあ私、もう行くわね」
「え…?」
 ズバッ、っと、暗幕を剥がしたように音域が解除された。目を剥いていた親子が再び、眠っている少女と立ち尽くす少年を見つめる。
 やがて、何事もなかったかのように、子供は遊びに夢中になりだして、親はそれを見守り始めた。
 やがて、何事もなかったかのように、少女は去って行こうとする。
 まるで魔法のようだった。
 “調律士”という存在を、不可思議の塊として存在するそれを知って尚、魔法と呼べる、それは奇妙で幻想的な状況だった。
 古びたトランクと黒ずくめの服装が妙にマッチしていて、その魔法使いの少女の後姿はまさに、纏う旋律に哀愁漂わす、旅慣れた異邦人だった。
 が、

 きゅううう〜〜〜…………

 音域はすでに解かれていたが、その時確かに公園の時は止まった。
 その異邦人はお腹が空いていたらしい。今は確かに、まだ昼過ぎだった。
 耳まで真っ赤にした外国人の美少女、しかしとんでもない趣味を持つことが発覚した少女に、失礼でないだけの絶妙な間を持たせてからソロは言う。
「…………。なんか、おごろうか?」   
 ソロは、心から溜息をついた。それに乗って心労が、少しばかり体外に放出される。
 彼にとって今日は、色々な事がありすぎて、今も尚進行中である。











 

 ―序・三―









 彼は、樹海にいた。
 そこは、通常ではあり得ない音量と間違った旋律を持つ“不況和音”達の巣だった。
 しかし彼が向かっているのは、その奥。樹海の中でさえ、多くの“不協和音”達がいたが、それを全て捻じ伏せて進んでいた。
 捻じ伏せているのは、絶命という名の絶望を帯びる青白い剣、いや刀だった。
 刀身には蒼白の術式が施され、脈打つように明滅している。
 よく見れば、それは五線。その刀は紛れもなく、銀色の地に蒼白の音符が並んだ、楽譜だった。
 殺意、という言葉が、少しも似合わない年頃の少年は、しかし言う。
 『その状態』がどういうものなのかということを、全て理解した上で言う。
「……死ね」
 また一つ、間違った音階が断罪を下される。
 紅い血のような旋律が、周りを覆っていた同色の空間と共に、
 一刀の元に叩き斬られた。













 ―第三楽章―





 「聞こえますか?」


 




 再び、街中。商店街より少し郊外へ出たあたり。あるレストランにて。
 
 デザートのチョコレートパフェが運ばれて来た。三色(コーヒー、チョコレート、バニラ)のアイスクリームが乗り、三角帽子のようなコーンが四つつも乗った、幾重にも重なった生クリームが花嫁のブーケを思わせ、さらに量は通常の1.3倍の豪華版。
 そのパフェがこの店の人気メニューであることを、彼は今日初めて知った。甘党気味の彼ではあったが、経費節減の為、こんなファミリーレストランに足を運ぶことは滅多になかったからだ。
 その、価格600円(税抜き)を、運ばれて来た途端口に運んだのは少女。
 まるで吟味するかのように、あるいは意地を張ったような顔で、しかしそのスピードは音の如く、すくう部分が先に方にちょこんとついているお洒落な形の、銀色のスプーンで削ってゆく。
 削っては口へ、削っては口へ。その小さな口で、どうしてそれほど早く処理出来るのか。
 時々顔をほころばせたような気もしたが、やはり終始、何故かむくれたような表情でたいらげる。
 約四分で完食。
 傍らでテーブルに突っ伏して眠る小柄の少女は、この『ついでにおごってくれる』チャンスを逃したのである。
 片や、巨大なパフェを瞬殺した黒服の少女は、紙ナプキンで口を上品にふきながら相変わらずぶっきらぼうに、しかしどこか満足気な顔をして『財布』に声をかけてやる。
「悪くなかったわ」
 財布――もとい音坂ソロは、聞いた瞬間、キレた。
 が、何も言わない。だんまりを決め込むことが男の美学だと、彼は信じている。
 しかし彼の『クールになりきれていない』という客観的立場から見た性質上、どうしても反撃が出た。
「生クリームついてる、口の横」
 上品に食べ終えた、と得体の知れない満足感に満たされていた彼女は、真っ赤になってあたふたする。
「う、ぅえ!? う、うるさいわね! ――…で、どこ?」
「右、下の方、うん、そこ」
 傍目、単なる彼氏彼女の会話のようだが、その水底にはお互い強烈な意地が燃えている。
 拮抗状態に陥り、氷が小さくなって浮かぶ水の入ったグラスを同時に持ち上げ、
「「……」」
 同時に飲み干した。からん、と小さな氷が涼しげな音をたてる。
 沈黙が降り、決してロマンティックではない見詰め合いが三秒、
「じゃ私、行くわね」
「ああ」
 ソロは頬杖をつき、視線を窓の外へ外し、対する少女は席から立ち上がるもまだソロの方を見ている。
 まるで今しがた別れたカップルの生むような、殺伐とした旋律が周囲には漂っている。伴奏は、鈴音の寝息であるが…。
 男は、
(こいつ……。非道い性格してんな。こういうのと家庭を持つと大変なことになるんだろうな)
 女は、
(『さよなら』の一言もないの…? 奴等に侵食される前に私が調律してやろうかしら)
 思うも、
「私、行くわよ?」
「ああ」
「ほんっとに行くわよ?」
「ああ」
「本当にいいのね? 聞きたいことは本当にもうないわね?」
「ないよ。…だから、いいって言ってるだろ」
「――っ!」
 ぶちり、と音が。
 今にもリボンを展開し、周りの物を吹き飛ばしそうな殺気を纏って、異邦人は出て行った。ぶつかったウェイトレスには、ソロと作者にはわからなかったが、イタリア語で謝っていた。
 ガラス扉についた小さなベルが盛大に鳴り、揺さぶられ、一つ落ちた。
 その音に反応して、鈴音が小動物のように肩を跳ね上げ、起き上がった。
「わう!? 何、何何!?」
 そのベルの音に、少女の“メロディ”が篭っていたのかどうかが定かではない。
 鈴音の慌てふためく様子を無視して、ソロがつぶやいたのは、
「あ……。名前訊き忘れた……」
 そのつぶやきが聞こえた鈴音は、また小動物のように小首をかしげ、
 そして、見た。
 生クリームの残滓の残る、ガラスの器を。
「ああぁぁ――――――――――――――――っ!!!?」
 この後彼は、二種類の弁解をすることになる。    

               ◆ 

 次の日。
 むくれ顔の鈴音が、観音開きの扉の、瓦屋根のついた門の所でソロを送り出した。
「……行ってらっしゃい」
「…い、行って来ます…」
 まだ昨日の、パフェのことを根に持っているのである。
 ソロは「自分の金で買ってるんだから文句ないだろ!?」と必死に反撃、もとい抗議したが、怒った後、時に人間はその状態を解除出来なくなってしまうのだ。――意地という束縛により。
 それでも鈴音は義務として、また『昔の約束を果たし続ける』為に、健気にも音坂家へソロを起床させに、そして朝飯を作りに行ったのである。
 鈴音は家事全般が得意である。であるからして、将来いいお嫁さんになることは間違いない。誰のかと問われればそれは――お来たな今度は一人かやめろこらそれは反則だ斬るのは野菜だけにしろ。
 ソロの家は、剣術道場をやっていた。故に、家は尋常でないほど広い。伝統的な木造建築で、二階すらない徹底ぶりである。…というか、単に古いだけなのだが。
 が、今は師範がいないので剣術を教えることはやっていない。
 師範――彼の父は、また母も、十年前のあのときに死んでいた。いや、
 殺されていた。
 勿論“不協和音”たちに、侵食を受けたのである。 
 身寄りのなくなったソロは、伯父夫婦の家に預けられることになったのだが、それを鈴音が断固として拒んだ。
 当時七歳だった彼女は、音坂家でストをやったのである。一週間続いた篭城戦に勝利したのが、鈴音だった。兵糧攻めを行った家族等は、鈴音が食料をどこから運び込んで来たのかはわからなかったが、ともかく勝ったのは彼女だった。
 その後、ほとんど隣の烏丸家の養子状態となって、彼は生活している。が、彼はあまりその状況を良しとしていなかった。何年も付き合っているお隣さんだからと言って、それが鈴音の意思だからと言って、十代も後半に差し掛かった彼が感じるのは当然の如く、申し訳なさだけである。彼はいつか道場を建て直して弟子を取り、それで生計をたて、さらには鈴音の両親に楽をさせたいとすら思っている。
 音楽の道、という選択肢もあったが、彼はそれを選ばなかった。自分の両親の命を奪った力で生きるのは、皮肉が過ぎる。それに道場で父親と稽古をした時の事が、彼には凄まじく誇りに、そして懐かしく感じられていた。
 ソロは自転車にまたがり、素振り用の竹刀の入った布製の袋を肩にかける。
 今日は部活の日である。
 彼の剣の腕は、『道場を持つ』という目標を適えるには高校生としてもおこがましいような腕だったし、勿論その道へ進む不安もあったが、それでも諦める気はなかった。




 格技場は風通しがいいものの、この時期はいるだけで灰になりそうなほど、凄絶に暑い。
 逆もまた然りで、冬には足が擦り切れるかと思うほど壮絶に寒い。
 そんな地獄のような、しかし充実した練習。
 基本打突、及び返し技、出鼻技の練習が一通り終わり、小手にもいい具合に汗が染み込んで来て、次は地稽古(実践的な練習)となったその時。
「音坂、来い!」
 輪になって回る形式の練習の順番を無視して、今しがた面をつけ終わった山のような大男が吼える。
 いや、山という表現には語弊があるだろう。彼はソロと同じか、それより少し高い身長しかない。それなのにそんな印象を受けたのは、その男の放つ圧倒的な『緊張感と威圧感』によるものだった。
 その大男を畏怖し、そして尊敬する者達は彼をこう呼ぶ。
 職員室最大の音量を持つ、不良生徒の恐怖の的にして最良の話し相手、“怒号のスマイリー”。
「滝沢広樹【たきざわひろき】……!!」
 ソロは恐怖してから、
(よし、行く)
 そして、眼前で屹立する大山へと決然と言葉を送る。身の内の“リゾルート”も、あの獰猛な狼も奮い立つ。
「お願いします」
「お願いします」
 木霊が返って来て、両者構え。
「――おおっ!!」
「――っはぁ!!」
 既に気圧されているとソロは思う。突風にも衝撃波にも似た、その存在感。
 しかし、立つ。
 そして、行く。
(どうせ待ってても、滅多打ちが来る。それなら、こっちから)
「面えぇ――――!!」
 気合一声、自分の出せる最大の戦速で踏み込む。
 しかし、まるで簡単に竹刀の元結から上で捻じ伏せられる。速度が、威力が足らなさ過ぎる。
 その勢いのまま、体当たり。しかし、これもまるでびくともしない。
(いつものことだ、出来る限り、全力で不意を突く)
 この稽古は勝つことが目的ではない。しかし、だからと言って何の作戦も練らず、ただ剣を振るうだけではなんの上達もない。
 体は鍔競り合いに気を置きながら、頭は全力で作戦を練る。
(下に抑えて、その反動を利用して胴を狙う)
 竹刀の鍔と鍔が、みしり、と鳴る。こちらは既に気圧され、息が上がって来ているが、向こうは呼吸をしているのかどうかさえわからない。いつか、呼吸の様子を悟られないようにしろ、という教えを受けたことを思い出し、必死に息を小さくする。
 相手の呼吸が、僅かに「吸う」状態を感じ取った時、
「っど―――」
 刹那、
 彼の声は、脳天への凄まじい衝撃と共に掻き消えた。
 滝沢の、ほとんど突くような格好の面が、下がりつつ胴を打つ彼より速く、戦いの中ではかなり余裕ある時間の差で追撃を決めていたのである。
 一瞬気が遠のき、完全に体勢を崩すソロ。
 そこから先、彼は文字通り滅多打ちにされた。
 相手は踏み込んでもいないのに正確にポイントをとらえ、驟雨の如く打突を繰り出してくる。ソロは、相手の腕が二本あるのではないかという、現実逃避にも似た深すぎる力の差を感じていた。
 しかし、これはいつものこと。
 当たって砕けろ。劣等感を持つことすら傲慢、今の相手はそんな『奴』である。
 やがてソロの疲れの頃合を見て、滝沢は再度吼える。
「打って来い!」
(――野郎…!)
 滝沢は両腕を広げ、完全に打突の『練習に入らせる』。
 ソロは踏み込む。恨みだとかいう、馬鹿げた心情はここにはない。ただひたすらに、
(速く、打つ!!)
 面金の中心を完全に捕らえた一撃。しかし、
「顎を引けぇ、顎を!!」
 抜けるそのモーション中に、滝沢の竹刀が回転扉のようにソロの背中を押し流す。彼はほど近い壁に叩きつけられるも、竹刀を支えにはしない。シャレではない。支えに等している間に『奴』の一撃が襲って来るはずだからだ。
 疲れが出ると、顎が出て遅くなる。そう知っていても実践出来ないのが、未熟の証拠。再び打突の催促が来て、彼は再び打つ。そして今度は、床に捻じ伏せられた。腰の筋肉が悲鳴を上げる。
 そうして仰向けに倒れた上から、胴を滅多打ちに。ソロは痩せ型の為、胴の背部が床に押されて胴と腹の間が開く。故に衝撃はない、滝沢もそれをわかってやっている。しかしソロにとっては、これは相当な屈辱だった。
「――っだぁっ!!!」
 降る斬撃にも似た打突を受け止め、そしてゆっくりと立ち上がる。
 体がオーバーヒートしていた。動き、胴着の膨らみが潰れる度、顔に異常な熱気が打ち付けられる。
 滝沢は見る。ソロが足をがたがたにしながらも、しっかりと、今日一番の構えをしたのを。
「っ小手、面えぇぇ――――ん!!」
 そして今日最速の二段打ちが決まり、くずおれたソロを滝沢が受け止め、笑って言う。
「はい、よぉーし。な? わかるだろ? 疲れて来ると無駄な動きがなくなるから、打ちが鋭くなるんだよ。これ、意識してな」
「…………はい」
 褒められた。
 しかしその嬉しさを表情に現せるほど、今の彼には余裕がなかった。
 格技場の隅の壁に身を預けて、呼吸以外に何もせず止まること20秒。
 やっと、がばりと面を外した。
 かぶっていた手ぬぐいから上り立つ、とんでもない湿気の向こう側、皆は、ただひたすら稽古を続けている。『先生』の稽古が終わった後はこうして休んでいいというのが、この部の暗黙のルールだった。
 そうして放心する。胴着の中で暴れる熱がどんどん出て行き、格技場を通る風にさらわれていくのがわかる。
 せみの声がやたらとうるさく、
 いや、うるさすぎるな、とソロは感じた。
 やがて津波のように、その五感はせみの声に支配されていった。ミンミンゼミの声が、耳の中でメビウスの輪のように反芻されていく。耳の空洞が音を反響しているのか、それとも脳に焼き付いていっているのかわからなくなる。
 竹刀のかち合う音も過ぎ去る。もうせみの声が、恐ろしく感じられて来た頃、
 彼は、別の音を感じた。
 それは、ひたすらに鋭く、ピアノに指を叩きつけながら演奏するような一つの音楽。
 しかし、どこかはかなく、糸の上を指が這っているような可憐で妖しい“メロディー”。
 イメージは、血。
(あいつだ…………)
 一瞬で、わかった。あの少女が、どこかで音域を展開したのだ。
 いや、音域を展開したのではないのかもしれない、と思って、試しに音域を展開出来るはずのない鈴音の“メロディ”を探ってみる。
 探って、気付く。
 彼は、幼馴染のメロディを聞いた事がなかった。
 全ての人間、動物、物、その全てに“メロディ”が秘められているということは、彼は調律士としての勘――いや、人間が他の物からの“メロディ”から干渉を受けるという事実から、わかってはいた。間違った旋律を相手に与え、狂わせるのが“不協和音”。正しい旋律を“不協和音”にのみ与えて消滅させるのが、“調律士”。
 わかってはいたが、そのメロディを聞くことの出来るものは少なかった。彼が今まで聞いたことがあるのは、自分のものと、不協和音のものと、侵食されている時無理やり『こじ開けられて』聞こえた両親の“メロディ”と、そして、 
(あいつのだけ、か……)
 普通の人間は無意識に、自分の中に音域をつくっているんだな、とソロは始めて気付いていた。だからなに、という訳ではないが、そこで考えは派生する。
 作曲家はきっと、自分の内の“メロディ”に気付いていて、しかもその断片を表現させることの出来る人間。
 じゃあ多分、脚本家とか、小説家とか、いやそれ以外にも、『自分の一部をさらけだすことの出来る』人間はきっと、皆音域が薄いんだな、と。その音域を上手く外すことが出来るか出来ないか、そこだけが普通の人と“調律士”との違い。
 疲れた体と頭で彼の考えていること、『それはこの世の核心』だった。
 それに気付かず、少年はただ、昨日目の前から去って行った自分の同類の少女に思いを馳せる。
 初めて聞いた凛々しい旋律、
 リボンに纏わせた殺伐の棘、
 鈴音を起こした時の目覚まし、
 そして今、奏でているのは、
(なんか、淋しい感じだな)
 そこで、
「おーい音坂、いつまで休んでんだー?」
 夜一に声をかけられた。気付けば、もう座り初めてから十分近く経とうとしている。ぼんやり考えるというのは、恐ろしく時間を消費することなんだ、とソロは今更ながら学習する。
「今、行く、よっと」
 文節と同時に段階分けして体を起こし、思う。
(今度会ったら、名前くらい聞いてやるか)







 帰り道、家の角まで来て、へとへとになったソロは聞く。
「や、やめてください〜」
 どこか気の抜けたその悲鳴は、鈴音のものだった。
 脱力したようなその言い方を不思議に思いながらも、ソロは走る。
「鈴音!」
 走って、見た。
 不快、しかしいつまでも見ていたいような、そんな光景を、
 大扉の前で見た。
 やがて被害に会っている『妹』がソロに気付いて泣き声を上げる。
「あ、ソロ! 助けて! なんかこの子、変だよぉ」
 泣き声の中にも、くすぐったいのかなんなのか、嬉しさが過ぎる。
 鈴音に頬擦りしていた『姉』と目があった。途端、幸せそうに細めていた目が、きっ、と鋭くなる。無理もなかった。『別れて』から昨日の今日である。
「また会ったわね」




 音坂家、応接間。
 ソロの向かい、四角いちゃぶ台の一辺を支配する、黒ずくめの少女が切り出した。
「頼みがあるの」
 鈴音はウーロン茶を三つ用意して、お盆から二人を先に、後から自分の分を前に置く。
 そして凛とした声を発した、外国の人形のような少女の方を、少しびくつきながら見る。
「何?」
 鈴音は今度は、ソロの方へ視線を泳がせる。どうも、この二人はどこかで会ったことがあるらしい。きょとんとして二人を見比べ、頭上にクエスチョンマークが出――そうになった。
 見比べていると、黒服の少女があっという顔をして、綺麗な顔で笑って鈴音の方を向く。鈴音は立ち上がって一歩、あとずさる。頬擦りをすること自体は、彼女の肌がすべすべしていて気持ちが良かったが、その行為に秘められた妖しい意思が、彼女に回避行動をとらせていた。
 少女はそれを見てちょっと淋しげな表情になって、鈴音は少し胸を突付かれた。
「ごめんなさい、あなた――あ、すずちゃんは、ちょっと席を外してくれるかしら?」
「なんだよ『すずちゃん』て」
「さっき教えてもらったの」
 半ば強引であったらしいことは、想像に難くない。
 鈴音はびくびくすごすご出て行こうとして、今更ながらある重大な事実に気付く。
「ソロ…?」
「ん?」
「あとで、ちゃんと納得の行く説明してもらうからね」
「……それなら心配ない。『こんなん』と『そんなん』には絶対ならないから」
「? …そうなの? むぅ……、良くわかんないけど、絶対だからねっ!」
 たん、とふすまを閉める音も高く、鈴音は出て行った。
 鈴音は詮索をする気はなかった。今自分が出て行っても、場を荒らすだけだろうと思ったからだ。それにソロなら、後でちゃんと話してくれる――
(と、いいんだけどね)
 と、『信じている』を自己欺瞞気味に、鈴音は音坂家を後にした。

 応接室では、もう本題に入っていた。
「今日、連中と本格的に戦ってみてわかったんだけど」
「うん」
 ソロは驚かなかった。昼間、この少女が音域を展開したのを感じていたから。
 その自分の驚かなさ、自分の町で命をかけた戦いが行われていることを理解しているつもりで、しかしあまり実感はなかった。いわゆる、『割り切ったつもり』。
 ただ、少女が昨日とはうって変わって疲れた様子なのを見、少しばかり真剣に話に聞き入る。
「この町には“不協和音”が多すぎるわ。正直ちょっと、今辛い状況ね。このまま行くと向こうより先に、私の“メロディ”の回復力が追いつかなくっちゃうの」
「じゃ、手伝おうか?」
「うん、そう、手伝って欲しくて今日ここに――って、え?」
「手伝うって言ってるんだけど」
「だって昨日、あなた、戦うの嫌だとか…」
 少女は全く不意を突かれたような表情になる。もっともっと説得に時間がかかる――いや、今の彼は全く説得を必要としなかった。
 ソロも、自分の言葉に驚いていた。エラーを起こしたように、ぽろりと口から零れてしまったかのような、そんな感じだった。
 あの、淋しく奏でられた“メロディ”への同情か、
 彼女がたった一人の同類だからか、
 どっちも当てはまる気も、どっちも違う気もした。
 ただ思ったのは、
(どれでもいいや、ただなんとなく。そう、なんとなく手伝うんだよ)
 実は、どうしようもなく手伝いたかった、のだが。
 そんな気持ちに、彼は少しも気付いていない。
 少女は不思議なものを見つめるような目で、ソロを見つめる。
「本当に、いいの?」
 初めて見る表情だった。その表情をなんとなく、そうなんとなくそんなような『曖昧にしておきたい』気持ちを抱いて、ソロは言う。
「いいよ」
 少女はもう一度尋ねる。確認する。
「本当に、嫌なら無理に連れて行く気はないの。昨日私は簡単に調律していたように見えたかもしれないけど、実際はかなりの慣れが必要なの。調律する――連中が人ではないとはいえ、殺すことを割り切る為の心構えも、多少は必要なのよ?」
「言っとくけど俺の“メロディ”、実は半端ないよ?」
「心構えは?」
 そこでソロは畳に手を突いて、自嘲気味に薄く笑う。
「……もう、数え切れない程殺したよ」
「あの子はどうするの?」
 言われても、ソロは少女の顔をじっと見つめている。
「あなたが戦いに出る以上、彼女を巻き込むことになるかもしれないわ」
「大丈夫。あいつだけは一応、守るよ。それが約束だからね」
 彼は、自信を持ちすぎている訳ではない。ただ、『昔の自分の力があれば大丈夫だ』という、打算とも楽観ともつかないような考えのもと、言っていた。
 そう、少女の前で多少、強がっていた。
 現実には、普通の人として過ごしていた十年間が彼の力を錆付かせているかもしれない。
 だけど、と、少女は尚も言葉を紡ぐ。
「仮にあなたの言っていることが真実だとしても、あなた自身も、危険な目に会うのよ?」
「それは、俺を心配してくれてるのか?」
 柔らかい笑みを浮かべてからかうソロを見、少女は焦りとも怒りともつかないような感情を抱き、――結局焦った。
「――っそ、そんなはずないでしょ!? ただすずちゃんが、あなたみたいな人でも死なれたら悲しむだろうと思っただけよ!」
 ソロは穏やかに、はは、と笑ってしかし“決然”と言う。
「それでも、いいんだよ」
 少女は焦って騒いで、それから胸を打たれたように黙った。
 その柔らかい表情の中に、奥底から湧き上がって来るような、おそらく彼にも無自覚な決意を感じたから。
 やがて彼女は、薄く笑う。
 戦いで燃え立つ、嗜虐から出るものとも、
 自分が消滅させた敵をあざ笑う時のものとも、
 それは違った。
 ただひたすらに、純粋に嬉しかった。
 それに引き出されるように純粋な笑みを浮かべて、しかし少女は“優雅に”名乗る。
「――私の名前は、カノン。これからよろしく」
 お互い手こそ取り合わなかったが、
 お互いに相手を欲していた、
 そんな二人が組んだ瞬間だった。

 ソロが自分の表情を見て、何故か呆けている。
 そして何故か、頬が赤い。
 少し腹が立ったので、カノンは彼の頭をぽかりと叩いておいた。











 ―序・四―





 樹海、最奥。
 一気に視界が開けた。
 そこは、小学校のグランドほどもありそうなほど広い、そこだけ木々が欠落したような広場だった。
 木々は退き、草すら生えていないむき出しの大地に、月光だけが青白く降り注いでいる。
 その、中央。
 一軒、家があった。
 窓からは暖色の電灯の、心休まる光が漏れている。
 瓦屋根の脇についた小さな煙突からは、湯気。誰かが入浴しているのだろうか。
 周りの黒い雰囲気とは対照的すぎる、それは家族の談笑すら聞こえてきそうな暖かな一軒屋だった。
 彼は一度虚を突かれたように立ち止まったが、また決然と歩を進め始める。目的のものは、そこにいるはずだった。
 その右手には、自身の身の丈程ある刀を引きずって。
 完全に、踏み潰してやるつもりだった。











 ―第四楽章―






 「羨ましいこと」







「いい? 音坂君」
 とカノンは始めた。一応、彼女は日本の礼節はわきまえているらしく、ソロは呼び捨てにはされなかった。
 四角いがっちりとした、二人が向かい合っているちゃぶ台の上には地図が載っている。それはこの辺り一帯――望星町全域を示したものだった。本屋かどこかで彼女が買ったものらしい。
 その地図の上に、×印がいくつか書かれている。その中には、昨日の公園も入っていた。
 あぐらの体勢から身を乗り出すような格好で、ソロがそれを覗き込む。 
「この印の部分が、昨日私が調律した“不協和音”達の現れた所よ」
 印は全部で、六つほどあった。
 ソロは、感嘆の声を漏らす。
「へえ、一日でこんなに倒したのか?」
 しかし、彼女は嬉しい顔ひとつ見せず、話を進める。
「大した数じゃないわ。日を置けばまた新しいのが出てくるし。問題なのは、この印の位置なの」
「……何か法則があるとか?」
 言ってからソロは、彼女と向かい合って地図を見る。印の位置はてんでばらばらで、何かを示しているようには見えなかった。
 カノンはやはり、かぶりを振って返す。
「いえ、まだ今の段階じゃわからないわ。だから、それをこれから探すのよ」
 ソロはそれを聞いた途端、苦い表情になる。それはつまり――
「倒して倒して倒しまくって、何か法則性を見つけ出す訳?」
「……ええ。古典的だけど仕方がないわ。他にやり方がないもの…。連中はD.C.を使うから、それも掴みづらいでしょうけれど…」
 カノンもやや嫌そうな顔をする。調律の経験ある二人にとって、これは当然の反応だった。慣れていてもいちいちが大変なことは大変、調律士にとって、連続して調律することは陸上選手の走るフルマラソンに似ていた。
 彼女は太陽に当てられた吸血鬼のように片手で顔を覆うと、続けた。
「でも倒していく内、きっと連中の巣の付近に印が集中していくと思うの。―― 一緒にCodaも潰していけばいいしね。そうしたらそこの“メロディ”を探ってみて、偽装してる音域を破って突入すればいいわ」
 ソロはそこで、首をかしげる。
「巣って何?」
 彼は、『十年前に見たあれ』がその巣だとは、気付いていなかった。
 きょとん、とするカノン。それから溜息をつきながら呆れて言う。…こいつはまったく――
「……あなた一体、どこまでを知っていてどこまでを知らないの?」
「…それもぉ…良くわからんです、はい」
 まぁ、わからない人間にどこまでわかっている、と認識するのは無理なことなのだが。
 頭を掻いて誤魔化すように笑ったソロを見て、カノンは疲労の色を濃くする。くらりくらりとして、黒い薔薇の茎が折れそうになり、かろうじて腕で支えた。
 その、漫画っぽくめまいを起こすカノンの様子に、ソロはただならぬものを感じた。本当に、疲れているらしかった。
 実際モデルのように華奢で、どうみても体力はありそうに思えなかった。一日中歩き通しでいることすら辛いのかもしれない。
 調律士としての彼女の強さばかり見ていたことに、そして常に漂わせている強気な態度に、彼女が心身共に強いと思っていたことが錯覚なのだと、ソロは今更ながら気付く。
「…――今日は、もうやめとくか? 本当に」
「……どうして? まだ、大丈夫よ、私」
 言ったその言葉にも、常の強さは感じられない。顔からは血の気が失せている。
「あんた、どっか泊まる所は?」
「私の心配は、いらないわ。話を戻すわよ?」
 ソロはそこで、おもむろに近寄り、ひょいと彼女の肩を担ぎ上げた。
「ちょ、何するの?」
 ソロはそのままよいしょ、と立ち上がる。それから、馬鹿だなこいつは、と心中でひとりごちて、
「もう今日はやめです。強そうに見えて実は普通の女の子だったカノンさんは、もうくたくたですから」
「疲れてなんかないわ…。ふざけてないで、いいから離しなさいよ」
 言い、カノンはソロの手を振り解いた。
 ソロは、ふう、と溜息をつき、こいつは本当に馬鹿だ、と思いながら、しかしいつしか笑みが漏れていた。
「じゃあなんかやってみ? 音域出すなり、リボン動かすなり」
「馬鹿にしてるの?」
「いいから」
 彼女は重くなったまぶたをこすりながら、「…じゃあ、やるわよ」と前置きしてから、それでもせいぜい“優雅に”一声、
「“グラツィオーソ”」
 目を閉じて、まるで水面に立っているかのような繊細な姿勢。その足元から、螺旋状に渦巻く血色の旋律が舞い上が――
 らなかった。
 一瞬浮かびかけた血色の音階達が、キ、キン、と音をたてて落ち、散った。
「…あ、あれ?」
 リボンが髪からほどけるだけほどけて、力なく床にくずおれた。血色の五線の明滅が、消える。
 微かな旋律の余韻だけを残して、血色の輝きは落ちた。
「…――あんたさぁ」
 ソロは沈黙になりかけたのを、面倒くさそうに断ち切った。
「――昨日、寝てないだろ」
「…ええ、それがどうかしたの?」
 カノンは語調を強くそう返したが、ソロにはわかっていた。昼間聞いた時、彼女の“メロディ”は昨日よりも大分衰えていた。
 学校から帰る間聞いた曲調も、“優雅”というよりは必死になっていったのを覚えている。
 目に相当なくまが出来、しかし気を張って戦って、最後にプライドを少しばかり捨てたのか、それとも合理的理由からそうしたのかはわからなかったが、ともかくこの少女は自分を頼って来たのである。それを受けた責任は取るべきだと、彼は思った。
 …責任、というか、それは意欲にもとる行動に近かったが、例によって彼はそれに気付いていない。
「あんたがどんな理由で、そんなに頑張ってるのかは知らないけどな」
 そこでカノンは何故か、うつむいた。
 ソロはその様子を目の端に置きながら言葉を継ぐ。
「ともかく無理は良くない。…命あっての物種だろ?」
 カノンは長いことうつむいたままだった。やがてゆっくりと座り、ちゃぶ台に肘をついて両手で顔を覆った。前髪が少し乱れる。
 そして、長い溜息。数秒黙ってから、白百合のような手の向こうから、くぐもった声を送って来る。
「…ごめんなさい。ちょっと私、気を張りすぎていたみたい」
 それはまるで、家事に疲れた主婦の取るような仕草だったが、ソロはそれを知る由もない。
 この少女がここまで連中の殲滅に拘る理由、それがソロにはなんなのか、皆目見当もつかなかった。まだ会ってから昨日の今日である。しかも、この少女は外国から来たらしい。相当な覚悟があるに違いなく、そしてそれは心を許した人間にしか話せないことに違いなかった。
 ソロは、同類だと思っていたこの少女との距離感を感じるのと共に、初めて彼女の戦う理由を知りたくなった。
 が、
 当然の如く聞かなかった。
 そして、今最大限やってやれることをやる。いや、言う。
「鈴音んちに、泊まれるようにかけあってやろうか?」
 まさか、オレの家に、とは言えないソロである。
「…いいの?」
 ソロには、見上げたその顔がやけに小さく感じられた。状況的にも見た目的にも、それは捨てられてしまった子猫のように見えた。
「いいよ。ただオレが面倒見るのはそこまでだな…。最後に決めるのは、おじさんおばさんだから」
「…ありがとう」
 カノンはその言葉に、色々な意味で救われた。 
 



  

 
  
 外はもう、夕闇に包まれていた。  
 夏も盛りで日は長くなっていたが、もう七時をまわっていた。
 音坂家の巨木にとまっているヒグラシが、カナカナカナカナ…、とどこか物悲しげに鳴いていて、時折吹く生暖かい風に木々が揺れ、波の音にも似たざわめきを奏でる。
 そんな、やや涼しくなって来た頃、烏丸家の前にソロとカノンが歩いて行く。
 烏丸家はごく普通の、二階建ての庭付き一戸建てである。白い、やや雨に汚れたようなその壁は今、夕日で輝くオレンジ色に染め上げられている。
 隣の、歴史がかった瓦屋根、木造建築の音坂家とは対照的な印象の(当然だが)家屋で、お隣とも言い難いような風情である。
 ソロは、ちょっと待ってて、とカノンに言い、インターホンも押さずにこう一声、
「おーい、鈴音! いるか?」
 直後、どたどたりんりん、鈴の音と足音が同時に階段を降りるような音がする。…毎度ながら、主人の帰宅を待ち望んでいた子犬みたいだ、とソロは呆れる。
 勢い良く扉が開いて、
「納得のいく説明!!」
 『信じている』自己暗示も限界に達していたらしい。今回は約2秒早い子犬――ではなくお姫様――ならぬ、幼馴染の登場である。
 言った直後、ソロの隣に彼女は見た。
 黒服、黒髪のすらりとした少女を。
 見て、ぎくりとした。
 嫌いな訳ではないのだが、『ソロとの関係を疑う余地も少ない』、あの人。
「どーもぉー」
 にこりと笑って、カノンは鈴音に向かって小さく手を振る。
 ソロは、
(これが目的――な、訳ない、か…? つーか、元気になってる?)
 疑問符だらけの訪問、いや襲来だった。

 





 
 鈴音の母曰く、
「あらー、新しいお友達? それならお母さん、腕によりをかけてお夕飯作っちゃうわ」
 鈴音の父曰く、
「ほう、外人さんかい? 綺麗な子だなぁ。――鈴音ももうちょっと、背が高いと良かったな。ん? お父さんに似たから仕方がないって? はは、それもそうだな」
 猫をかぶっていたのかなんなのか、常の棘はどこへやら、淑女のような物腰でにこやかに笑うカノンに鈴音の両親は完全に気を許し、奥へお通ししてしまった。
 奥へお通しされた方は、たまったものではない。
 勿論悪意のないカノンを傷つけてはマズいからと、彼女の見えない所で必死に、歯噛みしながら小さな声で抗議したのだが、全く騙されている母は少しも取り合ってくれなかった。
 かくして夜、カノンはその母のパジャマを借りて着、鈴音と一緒の部屋に寝ている。
 こうこうと光る月明かりは、音坂家の開けた敷地の向こうから差し込んでくる。
 あの瓦屋根の下でソロは今頃、「お役御免です、疲れました」とばかりに安らかに眠っているに違いなかった。それを思うと鈴音は、腹立たしくも泣きたくもあった。
 部屋の隅、ベッドの上で震え上がっている鈴音を見て、その傍らタオルケットにくるまったカノンが言う。
「すずちゃん?」
「っは、はいぃ!」
 肩を外さんばかりにびくりと跳ね上げ、叫ぶ鈴音。
 電気は非常灯すらつけていないので、月光だけではお互い顔がわかりづらい。
 異様な間が空く。鈴音は見えざる敵に全力で、しかし露骨でないように警戒する。相手の角度からはもしかすると、自分の姿が見えているかもしれなかった。
 が、次に闇から飛んで来たのは、
「家族っていいわね」
 意外な言葉だった。
 それはどこか楽しそうな、しかし確たる憂いを帯びた言葉。
 この少女は何故か、何かに感慨を覚えているらしかった。
 その理由、正体共に薄ぼんやりしてはいたがただ一つ、簡単に予想出来るのは、
(この子…、家族の人となにかあったのかな)
 ということだった。
 もしかすると、父と母との四人でした食事(ソロはその時すでに帰っていた)や、その後皆でテレビを見てゆっくりと過ごした団欒――
 その、鈴音にとってなんでもないような日常の出来事が、彼女には貴重な体験だとか、幸せな時間に感じたのかもしれない。
 全ては予想だったが、彼女の短い言葉から察するに、それはおそらく真実なのだろうと鈴音は思った。
 詮索をする気も資格もなく、ただ鈴音はカノンの言葉に同調しておく。
「そ、そうですね。うるさいことも勿論言いますけど、いいお父さんとお母さんだと思いますよ」
 両親には決して言わないが、それは彼女の本音だった。
 それはこの外国人の少女に言われて気付いた、普段はあまり意識していない絶対の(と、思っている)幸せとも言える。
「うるさいのがいいのよ。何か話すことが出来るっていうだけで、幸せだわ」
「…そうですか?」
「ええ、そうよ。――すずちゃんは、家族を大事にしてね」
「え? あ、はい…」
 よほどのことがあったのだろうか。
 びくびくしてばかりいて気がまわらなかったが、いつの間にか彼女を心配し始めていることに鈴音は気付いていた。
 沈黙が降りている。
 言ったきり、カノンは何も声を出さない。もう寝てしまったのだろうか。それともまた何か考えこんでいるのだろうか。
「カノンさん?」
「なに?」
 まだ起きていた。淀みない返事が返って来る。
 だけどこれからどうしよう、と彼女は迷う。確認する為に声をかけてみただけで、話が続きそうにもない――
 と、思っていると、
「なんだか、ごめんね」
 向こうから声をかけて来た。鈴音は謝られている理由がわからず、驚きつつも首を傾ける。
「何がですか?」
「あなたの『大事な人』を今、ちょっと独り占めにしちゃってること」
 鈴音は焦りまくる。激しくかぶりを振ってみるが、おそらく向こうには見えていない。
「っそ、そんな関係じゃあ――……!」  
 くすくすと、可笑しみのこもった笑い声が聞こえて来た。
 やがてその声は高笑いに変わり、鈴音は抗議を中断して、しばしきょとんとする。 
 1分経った。まだ笑っている。
 1分30秒で、笑い声はやんだ。
 よほど可笑しかったらしく、鈴音には彼女がひいひい息を苦しそうにしているのがわかった。
 やっと呼吸を整えて、カノンが楽しそうに言う。
「なんだかこういうのって、いいわね。すごぉーくありそうでない感じの、日本のコミックに出てきそうなラブ・コメディ――ラブコメって略するんだったかしら?」
「んな、何言って――…」
「…すずちゃんて中身も子供? それとも、ただ耳を塞いでるだけなの?」
 鈴音は驚愕する。
 中身云々、という指摘は違う、と思った。というかそう思いたい。
 問題は後の方の指摘。
 逃げている、という事実を突きつけられたのだろうか? こんな、今日初めて会話をしたような子に見抜かれたのか。
 ――『見抜かれたのか』?
 鈴音は途方もない焦りを感じるのと共に、自分に嫌悪感を感じた。
 結局の所――、結局の所自分は、簡単に言えば、ソロが好きなのである。
 いとおしいし、愛しているとも言える。心の中ならば。
 それをほとんど一撃で、見抜かれた。
 うううーー、と鈴音は唸って顔を真っ赤にして湯気を出し、ベッドの上でころころ転がりまわった。
 見抜かれた、
 見破られた、
 バレた。
 こんな、訳のわからない少女に。
 わからない方がどうかしている、ということに彼女は全く気付いていない為、鈴音は暫しベッドの上をのし棒のように転がり回る。
 人間、どうしようもなく恥ずかしくなったり、どうしようもなく嫌な事に襲われた時取る行為は、ほとんどが『寝床でうーん』であろう。
 ベッドや布団へ頭を伏せて現実を見ないようにするのは、胎への帰依っぽくもある。
「すずちゃん…、大丈夫?」
 カノンは闇の向こうから絶えず聞こえる衣擦れの音が、鈴音がベッドの上で転がりまわっている時発するものだと気付いて訝る。
「ううう〜〜……」
 カノンは暫し待つ。理由が良くわからなかったが、ともかく待つ。
 そして3分。衣擦れの音が止んだ。
 鈴音は耳まで赤くしてふくれ、天井を睨む。そしてぶっきらぼうに――カノンには「可愛い」と思われるだけだが――尋ねた。
「ソロとは、どういう関係なんですか?」
 図らずも、カノンも見えづらい天井に目をやりながら返す。
「仲の悪い友達よ。今日一緒にいたことに、それ以外の理由はないわ」
「嘘ですよ、それは」
「どうしてそう思うの?」
「だって、ソロとずっと一緒にいましたけど、あなたの事は一度も見たことありませんから」
 カノンは天井を見ながら苦笑する。まさか、キスして記憶を誤魔化した、とも言えない。
 まあ、実際の彼女の言う所のずっとは、生まれてこの方とかそういう深い意味があるのだろうが。
 思いをめぐらせながら、カノンはいつしか羨ましさを感じていた。
 ずっと一緒に。
 その言葉に、妙な寂しさを覚えた。
「でも、嘘ではないの。それに、ちょっとしたら私はいなくなっちゃうから、安心して」
「…帰っちゃうんですか?」
 予想通りと言うべきか、やはり淋しそうな反応が返って来た。
 カノンは鈴音のそんな所が―― 子供っぽい容姿を差し引いても――気に入っていた。どうもこの子は、敵を敵として割り切れない優しさを持っているらしい、とカノンは考察する。
「まぁ、そんな所ね。この町には、ちょっと私用で立ち寄って、音坂君には少し――そうね、少し、道案内を頼むだけだから」
「はぁ…。観光か何かですか?」
「ええ。この町は本当にいい所だもの」
 望星町は、ごく普通の町であるからして、観光が出来るような場所なんてどこにもない。
 鈴音が訝るのも無理はないのだが、カノンが「いい町」と評価したことに嘘はなかった。
 鈴音は尚も訝しげに眉をひそめたが、やがて小さな疑問は放っておくことに決め、言った。
「じゃあ、――じゃあソロとはなんでもないんですね?」
「ええ勿論。会って一日で人を好きになるほど、私は軽薄じゃないわ」
 それを聞き、ほっと胸を撫で下ろす鈴音。声には出さなかったが、自然と安堵の溜息が漏れた。
 カノンへ対する、二つの意味での警戒心が、どちらも薄らいでいく。――不可解な点はまだ少なくなかったが、あえてそこは無視する。
 と、
 カノンは突然、理不尽な気分になっていた。その安堵の溜息が、やけに苛ついた。
 自己を冷静に分析出来る彼女にも、その苛立ちの理由はわからなかった。
 ただ、ロックのようなものがかかっていることだけに気付く。
 『曖昧にしておきたい』
 ロックの正体がそれだと瞬時に判断した彼女は、不甲斐ない自分に向けて心中で罵声を浴びせながら、しかし言葉は鈴音へ向けていた。
「すずちゃん」
「え、なんですか?」
 言わないで。
「あなた、一つ勘違いしてるわ」
 やめて。
「何をですか?」
 鈴音が思いをめぐらせる間も半瞬、カノンは言っていた。
 自分の中の矛盾した“メロディ”を、声という形で具現化していた。
 ――やめて。
 弱弱しい理性は、自分の中の『女性』に簡単に踏み潰された。
「男の子っていうのは、見えない所で何をしてるのかわからないものよ」
「それって、どういう――…」
 カノンは『天井を見る』のを止め、外の『青白い月の方』を睨む。
 睨んで、言う。
「この町は、彼と私で護るわ」
 鈴音には、その言葉の意味が全く理解出来なかった。





―序・五―








 家屋の扉を開けた、長剣を引きずる彼は――
 撃たれた。
 キィン、という、鋭く紅い反響音に額を叩かれて喉を剥き、首を向こう側へ反り返らせていた。
 不意打ち。
 だが、何事もなかったかのように頭を元に戻し、家の中へ入って行く。
 玄関がある。靴がこちら向きに揃えられ、小さいものが一足だけあった。
 玄関からは長い廊下が続いており、その突き当たりに『誰かが』いた。
 人である。
 その人間に向かって、子供の彼は言った。
「痛い音だね。紅いし」
「これで死ぬ、と思ったのにな」
 返って来た、大した失調感も感じない声の出所、左から居間の明かりを障子越しに受けて立つのは、彼と同じ、男の子供。
 長い前髪は切れ長の両目を半分覆い、線の細い顎。口元は子供らしくどこか緩く、首筋もほっそりとしている。
 ただ、その幼い容貌に似合わない、燃えるような殺意と違和感を覚えるさせられるのは、片手で構えているそれのせい。
 細い銃身に『ff【フォルティッシモ】』の紋章を湛える、リボルバー式の拳銃だった。
 紋章の色は、緋色。
 燃え上がる炎のように、紋章は明滅している。
 五線と音符は、照準として銃口の前に円を描いて回転している。愉快なダンスめいたその動きは、しかし微動だにせず彼の眉間を捉えている。
 構えたまま、このまま撃っても無駄とわかっている彼は、対峙する子供の持つ刀に蒼白の輝きを視とめて眼を剥いた。
「…君は、僕と同じなのかい?」
「多分。あんたの音をくらっても、死ななかったからね」
 蒼い刀の少年は、無意識ながら微細な音域を展開していたのである。
 ぶつかり合う蒼い音色と紅い音色。波紋。それが受け手の体に少々の衝撃を残して、打ち消しあった。
「「なら、」」
 どちらからともなくそうつぶやき、
「っ力ずく!」
「もっと強く」
 怒りに打ち震える咆哮と、冷静な打開策をそれぞれ口に出す。
 それを実行し得る曲調は、
「“リゾルート”」
「“マエストロ”」
 
 






 ―第五楽章―






 
 「私も最初は、――いえ、今もそうね」






 ソロは、眠ってはいなかった。
 道場――いや、元・道場の稽古場、「守、破、離【しゅ、は、り】」と見事な行書で書かれた掛け軸に向かい、全て開いた木戸から差し込む月明かりを浴びて、あぐらをかいていた。
 台座に在る、刀を見つつ。
 その刀は、銘を“大和守冴月【やまとのかみさえづき】”という。
 かつて紅の不協和音たちを報復の為に虐殺した、彼の“モチーフ”にして音坂家に伝わる家宝である。
 名前の物々しさの割に、それには鉄の鍔や柄紐等はない。ただ刀心だけを強くした刀であり、柄と鞘は白い木目も露な簡素なつくりで、飾り紐だけが柄頭から垂れている。鞘に納められている今、それは木刀にしか見えない。
 彼はそれを躊躇いがちに手に取って鞘を払い、“メロディ”を込めてみる。すると、ぼうっと蒼白い光が刀身にのみ灯る。
 他の刀では、いや、他のどんな物でもこうはいかない。どんな物にも、それぞれの“メロディ”を内に閉じ込め、また他の“メロディ”を拒絶する音域がある。
 しかし、音の波長の近い、物と人同士なら違う。
 その『物』の表す印象と使用者の意思が合致していれば、音域を越えて“メロディ”を共有し合い、引き出す力を『使う方針に従って』増幅することが出来る。
 それが“モチーフ”。
 その刀が自分の分身体に近いものだとは露知らず、あるいはそれを『体だけで知っている』彼は、“冴月”を夜空にかざし、刃で満月を両断してみる。
 それから、カシ、と刃文の方へ刃を返して遊ぶ。なんか時代劇みたいだな、と彼はつぶやいて、子供のように笑った。
 月光によって蒼白く輝く、磨きぬかれた鏡のような直刃に、自分の顔を映してみる。『十年放置されていたそれ』は、しかし全く陰りを見せていなかった。
 そして口調だけは「やりなおそう」と切り出す夫のようにふざけつつ、言う。
(もう、自分がこうなったことは割り切りたいと思うので、どうか――)
「もう一回、宜しくお願い致します」
 “モチーフ”にも、その中に映る自分にも。
 




 二人とも一晩中耳をそばだてていたが、変調はなかった。






「連中の目的?」
 と、黒髪の少女は、風になびく漆黒の髪をおさえつつ訊いた。
「うん、そう」
 と、必死の少年は、汗が滝のように流れる顔も拭けない。
 ここは望星町屈指の坂、通称“望星の長城”。
 板チョコレートのように土地の側面をコンクリートで固められ、丘のようになっているそこは、下、いや麓(?)から見ると、登る途中の坂の両側にあるガードレールがかの万里の長城に似ていることと、その斜面があまりに急すぎることからこう呼ばれている。
 そこを彼は、荷台に、涼しい顔をで優雅に横座りするカノンを乗せて自転車で上がっているのである。
 少女そのものは羽根のように軽く、彼は最初は驚いた訳だが、それでも二人乗りをするということにはなんら変わりがなかった。
 昨日彼女を労わった手前の見栄――もとい優しさだったが、この猛暑と急斜面に、彼の心は折れそうだった。
「嗜虐心よ」
 それはあんたがオレに対してのか、と突っ込もうとしてソロはやめた。
 彼女が下手な冗談を好まないのは、先刻身をもって知らされていた。「昨日は鈴音とどこまで行ったんだ?」と訊いた所、殴られるのならまだいいが、彼女は悪魔の如く、抵抗出来ないのをいいことにソロのわき腹をくすぐった。
 やめて、彼はあえぎながら話の真意を伝える。
「違、くて。その親玉の気持ち。――不協和音、たちは、結局“調律士”に作り出されて、コントロー、ルされてるんだろ?」
「……よく、知ってるのね」
 彼女は冷静に返したつもりだったが、内心、完全に予定が外れて困惑していた。
 この、『そうなってから一ヶ月しか経っていない』少年に、人を殺す、もしくは再起不能にまで痛めつける覚悟の出来ていない彼に、最後の時までその事を黙っているつもりだった。
 巣の位置の特定だけを手伝ってもらい、最後は全部自分でカタをつけるつもりだった。
「その、――多分、金色の“メロディ”の馬鹿は、なんのつもり、で、ここを襲ってんのかな、と思って」
「さあね。私も知りたいわ」
 それは半分、彼女の本音だった。
「知らないのに、蒼の人に協力を頼もうとしてたのか?」
 薄々気付いていた期待感を込めてソロは言うも、当のカノンは彼が蒼の人であるということに、まだ気付いていない。――ソロが餓鬼っぽくも、力を発揮する場まで出し惜しみをしているからだ。
 彼女はその言葉を無視し、それにソロがしょげるのも無視し、改めて考える。
 調律士、という言葉の意味に違和感を感じていた。
 計り知れない古来からあるその存在だが、彼女の知る限り『不協和音は全て調律士によってつくり出されている』、また『調律士の多くは侵食によって生まれる』。
 ならば、自分達という存在を名づけるにあたって、『調律』という言葉が当てはまらないはずだった。わざわざ消滅させるべき対象を、つくりだしているのだから。
 また、世のメロディの調和を乱す不協和音を作り出すことが出来、また消滅させることも出来る人間。自分達は、ただそれだけの人間なのだから、もっと他の名前があっていいはずだった。
 そこで、あ、と、カノンは気付く。
(自然に発生した不協和音が、いた――?)
 『不協和音は全て調律士によって作られる』という固定観念から今改めて気付くそれは、自分が提唱者ながら驚愕の仮説だった。
 調律、という言葉の意味にそぐわずとも、『侵食から調律士が多く生まれる』という条件も、一応は満たしている。
 それとも、不協和音に対する人間の対抗策として、調律士という存在が生まれたのだろうか――
 と、そこまで発展させておいて、
(でも、ねえ…)
 彼女の顔が急にしらける。
 カノンは『もしも』で話す、または考えることが嫌いだった。
 仮定して話すことで真実が見つかる時もあるが、彼女は最低限の必要に迫られた時にしか、それをしない。
 そんな「耳を塞いできたのね」の言葉に代表されるリアリストの彼女は、弱冠子供臭い夢見がちな少年に向かって言う。
「本人を叩けば、向こうから勝手に理由なんて――」
 喋るのではなく、来た。
 カノンは言葉を止めて、心の聴覚を一瞬にして開放、研ぎ澄ます。そして聞き、同類、仲間たるソロに尋ねる。
「聞こえる?」
「ああ、やっぱりいきなり出た」
 今日初の獲物――もとい、目標だった。
 この丘からほど近い、住宅街の中に一匹、駅の側に一匹、二人はその乱れた旋律を聴く。
「やぁっとオレの出番かな?」 
「ええ、二匹同時に出たもの」
 ソロは刀の納められた皮製の長細い袋をちょっと片手で持ち上げてみせるが、答えは、やはり身も蓋もない。
「……。とりあえず、どっちがどっちに」
「私は疲れてるの。あなたが駅の近くにいる奴をやって」
 遠いから自転車に乗って行け、という意味が含まっている。
 ソロは、
(この黒ツインテール、随分エラそうだヨ…)
 と、ぎりぎり歯噛みするも、訊ねた手前逆らえない。
「……わかりました」
「誰かが襲われていても、必要以上に動揺しないこと。私達の移動手段が自転車で、向こうがD.C.を使える限り、それはどうしようもないことだわ」
 しょげるソロの頬をひっぱたくように言ったすぐ後、カノンは今来た道を――ソロが今しがた必死に自転車で登って来た道を――駆け降りて行こうとする。
 何も言わずに。
 その人と別れることに慣れていそうな、寂しげな背中に向かってソロは言う。
「無理するなよ」
 カノンは驚いた顔で振り返ったが、
「――そっちもね」
 暖かな労わりの言葉に、柔らかく微笑を浮かべる。
 そして強い日差しに煌く黒髪を翻して向き直り、走り去る動作の流れの中で、
 リボンを蝶の羽根のように展開、
 旋律の舞う音と光も優雅に、
 颯爽とした笑みを浮かべて、
 絶壁の淵の、ガードレールを無造作に飛び越した。
 ソロはそれを見、苦笑とも呆れともつかない表情を浮かべて、
「スカート危ないんだよ、馬鹿」
 自身は決然と、しかしあまり格好良くはなく、やや軽くなったペダルを踏み始める。
 
 
  
  






 
 駅の程近く。裏寂れた路地裏。 
 遠くにセピアに褪せた空間が、緩やかな表面を小さな雑居ビルの壁面からはみ出させているのを確認出来る。
(あそこか――!)
 瞬間、彼はある曲を頭の中でかける。
 それは即興の、毎回即興の“メロディ”。
 運動能力を向上させる為の、一種の自己暗示である。
 近接戦闘が『使う方針』の彼は、この暗示によって身体能力を底上げし、また紡ぐ調律の力である“メロディ”放出時の反動を抑えている。
 それは無意識の内に行われている作業だったが、『今度は』大分、使用する目的が変わっていた。
(そう、)
 前とは、違う。
(人を、生かす為に使う)
 これが彼の曲調“リゾルート”の、ある種本来の使い方。
 ソロはハンドルを右手で切る傍ら、左手で革袋の上から握り、鞘の中で“冴月”の刀身を眠りから醒ます。
 そして自転車のチェーンに悲鳴を上げさせながら、朝、出掛けに聞いたカノンの戒めを反芻していた。
(――「私達は万能じゃないの」――)
 だから急ぐ。
(――「『耳がいい』、ただそれだけ」――)
 だから、急ぐ。
(――「自分が選ばれた人間だなんて思い上がっていると、いつか馬鹿をやるわ」――)
 最後の言葉には、儚くも確実に、寂しさと悲しみがこもっていた。
 そう見えた。
 敵の音域の中心、そこへ続く路地へ細いタイヤが滑り込む。
 そして、見つけた。スタンドも立てないまま、自転車を半ば乗り捨てて、見つけたそれと対峙する。
 無数の、星。
 嘲笑う、三日月。
 真昼の夜がそこに、人の形を取って巣食っていた。
 幸い、近くに人影は見当たらなかった。 
 確認、直後ソロは“冴月”を抜き放つ。
 一、
 二、
 三、
 そして、四。
 三角形に切り取った壁を、ラストの突撃で串刺にして破り、セピア色の空間に身を躍らせる。
 彼の、インスタントで驚異的な運動能力は、
(…もって、一時間)
 それを、一日の間に上手く分配しなければならない。おそらくは体の限界を迎えた時、こうして音域をこじ開けることすら難しいだろうと、彼は推測する。
 自身の“メロディ”を護る壁をこじ開けられたそれは、やや苦痛とわかる表情を浮かべる。
 そしてぐりん、とこちらを向いた。
 不快感とかろうじてわかるその表情の中、口に、音階と光が収束して、
「っ何!?」
 轟、と強烈な音撃が、指向性を持って唸りを上げた。
 彼はそれをかろうじて、蒼い拒絶の壁で受ける。
 波動と波動が共振して、防御側である彼の音域内には凄まじいノイズが走る。
「――っく、うあ…!」
 聴覚に及ぼすダメージよりも、それは物理的な破壊力の方が遥かに大きかった。蒼い三角錘に切り取られた、コンクリートの壁面が弾けて砂になる。
 そしてノイズが、最高潮に達した時、
 爆発。
 蒼い三角錐の壁がガラス窓のように破れ、四散し、辺りは余波による轟きに包まれる。
 ガラガラと、今まで宙を漂っていた瓦礫達が雹のように降り注ぐ。
 ――沈黙。
 敵を倒したと、彼は思った。あの金色の波動音で、あの人間は間違いなく侵食を受けた。これでノルマは、あと一人。
 不協和音は噴煙渦巻く向こう側を見つめ、満足げに奇妙な笑みを――
 深くしようとして、その笑みに蒼い一本線を描かれた。
 彼の視線の先には、空中で刀を振りぬいた格好の人間がいた。
 刀、顔面の激痛、これらが繋がり、導き出した答えは。
「ギャアアアアァァァァアァァァ――――――――ッ!!!」
 顔面を浅くも速く、斬られていたのである。彼の十三ある目には、およそ捉えきれない速度で。
 彼は顔を抑えて尚も叫び、うずくまる。
 着地したソロは、哀れみを込めてその様を見やる。一昨日カノンがあんな顔をしていた理由が、わかった気がした。
(――あの時は、こんな気持ちになりもしなかったけど)
 不協和音は、尚叫ぶ。ガスマスクを被らせた人間のような声で。
 それが彼には、その音そのものではなく、良心的にどうしようもなく苦痛だった。
 それでも、いやだからこそ、戦いを終わらせんが為、刀を振り上げる。
(…黙れよ…)
 尚、叫ぶ。
(…こいつらには、心を痛める必要なんて、ないんだ。――そう、ない)
 刀身の、絶命の象徴のような輝きが増し、がばりと五線が開き、銀の一つと蒼の二つの、刃が三つになる。
 振り上げられたそれは、狼の爪。
 振り下ろそうとして、
 もう一度、金色の光が閃いた。
 そんな姑息な、『誰かのメロディの一部』に対して、ソロは思う。
(『こいつ』そのものは、あの時のそれとは関係が、ない)
 貫かれ、散る、蒼の残滓を見た不協和音は、頬を地面に横たえたまま短く、声を上げて笑った。
(別の誰かが作り出したものだ)
 笑って、その後ろに冴えた旋律を感じた時には、もう遅かった。
(けど、それでも――) 
 弧光、参閃。
 一太刀で三つの斬撃を繰り出した“冴月”は、頭から地面に埋もれる胴の先までを、背後から斬り上げるように、引き裂いていた。
 もう一度、悲鳴。
 それは絶命のフィナーレ。 
 外には決して届く事のない、断末魔の叫びだった。
 それに、音速、後ろから回り込み斬っていた本人が震え上がった。いつの間にか輝きを失っていた刀を、投げ捨てた。
 抜いた刃は、一つ。
 傷跡は、三つ。
 平行に並び、魔物の体を縦四つにスライスしていた。
 尻を地面に叩きつけてあとずさりする間に、そいつは金色の音階と共に散った。
 死体が残らないのが、せめてもの救い。
「――ぅ、うえ…っ…」
 彼はどうしようもない吐き気に見舞われたが、それをかろうじて堪える。
 堪えて、しばし壁に身を預け、蒼い音域の頂点を睨み、思いを馳せた。
(――だからあいつは、口を塞いだのかな――)
 傍らに横たわる“冴月”は、掴むことが出来なかった。  
「オレの出番、ね」
 そうつぶやき、彼は自嘲した。

 『町の平和を守る』代償は、中々大きい。














 ―序・六―







 蒼く透く、刃の向こうで笑う子供は、
「ただ、もっと強く」
 そうつぶやき、撃った。
 放たれた弾丸を受ける子供は、憎悪と呼ぶに相応しい表情の中に笑みを入れ、
「――っはぁ!!」
 引き裂いた。
 しかし、四つに引き裂いたそれは軌道を変え、彼の元へ槍のように、再び降る。
 それを全てかわす。
 右腕を犠牲にして。
 右肩を貫かれ、片手持ちには余る長剣を、しかし彼は易々と扱う。機動力を落とさない為の、これは『消去法』だった。
 この、獣の突撃にも似た、捨て身とも考えなしとも取れる決意に、拳銃を扱う子供はやや驚く。
 しかし、それだけ。
 左手でグリップを握ってトリガーを引き絞ったまま、右手で撃鉄を操作、紅い一閃を乱発する。
 彼も運動能力の上昇を施しているのか、その連射数は多すぎた。かわせない。
 ここでまた消去法を使い、蒼い子供は左腕と右足を残す選択を取る。
 
 家の中で、子供が戦っている。

 












 ―第六楽章―




 

 「ごめんなさい」







 蝉め、と、彼女は憤った。
 朝から自分の、数少ない出番――ではなく、重要で嬉しい役割を『先に取られた』からである。
 おたまをフライパンに打ち付けて不機嫌そうに、しかし心の中では微笑ましく思いながら盛大に鳴らしてやろうと思ったのだが、
 その大音量を受け、寝床から飛び上がるはずの対象は、小さな虫の腹から奏でられる生殖行為への渇望の象徴たる耳障りな音ですでに起床していた。
 彼は、目をこすって曰く、
「うるさいねえ、ま、でも、夏の間は鈴音が起こしに来なくても大丈夫かも」
 甚だ無神経である。
 この幼馴染は、自分がどうして毎朝この部屋まで来て大騒ぎしているのか考えもしていないらしい。
 がっかりした。
 取りあえず、
「ご飯出来たから、来てね」
「うん、毎日ゴメン」
 短い会話の後、とぼとぼと階段――がない家なので、広い庭に面した長廊下を踏みしめてゆく。鈴の音も、どこか元気がない。
 ゴング(フライパンとおたま使用)や、朝食を作ってあげること、そんな『いつものこと』は鈴音が喜んでやっているつもり、なのだが、
 最近、毎日ゴメン≠ェ増えていた。
 高校に入学したあたりだったろうか。それを初めて聞いたのは。
 一年と三ヶ月前、自分達の長い(と、鈴音は思っている)歴史の中では、『かなり最近の部類に入る昔』だった。
 なんでだろ、と鈴音は思う。
 無意識の内に、もう一度まな板を出す。
 なんで、ソロは謝るんだろう、と。
 無意識の内に、野菜室を開けている。
 しかし、なんで、と思っても、その先は考えないことにしていた。
 答えはわかっていたから。
 無意識の内に、いつの間にか出ていたレタスを洗っている。
 一緒に歩いて行けなくなるいつかのことなんて、想像したくもなかった。
 そんなことになるぐらいなら、嘘でも偽者でも、今まで通りお嫁さんぽく過ごす方がよっぽど幸せ。
 道を分かつかもしれない未来なんて、なくていい。
 時間が、止まればいいのに。
 そう、思っていた。
 無意識の内に、いつの間にか出ていたトマトを洗っている。
 絶対の、今。
 不変の、日常。
 そしてなにより、不可侵の、絆。
 そんなものたちが最近、少しづつ崩れて、いや変わっていっているような気がした。
 無意識の内に、包丁でレタスとトマトを切っている。
 彼女も同時に、耳を塞いで来た。
 だから気付いていなかった。
 『それ』と『時』を孕んで動いてこそ、現実は現実、取り巻く世界の音色は、真実なのだということに。
「夏の間、だけならいいんだけど…………」
 いつしか独り言をつぶやいていた。
 そんな自分に気付き、目の前の、その状況にも気付いて、
「――い!?…ったぁ――――い!!!」
 気付いたその色は、明滅しない血色。
 レタスと一緒に、自分の指も切っていた。


                 ◇ 
  
  
 鈴音の小さな手を取って、その親指に絆創膏を巻きながら、ソロは目を丸くしている。
「お前が包丁で手切るトコなんて、久しぶりに見たな」
 傷はやや深く、巻いた絆創膏の布の部分には、みるみる黒い広がりが出来る。
 鈴音は答えず、例の頬袋を膨らまして、ただむすくれる。
 その頬の空気をつついて潰し、ソロは笑った。
 ぷしゅ、と頬の風船の空気が抜けた、いや頬をつつかれた鈴音は複雑な気持ち、なのだが――
「っそ、ソロのせいだからね」
 怒り顔に無自覚の笑みを込めて、しかし表面上の不機嫌を装った。
「なんで?」
「なんでもいいの」
「教えろよ」
「…うるさいな」
「……まあ、いいけど。――よし、出来た」
 鈴音の頭をぐりぐりしてから、立ち上がって、
「先に食ってなよ。まな板洗うから」
「あ、でも――」
「いいって。そのバンソーコー、防水じゃないだろ?」
 と、台所へ立つ。
 鈴音は申し訳なく思ったが、どうしようもなかった。渋々頷く。
 頷いて、台所に立つソロの背を見る。
(変な――、違う、なんか、なんか嫌な感じだなぁ)
 そうして一人、その違和感を目の端に置きながら食事を始める。自分の作った朝定番の料理たちが並んでいる。
 ご飯、
 味噌汁、
 お漬物、
 そして今回は、アジのひらきとか。
「ソロー?」
「んー?」
 どこか気の抜けたような答えも、いつものまま。
「ソロさぁー…」
「んー…」
 キュ、と蛇口の閉める音がした、その時鈴音は聞いていた。
「昨日、どこかで叫んでなかった?」
 白米をもぐもぐしている鈴音。
 その小さい背中の向こうでぎくっとするソロ。
(え…?――聞かれた=H どうして?)
 思い当たるフシは、ただ一つ。
(音域が、薄くなってるのか?)
 答えは、彼の心の中には、まだ薄く漂っているだけ。
 が、気付かず訝る愚鈍な少年は、
(…でも、ま、一緒にいる時間が長いからかな)
 そう半分正解半分間違いな解釈をするも、「ええ、悪の手先を十数体、カノンさんと一緒にブッちめました」とは言えない。
 正直にそう言ったら、作者的には凄く面白いこと――ではなく面倒で大変なことになってしまう。信じてもらえないのならまだいいが、きっと「カノンさんと」の所に敏感に反応した鈴音がソロに猛攻を開始し、『先の件』から察して『双方』の闘争心が大いに競い合うことと相成り、作者介入を要する非常事態にまで陥りかねない。
「叫んでたって、どういう…?」
「…んー、なんとなく、かな? 何となくそんな気がしたの。駅の方で、ソロが『がおぉー』って…」
 位置まで当たっている。
「へ、へぇー…。じゃあ、『長城』の方では?」
 そこではカノンが戦ったはずだった。
「? 多分そこは、何も…。どうしてそんなこと聞くの?」
「――…いや、カノンと昨日見て回った時、あそこの坂の下で祭りの支度始めてたから。かなりうるさかったしさ」
 出店の準備だとか、その近くで行われている阿波踊りの練習だとかに、である。
 あの丘を取り巻くように続く坂道を全て占領し、駅まで続く大通りの外灯を全て消し、その代わりに星のマークのある蒼い提灯を飾るその夏祭りは、「望星祭【ぼうほしさい】」と呼ばれている。
 大通りと商店街を大河として煌く蒼い星たちには、その異常なまでのロマンチックさの為に、そこで別れたカップルを即復縁させただとか、同性同士をすらくっつけただとかいう、幻想的な噂がある。
 河原で打ち上げられる花火を見るため『望星の長城』には河川敷にかかる鉄橋に次いで、どこに潜んでいた貴様等、くらいの人でごったがえす。今まで丘の下への滑落者だとか、将棋倒し的な事故が起こっていないのは奇跡に近い。
「あ、そっか。もうすぐなんだっけ……」
 むぅ、と例の如く短く唸り、「カノン」という、自分も彼も手玉にとろうとしている(と、鈴音は思っている)、忌まわしき奴の名を思いだし、ソロのお株を奪って、
「行こう!」
 決然と、言う。
「ぅえ? どこに?」
「決まってるでしょ? お祭りに!」
 祭りは明後日だったが、ソロは即答しかねた。例年なら、「…まぁ、皆の目を盗んで折り合いもつけて」、と渋々ながら答えていただろうが、今回はちょっと状況が違う。
「ね? 行こ?」
 ソロは微妙に、その幼馴染だということを忘れさせられるような可愛らしい上目づかいに、不純物が混じっているのに気付いた。
 目のキラキラ加減は通年のものだが、今年は何か――
(…炎?)




 ――数分後。

「お祭り?」
 とカノンは、腕の中の鈴音に問い返した。彼女は昨夜も、烏丸家に泊まったのである。
「うん、お祭り」
 そう、顔を半分埋もれさせながら鈴音は答える。少なくない脅えを含んだ表情で、しかし精一杯カノンを見上げながら。
 しかしその鈴音の緊張は、
「いいんじゃない?」
 あっさりすっきり、解けることに。
「ただし…、」
「「?」」
 ソロと鈴音がそれぞれの意味で困惑すると、カノンはちょいちょい、とソロへ「こっちへ来い」。
 そのまま二人は庭まで移動(その際、カノンは名残惜しげに鈴音を開放)して、彼女は不信感もあらわに切り出した。
「音坂君、大丈夫なの?」
 ソロは疲れたように頭を抱え、半ば投げやりに返す。
「…大丈夫も何も、断ったら多分『観光旅行』に憑いてくるよ、あいつ」
「それはマズいわね…。そのお祭りっていうのは、いつどこであるの?」
 鈴音が頑固な性格であることをどうやってか知ったらしい彼女は、最初から説得することを諦めている。
「昨日、初めて敵が聞こえた所。明後日とその次の日にあって――花火が揚がるのが明後日だから、多分そっちに行くと思う」
「そう。――わかったわ。なら、明後日までに『片付かなかった』ら、その日は私一人でいいわ」
「それは大変なんじゃないか? 初日であんなくたくたになってたってのに、ましてその辺りだと大分消耗してるだろ?」
 ソロの気遣いに少し笑み、その日までに終わらせればいいのよ、と言いかけてカノンはやめた。
 やめて、ふっ、とソロをあざ笑った。
「なんだよ?」
「…あなた、馬鹿ね。ついでに鈍いわ」
 は? とソロは半分キレかかる。
 そんなソロの様子に、彼女の笑みにはいよいよ可笑しみがこもる。
「――女の子の言う事は、素直に聞いておきなさい。それに」
 それから、首を伸ばすようにしてこちらをうかがう鈴音の方へ目を向けてから、
「泣かすなんてことも、論外」
 ソロの脳裏に、いつかの鈴音の言葉がよみがえる。
(――『引っ張って行ってくれるような頼りがいのある男の子が好きなんだよ?』――)
 どっちだよ、とソロは突っ込もうとしてやめた。『もう一方の女の子』のこの言葉を、カノンが知るはずはない。
 ソロは思わず、鈴音とカノンを見比べていた。
「ふむ…」
「? 何よ?」
「ふむふむふむ…」
「だから、何? どこ見てるの?」
 カノンは、首を伸ばして玄関口の、鈴音の方を見やるソロを訝る。
「いや、ちょっと、性格と体形の比較を――痛っ!?」
 遠心力全開の、後ろ回し蹴りが横っ腹に炸裂した。 







 ――夜。
 
 

 今日の調律数、十九。
 内、ソロが倒した数が八、カノンが十一。
 昨日は合計で十一だった。不協和音の数がかなり増えている。
 ソロは野たれ死――ではなく、動く元気もなく玄関に突っ伏していた。
 連中と戦う為に、炎天に焼かれる石の町を彷徨うことも辛かったが、それ以上に訳のわからない罪悪感が募っていた。
 調律する度の、吐き気。
 斬った時の感覚、そしてあの叫び声。
 『誰かの一部』なのだということを、その度に再認識させられる。
 要するに何か、――そう何か、『虫より高等な生き物』を殺し続けている感覚である。
 人に害を成す敵、そう定義づけていいのは間違いなかったが、間違いなく彼らは生物だった。
 理不尽だ、とソロは思った。向こうはおそらく、殺戮者(と、ソロは思っている)の意思志向を受け継いでいる奴等な訳で、こちらを傷つけることに何の躊躇いもないのだろう。現に、不意打ちをされた。
 こちらはそんな気違いとは違う。少なくとも、一般的な良識ある普通の人間だった。
(なんか、あの時に似てるな……)
 初めて狼を見た時の感覚に。
 身の内を蝕んでいた者たちを食い散らかしている狼を見た、体組織的な何か。
 内から沸いたか外から憑いたか、今自在に行使しているはずのこの狼の正体は、まだわかっていない。
(あいつはどう、思ってんのかな)
 これなら復讐に燃えていたいつかの方が、大分楽な気がした。記憶は少なかったが、楽に違いない。
 早く感覚が慣れて、いや麻痺してくれることを祈るソロ。 
 なんとか立ち上がって、風呂を沸かしに行く。もう食事も、喉を通らないだろう。
 靴を脱ごうとして、 
 ガラリ、と戸が開いた。
 背中を仰け反らせた間抜けな体勢で、見たのは、
「――鈴音?」
「うん、来てみた」
 何故か今、セミロングの栗色の髪にドでかい黄色のリボンをつけている彼女は、首のチョーカーにつける鈴の音同様、嬉しそうに笑った。







 ―― 一時間後。
 
 居間のちゃぶ台の上に、素朴な料理が並んでいる。
 メインは、オムライス、
 朝の残りのサラダ、
 オムライスに合わない、これも朝の残りの味噌汁。
 オムライスもたまたま卵(シャレではない)の残りがあったからで、いつも通りの、家計を考えた献立だった。
 一人暮らしにしては大きすぎる、野菜・冷凍室もある冷蔵庫(鈴音が勧めて買わせたものである)から鈴音はウーロン茶のペットボトルと、グラスを二つ取って来た。
 コン、とそれを食卓に置いて正座、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
 ソロがまずウーロン茶で口の中を湿らせてから、言う。
「なんか悪いね、夕飯まで作らせちゃって」
 鈴音は両手で椀を支えて、味噌汁をすすりながら答える。
「…うん、でも、かのちゃんに行って来なさいって言われただけだから」
「『かのちゃん』? ――ああ、カノンのこと?」
「うん、そう呼んでって言われたの」
(――“すずちゃんかのちゃん”…ドリフか?)
 つまらないことを考えつつ、ソロはオムライスにスプーンを近づける。 
 オムライスは、鈴音の初めて習得した料理であり、一番の得意料理でもある。彼女の体格に合わせてかやや小ぶりなのが難点だが、ソースが手作りであったりと、工夫が凝らされている。
 それをもぐもぐと、無自覚に「美味い」オーラを漂わせながらソロは笑う。
「あいつ、なんのつもりなんだろうな。鈴音んちで一人で眠りたい、――はずないのに」
「そだね、なんでだろうね」
 言い、オムライスを美味しそうに食べるソロを見て微笑ましく思いつつも、鈴音は複雑な心境だった。自宅にほとんどホームステイ中の、敵である『はずの』カノンに、
(――「昼間独り占めにしてる、罪滅ぼしみたいなものよ」――)
 と、施しを受けてしまったのだから。
 彼女の心境の推移として、安心、困惑、そして今は、もっと意味わかんない、だった。
「ま、あいつのことだから、『体力を回復してもらわないと困る』とか思ってるだけなんだろうけど」
「観光案内の為の?」
「うん、そう。案内のたーめーの…」
 ソロ半ば投げやりに言っている。
 それから冗談めかして、ソロは続けた。
「観光旅行、意外と大変なんだよ? 一度行った場所に、もっかい行かなくちゃなんなかったりしてさ」
「……ふぅーん、どうして?」
「あいつが、もう一回行く! って言うんだよ」
 まあ、嘘だが。正確には、もう一回行かなくちゃ、だ。
「それって…、」
 鈴音は途中で言葉をつぐんだ。
「それって、何?」
「――それってかのちゃん、ソロといる時間を引き延ばしたいと思ってるんじゃないの?」 
「そりゃ、ねえさ」
 ソロは可笑しげにまた、ウーロン茶を飲む。
 と、
「嘘だよ! だって観光って、普通一日とかで終わるもん!」
 ばん、と食卓に手をついて立ち上がる鈴音を見、ソロはようやくいつもの『弁解』の体制に入る。説明ではなく、弁解の体勢に。
 鈴音のウーロン茶の水面が、揺れた。
「――それはないって……。あいつはオレを、利用できればいいくらいにしか思ってないよ」
 ソロは、『自嘲した』。
「……あ」
 鈴音にもそれがわかった。……わかってしまった。
 『利用されていることを良しとしていない』ソロの様子に。
 それは単に、使われていることを嫌がっているだけではないのだと、鈴音には思えた。
 そしてその回答は、間違ってはいなかった。
「じゃあ…――」
 ソロの目先、肩を震わせて立つ少女の前のテーブルに、
「な、どうしたんだよ!?」
 ぽたりと、雫が落ちた。
「なんで泣いて――」
「それじゃあソロは、あの子にどうして欲しいの!? あの子は見ず知らずの他人なのに、なんにも関係なかった人なのに、どうして……!」
 遮ってまくし立てた鈴音は、なんと言っていいのかわからず、言葉をそこで切るしかなかった。
 そして、
「――――っ!」
 声なき叫びを上げ、一目散に居間から逃げ出した。
「お、おい、待てって!」
 バタァン、とものすごい引き戸を叩きつける音が響いて、旧い家が悲鳴を上げる。
 ソロは追った。
 ここで逃げられたら、いや、捕まえておかなかったら、絶対に駄目だと、思った。
 理由はわからない。
 唐突に起こりすぎても、いた。
 ただ今、気付いたのは、
(あいつ、普通じゃない――)
 今朝指を切っていたのも、そう。
 ソロの“メロディ”を聞き取りかけていたのも、そう。
 いつもの鈴が首についていて、リボンなんかしていたのも、そう。
 最後に気付いたそれは、『対抗意識』。
 いや、それ以上の、『どこかに行かないで』『あの子の方を向かないで』という、

 サイン、だった。

 疲労しきった頭の中に、即席の音楽をかける。混乱と眠気でいくつもノイズが混じる。
(畜生――――――!!!)
 ソロは唇を噛み切っていた。鉄の匂い。
 自分は、愚鈍だ。
 愚鈍、愚鈍、愚鈍。
(――『あなた、馬鹿ね。…ついでに鈍いわ』――)

――何で気付かなかった。

――耳を塞いでいたから。
  
 最後に、気付いたのは、

――態度が、はっきりしなかったから。

 ボシュ、とランプの灯りを消したように青白い炎が消え、足取りが重くなっていた。
 また、弁解するのか――?
 旧い、木で出来た自宅の囲いを飛び越し、着地した所で消える“メロディ”。精神的にも体力的にも、限界点だった。
 が、外灯の下に、立ち尽くしていたのは。
「「…あ…」」
 嫌な、ハモりだった。いつもはテンポのいいそれも、この状況では苦痛でしかなかった。
 大して速くない鈴音の足に追いつくのは、容易だった。
「鈴――」
 言いかけて、
「手、伸ばさないで」
「……!」
 冷淡に返されたソロは、差し伸べていた手を垂れる。
 やがてゆっくりと、鈴音は言葉を紡いでゆく。 
「ソロ、疲れてるだろうからって」
 冷淡な顔が、歪んだ。
「ご飯作りに行ったら、あの子の話ばっかしてて」
 顔を見せないように、覆った。
「わた、しが、っふふ、…馬鹿みたいにリボンとか、つけて行った、けど」
 自嘲と寂しさが、交じり合っている泣き声。
「だから、『痛いこと辛いことから、私がみんな助けてあげる』って言おうと思ったけど」
 それは懐かしい、しかし痛すぎる言葉。
「もう、やめたよ…」
 変わらぬはずの、日常が変わりつつあることに気付いた少女は、
 変わらぬはずの、自分を取り巻く世界の音色が壊れた少女は、
 変わらぬはずの、絶対の絆を崩された少女は、
 
 彼に背を向け、  
 涙を零して、

 歩いて行った。


 歩き、逃げた、彼の目の前で、絶望の闇が褪せた。


 セピア色に。


 ソロは声を上げていたが、遅い。
 追いかけるにも、
 制止するにも、
 何をするにも、
 もう遅すぎた。














 
 ―序・七―








樹海にて。
 牙を剥き、唸る、蒼白の音階と五線で構成された、獰猛な狼。
 先鋭の眼光鋭い、紅蓮の音階と五線で構成された、孤高の鳥。
 それらが、逆巻く楽曲を纏って対峙していた。
 あの家はもうない。
 戦いの中で育ち、イメージされ、引き出された彼らの“メロディ”によって、全壊していた。
 そこを音域で偽装、巣として長年暮らして来た、紅い鳥を背負う子供は激昂している。
「……君は、殺すよ。僕はただ、ここで暮らしていたかっただけなのに」
「知るか」
 言い捨て、蒼い獣を背負う子供は、復讐の理由を説く気はなかった。
(ただ、元さえ絶てればそれでいい)
 そう思っていた。
 元さえ、この目の前の子供さえ殺せば、両親は帰って来る。
 そう、思っていた。
 怒る、紅い鳥を背負う子供は、醜い言い訳をする気はなかった。
(『勝手に出る』ことは、僕の責任だ) 
 そう思っていた。
 ただ、家を壊しに来た、彼にとっての日常の破壊者を消す。
 そう、考えていた。
 どことも知れぬ場所で独り。これが彼にとっての、一番の安息だった。
 他には何も知らない。知る手立ても意欲もなかった。彼にとってそれは、必要ないことだった。
 と、唐突に、号砲のように狼が咆えた。 
 剣と銃が月光に煌き、構え、響かせ、再びの衝突。
 二人とも、
((――もう、たくさんだ))
 そう思っていても、向かって来る相手。どうしようもない。
 勝負は、一瞬。
 お互いの、子供故に攻める力にばかり変換されていた“メロディ”は、
 爪として、
 牙として、
 顎として、
 紅い鳥の喉笛を引きちぎっていた。
 鳥は、子供は、翼を失って堕ちた。
 体全体から湧き上がり、紡がれていた“堂々と”した楽曲は皆砕かれ切り裂かれ、
 ただ、身体の維持と養分の補給の為にのみ使われる、血と変わり果てる。
 呻きも叫びもせず、紅い子供は落ちた。
 蒼い子供はそれを振り返らず、相手の“メロディ”の消滅を背中で感じ取って、
 
 はげしくもどした。  
 そして、つぶやいた。

「わかってるよ、わざとじゃないって」
  
 
 不協和音発生数、約二万。
 調律数、約二万。
 世界に潜む不協和音達の勢力と、そして士気を劇的に減退させた、これは誰も知らない本当のこと。
 
 最後の衝突により、紅い子供の家であった場所は、無くなってしまった。









 ―第七楽章―
  
  
     
     
 

 「やっぱりあなたが」 
     
 
 
 


 それから十年が経つ。
 その衰退の契機となった子供――音坂ソロの目の前で、一人の少女が吊るされている。
 囲いの内にいるその少女も、囲いの外にいる少年も、声を上げられなかった。
 ミシ、ブチ、
 と、腕を動かす度、壁が悲鳴を上げている。
 ソロは、四つんばいになって壁を叩き、その光景を見上げていた。
 その眼前、壁を隔てて犯されている、彼の大切な人。
 かけがえのない、大好きな、幼馴染。
 振り向いて笑う顔が一瞬過ぎって、
 それが、止まった時を越え、鳴いた。
「――い、たい…」
 刺さる棘のような腕が、彼女の『心を守る壁』である音域を貫き、抉っている。
「痛いよ…」
 百舌の早贄のように掲げられ、弱弱しく垂れた四肢。
 どこを見ているのか判らない、虚ろな瞳。
 そして、小さな口が数倍の大きさに広がり、

「――っ、痛たぁああああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁいぃい!!!」
 
 それに反応するかのように、そいつは侵食の為に槍状になったその腕を面白げに動かす。
 鈴音の小さな全身が揺れ、身を揺する度涙が零れた。
 そこで初めて、ソロは無理矢理に鈴音のメロディを、初めて聞かされる。
 こじ開けられて零れ落ちたその曲調は桜色、“愛らしく”、しかしどんどん金色の旋律に侵食されていった。
「痛い、痛い、痛たいぃぃいぃい!!」
 笑う、口。
 喜悦に細められる、十三の目。
 思い出す言葉は、
(――「嗜虐心よ」――) 
 ソロの心が一瞬氷付けになって、
 一瞬にして閃き撃たれ、燃えた。 
 何も、言葉にならなかった。
 どす黒く、深く、のた打つような怨みの意思を区別する為の言葉が、構成される前に次の物が、構成される前に次の物が現れ、不完全なまま脳に焼きついてゆく。
 壮絶な蒼白の旋律が、いや、荒む稲妻と呼ぶに相応しい、調律を通り越した破壊の為の力が、自分を取り巻いていることに彼は気付かない。
 視線の先には、弄ばれている鈴音。
 その視界の色も、どうかしていた。
 『胸に突き刺さっている』敵の漆黒の腕は、真っ白に、泣き叫ぶ鈴音の黄色のリボンは、青色に。
 彼を取り巻く世界の色は、全て反転していた。
 血が回り過ぎ、段々薄く白んでいくそれを繋ぎとめて、像として結び、
 目的を、口に出す前に実行した。
 彼の代わりに吼えたのは、






「――――狼…!」
 カノンは聞き、驚愕していた。
 ずっと探していた、『この町を襲っている誰か』の、それは最終目標。
 心の耳をそばだてていなくても強制的に乱入して来るような、実際の音として在る、誰かの“メロディ”。
 怖い、と、気丈な少女は思った。
 心の芯を揺さぶられるような、男性に殴りつけられたような、トラウマさえ覚えそうな恐怖と怨嗟のメロディ。
(これが、“蒼狼”…)
 位置はここから相当に近い。侵食を受ける誰かの波長にも、聞き覚えはないが馴染みある響きが混じっていた。
 不安が、一瞬にして膨れ上がった。
 『誰が襲われているのか』を考えることによって、点と線が繋がってしまう。
 まさか、ともつぶやかず、彼女は食卓を立つ。
 行きたくなんて、ない。怖いから。
 しかし、それでも、
「おじさま、おばさま、ごめんなさい。少し出てきます」
 リボンはつけずに、甘えから奪い取るようにして引っつかんだ。掴んだ瞬間からメロディを込める。
 もし『そうだったら』、もうこの家に来ることはない。
「え、あ、ちょっと、カノンちゃん?」
「もう外は暗いよ? 危な――」
 そこまで聞き取って、ドアを閉めた。
 大きな、擬似の家族の名残惜しさより、今はほんの少しの『友達』への不安感の方が、どうしようもなく胸の内で暴れていた。
 いつの間にかしとしとと雨が降り、雲の中では雷がくすぶっていた。黒い混沌の中で、紫がかった白い稲妻が足掻いている。
 不安が当たっているにせよ外れているにせよ、今の彼女に出来ることは駆けつけることだけだった。雨で薄手のパジャマが透けることも構わず、疲労を押して走った。
 不協和音の音色は、もう失せた。
 別の二つの目的だけが、そこにある。
 もしかすると、鈴音が。
 もしかすると、“蒼狼”が。
(“蒼狼”…)
 見当はついている。この町に元々いた、たった一人の調律士。
 数日一緒に行動していた、仲間。
 そして『そう思って』はいけないはずの、その少年。
(――音坂、“ソロ”君)
 想ったその時、人とぶつかった。
「あ、ごめんなさ――」
 言いかけて、
「……!」
 すれ違いざま、小さな背中でうねる、金色の穴を見た。 
 その穴を穿たれた、痛みを堪えて泣く少女をおぶっているのは、
「音坂君!」
 自分に気付いているはずなのに、彼は何も言わず、ただ烏丸家の方へ走り去って行った。
 引き止めるように手を伸ばしたカノンの背後には、雨水貯まる、球状に虚空を広げる路地があった。


「ごめんね、ソロ」
「喋らなくて、いいよ」
 傷口は、開かない。
「私、わがままばっかり言ってたか、――っら、罰が、当たったのかな」
「違うよ」
 ソロの制止には答えず、少女は心の中に隠し持っていた気持ちを、素直に言葉に出していた。
「…私、ソロがどこかに行っちゃうのが、怖かったの」
 ソロは黙って聞いている。
「だって、突然、あんな綺麗な女の子が出てきて、私、ソロも、毎日ゴメンとか、言ってて…」
「…うん」
「どうしたらいいのか、わかんなくなっちゃって…」
「…ああ」
「…ソロの隣にいれなくなっちゃうと、思って」
 少年は悔いた。自分が思いやりだと思ってかけていた言葉は、非道く彼女の心を苛んでいた。
 少年は悔いた。近くにいて、全部わかっていると思っていた、
 そんなものは、思い上がりだったことに。
「――鈴音?」
 背で感じる、柔らかな曲が弱まっていく。
 答えなくなった少女に、彼は謝罪していた。
「俺が、悪いんだ」
 少女と少年の頬を伝うものは、雨と何か。
 しっかりと首に回された細い腕が、弱弱しく垂れた。
          


                    ◆

 

 ソロが病室の外の椅子に腰掛けて、うなだれている。
 カノンがその横から扉を閉めて一礼、出てきた。
「―― 一応、眠らせておいたわ」 
 彼は答えず、何事か口の中でつぶやいている。  
「どうして、ああいうことになったの?」
「地図、貸してくれ」
「その前に、私の質問に答えなさい」
「地、」
 パン、と乾いた音が、響き渡った。
 首をそっぽを向くようにしている少年と、手を振りぬいた格好の少女を、見舞い客と看護婦が一瞬振り返り、そしてまた時が流れた。
 それから平静を装って、抑揚のない、しかし震える声でカノンが言う。
「あなたが今出来ることは、体を休める。私の質問に答える。それだけよ」
 頬が熱かった。
 十年振りの熱さだった。
 誰も本気で叱咤してくれることもなく、ただ、一線を越えられない甘さの中で過ごした十年間。
 右の頬に血が集まり、脈打つ感覚。どうしようもなくなった自分を、止めてくれる感覚。
 言葉よりも熱い、愛情の姿。
 ソロは泣いた。声をあげて少女にすがりつき、必死に吼えていた。
 すがりついているその少女が、誰でも良かった。
 やがて彼は、濡れた自分の髪に優しく触れる感触に気付く。
 彼の頭を撫でている、彼の擬似の母親たる少女は優しげに彼を労わり、しかし泣きそうになっていた。
 彼と、この狼の全てを包み込んでやるには、彼女もまた子供だった。
 震える泣き声で言う。
「“疲れたでしょう。”」
「…ああ」
「“もう全て終わったのなら、眠ってもいいのよ。だけど、まだやらなくちゃならないことがあるのなら、どんなに辛くても立ち上がりなさい”」
 そう言われ、少女は兄を戒める為に立ち上がった。
 そう言った、リボンの上に血を吐きながら果てた、母もそれを望んでいた。
 言いながら、彼女ももういない母親を思い出し、少年にすがりついて泣いていた。
「そっちも疲れただろ?」
 言った少年の背にかぶさった、少女は鼻をすすりながら笑いかけていた。
「抱き合って、泣きつきながら言う台詞じゃないわね。――お互いに」
「ああ、本当にそうだ」
 っはは、と大きく暖かな背を伝わって音が、失笑するメロディがカノンには聞こえて来た。
 そうしてしばらく、病室の中から聞こえる、鈴音の両親のすすり泣きを聞きながら、
 そうしてしばらく、通り過ぎる人々の好奇の視線を集めながら、
 ソロは、
「鈴音、あとどれくらいもつ」
 冷静にそう、訊いていた。
 カノンも冷静に状況を判断して、ただ友達を助ける為、兄を戒めんが為に考察する。
「そうね。――さっき感じ取った容態からして、明後日の、多分、零時くらいね」
「そっか。わかった」
 『生きている内』に金色のメロディを消せば、助かるということはわかっていた。
 しかしあの時は、止めてくれる誰かがいなかったから、そう出来なかった。
 自分で制止出来るほど、彼は強い人間ではない。ましてあの時は、ほんの子供だった。
 カノンの胸の下から、彼はぱっと離れた。
 離れて、泣き笑いした。
「…あんまくっついてると、また焼きもち焼かれるからな」
「――モテる男は辛い、とでも言いたいの?」
 カノンが失笑しながらそう訊ねると、
「ま、ね」
 吹っ切れたように笑んだ中に、不純物を混ぜて彼は答えた。
 

 怨んで殺すなんて、もうまっぴらだ。
   
 せめて、生かす為に殺そうと、彼は思った。















 ―序・八―






 帰宅する。
 どうやって、どんな道のりで、また何時間、何日、いや何週間だろうか。
 戦い。
 自己満足的な復讐。
 やりたかったからそうしたこと。
 どれともつかない『八つ当たり』を終えた後の彼の記憶は、自宅の門の前へ来るまで途切れていた。
 門の所で、雨に打たれ――
 そう、その時も雨が降っていた。
 ――ている少女の存在と意思は、無視して、道場へ篭った。少女もそれを追わなかった。
 
 道場へ刀を戻す。
 つきあってくれてありがとう、と戻した。
 気は晴れたか、と聞かれたので、いやまったく、と彼は子供らしくなく自嘲した。
 
 気持ちが腐りきっていた。
 こうなることをわかっていて力を貸してくれた彼に対してすら、
 目的と方針を取り違えて、さらなる後悔への、成長への過程を見守っていてくれた彼にすら、
 謝意は全く沸かなかった。ただ放心して、涙も出なかった。

 代わりに腹の中のものが出た。


  
 
 

 
 
 ―第八楽章―





 

 「さよなら」







 生かす為に殺す、
 そんなもんは言い訳。
 あいつは故意にやったのではないが、今回は違う。
 この町になんらかの影響を与えたくて、もしくはただ殺戮が行いたくて、
 それで、やったんじゃないか。
 なら、殺すべき。

「――しかし」

 と、ここまで書き並べてみて、ソロは思った。

「簡単に、殺すって言うよね」

 全く、とがしがし消しゴムで消す。
 下の行から削除されていく、ルーズリーフ上の文字列。
 消して――、
 一番上の行だけが残った。
 普段全く使わない勉強机に座って、その上に山と積まれた教科書類をなぎ払い、叩き落し、書いていた。
 その周辺の一角、部屋の隅には紙くずが山と積まれている――
 のではなく、屑篭がとうに一杯になって、丸めたルーズリーフが溢れだしていた。作者解するに、失う葉とは良く言ったものだ。
 ルーズリーフの全ての行、いやそれを越えて、日付を書く部分にすら一字一句違えることなく、

 「殺す」

 の文字がきちんと整列していた。
 ようやっと気持ちがまとまった頃には、もう空が白んでいた。
 雀の声を聞いて、薄蒼く涼しげな、そしてそれに違和感なく調和する燃える橙の空を見て、

「なに、やってんだろ」

 殺意はまるで、ぬぐえなかった。
 振り返れば壁に、昨日までなかった穴がいくつも空いていた。



「ガタガタになってる…」

 と、夜中、カノンは音坂家の別室でひとりごちていた。
 結局烏丸家には、戻らなかった。カノンのお礼も、どこか上の空な感じで見捨てられた。
 ずっと起きていた。怖かった。
 彼が今にもこちらの部屋へ来て、「そこにあるもの」同様、自分を壊され、衝動のままにされるような気がして。
 廊下を隔てて在る彼の部屋からは、ずっと破壊音と怒号が響いていた。彼の音色もまた、ほとんど不協和音のレベルまで荒んでいた。
 兄さんもそうだった。
 果てまで荒れた。
 そして、生み出していた。
 生み出して、侵して、犯して、何もかも壊して、出て行った。
 八つ当たりというには、凄惨すぎる爪痕と恐怖を残して行ってしまった。

(…怖い)

 でも、彼は、
 彼は違う、と思った。
 自分の為に、怒っているんじゃない。今は自分を、目的がなんだったかを見失って怒っているとしても、きっかけは違った。人の為に、大切な人を壊されたから怒っている。ただの独占欲じゃないか、と誰かに指摘されても仕方のないことだが、怒った理由の中に、大切な人を思いやる気持ちが含まれていることは確かだった。
 眠れないのかもしれない。
 それでも、一人で行っても、力の足りないまま行っても犬死してしまうだけだからと、彼女を助けられなくなってしまうからと、必死にここにとどまっている。
 感情と理性が分断しているかなり危険な状態とも取れるが、感情と理性が結託して、怒りからの惰性を必死に押さえ込もうとして、なんとか鈴音を助けようとしている、という取り方を、カノンはしたいと思った。
 気付かず図らず、それは鈴音がソロに対して抱くような「信じているを自己暗示」だった。
 信じたい、のだった。
 どんなに手のつけられない状態に陥ってしまっていても、彼なら大丈夫、
 彼なら。
 『信じたい』と思う、そう感じることの出来る、彼なら。
 欺瞞だって暗示だって、それは信頼の形だった。
 カノンは恐怖に怯えながらも、待った。知らない内に壊されている『かもしれなくて』も、知らない内に衝動のままにされている『かもしれなくて』も、それでも。
(音坂君なら、大丈夫)
 そう思って、眠りについた。 
 眠ることが出来た。
 自分のことを考える余裕は、あまりなかった。

 

 翌日、二人は、位置を探った。
 町中かけずり回って、音域の気配を探った。
 ソロとカノンは、その間何も、一日中何も会話をしなかった。
 ――あ、いや、正確には、二言ほど。

「休んでていいよ」
「ありがとう。…ごめんなさい」

 と、日差しに当てられた彼女を運動公園の木陰に残して、彼は再び自転車で走り去った。
 と、
 次の瞬間猛然と戻って来て、ぽいと、スポーツドリンクの缶を放って寄こした。
 カノンがきょとんとソロを見上げると、また猛然と、何も言わずに彼は去った。
 真意は良くつかめなかったが、カノンは、その蒼色の缶を首筋に当てて微笑む。

「…冷たいけど、温かい」

 それから冷や水を浴びたように、公園を通り過ぎる人々が安らぐような笑みを消した。
 今は、そんな安穏とした時間ではなかったのだった。
 直後、ソロの激昂する音色が耳に届いて、不協和音は音速、一刀の元に消滅した。

 



 ――次の日、夜。




 偽装する音域が、その日の昼頃見つかった。
 仮眠を取って、メロディを十分に外側へ紡げるだけの精神力を付け焼刃程度に回復して、夜、発った。
 時刻は八時を指しているというのに、まだアブラゼミが一匹ほど、病院の中庭の木で鳴いている。
 日差しは地平へ没したというのに、まだ暑い。アスファルトが熱を持っているのだろうか。それならアスファルト、この世からなくなれ、鈴音の代わりにと、ソロは思わない。「そうさせない」から。
 全てが黒い、という違い。昼と夜との違いは、それぐらいだった。 
 面会の時間はとうに終わっていたが、二人は最後の戦い……準備も何もない、ただの『絶望的に嫌なこと』だが、に赴く前に、鈴音の顔を見ておこうと思った。
 窓から入ればいいのだ。が、
「どうやって…?」
 と、ソロが突っ込み方らしく、常の態度を戻しながら問うた。
 カノンはそれに少し安心しながら、軽く答える。
「飛ぶわ。リボンでね」
「……もはやなんでもあり、か。『長城』から飛び降りてたしな。まぁともかく、スカートには気をつけたまえ」
 ぱかん、と軽く、やはりボケか、と再認識させられるようにカノンの拳で殴られる。
 ざわり、と葉ずれにも似た音と共にリボンが彼女を取り巻き、それは檻、いや、昔の炭鉱に存在したようなエレベーターのように、フタのない四角い箱に形を変えて彼女と彼を文字通り上まで運んだ。
 そして窓の鍵は、
「閉まってる、なぁ」
「そうね、閉まってるわ」
 と二人して袋の中の“冴月”を見る。旋律を込められた彼は、ぎくりとするかのように鞘の中で蒼色の楽譜を点滅させてしまう。
「壊しちゃいましょうか」
「そうね、壊しちゃいましょう」
 鞘に納めたまま、中に網状のフレームの入った強化ガラスの窓に、“冴月”の切っ先を近づける。
 こつ、と当たって、
 ぱん、と軽い音と共に、窓は弾けた。円形に穴が空き、砂みたいになってガラスと鉄が散る。別に後から、再構成出来るし。
「ちょっと小さかったかな」
「十分よ。――いしょっと」
「手、切るなよ」
「ご忠告を、どうも」
 ……鈴音の部屋が個室でなかったら、こんな強行手段には及ばないはずの二人である。
 透明な、菱形の酸素マスクをつけている訳でもなく、
 ただ緑色の波形が、静かで正確な電子音で鈴音の命を刻んでいる。弱いのか通常なのか、はたまた回数が多いのか、二人にはわからなかった。
 彼女は健やかに微笑ましく、可愛らしい寝顔で眠っているだけだけだが、水面下では恐怖と混乱に弄ばれている。
 眠り姫、だろうか。
 いやしかし、彼女は完全に眠っていたはずである。比べたり、何かに比喩することは到底出来そうにないほど、そして外の人間からは何もわからない分、今の状況は残酷だった。
 ただ、布団の下に、二人にしか見えない、金色の穴が穿たれていた。
 カノンは布団を少しめくって、その部分にそっと手を当てる。と、鈴音が身をよじって苦しげな表情をしたので、彼女は布団を元に戻した。
 それは、大きな心の傷だった。
 自身の内側に通じる扉を無理矢理に、全く知らない人物にこじ開けられてしまった、大きな喪失感。
 大切な人にこそ、最初に聞いてもらいたかったはずであろう、彼女の心の中をむき出しにほじくりかえされた、そんな絶望的な嫌悪感。
 ベッドにかがみこんで、鈴音の顔をいたましげに覗き込んでいるカノンの背に、ソロは声をかけた。
「あんたは、音域、破られた時どうだったんだ?」
 言いにくげに。しかしこの質問でしか、女性である鈴音の気持ちは、なんとなく察せないだろうと思った。
「どうしようもなく、痛かったわ。でもね、」
「…でも?」
「ちょっと、嬉しくもあったわ」
「どうして? だって、知らない奴に、嫌なのに、……」
 そこから先、動詞は言えなかった。非道く、彼女の心も自分の心も傷つける気がした。
「それがねぇ…」
 ふう、とカノンは困ったように笑った。「嫌でも、なかったのよ」
「…なんで」
 察しはつく。相手が『そうでなければ』いいだけのことだった。でも、しかし。
 そんなソロの心を踏み砕くかのように、カノンは言った。
「相手が、兄さんだったから。…あまりね、私、兄さんのことがわからなかったの」
「わかったから、嬉しかったっていうのか? そんな、無理矢理に、されても?」
 語調が怒りに上がりつつも、必死に当たり障りのない言葉を選んでいた。
「ええ、だから、ちょっとね。兄さんは、全然私の事を見てくれたことがなかったし……。練習してる時も、背中ばかり見てたわ。私が話しかけても、全部無視。…ただね」
 と、彼女はまた困った顔で笑う。
「やっぱりそれでも、兄さんが好きだったの」
「ふざけろ」
 何かを叩いて激昂したり、なにかを壊したりする価値もないと、ソロは思った。
 ただ一つ、消すべきは、
「――え?」
 パン、と頬を張った。その、常の、強い彼女にあらざる、誤魔化したような笑みを叩き潰していた。
 女だから、好きな人だから、手加減は一切なかった。そして、たたみかけるように吼えた。
「――っふざけろって言ってんだよ! どうして兄貴だからってそんなこと出来るんだ!? どうして好きだからって、無理矢理だってのに受け入れるんだよ!! それにそういう意思がなかったとしても、あんたがそうされたことになにも変わらないんだぞ!? 兄貴が好きだったならな、無視されても諦めないで話かければ良かったじゃないか! 人が飯奢ってやってもお礼も言わないような気の強いあんたが、どうしてそれだけのことが出来ないんだ!? どうして男にいいようにされて、黙ってるんだよ!!」
 そして、頬を押さえて何も言わないカノンを見て完全に激昂したソロは、蒼い稲妻を纏って言う。
「もういい、行く。あんたの兄貴だろうがなんだろうが、絶対に、絶対に許さない。あんたを泣かせて、鈴音を犯して、人を殺して、もうあの金色の奴には、生きる価値がない。叩き潰してやる」
 カノンがこの町に来た理由。
 ソロは悟っていた。そしてどうしようもなく、焦っていた。
 『受け入れても大丈夫』。そう、カノンが思える程の人間が、この町にいる。命を懸けて掣肘しに来た。それが証拠だった。
 鞘を叩き付け、窓を消散させて枠だけにし、飛び立とうとした恋の復讐者は、しかし聞いた。
 女性である以前に、女の子の、泣き声を。
「う、うぅ……うううぅぅぅぅ……うっ、う…」
 力技が、過ぎたのである。
 彼女は自分と同い年の、女の子なのだった。
 自分と同じ、まだ、どうしようもない子供。
 何を選んでいいのか、何が正解なのか、まだ、まるでわからない少女。
 そんな彼女に情ではなく、理論で接していた。世の中の正しいことを、そうと思われることを、まだ話す上で情を必要とする少女に、叩き付けていた。
 怒りと、一緒に。
 八つ当たりだった。
 彼もまた、子供である。
 そんな、凛とした顔立ちも台無しに、泣きじゃくる少女は謝った。
「…ごめんなさい」
 そしてソロが駆け寄る前に、抱きついて来た。
 彼も拒まない。そして彼も謝った。「ごめん」
 鈴音が寝ている側で、しばらく抱き合っていた。
 お互い何の隔意もなく、ただ相手がそこにいる証拠としての、体温を感じたかった。
 カノンの細い胴に、少しだけ手をまわしてみる。なんの抵抗もない。
 今回は自分が泣きつく格好になってしまったカノンは、ひとしきり泣いてからぶすっとした顔を上げて、いかにも不機嫌そうに言った。
「キスして」
 うぐあ、とソロの顔が引きつる。キス、とな。こんな時に。
(いや、ていうか、ほとんど初めてな訳で。昔やったのもあれは子供な訳で)
 ホテルマン宜しく、焦りまくる。先の威力も何処へやら。今の彼は、ラブコメな展開に翻弄される主人公に他ならなかった。
「女の子を叩いておいて、女の子の心を鷲づかみにしておいて、今更逃げようって言うの?」
 ずごむ、とカノンの頭が鳩尾に入る。
(いや、鈴音、どうしよう。俺はどうしたらいいと思いますか?)
 ああ、腹が立つ。非常に腹が立つ。何を訊いているのかこの男。何を依存しているんだ。
 答えは勿論、『駄目だよっ!!』。飛び上がって激昂して、泣き喚いて首筋に爪痕なんか残して死力を尽くして抵抗するだろう。
 でもしかし、選ぶのは、彼のすべきことだった。
 選ぶ権利は、一方的に彼にある。
 だから、
 だから、
 だから、
「……わかった。キス、しよう」
 途端、ぐいと襟首を掴まれて、ソロは持ち上げられた。そして、えいやとばかりに投げられる。
 投げられた先は、
 鈴音のベッドだった。
 目を閉じる、暇もなかった。
「これで諦めなさいよ」
 そう、早口に言うのが聞こえて、腕を押さえつけられ、
 唇を重ね合わされた。
 ロマンチックでもなんでもない、それは皮肉と、驚愕と、そして大きな寂しさの交じり合った、キスだった。
 月光のもとで、ただ一方的に、カノンが少年の唇を嬲っていた。
 ベッドに押し倒して、
 腕を拘束して、
 心も、釘付けにして。
 まるで吸血鬼のように、黒衣に月光を讃えて、ソロに覆いかぶさって。
 強制的に、快楽を与えていた。
 
 やがて、衣擦れの音が止んだ。
 混じり合う唾液が糸を引いた。
 血色の旋律が、零れ落ちた。
 そして涙も、零れ落ちた。

 全てはその、愛しい寝顔に吸い込まれていった。
 
 その寝顔を愛しげにしばらく眺めた後、彼女は意を決して立ち上がった。このままいれば、ここで。
 ベッドの上で解けていたリボンを回収する際、
「すずちゃん、ごめんね」
 それから、もう一度、彼の寝顔を見る。
 凄く、間抜けな顔だった。何もかも忘れた、子供ような寝顔だった。それを見て彼女らしく、ふ、と忍び笑いを漏らし、
「やっぱり、充電。もうちょっとだけ」
 再び彼に甘えてくっついてみるも、反応はなかった。
 でも、それでいい。動かれたらこのまま、惰性に任せて行ってしまう。きっとそうなる。
 今は、涙を拭いて、
「そう、曲調は“優雅に”。そして、“決然と”」
 リボンは集まって、一本の杖となる。黒の布地に浮かぶその術式は、少し、紫がかっていた。
 浮かんだ杖を外に押し出し、横座りに座る。
 窓は枠だけになっていたが、再構成しなくてもまあいいわ。大目玉を喰らえ喰らえ。ふふ、と彼女は悪魔さながらに笑って、最後に言った。
「あなたがそういう人だから、好きでした」
(――「あんたがそうされたってことに何も変わりがない」――)
 自分のことを、本当に大事に思って、焦ってくれる人。
 でも、涙を拭かない。
「さようなら、元気でね。すずちゃんも」
 ドシュン、と彼女は凄い勢いで、月を背景にシルエットを出し、飛ぶ。
 きらきらと光る航跡を残して、杖は目指す。
 兄の居場所を。





 病室には、何年ぶりかに並んで寝る二人の姿と、
 
 涙か唾液か、みずのあとだけが残された。







 ―序・九―






 帰って来た彼は、何も言わなかった。
 彼女もまた、なにも聞かなかった。


 鈴音は、なんとか、彼と話す機会を持とうと思った。
 彼は数日間学校へもまるで来ず、道場にひきもったきりで、時折中から破砕音が響いて来る、という、
 異常な状況だったからである。
 彼が家を空けていた期間は、とうに冷蔵庫の中の食べ物を液状にさせるだけの余裕はあるはずだった。
 一年間、不在だったのだから。
 だのに、彼は確かに家におり、生活して――生きて、と言ったほうが正しいかもしれない――いるらしかった。
 意を決して、両親の制止も振り切って、門の前まで来た時、
 ガン、
 と、また、道場の方から煙(おそらく埃だろう)が上がった。
   
 長い間会っていなかったのだから、話がしたい。しかし、とてもそんな状況ではないということは、幼い彼女にもわかっていた。
(でも、)
 ぎゅ、と、作って来た小さな弁当の包みを抱きしめる。
(話、したいんだもん)

 決然と歩を進め、道場の引き戸の所まで行く。勿論、足は震えていた。
 彼はどう、変わってしまったのだろうか。
 変わった、という前提のもとに脅えていた。

 それでも彼女は、つとめて明るく、元気に戸を明けようとする。久しぶりに会うのだから。
 重いのに加え、老朽化しているのか埃が溜まっているのか、戸は一段と重かった。重い分だけ中への期待が膨らみ、
「ソロ、おかえ――……」
 それは、簡単に踏み潰された。
 凄い音がしていたので、てっきり何かぶつけたり叩いたり、道場の中が荒れ果てていると想像した彼女だったが、
「…何、してるの?」
 目の前に広がっていたのは、ただ、雪のように埃が被っているだけの、少し前までは見慣れていた格技場の様子だった。
 懐かしい、でもどこかが『違うな』と思うもつかの間、彼女の前に転がっているのは、ソロだった。
 ただ、埃の海の中に寝転がっている。
「別に」
 答えたその声も、別に、何か変わった様子はない。
 声には。
 ただ、違うのは、
「…それ、埃?」
「んにゃあ、多分違え」
 髪が、白くなっていた。
 灰と呼ぶに相応しい、粗い鑢で擦った針金のような、艶や柔らかさの微塵も感じられない髪だった。
 埃の浜へ弁当箱を置いて、鈴音は素足のまま、彼に寄った。
 見下すような位置関係で、しかしただ近寄ることが出来ないでいるだけの鈴音は訊いた。
「こわして、直したの?」
「ああ、うん。たぶんそうだよ」
 見渡せば、埃の海に跡を残すのは彼女の足跡だけだった。他には『なんの跡もない』。
 どうやってやったのか、とは、彼女は問わなかった。ただ死体のようにうつ伏せに寝そべった彼が、ぶつぶつと答えた。
「壊しても仕方ないって思うから、直すんだけど…。それでも勝手に」
「私もこわせるの?」
「わかんない。でも離れた方がいいかな」
「なら、だいじょぶだね」
 鈴音が微笑んだのも、顔を突っ伏したまま見ることもなく、ソロは黙った。
 鈴音は間がもたないと判断し、避難させていた弁当を取り戻し、ソロの背中にぼさり、と置いてやった。
「お腹空いたなら、食べなよ。いちおうがんばってつくったからね」
 中身は何故か、弁当にあるまじくもオムライスである。ソロが片目を灰の雪の外に出し、見やると、その包みにはケチャップの赤黒いシミがついていた。
 血か、と彼はただその状況を認識する。
 しかし、表面上は元の自分を取り繕っておいた。
「鈴音、料理できないよね?」
「……ハツチョウセンだから、すごいあじかも」
「…………そう」
 再度、沈黙。
 鈴音はしびれを切らして、ソロに抱きついてしまった。服が埃だらけになるのも気にせず。
「離れた方がいいよ、きっと鈴音も壊しちゃうから。壊して直したけど、あいつは動かなかったから」
 鈴音は心底幸せそうに、血で汚れ穴の開いた、一年経って古ぼけた病院着に顔を伏せた。半ばだらしないような、そんな笑顔で。
「ソロになら、こわされてもいいや。……ていうかね、こわして」
「オレの気持ちでは、そうできないよ」
「ああ、残念無念。ソロに壊してもらったら、きっと面白いことになるのに」
「どんな面白いこと?」
「…まずね、ソロはね、なんで鈴音が動かないんだーってなるよ。その後、自分で自分をこわす」
「…ちっとも面白くない」
「わたしが面白いの。『ああソロは、なんて莫迦なんでしょう』って。後悔するようなことして、なんて馬鹿なんだろうって。幽霊になってお空から、ソロが苦しんでる所を見るの。それが面白いんだよ」
「……でもそれは、オレの気持ちがやったことじゃないよ」
「違ぁーう。それはソロが『やりたかったからそうした』ことだよ。だからそうなってるんだよ。だから――」
 彼女は彼女らしくなく、にや、と嗜虐の笑みを漏らした。
「――ソロのやりたいことだから、助けてくれたんだよ」
 何が、というのは、彼女にはわからなかった。しかし根拠のない確信が、彼女にはあった。この妙で恐ろしい現象は、ソロが持つ純粋な力ではないと。いや、“増幅”と言った方が正しいのだろうが、幼い彼女にそれを表現させるとやはり『助けてくれた』になるのだ。
 そして彼女の言いたい事は、彼には痛い程通じた。
 何が、というのは、彼にはわかっていた。この間話もした。
 『父さん』は、応援してくれた。
 形だけの応援を。
 やりたいようにやれ。それが、彼の父の口癖だった。
 その言葉に隠された真意が、彼には伝わっていなかっただけのこと。
 『無理もない、まだ十にも満たない子供だったのだから』、と、片付けることは、
 出来ない。
 子供はそんなに馬鹿ではない。わかっていて、わかっているのに、
 耳を塞いでいるのである。
 甘えという、形をとって。
 鈴音は今や無表情になり、続けた。
「よく、わかんないけどね。ソロが怒ったフリしてなにかから逃げてたっていうのは、わかるよ」
 ぴくり、と彼が震えるのが、彼女にはわかった。
「……父さんと母さん、いなくなったのに」
「ソロのお父さんはきっと、あまえだって言うよ」
 ぱん、と、床の一部が消滅した。いや、正確に表現するなら、『音波によって分解して見えなくなった』。 
 それでも鈴音は、震える体を無理矢理釘付けにして、続けた。
「おじさんが、ソロに、『やりたいようにやれ』って言ったのは何でだと思う?」
「知らないよ」
 今度は三箇所消滅して、台座を失った“冴月”が傾いた。
「それが耳を塞いでるって言うんだよ! やりたいようにやれって言われてやりたいように『だけ』するのはただの馬鹿だよ!!」
「知らないって」
 木造建築が巨大な虫に食われていくように欠落していく中、鈴音はそれでも彼にすがりついていた。
「――――じゃあ、ずっと、逃げるの? 辛いよ?」
「しばらくそうする」
 完全な妥協案だった。
 鈴音は呆れた。情けないと思った。
 立ち上がって、彼のわき腹を思い切り蹴ってやった。
 蹴った感覚はひたすらに固く、脆かった。
 そこで何故か、欠落の嵐は止む。
「何す――」
「うるさい」
 決して大きくはないが、暗い洞窟の底から響く魔物の咆哮のような声にソロは気圧され、口をつぐんだ。
 蹴ってしかし、鈴音は微笑した。見るものを蕩かすような、限りない母性を秘めたような、そんな笑み。
 純粋に微笑みかけているのか、何か企んでいるのか、それともただ馬鹿にしているのか、ソロには判別がつかない。
 絶句しているソロに向かって、鈴音は言った。
「わかった。私がソロのお母さんになる」
 悔しい、とソロは心の中で吼えた。
 みんなしてオレを、

 おとなにしようとしている。  
     
 同い年の、この少女ですら。
 自分が善意で、そうだと信じてやったことすら否定しようとしている、それがどうしようもなく不可解で、苛立った。
 瞼を熱くしながら、彼は最後に、どこまでも悲痛に、血を吐くほど、

「なんでころしたいやつをころしたらいけないんだ」    
 
 そう叫んだ。
 それから、錯乱して鈴音を押し倒した。
 ソロは『その先の行為』、そして、順当な順番で行けばその前に済ますはずの行為も知らなかったので、押し倒された鈴音が教えた。
 受身ばっかりだと、彼は十年後に思う。
 男のクセに何も出来なくて、格好よく世界に向けて抗議しているつもりで、しかしそれは負け犬の所為。
 自分は餓鬼で、この少女は自分よりも大人なんだと、彼は痛感して泣いた。どうしようもない劣等感に襲われて泣いた。
 十年先にも、何も守ることの出来ない少年は泣いた。
 きす、
 それもただ、平仮名で語るに相応しく、傍目には微笑ましく思えるだけのものだったが、絆はしかと繋がった。
 繋がって、いつか切れるのかも知れない。
 切れるいつかのことを想像して、さらにしゃくりあげる少年を抱き、少女は彼に語りかけた。
「ソロはまだ子供だから、痛いこと辛いことから、私がみんな助けてあげる。だから、ね。泣かないで」
 すがられても、それを幸せだと思っても、少女は涙しない。
 自分は、母親なんだから。
 漏らした感想は、
「情けないの…」
 それだけだった。

 ――――傾いだ剣は、微動だにしなかった。 






2004/07/26(Mon)19:31:15 公開 / 春一
■この作品の著作権は春一さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ

 時間が、ない…。

 序だけの更新となってしまいました。
 書く側も錯乱中です。どうしようもなくなってます。

 ああ、うう、辛いデス(ばたり

 点数や感想も、半分でお願いします(オイ/遺言気味)
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