- 『終点の人(1〜5』 作者:春一 / 未分類 未分類
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全角26185.5文字
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原稿用紙約87.25枚
◆終点の人(1〜5)
1.「書類を積まれて」
あれが、私か。
血まみれになって形がわからなくなってる、下から出てきたあれが。
さっきまであの体で歩いとったはずなのに、
さっきまであの体で本読んどったはずなのに、
もう動いてないんじゃね。
好きな人、待っとっただけなんじゃけどなぁ…
朝の8時頃 金曜日
『電車遅れまして、大変ご迷わ――を――――しておりま――。――駅で人身事故が発生し、只今ダイヤに10分の遅れが出ております』
話し声、他ホームに入る電車の音、足音、雨音。それら雑音に掻き消されて、肝心の何処で事故が起こったかというところが良く聞き取れなかった。
「またか」
そう俺は言った。今月に入ってこのアナウンスを聞くのは、もう三度目だった。
4ドア車の入り口の所にいつもの倍くらいの人が並んで、そのほとんどの人が時間を確認している。
大して時間を気にしない、というか気にする必要のないおばあさま方はベンチに座って「珍しいわね」を連発している。電車に乗ることが少ないのか、それとも先のアナウンスをしっかりと聞いていて、あまり事故の起こらないような所で事故が発生したから、驚いているのか。
入学したてらしい高校生が、恐れ半分好奇心半分くらいのテンションで「自殺するんだったら、どこか別の場所でして欲しいよな」などと、正義感なのか、現実から逃げてしまった不甲斐ない自殺者への見下しなのか、よくわからないコメントを吐いていた。人身事故と言えば、自殺しか頭に思い浮かばないようだ。
駅員に詰め寄るおばさま。「どうなってるんですか!?」電車がどれだけ遅れているのか確かめるだけでは、済まなそうな口調だった。駅員には何の罪もないことは、この時彼女の中で問題ではないようだ。
実際、俺も苛立っていた。
仕事を早く片付けて、早く家に帰りたかった。そこには「おかえりなさい。お夕食ですか? それともお風呂ですか?」と尋ねてくれる天使はまだいないが、とりあえず家(アパートだが)が好きだった。
そして皆、いや俺も、
誰がどうやって、どんな理由で事故にあったか、知ろうとはしなかった。
その日の帰り。
俺は上りの終電に乗っていた。別に今朝の人身事故のせいで、仕事が終わるのが遅くなったからではない。(10分でそんなに支障をきたすはずもない)単に――ただ単に、帰り際になって課長にデスクに書類の山を積まれただけだ。
上りは下りと違って12時を過ぎると電車がなくなるから、この電車にはかなり急いで飛び乗った。奇跡的に間に合った。大学まで陸上をしていたことが、こんな時に役立つ。
だがやはり、運動不足は否めない。息が切れ、シートに腰掛けたと思ったら、途端に瞼が重くなった。
◇
『ご乗車、ありがとうございます。終点、池袋。池袋です。お出口は左側です。お忘れ物のないようお気をつけください』
完璧に寝過ごした。
降りるはずの駅は、会社の最寄駅からたったの二駅。定期を清算して池袋の町へ出ると、大分金がかかる。改札の内と外を往復しても1000円に満たない金額ではあったが、しがない平社員にはそれだけでも辛い。900いくらを払ったら、食事が二回出来てしまう。俺は電車を降りると、しぶしぶホームのベンチに宿を取ることにした。
始発が来たらすぐわかるように、特急乗り場のそばのホームの所にある、ついでに自販機にも近いベンチに陣取った。
赤と青の小さな椅子が交互に並んでいるベンチに、横向きに寝た。寝心地、やはり悪し。椅子の継ぎ目が腰の出っ張った所にちょうどぶつかるので、膝から下を少し椅子から出すように位置をずらした。
体勢を落ち着けて、辺りの様子を眺めた。電車の中で30分ほど寝てしまったので、少し目が冴えていた。運動不足とはいえ、芯はやはり若いようだった。
視界の右側に床が、視界の左側にホームの天井があった。下のほうには、今は真っ暗になっている売店の看板。正面を見ると、線路を挟んで向こう側のベンチに、真っ赤な顔をして多少お腹の出た、スーツ姿の中年男性が寝ていた。頭にネクタイこそ巻いていなかったが、飲み会か何かだったのだろう。明日二日酔いになることと、明日の朝、午前様で奥さんに閉め出しを喰らうことは間違いなさそうだった。いびきがこちら側までかすかに聞こえて来る。
他のベンチにも、会社員風の人が何人か寝ていた。
その他には、誰も――
いや、いた。
寝ている男と背中合わせになって、人がいた。真っ暗な中で男の顔ははっきりとわからないのに、その人間の姿形ははっきりとわかった。女性のようだった。
不思議だった。寝ている男を見ている間には、そこにいなかったような気がする。いつのまにかそこに現れたはずなのに、最初からそこにいたような気がする。
その女性は、綺麗に染めた栗色の髪を肩くらいまで伸ばしていた。この位置からでは、そのくらいしか確認できない。
それに、
――いや、待てよ?
――こんな時間に?
――寝てないし?
その女性は、辺りに違和感をばらまいていた。
そして何故か、その後ろ姿に惹きつけられた。
だが、
――ココで声かけても、痴漢扱いが落ちだろ?
――でも、なんかあったらどうする?
――なんかって?
――例えば…あのおっさんが、奥さんから逃げ出したくなってあの人に襲いかかってしまう!――とか?
――酔いでか? つーか馬鹿か?
――うん…やや妄想入ってるけどな。
――ま、こんな所で一人ってこと自体、危ないだろ。
気が付くと、俺は向こう側のホームにいた。そしてベンチの前まで行き、声をかける。
「君、こんな所で何してるの? 終電、乗り過ごしちゃったの? こんな所にいると危ないよ」
はたから見れば、自分がその危険の原因をつくる人間だろう。が、それは良心で――そんな気はない、という気持ちで――とりあえず打ち消しておく。
女性は、少女だった。背は160センチほどありそうだったが、表情がまだ幼かった。高校生くらいだろうか。肩まである栗色の髪を、左右で二本づつヘアピンでとめていた。ハイネックの、肘くらいまである縦に細いボーダーの入ったシャツの上から、足首ほどまである黒いジャンパースカートを着、膝の上で重ねられたか細い指にはチェック模様の傘が握られていた。こちらを見上げたその顔は、垂れ目に泣きぼくろがあって、おっとりとした印象を受けた。
が、
彼女は何かを想像して、うっとりするような顔をして、
「人を待っとるんです」
と返して来た。
何故か痴漢扱いは、されなかった。
方言を喋った。
そして、強い意志を感じた。
「恋」という名の、意思を
こちらを見ているのに、こちらに意識は向いていない。そんな感じだった。
それから、
「こんな所で?」
彼女の隣に腰掛けながら、俺は当然の質問をぶつけた。おじさんのいびきが、一瞬だけ「ごあ」と激しくなった。
「はい」
「もう電車、来ないよ?」
「でも彼は来ますけえ」
断言された。この子は危ない、と正直思った。
それでも俺は、食い下がってみた。からかい半分だったが、もしかするとこの子の彼氏さんについて何か聞けるかもしれない。この子の話を全て信じるとするなら、彼氏は夜の帝王か、よっぽどのシチュエーションマニアだ。
「来ないっしょー? 電車は来ないし、第一もう駅の扉閉まっちゃったよ?」
「関係ないです。電車で来るはずですけえ」
ますますおかしいと思った。さっきから俺が『電車はもう来ない』と言っているのに。
しかしその表情は、可愛く笑っているだけだった。意地のかけらも見当たらない。彼が電車に乗ってこれから来ることを、信じて疑っていない表情だった。
俺は半分諦めて、話題を変えた。
「どこから来たの?」
方言を話しているからどこか地方の人なのは間違いないが、俺にはその言葉がどこで使われているのかわからなかった。
「広島です」
「へぇ、随分遠くから来たんだね。――どんな用で東京に?」
間違いなく彼氏の為だろうが。
「ええ、遠恋しとる、彼に会いに来たんです」
遠恋――遠距離恋愛。思いつくまで一瞬かかった。それはドラマや恋愛小説やギャルゲー特有の恋愛の形態で、実際には存在しないものだと思っていた――というか見たことがなかった。
それから、
(ん、ギャルゲーは遠恋無理かな)
と思い直した。
俺は、そんなことを考えていることはおくびにも出さず、
「へぇ、それまた珍しいね。でも、今日――」
デジタル表示の腕時計のバックライトをつけて、1時を過ぎていることを確認して、
「――いや昨日か。平日だったよね。どうやって来たの? ――学生さんだよね?」
高校ん時たまに、授業だるくてさぼって外走ってたよな、とか懐古しつつ聞いた。
「高校の開校記念日じゃったんです。それで、彼も大学休んで会ってくれる言いましたけえ」
「あ、なるほどね。丁度良かった訳か。つーか年上なんだ、彼氏」
「ええ。――お兄さんはどちらから? お仕事ですか?」
「あ、うん。俺は間違って、ここまで寝過ごした。残業したもんでさ」
俺が「はは」と頭をかきながら笑うと、彼女は何故か怪訝な顔つきになって、皮製のベルトの小さなアナログの腕時計を、手首を突き出すようにして覗いた。
「朝から残業…? ああ、徹夜しとったんですね。お疲れ様です。うちの父さんも、仕事ばっかしとるんですよ?」
俺は何故か、その時違和感を覚えた。ホームの電灯は全て消されて暗く、他のものは見えないのに、彼女の姿形だけははっきりと見えた。
それは、いいんだ。さっきからそうだった。
問題はその腕時計だった。
秒針が動いていなかった。短針と長針も勿論動いておらず、時刻は8時ちょっと過ぎを指していた。俺は思わず自分の時計を見、それからホームの時計を確認してしまった。
1時23分――
その時刻が、俺とホームの時計の指し示している時刻だった。
冷たいものが背筋を這い上がって来た。
「どうかしたんですか?」
相当変な顔をしていたのだろう。流石に怪訝な顔つきになって、彼女が尋ねて来た。その時計――と喉まで出掛かって、
「い、いや、なんでもない…」
言葉を飲み込んだ。聞くのが怖かった――というか、聞いてはいけない気がした。
この子は何もかも不可解だった。
こんな所に一人でいる。
奇妙なオーラを持っていて、暗がりの中でも姿形がはっきり見える。
そして多分――
多分、時間が止まっている。
何の? と聞かれたら困るが、『止まって』いることは確かだと思った。
俺は思わず椅子から立ち上がって、一歩あとずさった。それを見た彼女は、
「どしたんです? さっきから何か、挙動不審ですよ?」
にこにこしながら答えてくる。その笑顔は年相応に可愛らしかったが、それが余計に不気味だった。
「ご、ごめん、俺、もう寝るわ」
声が震えていた。彼女はまた不思議そうな表情になって、
「はぁ…、朝から寝るんですか?」
「あ、え、う、うん…」
「はぁ…。――それじゃあともかく、おやすみなさい」
「うん、おやすみ…」
俺はこそこそと逃げ出した。元来たホームの方へは行かず、反対側の、今いる場所から一番離れた椅子の所へ駆けた。その背中に、
「はぁ、暇じゃのぅ…。早よう来んかな、まさくん」
彼女の声が被さって来た。俺は速度を上げた。ごめん! 悪い! 可愛いけど、でも俺は君が怖い!
が、彼女が「む〜」とふてくされたような声を出したかと思うと、
「お兄さん! やっぱり、なんかして遊びませんか?」
まるで娼婦か何かが言いそうな台詞を叫んで来た。俺はランニングのフォームを取ったまま、その場に凍りついた。
「聞こえてますー?」
もう一度声が。俺は首の骨の摩擦係数が全開になりながらも「ぎぎぎぎ」と音をたてんばかりに、ゆっくりと首を振り向けた。
「ま、まだ何かー?」
「だ・か・ら、遊びませんか? なんか――、なんかして」
思いついてもいないようだった。ただ目はキラキラしていた。
「な?」
俺はその純粋無垢な、垂れ目の双眼を向けられて、
「――わかった…。なにして遊ぶ?」
断りきれなかった。――というか、進んで遊びたい気になった。ああこれが、年下の魅力という奴だろうか? しかも、人の彼女。
密かに妹属性持ちを恥じつつ、俺は自分が言ったことを振り返っていた。
『遊ぶ』
かなり久しぶりに言った気がする。
いや、言ったこと自体は何度もあるだろう。しかし、『遊ぶ』という目的を持って言った場合は、ほとんどない。大学を卒業、運良く大手の会社に就職が決まってから三年、働きづめだった気がする。
だから、ちょっと、この駅のホームで見つけた夜の遊び場に、寄り道してもいいかなと思った。
相手がこんな可愛らしいお嬢さんなら、尚のこと。
あ! いや! いやらしい気持ちは微塵もないことと、『夜の遊び場』『可愛らしいお嬢さん』という表現をあくまで純粋な意味で使ったということだけ、理解して欲しい。
兎に角! ――少し、怠けたかった。
「じゃあ、じゃあね――」
彼女が俺に問われて、ネタを考え出した。床の一点を見つめて腕組みし、必死に考えている。
やがて、その表情に花が咲いて、
「鬼ごっこじゃよ!」
――……正気の沙汰か? 俺は完全にひき、テンションゲージが零まで落ちた。
俺は相当嫌悪感を顔に表していたようだった。彼女の顔が「ガン」といわんばかりに沈んで、うつむいた。
想像していたのは、しりとりとか、あっち向いてホイとか――あーでも、これも変わらないか。同レベル。持っているものがお互い何もないようだったし、仕方ない結論といえば結論だった。
そこでふと思った。
金がないと何も出来ないんだな、と。
町に繰り出せばカラオケ、居酒屋、時々パチンコ、時々ボーリング、ごく稀にゲーセン。遊ぶって言ったって、こんなもんだ。
それじゃあ、それなら、
鬼ごっこだっていいじゃないか。金を使って遊ぶよりよっぽど安上がり――というか、タダだ。
俺は段々乗り気になって来た。長距離なら得意だ。短距離でもそこそこいける。望星(もろぼし)高校元エースの実力をその胸に刻めよ? 嬢ちゃん。
「ん、やっぱ、やろか。なんか燃えてきたし」
俺が言いつつ準備体操を始めると、また花が咲いた。強い笑みを浮かべて彼女は、
「負けませんよ? わたし、陸上部じゃけえね」
「うぇ!? 現役の!?」
彼女は元気に拳を振り上げたままきょとんとして、
「そうですよ? 長距離やっとるんです」
刻むのは難しそうだった。彼女がスカートを履いていることが、勝利のカギかもしれない。
◇
1時間後。
陸上部同士の鬼ごっこは、周囲の会社員の迷惑を顧みず、壮絶を極めていた。
巧みなステップで自販機の表と裏でフェイントをかけあい、常人には一瞬でも追随出来ようはずもない速度で、10数分も休息なしにホームを駆けた。
両者とも生き生きとした表情で、この単純明快で古典的且つ幼稚な競技(?)を楽しんでいた。
かたや、スーツを着た会社員風の男、
かたや、ワンピースの黒いスカートに身を包んだ、少女だった。
1時間20分後。
先に、彼女が音をあげてくれた。
「うわぁー、やっぱ男の人にはかなわんねぇ〜」
俺も限界が近く、先刻まで爽やかだった汗は脂汗に変わりつつあり、わき腹が痛かった。
よくよく考えると、鬼ごっこに勝敗はない。タッチしたら立場が逆転、そのループだった。
『無駄な事に体力を使った』と愚痴るのが当たりか、それとも『いい運動になった』とプラスに考えるのが当たりか――。
いや、今は、『どっちでもいいな』だなと思う。
何故、と問われたら俺は、
『馬鹿だねぇ、彼女がいるからに決まってんでしょーが。男はねぇ、はっきり言って可愛い女のコが側にいればなんでも楽しいのよ』
と、答えるだろう。一字一句違えることなく。
彼女はどさりとベンチに腰をおろすと、そのまま上半身を倒してさっきの俺のように寝転がった。俺も反対側のベンチに寝転がった。
お互いの荒めの息遣いだけが聞こえて、俺はホームの外を見た。巨大な看板とホームに屋根の隙間からのぞく、町のネオンが綺麗だった。屋根に阻まれて見えない、星の代わりのようだった。背もたれに阻まれていたが、俺達は二人して同じ物を見ていた。
そこから時折吹いてくる風が、気持ちいい。高飛びで使うふかふかのマットに寝そべって、視界を全て青と白で埋め尽くしていた時の事を思い出した。周りは真っ暗で、状況は少しも似ていなかったが、呼吸を整えている感覚が似ていた。耳の後ろあたりで、とくんとくんと脈打つ感覚。
きっと、彼女も同じ感覚を味わっているに違いない。
そんな勝手な想像にふけっていると、背もたれ越しに彼女が声を投げて来た。
「兄さん、運動不足とか言うとったわりになかなかやるね」
いつしか敬語は使わなくなっていた。
「あぁ、実は俺、望星高校…知らないか、の長距離のエースだったからね。――心に刻んどいて」
彼女はくすくす笑って、
「そうしときます。――あ、でも名前がわからんと、刻みようがないかも」
「名前、は――」
何故か一瞬思い浮かばなくて、
「望月、裕一。宜しく。もっちーでいいから」
彼女は苦笑して、
「そう呼びますね。…何で今、一瞬考えたん?」
「ボケかな。――君は?」
「私は、沖田このみ言います。友達からはこのちゃんとか呼ばれとります」
「このみちゃん――。あ、だから広島出身?」
「違いますけど。…普通逆に考えん?」
二人して談笑した。
それからしばらく、夜のホームで話した。眠くはならなかった。
このみは彼氏のことばかり話した。俺がうんざりした顔をするとすぐにむくれるから、聞かざるをえなかった。
彼氏は、佐々木昌也という名前であること。
背が高くて、なんと医学生であること。
大学に通うにあたって、一人暮らしの為に上京してしまったこと。
このみの陸上部のOBであること。
もう二年付き合っていること。
他にも細々あったが、興味がなくて忘れた。
「もっちーさん?」
彼は、いつしかいびきをかいて寝ていた。このみは仰向けになったまま膨れっつらをして、また「む〜」と唸ってから、
「おやすみなさい」
何かかけてあげようと思ったが、そこには布団はなかった。
あっても、かけてやることは出来なかった。
◇
強烈な光をまぶた越しに感じて、俺は目を開けた。朝日だった。
「くあ…」
あくびをして上体を弓なりにし、ベッドの(椅子の)上で思い切り伸びをした。ここには何故か、朝日を防ぐ為の布団はなかった。ついでに何故か、背中が痛い。
いつもの朝より遥かにぼんやりした頭で、俺は昨日のことを思い返そうとした。――駄目だったので、辺りを見回した。どこかの駅のホームだった。
「あ、そっか…」
俺はひとりごちて目をこすり、電車を乗り過ごしてしまったことを思い出した。
そして、
「この――、この――、…このみは?」
反対側のベンチには、いなかった。俺が眠ってしまった後、昌也君が迎えに来たのだろう。――色々不可解な点はあったが。
俺は何故か空虚感を感じて、しばらく椅子から動かなかった。また、目をこする。気持ち悪かった。寝不足になると、大体いつもこうだ。
ぼんやりしていると、掃除のおばさんがせかせかと来て、一つの小さなゴミを蓋のある蒲鉾(かまぼこ)型のちりとりに素早く入れていった。職人技である。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
おばさんは声をかけてきた。こんな都会では、珍しいことだ。俺が始発待ちの会社員だからかもしれない。
「おはよう、おじゃいまふ――。なんとか…。ちょっと夜更かししましたけどね」
自然とあくびが出てしまう。
「夜更かし?」
「――ええ、ここに座ってた女の子と…。もう彼氏が迎えに来てくれたみたいですね。あ、でも、別に変なことはしてないん――」
おばさんの顔が凍りついた。俺はそれを見て、言葉を途中で止めて、
「どうしたんですか?」
「その女の子、どんな子だったの?」
俺は薄らいでいく記憶を辿った。笑い顔が可愛かった――と喉まで出掛かって、
「えと、確か、髪が肩くらいでピンどめをしてる子でした。あとは――、確か長いスカートを」
おばさんが、レールの方を指差した。ホームの床が、コの字型に袋小路になっている部分。
そこは終点。ぶつかっても、電車がそこで止まるところだった。
「そこで昨日の朝、事故があったのよ」
俺は少し黙ってから頭を掻いて、
「そうですか」
2.「生者の使命は」
土曜日。朝の八時頃。
今日は会社は休みだった。
俺はアパートに帰ると、万年床に寝転んで、端にカビの生えた板製の天井を睨んだ。
事故と少女のことを、電車に乗っている時からずっと考えていた。
アパートの隣の一軒家の、横山さんちのチカちゃんが、家の中から窓越しに「おはよう!」と挨拶してくれたが、無視してしまった。ごめん、チカちゃん。
俺が、いや、あのホームにいた誰もが聞いたあのアナウンスは、彼女が事故にあったことを知らせるものだった。それはいい。仮に、当たっているとしよう。それを裏付ける――というか弁護しうる事実は、
・事故にあった女の子と、このみの服装が一致していた。
・このみの持っていた時計の針が、事故のあった時刻で止まっていた。
これくらいだった。そしてこれらは、別の、俺の持つある馬鹿げた想像をも弁護することになる。
・彼女が、思いの塊――、つまり、世間一般俗に言う幽霊であること。
笑ってもらって構わない。しかし、事故にあった少女とこのみが同一人物とするなら、この考えのつじつまは合う。そして、あの掃除のおばさんも、俺と同じことを考えていたに違いない。嘘をついていないことを祈る。
そこで疑問が浮かぶ。彼は、――昌也君はどうしたのか。
約束の時間に来なかったことは確かだったが、その後来たのかどうかはもう確かめようがない。ある、嫌な考えに思考が行き当たりそうになったので、俺は顔も知らない昌也君を頭から追い出した。もしそうなら、あまりに辛すぎる。
それじゃあ、事故にあった子とこのみは別人だと仮定したらどうだろうか。
これは、特に事実を挙げる必要もない。『他人の空似』とか、『偶然同じ服装だった』とか、『偶然時計が壊れていた』とかいう、現実の壁で自分を防護していたいと思う人たちが考える、いわゆる常識で全てが片付く。偶然が重なり過ぎてはいたが、常識人の持つ現実フィールドはあまりに強固すぎる。中和は難しいだろう。
では俺は、そういった常識人と、幽霊を信じるオカルト野郎、どっちに属するのだろうか。
――わからなかった。
人づてに聞いた幽霊話なら、その場で軽く切り捨てている。つい一週間程前、同僚の女子社員から怪談話を聞いた時も、笑い飛ばしてやった。
しかし、今回はそうはいかなかった。自分の目で見、事実を確認してしまっている。いや、この状況でオカルトを信じきれていないのだから、俺はおそらく常識人に属するのだろう。
結局、どうしたいのか?
事実確認は済んだ。自分の定義付けは済んだ。さらに混乱した。そして今日は休み。
定義付けと、事実と休暇を味方につけた混乱が、しばらく戦う。
そして、
俺は万年床から立ち上がった。混乱の圧勝だった。
彼女のことが、知りたかった。もう一度会いたかった。
理屈や常識に勝る確固たる想いと、『タッチしたら立場が逆転』。その時感じた体温だけが、俺を突き動かした。
ひとまず風呂に入って、髪型を整えた。それからジーンズを履き、シャツを着、上からかなり薄手の茶のカーディガンを羽織った。いつの間にか、やけに若々しい格好をしていた。
胸の内に何か、閉鎖された空間の中で酸素を渇望している炎のような、そんな熱い塊があった。
俺は財布を引っつかんで、本棚から文庫本を数冊引っこ抜くと、部屋の鉄製の重い扉を開けた。外では梅雨時の快晴が俺を待っていた。心はバックドラフト。走り出した。
階段を下りると、
「あー、おじちゃん!」
25歳の男には少々耳に痛い、女の子の声がかかった。横山さんの家の前に、赤地に大きなひまわりの描かれた小さなバスがとまっていて、そのバスと家の間に、チカちゃんと横山さんの奥さんが立っていた。これから幼稚園へ行く所なのだろう。
奥さんが頭を下げてきて、俺もお辞儀を返すと、幼稚園の制服を着たチカちゃんが、走って通り過ぎる俺を見るために首を横に移動させながら叫んだ。
「どーこー行ーくーのー?」
「終点に行くんだよ!」
チカちゃんと横山さんの奥さんは揃ってきょとんとしたが、俺は振り返らなかった。さらにピッチを上げて、駅を目指す。
去り行く裕一の背中に、チカちゃんは慌てて「ばいばい」と叫ぶと、母親の方を向いて尋ねた。
「ね、お母さん、『しゅうてん』ってなぁに?」
「電車がいちばん最後に止まるところよ」
「なんでおじちゃんはそんなとこに行くの?」
「……。さぁ、どうしてかしらね」
◇
池袋駅 西武線ホーム内 夜の11時頃。
もうすぐ終電の時間だ。ここまで家に帰らなかった自分を褒めてやろうと思う。
帰りのラッシュもとうに過ぎていたが、まだ会社員の姿が途絶えなかった。土曜なのにお仕事ご苦労様です、お父さん。俺は心からそう思った。それとは対照的に、遊び帰りらしい若者の姿も目に付く。
勇んで出てきたはいいが、その後どうするか、ノープランだった。
いや、ノープランにならざるを得なかった。
彼女が、いつ現れるのかわからなかったからだ。
アパートの近くにコンビニであるものを買い、駅ビルで食料を買いだめした。少なかったがそれでなんとかしのぎ、今朝からずっと1番ホームの終わりの側にあるベンチに張り込んでいた。
幽霊は夜にならないと現れないという話があるが、実際怪しいと俺は思った。
だから、こうして待っている。明日の朝まではここにいる。それで彼女が、このみが現れなかったらそれでいい。常識の勝利、このみは晴れて幽霊疑惑から開放されるのだ。
一人でコンビニのバイトをしたら、きっとこうなるんだろうなと俺は思った。交代なしで、一晩中店番をする――。
まだ眠くはないが、いつか限界が来るかもしれない。そうなったらどうしようか。誰かに代わりを頼めるだろうか。
無理だろう。
疲れて眠っている最中の人が協力してくれないであろうことはわかりきっているし、それに何より、このみが幽霊だとすると、彼女の姿を見ることの出来る人がきっと限られてくる。
それじゃあ、どうして俺には見えるんだ? ――この疑問は、俺が完璧に幽霊という存在を認めていることを証明するようなものだったが、俺はその時、自嘲や羞恥心は沸かなかった。
ただ、振り返りもせずにあの時のことを思い出していた。
あの鬼ごっこの時、他に起きている人間がいたかどうかは覚えていなかった。
しかし、あれだけ騒いだら、誰か気付くはずではないだろうか。勿論ホームに宿なぞとる人はごく少なかったが、あの時は本当に騒ぎまくったはずだった。人の眠っているベンチの横を走り、タッチしたしないの論争を起こし、しまいに俺はこのみを捕まえ損ねて鉄製のゴミ箱へ突っ込み、ものすごい音がホームに響いた。
なのに、誰も反応しなかった。
俺は段々と、あの鬼ごっこが夢か幻だったのではないかと疑念を抱き始めた。
実はあの時、一人でベンチに寝転がった時に眠ってしまって、おばさんには夢の内容を事細かに話していただけなのではないか。
十分あり得る話だった。どうして今までこんなことに気付かなかったのか。
俺はベンチに浅く腰掛けて、両手で頭を抱えた。そうすると、俺は今日一日を無駄に過ごしてしまったのか? 自分の脳内で作り出された、虚像の少女を追って……
と、そこへ終電のアナウンスが響いた。
どうすることも出来ずに、俺は椅子の上でうなだれた。
兎に角待とう。それしか出来ない。定期を清算すれば外へ出られるが、それだけはしたくなかった。
一日を無駄にするような気がしたから?
いや、違う。
金がかかるから?
いや、違う。
――彼女がここに現れる可能性を、捨て切れなかったから。
客観的事実からの判断とは違っていた。ただ、気持ちが『いてほしい』と鳴いていた。
これは恋だな。
俺は笑った。多分、困ったような顔をして笑っているのだろう。しかしそれは自嘲ではなく、この年になって相手が高校生か、という、本当に困った俺の気持ちを表しているはずだ。
そんなこんなで、朝に整えた髪はとっくにくずれ、尻も痛くなって来たし、買い込んだ食料も尽きかけていたが、根性を据えて俺は待った。
ホームの明かりが、改札口の方から順に消えていった。駅員に「大丈夫ですか? もう閉めますよ?」と声をかけられたが、それはやんわりと断っておいた。目的があったから。
真っ暗になった。家から持って来た文庫本も読めなくなった。明かりは――こっちが勝手に明かりとしているだけだが――は、また町のネオンだけになった。蒸し暑くなって来たので、俺はカーディガンを脱いだ。
今日は、ベンチで眠っている人間はいなかった。池袋駅構内ならいざしらず、西武線のホームには俺一人になった。
こんな時、画面にバックライトのついている携帯ゲーム機があればいいなと思った。ゲームはあまりしない方だったが、こうも暇になると色々な考えが沸いて来る。
ゲームをするとしたら何かな、と、思いが派生した、
その時、
「――いた」
俺は思わず声を上げていた。向かいのホーム、今度はこちらをしっかりと向いて、手をきちんと重ね合わせて座っていた。その手には、あの傘。服装も変わっていなかった。あのジャンパースカートと、ハイネックのシャツのまま。ヘアピンも。
彼女は驚いていた。口をぽかんと開けて少しの間固まっていたが、
「あ、もっちーさん」
にこりと笑って、控えめに手を振って来た。その頬と目の下には何故か影があった。例によって、表情がはっきりとわかった。
レールを挟んで、俺は彼女の様子を見て取って、コの字型の行き止まりを迂回して駆け寄った。様子が、おかしい気がした。
ベンチの脇で、俺は立ったまま、
「や、昨日ぶり」
彼女はまた、くすくす笑って、
「うん、昨日ぶりじゃね。どしたん? なんか疲れとるようじゃけど」
「それは、こっちが聞きたいんだけど」
目を伏せた。
「どした? 昌也君、まだ来てないみたいだけど」
「……」
どうも、俺の嫌な想像は当たっていたらしい。
彼女の時計は、まだ8時過ぎで止まっていた。
しかし、彼女の顔からは、はっきりと疲労の色が見て取れた。心なしか、あの謎のオーラも弱弱しい気がする。
「でも、君は待つんだろ?」
「…――はい」
「だから俺が、その暇を潰してあげようかと思ってね」
「?」
「鬼ごっこもいいけど、毎日やってたんじゃ疲れるだろ? ――って、あ、それは俺の話か」
俺は笑いながら勝手に話を進めて、右のポケットに入れておいた、コンビニで買ったあるものを取り出した。
「じゃん、伝家の宝刀、トランプ。――やらない?」
「やります」
彼女が弱弱しく微笑んだ。痛々しかった。同時に俺は怒りを覚えた。
――こんなにいい子を、こんな目に遭わせやがって。
拳を固めたが、それを隠して、俺はこのみの隣に座ってお互いにカードを全て配った。ババ抜きをしよう。二人だとすぐに終わってしまうだろうが、他に遊び方は沢山ある。俺は長期戦を決め込んでいたので、まずこのゲームから始めることにした。
彼女が特に何も言わなかったので、――いや、言い返す気力がなさそうだったので、ペアになったものをさっさと椅子の上に捨て始めた。彼女もそれに続く。
「UNOとどっちにしようか悩んだんだけど…。トランプならいくつか遊び方があると思ってさ。古典的かな、はは」
「ありがとう」
なんで、どうして。そんな当たり前の疑問文が、彼女の口からは出なかった。
こっちを見ているようで見ていない。――昨日と同じようだった。
ペアを捨て終わると、俺の方が数枚多そうな感じになった。たった二人しかいないから、カードが多く、整理しづらい。
「じゃ、ひくよ?」
「うん、どうぞ」
このみが先に、俺のスペードのエースを引いていった。――組になるものはないらしい。
「ちょう、聞きたいんじゃけど」
「なに?」
俺がカードを引く。ダイヤの3。組みなし。
「もっちーさんは、何で私にこんな優しくしてくれるん?」
トランプをしている自分に疑念を抱き始めて、冷静になって来たのだろう。
「なんでだろうね」
このみがカードを引く。クラブの7。捨てた。
「はぐらかさんで。ほんとに何でなん?」
「――それはどうでもいいことっしょ? っていうかさ、何処いくつもりなんだ? これから」
このみは一瞬はっとした表情になり、そのまま俺にカードを引かれた。
「どこって――」
「デートですよ。デート。彼氏、これから来るんだろ? ――なんか曲解した?」
このみがかぶりを振るのを見ながら、俺はカードを引いた。ハートのクイーン。捨てられない。
彼女は微笑んで、
「なんとっ! ディズニーランドに行くんじゃよ! ディズニー…」
それからはっとなって、真っ赤になった。ここが何処だか思い出したらしい。
「…こっちの人にとったら、珍しくもなんともないね」
俺は苦笑して、
「確かに。こっちの人は、少なくとも3年に一度は行くかもな」
このみはますます赤くなって、小さくなった。俺はそれを見て微笑ましく思ったが、やはり同時に奴に対して憤激がこみ上げて来た。
それでも俺は平静を装ってカードを引く。スペードのジャック。捨てることが出来た。
「今度は、こっちから聞いていい?」
「え、ええよ…?」
まだ何か恥ずかしがっているようだったが、彼女はカードを引いた。
「どうして昨日から一人なんだ? 俺は、それが心配で仕方がないんだけど」
「どうして? まだここに来てから、10分も経っとらんよ?」
このみがきょとんとしてカードを引く。ハートのキング。組みなし。
「――気付いてないのか?」
「だから、何が?」
俺は苦い顔でカードを引く。クラブの2。捨てた。
「その腕時計と、ホームの時計を見比べてみなよ」
「はぁ…」
彼女はババ抜きの手を止めて、見た。が、すぐに目を反らした。
「ほ、ほらぁ、同じ時間じゃよ?」
俺は持ち札を椅子の上に置いて、少し声を低くした。
「いや、違う。よく見てみなよ」
「8時、8時5分…」
「違う、1時13分だろ」
「な、なぁ、ババ抜き続けん?」
彼女はそこで、笑顔を作った。
が、
「笑うな」
このみの顔が、引きつった。
その笑顔は、偽り。俺ははぐらかされない。昨日の、このみの本物の笑顔を知っているから。
俺は座ったまま、彼女の方を向かずに、顔の前で手を組んで話した。
「何があったんだよ」
「……」
俺は問いただす気はなかった。元々他人だ。向こうには、教える義理もないだろう。
ただ、聞きたかったのは、
「君が何も言わないっていうなら、俺は君の代わりに昌也君に会って来ていいかい?」
それからかなりの沈黙が流れた。
たっぷり10分はあろうかと思われたが、無言、しかも話す相手がいる時の沈黙は恐ろしく長く感じられる。本当は、1分も経っていないのかもしれない。
「…れ……て…」
このみがうつむいたまま、何か言った。
「なに?」
俺は彼女の顔を覗き込んで、はっとした。それから、胸を万力で挟まれているような感覚を覚えた。
彼女は泣いていた。
目に沢山涙を貯めて必死にこぼさないようにしていたが、溢れる感情の前で、彼女の抵抗は易々と崩れた。ダムが決壊したように涙がこぼれ落ちて、スカートの膝を水玉模様に濡らした。
「まさく…。連れて来て…」
俺は彼女の肩を抱いて、背中を緩く叩いてやった。自尊かもしれないが、そうするだけの資格が――いや、義務が、俺にはある気がしていた。
やがて、このみは俺の胸に顔を埋めた。
ずっと泣いていた。
胸が温かかった。それが、彼女の涙によるものなのか、何なのか、俺にはわからなかった。
ただ、確かに『このみ』という人間が存在していることは確かだった。
俺の腕の中にいる。
暖かい。温かい。
触れることが出来る。
こいつが死んだなんて、誰にも言わせない。
このみを抱いたままホームの時計を見ると、時刻は1時23分を指していた。
彼女はここで、24時間彼を待ち続けていたのだ。
シャツは濡れなかった。
3・「侵食、広島弁」
「このみ?」
「うん、大丈夫じゃけ――……」
彼女は朝日の中で、腕の中から消えていった。
泣きはらした顔で手を振り、最後に笑ってくれた。
『大丈夫、まだ消えないから』
彼女はおそらく、そう言いたかったのだ。
◇
朝の七時頃 日曜
練馬区石神井2丁目――――。
それがこのみから聞いた、佐々木昌也の現住所だった。
俺は財布の中身を入念にチェックしてから下りの始発に乗り込むと、迷わず石神井公園駅で降りた。石神井という住所から、大体この駅が最寄のはずだ。
このみは大分疲れているようだった。俺も一日ホームに張り込んでいたからわかる。いや、彼女はその前の日の朝からあそこにいるのだから、もっともっと辛いだろう。ただ、時間の感覚がおかしくなっているだけで、体はついていかないに違いない。
――体。
――肉体。
――持っているのか、いないのか。
俺はやりきれない気持ちになって、また走り出した。空は朝から曇っている。
案の定、佐々木昌也の家はあっさりと見つかった。巨大な、20階はあろうかという高層マンションだった。
俺はしばらく、それをぽかんと口を開けて見上げた。俺の学生時代の下宿と比べてみると、はるかに、と言ったら生易しいくらい恵まれている。今の若者――まだ俺も若いつもりではいるが――は、皆こんな風なのだろうか? いや、違う。彼は確か医学生のはずだ。きっと彼の両親がかなりの金を持っていて、相当の援助をしているに違いない。
俺はマンションの建物をひと睨みして、入り口へ向かった。
入り口は、部屋番号を確認して中に入るタイプのものだった。小さなマンションでも、大分前からこんなつくりのものが増えている気がする。
俺はこのみから聞いた番号を押した。今更のように気付いたが、なんとその番号は4桁だった。いちいちしゃくに触る。学生風情が、会社員よりもいい部屋に住んでいるとは。
押してしばらく。応答、なし。もう一度インターホンを押してみるが、まだ応答がなかった。
しびれをきらした俺は、ロビーに面した管理人室にいる、中年の女性に声をかけた。
「すみません」
「はい」
「あの、1005号室の佐々木昌也さんは、今このマンションにいらっしゃるんでしょうか?」
「ちょっとお待ちください」
女性はそう言って、何やら帳簿のようなものを取り出して「1005、1005…」とつぶやきながら探し始めた。幸い、このマンションは管理者が常駐し、人の出入りを確認しているらしい。首を伸ばして帳簿を見ると、昨日の夜中の11時頃に204号室の小島さんという人が外出した、という記述があった。
それにしても、と俺は思った。
人名で探すのではなく、部屋番号で探すのは少し淋しい。人は数字ではないのだが。
俺がそんなことを考えていると、受付の女性が帳簿から目を離した。
「ええっと? 1005号室の方でしたよね?」
「はい」
「今、帰郷なさってるようですが」
俺は驚いて、目を丸くした。
「帰郷? 広島へですか? どうして、そんな――」
「はい、確かに広島へ。理由は仰っておりませんでしたが、これによると――そうですね、昨日の朝から出かけて四日程で戻る、と」
何をしに行った? どうして今頃帰郷なのだろうか。
昨日の朝というと、俺が部屋で考え込んでいた時くらいのことだ。そしてその前の日の夜にこのみと初めて会って、その朝には――
人身事故だ。
つまり事故の一日後に、彼は出かけて行った。このみが事故にあって、認めたくはなかったが、おそらく死んでしまってから一日後に。
彼はこのみの通夜に出かけたのだ。そして四日ほど空けるというのは、広島からとんぼ帰りはせずに、自宅にしばらくいるという事。
次の瞬間、俺は尋ねていた。
「あの、佐々木さんの行き先ってわかりますか?」
佐々木昌也が帰って来るのを待つ。そんな選択肢が、その時の俺の頭に浮かぶはずもなかった。出来る限り早く佐々木昌也を連れて来て、このみに会わせてやる。彼の予定など、知ったこっちゃない。
「え、ですから広島…」
「じゃのうて、――じゃなくて! 住所です。行き先の住所」
「あ、え、えぇ、控えてありますが」
なんと管理のいいマンションだ! 天使を見つけたら、このアパートにすぐさま入居してやろう。
広島市安芸郡府中町――
次の目的地はここじゃよ! てなノリで、
「ありがとうございました! 近い内、きっとここに入居します!」
そう言い残し、受付の女性が何か言う前に俺はまた走り出す。もはや、昨日から徒歩の移動を全て走っていた。合計で、もう10キロ近く走ったに違いない。
それでも俺は疲れない。目的があったから。
なんだか某スーパーサラリーマンになった気がして、俺は脱兎の如く、否、天馬の如く走った。
◇
が、帰ったのはとりあえず家。時刻は昼の2時。
が、帰りがけにもう携帯で、広島行き、八重洲口から今夜七時発車の夜行バスの予約は取っておいた。――明日は月曜だというのに。
俺はまだ車を持っていなかったし、飛行機や新幹線は高いから却下。電車の乗り継ぎと比べてもこちらの方が安い。
今にも広島まで飛んで行きたい心境だったが、準備が足りなさすぎる。ともかく有給をとらないことには、明日から無断欠勤にされてしまう。仕事も丁度一段落ついた所だったし、何より有給なんて、入社してこの方一回も取ったことがなかった。
日曜であったが、働いている人は働いている。俺は連絡の為に、仕事場へ電話を入れた。
二度コール音がして、
『はい、こちら××課ですがー』
間延びした声が聞こえた。白井だ。こいつは同期入社の仲間ともあって、よく、というか度合い的にはたまに遊びに行く。年齢も俺と同じ25歳。そして――そして奥さんがいる。悔しいことに。奥さんの名前は唯と言って、一度だけ会ったことがあるが、なんと紅髪をしたハーフの女性だった。背が小さく、猫のような目をしていたのが印象に残っている。白井はこの猫目の奥さんに、尻に敷かれまくられているのだという。
「あ、白井か? 俺、望月だけど、課長いるか?」
『うん、いるー。どした? 今日休みでしょー?』
「ちょっと旅行行くもんで。有給休暇とりたいんだ」
『ほぅ…。もっちーが有給ねえ。――理由は、女の人と見うけますがー』
「……。お前鋭いな…。でも半分外れだな。半分は男だ」
『――っ! もっちー! 男の人に手ぇ出したら駄目だよ!?』
「馬鹿。黙れ。いいから早よう課長に繋いでくれん?」
『それ、何弁…?』
「広島弁。いいから、早く」
『はいはい。――あ、そだ』
「なんだ?」
『唯が、「望月さんに言って欲しい」って言ってたんだけど』
「へぇ?」
『「地縛霊を大事にしないと駄目よ」――って、何のことかわかる?』
唯さんは、何と巫女さんを職業としている。本来白井、――白井恵一が神主を務めるはずなのだが、彼女は何故か、巫女兼神主をすすんでやっているらしい。
「……。めっちゃ大事にしとるけえ、心配せんでええよ、って、言っといて」
『みぃーんなして、オレのわかんない話してるー…』
「……。今度ちゃんと、教えてやるから。早く課長に繋いでくれよ」
俺が電話を代わるよう頼んだ相手は、あの時書類を積んでくれた課長だった。
4.「Turn!お好み焼き」
日曜 午後6時 東京駅八重洲口
駅のそばで食事を済ませてから乗り場まで行こうと思ったので、大分早めに東京までやって来た。東京駅付近はあまり来たことがかった。迷うといけない――というか、迷うのは東京駅構内だけで十分だ――ので近くにあるラーメン屋で食事を済ます。八重洲口から大分右の方にバスの乗り場があるので、その途中のラーメン屋で。――特に選別した訳でもないのに、中々美味かった。
食事を済ませてからバス乗り場に行くと、10分ほどでバスが数台来た。広島までとなると客が多いから、色々な会社で運行しているらしい。俺は着替えが二日分入った大きめのリュックを担ぎなおすと、チケットを渡してゆっくりとその中の一つに乗り込んだ。
バスが発車する。夜行バスに乗るのは、これで二度目だ。確か中学の頃、両親と一緒に帰省をする時に使ったはず。
それを見やる、少女が一人。
彼女は手を振ることもなくそのバスを見送ると、黒いスカートを翻して虚空へ溶けた。
やがて、霞ヶ関から高速へ入った。ここでバスの設備の説明がある。飛行機のそれなら無視してしまう所だが、バスのものを見るのは珍しい。経験の一つにでもしておこうと思って、俺はしっかりとそれを聞いた。
いくつかサービスエリアを越えた。
バスの所々に備えつけてあるテレビで映画をやっていたが、興味のないジャンルだったので、俺は窓の外で流れる車とオレンジ色の外灯を見ながら、ずっと別の音楽を聴いていた。
ジャズ曲のようだった。ゆっくりとしたリズムで(当たり前か)、英語の曲。旅客機のようにチャンネルがあり、(どこから流れて来るんだろうか?)他の曲を聴くことも出来たが、それを聞いていた。俺の拙いリスニング力でも聞き取れたので、後から調べたものと合わせてここに載せてみる。
Fly me to the moon
And let me play among the stars
Let me see what spring is like on Jupiter and Mars
In other words: Hold my hand!
In other words: Darling kiss me!
Fill my heart with song
And let me sing forever more
You are all I long for all I worship and adore
In other words: Please be true!
In other words: I love you!
アイ・ラブ・ユー、か。
俺は彼女のことを、どう思っているのだろうか。いや、――好き、なのは、間違いない、と、思、う。
それなら、それじゃあ、
――俺は、佐々木昌也を彼女に会わせた後、どうするのか。
やめだ。今は彼を連れて来ることだけを考えよう。
俺はシートを傾けて、今はカーテンがかかって外の見えない、窓の方に顔を向けた。
それを見守る、少女が一人。
彼女の荷物は、一本の傘のみ。
彼女の存在には誰も気付いていないのに、誰も彼女のいる席に座ろうとはしなかった。
少女は子供を見守る母親のように優しく笑うと、再び虚空へ溶けた。
◇
月曜 昼の一時頃
広島駅からJR山陽本線を乗り繋いで、府中町大須へ降り立った。
駅から離れてしばらく歩くと、意外にもそこには川沿いに工場が立ち並んでいた。このみの性格からして、もっともっと田舎な場所だと思っていたのだが…。いやこれは、固定観念というやつだろう。両方の意味で。
かなり歩いた。――愚かなことに、この住所の最寄駅を細かく調べずに来てしまった。目的はあったが、走る気力は沸いて来ない。おそらくは、もっと別の路線に乗り換えて行った方が楽に行けたのだろう。
そこで、携帯が鳴った。誰からだろうか。まさか、急な仕事が入ってしまったとか…?
恐る恐るポケットから取り出すと、サブディスプレイに映っていたのはやはり仕事場の番号だった。
――ここまで来て、帰れるものか。
――つーか絶対帰らねぇ。
――課長が出ようが部長が出ようが、説得してやる。…社長も、多分。
携帯の形をした鉛の塊を、俺は開いた。同じ鉛製の通話ボタンを押す。
『もっちー?』
聞こえて来たのは、あの間延びした声。
「白井か?」
『うん、オレー』
野郎、会社め。親友を使って俺を説得するつもりか? いいぜ、受けて立ってやる。俺は心の防御障壁を全開にして、今は悪の(会社の)使徒となってしまった親友と対峙する。
「どのようなご用件でしょうか?」
『…――多分もっちーが心中恐れていることとは、違うよー?』
中和。――いや待て、まだ気を許すな。白井は続ける。
『旅行どうよー? 昼休みになったから、電話かけてみたんだけどー?』
「…まぁ順調かな。電車乗り間違った事意外は」
『それって一番駄目なパターンじゃん…?』
「ん、あー、まぁ、大した間違いじゃなかった訳で。歩けばなんとかなる」
『なんか適当だねぇ…。ま、いいか』
誰と行ったのか、何処へ行ったのか、どんな理由で、そんな疑問を彼は口にしなかった。白井は詮索が嫌いな奴だ。気になったことに関して自分の見解を言うだけ言って、その真偽も確かめようとはせず、相手がそれに答えたらそれを聞き、答えなかったらそのまま。問いつめたりはしない。
今回の場合は聞いて欲しいような欲しくないような、複雑な状況だった。だからとりあえず、教えることを控えておく。
白井が続けた。
『あ、そだ。また唯から伝言なんだけどー』
「え、あ、うん」
巫女のお告げである。聞き逃す訳にはいかない。俺は障壁を無展開にすると、携帯に耳を押し当てた。
『えっと「振り返ってみなさい」だって』
「…は?」
『いや、こっちが聞きたいよぉ…。今回ばかりは、謎が多すぎるねぇ。流石に気になる』
俺は白井の言葉を聞き流して、携帯を耳に当てたまま振り返った。
そこには、
「むぅ! バレた!」
俺の背中に張り付くようにして彼女がいた。
◇
「『えへへ、』憑いて『来ちゃった』」
口を半開きにして放心する俺をよそに、隣に座るこのみは腕をぶんぶん振ってはしゃぎだした。
「くぅ〜…! この台詞、一度言ってみたかったんよ! 彼氏彼女の定番ってヤツ?」
俺は放心して放心して、放心しきった。というか脱力した。
虚脱感、空虚感、それから最後に無力感すら襲って来て、
『あの涙は、一体なんだったのか』
あの苦労はなんだったのか、とは思わなかったが、流石に疲れと呆れがどこからかどっと押し寄せて来た。
嘆息。
嘆息。
蝶、嘆息。
そればかりが出た。
正直どうでもよくなりかけた俺は、無意識に訊いていた。
「…――どうしてあそこから抜け出せたん?」
広島弁混じりで。
唯さんによれば、このみは地縛霊のはずだ。俺の知るところによればそれは、その土地になんらかの未練を残して、動けない種類のものではなかったか。――こうしてしっかりと言葉を交わすことの出来る彼女に、幽霊の種類を当てはめるのは嫌だったが。
このみは一度思案顔になると、
「なんかねぇ、『出よう。もっちーさん追いかけよう』思ったら出られたんよ。それまではずっと『まさくん早う来んかな』ってばっか、思っとったんじゃけど…」
俺は公園のベンチで肘をついた体勢のまま、固まった。
それはつまり…
「まぁまぁ、こうしてここまで来れたけえ。近所じゃけえ家にでも寄ってこ! 母さんも父さんも、きっといる思うよ」
このみは元気に立ち上がると、傘を振りかざして太陽を突いた。
そのままスカート姿で公園の出口へ駆け出す。途中で追いかけっこをしている子供にぶつかりそうになって、それをすんでの所で避け、
「ばいばい」
笑って小さく手を振ったが、子供は気付かなかった。
笑った横顔が、やけに眩しかった。
俺は拍子抜けしてしまった。
俺の苦労なんて、微々たるもんじゃないか。彼女が笑っていてくれさえすれば、それでいい。
昨日のように疲れきって、こいつが涙を流す所はもう見たくない。
俺は立ち上がって、彼女の後を追いかけた。
お義父さん、今行きます。
娘さんは僕がいただくので、覚悟なさってください。
――あれ、けど…
「なあ」
彼女は肩越しに振り返って、
「なにー?」
「昌也くんトコは、行かなくていいのか?」
彼女ははっとして、笑顔を沈めた。そして、もう一度笑顔をつくってみせて、
「――後まわし。こっからなら家のが近いけえ、母さんに冷たいもんでももらお!」
府中町は、彼女の町は、初夏。六月だ。
雨が降らないことを祈るばかり。
5.「とどめは」
至って普通。都会やその周辺に住む人々にとって、説明の必要がないようなごくありきたりの住宅街の様子が、ゆっくりと流れていく。ただそのどこにでもある風景の蒼穹の空に、工場から出る排気の灰色が塗り足されていた。
ここが、彼女の町。俺の知らない彼女が17年間過ごして来た町。
会ってから数日しか経っていないのに、俺は彼女のこんな深い部分にまで入り込んだのだ。なんだか不思議な気持ちになる。良く見知っている人間が、全然知らない所で『過ごしていた』。そんな気持ちから。
道々、並んで歩いて話す。このみは意外とすたすたと快速に歩くので、歩調を合わせる必要がない。フェミニストを自負する俺にとって、これだけは痛かった。
傍目、悪く見れば援助交際とも取れなくもない組み合わせである。
ああでも、人には彼女が見えないのだった。
「なあ」
「ん?」
言ったその顔が、やはり眩しい、という表現は逃げなので、やはり垂れ目がほくろがヘアピンがそしてとどめの上目づかいが可愛い。このみは、いつもと変わらないように見える。
そして俺は、根本的な質問を彼女に投げる。遠まわしなのは嫌いだ、というか、出来ない。
「なんで憑いて来た?」
「なんでじゃろうね?」
つい先日もこんなやりとりをした覚えがある。その時は、俺が質問される立場だったが。
俺がその時の会話を忠実に再現して、続けた。
「『はぐらかさんで』ー。『本当になんでなん』ー?」
このみはやはり、今日びの高校生とは思えないほど無垢に笑う。
何故か、「懐かしい」という言葉が頭に浮かんだ。その笑顔を前に見てから時間的にはさほど経っていないが、東京から広島という距離、そしてその間を移動した密度の濃い経験達がそう思わせているのだろう。
――と、合理的な解釈をしてしまう自分を、つまらなく思う。
このみはちょっと困り顔をしたが、
「別に、もっちーさんを信じとらんかったとかそういうのとは、違うんよ?」
「それはわかっておりましたとも。俺が聞きたいのは、深層心理って奴なのですよ?」
「しんそうしんり…?」
この言葉をまた使うことを、許して欲しい。
このみは『可愛らしく』小首をかしげる。今にも人差し指で頬を支え、頭上にクエスチョンマークを出しそうだった。
「ああ。あそこから出るには、…なんか覚悟っていうか、気持ちが必要だったんだろ?」
答えは十中八九、いやまぁ自惚れが過ぎているのかも知れないが、ともかくわかっている。
が、
「ん〜、出よう思えば、いつでも出られたんかも?」
バガン、と頭上の花と蝶を滅する、一撃必殺の、しかしなんの悪意もない素晴らしい威力が俺を踏み砕いた。
が、それを気にした感もなく、彼女は悩みながら自己分析を続けていく。
「けど、要は、気持ちの持ちようだったんじゃろうね」
「…………。どういうこと?」
このみはますます眉根を寄せ、ついには腕組みをし出す。知恵熱なのかなんなんなのか、頬が赤くなっていく。
「ん〜、上手く言えないんじゃけど、気持ちの切り替えというか、なんというか…。むぅう…」
頭から水蒸気を噴出す(俺にはそう見えた)このみ。俺は慌てて制止した。どうも、意地悪が過ぎたようだ。
◇
ついに、来た。
俺の一生を左右するイベントが戦慄と思いの火を背負(以下略
ではなく、沖田家にたどり着いたのである。
そこは、本当にごくごく普通の一軒家だった。
やや雨に汚れた白い壁は、中古を買ったのなら別だが、この地域に住んでいる期間が長くも短くもないことを物語っており、玄関と同じ方を向いたベランダのある二階建てだった。右手の、奥まった所にある入り口の側には、蔓の伸びた朝顔が植わっており、隣の家との境界のフェンスにその蔓が絡み付いている。狭い庭には、季節ものらしくあじさいの茂みが見える。
が、そのどれも、悲しく沈んで見えた。
ここに来るまでの間、ここに来てどうするのかは、もう考えておいた。
「このみ、ちょっち待ってて」
「……――なんで?」
言葉の前にあった間は、ある理由からあからさまに俺を責めていた。
が、これが現実なのだ。どう綺麗事を取り繕っても変わることのない、厳然たる事実。受け止めたくない、知りたくない、そう思ってもどうする事も出来ない、真実だった。
「いいから」
「なんで!? なんで私のうちなのに、入ったらいけんの!?」
「っいいから!!」
思わず俺は叫んでいた。
これは、このみ本人の身に起こった出来事だ。だから、受け止めたくないという気持ちが誰よりも強いのだ。だが俺はそれを知った気でいて、思わずその態度に苛立っていた。「どうしてわからないんだ」、と。
しかしそれは、俺がこのみの事を思いやりきれていないという証拠に他ならなかった。
「…ごめん。でも、さ…」
言下に、このみは言った。
「…いいんよ。こっちこそ、駄々こねたりして、ごめんなさい」
言葉を途切れ途切れに紡ぎながら、しおれるこのみ。俺はさらに申し訳なく思ったが、黙っておく。
「じゃ、ちょう行って来るな?」
「・・・うん」
俺の、もはや板について来ている『にわか広島弁の真似』に、このみは僅かに笑う。そして、
「頑張って来てね」
痺れた。
そして、インターホンを押す。
ピンポン、と二回、電子音が響いて、
『…はい、どちらさまでしょうか?』
疲れた男性の声が聞こえた。おそらくこのみの父親だ。このみがその声を聞き、体をぴくりと動かしたのがわかった。
今日は平日である。が、仕事ばかりしている、とこのみに言われていた父親は勤め先には行っていなかった。こんなことがあった後なのだから当然といえば当然だったが、その父親の声色には、胸を抉るような悲痛さが漂っていた。
「このみさんの、東京の知人の者です。先日――」
言いたくない。ここにはその本人が、このみがいる。しかし、
「――・・・先日、彼女の訃報を聞きまして、遅ればせながらお線香をあげに参ったのですが」
『…ああ、そうですか。ありがとうございます。あの子もきっと、喜ぶ思いますよ。ありがとうございます』
後ろでこのみが、泣いているのがわかった。
東京での知人、しかも男だというのに、俺はなんの詮索もされずに沖田家の和室に案内された。もう気持ちがまいってしまっているのか、線香をあげるという言葉が善意に解釈されたのか――。しかし嘘はついている(そう思いたかった)ものの、俺の気持ちに偽りはない。
このみの父親は、40代前半といった所だろうか。年相応な時期に結婚し、子供を授かったようだった。四角い、黒ぶちの眼鏡をかけた痩せ型の体型で、顔の線が固い。表情がやつれている分を差し引いても、このみは母親に似たようだった。
そしてその母親は、姿が見えなかった。彼も何も言わなかった。
沖田家には、現代の家庭らしく仏壇がなかった。だからこのみの遺影は、小さなタンスの上に、線香と少しのご飯と一緒に並んで置いてある。
黒に縁取りをされた枠の中に、幸せそうで、小さな笑顔が納まっていた。最近撮ったものなのか、表情は今とさほど変わらなかった。首にゆるく締めたネクタイとエプロン、そして三角巾をかぶっているのが見える。おそらく調理実習ではないので、文化祭か何かの時の写真なのだろう。その周りには、見切れてしまった友達も映っている。皆、笑っている。
不覚にも、涙が出てしまった。
もう彼女は、この学校生活を終えてしまった。
会いたい友達と会っても、気付いてもらえない。気持ちを伝えることが出来ない。いなくなったと思われている。そして、最後には、時間が経つにつれ、
忘れられてしまう。
覚えている人もいるかも知れないが、それはあくまで過去にあった出来事として、古く、アルバムの中の一枚に、笑顔として納められるだけだ。記憶として、新しい情報に埋もれていってしまう。
ひとしきり泣いた。いつの間にか、傍らにティッシュの箱があった。
◇
このみの父親は、畳の上に正座をして、重く切り出した。
「父の、敬二です」
俺も改めて、気持ちを落ち着けて挨拶を返す。それが悲しいかな、大人の配慮だった。一番辛いのはこの父親に違いなかったから。しかし、こんなことはほぼ初めての経験なので、少し戸惑う。
「初めまして、望月裕一と申します。この度は、ご愁傷様でした。本当に突然のことで、俺、いえ僕も驚いています」
「ええ…。本当に突然でしたけえ、――遠路はるばる、本当にご苦労さまです」
突然土下座をされて、俺は戸惑う。すぐにでも、彼女はまだここにいると知らせてあげたかったが、今はまだその時ではない。敬二さんは続ける。
「それで、あの子とはどういう関係だったんです?」
当然の質問が、やっと出た。人間というものは、機を見て話を進める生き物だから、最初にこのことについて訊ねないのは、当然のことだ。
しかしその質問の内容とは裏腹に、敬二さんの声には、相手を責め立てるような気持ちはこもっていないように思えた。どちらかというと、生前のこのみの様子を知っておきたい、という、家にいる時間の少ない父親らしい意思が見え隠れしている。
俺はこの質問にも困る訳だが、兎に角、アドリブで繋ぐ。
「ええと、何と言いましょうか……。駅でたまたま話す機会があったもので」
嘘はない。
が、父親が訝るのには、十分な理由だった。
「それだけ、と言っては失礼ですが、本当にそれだけでここまで来られたんですか?」
「はい」
偽りはない。
はあ、と敬二さんは、感嘆とも呆れともつかないような吐息を漏らす。
今度は俺が、攻勢に出る。
「つかぬ事をお伺いしますが、このみ――さんは、どういった目的で東京まで来られたのですか?」
もう一度訝られれば、これには無理に答えてもらうつもりはなかった。両親がこのみの上京について、どこまで知っているのかを確認しておきたかっただけだから。
「出かける時には、彼氏に会いに行く言うてました」
きちんとした、明朗な答え。両親はこのみの目的をしっかり把握していた。
「それには、反対されなかったんですか?」
俺の、責めともとれるこの言葉に、敬二さんはややひるむ。
「ええ…なにせあの子の彼氏は、しっかりとした人でしたから。何度か家に来たのを見て、あの子を任せても大丈夫思ったんですよ」
ほう、それで、すっぽかした訳か。佐々木君は。
だが、真相はまだ何もわかっていない。断罪するなり、このみと引き合わせてやるなりの処置は、まだ先だ。
考え込む俺。その時、敬二さんの方を見ていなかった俺は、彼の表情がわからなかった。
「望月さん?」
「あ、はい」
「このみは、着いたその日の朝に事故にあったんです」
一瞬なんことかわからず、俺は首をかしげる。
「はあ…。それが何か?」
敬二さんは、すっくと立ち上がって、
「あの子は夜行バスで行ったんですが、それを降りて、駅に着いた直後に事故にあったんです。その間に、私はあなたとこのみが話す時間はなかったと思うのですが」
抑制を効かせたその声の裏には、凄まじい憤激がくすぶっていた。
嫌な方向に、誤解され始めた。
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2004/06/25(Fri)16:34:24 公開 / 春一
■この作品の著作権は春一さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
※1 駅のホームには、夜中に潜まないようにしましょう。この話の人々のようには普通受け入れてもらえず、容赦なく叩き出されます。
※2 紅髪の奥さん、語尾伸ばしの友人は、――むぅ、色々探してみてください。
※3 春一は、広島県府中市になんか一回も行ったことはありません。東京都の府中市には住んでいました。
と、このお話の矛盾点を挙げるとするならこんなもんでしょうか…?
他にも気付かない点が多々あると思うので、ご指摘願います。
更新した矢先に「作品集5」の方に移されていたので、引っ張り出して来ました。その際勿論レアで愛しいついでに聖人よろしくな皆様の感想は、消えてしまっております。申し訳ありません。