- 『盲想』 作者:境裕次郎 / 未分類 未分類
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原稿用紙約16.9枚
あぁ、兄様本日も御機嫌麗しゅうございます。物見えぬ我が瞳ではありますが、肌を柔らかく撫で上げる春風が今日は良い日和である事を私に告げてくれます。窓の外からは雀のさえずる声がチ、チ、チと聞こえてきさえするので、雲なく晴れ渡った空は透き通る水色で埋め尽くされているのでしょう。見えはしませんが、匂いと音が私に色彩画を目蓋の裏に描くことを容易にします。それもこれも全部、私の側に片時も離れずに居て世話をして下さる兄様のお陰です。
ばさりと軽やかな音を立て、私を包み込む掛け布団を傍らにどけてくださったのは兄様の手でしょう?確かめるため、私はすう、と中空に手を彷徨わせます。すると私の手が優しげな温もりで包みこまれます。ほら、やっぱり兄様。
兄様はこんな甘えん坊な私をどう思っていらっしゃるのでしょうか?
疑問を口に出してみたいのですが、いつも心の中で想いは掻き消えてしまいます。尽くしてくれる兄様にそう尋ねてしまう事で、私が愚かしい女だと思われるのが嫌だからでしょうか?
いいえ、違います。
それを口にしてしまった自分が愚かしさと浅ましさの自己嫌悪に塗れてしまうのが怖いのです。兄様は私が好きで、私は兄様が好き。ただそれだけでいいのです。
ねぇ、兄様?
「沙羅、朝御飯の時間だよ」
だから、そうやって肌をくすぐる囁きの吐息が私の頬辺りをふわりと駆け抜けると、私はもう堪え性無く兄様に抱きついてしまうのです。
「ベッドから乗り出すと危ないよ、沙羅」
と兄様は心配そうにおっしゃるのですがその声には私をたしなめる怒りなど一分すらも含まれておらず、穏やかな春の海を思わせる平穏そのもの。私の全てを包んでくださるような声。
「兄様、私は昨日よりも一層兄様の事が大好きです」
「ああ、僕もだよ。沙羅」
二人の一日はこうして始まるのです。
◎
ベッドルームから一階までの階段を兄様に手を引いてもらって下り、リビングに辿り着くと部屋の中央辺りにあるテーブルに腰かけます。そのまま大人しくじっと待っていると、遠く近くで数刻カシャカシャ忙しなく食器の触れ合う音が響いた後「どうぞ召し上がれ」という兄様の声と共に口元に仄かな熱と美味しそうな匂い持ったものが差し向けられます。
「兄様、私、目が見えなくても食事ぐらいはできます」
兄様の手で食べさせてもらう行為に、嬉しさと恥ずかしいからくるためらいを覚える私はそう言って不満げに口を尖らせます。すると「手伝わなくて大丈夫かい?」と心配する声を残して兄様は私にゆっくりそれを手渡します。手渡された金属製の柄には兄様の温もりが満ちていて安心するのですが、安心する反面、臆病な自分を呪ったりもします。素直に食べさせてもらえば良いのに、と。
ギギッと木と木が擦れあうような音が響いたので、兄様が私の真向かいの席に座ったのでしょう。私は食器を一度手探りで手元の皿の上に置き、掌を合わせるともう一度『いただきます』の挨拶をして、食事を取ります。兄様と談笑を交えながらスプーンに乗った食物が醒めない内に口に運びます。どうやら今日のメニューは薄く香る塩味と花びらの香り、口に含むと流動食の様に広がる感触からして桜粥のようです。
◎
私は目が見えないのですが、十数年来過ごしてきた我が家の間取りは分かっているので、基本的な事は大抵こなせてしいます(そう、大抵はこなせるようにしたのです。着替えやトイレや入浴をどうして兄様に手伝ってもらえましょう?)。ですが、それでも兄様を頼ってしまうのは、もう私には兄様しか残されていないからなのでしょう。
昔、遠い幼少期の話。小学生の時分、私の目ははっきりと見えていました。そんな私は健全な生活を送り、普遍的な毎日を過ごす年相応の少女だったと言えたでしょう。朗らかな父に優しい母、大好きな兄様に囲まれて私はささやかな幸せに包まれた少女だったのです。
忌まわしくも忘れがたいあの日がやってくるまでは。
大なり小なり悲劇は唐突に訪れるものなのです。そして人に訪れた悲劇というものは何がしかを必ず奪い去っていきます。私は運悪く、大切なものを根こそぎ奪われてしまう悲劇に見舞われてしまいました。思い出すのもおぞましい記憶なのですが、未だ脳裏に焼きついて離れない枷となっている記憶。その枷は未だ私の両の目の目隠しとなり続け、記憶を風化させず傍にあり続けるのです。
悲劇が起こった日、いつものように私は友達と別れて帰宅の路についていました。あの日はたしか夕焼けがとても綺麗で、真っ赤に照らされた田舎の畦道を歩きながら母が作ってくれる晩御飯のレシピを思い描いていたような記憶があります。もしかしたら別の事を考えていたのかもしれませんが、今思い出すことができる記憶にはそう綴られていました。
西日に染められた我が家の扉を開き、大きな声で「ただいま」と大きく元気な声で言い、母が居る一階キッチンに赴こうとした私はふと気づいたのです。いつもなら夕飯の匂いがただよっている廊下に、その日は木造の家から香る独特の木の香りしかしない事に。その時は大して不思議に思っていませんでした。買い物にでも出掛けているのだろうぐらいに思っていたのです。そして、自分の部屋にランドセルを置いてこようときびすを返した私の耳に、誰かが階段を下りるトン、ト、トントトンという音が聞こえてきました。誰だろう、と思って廊下に出て覗いてみると――
◎
――沙羅、沙羅?」
「あ……はい兄様。なんですか?」
「あんまり日向にいすぎると知らないうちに脱水症状になってしまうよ? 気をつけて。新しく書いた小説を点字にしたから読んでもらおうと思ってもってきたんだ。前の小説がさ、ほら、沙羅にアドバイスをもらったおかげで良いものが出来たから……悪いけど、今回も頼めないかな?」
「分かりました、兄様」
日のあたる窓辺に座りながら過去の記憶の回想に耽っていた私に「それじゃ、頼むよ」とだけ言い残して兄様が離れていきます。折角話しかけてくださったのですから、他愛無いお喋りに興じてくれてもいいのに。少し不満です。ですが私は文句を一つとして言えません。
私がもっと色々とお話していたかったとしても、兄様にそんな余裕は無いでしょう。兄様は私と二人きりの生活を維持するために忙しいのです。それでなくても私の目が見えなくなってしまったせいで兄様の苦労は二倍三倍にも膨れて上がっているのに。あまり迷惑はかけたくないのですが、こういう身体になってしまった手前、どうにもならない事がある事が非常に歯がゆくなります。
そんな時分、こうして兄様のお仕事の少しでもお手伝いできて、その上、兄様が書かれた素敵なお話を読める、という事で私はこの兄様が書かれた点字の本を読み、兄様にアドバイスをするという作業がとても大好きなのです。
渡されたのは――手触りの具合からして、どうやら右上端のクリップでスクラップされた数十枚の紙束のようでした。私は一番上の行から凹凸に合わせて横向けに指先を滑らせてゆきます。一枚目の一番上に書かれているという事はおそらくタイトルなのでしょう。
そこには『ベイビー&マザー』と書かれてありました。
「ベイビー&マザー……赤ちゃんと……お母さん…………オカアサン………………――
◎
――覗いてみると――階段を下りてきたのは包丁を腹部に深く刺さされ、血みどろになりながらも必死で呼吸を繰り返し、息絶え絶えに呻く母でした。そして――
それが私から――光と――色彩と――視界を――
――奪ったのです。
◎
いたたまれなくなって紙束に俯けた顔をハッと上げ、肌が温もりを覚えた方を見上げると、額にかかる髪が揺れ、まばらな太陽の日差しが目蓋の裏に突き刺さり赤と黄色のグラデーションを描きました。
事件後、人づてに聞いた話では(兄様は事件について何も知らない私が精神的に傷つくと思ったのでしょう、ひた隠しにして何も教えてくださらなかったのです)私の後に帰宅した兄様が玄関から少し入った廊下で顔から血を流していた私と、その側に血塗れで倒れ伏していた母を発見し、慌てて救急車を呼んだらしいのです。あとで警察が家中を調べてみたところ、父も殺されていて書斎にある豪奢なつくりの机の手前でうつむけに倒れ、背中から包丁の柄を生やし、眠るように息を引き取っていたそうです。私も死には至らなかったものの、両の眼球は酷い裂傷を負っていて最早使い物にならなくなっていました。
そんな中、兄様が私の傍にこうしていてくださることのできる状況にあるのは不幸中の幸いです。いま、慎ましやかにも平穏な生活を送れているのは兄様のお陰なのですから。
後にラジオやテレビで事件の報道があったのですが、残虐非道極まりない犯行を遂げた犯人は両親二人の命と私の光の代償に五万円ほどのはした金を奪って逃走し、未だ捕まっていません。田舎の一軒家、目撃者0という事実が事件が解明に導かれなかった大きな理由なのでしょう。その事件から数ヶ月ほど、私は呆けたまま暮らしましたが、もう過ぎてしまった事はどうでもいいのです。私は今こうして兄様と二人きりで生きていられるだけで幸せなのですから。
◎
短い回想を終えると、ふぅと一息長い溜息を吐き、兄様の書かれた小説を再び読み始めました。『ベイビー&マザー』。赤ん坊と母親の何気ない交流を描いたささやかなお話だったのですが、兄様の素直で優しく、緩やかで素朴な感情描写が素晴らしくて、とても楽しいひと時を過ごしました。昔の記憶など忘れて去ってしまうぐらいに熱中して読みきってしまいました。
「兄様はすごいです」
読み終わって呟いた頃には、肌を温めていた日差しはとっくに身を潜め私の暗い視界に薄く赤みがける黄昏時に差し掛かっていました。
やがて日は昔良く友人達と眺めた山々の向こう側に影となり落ち、夜がやってきます。一人ぼっちになってしまう夜。眠るときは寂しさを紛らわせるため兄様の傍らで眠りたいのですが、私が幾ら頼み込んでも兄様は決まって「駄目だよ」と笑いながら断ってしまうので私としても、そう言ってしまった兄様は頑として譲らないことを知っているので、一人床に就くのです。
夜は盲目の闇に一層濃い漆黒をもたらし、とても心細く、怖いのです。その感情すらも闇で覆い隠す眠りにつけばいいだけなのですが、私は息を潜め耐えながら起きています。私は知っているのです。
兄様が二、三夜に一度は私の身体で劣情を処理なさっているのを。
いつからかそれは始まっていました。兄様は私が起きている事に気づいているのか気づいていないのか、かなりの無茶をなさいますが別段構いません。私が必要とされているのですから。そしてこの漆黒から、気を紛らわせ救ってくださるよすがとなるのですから。目が見えない私を必要とし、私と一緒に歩んでくださっているのは兄様だけなのです。ですから兄様になら何をされても私は構いません。
私には兄様以下の存在も、兄様以上の存在も必要無いのです。
永久に目撃者の存在など消えたままにして私は自らの犯した罪を償うことなく、こうしてのうのうと生きていければいいのですから。目が見えないおかげで兄様との仲をより深いものにすることができたのです。やはり私と兄様がこうして愛し合うためには両親の存在は邪魔でした。幾らそれが朗らかな父と優しい母であろうと兄妹で関係を持つという禁忌を許すはずがありません。背に腹は変えられないというものでしょう?
時と場合によっては邪魔になり、切り捨てなければならないものも出てくるのです。
ふふ。ねぇ、兄様。
時折、今すぐ起きて『兄様、私は……』とあの日の事柄を全て告白し、欲望の赴くまま兄様の存在に溺れきってしまいたいのですが、物語には影があるからこそ光がより一層引き立つのです。そして、知らぬ存ぜぬで生きていた方が人は遥かに幸せになれるのです。ですから、私は兄様には黙っているのです。私がなした行為を。
言う必要などありません。
言う必要などないのです。
やがて私の肌の上に温かく張り付く液体をとろりと放ちきった兄様は、私の頬に優しくキスをし、丁寧に身体を拭ってくださいます。やはり私が起きていることに気づいているのかもしれません。ですが、私が眠っているふりを続けている間はいつまでもこうして微妙で儚く揺れそうな温度を保ちながら兄様は私の傍に居続けてくれるでしょう。
――覗いてみると――階段を下りてきたのは包丁を腹部に深く刺さされ、血みどろになりながらも必死で呼吸を繰り返し、息絶え絶えに呻く母でした。
そして――母の後ろから顔を覗かせた誰かが、母に刺さっていない一本の銀に光る包丁を握り、私の目にそれを突き立てました。大して抵抗もせず、ぼんやりと立ち尽くしたまま、ずぶずぶとそれが眼球にめり込んでいく感触に身を委ねていた記憶の中の私は痛みを覚えていませんでした。
それがあなたの望まれた結末ならば私は喜んで受け入れましょう。
「 」
だから沙羅をもっと愛して下さい。
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2004/06/19(Sat)12:45:38 公開 / 境裕次郎
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■作者からのメッセージ
長編、中編は多忙なため調整不足で載せることができませんでした。と、いうことで暫くは短編オンリーでいこうと思っております。ご感想頂ければ、嬉しいです。