- 『紅い大蛇と赤い華』 作者:shot / 未分類 未分類
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全角65689文字
容量131378 bytes
原稿用紙約189.4枚
何も見ることが出来ない。
何も聴くことが出来ない。
何も触ることが出来ない。
ただ、ただ感じるのみ。
暗闇の中に、感じるのみ。
五感を研ぎ澄ます。
限り無く研ぎ澄ます。
そうすれば、おのずと、
幽かに聴くことが出来る。
聴くことにより、
幽かに見ることが出来る。
見ることにより、
感じることは無くなる。
見ようとするべからず。
聴こうとするべからず。
触ろうとするべからず。
「あのさぁ、いつもこの店に来て思うんだけど、なんで音楽流してないの?」
「別に……」
木製の一枚板で作られた年代物のカウンターの中で、高そうなグラスを洗いながら面倒臭そうにバーテンの男はつぶやいた。四、五メートルのカウンターの奥一面には恐ろしい程の数の酒壜が、出番待ちの落ち目の女優のように整然と並んでいる。店内は狭く、照明は店の狭さがぼやけるほど暗い。唯一、三段に整然と並んだ落ち目の女優達だけが微かにスポットライトを浴びている。カウンターのみで、ジャズやブルースを流せばそれなりに似合って、そういうのが好きな客が案外入りそうな店の作りだ。でも此処の店のオーナーは、このバーテン以上に変わっていて音楽は一切流さない。流れているのを聴いた事が無い。おまけに表の看板は小さな木製の照明の無いのが申し訳程度にドアの横に掛けてあるだけだ。磨き込まれているが、その看板もカウンターと同じぐらい年代物で、控えめな文字で『SAMON』と書かれているだけだ。経営が成り立っているのが不思議なほど客が入っているのを見たことがない。まるで異界に迷いこんだような気分になる。
「音楽がないと不安になるのか?」一段落した手を休め、煙草に火をつけながらバーテンは言った。目を細めて煙を避けている。
「いや、そういうわけじゃないけど……お前も無口だろ、もし客が来たら居心地が悪いんじゃないかとおもってさ。ジャズとか流せばそういう客がつくかなとおもって。」
「お前に店のこと心配してもらわなくてもいいんだよ。オーナーのやり方なんだから。それに俺は無口じゃない。お前に対して口数が少ないだけだよ。他のお客様とは楽しくおしゃべりするんだよ。馬鹿みたいな話は飽き飽きしてるんだ。もっと知的好奇心が揺さぶられる話題はないのか?そのでかい頭の中には女と酒と金の事しかないのか?俺を唸らせるような崇高な話をしてみろよ。」
にやにやしながらバーテンは挑発的なまなざしを向けた。そう言われて相対性理論や量子力学の話が出来る知識もなく、だまって目の前のターキーを飲み干すしかなかった。口に含んだ液体を飲み込んで、無言でグラスを差し出した。バーテンはそのグラスを受け取っておかわりの氷をアイスピックで器用に丸く削りながら言った。
「ターキーでいいのか?」
「あぁ……」
「お前は聴く事が出来るものだけが音だと思っているのか?それは間違っているぞ。ある一定の周波数より低すぎても高すぎても人間には聴くことは出来ないんだ。」
おかわりのターキーのロックをスッと出しながら反応を見ている。何か言うと絶対に否定されそうなのでまたもやだまってグラスを舐めた。
「聴くことが出来ないだけで脳では反応しているんだ、それを音の信号に変換出来ないだけなんだ、周波数が違うとね。ハードロックやヒップホップなんかの曲を長時間聴いていると興奮状態や不快な状態になったりすることがある、逆にクラシックのピアノ曲や琴の音色を聴くと癒されたり眠くなったりするんだ、まぁ人によるけどね。」
「あるのか、ないのか普通の人間には確認出来ないけどそういう音域があるということを俺に説明してくれてるのか、そんなことは言われなくても知ってるよ。もうこれでも三十越えてるんだぜ、重低音や超高音を聴かせ続ける拷問とかもあったんだろ、ナチスかどっかの話を本で読んだことがあるよ。」
「ほう、君にしちゃあ上出来だ。本なんてマンガか卑猥な写真誌しか見ないと思ってたよ。」
この友人でありバーテンでもある男は人を馬鹿にするときは君≠ニ呼ぶ。いやな雲行きになってきた。音楽が流れてないと言っただけでまだまだ続きそうだ。ふだんはウンともスンとも言わないのに、こういう話には過剰に反応するヤツなのだ。
「じゃあ目に見えないものはどうだ。」
「お前さぁ馬鹿にするにもほどがあるよ、電磁波、電波、不可視光線、風、熱……」
「わかった、わかった、君が優秀なのはわかったから。じゃあ君は見えるのか?」
「見えるわけないだろ。電波や電磁波が見えたら生活できないだろ、そこらじゅう飛び回ってるんだから。それに、そういうの見えるのは少しヤバイだろ。」
的を得たりという顔で友人は俺のほうをニヤけながら見ている。罠にはまった。
「じゃあ何故在るということ知ってるんだ、本やテレビ、メディアによってだろ。まさか君が実験や研究に没頭して大学の研究室に二十年ぐらい篭もっているという話は聞いた事が無いからな。もちろん音も見えない、しかし聴くことは出来る。だから一般の人々にも確認できる。でも見えない聞こえないものの存在になぜそれだけ自信をもって発言出来るんだ?」
黙って煙草に火を点けた。反論すると長くなりそうなので入り口のほうに視線を流していった。暗い店の入り口は、やはりぼんやりしている。ドアのすきまから滑り込む街灯の灯りが外界との繋がりをかろうじて保ってくれている。フッと……
真後ろに何かいる……
見ようとするべからず……
見られている……
聴こうとするべからず……
「じゃあ。霊はどうだ、見たことないけど存在するという人もいるぞ。」
「…………」
「なにを固まってるんだ。腹でも痛いのか、痛いなら帰っていいぞ。今日はこれぐらいにしておいてやるから。続きはまた明日にしてやるよ。」
「……いや……」
「すいません。ジントニック頂けます?」 ふいに後から声がした。あわてて店の奥に顔を向けた。カウンターの一番奥の暗い所に髪の長い女らしきものが座っていた。俺が来る前から居たのだろうか。気配すら感じなかった。黒い服を着ている。ぼやけている。俺は、俺はさぞかし驚いた顔をしているはずだ、血の気が引いている。鼓動が早い。
「はい。かしこまりました。」
友人は何事も無かったように対応しているようだ。カウンターの中からは見えていたのか、いや客なら入り口から入って来ているんだから知っていて当たり前か。
「おい。お前以外に客がいないと思ってたのか?呑気なヤツだな。綺麗な人だぞ。」
小声で友人は耳元で言った。しかし俺は血の気が引いていて対応できない。あの時の気配はなんだ。人のものだったのか。
「むつかしい話をされているんですね。」 おかわりのロンググラスを右手で軽く触りながらその女性は言った。表情はわからないがきっと微笑んでいるんだろう。いやな気配は消えている。
「いや、ほんのいじめみたいなもんですよ。追求し続けると黙り込むのがおもしろくてね。低俗なヤツですから。」
「非道い言い草だな。顕光、お前はそういうつもりでいつも俺としゃべってるのか。」 少し動悸もおさまったので、かろうじて反論出来た。しかし…。
「そうだ。俊哉から何かを学ぶほどおれは馬鹿じゃないし、君の意見を尊重しているわけでもない。ただの暇つぶしなんだよ。でも、君にとっては参考になる話も多々あるんじゃないかな。」
そういって顕光は奥の女性に笑顔を向けた。たしかに顕光の話は予言のように参考になることが多い。ただの偶然だと思っているがさっきの話を参考にすると、こいつは見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたりするのかもしれない。
「仲がいいんですね。」
ジントニックを一口飲んで俺のほうを女性が見た。綺麗な顔をしている。でも霞んでいる。見てはいけない。あの目を…。見てはいけない。何かが違う。俺とは何かが…。帰ろう。外に出るんだ。それで、逃れられる。今すぐ。グラスのターキーを一気にあおった。 「帰るよ。チェックしてくれ。」
「千四百円だ。」
ジーンズのポケットに小銭があったのでちょうど払って立ち上がった。ドアに向かって歩きだした時、その女性が…
「またお会いしましょう。さよなら。」
と、言った瞬間。背中を何かが走った。曖昧な返事をして、俺はドアを開けて外界へ出た。街並はいつもどうりなんてことはないただのゴーストタウンだ。繁華街にもかかわらず十一時を過ぎると店は軒並み閉まってしまう。観光地ゆえの悲しさか、道楽商売が多いのか。まるで真夜中のようだ。桜が咲くにはまだ少し間があるようで、桜の木は枯れたままだ。急ぎの仕事があるわけでもないので、帰って飲み直そう。そして、忘れてしまおう。今日の気配を。なにかひっかかる……。
*
あなたは私のことを忘れてしまったのね。私は忘れたことはない。いつも、いつもあなたのそばにいる。髪の毛が三センチ伸びている。髭も三日剃っていない。二キロ痩せた。新しい彼女はまだいない。今は仕事をしていない。冷蔵庫にはミネラルウォーター。ベッドの横のテーブルにワイルドターキーのボトル。あいかわらず恋愛小説は嫌いなようね。 あなたは私のことをいろいろ憶えているのかしら。好きな食べ物。好きな色。好きな言葉。好きな音楽。好きな場所。きっと忘れてしまっているわね。くやしい。くやしい。殺してしまいたい。髪の色、匂い、眼差し、憎い。あなたは私に言ったのよ。こんなに好きになった女性はいない。君ほどの女性に出会うことは、これから先考えられない。愛してる。いつも君のことを思っている。週末は必ず二人っきりでゆっくり過ごそう。どちらかの誕生日には外で食事して、静かなショットバーに行こう。
でも、あなたは忘れてしまった。絶対に許さない。私は一時も忘れたことはない。いつも見ているのよ。すぐそばで。憎い。
*
『SAMON』は、夜の八時から。閉店の時間はきまっていない。顕光が店に入るのは大体七時ぐらいだ。フードを出す店ではないので仕込みなどはなく、開店前にすることといえばひたすら掃除だ。照明の暗い店なのでどうでもよさそうなものだが、全体に暗いとスポットライトで埃が余計に目立ってしまうので、顕光にとっては神経を使う仕事である。客が八時ちょうどに来ることなどはめったになく、だいたい九時近くまではカウンターを磨くことになる。しかし今日は七時過ぎから俺がいる。顕光は無言で念入りに掃除をしている。俺は何も飲み物をもらわずに煙草を馬鹿みたいにふかしている。昨日は結局明け方近くまで一人で飲んでいた。
……あの女はなんだ……
頭にこびりついて離れない。俺のことを知っているのかもしれない。俺の記憶にはないほど綺麗な顔をしていた。いや、顔ははっきりとは思い出せない。存在だけがこびりついて離れない。人のものとは違う気配。背中を向けた時には鬼に睨まれたように恐怖を感じるが、姿を見るとまるで幽霊のように朧。顕光には感じないのか。俺だけなのか。
……またお会いしましょう……
女は言った。なぜ。なぜ俺がまた会うんだろう。まるで確信があるかのように。会いたくない。会わないほうがいい。なんとなくそんな気がする。
「よう、俊哉。そろそろ何か飲むか?」
一通り掃除を終えて顕光が手を洗いながら言った。時計を見ると八時半になっている。 「おい。オープンを三十分も過ぎてるじゃないか。さっさと酒を作ってくれよな。お客を待たせて掃除をするなよ。いつものターキーくれよ。ダブルでな。」
「お客がオープン前に店に入ってくるなよ、看板が出てないだろ。看板が出てからオープンなんだよ。掃除の時間に俊哉が勝手に入って来たんだろ。この世界はお前の思いどうりにはいかないんだよ。そんなことだから三十越えてクビになるんだよ。毎日酒ばっかり飲んでないで仕事探せよな。ほらよ。」
無造作にグラスを差し出した。ムッとしながら一口飲んだ。仕事はクビになったんじゃなくやめたんだ、と、何度も言ったのにこの男は、いつもいつも。でも、そろそろ仕事しないと金が尽きてきたし世間からかなり浮いてきている。外界との繋がりが希薄になっている。その時入り口のドアが開いた。
「おう。俊哉君来てたのか、早いな。」
「おはようございます。」
「こんばんわ。」
変り者のオーナーがダラダラとカウンターに片手をついた。相変わらずジャラジャラと指輪やネックレスを着けている。薄いブルーのサングラスをかけて黒いスーツ、髪の毛は長めのオールバック、知らない人が見たらそのスジの人以外には見えない。
「アキ。昨日はどうだった。」
ポケットからくしゃくしゃのセブンスターを取り出して指で探り出している。顕光は灰皿をオーナーの前に出した。
「どうもこうもないですよ。いつもとかわりません。まぁこのままいくと一週間で潰れますね。」
「半年前もそういってたじゃないか。いいんだよ赤字でも。金の為にやってるんじゃないんだから。それより、変わったことはなかったか?」
「そんなにしょっちゅう変わったことはありませんよ。頻繁にあれば河童が出たって慣れてきますからね。」
「わはははは、河童というのは俊哉君のことか、似てるねぇ。わはははは。」
「失礼だなぁ二人とも。これでも学生の時には女の子にもてて困ったんですよ。それよりもこの店音楽とか流して入り口の辺りもガラス張りにでもしたらどうですか。そうすればもう少しお客さんが入るんじゃないですかねぇ。」
オーナーは顕光にギネスビールを注文してから俺に向き直って半笑いで言った。
「わざとなんだよ……」
「わざと……どうしたんですか。」
黒ビールを旨そうにゴクゴクのんで煙草を深く吸い込んだ。煙を体中に循環させるほどため込んでゆっくりと吐き出した。
「俺はね俊哉君。この店が赤字でもいいとさっき言ったよね。それは趣味の延長だからなんだ。常連の君には悪いけどこの店は一種の実験の場でもあるんだ。だから音楽は流さないし照明は暗い、ましてやアキは無口。どうだ変わったバーだろ。」
「そんなことが何の実験になるんですか。僕にはよくわからないなぁ。」
残りのビールを飲んでビアグラスを顕光に渡して人差し指を立てた。
「君は河童に似ているが河童は見たことあるかい?」
「あの。頭に皿のある緑色の相撲が好きな妖怪ですか。あるわけないでしょ。妖怪なんか空想の生きものなんですから。それに僕のことを河童に似てるとか言わないでくださいよ、ほんとに…。」
「俊哉君。なぜ存在しないと断言できるんだ。ましてや君は今河童の特徴を言ったじゃないか。見たことないから存在しないというのはおかしいんじゃないかな。北は青森から南は鹿児島まで河童の記録はあるんだよ。とくに九州には多いんだ。そういう歴史的な文献がありながら君は存在を否定するということだな。」
黙ってターキーのロックを飲んだ。こうゆう時は黙っているに限る。いつもの経験で学習している。
「オーナー。あまり河童をいじめないで下さいよ。唯一の常連客なんですから。貧乏人ですがね。無職の。」
「顕光。河童じゃないって言ってるだろ。それと無職も関係ないしツケもしたことないだろ。」
「河童の話はいいとして、昔の人はいろんな物がいると思っていたんだよ。いや、いたのかもしれない。今は夜といっても一寸先は闇というほどの完璧な暗闇は存在しないし、常に音がそこらじゅうに溢れている。針の落ちる音や蛙が池に飛び込む音なんかかき消されてしまう。科学の進歩と反比例するように人間は本来持っていた何かをなくしてしまったんじゃないか、と思うんだ。まぁ今だに幽霊を見たとか、宇宙人に連れ去られたなどと言う人もいるがね。。」
黒ビールを飲んで空の煙草の包みを顕光に渡した。
「そこで、俺は音の無い、闇が存在するスペースというものを世間に与えてみたということだ。何かを取り戻したり、何かが見えたり聞こえたりしたらおもしろそうだろ。俺はぜんぜんニブイからね、アキに毎日同じ質問をするんだよ。アキはそういうの敏感だと思ってね。」
「敏感じゃないですよ。人を霊能者みたいに。あっ、そうそう昨日綺麗な女の人が一人で来ましたよ。初めてのお客様です。なあ、俊哉がいたときだよな。」
「……あぁ、そうだ。」
「ほう。観光客かな。よく一人でこんな暗い店にはいれたなぁ。もしかして妖怪か何かじゃないのか?」
「多分それはないでしょう。足もありましたし、頂いたお金も葉っぱじゃなかったしね。オーナーの喜びそうな未確認生物じゃなく、俊哉が喜びそうな細身の女性でした。」
顕光は何も感じなかったようだ。しかし、あの後どうなったのだろう。背筋に感じた悪寒のような気配は、まるで身体の中に手を突っ込んで探られているようだった。
「そうか。またその後進展があったら報告してくれよ。妖怪説じゃなくて恋愛話でもいいからな。じゃ、この辺で俺は出かけてくるよ。ごゆっくり、河童の俊哉君。」
「またお姉ちゃん参りですか?いい加減にしないと呪われますよ。」
「誰に呪われるんだ?」
「河童に関する実験中の研究者である僕にですよ。」
ドアに手をかけてオーナーは背中を向けたまま…。
「呪いなんか恐くない。神である俺にとっては。あはははは、じゃあな。」
入って来るときとは違って颯爽と夜の外界に出ていった。カウンターに残された灰皿からはまだ煙が上がっていた。ビールも飲み残してある。雑な人だ。そんな人に繊細そうな霊や妖怪が見えるわけがない。そんなものは存在しないはずだが。顕光がため息をついてその残骸をかたずけだした。
「おかわり出そうか?俊哉。オーナーのペースに乗せられてかわいそうにな。」
「お前もかわらないじゃないか。二人で河童かっぱ、て言いやがってさ。オーナーにつけとけよ今までの分は。だから今からたのむのが一杯目だからな。」
「かしこまりました。それで、昨日の女の事を聞きに来たんだろ。」
おかわりのターキーロックを出してニヤッと笑った。
*
繁華街にも観光地にもさほど遠くないが、完全に隔絶された雰囲気の山の麓にその大きな屋敷はある。屋敷というより豪農の城と言ったほうがしっくりくる。まわりに民家らしきものはほとんど確認出来ない。農作業に使う道具などが置いてある納屋や小さな掘っ立て小屋ぐらいだ。その城を合図にするようにそこから奥は急に鬱蒼と木々の闇が広がっている。その山道はかつて街道として人の行き来もあったが、今では大きな高速道路のおかげで昼間もあまり人も車も通らない。ひっそりとその城は鎮座している。漆喰で四角くかたどられた塀の正面に造りは古いが寺の山門のような民家には不釣り合いな門が、しっかり外界と内側を隔てている。狐狸の類いはもちろん悪霊さえも中には入れない、そんな恐ろしさを感じさせる。
「由美子。昨日の夜に町のほうに下りて行きましたね。あれほど外に出てはいけないといっているのに。」
若い女が庭に面した廊下を歩いている背後から母とおぼしき年配の女性が声をかけた。若い女は立ち止まり振り向きざまに言った。 「どうして、どうしていつも私の所為にしたがるの。私はどこにも行ってませんし門から外へは出てません。お姉さんですよ。お姉さんが昨日の夜町へ行ったんです。」
「馬鹿なことを!」
母はとっさに平手を由美子の頬に打った。由美子は静かで暗い庭の方を向いた。乱れた髪もそのままで暗闇の奥の白く浮かぶ漆喰を虚ろに見た。外界と内側を隔てる囲いを見ていた。桜の巨木はまだ花を咲かせない。
「お母さんは何も知らないのよ。お姉さんは昨日町でお酒を飲んだそうよ。そこで男の人とお話ししてすごく楽しかったそうよ。なんだか興味を惹かれる人がいたんですって。また逢いたいって言ってたわ。好きになってしまったんじゃないかしら。由緒ある旧家だからとか、つまらないことを言って世間知らずの娘に育てたお母さんのせいよ!お姉さんは小さい時から言ってたわ、近所の女の子と遊びたい、学校が遠いから友達ができない、男の子とはしゃべらせてもらえない、今時そんな変な家はうちの家ぐらいよ!馬鹿はお母さんよ!」
「由美子!待ちなさい!」
由美子は自分の部屋に向かって走り去っていった。庭を挟んだ東側の離れに灯りがついた。離れのもう一つの部屋には灯りはついていない。由美子の部屋からは桜の巨木は目の前に見える。花はまだ咲かない。母は由美子の部屋の灯りを見ている。桜の巨木が少し影をおとした障子の奥を。少し視線を左にそらすと灯りのついていない部屋が横にある。真っ暗な障子の奥には……。母はその部屋を見ない。見ようとしない。小さな灯りが揺れているような気がするから。いや……。 揺れているはずだから……。
あわてて庭に視線を戻した。庭の行き止まりに漆喰が浮かんでいる。そこから外界は早春の夜の月しか見えない。朧月夜。薄い雲が三日月にベールをかぶせる。
*
「別に聞きたくないよ。顔もはっきり憶えてないし。どうせ観光客かなんかがガイドブックでも見間違えて来たんだろ。」
「いいや。案外、近所だぞ家はな。」
後の酒壜を並べ直しながら後向きで顕光は言った。
「ふぅん。でも見かけない感じだな。顕光はずっとここら辺に住んでるのに知らなかったのか?」
「あぁ…。あの子のことは知らなかった。でも、なんとなく思い当ることはある。」
「なんだよ。思い当ることって。いやらしい言い方するなよ。」
酒壜の整理をやめて一本壜を持って顕光が向き直った。自分の酒を物色していたらしく、残り少ないバーボンをショットグラスに注いでいる。ちょうど一杯分でその壜は空になった。じっくりとスポットライトにあてて色を見てから一口でクイッと飲んだ。
「俊哉。安部晴明って知ってるか?」
「なんだよ。知ってるけどぜんぜん関係ないじゃないか、今の話とは。」
「まあいいじゃないか。今じゃみんながよく知っている人物だ。羅生門の鬼退治や式神使いとしてな。本当はそんな魔術師みたいな事はしてないと思うがね。方術のちの道教、風水、密教、宿曜まぁ天文学、呪禁それらの要素を取り入れながら陰陽道っていうのは成立しているんだ。平安時代には国家事業として国が行なっていた、だから安部晴明もただの国家公務員なんだ。」
「それがどうしたんだ。」
「ほかにも陰陽師と呼ばれる人物はたくさんいる。賀茂保憲や敵対視される芦屋道満、その他いっぱいいる、なにしろ陰陽寮っていう公社があったぐらいだからさ。でも今日晴明がもてはやされるのは伝説が多いことと出生の噂だと思うんだ。晴明の父は摂津の国の安部保名、母の名は葛葉姫。この母というのが狐なんだ。白い狐。」
「あのさぁ。そんなマンガみたいな話はいいからおかわりくれないか。それと、いつになったら関係してくるんだ。さっきの話と、お前が物知りなのはわかったから。」
機嫌良さそうに氷を削っている。うんちくを語るときは人が変わったように饒舌でご機嫌なヤツだ。こういう時も黙って聞いていればいいんだが。なにしろ昨日の女の話が気になるのでチャチャを入れてやった。でも、ご機嫌なままだ。気味が悪い。
「ほらよ。」
おかわりを差し出して黙っている顕光。何か言うのを待っている。この一言でまた罠にはまってしまうんだ。うまいヤツだ。
「その、その狐がどうしたんだ。」
ハマってしまった。
「異類婚の話ていうのは昔話や各地の伝説なんかにたくさんあるんだ。君のような河童の婿入り、鬼の婿入り、蛇女房、猫女房その他もろもろ。鶴の恩返しの話は知ってるだろ。天の羽衣も異類婚。ある意味浦島太郎もそうだ。日本にはよくある話なんだよ。」
「よくあるわけないだろ。顕光の親は蛙か。俺の親は河童か。お伽話だよ。そんなの信用してるのか。けっこうカワイイとこあるな顕光。」
「うーん。まぁお前の親は河童かも知れないな。俺の親は人間だな。それはいいとして、そういう話の場合大体がその異類のモノを主人公が助けたとか、その異類のモノが主人公を気に入って人間に化けて近付いていったとかなるのが普通だ。しかし、それとは逆のパターンはどうなる?人間なら恨んだり、憎しみを持ったりするよな。いじめられて恩返しに部屋に篭もって自分の髪の毛で織物を編むヤツいないだろ。ある意味恐いけど。そういうことだ。だから無益な殺生されたとか意味無く虐待されたようなモノは祟るんだよ。動物だけじゃないぜ、鍋やら釜なんかもな。器物も百年たてば付喪神て言って神様になるんだよ。」
「で、なんだ。」
一気にまくしたてて煙草に火をつけた。顕光のいつもの間。ここからが本題。長い前振りでなんの話かわからなくなる。俺も次のセリフに期待して煙草に火をつけた。落ち着く意味で深く吸い込んだ。さあ…。
「いらっしゃいませ。」
その時ドアが開いた。間の悪い客だ。なんだかオドオドした女の人だ。
*
……もういいかい……
……まぁだだよ……
……もういいかい……
……まぁだだよ……
……もういいかい……
………………………。
……もういいかい……
……おねえちゃん、おねえちゃん
もういいの。おねえちゃん。
何処に行ったの。おねえちゃん。
おねえちゃん! どこ!
お前は誰だ。
あなたは 誰? おねえちゃんは?
お前は妹なのか、この娘の。
おねえちゃんはそこにいるの?
お前は本当に妹なのか。違う。
おねえちゃんは私のおねえちゃんよ!
かえして!おねえちゃんをかえして!
かえせない。
じゃぁ わたしも連れていって!
連れてはいけない。
どうして!どうしてなの!
お前は違う。違うからだ。
何が違うの? ねぇ!
…………。
待って!待ってよ!待って!
母さんがいつも言っているでしょ。どうしてそんなに簡単なことが出来ないの。お姉ちゃんは、よく言う事を聞くのに。門の前の掃き掃除もあなたの仕事じゃないの。漢字で名前を書けるようになったの?勉強もお姉ちゃんには勝てないのね。本当にあなたはだめな子ねえ。なにを睨んでいるの。本当憎ったらしい。
お姉ちゃんだけが可愛がられている。
私はいらない子なんだ。
裏の祠に捨てられていたんだ。
お姉ちゃんなんかいなくなれば……。
お前が望んだんだろ。
かなえてやる。その、望みを。
知らぬとは言わせない。
見ようとしたな。
聴こうとしたな。
触ろうとしたな。
そして、
お前は見ることが出来るようになった。
お前は聴くことが出来るようになった。
感じることも出来るようになった。
それを開けたのはお前だ。
*
「どうしてその男は俺の名前を知ってるんだ。それにここにいることも。」
「そうですねぇ。でも私は名前は知りませんでしたが、ここにおられるのは知ってましたけどねぇ。」
その白い封筒を持ってきたオドオドした女性は言った。
「私のこと知っておられるんじゃないですかねぇ。」
「そういえば、見たことがあるような。」 「俊哉。お前は知ってるはずだぞ。見たことないならお前は目が相当悪いか、頭のほうが相当病んでいるぞ。」
顕光が小馬鹿にして横から口を挟んだ。ねぇ、とそのおばちゃんと微笑みあっている。 「おばちゃん。誰?本当に俺のこと知ってるの知らないなぁ……。」
「あはははは。種明かししてあげてよ。頭も眼もかなり悪いみたいだから、ねぇおばちゃん。」
「えぇ、しゃべったことはないんですよ。いつも無言でお金を渡されますからねぇ。ほら、隣の煙草屋のおばちゃんですけどねぇ。あの土産物も売ってますけどねぇ。私はようくおぼえてますけどねぇ。」
「あぁ。わかったよ。ありがとねぇ、て言うおばちゃんだ。顔見てなかったよいつも。煙草のほうばっかり見てたよ。しゃべり方に特徴があるからさ。ごめんなさい。」
顔の前で手をヒラヒラさせながらおばちゃんは恥ずかしそうに言った。
「いいえぇ。私ん所はおばちゃんを売ってるんじゃなくて煙草や土産物を売ってるんですからいいんですよ。これからもよろしくねぇおにいちゃん。それじゃこれで失礼しますよ。」
「あっ。ちょっと。どんな人でしたその男の人なんか特徴ありませんでしたか?」
「そうねぇ。見かけない顔だったわねぇ。髪の毛は短くて、農家のおじさんって感じの人だったねぇ。だからこんな洒落た店には入りにくいからって、おばちゃんに頼んだんだよ。おばちゃんも恥ずかしいって言ったんだけどね。あんまりお願いされるからねぇ。そうそう、すごく眼が悪そうだったねぇ。」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「こうね……」おばちゃんは右手と左手を揃えて前に差し出した。ちょうど何かを受け取る仕草だ。
「手をだしたのね。手紙を受け取るようにね。なのにぜんぜん違うほうに手紙をさしだすのよね。それでそっちのほうに手を持っていくとまたぜんぜん違うほうにさしだすのよね。からかわれてるのかと思って言ってやったのよね。冗談はやめて下さいってね。そしたらね、すいません眼がちょっと悪いものでって言ったのよ。ちょっとどころじゃないじゃないのねぇ。だから相当悪いんじゃないのかねぇ。えぇ。じゃ失礼するよ。」
軽く手を振っておばちゃんはドアを開けて出ていった。ほんとにねぇ、と独り言を言っていた。俺はその封筒の表と裏を交互に丹念に調べた。何の変哲もないただの白い封筒。差出人も宛名もない。あるのは、不気味さだけだ。開けるのがためらわれる。白い封筒をカウンターに投げ出して残りのターキーを飲んだ。カウンターに置かれた普通の白い封筒は、俺の手に取ると不気味なモノになる。見なければ何事もおこらないし中に何が書かれていても俺には関係ない。しかし……。
見てはいけない。
見ようとしては……いけない。
「見ないで捨てちゃえよ。俊哉。」
顕光は時々予言めいた変なことを言う。
「見るのか?……」
「さあな。」もう一度投げ出した封筒を手に取った。不気味なモノに変わる。迷ったあげくジーンズのポケットに二つに折って押し込んだ。不気味なモノは移動しただけで、開けて見てもらうのを待っている。煙草を吸おうとパッケージを探ったが空のようだ。
「顕光。煙草置いてるか?」
「無いよ。お前が早く店に来るから買い出しに行けなかったんだよ。まだ九時半ぐらいだから隣のおばちゃんの店に買いにいけよ。シャッター閉めてないはずだ。」
「しかたねえなぁ。」
立ち上がって小銭を取り出して数えながらドアを肩で押し開けた。道の向こう側の桜はまだ咲いていない。隣はおばちゃんがシャッターを閉めるところだった。おばちゃんの後から声をかけた。
「おばちゃん。煙草まだ売ってくれる?」 少し驚いた顔をしたがすぐ笑顔に戻って中に入って行く。電気を落とした暗い店の中に。一瞬真っ暗な洞窟におばちゃんが吸い込まれていった。風が頬を撫でた。春が近づいている。なにげなく後の桜の木を見ようと振り返った。桜の木は不気味な黒い枝を手のように広げているだけだ。
「これでよかったかねぇ。」
おばちゃんの方に向き直った。揃えられた左右の手のひらにキャメルのソフトパックが二つのっていた。
「そうそう。憶えてるんだね。おばちゃんは。」おばちゃんの手から煙草を取って換わりに小銭をのせた。おつりのいらないようにきっちりのせた。おばちゃんは左手に小銭を一まとめにして右手の人差し指で数えた。しっかり数えて、ありがとね。と言った。俺もおばちゃんの顔を見て微笑んだ。が……。
「おにいちゃん。気をつけなよ。手紙を持ってきた男はねえ、普通の感じじゃなかったよ。なんかねぇ…こう、生気が感じられなかったねぇ。こんな商売だから色んな顔見てきたけど、あんな薄気味悪い男はねぇ。初めて見たねぇ。まぁこんなおばちゃんの言うことあてにならないけどね。なんかあったら飲み屋のおにいちゃんに尋きなよね。あのおにいちゃんはそういうの大丈夫そうだからね。」 「顕光ですか?」
「アキミツっていうのかいあのおにいちゃんは。いい顔してるねぇ。ああいう顔もあまり無い顔だねぇ。いい顔だよ。じゃ、おばちゃんはシャッター閉めて帰るとするよ。」
一方的に視線を外されておばちゃんの背中を見る格好になった。シャッターの大きな音で我に返った。
「あの……。」
「じゃあね。おにいちゃん。おやすみ。」 「はあ、おやすみなさい。」
それっきり視線を合わさずおばちゃんはゆっくりとした足取りで桜の木の向こう側へと歩いていった。よく見ると小さな蕾がびっしりと木にへばりついていた。よく見ないと気がつかないこともあるんだ。しばらくそのまま小さくなっていくおばちゃんと桜の木を見ていた。まだ少し肌寒い風が頬を掠めた。
顕光か……。
店に戻ろう。ジーンズのポケットに押し込んだ不気味なモノを開けるのなら、顕光の居るところで開封しよう。おばちゃんも根拠は無いが顕光の何かに惹かれたようだ。まずは相談してみるべきだ。
煙草の封を切り。ドアを開けた。異界への入り口のドアを。
「開けると後戻りは出来ないぜ。俊哉。」 顕光は会話を聞いていたかのようなことを平然と言った。いささかいつもよりは真面目なようだ。
「あぁ、見ないと始まらないからな。」
「世の中にはなぁ…触れちゃいけないものもあるんだ。お前はまだなにも始めていないし、関係もしていない。でもそれを開けると始まる。俺には何が始まるかまではわからない。でも、開けた瞬間からお前は関係者になるんだ。そのことを踏まえた上でその不気味な招待状をあけるんだな。」
「あぁ覚悟は出来てるさ。見ない、聞かない、触れないなんて俺には我慢できないよ。進んでややこしい事に首をつっこんでしまうんだよ。昔からね。」
ポケットから白い封筒を取り出した。つまらない白い紙で簡単に作られたモノに呪がかけられている。振り払うように勢い良く一気に開けた。中には薄い便箋が入っている。人差し指と中指で挟んで取り出した。折り目正しく四つ折りにされた招待状を広げた。
……なんということだ。
*
夏の日差しがそこかしこに容赦なく降り注いでいる。必要以上に緑色した山々にも、水をはった水田にも、そして舗装されていない山道の入り口にも。草の匂いでむせかえりそうな熱を帯びた空気。蝉の声が急き立てる。いつになったら日が暮れるのかというほどに太陽は照らし続けている。その山道は大きな白い漆喰塗りの屋敷の前を西から横切って東側をなめながら後の緑色の山へと真っすぐに突き刺さっている。まるでこの屋敷の為にある道のように。屋敷の裏手には山の中へと連なる細い獣道が一本頼りなく伸びている。その獣道は屋敷の中を一度通り抜けるか、水田の畔道を何度も曲がって行かなければ辿り着くことは出来ない。地元の者でもましてや好奇心旺盛な子供達でもその獣道の奥に行くことはあまりない。かぶと虫やくわがたがいるわけでもなく、池があって魚が釣れるわけでもない。そんなところに何があるのか。山道からは山に隠されて窺い知ることは出来ない。ただ、この照りつける日差しの中にあって唯一影に包まれてみえる。その獣道を一人の男が仕事着と麦藁帽子、首には薄汚れた手ぬぐいという出で立ちで影の奥のほうに歩いていく。腰には太陽光にちらちら反射する綺麗に研ぎあげられた鎌を携えている。畑仕事の後にしては、その刃は鋭すぎるようだ。あきらかに影の奥でその刃物を使う為に携えられている。ゆっくりと男は影の中に入って行く。ゆっくりと消えて行く。若い使用人がやめてから男は日課のように影の中に消えていく。
真夏の日差しと熱気が嘘のように届いていない。ひんやりとした影の奥に小さな祠が建っている。小さな鳥居もちゃんと構えられ、古びているが手入れは行き届いているようだ。ところどころ朱は剥げて木肌をさらしているがそれはそれで雰囲気を醸し出している。 男は静かに祠の前に歩いていく。蝉の鳴き声が後ろで聞こえる。額の汗を手ぬぐいで拭ってしばし祠の全体を見回し静かに手を合わせた。
かなかなかなかな……
かなかなかなかな……
蝉の鳴き声が変わった。そろそろ地獄の炎のように焼き付ける日差しも傾きかけたようだ。長かった一日が終わりそうだ。合わせた手をそのままに男は眼を開けた。祠の格子戸の中は暗闇に包まれている。眼を凝らしても何も見えない。賽銭箱の奥。眼を凝らす。何も見えない。
この中にあるモノが……
かなかなかなかな……
俺に……
かなかなかなかな……
祟るというのか……
栄えさせるというのか……
男は合わせた手をおろした。少し汗ばんだ両手をズボンで軽く拭いた。
かなかなかなかな……
腰に携えた鎌を右手で持って、祠に近づいて行く。しゃがみこんでよく伸びた夏草に刃をいれる。
……手入れを怠るな……
あぁ……
かなかなかなかな……
「おとうさんなの?」
男は手を止めて祠のほうを見た。
「ゆ、由美子かい?どこにいるんだ?」
「本当におとうさんなの?」
立ち上がって辺りを見回した。
「ど、どこにいるんだ!由美子!」
「ここ。出られないのおとうさん。」
声のするほうに眼をやった。祠の格子戸の暗闇の中から目が二つ。
「あっ……。」
背中を何かが走った。右手の鎌を落とした。鳥肌が立つ。目が。見える。暗闇から。目が。見てはいけない。眼を閉じる。首の付根のところに寒気が。汗が。違う。すまない。 「おとうさん!早く出して!」
眼を開ける。格子戸ががたがた揺れる。指が。小さな白い指が。生えている。格子戸から。暗闇から。見える。聞こえる。口が、口がきけない。あぅ、苦しい。激しく揺れる。 「おとうさん!ねえ!出して、早く!」
……ゆ、由美子なのか?……
恐る恐る近づく。指先の感覚が。みみが。格子戸に触れる。触れてはいけない。喉が。触れる。開かない。
「早く!出して!」
白い指が俺の指に触れる。冷たい。触れないでくれ。やめろ。鍵が掛かっている。揺するな。壊れる。指が。痛い。そんなに強く揺するな。この格子戸は。壊してはいけない。 バキッ!
勢い良く格子戸は開いた。暗い祠の中から由美子が男に抱きついた。
「おとうさん!恐かったよう!」
男は由美子を見ようともせず光の射し込んだ祠の中を凝視している。瞬きをするのも忘れて凝視しつづける。奥歯がガタガタと音をたてている。
「おとうさん!早く家に帰ろうよ、ねぇ、おとうさん!雨が降ってきたよ、ねぇ。」
夕立だ。祠の中はその存在を隠すかのように光を遮った。急に湧き起こった雨雲で光を遮った。なおも男はその場を離れることは出来ない。薄暗い祠の中を凝視する。頭から雨水が滝のように流れて口の中、目、いたるところに流れこむ。
「おとうさん!おとうさん!見ちゃだめだよ!」
その時稲妻が走った。一瞬青く光った祠の中に見たものは。
なんということだ……
*
…この手紙は……香織なのか?…
…なぜ? 誰かのイタズラか?…
「どうしたんだ俊哉。何だったんだ?知らない男からラブレターでも貰ったか?」
…そうだ。男が持ってきたんだ。どういうことなんだ。冥府からの使者。そんな馬鹿なことがあるわけない。イタズラだ。…
「おい。見せろよ。俊哉。」
カウンター越しに手紙を取ろうと顕光が手を伸ばした。俺は意地悪く背中に手紙を持った手を回した。読んだ時ほどの動揺は消えていた。ニヤニヤ笑える余裕さえ出てきた。それはただのイタズラだと思ったからだ。しかし……誰が……。
「おい。いい加減にしろよ。お前の事を心配してるから見せろって言ってるんだろが。なぁ興味本位じゃないからさ、な。」
顕光は怒ったり頼み込んだり忙しそうだ。犯人はこいつか。そういえばこの話を知っているのは身内以外にはコイツだけだったはずだ。
「顕光。こんな悪質なイタズラして楽しいか?タバコ屋のおばちゃんまで巻き込んで。本当にシャレになってないぜ。」
俺は負けたくないので半笑いで手紙を叩きつけた。一瞬でも動揺した自分が恥ずかしかった。すぐにイタズラだと気付くんだった、と思う気持ちと顕光のイタズラであってくれという気持ちがないまぜになっていた。
「何を言ってるんだ。わからねぇヤツだな。素直に最初から見せろよな。」
どれどれ、と叩きつけた手紙をカウンターから手にとって読み始めた。白々しいヤツだ。俺は煙草の封を切った。口にくわえてライターで火を点けながら顕光の顔を見た。読み終わってカウンターに放りだした。表情に変化は見られない。仕舞っておけ、という手つきをした。
「君はこの不気味な馬鹿げた文章を僕が書いて、隣のタバコ屋、正確には土産物屋のおばちゃんとグルになって、架空の目の不自由な男を創作して一円の得にもならない茶番劇を打ったと言いたいのか?」
「そうだ。それ以外に考えられないじゃないか。こんなこと知ってるのはお前だけじゃないか。違うか。」
「違うな。俺だけじゃないし俺はこんなお前の部屋のことや、言った言葉は知らない。現在生きている者の中で知っているのは、それはお前だけだ。」
顕光の冷たい目を見たまま固まった。確かにそうかもしれない。いやそうだ。二キロ痩せたことなど顕光が知っているはずはない。ましてや香織だけに言った歯の浮くようなセリフを他人にバラす必要も無い。するとどういうこと……。
「俊哉。ざっとその霊界からのおたよりを見て思ったんだが、聞いてくれるかな?」
「あっ…ああ。」
「お前が土産物屋のおばちゃんとグルになって、架空の目の不自由な男を創作して、一円の得にもならない茶番劇を打ったんじゃなければ、それを書いたヤツはお前の記憶が見えている。」
飲みかけたターキーを吹き出しそうになった。
「顕光。いいかげんにしろよ。他人事だと思って適当なこと言いやがって。そんなことあるわけないだろ。超能力とか宇宙人のテレパシーとか嫌いなんだろ。オカルト嫌いのお前がなんでそんな馬鹿みたいなこと言うんだ。酔ってるのか?」
表情は変わらない。ふざけているようにも見えない。
「じゃあお前が書いたのか?それこそ一回病院に行ったほうがいいぞ。そういうの記憶喪失って言うんだよ。アルツハイマーでも始まったか酒の飲みすぎで。オーナーに電話してやろうか?」
「なんでお前ん所のヤクザまがいのオーナーに電話されなきゃいけないんだよ。記憶を取り戻す為に覚醒剤でも配達してもらうのかよ。年増のデリヘルに来てもらっても記憶は戻らないからな、書いてないんだよ。記憶喪失でもアルツハイマーでもないよ。電話するなら精神科のお医者様に電話してくれよ。」 「だからオーナーに電話してやるって言ってるんだよ。正確には心療内科だけどな。まぁユング、フロイトよりはあてになるんじゃないか。なんでも幼児体験、性的ストレス、トラウマとは言わないはずだぜ。」
また目が点になった。
「オーナーって、本当に医者なのか?医師免許が日本の国から交付されてるのか?不思議だ。」
「そうだよ。免許見せてもらったことはないがな。白衣着てるのも見たことないが、医療関係の本に英語で論文発表したりする先生だよ。ここから山の方、北にずうっと行った突き当たりの信号を右に曲がった所にでっかい総合病院があるだろ。あそこの二代目院長だよ。」
「そういえば、あの病院、左門総合病院だったっけ。知らなかった。このバーと同じ名前だ。」
「だから、電話してやろうか?」
「いや、いいよ。オーナーはもうご機嫌になってる頃だから。もう少し冷静に考えてみるよ。ゆっくりと一人でな。帰るよ。」
手紙をジーンズの後ろのポケットに押し込んで立ち上がった。
「今日は俺がおごってやるよ。タダだ。」 「悪いな甘えておくよ。」
「あぁそれからなぁ、オーナーに言ってもいいかな俊哉。たぶんどうなったか聞きたがるだろうからさ。」
「あぁ、なにかあったら頼みます、て、言っておいてくれ。妖怪ばなしとは違いますけどってね。じゃぁな。」
外へ出た。ポケットの手紙の違和感は幾分薄れた気がした。
香織が死んで二年目の春がもうそこ迄きている。桜の花が好きだった。
*
旅装束の僧は七年ぶりにその祠に訪れた。屋敷の裏からではなく、田圃の迷路のような畔道を迂回して訪れた。俗世間において最後の甘美な思い出の場所に。
周囲から隔絶されたこの場所は二人には都合が良かった。二人は許されぬ恋に落ちていた。僧がその女性と初めて二人きりで会話を交わしたのも、結ばれたのもこの場所だった。その頃はこんなに雑草が生い茂る事は一度もなかった。毎日、出家する前の僧が主人の言い付けで草を刈っていた。本業の材木の切り出しの仕事を早めに切り上げて、なぜそんなことがそれほど大事なのかそのころの僧には理解出来なかった。僧は祠を凝視しながら昔を思い出していた。
その祠を若旦那が建ててから商売の方は急に伸びた。だからと言って毎日草を刈って、祠自体を拭き掃除し、綺麗な水、酒、などを供えなければいけないのだろうか。あるときなどはその店の使用人達が見たこともましてや、口になど入れたことがない豪華な食べ物が供えてあった。夜には若旦那自らが蝋燭を灯し長々と祠の前に居たようだ。その祠は福の神の様に商売にはよくご利益があったようだ。しかし建てて直ぐに大旦那が急死した。病気らしい病気などしたことが無い、歳の割りには丈夫な大旦那がある朝起きてこない。住み込みで働いていた使用人や職人よりもいつも早く起きて庭先で変わった体操をしているはずなのに、その日はみんな口々に「旅行にいったのか。」とか「いや黙って行かんだろう。」などと言っていた。そのうち若旦那が奥から出てきて「親父が死んでる。」と言った。朝の慌ただしい時が一瞬止まった。全員が若旦那の方を見ていた。若旦那は顔色一つ変えず立ち尽くしていた。使用人達が「えらいことだ。」と、バタバタしだしても立ち尽くしていた。みんなの視線が若旦那から逸れた時、見てしまった。
口元に笑みを浮かべている若旦那を見てしまった。
見てはいけないモノを見てしまった。
目を、目を逸らさなければ。
視線が交わった。若旦那は笑みを浮かべたまま手招きをした。他の者はみんなあたふたと色々言いながら走り回っている。若旦那と自分だけが立ち尽くしている。周囲から除外されたように。無いもののように。
「義則、こっちへ来い。」
若旦那は小さな声で言ったのに、はっきりと耳元で聞こえた。もう一度手招きされた。呪縛から解き放たれたように、若旦那のそばに走って行った。生気の失せた目はまるで蛇のようだった。外の現場には出ないので青白い顔がよけいに白くなっていた。耳元に口を近付けて若旦那が言った。
……お前、俺の女房と祠で時々交わってるだろ。知ってたんだよ、最初っからな。まぁそんな事はどうでもいいが、今日は仕事に出なくていいから祠の手入れを念入りにやってくれ、酒と料理をいつもより多くな。たのんだよ、間男……
その日の内に逃げ出したまま七年が過ぎていった。
「お坊さん。何してるの?」
ふいに後ろから声がした。あわてて振り向いた。女の子だ。
「ねぇ。お坊さんでしょ。何してるの?」 軽く首を傾げて微笑んでいる。白いワンピースからすらりと伸びた足に赤いゴム草履。近くの子供だ。
「お嬢ちゃんはこの辺の子かな?」
「うん。そこの白い塀がお家だよ。お坊さんは?」
血の気が引いた。その女の子はかつて愛したあの人に瓜二つであった。七年間の俗世間から隔絶された修業は無駄であったのか?いや、無駄ではないはずだ。しかし……
「あっ、お坊さん。お母さんの事知ってるのね。なぁんだ。」
「なっ!……。」
言葉が喉につまった。この女の子は……人の気持ちが読めるのか?まさかそんなことは無いはずだ。
「いや、知らないなぁ。お嬢ちゃんはなんて名前なのかな?」
「由季子って言うの。お坊さん嘘ついちゃだめなのに。お母さんの事知ってるでしょう。嘘ついたら針千本飲まされるのよ。お母さんの名前は…。」
聞きたくない。耳が、耳が拒絶する。蛇の目が。耳元で。許してくれ。膝から崩れ落ちた。言わないでくれ。
「大丈夫?お坊さん。お家の人呼んでくるね。待っててね。」
「いや。大丈夫。」
震える足で立ち上がった。地面が揺れているようだ。視界が狭い。耳が聞こえにくい。膝に付いた砂もそのままにその場所から、祠から、一刻も早く、立ち去りたい。
少女が白い手で僧の手を掴んだ。
「どうしてそんなにお母さんに会うのを嫌がるの。もうお父さんは死んじゃったから大丈夫よ。ここで昔お母さんとお坊さん二人で……。」
「やめてくれ!勘弁してくれ!」
視界が狭まる。音が遠退く。この少女は何もかも知っている。微笑んでいる。もう、しゃべらないでくれ。
「見ようとすれば見えるの。聴こうとすれば聴けるの。お坊さんも見えるし聴けるはずよ。ねぇお母さんには黙っててあげるから、この祠に時々きてね。約束よ。嘘ついたら針千本飲ますから。じゃ、さよなら。」
五感を研ぎ澄ますべからず。
見るべからず。
聴くべからず。
さすれば……
感じる。
感じるままに……
*
「おい!何処にやったんだ!鍵まで掛けやがって!」
その男は夕立でずぶ濡れのまま土足で台所に駆け込んできた。目は落ち窪み青白い皮膚。鬼の顔。
「あなた……。ちょっと、お、落ち着いて、ね、。」
女は怯えている。異様なほど恐がっている。まるで鬼を見たように。男の手が女の髪の毛を掴んだ。女の顔が男の顔の目の前に捻じり挙げられた。苦痛に歪む女の顔に向かって鬼は言った。
「お怒りになったら……どうするんだ。災いが不幸が降りかかってくるんだぞ。す、全てが。何処だ。何処にやった!」
女を叩きつけた。床に倒れた女は束ねていた髪が解け、項垂れている。なおも鬼は罵声を浴びせながら蹴りつけた。
「何処だ!」
「うっ、堪忍して、堪忍して、うっ!」
「旦那さん!ちょっと!やめてあげてください!」
ただ一人お手伝いさんとして残った良子が止めに入った。その女におおいかぶさった。 「おい!良子!お前も一緒か!情けで置いてやっているのに…何処にやった!」
「やめて!お父さん!」
お手伝いの良子をも蹴りつけようとした時娘の一人が叫んだ。長女の由季子の方だった。その目は、鬼をも恐れぬ鋭い眼光で睨んでいる。鬼は由季子の方に向き直った。鬼の目も負けてはいなかった。
「由季子!あっちに行ってなさい!早く行くのよ!良子さん、私よりあの子達をお願いします。」
「でも、奥様このままじゃ……」
良子はためらっていた。明らかに殺される。このままにしておけば。
「早く、良子さん。あの子達を連れて外に出て、それから左門先生の所に行って先生を呼んできて下さい、お願いします。」
「わかりました。ちょっと待っててください、すぐ戻ります。」
「お前、何だその目は!父親に対してそんな目をするのか!」
鬼は目標を娘に切り替えた。由季子は怯まない。妹は姉の後ろから怯えながら覗いている。
「恐くないわ。それにお父さんだけどお父さんじゃない。私にはわかる。」
「何を訳わからんこと言ってるんだ!お前が隠したのか!何処にやった!」
「早く!良子さん!子供達を…それから良子さんもう戻ってこなくていいから。これ以上……早く!」
「はい!由季ちゃん、由美ちゃん、早く一緒に早く!」
鬼を突き飛ばす勢いで良子は子供達の手を引いて、外に駆け出した。履物も履かずに裸足で、途中妹の方を抱き上げて夕立の後の濡れた道を走った。……奥様がんばってください、先生に行ってもらいます……
妹はしくしく泣いている。由季子は無言で良子の後について走っている、時々家の方を振り返りながら。この子は強い子だ…良子は思った。
*
…俊哉くん、ありがとう。私の分まで楽しんでね…
…何言ってるんだよ、良くなるって先生も言ってるんだろ。馬鹿なこと言ってないで少し休んだらどうだ。腹でも減って眠れないのか?…
…優しいのね。いつもそういう風に優しくしてくれればいいのに、病気のときだけなのね。…
…俺はいつだって優しいさ、香織に対してはね。…
…嘘つき。女の子なら誰にでも優しいんじゃないの?…
…お前だけだって。ゆっくり休めよな…
目の前の香織は病院のベッドに横たわっている。真っ白い部屋に真っ白い布団、真っ白い顔。死ぬんだよ。香織。死んでしまうんだ。お前は。涙は流れない。一人でたくさん流してきたから。眩しい光がお前を迎えにきたようだ。ここから先は一人でいくんだ。こんなに早く離れてしまうなんて考えてもみなかったよ。光がトンネルを作って待っている。さよならだ。
…俊哉くん…さよなら…
…香織…香織…
手が届かない。だんだん、光のトンネルに吸い込まれていく。手が、届かない。香織。眩しくて見えなくなってきた。すぐに俺も行くからな。香織。
「はい、もしもし。」
「あぁ、あの左門さんの所の顕光くんの友達の俊哉くん?」
まだ寝呆けている。目を閉じれば香織の寝顔が見えそうだ。
「そうですけど。誰ですか?」
「ああ良かった。もしかしてまだ寝てたんかいな、俺や、俺。わからんかな、たまに飲み屋で会うやんか、顕光くんのおる飲み屋で、わからんか?」
「わかりました。ジュンヤさんですね。」 ベタベタの関西弁でわかった。金融屋のちんぴらだ。最初からいつもの調子でしゃべってくれたらすぐにわかったのに。時計を見たら午前十時過ぎだ。早起きなちんぴらだ。
「そうや、俊哉くん今プータローやねんやろ?」
「そうです。それより僕の電話番号誰に……。」
「いやいやそれはな、顕ちゃんに聞いてんけどな。そんなことよりヒマやったら今から出てこれへんかなぁ?」
「えっ、ヒマというか、どうしたんですか?」
なぜ朝からちんぴらと会わなければいけないんだ。かわいい女の子ならいざ知らず。顕光はどういうつもりなんだ。昨日の今日でひどいヤツだ。
「ヒマやねんやろ。顕ちゃんが言うてたで、ヒマすぎて落ち込んでるて。ほんで俺がええ話聞かしたろと思て電話してんやんか、まぁとりあえず駅前のサテンで待ってるで。あの派手なサテンや、なんて言う名前やったっけ?あの、ら、らん、ちゃうなぁ、れ、れ」 「レナードですか?」
「そうそう!ほんだら後でな。あっ、もちろんサテン代はワシのおごりやからな、プータローのにいちゃんには払わせへんから、安心して来てや、ほんだらな。」
一方的に切られた。これほど不快な朝は久しぶりだ。大声の関西弁にまくしたてられた。顕光は何を考えてるんだ。昨日の飲み代のかわりにしては酷すぎる。まぁちんぴらの言うようにプータローでヒマなのは確かだ。
立ち上がって洗面所に向かう。ふと冷蔵庫の上を見ると昨日の封筒が置いてある。いつもの一日が始まるのに、その封筒には異界が詰まっている。何かが変わってしまった。とりあえずちんぴらと会おう。確かに気分転換には持ってこいかもしれない。
……香織……
……本当はどうなんだ?……
……恨んでるのか?……
……忘れていっていいのか?……
……君との日々を引きずるべきか?……
*
自動ドアが静かに開いた。
「いらっしゃいませ。」
ヤクザ者にもプータローにも眩しすぎる作り笑いでウェイトレスが話しかけてきた。
「お一人ですか?」
「えっと、あの……。」
「おう!にいちゃんこっちや、こっち、こっち。遅いなぁ。」
作り笑いのウェイトレスがいっきに困惑顔になった。お水をお持ちいたしますので。と、言ってさっさと離れていった。少しこういうのも楽しいかなと思ってしまった。ニヤっとしたかもしれない。
「にいちゃん。えーと、俊哉君やったな。ということはトシちゃんやな。トシちゃんでええか?」
「はぁ。別になんでもプータロー以外だったら。あっ、河童もいやですね。」
ウェイトレスが水を持ってきた。コーヒーをオーダーした。ジュンヤさんもおかわりをたのんだ。
「コーヒーはホットでよろしいでしょうか?」
俺のオーダーなのにジュンヤさんが大声で答えた。
「ねぇちゃん!まだ桜も咲いてへんのにホットに決まってるやろ。それに冷たいのやったら冷たいので冷コーて言うやろ、ましゅまろかなんか知らんけど自分の頭で考えるようにせんな、頭の使い方わからんようになるで、わかったか?」
わかりました、と言って相変わらず困惑顔で去って行った。なかなか気持ちいいもんだ、言いたいことを言ってしまうのも。
「あいつら、ましゅまろどうりやなぁ。」 「あの、マニュアルなんですけど。」
「ほんでなトシちゃん話しなんやけどな、アルバイトせえへんか?いや、なんも難しいことはあらへんねんけどな、わしではどうも話も聞いてもらえへんねん。」
俺の言うことはほったらかしで話が進んでいく。コーヒーがきたので一口飲んだ。
「おっ、トシちゃんブラックで飲むのんかいな、大人やなぁ。わしらお子様やから砂糖もミルクもたーっぷり入れて飲むねん。」
そう言ってティースプーン五杯ぐらい砂糖を入れてフレッシュをドボドボ入れた。コーヒーの色がミルクティーの様になった。
「あの、それならカフェオレにされたらどうですか?」
「えっ、なんて。かふ、かふぇ…。そんなんどうでもええねん。だからな、頼まれてくれへんか?」
「いや、あの、まだ話しの内容がぜんぜん分からないので、もう少し詳しくお願いします。できることであればお手伝いさせてもらいますので。」
「おっ、乗り気やな。アキちゃんの言うたとうりや、何にでも首突っ込みたなるんやろ、好奇心旺盛て、いうやつやな。突っ込むのは話しとボケだけにしときや。ガハハハ。」 ガハハハって。顕光のヤツ。
「それで話していうのはな、長なるけど言うで。うちの金融屋知ってるやろ、いわゆるサラ金とか昔は呼ばれてたヤツや、今は街金て言うみたいやけどな。そこにな二週間ぐらい前に金を借りに来てな、今だに利子の分も入金せえへんヤツがおってな……」
「ちょっと待ってください。もしかして取り立てですか、そんな荒っぽいことできませんよ。」
「ちゃうちゃう。そんなことにいちゃんに頼まんでもわしが行くがな。話は最後まで聞いてや。そいつがな綺麗なおねえちゃんやってん。ほんでもちろん街金言うても金貸すねんからちょこっと調べんねん、名前とか生年月日とかでな。住所見たらええとこのお嬢さんやってな、もちろん調べても何にも問題ない、こらええ客やいうことですぐ貸したわけや、二百万やけどな。」
「二百万ですか。そんな簡単に。」
「そら普通やったらあかんで、まぁにいちゃんやったら五十万ぐらいやろけど。そこの家は父親は死んでしもてんねんけどな、かなりの材木商やねん。奈良の吉野の方やら和歌山の方にも山持ってる金持ちやねん。」
「どうしてそんなことまで分かるんですか、名前と生年月日だけで。」
甘いコーヒーを飲み干してジュンヤさんが言った。
「そんなんで分かるわけないやろ。ちゃうねん、そのお嬢さんな、街金で金借りるの初めてやからていうて山やら家やら土地の権利書まで持って来てたんや、身分証明書は免許がないから保険証やったけどな、ほんでお父さんの名前が保険証にないからお父さんは、て聞いたら死んだ、ていうわけや。そんなことはええから、最後まで聞いてて言うてるやろ、気ぃ早いなぁ。」
空になったコーヒーカップを口にあてズズズとすすった。底に溜まった砂糖がどうも気になるようだ。
「ほんでな、最初から家に行くのもなんか可哀想な気がしてな。まぁ金持ちでも親に内緒の金が要るときあるんやろと思て電話したわけや。そらちゃんと繋がるわな、電話代に困って電話止められるような家とは違うからな。まず電話に出たんが多分妹やねん。えらいハキハキもの言う娘でな、わしも遠慮しながら由季子さん居られますか?て、聞いたんや、そしたらどちら様で姉にはどういうご用件でしょうか?と、こうきた訳や。」
ズズズと空のカップをすすって、指まで突っ込んで底の砂糖を舐めている。手元を見ていた目を上げると目が合った。
「いや、わしなちょっと血糖値が高てな左門の兄貴に甘いもん止められてんねんって、そんなことはどうでもええねん。」
「左門さんて精神科が専門なんじゃないんですか?」
「お前みたいなヤクザ者はうちの医者に見せられへん、て言うて兄貴が適当にやっとるんや、ほんまに血糖値高いのかようわからんけど、いじめで甘いもん止められてんのかもな。でも兄貴にそんなこと言えへんし。せやから隠れて補給してんねん。ねえちゃん!おかわり頂戴!」
またおかわりを頼んだ。この人は糖尿病に向かってまっしぐらだ。誰にも止められない。
「つづきやけど。妹さんに恥曝したんのも悪いと思ててきとうに同級生の山下です。て言うたらちょっとお待ちください、て言うて受話器置いてどっか行きよった。こら巧いこといったと待ってたら、おかんが電話口に出て来て、イタズラ電話はやめなさい!て、えらい怒って切ってしまいよってん。腹立つやろ。」
コーヒーがきたので砂糖とミルクの混ぜ込みが始まった。
「なぜ、母親はイタズラ電話と思ったのでしょうか?娘の同級生全てを把握しているという事は考えにくいし、まして妹は姉を呼びに行ったはずだし。」
「さあなあ。山下ていうヤツがあかんかったんかもしれんし。そこでな、頼みやねんけど、その家に行ってくれへんかな?いや行ってくれ。俺みたいな見るからにヤクザ者が行ったら家の人心配しはるやろ、だから頼むわトシちゃん。」
「はぁ…でも行ってどうするんですか?金返せって言うんですか?」
「いやいや、由季子っていう姉ちゃんの方に会えたらちょっと連れ出してほしいねん。そこからは俺が話するからな、な、バイト料二万、いや五万出すで、な、暇やねんやろ、頼むわ。」
「まぁ…暇ですけど……」
「そうか。ほんだら頼むわ。今から行ってきてや。わしちょっと用事あるから、一時にここでな、ええか?」
コーヒーを飲み干して立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待って下さい。行きますけど明日でもいいですか。それにその女性の名前も由季子さんとしかわからないですし、住所も、それから同級生ということになっているなら生年月日や学校名も。」
「あぁそうか。せやなぁ、明日でもええわ、明日の一時に、いや、明日は昼間は忙しいから、夜に兄貴の飲み屋でな。それから詳しいことはここに書いたあるから、よう読んで勉強しといて。ほんだらお勘定は払とくわな、頼んだでトシちゃん。」
白い封筒をテーブルに投げ捨ててジュンヤさんは肩で風を切りながら、伝票をぴらぴらさせてレジの方に歩いていった。支払いを済ますと出口で大声で、ほんだら頼むわ!と言って出ていった。白い封筒が。また白い封筒が俺の目の前に現われた。これで二枚。中にはもちろん異界への招待状。開けなければ始まらない、いや今回ばかりは開けないわけにはいかない。断れなかった。ペースを完璧に外された。全ては明日。その前に床屋にでも行っておこう。このボサボサ頭で髭だらけの顔ではヤクザ者よりたちが悪い。ジュンヤさんの方が小綺麗にはしている。趣味は悪いけど。
*
「さあ、もう大丈夫だ。鎮静剤を打ったから。それより奥さん大丈夫かい?」
「えぇ、少し怪我をしましたが…。本当に申し訳ありません。」
座敷から台所にむかった。台所は足の踏み場もないほどに荒れ果てている。お手伝いの良子が手際良く後始末を始めている。台所から座敷につながる廊下のところに小さな姉妹がたたずんでいる。妹の方は姉の後ろに隠れておそるおそるこちらをのぞき見ているが、姉の方は目尻を吊り上げ鬼の形相で父親を睨み付けている。妹の手をしっかりと握り締め、ぼそっと妹に耳打ちした。その言葉を医者の左門は聞き逃さなかった。少し離れていたが、左門の耳には不思議と聞き取れた。いや、内容から考えると空耳であったのかもしれない。
……わたしがなんとかするから由美子は心配しなくていいのよ……
そう聞こえた。空耳にしてはいやにはっきりと聞こえた。姉の方が父親から視線をこちらに向けた。左門はその目を見ることが出来なかった。
「先生。主人はどうなるのでしょうか?」 助け船が出された。このまま姉の目を感じているとどうかなってしまいそうだった。心の中いや、頭の中まで見透かされてしまいそうな、そんな恐怖を感じた。
「まぁ、命には別状ないが、かなり精神のほうが限界まで来ているようだね。今までは発作的なものも軽かったので、私の方も甘く見ていたが、このままではいずれとんでもない事が起こりそうだ。紹介状を書くから専門の医者に見せた方が良さそうだね。今日中に書いておくから明日の朝一番にでも病院に取りに来て、その足でそのまま御主人を連れていくといい。早いに越したことはない。」
「はい。分かりました。それで今日は…」 「いや、今日は別に何も診察らしきものはしていないから…それより、また発作が起こったら夜中でもいいから呼びに来てくれていいよ。とりあえず安定剤を置いていくけどね。」
背筋に悪寒がゾクッと走った。後ろを振り返ると、姉の目があった。見透かされている。目を。逸らせない……。
その時鬼の形相が崩れ、姉がニコリと笑った。その刹那、嘘のように殺気が消えた。同一人物から発せられる気とは思えない、まるで一瞬で別人に変わってしまったようだ。
「お医者さんは、優しくて、強い人なんですね。」
姉の方が大人じみた口調で言った。
「お嬢ちゃんはしっかりしているね。みんなの事よろしくね。ところでなん……」
「由季子です。今日はありがとう。」
なんだ。この娘は。笑っているが笑っていない。この子も……。父親の血を引いているのか。しかし遺伝などするものなのか?
「ありがとう…。」
妹の方も姉に吊られて挨拶をした。我に帰った。
「お嬢ちゃんは……」
「妹の由美子です。」
姉の由季子が代わりに答えた。笑っている。顔が。
……見ようとするべからず……
……聴こうとするべからず……
「じ、じゃこれでひとまず帰ります。また何かあったら遠慮なく。」
「なんのお構いもしませんで、何しろ台所がこの有様で。」
「いえいえ、じゃ失礼します。」
手が、震えている。あの子は。あの娘は。目でものが伝えられるのか?そんなことは、出来るわけない。思い過しだ。何事も無ければいいが。
先代の左門が開院して、十七年目の夏の夜の事である。悪い予感というものは、良い予感よりも的中するものである。
外に出ると無数とも思える蛙の鳴き声で満たされていた。月光の淡い光の中に田園風景が広がっている。何事も無いような夏の夜の風が肌に心地好かった。しかし心の中には後の黒黒とした山のように見えない恐怖が渦巻いていた。
…間に合うか?…
…このまま何もおこるな…
心の中の不安を拭い去るように、左門は願った。
*
「お坊さん、なぜ此所の草を刈っているの?お坊さんもこの祠が好きなの?」
少女が手元を背中越しに覗き込みながら言った。僧形の男は屈んだまま振り返った。
「やぁ、由季子ちゃんかい。」
「違うよ。由美子だよ。お姉ちゃんの事知ってるの?」
「はて、そっくりだね。お姉ちゃんのことあんまり知らないんだけどね、ここでこの前会ったんだよ。」
「お姉ちゃん帰って来てないよ。遠くの親戚のお家にずうっと行ったままだよ。」
「えっ……。」
…この娘だ。間違いない…
「由美子ちゃんって言うのが本当の名前なのかな?」
…いや、由美子なんて言う女の子は、あの家には居なかったはずだ…
「私、最初から由美子だよ。嘘なんかついてないよ。」
あどけない顔が真剣な顔になった。怒っているようだ。
…でも、どういうことだ…
「あぁ…由美子ちゃん、おじさんが悪かったね。ごめんなさい。」
僧は娘を見るのをやめた。というより、故意に視線を雑草に向けた。そして何事をも考えずに鎌を手に草刈りのつづきをやりだした。
…何事も無い。全ては無…
「ねぇ、お坊さん、ねぇなぜ草刈りしてるの?」
少女が僧の肩に手を置いた。刹那、僧は飛び退いた。近づくとあの女の子の匂いがしたからだ。尻餅をついて少女の方に向いた。楽しそうに笑っている。しかし僧は笑えない。動悸が激しく、息が苦しい。あの女の子の匂いは、あの女の匂い、あの女の匂いは目の前の少女の匂い。
「ゆ、由美子ちゃんはあのお屋敷の娘なのかい?」
やっとそれだけが言えた。
「そうだよ。うふふふふ…」
…これは、どういうことだ。騙されているのか。この娘達に。なぜ、俺に。恨みでもあるのか?…
「うふふ、お坊さん面白いね。また由美子と遊んでね。じゃあ、さよなら。」
ぺたぺたとゴム草履で走り去っていく。
…あのゴム草履はまさしく由季子という娘が履いていたものだ。草の青に映える赤いゴム草履…
僧は少女の後ろ姿を凝視したまま思考することをやめた。目に映るものを信じることをやめた。全てのものを捨てることが出来そうな気がした。僧として試行錯誤を繰り返し、悟りに近づくことさえもやめようと思った。なぜなら、全ては無。有るものも無。己れというものも無。思考を止めることによって、僧は無になった。長い歴史の中で誰も到達出来なかった、厳密には違うが、僧は辿り着いた。修業では辿り着けなかった所に、いとも簡単に辿り着いた。
『涅槃』……。
少なくとも、その僧自身は辿り着いたと思った。全ての経典、戒、定、慧が理解出来たと思った。1の前は0という考えから、その僧は脱した。
…0も1も全ては無…
僧は鎌を手に持直し草に刃をあてた。ザクッと食い込む刃。刈っても刈っても刈りきれない。しかしそんなことはどうでもよかった。意味のない行為こそ、その僧…過去に義則と呼ばれた男にはふさわしく思えた。
*
「顕光。いい加減な仕事の斡旋は困るんだよな。」
『SAMON』のドアを開けるなり俊哉は言った。だらだらといつものようにカウンターに近づいて指定席に腰掛けた。顕光はグラスを磨きながら軽く笑った。
「何を言ってるんだ。お前の為を思って紹介してやったんだぞ。ジュンヤさんはああ見えても子持ちなんだぞ。お前みたいに仕事もせずにブラブラしてるヤツとは違うんだよ。今のお前はイジイジ、ジメジメして見てられないから、紹介したんだよ。ジュンヤさんと話したら気分転換になっただろ。」
「まぁな。」
…まんざら無駄でもなかったか。少し気分も晴れたかもな…
「ターキーのロック、ダブルでな。」
「あぁ、いつものヤツね、代り映えのしない注文で。それよりうちのオーナーがなお前に来た招待状を見せてほしいんだと。」
「なんでなんだ。そんなもの見たってお姉ちゃんにはモテないぞ。」
「お前は馬鹿か。河童じゃなくて三歩歩いたら忘れてしまうにわとりだったのか。うちのオーナーは……」
「知ってるよ。馬鹿とかにわとりとか河童とか言うなよ。ココに来るたびに変な呼び名が増えていくじゃないか。精神科医なんだろ女好きの、下品な趣味の。」
俊哉は出されたターキーを飲んだ。
「あぁ、やっぱりにわとりだ、いや人間様に毛が三本足らない猿だな。心療内科って言うんだよ。それともっと大事なこと忘れてるよ。」
「女好きで下品な服装よりか?」
「そうだ。お姉ちゃんより好きなものがあるんだ。霊や妖怪やオカルト関係、その他宗教もな。」
「医者のくせに変わってるなぁ。変り者とは思っていたが、お姉ちゃんより妖怪が好きなのか、一種の変態だな。それでなんで手紙が見たいんだよ。」
「オーナーはこう言ってたぞ。死人に返事を書くとき、住所と郵便番号はどうするんだ、切手はいくらのヤツをはるんだ。と、言ってたぞ。」
「何だそりゃ。男が持ってきたって土産物屋のおばちゃんが言ってたじゃないか。」
「そう言ったらな。なるほど宅配システムなのか、何処に電話して手紙を取りに来て貰えばいいんだ。と、言ってたぞ。」
「はぁ、あの人の頭の中はどうなってるんだ。人の気も知らないで。今日は持ってないぞ、あんなもの持ち歩く馬鹿はいないよ。」 「いるじゃないか、目の前に。」
ダンガリーシャツの胸ポケットに二つ折りにして入れてあった白い封筒を、カウンター越しに顕光が引き抜いた。
「バーカ、それは違うよ。今朝ジュンヤさんに貰ったんだよ。そこに書いてある住所の所に行ってくるのがバイトなんだよ。だから散髪もしてきたんだ。」
封筒を開けながら顕光は言った。
「明日は異界からの招待状を持って来てくれよ。オーナーが来るからな。一応今までのこと説明してあるから。」
顕光は白い封筒から視線を俊哉の頭の方に変えた。そして軽く微笑んだ。
「ハハーン、女関係なんだな。それで快く引き受けたんだな。お前のほうがオーナーよりお姉ちゃん好きじゃないか。」
言いながら顕光は封筒から一枚の紙切れと壱万円札を二枚取り出した。
「あっ、金も入ってたのか。中身を見てなかったよ。」
カウンターに置かれた二万円を俊哉はさっと取ってポケットに無造作に突っ込んだ。
…ギャラはいくらって言ってたっけ…
「おいおい、俊哉面白い事になってきたぞ。」
いつもつまらなさそうな顕光がすごく喜んでいる。
「海賊が隠した財宝の地図でも入ってたのか?ジュンヤさんは海賊の下っ端か。」
紙切れを差し出した。俊哉にはその住所は別になんということもなかった。ただそんなに遠くではないという事だけだった。
「あぁそうか。お前に話してないんだな。このまえ土産物屋のおばちゃんが来て中断してたな。」
「何のことだ。忘れたよ。」
「じゃあ、にわとり君に説明しよう。」
紙切れを裏返して白紙の方を表にして、何かを顕光が書いている。俊哉はボーと店の酒の棚を見ている。
…おばちゃんの来た日って…
…手紙の事で中断した話しって…
「おい、この地図見ろよ。」
紙の向きを変えて差し出した。
顕光がボールペンの先で示した。
「ここがうちの店で北にずうっと前の道を進んで信号を右、そこから二つ目の信号…」 「おい顕光。そんな地図は後でいいから、この前の話って何だったんだ?」
「黙って聴けよ。話はちゃんと繋がってるんだから。ここがオーナーの左門総合病院でそこから北の山の方に行く林道のような中途半端な道が有るんだ。その道をずうっと行くと山が深くなる手前に一軒のでかい屋敷があるんだ。そこがこの書類の女性の家だ。」
「うん。場所を教えてくれたのは有り難いが、話が見えてこない。」
ボールペンをベストの胸ポケットにもどして顕光は言った。薄笑いだ。
「この前店に来た女性も多分このお屋敷の娘だ。」
「何だって。そんな偶然あるわけないだろ。どうしてこの前の女性がこの屋敷の娘ってわかるんだ。何か根拠でも有るのか?」
顕光は得意そうに煙草に火を点けた。深く吸い込んだ。煙を吐き出しながらとんでもない事を言った。
「無い。俺のカンだ。」
「あっ……。」
言葉を失った。
……こいつは馬鹿か?……
「あのねえ、顕光君。君の素晴らしい才能や能力はよくわかったんだけど。ターキーのおかわりもらえますか?」
おかわりのターキーを作る様子はない。ニヤニヤと顕光は笑っている。
「それで、この前の話は思い出したか?おかわりは作ってやるけど、薄気味悪い昔話を聴いてくれよな。ちゃんと話が繋がるからさ、いや繋がるように出来ているからさ。」
*
〜俊哉が引っ越して来たのは確か中学生の時だったよな。それよりも前、小学生の時の話だ。三年か四年生ぐらいだったと思うよ。山の方まで友達だけで遊びに行けるんだから、一、二年生ということはないだろう。俺たちは学校から帰るとランドセルを玄関に放り出して、一回も靴を脱がずに遊び惚けていた。夏でも冬でも暗くなっても遊んでいた。昔は家庭用のゲームなんか無かったからな。行ったことのない場所を探し求めるように自転車で走り回ったり、時には隣の校区まで足を延ばしてケンカしたりしていた。だけどな、どうしても行きたくない場所があったんだ。いや、行っても何もない、川があるわけでもないし、広い空き地があるわけでもない、ましてや夏に兜虫が採れるわけでもない。ただ鬱蒼とした森の手前に不気味な神社のようなものが幽かに見えているだけなんだ。誰もそこに行こう、行ってみようということは言わなかった。知らぬ間にタブーになっていた。でも俺は心の片隅でいつも気になっていた、多分、みんなそうだったと思う。遊び終えてそれぞれ友達がみんな家路につく中、一人で何度もその景色が見える所まで行った。一面の田圃の中を大蛇がうねる様に伸びた道、その大蛇の鎌首から頭にかけては漆黒の森の中に飲み込まれている。沈んでいく夕日の赤と森の黒がやけに印象的で、日が暮れるまでよく見ていた。大蛇は全身から血を流しているかのように赤く染まっていた。大蛇のちょうどうねりの辺りにその屋敷はいつも漆喰の壁を赤く染めて建っていた。言い方を変えればその血塗られた屋敷を大蛇が取り巻いているとも言える様子だった。その屋敷の左奥、方角でいう北西の漆黒の闇の前にその神社らしきものがあった。どうしたらそこに辿り着けるのか、子供の俺にはわからなかった。ただ見ているだけだった。その噂を聞くまでは、
…神隠し、犬神、狐憑き、……
近所のおばちゃん達の会話をその寄り道の帰りに何回か耳にする機会があった。
「あそこの屋敷の若旦那は変な狐とか祀ったりするから大旦那も急に死んじゃって、挙げ句の果てには自分まで狂い死にしてしまってどうするんだろねぇ。」
「いやいや、狐じゃないだろ。ほら最近、野良犬がやたら多いだろ、でかいのが。あれ山犬っていうのかねぇ、あの祠に集まるらしいよ、子供でも噛まれたら大変だよねぇ。」 「子供っていえばあそこの屋敷の娘。若旦那が狂い死にした時、神隠しにあったんだってねぇ。まぁ何日か後に山で見つかったらしいけどねぇ。」
「案外、あそこの奥さんいるだろ。あの人が狐憑きなんじゃないかねぇ。細面で色白でねぇ、旦那が狂ったのも奥さんの所為じゃないかねぇ。」
「狐なんじゃないのかい。本物の。あんな女の人誰も見たこと無かったじゃないか、急に若旦那が結婚するって言い出して大変だったらしいよ。」
「じゃあ若旦那が犬神祀って、狐の嫁が怒って呪い殺し、狐の娘が犬神の怒りをかって神隠しにあったんだね。」
「あはははは、複雑だね。あたしらにはさっぱりわからないねぇ。」
俺は、恐くなった。でも、行ってみたい気持ちも高まった。今と同じ変な子供だったんだ。何故かはわからないが、それが勇気ある行動だとでも思っていたのかも知れない。
それから半年ほどして俺は行く決心をした。野犬も見かけなくなったし、日が暮れるのも遅くなってきていた。その日は友達と遊んでいても没頭出来なかった。ついにその時が訪れた。俺は大蛇の尻尾の辺りに自転車を止めてポケットの中のナイフを握り締めた。一応用心して持っていった唯一の武器。小さなナイフ。田圃の畔道に足を一歩踏み出した。草が湿っていて脛の辺りに冷たいものを感じた。二歩目を踏み出そうとした時、屋敷の方から女の子が見ていることに気がついた。距離にして百メートルぐらいだっただろうか。そのまま俺は立ち止まって女の子を見ていた。向こうもこちらを見ているようだった。
……狐の子……
……神隠し……
俺はふり払うように視線を外して足元を見ながら、一歩一歩畔道を祠に近づいていった。…早く行かないと日が暮れてしまう。…そう思って早足になっていた。
「どこに行くの?」
いきなり真後ろから女の子の声がした。俺はビクッとしたはずだ。その恥ずかしさもあったが、振り返るのは恐すぎた。そのまま立ち止まって黙っていた。
…行っちゃだめだよ…
…それ以上進んだら戻れないよ…
…見ちゃだめだよ…
背中を何かが走った。
その刹那、俺は振り返った、女の子の顔を見た。綺麗な顔。でも。恐い。微笑んでいる。目の前の女の子を無言で突き飛ばして走りだした。振り返らず。自転車に飛び乗った。 恐かった。なぜかはわからないが恐くてたまらなかった。それから俺は絶対にその場所には行かなくなった。でも、今でも血に染まる大蛇、血に染まる屋敷、女の子のほほ笑み、それらは繰り返し夢に出てくる。何度も何度も夢に出てくる。女の子。〜
*
「その女の子が、この前の女だ。」
顕光が話終えて煙草に火を点けた。俊哉はすでに飲み干したグラスを指で弄びながら黙っている。重い口を開く。
「でも、成長してるし、狐とか山犬とか、どうなんだろう?」
「俊哉、俺は女の顔を見て言ってるんじゃないんだ。あの時、お前は背中に感じたはずだ。ゾッとするモノを感じたはずだ。俺が気づいてないとでも思っていたのか?どうだ。俺のカンはまんざら根拠がないわけでもないぞ。」
顕光は俊哉のグラスを取って流しに置いた。新しいグラスを出しておかわりを作り出す。
…確かに、今思い出しても寒気がする…
「顕光、偶然だよ。偶然。そんなこと言うなよな。明日行くのに。まぁ行って見りゃはっきりするさ。」
「はっきりしていいのか?俊哉。」
*
「先生!左門先生!大変です!」
診療所の方ではなく、隣接した自宅の引き戸がけたたましく叩かれている。ガラスが割れそうな勢いだ。早朝、まだ夜は明けきっていない。寝巻のまま左門は玄関の引き戸に飛び付いた。鍵を開けるのももどかしく、開けながら表に声をかけた。
「どうしたんだ!若旦那に何かあったのか!」
引き戸を開けた。荒い息の良子が立っていた。足元を見ると裸足だ。よほどの事が起こったに違いない。左門は昨日往診した時のカバンを取りに診療所の方に行こうとした。その時良子が左門の肩を掴んだ。
「先生!早く!ハアハア…。」
良子が掴んで離さない。ハアハアと荒い吐息が洩れている。
「いや、だから薬や診察道具を取ってくるよ。診療所の方にあるから…。」
そう言っても良子は離さない。肩を掴んだ手に力が入る。
「ハアハア…もうそんなものは必要ないですから…とにかく早く。」
「いや、しかし……。」
「もう…若旦那は…死んでますから!ハアハア…早く!」
信じられない事を言って良子は走りだした。あっけにとられている左門に診療所の角から良子が叫んだ。
「早く!先生!」
「あぁ!わかった!すぐ行く!」
左門は家の中に向かって叫んだ。
「おい!警察に電話してくれ!神野さんの屋敷で死人が出た!たのむぞ!」
左門は寝巻の浴衣のまま診療所に飛び込んで、聴診器だけを首に掛けて走りだした。通りに出るとやっと夜が明けてきた。屋敷に向かって走りだす。
…間に合わなかった…
左門は走りながら考えた。しかし浮かんでくるのは長女の顔と妹に囁いた言葉だった。
…私がなんとかするから…
…なんとかしたのか?…
走る左門の頭の中に不吉なモノが渦巻いた。長女の由季子が笑みを浮かべている。
…まさか…
…そんなことは…
屋敷が見えてきた。息遣いが荒くなる。それは走っているからだけではない。想像される光景があまりにも恐ろしい。左門は思った。無事であってくれと。他の家族は無事であってくれと。それだけを考えた。
「先生!早く!」
お手伝いの良子が門の所から手招きしている。左門は門を走り抜ける時、良子に大声で叫んだ。
「どこだ!」
「庭の……。」
その声を後に聞きながら庭に走りこんだ。左門は庭を見渡して桜の大木で視線を止めた。真夏なのに桜の花が咲いていた。いつもよりも紅い、深紅の花を咲かせていた。青々とした葉に紅い花が朝陽に輝いている。
…な、何ということを…
神野家の若旦那は木の根元に倒れこんでいた。桜の木に向かって、手に日本刀を持って俯せに倒れこんでいた。首から吹き出した血飛沫が桜の葉を染め、幹を染め、辺り一面をも染めていた。首の動脈を勢い良く斬れば血が吹き出すのは、左門にとっては不思議でも何でもない、しかし、見事に染め上げられている。まるで首を斬って踊り回ったように。立ち尽くして言葉もなかった。それは、美しくさえあった。汚れているのは膝から下だけだ。辺りに草履も見られない。泥沼を走り回ったようだ。
…娘は、由季子ちゃんは?…
左門は視線を庭から廊下の方、そして母屋の方と巡らした。座り込んで頭を垂れている神野夫人がいた。その後に母親の肩越しに娘が一人見えた。左門は駆け寄ってしゃがんだ。娘と目があう。言葉はない。娘の視線は左門を通り越して桜の木に注がれている。その顔には表情らしきものは見当らない。ただ見続けている。左門は夫人の肩を両手で掴んで言った。
「奥さん!しっかりして下さい!娘さんを連れて奥に、台所に行ってください。奥さん!」
顔を上げたが夫人の目は焦点が定まっていない。半開きになった口元はまるで心神喪失を思わせた。埒があかない。
「良子さん!良子さん!」
「はい!先生!」
お手伝いの良子が門の方から走ってきた。 「娘さんを奥に連れていって下さい。それから、寝室に布団を敷いて奥さんを休ませる用意をお願いします。」
「はい。わかりました。さぁ、由美子ちゃん行くわよ。」
「ちょ、ちょっと待って下さい。もう一人の娘さんはどこに?」
良子はそういえば、という顔をして辺りを見回した。
「いません……。」
夫人が答えた。虚ろな目で左門を見た。
「何だって!奥さん!もう一人はどこに行ったんだ!」
おもわず左門は夫人の肩を激しく揺すった。夫人の髪の毛が数本、口に入った。
「あの人が…暴れだした時にはもう見当りませんでした。」
「なんだと!大変だ!」
そこに巡査が庭に入ってきた。
「左門先生!もうすぐ県警の人が来ますんで。うわぁ!えらいこっちゃ!」
桜の木の方を見て固まっている。
「おい!固まってる場合じゃないぞ!もう一人の娘さんが行方不明だ!近所も叩き起こして探させろ!早く!」
「えっ…あぁ、わかりました!」
桜の木の方を振り返りながら巡査は走っていった。名残惜しそうに。
「先生!お布団の用意が出来ました!」
左門は夫人を抱き起こし寝室に連れて行こうとした。
「さぁ、奥さん。後は警察が来てからです。とりあえず休んでください。すぐにお薬を持って来ますから…。」
「あの人は…取り憑かれて……知っていたんです。こうなるのは……」
「なにを言ってるんです!今はとりあえず、さぁ。」
夫人は譫言のように繰り返していた。
…取り憑かれて…
…何もかも知っていた…
…こうなることは…
…ごめんなさい…
*
俊哉は漆喰の塀越しに桜の木を見ていた。遠くから見ると真っ白に見えた漆喰も、近づいてみるとかなり剥がれている。
…咲いている。もうじきに満開だ…
何分間そうしていただろう。早春の微風にゆらゆらと揺れる桜の花を。ハッと気がつき自分の身なりを見なおした。どこからみても怪しくないように、久しぶりにネクタイをしめスーツを来てきた。勤めに行っていたときにあれほど煩わしく思われたスタイルだが、何か体の中まで引き締まったような気がしていた。
…早めに仕事でも探すか…
そんな気持ちも少し湧いてきていた。まず目の前の門をくぐって玄関に行き、ごめんください、と、言うことから何もかもが始まる。そして、俊哉にとってのこれからも始まる。そう思われた。
意を決して漆喰により遮断された異界に踏み込んだ。内側から見る桜の木は外側から見るほどの美しさは感じられなかった。逆光になっているのも影響しているのか、どこかが違って見えた。桜の木から徐々に視線を外し庭全体を見回した。かつては手入れの行き届いた見事な庭であったことは、素人の俊哉にも見て取れた。
…綺麗にしてあれば日本画に出てきそうな庭だな…
大きな庭石がおかれ、池もある。玄関へとつづく小道には石畳が敷かれている。その全てが苔生していて、一層旧さを醸し出している。
…詫び寂びってことかな?…
俊哉は石畳を歩きながら思っていた。どことない哀れさまで感じられた。桜の木の鮮やかな桃色が浮いていた。
…まるで囚われのお姫さまのようだ…
広い観音開きに開け放たれた玄関に辿り着いた。正面に衝立てが立てられている。俊哉には衝立ての絵は意味不明の墨による殴り書きに見えた。そんなことはもうどうでもよかった。久しぶりに営業の時のように大きな声で挨拶した。
「ごめんください。」
人の気配は無かった。そういえば門の内側に入ってからも廃屋を探索するような気分で歩いていた。過去の世界を旅するように。
「ごめんください。誰か居られませんか?」
辺りを見回してみた右側の桜の木の奥には離れがある。離れの右端の部屋の障子は開けられている。その隣は固く雨戸までが閉められている。視線を左にずらしていくと渡り廊下が母屋の後に回り込んでいる。母屋の左側は多分母屋と繋がっているのだろう、渡り廊下は見えない。母屋の向こう側には倉のような高い建物が見えている。
…二百万円ぐらい台所にでも転がってそうな家だ。何にもあんなちんぴらの所で借りなくても…
後に気配を感じた。
背中に視線を感じた。
俊哉は……。
振り返れない。
衝立てしか見えない。
「わたくしどもの家に何かご用でしょうか?」
優しいが刺のある言葉が発せられた。
気を取り直して俊哉は振り返った。
…あっ!この女性は、いや、年令があわない、でも、似ている。…
「どちら様でしょうか?」
唖然としている俊哉に容赦の無い視線と言葉が注がれた。
「あ、あのお嬢様はご在宅でしょうか?」 「どちら様でしょうか、とお伺いしているのですけど。」
「あっ、申し遅れました。僕はお嬢さんの同級生の……。」
「帰ってください。」
話の途中で切り返された。冷たく。俊哉の横をスッと通り過ぎていく。何だか不思議な香りが鼻を掠めた。
…何の匂いだろう、お香のような…
玄関に入っていく後ろ姿に見とれていた。年配の女性の身のこなしとは思えない、いや、ある程度の歳を重ねたからこその色気かもしれない。口を半開きにしたまま俊哉はその女性のうなじを見ていた。和服の襟刳りからのぞく白いうなじを見ていた。
「あっ!あの、すいません。ちょっと待ってください。」
和服の女性は草履を脱いで玄関に上がった。そして意味不明な殴り書きの衝立ての前で振り返った。
「お話しすることは何もありません。おとついの電話もあなただったのですね。いたずらにもほどがあります。家まで押し掛けて来るなんて、これ以上ここに居られるなら警察に電話しますよ。」
そう言って衝立ての後に女性はまわりこんだ。フッと姿を消すように奥に消えた。
「あっ……。」
俊哉は衝立てを見てため息をついた。何の進展も見られない、役立たずな取り立て屋まるだしだ。しかたがないので踵を返して石畳を歩いて外に向かった。
…もしかしたら娘なんか存在しないのかも、でもジュンヤさんは妹らしき女の人が電話にでたと言っていたはずだが。妹とも姉とも指定する前にいたずらと決め付けられた。どういうことだ。…
門を潜って外界に出た。俊哉はもう一度振り返って桜の木を見た。外から見るとやはり一段と綺麗に見えた。
…あっ、そういえばいわくつきの祠が裏にあるんだった。…
塀の外を少し歩いて裏山を覗いてみた。山までは少し距離がありそうだ。日の光に照らされて緑が映えている。その手前に少しだけ赤い屋根のようなものが見えている。多分そこが犬神の祠に違いない。しかし、そこからは確認出来ない。俊哉は近づく手段を探す為に辺りを見た。田植えはされていないので田圃を歩いていけば一直線に辿り着くことができそうなのだが、そこまでしなくてもいいような気もした。確かに顕光が言うようにまるで迷路みたいに畔道が這っている。
…これは田植えした後ならややこしいなぁ。夜だと田圃にはまっちゃうな。…
その時、俊哉の視界に異物が映った。緑の山、去年の秋に刈り入れられて緑の雑草が生えている水田。その全面緑の景色の中に薄汚れた異物が映った。
…ん、遠いけど、人かな?…
少しづつこちらに近づいて来る。だんだん人らしくなってきた。ふわふわと、しかし正確に迷路の答えを説き明かすように、畔道を歩いている。蛇行しながらその異物は漂っている。
…そうだ、あの人に聞いてみよう。…
俊哉はそう思って待つことにした。アスファルトの道に座り込んだ。…のどかな春の日…そんなことを感じるのは久しぶりだった。手を後について空を見上げた。薄い水色…そんな表現がぴったりな気持ちの良い空だった。草の匂い。俊哉はこのまま寝転んでしまいたいと思った。子供の頃なら迷わず寝転んでいた。しかし大人には出来ない。
…香織とこんな春の日に桜を見に行ったのは何時だっただろう。大昔のようだ。香織がいなくなってから、俺は一緒にいなくなっていたのかもしれないな。前進することを拒否して立ち止まっていた。こんな空があることも忘れていた。こんな草の匂いも忘れていた。俺は生きているのに。やはりあの手紙はいたずらに違いない。香織は俺が立ち止まる事なんか望んじゃいない。香織が生きてたら今の俺を見てなんて言うだろう。…
「何をしておられるのかな?」
あわてて視線を空からもどすと目の前に人が立っていた。髪の毛の短い、一見老人のような男の人だ。服装は薄汚れている。俊哉は手に付いた砂を払いながら立ち上がった。
「あの。祠に行ってきたんですか?」
老人はニコニコ微笑んだままうなずいた。 「あなたは、祠をご存じなのかな?」
老人が言った。
「いや、友達に聞いただけなんですけど。なんだか昔、犬神とか狐とか天狗とか…。」 「ほっほっほ。面白いことを言う若い人ですな。狐狸妖怪の類い、魑魅魍魎などはどこにでもいるでしょうなぁ。」
「えっ、どこにでもいるんですか?」
「そう。どこにでもいる。しかし、いない。そういうものです。」
「はぁ。」
…なんだボケたじいさんだったのか…
「あの、そんなことよりあのお屋敷の事聞きたいんですけど。」
「どんなことかな?拙僧に解ることなら、答えられる事なら答えよう。」
「あっ、お坊さんだったんですか?」
「いやいや、坊主ということもない。ただ自分の事をそう呼んでいるだけだが、気に障るのならば何とでも呼びますが、何がいいかのう。」
…なんだボケた坊主だったのか…
「いやそのままで結構です。あのお屋敷にお嬢さんはいますかねぇ?」
「そうじゃなぁ、おるようじゃが。」
「あの。二人いますか?」
「うーん。二人といえば二人。一人といえば一人かのう。」
老人は微笑んでいる。俊哉は口を開けたままかたまっている。のどかな春の景色に溶け込んでいる。
…なんだ、わけがわからない…
「あっ、ありがとうございました。じゃ失礼します。」
「うむ。拙僧は眼が悪いので、見ようと思えば見えるのじゃが、見ようとせぬと何も見えぬからのう。ただの世捨て爺の戯言じゃと思うてゆるしてくだされ。」
小さく頭を下げて俊哉は向きを変えた。汚い身なりに不精髭なのに不思議と清潔に見える変な爺さんだった。俊哉はその時に気がつくべきであった。その人物に直接は接触がなくとも……。
春の抜けるような青空に目も心も奪われて何も考えてはいなかった。遠くの空で鳥の鳴き声が聞こえた。何ていう名の鳥かはわからないが、春先によく聞く鳴き声だった。俊哉はジュンヤに受けた仕事の事も、異界からの招待状の事も忘れて心地好い風を体じゅうに感じていた。
…香織。俺は生きていくよ。お前はいないけれどそれが一番いい事だとおもうから。忘れはしないけど、立ち止まるのももう止めた。前に進むよ。いいんだよなこれで。…
…それでいいのよ俊哉くん。残された人が立ち止まることを望んで死んだ人なんていないのよ。…
俊哉には香織の異界からの答えが聞こえたような気がした。聴こうと思えば聴ける。それは自分自身の中から聞こえるものなのかもしれない。
*
「お兄ちゃん今日はこざっぱりしてるねぇ。デートでも行ってきたのかねぇ。」
土産物屋のおばちゃんはニコニコしながら言って、キャメルのソフトパックを二つ渡した。
「いやいや、違いますよ。仕事なんですよ仕事。」
「へぇ、また仕事始めたのかい。男の人は仕事が大事だからねぇ。」
「あれ。おばちゃんに仕事してないって言ってたっけ?」
「そんなこと聞かなくっても見ればわかるよ、誰でもねぇ。仕事してる人が不精髭で髪の毛ボサボサってことはないだろうねぇ。」 …まてよ。手紙の、招待状の内容によく似ているぞ。もしや…
「おばちゃん他に何か見ただけでわかることないかな?」
「あらあら。変なこと聞くんだねぇ。そうだねぇ、彼女はいないようだねぇ、それと、今日はいい日だったようだねぇ。」
「そう。そんなもんか。」
「なにがそんなもんなんだ、河童の俊哉くん!例のモノは持って来たかい?」
突然後から左門オーナーの大声がした。俊哉とは一メートルも離れてないのに大声だった。驚いて俊哉は飛び退いた。いつものように青いサングラス、黒地に白のピンストライプのスーツ、黒いコート、ノーネクタイ、髪型はオールバック。医者には見えない。
土産物屋のおばちゃんはニコニコしたままだった。おばちゃんには最初から左門の姿が見えていたのだからあたりまえだ。
「若先生こんばんわ。あいかわらず悪戯好きだねぇ。」
「良子さんもお元気そうでなによりです。そのせつはお世話になりました。」
「知り合いだったんですか?」
「そうだよ。河童にはわからない人間同志の関係があるんだよ。あっ!そうだ。」
またもや左門の声は木霊が帰ってきそうな大声だった。
「あの。そんなに大声出さなくても聞こえますよ、こんなに近くにいるんだから。」
「河童の俊哉君。今日行った仕事の家あるだろ。馬鹿でかい家の神野さん。あそこでお手伝いさんをしてたんだよ。昔に。」
慌てているのか文法がめちゃめちゃになっている。
「えっ!左門オーナーがですか?」
「なんで生まれついてずーと金持ちのおぼっちゃまの僕がそんな化物屋敷でお手伝いしなけりゃいけないんだ!この良子さんがだよ、このおばちゃんがだ!」
「若先生、化物屋敷はひどいねぇ。昔はちゃあーんとした材木屋さんだったんだからねぇ。あんなことになるとはねぇ。」
「ああ、これは失礼。この河童がとんでもないこと言うもんで。」
「えっ、材木商で、あんなこと。何なんですか?あっ!それよりあの神野さんのお宅には娘さんは二人いますか?」
おばちゃんはニコニコしたまま言った。
「えぇ、私が働いていた時には二人おられましたねぇ、由季ちゃんと由美ちゃんがね。そのあと嫁がれたりしてるのかどうかはわかりませんがねぇ。突然辞めさせられましたからねぇ。あの子達もちょうどお兄ちゃんぐらいじゃないのかねぇ。」
「そうですか。それで……。」
話している俊哉のズボンのベルトを持って左門が引っ張った。
「早く店に入ろうぜ。見せてくれよ。変な手紙を。」
俊哉はそのまま引き摺られるように隣のバーに連れて行かれた。左門はおばちゃんに気を遣ったわけではなく、ただ自分が早く招待状を見たかっただけのようだ。なぜなら入るなり俊哉をボディチェックしだした。胸のポケットに封筒を見つけて嬉しそうに開けた。 「なんだこりゃ、化物屋敷の住所その他かよ!どこに隠してるんだ変な手紙!」
「な、何を怒ってるんですか。大人気ないなぁ。ここにありますよ。」
ジーンズの後ポケットから取り出した。それを左門は引ったくって封筒を開けた。顕光はカウンターの中で黙ってグラスを磨いている。オーナーの奇行には慣れているようだ。 「なんだ?つまらんこんなものは死んだ人間からの手紙じゃない!」
そう言って左門は手紙をポイっとカウンターに捨てた。その時ドアが開いた。
「トシちゃん来てるか?ゲッ!兄貴何してはるんですか?」
オーナーの左門は新しい遊びを見つけた子供のような顔になった。
「なんや!純也!俺がここにおったらなんか都合悪いんか?こそこそと河童といろいろ嗅ぎ回りやがって。なんで俺もまぜてくれへんねん。それからなぁ、ヤクザのお前が俺のこと兄貴て言うな!誤解されるやろ。」
「あぁはい。トシちゃん兄貴に言うたらあかんやん。こういうことになるから。」
「なんや!純也!もう一回言うてみ。昔みたいにえらい目にあわしたろか!」
そのやりとりを俊哉は呆然と見ていた。普段は関西弁を使わない左門が関西弁で喋っていることよりも、関西弁を使う左門がハマリ過ぎているのが驚きだった。顕光はなにくわぬ顔でグラスを磨き続けている。この二人はいつもこうなのかもしれない。顕光が重い口を開いた。
「まぁ、左門探偵団のみなさん。おすわり下さい。埃が立ちますので。」
「なんだよ顕光。左門探偵団って。そんな怪しい団体に俺は所属した憶えはないぞ。」 俊哉は言いながら席についた。
「いいぞ!それ!俺が団長の左門だ。わはははは!」
大人気ない左門が席につく。
「二個も団体掛け持ちしてもええねんやろか?社長に聞いてみよ、明日。」
純也が席についた。
「まずはみなさん、何か飲んで下さい。ここは一応バーなので。俊哉はターキー、オーナーはギネス、純也さんは何を?」
「あぁ俺はなぁ……。」
「こいつは焼酎でいいんだよ!尿酸値も高いんだから、糖尿で痛風なんだよ!病気持ちのヤクザ。そうやお前は左門探偵団の特攻隊長でええやろ。」
「かしこまりました。すぐにお作りしますので、どうぞもめて下さい。」
「また特攻隊長か…、昔から危ない事は全部俺に押付けるねんから。ノイローゼになりそうや、この人とつるんでたら。」
「なんやて!ノイローゼになるってか?なったらええやないか。俺の専門分野やからなぁ。治療のついでに洗脳もしといたるわ、洗脳の分は保険使えへんから高いで。」
左門は純也の頭を握り拳でぐりぐりとこつき回した。純也は正面を向いたまま無視している。頭の感覚が無くなったように。
「あの…お取り込み中のところ申し訳ないんですけど…オーナー。さっきの手紙が偽物と思ったのはなぜですか。」
俊哉が質問した。真ん中に座った左門は俊哉の方に向き直った。
「なぜって、河童の俊哉君。あんなモノは誰でも書けるし、それに差出人もわかったよ。なにしろ俺は産まれもっての金持ちで天才だからね。」
「えっ!差出人もわかったんですか。なぜそんなことがわかるんですか?」
「なんだ。面倒臭い生物だなこれは、説明してやるからさっきの馬鹿封筒出せよ。」
俊哉はカウンターの上を指さして言った。 「オーナーの目の前にありますけど。」
左門が投げ出したままになっていた。
「あー知ってたよ、知ってた。わざとだよ君の観察力をためしたんだ。わはは…。」
荒っぽく手紙を広げた。そして左門は…
「えーと…。」
「顕ちゃん。焼酎おかわり。」
「純也!お前も酒ばっかり飲んでないで話に参加しろよ!自分で払えよ。」
なにかボソボソ純也は言っていたが、何事もなかったように左門は話を始めた。
「まず外見のところだけど、毛が伸びたとか髭を剃ってないとか痩せたの部分は見たままだ。俊哉君自身も細かい所まではわからないはずだ。三センチとか三日とか言われてもな。だいいち君の部屋に体重計などという生活に無用な物があるのか?」
「無いです。」
「じゃあなぜ二キロと確信を持てたんだ。それにそんな髭面で髪の毛ボサボサのヤツに彼女がいるわけないし、仕事してるわけもないじゃないか。純也みたいにヤクザな仕事でも一応さっぱりしてるのに。」
「兄貴、一応ってなんですか。キッチリとしてますやん。ビシッと。」
純也の反論は却下された。
「確かにそう言われればそうですね。でも冷蔵庫の中とかターキーのボトルとか…。」 「あのねぇ、自分でも考えないと脳味噌が腐っちゃうよ。河童でも脳味噌入ってるんでしょ。まさか河童味噌とか入ってるの、蟹味噌みたいに。」
「蟹味噌ってうまいなぁ。あれで日本酒の燗したやつキューっと、あー美味そう。」
純也の発言は却下された。
「いや味噌はいいんですけど。」
「俊哉君がボサボサの髭ヅラっていうのは見たからわかるんだよ、差出人が。その時にターキー飲んでたんじゃないの。わざわざターキーとか言うヤツってターキー以外はバーボンじゃ無いとか言うヤツ多いんだよ。酒なんか酔っ払ったら一緒なのに。そういうヤツは家でも飲んでるの、カッコイイとか思いながら。」
「いや、別にカッコイイとか……。」
「カッコイイのか?そのタンキンとかいうやつは。」
「黙って聞けよ。純也もな。あとは質問ばっかりだ。俊哉君が昔の彼女に言ったセリフなんかは俊哉君自身も憶えてないはずだよ、細かく憶えてるのか?」
「いや、なんとなく……。」
「だろー。そういうこと言いそうなヤツに見えたんだよ。」
「じゃあ、名前はなぜ……。」
「それは一番簡単だよ。顕光が河童の名前を呼んだからだよ。だから差出人は二三日前に来た細身で髪の長い女だよ。」
「あっ……でも男の人が持って来たって土産物屋のおばちゃんが、目の悪い…あっ!」 「ああ、ああ、うるさいよ。そんなもの人に頼めばいいだろ。うん?なんだ。」
俊哉は違うことに気がついた。昼間にあった老人のことだ。
……拙僧は目が悪いので……見ようと思えば見えるのだが……
「顕ちゃん。焼酎おかわり。」
「純也!酒ばっかり飲んで。お前もなんか話しあるんやろ。大体の事は聞いてるけど、その屋敷て化物屋敷の事やろ。俺もいろいろ調べといたで。調査料ちょうだい…。」
「兄貴、話し筒抜けですやん。トシちゃんしゃべりやなぁ。」
俊哉はまた馬鹿みたいに呆然としている。 「いや、俊哉じゃないですよ。僕がオーナーに報告しておきました。」
顕光が言った。
「純也が悪いことせえへんように見張ってんのや!なんか気に入らんか!」
「いや気に入らんことないですけど、悪いことっていうより楽しいことでしょ。」
「そうや!わはははは。お前よその店で飲んでも俺のとこに報告入るようになってんねん。この街は俺のもんや!わははは。」
「コワー。ヤクザより非道い。俺は嫁はんも子供もおるのに、いつまでこの人にいじくりまわされるんやろ。」
「あほ!その嫁はんもお前の体のこと心配してるから、俺が監視してんねんやろ。」
「それよりも何かわかったんですか?」
グラスを見つめて考え込んでいる俊哉にかわって顕光が言った。オーナーの左門は内ポケットから薄汚れた古いノートを取り出した。黴臭い匂いが漂った。さながら俊哉の手紙は霊界からの招待状、そのノートは過去からの招待状といってもよさそうだ。それを左門はポンとカウンターに放り出した。
「この古いノートは?」
ノートは二冊、一冊の表紙には(四十六)、もう一冊には(五十二)と書いてある。
「それは俺の親父の覚え書きだ。まあ日記みたいな物だな。」
左門がニヤニヤ笑いながら言った。
「汚い字やなぁ。何て書いてあるんか俺には読めへんわ。」
純也が表紙を見て言った。
「その通り!読むのは大変だった。」
左門が誇らしげに言った。そんなことを誇らしげに言われても、という雰囲気が顕光にも純也にも、そして考え込んでいた俊哉にまでも浮かんだ。
「だから本人に聞いたんだ。」
「えっ!オーナーのお父さんてまだ生きてるんですか?」
「あの頑固親父まだ生きとったんかいな!憎まれっ子世に憚るってほんまやねんな。」 「純也。そんなこと言うてたら親父に言うぞ。歳取っても荒っぽいとこはいっこも治ってへんぞ。毎日猟銃磨いとるぞ。」
「兄貴。すんません。何も言わんといて下さい。あのおっさんに何回殴られたか…。」 「それでこの(四十六)と(五十二)というタイトルはなんですか?」
「昭和のことらしいな。俺は最初に神野という名前を聞いた時、昔親父に聞いたことあると思って古いカルテを調べたんだが何も無かった。」
「何も無かったというのは神野家についてのカルテなどの手掛かりがなかったんですか。」
「いいや違う。昭和五十五年以前のカルテが一枚も無い。」
「どういうことですか?なにか事件とかあったんですか、その頃に。」
「顕ちゃん。焼酎おかわり。」
純也はひたすら酒を飲む。
「それも違う。俺が捨てたんだ。」
「………。」
「いや。その頃に病院を新しく総合病院にして建て直したんだ。その時に俺も働く事になってな、古いカルテが馬鹿ほどあったから捨ててやったんだ。」
「そんな感じでいいんですか?僕は医者じゃないからわからないけど。」
「いや。こっぴどく怒鳴られた。親父にな。それで親父が言ったんだ『もうわしは知らん。仕事はせんっ!』てな。それで俺が病院長にならされたんだ。」
「あの……。」
黙っていた俊哉が口を開いた。
「それでは話しが進まないので、手短に要点のみを聞きたいんですけど。」
「そうや。兄貴。俺も仕事がらみやったの忘れてた。要点言うて下さい。」
「わかった。この(四十六)は神野修造、材木屋の先代いわゆる商売を起こした男が死んだ年。そしてこの(五十二)が純也のところから金を借りた女性の父親、つまり修造の息子神野光一が死んだ年の日記だ。」
「オーナー。そんな昔のまして先代なんか関係あるんですか?」
「俺もそう思ったんだが、親父いわく『関係あるから持って行け!』ということで読みにくい殴り書きを二冊も読まされた。そのノートにはどうでもいいことまでいっぱい書いてある。その中から親切で金持ちの俺は要点を書き出しておいた。」
二枚のレポート用紙が左門のポケットから取り出された。最初からそれを出せよ、と全員が思った。
「そこには何が書いてあったんですか?」 「兄貴!どういうことに?」
「教えない。」
左門はいたずらっ子のようにレポート用紙を隠した。
「あの、兄貴。遊んでるんじゃないんですから…。」
左門は残った酒を一気に飲んで立ち上がった。
「じゃあ、左門探偵団出動!」
そう言って出口の方に歩きだした。俊哉と純也はあわてて残りの酒を飲んで立ち上がった。顕光はニヤニヤとカウンターの中から言った。
「いってらっしゃいませ。俊哉も純也さんもオーナーのことよろしく。」
しかたなく二人はオーナー左門について行くことになった。というより最初は関係のなかった左門がなぜかキーを握っている。
外に出た。桜が満開だ。
……香織、綺麗に咲いてるよ。……
左門は黒いコートを翻して歩いている。純也と俊哉は小走りで追い付いた。桜の花びらがひらひらと街灯に照らしだされている。
「兄貴。ヤクザ映画のラストシーンみたいやねぇ。」
肩をいからせて純也が言った。
「なんでヤクザやねん。俺は医者やて言うてるやろ。それにさっきの飲み代、お前は払とけよ。飲み過ぎや。」
「あの。オーナーどこに行くんですか?」 俊哉が言った。
「うん。化物屋敷だ。」
「えっ!こんな夜に行くんですか。迷惑じゃないでしょうか……。」
「しかたないだろ。昼間行っても会えないんだから。それに俺が行きたい時が行く時なんだよ。わかった?」
「はぁ。」
「そやそや。金返さへんやつが悪いねん。団長の言う通り!」
奇妙な三人は一路化物屋敷へと向かった。
*
何も見えない。
いや、見えている。
何も聞こえない。
いや、聞こえている。
何も触れない。
いや、触れる。
事実を受け入れろ。
己の感覚を信じろ。
脳、神経、目、耳、舌、皮膚。
指、鼻、足、経験、今、過去。
否定するな。
己を信じろ。
五感を研ぎ澄ます必要は無い。
ただ、 目の前を信じろ。
聞こえたものを信じろ。
触ったものを信じろ。
感じたものを信じろ。
桜は咲いているか……。
*
月明かりを浴びて大蛇がぬらぬら光っている。黒く鱗を光らせる様にアスファルトが反射している。大蛇の尾の手前で左門は車を止めた。大蛇の鎌首は漆黒の山に飲み込まれている。昼間来た時とまったく印象が変わっている。俊哉はそう感じた。早春ののどかな田園風景は消え去っていた。まるで地獄へとつづく道のような、踏み入れると抜け出せない印象を受ける。闇は時として人に在らぬものを見せたり、聞こえぬものを聞こえさせたりする。それら幻覚、幻聴と呼ばれるものはそれぞれの脳のいたずら、もしくは解析ミスと思われる。この科学万能の世の中にあって、こと脳と宇宙に関してはわからないこと、発見されていないことは数多にある。
星のきらめきさえ何万年も前の光だということなど、私たち一般人には確認しようがない。地球が回っていることさえも、確認は出来ない。
「あの……オーナー。」
「なんだ。どうかしたのか。」
車のドアを乱暴に蹴り開けながら左門は言った。ガキッと激しい音がした。俊哉も反対側のドアを開けて外に出た。山に近くなった分寒さが増したようだ。桜の咲く季節とは思えない。
「いつもこの車ですか?」
「馬鹿野郎。これは代車だよ。いつもはベンツだよ600。」
「なのに代車が軽トラなんですか?」
「車屋が友達なんだよ。それで軽トラしかないって言うからしかたなくな。まぁ車なんて基本的には足だからな。」
「はぁ……。」
「っていうか!なんでわしが荷台に乗らなあかんねん!」
軽トラックの荷台で純也が震えながら叫んだ。寒そうだ。
「はよ降りてこい。一番降りやすいとこに座ってるくせに。バイクよりましやろ。」
左門はなにくわぬ顔だ。純也はサブー、と言いながら飛び降りた。純也は車の前に広がっている景色を見た。
「うわー。恐そうなとこ。いややなぁ。」 「行くぞ。純也も借金回収せんなあかんねんやろ。」
左門は歩きだした。二人も後につづく。
「あーあ。せっかくタダ酒飲んだのに酔い醒めてしもたわ。終わったら飲み直しせんなあかんなぁ、なぁトシちゃん。」
「そうやなぁ。回収した金でパァーっとお姉ちゃんのいるとこ行こか。」
「兄貴。それはちょっと…。会社の金ですし…。持って帰らんと給料もらえませんやん。嫁も子供もおるのに。」
「子供さんおいくつなんですか?」
「今年中二と小学五年。二人とも女やねん。この小学五年になる方の娘がな……」
「でかい桜の木があるな。あの桜だな。」 左門は純也の話を聞いていない。俊哉は左門の言ったセリフが気になった。
「あの桜、というのは?」
「ん、桜の木っていうのは昔からいろいろいわれがあったりするんだ。誰の小説か忘れたけど…桜の木の根元には死体が埋まってる…とかな。実際に処刑場跡地なんかには綺麗な桜が咲くんだよ。墓場の桜も綺麗だぞ。栄養が行き届いてるって感じがするよ。人間なんか死んだら肥料になるんだ。生きもの全部だけどな。死んで花実が咲くものかっていうセリフがあるけど、咲くんだなこれが。」
「トシちゃん。俺の話聞いてんの?だから下の娘がな、こう言うのよ俺に…パパ。あみが大きくなったら……」
「着いたぞ。」
白く浮き上がる漆喰に囲まれた屋敷の前に着いた。侵入を拒む門はしっかりと閉じられている。桜の木だけが唯一外界との繋がりを保っている。夜に見ると不気味さ以外の何も感じない。俊哉は怯えている。純也は不貞腐れている。
…昼間とは違う…
…何か別のモノが棲んでいる…
いきなり左門が大声を張り上げた。
「こんばんは!」
普通でも声が大きいのに大声を出したものだから横にいた俊哉達は耳が痛くなった。
「誰かいませんか!」
またもや耳をつんざく大声。門の内側で人の気配がした。何かがちゃがちゃやっているようだ。
「そんなアホみたいに大きい声出さんでもピンポンついてますやんか。」
小声で純也が言って指差した。確かに表札の下に付いている。昼間来た俊哉も知らなかった。純也が一歩進んで呼び鈴を押すと同時に門の小窓が開いた。
ブー、と奥の方で呼び鈴が鳴っている。まるでクイズのはずれのように。小窓から鋭い目が覗いている。呼び鈴を押した純也とは目と鼻の先だ。
「何度も呼ばれなくてもわかってます。それよりどちら様でしょうか?」
「わたくし左門総合病院の二代目病院長をしております左門馨という者ですが、こちらに控えている者どもは私の秘書とその友人です。こんな夜分遅くの訪問はご迷惑かと思ったのですが、なにぶん、一刻を争う事なので失礼を承知でまかり越しました。なにとぞお許しを。」
一気にまくしたてた。何を言いたいのかさっぱり理解出来ないが、相手の夫人はなんだか目元がほころんでいるようだ。一度門の小窓が閉じられて、門全体が開けられた。あいかわらず小綺麗な夫人が立っていた。昼間に俊哉が来た時との違いは着物の柄と夫人の顔に浮かんだ表情だけだった。冷たい表情に今は微かな頬笑みが浮かんでいる。
「失礼いたします。父の事はご存じだとは思うのですが、初にお目にかかります。」
左門は軽くお辞儀をした。後に控える秘書と友人もつられてお辞儀をする。
「こちらこそ。以前お父さまにはたいへんお世話になりました。御存命中に一度お礼に伺わせていただこうと思っておりましたが、色々と立て込んでおりまして。」
「あの…父は生きておりますが。」
夫人は口元を手で隠して驚いた。
「も、申し訳ございません。二代目という事なのでてっきり……さぁどうぞお入り下さい。何もございませんが立ち話もなんですので、あら。この方は昼間に来られた方じゃないですか?」
…まずい。同級生と言っている。…
「おや。おかしいですねぇ。この者が私の秘書でして。先程、私共々東京の学会から帰ってきたばかりなのですが。よく似ているだけではないのでしょうか?人間の視力や記憶というものは案外あてにならないものなのですよ。一人しかいない者が二人いるように感じたり、または過去にあった事に蓋をしている間に本当にそんな事実は無かったように感じたりするものです。」
夫人の表情が咄嗟に曇った。何か思い当るのか……。兎も角と、中に案内された。左門は嘘をついたのにその堂々とした態度には驚いた。純也をも騙されそうになった。
「トシちゃんほんまに昼間に来たんか?」 小声で俊哉に耳打ちした。俊哉は黙って人差し指を口にあてた。三人は暗い庭を通って玄関で靴を脱いだ。荒れ果てた庭は夜の暗さにごまかされてそれほどひどくは見えなかった。ただ昼間に俊哉が来た時に開け放たれていた離れの一室には灯りが点いている。そして、その隣の雨戸が閉められていた部屋からも微かな灯りが漏れている。宵闇の中でしか確認出来ないぐらいの薄い灯りだ。そんなことを気にしていてもしかたないので、すでに廊下の奥に案内された二人に追い着こうと足早に衝立てを避けて進んだ。相変わらず何が書いてあるのかわからない。磨き上げられた廊下がつづいている。
「おい。君。こっちだ。」
衝立てのすぐ右手の座敷から左門の横柄な声がした。手招きまでしている。しっかりと上座に座って。夫人と純也の視線が俊哉に向けられていた。
「本当に役立たずな秘書でして、お恥ずかしい。わはははは。」
いえいえと、夫人は微かに笑って立ち上がり奥の方に消えていった。
「お構い無く!」と左門が大声を出した。 「ひどいですよオーナー。役立たずの秘書なんて。」
「きみきみ、病院長と呼びなさい。オーナーなどと金の亡者のような呼び方は私にはふさわしくない。」
「はぁ……。」
「兄貴。これからどうなるんです?」
「君もねぇそのしゃべり方なんとかならないのかね。品が無さすぎるよ。」
何かになりきっているようだ。
「はぁ。せやけどねぇここらへんは関西ですし。大阪弁が普通ですやん。なんでみんな東京弁でしゃべるんですか?」
「僕はもともと神奈川生まれで引っ越してきたのは中学に上がる時ですし、その後仕事で関東の方に行ってましたから。」
「せやなぁ、トシちゃんはまあ分かるとしてやな。兄貴は?」
「うん。カッコよさそうだから。」
その時障子の外から失礼します、という声がした。スッと障子が開いて夫人がお茶とお茶菓子をお盆に載せて現れた。軽やかなそぶりで各人の前にお茶を並べていく。並べ終えて夫人は座敷の端に正座した。
*
真夏の探索は東の空が白んできても継続されていた。一昼夜におよぶ山狩りによる疲労で限界にきていた事も手伝って、口々に語られる神野光一についての話は辛辣な悪口や死人に鞭打つような言葉だった。
「先代の死に方も変だと思わんか?」
「おうおう、ありゃ光一が毒でも一服盛って殺したんじゃろ。先代はあの変な社か祠かにえらい反対しとったからの。」
「先代はええ人やったのにのう。」
「夜が明けてきよった。今日も田圃に出なあかんのに…。」
人々は誰からともなく畔道に座り込んだ。彼らにとっては迷惑でしかなかった。先代の神野修造の為ならいざ知らず、昨日死んだ光一は近所づきあいはおろか、まるで何かに取り憑かれたように他人を避けていた。そのころには一時使用人ではなく社員を多数かかえ、近畿から中部地方一帯の主要都市に支店を持つような材木商として成功した光一はなかった。金が入れば入るほど他人を近づけず、例の祠に篭もるようになった。夜といわず昼といわず祠の中からは不気味な呪文のような言葉が低く漏れていた。時には気が狂ったように大きな声で人の名前を叫んだり、「あいつの所為か!」などと聞き取れた。家族さえも遠ざけている狂人となっていた。近在の田畑に野良仕事に来る人々も何度かやつれ果てた光一を見かけるようになっていた。頬は刮げ取られ眼光だけが異様にギラついている顔に鬼を想起させた。
そんな人物に会社をつづけられる道理はなかった。初めの頃は光一の夫人なり会社の重役達が社長の状態を隠して経営を続けた。しかし、隠し通せるはずもなく、というより重役達は自分の利益に走った。故意に噂を振り撒いた。三流の週刊誌に匿名で掲載されている間はまだ良かったが、実名で叩かれだしたらもう夫人の手には負えなかった。重役達は自ら種を撒いておいて、会社を残すためには社長解任しかないのです。と夫人に詰め寄った。「まぁ奥さんも収入が無くなっては困るでしょうから、会長というかそういう形にして生活に困らない程度のお金は会社から出させて頂きますが、それでなんとか。」などという話もあり、ひどい役員などは「解任という事になるとビタ一文出ませんよ。うまい話がある間に乗っておかないと。病人かかえて生活しなきゃならんのですから。」夫人は怒りよりも苦しみよりも、ただ、楽になりたかった。誰の話を聞いても、仮にも会社を成功に導いた神野光一に対する感謝の気持ちを持っている人はいなかった。娘が可愛がっている子犬が庭でケンケン鳴いていた。人間のいやらしさ、汚らしさに辟易していた。
…あの人がいてくれたら…
夫人は光一に相談もせずに会社および会社の所有する財産を譲渡する書類に光一の印をついた。彼女には財産など要らなかった。最初からそんなものは求めてはいなかった。求めていたのは唯一つだけだった。
…君は夜の仕事に向いてないよ。うちの店、材木屋だけどそこで働かないか?ていうか分かりにくいかもしれないけど、口説いてるんだ、一緒に住もうよ、だめかな?…
彼女はその時ほど幸せを感じたことはなかった。ずっと一緒にいたいと思った。仕事中なのに涙があふれそうになった。小さな頃から地元では村八分のような扱いを受け、友達という友達もおらず、学校を出ると同時に追われるように大阪に出てきた。就職先は小さな縫製工場だった。朝から晩まで働いてもロクな給料は貰えなかった。もともと容姿は良いほうなので男がらみの嫌な目になんどもあった。会社には居られなくなった。でも、帰る所はない。彼女は寮のあるキャバレーにホステスとして働く事になった。流されっぱなしの人生だった。しかし、光一が流れから救い出してくれた。その時はそう思った。
…でも私の所為…
会社からの捨て扶持での生活が始まっても光一は異界から戻ってこなかった。それから程なくして事は起こった。
光一は本当にいなくなってしまった。
*
「失礼ですが、奥様は四国の高知県の出身ではないでしょうか?」
唐突に左門が言った。何の繋がりがあるのか俊哉や純也にはまったく理解出来ない。夫人は表情を変える事なく正当な、俊哉達も思っていた事を言った。
「あの、そのことが今回の一刻を争うお話しと関係あるのでしょうか?」
「あるからお伺いしているのです。では質問を変えましょう。亡きご主人、神野光一氏が祠のような掘っ立て小屋を建てられた時に犬が行方不明になりませんでしたか?」
「ちょっと、ちょっと、オーナーそんな質問は関係無いんじゃないですか?」
「君は黙ってろ。大事なことなんだ。奥さん、それでは神野光一氏が自殺された時に長女の由紀子さんが行方不明になられて、近在の人たちによる山狩りが行なわれましたが、発見者は誰で、発見場所はどこですか?」
夫人は頭を垂れて聴いていた。
純也は茶菓子を食べつつ茶を啜っている。 「お嬢さんはご在宅ですか?」
左門が言い終わると同時に襖が勢い良く開けられた。そこには髪の長い女性が立っていた。俊哉がバーで見た女性だった。
「おかあさんに失礼な事言わないで!」
「おねえちゃん!金借りに……。」
「よせ、純也。正確にはこの女性じゃないんだ。由美子さんですね。ちょうど良かったというか、おかあさんにとっては良くなかった。」
「由美子。部屋に戻ってなさい。」
夫人が毅然とした態度で言った。
「いやよ。私も一緒にここにいるわ。」
「部屋に戻って下さい。あなたにはこれからの話はハード過ぎます。あらためて説明なり治療をさせていただきますので。」
左門が口を挟んだ。夫人は大きな声を出した。さっきよりも毅然とした態度で。
「もどりなさい!」
純也も俊哉もビクッとした。由美子も襖をピシャリと閉めて走っていった。
「こわいおばちゃんやなー。」
小声で純也が俊哉に耳打ちした。
「先生。ありがとうございます、あの子には聞かせられません。すべてお話ししますので、あの子を、あの子を普通の子に戻して頂けますでしょうか?」
「それが専門ですから。ひきうけます。」 夫人は一呼吸置いて目の前にある文章を読むように語りだした。一日たりとも忘れた事がないのだろう。一人でそのすべてを背負ってきたのだろう。
*
私が生まれたのは高知県の山間部の小さな村でした。上に姉が一人下に弟が二人いました。小さな時は何事もなく普通に暮らしていましたが、ある時、私が四つか五つぐらいの時だと思います、姉が夜中に叫びだしたのです。それまで私と弟の一人は姉とは別の部屋で寝起きしていたのですが、新たに弟が生まれたので一緒に寝ることになったその夜の出来事でした。目を醒ますと姉は四つんばいになって外を向いて叫んでいました。まるで狼が狂ったように、涎までたらして。ふだんの姉は物静かでひじょうにかわいい女の子でした。そのかわいい姉が獣になってしまった。外に向かって低く唸り続けるのは外に出たいからだと思って障子や雨戸を開け放ちました。すると獣と化した姉は一目散に叫びながら外に走って行きました。弟は思い出したように泣きだして、私は茫然と走っていく姉を見ていました。叫び声が遠退いていきました。
空を見ると赤い満月でした。
父母が部屋に入ってきて言いました。小さな吐き捨てるような言葉でしたが、今でも憶えています。
もう大丈夫だと思ったのに……
あのいかさま祈祷師め……
えらいことになった……
それからの村での私たち家族に対する態度は豹変しました。何か良くないことがあると怒鳴り込まれ、近所の子供達と遊ぶ事も無くなりました。姉は格子で囲まれた納屋のような所に閉じこめられていました。私たちはその納屋に入る事は出来ませんでした。しかし、近付くと姉の声が聞こえていました。普通の声の時もありましたが、狼のように叫んでいる時もありました。夜寝床に入っても姉の声が聞こえるような気がして寝付けない時も度々ありました。弟などは夜中によく、うなされていました。
それから半年ほどした春のことでした。姉の声が聞こえなくなっているので父母にきいてみると
お姉ちゃんは遠くの病院に行った……
と、言われました。その時はそうなのかと思っていましたが、それっきり姉は戻ってきませんでした。
それからも近所とは隔絶した生活を送っていました。小学校も中学校も高校もいい思い出なんか何もありません。人目を忍んで生きていました。恋愛なども興味ありませんでした。言い寄って来る人は多かったかも知れませんがみんな離れていきました。私の家が憑物筋だと分かると、離れていきます。
私の家は犬神憑きの血筋だったのです。
学校を出ると直ぐに私は大阪に出ました。故郷の山も川も桜も同級生もそして、親兄弟さえも嫌悪していました。嫌悪というよりも拒絶していました。都会に出てからの生活は村での生活とは違い、誰も私が犬神筋の娘であるという事を知らない、夢にまで見た生活になるはずでした。出てきたばかりの頃は仕事がきつくても、人間関係で嫌な事があってもぜんぜん気にならなかった、あの村での生活に比べたら。しかし村では分からなかった新たな問題が起こりました。私は異性に言い寄られやすいタイプだったようです。工場の同僚や上司などほぼ日替わりで誰かの相手をさせられていました。泥のような布団に仰向けに寝かされ薄汚れた天井をぼんやり見ていました。愛など感じた事もなく、まして快感など皆無でした。ただ、ただこの時間を我慢すればあの村に帰らなくていい、それだけをかんがえて泥の海で死んでいました。同僚の同性から酷い扱いを受けるようになるまでさほど時間はかかりませんでした。友達と呼べる人も無く。
これなら村と同じだ……
死んでいるのと同じだ……
会社を辞めました。何も言わず。あてもなく大阪の街に飛び出しました。後は落ちていくだけでした。それでいいと、思っていました。多くを望んじゃいけないんだ、汚い、きつい仕事をしなくても、女を武器に汚れた世界で生きていけばいいんだ、それが私には向いているんだ、そう考えるようになりました。最初に踏み入れた異界です。そんな中であの人に出会いました。
君に夜の仕事は似合わない……
親しくなるのに時間はかからなかった。嬉しかった。生まれて初めて心を開いた。
一緒に暮らさないか?……
涙が頬をつたった。悲しい、辛い、苦しい以外の涙が頬をつたった。でも、今から思うとそれが二つ目の異界への入り口だった。心を許して語った生い立ちが悪かったと、思います。あの人は熱心に聴いていました。その時は真剣に受け取ってくれていると思って、私も洗いざらい話しました。しかし、こんな事になるとは想像もしませんでした。気づいた時には、遅かった。
君は憑物筋の家の娘なのか……
酷い扱いを受けてきたんだなぁ……
もう大丈夫だ。僕が君を守ってやる……
愛してるよ……
それからは私の生涯で一番幸せな時が少しの間つづきました。夢のような時間でした。先代のお父様も理解のある方で、憑物、迷信なんかこんな時代にと、言って暖かく迎えていただきました。お母様は早くに亡くなっていたようです。私は期待に応えるべく働きました。大きな旧い家なのでわからない事もありましたが幸せでした。庭に咲く桜の花も心地よく思えました。でも、長女の由季子が生まれるとあの人は変わってしまった。鬼が憑いてしまったのです。いえ、鬼ではありません、犬神が憑いたのです。あの人は知っていたんです。犬神憑きの血筋は長女に受け継がれていくことことを、嫁いでも女の血筋でつづいていくことを。
お姉さんを早くに亡くしたのか……
君は大丈夫だ、君は普通だよ……
それからのあの人は……いえ、この神野の家は壊れていきました。先代が止めるのも聴かず祠を建てました。左門先生がおっしゃられたように犬はいなくなりました。多分富貴をもたらすという犬神様の効果が現れないのにしびれが切れて邪法を行なった時の犠牲になったのでしょう。その邪法とは、犬を土中に首だけ出して埋め、できるだけ腹をすかせた後に、口が届かない程度の所に食べ物をうまそうに並べる。餓死寸前の犬は、時がたてばたつほどそれを食おうと執念を集中する。そこを、背後からその犬の首を刎ねる。そしてその首を祀るという残酷な邪法です。祠にはその首が祀られていたと思います。私は最後まで見ずじまいでした。それから程なく先代が急死しました。先代の左門先生は脳の何かとおっしゃっていました。そういうことはそちらの病院で保管しておられる死亡診断書などに詳しく書いてあると思います。でもその時神野はこう言ったのです。
犬神様のおかげでジャマ者は死んだ……
狂っていると即座に感じました。もしかすると最初から犬神様の御利益を受けるためにに私を選んだのかと考えました。それから商売の方は驚くほど順調に伸びていきました。お金の心配は一切無く、周りの人からみれば羨むような生活に見えたと思います。そんなものはみせかけです。神野は商売がうまくいけばいくほど祠に篭もるようになりました。そんな人がいつまでも社長でやっていける道理はありません。程なく会社から捨て扶持を貰うようになりました。神野は会社から見離されたのです。仕方のないことです。家の使用人もその時にはほとんど辞めてしまっていました。大きな屋敷が不気味に巨大化したような気がしました。そしてあの事が起こったのです。その前日の夜に神野は御本尊がなくなったのは、誰かが隠したからだ、このままでは取り返しのつかない事になると、暴れていました。先代の左門先生に来て頂いておさめていただきました。次の日には京都の病院に行くように言われていました。しかし、間に合いませんでした。その日の夜中、いえ、次の日の夜明け前に神野は死んでしまったのです。桜の木の前で娘達の部屋の方を向いて叫んでいました。
由季子!お前が隠したんだな!……
出てこい!殺してやる!本尊を返せ!…
由季子!……
神野は日本刀を持っていました。振りかざして叫んでいました。青白い鬼が娘を取って喰おうとしているようでした。神野はつかつかと部屋に近づいて行きました。私は止めようとしました。
あなた、やめて下さい!
私が、私がどんな罰でも受けます!
だから、娘にだけは手を出さないで!
うるさい!この売女!誰にでもすぐに股開きやがって!離せ!
わが耳を疑いました。神野は、神野は愛してなんかいなかった。はっきりと分かりました。その時、由季子が出てきたのです。部屋の中から、九歳の娘が鬼の形相で出てきたのです。由季子は裸足で部屋の前の廊下から飛び降り、父親の神野の目の前まで歩み寄りました。鬼と化した父親を恐れるそぶりも見せずに、そして言いました。
お父さん、いい加減にして。
お母さんに酷いこと言わないで。
アレは私が隠したの。
かくれんぼで私が隠れるときに……
持ち出して、埋めたの。
その後、私が鬼の時に鍵を閉めた。
中にまさか妹が隠れてるとは……
思わなかったの。
でも、悪いとは思ってない。
アレはたくさんあったわ……
全部バラバラに埋めた。
何回にも分けて。
何回も隠れてたの。
だって絶対に見つからないもの。
妹は祠が恐いから、近づかないのよ。
でも、アレを埋め終わると……
なぜか妹は祠に来たのよ。
そして、見つかったの。
お父さん最後のお願い。
死んでちょうだい……
由季子…お前は…
そして神野は由季子の目を見据えたまま自分の首に日本刀をあてて、軽く引きました。紅い鮮血が吹き出しました。桜の木が、地面が、みるみる夜明けの薄明りの中で染まっていきました。由季子は返り血を避けるでもなく神野の目を見据えていました。紅い血が由季子の白い肌を、黒い髪を染めていきます。そして神野が倒れるのを見届けてから走りだしました。そして一昼夜たって祠で発見されました。それ以来由季子はショックで寝たきりです。目は見えているようです。ものも言わず、動かず静かに寝たきりで過ごしています。だから、そっとしておいて下さい。
*
部屋の中は夫人の啜り泣く音で満ちていた。ふと純也を見ると泣いている。純也が泣く必要は何もない。左門はメモを見ながら煙草をふかしてつまらなそうに貧乏揺すりをしている。俊哉が何か言い出しそうになった時、左門が言った。
「奥さん。嘘ついてませんか?」
「は?と言いますと。」
「この親父の殴り書きをまとめたメモには、娘の由季子さんは発見された時に血まみれになんかなってませんよ。」
「それは、私が連れて帰って丁寧に洗ってやって、服を着替えさせてから左門先生に見ていただいたからじゃないですか?」
「いいえ、発見したのは良子さんです。本人からの証言もあります。それに、ショックで寝たきりとおっしゃってますが、親父のこのメモでは診察の結果、父親の自殺を見て、一昼夜祠に篭もっていたわりには健康状態も精神的にも良好、と書いてありますが。」
自分で書いたメモをしまいには親父のメモと言っている。純也は泣き顔のまま左門の方を見ている。まるで夫人の味方のようだ。その時襖が開いた。
「その由季子は私よ。」
さっきの髪の長い由美子と呼ばれる娘が立っていた。仁王立ちだ。表情はない。そっけないというか、クールという言葉がピッタリあてはまる。
「何を言ってるの由美子。あなたは由美子よ。馬鹿なこと言わないで。」
「そうだと思いましたよ、由季子さん。親父のメモに書いてある通りです。由美子さんの特徴にはあてはまりません。」
「なんですって!ちょっとオーナー。知っていたんですか?」
「いいや、なんとなく……。」
驚いた純也も俊哉も開いた口が塞がらなかった。もしかすると、この左門はすべて口からでまかせなのか。
「そんな馬鹿な事はありません!由季子は、由季子は意識不明のまま寝たきりです。由美子の隣の部屋で寝ています。」
「おかしくなっているのはお母さんの方なのよ!目を醒まして!私は由季子よ!私までおかしくなりそうだった。だから、だから由季子として世間で通じるのか試してみたくなったのよ。だからお金を借りてみたの。由季子として。子供の時、そうお父さんが死んで二年ぐらいたった時に由美子がいなくなった。その時お母さんはもうおかしくなっていたのよ。」
あなたが由美子でしょ……
馬鹿な事を言ってないで……
お姉ちゃんを見習って……
漢字でお名前書けるようになったの……
「私は恐くなった。でもさみしそうなお母さんを見てられなかった。由美子が本当はどうなったのか問いただすこともできなかった。それから私は家の中では由美子として暮らしてきた。由季子は、お姉ちゃんは何処にいったの、とお母さんに問うと…遠くの親戚の所に行っている…と言ったり、…病気で寝ている…と言ったり支離滅裂だった。私はいったい誰なのよ!お母さん!」
「あなたは由美子よ!」
立ち上がって夫人は襖を勢い良く開けて廊下に出た。咄嗟に左門も立ちあがって夫人につづいた。唖然としていた俊哉と純也もそれにつづいた。廊下の角を何度か曲がって問題の部屋の前に来た。遅れて由季子も来た。
「皆様、そして由美子。病にふせって寝たきりになっていますが、誤解が解けないようなので由季子に会って頂きます。お静かにお願いします。」
夫人は静かに雨戸というか板戸のような頑丈そうな戸に手を掛けた。
……見てはいけない……
……目の前にあるものを信じろ……
……見えない……
……そこにある……
……やめて……
静かに戸は開けられた。そこにあるものは無数に燈された蝋燭と、子供用なのか少し小さめの布団が中央に敷かれてある。他には人の気配も何もない。ただ蝋燭の灯が外からの風に揺れている。その赤い掛け布団に夫人は無言で膝をついて近づいた。赤い掛け布団は蝋燭の灯を受けて揺らめいているようだ。まるで熱い夏の一日が終わる夕焼けのように。 「皆様。ここで寝ている子が由季子です。父親の自殺というショックで寝たきりになっていますが、これでおわかり頂けたでしょうか。」
愛しそうに夫人は掛け布団と同じ柄の枕を見ている。夫人には見えてるとしか思われない。しかし現実には誰の目にも見えていない。茫然と俊哉はその後姿を見ている。
香織がいなくなったベッドを俊哉は見ていた。綺麗に畳まれた白い布団。かたずけられて何もなくなった病室。後から看護婦がすまなさそうに言った。
「あの、次に入院される方がお待ちになってますので……。」
俊哉は風に揺れる白いカーテンを見ている。消毒液の匂いと花の匂いがする。
「おかあさん!いい加減にして!誰も、由季子も由美子もそこにはいないのよ!」
母親の背中に由季子はすがりついた。母親は微動だにせず。枕を見ている。左門は思いついたように言った。
「無いな……。お母さん。ありがとうございました。ちょっとアレですけど次は祠の方に同行してもらえますか?あっ、お嬢さんはそのまま寝かせてあげて下さい。」
夫人を除く三人が左門の顔を見た。左門にも見えているのか。夫人は立ち上がって廊下に出た。左門もつづいて出た。茫然とする三人もそれにつづいた。
「ちょっと、ちょっと、オーナー。何か見えたんですか?」
「あ、兄貴。頭大丈夫ですか?」
由季子は少し離れて歩いていた。小声で左門は言った。
「見えるわけないやろ。面倒臭いからああ言うただけや。」
二人はまたもや開いた口が塞がらない。左門とつきあいをすると口が開きっぱなしになりそうだ。
「本人が見えるて言うてんねんからそんでええやん。俺はそんなもん、どうでもええねん。それより後歩いてる由季子さんちゃんと見といてや。あぶないで。」
*
「春やていうのにまだまだ寒いなぁ。」
純也がブツブツ言っている。他のメンバーはそれぞれの思いが頭を駆け巡って無言だ。由季子は母の腕を持って少し離れて歩いている。先頭をガニ股の早足で歩いているのは、もちろん左門である。その後に子分同然の俊哉と純也がつづく。知らない人が見るとヤクザに連れ去られる御夫人とその娘という構図になる。
「畔道って歩いたん久しぶりや。こんな細い道やってんなぁ。それもなんでこんな夜にあるかんなんねん。なぁ、トシちゃん。」
純也は黙っていられない性分のようだ。
「わしスーツ着るときは高い革靴履いてるから土のとこ歩かへんようにしてんのに、台無しや。ドロドロやっちゅうねん。」
両手をジャケットのポケットにつっこんで悪態をついている。かなり先の方から左門の声がした。
「早く来てください御夫人方。それから我が下僕達も早く来るんだ、命令だ。」
「へい!兄貴すぐに行きます。」
純也が大声で応えた。
「しもべってなぁ、トシちゃん。もう帰ろか、アホらしなってきたなぁ。後には気持ち悪い親子がついて来てるし、前には気持ち悪いミニ神社とアホのおっさんが待ってるし、どうする?」
「とりあえず、ア、いや左門先生の所まで行きましょう、ね。」
「なんだあんたは!」
前から左門のいつもの大声にわをかけた大声が聞こえてきた。と、同時に純也は左門の方に走りだした。俊哉も遅れてつづいた。婦人達は少しは急いでいるのか。走りこむにしたがって闇は深みを増していく。木々が欝蒼と茂っているせいだ。足場が畔道とは違う硬い地面になった。祠の屋根が見えた。左門が立ち止まっている。純也が左門の横に立ち止まった。俊哉が左門にならんだ。息を切らせて祠と左門の間の人を見た。
……魑魅魍魎など何処にでも……
……おるようなおらぬような……
「あっ、あの時のお坊さん。」
俊哉はボケた声をだした。
「ほう。昼間の若い方かな。こんな夜分に祠に参拝とは何事かな?」
「トシちゃん知り合いなん?」
「俊哉。この坊主昼間も会ったのか?」
一度に質問されて黙ってしまった。
「トシヤさんという名前、はて……。」
俊哉は我にかえった。この坊主は。
「あんた、何のつもりであんな手紙を俺に持って来たんだ!悪い冗談だよ。人の気持ちを逆撫でするような事しやがって!香織の事は俺が一番分かってるんだよ!香織は、死んだよ!確かに。でもなあ、香織は死んでから手紙出すような馬鹿じゃないんだよ!このくそ坊主!」
バキッ!……
俊哉はとっさに殴った。目の前にいた僧は後に吹っ飛んだ。拍手が聞こえた。俊哉は純也と左門を見た。微笑んでいる。手が痛い。 「いやぁ、トシちゃんすごいパンチや。今度から口のききかた気ィつけよ。」
純也が言った。
「うんうん。いいぞ俊哉。こういう時テレビドラマとかつまらん映画とかでは、やめろ!とか言って止めるけど。こうやっぱり、スッキリとばしっと怒りをぶつけてもらわないと。いやぁいいもの見せてもらった。」
左門も嬉しそうに言った。
「はぁ……。」
誉めてもらっている俊哉は何だか拍子抜けしてしまった。倒れている僧はほったらかしになっている。二人はひたすら微笑みながら手を叩いている。純也などはウンウンと頷いている。
「貴方たちなんてことするのよ!」
後から駆け込んできて僧を起こしながら由季子が言った。
「さあ、大丈夫ですか?しっかりして下さい。貴方たちこんなお年寄りになんて事するんですか!ひどい人達!」
遅れて夫人も寄り添った。
「義則さん大丈夫ですか?」
「ええ、少し痛かったですが……。」
義則と呼ばれた僧は立ち上がった。二人の女性に支えられて。
「なに言うてんねん!年寄りでも悪い事は悪い事や!じじいやったら泥棒しても捕まらへんのんか!そらなぁ、年寄り殴る若いヤツ初めて見たけど。」
「この人が何か悪い事でも、私は何も知らないもので…。」
「奥さんは知らないことです。お嬢さんは関係あります。あなたはつまらない手紙をこの僧に届けさせましたね。」
由季子は無言でうつむいている。
「あなたの悪ふざけによってこの一見ナイーブに見えない男は傷ついたのです。僕のような強い男ならなんてことはないのですが、死んでしまった人を、それも病院で看取った恋人をネタに使うという無神経さが信じられません。あやまりなさい!」
由季子の表情がこわばった。
「すいません。私、まさか、そんな事があったとは知らなかったんです。ただ、昔から人の表情や身なり、態度などからその人の事情などがある程度予測出来るのです。別に特殊な才能とは違うと思うのですが、それで、そちらのトシヤさんとおっしゃる方はひじょうに分かりやすかったもので、たいへん失礼いたしました。」
「確かに、彼は分かりやすい!何事も顔に出ています。この河童顔に全て余すところ無く。しかしなぜ、わざわざ手紙を書こうとまで思ったのかが、分かりません。まさかこの河童、いや、猿顔に惚れたわけでもないでしょう。」
「それは……、あの、そこまでは私にも分からないのです。書きたくなったんです。なぜでしょうか、分かりません。」
「犬神様よ……。あなたに受け継がれているのよ…。きっと、犬神様が……。」
夫人が虚ろな目を祠に向けてつぶやいた。 「お母さん…やめて。」
「犬神様が、おろそかにしてたから…ちゃんとお祀りしないから…中途半端に…あの人が…」
「大丈夫…愚僧が…ご主人の代わりに…ちゃんと供養してました…」
「やはり…犬神様がお怒りになって…この神野の家に…災いが…」
「あー!うるさい!アンタらほんまにめでたい人らやなぁ!そんなもん居てない!犬神やら福の神やら居てるわけないやろ。金持ちの道楽や。奥さん。元々アンタとこの家も金持ちか成金やろ。村の中で浮いてたやろ。近所の嫉みや。だいたい憑物筋て言われれる家はそうなってんねん。たまには違うのもあるけど、それになんで奥さんは何とも無いのに娘が犬神憑を受け継ぐねん。」
左門がいつもの倍ぐらいの大声でまくしたてた。傍にいた純也と俊哉は飛び退いた。近すぎて何を言っているのか分からない。三メートルほど離れて丁度いい。もちろん神野夫人も娘の由季子も、支えられていた僧までシャンと背筋を伸ばしている。左門の大声の叱責とも取れる発言に夫人は恐る恐る答えた。 「それは…代々…長女が…」
左門はにやりといやらしく笑った。
「ほう奥さん、この娘さんは長女の由季子さんなんですね。先程由美子さんとおっしゃってましたが、あれは、演技だったのですかな。何か由季子さんを由美子さんとして育てなくてはいけない事情でもあるのですか?」 場が静まった。さっきとはうって変わって小さな声が辺りに静かに、低く響いた。
「それは……あの…」
「その答えは今はまだいい。それよりそこの坊主くずれのジジイに聞きたいことがいくつかある。」
矛先を向けられた僧はすでに放心状態になっている。何かがそうさせたようだ。今にも崩れだしそうになっている。純也と俊哉もちなみに放心状態になっている。
「あの屋敷の衝立てに変なお経を書いたのはあんただな?」
僧はかすかに口を開いた。そして聞き取れるか聞き取れないかの小さな蚊の鳴くような声で答えた。
「あれは…こちらの奥様に頼まれて書いた魔除けの陀羅尼で…」
「嘘つけ!何にもわからへんと思て適当な事言うてたら、それこそ俺がおのれの地獄行き早めたるぞ!すでに鬼に成り下がったか!あの経文はなぁ、下手くそな字やから読みにくいけど魔除けにはあんまり関係無い理趣経や。仏前とかに唱える真言宗では一般的なお経や。煩悩に取り憑かれてるヤツには変な解釈するヤツもいてるけど、ちゃんとしたお経や。なんで魔除けと偽って般若理趣経を書いたんや?誰かを弔う為に書いたんか?まさか死んだ神野光一の為とは違うやろ。」
「拙僧は…もう菩薩の道には戻れない。せめて…せめて供養をと……」
僧はひんやり冷たい地面に膝をついた。誰にあやまるでもなく、頭を垂れた。
「当たり前だ。なんでも拝んで済むと思ったら大間違いだ。祠を開けさせてもらう。」 急に僧、いや義則は驚愕の表情を見せた。明らかに動揺している。
「この、この祠を開けてはいけません。怒りに触れます。いけません。」
夫人が立ち塞がった。義則はその夫人を下から見ている。
「お母さん。開けてもらいましょう、いえ開けなければいけない。そんな迷信に左右されるのはいや、もう厭なのよ。お願いお母さん。」
「馬鹿なこと言わないで!何が迷信なものですか。お母さんは、私は子供の時からずっと犬神憑きの家の子と言われてきたのよ!まともな人間としての扱いなんか受けたことないのよ。恋愛も友達付き合いも。友達なんて呼べる人は誰もいないわ。それが迷信だなんて今さら…。そんな言葉で片付けられない。犬神様はおられます。」
「そうかも知れません。しかし、それはあなたの心の中にいるのです。この世に無いもの、この世に在るもの全てを否定することは誰にも出来ません。ただ目の前に在ることぐらいは信じましょう。目の前に無いもの、人から聞いた事などはとりあえず置いといて。だからあなたもあなた自身の目で祠の中を見て確認してください。見るまではまるで魑魅魍魎や悪霊が隠れていそうですが、そんなものは確認出来ていないのです。これだけ科学が進歩し、いろいろと存在が確認されてきましたが、そんなものはまだ見つかっていません。科学の進歩とそういうオカルト現象を混同することに否定的な人もたくさんいます。でも精神世界で修業をつづける人々は決して神仏にすがっているのではないはずです。己自身の精神を鍛えているのです。かつて仏教が釈迦の没後広まり始めた時には、偶像崇拝はされていなかった。釈迦は別に釈迦自身を仏と崇めよとは言わなかったのです。釈迦生存中の厳しい戒律さえ好きにしろと言ったぐらいです。
宗教や占い、迷信などは心の中に在るものです。それは他人には見えません。だから、あなたが子供の時から受けてきた酷い扱いははっきり言ってあなたにしかわかりません。冷たいようですが同情しかできないのです。 今はっきりしていることは、良くない習慣や迷信は断ち切らなければいけない、ということです。娘さんに受け継がれていっていいのはお母さんの美貌と生きるための努力だけでいいのです。」
夫人も膝をついた。冷たい地面に両手までもついた。土下座するようにうな垂れた首が小刻みに震えている。義則も膝をついたまま放心したように左門の顔を見上げている。そして、義則は言った。
「あなたは、いったいどのような修業を積んで来られたのか、それだけでも後生の為にお聞かせいただけないか?」
「別に、ただ自分の思うままに生きてきただけです。流れに逆らわずにね。」
義則は納得したのかわからないが、静かに目を閉じて涙を流した。
「さぁ!開けろ、純也!」
「ちょっ、ちょっと待ってや兄貴。なんでわしが開けやんなんのよ。勘弁してや。祟られたりバチ当たったりしたらどうすんの。子供も嫁はんもいてるのに。」
横で腕組していちいち納得しながら聞いていた純也は急に泣きそうな顔になった。
「お前なぁ…俺の有り難いお話聞いてへんかったんか?お坊さんでも涙流すような話やねんぞ。しょうもないこと言うてんと早よ開けろ。そうか俺がたたってやろうか?」
「もうたたってますやん。たたってるだけと違てタカってますやんか。会社の金やのに飲みに連れて行けとか言うて。」
静かに純也は祠の格子戸に手をかけた。いざとなると神仏なんか関係なさそうに力一杯引っ張った。
「堅ーい!」
びくともしない。格子戸は案外キッチリとした造りになっている。古めかしい祠にしては不気味なぐらいに頑なに開かない。純也は観音開きの格子戸をチェックした。
「鍵付いてますやん!」
「あぁ付いてますけど。何か?」
由季子が普通に言った。
「お姉ちゃん。あのなぁ、わし今この汚い戸を開けよと思って思いっきり引っ張ってたん見てたやろ。鍵あんねんやったら先に鍵の番号言うてくれてもええやろ。ほんまに借金取りにここまでやらすか。」
「あら、番号を合わす鍵なんかつけてませんよ。それに何年も開けてないですから。」 「番号は、知っています。」
義則が覚悟を決めたように立ち上がって祠の鍵に手をかけた。一度手を合わせて簡単に鍵を外した。そして静かに純也に場所をゆずった。
「ほな、行きまっせ。」
前とは違ってすんなり開いた。夜という事も手伝って中は真っ暗闇だ。目が少しずつ、少しずつ慣れていく。白いモノが見えてくる。じょじょに形となってそれぞれの目から視神経を通って、個人に認識される。その認識され方はそれぞれの人間の記憶、および感情によって受け取られ方は違う。
「なっ何ていう事なの!」
「うわー!なんやこれー!」
「ここにあったか、やっぱり。」
「大きなやつもありますね。」
「全部埋めたのに。」
「うわー!」
義則だけが祠の中を見ずに叫んで土下座した。祠に向かって。祠の中には夥しい数の犬の頭骨が転がっている。全ての骨の首から下の部分は見当らない。頭骨だけが祠の中を埋め尽くしている。暗闇の中に白く。その中に少し大きめの形が違う頭蓋骨が一つだけある。その頭蓋骨には首から下の部分の骨も存在している。明らかに人骨。それも大人のものでは無い。子供の人骨である。壁にもたれかかったままの姿勢に見える。その人骨は義則が祠を管理し弔わなければいけない理由になっていた。
……お坊さん、お母さんを知ってるの?由美子はお母さんに似てるかな…お母さんはお姉ちゃんばっかり可愛がるの…由美子は…本当にお母さんの子供なのかなぁ…ねえお坊さん…由美子…似てる…お母さんに……
……あの女の…匂い…過去を思い起させる匂い…一度はあきらめ…仏門に入った…この汗の匂い…近づかないでくれ…俺は……
……お坊さん…お坊さん…痛いよう…苦しいよう…痛い……
……お前が悪いんだ…俺が…俺が愛しているのに…あんな光一なんか……
……………。
「お宅の由美子さんを手にかけたのは。この私です。」
義則が涙ながらに言った。
「いやー!何て事を!義則さん、あの子は、あの子はあなたの子供なのよ!」
「なっ、なんだって!…知らなかった。何も知らなかった。俺は…そんな…」
「お母さん!由美子なの!この骨は由美子の骨なの!お母さん!」
「義則さん。私は、私はあなたのことを愛していました。主人の光一がおかしくなって、私はまた一人に、小さな時と同じ、独りぼっちになるところでした。やっぱり憑物筋の娘は幸せになんかなれない。そう思っていました。でも、私はあなたが、あなたが居てくれたから。それなのに。何て事を。由美子がいなくなった頃にあなたが戻ってきた。祠を守らしてほしいと言った。なにかが違ったけれど嬉しかった。どんな形であれあなたが傍にいる。そう思って嬉しかった。由季子には迷惑をかけました。自分でも分からなくなった時もありました。その先生が言われたように、人間の記憶なんかあてにならないものなんですね。由美子は、由季子は自分で都合のいいように記憶を作っていました。全て思い出しました。」
……あなた!やめて下さい!子供たちは関係ありません!あなた!……
……由季子!逃げなさい…早く…何処か…あの祠にでも隠れなさい…後で…迎えに行くから…格子戸をしっかり閉めて…さあ…
……お母さん…大丈夫?…由季子が、由季子が守ってあげるよ……
……なんだ。お前か。由季子はどうした。親に死ねと言いやがった。先に…由季子を…犬神様の許へ…送ってやる……
……あなた。もうあなたはあの頃のあなたではない。私は些細な安らぎを…好きだったのに…さよなら……
……ぐっ…ぎゃー……
「日本刀を持って振り返った所で刃を押し返しました。油断していたらしく、まるで自分で首を切るようにすっと刃が滑りました。血塗れになったのは、由季子ではなく、私の方でした。あの人は、首から紅い飛沫をあげながら私を睨んでいました。何か言っているようでしたがわかりません。口からも血が溢れていました。私は、その時、血が吹き出しているのを見て、綺麗だと思ったのです。仮にも主人が、一度は愛した人が、血を吹き出して死にかかっているのに。その時、義則さん、と心の中で叫んでいました。微笑んでいたかもしれません。返り血を浴びながら、微笑んでいたかもしれません。」
……一緒に暮らさないか?……
……君は夜の仕事に向いてないよ……
……プロポーズみたいなもんだよ……
……うれしかった……さよなら……
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2004/06/02(Wed)10:30:44 公開 /
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■作者からのメッセージ
初めて投稿します。ちょっと変わったミステリーだと思いますが、ジャンルは?妖しい感覚とお笑いのミックスを試みました。
感想は真摯に受け止めます。