- 『<黒猫は「彼女」に恋をする>〜3』 作者:葉瀬 潤 / 未分類 未分類
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全角13028.5文字
容量26057 bytes
原稿用紙約39.15枚
第一話<黒猫は「彼女」に出逢う>
笑顔が似合う街に出会おう! これが星ヶ丘町のキャッチフレーズだ。歩道橋にでかでかと掲げられた大きな文字を見上げて、俺はまた歩き出した。
田舎町だ。それも平日。俺を見るたびに、すれ違う老人たちはにこやかな顔で声をかけてくる。俺はそれなりに愛想良くしていた。
歩道を歩くのは老人。車を運転するのは老人。助手席にはまた老人。国道と平行に歩いていると、老人の旅行団体を乗せたバスがたまに視界に入る。 別に老人が嫌いというわけではない。もう少し若さのある人間をみたいのだ。
お昼という時間帯は、老人を目撃する回数が多い。俺は設置されたベンチの上で欠伸をした。つまらない街に出会ってしまった。あの歩道橋でみたキャッチフレーズを思い出すと、胸がすごくイライラして、無性に掻きたくなる。
暇だ。退屈だ。俺にはさっきまで家があって、追い出されたばかり。というより、自分から出て行ってやった。あんな窮屈な家にいると、溜まるのは不満と好奇心だ。
ご主人様はわがままだ。この街で知り合った男の家に行くからと、俺に温かいミルクだけ残して姿を消した。冗談じゃない! 俺がいつも食べているのは、高級キャットフードだ。いくら男のところに急いでいたからって、俺の食事に手を抜くとは有るまじき行為だ。
なんで家を飛び出したかというと、長年連れ添った俺よりも、人間の男を選んだご主人様の行動にキレたのが原因。勝手に留守番を押し付けて、重苦しい屋敷に閉じ込めるんだもん。俺だって、自由にこの街を観光だってしたいのに。鍵も閉めずにこうして家を飛び出してきた。
初めての家出。けっこうドキドキする。
思っていたより、この田舎町は静かだ。過疎化が進んでいるんだな。静かすぎて、逆に落ち着かない。
国道から離れて、俺はさらに細い道に入り込んだ。適当に行けば、きっとそれなりに発見があるだろうと。
ある家の屋根の上で一息をついた。周りには家々が並び、迷子の子猫ちゃん状態になった。帰る道も知らず、しばらく立ち尽くした。
短くため息をついたあとに顔を上げると、視界いっぱいに海が広がっていた。どうやら海岸付近に来てしまったらしい。圧倒された景色に吸い込まれるように、俺の足はどんどん海に近づいていった。
砂浜に下りる石段まで来て足を止めた。腰を下ろして、海から吹く潮風を浴びた。あぁ、久しぶりに魚を食べたいな。帰ったらご主人様に頼んでみよう。自己満足して、すぐに首を振った。
俺はご主人様と縁を切った猫だぞ。そう易々と屋敷に帰ったら、ただのお出かけで終わってしまう。俺は家出をしたんだぞ! もう二度とご主人様に会うもんか! もう二度と……。決めたんだ。
そう心に決めたところで、いきなり背後から声がした。
「わぁ!」
そして、驚かされた。思いっきり突き倒され、砂浜に落ちそうになった。 不覚だ。俺としたことがボーとしていて、後ろの気配に気づかなかった。 目の前の女は俺の反応をみて、クスクス笑っている。
けっ、いい気になるなよ。いつもの俺だったら、おまえの気配ぐらいすぐに分かってとっくに回避しているんだ。
まぁ。ここでグダグダ言ったって、この女とは一生喋ることはないんだ。 そう熱くなるな俺。自分で自分を落ち着かした。
ご主人様以外の人間と喋ってはいけない。これは決まりだ。もし、俺がうっかり声でも出してしまったら、人間は気絶するか泡を吹くほどショックを受けるから気をつけなさいと何度も忠告された。
そして、見知らぬ女は俺の隣に座った。石段の上で、一人と一匹は沈黙する空気の中にいた。たまに吹くのは優しい風だけ。
「猫ちゃんは……捨て猫なの?」
ぽつりと女はそんなことを尋ねてきた。彼女は俺の赤い首輪に目が止まり、手を伸ばした。ご主人様の好きな情熱の赤。黒猫の俺からしてみたら、オシャレカラーなのだ。
首輪に触ろうとする女から一歩退いた。よくみたら女はまだ若い。
昼の街で見慣れてしまった老婆の若かりし頃みたいだ。俺のご主人様より若いぞ! てかあの人はいくつなんだよ?! 女は可愛い制服を着ている。 女の身なりをある程度眺めて俺はピンときた。
彼女たちの世代って、俺のご主人様並にわがままで自己中で、人をバカにする恥じらいを感じず、のうのうと生きている輩が多いよな。一言でいえば、十代。俺はやっと新鮮な人間をみつけた。
「あたしね、今日学校さぼったの」
空を見上げて、女は足を伸ばした。スカートからするりとでる白い足に注目した。やはり若いと、肌のつやとかも違うんだな。納得して、彼女の顔をみた。
「猫ちゃんはいいなー」
抱えた膝小僧に顔をつけて、俺を羨ましく見つめる瞳が、どうも綺麗だった。
「勉強しなくていいし、悩まなくていいし。猫は温かい日向で昼寝しているだけでいいんだもん。人間のあたしからしたら、あんたがすごく羨ましいよ」
彼女の人差し指がぐいぐいと俺の頭を小突いてきた。一般の猫はそうかもしれないが、俺も昼寝だけして一日を終えたい。暇さえあればご主人様の話し相手。ご主人様のお手伝い。ご主人様のそばにいる。俺のほうが、そっちの世界が羨ましいぜ。だって、何にも束縛されず、必死に生きている姿がすごく輝いて見えて、すごくいいんだもん。
「一日だけでいいから猫になって、すべてから解放されたいな」
そんな言葉を悲しい声で呟くものだから、哀れな彼女に俺は元気付ける言葉を送った。
「簡単に弱音を吐くなよ。俺だって俺なりに辛いことぐらいあるんだから、誰かが羨ましいなんて思うなよ!」
「ありがとう。なんか少し元気が出たかな」
「おう! 明日は明日の風が吹くさ!」
一度は言ってみたかった言葉が、自然に口から出た。彼女の横顔は次第に明るくなっていくのが分かった。彼女との距離は近い。すぐ隣に座っている。
あとは彼女が俺の異変に気づかなかったら、今日は最高の一日だったな。 俺はうっかり言葉を話してしまった。たった今自覚しました。
こうなったら通りすがりの猫だったということで、静かに立ち去るのが一番の策だとひらめいた。さりげなく腰を上げて、彼女に背を向けようと振り返った時に、彼女の声が俺を引きとめた。
「ねぇ。さっき喋らなかった?」
逃がさないようにちゃっかり俺の尻尾を掴んでいるし。気にせず走れば、尻尾を勝手に離してくれるかな。それとも引きちぎられてしまうのか。
女だと思って侮っていた。彼女は逃がさないわよって顔で、力強く俺の尻尾を握っている。痛いですよ。鳴き声あげますよ。
「あなた、喋れる猫なの?」
俺は座り直した。彼女は逃げないようにとまだ尻尾を手の中に収めている。
「……はい。俺は喋れる猫です」
ぎこちない返事をした。彼女が気絶をするのを待つか。彼女の顔色を伺うと、全然ピンピンしている。気絶するまで残り何分だろう。
「わぁー! あたしね、あたしね、昨日ドクタードリトルをみたばっかりなの。すごいわ! あたし猫とお喋りしてる!」
「……それは貴重な体験をしましたね」
「あなたは喜ばないの? 人間と喋っているのよ?」
彼女は素直に驚いていた。俺はいつもご主人様と話しているから、もう驚きどころか、当たり前の光景だと思っていた。目の前の彼女はそれまでとは一変して、動揺する心と好奇心に輝く目で俺にいろいろな言葉をぶつけてくる。
「ああ、不思議だね。人間と喋れるなんて。ハハハ」
ほとんど棒読みに返事。彼女とは目を合わせていない。海は静かに波をうつ。彼女のテンションは一向に冷めない。俺はどんどん居づらくなっていく。
「あ。そうだ」
彼女は立ち上がった。ついに黒猫解放か? 涙でますよ。
「家に来ない?」
「え?」
涙はでませんでした。唐突な質問には、聞こえないフリをした。
「猫ちゃんには、帰る家があるの?」
「家は……」
後悔。家出する日がまずかったんだ。別にYESといってもいいが、絶対あとを付いて来る。だからここはあえてNOという。
「……ない」
「じゃ。あたしの家に来なさいよ!」
「え……」
「大丈夫よ! あなたの仲間もいるから、安心して」
彼女は俺を抱き上げて、返事を待たずに連れ出した。
うーん。これは誘拐というべきか。鳴き声を上げて抵抗するのもいいが、ご主人様以外の人にこうして抱かれるが、嬉しくてしょうがない俺、黒猫であった。
第二話<黒猫は「彼女」と独り言>
慣れとは恐ろしいものだ。俺が岡野家に来て二日は経っている。
俺の飛び出してきた家というのは、そこら辺の庶民が簡単に買えるものではない大屋敷なのだ。ご主人様と一匹の猫で暮らすにはあまりにも広すぎて、俺ですらたまに迷子になるぐらいの広さなのだ。
そんな大規模な家に長年住んでいた俺からしてみれば、彼女――岡野華夜(カヤ)の家は狭すぎるかもしれない。いや、窮屈だ。
彼女は母親と弟で、借家に住んでいる。二階へ上がる階段もなく、キッチンと居間と二つの和室があるだけだった。俺は家の中を一周して、これからお世話になるだろう平屋の家に、つまらなさを感じて彼女の足元に戻っていった。
華夜の母・静子さんは、俺を見るなり抱き上げて顔を摺り寄せてくる。その馴れ馴れしさが、俺にとっては違和感をすごく感じさせる。爪をたてずに、前足で抵抗してなんとか母親の顔から逃れた。
華夜の弟・小6の拓馬は、俺を抱き上げると、何を思ったのか体を振り回しやがった。前足だけを持って、しばらくの間俺の腹は宙を舞っていた。回る回る。いい子供が黒猫いじめをしてんじゃねぇと眼(がん)を飛ばしたが、全然無視しやがって、俺は目を回して床に倒れた。すぐ近くでは彼女がクスクスと笑っている。
「なんだよ。そんなにおかしいかよ」
彼女と言葉が通じれば、俺はもうお喋り猫だった。俺は絨毯の上で寝転がった。天井は低い。この家は木造か。電気だけが眩しく俺を照らしている。
「だって、すごく不機嫌そうな顔が笑えるんだもん」
手で口を隠しているが、絶対大笑いしそうな勢いで、必死に笑いを堪えていた。そんな彼女のせいで、俺はもっと不機嫌そうにごろごろと転がる。
「そうだ! あなたに名前をつけないと」
そういって彼女は手を打って、俺に視線を下ろした。
「名前?」
「そう。もしかしたら、もう名前あるの?」
「…………」
あるといえばあるが、この家で呼ばれる名前としてはふさわしくない気がして、一瞬言葉が詰まった。黙っていると、彼女の指が静かに俺の腹を撫でた。優しい手つきで、純粋無垢な瞳で、俺の腹を見つめていた。彼女なら、きっといい名前をつけてくれる。俺の直感が正しければ、最低でも思いつくのは「クロ」だ。黒猫だからクロ。
ありきたりだけど、シンプル・イズ・ザベストだ。
「おまえが付けていいよ。俺の名前」
「え? あたしが付けていいの?」
「シンプルな名前をよろしく」
彼女は俺の腹を指先で撫でながら、天井と睨めっこしていた。生まれた赤ちゃんの名前を考えるように、人間はやはりそれに相応しい名前を考える。 誰にでも親しめる。誰にでも好感が持てる名前を。
数秒して、彼女は俺に微笑んだ。その時思ったのだが、華夜はすごく笑顔が似合う人だ。海岸でみた落ち込んだ顔など、彼女らしくない気がした。
「チャボってどう?」
すっかり彼女に見惚れてしまって、肝心の名前を聞き逃した。でも聞かないほうがよかったかな。どうも黒猫からは連想されない単語が彼女の口からでてきたから。
「ね。チャボってどう?」
「な、なぜに……チャボなんだ?」
「なんとなく。いろいろ考えようとしたら、すぐに思い浮かんだの」
「もっといい名前があるはずだが……」
「チャボで決定ということで!」
彼女は俺の意見を無視して、早速台所で夕食の支度をする母親の元へと駆け寄った。母親があっさりと認めれば、俺は岡野家では「チャボ」だ。
絶望に沈んでいると、姉のいなくなった居間に、俺の恐怖の人――拓馬が近寄ってきた。俺はぬいぐるみのようにポーズを決め、じっと息を殺して、空気と同化しようと頑張ってみた。
近寄るな。触るな。回すな。この三原則だけは守ってくれ。俺の切な願いは、拓馬の心に通じたか。ヤツは俺を見下ろして、台所に向かって大声を上げた。
「姉ちゃん! 俺はこいつの名前は《武蔵》がいい!」
待て。オスらしい名前じゃないか。ムサシって、ある意味チャボよりいいぞ! 弟よ。早くこれを母に伝えるんだ。俺の隣でダラダラとテレビなんか見てないで、走れよ。走れ拓馬! 俺がチャボになる前に。
味噌汁ぶっかけご飯。今日の俺の夕食はこれ。ただのミルクだけより満腹になる量だが、やっぱり俺はキャットフード派かな。グチグチいうのも岡野家に失礼だから、とりあえず食べなくては。俺は昼から空腹状態が続いていた。温かいミルクは今頃冷めているだろう。
「チャボ。おいしい?」
結局。俺はチャボと呼ばれている。たまに弟君がムーちゃんと呼んでくれるが、武蔵とは呼んでくれない。ところで、彼女のネーミングセンスはいいとはいえない。その証拠に、俺と一緒に夕食を食べている四匹の猫も、あまりにも安直で、衝撃を与える名前が付けられている。
俺より一回り小さい灰色の子猫たち。呼びやすい名前の順で紹介すると、元気なオスが「ネー」。臆病なオス猫が「ズー」。愛らしい瞳を持つメス猫の「ミー」。三匹あわせて、ネズミ兄弟です!って感じで、華夜が名前をつけた。まだ幼い猫だから心の傷は浅いが、親猫になったら、かなり悲惨じゃねぇの。
んで。略してネズミ兄弟の母親の名前は「マユナシ」。同じ灰色の猫だけど、眉がない顔をしているから、そう名前がついた。俺のチャボがまだマシな名前かもしれない。変な安堵をしてしまった。
彼女の布団は温かい。外はもう夜。彼女に抱き上げられて、和室に敷かれた布団に俺は下ろされた。彼女はジャージに半袖と、軽い服装でお風呂からでてきた。俺のご主人様の寝巻き姿は……。服着てなかったかな。
「チャボは、こういう布団で寝ることは慣れてるの?」
タオルで髪を乾かしながら、襖を閉めた。俺は落ち着かない様子で、和室の周りをぐるぐる回っていた。そわそわする。
「いつもは床で寝てるから、こういうふかふかするものは初めて、なんだ」
「そうなの。なら、今日は一緒に寝ましょうよ!」
返事をするより早く、彼女の伸びた腕が俺の後ろ足を捕らえ、彼女のいる布団に引きずられた。なんでも強引で済ませてしまう彼女は、いつしか俺の恐怖だ。電気を消し、俺と彼女は布団の中で静かに呼吸だけをしていた。
網戸から入る風が、涼しくて気持ちよかった。差し込む月光が、なんとも夏らしい。俺はまだ眠りにつけないでいる。緊張しているのだろうか。ご主人様以外の人と、夜を過ごすのだから。彼女にギュッと体が抱きしめられて、布団から抜け出すのは、今は難しい状況だった。半分諦めて、俺は外の夜に視線を向けた。ご主人様は今頃俺を心配しているのかな。それとも男とこんなふうに一夜を共にしているのかな。不安と憎悪が、俺を襲う。
「ね、起きてる?」
後ろで彼女の声がした。寝ていると思っていた。彼女の腕枕に俺の腕を乗せて、とりあえず落ち着く体勢をとった。
「どうした? 眠れないのか?」
「うん。なんかいつも眠れないの」
彼女の指が、俺の首輪をなぞった。
「チャボにはわからないけど、あたし学校嫌いなんだ。なんかね、友達の前ではすごく自分を作っているというか……偽善者っぽい?のかな。相手の考えに合わせるというか、自分を学校で活かしきれてない気がするのよ。明日もサボろうかなって思ったけど、欠席ってけっこう成績に響くから、もう無理なのよね」
彼女の悲しい声が聞こえる。できればもう聞きたくなかった。俺の気持ちはどんどん沈んでいく。
最後に彼女のため息が、俺の耳に届いた。猫に愚痴るのはご主人様だけで十分と思っていた。でも一歩外を歩けば、世の中にはこんなにも哀しい人間がいるんだなと実感した。
夜は静寂した時間。彼女の涙声がまだ聞こえなかった。
よかった。まだ重体じゃない。
それだけを確認して、俺は眠りに付いた。
第三話<黒猫は「星ヶ丘町」を歩く>
いつも起きるのは眩しい朝。
俺が目を覚ます前に、彼女は早朝からどこかへ出かける。行き先は学校だが、取り残されてしまった俺にしてみたら「どこか」なのだ。
よく古いドラマで、男が見知らぬ女とホテルで寝た翌朝に、『さよなら』と口紅で書かれたメモが残されたシーンがある。
ほんの一瞬は、すごく騙された気分になる。でもその後に押し寄せてくるのはやるせない心残り。
今はまさにそんな気分だ! 昨日はあんなに遅くまでお喋りしていたのに、朝起きたら隣に彼女はいない。俺はすげー虚しい気持ちに襲われる。
奥さんは仕事で、拓馬は小学校で、彼女は高校。まぁ、夕方になればまた騒がしい家になるが、どうもこの静寂した部屋とのギャップには耐えられそうにない。ちょっと安心したのが、窓ガラスに『さよなら』の文字がないことかな。当たり前か、ここはホテルの一室ではなく彼女の家なのだから。てゆーか、俺が出て行く身だよ。
うわーん。たとえこの家で一週間近くお世話になっていても、結局は居場所のない黒猫なんです。この膨れ上がった不安を真っ白なシーツにぶつけて解消したいところなのに、彼女が今日もちゃっかり布団を押入れに仕舞っているし……。俺はざらざらする畳の上で寝転がっていた。
壁掛け時計に目をやると、もう11時だった。いつもならご主人様の強烈な香水な匂いで起こされるのに、今朝も人生初めてで言う、爽やかな朝だった。涼しい風を鼻に吸い込んだ。腹の虫が鳴るが、まだ頭が覚めそうにない。
ぼーと映る視界。天井に腹を向けると、飛び込んできたのは灰色の物体。 俺の腹に激しい痛みが走った。
「ふんぎゃ!」
そして、俺の呻き声が爽やかな朝に響いた。目が完全に覚めた。体を起こすと、目の前にいるのは灰色の三匹たち。俺より一回り小さい子猫たち。まだ善悪の区別もついてない憎たらしいガキども。俺の腹を飛び台にしても、俺が悲鳴をあげても、きょとんとした顔でこちらをみている。
「お、おまえら……」
「おにいちゃんも、追いかけっこしない? ネーを捕まえるのよ」
「その前に俺に何かかける言葉とかないのか?」
「あ!」
思い出したようにミーが、集まったズーとネーに耳打ちをした。なんて気が利く子猫ちゃんたち。軽く咳払いして俺は礼儀よく座った。
「チャボ兄さん!」
「うん!」
その名前だけは呼ばれたくなかった。灰色の三匹が丁寧に頭を下げた。
「おはようございます!!」
確かに朝の挨拶は大事だよ。でも今はそれより謝罪の言葉が優先なんだよ! 俺を挑発してから、三匹は一目散に走り去った。
「おにいちゃんが鬼だからね!」
ネーの声が聞こえた。上等じゃねぇか。こうなったら一匹ずつ捕まえて、善悪の区別を教えてやろうじゃないか。俺の腹を飛び台にした罪の重さってやつをよ。まずは足の遅いというか隙だらけのズーから捕まえるのが手っ取り早いか。
和室から顔を出し、ズーの居場所を探った。
ネーとミーはどこかで息を殺している。ズーの短い尻尾だけが、キッチンからちらりと出ている。ふふふ。まだまだ子猫か。気配を消し、静かに静かに前進していく。尻尾がパタパタと揺れている。全然こちらの気配に気づいていない。よし、今だ。
「捕まえたぞ!」
尻尾を爪で握り締めて、俺の体は床の上に倒れた。
あとはズーの驚いた顔を拝むだけだ。笑みを浮かべて顔を上げると、俺より一回り大きい灰色の猫がどっしりと座ってこちらを見据えている。
人間なら顔面蒼白。猫なら完全沈黙。
子猫たちのお母様ですよね? あはは。ズーとよく似ている尻尾をしているので、わかりませんでしたよ。ほほほ。
彼女にマユナシと名づけられたとおり、お母様は、眉のないそれ系の人間と同じように、人相の悪い顔をして、俺をじーと睨んでいる。ご主人様がよく借りてくるVシネマに出てくるシーンとなんとなく重なって見えたのは気のせいではないらしい。
「こんにちは。えと、今日もお日柄もよく――」
「この家から今すぐ出て行きなさい」
マユナシが重い口が開いて、俺にそう宣告した。もっと怒るのかなって思っていました。やはり大人になると、冷静に物事をみるのですね。爪を俺に立てることもなく。
彼女が家に帰るまであと六時間ちょっと。拓馬が帰ってくるまであと五時間ちょっと。数分前から居辛さを感じる俺に、鋭い視線で付近を歩くお母様が気になってしかたありません。早くここからでていけオーラが漂って、俺はついに重い腰を上げました。
こうして俺は岡野家を出て行く羽目になり、彼女に別れの言葉を告げなかった。最後の悔いは、子猫たちにとうとう善悪の区別を教えられなかったことぐらいかな。我ながら無念だ。
せめて窓ガラスに『さよなら』という文字を爪で刻みたかった。ホテルを静かに去ったあの女の人は、どんな思いでこのメッセージを書いたのだろう。黙って去ればいいものの、結局は一夜を共に過ごした男のことが忘れられないのか。
そして、さよなら。彼女を忘れない。
腹が減る。港付近をよろよろと歩いていると、気前のいいおっちゃんがとりたての魚を快晴な空の下で、さばいている。俺の足が止まり、おっちゃが自分の気配に気づいてくれるまでそこに居座ることにした。
真剣な目つきで作業が続いている。俺の存在はとっくに視界に入っているはずなのに、おっちゃんは魚に夢中だ。俺は「声」をだした。
「おっちゃん! 俺にちょこっとくれないか?」
「あいよ! 今日はサービスだ! 全部あげちゃうよ!」
ヤッターと心の中で喜び、俺とおっちゃんは初めて目を合わせた。
なんだろうね。あの時の彼女は悲鳴一つすらあげなかったのに、目の前のおっちゃんはあまりの衝撃的な光景に、動揺し、まな板に乗っていた切りかけの魚を地面に落とした。
「あー。もったいねぇ」
これ以上人間を驚かしたくはなかった。でも、やはり魚はもったいないものだ。落ちた魚を哀れに見届け、俺は顔をあげた。おっちゃんは口から泡をだして、倒れていた。俺はため息をついていいのだろうか。足元の魚をくわえ、俺は港をあとにした。
街をブラブラしていた。
俺が可愛い鳴き声を上げれば、そこらへんを歩いている優しいおばあちゃんが、なにかを恵んでくれる。そして、平日だというのに、若いカップルをみつけた。オスだけどメスのように瞳を潤ませば、まぁ可愛い猫ちゃん! だなんてお持ち帰えりしてくれるのかなって思っていた。
「キャ! 黒猫! しっ、しっ、あっちに行って!」
「おい。さっさとどこか行けよ!」
女が手で俺を払い、彼氏が険悪な顔で俺を見下ろした。
キー! 俺だって好きで黒猫やってんじゃねぇ! てか、お前たちも充分顔が黒いじゃん! 世間で言うガングロってやつ? ご主人様が過去に付き合っていた男もそういう系のヤツだったな。まぁ。三日で別れたけどさ。
おまえたちにこれだけは言っといてやるぜ。
黒いやつが黒猫に、黒いっていう資格はないんだよ!
「声」で伝えられないのがちょっと悔しいが、俺はめいっぱい鳴いてやった。イケメン彼氏に腹を蹴られるまで。
うわーん。ホームシックだ! 人間はみんな優しい生き物だと思っていなかったけどさ、彼女と同じ十代の若者の態度がけしからん。
行く当てもなく、俺はブロック塀に飛び乗り、右に曲がったり左に曲がったり、目的地も決めずに彷徨っていたら、学生の群れをみつけた。
よくみたら彼女と同じ制服を着た女子がいるじゃないか。もしかして、もう下校時間かな。俺は塀の上に座り込み、しばらく学生の様子を眺めていた。もしかしたら、彼女に会えるではないかという期待を持って。
「じゃーねー、華夜ぁ」
耳がピンと立つ。待ちに待っていた彼女の名前が聞こえた。数人の女たちが道路の真ん中で立ち止り、手を振って、彼女を見送った。
「じゃ。また明日ね!」
遠ざかる友人たちに、彼女も負けじと声を張り上げた。なんだ。けっこう人間関係がうまくいってるじゃないか。俺は不思議そうに彼女の後姿を視線で追った。
マユナシには岡野家を出て行けと言われたものの、今の俺にとって、岡野華夜は新しいご主人様なのだ。たまに、俺の耳を引っ張ったりして、イタズラをしてくるが、拓馬よりマシな行為だ。アイツは俺を見る度に振り回すから。
ここは大人しく彼女の腕の中に帰ろう。やっぱり彼女のそばにいるほうが、俺の心が落ち着く。肝心のマユナシには、真剣に謝ればいいか。安直すぎる片付け方だ。
彼女の優しさの海にダイブだ! そう思った矢先に、気に食わぬ声が耳に入った。
「華夜。一緒に帰ろう」
男の声だ。男の姿だ。それも若者。気安く彼女の名前を呼び、引き止めた。なにやら二人はその場で、会話を交わしている。ひょこひょこと歩きながら、なんとかその内容を聞いた。
「一緒に帰ろうなんて、相馬くんらしくないわね。どういう風の吹き回し?」
「前に言ったと思うけど、僕は君が好き――」
「答えはごめんなさいよ。あたしはあなたみたいな人が嫌いなの」
彼女は、また歩き出した。親しい関係というより、彼女が完全に男を避けている感じがした。
「僕のすべてを知っているのかい?」
またしつこく男が、彼女を引きとめた。うんざりした表情で、彼女が声を張り上げた。
「あなたみたいな、人の心を弄ぶ人が嫌いなだけよ!」
「人間不信なの?」
彼女のキレた顔をみた。騒がしい通学路の中で、相馬という男子の頬を打った音が掻き消された。男のほうは、顔を歪める素振りも見せず、何事もなかったように優しく彼女を抱きしめた。
「よしよし。僕がそんな君のすべてを受け止めるよ。前の彼のようにとはいかないけど、僕が君を守ってあげるよ。絶対裏切らないから」
俺は見逃さなかった。彼女の心が揺れ動く瞬間を。下唇を噛み締め、瞳が潤み、目の前のムカつく野郎を受け入れようとしている。
その光景をただみているだけの俺に、イライラする俺がいた。所詮はただの黒猫。彼女を見上げることしかできない存在。彼女の腕の中に居場所をみつけるしかない俺。
彼女を守りたい。彼女の本音を聞きたい。ありとあらゆる衝動が、俺の体をブロック塀から飛び出した。
「チャ、チャボ?!」
見事、相馬の背中に着陸した。思いっきり立てた爪が、皮膚に食い込んだ。短い呻き声をあげたあと、相馬は俺の首を掴み、アスファルトに下ろした。
「な、なんなんだ、この猫は!?」
背中を擦りながら、相馬は彼女にたずねた。
「あたしの家で飼っている猫よ。海で拾ってきたの……」
彼女が俺を抱き上げた。いつものように頭を撫で、いつものように俺に話しかける。
「どうしてここに来たの? もしかしてマユナシにでも追い出されたの?」
俺は鳴き声で返事をする。彼女はクスクスと笑っている。その背後にいる相馬は俺をじぃーと凝視して、何かを企んでいる顔だった。
「思い出したよ!」
相馬の声に、彼女が振り返ると同時に、俺は相馬の腕の中に移っていた。 一瞬の出来事だった。
「たしか、この猫は僕の近所で飼われている猫だったよ! そういえばよく飼い主が探し回っていたんだっけ」
さっきとは全然声のトーンが違う気がした。まさか彼女を出し抜いて、俺と引き離すつもりなのか。いや、もしかしたら、俺のご主人様が本当に探しているのか。男に捨てられて、早速俺の存在にすがり付きたくて、街中を探している可能性は、これまでのことを考えればきわめて高い。
彼女は俺を、相馬から取り戻そうとする様子もなく、さっきまでの強気の発言もなく、その口調はどこか別れを告げていた。
「そうなんだ。ちゃんと飼い主さんがいるなら早くいいなさいよ。チャボって変な名前つけてごめんね」
最後に彼女が俺の顎を撫でた。「声」をだせたら、なにかを伝えられたはずだった。俺の口から出るのは、そこらへんにいるただの猫の鳴き声だった。
相馬の腕の中から、彼女の姿を消えるまで、何かを訴えたくて、じっとしていた。風が俺の頭を撫でた。誰もいなくなった通学路になった。見上げると、相馬は辺りをキョロキョロしながら、何かを探している。
「僕はね。お前みたいな、馴れ馴れしい生き物が嫌いなのだよ。今の華夜に必要なのは、男なんだ。そうさ、ユウのように彼女の心を夢中にさせる魅力をもつ男が求められる」
ブツブツと独り言を呟くのはいいが、俺を早くご主人様のところに案内しろ。抵抗もせず大人しくヤツの腕の中にいると、電柱のそばにおいてある、丸い箱のようなものに入れられた。
わけの分からないまま、とりあえず一声鳴いてみた。空を見上げれば、不気味に笑う相馬が静かにその蓋を閉めた。
視界は真っ暗。異臭が鼻に充満する。
俺は丸い箱の中に閉じ込められた。天井を爪で引っ掻いても、びくともせず、また座り込んだ。
まさか最初から、こうするつもりで、彼女と俺を引き離したのか。
ご主人様が俺を探しているなんて、嘘だったのか。
うわーん。俺は泣き声を上げた。
誰かがこの「声」に気がついてくれ。
外にいた相馬の気配が消えた。俺は一匹閉じ込められた。
コツコツと靴音が、耳に聞こえた。丸い箱の中にいられて、長い時間が経過している。
臭いに鼻をやられ、俺は出る限りの「声」をだした。早く外の新鮮な空気が吸いたくて。箱の壁に寄りかかった。
「おーい! そこに誰かいるのか? 助けてくれ!」
ピタと靴音が止んだ。まさか、「きゃ! 箱が喋ったわ!」なんてどこかに走り去ったんじゃないだろうな。嫌な予感を走らせながら、俺は外の反応を待った。
その時だった。光が箱の中に差し込んだ。見上げれば、蓋が外されて、薄暗い空が広がっている。顔を箱からだした。
「いやーだ。紫苑じゃない?」
聞き覚えのある女の声。正直ギョッとした。片手には買い物帰りを伺えるビニール袋が握られている。イマドキを感じさせるファッションを着こなし、俺の名を呼ぶのは、あの人しかいない。
「姫子――」
それがご主人様の名前。あれほど嫌っていたキツイ香水の匂いが、なんとなく懐かしく思えた。
「あんたさ。いつから普通の野良猫になったわけ? ゴミを漁るなんて」
彼女があいている手で、俺のいた箱を指差した。箱だと思っていたのは、ゴミ用のポリバケツだった。どおりでひどい異臭が漂っているわけで。
姫子はそれだけいうと、何食わぬ顔でその場をあとにした。
「ちょっと待てよ!」
アスファルトに足をつき、急いで姫子のもとに走った。ひどすぎる。飼い猫を置いていくなんて。
「もしかして、俺を探してたってことは……」
「全然! 他の猫を探そうとは思ったわよ。そうね、今度は黒猫じゃなくて、白猫ちゃんにしようかと思ったほど、あんたのことは今日みつけるまで忘れてたわよ!」
「マジで?」
足取りが乏しくなり、彼女から完全に離された。靴音はかまわず先を歩いている。そうだよな。勝手に出て行って、心配するようなご主人様なわけがないか。ため息をついた。
「ふー。そう簡単にあんたを捨てるわけがないでしょ」
一息をつき、重たそうなビニール袋を下ろして、姫子が立ち止まった。俺の体が知らずに宙を浮き、姫子の足元に置かれた。
「……姫子?」
無様に俺の泣き顔が晒された。
「あんたは、私の一生涯のパートナーなのよ! もうすっごく心配して、恋愛も手につかなかったんだから」
その割には大量の買い物をしているな。また男に振られてやけ食いを起こすつもりだったな。
「じゃ。帰ろうか」
そういって、俺とご主人様――魔女・如月姫子は夜の道を歩いた。
今頃、彼女はどんな夜を過ごしているのかな。
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2004/06/21(Mon)20:21:01 公開 / 葉瀬 潤
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■作者からのメッセージ
こんにちは。久々に更新します。わたしやこの作品のことを覚えている人がいたらすごく嬉しいです。。
勉強や体験入学に追われて、なかなかここに足を運ぶことができなくなって、すごく寂しい思いをしていました。。
これからも少しずつですが、更新しながら、いろいろな作品に目を通して、勉強させていただきたいと思います。
遅くなりましたが、千夏さんに。。
「岡野」の苗字は、私も大好きな昭仁さんから取りました。。