- 『It's a...』 作者:ドンベ / 未分類 未分類
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彼女がファーストネームで呼ぶ男は、実は一人だけだったりする。
もちろんそれは、彼女にとって彼氏と呼ばれる立場の男だ。
「い、痛い……」
俺の目の前で彼女は転んだ。
学校の校庭、夏と言うこともあり青々と輝く芝生の上に、情けない格好で膝をつく。
俺はわざと大仰な調子で言う。
「足下をよく見ないからそうなる」
「こ、転んだのに怒られてる、わたし……」
「怪我は?」
「……優しくして誤魔化そうとしてる」
見下ろす俺の顔を、非難気な視線が射抜く。
その視線だけで、いつもの如く、俺は白旗を上げる。
「ごめん。ちょっと楽しかったから」
「……いいもん。わたし、どうせドジだもん」
「そんなところもなかなかに可愛い」
「ま、またすぐ冷やかす!」
叫ぶように言って、彼女は立ち上がる。
顔を真っ赤に染め、それでもまんざらではないような表情で、
「そ、そーゆーところ良くないと思う! わたしっ!」
「大好きだし。これくらいよくないか?」
「は、恥ずかしい!」
大声での意思表示。
それから周囲を見回し、身を縮める。
「……みんな見てる」
「見せたれ見せたれ。減るもんじゃあるまいし」
「……」
無言で睨まれた。
さすがにやりすぎたらしい。
「着替えてこいよ。時間、もうないぞ?」
「あっ」
小さな悲鳴。
校舎の壁にある時計を見て、
「ご、ごめんなさいっ! わたし――」
「行ってきなさい。わかってるから」
「うんっ」
途端に笑顔になり、彼女は走り出す。
校舎に入る間際、後ろを振り向いて、
「わ、わたしも結構大好き!」
「なんじゃそりゃ」
「待っててね!」
「……はーい」
今度はこっちが恥ずかしくて苦笑した。
一部始終を見ていた友達が歩み寄ってくる。
そして、
「お前、辛くないのかよ」
俺にとっての世界って存在は、世間で言われるほどの汚い場所ではない。
夢中になれるものがあって、気持ちのいい汗を流せる場所がある。
優しい友達がいて、大好きな彼女がいる。
俺はその存在を、簡単に肯定できるのだ。
「……見てて痛いぞ」
友達が言う。
「本人はそうでもないんだ、これが」
微笑みながらそう答えを返した。
――彼女との馴れ初めは、二年前の春、部活で顔を合わせたあの瞬間に遡る。
あの時からどうにも頼りなく、それでいて何事にも一生懸命な姿に、俺は惹かれた。
そして簡単に惚れた。
人より早く彼女との距離を縮め、その想いは加速度的に膨らんでいった。
自分が得た、自分でも信じられないくらい純粋な気持ち。
翌日から世界は輝きを増し、俺はその世界の一員であることが誇らしかった。
辛いことも苦しいこともそれなりにあったけど、彼女の笑顔を見るだけで元気になれた。
馬鹿だと言われれば……うん、たぶんその通りだ。
俺は馬鹿みたく彼女のことが好き。
それだけで、それ以外の全てがどうでもよくなるくらいに。
「……だっておかしいじゃんか」
友達は言う。
それだけ気づかってくれることを、素直に喜べる自分がいる。
「そりゃ他人のことだけど……それでもお前さ、もっとなんか他の方法ってあるだろ」
「俺、知らないから」
「……それが幸せなのかよ」
「これも幸せなんだよ」
体操着から制服に着替えた彼女が、校庭に出てくる。
やっぱり危なっかしい足取りで俺に近付き、
「ありがとう、先輩」
俺を、そう呼ぶ。
「ごめんなさい……カバン、見ててもらって」
「言うでない。部室に鍵のついてない我が校が全て悪い。一々更衣室まで持っていくのも面倒だし」
「……辞書入ってて重いし」
「そういう魂胆があったのか」
「う、うそうそ!」
慌てて手を振るその姿に微笑む。
俺の隣で、友達はうつむいてため息をこぼす。
「お、お礼のジュース!」
言って、彼女は缶ジュースをつきだした。
「珍しく気が利くな」
「いつもありがとうございます、先輩」
「世話した料金は後払いだったよな」
「は、初めて聞いた!」
身を乗り出し、俺に向かって彼女は叫ぶ。
その肩越しに、校舎の脇に現れた制服姿を見る。
「ほら、待ってるぞ」
缶ジュースを受け取り、彼女の背後を指さす。
途端に彼女の顔は赤く染まる。
「こ、校門で待っててって言ったのに……」
「文句は本人に言え」
「……うん」
優しい表情で彼女はうなずく。
それから、俺……いや、休憩中の部員全員に向かって、
「お、お先に失礼します!」
「早く行け」
「ま、また明日!」
彼女は走り出す。
小さな背中を見送っていた俺の耳に、その声は届く。
「ヒロくん!」
「……よく平気で見られるもんだね」
友達はやっぱりため息をついた。
「好きな女の彼氏だぞ? 筋違いの嫉妬だって許されるだろうが」
「嫉妬してないからな、俺」
「あー、もう意味わかんねぇよお前」
「俺もよくわかってない」
この感情の正体。
それは本当に曖昧で確かめることすら困難だけど……でも、悪くない。
悪い気分にはならない。
この輝いた世界の中で、
「先輩」
そう呼ばれる関係の中で。
満たされているのかもしれない。
心の底から好きなんだ。
その先に考えが及ばないくらいにさ。
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2004/05/07(Fri)21:16:01 公開 /
ドンベ
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■作者からのメッセージ
単純なラブストーリーです。
こんな人間がいてもいいんじゃないかと。
幸せの定義は人によって異なって当然だと、そんなことを何となく考えて書きました。
軽いのでぜひどうぞ。