- 『プラトニック』 作者:森 ふづき / 未分類 未分類
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全角14485.5文字
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原稿用紙約45.1枚
彼女は、いつも屈託の無い顔で笑う。
優しい目で見つめ、はっきりとした声で話す。
常に背筋をピンと張り、颯爽と歩いている。
視線はいつも彼女を追っていた。
「ちょっと、智久君。ちゃんと話聞いてる?」
彼女は、振り返る。
「聞いてるよ。だから、スプーンで人を指さないようにね。」
「相槌も無かったら、聞いてくれてるのか分からないわ。」
不満げに、彼女はスプーンをコーヒーカップの中に戻した。
「下手に相槌打ってほうが、話を聞いていないように感じるでしょ。だから、じっと耳を傾けて聞いてるんです。」
「聞いてるならいいけど。」
香ばしい香りが、部屋の中に充満している。
「はい、どうぞ。」
机の上に置かれたコーヒーにそっと口をつける。軽く苦みばしった味が喉をつたう。彼女は、好みの味を知ってくれている。
「相変わらず、コーヒー入れるの上手いね。」
彼女は微笑む。
「おだてても駄目よ。」
「本当だって。」
おもわず、自分も微笑んでしまう。彼女は目の前の席に座って、サイドの髪を耳にかけた。短く切ったショートの黒髪は、スレンダーな彼女の体型とバランスが取れている。
「さっきの話の続きけど、智久君も来年は大学受験じゃない。合格の鍵を握るのは二年の夏からなのよ。この時期に、しっかり基礎を固めておけば受験も楽勝ってこと。」
まるで、どこかの予備校の宣伝文句のようだが仕方が無い。
「つまり、自分の所の予備校に通わせたいって話でしょ。」
彼女は、駅で二つ分のところにある予備校の講師なのだ。
「前も言ったとおりに、予備校に通う気なんてないから。」
「どうしてよ。」
急に機嫌が悪くなる。ころころと気分が変わるのも彼女の特徴だ。
「別に、今の成績が悪いって訳でもないし、そんなレベルの高い大学を狙うつもりも無いからね。必要ないよ。」
「確かに智久君は優秀だけど・・・ああ、せっかく智久君と接点が持てる良いアイディアだと思ったのになあ。」
ふくれっ面のまま、カップに口をつける。
学生の僕と社会人の彼女、しかも予備校の講師だと夜遅くまでの勤務もざらじゃない分、彼女は僕と一緒にいる時間を望んでいるようだ。
「別にこうして一緒にいるんだから、問題ないじゃない。」
彼女がそう思ってくれているのは嬉しいが、まだ受験に追い立てられるような生活は送りたくはなかった。友達との付き合いもあるし。
「それはそうだけど・・・・・あ、コーヒーお代わりいる?」
「ああ、お願い。」
カップを差し出すと、彼女はクスリと笑った。
「何?」
「ううん、昭仁君は甘党なのになと思って。智久君みたいに、ブラックじゃ飲めないのよ。ミルクも、砂糖も大量に入れて飲むじゃない?随分違うわね。」
彼女は幸せそうに微笑む。昭仁の事を考えて。そして、これが彼女の一番綺麗な瞬間だ。
「父さん、何時に帰ってくるの。」
「今日は、部活で遅れるって言ってたわ。昭仁君も顧問なんか引き受けなければ、もっと早く帰ってこれるのにね。」
「そう。」
席を立つ。世界の色は変わってしまった。
「あら、智久君。コーヒーはいらないの。」
「部屋で飲むよ。明日までの課題をやらなきゃ。部屋まで持ってきてもらえる。母さん。」
「ええ、わかったわ。」
母さんは、スプーンをもった手をあげた。
夏休みが近づいてきた7月初旬。生温い教室の中で、三者面談のプリントと向かい合っていた。
「なーにしてんだ、高杉。」
パンを頬張りながら、浜崎裕一が近寄ってくる。
「なにしてんだは、おまえだよ。昼飯の時間にはまだ二時間ほど早いぜ。」
「しょうがねえだろ。朝練あって腹減ったんだから。」
悪びれた様子も無く、浜崎はなおもパンに噛り付く。浜崎は一日に三個はパンを食べている。昼飯前と、弁当を食べた後、そして放課後。いくらバスケ部とはいえ、彼の食欲には恐れ入る。帰宅部の自分には考えられない消化器官だ。
「あれ、それって面談のプリントじゃん。」
パンを食い終えた浜崎はプリントを覗き込んできた。
「ああ、浜崎は進学だったよな。」
「まあな。S大かK大の体育科に入れりゃいいとは思うけど。ま、まだまだ当分先の話だからな。」
「そんなこと言ってると、危ないぜ。受験の鍵を握るのは二年の夏からだからな。」
彼女が言っていた文句をそのまま引用してやった。
「お、脅かすなよ。お前もなんかやってる訳じゃないだろ。」
「あたりまえだろ。今からそんなことに気使っててどうすんだよ。そんなのは三年になってからで十分。」
「ま、お前は元から成績いいしな。余裕だろ。俺なんてマジやべえよ。夏の大会に専念してたもんだから、今度の期末マジピンチ。」
浜崎は頭を抱え込んだ。
「お前、授業中もしょっちゅう寝てるもんな。二年つっても、期末は平常点に響くぜ。」
「シャレになんねえよ。頼む!高杉!ノート貸してくれ!」
「ま、お友達価格で助けてやらんことも無いけど。」
「せこいなあ。友情に金持ち出すかよ。」
「だから、お友達価格っていってんだろ。これでどうだ。」
指を二本差す。
「高えよ。一本!」
「しょうがないな。それで、手を打とう。忘れんなよ。」
鞄の中からノートを取り出し、浜崎に渡す。
「うーっ、感謝するぜ。」
浜崎は手を合わせる。まあ、ノートにはポイントを絞って書き取ってあるから、それさえ覚え切れれば赤点になることはないだろう。
「そういや、高杉んとこは三者面談どっちが来るんだ?噂の母上のほうか?」
「噂ってなんだよ。」
「去年さ、入学式の時話題になったじゃん。保護者の席にえらく若くて美人がいるって。あれって高杉の母上だろ。」
「ああ、あの人イベント事好きだからな。」
「否定しねえのかよ。ま、あんだけ綺麗な母親だったら俺も自慢するなあ。けど、マジ若いよな、高杉の母上。一体何歳なのよ。」
「いちいち、親の年なんて覚えてられっかよ。ほら、授業始まるぜ。」
調度先生が入ってきて、浜崎は慌てて自分の席に戻っていった。そのタイミングの良さに救われた。
暑い日だった。朝見た天気予報では、今年の夏の最高気温を記録するだろうといっていたのをふと思い出す。一歩踏み出すたびに襲ってくる灼熱の日差しと、こもった重苦しい湿気はじりじりと体の水分を奪っていく。冷房は効いていないとはいえ、さっきまでいた教室の中のほうが日差しが当たらない分だけマシだった。のろのろ歩いている横を水泳道具を手に持ち、小学生がはしゃいで通り過ぎいく。彼らには暑さは感じていないように思えた。目の前には真っ青な空に、巨大な入道雲が幅をきかせようと迫っている。それでも、広い青さに比べれば、入道雲はちっぽけなものでしかなかった。
家に着いた頃には、制服のワイシャツはじっとりと汗を含み体にまとわりついていた。その不快感をこらえながら、マンションのエントランスホールに足を踏み入れる。その途端気持ちの良い清涼感を感じた。いくらか値の張る分、このマンションは防犯システムが厳重な上夏は冷房、冬は暖完備が整っている。両親がここに住居を構えるに至ったのもそれが大きい。幾分汗が引いていくのを感じながら、五階の自宅へと向かう。ふと腕時計を見やると、五時少し前を指している。普通この時間帯は両親とも仕事で家にはいない。出迎えてくれるのは静かな空間だけ。寂しいと感じたことは無かった。それよりも、渇いた喉を潤したい感情が先にたち、鞄から鍵を取り出し鍵穴に差し込んだ。
しかし、回してみても手ごたえが感じられなかった。鍵を掛け忘れるなんてヘマはしない。不思議に思い、ゆっくりと音を立てずにドアを開けた。玄関には黒いパンプスが無造作に脱ぎ捨てられている。廊下には大きな鞄からはみ出し散乱したプリント類。溜息をつき、パンプスをそろえる。散らかったプリントを一枚一枚鞄の中へと戻す。今日数学の時間に見た公式が見えた。それらの作業が済み、まっすぐにリビングへと向かうと、ソファの影から形の良い足が伸びていた。
「強盗が押し入ったみたいな散らかし方しないでよ。」
ソファから軽く声が上がる。
「ああ、智久君。おかえり。調度良い所に帰ってきたぁ。お願い、お水一杯頂戴。」
「お帰りじゃないよ。どうしたの。」
「あんまり暑くて予備校で一回吐いちゃった。水分も食べた物も全部。もう、喉がカラカラよ。」
起き上がることも無く手を高く上げ、ヒラヒラと振っている。仕方なく鞄を机の上に乗せ、台所へ水を取りに行く。ついでに自分の分の麦茶もグラスに注ぎ、ソファへと戻った。
「はい。」と水の入ったグラスを渡す。
「麦茶のほうがいい。」
「はいはい。」
麦茶の入ったグラスと交換し、自分はグイと口の中へと流し込んだ。彼女はけだるそうに体を起こすと、ソファに背をもたせてゆっくりと麦茶に口をつけた。
「吐いたなら腹も減ってるんじゃない。何か食べる?」
「いらない。多分食べても又吐いちゃう。」
尚も具合悪そうにソファに寝転んだが、水分を取った為か幾分顔色は良くなった気がする。
「そう。父さんは、まだ帰ってないの。」
「六時ぐらいには帰ってくるって言ってたわ。全く、クラブの顧問なんて面倒くさいこと引き受けるから。貴重な休みを無駄にしてるわ。」
そういえば、夏休みに入ったら旅行でもしようと父さんは言っていたが、クラブの練習があるとかで計画が流れてしまっていた。ここ最近妙に彼女が不機嫌そうにしていたのはそのせいか。父さんは彼女と違って公務員なのだから早々思い通りには計画は立てれないのはしょうがないだろうに。心の中では呆れていたが、あえて口には出さなかった。
彼女はぼおっと天井を見つめていた。ソファに寝転んでいるせいで、せっかくまとめられて髪がくしゃくしゃになってしまっている。化粧はナチュラルなのに口紅がやけに鮮やかな紅色だった。薄い紅い唇がすっと開く。
「智久君。学校の方はどう。」
「別に問題は無いよ。それなりに上手くいってると思うけど。」
彼女はふっと笑った。
「余裕ね。優秀な息子を持って私は幸せ者だわ。」
「そりゃ、どうも。」
彼女は楽しそうに笑っている。
「あ、なんかアイスが食べたくなってきた。ね、智久君。アイス買ってきて。」
「はいはい。」
我ままで気まぐれ。諦めてコンビニに行くしかない。服を着替える前で良かった。帰ってくる頃にはまた汗でクタクタになってしまうだろう。あの暑さを再び浴びることになると思うと少し溜息が漏れる。
「私、バニラのカップね。」
「はいはい。分かってますって。」
全く能天気なんだから。鞄から財布を取り出し、玄関へと向かう。靴を履こうとしていると、玄関の扉がガチャリと開いた。
「あ、智久君。ただいま。」
スーツ姿の背のひょろっと伸びた男が、にっこりと笑った。
「父さん。おかえり、早かったね。」
「うん。期末テストの前だからね。部活もないし、早めに仕事が終わったものだから。はい。これ、お土産。」
差し出されたコンビニの袋を受け取ると、ひんやりと冷たかった。中を覗いてみると、アイスが三個入っている。もちろんその中の一つはバニラアイス。ふっと笑いがこみ上げてくる。
「手間が省けた。」
「うん。何が?」
「いや、こっちの話。」
偶然か夫婦間に存在するテレパシーか。呆れるやら感心するやら。
「昭仁君。またチョコバーなの。本当に甘党なんだから。」
望みのアイスが手に入ったのと、父さんが早く帰ってきたのが手伝って彼女の機嫌はすこぶる良い。父さんもにこにことチョコバーに噛り付いている。さっきまでの具合の悪さはどこかへ吹き飛んでしまったかのようだ。レモン味のカキ氷を口に運びながら、二人のやり取りを見る。
「本当うらやましいわ。甘いもの好きだっていうのに、昭仁君全然太らないんだもの。」
「祥子さんだって、太ってないでしょ。」
「私の場合、日々の切磋琢磨の賜物なの。昭仁君は特に何かしているわけじゃないじゃない。」
行儀悪く彼女はヘラで父さんを指す。あいも変わらず、父さんの顔からは笑顔が絶えない。
「うん、きっと神様はふくよかな女性が好きだったんだね。」
「は。」
彼女と声がはもる。
「神様はふくよかな女性が好きだったから、世の中の女性をそんな風に作ったんだ。けど、男性までふくよかにしてしまったら、地球上の食べ物があっという間になくなってしまうじゃない。だから、男性はほっそりした体格にしたんだよ。」
言葉が出なかった。なんだかこじつけみたいに聞こえるが、父さんが言うと妙に説得力もあった。穏やかな話し方と人の目をじっと見つめながら話す癖がそうさせているのか。彼女はなるほどといった顔でうなずいている。父さんの言葉に本当に影響されやすい。お互いに顔を見合わせ、微笑んでいる。なんだかこの場所に居辛くなってしまった。そういえば、まだ汗の染み込んだ制服を着替えていない。
「俺、風呂入ってくる。」
カキ氷を空にし、立ち上がると二人はにこにこと頷いた。
リビングに置きっぱなしの鞄を取り、自室へと入る。中学二年時に作られた自分だけの空間だ。部屋の中は、物が少なくさっぱりしている。これという趣味を持っているわけではなかったから、物が増えることも無かった。簡易なパイプベットの上に鞄をほうり投げる。すると、先ほど財布を取りだした時にしっかりと閉めておくのを忘れたらしく、空きっぱなしの鞄からは教科書や筆記用具などが飛び出しベットと床にばら撒かれてしまった。
「ああ、もう。」
無性に腹が立つ。仕方なく足元に転がってきたシャープペンシルを拾い上げる。ふと、見慣れないものが床に落ちているのに気が付いた。薄い水色の封筒。表には自分の名前が書き記してある。手にとって裏返してみると、知っている子の名前が書いてあった。「長谷川由美子」、隣のクラスの女子だ。話したことはないはずだ。特別目立つ存在でもなかったが、結構可愛いし清純そうだと男子の間では密かに人気がある。胸が軽くはねた。封を切って、中身を見てみる。便箋が一枚。
高杉君のことが好きです。
簡潔明瞭な文章だった。この手の手紙を貰ったことは初めてではないが、こんなに短い文なのは今までにない。自分を思ってくれていることに嬉しい気持ちもあったが、この子が自分に何を望んでいるかまでは分からなかった。はっきりと付き合って欲しいと書かれている訳でもない。とりあえず便箋を封筒の中に戻し、机の一番下の引き出しにしまった。いろいろと考える前にシャワーを浴びたかった。
今まで付き合った子は一人いる。中学の時の一つ年上の先輩だった。気さくな性格で、姿勢の綺麗な人だ。先輩が高校に上がるのと同時に自然消滅してしまった。それから、恋人というのは作ってはいない。機会はあったが、面倒くさかった。だから・・・・
「智久君。」
ドアの向こうで声がしたので、シャワーを止める。
「何。」
「夕飯できたわよ。」
曇りガラスの向こう側に軽く彼女のシルエットが見えた。
「分かった。今出る。」
頭を振り水気を飛ばしていると、軽くあいたドアの隙間からバスタオルが差し出された。
「ありがとう。」
タオルを受け取るが、彼女の姿がドアの向こう側から消える気配が無い。
「そこにいられると出れないんですけど。」
「別に恥ずかしがることないじゃない。」
「高校生にもなって、親の前で裸のまま出て行く息子がいるわけないでしょ。」
「ちぇ。じゃ、早く来てね。」
やっと、彼女のシルエットが消えた。濡れた髪ををがしがしと拭いたら、ちょっと頭が痛かった。
翌日、天気予報は外れて軽い小雨交じりの朝を迎えた。多少の雨ではこの暑さ拭いきれないらしく、どんよりとした空気が広がっていた。教室の中は人工密度が高いだけに、暑さと湿気からくる不快感は上昇する。
「高杉。お前、今日暇?」
午前の最初の授業が終わり、皆が一休みをついている時、あいも変わらずパンに噛り付いている浜崎が寄ってきた。
「暇じゃないけど、何か用。」
「今日土曜だし、午後から遊びに行かないかって話しになってんだ。お前、来れる?」
「期末テストが控えてるってのに、余裕だな。」
「違うって。テスト前のただの息抜き。で、来れる?」
テスト勉強を軽くしようとしていた。特にしなければならないほど成績は悪くは無いけど、悪魔で見直し程度くらいはと思っていたくらいだ。
「別にいいよ。メンバーは?」
その言葉に高杉はにやりと笑う。
「聞いて驚くなよ。女子を含めた三対三のカラオケ大会。中村が企画したんだ。」
特に驚きはしなかった。中村は去年クラスが一緒でよくつるんでたが、今年はクラスが分かれてしまっている。
「へえ、女の子って誰が来るんだ。」
「それはお楽しみってことで。一端家に帰ってから、駅前に二時集合だから遅れんなよ。」
「分かった。」
高杉は楽しそうに自分の席へと戻っていく。案外一番楽しみにしているのは奴かもしれない。
「女の子か。」確かに男だけのカラオケよりは盛り上がるだろう。けれど、高杉ほどは喜べなかった。頭に長谷川由美子の顔が浮かぶ。今日はまだ会っていない。あの手紙の真意はなんだろう。ただ気持ちを伝えたかったのか、それとも、付き合って欲しいということなのだろうか。自分の中では答えは出てはいるが、相手の真意が分からないだけに、行動のとり様が無い。とりあえず、相手の出方を待つしかなかった。それでも、居心地の悪いというか喉につっかえたような気分は消えない。
午前の授業はまだ終わっていない。背伸びをし、もやもやとした頭をすっきりさせようとした。
「面倒くせえ・・・」
「何が?」
ポツリと出た独り言に思いもかけず声をかけられ、驚き周りを見る。すると、隣の席の成瀬晴美がきょとんとした顔でこちらを見ていた。彼女の机の上にはもう次の授業の用意がしてある。
「何が面倒くさいの?カラオケ?」
もう一度成瀬は尋ねてくる。
「聞いてたんだ。さっきの話。」
「人聞きの悪い。聞こえてきたの。」
笑いながら訂正する。案外大口を開けて笑う。今まで物静かな、だからといって暗いという訳でもないが、いつも静かに休み時間を過ごしているようなタイプだったから意外に思えた。
「面倒くさいのなら、そんな約束しなきゃいいのに。」
「いや、カラオケが面倒くさいわけじゃないんだけど。いろいろとね。」
「そう。まあ、人生色々と面倒くさいよね。」
あっさりとそう答えた彼女は、また前を向き直した。成瀬との会話はそれで終わりだった。成瀬との会話らしい会話をしたのは、ものの二十秒程だった。この間席替えで隣になって、一週間目のこと。人生色々と面倒くさいよね。その彼女の言葉がやけに印象的だった。確かに、人生は面倒くさい。
土曜に帰宅しても、もちろん家には誰もいない。学校のある日だからもちろん帰ってはいないし、彼女も予備校の仕事は午後からが本番だ。静かな空間で制服から私服に着替え、早々と家を出る。少し腹が減っていたが、カラオケの前に皆で飯でも食べに行くだろうと思いそのまま出てきた。マンションのロビーを出たところで腕時計を見る。約束の時間には余裕があった。
朝から降り続いている雨はまだ止んでいない。ビニル傘を差し、のんびりと駅へと向かって歩き出す。すれ違う小学生は今日は水泳道具は持っていなかったが、代わりの傘を振りかざしながら意気揚々と走っている。歩道に沿って木々が立ち並ぶ住宅街を抜けると、ポツリポツリと個人店が顔を出し始める。それはどんどんと数を増し、軒並み店を構えている商店街へと続く。その先が目的地の駅だ。
土曜の午後ということで、学生の姿が多い。集団で楽しそうに笑っている女の子達。ハンバーガーにかぶり付きながら話をしている学生。同じ学校の人間もちらほらとうかがえた。浜崎との待ち合わせに使う時計台の下には、まだ人の姿はない。時刻は一時半を過ぎたくらいだった。雨の中、三十分も外で待っている気にはなれない。駅に隣接したデパートで時間でも潰そうか。
「・・・・高杉君。」
ふと見ると、驚いた顔で長谷川由美子がこちらを見ている。彼女は制服ではなく、かわいらしい水色のワンピースを着ていた。差している傘とおそろいの色だ。長谷川由美子は、戸惑いながら周りを見渡す。
「奇遇だね。誰かと待ち合わせ?」
「う、うん。二時にここで友達と待ち合わせしているんだけど・・・」
同じ時間に同じ場所で待ち合わせ。偶然にしちゃ、出来すぎている。
「もしかして、その友達の中に浜崎って奴入ってる?」
「うん。同じクラスの友達の部活の友達らしくて・・・」
なんてこった。ということは、俺たちは同じ目的でここに集まったんだ。まさか浜崎の奴俺たちのことを知ってて・・・・
「あれ?もう来てるよ。俺が一番かと思ったのに。」
ちょうど良いタイミングで浜崎が現れた。能天気に鼻歌なんて歌っている。長谷川由美子の姿を見ると笑顔で声をかける。
「えっと、長谷川さんだよね。俺、佐々木と同じ部活の浜崎っていうんだ。で、こっちが高杉。」
「こんにちは。」
長谷川由美子どうしたら良いのか困った表情で、ぺこりと頭を下げる。仕方なく、こちらもお辞儀を返した。
「まだ、佐々木達は来てないんだな。」
きょろきょろと周辺を見渡す浜崎の脇腹をこっそりと突く。
「なんだよ。」
「長谷川さんもメンバーの中に入ってるのかよ。」
「ああ。そうだけど。」
軽く頭が痛くなった。相手の出方を待とうと思った矢先にこんなことになるなんて。長谷川由美子も戸惑いが隠せないように、傘の柄を握り直したりしてこちらを見ようとはしない。色々と話しかけてくる浜崎への返答もどこかぎこちなかった。
そのうちに全員が集まり、ファミレスでご飯を食い、カラオケで皆が騒いでいる最中も結局、お互いに話しかけることもしなかった。しかし、駅の前に再び戻り解散と言う時に、浜崎はいきなりこう口にした。
「確か、長谷川さん、西通り方面だよね。帰り道一緒なんだから、高杉送ってやれよ。」
「え。」
二人の声が重なる。
「暗くなってきたし、女子の一人歩きは危険だからさ。俺らは同じ方角の二人を送るよ。」
長谷川由美子は戸惑いの表情を浮かべながら、こちらを見ている。浜崎は肩に抱きついてくると、
「送り狼になんなよ。」
と、俺の気持ちを知ってか知らずかにやにやと小声で呟いた。
「じゃ、ここで解散。また月曜にな。」
手を振りながら去っていく浜崎を、ぽつんと俺と長谷川由美子は見送った。何が起こったのやら分からぬ間に二人きりにさせられてしまった。これじゃ、何の為に距離をとっていたのか分からない。振り返ると、長谷川由美子は真っ赤な顔をして俯いていた。
「帰ろうか。」
声をかけると、こくんと頷く。雨はカラオケに向かう前には止んでいたのに、また降り出していた。来たときよりも雨脚は強まっているようだ。そこで、始めて自分が手ぶらでいることに気が付く。持ってきたはずの傘が無い。どうやら、カラオケボックスに置き忘れて来てしまったようだ。コンビニで買った安物のビニル傘なので惜しくはないが、今は無いと不便だ。取りに戻るのも面倒くさい。駅の売店で買いなおそう。
「ごめん。俺、ちょっと傘買ってくるよ。」
「あの・・・もし良かったら、入っていかない?」
真っ赤になりながら、長谷川由美子は青い傘を差し出してきた。
「私の家、西通りの五丁目なんだけど、また買うのも面倒だろうし、もし私の家の通り道だったら・・・」
言い訳のように付け足す言葉は、どこか戸惑いがちだった。
「ああ、通り道だけど。いいの?」
小さく頷く。女の子からの申し出を断る訳にはいかない。流れで、俺たちは相合傘をするに至ってしまった。
アスファストの上の水を踏みしめながら帰宅する道中、お互いに会話はなかった。長谷川由美子は俯いたままだし、自分の方から話を振ろうにもいい話題が出てこない。ものの五分は並んで歩いているだけだった。沈黙の空気がずっしりと重い。だが、意外にもその沈黙を破ったのは長谷川由美子の方だった。
「・・・・手紙読んでくれたんだよね。」
傘を持った手がびくんと揺れてしまった。いきなり本題に入ってきた。
「読んだよ。」
努めて冷静に答える。
「ありがとう。」
お礼を言われても、何とも答えようがない。
「手紙に書いた事は、本当の私の気持ちだから・・・」
手紙に書かれていた簡潔な文章を思い出す。好きです。淡い水色の便箋の上の綺麗な文字。そういえば、今日の長谷川由美子の服の色と一緒だなと思った。ぼんやりとその服を眺めていると、目が合ってしまった。大きな瞳だった。長い睫毛で縁取られた瞳は真っすぐこちらを見ている。
「私・・・高杉君の事が好きなの。」
一定のリズムを刻んでいた歩調が止まった。心臓がごとりと動く。心臓を宥めるように大きく深呼吸をする。
「あのさ・・・・長谷川さんは、俺に何を望んでいる訳?」
思いもよらない冷めた言葉が口を突いた。長谷川由美子はさっと表情を曇らせる。
「気を悪くしたらごめん。長谷川さんの気持ちは分かったけど、俺にどうして欲しいのか分からなかったからさ。」
長谷川由美子は視線をそらした。
「どうして欲しいって・・・・」
「気持ちは嬉しいんだ。けど、もし恋人同士になりたいっていうのなら、悪いけど・・・」
表情はますます曇っていく。きっと下唇をかみ締め、深い赤に染まっている。
「・・・ごめん。」
謝る事しかできなかった。
「・・・他に好きな人がいるの?」
声が震えていた。
「・・いないよ。」
一瞬頭をよぎったが、それを振り払う。
「私じゃ駄目なのかな・・」
「・・・・ごめん。」
長谷川由美子は俯いたままだった。その手を取り、持っていた傘を握らせる。自分を振った男に送られたくはないだろう。
「・・・さようなら。」
傘をぎゅっと握りなおすと、長谷川由美子は走っていった。水の飛び跳ねた水色のワンピースを翻しながら。体に降り注ぐ雨が冷たいとは感じなかった。ただ無数の水滴が体を流れていくのがやりきれなかった。
ここから続きです・・・・・
「おかえりぃ。」
家に戻ると、間延びした声が迎えてくれた。迎えてくれたのは声だけで、その姿は現れない。玄関で靴を脱ぐと、スニーカーはびっしょりと濡れ、水が滴り落ちてきた。靴下も脱いでしまい、裸足になって中に入っていく。後には、転々と水滴が跡を作ってしまった。リビングでは彼女がパソコンに向かっている。後ろ姿を見た瞬間、寒さが体を襲ってきた。
「只今。帰ってたんだ。」
「テスト前だからね。うちの塾ではテスト前は個人の自習が主なのよ。そういえば、まだ雨降ってた?」
ようやくパソコンから目を離した彼女は目を見開く。
「やだ。びしょ濡れじゃない。傘もって行かなかったの?」
「行った先で忘れてきちゃって。」
「馬鹿ねえ、雨が降ってる日に傘を忘れる?」
くすりと笑い、すらっと長い指で頬に触れてくる。その指は温かかった。
「体が冷え切っているじゃない。すぐお風呂に入りなさい。着替え持って行ってあげるから。」
指は頬から離れる。着替えを取りに彼女は部屋の中へと入っていった。床をなるべく濡らさないようにしながら、浴室へと歩く。寒く冷えた体は、頬だけが熱を帯びていた。そっと触れてみると、無性にやりきれない気分に襲われた。
意味のないことに縛られている。そして、そこから俺は抜け出せない。
「・・・・・だせぇ。」
正直、異性に好かれる事は苦痛だ。最初は嬉しかったけど、付き合ってみてその虚しさを痛感してしまった。どんなに相手に想われても、決して心を満たしてくれることはない。ぽっかりと穴が開いていて、言葉も気持ちも、そして体も注ぎ込まれているのに、過食症に襲われたかのようにどんなに与えられても穴は埋まらない。そして、相手はその事に気付いて傷つく。
「智久って、冷めてるよね。」
悲しそうに微笑んだ顔が脳裏に浮かぶ。中学の頃付き合っていた前の恋人だった。一歳しか歳が離れてない割には大人びた考えをする人だった。いつも微妙な距離をおいて接してくれていた。決して中へ踏み込まないように、安心できる位置にいてくれていた。放課後、一緒に帰ったとき会話の中で何気ない一言のように口にした台詞。あれから俺はその人と目を合わすことが出来なくなった。一緒に帰る機会は少なくなり、その人の卒業を機に会わなくなった。
別に冷めてるわけじゃなかった。電話もデートも数えきれないほどしてきた。そして、俺は先輩を好きだった。けれど、先輩は気付いてしまったんだろう。俺の満たされない想いに。今、先輩の姿が長谷川由美子と重なる。長谷川由美子は、明らかに傷ついた顔をしていた。傷つけたくはないから断ったのに、結局は俺には傷つける事しかできない。そして、俺は又前に進めない。
「智久君。着替えここに置いておくわよ。」
ガラスを一枚隔てた向こうから彼女は呼びかける。
「ああ、ありがとう。」
今はその明るい声がやりきれなかった。
彼女は、ガラスの向こうから動こうとはしない。軽く溜息がでた。
「だから、息子の裸が見たいわけ?」
冗談まじりに声をかけると、思いのほか真面目な声で彼女は、
「・・・何かあったの?」
と、問いかけてきた。時々その鋭さにどきりとさせられる。
「何にもないよ。」
努めて明るい声で答えた。
「・・そう、ならいいわ。あんまり長風呂だと、ふやけるわよ。」
彼女のシルエットが消えていく。温かいお湯を全身に浴びた。
「気付くんなら、俺の気持ちに気付けよ・・・」
俺は最初、自分が異端な人間だと思った。その気持ちに気付いたときは、正直気持ち悪かった。何でだ?どうしてそんな相手を好きになる?何度も自分に問いかけた。そして、そのうち馬鹿らしくなった。訳が最初から分かってるなら、この気持ちはとっくに整理がついてるはずだ。口に出しても報われないのは明らかだ。だから、ひっそりと心の奥に沈めた。決して、開いてこないように頑丈な鍵をかけて。それで、上手くやってきた。今さらこの関係を壊して何になる。この気持ちは誰にも知られてはいけない。
「どうしたの?怖い顔してる。」
彼女はふと顔を覗いてくる。風呂あがり、彼女の用意してくれていたコーヒーを飲みながら、机をはさんで俺たちは向かい合っていた。
「いや、元からこんな顔なんです。」
「かわいくないわねえ。昭仁君に似ていい顔してるんだから、そんな顔してたらもったいないじゃない。」
「これなら、いいの?」
思いっきり、笑顔をつくってやった。彼女はくすりと笑う。
「何?」
「智久君は、全部自分で解決しようとするから。時々心配になるだけ。」
「そうかな。」
「そうよ。」
再び彼女は笑う。
「少しくらい、頼ってくれなきゃつまらないじゃない。」
どうやって、頼れっていうんだ。あなたは僕を満たしてくれるのか。
言葉をぐっと飲み込んだ。
「頼れる時がきたら、頼るよ。」
彼女は笑っていた。
日曜は、泥のように寝ていた。何もする気が起きなかった。父親も彼女も仕事で家にはいなかったから、俺はひたすら眠り続けた。眠ることで、この気持ちのモヤモヤが少しでもなくなることを祈って。
消えるはずもなかった。そんなに簡単にいくなら、こんなに苦労なんかしない。そう、思うとやりきれなかった。
結局、俺は月曜まで眠り続けた。朝起きると、体中の節々が痛んだ。寝るのにも体力を使う。うんと、大きな背伸びをして窓の外を覗く。四角形に切り取られたように、一面の青が広がっていた。快晴だった。手早く身支度を整えてリビングへ向かうと、テーブルの上には食事が準備されている。父親はご飯を済ませたらしく、椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。
「母さんは?」
いつもフライパン片手に声をかけてくれる姿が見当たらない。
「もう、出かけたよ。今日は朝からの授業が入ってるらしい。」
父親は穏やかな声で返事をくれる。
「智久君。早くご飯食べないと、遅刻するよ。」
その話し方からは、急かしてる感じはしない。ゆっくりとテーブルの前に座り、彼女の作ってくれた目玉焼きに箸を刺す。中身は半熟で、とろりと黄身が流れ出てきた。俺の好きな固さだ。
特に会話もせず、俺はさくさくと朝食を済ませた。その間、父親はのんびりと向かいでコーヒーを飲んでいる。
「ご馳走様。」
食器をキッチンへと運ぶ。部屋にはコーヒーの香りが充満していた。壁の時計を見やると、まだ登校までにコーヒーを飲むくらいの時間はあった。
「父さん。おかわりいる?」
「ああ、貰おうかな。」
のんびりと父親はカップを差し出した。それを受け取り、自分のと一緒にコーヒーを入れる。
「砂糖とミルク、何杯ずつだっけ?」
「三つずつで頼むよ。」
相変わらずの甘党だ。一つのカップには大量に砂糖とミルクを入れる。作っている自分が胸やけになりそうだった。
「はい。」
「ありがとう。」
父親は美味そうに、激甘のコーヒーを飲んでいる。
「母さんほどは美味しくは作れなかったよ。」
「そんな事はないよ。智久君が作ったのも美味しい。」
尚も美味しそうに飲む。
なんだか、自分が恥ずかしかった。ぐいと、コーヒーを胃に流し込む。美味しくはなかった。
「おはよう。」
教室に入った一番に、そう声をかけられた。成瀬晴美だった。きちんと席に腰掛け、机の上には一限目の準備がしてある。
「ああ、おはよう。」
朝一番に声をかけられるのは初めてだった。戸惑いながら、自分の席に着く。いつもならこのタイミングに挨拶をしてくるのに。
「土曜は楽しかった?」
「・・ああ、それなりに。」
やっぱり、いつもとは勝手が違う。こんなに話かけてくる子ではなかった。
「うそ。」
成瀬清美は、真っ直ぐに俺の目を見てくる。
「うそ?」
「そう、嘘つき。」
尚も成瀬清美は、目を離そうとしない。見透かされているような気分で落ち着かなかった。
「別に、嘘はついてないよ。」
「なら、いいわ。」
ふと、成瀬清美は視線をはずす。視線は教科書に移っていた。
「・・いいわって、何か気になるんだけど。」
隣の席の女の子の思考回路は読めなかった。いきなり人を「嘘つき」呼ばわりして、一方的に会話を打ち切る。訳が分からない。
「土曜、高杉君を見かけたわ。」
教科書から視線は外さずに、成瀬清美は唐突に切り出した。
「隣のクラスの子振ってた。」
見てた?長谷川を振った一部始終を?
「誤解しないでね。高杉君をつけてった訳じゃないから。偶然、見かけたのよ。」
「つけて来たとは思わないけど・・・」
「最初は、見てみぬ振りをしようと思ったんだけど。あまりに高杉君が辛そうな顔してたから、目が離せなかった。」
変な気分だった。女の子を振る場面を他の誰かに見られてたなんて。
「この意味分かる?」
いつの間にか、成瀬清美は俺の目を見ていた。黒い、切れ長の眼だった。
「私、高杉君の隣になった時、嬉しかったのよ。」
それ以上は、聞きたくはなかった。この子は俺の事を・・・
ふと、成瀬清美は目を伏せる。
「こんな所で言う言葉じゃないわね。」
授業の始まる前の教室は騒がしかった。各々、話に花を咲かせていて、誰も俺達に興味を注いでいる奴はいなかった。
「気にしないで。」
成瀬清美は肩をすくめる。そして、何事もなかったように再び教科書に目を戻した。
俺は何も答える事はできなかった。情けないことに頭の中は真っ白で、気の利いた言葉は捜しだせなかった。そうこうしていると、一限目が始まりってしまった。
もう、授業の内容なんて頭には入ってこなかった。神経の全ては隣の席の成瀬清美だけに注がれている。成瀬は、先生の言葉に耳を傾け、さらさらと板書をノートに写している。ごくごく普通のその振る舞いに、俺の頭の中は更に真っ白になっていった。
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2004/05/05(Wed)06:42:18 公開 / 森 ふづき
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■作者からのメッセージ
俺は満たされない・・・・・彼女への気持ちに気付いた、その時から・・・・・そして、今日も前に進めない・・・