- 『(ma(na)mi) 〜リラティヴ・アブソリュート〜 第一章〜第三章』 作者:疎 / 未分類 未分類
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全角32004.5文字
容量64009 bytes
原稿用紙約99.75枚
(ma(na)mi) 〜リラティヴ・アブソリュート〜
第一章 ステレオ
-1-
2月。窓から外を眺めると、粉雪が音もなく降り続いている。200年くらい前の今頃はスノーフェスティバルと呼ばれる世界的なイベントがあったそうだが、祭りがあった事実を知ることができるのは、今となっては社会科の電子テキストくらいだ。
僕は、鱒井和帆(ますいかずほ)。大学の研究室で偉大な教授による偉大な実験の助手を務めている。助手と言っても去年大学を卒業したばかりのほんの駆け出しだ。それでも、大学2年の頃からこの研究室に入り浸っていた僕はそこら辺の大学院生よりは遙かにキャリアが有る方だと思っている。
「いつまでこんなこと続けるつもりなの?」
昼食の約束をしていた僕の恋人、磯崎麻波(いそざきまなみ)が実験室に入って来るなり厳しい質問を浴びせてきた。ふとパソコンディスプレイ内の時計を見ると、1時間も過ぎている。約束を破ったのは悪かったと思うが、それにしても『こんなこと』はないだろう。
麻波とは大学在学中に知り合った。お互い科学系大学の出身だが、麻波の方は学んだことがあまり役に立たない会社で普通のOLをやっている。彼女は僕と教授の常識はずれな研究に常に理解を示してくれていた。だが、今回だけはどうしても納得がいかないという。僕は麻波の言葉を少し受け流してから言った。
「もうすぐこのアブソリュート号が完成するからね。楽しみにしててくれよ」
僕らが今生きてる時空間とは全く別の世界へ渡ることができると教授が豪語する時空転移装置『アブソリュート号』の完成と同時に、僕は麻波にプロポーズするつもりだった。が......どうしても我慢できずに先月、告白してしまった。まぁ、今週の最終調整が終われば完成したも同然だから問題ないだろう。
「そんな胡散臭いマシンなんか作るのやめようよ」
「胡散臭いって......ひどいなぁ」
「今まではおもしろい事やってるなと思ってたけど、さすがにこれは我慢できないよ。別世界なんてあるかどうかもわからない、存在の証明すらできていない場所へ移動する装置なんて作ってどうする気なの?」
「知りたいことが目の前にある。それを調べて知る。それだけだよ」
「ハァ......そうね。科学者ってそうなんだよね......」
「ごめん」
「ううん。あたしはそれが解っていてつき合ってるんだから。でも、これが完成したらちゃんとあたし達の将来のこと考えてね」
「もちろんだよ。式は遅くても年内には挙げるつもりさ」
「和帆ぉ」
麻波が甘えた声で僕に抱きついてきた。麻波は少しバランスを崩し、側にあった操作パネルの辺りに左手を置いて体を支えた。
「あーっ!!それ触っちゃだめ!」
「えっ!?......あ」
既に麻波は保護用プラスチックシールドを突き破り、赤いボタンを目一杯押していた。アブソリュート号はまだ未完成だった。試験起動にはそれ相当の準備が要る。しかも、そのボタンは完成時に使う本起動用じゃないか!この先何が起きるかは想像もつかない。
未完成のアブソリュート号は無数のプラズマを発生しながら暴走を始めた。あらゆる計器が振り切れ、聞いたこともないような高周波と低周波の狂奏が耳を貫く。装置の周辺がブラックホールの3Dシミュレーターのように窪んでいく。プリント類やマイクロディスクが宙に舞い、暗黒の穴は軽い物体から順に吸い込み始めた。僕は教授の言葉を思い出した。
(次元崩壊現象が起きたら最優先に行うことは、これじゃ)
このまま放っておけば世界の滅亡にも繋がりかねない。僕はアブソリュート号の自爆スイッチをためらいなく押した。
辺りは白い煙に包まれた。視界は全くない。大きな爆発物や毒性物質は扱っていないはずだから、麻波が命の危険に曝されるようなことはたぶんないだろう。割れた強化プラスチックの破片で顔が傷ついていないことを祈るばかりだ。僕はむせながらも光の感じる方をめざし、手探りで這って進んだ。やがて指先にコンクリート壁の冷たい感触を覚えた僕は立ち上がり、近くの窓から順に開けていった。
7つある窓を全て開け終わった頃、目をくらませていた煙霧は素人が登山できるほどに収まってきた。
「ぺっぺっ......ごほっ。大丈夫か?麻波?」
今まで感じていた悪寒はなくなっていた。どうやら自爆装置に内包しておいた次元パッチが上手く拡散してくれたようだ。とはいえ、所詮はその場しのぎの緊急措置でしかない。麻波の無事を確認したら真っ先に教授のもとへ急行だ。
「けほけほ」「けほっ、けほっ」
「え?」
僕は耳を疑った。麻波の声がステレオのユニゾン(同じ高さの音階)で聞こえてくるのだ。はじめはアブソリュート号が発していた異常周波数音のせいで聴覚がいかれたせいだと思っていた。更に視界が回復すると今度は目を疑った。
「これは夢だ......そうに違いない。そうでなければ僕の頭がおかしくなったに決まってる」
世間からは半狂人扱いされている教授のどんな奇怪な理論も僕は受け入れてきたつもりだ。それなのに、今起きている異常事態は学問では決して説明が付けられない、いわゆる幻想でしかなかった。
僕の目の前に麻波が二人立っている......。確かに二人とも麻波だ。だが、何かが違う。麻波は僕と同い年だから23歳のはず......なんだけど、左手側の麻波は落ち着いていて結構年上に感じるし、右手側はあまりにも幼い。格好からみて高校生くらいだろう。僕はこの不条理にしてリアルな夢からどうやって抜け出そうかと頭をひねっていたところ、年上風の麻波が辺りの風景を不思議そうに見回しながら言った。
「あのぅ......ここはどこなんですか?」
「どこって、頭でも打ったのか?麻波は毎週この研究室に来てるだろう?」
年上風の麻波は急に顔をこわばらせて一歩前に出た。
「いきなり呼び捨てにするなんて失礼じゃないですか。あなたは私のこと知ってるんですか?」
「知ってるも何も、今年中に結婚を控えた恋人同士じゃないか。まさか......」
「私、あなたのこと......知らないです」
僕は頭の中が98%真っ白になった。残りの2%をフル稼働させ、どうにか現状を把握しようと努める。考えられるのは、事故のショックで一時的な記憶喪失になったということ。それなら問題はない。今すぐ脳神経外科にでも連れて行けばいい。それよりも、隣の女子高生風の麻波だ。アルバムで見た高校時代の麻波に瓜二つではあるが、科学者の端くれである僕は過去へのタイムスリップなんて信じていない。だとすれば、この子の存在はいったい......。
「ちょっとぉー!ここどこよぉ?早くしないと3限始まっちゃうしー!っていうか、アンタ誰?」
口調や態度はまるで違うが顔と声がどうしても麻波だ。そういえば昔はずいぶん無茶をしたとか言ってたっけ。この頃はこんなしゃべり方だったのか?
「あ、あの、磯崎麻波......さん、だよね?」
「はい」「そうだよ」
「え?」「はぁ?」
「私が磯崎......です」「あたしが......麻波だってば」
二人の回答は完全にシンクロしていた。同じ声質で同時に話されると、別々に聞き取るのは不可能に近い。もっとも、内容は同じだから意味はわかるんだけど......。
二人の麻波はようやく互いの存在に気づいたらしく、利き腕の左手同志で指を差し合っていた。
「わ、わ、私の若い頃がぁっ!」「ありゃ?お母さんに妹なんかいたっけ?」
歳も性格も違う麻波同士が「誰!?誰!?」を連発し、互いの奇態な鏡像を理解できず大混乱に陥っている。収拾がつかなくなってきた。そんなことより、僕の麻波は一体どこへ行ったんだ?......とにかく、このままでは埒があかない。僕は二人に今までの経緯を簡単に説明した。
「ごめんなさい。私の不注意でこんなことに......」「アンタのせいじゃないの!どうにかしてよ!」
二人は再び向き合った。
「ちょっと、あなた。それは言い過ぎでしょ?」「何、わけわかんないこと言ってんのよ!」
「あ、私のせいじゃないんだった......」「悪い奴を悪いって言って何が悪いのよ!」
「やれやれ......」
僕は説明の時機を誤ったことを少し後悔した。ますます収拾がつかなくなってしまった。
僕の麻波はどこへ行った?23歳の同い年の、結婚を控えた僕の麻波はどこへ行った?さっきの事故から時間が経つに連れて不安が募ってきた。だが、目の前にいる二人も紛う方なき磯崎麻波なのだ。性格は麻波の長所をかなり強調して二分した形にはなっているが。
失礼と知りつつも二人に年齢を尋ねると、年上麻波は29歳、年下麻波は17歳だという。当然誕生日も同じである。
「ちょうどプラスマイナス6年のタイムディスタンス(間隔)......か。偶然とは思えないな」
この問題は自分一人では解決できない。僕は研究室の主、ドライシュタイン教授の部屋へ二人を連れて行くことにした。
-2-
「な、なんじゃ?麻波君の特殊メイクコンテストでもやっておるのか?」
僕らが教授室に入るや否や、ドライシュタイン教授はデスクの上にあった温めのコーヒーをこぼしてしまった。たとえ月が真っ二つに割れたとしても驚きそうにない教授が動揺している。学術的な事実や現象から逃避することなど滅多にしない教授がくだらない冗談を言っている。よほどのことなのだろう。
ドライシュタイン教授は20世紀最高の頭脳と言われた某博士とは全く関係ないが、とぼけた顔をしながらも何もかも達観しているような感じが何となく似ていた。彼の素性は明らかにされていない。いつの間にか客員教授としてこの大学で教鞭をとっていたのだと誰もが言う。それはともかく、教授は時空学において多くの驚くべき発見をしてきた。しかし「実用的ではない」「机上の空論である」などと非難を浴び、学会で賞賛されたことは今まで一度もなかった。それでも、僕は教授を世界で一番尊敬していた。なぜなら僕の......。
「わしは熟女やロリっ娘よりも、今の麻波君がいいと思うんじゃがの」
「じゅ、熟女なんてひどい......私はまだ20代ですっ!」「ロリって言うな、ジジイ!そういうファッションなんだよ!」
「だーっ!わかったから、二人とも同時にしゃべるな」
僕は二人の麻波をなだめるのに数分費やし、ようやく教授に事故の詳細を話すことができた。
「それは困ったのぅ」
教授は他人事のように首を軽く傾げるだけだった。
「真剣に考えてくださいよ、教授。僕の恋人、23歳の麻波はどこへ行ったんです?」
「その話はまた後でしようかの」
二人の麻波に聞かれるとまずい、ということか。4年間も教授の下に就いていると、目尻のシワ具合でわかることも少なくない。
「ジジイ!説明してもらおうか。あたしら、一体どうやってここに飛んで来たのよ」
年下麻波(以下マナと心の中で呼ぶことにする)が教授の白衣の片襟を掴んで言った。教授がどうやってこの修羅場を切り抜けるのか、今後の参考にさせてもらおう。
「なーに、君らは時空転換によってそれぞれ別の世界からこっちの世界に転送されてしまっただけのことじゃよ」
僕は愕然とした。いきなり核心突くんかい!......どうやら、教授のことを完全に理解するには彼の細胞一つ一つを別棟の分析センターに回すしかないようだ。
「あのぅ、おっしゃる意味がよくわからないんですが......」年上麻波(以下ナミと呼ぶことにする)が言った。
「事実を言ったまでのこと。専門的な解説をしてもわからんじゃろう?」
「はぁ......」
ナミは返す言葉を失った。強引すぎる。参考にならない。
「ジクウナントカなんてどうでもいいからさ、あたしらを元の場所に戻してよ!」
マナがもう片方の襟も掴んで教授に迫る。
「戻れん」
「は?」
「戻れんと言っておる」
「ざけんなぁ、ジジイ!」
マナに投げ飛ばされそうになった教授は、「仕方ないのぅ」と言って二人の立場について話しはじめた。
世界が一つであるとは限らない------誰が言ったか忘れたがこれは科学者やSF好きや幻想物語好き等の希望的仮説と思われる。今僕らが生きている宇宙とは別の宇宙が存在するという証明は未だに成されていない------こっちは紛れもない事実。それなのに教授はあっさりとこう言いきる。
「世界は一つではない。それどころか星の数以上に存在しておる。ただ、それぞれの世界は互いに干渉できない構造になっているから、互いの存在に気づかないだけなのじゃよ」
「教授はそれを証明できるって言うんですか?」僕は思わず口を挟んだ。
「できるとも。この世界にとってはまだ時期尚早だがの」
「この世界にとっては?どういう意味ですか?」
「あ、いや......話が脱線してしまったの。つまり麻波君たちは、それぞれの世界のそれぞれ違った歴史を歩んでいる麻波君ということになる」
いつの間にそんな誰もなしえなかった大発見をしたのだろう。時空転移装置は別世界の存在を発見するためだと思っていた。それなのに、教授の話しぶりでは既に存在を確信した上で装置を作っていたように思える。
「自分の立場が少しだけ理解できました。違う世界に干渉できないということは、通常の方法では元に戻れない......ということですね?」ナミが言った。彼女は僕の世界の麻波と同じで頭の回転が速いようだ。
「残念ながら......その通りじゃ」
「うあああああ!!」
マナが突然、両手で顔を押さえながら泣き出した。ナミも天を仰いで涙をこらえている。
そりゃ、泣き出したくもなる。それぞれの世界にはそれぞれの家族と仲間がいる。彼らに二度と会えないかもしれないなんて言われたら、僕だってそうなるだろう。時空転移装置は再び作ることができるかもしれない。暴走させれば同じ現象が起きるかもしれない。ただ、それと世界の滅亡とは常に背中合わせの関係だ。さっきは運が良かっただけかもしれないし、どう転ぶかは誰にも予想できない。さすがにこの世界の人々全てを巻き込むわけにはいかない。
「私たち、これからどうすればいいんでしょうか?」ナミが俯きながら、か細い声で言った。
「そうじゃな、とりあえず保護者である鱒井君のマンションで暮らすしかないの」
「な、なんで僕が保護者なんですか?」
「どこから来ようと麻波君には違いないじゃろう?無関係ではなかろう」
「そりゃそうですけど......」
教授は困惑している僕を部屋の隅に連れて行き、肩に手を回し、ひそひそ声で話しだした。僕の恋人、僕の世界の磯崎麻波は教授ですら今の段階では行方を掴む自信がないという。教授は今の研究を中断してでも麻波の捜索に全力を注ぐことを約束してくれた。ただし、表向きには行動できないから研究室の管理と二人の麻波を僕に預けたい、ということだ。
「ハァ......ダメなものはしょうがない。アンタ、変な気起こしたらぶっ殺すからね!」
「か、和帆君......よ、よろしくお願いします」
二人とも立ち直りが早い。さすがに僕の麻波と全く同じDNAを持っているだけのことはある。それはいいとして......。
「まだ、一緒に暮らしていいなんて言ってないぞ!」
結局、事後承諾という形になってしまった。
* * *
某所
「ドライシュタインめ。余計な仕事を増やしおって。永久禁固は免れんぞ」
「彼はあのゲルテルと通じているようです」
「奴のことは後回しでいい。イレギュラーの回収と処分、それが我々の急務だ。失敗すれば俺たちの首が危うくなる」
「シンの決定は絶対......」
「どうした?怖じ気づいたのか?ナンバー7」
「その名で呼ぶのはやめてください」
「ハッハッハ。貴様が名前にこだわるとは意外だな。本当は下等世界の端くれではないのか?」
「根も葉もないことを......。他の四人が出払っている今、私たちの責任は重大です。それに......」
「わかっている。相手が相手だ。今の一件が片づいたら対策を考えるとしよう」
第二章 トライアド
-1-
3月。僕と二人の麻波の奇妙な生活が始まった。
僕は部屋に入れる前に二人の区別を明確にすることを考えた。面倒なので心の中で使っていた名前をそのまま適用することにする。抵抗にあうのは承知の上だ。
「なんで勝手に決めんのよぉ」「中途半端はイヤです......」
「そうだ、漢字にしよう」
僕はメモ帳を一枚破り、『妹:真魚(マナ)、姉:七海(ナミ)』と大きな字で丁寧に書いた。
「なによぉ、この磯臭い名前は」「姉妹というのはちょっと違う気が......」
「便宜的に区別しなきゃならないんだから、仕方ないだろ?」
「あたしは麻......でいいの」「私は......波でいいですよ」
「同時にしゃべらない!」
「だってぇ」「だって......」
「だってじゃない。麻波で通すんなら1号2号で呼ぶことになるけど、いいのかい?」
「号だけは勘弁して......」「七海でいいです......」
かくして、三人の奇妙な生活が始まった。
僕は大学の近くにある2DK賃貸マンションに住んでいる。70階建ての36階。大学職員は教授クラスを除けば今も昔も薄給だが、人間、環境が大事だ。社会人として標準的な部屋にこだわった。10畳のリビングと6畳の物置代わりの部屋。僕は今まで通りリビングで過ごすつもりでいた。
「こーんな可愛い女の子二人に対して窮屈な思いをさせるわけ?」
真魚が噛みついてきた。
「居候なんだから贅沢言うなよ。住めるだけでもマシだと思わないのか?」
「サイテー男。アンタ一生紳士にはなれないよ」
「そりゃ、結構。イギリスで暮らすつもりはないからね」
「ムカツクムカツク!」
「あのぅ......」
突然、上目遣いの七海の顔がキスの射程内に入ってきた。
「うわっ!いきなり近づくなっ」
「先ほどからずっと呼んでいたんですけど......」
「あ、あそう......それで何か?」
「このまま水掛け論を続けていても解決しませんよ。ここは民主主義的に決めませんか?」
「それだと僕の負けは初めから決まってるじゃないか」
「ですから、私たちがリビングに住むということで」
強引な論理を笑顔でさらっと場に流し込んできたな......七海め、大人しい人だと思っていたんだが。たった今、僕のブラックリスト上位にランクインした。
結局、女二人相手に口論で勝てるわけもなく、僕は狭い個室の掃除と山積みになったコピー文献の整理を半日がかりでやるハメになってしまった。『やらなければならない仕事』というのは常に難航するものらしい。夕方、近所のファミレスで腹の機嫌を直し、一気にスパートをかける。開けっ放しのドアの向こうから23時のニュースの音楽が聞こえてきた。『X-Z』とラベルに書かれたファイルを本棚に入れ全作業終了。部屋には塵一つ落ちていない。数日後にはどうなるかわからないが。不精者の僕にしては良くやった。締めは温めの風呂とビール......それ以外のことは頭の中にはない。
洗面所でいつものように6秒以内で服を脱ぎ、洗濯物カゴに放り込む。冬だからというわけではない。疲れているときは脱ぐ時間さえもどかしいのだ。すすぎを開始した洗濯機が横でうなりをあげる。七海の仕業か?それにしても電灯をつけっぱなしにするのは感心できない。そういえば麻波も消すのをよく忘れて僕に怒られていたな。......麻波。
仕切カーテンの向こうは脱衣所だ。一応麻波のために作ったスペースだが、仲が深まるに連れ存在意義が薄れていった。麻波が消えてしまったなんて今でも信じられない。カーテンを開ければ「どうしたの?寒いから早く入ろうよ」と僕の手を取る麻波がいるような気が......?
「うーん......あと2キロかなぁ」
そこにはあられもない姿の麻波......いや、真魚が両手を腰に当て体重計と睨めっこをしていた。気配に気づいた真魚が顔を上げ、目が合う。
「えっ!?......ばっ、バカー!ヘンタイ!!出てけー!」
真魚はどこを隠していいのかわからず混乱していたが、ようやく背中を向ければいいことに気づいた。
「いつも一緒に入っていたからどうってことはないよ」
「アンタのカノジョと一緒にするなっ!」
「育った環境が違うとこうも性格が荒くなってくるものなのか......」
その直後、真魚の側にあったスプレー缶が僕の鼻を直撃した。麻波の身体を見慣れている僕は、どうも重要な感覚が鈍っていたらしい。
二週間後、三人暮らしの生活がようやく落ち着いてきた。日曜日の夜、僕は自室で海外学術雑誌向け投稿論文の仕上げに入っていた。ドライシュタイン教授が休職扱いとなっている今、他の先生方に難点をご指摘いただかなくてはならないのが判っているだけに非常に気が滅入る。当然、こき下ろされる。ドライシュタイン教授の助手というだけの理由で。それでも、内容はともかく投稿論文としての体裁くらいは恥ずかしくないものにしておかなければならない。締め切り日から逆算すると明日から原稿の見直しを始めなければ間に合わない。
「きゃははー、七海姉(ね)ェって天然すぎー!」
「そ、そんなことないわよぉ」
籠もった二人の声が壁越しに聞こえる。建築資材の発達で近隣のトラブルは激減したといっていい。だが、内部に関してはコストの問題で一部しか適用されていない。フローリングの部屋は音をあまり吸収してくれない。かつての木造アパートよりタチが悪い時もしばしばある。
「ねぇねぇ、あのタレントって誰かに似てない?」
「そうねぇ、和帆君......とか?」
「あんな奴呼び捨てにすればいいのにー」
イライライライラ......。あんな奴とは何だ、あんな奴とは。誰が保護したと思ってるんだ。
「あーっ!代表負けちゃったよー!最終戦勝たないとワールドカップ行けなくなっちゃう」
「しかもエースが負傷なんて、厳しいわね」
イライライライラ......。そんなことはどうでもいい。最後の相手はランキング150位の超格下じゃないか。海外組が一人抜けたくらいで負けるか、ドシロウトめ。
「なんだなんだぁ?あの面で二股かよぉ!信じらんない!」
「顔だけで判断するのはどうかと思うわ」
「まーったまたぁ。面食いのくせにぃ」
「そりゃあ、好みくらいはあるけど......」
「バカ和帆に見慣れるとさー、みんなカッコよく見えちゃうんだよねぇ」
「ちょ、ちょっと聞こえたらまずいわよ」
ブチッ!......どこかの神経か筋肉か血管が切れる音が聞こえた気がした。僕はリビングまで一気に走り半開きのドアを蹴り開けた。
「いい加減にしてくれ!」
「なんでだよー!近所......になるほど大騒......んかしてないよ」「すみません。つい声が......きくなってしまって......」
また同時にしゃべっている。等価のペアを相手にすると双子以上に疲れる。
「僕は論文を書かなきゃならないんだ。ちっとも集中できない」
「どーせ、三文研究者のくせに......」
真魚がポテトチップを頬張りながらテレビのチャンネルを次々と変えだした。
「ま、真魚ちゃんそれを言っては......」
七海はおそるおそる僕の顔を伺っている。
「勉強も仕事もしないでゴロゴロしてるんじゃない!」
「あっ......」「あ......」
ようやく自分の立場に気づいたか。戸籍情報や個人履歴は教授にでっち上げてもらうにしても、真魚は4月から高校3年、転入試験対策くらいはやっておくべきだ。七海だって自分の雑費くらいは自分で稼いでもらいたい。
二人は次の晩から大人しくなった。僕の正論攻撃が功を奏したに違いない。と思っていたのだが、なんのことはない。昼間の活動で疲れ、自然と早く寝るようになっただけだった。
-2-
4月。真魚は近所の普通高校に3年生として転入、七海は自宅から30キロほど北にある北日本工科大学の図書館で司書のバイトを始めた。二ヶ月前の事故が嘘であったかのように、平穏な日々が過ぎていく。ドライシュタイン教授からの報告はまだない。それなのに、たとえ別世界の人間といえども麻波と同じ顔を毎日眺めている僕は、思っていたよりも不安がっていないことに気づいた。このままでいいのだろうか?教えてくれ......麻波。どこへ行ってしまったんだ......麻波。
5月。北国の春は遅い。と言えば聞こえはいいが、実際は世界気象機構(WWO)が立案した地球気象正常化計画の度重なる失敗によるものだ。南日本あたりでは花見で盛り上がっている時季だが、こっちはそれどころじゃない。ここから一番近い観測所の積雪量は未だに18メートルもある。街全体に張り巡らされた高熱ロードヒーティングがフルタイム稼働していなければ、慢性運動不足の市民たちは休日を全て雪かきに奪われ、今頃は腰を痛めてダウンしているところだろう。いや、それ以前にマンションのエントランスを突き破った雪の下敷きで病院送りになっているかもしれない。雪の重さというのは結構ばかにできない。そう何度も南九州理科大の連中に話したのだが、同情を得られたことは一度もない。
祝祭日均等分配法案の可決により影が薄くなってしまったが、かつてゴールデンウィークと呼ばれていた上旬の頃から真魚の欠席が続いていた。急激な環境変化の影響が今頃になって現れてきた。元いた世界の記憶が欠けてるとはいえ、今まで無意識下で相当な無理をしてきたのだろう。七海の方は人生経験豊富なせいか特に変わった様子は見られず、日々バイトに精を出している。僕は大学を休んで真魚の様子をしばらく見守ることにした。無気力人間を部屋に置き去りにすれば、心身共に栄養失調になるだけだ。
「今時五月病とはね。安定剤は忘れずに飲んでおけよ」
「それでも心配してるつもりなわけ?」
普段ならここから悪態サブマシンガン攻撃で蜂の巣にされるところなのだが、真魚は精神安定剤のチュアブル錠を飲んだきり布団を被ってしまった。重症かもしれない。手持ち無沙汰になった僕は、溜まっていた英語文献を自室から数冊持ちだして読み耽っていた。ちょうど三冊目にかかるところで、布が擦れる音がした。
「そんなに休んじゃっていいの?」布団に潜っていた真魚が再び顔だけ出して言った。
「ん?ああ、授業を受け持つほど偉い立場じゃないからね。一週間くらいなら問題ないよ」
「そうなんだ......」
「真魚は頭いいんだから、ちょっとくらい勉強が遅れても平気だろ?」
「......なんとかね」
「そろそろ薬が効いてきた頃だろう。少し寝たほうがいい」
「あ、あのさ......」
「早く復帰したいんなら、病欠してるときくらい夜更かしは控えるんだな」
「あ、はい......えっと、その......」
「どうした?何か言いたそうだな」
「なんでもないよ」
真魚はそう言ってまた布団の中に潜ってしまった。そういえば麻波との間にも似たような場面がしばしばあった。自分から話を持ち出したくせに、結局「ううん、なんでもない」で話が終わってしまう。女という生き物を理解する上でどうしても攻略できない不落の砦が幾つかある、と僕は勝手に解釈した。
「いってきまーす!」
数日後の朝、完全復活した真魚は元気よく登校していった。続いて、僕も出勤しようと玄関で靴を履いたとき、左足に違和感を感じた。一度靴を脱ぐと、中に紙切れが一枚入っていた。
Thanks a lot!! by Mana(mi)
* * *
某所
「本当に貴様一人でやれるのか?」
「見損なってもらっては困ります。これでもエグザムの一員ですから」
「フン、半人前のくせによく言う。なんなら、手を貸してやってもいいんだぞ?」
「その大きすぎる力では、何もしなくてもあの街が壊れてしまいます。シンは余計な干渉を望んではいません」
「チッ。リミットは半年だ。それ以上は待てん」
「わかっています」
-3-
6月。平均気温が一気に20℃も上がり、辺りの雪は一掃された。50年前、世界各地のダムが決壊して大騒ぎになったと聞くが、国際機構WWOの失敗に端を発した高度に政治的な責任問題は未だに解決されていない。過去のことはいいとして、問題はこの雨だ。空梅雨の理想郷の名を欲しいままにしてきたこの地の名声、今では影も形もない。過去10年間の年間降水量は南近畿と肩を並べるほどになってきている。
僕はドライシュタイン教授の依頼で、北日本工科大学------七海がバイトしている------図書館に毎日通うことになった。自宅近所のバッテリースタンドに車を止め、ふと灰白の空を見つめる。ここ数日ワイパーを途中で止めた記憶がない。ソーラーパワーはアテにならず、充電代が嵩んでいくばかりだ。生温い月曜日の小雨は不快指数を数倍にも跳ね上げる効果があると思う。もし麻波が生きていたらこう言うだろう。「やってられないよね。サボろっか?」
......生きていたら?何を考えてるんだ、僕は。生きてるに決まってるじゃないか。
『6850円頂戴いたします』
機械的な女性の声で僕の沈思は中断された。僕はカーナビのパネルに触れ、電子マネー口座の残高を確認したが10円足りなかった。
「ハァ......」
仕方なくプリペイドカードを取り出そうと財布を開いた。写真の中の麻波と目が合う。
「ほんと、麻波なしじゃやってられないよ」
図書館は閑散としていた。今時、レポート用資料を漁りにここにやってくる学生はまずいない。ネットの海へ身を投じれば、世界中の奇特あるいは不真面目な学生たちが膨大なデータ量を誇る架空図書館サイトで頻繁に文献交換を行っており、それで事足りるようだ。
「あれ?和帆君?大学の方はお休みですか?」
百科事典の背表紙に似た色合いの服が完璧なまでに景色に染まっている。七海だ。最近目が悪くなったといって眼鏡をかけている。ここでそのアイテムを使えば保護色と同等の威力があると言える。それほど自然で、それが面白おかしかった。目薬すら差せない彼女ではコンタクトレンズは到底無理なのだろう。
「ここにしかない資料があってね。教授の仕事には欠かせないんだ。まったく、いい加減電子文書化すればいいのに。コピー禁止だし、持ち出し禁止だし、先が思いやられるよ」
「でも、本の匂いってなんか好きだな......」
「インク臭いだけだよ。七海は変わってるなぁ」
「そうでしょうか?」
七海が微笑む。僕は一瞬胸が苦しくなった。なんだこれは?......遙か記憶の彼方に置き去りにされてきた、ある感覚。僕には外国で暮らす実姉がいるが、いたって普通の関係だし......。
『♪』
正午を伝えるクラシック音楽が流れた。僕は七海の案内で学食へ向かった。
「ここの学食、結構イケるんですよ」
僕らの中でまともに食事を作ることができるのは七海だけだ。しかも結構イケる。そんな彼女が言うことだから間違いないだろう。
こうして七海を見ていると、静と動を兼ね備えた麻波の静の部分が強く出ているように思える。麻波は元々行動派でときには無茶もするが、人前では弁(わきま)えており落ち着いた一面も見せていた。家事の方も電気の消し忘れ以外は文句の付けようがなかった。
「ハハハ......なんだか麻波の二つの顔を極端にして、君ら二人に振り分けたみたいな感じがしているよ。育った環境によってこうも性格が違ってくるとはね」
僕の笑いはたぶん今月の天気のように湿っていたのだろう。七海は眉を八の字にして僕の顔をのぞき込んだ。
「つらくは......ないですか?」
「そりゃあつらいさ。でも麻波はどこか他の世界でもっとつらい目に遭ってるかもしれない。だから僕は麻波が帰ってきたときに包んであげられるだけの男になっていなきゃならない。今は自分にできることをやるだけだよ」
「強いんですね」
「それはきっと、僕が今、孤独じゃないからだよ」
「和帆君......」
-4-
7月。早めに梅雨が明けるのはいいが、この気温が9月末まで続くと思うと積極的に引きこもりたくなってくる。32℃......一日の平均気温でこれだ。WWOの連中め、北日本を新たな熱帯雨林地域として地勢図に加えるつもりか?エアコンがなければ今頃は蒸し殺されてるところだ。
夏に入り、真魚と七海は遠くからでも区別できるようになった。先日ばっさりショートにし栗色に染めた真魚、美しい長髪がいっそう目立ってきた七海。今日は珍しく二人が生息しているリビングに招待された。
「ねぇねぇ、花火行こうよ。はーなーびー」
そんな古いものを一体どこから調達してきたのか、『YOSAKOI 2145』と筆記体で書かれた団扇を僕に見せる真魚。
「暑苦しい人混みの中で1時間も立っている気はない。クラスメイトと行ってくればいいじゃないか」
「ちぇっ、ゴロゴロしてるとすぐにビールっ腹になっちゃうんだからね!」
真魚はあぐらをかいて座り込み、ふてくされている。
「あ、あの......ではプールへ行きませんか?今日は花火大会の影響で夕方あたりから空いてくると思いますよ」
お次は七海か。涼しげなお誘いだが、本当にそれだけは勘弁してもらいたい。
「ごめん、実はカナヅチなんだ」
「大丈夫ですよ。競泳用じゃなくて浅瀬をシミュレートした万人向けですから」
「いやその、顔さえ水につけられないんだよね......」
「うう、そんな......」
「軟弱者〜!」
すっかりしょげてしまった七海、風船のように膨れっ面の真魚。爽やかに晴れわたった休日の午後が無駄に過ぎていく。最悪の空気だった。
「わかったよ、もう。花火とプールは却下だけど『アークティック・ブリーズ』でディナー、それなら納得するかい?」
「マジ!?」「ホントですか!?」
このときの二人の目の輝きといったらない。少女マンガのヒロインそのものだ。身内が喜ぶ顔を見るのは悪くない気分なのだが、僕は財布の中身を見て後悔した。今月の昼食は給料日まで菓子パン1個だけになりそうだ。
僕はドアを閉めきった自室で出かける準備をしていた。二人は急かすが、こっちにもいろいろと事情があるのだ。10分くらい待てないものか。というか、普通は女の子の方が待たせるものだと思うんだが。
「お化粧でもしてるんですかー?」
ドア越しに籠もった七海の声が聞こえる。
「そんなわけないだろう。もう少しだから」
「はいっちゃうぞー!」
突然ドアが開き、真魚が入ってきた。
「わ!バカ!見るな!」僕は慌てて背中を向ける。
「え!?......和帆......その手......」口が半開きのまま固まる真魚。
「どうしたんですか?ハッ!......」両手で口を押さえる七海。
「見つかってしまったか......しょうがないな。でも、今まで気づかなかったろ?」
僕は光沢のある金属とそれを包む軟質シリコンがむき出しになった両手を二人に見せた。僕の手首から先は作り物......精巧な義手で出来ている。このことは悪いと思いつつも麻波にさえ秘密にしていた。僕の唯一のコンプレックスだ。こんなグロテスクな姿......避けられるのが怖かったんだ。思った通り、二人とも僕から視線をそらしている。
「せっかくの雰囲気を壊して悪かったな。駐車場で待っててくれないか」
二人は無言のままうなずき、部屋を出て行った。
郊外へ向けてどこまでも真っ直ぐ続く高速道路。遙か向こうに336階建ての高級ホテル『アークティック・ブリーズ』が微かに見える。僕はオートパイロットのスイッチを押してシートに身を深く沈めた。ルームミラーを見ると、複雑な表情の二人が終始黙ったまま下を向いている。
「この両手はね、ドライシュタイン教授に作ってもらったんだ」僕は言った。
二人が同時に顔を上げる。やはり話しておくべきか。
あれは、大学2年の春だった。科学計算のプログラミング実習があったときのことだ。それまでの僕の義手は生活には困らなかったが、キータイプのような複雑で素早い動きはかなり苦手だった。僕を除いた全員が教室を出た後になっても作業は半分も終わっていなかった。そんなときは決まって過去の忌まわしい記憶が脳裏を渦巻き、集中力を欠いた。当時担当講師だったドライシュタイン教授は、毎回全ての作業が終わるまで僕と一緒に居残ってくれていたが、ついに見かねたようで、言葉をかけてきた。
「鱒井君......ちょっと手を見せてもらえるかの」
僕の義手は最新型とはいえないまでも、それなりの性能はあった。だが、ここ数年徐々に調子が悪くなってきていた。
「むーう、この義手は君には合っていない。このままでは神経細胞がダメになってしまう。ちょっと教授室まで一緒に来てもらえるかの」
僕はそれから毎日教授の所へ通った。教授は膨大な量の神経細胞一つ一つを丹念に調べ、新しい義手が出来上がっていった。一ヶ月後、僕は市販では最も難易度の高いタイピングソフトを使い最終動作テストをやった。結果は正確性99.8%、速度は一般上級レベルだった。僕は驚きを隠せなかった。これなら生身の手と何ら変わりがない。かえって良くなった気さえする。でも、たかが一学生のために、貴重な研究予算の一部を割くなんて僕には信じられなかった。
「教授は何故ここまで僕のために?」
「ん?そうじゃの......ワシはやるべきことを最後まで放り出さずにやり遂げる人間が好きなのかもしれんのぅ」
「でも、毎回あんなにみんなから遅れてしまっては......」
「速さなんぞ問題ではない。学生のうちは特にの。最後まで正確にやることが大事なんじゃ。ほれ!こいつなんかバグだらけで使い物にならんわ」
「アハハハ」
僕はその日から、毎日のように研究室に顔を出し教授の助手を進んで務めるようになった。そしてそれは今でも続いている。
「そう......だったんですか......」
「あー、その、いきなりだったからびっくりしちゃってさ......」
僕の話を聞き終えた七海と真魚はいつも通りの自分を取り戻していた。手を失った原因については一言も聞いてこない。僕はそんな二人とならこの先も上手くやっていける気がした。
小高い丘の上にある最終インターチェンジを抜け、眼下に夕暮れの日本海が広がる。海岸沿いに立ち並ぶビル群の中でも一際目立つ超高層ホテル『アークティック・ブリーズ』は氷河や氷柱をモチーフにした涼しげな造りで、新興港湾都市のシンボル的存在となっていた。僕らはホテルの正面玄関前で車を降り、高速エレベーターで最上階のスカイラウンジへ向かった。
「すごいや!こっちに来て正解だったかも!」
「わぁ!花火を見下ろせるなんてなかなかできない体験ですね!」
会場からは少し距離があったが、それでも地上1400メートルから下界の光る花々を眺めていると、天上人にでもなったような気分だ。お熱いカップルたちの冷ややかな視線などまるで気にすることもなく、幼稚園児のように無邪気にはしゃぐ真魚と七海。財布の中身は寂しくなってしまったが、そんなことはどうでもよくなってきた。
食事を終えデザートを堪能していた頃、ふと腕時計の画面を見るとドライシュタイン教授からの音声メッセージが入っていた。
「しまった、子機モードにするのを忘れてた」
僕の腕時計は携帯電話の子機として親機に劣らぬ多くの機能を備えているが、肝心の人間が設定してやらなければ何の役にも立たない。とにかく、メッセージを再生して耳の側の骨に時計を当てる。
『メッセージを再生します......鱒井君、時間がないから手短に伝える。何も聞かず、教授室に一人で来てくれ。そこで受け取って欲しいものがあるんじゃ。真魚君と七海君の命に関わることだ。ワシは今、ある者に追われている。いずれ捕まるだろう。君も無関係ではないから気をつけ......ピー!』
メッセージは45分前、ちょうどメインディッシュにとりかかっていた頃か。なんて迂闊なんだ!録音時間は目一杯使われてはいなかった。自分で切ったかあるいは『ある者』に切られたか。いずれにせよここでのんびりしている場合ではない。
「ちょっと、どこ行くの?」真魚が言った。
「教授に呼び出されちゃってさ」荷物をカバンの中に突っ込んで立ち上がる僕。
「ええーっ、せっかくみんなでまったりしてたのにー」
「真魚ちゃん、和帆君は少ない休日を私たちのために使ってくれたのよ。充分楽しんだし、これ以上の我がままはやめておきましょう」
腰を浮かせていた真魚を七海が制する。
「う......ん......わかったよ」
「悪いね。たぶん徹夜になると思うから、先に寝てていいよ」
僕は真魚の頭に手を置き、指先で少しだけ撫でた。
-5-
正門警備の詰所でIDチェックを済ませたときには既に午後10時を過ぎていた。構内は所々灯りが点っている。大学院生たちが居残りで精力的に実験を行っているのだろう。僕は早速ドライシュタインの教授室に足を運んだが、中は無人の暗闇だった。
特に荒らされた形跡はない。ということは、教授は陽動を兼ねて別の場所から電話をかけてきたのかもしれない。僕は教授のパソコンを立ち上げ、画面に掌を合わせ静脈照合し、24桁のパスワードを打ち込んだ。不肖ながら教授の右腕である僕はプライベート領域以外は全てのアクセス権を持っている。
「あれ?」
だが、今回はいきなり全てのプロテクトが外れ、自動的に教授のビデオメッセージが流れ始めた。僕のアクセスを予期してプログラムしておいたに違いない。
『鱒井君、君ならアクセスしてくれると思っておったよ。話をする前に一言だけ言っておく。君は何を言われても正気を保つことを約束して欲しい』
僕は生唾を飲み込んだ。
『ワシは今、絶対世界の時空管理局に追われておる。君がこのメッセージを見る頃にはワシは拉致され、絶対世界の監獄にいることだろう。絶対世界とは何か?......以前にも講義したと思うが、世界は一つではない。我々の世界、真魚君の世界、七海君の世界......世界は無数に存在する。それらはどれも等価の力を持っていて、よほどのことがなければ干渉し合うことはない。じゃが、たった一つだけ特別な世界が存在する。
古典化学の原子モデルを想像して欲しい。我々の無数の世界を電子とすると、原子核にあたるものが絶対世界。全ての世界を統べる一つの世界が実在するということを覚えておくのだ』
絶対世界だって?......確かに世界を構成している要素は、原子と電子、衛星と惑星、惑星と恒星、恒星と銀河系中心部などは、少々強引かもしれないがフラクタル構造(部分が全体と相似となるような図形)を取っていると言えるだろう。一つの主と周りの従者たち。それが宇宙全体にも適用されるということなのだろうか?
『ワシらが作った時空転移装置の事故で、真魚君と七海君をこちらの世界に引き込み、麻波君を行方不明にさせてしまった。真魚君と七海君は我々の世界において、二人それぞれの世界の流れのまま不完全な存在『イレギュラー』として過ごしておる。全ての世界を統べる絶対世界の主シンは不完全を嫌う。故にワシはイレギュラーを生みだした罪を時空管理局に問われておるというわけじゃ。
じゃが、ワシのことなど取るに足らん。彼らの本当の目的は不完全なるイレギュラーの消去なのだ。生死云々ではない。時空管理局は人の存在そのものを無に返してしまう恐ろしい技術を持っているんじゃよ。残念ながら一度生まれてしまったイレギュラーを元の世界に戻すことは誰にもできん。つまり、消してしまうしかないということなんじゃ』
これで僕に正気を保てというのか?非現実的すぎる、と言いたいところだが、麻波が目の前で消えてしまったことを考えると、僕の脳内から常識という二文字を完全に引き出し、対核金庫にしまっておくしかないようだ。
『それだけは何としても阻止したい。ワシのせいで麻波君だけでなく、真魚君や七海君まで君から奪うわけには......む!?もうここを嗅ぎつけおったか』
ビデオはそこで終わっていた。教授が慌てて携帯電話を掴もうとする場面で動画が停止している。教授のせいだって?起動ボタンを押したのは麻波だ。僕の説明不足もある。教授が責任を感じる事なんてないはずなのに......。
「そういえば......」
教授は僕に何かを託そうとしていた。研究室に来るようになってから4年、勝手はわかっている。彼が何かを隠すとすればあそこしかない。20世紀ものの古風なポルノ動画が詰まったマイクロディスクで埋め尽くされた三次元半のドリームスペース。何のことはない、鍵がかかる一番上の引き出しのことだ。もちろん普通の素材ではない。フランスの怪盗が来ようがミサイルが撃ち込まれようが、絶対に本人にしか開けられないのだそうだ。
「あ、開いた......」
わざとなのか不注意なのかは知らないが、肝心のロックがかかっていなかった。ときどき教授の考えていることが解らなくなる。それとも僕は行動パターンを完璧に把握されてしまったのだろうか?
妖しげなタイトルが書かれたマイクロディスクの海を漁る。親指の爪ほどの大きさしかないディスクの密集地帯、海というよりは砂漠に近い。効率が悪いのでディスクを全部外に出すことにした。
妄想資源ゴミを片づけると、赤と青、涙の形をした二つの石が入っていた。
「ペンダント......なのか?」
それともう一つ、くしゃくしゃになった紙切れも。
絶対世界と反発する力を持った物質を発見した。我々はそれをリラティヴ・マテリアル------RMと名付ける。赤い方をRM-ドライシュタニウム、青い方をRM-ゲルテリウムとする。これらは二つで一つ、同じ世界に存在してこそ威力を発揮する。
ドライシュタニウム......か。教授が僕に託そうとしたのはおそらくこのリラティヴ・マテリアルというやつなのだろう。真魚と七海の命に関わると言っていた......教授の話を素直に解釈すれば、この二つの石を二人に持たせればいいということか。教授は夢みたいなことばかり言っている子供のような人だと思っていたが、もしかしたらとてつもなく重要な地位にいる人なのかもしれない。僕は二つの石を鞄に入れ急いで家に帰ろうとした。そのとき、何もなかった空間の一部が突然長方形に切り取られ見慣れた顔が映し出された。
「きょ、教授!?」
『おお、鱒井君、無事だったか。全てを理解しろとは言わんが、今はワシを信じてくれ。二つの石は受け取ってくれたな?』
「はい......それより、今どこにいるんですか!」
『時空管理局のトイレ。永久独房にぶち込まれる前の、最後の晩糞というわけじゃ』
「この通信はいったいどういう仕組みで......」
『細かいことは後にしよう。ワシのことは心配いらん。絶対世界は原則的に極刑は存在しないのでな』
「はぁ」
『それに奴らはワシだけが知っている親友の居所を掴むまでは......おっと時間がない。二つの石は真魚君と七海君に持たせるのだ。肌身離さずな。もし管理局の奴らが襲ってきたら、君は体のどこを犠牲にしても自分の頭だけは護るんじゃ。全てを失いたくなければの。それと、二人には時機が来るまでは絶対に話さんでもらいたい。では、またの』
「あっ!ちょっと!教授!?」
教授の姿は消え、再びいつも通りの景色に戻った。真魚と七海はイレギュラーと呼ばれる不完全な存在で、教授は絶対世界という別世界の連中に捕まった。それだけは解った。それ以上のことは理解に苦しむばかりだ。いやいや、今は考え込んでいる場合じゃない。僕は二つの石をファスナー付きの胸ポケットに入れ、急いで大学を出た。すでに夜が明けようとしていた。
* * *
某所
「ゲルテルはどこだっ!」
「さぁーの。シンなら知っておるじゃろ?」
「クッ......奴の遮蔽術は神業に近いのだ」
「ホッホッ」
「何がおかしい」
「人間の神業が神に限りなく近いというシンの知力を凌駕するのかね?こりゃおかしいわい」
「シンは個々の人間には干渉しないのだ」
「個々なくして全体はあり得んよ。ゲルテル君が百人もいればこの世界はひっくり返せるのだぞ?シンはただの置物なのかね?」
「だまれジジイ!おいっ、自白剤を用意しろっ」
「無駄じゃよ。ワシが向こうに渡る前、すでにゲルテル君がワシの体にナノ処置を施してくれておるからの」
「チッ!永久独房に放り込んでおけ!そのうち吐かせてやるからな!」
「楽しみにしとるよ」
-6-
8月。今月は火星で時空学シンポジウムがある。僕はドライシュタイン教授の代理で出席することになっていた。助教授クラスならまだわかる話だが、授業すら受け持っていない一助手の分際を差し向けるとは......我が大学のお歴々はこの最新分野を軽視しすぎているんじゃないのか?
僕が自室で外出の準備をしていると、真魚が近寄ってきた。赤いペンダントが胸の辺りで輝いている。
「えへへへ〜」
「なんだよ」
「あたしたちも連れてって」
「何をバカなことを。遊びで行くんじゃないんだぞ?」
「だってぇ、緊張しすぎて失神したら誰が和帆の介助をするわけ?」
「そ、そこまで、ひ、ひ、ひどくはならないさささ......」
「想像しただけで極限状態になってますね。やはり一人にはしておけません」
洗濯を終えた七海も部屋に入ってきた。青の石がよく似合っている。
「出席者以外には旅費は出ないんだぞ?」
「ふーん、じゃあ一人っきりで練習すればぁ?学生の前でさえ講義したことないのに、いきなり大御所たちの前じゃねぇ」真魚が意地悪そうに目を細めながら言った。
「教授の名前にこれ以上傷がつかなければいいのですが。ああでも、旅費は出ないんですよねぇ......」遠い目をした七海が続く。
「ハァ......僕の負けだ」
「やったー!」「やりましたね!」
シンポジウムの方は無難にこなした。僕ごときの地位では誰も耳を傾けないだろうが、その方がかえっていい。ボロは出さなかったと思う。真魚と七海は火星に着いてから開催直前まで終始くだらない話や冗談を絶やさず、僕をリラックスさせてくれた。二人がいなければ今頃、病院の処置室で恥をかいていただろう。
「さて、帰ろうか」
僕が宇宙港へ向かおうとすると両腕が後ろに引っ張られ、転びそうになった。「な、なんだよ?」
二人は満面に笑みを浮かべて山の方を指さした。太陽系最大の山マースオリンポス山のことだろう。火星ではベタすぎるほど定番の観光スポットだ。
「じょ、冗談言うなよ。これ以上の出費は......」
「あれぇ、発表原稿の致命的な欠点を指摘したのって七海姉ェだよね〜」
真魚がわざとらしく僕の肩にもたれかかる。
「ある程度国語ができる人なら誰でも気づくと思ったのですが......」
上目遣いで過去をえぐる七海。うう、今はそんな目で見ないでくれ。
「わかった。わかりましたよ。山でも温泉でもどこへでも連れてけ」
親指を突き出し合う真魚と七海。今月に入ってからは2戦2敗だ。なんとかしなければ、家賃すら危うくなってくる。
第三章 クワルテット
-1-
9月。
「あの......好きです。私とつき合ってくれませんか?」
キャンパスを歩いていると、後ろから近づいてきた見知らぬ女の子------たぶんここの学生だろう------にいきなり手を引かれ木陰に連れて行かれた。何を言われるのかと思えば......。僕は特別顔が良いというわけでもないし、講義で学生と接する機会もない。悪いとは思ったが理由を聞いてみた。
「一目惚れ......じゃ、いけないですか?」
目を少し潤ませながら震える声で訴えかける......そんな恋愛シミュレーションゲームのような展開、にわかには信じられなかった。
その子は凪原時枝(なぎはらときえ)といった。ここの大学1年生だという。微妙な年頃のせいもあってか美人とも可愛いとも取れるのだが、哀しげな表情と人間離れした透明感を漂わせるほっそりとした四肢が強く印象に残った。
「いきなりそんなこと言われても、すぐには答えられないよ」
僕は曖昧な言葉を重ねていき、その日は何とかはぐらかした。交際なんかできるわけない。僕には麻波が......たとえもう帰ってこないのだとしても......いや、そんな後ろ向きな考えはもうやめよう。それに真魚と七海だって麻波の分身のようなものだ。二人の幸せを見届けるまでは浮ついた気分にはなれない。だとすれば、何故すぐに断らなかったんだろう?その日はなかなか寝付けなかった。寝ても起きても、今にも消えてしまいそうなあの子の白い肌を心の深淵から取り除くことはできなかった。
結局僕は交際を断った。凪原時枝にどんな思いや背景があろうとも、三人の麻波を見つめる僕に選択の余地はない。時枝は落ち込んだ素振りを見せず、あっさりと引き下がってしまった。だが、次の日から時枝は毎日、大学の駐車場で待ち伏せていた。僕はわざと帰る時間を変えたり、壁側の細い隙間を通ってこっそり車に乗ろうとしたが無駄だった。ここはサークル棟から丸見えだ。上からの視線が少し痛い。無視して帰るわけにもいかず、3回ほど駅まで送った。
「優しいんですね」助手席に座る時枝が静かに言った。
「そんなことないさ」
交差点で信号待ちをしているとき、僕はどうしても左側に視線がいってしまう。一体どうしたというのか。
「でも、それが命取りになることってあるんですよ」
「何だって?」
突然、周りの景色が凍りついたように静止した。
「な、なんだ!?どうなってるんだ?」
横断歩道で人とぶつかり携帯電話を落としそうになっているOL。デートの待ち合わせに遅刻したのだろうか、制服を着た女の子に平手打ちを食らう寸前の少年。翼を広げ首を下に振ったまま空中で止まっている鳩......車内の空間だけが時の水源を使うことを許された世界のように思えた。時間が止まっている!?
「どうかしましたか?」
こんな状況で時枝は微笑みを浮かべている。何もかも溶かす純水のような微笑。だが、僕はその中に一点の濁りを見つけた。
「君の仕業、なんだろ?」
「さすがにドライシュタインのお弟子さんですね。科学者らしい勘の良さです」
「時空管理局かっ!!」
「まぁまぁ、慌てないでください。すべてはあなたの返答次第なんですよ」
「教授は無事なんだな?」
「ええ。ゲルテルを探し当てるまでは重要な鍵ですから」
「ゲルテル?」
「いえ、あなたには関係ないことです。......さて、取り引きしましょうか」
「僕は何にも応じないよ。こういう場合は取り引きじゃなくて脅迫って言うんだ」
「人聞きの悪いことを言わないでください。磯崎麻波さんを助けたくはないのですか?」
「何!?麻波は生きてるのか!今どこにいる!」
「落ち着いてください。すべてはあなたの返答次第と言ったでしょう?話の続き、聞きたいですか?」
「当然だ」
「簡単なことです。真魚さんと七海さん、二人のペンダントを外しそれを捨てる。それだけです」
僕はしばらく黙って考えた。
「なるほど、少しずつわかってきたよ。君たち絶対世界の人間は二つの石の力と反発し合い近づくことすらできない、ってところだろう」
「そこまで理解して頂けるとは、話が早いです。時空バランスの関係で彼女たちは二人同時でないと回収できません。ですから......」
「つまりは麻波と交換で二人を引き渡せ、ということか?」
「そうです」
「ふざけるな!」
「なぜ?あなたの恋人なんでしょう?取り戻したくはないのですか?」
「ああ、僕は麻波を取り戻したい。でも、真魚と七海を犠牲にしてまで幸せになりたいとは思わないよ!だからこのままでいい。きっと麻波なら......解ってくれるさ」
「本当に、いいんですか?」
「たとえ違う世界で生きてきた二人でも、麻波には違いない」
「魂の器が同じでも、二人はあなたが愛してきた麻波さんとは違うんですよ?」
「君は何も解っていない。大事なのはそういうことじゃないんだ」
「理解......できません」
「ところで、君は人を好きになったことはないのか?」
「我々の世界では恋愛という曖昧なものは存在しません」
「じゃあどうやって結婚したり子供を増やしたりするんだい?」
「それはシンが決めた日にシンが決めた男女たちで行われます。人口が増えすぎないように常にコントロールされています」
「そんな事務的な......それにシンって一体何なんだ?絶対世界の主って......」
「シンは神に限りなく近い全知のコンピューターです。シンは全ての世界を統治する絶対世界の頂点。全ての重要な決定はシンに委ねられています」
「コンピューターだって?......まあいい。ところで僕の処遇はどうなるんだ?人質に取って二人を脅迫するような真似だけは許さないからな」
「管理局に授けられた私の作戦は失敗しました。自分の生まれた世界で普通に生きている人、つまりレギュラーであるあなたを拘束する権限は我々にはありません。また会うこともあるでしょう。では、また」
「あっ!待て!それなら教授は何故拘束されなければならないんだ!」
時枝は車を降りると、時が止まったままの街の中へ消えていった。僕は追いかけようとしたが、どんなにがんばっても車の周りから先に進めなかった。疲れ果ててシートに身を沈めたとき、街の景色が再び動き始めた。
マンションのエントランスで偶然七海と会った。バイトの帰りにスーパーにでも寄ったのだろう、両手に大きなリサイクル袋をさげている。疲れ切っていた僕は持つのを手伝う気にもなれず、早足でエレベーターに乗った。
「何かあったんですか?」
扉が閉まると、七海が僕の顔を覗き込んだ。
「何でもない......何でもないんだ」
-2-
10月。単位の三分の一は衛星中継やネットによる自宅学習で履修できるという時代になっても、学園祭というものは根強く生き残っている。
「センパーイ。ダメじゃないですかぁ。そこの色違ってます」
「やばっ!......しゃーない、適当にごまかしといて。じゃっ!」
「あっ、逃げたー」
キャンパス内は学生たちが古風な屋台や看板造りなどに精を出している。学生の頃、僕はサークルに入っていなかったからこういう共同作業に少し憧れていた。教授がいないとき、実験の合間に窓からときどき下の方を眺めながら、あり得ないようなシチュエーションを夢想したりしていた。
(そうさ、今の僕じゃ誰も誘えないし誘われることもないんだ)
わかっていたことだけど、二十歳を過ぎたばかりのあの頃は自分を慰めるための言い訳を探すのに精一杯だった。
学園祭最終日、白衣を着た僕は実験装置を運んでいた。分野が違う特殊な装置なので、別棟の研究室から許可をもらって持ち出し、外を通って戻らなければならなかった。腕がだるかったし、何よりもはしゃいでいる同級生の間を通り抜けるのは憂鬱だった。
「鱒井君、だっけ?そんなカッコで何してるの?」
エプロン姿の女の子が屋台から少し離れたベンチに一人座って休憩していた。講義室で見たことがある同級生。確か......磯崎さん、だったっかな?
「教授の手伝いさ」
気分が沈んでいた僕は少しぶっきらぼうに答えた。
「えーっ!?だってまだ2年生でしょ?研究室の配属にはまだ早すぎるんじゃない?」
「ドライシュタイン教授とちょっと縁があってね。助手をやってるんだ」
「遊ばないの?学祭だよ?」
「サークルには入ってないし、今日は大事な実験があるしね」
「もぉ、短い青春を無駄にするなよ〜」
「そんなこと言われてもな。あ、ちょっと、それは......」
「実験なんていつでもできるって。だけど、2年生の学祭最終日という日は二度とやってこないんだよ」
彼女は僕が運んでいた装置を取り上げ、僕の背中を両手で押して研究室とは逆のイベント会場方面に強制連行した。その日のそれからの出来事は一生忘れないと思う。
学園祭が終わり、次の週あたりから彼女はちょくちょく研究室に顔を出すようになった。研究内容には全く興味を示さなかったが、実験中の僕の姿を常にじっと見つめていた。
「あのさ......」
「あっ、ごめん。気が散っちゃうよね。また今度ね」
彼女が部屋から出て行くと僕は少し寂しい気分になった。気が散るのは僕の集中力が足りないから?それとも......。次の日、僕は彼女にこう言った。
「大丈夫だから。好きなだけここにいていいよ」
本当は大丈夫じゃないんだけどね。僕は自分の気持ちにようやく気がついた。
「ありがと。あたしね、鱒井君の真剣な目つきを見てるのが好きなんだ。下手な講義よりよっぽどおもしろいよ」
「おもしろいって、見せ物じゃないんだからさ」
「アハハハ、ゴメンゴメン。でも、前半部分は本当だよ」
「磯崎さん......」
磯崎麻波は社交的な人で、友達が多く、僕には縁のない人だと思っていた。僕は口下手だったし、たまに話をしても内容は実験のことばかりだった。僕はなぜ彼女がこんな内向的な人間のところに来たがるのか知りたかった。結局、僕は聞けずじまいだったが、ある日彼女はこう言った。
「あのね......鱒井君といるとね、嫌なことあっても忘れちゃうんだよ。なんでだろうね」
麻波は本の虫実験の虫だった僕をときどき外に連れ出してくれた。半ば拉致される形ではあったけれど。
「こんにちは、教授。和帆借りまーす!」
「あっ!これっ!今はデータ取りの真っ最中なんじゃ......って、もうおらんし」
その後、僕の方からも時間を作って卒業するまでに幾度もデートを重ねた。大学を卒業し教授の正式な助手になってからもそれは続いた。麻波の方は科学大学出身のくせに普通のOLになってしまったが、進路に関しては人それぞれ思うところがあるのだろう、僕は特に理由を聞くことはしなかった。
月日は流れ、数年前から秘密裏に進めていた時空転移装置の研究が大詰めを迎えていた。僕は装置が完成してからプロポーズするつもりだったが、どうしても気持ちを抑えることができなかった。完成一ヶ月前、僕はとうとう帰りの車の中で告白してしまった。麻波は「はい」と一言だけ言った。
幸せな時間を過ごしてきた二人だが、問題が全くないわけではなかった。麻波は時空転移装置の研究についてだけはどうしても首を縦に振ってはくれなかった。途中から科学者の性(さが)ということで半分諦めたようだが、それでも「あの実験は純粋な探求心じゃなくて、何か別のものを感じる」と、何度かうわ言のように漏らしていた。
そうなんだ......僕が麻波の言うことにもっと真剣に耳を傾けていれば......。そうじゃなくても......僕がもう少し装置や状況に気を配っていれば......あんなことには!......麻波、すまない。僕は取り返しのつかないことをしてしまった。麻波、麻波......。
「麻波、麻波......」
「......さん」
「麻波......」
「......井さん。鱒井さん?」
「えっ?」
「こんにちは。凪原時枝です。覚えてますか?」
ふと顔を振ると、僕の横には時間を止めたあの女が座っていた。僕の背筋は一瞬で凍りついた。
「なっ!」僕は大声を出しそうになったが、相手が相手だけに周囲も気になり自重した。「今度は何をするつもりだ」
「何もしませんよ。私はこの世界では無力に近いですから」
「あのとき、時間を止めたじゃないか」
「あれは、管理局との連携があって初めてできる技なんです。絶対世界を離れれば私はただの出力装置に過ぎません。しかも、時空間に相当な負荷をかけていますから、どんなに無理をしても年に数回が限度ですね」
「そんなことをしてまで真魚と七海を......」
「不完全なるイレギュラーは消去せよ、とシンや管理局の人たちは常に言ってますけど、任務を解かれた今の私には関係ないことです。今はただの凪原時枝、ごく普通の大学1年生ですよ」
「信用できないな」
「それは承知しています。心を開いてもらうには時間が必要ですから」
「それもシンとやらの入れ知恵なんだろう?その手には乗らないよ」
「まさか。シンは個人的な恋愛感情にまでは干渉しませんよ」
「恋愛?......絶対世界には恋愛は存在しないんじゃなかったのか?」
「それが真実なのか確かめるために、私はこの世界に戻ってきました」
「本気で言ってるのか?」
「それは鱒井さんご自身で確かめてください」
彼女の瞳を見ていると、本当にその中に吸い込まれていくような感覚に陥る。天使でも悪魔でもない、あえて表現するなら純粋なグレイとでも言うのか......。
その後、僕は無意識のうちに何度も時枝に会うようになっていた。
-3-
11月。長すぎる残暑が終わったかと思うと、いきなり1メートルの積雪。こんな馬鹿げた気候に僕らはもう慣れてしまったが、時枝は違っていた。彼女は人並みに風邪を引いていた。
「ちょっと出かけてくる」僕は玄関で冬靴を探しながら言った。
「あれ?だって今日は一緒に買い物に行くはずじゃ......」
真魚が慌ててリビングから出てくる。
「急用なんだ。すまない」
「あの女性......のところですか?」少し遅れて出てきた七海が言った。
「えっ!?なんで......」
「あの女性って誰よ?」真魚が僕と七海を交互に睨みつける。
「私、偶然見てしまったんです。街で二人が仲良さそうに歩いているところ」
「あ、アンタ!行方不明のカノジョのことは忘れて、他の女に走ろうってワケ?サイテー」
「ち、違うって!彼女は時空......ゴホッ」
「ジクー?なにそれ?」
「とにかく、知り合いが風邪で40度の熱を出してるんだ。一人暮らしだから何とかしてやらないと」
「一人暮らし......ですか」
七海の眼鏡は光の反射角を変え表情がわからない。マンガじゃあるまいし......でもちょっと怖い。
「ああもう!そんなに気になるなら一緒に来ればいいだろう?」
「当然よ」「当然です」
なにも二人同時に言い切らなくてもいいだろうに......。
時枝の部屋は自宅から数キロ離れたマンションの77階にあった。インターホンを鳴らしたが反応はない。ほどなく携帯電話に『開いてます』とだけメッセージが入った。僕はしばらく二人の顔色を伺っていたが、真魚にふくらはぎを蹴られ、その勢いでドアノブに手がかってしまった。
中に入り、キッチンを過ぎ、時枝が寝ていると思われる部屋の扉を開く。室内は小ぎれいに片づいていた。というよりは驚くほど物が少ない。
「君らの部屋とは大違いだな」
「チッ......」「私はちゃんと片づけてますよ」
誰のせいかは言うまでもないだろう。
「あ......ごめんさい。本当に来てくれるなんて......」
僕らに気づいた時枝はベッドから上半身だけ起こした。頬が真っ赤だ。
「熱、まだ下がらないのか?」
僕は時枝の肩に触れ、枕を促した。
「ごふっ......は、はい......あれ?そちらの方々は?」
「えっ?ああ、義理のキョーダイさ。どうしても看病を手伝いたいっていうから」
真魚と七海は僕の言葉に唖然としていた。僕は時枝の注意をそらした後、二人に近づき両肘でそっと小突いた。
「あははは、兄貴一人じゃ心許なくてさぁ」
頭を掻く真魚。なかなかいいぞ。
「えっと、その、弟はおかゆ一つ作れないものでして......困ったものです」
今ひとつ言い方がぎくしゃくしている七海。偽の演技は短くするべきだ。
「はじめからこんな姿ですみません。彼氏だけならともかく、ご兄妹(姉)にまでお手を煩わせてしまうとは......けほっ」
「か、彼氏ぃ?」真魚が大声を出す。
「はい。お付き合いさせていただいてます。あれ?和帆さん、まだ言ってなかったんですか?」
「な!何をわけのわからないことを!」
何を考えてるんだ時枝は。僕はまだこの世界を案内してあげているだけじゃないか。
「こほっ......照れなくてもいいのに......」
時枝は両手の平を頬に添え、恥じらっている。いい加減にしてくれ。
その直後、真魚はさっさとアイス枕を換え、七海は手際よくレトルトの粥を用意した。二人は「これから大事な用があるので、今日はこれで」といって僕を無理矢理外に連れ出し、自宅に着くまで完全監視下に置いた。
二人による尋問は日付が変わるまで続いた。
-4-
12月。どうも先日の一件以来二人の機嫌が悪い。声をかけても無視されることが多くなった。三人分リビングに用意された少し遅めの朝食。一応僕の起床を待っていてはくれたんだろうけど、それにしてもこう重苦しい空気が毎日朝っぱらから続くのは感心できない。このままでは、きたるべき時空管理局の襲撃から二人を守るときに影響してしまう。
「一体僕が何をしたって言うんだ」
「自分の胸に聞いてみたら?」真魚がテレビの方を見たまま答えた。
「だから、時枝......ゴホッ、凪原さんは......」
確かに時枝は妖しくも魅力的な女性であることは認めるが、彼女の気持ちを受け入れるつもりはない。誤解されたまま年を越すわけにもいかないだろう。今が潮時だ。教授に言われたことを気にしてためらっていたが、ようやく決心がついた。僕はドライシュタイン教授の消息や絶対世界、そして凪原時枝との出会から今までのことを二人に話した。
「フィクションとしてはとても良くできていますね」
「おい、七海までそんなこと言うのか?」
七海は普段、あからさまな皮肉なんて滅多に口にしない。やはり感情的になっている。このままでは話が進めづらい。
「その凪原ってコ、絶対裏がある気がする。アーヤーシーイー」真魚はテレビを消して言った。
話はちゃんと聞いていたようだな。ただし、問題の焦点は僕とはだいぶズレている気がする。
「じゃあ仮に、万が一、麻波のことを忘れて凪原さんとつき合ったとして、何で君らがそこまで感情的にならなきゃいけないんだよ」
「あぅ......」「それは......」
『♪』
インターホンの呼び鈴が鳴った。こんな時間に誰だ?午前中配達を要請した覚えはない。しかもこの音はエントランスではなく廊下の方だ。
「こんにちは、これからデートに行きませんか?」
突然、玄関のドアが開き、見慣れぬ服を着た時枝が中に入ってきた。
「どうやってここまで上がってきた?トリプルオートロックなんだぞ?玄関の鍵だって......」
「玄関の鍵はかかっていませんでしたよ。オートロックの方は......」
時枝は続きを言いかけたが、僕の肩越しの方を見て口を閉じ微笑んだ。
「アンタ!うちの和帆を骨抜きにしようったってそうはいかないからね!」
振り向くと真魚が右手を脇腹に当て、左手で時枝を指さしていた。そのアクションはアニメの見過ぎだと思うぞ。
「では訊きますが、和帆さんはあなたの何ですか?」
「それは、その、あの......」
真っ赤な顔をして下を向く真魚。何故そこで言葉に詰まるかね。
「凪原さんのことは全て聞かせていただきました。絶対世界のことも」
いつの間にか七海もそこにいた。攻守交代。いつ見ても見事な連携だ。
「そうですか......でも私は任務を解かれていますから、もう関係ありません。個人的に会いに来てるだけですよ」
「そんなことにわかには信じられませ......」
「三人揃っているのならちょうど良かった。みんなで出かけましょう」
「はぁ?アンタ何言ってんの?」復活した真魚が噛みつく。
「私は違う世界の人間ですから、最終的には和帆さんと結ばれることはないでしょう。側にいられればそれでいい。それはあなた方二人にも言えることです」
「ど、どういうことですか?」七海が言った。
「それを知りたいのなら、一緒に来てください」
僕らは時枝に促され、ドライブするはめになった。目的地は途中までしか教えてもらっていない。「楽しみが減るから」と時枝は言っていたが、今はそういう雰囲気ではなさそうだ。時枝は助手席に座ろうとしたが、真魚と七海に断固拒否され、結局後部に三人並んで座っている。時枝は真ん中だ。
僕は車を近くの幹線道路まで走らせ、それから小一時間ほど沈黙が続いた。車内に重苦しい空気の前線が停滞していたが、時枝の一言で突風が吹いた。
「お二人は、和帆さんのことが好きなんですね?」
「なっ!ばっ、バカなこと言わないでよ!」「そそそ、そんなことは......」
僕は思わず右足に力が入り、前の車とぶつかりそうになった。何の前置きもなく、核心のしかも中枢を突いてくるとは。やはり時枝は恐ろしい人だ。違う世界の麻波------真魚と七海を全く意識しなかったと言えば嘘になる。遺伝子の相性とでもいうか無意識に引き合ってるのかもしれない。でも、僕には麻波がいる。理性の方はそう主張しているんだが......。
「好きなら好きとはっきり言えばいいのに。麻波さんの消息がわからない限り結ばれることはないとわかっていても、自分の気持ちを伝えることは大事だと思いますよ」時枝が言った。
「あ、あたしは別に和帆のことなんか......」「私は、その、えっと......」
二人は目を泳がせながら下を向いている。
「じゃあ、私が和帆さんを取ってもいいんですね?」
「だっ、だめっ!」「いやです!」
「......だそうです。和帆さん」
時枝はルームミラーに視線を合わせ、軽く肩をすくめてみせた。
二人から何も感じていなかったわけではない。心の表層では姉妹のつもりで扱ってきた。だが、それは仮の枠へ無理矢理代入していたに過ぎない。血のつながりがあるわけじゃないし、何よりも二人は麻波そのものなのだから。今すぐに結論を出せる問題じゃない。それよりも、僕は時枝の言葉に矛盾を感じていた。麻波の身柄は時空管理局に委ねられているんじゃなかったのか?それとも、真実を隠して二人を弄んでいるだけなのか。
「結ばれない本当の理由をまだ聞いていません」落ち着きを取り戻した七海が鋭い目つきで言った。
「ああ、それですか。皆さんをデートに誘うための、ニセモノの口実です」
「そ、そんな......」
「さぁ、着きましたよ」
僕は時枝が最後に指定した場所に車を止めた。辺りには建設途中で放置された造りかけの団地が広がっている。老朽化した21世紀型郊外都市の再開発計画が破綻したという話は大学生の頃に聞いたことがある。車を降りると、冷たい風がビルの間を抜ける音、それしか聞こえない。全くの無人だった。むき出しの鉄線や鉄骨、時の流れに取り残された無惨な姿。工事会社の幕や旗はすでに撤去されているが、鋼壁や錆びだらけの資材、小型の重機などはそのまま深い雪に埋もれている。やがて、風が止んだ。
「デートをするにしちゃ、殺風景な場所だな」
僕は何気に振ったつもりだったが、時枝の耳には入らなかったようだ。時枝は
8割方完成していたマンションの屋上に目をやっている。僕もそっちを見るが、気になるものは何もないし誰もいない。
「こんな薄気味悪いところで何を語ろうってのよ」
体の震えが止まらない真魚。薄型とはいえ極地仕様のハイテク防寒着を着ているはずなのだが。
「すぐにわかりますよ」
数分後、全身スレートグレーずくめの大男がマンションのエントランスから出てきた。2メートル近い身長には全然似合わない人民服風のデザイン。人工着色料のような紅い長髪。コスプレ大会のリハーサルでもやろうってのかね?
「4ヶ月か......トキにしては意外と早かったな」大男が言った。
「『トキにしては意外と』は余計ですね」
「フン、こいつらがあんな狭苦しい街に住んでいなければ、俺が1日で片づけたというのに」
「上の決定は絶対です。スペイシオ、あなたの規格外の能力はこの日本という国には相応しくないですから」
「チッ、下っ端に説教されるとはな。俺も焼きが回ったものだ」
「ちょっとちょっと、芝居の練習なら他でやってよね」
真魚が二人の間に割って入る。
「ああっ、だめですよ。二人はちゃんと並んでいてください」
「お、オーディションでもやるんですか?」
時枝に仕切られまごつく七海。
時枝は何も言わず微笑むだけだった。そういえば、大男の姿が見えない......あれ?僕の背後に!?
「痛てっ!」
気が付くと僕の両手首は大きな手に掴まれ、体が浮いたかと思うと大男のなすがままに真魚と七海のペンダントを両手に持たされていた。
「あっ!」
大男が僕の手から二つのペンダントを叩き落とす。そっちへ注意が行った次の瞬間にはもう男は時枝の隣に戻っていた。こいつ......人間業じゃない!時空管理局!......気づいたときにはもう遅かった。
「真魚っ!七海っ!」
大男は両腕に気絶した二人を抱えていた。僕が男に近づこうとしたとき、辺りからけたたましい轟音が聞こえ、近くにあった作りかけのマンションが崩壊していった。
「リラティヴ・マテリアル......なかなかの曲者でしたね」時枝が言った。
「ああ、俺の能力を持ってしても手の痺れが止まらん」
「時枝!おまえ......」
今までのことは全て演技だったのか。多少なりとも心を奪われた自分が許せなかった。僕は両腕が塞がっている大男に一撃を加え、二人を奪い返すつもりだったが、いくら前に進もうとしても近づくことは出来なかった。足は動いているのに、空回りしている!?
「無駄ですよ、和帆さん」
「またおまえの力か!」
「普通の人間がこの時停結界を越えることはできません。どれほど高速で進んでも私には永久に近づけないでしょう」
「二人をどうする気だ!」
「イレギュラーが存在し続けることは、我々時空管理局の恥、不完全なる者は即刻消去する」大男が言った。
「やめてくれ!どんなことでもするから、それだけは!」
「和帆さんがすべきことはたった一つ、忘れることです。本来はあなたもドライシュタインと同罪なのですが......シンはレギュラーへの干渉には非常に消極的ですので、今回はここ1年間の記憶を消すだけにしておきましょう」
「そんな......そうだ!麻波はどうした?居場所を知ってるんだろう?」
「ごめんなさい。あれは嘘です」
僕はバカだ。ここまで完璧に騙されるとは。僕は大バカだ。時枝が戻ってきたときに気づくべきだった。いや、そもそも彼女に会っていたこと自体が......。二人が助かるのなら、僕が代わりに捕まっても構わない。......それなのに手も足も出ない。僕は頭を抱えた。頭?
(もし管理局の奴らが襲ってきたら、君は体のどこを犠牲にしても自分の頭だけは護るんじゃ。全てを失いたくなければの)
でも、今頭を護って何になる?二人が連れ去られようとしてるのに!
「さよなら、和帆さん」
時枝は両手を僕の方につきだした。手の周りの空気が歪み始め、それが結界を突き抜け、僕の頭に近づいてきた。もうだめだと思ったとき、その速度が急激に鈍った気がした。
「え?......この頬を伝うものは?」
「異物が目に入ったんだろう。不純物の多い世界は俺も好かん。さっさと済ませろ」
「わかっています」
僕は頭を覆った両手に目一杯力を込めた。何でそうしているのかは自分でも解らない。空気の歪みが僕の頭を取り巻く。これまでか......。
「な!?時空の力が逆流しているだと!?」大男が叫ぶ。「ドライシュタインの仕業か!?姑息な仕掛けを!」
「あぐっ!!体が......消えかかってる......」
時枝は両手の平を見て動揺している。
「奴のことはいい!任務は終わった!脱出する!」
「はぁはぁ......りょ、了解」
僕は頭から手を放さなかった。僕は教授を信じていた。周りの軽蔑を気にしない、常識をアテにしない、そして何よりも障害を持つ僕に優しくしてくれた教授が大好きだった。
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■作者からのメッセージ
初めまして。疎(まばら)と申します。
主にライトSFを書いています。
書きためておいた小説をちょっとずつアップしていきたいと思います。今回はラブコメ風のファンタジックSFです。ご意見ご感想よろしくお願いします。