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『月の詩(うた) 1〜5話』 作者:鈴(すず) / 未分類 未分類
全角24417文字
容量48834 bytes
原稿用紙約72.9枚
First night 『Knock’n on He-vn’s Door』

     ―――  誰かが、ドアを叩いた気がした。  ―――

 いつもの見慣れたハデに飾られた扉を開けると、耳が痛いくらいの大音量の音楽と、見慣れたメンツの顔が彼を出迎えた。Bar「Angel’s Paradise」。この街で暮らす奴等の溜まり場だ。
 「あー、シュウじゃん!ひっさしぶりー!」
 シホがひらひらと手を振りながらやってきた。
 「ほかに女でもできたのー?全然来ないから寂しかったんだよ。」
 「店のNo.1が随分と暇そうだな。おれだって色々忙しいんだよ。」
 シュウと呼ばれた青年は、セブンスターを口にくわえながら、シホの頭をポンポンと叩いた。少しウェーブのかかった金髪と、人なつっこそうな屈託のない笑顔が印象的な少女はいつものシュウらしい挨拶に満足したのか、嬉しそうにシュウの後に続いた。

 2999年、歴史上地球に最も月が近づいた。当時この日本と呼ばれる国は世界的にみても1,2を争うほどの力を持っていたが、たった一晩ですべてが崩壊した。月の大接近により、この国を完全に制御していたコンピューターにバグが生じ、この国の政治体制は一夜にして崩壊した。また、月の大接近の影響は地球規模の異変をもたらした。世界中で突如凶暴化する人が続出し、この夜、実に世界の10分の1の人間が彼らに殺された。その後この夜の出来事は、「満月の暴走(フルムーン・エクスプロージョン)」と呼ばれる。
 
 そして3032年、現在。日本もほとんどのシステムが復旧し、人々は普通の暮しを取り戻している。しかし、一部の地区はスラム化し、法の外にあった。ここ「He‐vn(ヘヴン)」も、そんなスラムのひとつだ。他国からの密入国者やマフィアといった、普通の世界には生きられないような人間たちが毎日のように流れ込んできてはまた流れていく、銃も、ドラッグも、殺人も、何だってアリの天国。シュウも、そんなHe‐vnで暮らす一人だった。
 「おら、エースのフォーカード。」
 シュウは勝ち誇ったように手札をテーブルに叩きつけた。
 「マジかよー、勘弁してくれって。」
 相手の男は泣き出しそうな声をあげている。
 「ほれ、さっさと金出せ。」
 「ほーんとシュウってば強いねぇ」
 シュウの後ろから見ていたシホが、シュウのバーボンを口に含みながら言った。
 「だからお前は人の酒を飲むなっつーの。金払わねーぞ。」
 シュウがそのグラスを奪い返しながら言うと、
 「なによー、お店のNo.1と飲めてるんだから文句言わないの。第一お金払わなかったら、ウチのマスターのバックについてるこわ〜いお兄さんたちにコンクリ抱かされるよ?」
 シホはコロコロと笑いながら言った。
 「さらっと怖いコト言うなって。」
 まんざら嘘じゃないだけに、痛い一言だった。
 
 「じゃーねーシュウ。今度長いこと来なかったら浮気しちゃうかんねー。」
 シホが少し酔った赤い顔で手を振った。
「バーカ、勝手にしろ。」
 シュウは笑いながら手を振り返した。
 これがシュウの日常だ。シュウだけじゃない、He‐vnで暮らす人間の日常は大抵こんな感じだ。
 He‐vnで暮らす人間は「天使」と呼ばれることがある。天国に暮らす奴等だから天使。単純なネーミングセンスだ。そして天使たちが集まる店が「Angel’s Paradise」。つくづくなんのひねりも感じられない。天使たちのほとんどは毎晩のように「Angel’s Paradise」に集まり、賭け事で毎日の生計を立てる。力のない者はいつの間にか消えている。そんな日常の中で、シュウは子どもの頃から生き続けてきた。
 シュウは捨て子だった。He‐vnに暮しているやつらの中では、大して珍しいことでもないが、親の顔なんて覚えちゃいない。物心ついたころには、彼はジンと呼ばれる男と暮していた。ジンはシュウより8歳(もっともこの街の人間の大半は、自分の正確な年齢など知らないので、おおまかな年齢差でしかないが。)しか年上でなかったが、それでもシュウにとっては父親のような存在だった。
 そのジンも今はもういない。シュウは誰と群れるでもなく、つかず離れずの立場を維持していた。こんなゴミ溜めのような街に生きている自分や周りの人間に価値なんて感じなかったし、別にいつ死んだっていい、ただ今日も生き延びたから、明日がくる。そんな考えが彼の中のどこかにあったのだろう。

 シュウは空を見上げた。ひどく大きな月が、少し赤みがかったような金色で怪しく輝いている。「満月の暴走」以来、月と地球の距離は極端に近くなった。昔は月はもっと遠くにあって、周りには星という、小さな月のようなものが輝いていた。いや、今も星というものは存在するのだが、あまりに月が明るすぎるため、その姿がみえないのだ、と、なにかの本で読んだことがあるのを、シュウは思い出した。思い出しながら、しばらく月をみていた。「この光が、人々を狂わせるのか。」ぼんやりと夜空を見つめながら、ほろ酔い気味の思考回路は何とはなしにそんなことを考えていた。そんなシュウの考えを知ってか知らずか、月の輝きは、夜の深まりと共に一層怪しさを増していった。

 シュウの言う、月の光が人を狂わせるというのは、Lu:na(ルーナ)のことだ。「満月の暴走」の時、凶暴化した人々のほとんどは、世界的に組織された特殊部隊によってほとんどがすみやかに処理された。しかし、今だに逃げ回っている者たちも多い。また、「満月の暴走」以降に、彼らと同じ現象を引き起こす者たちもいた。彼らは普段は普通の人と全く変わらないのだが、満月の夜、その瞳は月明かりを映し出したような金色になり、意思の弱い者は満月の力に支配され、人を襲ったりする。そういった、月の力に魅せられた人々のことを、人々はLu:naと呼んだ。

 月明かりの中を再びシュウは歩き始めた。明日もきっといつもの日常が繰り返されるのだろう。いままで生きてきて、そのことを疑ったことなんてなかったし、この夜だってそうだった。ビルとビルの間の細く暗い路地に、彼を見つけるまでは。普通なら、誰も気付かずに通り過ぎてしまうほど、その存在は弱々しかった。しかし、その時シュウは、誰かが自分を呼んだような気がして、その路地に目をやった。一人の青年がうずくまっていた。顔ははっきり見えなかったが、シュウの黒髪とはまるで対象的な、ひどく明るい金髪がシュウの目をひいた。シュウはその金色が、どこか月明かりに似ているような印象をうけた。
 怪我しているのだろう。ひどく衰弱した様子で、その青年はシュウを見上げた。目が合った瞬間、シュウは心臓をブチ抜かれたような、今まで感じたことのない感覚に陥った。
 青年はひどく衰弱しているにもかかわらず、シュウには、その瞳が哀れみとも、喜びともつかない憂いを含みながら、シュウを見て笑った気がした。

 巨大な月が、いつもと変わることなく、怪しく輝く夜だった。

                         Next night will coming soon…


 
Second night『Are You Believing Your God?』

―――  神サマ、オレヲ殺シテクレ・・・  ―――

 部屋の中に充満した、むせかえるような鉄の匂い。目の前には、もう動かなくなった、少し前までは「人間」とよばれていた有機物が首をうなだれている。自分の手をまだ温かみをもった血液がつたい落ちていく。ふいにドアの開く音に、そちらを振り返ると、その屋敷の小間使いらしき女が、ひどく怯えた表情で自分を見ている。そして、その女の口がゆっくりと動く。
 「 バ ケ モ ノ 」

 ゆっくりと鮮明さを取り戻していく意識の中で、シンは自分がベッドに横たわっていることを認識した。ひどくノドが渇いている。相当寝汗をかいたのだろう。体もダルかった。ゆっくりと上体を起こす。見覚えのない部屋の中にいた。なぜ自分はこの部屋で、ベッドに横たわっているのか。記憶を辿ろうとしたそのとき、部屋のドアが開いた。黒い髪の、背の高い男が入ってきた。男はシンを見ると、
 「おぉ、目ぇ覚めたのか。丸三日も寝てたからどうしたもんかと心配したぜー。水でも飲むか?」
 と、冷蔵庫を開けて、ペットボトルに入った水を手渡してくれた。
 「おれはシュウってんだ。あんた名前は?あんたHe‐vnじゃ見ない顔だよな?どっかから逃げてきたのか?」
 シュウと名乗った男の問いには答えず、シンは質問で返す。
 「おれはなんでここに?」
 「覚えてないのか?まぁおれも怪我してたアンタを道端で拾っただけだから、なんでアンタが路上でぶっ倒れてたのかは知らんけどな。」
 そのシュウの言葉で、シンの頭の中で現在までの記憶がつながった。そして記憶を取り戻したシンは、
 「そうか、アンタが助けてくれたのか。」
 とだけ言って、少し残念そうな顔をした。その顔に何かを見てとったシュウは、
 「死にたかった?」
 とだけ聞いた。シンは一瞬少し戸惑った表情を見せたが、
 「いや、きっとこれで良かったんだ。ありがとな。おれはシン。」
 そう言って、軽く微笑んだ。そのシンに、シュウも笑って返す。

 あの夜、Angel’s Paradiseの帰り道、道端で死にかけていたシンを見つけたシュウは、自分の家まで連れ帰って、介抱してやった。他人が死んだって関係ないようなこの街の暮しのなかで、シュウがなぜこの得体の知れない男を連れ帰ったのか。シュウ自身、分からなかった。ただ、あの瞬間、自分を見て笑ったこの男に、どこかで惹かれたのだろう。それがどういった部分でのコトなのか、この時点ではシュウ自身にもはっきりとはしなかった。

 それから、シンはシュウからいま自分がいるのは東京の中にあるスラムのひとつであることや、He‐vnのことを色々教えてもらった。その間、シュウはシンのことについてはむやみに触れなかった。それはシュウの中にある考えがあったからだった。一通りの情報を与えた後、シュウは自分の考えの真偽を確かめるべく、少し真面目な顔をして、シンに聞いた。
 「なぁ、シン。答えたくなかったらいいんだが、アンタもしかしてLu:naか?アンタを見つけたとき、アンタは死んでもおかしくないような傷を負ってた。にもかかわらず、家に連れてきて介抱してみりゃみるみる回復して、たった二日で完治しちまった。あんなモン見れば誰だって普通の人間じゃないことはわかる。」
 その問いに、あきらかにシンの表情に動揺が浮かんだ。この時代、自分がLu:naだと周囲に知れれば、その先に待つのは弾圧と迫害だけだ。Lu:naは人を襲う。それだけが人々のLu:naに対する認識だったから、当然といえば当然なのだが。自分たちの平和を守るために、人々も必死だった。正確には、人を襲うのは自我の弱いLu:naであって、自制心の強い者はそんなことはないのだが、普通の人々にはそんなことは関係なかった。
シンは少しの間黙っていた。しかし、やがて口を開き、
 「あぁ。」
 とだけ答えた。覚悟をきめていた。しかし、自分の中の疑問の答えを知りたかっただけのシュウの反応は、シンの覚悟に反し、
 「そっかー。いや、安心しろよ、別にアンタがLu:naだからどうこうしようってわけじゃねーから。」
 というセリフと、笑顔だった。シンはポカンとした顔をして、
 「おれが、怖くないのか?」
 シュウに尋ねた。シュウはセブンスターに火をつけながら、
 「マフィアやら殺人犯がウロウロしてるスラムの中でガキん時から育ってきたんだぜ?Lu:naの一人ぐらいでビビるタマじゃねぇよ。」
 笑いながら言った。そして、大きく煙を吸い込んだ後、こう続けた。
 「それに、おれの育ての親も、Lu:naだったからよ。今はもう死んじまったけどな。ジンっつって、おれよか8つしか年上じゃなかったけど、色々面倒みてもらったっけ。ポーカーの勝ち方も、女の落とし方も、ケンカの仕方も、ここで生きていくのに必要な知識は全部叩き込んでもらった。2年前のある日、傷だらけで帰ってきてそのまま死んじまったけどな。だからLu:naが人を襲うヤツばっかじゃないってのも知ってるし、そんなに怖いってイメージもねぇな。」
 シュウは煙をくゆらせながらながら言った。シンも、シュウのそんな姿に、自分と同じような匂いを感じ始めていた。
 「ホントは・・・」
 シンが口を開いた。
 「ホントは、あの夜あのまま死ぬことを望んでたのかも知れない。シュウ、Eclipseって知ってるか?」
 「いや。なんだそれ?」
 Eclipse。「月食」の名を冠したこの部隊はその名の通り、「満月の暴走」以来出現したLu:naを掃討するために組織された。通常の人間より回復力などのあらゆる身体能力が勝るLu:naを処理するため、特殊な武器の扱いや体術を叩き込まれた、Lu:naを殺す為だけの組織だった。
 「あの日、おれはEclipseに襲われて、このHe‐vnに逃げ込んできた。ヘマをやってかなりの深手を負って、朦朧とする意識の中で、もうこのまま死ぬんだと思った。おれは自分の運命を呪ってる。いままでさんざんこの手を汚して生きてきた。おれはこの手を汚した数だけ、十字架を背負って生きていかなきゃいけなんだ。その重荷から解放されるなら、あのまま死ぬのならそれでもかまわないと思った。もし神様ってやつがいるんだったら、おれにこんな運命を背負わせたその神様が、おれをやっとその運命から解放してくれんのかと思った。消えかかった意識の中でシュウを見たような気がしたけど、その辺のことはあんまり覚えてない。」
 話を聞きながら、シュウがシンになぜ同じ雰囲気を感じていたのか分かった気がした。「あぁ、おれもこいつも、自分にも周りにも何も求めていないんだ。ずっと、一人だったんだ。」だから、あの夜シュウは、自分と似た境遇にあったシンが最後の時に呼ばれた気がしたのかもしれないと思った。シュウはマルボロをシンに差し出した。
 「神様なんて信じるだけムダだろ。信じたって誰も救っちゃくれない。ま、とりあえず今は、こいつがあれば充分だろ?神様なんかより、よっぽど役にたつぜ。」
 笑いながら言うシュウに、シンが、なぜ自分の吸うタバコの銘柄をシュウが知っているのか不思議そうな顔をしていたので、シュウは答えてやる。
 「アンタの服のポケットに入ってたからよ。目ぇ覚めたら吸いたいだろうと思って、新しいの買ってきといてやった。ホラ、おれって優しいからさー。」
 シュウの答えに、シンも微笑みながらそれを受け取り、封をあけて一本取り出した。シュウの差し出してくれたライターでタバコに火をつけ、深く煙を吸い込む。その様子をみたシュウも新しいセブンスターに火をつける。部屋の中に、ゆっくりと二つの紫煙が広がっていった。

 孤独の運命の下に生きてきた二人が、巡り合った。そして、彼らが出会ったことは、いたずらに彼らの運命の歯車を狂わせていく。それはまるで神様の悪ふざけのように。すこしずつ、確実に。

                          Next night will coming soon…



Third night 『Let’s start!Hunting time』

―――  さぁ、始めよう。ウサギ狩りの時間だ。 ―――

 シュウがシンを拾ってから二週間がたっていた。シュウはシンを初めてAngel’s Paradiseに連れてきた。扉を開けると相変わらずのバカでかい音楽が耳に響く。シュウが入ってきたのをシホが見つけ、怒ったような顔で近づいてきた。シュウの目の前まで来ると、シュウの肩ぐらいまでくらいしか身長のないその少女は、シュウを見上げながらたまっていた不満をぶちまける。
 「このバカシュウ!今までなにしてたのよー!今度長いこと来なかったら浮気するって言ったでしょー!・・・どうせシュウはシホなんてどーでもいいんだ。」
 まるで子どもがいじけたような文句を言った後、シホの目がみるみる潤んでいき、今にも泣き出しそうな顔になっている。シュウは少しめんどくさそうに、しかし本当に長いこと来なかったコトへの罪悪感も多少手伝って、
 「悪かったよ、ゴメンゴメン。おれも色々大変だったんだよ。こいつのコトがあったからよ。」
 そういってシホの頭をなでながらシンのほうを振り返る。男にしては少し背が低い、160cmを少し超えたくらいの、一瞥しただけでは女性と間違ってしまいそうな、綺麗な顔をした明るい金髪の青年が立っていた。シホが、シンをマジマジと見た後、急にシュウのほうを振り返り、蒼ざめた顔をしてシュウに言った。
 「ま、まさかシュウってば!他に女ができたならまだしも、そっちの道に走ってたなんて!」
 シュウはシホの頭を軽くはたきながら、
 「んなワケあるか!こいつシンってんだけど、怪我して道端にぶっ倒れてたからさ、拾って看病してやってたんだよ。」
 「へぇー。珍しいね、シュウが他人に興味もつなんてさ。」
 そんな二人のやりとりをみていたシンが、
 「彼女は、シュウの恋人?」
 とシュウに聞く。
 「いや、そんなんじゃ・・・」
 シュウが否定するより早く、シホはシュウと腕を組んで、
 「そうで〜す♪シホっていうの。よろしくね、シンくん。」
 と答えた。恋人と言われたのが相当嬉しかったらしく、満面の笑みを浮かべている。シンも笑いながら、よろしくと返す。シュウが、
 「さーて、んじゃ今日もがっぽり稼いでいくか。」
 といって、奥のテーブルに向かっていく。シンとシホも続いた。
 
 「ねぇねぇ、シュウが友だち連れてきたんだってー。」
 「へぇー、あのシュウが?」
 「すごく綺麗な顔した人らしいよー。」
 「見た見た。アンタなんかよりよっぽど美人よ。」
 この夜、店の女たちの間ではシンの話で持ちきりだった。今まで誰ともつるむことの無かったシュウが友だちを連れてきただけでも一大事なのだが、その男がえらく綺麗な顔をしてるというので、店の女たちはこぞってシュウたちの座っているテーブルの周りに集まってきた。
 「うわー、ホントキレイ。人形みたい。」
 「そう?アタシはシュウのほうがいいけどなー。」
 「シュウにはシホがいるからねぇ。」
 女たちが好き勝手言っていると、マスターが困ったような怒ったような顔でやってきた。
 「お前ら!仮にも仕事中だろ!このテーブルにばっかり集まってると他のお客から文句ブーブーなんだよ。ほら、散った散った!給料払ってんだから仕事しろ!」
 「はーい。」
 女たちは少し不満そうに散っていく。その姿を見送りながら、
 「モテモテだなーシンちゃん。」
 シュウがからかったように言う。シンは少し困ったように、
 「冷やかすなって。」
 とだけ言ってマルボロに火をつける。
 「シンくんは彼女いないのー?そんなカッコイイんだからモテるでしょー?」
 シホが聞くと、
 「そんなことないよ。」
 と言う。シホは無邪気に笑って続けた。
 「じゃあ今からでも作りなよー。ウチのコたちもみんなシンくんに夢中みたいだし、シンくんならすぐできるって。あ、でもシホはだめよー。先約があるから。」
 意外だった。自分が女性を幸せにできるハズない。だから、恋人をつくろうなんて思わなかった。しかし、目の前のシュウとシホを見ていると、そういうのも悪くないような気がする。シンは、
 「そうだな。」
 と言って微笑んだ。
 その笑顔を見たシュウは、その笑顔に今までに見たことのない柔らかさのようなものを感じた。今までのシンの笑顔には、いつもどこか寂しさのような影があったのだが、今の笑顔にそれを感じることはなかった。シュウは嬉しそうにグラスのウイスキーを一気に流し込んで、
 「さぁ、夜はまだまだこれからだ!どんどん勝たせてもらうぜ。」
 テーブルを挟んで向かいに座っている男に、不敵に笑ってみせた。
 「チッ!こっからだ!こっから逆転してみせっからよー。あとで泣きゴト言うなよ!」
 向かいの男はいかにもやられ役のようなセリフを吐く。
 「あれ、そういえばシンくんはポーカーしないの?もしかして知らないとか?」
 シホが言うと、シュウが代わりに答える。
 「ちげーよ。こいつとやると強すぎてやる気失せるからな。おれよかやり手だぜ。」
 シンの療養中、シュウは暇つぶしにポーカーをやったことが何度かあったが、ほとんど勝てたことはなかった。シュウはハイリスク・ハイリターンの勝負師タイプ。シンは、シュウのプレイのような派手さはなかったが、確実に勝てる引きの強さのようなものを持っていた。
 そんなコトは知らない向かいの男は、シンがカモだと思ったらしく、ここがチャンスとばかりに、
 「そんなこと言って、そっちの兄ちゃんは負けるのが怖いだけだろ?シホの前で情けない姿は見せられないもんなー。店の女どもに話されたら恥ずかしくてもう店に来れなくなるしなぁ。」
 シンを挑発する。しかし、シンは黙ってタバコをふかしている。 
 「図星でなんも言えねーか?女みてぇな外見してっけど、中身までフヌケかよ!」
 男が調子に乗って続けると、シンは少しムキになったらしく、
 「シュウ、代わってくれないか?」
 とシュウに言った。シュウも、珍しくムキになるシンに面白がって、シンと交代した。
 「へぇー、やれんのか。ま、どーせお子様の遊び程度なんだろ。」
 男が言うと、ゆっくり煙を吐き出しながら、
 「しかしペラペラとよく回る口だな。あんたにはポーカーフェイスって言葉は無縁そうだな。」
 シンが言った。ディーラー役のシュウが二人にカードを配る。男は配られたカードを見るとニタリと笑って言った。
 「おれはチェンジはなしだ。余裕で勝てそうだな。やっとツキもおれに回ってきたみてぇだな。」
 シンは全く聞いている様子もなく、シュウに、
 「3枚チェンジだ。」
 と言った。配られたカードを見ても、シンの表情は変わらない。
 「なんだぁ、クズカードしかまわってこなかったか?今から降参するか?」
 相変わらず喋り続ける男の言葉は無視して、シンが言った。
 「なぁ、この勝負、勝ったほうは負けたほうに好きな罰ゲームを課せられるってのはどうだ?おれが負けたらアンタの言うことを何でも聞くよ。100万払えってんなら払うし、死ねっていうなら死んでやる。どうだ?」
 「ちょっと、シュウ!シンくんあんなこと言って大丈夫なの?」
 シホが心配そうに言うが、シュウはのんきにグラスの中の氷を回している。男は、
 「おもしれぇ。ただのフヌケかと思ったが、なかなか面白いコト言うじゃねーか。利口とは言えねぇけどな。いいか、おれが勝ったら200万!払ってもらうぜ。」
 と、えらく欲の皮のつっぱった注文をつきつけた。シュウが、
 「それじゃ、二人ともカードオープンだ。」
 と言うと、男は自信満々に、手札をテーブルに開く。
 「どーよ、フルハウスだぜ!?勝てるか、兄ちゃん?」
 シンは黙って手札をテーブルになげる。
 「・・・そ、そんな・・・冗談だろ?」
 男がくわえていたタバコを落とす。10、J、Q、K、A。オールハート。
 「ロイヤル・ストレート・フラッシュ。」
 シンはニヤリと笑いながら言った。
 「おれの勝ちだな。」
 「イカサマだ!テメェシュウと組んでイカサマしやがったな!」
 男がわめきだす。シンはゆっくり立ち上がって、男の前に立った。
 「つくづく見苦しいヤローだな。約束通り、罰ゲームだ。」
 そう言って男の左目に手をかける。まぶたの上下を指で押さえ、目を閉じれないようにした。そして、くわえていたタバコを空いている手に持つと、ゆっくりと男の左目に近づけていく。
 「ちょっ・・シンくん?」
 シホが不安そうな顔で声をかける。シュウは、黙って見ていた。
 「おいおい、待てって。じょ、冗談だよな?さっきのコトなら謝るからよ。」
 シンは黙ってタバコを男の目に向けて進める。15cm・・・10cm・・・5cm。
 「やめろ。たのむ!やめてくれーー!!」
 男は絶叫して、椅子から転げ落ちる。あまりの騒ぎに、周りの客たちも何事かとこちらを見ている。シンはタバコをくわえなおすと、
 「どっちがフヌケだろーな?」
 満足そうに笑った。そしてシュウたちの方を振り返ると、
 「シュウ、シホ、向こうで飲み直そう。今日はおれがおごるよ。」
 と言った。シュウとシホも軽く笑って。
 「そうだな。」
 と席を立った。

 その夜、Angel’s Paradiseからの帰り道、シンがシュウに聞いた。
 「なぁ、さっき、ホントにやると思ったか?」
 シュウは隣にいるシンの顔を見た。そして笑って言った。
 「いや。お前はそんなことしないよ。シホはマジでビビってたみたいだけどなー。」
 それから少し間を開けてシュウは続けた。
 「もし、あそこでお前がホントにやってたら、おれはお前を殴り飛ばしてたな。」
 「いままでのおれだったら、あのときあのままやってたような気がする。心の底ではそんなことしたくないのに、体は言うことをきかないんだ。でも、さっきは、シュウやシホのことが頭に浮かんで、そしたら自然と手が止まった・・・シュウ、おれは変われるような気がするんだ。」
 「変われるさ、お前なら。」
 その言葉に、シンも微笑んだ。

 同時刻。中国・上海。繁華街の裏道で、10人ほどの人間たちが、何事かしている。
 「しっかしまるで手ごたえねぇな。久しぶりの狩りだっていうから出てきてみりゃ、こんな雑魚かよ。もうちっと楽しませてくれよー。」
 リーダー格らしき男が、ラークに火をつけながら言った。その目の前では、彼の部下たちが、倒れている一人の男を囲んでいた。倒れている男は相当手酷くやられたらしく、ぐったりとして動かない。かすかに呼吸が聞こえる程度だった。
 「ホント肩透かしもいいとこだぜ。おいお前ら、さっさとそいつ殺して帰るぞ。」
 リーダーの言葉に、部下の一人が黙って銃を抜き、倒れている男の脳天をぶち抜いた。
 「あーぁ、メンドクセ。うーし、帰るぞ。」
 男たちが立ち去ろうとした時、一人の男が目の前に現れた。男はリーダーの前に歩み寄り、姿勢を正し、敬礼をしながら言った。
 「Eclipse本部より御堂隊長へ、次の任務を伝令に参りました。」
 「堅苦しい挨拶はいらん。で、次のウサギは?」
 男は写真と書類を御堂と呼んだ男に渡す。写真を見た御堂の顔に、歪んだ笑みが浮かぶ。
 「ハハハッ!またお前とやれるとは夢みてぇだ!こんなイキのいいウサギはなかなかいねぇいからよー。ほかのクズどもにもう殺されてたらどうしようかと思ったぜ!」
 御堂は部下たちに言った。
 「本部に戻り、一週間の休養の後、次の獲物を狩る準備を始める。次の狩りは楽しめそうだから、各自十分に準備しておくように!」
御堂は写真と書類を握りつぶした。写真には、綺麗な顔の、月のような深い金色の髪をした青年が写っていた。
 「今度は逃がさねぇぞ、シン!」

                         Next night will coming soon…



Fourth night 『I Can’t Stay With You Any Longer』

   ―――  アリガトウ。ゴメンネ。サヨナラ。 ―――

 いつもの日常が、いつもの早さで、いつものように過ぎていく日々が続いた。シンとシュウは夜になるとAngel’s Paradiseへ向かい、シホや顔見知りたちと酒を飲み交わす。この夜も、ポーカーで大勝したシュウとシンは家までの道を歩いていた。
 「しっかしシンは相変わらずモテモテだなー。シホじゃないけどいい加減女でも作ったらどうだ?」
 シュウがからかうように言った。そんなシュウを見たシンも笑って、
 「似たもの夫婦だな。」
 と逆にシュウをからかった。シュウは慌てる。
 「バッ、だからシホとはそんなんじゃねぇーって!」
 しどろもどろになりながら否定の言葉を並べるシュウを見ながら、シンは心の底から笑っていた。幸せだった。自分が、こんなに心から笑いあえる友達を持てるなんて思わなかった。ずっとこのままでいたい。相変わらず弁明を続けているシュウに、シンは呼びかけた。
 「シュウ。」
 「あん?」
 「シホのこと、大事にしてやれよ。」
 綺麗な笑顔だった。シュウは、少し照れくさそうに答えた。
 「わーってるよ。」
 その答えに、シンは再び満足そうに微笑んだ。
そのとき、シンの足元がふらつき思わずよろめいてしまった。
 「おい、大丈夫か?」
 シュウの問いかけにシンは笑って返した。
 「あぁ、大丈夫だ。少し飲みすぎたかな。すこし風に当たってから帰りたいんだ。先に帰っててくれないか?」
 シンの、先ほどとは違う、ムリに笑ってるような笑顔を見て、シュウは
 「分かった。じゃあ先に帰ってるからよ。」
 と自然を装ってシンと別れた。

 一人で歩きながら、シュウは考えていた。この頃、シンの様子がおかしいことには気付いていた。たまに、どこか体調が悪そうに見える。シンは頑なにそのことを隠そうとしている様でもあった。そんなシンを見ると、突っ込んで聞き出す気にもなれなかった。
 「・・・お前は、大丈夫だよな。」
 シュウは一人つぶやいた。
 
 その頃、一人になったシンは手の震えを必死に抑えようとしていた。冷や汗が流れ落ちている。原因は、自分でよく分かっていた。その解決方法も。しかし、その方法は、最も簡単で、最も難しいものだった。
 「もう、嫌なんだ。」
 シンは悲痛そうな表情を浮かべ、座り込んだ。そこに、一陣の風が吹き抜ける。
 「・・・大爺か。」
 シンが体勢を変えずに言った。風の吹きぬけた後、シンの後ろに長い髭をたくわえた腰の曲がった老人が立っていた。
 「ホッホ。気付かれたかのう。驚かしてやろうかと思ったんじゃがなぁ。」
 「アンタの悪ふざけに付き合うヒマはねぇよ。消えろよ、おれは帰るんだ。」
 「お前に帰る家と待っていてくれる仲間ができたとはなぁ。分かっておるのか?その者たちと深く関われば、かならずお前はその者たちを傷つけることになるぞ。症状が出ているんじじゃろ?もうすぐ禁が解ける頃じゃろうてな。」
 老人の言葉に、シンが珍しく感情を露わにする。
 「うるさい!!おれはもう嫌なんだ!誰かの死を自分の糧にしてまで生きていくしかない自分が!」
 老人はかまわず続ける。
 「別にお前が自分の運命を呪ったところで、そのことに何の力もありゃせんよ。禁から逃れることは、我々には不可能じゃ。ムリするな、体が血を欲しておるのじゃろう?気の向くままに人を襲えばよい。簡単ではないか。あの頃のお前なら何の疑問も持たなかったろうになぁ。二度も、大切なものができてしまうとこうも変わってしまうもんかのう。人間なぞ、愚かなものぞ?」
 「たとえそうだとしても、あいつらは、おれを本当に信じてくれてる。おれはあいつらといれば変われる気がするんだ。」
 シンは曇りのない瞳をして言った。老人は、あきれた様にため息をついて言った。
 「血迷ったことを。我々は人間なぞと決して相容れることはないというのに。
それにしても学習せん小僧じゃの。そのようなことをいつまでも言っておると、あの時の二の舞になるぞ?いいか?もう一度言う。我々は禁からは逃れられん。それは絶対じゃ。」
 シンは何も答えない。言い返す言葉が見つからなかった。
 「さて、ジジイはそろそろ帰るかの。最後に念を押すが、意識のあるうちに禁を犯したほうが身の為ぞ。さもなければ、お前の大切なものが、今度もお前自身の手で消えてしまうかもしれんからなぁ。まぁワシとしてはそれはそれで見ものじゃがなぁ。ホッホッホ。」
 軽い笑いを残し、老人は再び風と共に消えた。
 シンは、しばらくその場を動かなかった。
 「ルーチェ・・・おれは・・どうすればいい・・・」
 シンがポツリとつぶやいた。

 明け方ごろになって、やっとシンは帰ってきた。ソファーに横になっていたシュウが、上半身だけ起こして言った。
 「遅かったな。」
 「ちょっとな。」
 「大丈夫か?」
 「・・・・あぁ、当たり前だろ。何もないよ。」
 シンは笑ってみせたが、どこか不自然だった。シュウはシンに言った。
 「なぁ、シン。おれはお前を信じてる。お前はおれを裏切らない。そうだよな?」
 まるで全てを見透かしたようなシュウの言葉に、シンは驚いたが、それ以上にシュウの言葉が嬉しかった。
 「あぁ。」
 先ほどとは違う、迷いの無い綺麗な笑顔だった。
 
 その夜も、二人はいつものようにAngel’s Paradiseに向かった。いつものようにポーカーで大勝するシュウと、いつものように女たちに囲まれるシン。シンは、女たちから逃げようと、屋上までやってきた。
 月が、輝いている。気持ちのいい風が吹いていた。シンは持ってきたボトルのワインを一口含んだ。 
シンは座り込んで壁にもたれかかり、歌を口ずさみ始めた。ルーチェに教えてもらった歌。自分の運命を呪い、死を望む彼を現実に繋ぎ止めてきた歌。
 「シン、ここにいたか。」
 シュウが上がってきた。シンは気付かないらしく、歌を続けている。綺麗な歌声だった。声量を出しているわけではないのだが、その声は夜の闇の中にどこまでも溶けていくように、響き、広がっていった。まるでシンと夜の世界は、同じものであるかのように。
 横に立ったシュウに気付き、シンは歌を止めた。
 「いい歌だな。」
 シュウが言った。
 「あぁ」
 シンもうなずく。
 「なぁ、続き、聴かせてくれよ。」
 シュウの言葉に、再びシンはゆっくり歌い始めた。歌声は、月明かりに染まったHe‐vnを、どこまでも染み渡っていった。

 「あんま店に戻らねーで屋上にいるとシホがまたうるせーからな。先に戻るわ。」
 しばらくしてからシュウは店の中へ戻っていった。シンは、笑って見送る。
 シンも、マルボロを一本吸って、店に戻ろうとした。その時、昨日と同じ風が吹き抜けた。再び、昨日の老人が現れる。シンは明らかに不機嫌そうな表情になり、煩わしそうに言った。
 「昨日といい今日といいなんなんだジジイ?おれたちは基本的にお互い干渉しないできただろ。それがいまさら何だ?毎日おれの前に現れちゃ、いらん話ばっかしやがって。」
 「一族としてはお前のことが心配なんじゃよ。我らの一族で人間と深く関わった者は、必ずロクなことにならんかったからのう。」
 「ありがたい忠告いたみいるぜ、クソジジイ。ありがたいついでにさっさと消えてくれよ。」
 「口の減らん小僧じゃなぁ。せっかく人が素敵なプレゼントを持ってきてやったのにのぉ。」
 「プレゼント?」
 「あぁ。とびきり活きのいいLu:naを3人ほどな。普通の人間の血より月の力の影響を受けておる奴等の血の方がワシ等にもご馳走じゃてなぁ。禁の解けそうなお前にはこの上ない贈り物じゃろ?もうすぐこの店に押し入ってくる頃かの。お前が何とかしないと、きっと店の中の人間たちは襲われてしまうじゃろうなぁ。」
老人は歪んだ笑みを浮かべて言う。シンは顔を引きつらせながら言った。
 「・・そういうコトかよクソジジイ。何が何でもおれをあいつらから引き離したいみてぇだな。」
 シンがLu:naを何とかしなければ、シュウやシホ、店にいる人間たちは襲われてしまうだろう。しかし、自分がLu:naと争ったとして・・・自分を保てるだろうか?禁が解けそうな今、体は確実に血を欲している。シンのシュウたちに対する思いだけが、その欲望を押さえ込んでいた。
 「迷ってる時間なぞあるのか?こうしている今にもLu:na共が店に押し入ってくるかも知れんぞ。」
 「チッ。」
 シンは店の中へ走って戻っていった。その姿を見て、老人は再び歪んだ笑みを浮かべる。
 シンは店の中を走り抜け、店のドアを開け、外に出た。途中で、シュウやシホが何か言っていた気がするが、聞こえなかった。
 店の外には、金色に瞳を光らせたLu:naが3人、立っていた。3人はもはや人間とは程遠い、理性の欠片も無いような顔をしてシンを見る。シンは3人に向けて言った。
 「人の言葉が分かるくらいの脳みそが残ってるなら、こっちに来い。おれがまとめて相手してやるよ。」
シンは店の裏手にある細い路地へ3人を誘い込んだ。裏路地に入ると、3人は間髪 いれずに襲い掛かってきた。2人かわし、最期の1人の顔を鷲づかみにしたシンは、そのまま壁に叩きつける。壁に頭をめり込ませた男は白目をむいて失神した。シンが振り返ろうとしたその瞬間、別の1人が手にしたナイフでシンの右手に切りつけた。シンはとっさにかわす。しかし、浅くだが切られたらしく、二の腕から血がしたたる。その時、
 ドクン。
 シンの中で、呪われた血が騒ぎ出す。「血をよこせ!何よりも温かく、何よりも紅い人間の血を喰らわせろ!血だ血だ血だ血だ血だ血だ血だ!!」
シンはよろめきながら、自分の中のもう1人の自分と葛藤を続ける。しかし。 
 「ガッ・・・アッ・・あぁぁぁぁぁっ!!・・・・い・・だ・・嫌だ。ヤメローーーーーー!!!!」
 シンの頭に、一瞬、シュウやシホの顔が浮かんで、次の瞬間それらはもろいガラス細工のように粉々に、音を立てて崩れ去った。その瞬間は、スローモーションのように、ひどくゆっくりだった。
 シンの意思を、禁が凌駕した。
 よろめきが止まった。そして一瞬、シンの姿が消えたかと思った次の瞬間、シンはナイフを持っていたLu:naの目の前に現れ、右の拳を男のみぞおちに叩き込んだ。グチュッ。シンの右手は男の体を貫通し、血に塗れた拳は、男を串刺しにした。男から手を抜いたシンは、残った1人のほうにゆっくり近づき、怯えるその男の顔面を鷲づかみにする。シンは楽しそうな顔で、そのまま掴んだ右手にゆっくり力を込めていく。ミシミシという骨の軋む音と、男のうめき声がしばらく続いた後、シンの手の中で男の顔はグシャッと音をたてて潰れた。
 そしてシンは久しぶりの食事を喰らう。男の首もとに牙を立て、思う存分、その血液を胃に飲み下す。温かさと、鉄の味が、口の中いっぱいに広がっていく。彼ら一族に、永久(とこしえ)の生命をもたらす、文字通り、命の水。シンは、存分にLu:naたちの血液を堪能した。
 十分に血を味わい、シンの意識は、徐々に正常さを取り戻していく。そしてそれは、目の前の悲しい現実を、シンにつきつけた。
 あたり一面は血の赤い色と独特の生臭いニオイに満ち満ちている。シン自身も、全身血に塗れていた。
 禁を、犯してしまった。シンは力なくその場にへたり込んだ。シュウの信頼に、応えることができなかった。自分は結局、こういう生き物なのだ。呪われた運命を背負った、バケモノ・・・自責の念が、シンの全てを粉々に打ち砕く。
 その時、
 「シン・・・おま・ぇ・・・」
 シュウが路地の入り口のあたりに立っている。何がなんだか分からないといった様子だ。当然だろう。心から信頼していたシンが、目の前で、死体3つを前に、血に塗れている。
 弁明の余地などない。シンはゆっくり立ち上がると、悲しそうに、少し困ったように笑って、言った。
 「・・・おれ、やっぱダメみたいだ。・・シュウ。ありがとう。ごめんな。それと・・・・・サヨナラだ。」
 シンは呆然と立ち尽くすシュウの横をすり抜け、夜の闇の向こうに消えていった。シュウは、言葉を発することも、動くことも、できなかった。

 シンが去った後も、その場に立ち尽くすシュウの背後に、シンの前に現れた老人が歩み寄った。
 「混乱しておるのか?無理もないことじゃ。アンタはシンのことを心底信じておったみたいじゃからな。」
 「誰だ、アンタ?」
 背後からの声に振り返ったシュウは、怪訝そうな顔で老人に尋ねた。
 「こんなジジイのことなどどうでもよかろう。それより、アンタに真実を聞かせてやろうと思っての。目の前の死体のこと。シンのこと。全部このジジイが教えてやろうじゃないか。どうだ?聞きたいか?」
 シュウの顔に、驚きが浮かんだ。この老人は、自分の知らないシンを知っている。そして思う。信実を、知りたい。

 ・・カツカツカツ。
 暗い廊下に、規則正しい靴音だけが響く。その足音は、ひとつの扉の前でピタッと止まる。カードキーを差し込むと、扉のロックが解除された。靴音の主が、扉の前で、
 「失礼します!」
 と言うと、扉が自動で開く。中には、ラークをくわえた御堂が、大きなソファにどっかりと腰をおろしていた。先ほどの靴音の主は、御堂の前に立つと敬礼しながら言った。
 「次のターゲットの居場所が分かりました。」
 それから書類を御堂に渡す。御堂は書類に目を通してニヤリと笑った。
 「ようやく会えそうだなー、シン。」
 それから目の前の男に、立ち上がって言った。
 「出撃の準備だ。次のウサギ狩りのステージは日本の東京だ。しかしHe‐vnとは気のきいた名前じゃねえか。そこをお前の墓にしてやるよ、シン。」

 それぞれの運命が、動き出す。やがて訪れる、1つに交差する最後の時に向けて。
 終わりの時が、近づく。それぞれの思いを知りながら、運命の歯車は、それでも変わらず、規則正しく、その終わりへ向けて、回り続ける。

                    Next night will coming soon…



Fifth night『Another story ~an old tale~』

   ―――  むかーしむかしの、お話です・・・ ―――

 時代は、さかのぼる。「満月の暴走」よりも、ずっとずっと昔のお話。
 舞台は、17世紀のフランスの片田舎。そこで起こった、歴史にも残ることのない小さな出来事。
1人の少女と、1人の青年の、物語。

 夜空には、月が輝いている。周りには、無数の星が小さな輝きを放っていた。その光を受けて、道端に立っている人影がある。男だろう。まだ年若いらしく、あどけなさの残るその顔は、少女のように美しい顔立ちで、その髪は、月明かりのせいか、深い金色に輝いて見えた。よく見ると、その青年の口元や手に何か不自然な紅が見える。足もとに人が倒れていた。うつ伏せに倒れたその人は、ピクリとも動かない。その人間の血が、青年の口や手を汚しているらしかった。青年は、綺麗な顔に不釣合いな、歪んだ笑みを浮かべると、一陣の風とともにその場から消えた。

 青年は丘の上に立った。月を見上げ、上機嫌に鼻歌を口ずさんでいる。人間の血を存分に堪能し、ご満悦だった。
 人間の血を糧に、永遠の時を生き続ける一族。彼らは、人の血を喰らうことを「禁を犯す」と呼んだ。一定の周期で禁を犯さずにいると、体に変調が現れる。それでも血を喰らうことをしなければ、自分の意思と無関係に人々を襲い、その血を貪る。禁を拒むことは、許されなかった。どれだけ己の運命を呪い、死を望もうとも、誰かに殺してもらう以外、その永遠の命を絶つ方法は無かった。
 しかし、別にこの青年が、死を望んでいるというわけではない。むしろ、彼は自身の人生を満喫していた。気が向いたら人を襲い、その血を喰らう。老いることも、病も、死すら知らないその体は、恐怖という感情を知らなかった。永遠に、この快楽を続けていけることを、幸福に思っていた。
人間を殺すことに対して、何の感情も感じはしない。長い人生の中で、幾度となく人間同士の戦争を見てきた。同じ種族同士でお互いに殺しあうなんて、動物以下だ。そんな奴ら、死んだって構わない。そう考えていた。

 それからまた少し、月日は流れた。再び血に飢えはじめた青年は、次の血を求めるべく、夜の闇の中を歩きまわる。ふいに、誰かが歌う声が聞こえてきた。青年は気まぐれで、その歌声の主を探す。
 立派な建物だ。この辺では有数の貴族の家だろう。その屋敷の部屋の1つから、歌声は聞こえていた。青年は夜の闇に紛れながら、その部屋をのぞいた。窓が開いていて、部屋の中の様子は、容易に見てとることができる。美しい少女がいた。栗色の長い髪と、吸い込まれそうな深く青い瞳。小さな唇はしっとりと潤い、そしてその唇から紡ぎだされるその歌声は、驚くほど澄んで、夜の闇に染み渡っていく。青年は次の獲物を定めた。
 「久しぶりの極上物だな。」
 言いながら、ニヤリと笑う。

 少女の部屋の中に、ふいに一陣の風が吹き込む。次の瞬間、部屋の窓辺に、見知らぬ青年が座っていた。
 「やぁ、お嬢さん。こんばんは。今宵はいい夜だね。」
 青年は軽く微笑みながら言った。今までの人間は全員、いきなり現れたこの青年に、明らかな恐怖を顔に浮かべ、口も聞けなくなってしまった。しかし、少女はニッコリと笑って答えた。
 「こんばんは。素敵な夜ですね。」
 あまりにも無邪気に微笑む少女に、青年は少し調子を狂わされる。「こいつ、おれが怖くないのか?」などと考えながらも、青年はいつものやり方で、ゆっくりと少女に近づく。
 「お嬢さん、こんな夜は、出会いにも、別れにも、お似合いだろ?はじめまして。そして、さようならだ。」
 言いながら、ゆっくりと少女の肩に手をかけようとする。そのまま、彼女の首もとに牙を差し込めば、温かい至高の液体が彼の口に流れ込んでくる。その時だった。
 パンッ!
 一瞬、青年は何が起こったのか分からなかった。左の頬に、熱いような、ジンジンとする感覚が残る。初めて、痛みというものを感じた。目の前の少女が、青年の頬を平手で打ったのだ。少女は厳しい目つきで、青年を睨みつけた。
 「無礼者!!私が誰か知っての行いか!!いきなり現れてローシュート家の娘である私に触れようなぞ、正気の沙汰とは思えません!」
 青年は呆然と、自分を叩いた少女を見つめる。
「こいつこそ、おれが誰だかわかってんのかよ・・」青年は、半ば呆れたように、急にやる気が失せていくのを感じた。そして、いきなり笑い出す。
 「クックック・・アンタたいしたタマだな。おもしれぇよ。おれを初めてぶったのが、人間の、しかも女のガキとはな。」
 青年は愉快そうに笑う。その様子を見て、少女も再び微笑む。青年は少女に聞いた。
 「アンタ、名前は?」
 「ルチュエレル・ローシュートと申します。この地方を代々治める、ローシュート家の一人娘ですわ。貴方のお名前は?」
 「長くて呼びづれぇよ。そうだな・・・ルーチェ。お前のことはルーチェと呼ぶ。おれはシンだ。」
 「シンさんですか。覚えやすくていいですね。」
 無邪気に笑いながら言うルーチェに、シンは少しムッとして、
 「バカにしてんのか!?」
 と返した。ルーチェはシンの怒ったような顔を見ると、途端に申し訳なさそうな表情をして謝った。
 「ゴメンなさい。そういうつもりじゃ無かったの。・・・本当に、ごめんなさい。」
 シンは軽く返したつもりだったのだが、今にも泣きだしそうな表情で謝るルーチェを見ると、言い返す気力も起きなかった。
 「・・怒ってねぇよ。だからそんな顔すんな。」
 シンの言葉を聞いたルーチェは、途端に明るい表情を取り戻し、よかった、と無邪気に笑った。「なんなんだ、この女は・・・」これほど自分の内面をさらけだし、コロコロと表情を変えるこの少女に、シンは呆れ果てながら、しかし自分でも気付かないところで惹かれていた。
 「そういえば、シンさんは何故ここにいるの?」
 ルーチェは思い出したように聞いてきた。シンは動揺した。お前の血を喰らいに来たなんて、今さら言えるハズがない。シンは、
 「表を歩いてたら、ルーチェの歌う声が聞こえてきたんだ。あんまり綺麗な声だったんでな。」
 と言った。これは嘘ではない。
 「まぁ、本当?嬉しい。歌は大好きなんです。」
 「なぁ、さっきの歌、もう一回聞かせてくれよ。」
 喜ぶルーチェに、シンは言った。本当に、もう一度聞きたいと思った。
 「えぇ、いいですよ。」
 ルーチェは軽く微笑み、先ほどの歌を歌いだした。
 改めて、ルーチェの歌声の美しさを感じずにはいられない。彼女の声には、一切の迷いや曇りがなかった。澄み切った、まっすぐな声だった。

 「おやすみ、ルーチェ。」
 「おやすみなさい、シンさん。」
 別れの挨拶をかわし、シンが窓から出て行こうとする。するとルーチェが呼び止めた。
 「あの!・・シンさん。」
 窓に手をかけていたシンが振り返る。
 「どうかしたか?」
 ルーチェが、少し恥ずかしそうに、遠慮がちに聞いた。
 「・・また・・・来てくれますか?」
 シンは少し驚いた顔をした。シンとしてはほんの戯れでこの夜ルーチェに付き合っただけで、ここで別れてそれで二人の関係は終わりのはずだった。
しかし、シンは軽く笑って言った。
 「そうだな。また来るよ。」
 「本当ですか!?よかった!絶対ですよ!」
 ルーチェは本当に嬉しそうに笑った。
 「じゃあ、またな。」
 そう言ってシンは夜の暗闇の中に消えていった。
 シン自身、なぜあの時また来るなんて言ったのか疑問だった。「自分が人間に興味を持つなんてありえない。」シンは自嘲の笑みを浮かべながら夜の闇の中を1人歩いた。途中、適当な人間を1人襲い、その血を喰らって、自分の寝床まで帰った。

 それから二日が経った。シンは、自分の中にルーチェのことがいつまでもひっかかっていることが気にくわなかった。自分が、人間に、しかも年端もいかない少女にこれほど翻弄されるとは。しかし、ルーチェの笑顔や、歌声を思い浮かべると、もう一度会いたいという気持ちが膨らんできた。
そして初めて会ってから3日目の夜、シンは再びルーチェのもとを訪れた。ルーチェは、前と同じように、窓を開け、歌を歌っていた。3日前と同じように、部屋に一陣の風が吹き込み、気付くとシンが窓辺に座っていた。
「やぁルーチェ。こんばんは。」
シンの姿を見ると、ルーチェはパッと明るい表情になった。
「シンさん!よかったー、もう来てくださらないのかと不安になっていました。」
「また来るって言っただろ。おれは嘘はつかないよ。それより、まさかあれから毎晩窓を開けて歌を歌ってたのか?」
シンが聞くと、ルーチェは少し恥ずかしそうに答えた。
「はい・・・いつシンさんがいらしてもいいようにと・・」
シンはつくづくルーチェの素直さに呆れた。夜の風は冷たい。毎晩窓を開けて冷たい風に吹かれていたのでは、風邪をひくかもしれない。
「わかった、じゃあこれからは3日に一度、ルーチェのもとを訪れよう。だから、それ以外の夜は、ムリに窓を開けておく必要はない。」
シンの言葉の中の優しさを解したルーチェは、優しい微笑みを浮かべ。
「はい。」
と答えた。

それから半年ほどの間、シンとルーチェの3日に一度の逢瀬は続いた。ルーチェは、シンに歌を聞かせた。シンは、ルーチェにさまざまな話をしてやった。昔の神話や、遠い外国の話。フランスの地方の貴族の娘などには、想像もつかないような話ばかりで、ルーチェは目を輝かせて聞いていた。シンは、少しずつ、ルーチェに惹かれていった。そして、それにつれ、彼の中で、少しずつ何かが変わっていった。
そんなある日、シンは人間の戦争の歴史についてルーチェに話していた。
「人間とは、愚かなものだ。個人の欲を満たすためだけに自分と同じ種族を殺し、戦争を繰り返し、自らの手で滅びの手助けをしているようなものだ。」
シンがぽつりと言った。
「シンさんは、人間が嫌いですか?」
ルーチェが聞いた。少し、悲しそうな目をしていた。
「いや。ただそんな風に思うだけさ。好きとか嫌いとか、そういうことは考えたことはないな。」
「・・・私は、人間が好きです。確かに人はどうしようもなく愚かな行いをするかもしれません。でも、人は過ちを悔い、改めることができます。それに、みんながそんな人ばかりじゃないでしょ?素敵な人だってたくさんいますよ。その・・・・シンさんとか・・」
最後の方は、耳まで赤くなりながらルーチェが言った。「あぁ、こいつはおれを人間だと思ってるんだ。」ルーチェの言葉に、シンは思った。シンはルーチェに聞いた。
「なぁ、人殺しは、悪いことか?」
「当たり前です!たとえどんな理由であっても、人を殺すなんて絶対にダメです。」
ルーチェが少し語気を荒げて言う。シンは、
「そうだな。」
とだけ答えた。
その夜、ルーチェと別れてからシンは考えていた。そして、ひとつのことを決意した。

それからまた、ふた月ほどが、何事もなく経過した。そんなある日、いつものように二人は一緒の時間を過ごしていた。ルーチェが美しい声で歌を歌っていると、シンが呼びかけた。
「なぁ、ルーチェ。」
シンの呼びかけに、ルーチェは歌を止めてシンのほうを見た。
「はい?なんですか?」
ルーチェは会った頃と変わらない、無邪気な笑顔で微笑んでいる。シンは、ずっと心の中にあった言葉を口にした。
「愛してる。」
自分が人間の小娘に恋をするなんて、最初はシン自身にも信じられなかった。しかし、ルーチェと過ごす時間を重ねれば重ねるほど、その思いは強くなり、不思議とそれを素直に受け入れられるようになっていった。
「エッ!?・・・あの・・・その・・」
シンの突然の言葉に、ルーチェは真っ赤になりながら、しどろもどろになっていた。
彼女らしいその反応に、シンは微笑んでルーチェを見ていた。
「あの・・・私も・・シンさんのことが・・その・・・好きです。」
ルーチェは恥ずかしそうに、うつむきながら言った。そのルーチェを、ふいに温かなぬくもりが包んだ。
シンは、ルーチェを抱きしめた。シンの腕の中で、ルーチェはさらに真っ赤になっていた。
「あの・・もう少し・・こうしててもらってもいいですか?」
シンは黙って、抱きしめた腕に力を込めた。
人間の体温が、こんなに温かいものだということを、シンは初めて知った。ルーチェの体温が、柔らかな肌が、髪から香るほのかな香りが、シンの全てを清めてくれるような気がした。
「・・・初めてシンさんが来てくれた時から、私、シンさんのこと好きでした。どこか悲しそうな雰囲気があったけど、それ以上に優しい雰囲気がシンさんにはありました。だから、あの時、急にシンさんが現れた時も、私不思議と怖くなかった。」
シンの腕の中で、幸せそうな顔をしながらルーチェは言った。
「おれが、優しい?」初めてそんなことを言われた。自分たちの食料としか見たことの無い人間が、自分にそんな言葉をかけてくれている。驚いたが、純粋に、嬉しかった。ルーチェの言葉の一つ一つが、温かかった。「ルーチェの為に生きたい。ルーチェと共に生きたい。」シンは、心の底からそう思った。

「じゃあ、また3日後に。」
シンはいつものように窓から出て行こうとした。ルーチェは
「はい。」
いつもの笑顔で答えた。そして続けた。
「シンさん・・・ありがとう。」
シンは窓から離れ、再びルーチェのもとに近づいた。そして、彼女の髪をそっとなでる。
「ありがとう。」
シンも、同じ言葉をルーチェに言った。初めて使う言葉だった。そして、再び窓に手をかけ、いつものように闇に溶け込んでいった。

それからも、二人の秘密のデートは続いた。お互いに想いを伝えたからといって、特に何が変わったわけでもない。それまでと変わらない時間を、二人は過ごした。ただ、シンが時々どこか具合が悪そうなのがルーチェは気がかりだった。シンに聞いても、シンは大丈夫だと言って笑うだけだった。
シンの体調が悪くなっているのは避けられない事態だった。彼は、あの夜決意してから一ヶ月以上、人の血液を食していないのだから。自分が人間の血液を喰らわずに生きていけるハズがないことは十分解っている。呪われた化け物であることも。しかし、自分を人間だと思っているルーチェの為に、シンは少しでも人間らしくあろうとした。

そして、最後の夜が来る。

目の前が真っ赤だ。どこまでもひろがる紅の空間。その中を彷徨うシンがいる。どこからともなく声が聞こえる。
「血を喰らえ。血を喰らえ。血を喰らえ・・・」
呪文のように繰り返される言葉。シンは、必死にその声から逃げるように、無限の空間を走り回る。しかし、その声は消えることはない。そして、不意に足が動かなくなる。真っ赤な地面から生えた二本の赤い腕が、彼の足をしっかりと掴んでいた。さらに生えてくる血に塗れたように赤い無数の腕が、シンに絡み付き、彼の自由を奪っていく。やがて、かれの首に伸びてきた二本の腕が、ゆっくりと力を込め、シンの首を締め始めた。
そこでシンは目を覚ました。目の前には、ルーチェの顔がある。ルーチェにひざ枕をしてもらっているらしかった。
「目、覚めましたか。なにか怖い夢でも見たんですか?うなされてたから心配しました。」
ルーチェが安心したように笑って言った。
「私が歌ってる時に、シンさん眠っちゃったんです。起こすのも悪いかなと思って。」
ルーチェが教えてくれた。
「なぁ、もう少し、こうしててもいいか。」
シンはルーチェに聞いた。ルーチェは、母親が子どもを見つめるような、慈しみに満ちた笑顔でうなずいた。シンが、ルーチェの顔に手をのばす。やさしくルーチェの頬に手をかけ、そっと触れた。そのまま、彼女の顔を自分の方に引き寄せる。二人は、ゆっくり顔を近づけ、そっと目を閉じた。やわらく、しっとりと湿った温かさが唇をふさいだ。時間が止まったような感覚が二人を包む。実際はほんの数秒だったが、シンには彼が今まで生きてきた時間よりもずっと長いものに感じられた。そして、ゆっくり唇を離す。
二人は互いの顔を見つめたまま、一言も発さなかった。シンが、先に微笑んだ。その顔に、ルーチェも幸せそうに微笑んだ。
その時、シンの目に窓の外の月が写った。そして、長い間禁を犯さなかったことによる反動がシンを襲う。「どうして今なんだ!?」よろめきながらルーチェから離れ、シンは叫んだ。
「ルーチェ!逃げろ!」
ルーチェは、ワケが解らないといった表情で、
「シンさん?」
と繰り返した。
しかし、シンの耳に、もうその言葉は届かなかった。そこにいるのは、もはや先ほどまでのシンではなかった。暴走した禁により、自我をなくしたシンの目に映ったルーチェは、ただの食料でしかなかった。
シンはニヤリと笑い、ルーチェに近づくと、その首に牙を突き刺し、その血を喰らいはじめる。ルーチェは、全てを受け入れたように、一切の抵抗をしなかった。シンの体を抱きしめ、月の色をした髪を優しくなでながら、シンの耳もとで一言だけ囁いた。
「シンさん、大好きです。」
シンの目をまっすぐに見つめ、最後に彼女は笑って見せた。その時、自我を無くした化け物の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。そして、シンはシンに戻っていく。彼の手の中には、微笑んだまま、もう二度と動くことのない、最愛の女性が抱かれていた。
そこへ、騒ぎを聞きつけた屋敷の小間使いが駆けつけた。その女は、血で口を汚し、ルーチェを抱く男を見て、腰を抜かした。そして、震える声で叫んだ。
「バ、バケモノ・・・イヤァーーーーーーーーーーーー!!!」
シンは、ルーチェを抱いたまま、窓から夜の闇に消えた。

屋敷を離れた後も、シンはルーチェの死体を抱きしめていた。今まで体験したことのない、胸を押しつぶされたような感情に、シンは両目からこぼれる液体を止めることができなかった。それが何なのかも、何故溢れてくるのかも分からないままに。

シンは、ルーチェの死体を、花畑の見える丘の上に埋葬した。ルーチェは、シンに優しさを教えてくれた。愛情を、悲しさを、教えてくれた。シンは、ルーチェの墓石の前で、彼女がいつも歌っていた歌を歌った。彼女への、シンが最後に出来ることだった。

そして、シンは1人の人生を再び送ることになる。いつ果てるとも知れない、己の運命を呪いながら。

それから、千年以上の時間が流れる。「満月の暴走」という出来事が起こる。そして、その数十年後、Eclipseという組織により、シンの命が絶えようとした。そして、シンは出会う。再び自分を変えてくれる人間に。

そこから、物語は、動き出した。

                      Next night will coming soon…
2004/04/29(Thu)00:48:37 公開 / 鈴(すず)
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■作者からのメッセージ
皆さん今晩わ。鈴です(ペコリャン)
月の詩五話目でございます。今回は番外編的な話で、四話目で名前の出たルーチェとシンのお話です。この話は鈴個人的にも大好きな話ですので、皆さんにも何か感じていただければと思います。
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Great isngiht. Relieved I'm on the same side as you.
2012/05/17(Thu)14:01:080点Cesar
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