- 『僕の体は砂時計 一話〜四話』 作者:有 / 未分類 未分類
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全角19805.5文字
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1
初めに機能しなくなったのは左眼だった。朝起きて、しばらくは自身の視界が狭まっていることに気付かない。まず、部屋を出る時左半身が壁に衝突した。ぶつかる距離ではなかったと疑問に思ったが、寝ぼけていたのだろうと信じた。
次に、台所へ入る時、父にぶつかった。これも左半身だった。最近は寝不足なのか、朝体が思うように動かないのだと言い訳する。僕は朝ご飯を食べる時、必ず味噌汁から手をつける。しかし、その日は味噌汁が出ていなかった。こんな日は今までに無い。何故無いのかと母に訊ねると、目の前にあるじゃないかと指摘された。
確かに視線を左に移すと、こげ茶色のお椀から白い湯気を立てている味噌汁がある。僕はため息を吐きながら、お椀を手に取った。同時に、味噌汁がこぼれた。
母は慌てて布巾を取りに立ち、父には叱られた。僕はどうもおかしいと思い、急いで洗面台へ向かった。もちろん、洗面台へ行き着くまでに数回壁にぶつかった。
鏡の中に佇む僕はいつも通りの顔の造りだ。ただ少し、眉がへの字に下がっている。どうしたのだろう。
「おい!どうしたんだ」
台所から父の声が聞こえたが、無視した。そんなこと、僕が知りたいくらいだ。眉が下がっているのは動揺のためだとしても、他に変わった個所は見当たらない。いや、分かってはいるが、確かめるのが怖かった。
「ご飯どうするの? 時間無いわよ」
母が洗面所に現れる。
「いや、今日はいらないよ。どうも、食欲が無いんだ。でも、高校には行くから」
そう言って、逃げるように出て行く。出る時やはり、左半身がぶつかった。
家を出た後、何故だか誰もいない事を確認してから右目を手で覆ってみた。予想通り、その途端真っ暗だ。僕は声にならないうめき声を上げながら蹲ってしまう。気付かなかった。いや、気付いたことを確かめるのが怖かった。だって、僕の両目はしっかり開いていたのだから。
次に、右目を閉じてみる。漆黒の闇が広がる。どこまでも続いていそうな、奈落のような闇だ。僕はしばらく、放心状態でその闇の中に身を置いた。何も考えていなかった。何故こうなってしまったのか、どうして僕なのか、とかいう考えは何も浮かんでこなかった。それは、理由がどうであれもう元には戻らない事を、どこかで分かっていたからかも知れない。
そうして道路にへたっていると、やがてなんらかの音が聞こえてきた。さらさらと、軽い何かが断続的に落ちつづける音。水では無く、他の何でも無い。おそらくそれは、砂の落ちる音だった。
一時間目の授業には間に合いそうにも無かった。平常心を取り戻せるまで、随分時間をかけてしまったようだ。左眼が見えなくなった。それは確かな事で、それが再び見えるようになるかならないかは、不確かだ。僕は視力の知識を持ち合わせていない。もしかしたら、ある日突然視力を失う病気があるのかもしれない。
「おい、上村」
そうだとしたら、僕はそれにかかってしまった。
「おい!」
後ろを振り向くと、同じクラスの野村という男子生徒がいた。長身であることが彼の特徴で、顔はごく平凡の生徒。すらりと伸びた体の上に、野村の顔が乗っかっているのに、僕はいつも違和感を覚える。
「おまえも寝坊か? 急がなくていいのか?」
「どの道、1時限には間に合わないよ。それに、僕は野村のように意図的な遅刻じゃない」
野村は鼻を鳴らして、その後舌打ちを漏らした。彼はよく遅刻をしたり、欠席したりしていた。そのくせ成績は良かったりする。その上、付き合っている彼女までいる。僕はその事に、彼の身体的特徴以上に違和感を感じていた。
「なら、なんで遅刻してるんだ?」
しばらく歩いていると野村が聞いてきた。
僕の左眼について説明するべきか迷った。どこまで話せばいいのか分からないし、そのことで学校の噂者になるのも御免だ。砂の音について口にするのは論外だろうと思う。
「最近、運が悪いみたいなんだ」
そう、昨日だって、好きだったバラエティ番組を録画しようとして、まったく違うニュースを録ってしまったじゃないか。
「それを言うなら、俺だって」
野村の彼女は先日事故に遭い、今は入院している。どうやら車に撥ねられてしまったようで、意識の無い状態らしい。野村はそれきり無言になってしまって、静かなまま登校しなければならなくなった。気まずい空気の中、二人分の足音だけが規則的に鳴っている。
運が悪いなんて、言わなければ良かった。今の彼に、ネガティブな話題はタブーなのだ。やはり、僕には運が無いらしい。
担任からは、軽い注意を受けただけで済んだ。慣れている野村は余裕の表情だったが、担任の視線や意識が大きく野村に向いていた事に気付いていないなかった。
「今に、あんなものじゃ済まなくなるよ」
教務室から出た後、野村が言った。確かに、初犯の僕がいたから、先生は厳しく言わなかったのかも知れない。その時また、廊下の曲がり角で体をぶつけてしまった。
「動揺することは無い。ひどく怒られない方法がある。それは、成績でトップをとることさ」
彼は後頭部で腕を組み、大またで歩きながらそう言った。僕は長身の野村を見上げて溜息を吐いた。おそらく彼は驚くほど長生きして、生きている最中は常にこういう事を口にするのだ。
「もう一つあるよ。遅刻や欠席をしないことだ」
どうでもいいような返事を残して、彼は家庭科室に入って行った。二時限目は調理実習なのだ。
実習内容は鮭のムニエルで、僕はそれに添えるサラダの調理を任されてしまった。包丁を持ち、これで指を切ったら切断されてしまわないだろうかと心配する。なんせ、片目だと距離感がまったく違うのだ。それは今日、分かったことだ。
「上村君、野菜も切ったことが無いの? どうせ料理なんてしたこと無いんでしょう」
僕が包丁片手に戸惑っていると、同じ班の女子生徒が話し掛けてきた。彼女は代わりに切ってあげようかと言ってきたが、僕は断った。もし左眼の視力が戻らないのだとしたら、それに慣れておく必要がある。
自分の意志とは見当違いの場所へ刃が落ちる。それだけで、背中に冷たい汗を感じる。しかし、これからはずっとこうなのだ。キュウリを等間隔に輪切りにするつもりが、とんでもない出来になってしまった。それでも、これから慣れていけばいい。
次に切る野菜と、どう切るかは黒板に説明書きしてある。僕はそれを確認しようと黒板に目をやるが、そこで次の異変に気付いた。黒板の文字が読み取れないのだ。
「どうしたの?」
先程の女子生徒が話し掛けてきた。僕は無視して右目を擦った。右目だけだ。まるで目の前に靄がかかったように視界がはっきりしない。
さらさら、さらさら。その時も頭に響き続けていた砂の音に気が付いた。僕が家を出た時は、右目の視力は正常だった。それで、気が付いた。砂の音の意味。右目だけの生活に慣れればいいと思っていたが、どうやら事態はそう簡単では無いらしい。
「ねえ」
僕は隣にいる女子生徒に声をかける。
「やっぱり野菜、代わりに切ってくれないか」
下校時、僕はようやく理不尽な怒りを覚えた。何故僕が、という思いだ。道路の脇に走る歩道をふらふらしながら歩いていると、野村に呼び止められた。
「上村。暇なら、付き合って欲しいんだけど」
野村の申し出の内容は、彼女の見舞いに付き合って欲しいというものだった。さしあたって断る理由の無い僕はそれを引き受けた。
それに、いつ砂の音が止んでしまうか心配だった。砂の音が消えるということは、つまりそういう事だ。一人では帰宅できなくる可能性がある。
病院は学校のすぐ横にある町立病院で、大して大きくはなかった。安静にしていればいい事と、学校の近くに居させてあげたいという両親の訴えで、彼女はそこに入院している。
病室に入ると、ぼやけた視界に横たわる彼女が見えた。名前は井崎美幸といって、僕とは小学校からの付き合いだ。淡い恋心を寄せていた相手だったので、野村と付き合いだした時はショックだった。
病室の窓は開け放たれていて、白いカーテンが初夏の風で揺れていた。窓からは中庭が見え、新緑が日光を受けて輝いている。
「なあ、美幸は今、意識が無い。手も足も口も、目蓋だって動かない。動かなくなった部分は今は、どこに行っているんだろうな」
ベッド横のパイプ椅子に腰掛けた野村が呟いた。今は、か。僕の左眼はどこに行ったのだろう。そして、右目はこれからどこに行くのだろう。おそらく、もう戻ってこない。
「俺、俺さあ、美幸が目を覚ますならどんなことでもやるよ」
独り言かも知れないので、僕は無視した。でも、僕だってそれは同じだ。動かない彼女を見て、今も好きなんだと実感する。
随分長い時間、僕と野村は病室にいた。会話も無く、ただ静かに彼女を見ていた。野村が泣いている事に気が付く。僕は、右目からだけ涙を流していた。涙を流す機能も失われていることを悲しく思う。
「夕日って、嫌いだよ。子供の頃から思ってたけど、何か、悲しいだろう」
野村が涙声でそう言った時、既に僕の涙は止まっていた。窓からは丁度、西の空を赤く染める夕日が見えるのだろう。
「ごめん、見えないよ」
砂の音は、止んでいた。
2
高校に行かなくなって二ヶ月が過ぎた。詳しくは、行かないのでは無く行けなくなったのであり、今は夏休みなので行く必要が無いのだ。しかし、二ヶ月前に、それまでの生活が強制的に奪われたのは事実だ。
両目の視力は砂の音と共に、それこそ砂時計のように減って行き、遂には僕の体からすべり落ちた。この二ヶ月間、僕は少しの物音にも怯えて生活している。物音を聞くと心が見えない何かに鷲掴みにされ、音の正体を発見するまで落ち着かない。それは、二ヶ月前聞いた砂の音のせいだ。僕は砂の音に、両目の視力を奪われた。
僕は今日も、部屋の隅で布団に包まっていた。塞ぎがちになっている事は自分でも分かっている。それに、布団による光の遮断なのか、失明による闇なのかを、曖昧にしておきたい気持ちもある。今でも僕は、もしかしたら布団をはぐると明るい光が両目を照らすのでは無いかと思っている。そうして、実際に布団をはぐり、変わらない漆黒に絶望し、また夢の世界へ戻る。
僕の日常とはつまり、そうした虚しい行動の繰り返しだった。
今までの日々を思い出すと、全てに野村の姿がある事に気が付く。野村は文句一つ言わずに、僕の側にいてくれた。そう思うと嬉しくて、そして悲しくて僕は泣いた。もちろん、涙は出ない。しかし、心は泣いているのだ。部屋には、呻き声のような僕の嗚咽が響くだけだった。
「宗一郎! ほら! 野村君が来たよ」
階下からの声に、僕は慌てて飛び起きた。その際、テーブルに脛をぶつけ、その後本棚に頭をぶつけた。悶絶するような激痛だったが、それどころでは無い。ティッシュだ。
「宗一郎! 野村君待たせて、何暴れてるんだい」
母の意見は最もだが、何分ティッシュが見当たらない。記憶によるとティッシュは、机の横に置いてあった。僕は闇の中手探りで探す。
一向に見つからないと思ったら、どうやらまた本棚に頭をぶつけ、反対方向を探していた事を知る。
そうだ、袖で拭けばいいじゃないか。
「上村。何やってるんだ?」
そう思いついた時、ドアを開けて野村が入ってきた。顔が熱くなるのが分かった。僕は赤面している。付き合いが長いだけに、恥ずかしい。
急いで目に袖をやると、見られて恥ずかしい物はちっとも流れていない事を思い出した。
「なんでも無いよ」
そう言いながら、僕は再び泣いた。胸の奥から湧き上がる悲しみが止まらなかった。野村がいたが、構わないことにした。どうせ彼は、僕がどれだけ悲しんでも気付かないだろう。涙は出ないのだから。
野村をベッドに座らせ、僕はテーブル横に腰を降ろした。しかし会話をしていると、野村の声があちこちから発せられているのに気付く。とにかく、静止していないのだ。それで、部屋を掃除してくれていると分かった。
「悪いな」
野村は気にしないような返事をした。そして、今日は晴れの夏日で、しかし風の涼しい日だと教わった。
「じゃあ、初めていいよな?」
野村が言った。始めるとは、インターネットを始めるという事だ。初めは医者を頼っていたが、すぐに止めにした。なんせ僕の両目は何の異常も無いらしいのだ。初めに行った病院では、僕が見えない演技をしているだけなのだと言われ、次の病院では精神病の疑いをかけられた。
医学的に正常ならそう言われるのも仕方ない。しかし見えないのは事実だ。
「この前は、未確認の病気で検索したんだったな。今日はどうするかな」
大手の検索エンジンを開いているであろう野村の声が聞こえる。僕は治すことを諦めて、同じ境遇の人を探し始めていた。詳しくは、探してもらっているのだけれど。一人でいるには、この暗闇は寂しすぎるのだ。
「もしかしたら、日記にそのことを書いているのかもしれない。日記に書いてありそうなキーワードで探すんだ。突然、朝、失明」
僕は野村にアドバイスする。返事の変わりに、勢いよくキーボードを叩く音が返ってくる。野村が窓を開けてくれたおかげで、三日ぶりに風が入ってきた。野村が前来たのも三日前だった。
僕の悲観想念が充満していた部屋に、風は駆け足で入り込み、重たいもやもやを抱えて去ってゆく。新緑の香りを残して。
野村はこのようにして、沈んでいた僕の背中を無言で押してくれる。言葉には出さないが、俺がいるぞと行動で示してくれる。
「だあ! なんと入れてもそれらしいのは引っかからないよ。上村、それっておまえだけが掛かった病気なのか、それともおまえが最初なのかもしれない」
野村の声が聞こえる。こいつになら、言っても構わない気がした。おかしな事を言うと思われ、野村がいなくなるのが怖かった。なので、全てを話すのは止めにした。
「じゃあ、野村。このキーワードで検索してくれないか。失明、そして、砂時計」
野村は何故砂時計なのか疑問を持っていたが、やがて検索し始めた。
ページはすぐに見つかった。
「あったぞ、上村。あ、でもこれは、絵本の内容とかぶっただけかもしれない。えーと、絵本の題名は、砂時計お化けがやってくる。だ。砂時計お化けに、両目を持っていかれた少年の話だってさ。絵本にしては怖いな」
外れだ。僕は全ての可能性を失ってしまった。砂の音と検索すれば別かもしれないが、野村を失えば、僕は孤独になるのだ。光を失って初めて、一人が怖いと実感した。うかつな事が言えないのは、野村だって僕が失明したと信じていないかもしれないからだ。
しかしあながち、絵本は外れで無いように思えてくる。砂時計のお化けに、両目を持っていかれた話。不思議な話だ。もっとも一番不思議な事は、それと同じ事が僕にも起こっていることだ。
よく調べてみると、それは一般に発売された絵本では無く、そのホームページで無料で閲覧できるものだった。おそらく管理人が書いた絵本をネットで公開しているのであろう。
「あれ、もう昼過ぎなのに、今日の訪問者は俺が始めてだ」
野村が言った。僕は立ち上がり、野村に近づいた。ベッドに足の小指をぶつけるのはもう慣れっこだ。
「それに、最後の更新日が、もうずっと昔だぜ。二年前の秋だ。閉鎖すればいいのにな」
二年前というのはおかしい。だが、もし、管理人が僕と同じ境遇なのだとしたら、更新はできない。もし、僕と同じなのだとしたらだ。
「少し、絵本を読んでくれないか?」
僕は内容が気になり、野村に頼んだ。野村は、絵本の朗読をはじめは断っていたが、僕が熱心に頼むので渋々了解した。
「ん! じゃあ、いくぞ。ある村に、病気の母と二人で暮らす少年がおりました。少年は、寝たきりの母の回復を何より願い、看病する毎日でした。ここで、少年が母の看病をする絵が入ってる。
そんなある日、少年の元に砂時計のお化けが現れました。砂時計のお化けは、自分の砂が落ちきると同時に、少年の両目を奪っていったのです。それ以来少年は、暗闇の中でいつもお化けに怯えていました」
ことごとく一致する内容に、僕は少し冷たい汗を感じた。風のせいでは無く、体が冷えていくのが分かった。そしてそれだけでは無い。今まで通りの暗闇の中を、何かが近づいてくる気配がした。それは初めは不確かで、時間を重ねる毎に大きく確かなものになっていった。
砂の音だ。
僕は断末魔のような叫び声をあげ、その場に膝を付いた。そして頭を掻き毟る。正体不明の悪魔に対する、これが精一杯の抵抗だった。
「上村! どうした!」
野村の声が僅かに聞こえたが、僕には反応できなかった。砂の音は静かだが、しかしはっきりと闇の中に響きつづけた。
「上村!」
野村に肩を掴まれ、床に押し伏せられた。僕はどうやら、何かに頭を打ち付けていたらしく、額を触ると濡れる物があった。
「野村、怯えていた少年がどうなったか分かったよ。砂時計お化けは、また、少年の元に現れたんだ」
僕は声にならない声でそう言った。
さらさらさら。さらさらさら。
なんとか落ち着いた僕は、また部屋の片隅で蹲っていた。耳を塞いだって、砂の音が聞こえるんだ。おかしくならないために、僕は横にある本棚を叩き続けた。
「上村、俺達は、おまえが本当に失明したとは完全に信じてない」
野村の声が聞こえる。理解するのにそれなりの時間がかかった。初めに砂の音が聞こえた時は、それが何を意味するか分からなかったので平気だった。でも今は違う。恐怖以外の何者でも無い。
「俺達?」
僕がそう言うと、おそらくだけど、野村が頷いたのだと分かった。
「信じられない。本当に、私がずっといたことに気が付かなかったの? 私、ずっといたのよ。上村君がおかしくなった時もね」
不意に隣から声がするので僕は訳の分からない声を上げて引き下がった。しかも女子の声だ。
「家庭科の時間、私が代わりに野菜を切ったのよね。憶えてない?」
あの時の女子生徒。僕は思い出した。しかし、気付いた時には僕の首は横に振れていた。不満そうにする女子生徒の顔が思い浮かぶ。そして、おそらくその通り。
「本当に見えていないの? 今、上村君は、私の目をまっすぐ見ているのよ」
見えていないよ。僕はそう言った。
「上村、俺達は信じていない。でも、本当の事が分かるまで、上村の側にいようと思う。俺は役に立つと思う。なんせ、俺は天才だし」
その言葉で、やっと野村らしくなってきたと思った。野村の声を久しぶりに聞いた気分だ。
その言葉通り、僕には野村や女子生徒が側にいることが暗闇にいてもよく分かった。窓から入る風が、野村の長身で塞がれる。衣擦れや、呼吸する音が聞こえる。それらの証明を闇の世界へ置くと、はっきり彼等の存在を確かめる事ができた。初めて僕は、漆黒の中で一人ではなくなった。
そしてそれは勇気に代わり、砂の音がなんであれ、正体を追い求める気が起こってきた。砂の音が鳴り始めたという事は、僕のどこかの部分が無くなり始めているということだ。それは腕だろうか、足だろうか。
取り敢えず、僕は全てを理解して消えてやる。そう思った。
3
今回の砂は、随分長いこと落ち続けている。野村と、女子生徒の今井真希が訪問してきた日から、まる三日。今日も、僕の頭の中では砂の音が鳴り続けている。この事は、二人に話した方がいいのだろうか。いや、今は動かない方がいいと思う。
八月の初旬、陽射しが痛い風のない日、僕は街中にいた。前後左右、引っ切り無しに人々の話声が聞こえる。それは重なり合い、混ざり合い、一つの大きな騒音となって僕の鼓膜を強打する。砂の音が紛れる分、逆に有難かった。
「俺や、今井、家族の声以外を聞いたのは、いつ以来だ? テレビは抜きで」
町の中心となる駅がある。その駅から続くメインストリートを歩きながら野村が言った。僕は野村の袖を掴んで歩いていた。
「二ヶ月と、少し」
「外に出たのは?」
「同じだよ」
「人間、たまには日光に当たらないと体が腐ってゆくと思うね。もちろん、俺の持論だけど」
持論と言いつつ、それは僕を外へ出すための口実なのだと、なんとなく分かった。それが有難くて、また泣きそうになってしまう。光を失ってから、僕は随分泣き虫になってしまった。それは野村という親友の存在が、始めて確かに感じられるようになったからだ。
「ありがとう、野村。ごめんな」
そう言うと、野村からは気の抜けたような返事が返ってくる。それも、彼の優しさなのだと知る。
不意に、袖を掴む左手がするりと抜けた。力を抜いた覚えは無い。なんせ、離してしまったらもう二度と掴めないような不安があった。
もう一度、今度は前よりしっかりと袖を掴んでみる。野村の袖は変わらぬ場所にあった。だが、また同じくするりと抜け、左腕は力なく下に落ちる。何をやっているんだと、野村に注意された。
「上村、おまえは今、富士の樹海にいるのと同じなんだぞ。ふざけている場合か?」
違うんだと、僕は反論した。渾身の力を込めたって、手が思うように動かないんだ。なので、反対にまわり、右腕で掴んだ。そして、見えないが左腕を何度か確認する。そういう事か。
「ごめん。もういいよ、行こう」
今日は、ネットカフェに行く予定だった。僕の家にもネットは通っているが、わざわざ外に出たのは野村の持論に基づく行為だろう。外に出たのは、野村の好意を無駄にしたくなかったからと、ネットをするには野村が必要だからだ。ネットをするにも理由がある。それは野村の一言から始まった。
「前開いた、砂時計お化けのサイトがあったろう。あのサイト、誰でも自由に書き込めるBBSのコーナーがあったんだ」
僕は、その不可解な事態を是非とも追及したかった。あのサイトは、多くの、そして重要な秘密を隠していそうだ。
「二年間、更新もなければ、ほとんど出入りも無い。でも、BBSに毎日、書き込みしている人間が一人いるんだ」
何故だか、胸が高鳴ってくる。これは緊張だろうと思う。僕は自分の心臓と砂の音を聞きながら、暗闇の道を野村と共に歩いていった。
ネットカフェは天井が高く、壁は全てガラス張りになっているそうだ。椅子や机は全て鉄製で統一されていて、しかし全体的に青が目立つ造りだという。広い空間にパソコンと観葉植物が点在しているようだ。
「夏休みだからかな。子供も多いよ。みんな夢中でオンラインゲームをしてる。でも席は空いてるみたいだ、行こう」
受付を済ませた野村が、僕の服を引っ張った。
「なんだか、いつ見ても不気味なページだよ。壊れかけた砂時計が、中央にある。そして、いつまでも砂が落ち続けてる」
野村が席に座り、僕は後ろに立った。確かに、あまり気分の良くないサイトのようだ。街中に比べ、ここは静かで良かった。キーボードを叩く音と、店内に流れるクラシックしか聞こえない。
「いた。また今日も書き込みをしてる。書き込んだのが、今日の午前十一時五分。あ、因みに今日の入門者は俺で二人目だ。ハンドルネームは『東』。アズマって、読むのかな」
東、それが書き込みしている人間の名前だった。もちろん、ネット上での名前だけど。質問してみようと言う野村の案に、僕は頭を悩ませた。なんと聞けばいいだろう。何を聞けばいいだろう。
「じゃあ、取り敢えず、こう書いて。
砂時計お化けが現れました。お化けは両目を奪い、左腕にも手をかけています。逃げる術はあるのでしょうか」
そう言うと、野村は書き込む前に僕の左腕を掴んだ。といっても、僕にはもう掴まれているのかいないのか、はっきりとは分からなかった。まるで肩から先が無くなったような感覚を覚える。
「動かないのか」
大丈夫。そう言って僕は、全身の力を左腕に集中して、腕をあげてみせた。
「野村、いいから書き込んで」
「訪問者は、俺で二人目だよ。これで返信があったら、『東』はずっとこのページを覗いている事になる。そんな奴いるかな」
文句と、キーボードの音が聞こえる。
それから、十分程なんの反応も無かった。僕達の間にも会話は無く、重い粘液の中にいるような時間が過ぎていった。店員が僕に、席が空いておりますがと、声をかけてきたが、僕は断った。
不意に、僕の体が左に揺れた。しばらくして、野村に左腕を引っ張られた事を知る。もう感覚はほとんど無かった。
「上村! 返信があった! 『東』からだ!
ええと、逃げる術と、そうなった理由は分かりません。しかし、あなたがどうなるかは知っています。だって。上村、どうする?」
「すぐに返信して! 聞く事はもう直球でいいよ。僕はどうなるのですか? それと、あなたのもとにも砂時計は現れたのですか?」
僕らが大声を出したので、店員に注意された。ほどなくして、『東』から返事が届いた。
「あ、こいつ、とぼけてやがる」
「とぼける?」
「ああ。返事を読むよ。私が作った物語に賛同してくれてありがとう。実は絵本作家を目指していたのですが、それは叶わず、こうしてネット上で公開していたのです。しかし訪問者数は伸びませんでした。才能が無かったのだと諦めています。あなたのような書き込みは初めてです。感謝の念に堪えません。だってさ」
思い切り大きな肩透かしをくらった気分だ。百メートルの助走を付けてぶつかる予定の壁が、紙切れだったような気分。
「とぼけているというより、それは本当なのかもしれないね」
と、僕は言って、右腕で椅子を探した。野村に椅子を掴ませてもらい、それに力無く座り込んだ。野村は、気になるサイトを探してみると言って、熱心にキーボードを叩き続けていた。
僕はため息を一つ吐いた。今までの緊張が一塊になって空中に消える絵が、暗闇に浮かんだ。僕は脱力して、意味は無いが目を閉じた。
砂の音は止んでいたので、左腕が動かないのは、脱力している所為では無いと理解した。
町に出た日から四日が経った。僕はというと、相も変わらず部屋に閉じこもる毎日だった。布団の中で、感覚の無い左腕を探る日々。重量感はあるので、まるでおそろしく巨大なミミズが肩から生えているようだ。
ふと思い付き、僕は台所へ向かう。家の中なら、もう自由に動き回れるようになっていた。階段を降りながら、僕は呪文のように繰り返す。
「これはもう僕のじゃない。僕のじゃない」
どこかへ行ってしまった左腕。もう、僕のでは無い。台所で探す物は包丁。記憶を探り、それが流し台の真下の引き出しに入っている事を思い出す。セラミックの刀身に、いくつか穴のあいた万能包丁だ。
試しに、弱く突いてみる。感覚は無い。次は、刃を横にして滑らせてみた。硬いゴムを切っているような感触が右腕に伝わってくる。触ってみると、温かい液体が流れ出ていた。
「くそ」
僕が呟いた時、玄関のチャイムが鳴らされた。野村かもしれないという思いがよぎり、僕は嬉しくなった。なんせこの四日間、野村は姿を見せなかった。包丁を持っている事も忘れ、玄関へ急ぐ。廊下にぽたぽたと、血液の落ちる音が鳴った。
「野村!」
僕は靴も履かずにドアを開けた。その途端響く悲鳴。女の声だ。野村では無かったらしい。確かにいきなり現れたのが片手に包丁を持った血だらけの男だというのは、インパクトが大きい。
「上村君、何やってるの!」
言うが早いか、切り傷のあたりに布が押し付けられた。それはおそらくハンカチで、持ち主は今井真希だろう。その時、正体不明の感情が胸から湧き上がってきた。その感情は、ハンカチを当てる今井を振り解かせた。
「うるさい! ほっといてくれ! だって、ちっとも痛くないんだ! 潰れたって、僕には分からない」
そう言って左腕を地面に打ち付ける。これは怒りだ。僕は何度も腕を振り下ろした。骨の砕ける音も聞こえた。
しばらくして、僕がその行為を終えたのは、今井が泣いている事に気がついたからだ。僕のでは無いと思ってる。しかし、それを痛めつける事で他人を悲しませる事は、いけないと実感した。今井のすすり泣く声と、涙が地面に落ちる音を聞きながら。
今井に処置してもらい、部屋に戻った。そして、今井に砂時計のページを開いてもらう。
「これに書き込んでから、野村を見てないんだ」
僕は言った。あの日以来、僕は野村を見ていない。見ていないとは、会っていないという事だ。それまでは、長くても三日と間をあけず、彼は僕の家に現れた。
「うわ、気持ち悪い。BBS開いてみたけど、全部『東』って人の書き込みよ。それもどうでもいいような事ばかり。おはようとか、天気がいいですねとか」
「前の日付に行くと、野村と『東』の会話になってるはずだ。それを探して」
それはすぐに見つかった。
野村:東さん、僕の友人が今、両目の視力を失っています。しかし、それが本当かどうか、俺には分かりません。
「なんだって! 嘘を言うなよ。僕はそんな事を書けと野村に頼んでいない」
「だって、書いてあるものは仕方ないじゃない」
野村は、僕が見えないのをいいことに、まるで違った文章を打ち込んだのだ。目の前が真っ暗になった。元から真っ暗だけど。信頼という鎖が、二人から落ちて行く感じがした。
東:失ったのは、視力だけ?
野村:分かりません。今、どうやら左腕の自由も無くなったような事を言いました。俺は今、日吉駅近くのネットカフェにいます。もし東さんが何か知っているのなら、お話させて下さい。
東:偶然ですね。私も今、そのネットカフェにいるのです。
「ここで、会話は止まっているわ。中途半端ね。削除されたのかしら」
違う。野村は『東』に会ったんだ。僕は放心状態で座っていたから集中していなかったが、もしかしたら誰かが話し掛けてこなかったか? それは店員かと思ったかもしれない。野村は僕にばれないように『東』と約束を交わしたのだ。もちろん、会う約束だ。
隠そうとしたのは、僕に負担をかけまいとしたのかもしれないし、削除されたであろう文章に秘密があるのかもしれない。
「今井、『東』にメールを打って。
こんにちわ。僕の所にも、砂時計お化けが現れました。というより、砂の落ちる音がするのです。何かご存知なのでは無いですか?」
野村に頼んだ時より、もっと詳しく暴露した。でも、仕方ないという思いもあった。幸い、今井はその事に触れる様子は無い。
「え? ええと、ちょっと待ってよ。私パソコンなんて慣れてないんだから」
かた、かた、と、遅い間隔で叩く音がする。時々、Hってどこだっけ、と呟きが聞こえた。
キーボードを叩く音が止まり、静かな時間が流れた。今井が僕の言った通りに書いたか分からない。しかし、今は信じるしか無かった。
「あ、何これ? 返信?
絵本のように、両目を失いましたか? だって。どう返すの?」
「ネット間のメールだと逃げられる可能性がある。直接会うしかないよ。僕の住所を打ち込んで、今これるか聞いてみて。『東』はこの地方に住んでるはずなんだ」
「え? いいの? これってみんなが見れる所なんでしょう?」
「大丈夫。ここには『東』しか来ていない」
今井はその通りに打ち込んだ。期待と不安が半分ずつ僕の心を占めていた。もしかしたら、この砂の音の呪縛から逃れられるかもしれないという期待。そして、もう半分は、どうにもならないという現実を今の段階で突きつけられる不安。希望が無くなるという不安だ。
随分時間が経つが、返信があったと言われない。一時間経ったかもしれないし、十分も経ってないかもしれない。時計という時間概念を取り上げられた僕には、正確な時間は分からなかった。ただ、長いとしか。
そして、またチャイムが鳴った。
「野村だ!」
僕は勢い良く階段を駆け下りた。階段の下にあるマットで滑り、壁に頭を打ち付けても僕は玄関に急いだ。そして止まりざまにドアを開ける。
訪問の主は、何も言わずに立ち尽くしていた。いや、僕には、そこにいるかどうかも分からない。いたずらだろうか。
「目は両方とも見えないのか」
前方から、声が聞こえた。男性のものだが、透き通っていてよく通りそうな声。そして、かりかりという音も聞こえた。頭を掻いているのだろう。
「私が握手を求めているのに答えない」
声の主は恨めしそうに呟いた。僕は反射的に右腕を差し出した。しかし、触ってみると、握手はできないことに気付いた。
「私が差し出しているのは左手。どうやら、左手も動かないようですね。耳は聞こえているようだ」
そう言うと、今度はがっちりと、僕の右手を両手で包んだ。か細く、小枝のような指だった。そして、冷たい。
「初めまして。東です」
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「人間、たまには外に出ないと、体が腐ると先日言われまして。どうです。外でお話しませんか?」
そう言う東の言葉通りに、僕等は外に出ることにした。信用に足る人物で無い事は明白だが、今は逆らわない方が良いと思った。もし、僕のそばにいるのが今井では無く野村だったなら、僕は家を出なかった。東は今、僕と今井の命を握っている。もし、悪人だったなら。
地面になるぺたぺたというサンダルの音は僕の足音だった。そして、アスファルトに積もった砂を擦るスニーカーは今井の音だ。そして二メートル程前方で規則的になる硬い音は、東の革靴だろう。夏休みの小さな住宅街には、それらの空しい音しか聞こえなかった。
おそらく東は、体の腐る話を野村から聞いたのだと思う。野村は、僕を外に連れ出す口実でその話を使った。持論だと嘯いて。今前方を歩く、姿も分からないこの男は、どういった意味で使ったのだろう。外に連れ出すためならば、僕の家ではできない何かをするためだ。いい予感はしない。
「東さん、これからどこへ?」
僕が言うと、革靴の乾いた音は止み、砂利のする音がする。僕には見えないが、それでもまっすぐ視線を保った。
「さあ。どこへでも。どこか行きたい所があるのなら、そこへ行きますが」
透き通るような声色だと思った。発せられた場所は、僕の少し上で、野村と同じくらいの長身では無いだろうか。どこへでも。という事は、僕の家が駄目なのか外に出る事ができればオーケーだという事だ。それとも、「腐る話」を本気で信じているのかもしれない。
「病院は、駄目ですかね?」
「病院?」
井崎美幸が、入院している病院だった。僕は、井崎について一通り説明する。今井はそれに激しく賛成した。取り敢えず人気があり、安全な場所という条件を、病院は軽く満たしている。
「そのお友達、意識が無いのですか。かわいそうに。行っても、姿を見ることはできませんが」
それでもいいと、僕は訴えた。視力を失ってから、彼女の見舞いには一度も行っていなかった。行く意味がないと思っていた。しかし不思議なもので、行きたい所を問われた僕が真っ先に思いついたのは井崎の隣だった。
「いいでしょう。では、その病院へ行きます。今井さんの家より、そちらの方が安全ですから」
東は、僕と今井を勘違いしている。今井がページに書き込んだ時、名前を正直に今井にしてしまったのだろう。
「僕の名前は、上村宗一郎です。さっきは彼女が打っていました。それより、僕の家が危険? 何で?」
東は今度は、立ち止まる事も振り返ることも無く答えた。
「あなたの家だからです」
その後、僕はただ黙って東の後ろについて歩いた。今井は僕の隣で、砂を擦る音を証明として歩いている。
東はさっき、井崎を見る事ができない僕を哀れんでいるように思えた。彼女への想いが透かされたようで焦る気持ちがある。子供の頃の僕といったら臆病で、好きな女の子に告白する事もできなかった。それを後悔している。
しかし、これから僕が消えてしまうまで、井崎の姿が見えない事を不幸だとは思わなかった。視界に永遠に退かないカーテンが降りた瞬間まで、僕は彼女を見つめている事ができたのだから。あの日、僕はそのせいで、町に降りる夕日を見逃した。
三年前の夏
僕は中学二年生だった。夏休みで、いつも暗くなるまで外で駆けずり回っていた。まるで小学生のようだと、今では思う。部活に精を出すのも大変結構だとは思うが、その時僕はそれより素晴らしいものを探す事で忙しかった。
そんな訳で、夢見がちな少年はその何かを探して走り回った。暑さを暑さと思わず、疲れを疲れと思わなかった。蝉時雨と日光が降り注ぐ中、影が長くなるまで飛んでいた。影が無くなる時分、二人並んで家路についた。きっと面白い明日の事を話しながら。
僕の隣にいたのは、小学校からの友達で、野村信司という奴だった。
アルバムを開けば、いつも仏頂面の自分に会う事ができた。僕は写真を撮られる時、一度も笑ったことが無い。ずっと残る一瞬なのに、笑顔でいることができなかった。写真が嫌いなのは、そういう訳で、写真を撮る事自体が嫌いなのでは無かった。ただ、周りとは違う真顔の自分を見て、がっかりするのが怖かった。
その日も僕は、部屋で小学校の卒業アルバムを見ていた。いつも通り、野村が迎えに来る約束だ。
「宗一郎!」
九時を回り、野村が訪れる。僕は階段を駆け下り、玄関へ向かう。洗濯していない汚れきったジーンズを穿いて。しかし僕はその汚れたジーンズを、死ぬほど後悔することになる。
野村の他にもう一人、玄関にいる人物がいた。肩までかかるまっすぐで黒い髪と、大きな瞳。その時の時点で、僕が一番素晴らしいと思っていたもの。
野村と共にいたのは、井崎美幸という女生徒だった。
僕はほとほと困り果てた。その日は、遠く離れた小川へザリガニを釣りに行く予定だった。魚では無く、ザリガニだ。小学校からの付き合いとはいえ、野村が井崎を連れてきてしまうから、行きづらいことになってしまった。
おそるおそる、僕はその話を切り出す。
「いいじゃない! ザリガニ釣り。面白そうだわ」
予想外の答えにうろたえる僕。彼女は目を輝かせてそう言った。
「でも、遠いんだ。それに、汚れるし」
目を合わせずに言う。「いいのいいの!」彼女は活発な声で言った。
そうして、僕達は小川へ自転車を走らせた。井崎は普段の僕等以上に元気に走った。僕は目的地につくまでずっと最後尾を走った。綺麗な髪をなびかせて走る彼女を、見ていたかったからだ。
小川の岸には葦が生い茂っていて、いかにもやぶ蚊がいるといった体制だった。実際僕と野村の体は虫刺されだらけだ。水面の僅かな波が日光を反射して、止むこと無く煌いていた。
「綺麗」
彼女がそう言ったのを覚えている。
小川の畔におりるには、急な段差を下らなければならない。野村はさっさと飛び降りて行ってしまう。
「ねえ、掴まっていて」
彼女が手を差し出す。僕はその時躊躇った。素晴らしいものを探すため、毎日駆けずり回っていた。でも実は、それは見つかっていた。ショートケーキを眺めている子供だったんだ。手を付けてしまえば、無くなってしまうから、僕はその人には近づかず同じ時間の中にいた。それだけで嬉しかった。
僕は勇気を出してショートケーキに手を伸ばした。小さく、温かい手だった。
「早く行こ」
下りた後も、変わらずショートケーキはそこにいた。何も変わっていなかった。
僕は嬉しくなって、元気な駆け足で髪の毛を弾ませて遠ざかる彼女を追いかけて行った。
その時、釣り人に頼んで写真を撮ってもらったのを覚えている。僕は必死に断ったけど、撮る羽目になったんだ。三人寄り添って、顔を近づけてチーズした。
あの時の写真は、どこに行ってしまったのだろう。
電車のレールを踏む規則的な音が聞こえる。僕は俯いて無言に徹していた。
「泣いているのですか?」
隣に座っている東が話しかけてきた。「え?」という、今井の声も聞こえる。これは前からだ。僕達は四人掛けの、向かい合いのいすに座っていた。
「よく分かりますね。涙は出ていないのに」
嗚咽の混じった声で応える。
「分かりますよ。心が、泣いている」
電車はたたん、たたんと、呼吸しながら目的の駅に向かっていた。井崎の眠っている病院へ僕達を運んでいる。
「私に聞きたい事があるなら、聞きましょう」
駅で降り、東が言った。無人駅になっても当然のような、人気の無い駅だった。それでもまだ駅員はいるらしく、(おそらく)老人が切符の買い方を訊ねているのが聞こえる。
「砂時計お化けを撃退する方法はあるのですか?」
「ありません。他には?」
ずいぶんとあっさり、僕の希望は潰えた。本当は、その真偽を確かめるのが一番で、それ以外の質問はするつもりが無かった。何故知っているのか、ホームページで砂時計お化けの絵本を公開したのは何故か。とか、当初あった疑問は現実に押し潰された。消えてしまうという現実に。
「絵本を最後まで見ましたか?」
僕は首を横に振る。確か野村に読んでもらった時、最後までは朗読しなかった。
「そうだ! 東さん。野村に会いましたよね? 僕の友人の」
思いつき、早口に喋る。叫ぶと言った方が適切かもしれない。野村は何で、嘘を書き込んだのだろう。
「絵本の少年はね、幸せなんですよ。上村さん、あなたは幸せなんですよ」
東は答えなかった。
「あの絵本は、ハッピーエンドなんですよ」
東はそう言うと、用ができたと言って遠ざかっていった。革靴の音が、離れてゆく。僕が追いかけようとすると、今井に止められた。彼女は僕の右腕を必死に掴んでいる。
「僕はもうすぐ全て失って消えてしまう。大切な人に二度と会えなくなってしまう。それでも幸せだというんですか!」
ちらほら聞こえた駅内の会話が止んだ。おそらく、叫んだ僕を見ているのだろう。返事は無く、足音は消えていた。
今井に先導されて、病院へ向かう。小学校は丁度下校時刻だろうか、子供の笑い声があちこちから聞こえる。
「上村君、私さっき、隠してたんだけど。だってそれを言ったら、上村君何があっても東さんを追いかけたから。目が見えないのに、危険よ」
何を? 僕は彼女に問いかけた。
「東さん、用ができたって言ってたよね。多分、それは嘘よ。だってあの時、東さんは駅から見える商店街の入り口で見つけたのよ。それで離れて行った」
僕が追いかけるべき光景だったらしい。それはどういったものだろう。今井は躊躇っている。まだ僕が、東を追いかけないかと思っているのだろうか。
「野村君がいたのよ」
一体何が起きているのだろう。僕は両目を失っただけで、親友が近くにいた事も気付かない。東と野村の関係も分からない。
こんな僕が幸せ? 性質の悪いジョークだ。
「病室では静かにお願いしますね」
柔らかい口調の看護士が言った。きっと笑顔も柔らかい人なのだろうと想像する。言葉を持たない患者に会い行く僕達に、そんな注意は必要無い。
病院特有の臭いが立ち込める廊下を、足音だけ発して歩いた。あの看護士のおかげで、院内はこれだけ静かなのだろう。少し、寂しくもある。
「ねえ、井崎さんの事、好きなんでしょう?」
病室まで来た時、今井が口を開いた。中学生の頃は、それが知られるだけで恥ずかしかった。でも、今は違う。ショートケーキは無くならない。
「ああ、それがどうかした?」
「私、井崎さんの事よく知らないし。上村君一人で入りなよ。二人きりにさせてあげる。私、この階のロビーにいるから、終わったら来て」
元気な口調で今井が言う。それは、からかっているような口ぶりだ。
「分かった。廊下に頭をぶつけている音がしたら、僕が来たって事だから」
今井は笑って行ってしまった。
今日も窓は開いているのか、涼しい風を感じる。確かベッドは窓側の右手だった。今日は晴れているから、カーテンの揺れる影が井崎の体に落ちているのだろう。手探りでパイプ椅子を探し、それに腰掛ける。
ザリガニ釣りの日と同じように、僕は彼女の左手を掴んだ。小さく温かい手。この感触を、僕は一度も忘れたことは無い。
ふと、不思議な感覚を味わう。僕は動かしていないのに、手がしっかりと握られている。井崎の手が動いたのだ。
「おいおい、誰の彼女の手を握ってるんだ?」
僕は弾かれたように振り返る。
「野村……」
野村は僕の横に立っていた。久しぶりの声に、感動を覚える。そして慌てて手を離した。野村が僕の側にいる。たまらない安心だった。
「美幸は目覚めないよ。いや、それより、上村は大丈夫だったか? ちょっとこの頃忙しくて、おまえの家にいかなかったから。さっきも家にいったのに誰もいないんだ。まさかここにいたとはな」
「僕の家は危険らしいからね。好きで家を出た訳じゃない」
やっぱりさっき、今井が見たといった野村は人違いだ。この病院へ来るのに、商店街を通る必要は無い。
「危険? 上村の家が? 何だそりゃあ」
「それがさ、聞いてくれよ。野村」
僕は、東の事を息次ぐ暇もなく話した。ホームページの人物という設定で話し始め、今日会った事も話した。野村は東を知っているので、話しやすかった。
野村が東と会ったかどうかを聞いたが、野村はそんな事は無かったと答えた。それからネットカフェで、僕の指示と違った言葉を書き込んだのは野村の好意だったらしい。野村の中では、東はただの挫折した絵本作家で通っている。
僕達は、わざと大きい声で話した。井崎に聞こえるようにするためだ。答えることは無いが、三人でいるという事を認識していたかった。
「ああ、まだかな」
不意に野村がそう呟いた。明らかに僕に向けた言葉ではなく、独り言のように思えた。
「まだって、何が?」
「最高に待ち遠しい瞬間さ」
野村は子供のような口調で言った。それはおそらく、井崎が目覚める事だろう。僕にとっても、待ち遠しい瞬間だ。
「やあ、上村さん。無事に病院にたどり着けたようで、何よりです」
東だ。いつの間にいたのだろう。座っている僕からははるか頭上でその声は発せられた。続いて、病室を走って出て行く音が聞こえる。野村?
「早く止血を! 私は医者を連れてきますので、今井さんはこのガーゼで傷口を圧迫して!」
急に叫ぶ東に、僕はたじろいでしまった。病室は静かにと、東は言われなかったのだろうか。今井の慌てた返事と、僕に駆け寄る足音が聞こえる。左肩があがったので、今井に押されたことが分かった。
「血が、血が、止まらない。ちゃんと押さえてるのに!」
今井まで、看護士の言いつけを守らない。僕は左腕を触ってみた。その瞬間、僕もいいつけを破ることになった。今井が押さえている肘の内側から、大量の血液が流れ出ていたのだ。よく耳を澄ますと、床に落ちる音も聞こえる。
僕の左腕は感覚が無い。砂の音に奪われたからだ。いつ切られた? 誰に切られた? 東はいなかった。いたら、野村が言うはずだ。今井は、僕の左腕が動かない事を知らない。左腕が動かない事を知っていて、僕の側にいた人物。
野村だ。
「最高に待ち遠しい瞬間?」
それは、僕が死ぬ事なのだろうか。それとも、僕が死ぬ事で起きる何かか。僕は脇の内側を圧迫した。
「血はまだ出る?」
「え、あ。止まった。今、東さんが医者を呼んで来るから」
今井は涙声で言う。彼女は涙もろい。
「あれ?なんだろ、この写真」
今井の手の感触が、僕の膝の上に来た。かさりと、薄い紙の摺れる音がして、手の感触は無くなった。
東が危険だと言った僕の家は、野村が知っている場所だからだろうか。もし、野村が僕を殺そうとしているなら、それ以上危険な場所は無い。東は言った、僕の家だから、と。取り敢えず外にでようと言った東の発言にも納得がいく。
「この写真、上村君が持ってきたの?」
僕にそんな覚えは無いので、野村が持ってきたものだろう。彼はそれを、僕の膝に置いた。
「どんな写真?」
「これって、上村君と野村君と、井崎さんが写っているわね。三人体を寄せ合って写っているわ」
「それで?」
「それで、三人とも体中泥だらけ。ひどい汚れているわね。川の岸かしらここって」
野村はその写真を、僕に返しにきたんだ。三人一緒に撮った唯一の一枚を、最後の時に。何で、野村が僕を狙うのだろう。もう東に全てを聞こう。東の知っている全てを知ろう。
「それで?」
「それで、皆笑顔で写っているわ。満面の笑みって言うのかしら。特に、上村君はね」
ショートケーキが無くならなかったからだと、僕は説明した。今井はそんな僕の発言をいぶかしんでいた。
血を失い過ぎたせいにしておいて欲しい。
続く
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2004/05/03(Mon)20:18:50 公開 / 有
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■作者からのメッセージ
最近は忙しくて、更新ができなかったのですが、ようやくできました。
どうやらなかなか終わりそうに無くなってきました。早めの完結を心がけるのでどうぞお願いします。
読んでくださった方、有難うございます。感想を送っていただけると幸いです。