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『message 【前/後編 完結】』 作者:daiki / 未分類 未分類
全角31612文字
容量63224 bytes
原稿用紙約111.05枚
――――伝えたい、言葉がある。
それはとても単純で、とても簡単な言葉だけど。
それはとても複雑で、とても難しい言葉なんだ。
いつも側にいてくれた君に、この気持ちを伝えたい。
だから君へと……






伝えたい、言葉がある。








message
written by daiki






前編




§




それは、いつもと違った風景だった。
すでに葉は落ちてしまった並木道。
春は桜が美しく、夏は新緑で彩られていた。秋には真っ赤に染まる紅葉もあった。
冬になった今、一年の役目を終えたかのように木々たちはおとなしく眠りについている。
街が、白く化粧を始めた。
黒いアスファルトがみるみる白く染まっていく。
その出来たばかりの白の道に、一歩一歩足跡をつけて歩く。
二人分の足跡。少し大きなものと、小さなもの。
ぎこちなくお互いに足幅を揃えて歩いていた。
隣を見ると、コートを着てマフラーを巻き、ニット帽を被った完全防備の少女。
それでも覗いた顔は、寒さで少し赤く染まっていた。
「………?どしたの、正輝(まさき)?」
オレの視線に気付いたのか、少女――木之本 彩音(きのもと あやね)――がオレに向かって微笑む。
「いや、なんでもない」
首を横に振る。オレもその顔に笑みを浮かべて。
ショートカットの活発そうな少女。少し幼い顔立ちをしている。
その顔は、薄くではあったが化粧がされていた。元々可愛い部類に入る彼女には、それぐらいが丁度いいと思う。
オレ、吉原 正輝(よしはら まさき)と木之本 彩音は付き合っている。
こんなことストレートに言ってしまうのも恥ずかしいが、もうすでに……いや、少しは慣れた。
最初はお互いに恥ずかしがって、付き合っているということも公にはしていなかった。
だが、オレの悪友にバレてしまったこともあって、翌日には学校中に広がっていたのだ。
キッカケはあるバンドにある。オレたちは「fours」という名のバンドのメンバーだ。
オレと、彩音。そして高木 隼人(たかぎ はやと)と荒井 祐司(あらい ゆうじ)の四人で構成されている。
Foursというバンド名には二つの意味が込められている。『四人』と言う意味と、『力』という意味だ。
バンドを結成したことに大して理由はない。ただ、純粋に歌が好きだったのだ。
小さい頃からずっと歌っていた。幼稚園や、小学生のときも合唱コンクールのときの歌声は人一倍大きかった。 
歌うことは純粋に楽しい、と思っている。何か心が温かくなるのだ。
その『音楽』という共通の目的から、オレ達四人は出会った。
今ではなかなかオレ達も有名になったものだと思う。
今日だってライヴハウスでライヴをやってきた帰りだ。なかなか盛り上がったので、オレ達も気分が良かった。
「今日の盛り上がりも最高だったね。新しい曲も好評だったし」
「ああ。あそこで隼人がズッコケたのには焦ったけど」
さっきの舞台上での隼人の失敗を思い出す。コードに絡まった彼の姿は、あまりにも滑稽だった。
その情景を思い出し、二人して笑った。
「ハハハハ!!アレは最高だったよね!!隼人クンのあの顔とか!!」
彩音が腹を抱えて笑っている。そこまで笑ってやるのも可哀相……なんて思ったりはしない。
それが彼、高木隼人の宿命、あるいは役目と言ってもおかしくないからだ。
「ウケたからよかったものの、シラケたりとか、演奏中ならヤバかったよな」
いつもと変わらない道。いつもと変わらない他愛のない会話。
二人で微笑みを交わしながら、オレたちは歩いた。
真っ白な雪が、街を彩る――――十二月の風景。
オレは四季の中で一番冬が好きだ。
真っ白な雪も、様々なイルミネーションが輝く街の光も。
二人で歩幅を揃えながら、オレ達はいつもと違った風景の、いつもと同じ道を歩いていた。




§




翌日。終業式を二週間後に控えた教室の雰囲気は、どこもかしこもクリスマスムードで染まっている。
男だけのグループも、女だけのグループも、皆考えることは同じようだ。
――――そう、クリスマスの相手探し。
クリスマスという一日は、相手がいるかいないかでその価値が大きく変わる。
相手がおらず、一人寂しくこたつで聖夜を過ごす者。
一人になってたまるかと、必死になって相手を探す者。
また、それらとは正反対に……仲良くクリスマスの予定を相談する者。
「あ〜ぁ……彩音ちゃんがいる正輝はいいよなぁ」
オレの隣の席で、昨日ライヴ中にズッコケた男、バンドの一員である高木隼人がボヤく。
「そうだよ。今年でゆっくりできるクリスマスなんて最後なんだし」
その隼人の机の上に座った少年。同じくバンドの一員、荒井祐司も同意するかのように頷いた。
オレたちは今、高校二年生……来年になれば受験生、という少し鬱な時期にいる。
だからこそ、来年は無理なのだから残された今年で青春を楽しみたい……という人たちが多数のようだ。
まぁ、オレには関係のない話だ――――彩音がいるんだし。
「お前今、オレには関係ないとか思ったろ」
隼人が一言ツッコむ。
――――なかなかするどいな。
コイツはこうゆう男だ。どうでもいいところで妙にするどい。
その他ではとことんボケに徹する男だ。コイツといると場が和む、と周りからキャラ設定されている。
要するに面白いヤツだ、ということ。顔も悪いわけでじゃないんだけどな。
だが、この性格が災いして女の子からも『面白い人』程度にしか認識されていない。
ちなみに、オレと彩音の関係を広めたのはヤツだ。
「オレも木之本さんみたいにしっかりした彼女が欲しいよ」
祐司が隣で苦笑いする。だが、隼人が即座に反論した。
「お前は作ろうと思えばすぐ作れるだろ〜〜〜!!!」
「確かに」
その言葉にオレも頷く。
この荒井祐司という男は、ちょっと変わっている。
容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能、さらにバンドのギタリスト。
性格も悪くなく、少しクールだが気が利き、優しい。典型的な『いいヤツ』だ……非の打ち所は一つもない。
女にモテる要素しかないじゃねぇか!!と逆にツッコみたくなる。いや、実際に隼人はツッコんだ後だ。
だが悲しきかな。コイツは――――とにかく鈍い。
このクラスにも祐司に思いを寄せる女子は数多といるハズだ。いや、ほとんどの女子が彼狙いだろう。
一時期、オレたちがバンドを結成してから急に『バンドに入りたい』という輩が増えたことがある。
女子に限って、だが。
無論原因は祐司だ。唯一の女子メンバーの彩音は、ひがまれたことさえある。
とにかく、コイツはいろんな意味で勿体無い。
まぁ、だからこそタチの悪い女に絡まれたりしないのだろうけど。ある意味長所なのかもしれない。
隼人から言わせれば『病気』でしかないらしいが。
「なぁ、祐司。頼むからお前の親衛隊を一人でもいいから分けてくれ……」
隼人が俯いた。さっきから気付いていたことだが、何やら視線を感じる。
その視線の先にいるのは祐司だろう。クリスマスの相手は彼がいい!!という女子の視線。
「はぁ?オレに親衛隊なんかあんの?」
――――ダメだこりゃ。
「祐ちゃんはね、もっと女の子の気持ちに気付いてあげたほうがいいよ?」
後ろから、半ば呆れた声が聞こえた。
声の主は彩音だった。両手を腰に当て、何やら嘆息しながら首を振っている。
ちなみに、オレ達四人は同じクラスだ。
「木之本さん……オレ、なんか女子に悪いことした?」
「「「それがダメなんだよ」」」
オレ達三人の声が見事に重なった。
コイツの下駄箱にはラブレターでもたまってるんじゃないか?
いや……そんな時代はもう終わったか。
――――終わってることを願いたい。






『舞い散る白い花びらに思い寄せて
今でも僕の中にある決して消えることのない想い出
光り輝くツリーの下で微笑み交わしたあの懐かしい十二月
季節外れの白い桜の下、いつまでも笑っていたかった』
放課後の音楽室。祐司のギターの演奏が鳴り響く。ドラムの隼人がシンバルを叩いた。
キーボードの彩音も満足そうな表情を浮かべている。
「正輝、また上手くなったね」
彩音がオレに向かって微笑んでいる。
「ちゃんと毎日ボイストレーニングしてるからな」
冗談めかしてオレは笑った。自分でも気付かない僅かな成長。なんだかそれが嬉しかった。
「オレも正輝、最近上手くなってると思うよ。安心してギター弾いてられる。この状態だとクリスマスライヴには余裕で間に合うな」
祐司がギターを抱えてオレの元へとやって来た。彼もまた満足げな表情だ。
オレ達は来たるクリスマスイヴにライヴの予定を入れていた。ライヴハウスの予約もバッチリだ。
まぁ、自分で言うのもなんだがオレ達は地元ではなかなか有名なので、余裕で予約はとれたんだけどな。
「だぁ〜、くそっ!!あのパートまたしくじっちまったぜ」
悔しそうな表情を浮かべて隼人がうなだれている。
オレたちのバンド「fours」の割り振りはこのようになっている。
ボーカルがオレ。キーボードが彩音。祐司がギターで、隼人がドラム。
隼人が昨日コケたのは、最後ファンに挨拶するときだ。
ドラムが置いてあるところからオレたちのところに来るときに、祐司のギターのコードに引っかかったのだ。
思いっきり頭からズッコケた。漫画に出てくるような『ゴツン』という擬音語が見事に当てはまるほど。
ウケたからよかったんだけどな。ウケたから。
今歌っていた曲はオレたちのオリジナル曲。
祐司が作詞して、彩音がそれに曲をつけたものだ。
「この曲、気に入ったよ。相変わらず祐司はいい詩書くよなぁ」
オレが歌詞を見て呟く。主に、オリジナル曲の作詞は彼が受け持つのだ。たまにオレも書くが、これほど上手くない。
「詩が生きるも死ぬも曲次第だよ。褒めるなら木之本さんを褒めないと」
「え、えぇ!?私?……照れるなぁ」
彩音が恥ずかしそうに両手を手に当てる。
「いい歌詞をいい曲が生かし、さらにいい歌手がそれを歌う…………」
隅っこのほうから、そんなことを呟く声が聞こえた。
「ん…?隼人?何そんなとこで『の』の字なんか書いてるんだよ?」
オレが尋ねると、いきなり隼人が拳を突き上げて立ち上がった。
「オレだけなぁぁぁんにも活躍してないじゃねぇかぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
――――泣いちゃってるよ……
「そんなこと気にしちゃダメだって。隼人だって立派なバンドの一員だろ?」
祐司が隼人の隣で彼の肩をポンポンと叩く。
隼人の扱いは祐司が一番手馴れている。こうゆう場合は彼に任せるのが一番だ。
「祐司……」
「隼人は立派なボケ担当さっ♪」
キラーン。そんな擬態語がピッタリだ。あぁ、輝いてる。輝いてるよ祐司。その笑顔が眩しいよ。
隼人がさっきよりヘコんでいるような気がするが、あえて気にしない。
「あ、もうこんな時間」
音楽室の時計を彩音が見上げていた。時刻は六時を回ろうとしている。
この季節、日が暮れるのが早い。運動部の連中も『練習時間が短い』と嘆いている。
名目上は軽音楽部であるオレたちには、気候も空の明るさも何の関係もないが。
「今日も疲れたし、そろそろあがらない?」
彩音が皆に提案する。もちろん、オレも異論はなかった。
「そうだね……小腹も空いたし、ナックでも行こうか?」
祐司が提案した「ナック」というのはナクドマルドというハンバーガーショップの略だ。
オレたちの学校から近い駅前に位置するそれは、見事に学生たちの溜まり場になっている。
まぁそれも考慮のうえなのか、百席以上の座席数を誇っているのもすごいところだ。
オレたちも、練習後にはよくそこへ向かっている。そこのビッグヒレカツバーガーはオレの好物だ。
「よっしゃぁ!!ならオレは新商品の『メキシカンタバスコバーガー』を食う!!」
さっきまでヘコんでいた隼人が復活した。相変わらず立ち直りが早いヤツだ。
「うわっ、辛そ……」
彩音が呟く。隼人はチャレンジャーだ。いつも新商品を好んで注文している。
とにかく新商品に挑むその精神には敬服するが、好き嫌いってものもあるだろうに。
いや、そもそも『メキシカンタバスコバーガー』なんて食べようと思うこと自体ビックリだ。
「決定だな。じゃ、ちゃっちゃと片付けて行こうぜ」
「何言ってるのよ?まだ片付けてないの正輝だけじゃない」
「…………は?」
彩音に言われて周りを見渡す。すでに、楽譜やギター、その他もろもろは全て片付けられていた。
――――いつの間に……?
「さ、皆行こ行こ〜♪」
彩音の先導で三人が音楽室を出て行く。一人片付けの終わっていないオレを残して。
「オイ、コラ、待たんかい!!」
オレの叫び声は、空しく音楽室に響いただけだった……
「薄情者ぉぉぉぉ〜〜〜」






いつもと変わらない放課後。いつもと変わらない店の風景。
オレはナックでビッグヒレカツバーガーセットを注文した。
セットを食べてもちゃんと家では御飯も食べている。成長期なのだ、オレは。
相変わらず学生たちでにぎわうこの場所で、オレは窓際の席へ向かった。
彩音が手を上げている。隼人、祐司も一緒だ。
彩音の隣が空いていたからそこへ腰掛けた。
「やっぱ、練習後にはこれに限るね」
早速オレはビッグヒレカツバーガーにかぶりついた。これぞ、至福の瞬間。
「もう、正輝っては食いしん坊なんだから……そんなのばっかり食べてたら太るよ?」
ポテトを一本手に取りながら彩音が言った。彼女の前にはポテトのSサイズが置かれている。
「オレは太らない性質なの」
「それでも栄養の偏りとかはあるんだからね。ちゃんと考えて食べなきゃ」
「ほ〜い」
いつもと同じような彩音のおせっかいを軽く流しながら、オレは前でうずくまっている隼人を見た。
「オイ、隼人?どしたぁ〜?」
反応ナシ。
「お〜い?もしや……死ぬな!!死ぬな隼人ぉぉぉ!!!」
――――返事が無い。ただの屍のようだ。
などと某RPGゲームのフレーズが頭に浮かんだ。
「死んでないわい……」
息も絶え絶えに、隼人が今にも消え入りそうな声で言った。
気のせいかもしれないが、口が真っ赤だ。
「…………口紅でも塗ったのか?」
「違ぁぁぁぁぁう!!!」
隼人が最後の力を振り絞って叫んでいる。そこまで必死に否定することないだろう。
その後、彼は力尽きた。再び机にひれ伏している。
ただでさえそんなに広くない机なのに、そんなに占領しないでくれ。
「これだよ、これ」
祐司がある物体をオレに差し出す。物体……確かそれは、『メキシカンタバスコバーガー』と言われていたモノだ。
まさか………とは思うが、隼人はこれを食ったのか。
パンとパンの間から溢れ出る赤い液体は、まさに血――――ではなく、タバスコだ。
ある意味、大量殺戮兵器より強力なそれは、神々しい輝きを放っているかのように見えた。
「しかも臭い」
祐司が一言付け加える。とてもじゃないが、食える物体じゃない。
「ねぇ、なんでメキシカンなのかなぁ?」
彩音がどうでもいいことをツッコむ。そんなこと、オレが知るわけないだろ。
まず、こんなものを食わす店もどうだと思うんだけどな。
いずれ死人が出るぞ、絶対。というかもう、出た?
「それでも、注文したんだから全部食べきろうよ、隼人」
祐司が彼に向かって囁く。その言葉を聞いた途端、隼人の体がビクッと震えた。
「ならお前も食ってみろよ……」
「勘弁してくれよ。オレは普通のハンバーガーだけで十分」
右手に持ったハンバーガーを掲げる。
なんだか、隼人が無様に見えてきた………祐司、恐るべし。
「いや、遠慮…………フガムゴッ!?!?」
突如、隼人が奇声をあげた。その口には、あの大量殺戮兵器がねじ込まれている。
――――チーン。
そんな音が聞こえたような気がした。
高木隼人、ここに死す。アーメン。
「だあらあっへにおろすなぁ」
口をモガモガさせ、どんどん襲ってくる辛さに苦しんでおられるご様子。
それでも、『勝手に殺すな』と言うことが出来る気力には恐れ入った。
――――しぶとい男だ。
ただ一言、そう思った。
結局この男、マジで全部食いきったというのは三十分後の話だ。




§




帰り道。黒いアスファルトを茶色い落ち葉が彩っている。
それはどこか悲しい色だった。温かくも寒くもなく、ただ冷たい色。
でも、冬らしい色。
一歩歩くたびに『パキッ』と乾燥した葉が潰れる音がする。
吐く息が白い。時刻は、8時を回ろうとしていた。
いつもと同じように手をつなぎながら歩く。温もりを共用するかのように。
「はぁ〜〜……もうすっかり冬だね」
「昨日雪降ったじゃないか」
「そういえばそうだね」
寒さで紅く染まった顔で微笑んでいる彩音。なんだか、少し寒そうだ。
オレがそう思った矢先、彼女がくしゃみをした。
鼻をすすりながら、恥ずかしそうな顔をしている。
「風邪ひいちゃったかな?」
「ったく……夜なんだから寒いのは当たり前だろ。上着ぐらい着て来い」
オレは上着を脱いで、彼女の頭の上にパサッと乗せてやった。
「え?あ……ありがと」
彼女の顔が寒さと共に、恥ずかしさで紅潮していた。なんというか、可愛い。
それにしても――――ううっ、寒い。上着一枚脱ぐだけでこんなに変わるもんか?
「正輝のコート大きいよ……」
人よりもやや小柄の彼女の体は、オレのコートですっぽりと覆われていた。
「しゃーないだろ、お前がちっこいんだから」
「ヒッド〜イ!!そんな言い方ないじゃない!!」
少し頬を膨らまして彼女が反論する。その様子を見るとさらにイタズラしたくなる。
本気で怒ったらマズイし、あえてやらないが。
あえて、な。
「アレ……?」
丁度公園へ差し掛かったところだった。彩音がふと立ち止まっている。
急に足を止めた彼女を見ると、キョロキョロと左右を見渡している。何かを探してるようだ。
「どした?」
「なんか今……犬の鳴き声がしたような……」
「犬?」
オレも耳を澄ましてみる。風に揺れる枝の音に紛れて、クゥーンという鳴き声が聞こえた。
「あっちだ」
彩音が駆け出した。繋がれていた手から、急に温もりが消えた。
「お、おい彩音!!」
オレも慌てて後を追う。道路沿いの茂みの影に、一箱のダンボールが見えた。
鳴き声は、そこから聞こえる。
「捨てられたのか……?」
そこでは、二匹の仔犬が寒さで震えていた。二人でお互いに微かな温もりを求めるかのように、寄り添って。
箱には、『拾ってください』と無機質な白い紙にたったそれだけサインペンで書かれている。
こんな可哀相なことをする輩がいるんだな……
「可哀相に……寂しかったんだよね」
彩音が二匹を抱きかかえて呟く。それは我が子を抱きしめる母親のようだった。
「どうする?正輝……」
「どうするって言われてもな……放っとくわけにゃいかんよなぁ。彩音の家は無理か?」
「う〜ん……交渉次第、かなぁ。でも急に連れて帰っても……」
そんなオレ達の声に、クゥーンと訴えるかのような鳴き声。その目は反則だろ……
こうゆう場合ってどうすりゃいいんだろう?こんな場面に遭遇するのは初めてだから、分からない。
「あ、ちょっと……」
「ん?」
しばしオレが思案を巡らせているうちに、二匹のうちの一匹が彩音の手から抜け出した。
トコトコとおぼつかない足取りで道路へと向かっていく。
見えない暗闇の向こうから、クラクションが響き渡った。彩音が慌てて仔犬を追っていく。
危ない……とオレが声をかけようとしたその瞬間!!
かなりのスピードを出したスポーツカーが仔犬、そして彩音へと突っ込もうとしている。
「危ない!!」
すでにかわせる距離ではない。それに、あのスピード。
――――迷っている時間は………ない。
仔犬を抱えた彩音を力いっぱい突き飛ばす。キャっと小さく叫んで転ぶ彼女。
バランスを崩したオレの目には、驚愕にゆがんだ運転手の顔が見えた。
急ブレーキをかける音が夜の街に木霊する。
渾身の力を振り絞って、オレはギリギリスポーツカーに触れるか触れないかの勢いで道路から抜け出した。
勢い余って茂みへ突っ込む。急ブレーキをかけたスポーツカーはタイヤの跡を残して停止していた。
助かっ――――てはいなかった。
激痛が襲ってくる。手を見つめると、いつの間にか真紅で染まっていた。
血?
どこから痛みが湧いてくるのか分からない。ただ、息をしづらく感じる。
意識が…薄くなって……いく………
「ま、正輝!?だいじょ………」
彩音が叫んでいる。だが、その言葉は最後まで聞き取れなかった。




§




目の前には、たくさんの観客がいる。
キャーキャーと叫び声が聞こえた。耳を引き裂かんばかりのその歓声に、思わず耳を塞ぎたくなった。
だが、そんなのはいつものことだ。
オレは今、ステージに立っている。スタンドに立てられたマイクが、オレの目の前にある。
マイクを手に取った。彩音たちが伴奏を開始する。
そして、オレが歌を歌おうとした……しかし。
シーンと会場が静まり返る。先ほどまでの歓声は、ない。
どんどんオレの周りから音がなくなっていく。
オレの中から、音がなくなっていく。
「正輝……歌ってよ」
いつの間にか会場には人の姿がなくなっていた。
目の前には、今にも泣き出しそうな表情をした彩音が立っている。
「ねぇ……歌ってよ………」
その涙ながらの訴えは、何故かオレの心にズシンと響いた。
――――歌ってやるよ。だから泣くな。
「いつものように……声、聞かせてよ……」
――――だから歌ってやるって。
すっとオレは彼女の頭に手を乗せ――――ようとした。
届かない。
届かないのだ。
彼女の姿は、すでにオレの手の届かない位置にあった。
「正輝……歌えないあなたは、もう……」
――――オレが………歌えない?
いつの間にか、薄っすらと彼女の姿が遠ざかっていく。
――――彩音!?オイ、どこに行くんだよ!?
「さよう…なら……」
どうゆう意味だよ?
オレが、歌えない?
どうゆう意味だよ?
さようなら、だって?
なぁ、教えてくれよ!!
――――どうゆう意味だよ!!!






目覚めは、最悪だった。
汗がびっしょりだ。気持ち悪い……今にも吐きそうだ。
なんだか、とても悪い夢を見ていたような気がする。
オレはまだ――――生きているようだ。
ゆっくりと目を開く。真っ白な天井、真っ白な壁。
いかにもここが病院だということがうかがえた。
カーテンは閉じられていて、差し込む光もない。それに、とても静かだ。
恐らくまだ夜だろう。いや、オレが何日寝ていたのかは分からないが。
そもそも、何故寝ていたのかさえも分からない。
あまり記憶はないが、スポーツカーが突っ込んできたような……いや、それはギリギリでかわしたハズだ。
――――そうだ!!茂みに突っ込んで……そういえばさっきから、呼吸をするたびに喉が痛む。
動かせる右手をそっと喉元へと当てた。プロテクターのような硬いものが付けられている。
「スー……スー……」
静かな室内に、寝息が聞こえる。
首が動かせないので、目だけを動かしてお腹のあたりを見る。
そこには――――彩音が眠っていた。
眼の下には一条の筋が出来ている。泣いて…いたのか?
――――心配、させちまったな……
そうオレは呟いた。いや、呟いたつもりだった。
「?」
声が………出ない?
さっきから声を出そうとしているものの、口からはヒューヒューと息が漏れるだけ。
オレが言いたい言葉は、一言も口から出てくることはなかった。
どうゆうことだよ?アレ、おかしいな……?
動揺するオレに合わせてベッドが揺れる。その揺れを感じたのか、彩音が目を覚ました。
「正…輝……?」
彩音がまだうつろな目でオレを見つめる。オレも、同じようにその瞳を見返した。
眼だけで彼女に訴えた。だが、オレの訴えは彼女に届かない。
「あ、そ、そうだ!!お医者さん呼ばなきゃ……」
彼女がせわしくナースコールを手に取った。
気のせいか、彼女の表情がとても沈んでいるように見える。
オレの目覚めを、喜んでいないかのような……そんな表情。
話せないオレはただぼんやりとそんな彼女の様子を眺めていた。
首を、右手で軽く押さえながら……






少しすると、看護婦らしき女性と医者らしき初老の老人が部屋へと入ってきた。
後ろには……オレの両親や、隼人、そして祐司の姿もある。
どうしたことか、皆暗い表情をしている。オレ、そんなに悪いのか?
彩音はといえば、隼人と祐司の後ろに隠れるようにして目を伏せていた。
とにかく何があったのか、何故声が出ないのか、ということを聞きたかった。
だが、声が出ないのだからどうしようもない。オレはただ医者の目を見ていた。
「君は非常に運がよかった」
医者――にはあまり見えないが――はゆっくりと語り始めた。
「あのスピードで突っ込んできたスポーツカーをかわしたんだからね。ただ………」
そこで医者は言葉を切った。とても言いづらそうに口をつぐんでいる。
そのときから、オレには嫌な予感がしていた。
いや、実は分かっていたのかもしれない。だが、頭がそれを拒否していた。
その空白がとても、とても長く感じた。
――――あのときの夢。
――――突っ込んだ茂み。
――――そして、出ない声。
事故の風景がフラッシュバックする。スポーツカーを危なげにかわしたオレは、茂みに突っ込んだ。
そして、突っ込んだ茂みの枝がオレの――――喉に、突き刺さった。
額には脂汗が浮かんでいる。体は、その現実を拒否するかのように震えている。
嫌だ。その先は……言うな……
「君は……」

――――嫌だ!!!

「声を、失った」
オレの中で何かがガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
声を失うこと。それはすなわち、もう――――歌えないということ。
オレは、たった今、この瞬間から……とてもかけがえのないものを、失ってしまった。
もう、戻れない。どうしようもない現実。
「喉に突き刺さった枝は、君の声帯を傷つけた」
医者の老人が、何か喋っている。
だが……オレの耳には入らない。ただ、ボケーと白い天井を見上げていた。
歌えない、ということだけではない。
喋れないのだ。これまで隼人たちとやってきたバカ話も、もう出来ないのだ。
ましてや、言葉を失ったオレには、ほとんど誰ともコミュニケーションをとれないのだ。
厳しい現実。辛すぎる現実。まだ、人生の三分の一も過ぎていないというのに……
まだまだ、やりたいこともあるのに。
「傷付いてしまった声帯はそのままにしておくわけにはいかないからね……」
たった一度の事故。これならあのままスポーツカーに衝突して複雑骨折でもしたほうがまだマシだ。
やりきれない。もう医者の声も、親のすすり泣く声も、聞きたくない。
「声帯は摘出し、傷口は塞いだ。気管等は大丈夫だから、他に心配することはない」
……心配することはない、だと?ふざけるな……
オレは、もう喋れないんだろ!?
オレは、もう歌えないんだろ!?
オレは、オレは――――――………
「……吉原君?」
医者がオレの肩に触れようとする。だが、オレはそれを払いのけた。
バチン!!という乾いた音が静かな病室に響き渡る。
「なっ……」
触るんじゃねぇよ!!
お前に何が分かる?話せるお前に何が分かるんだ!?
医者の顔に驚愕が走った。オレを見つめる顔に汗が一筋流れている。
病室に沈黙が訪れた。願ってもない……誰も喋るな。誰もオレを見るな。
何も聞きたくない、見たくない。
そんな一心でオレはベッドに潜り込んだ。
少ししてから、ドアが開くキーという音がした。続いて何人かの足音。恐らく病室を出て行ったのだろう。
ガチャン。扉が閉じられる。
――――やっと出て行ったか……
ちょっとした安堵からため息をつく。
人の気配はしない。布団から顔を出し、部屋の中を見渡してみる。
部屋には誰も――――いないわけじゃなかった。
「正輝……」
オレの正面に、今にも泣きそうな顔があった。
彩音が、真っ赤な目でオレを見ていた。






なんとも形容しがたい空気が病室に流れる。
「なんで……なんで、こんなことになっちゃったんだろうね?」
一言一言、言葉を搾り出すように彼女はオレに話し掛けてくる。
オレは、彼女の顔を見れないでいた。ただ、窓を見つめていた。
彼女は今、どんな表情をしているのだろう?
――――怖かった。見たくなかった。
悲しそうな表情?何かを恐れているかのような表情?
それとも……オレを励ますためにも、もしかしたら笑っているのかもしれない。
彼女の性格なら。……ありえない話じゃない。
「私のせい、なの?」
ふと、彩音の口からそんな言葉が飛び出した。
彩音のせいなんかじゃない。ましてや、あの運転手が悪いわけでもない。
ただ――――運が悪かったんだ。
あそこで仔犬を見つけて、一匹が駆け出して、スポーツカーがやってきて……
ただ、決められた宿命を辿っただけなんだ。誰も悪くはない。
それでも……残酷すぎやしないか………?
泣きたくなった。さっきから怒りの感情ばかりで、悲哀の感情は感じなかった。
悲しみ……二度と話せない、悲しみ。
彼女に二度と声を聞かせてあげることができない、悲しみ。
そして、二度と歌うことが出来ない、悲しみ。
「もう…もう……正輝の声……聞けないんだね……」
涙が一筋オレの頬を伝った。怒りや哀しみ、あらゆる感情が込められた、涙。
彩音のすすり泣く声が聞こえた。
何度も、何度も……
「ゴメンね……」
という声が、彼女の口から聞こえてきた。
このとき、オレは上体だけ起こして初めて彼女の顔を見た。
真っ赤になった瞳。そこから溢れ出る大粒の涙。
「ゴメン……ゴメンね……」
そんな悲しい表情をしないでくれよ……辛いのは、オレだけのハズだろ?
彼女に言葉をかけたい。『お前のせいじゃないよ』って言ってやりたい。
話したい。伝えたい。

――――伝えられない。

何で…どうして……?
こんなとき、どうすればいいんだよ?
言葉がないということ。すなわち、気持ちを伝える手段が……ないということ。
「神様の…バカ……」
ふと、彼女がボソっと呟いた。
神様……か。
「なんでだよぉ……なんで、正輝が……」
それは――――なんて惨いモノなんだろう。
彼女は震えていた。俯いて。――――涙を流して。
「正輝……声、聞かせてよ。話してよぉ!!歌ってよぉぉぉぉ!!!!」
彼女の悲痛な叫びが病室に木霊している。
彼女がオレの胸を叩く。その痛みよりも、心の痛みのほうがよりひどいように感じられた。
悲しいのはオレのハズなのに。
どうして彩音はここまで悲しんでくれるのだろう?
自分のせいだと思っているから?
「私……決めたよ……」
――――それは違う。
「私が、あなたの声になるから……声なんかなくたって、あなたの声を聞いてあげるから……」
ただ――――この少女は、オレを愛してくれてるんだ。
間違いでもいい。そう思いたい。
だから、ここまで悲しんでくれるんだ。
その想いが、そっとオレのことを包み込んでくれている。
「だから……一緒にいてあげるから……一緒にいて……一緒に……」
彼女はオレの胸に頭をうずめている。オレは、そっと彼女を抱きしめた。
声なんかなくたって、伝えられる。歌えなくても、彼女はそこにいてくれる。
かけがえのないものを失った悲しみは癒えることはない。でも……

――――彩音が、いてくれるから。

彼女を抱きしめる腕に力を込める。それは、ある決意の表れ。
声が無くても……彩音のために、そして彩音と共に生きていこうと。

ありがとう――――

再び、涙が一筋頬を濡らした。




§




あれから一週間の時が流れた。
彩音と隼人、そして祐司。三人は毎日学校が終わるとオレの見舞いに訪れていた。
息をするたびに少し痛んでいた喉もだいぶマシになっている。
それでも、あと一週間ほどは入院しなければならないらしい。
ある程度だけど、この状況を少しだけ受け入れていた。
三人との会話は筆談でまかなっていた。それもそれでさすがに不便なのだが……
なので、どこに行くにもメモ帳とペンは必須だった。
それと同時に、手話の学習も始めることにした。
やはり筆談だけでこれから生きていくのは難しい、という医者の助言からだ。
オレだけでなく、彩音や隼人や祐司も共に勉強してくれることになった。
う〜む、しかしこれがなかなか難しい。
できる限り筆談の回数は減らすことにした。ある程度覚えた手話で話す。
手話で伝えるのはオレだけ。耳は聞こえるから、他の人の言葉は手話でなくてもよい。
だから、彩音たち三人は手話を「聞き取る」ことを学ばなければならないのだ。
それでも三人が首をかしげた時はペンをとらなければならないのだが……
『今日は学校どうだった?』
「ほえ?」と彩音。
『今日は学校どうだった?』
「はひ?」と隼人。
『今日は学校どうだった?』
「「えぇっ!?」」と二人。
『今日は学校どうだった?』
「あっ、そういえば今日の夜にサッカーがあるねぇ……」
――――泣きたくなった。
「違うでしょ彩音ちゃん。クリスマスはどこに行きたい?じゃないのか?」
――――あぁ、目頭が熱いぜ……
「二人とも真面目にやりなよ……『今日は学校どうだった?』だろ?いつもどおりだよ。変わったことなんて何もなし。そういえば珍しく渡辺のヤツが休んでたなぁ……ま、サボりだろうけどさ」
そう言って微笑む祐司が神様に見えた。
それにしても……そういえばもうすぐクリスマスか……
一週間前、教室でクリスマスのことを話していたことが遠い過去に思えた。
世はクリスマス一色で染まっていた。丁度オレの退院予定日の翌日がクリスマスイヴだ。
だがクリスマスへ一日近づく度に、オレは少し申し訳なさに苛まれる。
イヴの日に予定してあったクリスマスライヴ。まだ、どうするのか決めていない。
いや、決められない、の間違いだろうか。誰もその話題を口に出そうとはしなかった。
彩音も、隼人も。そしてあの堅実な祐司でさえも。
「そうだ正輝。病人食って美味いのか?」
隼人がふと尋ねた。美味いのかどうか聞かれると微妙だが……正直言うと不味い。
さっきのこともあったし、オレもその単語は知らないのでメモ帳を手に取ると、ペンを走らせる。そこには一言『不味い』とだけ。
――――というか何故そんなことが気になる?
「でも仕方ないじゃない。栄養を考えて作ってるんだからね、ちゃんと食べなきゃダメだよ?」
隣から彩音がダメ出しする。そう言われても不味いもんは不味いんだが……
そう思ったオレは、なんとなしに再びペンを走らせた。
「えぇっ!?無理無理、絶対無理!!」
頑なに拒否する彼女。隼人と祐司はその様子を見て苦笑いを浮かべた。
『じゃぁ彩音が作ってくれよ』
そう書いただけなんだが。
あれだけ拒否するのだから、彼女は料理が出来ないのだろう。いや、出来ないのレベルで済めばいいが……
「オレが作ろうか?」
隣で祐司がほのめかす。さすがに……それは勘弁願いたい。親衛隊がなぁ……
まぁ、祐司は――見た目で判断するのはよくないと思うが――料理も上手そうだ。
「むぅ、祐ちゃんに作らせるなら私が作るもんっ」
頬を膨らませて彩音が反論する。その様子は少し可笑しかった。
『なら作ってみろよ』
「もういいもんっ!!」






クリスマスイヴも二日後に迫ったある日。手話の本を読んでいたオレの元に彩音がやってきた。
「やっほ〜、正輝♪」
『アレ……あとの二人は?』
まだぎこちない手話で彼女に伝えたいことを話す。だがそれを見なくても彼女は何が聞きたいか分かったようだ。
「あ、隼人クンは授業中寝すぎで補習。祐ちゃんは家の用事だって」
寝すぎで補習か……なかなかアイツらしいな。祐司は真面目だしなぁ。
「そうそう。今日は結構暖かいんだよ?外、出てみない?」
外……か。そういえば最近出てないな。久々に体も動かしてみたい。
『OK』
これぐらいのサインは彼女にも理解できたらしい。彼女の表情が急に晴れやかになった。
「決まりっ♪それじゃこのカーディガン羽織って……車椅子、のほうがいいのかなぁ?」
彼女が疑問の表情を浮かべている。
まぁ大丈夫だろう。怪我してるのは首だけなんだし……と言いたかったが、そんな複雑なの言えるわけがない。
「まぁいっか。行こっ、正輝♪」
そう言って彼女が腕を絡ませてくる。そういえば、こうやって二人で歩くのも久しぶりだな。
最後に歩いたのは……そう、事故の夜。そういえばあの仔犬たちはどうしているのだろう?
――――聞きたくても聞けない……こうゆうときやはり『声』が恋しくなる。
そういえば最近「fours」の活動はどうなってるんだろう?三人とも口に出さないからな……
もう少しでクリスマスイヴだ。ライブの話はどうなったのだろう?予約もキャンセルしたのだろうか?
――――歌……か。
もう、過去に捨ててきたハズのモノ。でも、まだ捨てられないモノ。
心の奥深くにある箱に詰め込んで、置いてきたモノ。
でもその箱の蓋は開けてある。また、いつでも取り出せるように……と。
しかし、取り出しても二度と使えない。それは壊れてしまったオモチャのように。
「どしたの?」
彩音がオレの顔を覗き込む。かなりの至近距離で目が合った。
――――突然だったから、焦った。
顔がカーッと熱くなるのを感じる。ハハッ、と彩音が短く笑い声を漏らした。
「正輝、赤くなってるよ♪」
ゴツン。彼女の頭を小突いた。
「痛ぁ〜……照れてる照れてる♪アハハハ」
ぐぅ……自分が情けない。赤くなってしまったのは事実だしな……
『バカ』
ただ一言だけ、手話で言った。そこからプイと顔を背ける。
「ゴメ〜ン、まさかそこまで……あ……」

――――ふわっ。

久々にドアップで見た彼女の顔に、少しだけ心臓が早鐘を打っているのを感じる。
だが、いつも見ていたそれとは少し違うような気がした。なんでだろうか。
少し陰りのあるような顔。そういえば、いつの間にか少し彼女の顔がやせ細っていたような気がする。

――――ドサッ。

……え?
さっきまで右腕に絡んでいた彼女の左腕がスルリとほどけている。
さっきまでオレの右隣にあった、あの笑顔が消えている。
さっきまで、彼女が立っていた場所には何も無い。そう――――オレの目線の高さには。
視線を下に向ける。そこには――――
――――そこには、力尽きたかのように彩音が倒れていた。
声にならない声でオレは彼女の名前を叫ぶ。
――――彩音!!!!
いくら叫んでも彼女の耳には届かない。彼女の体を揺すっても、目覚める気配は無い。
怖かった。
もしかしたら、声の次に彩音までも失ってしまうのではないか。
あのときのように、声を失った時のように、オレはまた全てを失ってしまうんじゃないか。
彩音の体を抱える。心臓は動いている。呼吸もしている。
それでも、オレの中から恐怖感が消えることはなかった。
もう、あんな喪失感は味わいたくないんだ!!
だから――――
起きてくれよ、彩音!!




§




「過労……」
病院内の一室。オレ、そして彩音の母親が一人の医師と向かい合うようにして座っていた。
おばさんがボソリと呟く。娘が倒れた、と聞いて急いで駆けつけてきたのだ。
正直、ショックを隠し切れないようだ。それでも、「なぜ?どうして?」という顔ではない。
おそらくある程度理由は知っていたのか。そしてこうした形でその不安が的中したことを驚いているのだろう。
「彩音さんは学生ですよね?どうして過労なんか……テスト前か何かで?」
「………」
無言を貫くおばさん。間違いない、きっと理由を知っている。
そして――――それが、この場で言うべきことではないということを。
「ふぅ……まぁ、今日一日眠れば大丈夫でしょう。特に異常もありませんでしたしね」
医師がため息をつく。恐らく、少しは空気が読めているらしい。
「ありがとうございます」
おばさんが立ち上がって礼をした。踵を返し、部屋から出ようとする。
しかし、その後姿に医師が声をかけた。
「どういった理由かは分かりませんが、無茶はいけないよとお伝え下さい」
おばさんが医師のほうを振り返る。そこには、笑顔の医師がいた。
――――彩音が倒れた後、近くで老人と散歩していた看護婦がオレ達の元へと駆けつけてきた。
オレの腕の中で倒れていた彩音が、看護婦の手へと渡る。
てきぱきという表現が似合うほど、看護婦は彩音の呼吸を調べたり脈を調べたりしていた。
その様子をオレはただ眺めていた。ただ、眺めているだけだった。

そうだよ。

オレは――――

オレは、何も出来なかったんだ。

医者を呼ぶことも、担いで病院まで連れて行くことも。
ただ、倒れている彩音をずっと抱えてるだけだったんだ。
おばさんが再び部屋の外へ出ようとする。だが、扉を開く直前になって再び振り返った。
今度は医師の顔を見ていない。オレと目が合った。
「正輝君……ちょっと話があるんだけど、いいかしら?」
どうやら、NOとは言えない雰囲気。
その言葉に頷く。何を言われるのかはまったく想像もつかなかったが、よくない話であることはある程度予測できた。
立ち上がっておばさんの後に続く。部屋を出ると、そこは長い廊下になっていた。
白い壁、白い天井。窓からは夕焼けの光が差し込んでいる。
白い服に身を包んだ看護婦がオレとおばさんの横を忙しく走り去っていく。
トンとオレの肩とその看護婦の肩がぶつかった。
「すみません!!」
走りながら頭を下げる彼女。オレは笑顔だけでそれに応えた。
オレたちはどこに行くんだろう?恐らく、コースからしてロビーだろうか。
おばさんは無言だ。ただ淡々とした足取りで、それでも少し陰のある後姿。
「突然で悪いんだけど……」
不意におばさんが立ち止まり、その重い口を開いた。丁度、ロビーに着いたところだ。
適当にそこにあったイスに座る。それに合わせておばさんもオレの隣に座った。
重々しい空気が流れる。どうやら言い渋っているようだ。
よっぽど、言いにくいことなのか。
そんなオレの表情を見て、意を決したようにおばさんは淡々とした口調で口を開いた。
「あの娘と、別れてほしいの」






「あの娘と、別れてほしいの」
その言葉がオレの中で反芻する。
別れて、ほしい?
「あの娘……最近ほとんど寝てないのよ」
その言葉が、オレの中に深く突き刺さった。
オレが負担をかけていた?
オレが、アイツのお荷物だった?
「夜遅くまであなたのために手話の勉強してね……学校の勉強はほとんどしないのに」
アイツは、オレを支えてくれると言った。
『声』になってあげる、と言った。
「学校終わってからは病院……面会終了までずっとここにいてね、休む暇はほとんどなかったはずよ」
それは、きっと本音だったはずだ。
現におばさんが言うとおり夜遅くまで手話を勉強したり、毎日オレの見舞いに来たり。
でも……一つ……たった一つだけ、見逃していることがないだろうか?
「それが、今日みたいな結果になって表れたのよ」
彼女はオレに荷担しすぎるあまり、『自分』というものを捨ててしまっていないだろうか?
オレのために……オレの、せいで。
「でも、あの娘があなたのことを本当に好きだってことは分かってる」
結局、声のないオレはお荷物に過ぎないんだろうか……?
他人とコミュニケーションもとれない、ただの動く人形と化してしまったオレはどうすればいい?
ただ、これ以上大切なものを失いたくは無いという想いがある。
それだけを、大切にしてきた。
「だからこそ、別れて欲しいのよ……あの娘があなたのことで苦しむ姿なんて、見たくないから……」

彩音を失いたくない。

失いたくない。失いたくないからこそ……

彼女が、オレだけを背負って生きていくなんてことにならないために……
「別れて、あげて」


彩音と――――別れる。


おばさんの涙声が、ロビーの雑踏に掻き消えた。
オレの心の呟きは、誰にも聞かれることなく、それでもオレの中に微かな余韻を残しつつ消えていった。












後編



§





――――ある日の放課後。
長い長い六時間の悪夢を乗り越え、ようやく家に帰れるという具合で足早に昇降口へと向かった。
いつもどおり教室を出ると、すぐそこに校舎の中央に位置する階段がある。
昇降口へ行くためには、そこが一番の近道だ。
口笛を吹きながら階段を一番飛ばしで下っていく。オレの一歩が階段の踊り場へ辿りついた……そのとき。
「危ねっ!!」
オレが一歩踏み入れた、とまったく同じタイミングで、目の前に少女が現れる。
危うく正面から激突するところだった。いきなり正面からコンニチワ、というよくありそうでないパターンだ。
「ス、スミマセン!!」
衝突しかけた少女が慌てて頭を下げる。しかしこの顔……どこかで見覚えがあるな。
「もしや……木之本さん?」
「え?あ……吉原クン」
誰かと思えば木之本さんか。まさか同じクラスの人だとはな。
ってちょっと待った。オレはクラスの中で一番か二番くらいのスピードで教室を出たんだぞ?
――――なぜここに彼女がいる?
「ね、ねぇ、吉原クン」
「ん……何?」
後ろからやって来た他のクラスの連中や、ときどき先生がオレ達の脇を通り抜ける。
こんなところで二人向かい合って黙っている時点で変に映っているだろう。
妙な沈黙。彼女は俯いたまま話そうとしない。うぅ、周りからの視線が痛い。
「え〜っと……何もないなら、オレもう行くよ?」
やや遠慮がちに聞いてみる。すると、彼女は急に慌てだし
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って!!」
と言いながら、オレがどこも行かないように行く手を塞いでいる。前に出れん……。
再び訪れる沈黙。慌ててオレのことを止めた割に、まだ何も言い出そうとしなかった。
まぁ、特にこの後用事があるわけでもないから別にいいんだけど……
視線が痛いんだよな。
「ここじゃなんだし、場所変えようか?」
「え?」
「だから、場所変えようって言ってるの。なんか話があるんじゃないの?」
話があるなんて彼女は言っていない。ただ、場の流れからそうじゃないかって思った。
あるいは、それは予感だった。
「う、うん……じゃ、じゃぁ屋上に……」
「了解」
この中央階段の一番上まで昇ると、屋上がある。生徒にも開放していて、出入りは自由だ。
何分くらいこうして止まってたんだろうか?どうでもいいけど。
オレ達の教室がある階は三階。屋上はその上にある。お互いに無言のまま階段を昇っていく。
屋上への扉を開くと、少しサビついた蝶番が音を立てた。
そこは、まだ日の高い夏の屋上。急に襲ってきた熱気に、汗が噴出すのを感じる。
「暑ぃぃぃ……」
「もう夏ですねぇ〜……」
さっきまで静かだった木之本さんが、急に口を開いた。
「で、話って何?」
自分で屋上に誘っておいてなんだが、暑い。早くこの空間から抜け出したいがために、早速話を切り出した。
「え、え、え〜〜〜っと……え〜っとですねぇ」
……さっきまでの彼女の様子と違うな。これが素か?
「え〜っと、何?」
「た、単刀直入に言わせていただきますっ」
ズイッとこっちに身を乗り出す彼女。――――顔がドアップだ。近づきすぎだろ。
思わず後ろに一歩後ずさる。そんなふうに見つめないでくれ、恥ずかしいっつ〜の……
「私ね……」

――――鳥が鳴いた。翼を広げ、空高く羽ばたいていく。

その羽音とともに、彼女が口を開いた。

頬を、赤らめたままで。

「吉原クンが、好きです……」


――――風が吹いた。




§




……どうして今、あの日のことを思い出すんだろう?
彩音から告白を受けた、あの夏の日。
あのときから、オレ達の関係は始まったんだ。

――――あの日見た夢は、現実だった。

遠ざかっていく足音。
どれだけ手を伸ばしても、届かない位置にいる彼女。
そこには、二つの音があった。
でも……
一つが、今オレの中から、そして彼女の中から失われようとしていた。




おばさんと別れた後、オレはそのまま彩音の病室へと向かった。
今の気持ちを伝えるために。
彩音を失いたくは無い。だが、このままでいればオレは彼女の荷物にしかならない。
だからこそ、彼女には自由になってほしい。
扉のノブに手をかける。その手は、自分でも分かるほど震えていた。
そんな震えを払いのけるかのように一気に扉を開く。
扉の向こうには、彩音がいた。




§




「アレ、正輝?」
彩音は、すでに目を覚ましていたようだ。しかし、あのときと同じイメージは拭えない。
少しやせ細ってしまった顔。そして、眼の下に出来たクマ。どうして今まで気付かなかったのだろう?
彼女がここまで衰弱しきっていたことに。
「ゴメンね、いきなり倒れちゃって……ちょっと貧血気味でね〜」
オレが心配していることに気付いて、サラリと平気にウソをついてしまう彼女。
その様子が、とても痛々しかった。
だからこそ、言わなければならないんだ。
「……どしたの、正輝?なんか暗いよ?」
首をかしげたままで尋ねる彼女。オレの手は、宙を漂っていた。

言わなきゃ。

言わなきゃいけない。

言いたくない。

言わなきゃいけないんだ。

言うんだ。

言いたくない。

たくさんの感情がオレの中で渦巻く。決めたはずだろ?別れるって……決めたはずだろ!?
思うどおりに動けない。頭では分かっていても、体がそれを拒否している。
そうだよ。オレは彼女のお荷物なんだ。それ以外の何者でもないんだ。
オレの手が宙に文字を描く。手話と呼ばれる、声無き者が言葉を伝える手段。
声がある者にはふさわしくない言葉なんだ。彩音には、声があるだろ……?
そのせいで彼女が苦しむなんて、思いたくない。思いたくないけど、事実なんだ。
だから、オレは一言だけ、文字を刻んだ。
オレがゆっくりとその文字を刻むと、彼女の表情がみるみる変わっていく。
「どうして……?」
オレは今、どんな表情をしているのだろう?
泣いている?
笑っている?
怒っている?
いや、そうじゃない。
ただ、ひどく無表情なんだろう。涙も、喜びも、怒りも感じない、ただの人形のように。
「どうしてよ……?」
そんなオレにも、分かることが一つだけあった。

――――彩音の頬に、伝う涙。

「ねぇ、どうしてよぉ!?応えてよ正輝!!」
オレは歯を食いしばった。彼女の目は見たくない。握る拳に力が入る。
ゆっくりと扉のほうへ向きを変えた。彩音に背を向け、ゆっくりと一歩を踏み出す。

――――ゴメンな、彩音。

――――ありがとう。

あのときと同じ言葉を胸で呟きながら、オレは部屋を出た。
あのときとは、似ても似つかない気持ちの言葉だけど。
後ろには、泣き崩れる彩音がいた。
でも、どうしてだろう……?
どうして、こんなに心が寂しく感じるんだろう?


『別れよう』


ただ一言。それだけのことなのに。


これで、よかったんだ。

これで、よかったんだよ……




§




ガチャン。
部屋の扉を閉めてから、ふぅっと一息つく。
オレが自分の病室に帰ろうとしたとき、不意に声をかけられた。
「正輝……?」
――――隼人だ。
おそらく、補習とやらが終わったのだろう。
「やっちまったよ、まさか補習なんかやらされるとは思わなかったぜ」
それは、隼人だからしょうがないだろう。うん、きっとそうだ。
勝手にうなずくオレを見て、隼人は肩をすくめた。
「で、なんでそんな部屋から出てきたんだよ?知り合いでもいたのか?」
ぶっきらぼうな口調で尋ねる隼人。そんないつもどおりの口調が、なんだかとても心にズシンとくる。
そうか、まだ隼人は彩音が倒れたことを知らないのか……
この部屋に誰がいるのか。それは愚問だ。そう、ただオレとは無関係な人物がいるだけ。
「まさか女じゃねぇだろうな?ちょっと覗いてやろっと……」
そのセリフには少し焦った。急いで部屋と隼人のあいだに割って入る。
珍しく、隼人がすぐに動きを止めた。
隼人にしては珍しいことだった。いつもならば無理矢理にでも入ろうとするのに。
「悪いな、正輝……」
ポツリと、隼人が呟く。それはあまりにも聞き取りにくい、小さな小さな声だった。
一瞬、病院内の喧騒が消える。そうじゃなければ聞き取れないような、本当に小さな声だった。
「全部、聞いちまったよ」
病院内の喧騒が、再び耳に入る。
それでも、その声ははっきりと聞き取れた。




「お前が何を言ったかは知らない。でも、彩音ちゃんのあんな声が聞こえたら誰だって分かるさ」
オレ達はあの場所を離れて、屋上に上がっていた。
そこには、オレ達以外誰もいなかった。
もうすぐ、日が暮れる。
割れた雲の隙間から、一番星が覗いていた。
オレ達は向かい合っていた。ただ、お互いに目だけを見つめて。
「彩音ちゃん、倒れたんだってな。医者から聞いたよ」
知ってたのか……
これぐらいの短い単語なら、彼でも分かるだろう。
オレのその簡単な手話に、隼人が短く頷く。
「あぁ、そんなに気を配らなくてもいいぞ。オレだってそれなりに勉強してたからな」
その言葉に少し吹き出してしまう。
あの勉強嫌いの隼人が……だ。失礼だとは分かっていても、思わず笑ってしまう。
なんなら難しい手話ばかりやってやろうか。さすがにそれはやめておく。
一瞬の沈黙。オレが笑っていても隼人は眉一つ動かそうとしない。
本当に――――コイツは、あの隼人なのか?
いつもの彼の姿は微塵にも感じられない。まるで、別人のようだ。
「で、それで責任感じたお前は別れようなんてバカなこと思ったのか」
不意に、隼人が口を開いた。
あえて『バカ』というところに力を込めている。
なんだか、それに少し腹が立った。
――――お前に何が分かるって言うんだよ?
隼人を睨みつける。そんなオレの行動に、隼人は肩をすくめた。
「手話はいい。お前の言いたいことは分かるから」
もう、太陽の光はなんの役割も果たしていなかった。
フェンスの向こうに見える風景。少しずつ、人工的な明かりが灯り始めていた。
空が――――黒い。
「お前に何が分かるんだ……だろ?長い付き合いだし、それぐらい分かるさ。でも、あえて言わせてもらう」
いつも『お調子者』のフレーズがお似合いな彼の目に、光る何かが見えた気がした。
そんな隼人の目に思わず引き込まれる。コイツのこんな目は初めて見た。

「………馬鹿野郎」

それと同時に、左頬に激しい痛みを感じた。
頬を打つ拳の音が、静かな屋上に響き渡る。その勢いで後ろに倒れそうになった。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
それが殴られたのだと理解する。
――――何すんだよっ!?!?
声が出ないことも忘れて、思い切り叫んだ。
口パクだけで叫んだオレのその『声』を、彼はどうやら聞き取れたらしい。
「お前こそ何やってんだよ!?所詮、お前ってヤツはその程度だったのか!?その程度の男だったのか!?」
打たれた頬を押さえながら、再び隼人を睨みつける。
だからお前に何が分かるんだって言ってるんだよ!!!
手話をすることさえもどかしい。どうせ、彼にはオレが何を言いたいのか分かっているんだ。
「なんにも分かんねぇよ!!オレはお前じゃないし、声だってある。でもな……彩音ちゃんがどれだけお前のために尽くしてきたかは知ってるさ。最近、彼女授業中よく寝てるんだよ。起きていても上の空なことが多くてな……手はいつも動いてる。よっぽどお前のことが好きなんだな、って思ったよ。だからこそ……」
そこでいったん言葉を切る。すでに彼の瞳はオレを見ていない。無機質な白い地面をずっと見つめている。
その肩は、小刻みに震えていた。
「オレは、お前が許せねぇんだよっ!!何を勘違いしてるんだ?正輝!!お前は自分が彼女のお荷物だとか思ってるんじゃねぇのか?ならそれは大きな間違いだ。泣いている彼女を見てお前は何も思わなかったのか!?」
隼人の訴えは続く。ただ、その様子を黙って見つめているだけのオレに向かって。
「何も思わなかった、って言うならそれまでだよ。けど……オレは違うと思ってる。告白してきたのは彼女のほうだけど、オレは知ってるからな。お前が……本当に彼女を好きだったこと」
あのとき彩音は――――泣いていた。
あの涙も。あの悲哀に満ちた泣き声も。全て、この目に焼き付いている。
そのとき、オレはどう思っただろう?

『――――どうして、こんなに心が寂しく感じるんだろう?』

それが、真実だったのかもしれない。
オレは彼女を愛していた。
いや――――今も、愛している。
しかし……その想いが、その気持ちが、オレのことを縛り付けている。
「……悪かったな、殴ったりして。今日は軽く彩音ちゃんのとこに寄って帰るよ」
ふうっ、と軽く息を吐き出すと、彼は背を向けて屋上を出て行った。
ヒラヒラと、軽く右手を振りながら。
爽やかな夜の風が吹く屋上に、オレはただ一人で立ち尽くしていた。
もう、完全に日は暮れている。夜空にはオリオン座が輝いていた。
オレは、本当にこれでよかったんだろうか?
やりきれない想い。どうしても胸に残る微かなしこり。
洗っても洗っても落ちない染みのように、この想いはオレの中にはっきりと根付いていた。
ふと、冬の夜空を見上げながら、もう一度過去の世界を逡巡してみる。
正直、告白された当時はあまり彩音と付き合う気なんてなかった。
彼女のことなんてよく知らなかったし、あまり実感が湧かなかったからだ。
でも、あのときの彼女の紅く染まった顔は今でもしっかりと覚えている。
そして……その表情に、少しドキッとしてしまったことも。
だから「OK」してしまったんだろう。その結果、今みたいな状況になっている。
付き合ってもう四ヶ月……あるいは五ヶ月だろうか。
何度もデートをした。
何度も手を繋いだ。
何度も――――二人して、笑った。
あのときのままの感情なら、とっくに別れを告げていただろう。
やはり、オレは――――

いつの間にか、彼女に恋してしまったんだ。

だからこそ、これでよかったんだと思う。
彼女が好きだからこそ、彼女に笑っていて欲しいと思ったからこそ、オレと一緒にいちゃいけないと思ったんだ。
しかし――――オレは彼女をまだ愛している。それは紛れも無い事実だ。
なら、オレはどうすればいいんだよ?


オレは――――どうしたらいい?




ただ、流されるようにオレは歩いていた。自分の病室まで辿りつくと、倒れこむようにベッドに潜り込む。
もうそのまま寝てしまおうかと言う衝動に駆られたが、思わぬところからそれは阻止された。
――――携帯電話。メール着信を告げる着信音が部屋内に鳴り響いている。
入院した最初の頃なんかはクラスメイトから励ましのメールなんかが何通か届いたが、最近はめっきり鳴らなくなっていた。久々に鳴ったそれを凝視する。
起き上がって携帯電話を手にとると、サブディスプレイに表示された名前を見た。

――――ドクン。

心臓が高鳴るのを感じる。


木之本 彩音。


メールは、彼女からだった。
震える指で携帯を開く。着信音が鳴り止むと、そこにはメールボックスが表示されていた。

『明日、四時に学校の屋上で待ってます』

ただ、無機質な文章でそれだけ表示されていた。
胸は依然高鳴ったままだ。別れを告げたはずなのに、なんなのだろう?この感情は。
まだはっきりしない胸の中。問い掛けても出てこない答え。
ただ、全ては明日分かる。それだけは、はっきりと分かっていた。
明日になれば、きっと答えは出る。
この想いも、この気持ちも。明日になれば……全てに、終わりが来る。
それが今までの『日常』を失うことになっても。
あるいは、それが今までの『日常』を取り戻すことになっても。
全ては、明日になれば分かるのだ。
――――返事は、あえて送らない。
それが、オレなりの肯定……答えだった。




§




「へ?」
「だから、好きだって言ってるのっ!!」
「……マジっすか?」
「マジもマジ、大マジだよぉ……私は、ずっと前から吉原クンが好きでした」
「………」
「だから、私と付き合ってください!!」
「…………まだ、木之本さんのこととかよく知らないけど……オレなんかでよかったら……」
「え、い、いいの!?」
「……うん」
「や、やったぁ!!!……あ、ありがとう……」




目覚めは、いつもどおりだった。
ただ、ひどく懐かしい気持ちになる。
十二月……二十三日。ようやくオレは長かった入院生活を終える。
荷物は、すでにまとめ終えていた。もう少しすれば親が迎えに来るだろう。
そして、今日は彩音との約束の日だ。
――――何故か、一番最初に気になったのは服装だった。
どんな格好をしていこうか?なんてことを考えてみる。
だが、よくよく考えてみれば学校の屋上なんだから制服じゃないと行けないじゃないか。
そんなどうでもいいことに気付いてため息をついた。
どうやら、柄にもなく緊張しているみたいだ。
いつもステージに登る前の心地よい緊張ではない。
これから何が起こるのか分からない……言いようのない不安。
そろそろ迎えが来る頃なので、着替えるために立ち上がる。
カバンから服を取り出そうとしたそのとき、コンコンとドアがノックされる音がした。迎えが来たのだろうか。
「お〜い、正輝〜♪退院おめでとう!!」
オレの返事を待たず扉が開かれる。その扉の向こうには、笑顔の祐司がいた。
――――自分でも無意識のうちに、焦った。
彼も、彩音とオレのあいだに何があったのか知っていそうな気がして。
でも、彼の表情からはそんなのは微塵にも読み取ることは出来ない。
……それは、祐司だからなんだろうか?
「どした?なんか暗いぞ」
訝しげな表情でオレのことを覗き込む祐司。何故だか分からないが、彼が妙に明るいような気がする。
「せっかくいいニュースを持ってきたのにな」
どうせ目の前に立っているのは男なんだし、そんなこと気にせずに着替えを進める。
視線だけで彼に『なんだよ?』と問いかけた。
「明日、ライブハウス予約してたじゃない?」
その言葉に、体が微かに反応するのを感じる。まだ、完全に忘れたわけじゃないから。
開けておいた宝の箱から、何かが溢れ出すのを感じる。
「正輝は中止だろうなって思ってただろうけど、やるよ」
……はい?
ちょ、ちょっと待った。ボーカルが歌えないのにどうやってやるんだよ?
手話で『どうやって?』とだけ伝える。三人のなかで一番勤勉だった祐司のことだ、これぐらい容易に理解できるだろう。
その手話を見て、祐司がニッコリと微笑む。
「誰にだって、伝えたい想いがある。誰にだって、胸に秘めた気持ちがある」
祐司が呟く。だが、オレには彼が何を言っているのか理解できなかった。
「これが今回のライブのテーマ。何も……お前だけが、オレたちの『声』じゃないだろ?」
微笑み絶やさず、祐司がゆっくりと諭すように言う。

『私が、あなたの声になるから……声なんかなくたって、あなたの声を聞いてあげるから……』

不意に、あのときの彼女の言葉が蘇る。
まさか……
「お?その表情は分かったって顔だな?そのとおり、明日は彩音ちゃんが歌うから」
その言葉は、オレが想像していたこととまったく同じだった。
自分でも少し焦りの感情が浮かんでくるのを感じる。
――――どうして?
「彩音ちゃんが、自分から希望したんだよ」
どうして彼女は……ここまでオレのために……
どうして彼女は、ここまでオレを迷わせるのだろう?
波のように揺れる恋心。諦めきれない想い、早く諦めてしまいたい想い。
この二つが、幾度となくオレの中で交差している。
「どした?正輝……」
祐司が訝しげにオレの顔を見つめる。
彩音は、オレのことを思ってそんなことを言い出してくれたんだろう。
そんな彼女の想いに、少し心が痛んだ。
「後悔はしたくないからね……ボーカルの声がなくなったからって、『音楽』を諦めたくはないから」
そんなオレの様子を見て、ゆっくりと言葉を紡ぐ祐司。
「オレたちは自分の後悔しないほうを選んだんだ。別に中止にしてもいいけど、それじゃ一生後悔してしまう」
きっとそうだろう。オレはとにかく、隼人なんかはまだ不完全燃焼だっただろう。
オレは今……どうなんだ?
「正輝もそう思わない?一度の決断で過ちを起こしてしまったら、もうそれは取り返しのつかないこと」
音楽はとにかく、彩音のことに関してもそうだ。
オレはまだ彼女が好きだ。その気持ちには、自分でも気付いている。
だからこそ、これでよかったんだろうか?と思ってしまう。
「だけど……まだ、自分の中にその『気持ち』があれば、それだけでいつかチャンスはやってくる」
まだ、オレは彩音が好きなんだ。
この気持ちがあれば……彼の言う通り、やり直しがきくんだろうか?
「だから、やるんだ。イブのライブは、オレ達に残された最後のチャンスなんだよ。オレ達にはまだ音楽をやりたいって気持ちがある。例えボーカルの声がなくなっても、その気持ちは変わらない……でしょ?」
――――あぁ、変わらない。
祐司の言葉に相づちをうつ。祐司は、ただ微笑んでくれた。
それはオレの決めたことだった。別れるということも、音楽を諦めてしまおうという気持ちも。
だけど、それは過ちだった。
だけど、オレにはまだ『気持ち』がある。
だから、オレは祐司に聞いた。
『もう一度、やり直せるかな?』
「あぁ、きっと出来るよ」
オレはお礼の意味合いもかねて、笑った。




「よく頑張ったね。でも、もっと大変なのはこれからだ」
とうとう退院の時が来た。いつの間にかある意味オレの家と化した病院。少し名残惜しくも感じる。
でも、あの不味い入院食から逃れれると思えば少し嬉しい。
今、病院のロビーにはオレと両親、そして医者と看護婦、祐司の姿があった。
当然のことながら、彩音の姿はない。
「とりあえず御苦労様。学校も終わってるだろうから、ゆっくり家で休むといいよ」
そう言ってニッコリと微笑む医師。そういえば、この人にはだいぶお世話になった。
手話を覚えることを勧めてくれたのも彼だった。
元々この医師は手話が使えたので、手話の先生もやってくれた。
オレは頭を下げると、手話で一言『ありがとうございました』とだけ告げた。
その言葉にもう一度ニッコリと微笑む。すると突然医師はオレの耳元に口を寄せると、小さい声でこう言った。
「彩音ちゃん……いい娘じゃないか。大事にしなきゃダメだよ」
思わず後ずさる。まさかこんな初老のじいちゃんにそんなことを言われるとは思わなかった。
だけど、その言葉に頷くことは出来なかった。
そんなオレを見て、医師は言葉を続けた。もちろん、その顔には笑顔を忘れずに。
「自分の後悔しないやり方を選びなさい。それが全てを失うことになっても、それが自分で悩みぬいた末に得られた答えならば、それが正しい『答え』なんだから」
今度はさっきみたいな小さな声じゃなく、はっきりとした口調で、オレの目を見ながらこう言った。
何故だか分からないけど、その言葉には激しく心を打たれた。
――――それも、そうだな。
自分に……正直になれ。
いつもどこかで聞くような言葉だけど、今のオレにとってとても大切な言葉だと思う。
「さぁ、正輝。そろそろ行くぞ。先生、本当にお世話になりました」
隣から父さんが言う。医師が何を言っていたのか、両親にはチンプンカンプンだったようだ。
だけど、祐司は分かっていたようだ。うんうんと頷いている。
コイツも――――知ってたのか。
もう一度頭を下げる。……今度は、さっきとは違う意味で。
決断。
それだけが今、オレに必要なものなんだ。
医師も、祐司も、なかなかの曲者だ。オレに自分の気持ちを気付かせるために……
『気持ちは変わらない……でしょ?』
『それが正しい『答え』なんだから』
二人の言葉を胸に秘め、オレは車に乗り込んだ。




§




ここに来るのは、随分と久しぶりだな。
目の前に聳え立つ白い校舎。空は、いつの間にか雲で覆われていた。
今にも泣き出しそうな空の下、校門の前にオレは一人佇んでいる。
正直、オレはまだ悩んでいた。彼女に何を言おうか。何を伝えようか。
ゆっくりと学校の敷地内に入る。踏みしめる学校の土に、少し懐かしさを感じる。
入院していたのはたった二週間なのに……その間に、いろんなことが有り過ぎたのだろうか。
校舎の中に入ると、静寂だけがオレの周りを包んでいる。
――――誰もいない。
今日は祝日だから、仕方のないことかもしれない。
屋上への階段を一段ずつ、ゆっくりと昇っていく。
二階と三階のあいだの踊り場にまでやってくると、あの日の光景が不意にフラッシュバックした。
頬を染めた彼女の笑顔。
慌てふためく彼女の表情。
――――今そんなことを思い出してる場合じゃないか……首を大きく横に振って、再び階段を昇り始めた。
あの日とまったく変わらない、屋上の扉。
あの日はまったくためらわず、あの扉を開いた。
しかし、今日は違う。
震える指をそのままに、ゆっくりとオレはその扉を開く。
キーッと蝶番のきしむ音がする。扉の向こうには、あの日と違う冬の風景が広がっていた。
それでもただ、空だけが黒い。
「……待ってたよ」
屋上のフェンス越し、景色を眺めながら佇む一人の少女。
「懐かしいね……でも、もう、すっかり冬なんだ……」
制服の上からコートを着て、首にはマフラーが巻かれている。あのコートは……
「あ、気付いた?へへ、あのとき正輝が貸してくれたコートだよ♪」
自分よりはるかに大きなサイズのコートを羽織った少女は、頬を紅く染めて微笑んだ。
それは、オレが好きな笑みだった。
――――オレの、好きだった笑みだ。
「あの仔犬たちも元気だよ。里親も見つかって、今は幸せそうに暮らしてる……」
不意に彼女は向きを変え、屋上の上をゆっくりと歩き回り始めた。
その歩調は、とてもゆっくりだった。それでも、目だけはずっと空を見つめている。
オレは、ただその場所で立ち尽くしていた。
「もう、二週間経つんだ……時が流れるのって、早いんだね」
ゆっくりと噛み締めるように言葉を紡ぐ彼女。でも、心なしかその表情は少し陰っているような気がした。
「正輝は……今、幸せ?」
オレに背を向けていた彼女が振り返る。やっと、オレの顔を見た。
――――その目には、涙が浮かんでいる。
幸せだった。
声を……失うまでは。
オレは宙を見上げた。
――――空も、泣きそうだ。
「私は幸せだよ。祐ちゃんがいて、隼人クンがいて……正輝がいて。それは、正輝が声を無くしたとしても変わらない。私は幸せなんだって……世界一の幸せ者なんだって、ずっとそう思ってる」
そこでいったん彼女が言葉を切った。
冬の風が、オレ達のあいだを吹き抜ける。
風が、落ち葉を運んでいた。枯れ葉が舞い、ヒラヒラと一枚オレの足元に落ちていく。
「だからね、正輝にも幸せになって欲しいの。私だけ幸せになったって、それじゃダメなの」
ゆっくりと諭すような、そんな温かい言葉。だけど、どこか冷たくて。
そんな微かな冷たさに、彼女の悲しさが詰まっているような気がした。
彩音は……気付いていたんだ。
自惚れかもしれない。本当に嫌われてしまったのかもしれない。
そんなことを思ったハズだ。
だけど、本当はそうじゃないから……そうじゃないことに、気付いたんだ。
オレという重荷を背負ったままで生きて欲しくなんかないから。
そんなオレの気持ちを、彼女は知ってしまっていたんだ。
それこそ、オレの自惚れかもしれない。
心の奥深くで、『気付いてほしい』という気持ちが、想いがあったのかもしれない。
彩音が体をオレのほうに向けた。手を後ろに組んで、その目は空を見つめている。
「正輝の中にはもう、本当に私はいなくなっちゃったのかもしれない」
コツ。
「だけどね……自己満足かもしれない。ううん、きっと私の自己満足だけど」
コツ。
「一言だけ、言わせて」
……コツ。
「私は、正輝のことが好き。声がなくたって、歌えなくたって、私は正輝が好きだから」

『吉原クンが、好きです……』

あの日の言葉が蘇る。あの日の、赤らめた顔で微笑む彼女の姿が蘇る。
いつの間にかゼロになったオレ達の距離。
彼女は――――笑っていた。
「あ〜〜〜スッキリしたっ!!」
急に彼女は振り返り、思いっきり叫んだ。
振り返ったときに……瞳に光る物が見えたような気がした。
もう何回も見た彼女の涙。もう、そんな顔は見たくない。見たくないんだ……
「もう、正輝は幸せ者だねっ。こんな可愛い娘に二回も好きって言われてサ」
自嘲気味に話す彼女。こんな状況でも忘れない、彼女の些細な気配り。
だけど……涙声は、隠せない。
そんな彼女が、とても愛しかった。

――――愛おしさから、抱きしめた。

「きゃっ」
ただ、抱きしめる腕に力を込める。
伝えたい。オレの、この気持ちを。
溢れんばかりの、この想いを。
後ろから抱きしめたから、彼女の表情は分からない。
――――そんなの、どうだっていい。

『好きだから』

この一言で、十分だと思う。
「正輝……」
オレの手を、強く、強く握り返してくる彩音。
手のひらに、冷たい感触がした。ひんやりと冷えてしまった彼女の指先。
オレは、勘違いしていた。
オレと一緒にいることが、彩音の苦痛になり、彩音の重荷になってしまうのだと。
――――それは違うんだ。
彩音にとって、オレといること、オレと一緒だということが幸せなんだ。
オレは……大馬鹿者だ。
彩音のそんな気持ちに気付いてあげられなかった。
オレがやったことは、ただ彼女を傷つけただけだったんだ……
これも、自惚れかもしれないけど。
彩音がまだオレのことを『好き』だと言ってくれたことが、何よりの証拠なんだ。
彼女を抱きしめたままで、オレは手だけを動かした。
――――泣かせて、ゴメン。
そして……もう一つ。

オレは声で言葉を伝えることはできないけれど。

気持ちは、気持ちを込めた言葉は、『声』なんかなくても伝わるんだ。

それはとても単純で、とても簡単な言葉だけど。

それはとても複雑で、とても難しい言葉なんだ。

いつも側にいてくれた君に、この気持ちを伝えたい。

だから君へと……


伝えたい、言葉がある。


「ありがとう……」
彩音が振り返ってオレの胸に顔を押し付ける。
オレは、小さく微笑んだ。仔猫のように泣きじゃくる彼女の頭を撫でる。
優しく、とても優しく。オレが馬鹿者だった間に、与えることが出来なかった優しさを込めて。
少しの間、お互いの温もりを共用するようにずっと抱き合っていた。
「実はね……私が正輝を呼び出したのって、隼人クンの陰謀なんだよ」
抱き合ったままで、ふと彩音が呟く。
陰謀っていう言い方が少し腑に落ちなかったが、あえてオレは続きを待った。
「あの後隼人クンが病室に来てね、こう言ったんだ。『アイツは、自分に嘘ついてる』って」
隼人のヤツ……なかなか憎いことをするじゃないか。
「それで『彩音ちゃんも、気付いてあげなよ。アイツの気持ち』だって。それでピーンときたんだよ。正輝が私のこと……嫌いになったなんて、思いたくなかったから」
優しい口調で話す彼女。オレは軽く頷いた。
「あ、雪……」
彩音が空を見上げる。オレも、それに合わせて空を見上げた。
この空を、季節外れの白い桜が彩っていた。
――――空は、泣かなかった。
笑っているように見えた。
真っ白な雪が、ゆっくりと地面へ舞っている。屋上から見えるその景色は、とても幻想的だった。
「キレイ……」
彩音が呟く。オレは、そんな彩音の顔に見とれていた。
「ね、キレイだね正……!!」
オレは、そっと彼女の唇に自分のそれを重ね合わせた。
最初は驚いていた彩音も、ゆっくりと目を閉じる。
彩音とオレが、一つになった瞬間だった。
彼女の鼓動を感じる。彼女の息遣いを感じる。
オレの音と、彼女の音が交じり合って、新たなメロディが生まれていく。
音楽だって――――きっと初めは、そんな些細なことだったんだ。
オレ達は、少しの間ずっと唇を重ね合わせていた。
これからもずっと一緒にいよう。その気持ちを、いつまでも確かめ合うように。




§




「ぐぁぁぁぁ、緊張するぜ」
うぅ、と隼人が唸っている。頼むから、あの日みたいにコケないでくれよ。
「今日もなかなかお客さんの入りいいみたいだね」
舞台袖から、祐司が外の様子を眺めていた。少し満足げだ。
「隼人クンはいつもどおりだからいいじゃない……私は歌うんだよ?歌詞間違えたらどうしよぉ〜〜」
彩音が嘆いている。オレはそんな彼女の頭にポンと手を置いた。
――――オレの『声』だろ?お前ならできるさ。
その『言葉』に、彩音は微笑んだ。
「うん!!よぉし、やれるだけやってみるぞぉ!!」
開幕まで、あと十秒。ギターを握る手に思わず力が入る。
「あ、そうそう、正輝」
七秒前。オレは彩音のほうへ向き返った。
目だけで『何?』と合図する。彩音がニィーと意地の悪い笑みを浮かべる。
「今日、弁当作ってきたんだ。これ終わったら、一緒に食べよ」
五秒前。オレは固まった。
――――食えるのか?
もう一度目だけで訴える。だが、彼女は見もしない。
「ヒューヒュー。仲イイね、お二人さん。オレも分けて……ごふぅ」
三秒前。隼人が祐司から鉄拳制裁を受ける。隼人が涙を流して散っていった。
……まぁ、いいや。せっかく彩音が作ってくれたんだから、有り難く頂くとしよう。
そして……
「さぁ、時間だ。行こう!!!」
祐司が。
「今日はミスらねぇぞぉぉぉ!!!」
隼人が。
「よっし。行こ、正輝♪」
そして、彩音が。彼女がオレの手を取る。
――――いっちょ、やってやるか。
オレは駆け出した。祐司と隼人の後を追って。彩音に手を引かれて。

――――あの日見た夢は、現実なんかじゃない。

彼女はオレの側にいてくれる。遠ざかったりはしない。
歌えなくても、彼女はきっとオレの声になってくれるだろうから。
ありがとう。
ずっと近くにいてくれた君に、この言葉を伝えたい。
いや……もう、伝わっているだろう。
『声』がなくたって、気持ちは伝わるんだ。



伝えたい、言葉があった。



『オレは、君が好きだ。これからも、ずっと一緒にいてほしい』








2004/05/01(Sat)00:19:12 公開 / daiki
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■作者からのメッセージ
最近物書きやってませんねー(苦笑
BBSで風さんのスレ見てなんとなくアップしてみようと思ったんですが……
確かに、読みきりはすぐに流れるのが痛いですね(汗
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