- 『カスタマイズ〜神の領域〜第二章』 作者:オレンジ / 未分類 未分類
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全角18004.5文字
容量36009 bytes
原稿用紙約54.75枚
〜導入部〜
0
神の領域って何だろう。
決して犯してはならない場所。
バベルの塔が崩壊した様に、我々が踏み入ってはならない領域。
人類はどれだけの罪を犯し、どれだけ罰を受けてきたのか。
人間とはなんて傲慢な存在なのだろう。――そう思わないか?
神の領域と位置づけながらも、遺伝子操作を行う。
それが、人類にとって安全であると解れば遺伝子操作をした食物でさえ大量に生産されていく。
仮に、人類が在り続けるのに害が無いと解れば、ヒトのクローニングでさえ。
何が神の領域だ。人間の都合でそんな領域を作ってしまって、それこそ神も呆れている事だろう。
人間とはなんて傲慢な存在なのだろう。――そう思わないか?
1
友達の真紀が迎えに来るまでまだ少し時間があったので、駿河なつみは、鏡に向かい前髪を整えてみた。見慣れた顔、やはり唇の右下にあるほくろが気になってしまう。
何の代わり映えもしない、いつも通りの姿に無意識に前髪をかまってしまった。
昨日、友達の真紀に、
「なつみさあ、最近明るくなったよね。なんか、キレイになった……よね。少し、ほーんの少しだけどね」
と言われた。
悪い気はしなかったけれども、基本的になつみはあまり自分の顔が好きではなかったので、そう言われてもあまりピンと来なかった。
なつみは、自分のその端正な顔立ちを過小評価している。その顔を持ってすれば、大抵の男性を魅了する事が出来る筈なのに。
「明るくなった」と言われれば、確かにそうかも知れない。何気なく鏡に向かってしまうのも、今までの自分からはあまり考えられない行動のような気がする。
そう、それは一通の手紙が届いたから。
明るくならない方がかえって不自然だろう。
なつみは、机の上に視線を移した。そこには、飾り気のないクリーム色の封筒が置いてある。差出人は、遠藤晴明(えんどうはるあき)。封筒の中には、短冊形で真ん中にミシン目の入った長さ10センチくらいのメモ用紙が入っていた。そのメモ帳を、なつみと晴明は「約束チケット」と呼んでいる。
遠藤晴明と駿河なつみの二人だけの約束チケット。手に取ってみると、晴明と一緒にいた時に交わした約束たちが頭に浮かんでくる。
誕生日に二人で会う約束、週末映画を見に行く約束、放課後ドーナツショップで会う約束。
約束チケットには、晴明のサインが書かれていた。それに書かれた内容を了解したら、自分のサインを書いて片割れを相手に渡す事になっている。それが、二人で決めた約束チケットの制度だ。
晴明は、チケットを切った事に関しては全て約束を叶えてきた。例え何があろうと、真っ先にチケットの約束を優先させてきた。もちろんなつみはそんな晴明が大好きだった。そして、二人は「約束チケット」の威力を何よりも信じていた。
なつみも晴明も、家庭にはあまり恵まれてはいない。なつみの両親は、彼女が物心着く前に離婚していて、母親が彼女を引き取った。生活のため、母親は昼の仕事の他にも水商売をしていたので、なつみと接する時間はあまり無かった。
晴明も、幼い頃に両親を亡くし遠い親戚の資産家に貰われていた。その資産家から、学費、生活費は不自由なく渡された。だが、それだけだった。同じ敷地に住んではいても、一切お互いを干渉する事はなかった。
そんな二人だから、お互い信頼しあい、愛情を注ぎあう事が出来たのかも知れない。
なつみの高校生活のうち一年と半年はいつも二人一緒だった。
今日は高校の卒業式。なつみは晴明より一年遅れの卒業だ。
晴明は卒業と同時に、ある研究所で働くために街を出て行った。最早、あの資産家の所に留まる必要は無い。
だからといってなつみと晴明の関係が終わった訳ではなく、遠距離で更に深い絆が出来上がったと言ってよいだろう。
一週間前に届いた晴明からの約束チケットには、なつみが喜ぶ内容が書かれていた。
高校を卒業したら一緒に暮らそう。
ずっと俺が面倒見てやるから。
晴明
なつみが約束チケットにサインをしていると、
「ピンポーン」
玄関先でチャイムが鳴った。真紀が迎えに来たようだ。なつみは約束チケットを半分に切り離し封筒に入れると、それをかばんに押し込み玄関に向かった。母親は未だ寝ているみたいだ。娘の卒業式だというのに。今日は学校へ来るのだろうか?まあ、どちらでも良いのだが。
「おはよー」
「ごめーん。ちょっと遅くなちゃった。早く行こ!」
「式は何時からだっけ?」
なつみと真紀は、まだ少し肌寒い日差しの中へ走り出していった。
2
小淵沢伝次郎は、四方の壁のほとんどが書物で埋め尽くされた自分の教授室でいつもの様に専門書を読みふけっていた。
彼は某大学医学部所属の臨床医学者で、日本いや世界の脳神経学の権威である。その浮世離れした風貌を見ると、派閥争いや陰謀渦巻く大学病院の中でよく教授まで上り詰める事が出来たものだと感心させられる。着飾らず、金も欲しがらず、権力も必要としない、己の研究成果のみで教授の地位に着いた、この大学では稀有な人物である。
そんな小淵沢も六十歳となり定年を迎える時が来ていた。彼は後継者選びなどに興味は無く、この部屋から去っていくその日まで、いつも通り書物を読み漁るだけであった。
「コンコン」
部屋のドアをノックする音が聞こえた。部屋の主、小淵沢教授の許可が出る前にそのドアは開き、スーツ姿の細身の男が入ってきた。
「準備は進んでますか?あと一週間ですよ」
「うむ」
小淵沢教授は、スーツの男に目もくれずに書物を読みながら答えた。その男が何者であるかも理解しているし、いちいちそんな事で読書を中断するのは彼にとって気分の悪い事だった。
その男は防衛庁の官僚で、広澤と言った。小淵沢が次に就任する研究所を設立するにあたっての責任者である。眼鏡を架けた神経質そうな顔は、見ただけでこちらの神経が疲れてしまいそうだ。
「もう準備は全て整っているのかね?広澤君」
「はい。教授のご希望の設備は全てご用意させていただきました。まあ、その為に莫大な国家予算を使いましたけどね。大変でした、裏から引き出すのは。最近は機密費だって……」
「いや、それはいい。私が心配しているのは、あの学生が研究所に来れるかどうかなのだが」
広澤は口が滑らかに動き出したところを遮られて、舌を噛みそうになった。そして、落ちかけた眼鏡を指で押し戻した。
「あの学生…結城空也(ゆうきくうや)の事ですか」
「そう、結城空也。あの学生は絶対研究所へ遣してくれたまえよ。広澤君もたまには役に立ってくれないとなあ」
「はい。そこはもう抜かりなく」
広澤は丁寧に答えた。しかし、その一言には「まったく、この男は何だというんだ。いつもいつも偉そうに。俺がどれだけこの男の為にヤバイ橋を渡ってきたと思ってるんだ。お前はそんなに偉いのか。一般人の知らない知識をほんの少し多く知っているだけだろう。ああ、もうこんな仕事はいやだ。この男の面倒はもう見切れん」という意味が含まれている。
「あの学生、結城さえ来れば、この研究は必ず成功するぞ。必ずだ、広澤君、必ず……ふふふ」
広澤が部屋に入ってから既に数分経過しているにもかかわらず、小淵沢教授は、一度も彼の方へ目も向けていない。そのくせ、「ふふふ…」と一人で笑い出すものだから余計気味が悪い。
しかし、あの男、結城空也には何か特別なものがあるのか?まあ、凡人の理解できる範疇の事ではないのだろう。
広澤は一刻も早くこの部屋から出たいと思った。
「防衛庁はもとより、国を挙げての大プロジェクトですからね。頼みますよ」
言い残し、広澤は教授室を後にした。
結局部屋を出るまで小淵沢は広澤に目を向けることは無かった。
〜それから5年後〜
小淵沢の呼吸は既に停止していた。
傍らでは、結城空也が、恩師の、乾ききった皮だけの手を握って座っている。口髭が僅かに動いているが、最早何の意味も成していないように思える。言葉を吐こうとしているのかどうかも判断し兼ねた。
「所長、この実験は私が全て受け継ぎます。……だから、安心してください。立派に成功させてみせますよ」
小淵沢の手が、結城の顔に向かって動き出した。しかし、その乾いた細すぎる腕は結城の顔に触れる事は無かった。
「どうか、安らかに――」
小淵沢伝次郎の全ては、停止した。
小淵沢の脳が最後に認識したのは、結城の顔の表情であった。
結城空也はその時――
明らかに、
微笑を浮かべていた……。
〜それから更に5年後〜
駿河なつみは高校を卒業する。
物語のはじまりである。
〜1章〜 巨大研究所
1
「そっかあ、やっぱり行く事に決めたんだね。晴明先輩と幸せになってね。私も落ち着いたら遊びに行くよ」
「うん、真紀も大学が始まったら一人暮らしでしょ。頑張ってね」
なつみと真紀は、いつものファミレスでお互いのこれからを話していた。
真紀は東京の大学に進学することが決まっていて、一人暮らしの準備などに大忙しだった。なつみもまた、家を出るのだが、それは真紀のように一人暮らしをする為ではない。この世でいちばん大切な人と人生を共にする為に家を出、慣れ親しんだこの街に別れを告げるのだ。
「ねえ、お母さんもちゃんと納得してるの?なつみ」
真紀は、なつみが母親と仲が良くない事を知っている。だからきちんとその辺りの話が出来ているのか気を使っているのだ。
「うん、ありがとう。お母さんも納得してくれたから。内定してた仕事先を蹴ったのは流石にびっくりしてたけど」
なつみと母親は、卒業式の夜、めずらしく二人で外食に出かけた。なつみは驚いたが内心嬉しかった。来ることは無いだろうと思っていた卒業式にも母親は顔を出していた。
なつみは、その時に晴明と一緒に暮らすことを打ち明けた。
「あなたの決めた事だもの、そうと決めたのなら、思う様に頑張りなさい。……今までずっと、何もしてやれなくてごめんね」
いや、何もしなかったのは私の方だ。お母さんはいつも私の事を考えてくれていたんだ。女手一つでここまで私を育ててくれたのだ。これ以上お母さんに何を望むんだろうか。
「ごめんね、お母さん」
なつみは、わだかまりが外れ、これで何の心配もなくこの街を出られるようになったのだ。
「引越したら、連絡先ちゃんと教えてよ」
なつみと真紀の会話は止まることを知らない。ずっと、観察されている事も知らずに。
その時、ファミレスの外では、窓越しに体格の良いスーツ姿の男がなつみ達をずっと観察していたのだ。非常に怪しい光景で、通報されても決しておかしくない状態なのだが、なつみも真紀も全く気付かない。
「大迫。触媒の捕獲は中止だ。大至急研究所へ戻ってくれ」
なつみ達を見張っていた、大迫と呼ばれるその男は声のした方を向いた。そこには、同じ様にスーツを着た二十歳代位の男が立っていた。
「何だよ藤井。もうすぐ捕獲できるんだからさあ。もうちょっと待ってよ。俺はあんたと違ってここまで来るの結構時間がかかるんだよね。何だか知らないけど、触媒を捕獲したらすぐ行くから、所長にはそう言っておいてよ」
大きな声である。とても、人を尾行し、見張っている物が喋っているとは思えない。
「ミスが逃げ出したんだ。捕まえるのを手伝って欲しい」
「まじっすか!そりゃヤバイじゃないですか。――まさか、ナンバー002が?」
「いや、004だ。002が逃げ出したらこんな悠長なことしてられないからな」
「そうかあ、まずはよかったあ。でも、最近ミスの動きが活発だよね。先月も003が逃げ出したじゃん。何かヤバイ事になってるのかなあ。藤井、どう思う?」
「わからん、しかし今は004を捕まえなければな。神田が居ないので大変なんだ。早くお前も来て手伝ってくれ」
「解ったよ。二時間で戻るよ。あーあ、とんだ無駄足だったよ」
「じゃあ、頼むぞ。あ、それから、どうやら触媒は自ら我々の所へ近々やって来るらしいぞ。お前が出向かなくても良くなったわけだ」
「え?何だって」
「さっき、あの二人の会話を聞いたんだ。本当に無駄足になってしまったみたいだなあ、大迫よ」
「まじっすか!」
「まあいい、早く来てくれよ」
と言って、藤井と呼ばれた二十歳代位のスーツ姿の男は、大迫の前から姿を消した。本当に一瞬で目の前から消えてなくなったのだ。
「藤井さあ、人の話を盗み聞きするクセあまりいいとは思わないよ。さ、戻るか。はあ……本当に無駄足だったな」
独り言とは思えない大声を発しながら、大迫は歩き出した。
「じゃあね、触媒ちゃん。研究所で待てるからね」
大迫は、一度空を見上げ、少し思いつめた顔をした。そして大きくため息をついた。
「はあ、かわいそうに……」
2
四方を剥き出しのコンクリートの壁で覆われた地下室は、異様な圧迫感がある。研究所に戻って約三時間が経過している。大迫は、やっとの思いで奴をここまで追い詰めた。薄暗く、湿ったその部屋は、静寂の支配する時間の無い世界の様だ。
額の汗が蒸発する音でさえ雑音として耳に入ってくる静寂の中、唯一つ時間の概念を感じさせる事象といえば、いつもより激しく打ち続ける大迫の心臓の鼓動くらいのものだ。
大迫は生唾をのんだ。
ごくり、とその音は地下室に響く。
血の海に沈んだ奴の体がぴくりと動いた。
その一瞬、大迫の心臓は破裂しそうなほど胸を打ちつけた。緊張が一気に湿った空気を走り抜ける。
もう、奴も襲い掛かって来る事は無いだろうが、油断は禁物である。
膠着した世界の中で、大迫は横たわった奴の姿をじっと観察していた。
『ミスナンバー004』
いつ見ても奴は、グロテスクだ。
それは、肉の塊である。皮膚も骨も毛髪も無い、肉の塊。体積は、人間の大人と同じくらいあるだろう。ただ、奴は決まった形が無いのだ。
無秩序に形を換えながら、周囲の物を破壊してゆく。それが奴の行動パターン。それ以外のことは一切しない。
そして、生物だという前提で言うならば、奴は死なないのだ。どれだけ痛めつけても血を流しても動かなくなったとしても、絶対死なない。生き返るというのではなく、死なないのだ。
今回の大迫の仕事は、このナンバー004を捕獲し元のシェルターに閉じ込める事。
何事も無ければ、間もなくその任務を完遂するであろう。
「カツン」
背後でコンクリートの床を軍用安全靴のかかとで蹴る音がした。
反射的に大迫は状態を低くして、後ろを振り向く。そこには、額と右肩から血を流した満身創痍の藤井がいた。
「なんだ、藤井かあ。びっくりした。大丈夫?その体は……」
一瞬の油断がスキを誘った。
「大迫!まずい、後ろ!」
大迫は、再び前を向く。すると、つい先程まで横たわっていたナンバー004は、既にそこにはいなかった。
――まずい、どこに潜んだ?――
神経を研ぎ澄まし、奴の気配をさぐる。
上か!
しかし、一手遅かった。肉の塊は、天井から、大迫の頭をめがけて加速しながら落ちてくる。大迫の頭蓋骨と頚椎がその衝撃を受け止めた。常人では、耐え切れない力が加わった。
迂闊だった。大迫の頭には肉の塊が巻きつき締め上げていった。頭蓋骨がミシミシと音をたてる。
流石の大迫もこの状況は、生命の危機である。このまま締め上げられたら、もう何秒ももたない。仕方ない。危険だが一か八かやってみるしかない。このまま座して死を待つよりは、これに賭けてみる。
大迫は、自分の左腕を引っ張った。カチッという音と共に左手は大迫の本体から外れる。すると、その左手のあった部分から、38口径くらいの銃口が顔を出した。そして、銃口を、頭を締め上げている肉塊に向ける。銃口が火を噴き、一秒間に数十発もの弾丸がナンバー004にめり込んでゆく。
血を飛び散らせて、肉塊が床に転げ落ちた。
ふうっ、と大迫はため息を吐いた。
大迫の顔は、締め上げられた跡は残ったものの、傷一つ付いていなかった。一歩間違えば、肉塊を貫通した銃弾が顔面に当たり、命を落としていた所である。
迷彩柄の軍服は、返り血をあびてベタベタだ。
「大丈夫か、大迫」
藤井がよろけながら大迫に寄っていく。
すると大迫は、肩を震わせ泣いていた。
「くうっ……ううっ、ひっく……」
「どうした?」
「もう、耐えられない、こんなの、こいつが可哀そうでさあ……」
「仕方ない、これも任務だ」
「何でこんな事までして、こいつらを生かしておくのさ。もう、消してあげようよ!」
大迫は、左腕に付いている銃口を左へ90度回転させて、火炎放射機の口を出した。そして、足元に転がる肉の塊に照準を合わせる。
「よせ!お前、今こいつを焼いてしまおうとしただろ!」
怪我を省みず、藤井は大迫を取り押さえた。
「離せよ、藤井!焼いてしまうんだ、細胞の一つまで全て。そうすれば、こいつももう苦しむことは無い……楽にしてやるんだ!」
「馬鹿やろう!こいつらだって生きているんだぞ、こんな姿でも。お前に生命を奪う権利があるのか?」
「だってさあ、こいつは生きてるんじゃなくて生かされてるんだ。こんな苦しい事は無いよ!」
「なら、お前は、俺が死なせて欲しいと言ったら俺を殺すのか?」
「い、いや、それは……」
大迫の肩の力が抜けたので、藤井も捕まえていた腕を離した。
「それに、生かしておく事は所長の命令だ――さあ、こいつをシェルターまで運ぶぞ」
「わかったよ、藤井。じゃ、こいつは俺に運ばせてくれないかなあ、あんたはその怪我だし、あとは俺がやっておくよ」
「そうか、なら、そうしてくれ。まあ、そいつはお前の親友だったしな」
「言うなよ、それを。禁句だよ、俺達カスタマイズメンバーの中では」
「そうだったな、すまん」
大迫は、その肉塊を抱き上げて、血まみれになった地下室を後にした。
後に残った藤井は、冷たいコンクリートの天井を見上げていた、涙がこぼれぬ様に。
3
電車に揺られて約2時間、駿河なつみは、とある片田舎の駅のホームに降り立った。そこで最初に彼女を迎えたのは、駅員ではなく優しい春の風と土のにおいだった。
誰も居ない改札口を出て廻りを見渡してみると、そこは四方を山で囲まれた静かな田園地帯、なつみが暮らしてきた街の風景とは正反対のものであった。
晴明はここに住んでいる。そして、私もここに住むのだ。これからは、この風景の中に私も重なっていくのだ。
どうぞよろしくお願いします。
なつみは、言葉には出さなかったが、この山々や草木、目に見える全ての風景に挨拶をした。
なつみは、今日この場所へ訪れる事を晴明に伝えてはいない。当然、彼を驚かせる為である。意外と自分の中にも意地悪な所があるんだな、となつみは思う。良い事の前には、ちょっと位戸惑うことがあってもいいんじゃないの?――ねえ、晴明。もうすぐずっと一緒だね、嬉しいね。
晴明の住んでるというアパートへは、ここから更にバスで30分位かかる様だ。なつみは、駅前のバス停で一時間に一本しかないバスを待たねばならない。時刻表を確認すると、40分後に目的のバスが来るらしい。
なつみは木製のベンチに座り、この穏やかな風景と共に流れる緩やかな時間に身を委ねる事にした。
木々の緑はなんて瞳に優しいのだろう。大空の青と雲の白、そして、所々にあるソメイヨシノの花の淡い色。なんだか、全てを好きになれそうだ。
少し遠くの山を見てみると、その中腹辺りに白い巨大な鉄筋コンクリート造の建物がそびえているのに気付いた。かなり遠くにあり、自然の樹木が周囲を覆っている為全貌は明らかにならないが、かなり大きな建物だ。
病院か、学校……。いや、あれが晴明の勤める研究所なのだろう。
〜国立小淵沢脳神経学研究所〜
なつみは、晴明がここでどの様な仕事をしているのか殆ど知らない。国の重要な研究の為、仕事の内容は絶対口外してはならない事になっているのだ。また、研究所の外で人に会う事も制限があるので、会いたいときに逢える二人ではなかった。
しかし、なつみは、そんな晴明を頼もしく思う。男の人が何か一つに打ち込んでいる姿ほど美しいものは無い、となつみは思っている。
なつみが、その白い建物を見つめていると
「見かけない顔だね。旅行かい?こんな所へ」
と、一人の老婆が語り掛けてきた。
老婆は、筍や旬の野菜が山盛りになった自分の背中よりずっと大きい篭を担いでいた。野良仕事の帰りだろう。
その老婆は、重たい素振り一つせず、なつみの方へひょこひょこ近づいてきた。
「あの……私、旅行とかじゃなくて」
老婆は不思議そうになつみの顔を覗き込んでいたが、やがてにっこり微笑んで語りかけてきた。
「あの山の建物が気になるのかい?」
老婆は、なつみの視線の先にあの巨大な白い建物があった事を悟っていた。何故かとても嬉しそうだ。
なつみは、会話が噛み合わないぎこちなさを感じながらも、老婆の顔があまりにも穏やかで嬉しそうだったので、
「そうですね、なんだかあの建物だけ場違いというか、目立ちますよね」
と、にっこり笑って答えた。
「立派な建物じゃろう。あの山は伝次郎さとこの地所でな、あれは伝次郎さの研究所じゃ」
「大きくて立派な研究所ですね」
「そうじゃろ、あれは、伝次郎さが国から貰った研究所じゃ。小淵沢伝次郎は、この村の衆みんなの誇りじゃあ」
老婆はとても誇らしげに言った。
「あそこが小淵沢博士の脳神経学研究所ですか?」
確認の意味も込めてなつみは尋ねた。
「ああ、そんなような名前じゃったかな。ははぁ――お前さんも伝次郎さに会いに来たのか?」
「え?いや……」
「伝次郎さは、わしの妹と同じ歳でなあ、家にもよう遊びに来ておったわ。あの頃から悪ガキじゃったが、頭のいい子でなあ……」
「あ、あの、おばあさん。そうじゃなくて、私は……」
老人のパワーとは、ある意味凄いものである。全然噛み合っていない会話でもお構いなしに突っ走るパワーは、とてもなつみの様な小娘では発揮することが出来ない。最早、なつみは伝次郎さんの武勇伝をにこにこと相槌を打ちながら聞いているしかなかった。
しかし、あそこが晴明の勤めている研究所なのだと言うことが分かったのは収穫である。なんだか晴明と同じ時間に同じ空気を吸っているという事実が、なつみの心を更に高揚させた。
「でも、残念じゃったな、伝次郎さはもうここにはおらん。五年前のあの事故で死んでしまたんじゃ。大きな爆発があってなあ、村全部に響いたからなあ、それはもう凄かった。それ以来あそこは閉鎖されておるのじゃ。今はあそこには誰もおらん」
えっ――。意味が分からない。
その後、その老婆は、しばらく一方的に喋り続けて最後に篭の中からまだ土の付いた筍をなつみに手渡した。
「さて、わしゃ行くよ。あんたみたいな子が孫の嫁に来てくれたらねえ」
そういい残し、呆然とするなつみを置いて、老婆はさっさと行ってしまった。
どうゆう事だろう。この研究所は5年前に閉鎖されているらしいが、晴明は此処に一年前から勤めているという。話のつじつまが合わない。だって、てがみだったてここの住所から届くし。あのおばあさん、申し訳ないが少し妄想癖があるのだろうか。
なつみは、言い知れぬ不安を感じた。
向こうのほうから大きな音をたてて、排気ガスを撒き散らしてバスがやって来た。
4
なつみと運転手の二人だけを乗せて、田舎のワンマンバスは舗装の悪い道路をひた走る。
なつみは、特にすることも無いので田園が流れ行く様を窓越しに眺めていた。最初は、烏除けの目玉型の風船やマネキンの顔の乗った案山子などに驚いていたが、やがてそれらにも見慣れてきた為、いつしか先程の老婆の言葉に気持ちが向いていった。
「きっと、あのおばあさんは何か思い間違いをしているのだ」
なつみの結論はどうしてもそこに到達する。何故なら、晴明がこのような無意味な嘘を吐く筈がないから。
あのお婆さんが嘘を吐いてるとは思わないが、寄る年波には記憶もついていかないのだろう。
なつみは、晴明を思った。あの日晴明の様子が変だった日。それは、老婆によって思い出した所も大きかったかもしれない。
それは、今から約一ヶ月前、晴明と最後に会った日の事。
なつみは、晴明の肩に寄り添い髪を撫でられていた。
その時、かすれる様な声で晴明はささやく。
「消えてしまいたい」
「えっ」
夜中の波止場、対岸の貨物船の明かり、漆黒の波と空、頬を掠めた風の感触。今でもはっきり覚えている。なつみは、その時晴明がスッと消えてしう錯覚に陥った。
なつみは、晴明の腕を組みぎゅっと力を込めた。すると、晴明は確かにそこにいた。
「いや、なんでも無い」
――嘘だ――。何故そんなに力の無い声なの?悩みがあるのなら、きちんと言って欲しい。いつも私の前では強い自分ばかりを見せようとして、決して弱さを見せない晴明。でも、私だって弱いだけの女じゃないんだから、ねえ、晴明、私だって晴明を支えたいのに。
その日、なつみと晴明は異常なまでにお互いの体を求めあった。激しく――まるで、今日が世界最後の日であるかのように燃え尽きる程激しく――激しく。
それから何日か過ぎて、晴明から『約束チケット』が届き、なつみは心の底から喜んだ。もういつ逢えるか不安にならなくて良いんだ。晴明の本当の心の支えになれる日が遂に来たのだ。
きっと晴明は仕事で悩んでいるに違いない。そんな時、愛する人の支えになるのが女の役目だとなつみは思う。別に古き良き時代の女を気取っているわけではないのだけれど。晴明の手助けが出来ると思うだけで、ある種快感のようなものが心に満たされるのだ。
似たような風景がバスの外を流れてゆく。なつみの、晴明を思う気持ちを乗せて型遅れのバスは春風の中を走る。
やがてバスは、あの巨大な白い建造物、研究所のある山の麓に差し掛かった。
麓には、高々とフェンスや有刺鉄線が張り巡らされ、頑なに侵入者を拒んでいる。「立入厳禁」の看板があちこちに立っている。
運転手さんならいろいろ詳しいかも知れない。普通はバスの運転手に話しかける事など無いのだが、幸い客も他にいないので勇気を出して研究所のことをいろいろ尋ねてみることにした。
「ああ、あの研究所は閉鎖してるよ。地元の人間も誰も近づかないしね。あんな事故があったんじゃ知ってる奴は絶対近づかないだろうけどね」
「そうですか、やっぱり」
「おねえさん、あの建物が気になるの?確かにこんなど田舎には浮いちゃうよね、あの建物は」
「あの……そうじゃなくて。実は、私の知り合いがあの研究所で働いているって言ってたから。閉鎖って、何かの間違いじゃ……」
なつみの心が一気に不安で満たされる。
「では、研究所へ行ってみますか?」
なつみの背後から、低いがしっかりとした声が聞こえた。
振り返るとそこには、自衛隊の迷彩服を着て額に包帯を巻いた、長身の男が立っていた。
いつの間に?
このバスには、なつみと運転手しかいないはず。何処かに隠れていたなどはあり得ない。この男、突然現れたのか。
突然、運転手が饒舌に話し始めた。
「いやあ、ごめんねえ。この藤井って奴は意地悪でね、人を驚かして楽しんでるんだよね。ま、細かい事は気にしないで。大人しくバスに乗っててくれたら、研究所まで送ってあげるからさあ。逢いたいでしょ?遠藤晴明に」
「えっ?晴明――晴明を知ってるの」
何故この男の口から晴明の名が出てきたのだろう?
「大迫、余計な事を言うんじゃない。機密が漏れ兼ねん、気をつけてくれ」
「はいはい」
突然現れた軍服の男は、丁寧に力強く話し始めた。
「駿河なつみさん。驚かせてしまって大変失礼しました。しばらく我々にお付き合いしていただきます。申し訳ないですが、あなたに拒否という選択肢はありませんのでご了承ください」
運転手の男は、無線で何やら会話をしている。
「え〜こちら大迫。触媒の確保に成功しました。今から帰還します。どうぞ」
「了解、すみやかに帰還してください」
片田舎の、型遅れのボロバスが今、巨大研究所の中へ入ってゆく。
〜2章〜 カスタマイズメンバー
1
家具といえば、ベッドと机と椅子があるだけ。面格子の付いた小さな窓からは、太陽の光などという贅沢な物は一切入ってこない。部屋の明かりは、40ワットの裸電球ただ一つ。トイレと一体のユニットバスが無造作に露骨に部屋の隅に置かれている。
そんな質素で薄暗い部屋に遠藤晴明は、かれこれ一ヶ月くらい軟禁されている。もう二度と脱走しないと誓える日まで、或いは己の運命を受け入れる覚悟が出来るまでその軟禁は続くだろう。
結城空也が、遠藤晴明の軟禁された部屋を訪れたのは、その日の昼間、丁度太陽がいちばん高く上がっていた頃だった。もちろん、その部屋からは太陽の角度など知ることは出来ない。結城空也の運んできた昼食によって晴明は現在の時間帯を知った。
「体調はどうかね。あまり食事を摂っていないようだが」
晴明は何も答えない。
返事が無くとも構わずに、結城は喋り続ける。
「所長の私が自ら持ってきたんだ。ちゃんと全部食べてもらうよ。はははっ」
結城は、昼食のトレーを机の上に置いて『冷めないうちに食べたまえ』と晴明に食事を促した。トレーには、食パン二枚とシチューらしきおかず、それとゼリーのような固形物が乗っている。十九歳の男性の食事にしては、あまりにみすぼらしいと意わざるを得ない。晴明は、机の上の食事に視線を向けたが、意欲的に机の方へ向かう気にはなれなかった。ベットに同じ態勢で座り続ける。
高校時代ラグビーで鍛えた肉体は既に見る影も無く、目の廻りもくぼんでいた。
そんな晴明を見下ろしながら結城は喋り続ける。
――そうそう、たった今とても喜ばしい情報が届いたよ。遂に私達の求めていた触媒が手に入ったんだ。これで君もカスタマイズメンバーの一員になれる。
はははっ、待ちわびていたよこの日を。しかし、触媒がまさか君の最愛の人だったとは……神も底意地の悪い。
――そんなに睨まないでくれたまえ。君もカスタマイズの能力をみにつける事が出来るんだ。いわば、人間を支配する側になるのだよ。こんな素晴らしい事はないじゃないか。感謝されて然るべきなのに、そんなに睨まれたのでは立つ手が無いな。
まあ、君がどの様に考えようが、君の命は私が大金をはたいて買ったんだ。私は君の命を自由に出来るのだよ。大人しくその運命を受け入れたらどうだね。なあ、遠藤君。我々に抵抗しても無意味だという事は十分分かっているだろう。
それならば、己の運命を受け入れ我々の仲間になれ、こちら側に来たまえ。君は選ばれた人間なんだ。
……やはり、君にはきちんと選民思想を教育する必要があったなあ。
能力のある者が能力の無い者の上に立つことは、決して差別では無いのだよ。良識の元に、能力の無い暗愚な民衆達を正しい方向へ導く。それが、我々選ばれた物の使命なのだ。
人間には、それぞれ役割があり、その固体にあった場所(ステージ)というものがある。その役割を無視して差別だ云々と議論していても、何も解決はしまい。
我々は、このカスタマイズ遺伝子を持って生まれたからには、支配という形で社会に貢献する義務があるのだよ。
自然の摂理として、組織、集団が出来れば必ずその集団の牽引者が現れる。それが居なければ、集団は皆好き勝手に行動し崩壊してしまうのだ。強力なリーダーの存在が、集団をより強固に高いステージへ運ぶのだよ。
その役割を我々が担ってやるのだ。
――何、独善的だと?はははっ。それは、見識と能力と責任の無い被支配者側の意見だな。君もおそらく今日中にはカスタマイズメンバーとなるのだ。そうなれば、自ずと自覚も出てくるだろう。
――では、もうしばらくゆっくりしていなさい、はははっ……。
白衣の裾をなびかせ、結城空也は颯爽と力強く部屋を出て行った。
2
場の空気を読んで、瞬時に対応する、そんな適応力もある意味才能の一つだろう。芸人などは、その才能の差でほぼ評価が決まってしまう。選挙活動等で街頭演説をする政治家もその才能の高さが求められる。場の雰囲気を読み、適応する能力は、人間関係を円滑に進める為に欠かすことの出来ないものだ。
しかし、世の中には先天的もしくは後天的にその能力の欠落した人間がしばしば見受けられる。
大迫という男もそのうちの一人であった。
「いや、ほんと、まじで可愛いよねえ、なつみちゃんは。ねえねえ、あの遠藤晴明とはどうやっ知り合ったの?うらやましいなあ、遠藤のやつ」
バスの中は微妙な空気が漂っている。突然現れた藤井という長身の男は、次々と繰り出される、大迫の場をわきまえない的外れな言動を苦い顔をしながら完全に黙殺している。なつみもそれに習って完全無視を決め込んで、一切返事をしなかった。それでもお構い無しに一人でぺらぺら喋っているのに、これで相槌でもしようものなら、この男は何処までも調子に乗ってしまう。本能的になつみは、それを悟った。これ以上、バスの中の雰囲気を痛々しくして欲しくはない。彼の言葉は一種の呪文である。人々を凍りつかせるという意味では、彼の呪文は最強で最凶の部類に入るに違いない。
しかし、そのお陰でなつみはいろいろな情報を入手する事ができた。訊かれもしないのに、運転手に成りすましていた大迫という男は、あれこれとなつみの知りたい事を喋ってくれた。
まず、この怪しい二人組みは自衛隊の隊員らしい。確かに藤井という男は、迷彩服を着ていて軍人らしく見えていた。大迫はバスの運転手の制服がえらく似合っているが。
自衛隊といっても何やら特殊な部隊らしくて、あまり表にはその存在を知られていない(というよりは知られてはいけない)様だ。にわかに信じ難いが、凄く特殊な能力を持った者達が集まっているらしい。
藤井という男は、瞬間移動が出来るという。瞬間移動という能力がこの世に存在する事を当たり前に受け入れたとして、藤井が突然バスの中に現れたのも納得できる。
大迫は、体にどれだけ機械を埋め込んでも大丈夫な体になっているという。よって、体のあらゆる所に機械仕掛けの武器が仕込まれている。良く考えてみると、とても恐ろしい人間だ。
そしてまた、彼らの身体能力は、常人のそれを遥かに凌駕しているという。この研究所には、まだこの様な能力者が数人いるらしい。
彼らは時々その能力をゆえに、世界各国の内戦や紛争に借り出される事があるという。彼らが出動するだけで戦況が一変してしまうのだから、その需要は引く手あまたである。同時に巨額の軍事費が彼らの為に動く。彼らのうち一人が出動するだけで、一日数十億円の金が動くという。
この能力は長年の研究の成果であると、大迫はさも自分一人の手柄だと言わんばかりに誇らしげに語っていた。
また、この小淵沢脳神経学研究所は、やはり五年前に爆発事故があり閉鎖しているとの事だった。ただその後も、彼ら自衛隊の特殊能力者達がこの場所に居残り、未だ途中の研究を行なっているのだという。その研究費は、国からは殆ど出てこないらしいので、彼らが戦場に赴いて得た外貨をそれに当てているようだ。
ところで、どんなことでも思わず口に出してしまう大迫でも、研究所の事故の詳しい内容は一切喋ろうとはしなかった。余程、凄惨な事故だったのだろうか。それとも、詳しく知らないのか。いずれにしても、大迫は研究所の事故に話が及びそうになると、ふいに顔をしかめるのだ。
この話全てが真実だとしたら……。なつみは、この荒唐無稽なおかしな話をきちんと聞き入れて、受け止めている自分が少し怖くなってきた。訳も分からずバスに監禁され、下らないギャグやお喋りを聞かされて、少し気がおかしくなてしまったのだろうか。
本来なら、もう晴明の元に辿り着いて二人の将来を語り合っている頃だろうに。何故こんな事に?本当に彼らは晴明に逢わせてくれるのだろうか。
「いやでも遠藤は真面目でいい奴だよ。働き者だし。もうすぐオレ達の仲間になると思うと、ホンと頼もし……」
「大迫!いい加減にしないか」
堪り兼ねて藤井は声を上げた。
「あまり我々の事をべらべらと喋るんじゃない!!本当にお前という奴は――雰囲気読めないなあ。頼むぞ、まじで……」
「ああ、ごめんよ。悪い悪い。もう、藤井はいっつも怒ってるんだからあ、たまにゃリラックスしなよ、りらっくす〜 」
全く悪いと思っていないようだ。
バスは、研究所の敷地に入り、山の中腹に差し掛かっていた。遠くに見えたあの建物がかなり近くにみえて、窓ガラスの割れた所まで確認が出来る程だ。近くで見ると、あの白い巨大な建造物はかなり廃墟じみていた。
「あの、これからどうなるんですか、私は?晴明には本当に逢わせてくれるんですか?本当に……大丈夫なんですか?」
不安にさいなまれたなつみは、心の底から搾り出すように尋ねた。
その刹那――
「危ない!つかまれ!」
大迫が叫ぶと同時に、バスはけたたましい音を立ててブレーキが作動する。
だが、バスは制動距離の間に何かに追突した。慣性の法則により、バスは前後に大きく揺れる。それと同時になつみも客席に腰を打ちつけた。
「二ノ宮!お前、何やってるんだ!」
なつみは、腰を打ちつけた所を押さえながら、フロントガラス越しに外の景色を見た。
そこには、まだ歳幅も行かない少年が、右腕一本でバスを止めているという異様な場面が展開していた。少年の腕は、バスのフロントボディーを突き抜けていた。
3
「逃げてください、駿河なつみさん!逃げて」
少年はまだ声変わりのしていない、高音の澄んだ声で叫んだ。藤井は自分のその能力を使って、既にバスの外へ移動していた。
「二ノ宮、一体何のつもりだ、勝手に持ち場を離れて。私達の任務を妨害するのか?」
藤井は二ノ宮という少年の腕を掴もうとしたが、一瞬早くかわされた。
「僕を捕まえるのは無理ですよ、藤井さん。そして、これ以上先へは行かせません、その女の人を解放するまでは」
やっとの思いでバスのドアを手動で開けて、大迫とその後になつみが降りてきた。大迫は、左腕に仕組まれたマシンガンを露わにして既に臨戦態勢を布いている。
「ふざけているのか、二ノ宮。本気だったら救いようが無いのだが」
「本気ですよ。もうこれ以上実験のために犠牲者を増やしてはいけない。こんな研究はもう止めなければならないんです。所長には何度も進言したけども、全く聞き入れて貰えませんでした。だから、今日僕はこうやって強行手段に出たんです」
「所長の方針に不満があるというのか。しかし、このやり方は賢くないな」
藤井は冷静な眼差しで少年を見つめ、諭すように語る。
「まあ、今回のことは私達の胸に仕舞っておこう。所長にも黙っておくし罰も適用しない。さあ、大人しく道を開けるんだ。そして早々に任務に戻れ」
「僕は本気なんです!絶対に退きません」
少年は、森全体に響き渡るような甲高い声で否定した。
「二ノ宮さあ、冷静になれよ。こんな事が許されると思ってるのか?あまり手を焼かせないでくれ。それとも何かい、まじで俺達とやり合うか?」
大迫は身構えながら少年に言った。
「お望みとあれば、お相手しますよ、大迫さん」
「くうっ、相変わらず生意気なガキだな、お前は。俺達二人とやって勝ち目があると思うか?仮に勝ったとしても、その後はどうするんだ。他のメンバーが出てきて、どっちにしろ遣られちゃうよ。神田なんかが出てきたらどうするよ。それに、この研究所を出て俺達みたいなのが普通に生活していける訳無いだろ」
「ふっ、だから何ですか?大迫さん、どうするんですか、やるんですか、やらないんですか。しかし、口だけは達者ですねえ。口だけは」
「むっ、何だと!」
「落ち着けよ大迫」
「ぶっ殺してやる!」
大迫は、物騒な言葉を吐いて、左腕の銃口を二ノ宮に向けた。二ノ宮は微動だにせず大迫の眼を睨みつけている。軍服を着た華奢な少年と、マシンガンを見につけたバスの運転手が約2.5メートルの距離を置いて対峙している。何も知らない者が見たらとても滑稽な場面であろう。しかし、二人の間に流れる闘気は常人を絶対に受け付けない威圧感があった。
それは、藤井はもちろんのこと、バスの陰でずっと様子を見ていたなつみも、ビリビリと肌に感じていた。足枷を付けられた様に、なつみはその場所から一歩も動けないでいる。
二ノ宮は、大迫と対峙しながらも、なつみの様子をきちんと気に留めている。どのタイミングでなつみを逃がすのか。藤井の瞬間移動能力を前にして、それを成し遂げるのは至難の業だ。
「どうした、二ノ宮。怖くて動けないか?」
「いや、別に。僕は触媒……いや、駿河なつみさんを逃がすことを第一に考えていますので」
「ほう、余裕だなあ。いいのか、二人同時に戦わなければならないのに。なあ、藤井、こんな生意気なガキ二人であっという間にやっちゃおうよ」
3人とも、各々の手の内は知り尽くしている。勝負は一瞬でついてしまうか、長期戦のどちらかだろう。
二ノ宮の能力は、相手の一瞬先の行動を予知する能力。次に相手が何を仕掛けてくるか手に取るように分かるのだ。しかし、同時に二人以上の行動は予知できない。それが二ノ宮につけ込める唯一の弱点だろうか。
藤井は考えた。今、なつみが逃げ出したとして、自分の瞬間移動でなつみを捕獲しているうちに、大迫は二ノ宮の予知能力により敗北するだろう。なつみを捕まえるだけなら良いのだが、逃げないように拘束しておかなければならない。よって、自分は戦力外となってしまう。一対一の戦いで二ノ宮が負ける事は、ほとんどあり得ない。大迫を倒した後、自分を倒しにかかる。各個撃破されて、この戦いは二ノ宮の圧勝に終わるだろう。
なのでここは、二人で同時に二ノ宮へ襲い掛かり、即座に勝負を決めるしかない。仮にその間になつみが逃げたとしても、自分の瞬間移動能力があればまたすぐに捕獲できる。村へ出てしまうと難儀なので、なつみがこの研究所の敷地の外へ出るまでに二ノ宮を倒す。これしかない!
「ハラは決ったようですね、藤井さん、多分それがいちばん賢明な作戦ですよ。しかし、勝つのは僕です」
少年は藤井の心を既に見抜いていた。
「お前は本当に話が早くていいな。まあ、泣きべそかかない程度に相手をしてやるよ」
「いくよ〜二ノ宮。覚悟はいいか?」
大迫がじりっと、二ノ宮に半歩近づいた。
少年はそれを見て、くすっと鼻で笑う。そして大迫に言った。
「無駄ですよ、大迫さん。今、体を反転させてなつみさんの足を撃とうとしましたね。なつみさんが逃げ出さないように……。僕は飛び道具もあるんです。銃の弾道なんて、すぐ変えられるのですよ残念ですねえ」
大迫は、舌打ちをしながら改めて思った。『やっぱり、このガキは大嫌いだ!』
「なつみさん、早く逃げてください!バスの来た道を戻っていけば三十分くらいで村に出ます。このまま、この二人についていったら、あなたは殺される!早く逃げてください」
混乱した頭の中で、なつみが理解できたのは『早く逃げて』という言葉だけであった。なつみは、新品の薄茶色のローファーが片方脱げたことも気にせずに、闘気を燃やす男3人に背を向け走っていった。
自分の周辺で何が起きているのか全く理解出来ないままに
――一体何なのだろう。私はただ、恋人に逢いに来ただけなのに。春風に誘われ期待に胸膨らませながら愛する人の下へやってきただけ。
神は、此処にきて私達二人に試練を与え賜うたのか。
――晴明、逢いたいよ――。
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2004/04/27(Tue)01:22:31 公開 / オレンジ
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■作者からのメッセージ
おかげさまで、第二章スタートしました。新規投稿しようかなあとも思ったんですが、もうちょっとここに続きを書きますね。
やばいです、全然話がまとまってこない!
はあ、どうしよう。人物出しすぎでわけわからないです。自分でも…。
読んで下さっている心の広い方々の感想、ご批判、お待ちしています。