- 『白い守護神』 作者:平乃 飛羅 / 未分類 未分類
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原稿用紙約8.95枚
飼い主は最期に一言だけ告げた。
「あなたは私の、白い守護神ね」
小さな白い猫が塀の上で寝ている様を、子供達はよく目にしていた。
白い猫は毎日登下校の子供達を眺めることを日課とし、それが終わればせっせと食料調達と寝床を探す。白い猫は家と家の隙間に入ってでも目立つので、やはり誰かによく見られていた。集合住宅というわけでもない。全ての子供達が登校した後、なんとはなしに白い猫が屋根の上から町を見下ろせば、先には広大な緑すら広がっていた。小さな白い猫にとって、その広い世界を見ながら、偉大なる太陽に腹を見せて寝ることがお気に入りだった。広い世界に広がるいくつかの屋根。一つ一つが違う色で、そこに住む人々の顔が、白い猫はとても好きだった。
十分に暖まった身体と、すっかり取れた眠気、元気になった白い猫が目を覚ました頃はちょうど子供達が下校する時間である。白い猫は身軽なステップで降り立ち、いつもの塀の上で子供達をずっと眺めていた。子供達もそんな白い猫をいじめることもせず、時には話しかけたりして、天使のような毛並みを優しく撫でた。
白い猫の朝は早い。日の出の前に起き、そして朝食を探す。白い猫の縄張りはとても狭かったが、夜中のうちに出されたゴミ袋から食べられそうなものを見つけると、食料をくわえて、ヒゲをぴょこんと動かしてから、家と家の隙間をゆったりと細長い尻尾を振りながら歩いていくのだ。
ある日、白い猫が屋根の上で寝ていると、突然大きな音がし、振動で目を覚まさせられた。何だといわんばかりに飛び起き、音の方へ猫が目を向けると、すぐ側の通りで道路の工事をしていた。白い猫がその工事をじっと眺め、そしてまた寝転がり、小さな寝息を立てた。
子供達の下校時間になり、塀の上でいつものように下校する子供達の姿をあくびしながら眺めていると、二人の少年と少女がじっと白い猫を見ていた。白い猫は目を丸くし尻尾をぴんと上に持ち上げて、不思議そうに二人を見遣った。二人はとても面白そうに微笑み、白い猫を抱え上げようとした。普段は大人しくしている白い猫は驚いて二人とは反対側の塀に飛び降りた。
次の日もまた、二人はそこにいた。
白い猫は二人から心なしか身体を離し、他の子供達を見守っていた。白い猫が遠くを歩く子供達の集団へ目を遣っていると、突然抱きかかえられた。あまりにもいきなりだったので、白い猫がじたばたと手と足を振り回すと、少年の方が慌てて手を離した。
──白い猫は、はっとして、耳を尻尾を伏せた。
少年は怪我をした手を背中に隠し、それでも白い猫に笑いかけた。白い猫は少年の背中へさっと回り込んで、その怪我をした手を舐めた。そんな白い猫を今度は少女が抱え上げた。白い猫は力を抜いて、大人しく抱きかかえられた。
「首の太さはこんなもんだねー」と、少女は嬉しそうに言う。白い猫にはその意味がわからなかった。
次の日、二人は来なかった。この日はとても晴れていて、透き通るような空を眺めながら白い猫はのんびりと過ごした。買い物帰りの女性から食べ物を貰い、お礼にとばかりに小さく鳴くと、女性は微笑んでから白い猫の顎の下を指先で撫でた。
さらに次の日、塀の上で寝ていたらその家の住人が「またお前か、そこが好きだな」と呆れた声で言ってきたので、やっぱり小さく鳴いてみた。
この日もまた、あの二人組は来なかった。
一日が過ぎた。今日は朝から雨が降っていた。
重たい雨は白い猫の毛並みをうっすらと汚していた。家の家の隙間で雨を避けようと努力したが、それも虚しい徒労に終わった。
登校の時間になると、白い猫はこの雨の中、例外なく塀の上で子供達をじっと見守っていた。白い猫を見かけた塀の中の住人が慌てて飛び出してきて「バカ、こんなところにいたら風邪引くぞ」と言ってきたが、白い猫はそれでも頑として動こうとしなかった。住人は長くため息をついてから、笠を差して子供の登校が終わるまで動こうとしない猫と一緒にいた。
「お前は、ずっとこの町の人を見ているんだな」
住人はそっと呟いた。
雨の中、猫はあの少年少女のことを考えていた。冷える身体を暖める術が無いのは仕方ない、だから二人の顔を思い出していた。
雨は午後になると益々その勢いを増していく。もはや嵐に近かった。
下校の時間になると、白い猫は濡れて痩せて映る身体を引きずるようにして塀の上に登り、そして登校する子供達を晴れた日とまったく変わらずに見守った。住人もまた、タイミングを計ったように出てきて笠を差し、そして白い猫の身体を暖かく柔らかいタオルでごしごしと拭いてやった。白い猫は細長い尻尾をゆっくりと左右に振った。
白い猫は突然立ち上がった。
全身の毛を逆立たせ、塀を飛び降りる、住人が驚いて声を出して白い猫を呼んだが、それに構わず白い猫は走った。黒い雨の中を走り続けた。
白い猫は足を止めた。そこにあったのは川を思わせる大量の水と悲鳴。白い猫は耳をピンとさせ、滴る雨の滴は首を振って払い落とした。それでもなお無数の雫は白い猫を打ちつける。本物の川と見まごうほどの大量の水は、猫の身体の半分以上を浸してしまう。
何度も何度も身体は流されそうになる。勢いのある水はどこまでも白い猫を死という海へ流すべく勢いづいて襲いくる。白い猫は黒い水に抵抗する。その白色はとても小さく、弱々しかった。だが、輝いていた。
白い猫が見据える先には、二人の子供がいた。
蒼白になって震える二人の元へ、白い猫は近付いていく。
そう、白い猫は守らなければならない。
この町の全てを。
白い猫は辿り着いた。二人の足下に、その全身を水の中に浸しながら。息を止めてまでそこまで来た。流れに持って行かれそうになる身体は今にも砕けそうだった。だが、それでも白い猫は最期の力を振り絞り、二人に捕まってよじ登った。
そして白い猫は、大声を出した。
喉が張り裂けんばかりに、天を貫くように、この二人を助けるためだけに、猫は鳴き続けた。
声は囂々と振る雨の中ですら、清涼なまでに透き通って町の全ての人々の耳に入り込んだ。その中のほとんどの大人は動かなかったが、あの塀を通って帰っていた子供達と、そして住人ははっきりとその声の主を理解した。
少年と少女は白い猫を抱きかかえた。
ぎゅっと、力を込めて。
それは不安からもあっただろう。だけど、そうまでして助けに来てくれたこの猫を、今度は助ける番だと気付いたからだ。
猫の身体から体温が失われていく。雨は強く強く、そんな白い猫から生きている証を洗い流していった。それはまるで削り取るように。
どんどんと遠くなる意識の中、白い猫は悟った。
己の最期の最期まで、自分を気に掛けてくれた飼い主。
あの穏やかな笑顔。
懐かしい、家。
それに似た少年と少女の優しさ。
──そう、だからみんなには失う哀しさを知ってほしくなかったんだ。
地面に罅の入った工事現場まで来た少年は、そこに空いた巨大な穴を強く睨んで、涙を流した。
雨を吸い込んだ地面が緩み、緩んだ地面から大量の水が溢れ出た。それがあそこまでの流れを作った。
その穴を開けたのは、当然ながら町の人間である。
小さな石を置いて。その石へはめるように、ピンク色の可愛い首輪がちょこんと置かれた。
少女は涙を流しながら「ばいばい」と手を振って、そこから離れていった。
白い猫は、町の守護神となった。
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■作者からのメッセージ
白い猫は飼い主の顔を見るなり、喉を鳴らして駆け出した。その足下に身体をなすりつけて、目を細め、頭を撫でてくれるようにねだる。飼い主は穏やかな笑顔のままで、白い猫を抱き上げて、その頭を優しく何度も何度も撫でた。
そして、暖かい陽射しの道を、のんびりと歩いていった。