- 『幸福論』 作者:来夢 / 未分類 未分類
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原稿用紙約6.65枚
消えてしまいたいほど絶望したり、泣きたいほどうれしくなったり、僕をこんな気持ちにさせるものが大事なんだ。
美術室は独特の油絵の匂いがする。
夏には涼しいほど風が入る部屋なのに、この部屋にはもう匂いが染み付いて消えない。
広い部屋の隅には卒業生が残していった絵や在校生が制作中の絵がばらばらに積まれていた。
そこらじゅうにおいてあるガラクタはモチーフ。
ガラスの瓶や昔のお笑い番組ではよく落ちてきたたらいまである。
壊れた扇風機は一年中放置され、手洗い場にはいろんな種類の筆が小さいバケツの中に立てられている。
僕は放課後毎日、ここで絵を描いている。
一人きりの美術部員。
先生さえたまにしか来ない。
でも僕は一人のこの時間が好きだ。
静かで、夕日のオレンジ色が暖かく、他には何もいらないと満ち足りた気持ちになる。
けれど今日は頭の中に、いつもより余計なものがあった。
「尚ちゃん、また絵描いてるの」
そういって部屋に入ってきたのは幼なじみの梨子。
童顔で、小柄で、もう17歳だというのにセーラー服を着ているとよく中学生に間違われる。原因はその二つに分けた髪を高い位置で結んだ髪型にもあると思う。
梨子は僕の前に立てられていたキャンパスを覗き込んだ。
「なぁんだ。真っ白じゃない」
僕は一時間近く、この真っ白のキャンパスと今日のモチーフのビニール傘を見つめていた。
「・・・」
描けない。
描いても描いても、少しも上手くならないない。
息が詰まりそうなほど苦しい。
「やっぱり美大なんてやめようかな…」
何度も思っていたけれど、口にしたのは今日が初めてだ。
梨子は椅子を持ってきて横に並んで座った。
「尚ちゃんならけっこういい大学狙えるって言ってたよね」
「・・・それで今日進路指導室に呼び出された」
勉強は嫌いじゃない。
ちゃんと授業を聞いて、テスト前にちょっと復習すれば学年3位は確実。
これであと一年必死で勉強したらいけるかもしれない。
「いい大学入って、弁護士か医者か」
「博士もいいかも」
「あとは可愛いお嫁さんもらって」
「尚ちゃんモテるからねぇ」
「安全、安心、平和な生活」
きっと弁護士になっても医者になっても努力はする。
そして努力したぶんだけ自分に返ってくる。
「いいかもな・・・」
小さい頃から絵を褒められた経験なんて数えるほどもない。
美術の先生が言っていたっけ。
小さい頃はみんな絵を描く。
けれど大人になるに連れて、見えているものと描いているものの違いに気づくんだ。そしてどうしても見たままを描けない自分が嫌になって、みんな絵を描くことから遠ざかっていく。嫌いになっていく。
でもどうしてだろう、僕は絵を描くことを嫌いになれなかった。
その数えるほどしかないけれど褒められた時は、本当に嬉しかった。
梨子は、そんな僕の心の中を見透かしたような顔をしていった。
「なんて言ってても、尚ちゃんは絶対止められないんだよね」
小学生の頃からの付き合いはだてじゃない。
梨子は僕が思っているよりもずっと、僕の扱いが上手いんだろう。
上手く描けもしないくせに、僕は絵を描きたいんだ。
僕は梨子を見て、自棄気味に笑って言った。
「ばかみたいだろ」
梨子は少しも間をあけず、即答で
「尚ちゃんはかっこいいよ」
そう言って、梨子はにこっと笑った。梨子は笑うと余計幼く見える。
ほら、やっぱり梨子は僕の扱いが上手い。
僕はその変わらない笑顔がずっと好きだったんだ。
その笑顔ひとつで、僕の心は簡単に幸せになれる。
「梨子、帰るぞ」
梨子を迎えに来たそいつはいつも、部屋の外から名前を呼んで声をかけるだけ。
「隼人、もう用事終わったの?」
そして梨子は、嬉しそうに声の主のもとにかけていく。
ピョンピョンはねている梨子の後姿は兎みたいだ。
やっぱり髪型が似ているからかな。
「尚樹、まだ絵なんて描いてんのか?」
「あぁ・・・」
「じゃあね尚ちゃん、がんばってね」
「まぁ、がんばれよ」
二人仲良く並んで、手まで繋いで帰っていった。
その後ろ姿をただ見送るだけの僕。
たったひとり美術室にはさっきまでの静寂が戻った。
夕日のオレンジはもう暖かくはなかった。
「はは…ばかみたいだ…」
おかしくて一人で笑ってしまった。
例えばいい大学なら、がんばれば行ける。
例えば昨日告白してきた子なら、簡単に手に入る。
けれどそれじゃ少しも嬉しくないんだ。
悲しくても、苦しくても、無理だといわれても。
欲しいものは決まっている。
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2004/03/18(Thu)15:42:07 公開 /
来夢
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