- 『緑の瞳』 作者:仲村藍葉 / 未分類 未分類
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全角1746文字
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原稿用紙約6枚
私があの人と出逢ったのはもうずいぶん前の事。
ある街角のカフェで見かけたのが始まり。
静かにコーヒーを飲みながら何か難しそうな本に目を通す彼の鮮やかな緑の瞳がとても印象的だった事は今でも憶えている。
そんな昔話をするとあの人はいつも只「ありがとう」とだけ言って優しく微笑んだ。
私はそんな彼も好きだった。
あの人は絵描きを目指す青年で、いつも白いカンバスの前に座っていた。
「何を描いているの?」私は尋ねる。
あの人はその緑の瞳を揺らしていつものように微笑み、そうしていつものように私の質問の答えをはぐらかした。
まるで純粋なあの人の心のような真っ白なカンバスを前に、コンテが、絵筆が、線を、色を重ねていく。それはまるでひとつの世界を創り出すかのように。私は只その様子を傍で静かに見守るだけだった。
一体何を描いているのだろう。その、鮮やかな緑の瞳の見つめる先には一体何が映っているのだろう。わからない夢に希望を胸に馳せて、一体何に心奪われていたのだろう。
正体の見えないそれに私は少しだけ嫉妬した。
けれど、それ以上にあなたが好きだったんだ。
あの人と一緒に過ごすようになってどれだけ経ったろう。
私は彼が緑の瞳を少年のように輝かせ、カンバスの前に座っているのを見つめる。
その手はいつもコンテの黒や、色とりどりの油絵の具で汚れていたが、私にはそれは逆にとても綺麗で、神聖なものにさえ思えた。
それでも、同時にあの人を焦がれるあまりに嫉妬する。
あの人の一番はずっと絵を描くことで、絵描きになる事を夢見ていて。
嫉妬する、あんなにも好きだったのに。
焦がれる心は余りにも辛かった、そう感じた私はやはり辛くて。
「諦めないの?」と訊ねてしまった。
あの人はやっぱりただいつものように微笑んで、けれどもその時ははぐらかしたりはしなかった。
その所為では決して無いとは思いたいけれど、私には判らなかった。
それから暫くして、あの人はいなくなった。
私に何も云わずに、あの人はいなくなった。
鮮やかな、彼の緑の瞳のような草原をカンバスいっぱいに描き残して。
白い白いカンバスから様々な緑で塗り重ねられた草原。
それはまるで彼の心だと思った。
あの人はきっと自分のために旅立ったのだろう。
緑の瞳に光をいっぱいに讃えて、その身一つで夢のために旅立ったのだ。
ほんとうに。
夢ばかり追いかけるあの人を見て、私は時々呆れたりもしたけれど、あの人はそのたびに優しく微笑むものだから、此方もつい笑ってしまい、何だか優しい気持ちになっていたのだ。
子供のような心の貴方だけれど、
結局好きだったんだ。
あの人はまだ帰ってきていない。
私はあれからいつも同じようにあの人を待った。
一緒に過ごした家で、彼がカンバスの前で座っていた椅子に座り。
緑の瞳が見つめていた景色を眺めながら。
時にはあの人と始めて出逢ったカフェで珈琲を飲みながら。
緑の瞳が読んでいた難しそうな本を手に。
あの人はその本を家に残していた、栞を途中に挟んだ状態で。
大切な、本だと言っていた。
きっとあの人は帰ってくる。
本の続きを読むために。
あの人は本は最後まで読まない気がすまない性格だったから。
それは私が、私だけが良く知っている。
きっと本の続きをその緑の瞳で読むために帰ってくる。
そして、私のために。
あの人は約束は絶対に守ってくれる人だったから。
誕生日プレゼントも、クリスマスのお祝いも、夕飯も。
どんな事も約束した事は破ったりしない人だったから。
緑の瞳をしっかりと私に向けて、約束した。
「君のために描いた絵で絵描きになって、その絵を君にプレゼントするよ」
まるで睦言のように思い出すたびに私に向けた言葉。
「好き」や「愛してる」よりも多かったのではと感じる位に。
あの人の一番は絵を描く事で、絵描きになる事を夢見ていて。
だから、その絵を私のために描いてくれる事はそんな言葉よりも嬉しくて。
ああ、だから逢えなくなってからも好きなんだ。
今日も私はカフェの一席にいる。
昔、正面に座っていたあの人の、鮮やかな緑の瞳を忘れないように。
私は貴方がこの街にいた事実を忘れないように。
貴方も、貴方の育ったこの街も大好きだから。
私は、ここにいる。
+++Fin+++
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■作者からのメッセージ
シリーズものとして立てた後に企画倒れたもの。
モノローグ系の掌編小説は読むのも書くのも好きなんです。