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『ヤスイチ! 完』 作者:葉瀬 潤 / 未分類 未分類
全角39790文字
容量79580 bytes
原稿用紙約128枚
 
第一話 <スマイルマン>

 
 あたし、死にたいと思っているの。今。
 
 藤沢遥。受験を明後日に控えている中三です。
『成樹高校』の合格点はそう高くないので、多分受かると先生は言ってくれました。微妙です。
 あの学校は人がうじゃうじゃしています。あたしの中学校からは、数人の先輩たちがそこに通っていますが、みんな本当にそこで楽しい学校生活送っているのかと、疑ってしまいます。
 あたしの死にたい理由―受験というプレッシャーに押し潰されました。
 正直、この苦しみから抜け出し、緊張した精神状態をリセットするためには、これしかないのだとあたしは解決策をみつけました。
 遥は屋上の手摺りから、運動場と真下にあるアスファルトを見下ろした。
 今日は先生以外誰もいない昼。授業が午前ですべて終わり、生徒たちは一斉に帰った。遥は、誰もいない校舎を歩き、静かにここにたどり着いた。
「あぁ。これから死ぬってゆうのに、あたし誰にも別れの挨拶してないや。・・・あ! 遺書さえ残してない! ヤバッ! あたし全然準備できてないや!」
 遥は急いで鞄の中身をチェックした。筆記用具。借りた漫画。
 教科書とノートは教室に置いてきてしまった。
 遺書を書くための紙すらなかった。
 なら、携帯で誰かに別れの挨拶を。と思ったが、遥は思い出した。
 母親が「合格したら携帯を買ってあげるわ」と昨夜にいったことを。
 まさに最悪。誰にも最後の言葉や声も伝えられず、このまま死んでいくなんて。無念だ。
 遥はバタリと倒れた。床に俯いた。気が向いたら飛び降りよう。それかドラマみたいに誰かがあたしを説得してくれるのを待とうかな。
 いろいろ考えたけど、飛び降りる合図は、鳥の羽音が聞こえた時にしよう。鳥のように飛び出し、くさった林檎のように落下して潰れる。これがあたしの最期。これですべてから解き放たれるのかな?
「それって、逃げてるだけっしょ?」
 遥の心の中を読み取ったように、男の声はあっさりそう言った。
 彼女が起き上がると、私服姿の青年が目の前に現れた。
「誰よ?」
 あきらかにこの学校の生徒でも、教育実習にきた若い先生でもない。今事件になっている、校内の不法侵入者か。
「やぁ! 僕はtama(タマ)。君はここの生徒だよね?」
 ふざけた名前を名乗る青年。
「そうよ」
「名前は?」
「藤沢遥」
 tamaはニコニコとこちらをみている。気持ち悪いというより、この人は本当に人間なのだろうかと、ちょっと興味を持った。その瞬間に遥の警戒が解かれた。
「僕はここの卒業生。さっきお世話になった先生達に挨拶してきた帰りにここに寄ったんだけど、まさかこれから自殺する人と知り合うとは」
 屋上を見渡しながら、tamaはここに来た経緯を勝手に話してくれた。 これから自殺する人−遥をみても、tamaは動揺するより、逆になにかを楽しんでいる感じだった。
「あなたはこれからあたしが死ぬのを、見届けてくれるの?」
 遥はゆっくりと飛び降り現場へと歩いた。tamaはしかたなさそうな口調で喋った。
「一人の人間として、死に急ぐ若者を見逃すわけにはいかないな」
「なら、引き止めてくれるの?」
 手摺りの上に足を置いた。
「それでも死にたいなら、僕はその死に様を見届けてやるよ。でも、君が死ぬ理由なんて、今の苦しい状況から逃げるための『死』しかない。本当に死ぬ覚悟があるなら、それなりに人生楽しんでからにしろよ」
 さっきまでの優しい声が、一変して、痛い言葉を発した。
 tamaは煙草に火をつけた。年齢がまだ十代にみえても、その雰囲気はまさに大人だった。
 遥は圧倒されたものを背中に感じて、無言のまま足を床に下ろした。
 そのまま恐る恐る振り返ると、またあの明るいtamaがそこにいた。
「よし! よくぞ生き残ってくれた!」
 あいかわらずニコニコしている。遥はその笑顔が「偽り」だとは思わない。 あんなに四六時中笑っていたら、自分の場合は顔が筋肉痛になってしまうぐらいなのに。変な意味で、彼を尊敬してしまった。
「あたし、受験頑張ってみる」
 遥は決意した。もう日にちはないが、とにかく諦めずに頑張ってみようと。
 そして、もし高校に合格したら、tamaのように楽しい生活が待っているのだ。そう、毎日笑っていられる日々がそこにある。
「なら、遥にちょっとしたおまじないを教えてあげるよ」
 煙草を口にくわえたまま、tamaは遥の手をとり、指で掌にわかるように書いた。
 それは≪ヤスイチ≫という短い言葉。
 遥は首を傾げた。その言葉も意味も分からないし、どういうおまじないの呪文なのかも見当がつかなかった。
「ねぇ、これってどういう意味?」
 自分の掌を指しながら、tamaに聞いた。
「この言葉はね。大切なときに使うのだよ。まぁ。それ以外の場合は、気合で頑張れって感じ」
 それでも意味が分からない。
 さらに追求しようとすると、tamaは笑ってごまかすのだ。
「遥が合格することを祈ってるよ」
 tamaは帰り際、遥に励ましの言葉を贈った。今日会ったばかりの人と短時間で親しくなれたことに、遥はとても嬉しかった。
「ありがとう」
「で、どこ受けるんだ?」
「成樹高校だよ」
「なら、遥の学校生活は楽しめること間違いなしだな!」
 tamaはその学校について詳しく知っているらしい。彼にそういわれると、将来に自信がついてきた。
 彼とまた会う機会はあるだろうか。
 なんてさっぱりした性格。自称tamaは中学校を後にした。

 
 数日後、遥に成樹高校から合格通知が届いた。 


第二話<ハッピーフレンド>

 あれから二年が経った。
 2−Cの教室。一時間目から、中間テストが返ってきた。
 遥はドキドキしながら、化学の答案用紙をゆっくり開いた。
「・・・あ〜、微妙な点数だ〜」
 ため息をつき、その点数をじっくりみた。46点だ。
「ねぇ、千秋はどうだったの?」
 遥は首をのばし、隣に席にいる千秋の答案用紙を盗み見しようとした。千秋は得意気な表情で、遥がみやすいように答案用紙を傾けてくれた。96点だった。
 遥は圧倒された点数と自分の点数を何度も見比べた。
「なんでこんなに難しいのがわかるの?! あたしなんて一問目から挫折したのに」
「基本的なことをちゃんと勉強していたら、こんなの楽勝よ」
「千秋と点数を競うなんて、やっぱり勝ち目ないよ」 
 遥は黒ペンで、「46点」と「96点」をメモ帳に書いた。横で千秋がクスクスと笑っている。
 最後に答案用紙を返された誠が、二人のもとにやって来た。彼も二人と点数を競っている一人だった。
「誠、何点なの? 早く点をみてよ」
 遥は落ち着かない態度で、誠を急がせた。彼は軽く咳払いをし、答案用紙の右上の点数をみた。
 千秋はあまり誠の点数なんて興味がなかった。この三人で点数を競うといっても、実際は遥と誠との勝負みたいなものだった。
「んで、遥の方は何点なんだ?」
「46!」
 遥は白い歯をみせた。それを聞いた誠はがっくりと肩を下ろし、机に倒れこんだ。なんてオーバーな奴なんだと、千秋は横目でみた。
 それでも遥は面白がっていた。誠から答案用紙を取り上げ、千秋と一緒にその点数をみた。
「44!」
 二人は同時に声をあげた。なんて不幸な数字なんだ。
 たった二点差なのだが、誠と遥にとっては重大な点数差だった。
 誠はむくと起き上がり、そこから言い訳が始まった。
「答えを一個書き忘れてたんだ。それさえ書いていれば、絶対勝っていたはずなんだ!」
「はい、うそ」
「・・・悔しいが、今回はおまえの勝ちだ」
 誠はいつも遥に負けている。それもわずかな差で。そして、千秋だけが知っている。遥と今楽しく喋っている誠が、実はものすごく悔しがっていることを。
「今回もわたしが勝ちよ」
 千秋のキツイ口調が横から入ってきた。
 最初からこういう結果になることがわかっていても、内心千秋も楽しんでいた。誠も遥もそれは知っている。
「結果発表です! 最下位は誠に決定!」
「マジで?!」
「誠、あんたほんとに勉強してるの? 遥より悪いわよ」
「努力はしてるよ。ただ・・・やる気がないだけ!」
 誠は笑って、その場の雰囲気をさらに盛り上げようとした。千秋はものすごく冷めている。一方の遥はというと笑っている。
 同じ中学校出身の彼と千秋。見ている人からみたら、ぎくしゃくした印象だが、これでも仲がいい二人だからすごいものだ。
「じゃ、罰ゲームということで、明日から三日間! 昼食代よろしく!」
「よろしくね」
 二人の女子が愛想よく彼に手を振った。それに対して、誠は恐る恐る財布の中身をチェックした。果たして三日分の昼食が買えるかと不安に思った。
 誠はため息を洩らし、その様子を遥と千秋がおかしく笑っていた。
「笑い事じゃないぞ!」
 声は怒っていても、誠も楽しそうだった。

 二人と出会ったのは一年生の時だった。初対面が多いクラスメイトが教室にあふれている中、遥に初めて声をかけてくれたのは千秋と誠だった。気の強い千秋と、調子のいい誠。二人とも根がすごく優しくて、遥はすぐに二人を受け入れることができた。
 まるで姉と弟のような存在。彼女はそんな二人が大好きだった。
 今日も遥は楽しいひと時を過ごしている。

 休み時間が残り少ない中、遥はトイレに走った。
 女子トイレの奥には、いつも変な箱が設置されている。
 カップル成立を証明する『契約届』と、カップル消滅を証明する『解除届』の書類が、あの箱に入れられて集計されているのだ。
 この成樹学校の人気の秘密は、恋人がすぐにできるということ。そう、約90%がカップルだ。遥は、そんな恋愛には興味なかった。
 今が楽しければ、それでよかった。
 遥が奥のトイレから出ようと立ち上がったとき、女子の声が入ってきた。その声からして、遥の中学校時代の同級生だった。雰囲気が苦手なタイプなだけに、遥は便座に腰を下ろし、そのまま待機した。
 二人は化粧直しにきていた。
「ね、あの子最近どう思う?」
「あの子って?」
 彼女たちは化粧をしながら会話を始めた。遥はこっそり耳を澄ました。誰かの悪口をいっている。
「なんかさ、すごく明るい顔になってるよね? 前は地味な子だったけど」
「そうよね。高校で男と初めて喋るもんだから、調子に乗ってるのよ」
「なのかなぁ。わたしにはどうでもいいことだけどね」
 ここまでは、フツーに彼女たちの会話を盗み聞きできた。
 物音を立てずに潜むというのは、とても大変なことで、彼女たちは奥のトイレに誰かが入ってるなんて知らないで喋っていた。
 そして、話題はどんどん広がっていった。
「あの子、死のうとしてたらしいわよ」 
「なんでまた?」
 遥の胸が痛み出した。
「なんか、友達が運動場から見たっていってたわ」
 心臓の鼓動もバクバクと聞こえてくる。
 この人たちの話している人物って― 
 お願い、その名前をいわないで!
 遥は耳を塞いだ。だけど、嫌でも聞こえるのだ
「藤沢さんって、あの時存在感なかったよね」
「今でも、なんか無理している感じだし」 
 女たちはクスクスと笑いながら、化粧を終え、トイレを出て行った。 
 しばらく時間が経った後で、遥はゆっくりとトイレのドアを引いた。誰もいない。でも耳にはあいつらの笑い声が今でも残っている。
  藤沢遥という存在を、否定された。
  今の高校生活を「無理」してるって。 
  ちがう。
  すごく楽しいから笑っているの。
 「偽り」なんて、ないと思っているの。
  あの二人といるときは・・・・



第三話<グッドボーイ>

 学校から帰ってすぐに、遥は必ず鏡と向き合っている。
ちょっと前に同級生に「あのこと」をいわれてから、ずっとそれが習慣になっていた。
「今日もちゃんと笑ってるよ」
 笑って自分に言い聞かす毎日。あれから不安に駆られた。
 千秋と誠は何も言ってこないけど、他の子から見たら、あたしのすべては『偽り』なんだ。最初は何度も否定した。でも、なんとなくそうかもしれないなって思ったら、そんな自分を認めてしまった。
 遥はベッドに倒れこんだ。布団のフカフカな感触が、こんな不安を吸い取ってくれたらいいのに。このまま寝てしまえば、しばらくは忘れることができるのにね。遥は静かにため息をついた。
「tamaさん、全然楽しくないっすよ。嘘つき・・・」
 二年前に出会った懐かしい人の名前がでてきた。あの人は今何をしているのだろう。まだこの街にいるのかな? またあの笑顔に救われたい。
 もう外は暗かった。カーテンを閉めようとベッドから起き上がった。ガラスの窓は触ると冷たかった。なんとなく窓に頭をつけた。ヒンヤリとした感覚が伝わってくる。
「・・・それなりに人生楽しみますか」
 tamaにまたどこかで会えることを信じて、遥はカーテンを閉めた。
「ヤスイチ・・・」
 まだその言葉を覚えていた。部屋から出ようとしたとき、その単語が自然に口からでた。結局は、何の意味かは教えてくれなかったけど、大切なときに使うおまじないだと彼は言った。
 あの時のtamaはいつも笑っている。
 こんな辛い時に直面したら、貴方ならなんて言葉をかけてくれますか? 
 遥はその夜、夢の中で彼の背中を追いかけた。


 千秋がまだ学校に来てなかった。
 彼女が学校をサボるわけがないが、遥には何の連絡もなかった。
 心配もしながら、朝のチャイムが鳴るのを待った。
「よう!」
 誠はいつもギリギリで教室に入ってくる。
自分の席に向かう前に、遥に元気よく挨拶をした。
「千秋が来てないけど、なんか知ってる?」
「俺は何も聞いてないぞ。どうせ遅刻だろう」
「あたしより早く教室くるのに?」
 遥は隣の席に視線を送った。
 彼女が来てくれないと、この一日は退屈でしかない。誠がいても、彼女がいないと何かが物足りない。
「どうせ風邪でも引いたんだろ?」
 誠は陽気な声でいった。それでも遥の沈んだ横顔をみて、彼は嘆息した。
「俺がいるだけじゃ、不満か?」
「ううん、そんなことはないよ!」
 遥は大きく首を振った。
「それを聞いて安心した」
 誠は笑って、自分の席に着いた。
 彼がいるとわかっていても、隣の空席がやはり気になった。
 昼休みだった。千秋から遥にメールがきたのは。
 誠がその内容をじっくり読んだあと、ホッとしたように息を吐いた。
「心配して損したぞ!」
 誠は、千秋のいない椅子の背にもたれかかった。
「盲腸だよ! 千秋は盲腸で入院したのよ!」
 遥の動揺する姿をみて、誠は楽しんだ。
「手術さえすれば大丈夫だから、焦るなよ」
「でも、手術したあとって、しばらく痛みが続くんでしょ?」
「そうだな。笑ったりしたら、絶対腹筋が痛いだろうな。変な冗談なんかがツボに入ったら、間違いなく笑い死に決定だな、これは」
「うん。だから『見舞いには来なくていい』ってさ」
 それから数分後に来たメールも、誠に見せた。
「くそー! あいつが顔を歪めて笑いに堪えている姿をみたかったのに、阻止をしやがってぇ」
誠は惜しい気持ちでいっぱいだった。遥は少し苦笑い。
「んじゃあ、千秋しばらく学校来ないね」
 メールを返信した。
「それまでは二人しかいないけど、あいつが帰ってくるまでの辛抱だぜ!」
 誠はいつものように明るかった。
その持ち前の明るさが、遥にとってどこか羨ましいものがあった。


 放課後。
 いつもは三人で帰るこの道だけど、今日から少しの間だけ二人きり。男女が一緒に帰るなんて、まるでその関係は恋人みたいだった。  
 カップルが多いといつも実感しているのは、下校の時だった。
 男女が並んで帰る姿や、自転車を二人乗りして坂道を降りる景色は、もう見慣れてしまった。それを冷やかす生徒なんて、この学校にはいない気がした。
 そう、みんな毎日が幸せなんだ。
 今しか感じることができない至福のひと時を、必死で感じようとしている。
 あたしは、応援したくなるよ。
「あいかわらず、カップルだらけな学校だなぁ」
 誠が感心したような声をあげた。
「そういえば、誠っていつもあたしたちと一緒にいるけど、好きな子とかいないの?」
 遥は質問をした。
 唐突なことに彼にとってびっくりしたらしく、答えるより慌てた。
「お、俺は25歳まで彼女は作らない主義なのだ」
「へえー。あたしはてっきり千秋のことが好きなのかなって思ってたけど、外れちゃった」
「その根拠について詳しく聞きたいほうだよ」
「だって、すごく二人仲がいいじゃない!」
「それは幼馴染だからに決まってんじゃん」
 呆れたように、誠は遥の頭を軽く小突いた。
 
 誠といる時も楽しいよ。
 でも、誠はなんでも冗談で片付けそうだから
 深刻になりつつある「悩み」もいえずにいる。
 今だけはすべてを忘れたい。


第四話<アゲイン>

 成樹高校から続く坂道を下りてすぐのところにコンビニがある。
 下校する生徒たちがよく寄っていくので、店の売り上げはかなり伸びている。
 コンビニの自動ドアが開き、誠と遥は店に入った。
 遥は入ってすぐにおにぎりのコーナーへと走った。そして、一つのおにぎりを手に取り、目を輝かせた。
「期間限定! いくらの醤油漬けおにぎりをついにゲットしました!」
 誠はゆっくりと店内を回っている。
 いくらの醤油漬けおにぎり―売り切れるのが早いことで、いつも下校帰りの遥を泣かせている、レアなおにぎりである。なんとか今日は売り切れることもなく、安心して買えるようだった。それも五個も売れ残っている。
「誠! 誠! ついに手に入れたよ!」
 狭い店内で、遥の大声が聞こえた。誠は少し恥ずかしそうにこちらに歩いてきているが、今の遥は気にしてはいなかった。
「で、遥は買うものはそのおにぎりだけでいいのか?」
 誠の手は、スナック菓子と飲料水を持っていた。遥は満足そうに頷いて、いくらの醤油漬けおにぎり五個を持って、レジに急いだ。
「あいつ、飲み物は買わないんだ」
 ぽつりと呟いた誠だった。今はそれどころではないらしい。誠は彼女の隣のレジに並んだ。
 店員がレジに値段を打ち込んでいく。遥の視線はずっとおにぎりだけをみていた。
「全部で840円になります」
 食べる光景を思い浮かべながら、遥はいつもどおりに鞄から財布を取り出そうとした。財布を自宅に置いてきたことを知らずに。
「ない・・・」
 鞄の奥底を調べても、財布を感触はしなかった。すぐに動揺した。後ろの客がわざとらしい咳払いをして、さらに彼女を焦らせた。 
 頭が真っ白になっている中、店員の声が聞こえた。
「お金がないのであれば、僕のほうで立て替えましょうか?」
 なんて心優しい店員さん。ここのコンビニは無愛想な店員しかいなかったはずだが、遥は救われて気持ちになった。
「あ、ありがとうございます! この恩は忘れま・・・」
 遥はここで初めて顔を上げた。
 フツーのコンビニの店員ならば、それは営業スマイルだ。でも、それがtamaなら、遥は嬉しさもあまり声を上げた。
「た、tamaさん!」 
 もうおにぎりなどどうでもよかった。遥は飛び込んでいきそうな勢いで、レジ台に手をついた。
「久しぶりだね、遥ちゃん。でもね、お客さんが後ろで待っているから、先に通してあげて」
 tamaがそういうと、中年の男性が遥を押し退けて、弁当をレジに通した。
 待たされている誠は、遥と親しそうに話している店員が目に入った。
 tamaの胸元には店員が必ずつける名札があった。それに気づいた遥は、彼の本名を知ることができた。
 玉置雄也(たまき ゆうや)。それがtamaの名前だ。
 さっきの中年の男性が遥とすれ違った。彼女がレジのほうをみると、tamaがこちらに呼んでいる。
 その時は誠のことなど頭になかった。足は自然にtamaへと向かった。
「どう? 学校楽しんでる?」
「なんとか・・・」
 遥は苦笑いをする。tamaは愛想よく、未払いのおにぎりをビニールに入れた。
「なんか問題でもあった?」
 遥に商品の入ったビニールを渡した。
「なんか、自分自身が信じられなくなっちゃったみたいなの。多分、これからすごく深刻になっていくと思う」
「そんなに悩んでいたら、彼が心配するよ」
「彼?」
 遥が首を傾げると、tamaの視線が、誠をみた。彼はこちらに背を向けた状態で、雑誌コーナーで立ち読みしていた。
 遥は首を横に大きく振った。
「いっときますけど、彼氏とかそういう恋人関係じゃありませんから」
 誠には聞こえないようにこっそりと喋った。tamaは腕を組み、その顔はやはり楽しそうに微笑んだ。  
「遥ちゃんはそう思っているかもしれないけど、相手はどう思っているかな?」
「ただの友達です」
「わからないものだよ。男と女なんて」
「お金ありがとうございます!」
 遥はそそくさとレジから離れた。誠を待たせていることに気づいて、彼の元に走っていった。
 誠は深刻に思っているほど気にしてはいないようだった。それでも遥は何度も頭を下げて、誠に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。そこで少年はニヤリと何かを企み、彼女の持っているビニールから一個のおにぎりをとりだした。
「あ! それは貴重なおにぎりだよー」
 遥は泣き出しそうな声を上げた。
「これをくれたら許してやるよ!」
 そういって、誠は一瞬だけレジにいるtamaをみた。彼と目が合った。 tamaは驚く表情すらみせず、ただニッコリと笑ってみせた。誠はそれを睨み返すように、店をでていった。遥もそれを追うように店をでた。
 客のいなくなったコンビニ。tamaはポツリとレジにいた。
「アハハ、あの男子に嫌われたみたいだな。でも、遥ちゃん。君が思っているより、学校生活は楽しいと思うよ」
 そうtamaは言った。

「あれ誰?」
 誠はたずねた。
 二人の帰る方向は途中まで一緒だった。
「tamaさんだよ」
 遥は元気よく答えた。その反応は、彼にとってすごくひっかかる部分だけに、あえて顔にはださなかった。
「もしかして、彼氏っていうやつ?」
「まさかぁ。あたしの尊敬する人だよ! 中三の時に、ちょっといろいろあってね」
「ふーん。そうなんだ」
 それだけ聞くと、誠は何もいわなかった。
 しばらく沈黙が続いた。誠を隣りに遥は歩きながらおにぎりを食べていた。この味を味わうのはまさに一年ぶりだった。
「千秋の見舞いとか行く?」
 誠は話題を変えた。
「誠は行くの?」
「俺が行ったら迷惑そうじゃん?」
「そうかなぁ? 行ったら千秋が喜ぶと思うよ!」
 横の彼女の声を聞きながら、誠は空を見上げて短いため息をついた。彼らしくない沈んだ横顔がその時みえた。
「どうしたのよ? 誠らしくないよ」
「パワー切れです・・・」
 誠の気の抜けた声が聞こえた。その時はまた冗談をいっているのだと思った。
「どうしたら元気になるのですか?」
「そうだなぁ・・・」
 言葉を考えながら、誠は遥の目をジィーとみた。
「・・・遥がいつも笑ってくれたら、元気百倍になるかもしれないな」
「プッ、なにそれ」
 遥は噴き出した。それをみた誠もとりあえず笑った。
 
 誠が自分の「偽り」に気づいているのか。
 まだ彼と笑える日常が続くなら、限界まで頑張ってみようと思ったりもした。
 その一瞬だけ、遥の脳裏に不安がよぎった。



 第五話<テルミー>

 土曜日の昼。遥は一人街を歩く。
 菓子類などを持っていきたかったが、遥にそんな物を買う金はなかった。 遥は久しぶりに、近所の病院に足を運んだ。健康体の彼女にとって、その建物とは無縁の付き合いだが、今日は千秋の見舞いに来た。
 千秋は元気そうだった。部屋のドアを開けると、昼のドラマを真剣に見ていた。
「見舞いは来なくていいって言ったのに…」
 千秋の髪はボサボサだった。くしに手を伸ばし、髪をといていく。
 遥はその間、棚の引き出しを開けた。裏向けてある二枚の写真をみつけた。
「ねぇ、何この写真?」
「あ、それはね―」
 千秋が言うより早く、遥は写真をめくった。
 血で真っ赤になっている物体。それがフラッシュで撮影されていた。ホラー映画によく出てきそうな、人間の臓器の色をしている。
「それが、切り取った盲腸だよ」
「みちゃったよ、みちゃったよ!」
 顔が青ざめ、遥は写真を慌てて引き出しに戻し、勢いよく閉めた。
「夢にでてくるよぉ。ゼッタイ…」
 遥の脳裏には、すでにあの物体が焼き付いている。その様子に千秋はクスクスと笑った。
「笑うときって、やっぱり手術した部分が痛むの?」
「あれはまさに地獄。面白いテレビをみても我慢しないと、ほんとに痛いから。今もちょっと笑えば痛むけどね」
「誠が言ってたよ。変な冗談がツボに入ったら、間違いなく笑い死だって」
「あいつが来たらほんとに大変よ。よかった、遥だけが来てくれて」
 千秋の視線はどこか、外の廊下をみている。それから誠が来ないことを知ると、彼女の目は遥だけをみるようになった。
 遥はその時確信した。
「千秋は、誠が好きなんだ」
「その根拠は?」
「なんとなく。千秋と誠の仲のよさをみればわかるわよ」
「それは、幼馴染だからに決まってるじゃない」
 あの日の誠と同じセリフを聞いた。
 それでも千秋の口から真実を聞こうと、遥はそれなりに必死になった。
「でも、幼馴染から恋愛に発展する確率ってあるじゃない?」
「それでもわたしと誠は幼馴染のまま。幼馴染のままじゃいけないの?」
 千秋が本気で怒りそうだった。
 気づかないほど鈍感ではない遥はすぐに口をつぐんだ。
「ごめん、しつこく聞いて」
 なんだか一気に気まずい空気が漂って、彼女はついさっきのことを後悔した。こんな時に冗談言って場を和ませるのは、やはり誠の役目だ。あぁ、彼を連れてくればよかったなと内心思った。
 千秋は髪の先を触りながら、口を開いた。
「遥だからいうけど、わたしは誠が好きよ。でももう過去の情だから」
「…好きだったの? 誠のことが」
 千秋が躊躇いながらも頷いた。
「付き合ってたのよ、私たち。中二の時にね。でも、誠から言い出したの。『友達に戻りたい』って。未練とかはできるだけ顔に出さないようにしてたけど、結局は態度にでちゃった。あっちが今のわたしをどう思っているのかわからないけど。今あるのは幼馴染っていう唯一の繋がりだけ」
「じゃあ、千秋は誠ともう一回やり直したいって思っているの?」
 遥は問う。
 好き―じゃなくて、好きだった。
 幼馴染じゃなくて、恋人だった。
 遥の知らないところで、始まりと終わりがあった。今も揺れ動くものは、二人の心なのか。それとも片方の心?
「本音をいうとやり直したい気持ちがあるわ。でも、誠がわたしのことをどう意識しているか、すごく不安な面もあるの」
「なら、あたしが聞いてきてあげる!」
 遥はひらめいた。彼女がイスから立ち上げると、千秋はそれを引き止めた。
「でもやっぱり無理だってわかってるから。遥にも迷惑かけたくないし」
「大丈夫! あたしたち友達じゃん! 困ったときは助け合う! 千秋が退院するまでに、聞いといてあげるから。安心してよ」
 ただ千秋の喜んだ顔がみたかったかもしれない。
 誠と千秋がまた復活愛したら、なんか友達としての株があがるんじゃないかと、変な欲まで湧き上がった。
 上から降りてきたエレベーターが、遥のいる三階に止まった。
 誠から本音を聞き出すのは簡単だと思ってた。
 扉が開くと、遥は見覚えのある人物とまた再会してしまった。
「遥ちゃんも、誰かのお見舞いに来たのかい?」
「tamaさんも誰かのお見舞い?」
 不思議というより、この街が狭いだけかもしれない。tamaとまたこうして再会できるのは。
 二人が乗ったエレベーターが、下に静かに降りていく。


第六話<フロム ハッピー トウー サッド>
  

 ロビーにある自動販売機。
「盲腸で入院なんだぁ。それは大変だな」
 tamaはそういってコーヒーを飲んだ。
 遥も長椅子に座って、彼から缶ジュースを受け取った。
「そんなに大変なんですか?」
「いやぁ、僕も経験したことあるからね。なんなら最初から話してあげようか?」
 一口飲んだあとで、遥は首を大きく振った。tamaが残念そうに苦笑したのがみえた。
「ねぇ、tamaさんは誰のお見舞いに来たの?」
 次は遥が聞く番だった。
「たいしたことはないのだけどね。僕の恩人がね、バイク事故でまた入院したんだ」
 tamaは飲み終わった空き缶を、ゴミ箱に捨てた。
「その人、よく事故とか起こす人なの?」
「うーん……。多分これで三回目だと思うよ。僕が見舞いに来たのはこれで三回目だから。それ以前にも、けっこう事故起こしてるから、危なっかしい人だよ」
 tamaが「その人」について語りだすと、顔が楽しそうに笑っている。それは四六時中みる笑顔とは違った感じがした。tamaの横顔を見つめながら、遥はふと思ったのだ。
「その人って、tamaさんの彼女ですか?」
「まさか。男の人だよ」
 
 
 病院を出た。ほんとはもっと長居をしてもよかったが、tamaのバイトの時間が近づいているということで、遥は途中まで彼と一緒の道を帰る。車の騒音がうるさい大通りを外れて、二人は静かな旧道を歩いた。
 遥は迷っている。彼の後ろを歩きながら、携帯を握り締めた。tamaと別れるまでに、勇気を振り絞って携帯番号を聞きたいのだ。
「…遥ちゃん」
 tamaの声が聞こえて、遥はギョッとして携帯を背中に隠した。
「な、なんですか?」
「またさよならだね」
 分かれ道が近づいていく。遥は焦った。次に再会はするのはいつになるのだろうかとか考えた。でも、高校の近くのコンビニでバイトしているからいつでも会えるか。ホッとした反面、彼と会う機会がそれだけとなると、虚しい気持ちが押し寄せてきた。
「あ、あの!」
 遥は一歩前に出て、tamaの足を止めた。彼とまたこうして話せる日が来るためには、行動を起こさなくては。
 携帯をつきだして、tamaを真っ直ぐに見た。
「番号教えてください! できればメールアドレスも」
 心臓がバクバクしている。人に携帯番号を聞きだすのにこんなに勇気がいるとは。そこでふと思う。
 (あたしはあの時、自殺をする勇気あったのかな。それとも自殺するのに勇気っているの?)
 tamaはしばらく固まった。笑顔なく。はじめはこんな自分勝手な彼女に腹を立てているかもしれないと不安に思った。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 迷惑でしたよね……」
 遥は頭を下げた。顔が熱かった。そして、返ってきたtamaの言葉は、すこし照れが入っていた。
「あまりメールする人いないから、遥ちゃんとメールできるなんて嬉しいな。積極的なところにはちょっとびっくりしたけどね」
 彼は驚いていた。まだ知らない遥のそんなところに。一方の遥は安堵して、胸を撫で下ろした。 
快く番号とアドレスを教えてくれた。
tamaのバイトの時間が迫っている。遥はとりあえずアドレスだけを打ち込んで、彼と別れた。
「もしかしたら、返すのが遅れるかもしれないから。ごめんね」
 tamaの最後の言葉。遥は手を振ってそれを見送った。
 彼はバイトを掛け持ちしているのだろうか。遥は手を下ろした。
 あのコンビニとは全く違う方向に、tamaは走っていく。


 遥は孤独を感じる。千秋が盲腸で入院するまで気がつかなかった。
 遥はそれまで、他の女子とはあまり接触した記憶はなく、あったとしても挨拶ぐらいだ。誠が教室に来るまで、遥は一人きり。教室の後ろにいる女子の冷たい視線が向けられそうで、ビクビクしていた。
 誰も話しかけてこない。誰にも相手にされない。こんな状況を味わうのは、久しぶりだった。
 いつもそばには千秋と誠がいて、遥には安心できる環境があった。
 大丈夫。千秋が退院したら、またもとの環境に戻る。それまでは我慢しなくてはいけない。
 他の女の子のグループに入ってしまったら、自分は自分じゃなくなるから。
 気を紛らわせるために、遥は携帯をだした。tamaにはまだメールを送っていなかった。どんな内容を送っていいのかわからないのが本音だが、彼女はとりあえずボタンを操作して、文字を打っていく。

 『遥です。あの、ヤスイチの意味って何ですか?』

 今、彼とメールすることに意味があるとしたら、これしかない。メールは送信された。
 果たして返事はもらえるのか。
 ちょうど予鈴が鳴った。誠が教室に姿をみせた。
 やっと仲間がきた。
「よう! なに暗い顔してんだよ?」
 誠はいつものように、遥に挨拶をしてくれる。
「なんか悩み事でもあったか? 俺でよければ聞いてやるぞ」
 彼は腰を下ろして、遥の顔色を伺った。彼女はすぐに明るい顔を取り戻す。
「なんでもないよ!」
「いや、ゼッタイ悩みある! 俺が男だから遠慮してるんだ、間違いない!」
 誠は今流行っている口癖を真似た。なんか信用がイマイチない言い様だ。
 やはりこの人には何も言えない。ゼッタイちゃかしそうだ。
「もし悩みがあったとしても、誠には言わないよ!」
「な、なぜ?」
「あたしには、ちゃんと信頼できる人がいるから、その人に悩みを打ち明けます!」
「そんな人マジでいるのか? あ! あのコンビニで話してた奴だ! やっぱり彼氏じゃねぇか」
 変な方程式が誠の中でできてしまった。遥は嘆息して、とりあえずまた誤解を解こうと説得する。
「だから、あれは彼氏じゃなくて、よき理解者なの」
「どれくらい理解してんだよ?」
 まだ怪しそうな目でこちらをみている。内心うんざりした。
「誠より百倍あたしのことを理解してくれる人なの!」
 それがとどめだった。誠はもう何も言ってこなかった。
 おとなしく席に座った。近くの友達が誠に話しかけられると、調子の言い彼は、何事もなかったようにその輪の中に入った。
 その日は、遥は一人だった。
 唯一安息の地である教室は、誠が遥の席に近づいてもすれ違っていくだけだった。
 移動教室があると一人で移動。もちろん昼食も。
 誠は友達と騒いでいる。女子は干渉などしてこない。
 誰もが遥の存在を無視した。
 彼女の胸は圧迫されたように、息苦しい感覚に襲われた。

 遥はハッとした。仲間を失ってしまった。
 相手を傷つけないように言葉を選んでいれば、きっと今日も楽しく過ごせるはずだった。すべては絶望かもしれない。


 昼休みが終わりかけた頃、tamaからメールが返ってきた。
 
 『遅くなってごめんね。 ヤスイチについては・・・あの時はおまじないの言葉って言ったけど、実は僕が作った言葉なんだ。多分そのうち教えると思うから、期待とかはしないでね。』


第七話<リアル>

 遥は教室に残っている。
 午後の授業は、英語だった。先週の授業でやった英単語テストの解答用紙が生徒たちに返された。
 二十問中半分が正解していれば合格という判子が押されている。遥は苦手な単語を克服することができず、不合格の判子が押されて返ってきた。
 誠がガッツポーズをきめて遥の横を通り過ぎた。
「では、不合格と記されている者は、放課後残って、単語練習してから帰ってくださいね!」
 それからの放課後。遥一人が教室に残っていた。さぼって帰った生徒も多いだろう。遥も別に他のみんなと同じようにこの教室から抜け出してもいいが、ゆっくり帰ってもいい気がした。
 誰にも会わずに、誰にも気づかれずに、静かに消えたい。
 英語の先生が教室に入ってきた。その手には大量のプリントが。
 遥は内心呻いた。
「あれ? ほかにもあと十人ぐらい居残るはずなのに。藤沢さんだけかしら、来てるのは」
「多分、他の人は帰ったと思います」
「さぼるのはいいけど、あとで成績に影響しても知らないんだから」
 先生はなにやらぶつくさ言いながら、遥に二枚のプリントを配った。
「藤沢さんは、勉強に真面目なのね」
 先生は教室を出て行く際に、彼女にそんな言葉を残した。遥の書く手が一瞬だけ止まった。
 『真面目』といわれることに、嫌味を感じる。今も。
 そういえば昔の自分は、どんな姿をしていただろうか。
 冷たい目。参考書。悪口。授業。噂。試験。
 そして、ボロボロになった自分が辿りついた先が・・・・屋上。
 携帯の着信音で、意識が戻った。メールが受信された。
「tamaさんからだ」
 あれからメールが止まったままだった。
 遥は慌ててメールの画面を開いた。

 
 『もしかしたら、何か悩んでる?』
 
 
 これは彼の直感なのか。遥はすぐに文字を打った。
 
 
 『今日ね、最低な自分をみつけたよ。
  またあの時のようになりそうな予感がします。
  あたしも、tamaさんのように、いつも笑えることができたら、
  嬉しいな』

 送信した。今思うと変な文章だった。
 遥は携帯を机の上に置いた。返事を待つために。
 静かな教室。ついさっきまでは香水の匂いで充満していたのに、みんながいなくなると、無臭が漂う。
 遥はシャーペンを握り、黙々と単語を練習していく。いろいろな考え事が彼女を苦しめながら。
「・・・・遥」
 誰かが廊下から、彼女の名前を呼んだ。聞き覚えのある声。でも、今の状況ではそんな声など聞けるわけがなかった。遥が顔を上げると、声の主―誠が目の前にいた。帰ったはずの彼が、教室に入る。
「あ、あの―」
 遥は椅子から立ち上がり、何かを言いかけると、誠と目が合ってしまった。ぎこちない声で彼を引き止めて。
「ごめん!」
 その声は、廊下のずっと向こうのほうまで響くほど大きかった。
 ほぼ同時だったかもしれない。遥と誠が頭を下げ、同じ言葉を言ったのは。一瞬、二人はわけがわからなかった。とりあえず頭を上げて、目の前に相手を指差しながら、
「どうして、誠が謝ってくるの?」
「そっちこそ、なんで俺に謝るんだよ?」
「だって、誠を傷つけたから…」
「俺のほうが、遥をすごく傷つけたから…」
「………」
 誠は頭をくしゃくしゃとさせて、意見をまとめた。
「まぁ。悪いのはお互い様だから、水に流すか!」
 不思議な感じだった。遥は大きく頷いた。
 嬉し涙が溢れそうで、遥は笑ってしまった。今日の悲劇など嘘の
ように、二人にまた仲間と呼べる絆ができあがった。
 
 遥は書く。単語を延々と。
 誠はその様子を前の席から眺めながら、
「きれいな字だなぁ。今思えばさ」
「千秋に比べれば、けっこうあたしの字は汚いわよ」
「あ。そうなんか」
 誠は黙り込んだ。書き続ける作業が長くなると、遥は手首が痛みを覚えた。ちょうど一枚目が書き終わって、休憩を取るつもりで、誠に声をかけた。
 遥には「ある約束」を果たす使命があった。今も盲腸で入院している千秋のために、目の前の彼から本音を聞きださなければ。
「誠って、千秋と付き合ってたでしょ?」
 遥はストレートに聞いてみた。
 もし何か飲み物を彼が飲んでいる途中であれば、多分噴き出している。それぐらい誠を動揺させる質問だった。
「なんで、おまえが知ってんだよ? そんな昔のことを知るやつは数少ないっていうのに……」
 遥がニコと笑うと、彼は心当たりがついたみたいだ。照れというものはない。彼の曇る顔は、何を意味しているのか、遥はその時予想すらしていなかった。
「もしかして、知らないほうがよかった?」
「別に。頼まれたんだろ? 俺が千秋をどう思っているかとか」
 遥は頷きはせず、ただ誠を真っ直ぐにみつめた。誠はそれまでの姿勢を正して、ゆっくりと話してくれた。
 千秋への想いを……。
「あれだよ、あれ。年頃になると、『友達』と『彼女』の区別がつくじゃん? 俺が中学校を卒業する時には、もう決まっていたんだ。千秋は『友達』だって。幼馴染だから、なんでも話せて。幼馴染だから、お互いのいい所や悪い所がわかってて、すごく付き合いやすかっただけなんだ。今あの頃を思えば、アイツとはやっぱり『幼馴染』のままってことがわかった。彼氏らしいことをしたのは、別れを切り出したぐらいだよ」
「千秋は泣いたの? 別れを告げられて」
「笑ってたよ。『しかたないよね』っていってた。別れはそんなに辛くなかったと思う」
 誠は椅子の背にもたれかかり、床に視線を落とした。ため息が聞こえた。 すべてを話し終えた誠から。
 揺れるのは片方の心。千秋のハート。
 区別をつけた心。誠の本音。
 二つの心はもう交わらない。遥の衝撃。
 遥は、おそるおそる誠の肩に触れた。彼の体は力が抜けていた。
 揺らせばブラブラを全体が横に動く。
「遥。千秋はすごく無理していたかな?」
「誠のことが本当に好きだったら、わかることだよ」
 遥は呟いた。誠はしばらく頭を抱え込んで、何か悩んでいる。
 静寂する教室。誠が話すまで、遥は単語書きを再開した。
 そして。誠の口が開いた。
「わかった。千秋が退院したときに、俺、今までの本音ぶつけてみるわ!」
「ありのままの本音?」
「嘘なんかつかない。たとえ千秋が納得とかしてくれなくても、俺は、はっきりといえる自信がある!」
 誠が勢いよく遥の目の前で立ち上がった。
「その自信はどこから?」
 遥は頬杖をつき、椅子から立ち上がった誠を見上げた。
「自信というか、気合で頑張るわ!」
「千秋が泣いたら?」
「気合でなんかとする!」
 遥は途中からおかしくて笑い出した。
 誠はそんな彼女をみて、真剣な面持ちで、こう告げた。
「で、千秋のほうが決着ついたら、俺、遥にコクるからヨロシク!」
「おう! 頑張ってね!……え? 今なんておっしゃいました?」
 遥の頭が真っ白になった。喋るあごが震えた。
 さっきのことを回想しても、誠が言っていることに間違いなければ、遥はついさっき告白された。
 心臓がバクバクと鳴る。彼の顔からして、冗談っていうドッキリはありえなかった。


第八話<ジョーク>

 確か中学一年生の時だったと思う。人を信じられなくなったのは。
 あたしは恋をした。同じクラスの男子に。ちょうどあたしの隣の席で、あっちのほうからけっこうを話しかけてくれた。
 彼がいつも面白い冗談をいうものだから、笑わない日はなかったと思う。
 それから3ヶ月が経った頃だった。その男の子から、急に放課後の教室に呼び出されたのは。
 すっごく胸がドキドキした。期待とかいっぱいした。
 そして、彼は言った。
「俺と付きあってくれる?」
 ちょっと迷った顔をしながらも、答えはもう決まっていた。
 OKだよって、口に出そうとしたとき、掃除道具入れから、物音が聞こえた。
 振り返ると、中から2人の男子が窮屈そうに外にでてきた。すると、今さっき告白してきた男子が、面白い冗談をいうのだ。
「おい、おまえら。もうちょっとで藤沢からOKサイン出るトコだったのに、邪魔しやがって。あとで千円払えよ」
「はいはい。別にわざと邪魔したわけじゃないからな!」
「でも、面白かったなぁ。告白で賭けをするなんて、けっこうハラハラしちまうな!」
「よし、今度は誰をターゲットにしますか?」
 三人は笑っている。意味がわからない。
 もしかして、あたしだけ? その冗談に笑えないのは。
 その人は二度と遥に話しかけることもなく、単なる賭けゲームでその恋が終わった気がした。
 彼女は滅多にでない涙を流した。
 いつもはドラマに感動して泣くだけの彼女が、この時だけは、とりあえず理由なく泣きたかった。

 そして、数年が経ち。遥は、誠に告白される。
 あまりにも衝撃すぎて、ずっと心の奥に閉じ込めていた「過去」が、漏れ出した。
「それって、冗談?」
「あのねぇ、男だって告白するときはめっちゃ真剣なんだぞ。そこらへんのキザな男より、『好き』の言葉にけっこう誇りを持っているし、なにより、俺が遥に惚れたんだ。わかる?」
 照れくさそうに頭をかきながら、誠の目が遥をじぃとみつめた。
 誰もいない教室。しーんとした空気に、物音一つも聞こえない。
 目の前の彼は、本気で言っているのか。遥は疑うように相手を見据える。
「そんなに俺が信じられない? それか、千秋と付き合ってた俺だから?」
「……だって、誠はいつも調子がいいじゃない! あとでドッキリでしたなんて言いそうだから」
 できればドッキリでよかった。そっちのほうが慣れているから。
 また騙されても平気な心なんて、持ってないけど、軽く流すことぐらいはできるはずだった。
 誠はプリントに書かれた英単語に視線を落としながら、遥に言った。
「笑えない冗談いってやろうか?」
「なに?」
 彼は証明する。想う言葉を。
「俺は、遥が好きだ」
 彼の真剣な眼差しが、遥をみている。一瞬にしてすべての雑音が遮断された。
 その声が、その言葉が、その意味が、耳を通り、脳に送られ、そして、知るのだ。
 軽はずみでいえる『好き』ではないことを。
 気がつくと、遥の唇に柔らかい感触が伝わった。
 誠の顔が一気に近づいたかと思うと、そのまま動かない遥とキスを交わした。
 驚きのあまり、彼女の目が見開いた。
「………誠…」
 彼は遥の肩に手を置いた。抵抗するわけでもないか、何も言葉がみつからない。
 彼女が見上げると、誠の顔は真っ赤になりかけている。
「ごめん、すっげぇビックリしたよな。でも俺の本音、ぶつけることできたから、俺は後悔なんかしない。
遥の返事はいつでも待ってるから、落ち着いてからでいいから。その……気を悪くしたらほんとにごめん」
 申し訳なさそうに誠が頭を下げた。
 頭の中は真っ白だ。二人とも。
 
 千秋の存在は、しばらく頭から消えていた。

 遥の居残りプリントは、まだ終わらないでいる。

 
 意識がはっきりしてきたのは、帰宅してからだった。
 誠のことを重く考えるのはやめよう。今が現実だとわかっていても、あれだけはどこか心の奥に仕舞っていたい。
 誠の想いと、遥の答えを。
 そして、千秋とのこれからのことを、考えていこう。
 自分の部屋にたどり着いた。そこは暗い部屋へと化している。
 ベッドに倒れこむよりかは、イスに座って、机に体を倒した。
 疲れた。
 いっぱい悩んだ。いっぱい考えたりした。
 でも、答えはみつからない。 ヤスイチの言葉と一緒だ。
 机の上に置いていた携帯のランプが点滅した。それと同時にバイブが震えだした。頭に震動伝わってくる。
 携帯を開くと、メールを受信した知らせが表示された。
「tamaさんから……」
 内容に目を通した。へこむ返事だったらどうしようかと、不安に顔を歪めながら、画面をみた。

 
 『遥ちゃんへ。 

  人間はずっと笑っていられるほど、
  気楽な生き物じゃない気がするんだ。
  だから、たまには泣いたりしてもいいと思うよ。

  あと、『最低な自分』だと決め付けるのは
  早いんじゃないかな?
  僕もね、『最低な自分』に嫌気が差す時ぐらいはあるよ。
  いつも笑っているようにみえても、
  遥ちゃんの知らないところで、僕はいっぱい弱音を吐いてる
  弱い人間だから、遥ちゃんが思うほど強い人間じゃないんだ。
  それだけはわかってほしい。
  人間、完璧に生きようとしたら、
  笑うことさえできなくなるから。 BY tama』

 
 tamaさんに会いたい。何かの衝動に駆られた。
 遥の頭がむくと起き上がり、気がつけば、tamaの番号にかけていた。 
 バイト中だったらどうしようとかなんていう心配は、今はなかった。あの人は確実に電話にでてくれると、信じてた。
 数秒してすぐに、tamaの声が聞こえた。
『はい、もしもし』
「遥です。あの……」
『今から会おうか?』
 思ってもみない言葉が、返ってきた。不思議な感じだった。嬉しくて嬉しくて、体中が震えた。
「い、いいんですか?」
『すごく心配なんだ。遥ちゃんらしくない様子だから。僕でよかったら、なんでも聞いてあげるよ』
 電話だからtamaの声しか聞けないけど、すごく優しい温もりを感じる。優しい言葉をかけてくれるからなのかな。
 胸がドキドキする。心臓の鼓動がふだんよりリズムを乱している。
 屋上で出会ったときよりも、一度目の再会よりも、二度目の再会よりも。
 tamaと会う。
 ずっと会いたかった人。絶対あたしを傷つけない人。


 

 第九話<スマイルマン・ラブミー>

 もう外は暗い。時計をみるともう七時だ。
 娘が夜遅くに外出するなんて、藤沢家にしてみればけっこう大騒ぎになるだろう。階段を下りて、キッチンにぬぅと顔をだした。
 母が夕食の準備をしている。順調にいけば八時には食べられそうだ。辺りをキョロキョロし、父の帰宅を確認する。どうやら今日は残業らしい。厳しい父親がいないことを知ると、ここから抜け出すのは簡単だった。
 遥が考えた、藤沢家の大脱出法。
「お母さん」
 娘に呼ばれ、母親は包丁を一旦まな板に置いた。彼女はどちらかというと母親似だった。振り返る母親の顔は、将来の遥と同じ雰囲気が漂っている。
「なにかしら?」
「何か、買い忘れとかある?」
「買い忘れ?」
「そう。今日買わないといけないものとかあるでしょ?」
 母は頭を傾げながら思い当たるモノもなく、とりあえず、冷蔵庫を開けてみる。性格がおっとりしていても、理由なく娘の外出を認めるほど甘くはない母親だということは充分承知している。
 だからこそ、きっと買い忘れがあるだろうと、遥は外出できる理由を探っている。
 ふと冷蔵庫の中を一通り見回した後で、母の目が止まった。
「あら、牛乳が切れてるわ」
 母は開いた口を手で押さえた。遥の目が輝いた。
 牛乳は、父が風呂上りにいつも飲んでいる。それを切らしたとなると、父は不機嫌に顔を歪め、意味もない説教を家族にしてくる。とにかく牛乳一つで、父の態度が変わるのだ。
 父が家に帰ってくるまで、そこそこ時間に余裕がある。母は何も言わずに、財布から千円をだした。
「近くのコンビニでいいから、すぐに買ってきてね」
 その態度は慌ただしい。握らされた千円をポケットに入れた。
 奇跡の大脱出は見事成功。外出許可がおり、遥はtamaに会いに行く。それが彼女の目的。

 待ち合わせ場所は、広場。目立つシンボルといえば、中央の時計台ぐらいだ。 
 遥の家からも近いし、頼まれた買い物を済ますのにも、コンビニが近かった。広場を囲むように置かれた街灯の明かりが、心細い彼女の足元を照らす。
 tamaとはすぐに会えた。彼はこちらに手を振って合図してくれた。
 遥もtamaの元へ走っていった。
「こんばんは」
 暗いところから光のある明るい場所に、tamaが姿を現した。
「ごめんね。けっこう遅い時間なのに、遥ちゃんを呼び出して」
「気にしないでください。あたし、すっごくtamaさんに会いたかったんです!」
「もし、家族の人に怒られたりしたら、僕がちゃんと謝るから」
 tamaの顔はどこか冷静。いつもはすごくヘラヘラしている感じなのに、遥は妙な緊張を覚えた。
 二人は、街灯の明りに照らされたベンチに腰を下ろした。静かに時間が過ぎていく中で、遥は何を話していいか、俯いたままだった。
 tamaは彼女の方に体を向けて、思い切って言ってみた。
「すごく心配なんだ。遥ちゃんのこと」
「え?」
「その……なんというか。今すごく悩んでそうだし。僕でよかったら、なんでも話していいから。またあの時みたいに死ぬとかはやめよう」
「tamaさん?」
 遥とtamaの目が合った。心臓がうるさく鼓動する。彼の純粋な瞳が、なにかを問いかけるように、遥を伺っている。内心、彼女は変な不安に胸を締め付けられていく。
 目の前の彼は、あたしをどんなふうに意識しているのかなって。
 他人? 友達? 知り合い? よき相談相手? 
 それとも、その一線を越えたなにか? 
 胸が痛くなる。このもどかしい気持ちを、早く開放したい。溢れんばかりの想いが、爆発しそうな勢いが、すぐそこまできている。
「あたし、いっぱい悩みありますよ。ひどい時は死のうとしたよ。でも、tamaさんが助けてくれたから、tamaさんのあの言葉があったから、今日まで生きてこれたし、これからもずっと生きていくの! 悩みがあってももう死なないから!」
 遥はニカと笑ってみせた。
 死ぬわけがない。死ぬ意味もない。
 それだけは伝えた。
 tamaは少しずつ笑顔を取り戻し、あっさりと言った。
「よかった」
 ただの一言だけど、tamaの安堵した一言だった。
 
 遥は話した。誠のこと。千秋のこと。自分の迷いを。
 「あの子かぁ」
 誠の名前を聞いてすぐに、あのコンビニでの出会いを思い出し、意味ありげに声を上げた。
「僕が見た限りでは、あの少年はかなり遥ちゃんが好きなんだね。すっごく僕のことを敵視してたから」
 その場面を振り返ると、クスクスと笑っている。遥にしてみれば、ちょっとバカにされているようで、気分が沈んだ。気づいたtamaは笑うのをやめて、ゴホンと咳払いをした。
「迷うことはないと思うよ。正直な気持ちを言ったらいいだけさ」
「でも、あっちがすごく落ち込むんじゃないかって、心配しちゃうの」
「なら、同情で付き合うのかい?」
「だって、あたしの返事次第ですべてが決まっちゃうから。誠を傷つけたくないの」
 遥は首を大きく振った。tamaの顔が哀れそうに、彼女をみる。
 膝の上に肘を乗せ、彼は諭すように遥に話し始めた。
「無理して誠君と付き合うほうが、後で彼を傷つけるんじゃないかな。よけい彼に気を使ってしまうし、不自然さも感じるし、いい結果とはいえないね。遥ちゃんが、ちゃんと誠君のことをおもってるんだったら、そこは素直に答えをいわなくちゃ」
 tamaからちょっとキツイ言葉がでた。
 ずっと先のことを想像してみれば、彼の言うとおりになるかもしれない。 遥の中では『友達』なのに、誠の中では『恋人』。長く付き合っていけば、遥もそのうち『恋人』と意識をするようになる。でも、最悪の場合。やっぱり『友達』としてしかみられない場合、別れを切り出さなくてはならない。そして、結果的には、彼を傷付ける。付き合った日が長ければ長いほど、彼の傷を深めてしまう気がする。彼を騙しているような気までしてきた。
 まるで、あの頃の「誠」と「千秋」の結末を再現しているような感じだった。
 その後別れたあと、誠は、あたしに未練を残すのかな。
 振られても平気な顔して、影では思い悩んでいたら、あたしは彼に何を話せばいいんだろ。
 tamaの言葉に重みを感じだした。受け止めていくと、不思議に涙がこぼれそうになる。そのとき、優しい手が、彼女の頭を撫でた。
 tamaがこちらに振り返って、遥に言う。
「告白ってね。するほうも勇気いるし、答えるほうも勇気がいるんだよ。断るほうが悪いんじゃなくて。大事なのは、今の想いを伝えるってことなんだよ」
 涙が止まる。遥が顔を上げると、青いハンカチが現れた。tamaから何気なく渡されたハンカチ。とりあえず涙だけを拭いた。でそうになる鼻水は止めようする。
「気持ちが落ち着いたときにでも、誠君に返事をしたらいいから」
 tamaは優しい。遥が泣き出すと、優しく慰めてくれる。気がつけば、tamaの胸の中で涙がゆっくりと流れている。落ち着いてきた頃には、彼の胸の部分が微妙に濡れている。すごく申し訳なそうに俯くと、tamaが顔を覗き込んできた。
「大丈夫?」
「え、は、はい。でも、tamaさんの服が……」
 そういって、彼の服を指差した。tamaは気にする様子もなく、
また遥の頭を撫でて、
「よかった。元気になって」
 そして、笑った。
 まだ目には涙が残っているが、遥もそれに答えるように笑った。
 tamaさんは、きっとあたしのことを妹のような存在でみている。まだ幼いから、まだ子供だから。あたしは、あの人にとって、ふさわしい存在にはなれない。
 そんな想いが一粒の涙となって、最後に流れていくのがわかった。
 いい雰囲気をぶち壊すように、遥の携帯が鳴り出した。
「はい、もしもし」
 かけてきた相手はだいたい分かっていた。電話の向こうからは、心配する母の声が、今の居場所を尋ねた。
「今、どこにいるの?」
「ちょっと雑誌を立ち読みしてたの。うん、今から帰るから」 
 電話を切ると同時に、時刻を確認した。九時だ。
 遥はベンチから立ち上がり、tamaに別れの挨拶をする。
「あ、あの。誠に明日返事してきます。できれば、その後にまた会ってくれますか?」
 ―勇気を持って、あなたに告白したいです。最後の言葉はいえなかった。 答えを先に聞くのは、ちょっと不安だった。また日を改めて、あなたにすべての気持ちをぶちまけます!
「明日なら、会えるよ。いつでもってわけじゃないけど、会いたくなったら、連絡してね。できるだけ会えるようにするから」
 tamaの自分の携帯をみて、時刻を確認した。
「家の近くまで送っていこうか? 変質者とかに会ったら大変だからね」
 断る理由もない。遥の家の近所まで、tamaと帰ることにした。
 遥はtamaを見上げた。男だからやっぱり背が高いのは当たり前か。誠より、すごくたくましくみえる。腕を組んで、昼の街を歩けたらと思うと、顔がほころんだ。
「tamaさんは、バイトいっぱいしてるんですか?」
 何気ない質問を、彼に聞いた。
「うーん。コンビニと雑用のバイトをしているよ。少しでもお金を貯めたくてね。あとは、生き甲斐かな」
「生き甲斐?」
「なんかね、働いて人の役に立っているって、すごく生き甲斐を感じるんだ。体がもう少し丈夫だったら、他のバイトもしたいなって思っている」
「tamaさんは、働かなくてもすごくあたしの恩人です! それよりも、働きすぎて体を壊さないでくださいね!」
「嬉しいな。僕の体のことを心配してくれる人が近くにいるなんて」
 冗談とかじゃなくて、tamaは本当に嬉しかったかもしれない。いつもみるtamaの笑顔が、少し違って見えた。 
 その日、別れる際に、tamaは遥にこんなことを言ってきた。
「ヤスイチって言葉の意味なんだけど……」
「ついに教えてくれるんですか?」
「……やっぱりまだ言えないや! そのうち分かることだから、お楽しみってことで!」
 彼女を期待させといて、tamaは口を閉じた。ニヤニヤと笑う顔に、ちょっとだけムカついた。遥は腕を組み、怒りを表した。
「じゃ、またね」
 tamaは暗闇に消えていった。
 遥は、彼がみえなくなるまえ手を振った。
 まだ残る胸の温もりを残して、tamaと遥はまた別れた。
 お互い辛いことあるけど、明日また会えるなら、苦痛なんて感じないよ。
 


第十話<アンサー>

 千秋が退院した。朝のメールでそれを知った。
 彼女は遅れてくる。なんでも病院で傷口の最終チェックをしてから直接学校にくるらしい。
 すぐに終わるということなので、早くても一時間目の途中からでてくるはずだ。
 遥は学校の靴箱で、誠を待っていた。
 友達と合流してから遅刻ギリギリに来る奴なのに、今日は案外早く来た。 本鈴が鳴るまでまだ時間に余裕あるぐらいだった。誠が遥を見つけたとき、彼は何かを悟った顔をする。気まずい挨拶から始まった。
 人気がないところで話そうと提案したところ、屋上がひらめいた。朝だけはあそこは誰もいなかった。場所が決まって、誠の後ろを、無言のまま遥は歩く。
 遥は、階段を上がる誠の背中を見上げた。
 あなたは予感しているのかな。あたしが出す答えを。 
 もし、自分ひとりで決断していたら、最後まで戸惑っていたかもしれない。
 相手の反応。相手の期待。相手との関係。そればかりがずっと頭にあった。すべてを裏切るのが怖くて、自分の意思など考えず、そのまま進めていたかもしれない。
 tamaさんの強烈な言葉を聞くまでは。
  ―『大事なのは、今の想いを伝えるってことなんだよ』
 あれは、今も耳に残っている。
 あたしが今夢中になっているのは、tamaさんという人。
 あなたの優しい言葉が、何度あたしを救ったことか。
 玉砕してもかまわない。あなたの優しさに永遠に包まれてみたい。きっと心地良さそう。
 朝の気持ちいい風に吹かれながら、屋上にたどり着いた。
 広がる街の景色に目がいく。遥は走って、手摺にもたれかかる。青い空が好きだった。見上げれば、自分の鳥のように飛べそうな感覚になる。
 誠はゆっくりと、遥の隣りに歩いてきた。何も言わず、彼女が街を楽しそうに眺める横顔に、意識がいった。誠が視界に入り、遥の視線が街から、彼に向いた。
 ここに来た理由を思い出した。悲しい顔はしない。
 悲しい知らせではないのだ。素直な気持ちを、誠に伝えるだけなのだ。
「あたしは―」
「わかっているよ。遥は俺のこと好きじゃないって」
 遥は黙る。誠はさっきの発言に後悔した。軽く嘆息し、誠は手摺から離れた。遥に背を向けて歩き出した。もうすぐで本鈴が鳴る。誠が携帯に表示された時刻を確認した。
「好きだよ。誠のこと」
 遥は振り返った。誠は立ち止まり、遥をみた。誠はフッと笑って言った。
「わかってる。遥の『好き』は友達としての『好き』だろ? 俺全然平気だから。答えはNOだって、はっきり言っていいよ」
「誠のこと、人間として好きだよ。」
 予想もしない発言に、誠は目を見開いた。
「普段は調子いい奴だけど、マジな顔する誠もいいと思う! 短気で落ち着きのない自分ですが、これからも末永くよろしくお願いします!!」
 深く頭を下げた。少しして顔を上げると、誠はびっくりした顔で立ち尽くしていた。
「これがあたしの答えだよ」
 遥がニッコリ笑うと、遅れて誠はやっと納得してくれた。悲しい顔はしない。逆になんかウキウキしている。遥は首を傾げた。
「どうしたの?」
「い、いや。なんでもないよ。なんか俺すごく嬉しいんだ。人間として好きっていわれたら、まだチャンスあるんだって思ったから」
「誠?」
 遥が誠を引きとめようと手を伸ばすが、彼は教室へと走っていった。
「遥、ありがとう」
 屋上を出る前に、誠から多分感謝の言葉を告げられた。言われることは誰でも嬉しいものだが、腑に落ちない気持ちだけが残った。

 千秋は二時間目からでてきた。ちょうど一時間目が終わった休み時間だった。一時間目の途中から教室に入るのはどうも慣れないらしく、彼女はそれまで女子トイレにこもっていた。
 千秋が久しぶりに自分の席に座った。イスは喜んでいるし、何よりも隣の遥が飛び跳ねそうな勢いで喜んでいる。
「退院おめでとう!」
「ありがとう」
 千秋の視線がちらと、後ろの席にいる誠をみた。気づいた遥が、大声で誠を呼んだ。マンガを静かに読んでいた彼にとってはけっこう心臓バクバクなる声だった。
 誠と千秋の目が合うと、千秋が先に目線を逸らした。何かを話そうと遥より、誠のほうが早かった。席から立ち上がり、千秋のほうに歩いた。
「よ! 元気そうだな!」
 誠はいつも通りに接した。病院から帰ってきた千秋はどこか、内気な感じがした。
「千秋、おまえにちょっと話がある」
 そういって、遥を残して二人は廊下にでた。
 二時間目の本鈴が鳴り始める頃に、二人は慌てた様子で、自分の席に座った。千秋はフーと息をつき、教科書をだした。
「ね。誠の話って何?」
 遥が尋ねた。千秋は時計を見上げながら、
「なんかね、今日二人きりで帰ろうってさ」
「ということは……復活愛ですか?」
「期待とかしてたらカッコ悪いでしょ? だからできるだけそんな方向に考えないようにしているの」
「ということは、今日はあたし抜きで帰るのね?」
 遥は隣から身を乗り出すように喋った。曇る表情から、千秋の不安をすぐに読み取れた。
「遥にはすごく悪いと思っているのよ。でもあいつが二人じゃないと駄目だっていうから……」
「気にしないで。あ。でも、あとで何があったか教えてね」
 千秋は静かに頷いた。ずっと頼っていた親友は、今は冷静を保てなくなっている。約束の時間が来るまで、焦りと不安で心臓が圧迫されて苦しそうだった。息がまだできるから、大きな心配は必要ないと思った。
 そして、昼休み。もう少しで学校は終わる。
 千秋と弁当の中身を見せ合っていると、後ろ方で誠が緊急事態を知らせるかのように、大声をだした。
 誠の友達たちが、何事だと彼を囲んだ。誠は持ってきた鞄の中を隈なく調べた。顔がどんどん青ざめていく。
「どうしたんだよ? 誠」
 友達のほうも、遥たちも、誠の置かれた重大さをまだ知らなかった。
 誠は頭を抱え込み、その場に膝をついた。
「べ、弁当忘れた……」
「へ?」
 みなは唖然とする。たかが弁当で大袈裟になるなよと、周りのものはため息をついている。遥たちは、何事もなかったように昼食の時間に入る。
「誠、弁当忘れたら食堂でパンを買えよ」
 一人の友達がそう言った。この学校には食堂があるから、弁当忘れたぐらいで彼のように慌てることはないのだ。
 誠はなにやらブツブツと呟きながら、立ち上がる。
 不気味すぎて何人かは後ずさりする。 
「俺は、兄貴の作った弁当を食べるのが楽しみで、学校にきているもんなんだ。だから、だから、弁当をなくしては、俺に五時間目はない」
「兄貴?」
 遥には初めて聞く兄の存在。彼女以外はまだ呆れている。
「千秋。誠ってお兄さんがいたの?」
 唯一今話すことができる千秋に聞いた。
「うん。二十歳になるお兄さんがいるのよ。誠の憧れの人というべきか、単に依存しているというか。けっこうすごい人らしいわよ」
「ふーん。そうなんだ」
 教室はまた騒がしくなる。 
 誠は急いで携帯を取り出し、誰かに電話をかけている。
「あ。兄貴? 俺今日弁当忘れたんだ。だから届けてくれたらすごくありがたいんですけど。…………できるだけ早く来てくれたら助かります」 
 電話の相手に向かって頭を下げている。それから数分話し込んだ後に電話を切った。一安心した様子で、肩の荷を下ろした。友達がニタニタしながら、誠のわき腹を小突いた。
「で、兄貴はなんて?」
「ちょうど暇だから届けてやるってさ。俺がもし来なかった場合は、またバイク事故起こしているだろうから、そのときはアンパンでも買えって、それで終わった」
「おまえの兄貴はよく入院するからな。まさに不死身とは、ヤスイチさんのことだな」
 『ヤスイチ』―遥にとっては、tamaと自分しか知らない言葉なのに、なぜ誠の親友が。食べる動きが止まった。
「遥、どうしたの?」
 千秋が食べかけのウィンナーを口から離した。さっきの出来事を彼女に話すべきか、遥は迷った。
 その間にも、誠と男子の会話が聞こえてくる。
「そういえば、ヤスイチさんって、最近何してるんだ?」
「最近は……気がついたら料理作ってるな。俺の弁当や家族の弁当もそうだし。家事にはまっているというべきか……」
「ヤスイチさん、彼女とかできた?」
「知らん。あまりそっちには興味ない人なんだ。恋愛だけが人生じゃないって、よく口癖のように家で言ってるよ」
 
 千秋に聞こう。
 戸惑いを捨て、遥は決めた。
 誠の兄貴のこと。
 そして、『ヤスイチ』の答えを。



第十一話<ブルースカイ>

 ヤスイチ―それは安田誠の兄・安田壱仁(イチヒト)のあだ名だった。木村拓哉がキムタクといった愛称で呼ばれているように、ヤスイチも誠の友達の中ではけっこう有名な愛称になっている。
 千秋は、幼い頃から彼の家に行ってはヤスイチさんに会う機会があり、けっこう遊んでもらった記憶があった。今は会っても千秋からは話しかけることは少ないが、ヤスイチさんが千秋をみかけると、追いかけてでも声をかける明るさなので、彼女もヤスイチさんについてはかなりいい印象を持っている。
 遥は鞄に弁当箱を戻した。誠をみると、ヤスイチさんを待っている。電話で話してからもう十分が経過しているが、誠はずっと机にうつ伏せている状態。腹の虫は鳴り続けて、もう限界が近かった。
 哀れに見守っていた友達が、ついに立ち上がって彼の肩に手をかけた。
「なぁ、誠。もう昼休み終わりそうだから、早くパンを買って来いよ」
 しょぼくれた顔を上げ、誠は何も言わず席を立った。年老いた患者に付き添うように、友達は彼の背中を押しながら、静かに誠と教室を出て行く。教室のみんなも誠を心配して、その後姿を見送る。
 誠があんなにも落ち込んだ表情をみせるのは、遥にとっては意外すぎた。 それほどお兄さんの作る弁当は美味しいんだなと、ヤスイチさんの料理の腕を素晴らしく思う。
「誠!! 生きているか?」
 そのとき、遠くの廊下から、聞きなれない声が響いた。ドタバタした足音が、こちらに走ってくる。
 クラスの生徒は、気になって廊下側の窓から顔をそれぞれ出した。遥も急いで、その人物を確かめるために窓のほうに向かった。千秋は食べ終わった弁当を仕舞いながら、視線だけを窓に向けた。
 髪は茶髪。とてもたくましい体格。兄弟でも誠と顔はあまり似ていない。雰囲気は好青年。でもまだやんちゃな部分が残っていそうな感じにもみえた。
 誠が兄の姿を捉えると、顔が少しずつ晴れていく。兄貴がカッコよく弁当袋を、弟に差し出した。
「すまん。弁当を作り直していたら遅くなった」
「俺のためにわざわざ作り直してくれたんだ!」
 誠がありがたく震えた手で受け取った。
「いや、そういうわけじゃなくて……。風呂掃除してたら新しい弁当のメニューがひらめいてな。ちょうどお前の弁当があったから、もう一個作ったわけなんだな」
 そして、もう一つの弁当袋を誠に差し出した。これで誠が食べる弁当は二つになった。
「作り直したのがこれだから、全部食ってくれよ! あとで感想とかよろしく! メールでもいいし、恥ずかしかったら電話でもいいぞ」
 用件だけを伝えると、兄は軽い足取りで帰っていく。
 案外さっぱりとした会話だった。もっと兄弟愛のような場面を期待にはしていたが、ヤスイチさんほうがちょっと引いている。誠がこんなにも兄の存在を求めているのに。
 感動の再会を見終わった生徒は、ぞろぞろと教室に入っていく。最後まで誠のそばにいた友達は、誠と一緒に弁当の中身に興味津々だった。
 
 これで分かった。―tamaが教えてくれたヤスイチの言葉は、おまじないの呪文でもなく、tamaさん自身が作った言葉でもなかった。すべてはあたしを元気つけるために、咄嗟に言った言葉かもしれない。聞き覚えのない言葉だから、すごく不思議な響きに聞こえたのだ。だから、その意味を追求しても、ごまかすしかないものね。
 ということは、tamaとヤスイチさんは、友達関係かな。きっとどこかで繋がっているはず。
 ヤスイチ―それは意味を持ってしまった言葉。

 遥は、こそこそと電柱に隠れたり、物陰に身を潜めては、千秋と誠のあとを尾行していた。千秋ならとっくに遥の存在に気づいて、後ろを振り返るが、これは千秋から頼まれた尾行であり、鈍感な誠が異変に気づかない限り、彼らが行き着く場所まで付いていくのは簡単だった。
 学校から少し遠くはなれたその場所。千秋は声に出さず、ただ懐かしく思う。二人でこの場所に来るのは、もう二度とないと諦めていた。
 遥も開放感のある広がる景色にしばらく見惚れた。
 誠は静かに砂浜を歩いた。砂漠のような砂の細かさ。サラサラな感触が、砂の上を踏むたびに感じる。目の前には母なる海が。
 遥はこれ以上近づくのは難しかった。身を隠すものはなく、砂浜と海だけがある景色。砂浜と一般の道路を挟む柵に身を乗り出し、遠くにいる二人を見守るしかなかった。
 誠は座り込んだ。千秋はスカートが風にめくられないように注意しながら、隣に座った。
「……そういえば、千秋と初めてキスしたのは夜の海だったな」
 誠の口から出たのは、過去の思い出ばなし。千秋は嫌味な口調でそれを返した。
「よく覚えているわね。忘れてると思ったわ」
「全部覚えているんだぜ」
「たとえば?」
 千秋の胸はドキドキしながらも冷静を装って、誠をみた。誠は砂を指でなぞりながら話した。
「一緒に昼飯作った。俺のベッドで昼寝した。二人でいっぱい出かけた。いつも一緒にいた。……幼馴染だからな」
「わたしはね。キスした時が、一番想い出に残っているわ。だって、誠とあんなふうに至近距離で顔を近づけたことないから」
「俺さ、昔おまえが眠っていた時にこっそりキスしたことあるぜ」
「それほんとに?」
「幼いガキが、興味本位でやったことですから、あまり深い意味にはとらえるなよ」
 千秋は少し笑った。誠はそんな彼女をみて、少し照れた表情をみせた。

 遥は手で双眼鏡を作るように二人を観察しているが、あまりにも遠くにいるために何を話しているかも分からないし、何をしているのかも分からない。
「誠のヤツ。本音をぶつけるっていってたけど、まさか千秋を泣かせるようなことしないよね」
 オロオロする姿に、どうにもならない自分の立場にすごく虚しさを感じた。 二人が砂浜に居座って五分が経過した。今のところは何の変化もなく、遥は一人夕方の海を眺めた。
「千秋、大丈夫かな?」
 ぽつりと一人呟いた。
「いや、そんなに心配しなくても、アイツと千秋ちゃんは、うまくいくはずだよ」
「あたしもそっちのほうを信じたいですよ」
「大丈夫! 誠はああみえても、めっちゃ心が綺麗なやつだから」
 途中から入った誰かの声と、遥は景色のほうに目がいって異変に気づくことなく、会話が進行していく。
「もしも、あの二人が奇跡の復活愛を成し遂げたら、きっと君にも至福の瞬間が訪れるよ」
「そうかな? tamaさんがすごく遠すぎて、追いかけるだけでも必死なのに……」
 はっとした。tamaの名前が無意識のうちに出てしまった。気がつけば誰かと話しているし。遥の顔が横を向くと、隣にはヤスイチさんが。普通にありえない人が、遥の隣で涼しい顔をしている。
 遥はもちろんギョッとした。声には出しづらい驚きが、態度で出た。
「えと……」
「ヤスイチでいいよ! 知っていると思うけど、誠の兄貴です。君は……」
「藤沢遥です」
「これはどうも初めまして」
 礼儀正しくヤスイチが頭を下げた。返すように遥も改めて挨拶をした。なんの違和感もなく、遥はヤスイチとすんなり親しくなれた。 
 しかし、いざヤスイチと喋ろうとしても、年上という怖い印象があって、さっきまで普通に交わしていた会話などできないでいた。  
 すると、ヤスイチから思い出したように、遥に声をかけた。
「ねぇ。遥ちゃんは、tamaのことが好きなの?」
「ど、どうして、そんなことを急に?!」
「え、だってさっきtamaの名前がでてきたからさ。そうか。アイツもけっこうモテるんじゃん! よかった!」
 ヤスイチが嬉しそうに、微笑んだ。彼のそんな雰囲気が、すごくtamaと重なって見える。無垢な笑みと、どこか楽しんでいる感じの反応。遥は思いきって聞いてみた。
「あの、ヤスイチさんは……tamaさんとどういう関係ですか?」
「簡潔にいえば、友達だ。なんていうか、きっかけは変な出会いだな。そう。tamaが自殺しようとした時に、俺が偶然みつけて、必死になって止めたのが、今もすごく強烈に残っている」
「tamaさんが自殺?!」
 遥には衝撃すぎた。柵から体を離して、ヤスイチの話を真剣に聞こうとした。
「もうあの時の俺は、かなり頭がパニクって、最後は逆にtamaが俺を落ち着かせようと必死になったんだ。思い出せば笑える話だな。そうか。遥ちゃんにとって、アイツはすごい存在になったんだ」
「あの、tamaさんが自殺しようとした原因は何ですか?」
 遥はヤスイチの服の袖を掴み、言い寄るように彼に問う。
 慌てる様子もなく、ヤスイチは静かに空を見上げた。夕陽には染まろうとしない水色の空がまだ無限に広がっている。ヤスイチは語った。
「tamaは、生きる意味を失くしたんだ。そんな意味なんて始めからないのに、ある日から絶対的にあるモノが欲しくなったらしい。『死ること』で『生』を確かめようと、屋上から飛び降りようとした。誰にも告げず、誰にも悟られずにな。だから、そんな考えを持つ野郎に、俺が一発活をいれてやったよ。本当に死ぬ覚悟があるなら、それなりに人生楽しんでからにしろよって言ってやった!」
 最後を言い終わると、ヤスイチは深く呼吸した。その顔は、すべてを吐き捨てて清清したように、笑っている。
 遥はそんな彼をじっと見た。すごく明るい人だった。遥と目が合うと、純粋な瞳がニコと彼女に微笑んだ。あれはtamaと同じ目つき。
 遥は何をいおうか迷った。tamaの深い過去を整理できずにいる。口がいつも何かを言いかけているのに、うまく言葉に表すことができない。
 tamaは―ヤスイチになろうとしたのかな。
 どことなくtamaとヤスイチが重なってみえる。
 ―本当のtamaさんはどこにいるの?
 混乱する思考が、ぐしゃぐしゃになって頭痛を引き起こした。
 頭を抱える遥が視界に入らなかったのか、ヤスイチは最後の締めくくりとして、ある大事なことを教えてくれた。

「だから俺は、猫のようにのんびり生きろという意味で、玉置雄也に『tama』というあだ名をつけたんだ」




第十二話<アイ セイ ユー>

「思ったんだけど。結局わたしたちは何をしにここに来たの?」
 会話は止まる。誠は何も答えず、砂に視線を落とした。つまらなくなった空気に、千秋は隣で嘆息した。
 何をしにここにきたか。―それは誠が本音をいうために。
 なら本音をいうのだ。―今ココで伝えるべき本音って何だ?
 今更になって、誠に緊張が走った。さっきまでいいムードだったのに、根本的な部分を質問されると、やっぱり言葉が詰まってしまう。誠は意味もなく深く息を吸う。
「俺がここでいいたいことはだな!」
「何よ?」
 さっきまでの優しい眼差しが、鋭く誠を睨んだ。これは慎重に言葉を選ばなくてはと、誠はまた黙り込んだ。あぁ、情けない俺。多分千秋もそう思っている。あの目がもう呆れている感じだった。
「わかったわ。誠が結局いいたかったことは、『俺に対する未練を早く捨ててくれ。そうじゃないとすごく幼馴染として付き合いにくいから』でしょ?最初からわかってた」
「え?」
 誠はきょとんとした顔になる。なんか千秋が勝手に話を進めている。誠が横から何かをいようとすると、すぐに彼女の声で遮られてしまった。
「どうせ、本気になったのはわたしだけよ。誠から付き合おうって言われた時はすごく嬉しかったのに、それが恋愛もどきだったなんて、今も信じられないんだから。そうよ。わたしの恋は、誠と初めて会った時から始まってたの。ずっと好きだった。今も。誠の特別な存在になれた時、すごく嬉しかったんだから……」
 千秋の目が潤む。誠は当然慌てた。幼馴染が今にも泣き出しそうなのに、何もできない自分。抱きしめようかと腕を上げたが、そんな生ぬるいものじゃよけい彼女を傷付ける気がして、腕を引っ込めた。
 ふと考える。時間が止まったように、誠の意識がずっと過去を遡った。
 胸が痛い。これが彼女の洩らした本音。胸がすごく痛い。
 千秋を初めてみたのは、保育の頃だ。とても幼かった。
 気が強くて、俺なんかいつもアイツの後ろに隠れてた。毎日俺の家に来ては、広い庭で兄貴と三人でままごとした。千秋が怖いお母さんで、俺が情けない父親で、兄貴は可愛いペットの犬だったな。
 中学生の頃にある物心をついた。
 近所の友達から、エロ本やエロビデオを借りてから、すごく興味持った。 周りの奴らが童貞を次々と卒業していくのが、俺の男としての焦りだった。おまえも早く済ませろって、友達に散々言われた。
 その時だった。近くにいた千秋に何気なく『付き合おう』といってみたのは。アイツはすんなりオーケイしてくれた。
 この海でキスをして、抱き合って……。
 でも結局、俺は千秋とセックスはしなかった。
 恋人として会う回数や時間が増えると、千秋が少しずつ綺麗な女性にみえてきた。香水をつけるようになった。 
 猫のように甘えてきたり、アイツらしくない弱音を吐いたり、なんか俺の知らないとこで、すごく女性的な魅力が溢れているというか、俺はすごく虚しい気持ちに襲われた。
 こんなにも俺のことを想ってくれているのに、俺はセックスするしか頭になくて、千秋と過ごす日々が長ければ長いほど、罪の意識を感じるようになった。
 ―別れよう。それしか千秋を救えない。俺最低だから。あの時の俺は、千秋の心よりも、千秋の体しかみてなかったんだ。焦って最悪の結末を迎える前に、俺はそう告げた。
 今の彼女は泣いている。
 慰める言葉さえ見つからず。香水の香りはしない。別れてから弱音を全く吐かない彼女が、俺の目の前で哀れな姿をさらけ出している。
 あれから距離を少し置いてきた。
 俺がまたバカな考えを起こさないように、ただじっとしていた。
 過去の彼女を忘れようと、遥に告白したりした。
 遥にはアイツにはビシッと言ってやるなんて豪語したが、只今の俺は、泣いている彼女を慰める言葉さえ出てこないのです。
 もし、この胸の痛さを言葉に表すことができたら、彼女はまた笑ってくれるだろうか。
「な、千秋。こっちをみて」
 誠の右手が、彼女の頬に触れて、顔を合わした。下を向いてなかなかこちらをみてくれない。誠は目をつぶり、彼女の唇と交わした。
 柔らかい感触が伝わり、はじめ千秋は違和感を覚えた。誠は、怯えるように震える彼女の腕をつかみ、優しいキスをする。
 塩の味がした。それは彼女の涙。最後の涙。
「俺、千秋が本気で好きだから。今度は絶対裏切らないから」
「誠?」
 千秋の涙を指で拭いてあげた。そして、彼女を抱き寄せた。それに答えるように、千秋の手が彼の背中に触った。
 いつしか貴方が愛しくなりました。あの頃の幼かった自分が情けなく、何度貴方を傷付けたでしょう。
「ごめん。俺が全部悪かった」
 これが俺の本音だから。

 ヤスイチが目を細めて、遠くの二人を眺めた。
「おお!! どうやらハッピーエンドみたいだ! いや、じつに感動したぞ!」
「え? どうやってみえたんですか?」
「ふむ。俺の視力はアフリカ人並だからねー」
「ほんとですか?!」
 遥はまた大声を上げた。やはりヤスイチさんはすごかった。驚いていると、隣のヤスイチが一息をついて、
「ま、それは冗談として。とにかくあの二人がいい方向に行ってほんとによかった! 家に帰ったら赤飯でも炊こうかな! よし! 今日のご馳走決定!!」
 はりきって腕を回しながら、ヤスイチは砂浜から離れた。近くに止めてあるバイクのほうに歩いていく。遥も途中まで付いていこうと後ろを歩いた。
「あの、tamaさんに好きな人とかいますか?」
 tamaの専門家に聞いてみた。ヤスイチはこちらに振り返り、コメントした。
「大丈夫だって! tamaが女を簡単に振る人間じゃない限り、じっくり考えて答えてくれると思うよ!」
「でも……」
「一度きりしかない人生を楽しまないと損するよ。結果が駄目になったとしても、大事なのは今の想いを伝えることだよ! 頑張ってね!」
 tamaと同じセリフを聞いた。遥の肩を励ますように叩いて、ヤスイチはバイクに乗り込んだ。
「あ、あの……」
 遥は彼を引き止めて、これを最後に聞いた。
「ヤスイチさんは、恋とかしないほうですか?」
「しないね。人と付き合うのって、すごくめんどくさいじゃん? だから、俺は四六時中そばにいる関係が苦手なんだ」
 そういって、ヤスイチは笑みを浮かべた。今の状況を苦痛としては感じないその表情が、すごく印象に残った。
「恋愛だけが人生じゃないからね」
 誠が言っていたヤスイチの口癖。
 そして、ヤスイチと別れた。
 すごくいろんな勇気をもらった気がした。
 遥は決意した。
 今しかない大切な想いを、tamaに全部伝えようと。
 



第十三話<ラスト>
 
 遥は待っていた。あの時計台がある広場で。
 二人で一緒に座ったベンチのうえで、キョロキョロしながら彼を待つ。急な用事ができて遅れるとあっちからメールが入って、待ち合わせの時刻はとっくに過ぎていた。
 一人心細さを感じる彼女の前を、人はたまに通り過ぎるだけ。こちらに向かって歩く靴音はしないし、その人の姿さえ見当たらない。
 退屈潰しに、遥は携帯を開いた。 
 ずっと消去されずにいるメールが溜まっている。ほとんどはtamaからのメールだった。二日前ぐらいに届いたメールの内容にもう一度目を通すと、すごく懐かしい感じがした。
 ずっと遠くにいた人と、気が付けばこうして繋がっている。携帯を胸にあて目をつぶり、あの日の出会いを振り返ってみた。
 tamaさんに偶然目撃されたあたしの自殺現場。もしあれが先生や生徒だったら、彼らがいうセリフはすぐに見当がついていた。『自殺なんかしたら、君の親が悲しむぞ』とか、『わたしでよかったらなんでも聞いてあげるから』とか、『なら死ねば』とか。本当の意味であたしを引きとめてくれたのは、tamaさんだけだったかもしれない。
―『本当に死ぬ覚悟があるなら、それなりに人生楽しんでからにしろよ』
 覚悟なんて最初からなかった。今思えば自殺ごっこだ。ただ真面目に中学校生活を送っていただけなのに、毎日のごとく女子には苛められて、真に受けやすいのをわかっていて、冗談で告白してきた男子。みんな嫌いだった。生きている人間全てに殺意が湧いた。
 反抗さえできない立場に立たされ、あたしはついに屋上に逃げた。あの時の風はほんとに気持ちよかった。傷ついたあたしの心を癒してくれた。もうこの世界に未練なんてないよ。
―『よし! よくぞ生き残ってくれた!』
 でも、tamaさんがあたしを生かした。この世界に残ってしまったあたしを、あの人は心から歓迎してくれた。まだ会って他人同士なのに、tamaさんはすごく喜んでいた。
 あたしが今ここにいる理由なんてわからない。でもね……―
「遥ちゃん!」
 待ち合わせ時間に大幅遅れて、やっとtamaの声が耳に届いた。遥ははっとして、携帯を急いで仕舞った。
――貴方がいつもそばにいてくれたから、ここまで頑張ってこれた気がする。
 息を切らして、tamaがベンチに倒れ込む形で到着した。
「tamaさん?」
「ごめんよ。はぁはぁ……いきなりヤスイチさんに呼び出されて……ちょっと話し込んじゃったんだ」
「ヤスイチ?」
 遥が首を傾げると、しまったという顔でtamaは慌てて口をつぐんだ。 そして、何事もなかったようにベンチに腰を下ろした。遥は笑みを浮かべて、tamaの顔を横から覗いた。
 まだ少し彼の顔には疲れがみえる。
「tamaさん。あたし、ヤスイチの意味わかっちゃいましたよ」
「え?! それほんとに?」
「ヤスイチって、人の名前でしょ? 正確に言えば、誠のお兄さんのあだ名ですよね?」
 tamaは黙り込んだ。遥は静かに彼からの解答を待った。その間、足をブラブラと揺らした。
「あ、そうだ!」
 思い出したように、遥は突然声を上げた。隣の彼はびっくりして、遥のほうをみた。別にヤスイチの答えをtamaから聞き出してからいう言葉だったが、あまりにも重苦しい空気に耐えられず、遥から沈黙を破った。
 心臓がバクバクしている。tamaがこちらをじぃとみている。周りのみんなは、どんなふうに伝えているの? 誰かのを参考に
したかった。
「あたし、tamaさんのこと好きですよ」
 喉にずっとつまっていたモノをやっと吐き出した。さらりと言うのも悪くなかった。逆にストレートすぎて、思ったとおりにtamaを困惑させた。一気に遥の顔色は不安に変わった。
 ただでさえヤスイチの件で追い詰めてしまったのに、さらに彼を困らせる結果へと発展してしまった。空気は最悪。tamaからはなんの返事も聞けないでいる。
「……tamaさん。あの……」
 怯える手が、彼の肩に触れようとした。tamaの目が大きく見開いた。 びくと手を引っ込めると、彼がこちらに向いた。
「まず、ヤスイチについて言っておこう!」
 やっと頭の整理が済んで、tamaの顔は楽しそうに笑っている。ついさっきの失礼を謝るように、遥は体を小さくして彼の話を聞
いた。
「遥ちゃんの言うとおりだよ、ヤスイチの意味は。でもよくわかっ
たね?」
 意外という感じで、遥に尋ねた。
「多分、偶然誠がお弁当を忘れて来たから、わかったことなんです
けどね」
 少し照れながら、遥は頬をかいた。それまでの経緯を話すと、誠
の情けない様が浮かんできそうで、また哀れに思い出した。短く嘆
息して、ヤスイチの話はここで終わった。
「んで。次は……」
 tamaが軽快に話し出した。ついに二つ目の、告白の答え。 
 一番この場にいて恐れていたこと。耳を塞ぎたい。
 冷静な顔でベンチに座っている遥でも、心の奥では今すぐにでもここから抜け出したくて、その反面、早く彼からの答えを聞きたかった。
「僕も遥ちゃんのことが好きだよ」
 にっこりと笑って、tamaがそう告げた。遥のドキドキは最高潮に達した。嬉しくて、この場で暴れまくりたいほど、この嬉しさを表したかった。
 遥の口が震えながら声をだそうとした。
「ほんとに―」
「一人の人間として、遥ちゃんが好きだよ」
 この時、グサと胸に刺さったものは何? 頭が真っ白になっていく。遥は固まった。笑えない。無理しても笑えない。地面に視線を落とした。顔が歪んでいく。お願い、涙はまだ出ないで……。tamaさんが絶対心配するから。もっとこの重い空気に押し潰されそうだよ。ぐっと涙を引っ込めた。
「遥ちゃん?」
 tamaはいつもの顔で、俯いたままの彼女に声をかけた。遥は大きく息を吸った。大丈夫。今ならちゃんと笑える。
 遥は顔をゆっくりと上げた。
「あたしもtamaさんのこと、一人の人間として大好きですよ!」
「……ヤスイチさんが言ってた。この先、絶対人を傷付けるようなことするな! 絶対人を泣かせるようなことはするな! でも……やっぱりどこかでは人を傷付けているし、人を悲しませている。自覚がないのは怖いものだね」
「tamaさん……」
 遥は彼の名前だけを呟いた。tamaの横顔をみつめていると、また遠い存在に思えてきた。まだまだ手が届かない人。今いる距離は近いのに、彼がココから去っていくと、もう二度と会えない予感がした。失恋って、こんなにも胸を締め付けるものなのかな。
 tamaは立ち上がった。もうお別れだ。
「じゃ。またメールしようね! もう暗いしね」
 そういって、遥に手を差し伸べた。遥はtamaを見上げた。最後の彼の優しさに、もう一度触れてみた。
 広場の時計台に目をやると、もう七時だった。今日は珍しく母からの連絡がこなかった。当たり前か。携帯の電源を切っている。
 tamaとゆっくりと、雑談も交えながら、静かな街を二人で歩く。
 遥はふと歩きながら、あることを閃いた。そして、自分より背の高いtamaの袖を引っ張った。
「あたし、新しい言葉を思いつきました!」
「ほお。それはどんな言葉だい?」
「ヤスイチです!」
 反応はイマイチだった。tamaは苦笑した。遥もそれは予想していた。 気を取り直して、続けた。
「ヤっぱり、スなおが、イチばんだよ!の略でどうですか?」
 人差し指を立て、遥は提案した。 
 ちょっと苦しい略し方かもしれない。言い終わったあとに、汗が一滴流れた。遥が愛想よく伺うと、tamaは笑った。
「いいね! やっぱり素直が一番だね!の略がヤスイチなんて」
「でしょ?」
 それからまた歩き続け、どさくさに紛れて、遥が何気なくtamaの左手を握った。恐る恐る彼の反応を待っていると、何も言わず握り返してくれた。声にはださなかったが、叫びたいほど嬉しさがこみ上げた。
 tamaと別れたら、家で思いっきり泣いてやろうと決めていた。
 少しずつ時間が経つと、そんな気持ちは吹っ飛んで、家に帰ったら千秋に電話して今日あった出来事を一晩中話したくなった。
 振られたけど、tamaさんは最後まで優しい人だったと。
 
 遥とtamaはメールのやり取りを続けた。お互いの休みが合えば、いろいろな場所に出かけたりした。何一つ変わらないいつも通りtamaと、何一つ変わらないtamaへの想い。またチャンスが訪れることを信じて。
 一方の誠と千秋の関係は順調に進んでいる。たまに喧嘩する二人だけれど、ヤスイチさんが見守る中、なんとか今年で三年目となる。
 やっとこの歳になって、すべてにおいて満足感が得られた。
 恋愛だけが人生のすべてじゃないけど、たまにはね。


最終話<ヤスイチ!>

 
 わたし、死にたいと思っているの。今。
 
 小川夏海。受験を明後日に控えている中三です。
 とはいっても、わたしがココに来ている理由は、受験から逃げたいわけでもなく、すごく好きだった男に散々遊ばれた挙句の果てにここに立っている。
 夏海は屋上の手摺りから、運動場と真下にあるアスファルトを見下ろした。
 今日は先生以外誰もいない昼。授業が午前ですべて終わり、生徒たちは一斉に帰った。夏海は、友達と教室で別れて、重い足取りでココまで来た。その間、彼と過ごしてきたたくさんの想い出を振り返っては、床に涙が落ちた。
「わたしはもう人を愛すことなんてできないのよ。どうせ生きてたって、また男に捨てられるわ」
 息を呑んだ。もしかして、元彼が止めに来てくれるのではと、淡い期待をした。屋上の出入り口を振り返ると、涼しい風だけが吹いている。
 これがあたしの最期。これですべてから解き放たれるのかな?
「それって、虚しくないですか?」
 夏海の心の中を読み取ったように、女の声はあっさりそう言った。
彼女がもう一度振り返ると、私服姿の女性が目の前に現れた。
「誰よ?」
 あきらかにこの学校の生徒でも、教育実習にきた若い先生でもない。今事件になっている、校内の不法侵入者にしては珍しい女か。
「こんにちは! あたしはharu(ハル)。あなたはここの生徒さんかしら?」
 さわやかな印象を持つお姉さん。
「そうよ」
「名前は?」
「小川夏海」
 haruはニコニコとこちらをみている。気持ち悪いというより、この人は本当に人間なのだろうかと、ちょっと興味を持った。その瞬間に夏海の警戒が解かれた。
「あたしはここの卒業生。さっきお世話になった先生達に挨拶してきた帰りにここに寄ったけど、まさかこれから自殺する人と知り合うとは」
 屋上を見渡しながら、haruはここに来た経緯を勝手に話してくれた。長い黒髪を風が撫でるように吹いた。これから自殺する人−夏海をみても、haruは動揺するより、逆になにかを楽しんでいる感じだった。
「あなたはこれからわたしが死ぬのを、見届けてくれるの?」
 夏海は強い姿勢で尋ねた。haruはしかたなさそうな口調で彼女を引き止めようとする。
「一人の人間として、死に急ぐ若者を見逃すわけにはいかないわ」
「なら、引き止めてくれるの?」
「それでも死にたいなら、あたしはその死に様を見届けてあげるわ。でも、あなたが死ぬ理由なんて、今の苦しい状況から逃げるための『死』しかないもの。本当に死ぬ覚悟があるなら、それなりに人生楽しんでからにしたら?」
 いうことはあっさりしていても、haruの呆れたような口調が、彼女の心を動かした。目の前の女性は、ただ者ではない。
haruはジーパンに白いTシャツとすっきりとした服装で、こちらを見上げている。なにものにも左右されない堅い信念が、オーラのようにでている。
 夏海は圧倒されたものを背中に感じ、無言のまま足を床に下ろした。そのまま恐る恐る振り返ると、またあの明るいharuがそこにいた。
「よし! よくぞ生き残ってくれた!」
 あいかわらずニコニコしている。夏海はその笑顔が「偽り」だとは思わない。あんなに四六時中笑っていたら、自分の場合は顔が筋肉痛になってしまう。変な意味で、彼女を尊敬してしまった。
「わたし、もう一回人を信じてみる」
 夏海は考え直した。今思えば、彼女と会うまでの自分の自殺動機がバカだった。たった一回裏切られたぐらいで、くたばってどうするのよと。
 そして、もしまた素敵な人に巡り合えたら、haruのように楽しい生活が待っているのだ。そう、毎日笑っていられる日々がそこにある。
「なら、夏海ちゃんにちょっとしたおまじないを教えてあげる」
 haruは夏海の手をとり、指で掌にわかるように書いた。
 それは≪ヤスイチ≫という短い言葉。
 夏海は首を傾げた。その言葉も意味も分からないし、どういうおまじないの呪文なのかも見当がつかなかった。
「ねぇ、これってどういう意味?」
 自分の掌を指しながら、haruに聞いた。
「この言葉はね。大切なときに使うのよ。それ以外の場合は、気合で頑張れって感じかな」
 それでも意味が分からない。
 さらに追求しようとすると、haruは笑ってごまかすのだ。
「夏海ちゃんなら、きっと大丈夫よ!」
 haruは帰り際、夏海に励ましの言葉を贈った。今日会ったばかりの人と短時間で親しくなれたことに、夏海はとても嬉しかった。
 彼女とまた会う機会はあるだろうか。
 なんてさっぱりした性格。自称haruは中学校を後にした。

 
 うん、優しい想いが、絶えずこの世界に溢れているよ。 



 

 

 
 






















2004/05/06(Thu)00:47:52 公開 / 葉瀬 潤
■この作品の著作権は葉瀬 潤さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 テーマは「日常」「生きる」でやってきました。。
  
 ここまでたくさんの方に読んでいただいて、ほんとに嬉しいです!
 ありがとうございます!
 できれば、最後までお付き合いをよろしくおねがいします。。

 ちょっとくさいセリフがだんだん多くなってきますが、ここまで読んでくれた方々にほんとに感謝しています!

 この『ヤスイチ!』の話が終わったら、また恋愛ストーリーを書いてしまいますが、
 次回はちょっと現実ではありえない恋愛ですので、テーマは『乙女チックな切なさ』です。
 

 今まで書いた作品の中で、けっこう挫折した回数が多かったので、
 やっと終わりに近づいているので、自分で自分を褒めています。。
 よく弱音吐かずに頑張ったなって。

 
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