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『さくらのサクラ 〜to love song〜     ―完―』 作者:神夜 / 未分類 未分類
全角76661.5文字
容量153323 bytes
原稿用紙約237.55枚



     「プロローグ」




 僕の、鳴海真弥(しんや)の幼なじみで、この世の何より、この世の誰よりも大切なひと。
 ――神宮さくら。それが彼女の名前。
 僕は、彼女が好きだった。この世の何に代えてさえも、僕は彼女を護りたかった。
 さくらといられるなら世界なんて壊れてしまってもいいと思う。
 さくらさえいてくれればそれだけですべてが救われると思う。
 君といられるためなら僕は何だってする。世界の破滅とさくらの命、どちらかを選べと言われたら僕は迷わずさくらの命を選ぶだろう。もしさくらの身が危険にさらされたら、僕は命に代えてでも彼女を護るだろう。僕はどうなってもいい、ただ、たださくらだけが生きていてくれれば僕はそれだけでいい。
 僕は、彼女の笑顔が大好きだった。この世の何に代えてさえも、その笑顔を護りたかった。
 太陽のように眩しく、そして優しいその笑顔が、僕にとって何よりの喜びだった。
 さくらがいてくれれば、それでよかった。
 他には何もいらない。何も望まない。ただ、
 そこにさくらがいてくれるだけでよかった。


 病室のベットの上で、さくらは僕の膝を枕代わりに使って眠っている。
 規則正しく聞こえる彼女の寝息が、まださくらは生きているのだと感じさせてくれた。
 さくらは、あとどれくらい生きられるのだろうか。この大切なひとを、僕は失ってしまうのだろうか。
 いやだ。僕はさくらを失いたくなんてない。もし、さくらの代わりに僕の命で彼女が助かるのなら、僕は喜んでこの命を代わりにするだろう。
 僕の大切なひと、神宮さくら。僕の膝で眠っている彼女を、ただ純粋に護りたかった。
 どうして助けられないのだろう。どうしてさくらの残り少ない命を、留めておくことができないのだろう。
 でも、僕にはそれができない。だから僕は一緒にいるのだ。
 さくらが生きていられる間、僕は君と一緒にいる。
 僕にできることなんて高が知れている。だけど、それでも僕は君を護りたいと願うから。この世の何に代えても、僕は君を護るから。
 だって、僕は君が好きだから。
 体が自然に動いていた。ベットの脇に置かれた一台の古ぼけたラジカセに手を伸ばす。音量をなるべく小さくしてラジオの電源を入れる。赤ランプがぼんやりと灯り、微かなノイズに混じって馴染みのある司会者の声が病室内に響く。
『またリクエストもらいした、ラジオネーム『サクラ』さん。この子のリクエストと言えばやはりこれ、不屈の名曲『to love song』、それでは、聴いてください』
 少し音色が悪くなったスピーカーから少しひび割れた音楽が流れ始める。
 この曲は、さくらが大好きな曲だ。もちろん、僕も大好きだ。
 小さな頃から、本当に小さな頃からさくらとずっと一緒に聴いた曲だ。この曲には思い出がたくさん詰っている。
 今、さくらが寝てしまっているのが残念だ。一緒に聴いていたい。けど、今はそっと寝かせておこうと思う。こんなにも、安心して寝ているさくらを見るのは久しぶりだったから。
 歌は少しずつ流れてゆく。僕とさくらの思いを乗せて。この曲を聴きながら、思い出が走馬灯のように頭の中に浮んでは消える。
 不意に、涙が溢れた。ポロポロと止まることなく流れる。その涙が頬を伝い、そしてさくらの頬を濡らす。
 もう、何も考えられなくなった。さくらの体をそっと寄せて優しく抱き締める。
 さくら……っ! さくら……っ!!
 曲は流れ続ける。この歌は、最高の『love song』だ。世界一の歌だ。
 さくらの体を優しく抱き締めて、僕はひとり涙する。
 もう一緒にいたいなどとは言わない、もう二度と会えなくてもいい、それでもいいから、
 さくらに、少しでも長く生きていてほしかった。
「泣いてるの……?」
 いつの間にか、さくらが目を覚ましていた。
 しかし、僕はさくらから離れなかった。泣き顔を見られたくなかったのもある。でもそれよりも、もし今、この体を離してしまったら、彼女がこのまま消えてしまうような気がした。
「ごめん……さくら……もう少しだけ、このままで……」
「……うん」
 やがてゆっくりと、さくらの腕が僕の背中に回される。
 病室のベットの上で、ラジカセから部屋に流れる『love song』を聴きながら、ふたりはいつまでも抱き合っている。


 もう一緒にいたいなどとは言わない、
 もう二度と会えなくてもいい、
 ただ、
 さくらに、少しでも長く生きていてほしかった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――





     「世界が壊れてゆく」




 夏の風が吹きぬける並木道を歩いていた。
 春風中学に入学してから幾度となく通ったこの通学路。初めてこの並木道を見た時はその木の多さと緑に圧倒されたものだ。
 しかしその道を幾度となく通っているくせに、真弥はいつまで経ってもこの道には圧倒されてばかりだった。
 木の葉の隙間を縫って射し込む太陽の光がどこか幻想的なのも理由の一つだろう。
「きれいだね」
 隣りを歩いていたさくらはそう言う。
「その言葉、毎日言ってるけどそろそろ飽きない?」
 むっとさくらは怒ったように頬をリスのように膨らませる。
「真弥ちゃんもそのツッコミ毎日言ってて飽きないの?」
「だって僕が言わなきゃ誰が言うのさ?」
「むぅ〜、もういい、もう知らない」
 ぷいっと明後日の方向を向くさくら。
 そんなさくらに少し苦笑しながら、真弥は機嫌を直そうとする。しかしさくらの機嫌はなかなか直ってはくれなかった。
 いつも通りの、いつもの光景。さくらと過ごす昔から何も変わらない日常。
 ずっと前から、真弥の隣りにはさくらがいて、さくらの隣りには真弥がいた。いつからかそれが当たり前になっていた。クラスの友達からは「いつまでも女と一緒にいるなよ」などと言われるが、真弥はいつも「幼なじみの腐れ縁だよ」とそう言って話しを逸らす。でも、そうは言っていても皆わかっているのだと思う。言葉にしたことはただの一度もないが、はっきり言おう。
 僕はさくらが好きだ。幼なじみの縁もあるのだろうが、それ以外にもさくらと一緒にいる理由はあるのだ。
 それは多分、さくらもそうなのだろうと思う。さくらも真弥と同じようにクラスの女友達にからかわれるが、その時の言い訳は真弥と全くの同じの「幼なじみの腐れ縁よ」だ。幼なじみが一緒にいるのなんて小学校までなのかもしれない。それでも、ふたりはいつまでも一緒にいる。
 中学に入学してもう約三年経つが、毎朝中学に行く通学路にはふたりの声が響いていた。
「ねえさくら、夏休み入ったら何する? 何か予定ある?」
「夏休み? ああそっか、もうそんな時期なんだよね」
 どうやらいつの間にか機嫌は直っていたらしい。でもそれを言うとまた怒り出すので黙っておこう。
「そんな時期って……今七月だよ?」
「細かいこと気にしない気にしない。それで、何の話しだった?」
「……だから、さくらは夏休みに何か予定あるのって話」
 ああそれそれ、とさくらは言う。そしていきなり立ち止まって「むー」と唸って何かを必死に考え出す。
 立ち止まったさくらを置いて行くこともできず、真弥もさくらの隣りで立ち止まる。
 しかし予定を必死になって考えるのはどうだろう。普通はもっとパッと出てくるものではないのか。
 やがて、散々考えたくせにさくらの答えは、
「今のところ何もないよ。真弥ちゃんは? 何かあるの?」
 今度はこっちに振ってきた。だが真弥はもう考えてある。
「僕は海に行こうかなって思ってるんだ。もちろんさくらも一緒に」
 にやっとさくらは笑う。
「それってもしかしてあたしの水着姿が見たいから誘ってる? わあー真弥ちゃんのエッチー」
「違うよバカ、もういい。クラスのヤツと行くから」
 真弥は歩き出す。その後ろから慌ててさくらが追い付き、真弥の腕を掴む。エサをもらえない子犬のような表情で、
「ウソウソ、さっきのウソ取り消しっ、あたしも連れてって!」
 形ばかりの怒った表情を見せ、それでも真弥は歩むのをやめない。
 そんな真弥の腕を掴んだまま半ば引っ張られるように歩いているさくらはいつまでも「ねぇー連れてってよぉー愛しの真弥ちゃんー」などとほざいている。いい加減恥ずかしくなってきた真弥はさくらの腕を振り解こうとするが、さくらはさくらで連れて行くと言われるまでその腕を離す気はないらしい。
 先に折れたのは真弥だった。
「あーもうっ! わかった、わかったから手を離せって!」
「やたー! 約束だからね、もちろん交通費は全部真弥ちゃんの負担だからね」
「わかったよ、ちゃんと約束……待て! なんで僕がさくらの交通費まで払うんだよ!」
 振り返ったそこにさくらはいなかった。
「べーだ、こっちだよー」
 いつの間にかさくらは真弥のかなり前まで進んでいて、そこから後ろ向きに歩きながら軽くあかんべーをしていた。
 カチンとくるものがあった。「待てコラ!」と真弥は走り出す。しかしさくらは捕まるもんかと真弥に負けじと走り出し、その間「きゃーチカンー!」などとほざいて走っている。怒りなど一瞬で忘れ、ただ早くさくらを捕まえないとえらいことになると思ってその背中を追う。「待てってさくら! いや、待たなくていいから叫ぶのやめて!」「やーだよ! みんなーここにチカンがますよー注意してくださーい!」
 だがしかし、さくらの声を聞いているのは真弥しかいなかった。
 そして、そのことに先に気付いたのはさくらだった。走っていたのにいきなり立ち止まり、ふと何かを考える。急に立ち止まったさくらにぶつかりそうになりながらも何とかブレーキをかけ、目の前にいるさくらに怒ってやろうと思ったのに、そんな真弥を余所に突然さくらが、
「あ―――――っ!!」
 叫ぶ。
 突然の叫び声に驚き、
「な、なにっ!?」
 と返したらまたしても突然にさくらは言う、
「時間っ! 間に合わない! 遅刻!!」
「え……?」
 ここで初めて真弥は辺りを確かめる。しかしそこには真弥とさくらを除いては誰もいなかった。この時間帯に他の生徒がいないと言うことはつまり、時間がピンチであるわけで、のんびり行けば遅刻が確定するわけで、だから走らないと間に合わないわけで。そして遅刻すると掃除当番が強制的に押し付けられるわけであって、遅刻してはならないのがタブーなのである。決断と行動は早かった。
 さくら、走るぞ! そう言おうと思ったら、もうすでにそこにさくらはいなくなっており、遥か前方に小さくなったさくらの背中が見えた。何より先に、「汚いぞさくら!! 先行くなっ!!」そう叫ぶと、遠くから「正義は勝つのさ!!」と声が返って来た。正義もクソもあるか。真弥も走り出す。スタートの出遅れがなんとも否めないが、実は真弥は運動神経が良い。五十メートル走は上位に入るし、マラソン大会だって上位に入る。さくらも運動神経はいい方だが、真弥と比べれば劣る。ということから、春風中学校の正門が見えた辺りで真弥はさくらに追い付いた。正門を抜けたと同時にさくらを追い越し、「正義は何とも弱しっ!!」と捨て台詞を吐いて下駄箱に乱入した。夏に走ったせいで汗をかき、手が滑って下駄箱のフタがなかなか開けられない。何とも下らない場所での時間のロスだ。手間取っていた真弥を余所に、ここでさくらが再び首位を奪還した。実にスムーズに下駄箱のフタを開け、いとも簡単に上履きに履き替え、「正義は必ず勝つのさ脇役っ!!」と捨て台詞を吐いて階段を駆け上がる。制服のスカートがふわりと舞う。いつもなら「もっと気にして階段上がれ」などと注意をするが、今の状況はそうも言っていられない。やっとの思いで上履きに履き替え、すでに見えなくなってしまっているさくらを追う。
 ちなみに真弥とさくらは同じ三年一組である。そして三年の教室は校舎の三階にあって、一組の教室はその一番奥になっている。さっきも言ったが、さくらに比べれば真弥の方が運動神経も良ければ足も速い。階段の途中でさくらに並んだ。と、この辺りでチャイムがなる。規則でいえばこのチャイムが鳴って教室にいなければ遅刻とみなされるが、実際はチャイムが鳴り終わるまでに教室に入ればセーフとなる。つまりラストスパートである。三階に挿しかかった時には、再び順位は逆転していた。よし、このまま行けば間に合う。そう真弥が確信した瞬間、後ろで小さな悲鳴が上がった。
 ふと見れば、廊下の真中でさくらが倒れていた。迷ったのは一瞬だけである。急いでさくらの方に引き返し、だいじょうぶ? と声を掛けようとした。
 と、いきなりさくらは真弥の腕を引いて立ち上がり、腕を引かれた真弥は無様に廊下に倒れる。
「ありがとう真弥ちゃん! じゃ、あたしはお先に!」
 クソッ、ワザトかさくらっ!! しかしその叫びは声にはならない。必死に立ち上がってさくらの後を追う。残り十メートルもない、教室のドアはもうすぐだ。そして、先にさくらがゴールした。さくらは遅刻しなかったことに安堵して胸を撫で下ろし、その後ろから真弥が教室に飛び込もうとして、本当に図っていたようにチャイムが鳴り終わる。
 遅刻が確定した瞬間だった。
「真弥ちゃん……」
 さくらの悲しそうな声。見ればさくらは実に楽しそうに笑っていた。
「ご愁傷さま……」
「さくら……お前、汚いぞ……」
「汚いもクソもあるかお前ら。さくらはセーフ、真弥は遅刻。ってな訳で真弥、放課後掃除よろしく」
 見れば教卓にはもう伊塚先生の姿があった。
 伊塚先生とはもちろん真弥達のクラス、三年一組の担任だ。歳を二六、本名を伊塚龍千侍(いづかりゅうせんじ)という何とも大層な名前の持ち主なのだ。一部の男子生徒からは「リュウ」、一部の女子生徒からは「りゅうちゃん」などと呼ばれているが、それが本人公認なのだから驚きである。それに加え、教師になる前はギャングだか暴走族だかの頭を張っていたとの噂もあるほどだ。しかしそんな噂があるのにも関わらず、この男は学校で一番人気のある教師だった。歳が若い分他の教師より話し易いし、何よりこの伊塚龍千侍は生徒のことを生徒として扱わない。つまりは、そういう先生なのだ。他の教師達の間では龍千侍を応援する派と学校から追い出す派がくっきりと分かれるという奇妙な現象も起こっている。
 だから、教師命令であるはずのその言葉に、真弥は少しばかりの反論をする。
「だって先生、仕方ないじゃないですか……。それに遅刻したのはさくらの責任だし、やるならさくらも巻き添えに……」
「ちょ、ちょっと待ってよ! なんでそこであたしが出てくるのっ? あたしは遅刻してないじゃん! ねえりゅうちゃん、あたしは関係ないよね!?」
 伊塚はボリボリと頭を掻き、実に嫌そうに、
「惚気話はこりごりだ。イチャイチャすんなら帰れ。帰らないんなら席に着け、放課後真弥は掃除。文句は言わせない、ちなみに反論したら殺す」
 この男、生徒に向かって殺すだの死ねだのそんなような暴言を平気で吐くのだ。
「マジっすか……」
 落胆する真弥の目の前には、嬉しそうに笑うさくらがいる。
「さすがりゅうちゃん、話しがわかる」
 勘弁してよ、そう思った。
 そして決まってしまったことは覆せず、哀れ真弥は放課後の掃除をひとりでやるこになってしまった。
 やがて一時間目が始まる。真弥はいつまで経っても廊下から動こうとはしない。
 夏の風がクラスの窓から吹きぬけ、そして廊下から出て行く。
 夏休みが訪れるのは、まだもう少し先だった。


     ◎


 午前の授業を乗り越え、昼休みに体力回復を果たして午後の授業を行き抜く。
 やっとのことで訪れた放課後、皆が皆楽しそうに帰り支度をする中、真弥だけが精魂尽きたような表情をしている。
 そんな真弥に、さくらは優しい言葉を掛けるはずもない。
「ねえ真弥ちゃん、早く掃除しなよ」
「……誰のせいだと思ってる……」
 さくらは人差し指を口に当て、「んー」と悩み、やがてけろっとした顔で、
「真弥ちゃんのせい?」
「違う! さくらのせいだよ!」
「冗談だよジョーダン、」
 そこまで言って、さくらは突然俯いた。
「ごめんね……あたしのせいで真弥ちゃんが……ホントにごめん……」
 俯いた顔を両手で覆い、ぐすっと泣き声みたいなものが聞こえる。
 端から見てもそれは誰もがウソ泣きだと気付くだろう。だがしかし、オツムの回転が遅い真弥はあっけなく騙された。慌てて席を立ってさくらの周りをオロオロと歩き回り、「ご、ごめん、僕は怒ってないからさ、えっと、だからその泣くなって……」と弁解の言葉をただひたすら繰り返す。
 さくらはさくらで真弥がこんなにも簡単に引っ掛かるとは思ってもよらず、引っ込みがつかなくなってしまった。いつまでも泣き真似をするさくらと、その周りをウロウロと歩く真弥を、遠巻きからクラスメートが茶化す。
「ああもう、さくら、泣くなって。……じゃあ夏休み海に行く交通費僕が出すから、だからさ、」
 何となく言ってみたその言葉、
 しかしさくらにしてみればチャンスだった。いきなり顔を上げ、満面の笑みで真弥を見る。
「ホント? やった、それじゃ約束だよ。真弥ちゃん掃除頑張ってね、あたしは帰るから。また明日、バイバイ」
 言うだけ言って、さくらは一目散に逃げ出した。
 教室から飛び出して行ったさくらを呆然と見送り、オツムの回転が遅い真弥はそれから約三十秒ほどしてからやっと状況を理解した。だが当の本人はもうこの場から退場した後であり、残された真弥はただ何をするでもなく、呆然と立ち尽くしている。
 窓の外から喧騒が聞こえる。野球部の金属バットがボールを叩く、サッカー部が声を張り上げる、ブラスバンド部が退屈なメロディを奏でる。
 何も変わらないこの日常。いつまでも続くと思うこの日々。
 世界はゆっくりと、流れてゆく。


 ぶっちゃけた話し、遅刻したら掃除当番を押し付けられるのは三年一組だけである。
 理由は簡単で、担任の伊塚が中学の頃はそういった決まりがあったから、お前らも味わえというなんとも理不尽で簡単な理由なのだ。
 しかしクラスの掃除はちゃんと分担が決まっており、教室ではやることはない。だから遅刻者が掃除をする場所は、何と職員室の伊塚龍千侍の机の上なのだ。しかもこれがまた汚い。常に学校をうろうろと徘徊して職員室には滅多にいない伊塚の机は、プリントやらなんやらでごっちゃ返しになっている。そこを片付けるのは至難の業であり、下手をしれば雪崩を起こすのだ。だからそれが嫌で、三年一組は他のクラスに比べて遅刻率が極端に少ない。
 そんな訳で真弥は今、職員室の一角のまるでゴミ箱のような机を前に立ち尽くしている。伊塚の机を見るのはこれで二回目なのだが、前回より遥かにグレードアップしていた。探せばお宝でも出てくるのではないかと錯覚すらさせられる。
「おう真弥。ちゃんと掃除しとけよ。今からおれ達職員会議だから誰もいないからな」
 いつの間にか伊塚が真弥の後ろに立っていた。
 しかし真弥には振り返る気力すらもうない。ただ何も考えず、
「へえ、先生も職員会議に出るんですね……」
 後ろで頭を掻く音が聞こえる。一種の癖なのだろうと真弥は思う。
「いや、実はサボりたいんだがよ、これ以上サボるとそろそろ教頭の血圧が沸騰しそうだからよ……」
 ちなみに教頭のハゲは龍千侍を追い出そうとする派の人間だ。しかし校長が応援する派なのでなんとも言えず、伊塚かが何かする度にただ血圧を上げるのだ。
「大変なんですね」
「まあよ。あ、それじゃおれは行くわ。テメぇちゃんと掃除しとけよ。何か出てきても騒ぐなよ」
 何かって何ですか龍千侍さん。
「ほな頑張れ」
 そう言い残し、伊塚は職員室から出て行った。職員室には真弥ひとりが取り残される。職員室で独りきり、という状況はこれがはじめてだった。ふとテストの問題用紙でも探してみようかと思う。しかしもし見つかれば伊塚に殺される。それが怖くて実行はできなかった。
 ため息を吐いてやりますかとキアイを入れる。だがキアイを入れても体が拒絶反応を示す。このまま逃げてしまおうかと考える。しかし見つかれば伊塚に殺される。それが怖くて実行はできなかった。
「どうしよう……」
 つぶやくと、
「手伝ってあげよっか?」
 振り返るとそこにさくらがいた。
「さくら……。帰ったんじゃなかったの?」
 へへっとさくらは照れくさそうに笑う。
「帰ろうと思ったんだけど、真弥ちゃんに酷いことしたのかなって思って」
「それで、戻ってきてくれたの……?」
 さくらはまた照れくさそうに笑って肯いた。
 素直に、その好意が嬉しかった。さくらが歩いてくる。真弥の隣りに並んで伊塚の机を見て「酷いねこれ」とつぶやく。
「ありがとう、さくら……。でも、」
 今度は真弥が照れくさそうに笑う。
「高く付きそうだね」
「もちろん。帰り道にアイスクリームお願ね」
「まったく……。さて、じゃあやろうか」
「うん」
 とはいうのものの、どこから手を付けていいのかわからない。下手にどこかを触れれば本当に雪崩が起きそうなこの机の上の惨状。一体どうやったらこうなるのだろうか。そもそも伊塚龍千侍という教師はいつからこの席をまともに使っていないのか。どうして人は争うのか、人と人は分かり合えないのか、などと意味不明な連想が浮ぶ。
 取り敢えず真弥は机の中央の隙間からプリントを抜き出してみた。少しバランスを崩せば取り返しのつかないことになるような、そんな緊張が走る。そのプリントの日付は、なんと去年の冬だった。呆然とそのプリントを見ていると、隣りのさくらが奥底の方から一枚の写真を取り出した。
「ねえ、真弥ちゃんこれって……」
「どれ?」
 その写真を覗き込む。と、一瞬そこに移っているのが誰だが本気でわからなかった。
 まず、写真の中には男が三人いて、全員がバンダナで口を覆い、柄の悪そうなうんこ座りでこっちを睨んでいる。近くにバイクが二台あり、両方とも半端なく改造してある。さらにその三人の中央で一番柄の悪そうな不良の特攻服の胸に『紅蓮連合総長 龍千侍』と刺繍されていた。
 つまり、この写真に移っている一番柄の悪い人物は間違いなく、
「りゅうちゃん……?」
「……だね」
 そう言われれば面影がないわけでもない。しかし今の伊塚と比べればほとんど別人だった。
 写真を持っていたさくらがとんでもない物を見てしまったという表情で真弥を見つめる。
「これ、どうしよう……?」
 そんなこと言われても困る。すごく困る。
 普段は驚くくらいオツムの回転が遅い真弥だが、今回は驚異的な早さで回転した。
 さくらの手から写真を取って、適当に机の奥にあったノートの間に突っ込んだ。これで多分大丈夫だろうと思うが、一体何が大丈夫なのか。
 掃除をするという当初の理由を忘れ、真弥はさくらの手を握った。
「逃げよう!」
「は? え、ちょっと、真弥ちゃんっ? 逃げるって掃除は!? ねえってば!」
 聞く耳持たずに真弥は走る。
 とんでもないものを見てしまった、と真弥は思う。もしこれがバレたらとんでもないことになると思う。さくらはだいじょうぶだろう。伊塚は女子生徒には甘いし。でも、男子生徒には容赦がない。殺される、と本気で思った。というか、伊塚龍千侍がギャングやら暴走族やらの頭を張っていたという噂は本当だったのだ。とんでもないことを知ってしまった、と真弥は思う。掃除なんてしてる場合ではないのだ。今すぐここから離れなければならなかった。命が懸かっているのだ。冗談ではないのだ。
 必死になって逃げる真弥に連れられ、状況がわからないさくらはただただ「ねえ真弥ちゃん? どうしたの? もしかしてヘンなことする気?」などとほざくが、真弥はなんの反応も示さない。
 一刻も早く、ここから離れたかった。
 世界が変な方向に流れてゆく。


 春風中から少し離れた場所にある老夫婦が経営する小さなお店でソフトクリームを一つ買った。
 そして事情を察してくれたのか、なんとこの老夫婦は「おまけだよ」としわくちゃの顔で笑ってもう一つ余分にソフトクリームを真弥に作ってくれた。心からその老夫婦に礼を言って、足早にさくらの待っている公園に向かった。
 この小さなお店の近くには大き目の公園があって、春風中の生徒がよく帰り道に寄っていくため賑わっている。まばらにいる同じ中学の制服の中からさくらの姿を探す。と、さくらは真弥から少し離れた場所のベンチにひとり座っていた。急いでそこに駆け寄る。
 真弥が来たことに気付いたさくらは、笑顔でこっちに向かって手を振る。
「早かったね」
「まあね。それよりほら、約束のアイス」
 片方を差し出すと、さくらは誰の物真似かわからないような威厳たっぷりの表情で「うむ、ご苦労」と言う。そのあまりにミスマッチなさくらの言葉に苦笑しつつも、真弥はさくらの隣りに腰を下ろした。
「それにしても、さっきは驚いた。真弥ちゃんいきなり走り出すんだもん」
 さくらはソフトクリームの山を小さな舌でぺロっと舐め、美味しそうに笑って甘い味を満喫する。
 同様にソフトクリームを舐めながら真弥は答える。
「いや、あれは逃げ出したくなるよ……。さくらは平気だろうけど、見つかったら僕は殺されるからね」
「りゅうちゃんそんなことしないよ? あんな風に見えて優しいし」
 ふっと真弥は笑う。確かにそうだろう。女子生徒に対しては伊塚は甘いだろう。だから、あの伊塚先生の本当の怖さは男子生徒にしかわからないのだ。『あれ』を経験した者から言わせれば、伊塚は悪魔以外の何者でもないのだ。
「まあ、知らぬが仏ってヤツだね……」
 諦め切った表情でそうつぶやき、真弥はまたソフトクリームを舐める。
「どういうこと?」
 きょとんとした顔で、さくらは真弥を見る。
「知らないほうが幸せってこと。ほら、早く食べないよ溶けるよ」
 まだ何か言いたそうだったが、ソフトクリームの誘惑に負けてさくらはまた舐めはじめる。
 美味しそうに食べるその光景に、安堵に似た感覚を覚える。さくらのこの幸せそうな笑顔が、真弥にとっては何より嬉しかった。小さな頃からずっとだ。ケーキを食べるとき、シュークリームを食べるとき、チョコレートを食べるとき、そしてアイスを食べるとき。どのときも、さくらは本当に幸せそうな笑顔で食べるのだ。甘い物が大好きなの、とさくらは言う。そして真弥は、そんなさくらの笑顔が大好きだった。
 もちろん面と向かってそんなことを言ったことはない。言えるはずもないのだ。
「真弥ちゃん何しているの? 溶けてるよ?」
 気付けば指先に冷たいアイスが垂れていた。
「うわっ、」
 急いで真弥は再度食べはじめる。あそこの老夫婦の店のソフトクリームは美味いと有名なのだ。何度かテレビに出ていたのを憶えている。人情がある優しい夫婦が経営する出店。確かそんなような見出しだった。それも間違いではなく、事実そうなのだ。おまけにとこのソフトクリームをくれたし、そして何よりこれは本当に美味しかった。しかも値段が百円ぽっきりときている。売れないはずがない。
 しばらくふたりは何も言わずに食べていた。ベンチは木陰になっているとはいえ、気温が暑いせいで溶けるスピードが半端じゃない。ソフトクリームを食べ終わる頃、公園には珍しいことに真弥とさくらを除いては誰もいなくなっていた。
 風が吹いている。いつも肌に感じている夏の風だ。
「気持ちいいね」
 さくらはそう言って目を閉じる。腕を上に伸ばして猫のように「ん〜」と伸びをする。
「なんか眠たくなるね。ポカポカしててお布団の中にいるみたい」
 ポカポカと言うには少し暑過ぎると思う。でも、眠たくなるは本当だった。この木陰は、本当に気持ち良かった。
 やがてさくらがウトウトと眠たそうにしていた。
「寝るの? 何なら肩でも貸そうか?」
 冗談のつもりだった。まさか本当に寝るなんて思ってもみなかった。
 しかしさくらは冗談とは思わなかったらしい。
 眠たそうな顔で真弥を見つめ、
「ホント……?」
 半分くらい寝ていたのかもしれない。
「……え?」
「じゃ、肩貸して」
「……は?」
 いきなりコテっとさくらの頭が真弥の肩に預けられる。
 真弥はひとり狼狽する。
「え、は、ちょ、ちょっとさくらっ? 本気で寝るのっ?」
 すでに夢の世界に旅立っていたさくらには、もう何を言っても無駄だった。
 どうしようかと焦る。まさかこのままさくらが起きるまでいなければならないのか。まあそれはいい、それはいいが問題は場所だ。もしこんな場面をクラスのヤツらに見られたらヒマラヤに逃げてひとりでひっそりと暮らさなければならなくなる。だがさくらを無理やり起こす気には絶対になれなかった。白状すると、気持ち良さそうに寝ているさくらの寝顔を見ていたかった気持ちがあった。さくらの寝顔は、純粋に綺麗だった。
 起こす気になれず、移動することもできず、真弥の肩に頭を預けて寝ているさくらの隣りに座っていることしばし、最悪の事態になった。
「し〜んや。ラブラブですなあ」
「まったくですなあ。羨ましい限りですなあ」
 背後からそんな声が聞こえたので驚いて振り返ると、そこにふたりの男子生徒がいた。ふたりとも知った顔だ。両方とも、真弥と同じクラスの友達だった。
「ばっ、違うって! これはさくらがいきなり……っ!」
 見苦しい言い訳にしかならなかった。髪を染めている方が、
「いいですなあ、無理やりってのも」
 染めてない方が、
「まったくですなあ。羨ましい限りですなあ」
 必死だった。
「た、頼むっ! このことは誰にも言わないでくれ……っ!」
 染めてる方がニヤニヤと笑う。
「みなまで言うなよ、明日にはこのことが学校中に広がるぞ」
 染めてない方はただただ「まったくですなあ。羨ましい限りですなあ」と繰り返すばかりだ。
「もういいよ! 早くどっか行け!」
「怒るなって。安心しろよ、誰にも言わないから。だだし条件がある」
 ピンと指が上がる。
「明日の昼飯おごれ」
「うっ……!」
 なんと汚い連中だろうか。しかしそれで暗黙してくれるのなら致し方ない。
「わかった……その条件飲むよ……」
「オーケーオーケー。これで契約成立。おいレン、行くぞ」
 そしてふたりは歩き去って行った。
 とんでもないことになってしまったものだ。
 隣りで眠るさくらの額を小突く。まったく、お気楽に寝やがって。
 ため息を吐いて天を仰ぐ。木陰の隙間から見える太陽はまだまだ元気一杯だ。どこからか風が吹いてさくらの髪を撫でる。さらさらのその髪が綺麗になびいていた。そんな光景を見ながら、真弥はひとり微笑む。
「まったく……」さっきと同じ台詞だが、さっきとは全く気持ちが違った。
 さくらが、本当に愛しく思えた。唐突に、さくらを護りたいと思った。
 いつでも安心して眠れるように。いつでも安心して笑えるように。さくらをずっと護っていきたい。真弥はそう思う。
 どうしてそんなふうに思ったのかなんてのはわからない。ただ、どうしてかさくらを護りたいと感じた。
 隣りで眠るさくらは、真弥にとって大切な存在だった。


 そして、異変に気付いたのはそれからしばらくしてからだった。


 突然、さくらの呼吸が乱れた。
 苦しそうに顔を歪め、息が詰ったように咽る。しかしなぜかさくらは起きない。
 本当にいきなりだった。脳が情報処理に追いつかない。
「さくら……っ!? どうしたの!? ねえ!? さくらっ!!」
 真弥の声は届いていない。苦しそうに咽ながら「かっ、はっ」と必死に息をしようとする。
 真弥に凭れていた体がずるりと傾く。さくらは何の抵抗もしない。無抵抗のままで地面に倒れ込む。
「さくらっ!! どうしたのさくらっ!?」
 急いで地面に倒れたさくらを抱き起こす。ここでやっとさくらは微かに意識を取り戻した。
 薄く開いた瞳で真弥を見つめ、掠れる声でさくらは言う。
「……しん、や……ちゃん……?」
「さくらっ!? どうしたの!? ねえ!?」
 そしてまたさくらの意識は遠のく。体から完全に力が抜ける。
 脳が情報処理を拒絶する。瞳から涙が溢れる。
 救急車を呼ぶ、なんてことは当たり前過ぎて考えもしなかった。
「さくらっ!! さくらってば!!」
 気が動転していた。さくらの名前を叫び続ける以外に、できることなんて何一つ思い浮かばなかった。
 こんな時に限ってこの公園には誰もいない。誰かに助けてほしかった。
「うあぁぁああああぁあああああぁぁああああぁぁあああああああっ!!」
 泣き叫ぶ以外に、できることなんて何一つなかった。
 腕の中で意識を失っている彼女が、何よりも大切だった。
 僕は、さくらが好きだった。


 やがて、異変に気付いた老夫婦が真弥とさくらの元に駆け寄ってくる。
 老母が慌てて救急車を呼びに家に帰って行く。老父がさくらの脈を計る。
 何もできなかった。
 護りたいのに、何もできなかった。腕の中で意識を失っているさくらを抱いたまま、瞳から涙を流したまま、音のない世界で真弥はひとり取り残されている。
 やがて、赤いランプの付いた白い車が公園に辿り着く。
 世界が、壊れてゆく。


 僕は、さくらが好きだった。


 さくらは、それから三日、意識を失ったままだった。


     ◎


 何もかも過ぎ去った、誰もいなくなった公園に、ひとりの少女が現れた。
 どこから現れたのかはわからない。まるで手品のように、まるで瞬間移動したように、彼女はそこに現れた。
 その少女は悲しげな表情を見せ、やがて夏の風に飲まれて消える。
 やがて、公園には静寂が戻ってくる。
 世界が、壊れてゆく。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


     「信念を貫き通せるおまじない」




 春風病院の三階にある170号室のドアから『面会謝絶』の文字が消えたのは、彼女が病院に運び込まれてから二日後の正午だった。


 あの日、さくらがこの病院に運び込まれたあの時、真弥はまさに廃人と呼ぶに相応しかった。誰が何も言っても何の反応も示さず、ただどこか虚空を見つめ、時折涙を流した。その状態が回復したのは、さくらが入院して一日経ってからだ。
 入院二日目の朝、真弥はひとりで170号室の前のベンチに座っている。目の前にあるのは『面会謝絶』の文字だけ。何度見てもその文字は消えてはくれず、そして何をするでもなく、真弥は病院が開放されてからずっとここにこうして座っている。
 何人もの看護婦が声を掛けてくれたのをおぼろげに憶えている。お節介な老人が何かを懸命に喋っていたような気がする。しかしどれもこれもはっきりとはしない。昨日から全く眠っていないのに不思議なくらい眠気はなく、だが何かをしようとする気力は少しも起きなかった。
 どれくらいそこに座っていたのだろう。時間にすれば高だか二、三時間だっただろうか。だけど、もう何年もここでこうしているような気がする。
 あれから、どうなったんだっけ。
 記憶が酷く曖昧だ。さくらとソフトクリームを食べていて、そしたら急にさくらが寝てしまって、そこをクラスのヤツの見つかって昼飯をおごる約束をさせられたはずだ。そして、そこからの真弥の記憶はごちゃごちゃになっていた。訳のわからない夢を数え切れないほど観た気もするし、その夢の中でさくらが倒れた夢も観た気がする。
 腹の底に、真っ暗な熱が浮き上がる。
 夢であってほしいと思う反面、これはどうしようもない現実だと思う自分がいる。
 拳を握り緊め、それをそのまま後ろの壁に叩き付ける。
 異常のようなその光景を心配に思ったのか、ひとりの看護婦が真弥の元に駆け寄った。しかしその看護婦は、少年の表情を見て言葉を無くし、結局は何も言わずに立ち去ってしまう。
 真弥は今、自分がどんな顔をしているのか全くわからなかった。ただ、
 ――さくらを護れなかった。さくらに何もしてやれなかった。
 心の中で、その言葉が何度も何度も繰り返される。
 護れなかった、何もできなかった、護れなかった、何もできなかった。救急車を呼ぶなんて当たり前の行動も、意識があるかどうかを落ち着いて判断することも、どんな些細なことでも、何一つできなかった。結果、さくらはこうして入院している、面会謝絶なんて文字まで張り出されている。
「そんなことはない。君がいなければもっと状態が悪化してたかもしれない」と誰かが言ったのを憶えている。僕がいなければ? でも、僕が何をした? 泣き叫んでいただけで何もできなかった僕が、一体なんの役に立った? 救急車を呼んだか? 意識の有無を確かめたか? どんな些細なことでもいい、僕は、何かしたのか? 答えは簡単だ。何もしていない。
 だからさくらは、こうなってしまった。僕のせいだ。僕が何もしなかったから、僕が何かできたのなら、さくらはこんなことにならずに済んだかもしれないのに。いや、かもじゃない、こうならずに済んだのに。僕のせいだ……僕の……。
 もう一度、拳を壁に叩き付けた。もう一度。もう一度。拳を壁に叩き付ける度、目から涙が溢れる。
 想い、そして願う。
 何もいらない。ただ、さくらが側にいてくれるだけでよかった。さくらが側で笑っていてくれるだけでよかった。他には何もいらない。いらないから、だから、誰でもいい、この願を叶えてほしい。
 何度拳を壁に叩き付けただろうか。その拳が、突然動かなくなった。見れば、真弥の赤くなった拳を掴んで立っている伊塚がいた。
「せん、せい……?」
 伊塚は真弥の拳を握り潰す勢いで力を込める。
 拳に激痛が走り、呻き声を上げた真弥の瞳を伊塚は直視する。
「このクソ根性ナシ、自己嫌悪のつもりか? そんなに拳潰したけりゃあ手伝ってやるけど、どうするよ? ああ?」
 そう言いながらも、着実に伊塚の力は増していた。真弥の痛みが頂点に達したのを見計らったように、唐突に伊塚は真弥の拳から手を離した。そのまま真弥の隣りにどかりと座る。
 拳が痛みの受け過ぎで麻痺している。握ってみるが感覚がない。
「さくらはどうなってる?」
 しかし真弥は何も言わず、仕方なく伊塚はふと前を見て状況を把握する。
 ドアに書かれた170号室の印と、その下に書かれている面会謝絶の文字。つまり、事態は好転しているどころからさらに深みに流れているのだろう。ボリボリと頭を掻く。
 隣りの真弥は呆然としているだけだった。そして伊塚は、そのままの状態で何も言わずに『面会謝絶』の文字を眺め続けた。
 それからしばらくしてから、ふたりの足音が真弥と伊塚の元に近づいてくる。
「真弥くん、ちょっと来てもらえるかしら?」
 顔を上げれば、そこにさくらの両親がいた。反射的に立ち上がる。
 ふたりは不安を隠したような表情をしていたが、何とか堪えているのは端から見てもはっきりとわかった。
 さくらの父が、
「今からさくらの病状を主治医の先生から聞きにいくのだけれど、真弥くんにも来てもらいたいんだが……」
 感覚のない拳を握り緊める。覚悟を決める。
「わかりました……」
 真弥は歩き出す。それと同時にさくらの両親も歩き出し、その後ろを付いて行く。
 伊塚はいつまで経ってもドアの『面会謝絶』の文字を眺めながら動こうとはしなかった。


 さくらの病室から少し離れた個室に連れて来られた。そこは学校の保健室とよく似ていた。
 しかし保健室にはないレントゲン写真を見る装置があり、教師が使うようなデスクがあって、その近くのイスに白衣を着た若い男が座っていた。
 名を赤坂健一というらしい。若いのだが、有名な医大を主席で卒業した実力を持っている男だ。
 その赤坂と向き合うようにさくらの両親が座り、そこから少し離れた場所に真弥は座った。
「まず、さくらさんの病名ですが……」
 赤坂がそう言うと緊張が室内に伝わり、真弥はその緊張に押し潰されそうになる。
「先生、さくらは……?」
 さくらの父が身を乗り出さんばかりに赤坂にすがる。
 しかし、赤坂の口から出てきたのは真弥には信じられない言葉だった。
「それが、原因が全くわからないんです」
「わからない……? どういうことですかっ?」
 赤坂が続ける、
「さくらさんの病状の事例は、今までに報告されていません。外傷もないですし身体内にも異常は見られませんでした。しかしさくらさんは意識不明の昏睡状態です。もちろん我々としても全力を尽くしますが、何分事例がないものですから対処の仕様がなく……もし心の病でこうなっているのならそちらの専門化に任せるしかないのですが……」
 真弥の中で、一度は忘れかけた真っ暗な熱が再度浮き上がる。
 病名がわからない……? 対処の仕様がない……? じゃあ何か、さくらは助からないっていうのか……?
 麻痺していたはずの拳の感覚が一瞬で戻った。
 真っ暗な熱は沸騰する。
 ふざけるなよ、それをどうにかするのがあんたらの役目じゃないのか……? さくらを助けることができないって、それなら一体何のための医者だというのだろう。
 自分で自分が止められなかった、真っ暗な感情が体を支配する。座っていたイスを後ろに弾き飛ばし、真弥は駆けた。さくらの両親の脇を抜け、座っていた赤坂の白衣に掴み掛かる。
 叫んだ。
「ふざけんなよ!! さくらが助からないっていうのか!? それをどうにかするのがあんたらの役目だろっ!! 諦めてんじゃねーよ!!」
 突然のことに慌てて後ろのふたりは止めに掛かるが、今の真弥は止まらない。
 拳を振り上げ、赤坂の顔を殴ろうとした。
 そこで、連鎖的にいくつものことが起こった。ドアがぶち壊れるような音を立てて開き、そこから中に飛び込んだ伊塚は真弥の首に腕を滑り込ませ、殴り掛けていた拳を止め、力任せに真弥を投げ飛ばした。
 力の差は圧倒的だった。いとも簡単に真弥は吹き飛ばされ、壁に沿って置いてあった消毒液やらガーゼやらが乗ったカートに激突して激しい音が室内に響く。
 静寂がこの場を支配し、やがてゆっくりと伊塚は赤坂に頭を下げた。
「申し訳ありません、ご迷惑をお掛けてしてしまって」
「い、いえっ、とんでもありません……。その子が怒るのも無理はないですよ、僕の言い方が無責任過ぎたんです……」
 伊塚は首を振る。
「あなたの言い方は間違っちゃいない。ただコイツが自分を自分で止められないだけです」
 呆然としていたさくらの父が、
「あ、あなたは……?」
 今度はふたりに向き直り、
「申し遅れました、私はそこにいる真弥と神宮さくらの担任をしています伊塚龍千侍です。騒がしくしてしまいすいません」
 どう言葉を言っていいかわからず、さくらの両親は顔を見合わせ困惑の表情を見せる。
 そして最後に、伊塚は真弥の方を向いた。
「真弥、表ん出ろ。話がある」
 その場にいる他の三人の顔を順々に見渡し、
「コイツとふたりで話しをしてきます。後はコイツ抜きで話しを続けていてください」
 しかしいつまで経っても真弥は立とうとしない。伊塚はそんな真弥の胸倉を鷲掴み、無理やり立たせて引き摺るように個室を後にする。
 残された三人は、状況が飲み込めずにただ立ち尽くしていた。


 伊塚に連れられ、無言のまま歩いて病院の駐車場まで引っ張り出された。
 駐車場に着くと同時に、伊塚は突き飛ばすように真弥をアスファルトに放り出した。普段は吸わない煙草を取り出し、パッケージから一本加え、百円ライターで火を着けて盛大に煙を吐き出す。
 アスファルトに座り込んでいた真弥は、視線を落として何も言わない。
「我を忘れてさくらの命を救うことのできる医者に掴み掛かるとはどういうことだ」
 真弥は答えない。
「もしやお前は自分のせいでさくらがああなったなんて自惚れてんじゃねえだろうな」
 何も言わなかった真弥が、はじめて言葉を吐いた。
「先生に……」
「あん?」
 必死になって立ち上がる、今更ながら伊塚との身長差に気付いて少し怯むが、それでも胸に押し留めておいた言葉が次々と口から嘔吐のように溢れた。
「先生に何がわかるんですか!? 目の前で倒れたさくらに僕は何もできなかった! 目の前で倒れた大切なひとに、僕は何もできなったんですよ!? それがどれだけ苦しいか、先生にはわかりますか!? わかるわけないじゃないですか! わかるのはそれを体験したひとだけなんです! 苦しいんですよ、辛いんですよ! どうすればいいかわからなくなるんですよ!? そんなことになったら、自分を見失うに、決まってるじゃないですかっ!!」
 全部ぶちまけた。体から熱が吹き出すように暑いのに、心の底は驚くほど冷たかった。興奮からか足が震える。
 真弥の叫びを聞いた伊塚は、表情を何一つ変えなかった。何も言わずに煙草をまた加え、煙を肺に送り込んで吐く。ボリボリと頭を掻き、小さな声で、
「体験したことがないヤツにはわからない、か……」
 そうつぶやく。
 真弥は噛みつく。
「そうですよ、先生には絶対にわかりっこないんです……。大切なひとが目の前で――」
 伊塚の目が真弥の言葉を遮り、そして、伊塚は言い切った。
「おれはな、ガキの頃からの親友がふたり死ぬのを目の前で見てきたんだ」
 言葉を無くす、
「それもふたり同時に、だ」
 何も言えなくなって、何も考えられなくなった。
 マヌケ面で伊塚の顔を見つめる。伊塚はろくに吸ってない煙草をアスファルトに落として踏み潰す。視線をさ迷わせ、どこかの空間を見つめて伊塚は言う。
「真弥、お前おれの机にあった写真見たろ?」
「え……あ、はい……」
 遅刻した罰として伊塚の掃除をさせられたあの時、さくらが引っ張り出したあの写真のことを言っているのだ。
「あそこにはおれと、あともうふたり写ってただろ?」
 ただ肯く。伊塚はそれを横目で確認して、どこか遠くを見つめて語る。
「あいつらは両方ともおれのガキの頃からの親友だった。あの時のおれ達はちょっと浮かれてたんだろうなあ……三人で暴走族作ってチーム広げて。結構デカかっかたんだぞ、おれらのチーム。だからおれ達は調子に乗った。毎晩バカみたいにバイク走らせて警察と乱闘して。でもな、そんなある日、写真に写ってたあのふたりが単車にニケツで走ったことがあるんだよ。その横をおれは走ってた。……信号無視ってのは、あの頃のおれ達には当たり前だった。今まで事故ったことなんてなかったし、事故るわけないと高をくくってた。でも、あの日あの時は違った。おれが赤信号でスピード少し落としたら、あのふたりは度胸ダメしだとか何とか言って、信号を突っ切った。いや、突っ切ろうとした……。
 あの時のことを、おれは今でも夢に見る。バカみたいにスピード出した大型トラックとバカみたいに突っ込んだ単車との衝突。一瞬で世界が壊れる衝撃。ふたりとも即死だった。おれは何もできなかったよ」
 さ迷っていた視線が心弥に結びつく。
「おれはな、あの時のことを忘れたことはない。だが、立ち止まったりもしたこともない。もちろん我を忘れたこともな。あの時おれがスピードを落とさなければ。あの時調子に乗ってなかったら。あの時信号無視をしなければ。そう思ったことは一度や二度じゃない。でもな、」
 伊塚が、これほどまでに真剣に話している姿を見るのは、これが初めてだった。
「悔いてたら前には進めない。だからおれは前を向いた。だから今のおれはここにいる。ふたりの分まで、おれは生きると誓った。だから、おれは今を生きてる。あいつらにはもう二度と会えなくて、もう二度と言葉を交わすことができない。だが真弥、」
 伊塚の両手が真弥の肩を掴む。一気に引き寄せられ、煙草一本分もない至近距離から直視される。その瞳の中に、何かを感じたような気がした。
「さくらはまだ生きてる。生きようと頑張ってる。なのにお前がそんなんでどうする? さくらが目を覚ました時、一番最初に見たいのはなんだ? お前ならすぐわかるだろう。それはな、鳴海真弥の笑顔だよ。さくらにとって、それが何よりも効く特効薬なんだよ。だからお前は前を向け、さくらの前では笑顔でいろ、さくらを護りたいなら信念を貫き通せ。お前にはそれができる。なにせお前はおれの教え子だ」
 笑顔で、伊塚は真弥の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
 思う。
 僕は、何をしていたのだろう、と。
 答えはすぐそこにあったのに、僕はそれに気付こうとはしなかった。いや、それに気付く怖かっただけなのかもしれない。
 でも、もう迷わない、もう立ち止まらない。僕は伊塚先生の教え子だ。
 僕はさくらが好きだ。だから、僕が護るんだ。信念を貫き通そう。
 さくらの前では笑顔でいよう、前を向いて歩こう。さくらを、護り抜こう。
 伊塚の手の温もりが、本当に暖かかった。
 泣きそうになる。
「先生……生意気なこと言って、すいませんでした……。それと、ありがとう、ございました……」
 涙を堪えるので必死だったが、それでも真弥は笑った。
 そんな真弥を見て、伊塚は実に嬉しそうに笑う。
「僕は行きます。さくらの側にいてやります。そして、さくらに笑顔を見せてあげます」
「そうか、さすがおれの教え子だ。よし、特別におまじないを掛けてやろう」
「おまじない、ですか……?」
「ああ、信念が貫き通せるおまじないだ。真弥、ゆっくり目を瞑れ」
 言われるがままにゆっくり目を瞑る、
「ゆっくりと歯を食い縛れ」
 ゆっくりと歯を食い縛る、
 そして、見えない視界の外でこんなつぶやきが聞こえた。
「……ガキが調子こきやがってこの……」
 は? ちょっと、伊塚先生? 何言って、
 瞬間、伊塚が叫ぶ。
「死ねぇえやぁあぁああぁぁああああぁぁあああっ!!」


 刹那、真っ白な衝撃が真弥を襲った。


     ◎


 そもそも人はなぜ殴られると意識を失うのか。
 それは殴られた衝撃で脳震とうを起こすからである。脳震とうとは、何かの力が外部から入力され、脳が急に圧力を受けたために起こる一時的な機能障害のことをいう。もちろんそれは一時的なものであり、個人差はあるにしろそんなに長くは意識を失ってはいない。
 てな訳で、真弥は目を覚ました。自然に起きたのではない、右頬に鋭い痛みを感じたから起きたのだ。
 反射的に上半身を起こし、手で頬を触ってみる。手が触れた頬は、笑ってしまうくらいに腫れていて、そこに馬鹿でかいシップが無造作に貼られていた。口を動かすと痛みが走る。どれだけ強く殴られたのかは見当もつかなかった。
 呆然と辺りを見まわす。窓から射し込む太陽の光はすでに赤くなっていて、白いカーテンをその色に染めていた。真弥はそのカーテンの側の壁に並べられた三つのイスに寝ていたようだ。
 ここはどこだろう、とやっと思った。まだぼんやりとする意識をさ迷わせ、首を動かして窓から室内に視線を向けた。清潔感の漂う室内、どこも白く塗装された壁。シーツが綺麗に整えられたベットが真弥の隣りにあって、そしてそこにはさくらが寝ていた。
「さくらっ!」
 ぼんやりとしていた意識がはっきりと甦る。イスから飛び出してさくらの眠るベットに駆け寄る。
 しかしそこに寝ているさくらは、本当に眠っていた。自然に寝ているのではないのだ、強制的に眠らされている感じた。肩を揺さ振ってでも起こしてやりたくなる衝動に狩られる。だが自分を自分で抑えてその衝動を止める。
 さっきまで座っていたイスを持ち出し、さくらのベットの脇に添えてそこに座る。
 この室内は、静寂しかなかった。
 この世界には真弥とさくら以外誰もいないかもしれないと思わせるほど、ここは静かだった。規則正しく聞こえるさくらの寝息が、心を安堵させてくれた。
 そっと、真弥はさくらの手を握る。
 目を瞑り、そして想う。
 僕はさくらが好きだ。だから、僕が護るんだ。この手を握って、どこまでも護っていこう。例え世界を敵に回そうとも、僕はさくらを護りぬく。それが僕の信念だ。
 この頬の痛みが、それを可能にしてくれる。
 ふと表情が緩む。右頬が痛かった。どうやら伊塚には全力で殴られたようだった。仮にも真弥は生徒だ。なのに、その生徒に遠慮無しですか。しかしそれも伊塚先生らしいな、とも思う。それにそのおかげで吹っ切れたのだ。
 ベットで眠る彼女を、僕は護るんだ。
「さくら、安心して。僕がさくらを護るからさ」
 見間違いだったのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。ほんの微かに、さくらが微笑んだように思えた。
 だがそれが見間違いだとしても、真弥には十分だった。
 それからしばらくしてから、病室のドアが開いた。見れば、そこから白衣を着た男が入って来た。
 さくらの主治医の赤坂健一だった。
「おや? 目を覚ましたんだね」
 後ろでドアを閉め、赤坂はベットに歩み寄ってくる。その腕には患者の容態を書き示す紙を持っていた。
 真弥は立ち上がる。さくらの手を握ったままだったのを赤坂に気付かれ、真弥は急いでさくらの手をベットの中に返した。しかし赤坂は微笑むだけで何も言わなかった。
 そして、言うべきことがあるのは真弥の方だった。
「あの、赤坂さん……」
 紙をベットの傍らに置き、さくらの腕を取って脈を計りながら、
「なにかな?」
 真弥は頭を下げた。
「すいませんでした! さっきはいきなり掴み掛かってしまって……。赤坂さんは何も悪くない、僕がバカだったんです。本当にすいませんでした!」
 突然の行動に呆気に取られた赤坂だったが、突然我に返り、
「あ、いや。気にしないでください。あの言い方は僕にも非があったわけだし……、だからその、おあいこということで」
 この人は、本当に良い人なのだろうと思った。穏やかなその性格がそうさせるのかもしれない。
 真弥が頭を上げると、赤坂は何やら紙に書いていた。そして突然笑い出した。怪訝な顔をした真弥に気付き、咳ばらいをして「ご、ごめんそうじゃないんだ」と軽く頭を下げた。
「実はね、君があの先生に運び込まれた時のことを思い出してね」
「あのって……伊塚先生ですか?」
「そうそう。いやあ驚いた、ふたりで出て行ったと思ったらいきなり君が気絶して帰ってきたんだから。あの先生さ、君を背負って僕の所に来てこう言うんだ。『すいません、このバカを観てもらえますか』って。ナース達は慌ててたな、何せ君のその頬、どうやったらそんなに腫れるんだってくらい腫れてたから」
 自分のシップが貼ってある頬に手を触れる。これはそんなに大袈裟に腫れていたのだろうか。
「理由は彼から聞いたよ。おまじないなんだって?」
「まあ……そう、ですね」
 赤坂は笑った。「おまじないで殴るのか。いや、おもしろい先生だ。あんな先生に出会っていたら僕も少しは違う自分になれてたのかなあ」そんな赤坂の意見に、心弥はひとりでつぶやく。「甘いね、赤坂さんも」「え? 何か言ったかい?」「いえ、なんでもないです」
 そして赤坂は手に持っていたペンを閉まって一息着く。
「一つ、君に言っておくことがあるんだ」
「なんです?」
「さくらくんのことだ」
 緊張が走る、何を聞かされるのかと身構える。が、赤坂は首を振った。
「違う違う、悪いことじゃないよ。君も考えてみればわかるんじゃないのか? 今日の朝はこの病室には入れなかった。だって面会謝絶になっていたんだから。だけど今、君はここでこうしている」
 はっとする。言われればその通りだった。
 昨日さくらが運び込まれた時から今日の朝までずっと、この病室内には入れないことになっていた。しかし真弥は今、さくらのいるこの170号室に入っている。
 と、いうことはつまり、
「今日の正午きっりちに、突然さくらくんの病状が安定してね。まだ意識は戻らないけど、心配はいらないはずだ。時期に目を覚ますだろう」
「あ、え、ほ。ほ、本当ですかっ?」
 赤坂は笑顔で肯く。
 腰が抜けた。イスに座って、自分でも不思議なくらいに笑顔が零れた。さくらの手を再度握り、額に当てる。
 よかった……本当によかった……。泣かないと思っていたのに、どうしても目から涙が溢れる。
 赤坂は気を遣ってくれたくれたのか、ゆっくりと病室から出て行こうとする。ドアに手を掛け、そして思い出したように言う。
「そうだ、あの先生とさくらくんの両親に頼まれてね、」
 真弥は顔を上げる。
「真弥くん、君は今日ここに止まっていきなさない。僕が許可する」
 意外な提案だった。しかしそれは真弥にしてみれば願ってもいないことだった。
「いいんですか!?」
「ああ。その代わり、ナースが夜の見回りに来た時はベットの下に隠れることが条件だ。見つかったら誤魔化すのが大変でね」
 子供のように赤坂は笑った。
 真弥はまた頭を下げる。
「も、もちろんです! ありがとうございますっ!」
「それじゃ、もしさくらくんに何かあったらナースコールでも押してナースを呼んでくれるかな。僕はもう行くから」
「はい! ありがとうございますっ!」
 もう一度、真弥は頭を下げた。
 そして頭を上げる時には、赤坂は病室から廊下に出て行っていた。
 さくらの手を握り、伊塚に、さくらの両親に、そして赤坂に、真弥は心から感謝する。


     ◎


 時刻は深夜の一時過ぎ。
 その時真弥は、さくらの眠るベットの下にいた。
 息を潜めて身動き一つせず、物音を懸命に追い掛ける。足音がするのだ。時折廊下に丸い光が見え隠れする。これは見回りのナースの足音と、そのナースが持っている懐中電灯の光だ。
 赤坂に言われた通りに、真弥はナースが来る度にこうして隠れていた。これでナースの見回りは三回目である。初めは冗談のつもりだった。ナースが一つ一つの部屋をすべて確認なんてするはずはないと思っていた。その予想は一回目の見回りでは当たりだった。看護婦は何もせずに170号室の前を通り過ぎて行った。しかし問題は二回目だった。一回目がそうなら二回目もそうだろうと思って、真弥はベットの下に隠れずにさくらの手を握っていた。だが、そのナースはあろうことか真弥のいる170号室に入って来たのだ。あと数秒、そのことに気付くのが遅ければ見つかっていただろう。本当に泣きそうになったのを憶えている。
 そしてその経験を生かし、真弥は足音に敏感になっていた。今聞こえている足音は次第に遠くなっていき、やがて消えた。しかし真弥はそれから一分ほどしてからやっとベットの下から這い出る。
「……別の意味で怖いんですけど……」
 つぶやいてみる。
 当初は夜の病院が怖かった。何か出るのではないか、そればかり考えていた。血塗れのナースとか、ここで亡くなったジジイの幽霊とか、その他諸々。しかし二回目の見回りからは血塗れのナースやジジイの幽霊なんかよりも遥かに、生きたナースの方が怖かった。
 イスに座って一息着く。前のベットを見る。
 さくらは、まだ眠ったままだった。しかし夕方見た時よりもずっと顔色が良くなったと思える。それに今は眠らされているのではなく、寝ているのだと感じることもできる。それだけで真弥は安心した。
 さくらの手を握り、もう片方の手で病室のカーテンを開ける。月明かりが不思議なくらい明るく思えた。空に浮ぶ大きな満月と星の群れ。キレイだと思った。
「さくら、見てごらんよ。今日は星がよく見える」
 返事はない。しかし真弥は続ける、
「あ、そうださくら、知ってる? 狼狗って人の姿をした狼の話。小さい頃にその絵本を呼んだことがあるんだ。さくらもあの時一緒に読んだっけ? まあいいや、それでさ、その狼狗ってのは満月の光を見ると本当の姿になるんだって。狼男みたいだと思わない? あれって本当にいるのかな? いるなら会ってみたいね」
 それから、真弥は言葉を止めなかった。いつまでも話し続ける。
 さくらが聞いているのかどうかなんてことはわからない。だけど、もしかしたら聞いているかもしれないと思うと、話さずにはいられなかった。
 満月の夜空の光の元で、病室のベットの上でひとりの少女は眠り、その少女の手を少年は握り、その少年は話しを続ける。
 流れ星が一つ飛んでいた。
 それからどれくらい話しただろう。ついに真弥の話しに弾切れが訪れた。話す事がなくなり、真弥は少しの間無言でさくらの手を握っていた。その手から感じる温もりが、儚く思えた。
「ねえ、さくら。君はいつ起きるの……?」
 不意に、そんな言葉が口から出た。
 一度出てしまったものは、そう簡単には止まらなかった。
「僕は君の笑顔が見たいんだ……。君の笑顔が好きなんだ……。君がいないと、僕はダメなんだと思う。だからさ、いつまでも寝てないでさ、」
 無理なことを言っているのは、真弥が一番よくわかっていた。
 だが、それでも、言葉は止まってはくれなかった。
「僕に、笑顔を見せてほしいんだ……。僕は……僕は、さくらが好きなんだ」
 初めて言葉にしてそう言った。
 そして、それがすべてのはじまりだったと思う。


 壊れていた世界が、動き出したような気がした。


 真弥は言葉を失った。
 呆然と握っている方の手を見る。
 今、確かに……。
 気のせい、かもしれない。だけど、どうしてもそうは思えなかった。
 だって、今確かに、
 そしてもう一度、今度は確実に世界は動き出した。
 気のせいなんかじゃない。これは、本当なんだ。
 立ち上がる、さくらの頬に手を添える。
 確かに、さくらは今、真弥の手を握り返していた。
 やがて、世界が元通りになる。
「……しんや……ちゃん……?」
 真弥は笑顔を見せた。
 泣かないと決めた、笑顔でいようと決めた。
 さくらを、護ろうと決めた。それが、僕の信念だ。


 ナースコールが押される。
 春風病院の三階にある170号室に明かりが灯る。
 コールを受けたナースが駆け付ける。


 世界が、元通りになる。


      ◎


 春風病院の散歩用に作られた庭には噴水がある。夜は止まっていて水は出ていない。
 そして、その噴水の先端にひとりの少女が舞い降りる。
 公園に現れた、あの少女だ。
 しかしあの時は違い、少女はただ一つ明かりの灯った病室を眺め、
 嬉しそうに笑った。
 やがて少女は夏の夜風に飲まれて消える。
 空から満月と星の群れがすべてを照らす。
 どこかで虫が一声鳴いた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「注射はきらい」




 春風病院に勤めること二十年、ベテランナースと呼ばれていた中年オバサンの佐々木富美子は、その日の夜は夜勤だった。
 そして、佐々木富美子にはとある極秘任務があった。
 夜勤中に極秘で買ってきたケーキを極秘に食べること。それが今回の任務である。
 ベテランナースで通っているくせに、佐々木富美子にはこういった裏面が存在した。しかしそれを発見されると責任問題になってしまう。ベテランナースの威厳が崩れてしまう。だから、佐々木富美子はいつもより多く夜の見回りをして、念の為にすべての病室を確認した。
 先生の姿ナシ、起きてる患者ナシ、他の夜勤のナースは仮眠中。
 やるなら今しかないわ、と佐々木富美子は思う。
 足音を忍ばせ、仮眠中のナースを起こさないように控え室の冷蔵庫を開け、『危険物取り扱い注意』と書かれた箱の中から一つのショートケーキを取り出した。まさに悪魔のような笑みを佐々木富美子は浮かべる。「ぐっふっふっふ」との笑い声も微かに出たはずである。
 そのまま足音を忍ばせてナースステーションに戻り、机の下に隠れてポケットに入れていたフォークを取り出す。ゆっくりと、ゆっくりとフォークがケーキの上に乗っている苺の命を狙う。
 その時のことを、後に佐々木富美子はこう語る。
「本当にびっくりしたわ、だって昏睡状態の患者の部屋からいきなりナースコールですもの。しかも声が男の子なんだったんだから。幽霊かと思ったわ。それに聞いてよ、そのせいでケーキ食べ損ねたのよ。まったく。え? あ、ああいやいや、やなんでもないですわよオホホホホ」
 フォークが苺の息根のをし止めようとした瞬間だったはずだ。
 突如としてナースコールが響く。驚きのあまりにフォークを取り落とし、おまけに苺が床にころころと転がる。
 苺を惜しいと思う感情が体の大半を占めていたが、まさかナースコールをシカトする訳にもいかず、苛立ちを隠せない足取りでナースコールの表の前に立つ。
 背中に電撃が走った。なぜなら、ナースコールは170号室、神宮さくらの病室からだったのだ。二日前、正確には三日前に運び込まれた意識不明の患者だ。もしかして意識が戻ったのかと思い立ち、急いで受話器を取った。
 想像していたのは可愛らしい女の子の声だった。しかし、実際に聞こえたのは男の子の声だった。それも酷く興奮した声だ。
『もしもしっ!? さくらが、さくらの意識がっ!! もしもし!? 聞こえてますかっ!! もしもしっ!?』
 腰を抜かしそうになった。
 そして唐突に思い出す。この神宮さくらの病室の前で泣いていた男の子のことを。もしかして忍び込んでいたのだろうか。
 だが、そんなことは今はどうでもよかった。患者の意識が回復した、それはナースにとっては何よりの喜びだった。
 ケーキそっちのけで佐々木富美子は走り出す。スリッパがペタペタペタと騒々しい音を奏で、静まり返った廊下に何重にもなって反響する。
 ナースステーションの床に転がっていた苺が、ひとり涙を流す。


     ◎


 さくらは驚くべきスピードで回復していった。
 意識を取り戻したあの日のあの夜から、すでに三日が経っている。
 初めの一日はまだ意識がほやりとしていて、真弥の頬に張られていたシップを見て「なにそれ……? 真弥ちゃんのほっぺって、白かった……?」などと言っていたが、それからは意識がはっきりし始め、二日目には病院の散歩用の庭で子犬のように元気に走り回っていた。
 そして三日目の今日、さくらは検査ということで赤坂に病室から別の部屋へと連れて行かれた。
 病状が回復したとはいえ、原因がわからなかったことが尾を引いているようだ。「もうだいじょうぶだとは思うけど、一応検査だけは受けてほしい」と赤坂は説明した。渋々だったが、さくらはそれに従う形となる。
 しかし赤坂に何度も何度も「注射はないよねっ? ねえ注射はないでしょっ? 注射だけは許してっ! お願い!」と頭を下げていた。小さな頃から一緒にいる真弥だが、実はさくらが注射が嫌いなことは未だに知らない。さくらは真弥に恐がる姿を見られたくないらしく、真弥の前では強がっていたらしい。
 だがそんなさくらには悪いが、この検査には点滴も含まれる訳であって、どう足掻こうが注射される運命なのだ。
 病院の一室から、女の子の小さな悲鳴が聞こえたのはそれからしばらくしてかである。


 そして真弥はというと、悲鳴を上げるさくらのことなんてつゆ知らず、呑気に春風中学校に登校していた。
 本当は休むつもりだったが、さくらが入院してからずっと休みガチだったので伊塚にそろそろ出て来いと言われたのだ。
 逆らう、なんてことができようはずもなかった。渋々ではあったが、真弥は学校に登校した。
 朝、教室に真弥が入ると同時に、何人ものクラスメート達に囲まれた。話しの内容はもちろんさくらのことだった。
「さくらちゃんが入院したってホント!?」「おい神宮ってそんなに悪いのか!?」「ねえ病院はどこ!? 春風病院!?」「神宮さんの病気ってなに!?」「真弥テメぇおれのさくらに何をした!! 子作りか!? ああっ!?」最後の質問をしたヤツに蹴りを入れ、真弥は人の渦を掻き分けて自分の席に座った。が、今度はその席が囲まれる。さっきと同じように質問攻めを受け、とうとう真弥は観念した。
「わかった、話すから皆落ち着けって!」
 机を掌で叩くと教室に静寂が降り立った。その中で、真弥だけが喋り出す。
「さくらは入院したけど、もう病気は治ったよ。今は元気でいつも通りなさくらだよ」
 なんだよかった、との空気が満ちる。全員が安心したように胸を撫で下ろし、その中の女子生徒がひとり、
「あ、わたし、さくらちゃんのお見舞いに行きたいんだけど病室は?」
 その時、真弥の脳裏に赤坂の言葉が甦る。
 ――さくらくんは今、少し不安定な状態にある。病気はもう治ったようだが、あまり負担は掛けたくない。だから、お見舞いとかは遠慮しとくように友達とかに言っておいてくれないか?
 確かにそうなんだろうと思う。だいじょうぶにせよ、意識を失った原因は不明。下手に負担を掛ければまた再発する恐れがある。赤坂の考えは妥当なのだろう。しかし、それを言うとクラスがまた不安がるかもしれない。
 だから、真弥は言葉を変えた。
「実はさ、さくらって今パジャマ姿なんだよ。皆に見られたくないからお見舞いは遠慮しといてって伝言頼まれたんだ」
「そっか、それなら仕方ないね。わたしもパジャマ姿なんて見られたくないしね。わかった、じゃあさ、皆で寄せ書きでも書こうよ! さくらがもっと元気なるように!」
 クラスが「おおー!」と叫んだ。
 そんな喧騒の中で、真弥はひとり微笑む。
 さくらはクラスで人気者だった。明るい性格と無邪気な行動、そして何よりその綺麗な笑顔。誰もがさくらを慕っていた。そんなさくらがしばらく学校を休んでいることに、皆心配していたのだろう。それは、真弥にとっても嬉しいことだった。
「テメえら! いつまで叫んでやがる、さっさと席に着け!」
 前を見れば、いつの間にか教卓に伊塚が立っていた。と、その姿を見た瞬間に男子生徒だけが瞬間的に席に戻り、その後で女子生徒がゆっくりと席に戻る。人垣が消えた真弥の机に伊塚は視線を向け、笑った。
「よお真弥、やっと来たか」
 そこまで言って伊塚は気気付く。
「おう、お前もう治ったのか? 左手っつっても全力で殴ったんだが……」
 クラスがざわめく。誰かが小声で「よく生きてたな真弥……」とつぶやく。
 そして真弥はというと、腫れが引いたはずの右頬に痛みが走った。まさか本当に全力で殴っていたなんて思ってもみなかった。しかも伊塚の利き腕は右だ。にも関わらず、左で殴ってナースが慌てるくらい腫れるんなら、右で殴られたら一体どうなってしまうのだろう。たぶん、死ぬんだろうなと真弥は思う。
 やがてチャイムが鳴る、伊塚が連絡表忘れたから今日の連絡はナシと発表する、夏休みはもうすぐやってくる。
 世界が、流れて行く。


 放課後、何よりも早くに真弥は春風病院に向かった。
 さくらに、一秒でも早く会いたかった。
 病院の自動ドアが開く時間すらも惜しく、ドアに肩をぶつけてしまう。エレベーターはどれもこれも出払っていてなかなか戻ってこない。階段で三階まで上がることに決める。その途中で走っているのをひとりのナースに見つかり、走るなと怒鳴られた。謝ったがそれでも真弥は走るのをやめない。
 やっとのことで三階に辿り着き、170号室の前に立つ。息を整えて笑顔を作る。いや、作る必要はなかった。もうすでに、真弥は笑っていた。
 ドアに手を掛け、そして開けた瞬間、いきなり真弥の体が吹っ飛んだ。
 真弥はその時、爆発でも起きて自分の体が後ろに吹き飛んだのだと、本気で思った。
 病院の廊下に押し倒され、後頭部を床で強打する。ごつん、と景気のいい音が鳴り、真弥の目の中で星が舞い、意識がお花畑に旅立ちそうになる。
「真弥ちゃん、真弥ちゃん……っ」
 見れば、廊下に倒れた真弥に、さくらがしがみ付いていた。
「さ、さくらっ?」
 慌てたが、頭の痛さが真弥を冷静にしてくれた。
「……何してんの?」
 その声に顔を上げたさくらの表情を見て、冷静さが一発で消えた。
 さくらが、泣いていた。
 理由なんて知ったことではなかった。さくらの両肩を掴み、その瞳を直視する。
「どうしたのっ!?」
 しかしさくらは真弥の問には答えず、真弥の胸に顔を預けてひとりでわんわん泣いた。
 真弥は取り残される。
 どうしてさくらが泣いてるんだ!? 何かあったのかっ!? 
 考えるが明確な答えが浮んで来ない。唐突に怒りが込み上げる。
 真弥は急いで立ち上がろうとするが、さくらがしがみ付いていて上手く立てない。しがみ付かれたままだったが、真弥は何とか立ち上がり、病室に駆け込んだ。そしてそこに、赤坂がいた。
 怒りの視点が赤坂に移る。お前が、お前がさくらを泣かしたのか? この前は悪かったと思う。だが、それとこれとは話しが別だ。大切なひとを泣かされて、黙っていられるか。
 怒鳴ってやろう赤坂を睨み付けると、なぜか彼は泣きそうな顔をしていた。そして彼は、拍子抜けした真弥の姿を見ると救われたような表情を浮べて駆け寄ってきた。
「ああよかった真弥くん! 彼女を捕まえてくれたんだ!」
 怒りは不思議なくらいに消えていた。
 捕まえる、とはなんのことだろうと思う。
 呆然としていた真弥を他所に、さくらはいきなり走り出そうとする。
「真弥くん! 彼女を捕まえてくれ!」
  反射的にその声に従った。逃げるさくらの首根っこを掴む、と。くるりとさくらは振り返って、涙で濡れる瞳を真弥に向けて訴える。
「離して真弥ちゃん! ダメなの、あたしダメなのよう!」
さくらを引き寄せる。理由がわからなかった。
「どうしたのさくら!? なにがダメなの!?」
 しかしさくらは「ダメ」を繰り返すばかりで、何がダメなのかは決して言わない。
 わけがわからなくなった真弥にさくらはましてもしがみ付き、大声で泣き始める。
 廊下を行き交う患者が何事だと集まってくる。赤坂がため息を吐く。
 いつまでも、さくらは泣いていた。


「……さくらって、注射嫌いだったんだ……」
 やっと静けさが戻った病室には、真弥とさくらがいた。
 しかしさくらはまだ半べそをかいており、たまにしゃくりあげる声が聞こえる。
 さくらは注射が大嫌いである。もし注射を打たなければ死んでしまうと言われても、さくらは注射を絶対に拒絶するほど嫌いなのだ。
 つまり、それが発端だった。今朝方、検査で赤坂に連れて行かれた部屋で、さくらは点滴を打たれた。その時は泣いて悲鳴を上げるだけで何とか落ち着いたらしい。しかし問題はさっきだった。今朝の点滴で赤坂は随分さくらに恨まれ、昼は口も聞いてくれなかったそうだ。そして午後、真弥が来る数分前に、赤坂は恨まれるのを承知の上でこう言った。「血液検査をしたいから、注射を、」言葉はそこで途切れた。なぜなら枕が赤坂の顔面にヒットしたからだ。そこからはもうごちゃごちゃになった。さくらは病室で逃げ回り、それを落ち着けようと赤坂は必死で説得を試みたが無駄で、やがて真弥がこの部屋にやってきた。そうしたら鉄砲玉のようにさくらは真弥に飛び付き、それからは先ほどの状態になって、そして今に至る。
 ベットの上で丸まって、さくらはずっと黙ったままだ。
 そんなさくらを見て口がふと緩み、肩がひくひく揺れる。堪えきれなくなり、真弥は大笑いした。
 丸まっていたさくらが、本当に怖い目付きで真弥を睨む。
 一瞬笑いが引いたが、すぐにぶり返してきてまた笑う。
「笑わないでよ! 誰にでも苦手なものってあるでしょ!」
「だ、だって……、くっ、さ、さくらが、あんなに、こ、恐がるなんて……おも、思ってもみな、」
 それ以上言葉が続かなかった。目から涙が溢れ、腹筋が馬鹿みたいに痛くなる。
 阿呆のように笑う真弥をもう一度睨み、さくらはまたベットに丸まってしまう。
 ここらでやっと真弥の笑いが収まる。身動き一つしないさくらの背中を突つき、
「ごめんさくら。もう笑わないからさ、だからさ、」
 そう言うものの、真弥の顔はまだ笑っていた。
 そんないい加減な言い方で、さくらが許してくれるはずもなかった。
 笑い混じりのため息を吐き、真弥は窓の外に視線を移そうとして、見付けた。
 あれ、と思う。座っていたイスから立ち上がり、そこに近寄る。
 ベットの隣りにある小さいタンスみたいな物の上に、一台の古ぼけたラジカセがあった。そのラジカセに、真弥は見覚えがあった。
 イスから立ち上がってそのラジカセを手にとる。両手で持ってちょうどくらいの、所々傷のあるラジカセ。これはもう十年以上も前に製造された品物だった。
「……さくら、まだこれ持ってたんだ……」
 さくらはこっちを見なかったが、小さな声で「お母さんが持ってきてくれたの……」と返した。
 懐かしさが込み上げてくる。ラジカセを手に持ったままでイスに座り直し、どうやってスイッチを入れるのかを一瞬だけ考え、すぐに思い出してスイッチを入れる。赤ランプがぼんやりと灯り、カセットが入っていなかったのでラジオに入力を合わせる。
 と、微かなノイズに混じって昔によく聞いた司会者の声がスピーカーから聞こえ始めた。
『それでは次のリクエストに行く前に、少しの間CMへ移ります。番組を変えずにそのままでお待ち下さい』
 笑みが零れる。
 ここ数年このラジオ番組は聞いていなかったが、どうやら同じ司会者はまだ健在らしい。
 小さな頃、さくらと一緒に裏山にこのラジオを持出して遊んでいた記憶が甦る。
「僕がはじめてさくらにあげたのが、確かこのラジオだったよね?」
 古ぼけたラジオの横っ面に、ヘタクソなひらがなで「なるみしんや」と白いマジックで書かれていた。
 これは、真弥が幼い時分に父親に駄々をこねくり倒してもらったラジカセだ。しかしさくらに自慢したのが運の尽きで、今度は幼いさくらが駄々をこねて真弥から奪い取った物なのだ。そしてその時、カセットはたった一枚だけしか持ってはおらず、しかもその中に入っていたのはたった一曲だけだった。その曲はさくらと一緒に何百回も聞いたはずなのに、どうしてか曲名が思い出せない。
 それにしても、さくらがまだこれを持っていたとは知らなかった。さくらの部屋に最後に入ったのは小学校三年生の夏だったろうか。その時は確か机の上に置いてあったはずだ。それからはさくらが真弥を部屋に入れるのを嫌がるようになったのでラジカセの行方は知らなかった。ちなみに余談だが、さくらは真弥を部屋に入れるのを嫌がるくせに、真弥の部屋には平気で入る。ついこの間、学校に行く時になかなか起きない真弥を叩き起こしに部屋に入って来たのが記憶に新しい。
 懐かしいラジカセを見つめ、昔のことを思い出す。
「そういえばさ、小さい頃によくこのラジカセ持出して裏山で遊んだよね。あの……ええっと、曲名は思い出せないんだけど、必ずあの曲流して結婚式ごっこしたよね?」
 裏山に行くとそこから見える景色がよく、そして決まってさくらが結婚式ごっこをしようと言い出したものである。
 あの時は何の抵抗もやっていたが、考えると途方もなく恥ずかしい「ごっこ」であったことに今更ながらに気付いて真弥はひとり赤面する。
 恥ずかしさを紛らわせるために、ラジオの周波数をいじろうとして手を止めた。
 さっきのラジオ番組がCMから脱出したのである。
『さて、番組を変えないでくれてありがとう。それでは次のリクエストに行ってみよう。……お、この子は初リクエストだな。ラジオネーム『サクラ』さん。リクエストありがとう、『サクラ』さん聞いてる? 今からあなたのリクエストの曲を流すよ。リクエストは懐かしの名曲『to love song』、それでは聞いてください』
 あ。
 思い出した。さくらと裏山で聞いたあの曲、今リクエストされた『to love song』って歌だ。
 偶然にせよその曲がリクエストされて思い出せたことに真弥は嬉しくなる。
 ベットで寝転がるさくらにこの喜びを伝え
「あ――――――――っ!!」
 さくらが突然叫んでベットから起き上がる。
 驚いて言葉をなくした真弥の手からラジカセを奪い、必死にそのスピーカーを食い入るように見つめる。
「ど、どうし、」
「ねえ真弥ちゃん! さっき司会者のひとがラジオネーム『サクラ』さんって言ってたよね!?」
「え、あ、ああ。そう言って、」
「それあたし! 『サクラ』ってあたしだよ!」
 しかし真弥は、オツムの回転が遅いのである。
「何言ってんの? さくらはさくらでしょ?」
「違うの! そうじゃなくて! ああもうっ、とにかくこの曲リクエストしたのはあたしなの!」
 さくらが持っているラジカセから、少しひび割れた音楽が流れ出す。
 そうだこの曲だ、と真弥は思う。
 ゆっくりとしたテンポ、懐かしい感じのする音楽。
 幼い頃の、さくらと登った裏山を思い出し、さくらと交わした誓いの言葉を想う。
 まだどちらも幼く、どちらも純粋だったあの頃。そして、もう二度と戻ってこない懐かしい時間。
 しかし、もう二度と戻ってこないからこそ、ひとは未来に希望を見出すのだ。昔を懐かしむだけでは前に進めない、だから希望を未来に繋げようとひとは生きる。世界が流れ、日常を過ごすその時間の流れは誰にも変えることのできない、
 真弥は、オツムの回転が遅い。ここらでやっと思い至った。
「……『サクラ』って……もしかしてさくらのことなの!?」
 やっとわかったか、とでも言いたげにさくらは肯く。
 曲は流れてゆく。
 その中に、こんな詩がある。
 ――君といられるなら何もいらない
 ――君がいてくれればそれでいい
 真弥も、そんな心境だった。
 この歌は『to love song』、曲名でもわかるようにただ純粋な『love song』だ。
 この歌は、世界一の『love song』だと思う。


     ◎


 真弥はひとりである店に向かっていた。
 さくらが意識を取り戻してすでに一週間が経っているが、まださくらは入院したままだった。
 しかし後数日で退院できると赤坂は言っていた。原因不明になっているさくらの病気も、もうその気配を消しているし、さくらは本当に元気なった。入院する前以上に元気一杯だ。近頃では春風病院に入院している他の子供達の遊び相手になるほどで、その子供達からもさくらは好かれていた。
 そして、真弥はやっと思い出したのだ。
 さくらが倒れたあの日、何もできなかった真弥の代わりにさくらを助けてくれた命の恩人。その人にお礼も兼ねてさくらのこと伝えなければならなかった。
 春風中学校の近くにある一軒の出店。何度もテレビに出ているソフトクリームが売りの、人情がある優しい夫婦が経営する出店、見出しはそんな感じだったはずだ。その出店の前に、真弥はやってきた。
 初めに真弥の姿に気づいたのは、何やら機械を調整していた老父だった。
「おや、あんたは確か……」
 真弥は軽く会釈をする。
「ぅお〜い、ばーさん、ばーさんやぁー」
 出店の奥から老母が出てくる。そして真弥に気付き、しわくちゃの顔で笑った。
「おやまあ、あんたはあの時の」
 ちゃんとふたりとも憶えていてくれたのだ。
 再度軽く会釈をして、真弥は言う。
「あの時はありがとうございました。今日はそのお礼を言いに来ました」
「そーかいそーかい。おぉ、それで、あの子はだいじょうぶだったかい?」
 真弥は笑う、
「ええ、もうだいじょうぶです。まだ入院してますが、もうすぐ退院できそうですし。あの時は本当にお世話になりました」
 頭を下げた真弥に、ふたりはまたしわくちゃな顔で笑う。
「なにを言うんだろうねえこの子は。困った時はお互い様だよ。そうだ、ソフトクーム食べるかい? 作ってあげるよ」
 有り難い申し出だったが、真弥は首を振った。
 意外そうな顔をした老母は、
「遠慮することないよ、若い子がそんなんじゃ、」
「いえ、違うんです」
 真弥ひとりで食べても仕方がないのだ。真弥は、あの笑顔が好きだから。
 だから、食べるならふたりで、だ。
「さくらが……いえ、あの子が退院したら一緒に食べに来ようと思ってます。だから、今日は遠慮しときます」
 真弥の言っていることを理解した老夫婦は、すぐに満面の笑みで了解してくれた。
「それじゃあ、あの子が退院するまでにこっちももっと腕を上げておかなけりゃねえ」
「お願いします。きっとさくらも喜ぶと思いますから」
 もう一度真弥は頭を下げ、歩き出した。後ろから老夫婦の声が聞こえたので最後に軽く会釈してその場を後にする。
 そのまま近くの公園に足を踏み入れた。
 さくらと一緒にソフトクームを食べた、さくらが寝てしまった、そしてさくらが倒れたあの公園だ。
 その公園に来ることには多少の抵抗があった。
 だけど、後ろを向いてちゃ前には進めないから。そんなんじゃさくらを護れないから。だから、真弥はこの公園にやってきた。
 あの時と同じベンチに座って天を仰ぐ。夏の太陽はさくらのように元気一杯で、まだまだやる気満々だ。木陰になったこの場所には、それがどこか気持ち良かった。どこか近くでセミが鳴いていた。
 今は隣りにいないさくらを想う。
 もし、もしさくらが退院したら、ここで言おうかと思う。
 一緒にソフトクリームを食べて、一緒にこの景色を見て、さくらが眠たくなったら肩を貸してあげて。そしてさくらが起きたら、言おうと思う。ずっと心の中で思っていたことを。病室で一度しか言葉にしたことのない真弥の本音を。
 ――僕は、さくらが好きだ。
 真弥は微笑む。その時、さくらはどんな顔をするのだろう。
 笑うか、それとも泣くか。もしかしたらさくらのことだ、照れ隠しに逃げ出すかもしれない。そしたら追い掛けてまた言ってやろう。
 もう吹っ切れたのだ。もう隠すのはもうやめだ。
 さくらを、護るんだ。
 セミが鳴くのをやめて飛び立つ。その姿を見送り、見えなくなってしまってから真弥は立ち上がる。
 夏の陽射しが真弥に降り掛かり、手で影を作って太陽を見る。
 夏休みは、もうすぐやってくる。夏休みになったら、さくらと一緒に海に行こう。もちろん交通費は真弥の負担で。
 また微笑んで、太陽から視線を外して歩き出そうとして、
「――真弥ちゃん」
 さくらの声を聞いた。
 体が自然に振り返っていた。
 夏の太陽の陽射しの元に、さくらがいた。
 彼女は、本当にさくらだと思った。
「さくら、どうしてここに……?」
 しかし、彼女は首を振る。
「違うよ。あたしはさくらじゃないよ」
「さくら、何言って――」
 ふと足が止まる。
 そこに、彼女がいなくなっていた。まるで手品のように、まるで瞬間移動したように、そこから彼女は消えてしまった。
 すると背後から微かな笑い声。
「べーだ、こっちだよー」
 また振り返ると、いつかのさくらのように彼女は軽くかんべーをしていた。
 しかし、よく見れば彼女はさくらとは違った。
 面影や髪型、顔立ちなどはほとんどさくらと瓜二つだが、受ける感じが違う。
 多分他の人ならその違和感に気付かないだろう。しかし真弥は気付く。幼い頃からずっと一緒にいた大切なひとを、間違えるはずもなかった。
 彼女は、さくらではない。だけど、それなら彼女は一体――
「君は……だれ?」
 彼女はさくらのように笑い、しかしさくらとは違う感じで言う。
「あたしはアスカ。アスカ・アール」
「アスカ……?」
「そう、アスカ。それがあたしの名前。だから真弥ちゃんが知ってるさくらとは違うの」
 違和感を感じる。
「どうして僕の名前を知ってるの……?」
 きょとんとした顔でアスカは言った。
「どうしてって……あたしはずっと前から真弥ちゃんを知ってるよ?」
「ずっと前って……。でも、僕は君を知らない」
 真弥の表情を見て、アスカはようやくわかったような表情を浮かべた。
「ああそっか、そうだよね。あたしが知ってても真弥ちゃんは知らないんだ……」
 そこで悲しそうな瞳で真弥を見据え、
「でもね、あたしはずっと真弥ちゃんを見てたんだよ。ちっちゃな頃からずーっと……ね」
 この子は、このアスカと名乗る女の子は誰なのか。
 どうして真弥のことを知っていて、そして姿がさくらと瓜二つなのだろう。
 聞きたいことは山ほどあった。しかし、どれもこれも真弥の口からは出て来なかった。
 やがてアスカは笑った。さくらと同じ、綺麗な笑顔で。
「ごめんね真弥ちゃん。そろそろ時間なんだ。だから、またね」
 刹那、風が吹いた。夏の風だった。
 瞬きをしたその一瞬で、アスカは真弥の視界から消えてしまっていた。
 辺りを見まわし、やっと気付く。あの日あの時と同じように、この公園には真弥を残して誰もいなくなっていた。
 誰もいない公園に、真弥はひとりで立ち尽くしている。


 この日から、アスカは度々真弥の前に姿を現すようになる。


 そして、アスカとの出会いを境に、さくらの容態は悪化する。


 世界が、また壊れ始める。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――




     「真夜中のお見舞い」




 次の日の朝、学校に行く途中、何気なくに通った公園で、真弥はアスカと出会った。
 彼女は公園の真ん中で、絵に描いたような綺麗なその光景の中で、数羽の小鳥と戯れていた。
 腕を両側に広げてくるくるとその場を回り、しかしその腕に乗っている鳥は決して飛び立とうとはしない。
 そんな幻想的なアスカの姿に、真弥はしばし言葉を失っていた。
 やがてアスカが回るのをやめた時、その瞳には真弥が写った。
 小鳥を空に舞い上がらせ、彼女はこっちに向かって歩いて来る。
「おはよう真弥ちゃん」
 さくらのように、アスカは元気一杯だった。
「今から学校? 大変だね。でも遅刻しちゃダメだよ? またりゅうちゃんの机を掃除させられちゃうよ?」
 心が、カタリと音を立てる。
 思う。この子は、このアスカ・アールという女の子は、一体誰なのだろう。
「どう、して……アスカがそのことを知ってるの……?」
 腕を後ろで組んで、上目づかいに真弥をみて悪戯っぽくアスカは笑う。
「ナイショ。真弥ちゃんはまだ知らない方がいいよ。知っちゃうと、さくらを護れるなるから」
 さくらを、護れなくなる? いや、待て。何でアスカがそのことを知っているのか。さくらにさえ言ったことのない真弥の本音。
 さくらを護る。そのことを、口に出して言ったことは一度も――違う、一度だけ口にしたことがある。伊塚に殴られてさくらの病室で目が醒めたあの時、さくらの手を取って真弥は言ったはずだ。『僕がさくらを護るから』確かに、真弥はそう言った。
 だが、あの時病室にいたのは真弥とさくらのふたりだけだった。さくらは眠っていたしその言葉を憶えているはずがない。だからあとでさくらがそのことをアスカに教えるのことはできないと思う。そもそもさくらとアスカが会っていること事態不明だ。ではなぜ、アスカはそのことを知っているのか。
「アスカは、さくらを知ってるの……?」
 人差し指を口に当て、「ん〜」と考え込むアスカ。
 その姿が、さくらとそのまま重なる。どこまでも、アスカはさくらと似ていた。
 やがてアスカは、言葉を選んでこう言う。
「知ってるよ、あたしはね」
「じゃあさくらは?」
「さくらはあたしのことは知らないよ。忘れちゃってるからね」
「どういう、」
 その先の言葉を、アスカは遮った。
「ダメだよ。真弥ちゃんにはまだナイショ。さっきも言ったでしょ? 知っちゃうと護れるなくなるって」
 夏の風に乗ってどこからかチャイムが聞こえてくる。
 春風中学校のチャイムだ。もうそんなに時間が経っていたのかと真弥は思う。
「行かなくていいの? もうチャイム鳴っちゃったよ?」
「今から行っても一緒だよ。遅刻は遅刻だし。今日はもう学校休んでさくらの所に行くよ」
 そこでアスカは真弥の瞳をじっと見つめた。
 急に真剣に見つめられ、狼狽する真弥は一歩あとづさる。
 と、瞳を見つめたままでアスカは悲しそうな表情を浮かべた。
「真弥ちゃん、お願いがあるの」
「お願い……?」
 うん、と肯いてアスカは踵を返す。ゆっくりと歩き出し、空を見上げてその眩しさに手で影を作る。
 そしてふと立ち止まり、しかし真弥の方は振り返らずにアスカは言った。
「さくらには、あたしのことは黙っておいて。まだあたしのことを思い出すのには早いから。それに……」
 アスカは振り返り、切ない笑顔を真弥に向けた。
「あたしのことを思い出すと、さくらもあたしも――」
 そこで、昨日と同じように夏の風が吹く。
 瞬きをする一瞬で、アスカはそこから消えてしまう。
 誰もいない公園で、真弥は夏の太陽の陽射しを体に受けていつまでも動けないでいた。
 世界が壊れてゆく、と真弥は思う。


 学校に電話を入れた。
 幸いにも電話に出たのは伊塚ではなかったので怒られることはなかった。それに考えれば伊塚は常に学校をうろうろと徘徊しているので、滅多に職員室にはいない。だから伊塚が学校の電話に出るなんてことは本当に宝くじにが当たる確率くらいしかないのだ。
 怒られなかったことに安心はしたが、よく考えれば明日登校すればどの道怒られる。早いか遅いかの違いだけで大差はないことに気付いて真弥はひとり青くなる。
 しかしまあ怒られるのは明日という遠い未来なわけで、今日はさくらのお見舞いのことだけを考えよう。
 春風病院の自動ドアを抜け、エレベーターの前に立って上を見上げる。ここにはエレベーターが三つあって、その内の二つは出払っていた。右端の一台に乗り込んで真弥は三階のボタンを押す。エレベーター独特の感じが真弥を包み、すぐに到着する。ドアが開いたらそこに車椅子の老人がいたのでドアを開けたまま真弥は待つ。老人が乗り込んで真弥にどうもと頭を下げ、真弥は軽く会釈する。エレベーターから離れて病院の廊下を歩く。今の時間はどうやら朝食のようで、食器などを載せたカートがいくつもの目に止まった。
 やっと170号室に辿り着き、ノックしようか少し考える。だが相手はさくらだしいいだろうと思って勝手に中に入った。
 窓が開いているらしく、夏の涼しい風を真弥を出迎えた。
 ちょうどその時、さくらはベットの上で朝食を食べていた。ごはんを箸で口に運ぼうとしていたのだろう。食べるか食べないかの微妙な位置で、さくらは真弥の姿を見つけてしばし動きを止めていた。
 先に声を出したのは真弥だった。
「おはようさくら」
 目をパチクリさせ、さくらは箸を茶碗に戻す。
「どうして真弥ちゃんがいるの? 今は学校でしょ?」
 そう思うのが当然なんだろうな、と真弥は思った。
 軽く笑って真弥は歩き出す。さくらのベットの隣りのイスに腰掛け、スクールバックを床に置く。
 窓から吹き込む風がカーテンをなびかせながら真弥とさくらを包む。
「学校はサボったよ」
 外を眺めながらそう言う真弥。
 と、その背後でかちゃりと茶碗が置かれる音が聞こえた。
「あのね真弥ちゃん、」
 真弥は振り返りもせずに窓の外を眺めながら「ん?」と返事を返す。
「来てくれるのは嬉しいけど、学校はサボっちゃダメだよ」
「わかってるよ。わかってるけど……」
 言葉を続けようと思ったが、どうしてか口が動いてはくれなかった。
 ――わかってるけど、僕はさくらと一緒にいたい。
 たったそれだけの言葉を言うのにも、少なからずの勇気が必要だった。そして、今の真弥にはその勇気はなかった。
 だけど、さくらはそれで十分にわかってくれた。
 微かな笑い声が聞こえたあと、さくらは笑顔で言う。
「ありがと、真弥ちゃん」
 真弥は返事を返さなかった。
 窓の外を眺め、ただじっとしている。今、自分の顔が赤くなっているのは確かめなくてもわかる。それをさくらに見られるのが照れくさかった。だから真弥は窓の外を眺めているだけで、さくらの方を見ようとはしなかった。
 そしてやはりそれもさくらにはわかっていたのか、何も言わずにまた朝食を食べはじめる。
 静かな時間が流れてゆく。
 窓から吹き込む風を感じ、まだ完全には起きてはいない太陽の光を見つめ、どこからか聞こえるセミの鳴き声に耳を傾ける。
 どれもこれも、夏のはじまりを告げるものだ。
「さくらおねえちゃん!」
 いきなりそんな声が聞こえた。
 ふと振り返れば、幼稚園児くらいの子どもがさくらの病室のドアを開けて入って来ていた。
 朝食を食べるのをやめ、さくらはその子の方を向く。
「どうしたのあやちゃん」
 あやと呼ばれたこの少女、本名を斎藤彩といい近くの「はるかぜ幼稚園」の「ほし組」に通う明るい子だ。ちなみに今はこの病院に肺炎で入院しており、あと二日で退院するそうだ。そしてこの子はさくらのことを「さくらおねえちゃん」と呼んで随分慕っている。
 彩はトテトテとさくらの方に歩み寄り、頑張ってベットに両手を付いてポケットから一枚の折り紙を取り出した。
「ねえ、これでツルつくってツル」
「ツル? でも昨日も作ってあげたでしょ?」
 ふるふると彩は首を振り、
「なくしちゃったの、だからもういっこつくってよぉ」
 泣きそうな彩の顔を見て、さくらは優しい笑みを浮かべてその頭を撫でる。
「わかったわかった、作ってあげるから泣かないの。ほら、折り紙貸して」
 彩が折り紙を手渡す。と、さくらは得意顔で素早く折り紙を折ってゆく。
 真弥はそんなさくらと彩を眺めている。どうしてか心が和んだ。
 一分も掛からなかったと思う。さっきまで一枚の紙切れだった物が、いつの間にやら綺麗なツルになっていた。さくらは手先が器用だってことは知っていたが、そのことを改めて真弥は実感した。
「はい、できたよ。今度はなくしちゃダメだよ?」
「うん! ありがとうおねえちゃん!」
 満面の笑みで、彩は病室を後にする。その姿をさくらは笑って見送った。
 やがて彩の足音が廊下から聞こえなくなったのを見計らい、真弥はさくらを見た。
「さくらってすごいね」
 突然そんなことを言われ、きょとんとした顔でさくらは真弥を振り返る。
「どうして?」
「なんとなく、だよ」
 曖昧にそう言っただけで、心弥はベットの隣りにあるラジカセに手を伸ばす。横っ面に書かれた白いマジックの文字を少し確認してからスイッチを入れる。カセットは入っていないから自然にラジオになり、そしてラジオといえばあの番組だ。ちょうどその時には、その番組は誰かのリクエストの曲を流している最中だった。
 聞いたことのある曲だった。最近チャートから消えた歌だ。しかしこれも曲名が思い出せない。
「そういえばさ、この番組っていつもやってるよね?」
 朝食を食べ直していたさくらはふと手をとめ、しばし考え込む。
「……言われればそうだね……」
「でしょ? これって休みとか関係ないのかな?」
「ん〜」と考え込みながら、さくらは卵焼きを箸で摘んで口に運ぶ。もぐもぐと口を動かして食べ終わってからやっと、
「でもいいんじゃない? その番組人気あるみたいだし。それに聞いてて飽きないし」
 それもそうか、と真弥は思う。ただノイズが聞こえるだけより、こうやってリクエストの曲を流す方がよっぽどいい。それにリクエストが常にあるということは、この番組は――
 疑問、
「もう一ついい?」
 今度は鮭の焼き身を食べていたさくらは真弥に顔を向ける。
「なに?」
 真弥はラジオをまじまじと見つめ、そこから流れる音楽に耳を傾けながら、
「この番組って、タイトルは何て言うの?」
 もう一度鮭を食べようとしていたさくらの手が止まり、水でもぶっかけられたような顔をして宇宙人でも見るような瞳で真弥を見る。
 そんなさくらの反応に、自分はとんでもないことを聞いてしまったではないかと思う。しかしさっき言葉を頭の中で繰り返してみても、自分が変なことを言っているようには思えない。ではこのさくらの反応の理由はなんなのか。
 待つことしばし、急にさくらは真剣な表情になる。真弥に焦りが積もる。
「真弥ちゃん……」
 息を飲む、さくらの声に神経を研ぎ澄ます。
 が、さくらはいきなりこう言った。
「わかんない」
「……は?」
 ひとりで納得したようにうんうんと肯き、箸で鮭の焼き身をほぐしながら、
「そうよね、このラジオ番組ってタイトルなんていうのかな? 昔から当たり前のように聞いてたから気にもしなかった……」
「ちょっ、ちょっと待って、さくらも知らないのっ?」
「うん」
「うんって……で、でもこの前さくらはこの番組にリクエストしたんでしょ? ハガキにはなんて書いたの?」
「何も書いてないよ。ただラジオネームとリクエストの曲書いてポストに入れたの」
 さくらが何を言っているのか、全くわからなかった。
 ラジオネームと曲を書いただけ? 宛先もなしにポストに入れて届くはずもない。
 何とも言いがたい視線をさくらに送っていると、
「なによ、だってラジオの司会者のひともそれでいいって言ってたからそうしたんだもん」
 ラジオの司会者がそんないい加減なわけあるか、と今度はそんな視線を送る。
 するとさくらは急に頬を膨らませ、「もういい、信じてくれないならいいよ、真弥ちゃんのバカ」と黙々と朝食をまた食べ始める。
 そんなさくらを見つめ、次にラジオを見つめる。まださっきの曲を流しているスピーカーを食い入るように眺めて早く曲が終れと思う。さくらの言うことが全部嘘だとは思わない、だけど全部信じているわけでもない。恐らく、どこかにカラクリがあるはずだ。例えばその応募先を何か特殊の方法で書くとか、そんな感じの。それをさくらは何も書いていないと思っているだけかもしれない。
 やがてさくらが朝食を食べ終わり、真弥に何も言わずに食器を廊下のカートに返しに行く。ドアからさくらが出たちょうどその時、流れていた曲が終る。スピーカーから馴染みのある司会者の声が聞こえ始める。
『さて、次のリクエストに行く前に恒例のリクエスト方法を発表したいと思います』
 真弥は焦る、窓の外をきょろきょろと見まわす。
 なんだこの狙いすましたようなタイミングは。まさかこの司会者はどこからからこの病室を見ているのではないか、と思って真弥は慎重に警戒する。しかしどこにも不審人物らしきひとはおらず、どちらかというと真弥の方が怪しい。もしくはこの司会者はエスパーではないかと思ったその時、
『リクエスト方法はいつもと変わらず、ハガキにラジオネームとリクエストの曲を書いてポストに入れてくれればオーケー。あとは君のリクエストハガキが読まれるのを待つだけ。リクエストどんどん待ってるからね。それでは、次のリクエストに行こうか。ラジオネーム――』
「……ウソだろ……」
 スピーカーから聞こえる司会者の声はもう聞こえない。窓から吹き込む風も肌には感じなくて、セミの声も届いてはいなかった。
 さくらの言った通りだった。なんなんだ、この謎のラジオ番組は……。真弥は思考を巡らす。考えてもみろ、このラジオ番組は真弥が小さい頃からずっとあった、そしてその時から司会者は全く同じ、休みはなくて永遠と放送し続け、リクエストの方法はハガキに宛先も何もなしにラジオネームとリクエスト曲だけ、おまけにこのラジオ番組名は不明。これは、異次元のラジオ番組ではないのか。突拍子もない考えだとは、思わなかった。もしかしたらこの司会者は歳をとってないのではないか、ハガキに宛先がなくても届くということはつまり、ポストに入れた瞬間にこの異次元の世界に飲み込まれるからではないのか。そもそもこの番組はおかしいのだ。リクエストの曲は大体は皆が皆知っている曲だが、中にはインディーズやら製造中止になって手に入らない曲まであって、それらをすべていとも簡単にこの番組は流すのである。それは何を意味するのか。この司会者は異次元のひとなのだ、そうに決まっているのだ。歳もとらなければ不可能は何もない。証拠に真弥が聞きたいと思っていたのを見計らってリクエスト方法を発表した。エスパー能力などすでに修得済みなのだ。むしろこの司会者は神様なのだ、そうに決まっているのだ。
 動転していたと思われる。
 ひとりで古ぼけたラジカセを手に持ち、病室のイスの上で死神に魂でも抜かれたような表情で真弥は一向に動かない。
 もちろん、他人から見ればそれは異常な光景なのだ。だから、食器を返して病室に戻って来たさくらは慌てた。
 急いで真弥の前に走り寄って肩を掴んで揺する、
「真弥ちゃん!? だいじょうぶ!? ねえ真弥ちゃんてばっ!!」
 肩を揺さ振られ、さくらの吐息を頬に感じ、魂が戻って来た。
「え。あ、さくら……」
「だいじょうぶっ? 具合悪いなら先生呼ぼうかっ?」
 さくらの微かに潤んだ瞳。その瞳を見て真弥はぼんやりとした笑みを浮かべた。
「ごめんさくら。さくらの言ったこと正しかったよ……。あのひとは神様だ……」
 もちろんその意味はさくらにはわからない。
 真弥ちゃんが壊れてしまった、さくらはその時本気でそう思った。
 さくらも、動転していたと思われる。
 だから、さくらは慌ててナースコールを押した。


 世界の流れってなんだろう、と真弥は思う。


     ◎


 時刻は夜中の零時きっかり。
 そんな時間に、真弥はひとり春風病院の前をうろうろしている。そんな怪しい行動をしていたら当然誰かの目に止まるわけであって、病院の警備の人に職務質問されたのが今から五分くらい前である。
 辺りは静まり返っていて人の気配は全く感じず、見上げる病院も今は夜の闇に支配されて明かりすら見えない。空に浮ぶ月とその周りに集まる星の群れ、どこかで小さな虫が夏の風に合わせて音楽を奏でる。もう少しで夏休みだ、と真弥は思う。
 しかし今はどうでもいい。今重要なのはこれからどうするか、である。真弥は手にケーキが二つ入った箱を持っている。どうするのかといえば、もちろんさくらのお見舞いである、あるのだが、生憎今の時間はお見舞いは禁止されている。だから病院の前をうろうろとしているのかといえば、それもまた違う。
 ぶっちゃけた話しをすれば、真弥は今、病院に忍び込もうかどうか悩んでいる。
 もちろんそんなことをして見つかればただでは済まない。それに今日の朝にも赤坂に迷惑を掛けてしまっているわけで、これ以上どうこうするのも気が引ける。
 捕捉しておくと、赤坂に迷惑を掛けたというのはさくらが押したナースコールが始まりである。当然ナースコールは患者のための物であり、外来者が使う為ではない。だから、170号室からのコールは悪い方に考えが向いた。その時ちょうどナースステーションにいた赤坂は、コールがさくらからであることを知り、原因不明の病気が再発、又は病状が悪化したのかと考えた。そこからはさすが医者で態様は素早く、ナース数名を連れて170号室に向かった。と、そこまでよかった。問題は170号室に入ってからだ。そこで赤坂とナースは意外な物を見る。慌てふためくさくらと、イスに座って魂でも抜かれたように呆然と、しかしぼんやりとした笑みを浮かべて全く動かない真弥。その場でさくらを落ち着かせて理由を聞いた。『真弥ちゃんが壊れちゃった! ねえどうしよう!』さくらは必死にそう言った。その時の赤坂の表情を、言葉にするのはまず不可能である。
 てなわけで、そのあと真弥は知らずの内にいくつかの検査を受けていた。我に返ったのはエックス線の検査をする時で、目の前にある巨大な機械がまるで化け物に思えて叫んだ。今になるとめちゃくちゃ恥ずかしく、そして赤坂には本当に迷惑を掛けたと思っている。
 だから、真弥は悩んでいるのだ。見つからずにさくらの病室まで行ければ何事もなく万事解決。しかし見つかれば自然とそのことが赤坂の耳に入り、弁護してくれるのも決まって赤坂なのだ。これ以上迷惑を掛ければ、そろそろ真弥は切腹でもしなければならない。
 だから、だから真弥は悩んでいるのだ。赤坂に迷惑を掛けたくないという気持ちはかなりある。だがそれ以上にさくらに会いたいと思う気持ちが真弥の中にはある。ちなみに手に持っているこのケーキは病院に忍び込んでさくらに会うための言い訳で使おうと買ってきたのだ。まあ今はどうでもいい。結論をどう決めるかを、今は重視しなければならない。
 どうする、忍び込むか、このまま帰るか。忍び込んで病室に辿り着ければいい。しかし見つかったらどうなる? 切腹だ。だがもし仮にこのまま帰ればどうなるか。せっかくケーキまで買ったのにパーになり、それどころか一生負け犬の汚名を被って生きていかなければならない。どこからそんな考えがくるのかはわからないが、真弥はそう思う。そして負け犬で終るよりは、忍び込んでさくらに会うか、見つかって切腹して真の男になって死ぬのも悪くない。
 一つだけ。今日の朝から、真弥はおかしいのかもしれない。動転していると言い替えてもいい。
 心が決まった。このまま帰るよりは、切腹覚悟で忍び込んだ方が男らしいのだ、そうに決まっているのだ。決断すれば行動は早い。
 人気のない病院の敷地に足を踏み入れ、慎重に辺りを見まわす。スパイになった気分だ。これで迷彩服でも着て手にケーキの箱ではなく銃でも持っていればまさにそれだ。しかしそれは不可能なので気分だけ満喫しよう。姿勢を低くして草むらを通り越し、近くに明かりが灯った建物が見える。そこはさっき真弥を職務質問したあの警備員がいる敵の指令部だ。あそこの敵に見つかれば即死、かっこよく言えば『ジ・エンド』である。つまり第一関門はそこなのだ。こういう時、映画などでは石を投げて相手の気を逸らしたり、人並み外れた身体能力で一気に飛び越えたりする。が、生憎この辺りは芝で石ころなど一つも落ちていなく、真弥は運動神経がいいと言っても所詮人並みであるのだ。だからその二つは実行不可能で、そもそもよく見れば警備員は見回りで今はいないのでそんなことをする必要は全くないことに気付いて少し気分が壊れる。
 気を取り直して行ってみよう。敵がいない今がチャンスとばかりに真弥は進む。病院の壁に沿って裏手に廻り、一瞬だけ考える。正規のルートで行くか、リスクが伴う裏技を使うか。正規のルートで行けば危険はない、ないのだが、見つかる可能性が大きい。正規のルートとは病院の正面玄関である。そしてその正面玄関から入ってすぐに受付があり、そこから少し歩くとナースステーションがある。受け付けには誰もいないだろうが、問題はナースステーションだ。そこが無人のはずがない。白衣を着た敵がうようよしているのだ。見つからない可能性は極めて低い。ならばリスクが伴う裏技で行くか。病院の裏手に飛び出て上を見上げ、三階にある170号室を見極める。だいじょうぶ、行ける。
 飛んでそこまで行く、なんてファンタジーチックなことはもちろんしない。真弥は走る、壁に備え付けられた配水管に手を付けてケーキの箱を口に咥える。裸足になろうかどうか一瞬だけ考えてから、靴を持っていけないことに気付いて却下する。深呼吸を一つ。だいじょうぶ、行ける。もし落ちたてもここは病院だ、絶対助かる。助かるに決まってる。たぶん。
 覚悟を決めて真弥は配水管を登り始めた。ちなみに真弥は小学校の頃はのぼり棒が得意だった。のぼり棒の一番上まで登って、しかし恐くて下りられなくなった経歴を持つ男なのだ。だから登るのは平気だ。下りろと言われなければ、登るのはどこまでも行ける。そしてその自信は効果を成す。真弥はまるで猿のように器用に配水管を登り、あっという間に二階まで登った。あと一階分、残り数メートル。腕に力を入れてさらにスピードを上げる。
 ここらでやっと、真弥は自分の愚かさに気付いた。
「あ……」
 思わず声が出た。
 考えてみろ、今は夜中だぞ、それも病院のだ。さくらが起きている、という保証はどこにもないのだ。そもそもさくらに夜中に会いに行くという選択事態がおかしいのだ。約束すらしていない。思い出そうとするが、どうして自分が夜中にさくらに会いに行こうと思った理由はよくわからない。今日、さくらの病院を後にしたのが夕方の六時頃、そのあと家に帰ってベットの上で倒れていたら、何となく思い立った。会いに行こうかな、と。発端も理由も何もわからない、本当に壊れているのかもしれない。
 そして、ここまで来て引き返すのはもはや不可能だった。真弥は、のぼり棒はどこまでも登れるが、下りられないのだ。
 ふと下を見てみる。腹の底が冷たくなった。……落ちたら死ぬよね……?
 首を振る。いいや、ここは病院だ、死ぬわけあるかっ!
 病院の意味を少し勘違いしているが、まあこの際置いておこう。
 さらに配水管を登って170号室の窓のすぐ横に辿り着いた時、安堵と、そしてもう一つの愚かさに気付いた。
 さくらが起きていなくても、それは仕方ないと思ったが、待て待て、問題はそこではない。問題は、窓の鍵が開いているかどうか、なのだ。開いていなければどうなるか。下を向く、腹の底が冷たくなる、首を振る。いやいやいや、無理無理ぜっっったいに無理っ。上を向く。もし開いていなければ、このまま屋上まで登るしかない。しかしこの病院は六階まであって、そこまで登るのにはこれまでの倍以上の力と気力と度胸が必要だった。
「……あーもうっ! バカか僕はっ!!」
 叫んでから、かなりその声が大きく響いたことに少し驚く。
 小さな声でどうしようかとうんうん唸っていると、どこかの窓から「カチャリ」と音が聞こえた。
 瞬間口を塞ぐ、気配を殺してどこから聞こえたのかと耳を澄ます。と、思っていたより音はずっと近くから聞こえていた。窓が開く。自然と顔がそっちを向いていた。
「……や、やあさくら。こんばんわ……」
 窓から顔を出した少女は、言葉を失った。
 配水管にしがみ付いた真弥と、そのすぐ隣りの窓から顔を出したさくらの視線が、微妙な感じで結び付く。
 虫の声がよく響く夜だった。


「真弥ちゃん、ホントに頭だいじょうぶ?」
 さくらの心底心配したような表情に心が痛む。
 やはり、真弥の取った行動は異常以外の何物でもないのだろう。
「たぶん。あ、そうださくら、これ買って来たんだけど」
 手に持っていたケーキの箱をさくらに手渡し、その中をさくらは見て嬉しそうに笑って真弥にお礼を言う。
 真弥は今、さくらの病室に保護されている。保護、という表現も間違いではないのだ。真弥が叫んだせいで不審人物がいるとの通報をナースが受け、さっきからちょくちょく見回りに来ている。その度さくらにかくまってもらっているのだ。
「それにしてもビックリした……。外で叫び声が聞こえたと思ったらすぐそこに真弥ちゃんがいるんだもん」
 ケーキの箱をラジカセの隣りに置いて、さくらはこっちを見る。
 イスに座っている真弥は苦笑いをして、
「自分でも何であんなことしたのかよくわからないんだよ……。まあ、ホントはたださくらに会いたかっただけなんだけどね」
 ふと口を出たその言葉に、真弥は慌てた。どうやら真弥は頭だけではなく口も壊れてしまったらしい。
 そんな慌てる真弥に、さくらははにかんで笑う。
 窓から風が吹きぬける。今は窓が開けっぱなしになっていて、夏の夜風が病室には心地良かった。
 しばしふたりでその窓の外を眺めていた。
「でも、こんな時間に来る僕も僕だけど、さくらもよく起きてたね?」
「え……?」
 意外なさくらの反応にそっちを向くと、さくらは少し戸惑ったような表情をしていた。
「どうしたの?」
「う、ううん、なんでもないよ。ちょっと眠れなくて」
 慌てて首を振り、いつもの笑顔に戻る。
「そっか。でも夜の病院でやることないでしょ?」
 消灯時間が過ぎたので月明かりだけの部屋を見る。
 少し前に夜中の病院で過ごした経験のある心弥は、消灯時間の過ぎた病院は本当にやることがないと知っている。しかしあの時はそれどころじゃなかったのも事実で、そんなことを考える暇もなかった。だけど心の余裕ができた今になってそのことを実感した。だからさくらに会い行こうと思ったのかもしれない。
 真弥はもう一度視線を窓の外に向けようとして、
「あのね、真弥ちゃん……」
 さくらの声を聞いた。
「なに?」
 それから、さくらは俯いてずっと黙ったままだった。
 何か言い難そうなことでもあるのだろうかと考え、それなら言えるようになるまで待とうと思ってまた外に視線を移そうとした。
 そして、またもその時にさくらの声が静かな病室に響く。
「このことは、真弥ちゃんにだけに話すから、お父さんやお母さん、それに赤坂さんにも言わないで」
「……さくら?」
「もうこれ以上、みんなに心配かけたくないから……」
 さくらが、何を言いたいのかわからない。
 しかしそれでも彼女は続けた。
「さっき、眠れなく起きてたって言ったでしょ……?」
「あ、ああ」
「あれ、ウソなの……」
「ウソ?」
 それのどこが心配に繋がるのかと思っていると、その先にさくらは話しを進めた。
「あたし、最近寝てないんだ……」
「寝てない? どうして?」
 俯いていた顔を、さくらは上げる。その瞳に、不安の色が溢れていた。
 たったそれだけでのことで、真弥は動けなくなる。
 さくらの瞳を見つめたままで、さくらの声だけが不思議と耳に届く。
「真弥ちゃんにだけには本当のことが言いたいから言うね……。あたしの病気って、原因不明でしょ、だから、本当に怖いんだ……」
 相槌をうつことさえ、真弥にはできない、
「寝ちゃうとね、もしかしたらこのまま起きれないんじゃないかって……。もしかしたらこのまま死んじゃって、真弥ちゃんともう会えないんじゃないかって……。そんなことばっかり考えちゃって……。だからあたしね、最近寝るのがすごく怖いの……。でも、さっき真弥ちゃんが来てくれた時は本当にビックリしたけど、それ以上に本当に嬉しかったんだ。夜は怖かったの。昼間はあやちゃん達がいてくれるし、学校が終われば真弥ちゃんも来てくれる。だけど夜は誰もいない……だから怖かった、だから真弥ちゃんが来てくれて本当に嬉しかった、安心した」
 さくらはそれだけ言って、いつもの、真弥が大好きな笑顔で笑った。
 いつの間にか、真弥は拳を握り緊めていた。何か言いたいが口が動いてはくれない。
 さくらが、そんな風に思っていたなんて知らなかった、さくらは強い子だと思ってた。真弥なんかよりもずっと、さくらは強い子なんだと。でも、さくらはひとりの女の子で、その強さには限界があった。それを、真弥は気付いてはやれなかった。
 何が護ってやるだ、と真弥は思う。こんなにも不安にさせて、何が護ってやるだ。甘ったれるな。もしこれ以上さくらを不安にさせるようなことがあれば、そんな下らない信念など捨ててしまえ。それでもさくらを護りたいと思うなら、さくらに笑顔でいてほしいと願うなら、覚悟を決めろ。命に代えてでも、世界を敵に回してでも、さくらを護りぬけ。さくらの側にいたいと思い、そして願うならそれくらいの覚悟は決めろ。さくらを、護るんだろ。
 覚悟を決めようと思う。世界を敵に回しても、さくらを護りたいと思う。少し前に、似たような気持ちを抱いたはずだ。だがその時とは重みが違う。今度は本気で、自分の何に代えてでもさくらを護りたいと願う。
 だから、
「僕は、」
「待って」
 その先の言葉を、さくらは遮った。
 そしてさっきのような不安の溢れた瞳を真弥に向け、
「まだ、あるの……。ホントは、こっちの方が言いたかったの……」
 さくらは自分の胸を両手で抱き締めるようにして、真弥から視線を外した。
「あたしね、何かすごい大切なことを忘れているような気がするの。心のどこかに、ぽっかり穴があいちゃったような、そんな感じがするの。忘れちゃいけない、何か大切なものを失ったような、そんな……」
 その時、真弥の頭に彼女の言葉が浮ぶ。
 ――さくらはあたしのことは知らないよ。忘れちゃってるからね。
 アスカは、そう言ったはずだ。もしかしたら、さくらが失っている大切なものとは、アスカのことではないのか。
「さくら、」
 声が震える、
「さくらは……」
 やめろ、ともうひとりの自分は言う。だが、真弥の口はまるで他人のように動いていた。
「さくらは知ってる……?」
 それ以上言うな、アスカと約束しただろ。さくらにはアスカのことを言わないって。
 自分の意思で、言葉を止められなかった。
 不思議そうにこっちを見るさくらの表情が、本当に儚く思えた。


「さくらは、アスカ・アールって子、知ってる……?」


 言葉はそれだけだった。
 この時、真弥は自分がとんでもない過ちを犯したことに、とうとう気付かなかった。
 さくらの表情が曇る。
「アスカ……アール……?」
 微かにさくらの体が震え、今度は体を抱き締めるようにして腕を交差させて肩を掴む。
「なんだろ……あたし、その名前に……」
 震えが止まらなくなった。
「さくら? どうしたのっ?」
 ベットに乗り出してさくらの顔を覗き込む。
 と、さくらは震えるだけで真弥を見ようとはしない。いや、それ以前に真弥などその場にいないかのような仕草をする。目の焦点が真弥と絶対に繋がらない。
 寒気が体を走る。
 両肩を掴んでいるさくらの手に真弥は手を重ねる。
 さくらの瞳を凝視して、その中に写る自分に言い聞かすように真弥は言う。
「どうしたのさくらっ!? だいじょうぶっ!?」
 虚ろな瞳が真弥と結びついた。
 体の芯から冷たくなる感じがした。
「あたし、その名前、知ってる……、だって、」
 そこまで言って、さくらの瞳から突然涙が流れた。
 止まらなかった。
 さくらは叫ぶ。信じられないことが起こった時に発する叫びだ。
 パニックになる、さくらの叫びがそのままさくら自身に降り掛かってさらなる混乱を巻き寄せる。
 体を抱き締めてさくらは涙を流し、掠れた声で泣き叫び続けた。
 本気で怖くなった。
 さくらを心配して行動したのではない。誰かに助けてほしかったから行動したのだ。
 真弥はナースコールを押した。
 あの時と何一つ変わらない。真弥には何一つできない。
 さくらを落ち着けることも、さくらの体を抱き締めてやることも。
 震えながら泣き叫んでいるさくらを見て、本気で怖くなった自分が死ぬほど情けなかった。
 また、僕はさくらを護ってはやれなかった。


 やっと、真弥は自分の過ちに気付いた。


 そして、その日から、さくらの病状は急速に悪化する。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――




     「『love song』を聴きながら・前編」




 まず二つある。
 一つ、あの夜からさくらが本当に眠らなくなった。眠らないと言っても人間は絶対に睡眠が必要であって、完全に寝ないのは不可能だ。
 しかし、さくらは本当に眠らなかった。たまにウトウトとするが、絶対に深い眠りには着かない。
 ここ最近はそれがずっと続いている。さくらの両親、主治医の赤坂らはさくらに眠らなければならないと言ってみるものの、さくらは決して眠らなかった。
 そしてもう一つ。あの日のあの夜、真弥が病院に忍び込んだあの時の記憶が、さくらの中から完全に消えてしまっていた。他の記憶はちゃんとしているのに、その時間の記憶だけがキレイに丸ごと抜け落ちていた。
 さくらの容態は悪化して行く。
 眠らないのがまず第一の原因であり、それに加えて今のさくらは酷く不安定だった。日増しに元気はなくなって、今では笑顔を見せることもしなくなった。ごはんにもほとんど手を付けない。
 そして、あの夜から五日経った今日になって、春風病院の170号室に再度『面会謝絶』の文字が張り出された。
 世界が壊れるスピードは、加速する。


 不甲斐ない自分が死ぬほど情けない。
 笑わなくなったさくらを見ているのが辛かった。
 日増しに元気がなくるなるさくらを見ると心が砕けた。
 僕がさくらを護る。そんな信念はハナクソほどの役にも立ちはしなかった。
 自分が、何もできないただの下らないひとりの人間であることを思い知った。
 どうしてこうなってしまったのか。どこで何が狂ってしまったのか。
 ――さくらに、僕は何もしれやれなかった。
 この五日間は、そんなことばかり考えていた。そんなことを思わないようにしてもすべてが無駄で、勝手に言葉が浮んでは消える。
 死にたくなった。死んですべてが、さくらが元通りの元気なさくらになってくれるなら本当にそうしていた。
 絶望の淵に立たされたいた時だった。
「……真弥ちゃん」
 振り返れば、そこにアスカがいた。
 とても沈痛そうな硬い表情。
 心のどこかでそうだろうなと思う気持ち悪い自分がいる。
「さくらに言っちゃったんだ、あたしのこと……」
 真弥の口からは、言葉すら出て来なかった。
 それでもアスカは続けた。
「でもね、それは真弥ちゃんのせいじゃないよ。こうなる運命だったんだよ……」
 真弥は天を仰ぐ。
 拳が知らぬ間に握り締められている。
 運命、などと簡単な言葉ですべてが片付けられるはずもないのだ。
 もし真弥があの時、さくらに何も言わなければ運命は簡単に変わっていたのだ。だから、そんな簡単な言葉で終らせてはいけない。
 口から出る声が、自分のものだとはどうしても思えない。
「アスカは、一体何なの……? さくらとどう関係しているの……?」
 今度は、アスカは「ナイショ」とは言わなかった。
 真弥を見つめたまま、アスカはその問いに答えた。
「あたしはさくらだよ。ううん、正確には『もうひとりのさくら』」
「もうひとり……?」
「うん」
 それはどういう意味? そう問おうとした。
 しかしアスカはその一歩先を行った。
「ごめん、それ以上はまだ言えないんだ……」
 そしてアスカは踵を返す。その背中越しに、
「でも、もう少しだよ。さくらと真弥ちゃんが頑張れば、もう少し」
 刹那、アスカと別れる時に必ず吹く夏の風が真弥を包む。
 瞬きをしたその一瞬で、やはりアスカはそこから消えてしまう。
 真弥はその場に取り残され、どこからかチャイムとセミの声が聞こえてくる。
 真弥は、春風中学校に行く通学路にいた。
 すでに遅刻だった。
 今日は、終業式だ。
 明日から、夏休みがはじまる。


 春風中の体育館はどの中学校のそれと比較しても並程度の代物だ。
 もし飛び抜けているのならそれは天井の高さだろうか。普通の倍ほど高い所に骨組が剥き出しの無機質な天井が広がっている。どうしてこんな造りにしたのかは不明だし、どうでもいいと全校生徒は思う。
 一年生から三年生まですべてが揃う全校ひっくるめた終業式。がやがやと聞こえる喧騒と舞台で喋っている校長先生。どうしても名前が思い出せない。天井に設置されている窓から太陽の光が射し、ちょうどその辺りに真弥は座っている。しかし真弥の耳には何も届いてはいなかった。すべてが音声のない映像として目に飛び込んで来ていて、そしてそのまま削除されていく。
 こんな所で、自分は一体何をしているのか。
 今すぐにでもさくらに会いに行きたい。さくらに会って、どんな馬鹿なことでもして彼女に笑ってほしかった。真弥はさくらの笑顔が大好きだった。だが今は、さくらを笑うことをやめてしまっている。真弥の好きな笑顔を、さくらは閉ざしてしまっている。それは、本当に心が壊れるほど痛いことだった。
 しかし、そう思う真弥と、もうひとり、今はさくらに会いたくないと思う心弥がいる。会って、どうしろと言うのだろう。この五日間、真弥はさくらにできる限りのことをしてきた。一日中話し相手になったことだってある。だがさくらは、この五日間、一度たりとも真弥に笑い掛けなかった。相槌をうったり肯いたり首を振ったり、普通の反応はちゃんと示してくれる。しかしそれだけだった。それ以上のことを、さくらはしようとはしなかった。時折眠たそうにしていたが決して寝ず、心に鍵を掛けてしまったようにさくらの表情はなくなっていた。
 それは、とても怖いことだった。さくらがこのままいなくなってしまうのではないかと、本気で感じた。
 そしてそれだけではない。昨日、赤坂がさくらの両親と真弥を別室に呼んでこう言った。「さくらくんは今かなり危険な状態にあります。原因がわからない以上対処ができない上に、もしかしたらこのまま最悪の事態になる恐れだってある。もちろん前にも言いましたが我々は全力を尽くします。ですが……大変申し上げ難いのですが、その……覚悟を、決めてもらった方がいいかもしれません」
 何に対しての覚悟? さくらの死を受け入れる覚悟だというのだろか。冗談ではない。さくらを死なせてたまるか。まだ完全には消えていない真弥の信念、ハナクソほどの役にも立たなかったこの信念は、まだ確かに心弥の中に形として残っている。もしそんな覚悟をしてしまったら、この信念はどうなってしまうのか。恐らく、怒りと絶望になって弾け飛ぶだろう。そこから先は、今の真弥には想像できないが、それは見るのも躊躇う醜いものなのだろう。
 目を閉じ、さくらを想う。
 瞼の裏に焼き付いた真弥の大好きなさくらの笑顔がそこにはある。
 まだ、諦めたわけじゃない。まだ、信念を貫き通していない。
 何かが終ったわけでもない。
 ――僕は、さくらが好きだ。
 まだ、真弥の本音をさくらに言っていない。こんな中途半端で終ってたまるか。
 さくらはまだ生きてる。だったら、僕がさくらを護るんだ。
 それが、信念なんだ。今度は役に立たせてみせる。
 世界の流れだって変えてみせる。
 僕はさくらが好きだから。僕がさくらを護るから。
 だから、
 その笑顔で、ずっとずっといてほしい。
 僕の側で、いつまでも笑っていてほしい。
 こんな所で、止まっているわけにはいない。
 自分から動かなければ何も変わらない。
 アスカはこれが運命だと言っていた。だったら、その運命を変えてやる。
 僕のすべてを掛けてでも、そのクソみたいな運命を捻じ曲げてやる。
 それが神の意に反するのであったのなら、僕が神を殺してやる。
 さくらが死ななければならない運命なんてあっていいはずがない。そうしなければすべてが終ってしまうと、人類が滅んでしまうとしても知ったことではない。さくらがいないこの世界など何の未練もない。滅びたかったら滅べばいい。
 世界に生きとし生けるものの何より、さくらが大切だった。さくらのためなら死んでもいい。
 だから、さくらに、一秒でも長く生きていてほしかった。
 正真証明の覚悟を決める。命だって掛ける、神だって敵に回してやる。
 それでも、僕はさくらを護りぬく。
 さくらが、
 さくらの笑顔が、
 僕は何より好きだった。


 春風中の体育館の入り口には空っぽのゴミ箱と、どうやってここから逃げ出してサボるかを考えている伊塚龍千侍と、緑のマットと何も入っていない靴箱と、そしてドアの脇に備え付けられた電話がある。
 伊塚は頭をボリボリと掻き、耳に入って来る校長の話しを聞きながら、ふと今なら逃げ出せるかもしれないと思った瞬間、大根役者のような咳が聞こえた。教頭のハゲだった。軽い舌打ちをして伊塚は俯く。教頭のハゲは伊塚をこの学校から追い出そうとする派の人間であり、伊塚にとっては邪魔者以外の何者でもなかった。逃げ出せなかったことに微かに毒づき、気休めにそこら辺の生徒を睨みつけてやろうとした時だった。
 音ではなく、それは光だった。真っ白な光が伊塚の横で光っている。
 体育館の脇に備え付けられた電話のランプが光を放っている。これは音ではなく光で知らせるタイプの電話なのだ。
 そして今現在、その光に気付いているのは伊塚だけだった。ため息を吐いた。よりにもよって面倒な役柄ばかり押し付けられた物だ。再度頭をボリボリと掻いて一歩踏み出し、手を伸ばしてコードレスの電話を取った。
 もしもし、と言う暇もなかった。電話の相手は酷く興奮しているらしく、落ち着かせなければ何を言っているのかは全くわからない。しかし落ち着けようとしても相手は伊塚の声すら聞いちゃいない。ただ何事かを繰り返している。そして伊塚は、その電話相手の声に聞き覚えがあることに気付いた。教え子ではない、もっと大人の男の声。確かこの声は――
 やっと、伊塚はその相手が何を言っているのかを理解した。
 瞬間、伊塚は体育館にいる全員が振り返るような大声で叫んだ。


「真弥あっ!!」
 その声で、まずは春風中学の生徒全員が言葉を失って入り口を振り返り、続いて舞台で喋っていた校長が口を噤み、教頭のハゲが飛び上がらんばかりに驚いて、
 そして最後に、真弥は立ち上がる。全員の視線を向く方を見つめ、そこにいる伊塚を確認する。
 状況は、すぐに理解できた。座っている生徒の隙間を縫って真弥は駆け出す、全校生徒が何事かと真弥を見守り、教師達が伊塚の元に駆け寄ってくる。伊塚の所へ行くのに、十秒も掛からなかった。前に立つと同時に、伊塚は何も言わずに電話を真弥に突き出し、一瞬で真弥はその電話を受け取っていた。
 受話器を耳に当て、口が自然と動く。
「さくらっ! どうしたのっ!?」
 しかし、聞こえて来たのはさくらの声ではなかった。
『真弥くんか!? わたしだっ、赤坂だっ!』
 その声は、下手をすれば聞き取れないほど荒れていた。まさに死にもの狂いで電話掛けたような、そんな気配が電話越しに伝わる。
 最悪の考えが頭を過ぎる、まさかさくらに何かあったのではないか、
 受話器に大声で叫んだ。人の視線など何も気にならなかった。
「どうしたんですか赤坂さんっ! さくらに何かあったんですか!?」
『すまないっ! 我々が付いていながらこんなことになってしまうなんて……!』
 内容が、一刻も早く知りたかった。気持ちばかりが焦って下が上手く廻らない。
 真弥が内容を聞き出そうとすると、その一瞬前に赤坂は言う。
『さくらくんが病院から姿を消したっ!』
 凍り付いた。
『たった今僕達が診察に行ったらもうすでにいなかったんだ! 真弥くん、どこか心当たりはないか!?』
 脳より先に、口が行動していた。酷く冷静な声だと自分でも感じる、
「何か持ち物がなくなっていませんか?」
 それがよかったのか、赤坂の口調にも落ち着きが戻って来る、
『え、あ、持ち物っ? あ、ああ、そうだ! あの何だ、あれがなくなっていた!』
 そして、赤坂はこう言った。
『あのラジカセがなくなっていた!』
 その瞬間、真弥の中である場所が浮び上がる。
 思い当たる場所は、一つしかなかった。
 真弥は笑う、
「だいじょうぶですよ赤坂さん。さくらは、僕が連れ戻します」
 何かを言い掛けた受話器を、真弥は置いた。
 息を大きく吸い込む。全校生徒が集まっているのに、この体育館からは何も聞こえて来なかった。皆呆然と真弥の方を向いていて、その視線を真っ向から受け止めるように伊塚に向き直る。
「先生、僕は行ってきます。さくらを迎えに」
 伊塚は悪魔のような笑みを浮かべる、
「っしゃ、おれも行く。足が必要だろ?」
 車を出してやる、伊塚はそう言っているのだ。
 しかし真弥は首を振った。
「いえ、僕ひとりで行きます。あそこは、僕とさくらだけの場所ですから」
 あそこは、真弥とさくらしかいない場所だ。
 景色が良くて、その景色を見ていると決まってさくらが言い出すのだ。
「でもよ、おれも行きたいんだが、」
「伊塚くん! これは一体何事かねっ!?」
 教頭のハゲだった。突然の伊塚の大声に文句を付けている、ハゲ上がった頭に青筋が蠢く。
 そして、伊塚のメーターは一発で上がった。現役の頃と何一つ変わらない、誰もが恐れる目付きと啖呵、逆らう者などいなかった紅蓮連合総長の伊塚龍千侍が、そこにはいた。
「っるせーハゲえっ! グダグダ言ってとってぶっ殺すぞコラあっ!!」
 たったそれだけの言葉で、教頭は何も言えなくなり、全校生徒(特に男子生徒)が震え上がる。すべてを黙らせるような雰囲気の中で、真弥だけは笑っていた。
「ごめんなさい先生。でも、これは僕が行かなければならないんです」
 一瞬で伊塚の体が翻った。その行動を予測できたのは誰もいなかったはずだ。
 気付いた時には、伊塚の右拳が真弥の左頬に寸止めされていた。誰もが目を疑い、誰もが殴られたと思った。教頭などは本当に殴ったと思って大騒ぎになっている。だ、誰か救急車を呼べー! 生徒が、生徒があー!
 教頭の叫びなどふたりの耳には入ってはいない。再度伊塚は悪魔のように笑う、
「真弥。これ、なんだったか憶えてるか?」
 右頬に微かな痛みが甦って真弥も笑う、
「信念が貫き通せるおまじない」
「オーケー。行け真弥。さくらを護れ」
 真弥は踵を返して走り出す。
 体育館の入り口から飛び出て階段を転がるように下り、背後から伊塚の声で「死ね教頭っ!!」という叫びを聞いて背中を押される。上履きのままあそこまで行くのには無理があって、時間が惜しかったがそれでも真弥は下駄箱に乱入した。一瞬で下駄箱のフタを開け、いとも簡単にスニーカーに履き替え、あの日のさくらみたいだと真弥は笑う。昇降口からグランドに踊り出て校門目指してひた走る。背後を一度だけ振り返り、喧騒が聞こえる体育館の終業式を微かに残念に思う。前を向く、その考えを振り切る。
 場所は決まっている。ラジカセを持出してさくらと幼い頃によく行った、景色が綺麗な、そしてその景色を見るとさくらが決まって言い出すのだ。「結婚式ごっこをしよう」と。そこしか思い付かなかった。あそこは真弥とさくらだけの場所だ。小さな小さな自然の教会だ。
 死にもの狂いに走った。たちまち汗が噴出し足が縺れる、それでも真弥は走り続ける。止まるわけにはいかなかった。もう一度誓った、もう一度おまじないを掛けてもらった真弥の信念。
 ――僕がさくらを護るんだ。
 さくらの待つ場所へ、真弥は走り続ける。


 走り出した真弥を、体育館の屋根の上で見送る女の子がいた。
 スカートを風に靡かせ、髪を片手で抑え、女の子は走り続ける人影を見守る。
「頑張って真弥ちゃん。これが最後だよ。これで、終るから」
 そう言って、アスカは微笑む。
 夏の風が吹きぬけ、足元から誰かの声が聞こえる。伊塚はまだまだ暴れ足りない。
 夏の太陽は元気一杯で、雲は自由に空に浮び、飛行機雲がどこまでも続き、どこかでセミが鳴いて小鳥が歌う。
 気付いた時には、アスカはそこからいなくなっている。



     「『love song』を聴きながら・後編」


 左右が鼠色のブロックに固められた小さな裏路地を抜け、立ち入り禁止の張り紙があるフェンスと乗り越えると、そこには視界一杯の緑が広がる。ここから先は道がなく、獣道をひたすら進む。見上げるほど高い木々の下を歩き、足を踏み締める度に落ち葉が鳴く。風が吹いて葉を揺らし、セミがその風に乗って舞い上がる。
 先を見よう。しかしそこにあるのは急な獣道で、頂上は一向に見えない。微かに見える光の痕跡は果たしてそこに繋がっているのか。木々の葉の隙間から射す太陽の光がオーロラのように瞬き、風が吹くとその姿を変える。辺りには木と落ち葉と若葉があるだけで何もない。ここは誰も入ってはならない秘密基地だ。ふたりでけの場所、ふたりしか知らない特別な場所。
 さらに歩き続け、そこを抜けると一気に視界が開ける。夏の太陽の光の元に広がる広大な草原、その境目に浮ぶ雲。膝の高さまである草が風に煽られて綺麗な波を浮かび上がらせる。久しぶりに見た、その光景は心を奪う。
「……やっぱり、ここにいたんだ」
 森から草原へと変わるそこに、ラジカセを傍らに置いてさくらは座っていた。
 真弥はそれ以上は何も言わずに歩き、さくらの隣りに座り込んだ。さくらは無表情に草原を眺めていた。真弥の存在に気付いてないわけではない。ただ、真弥を目を合わそうとはしない。
 視線を前に向ける。どこまでも広がる草原。幼い頃に見た風景と何一つ変わらない景色がここにはある。昔、さくらと並んで座っていた記憶が鮮明に甦る。すべてを自然に任せれば、あの頃のふたりに不可能はなかった。どんな生き物も怖くなかった、どんな怪獣も敵ではなかった、草原を手を広げて走れば空だって飛べた、信じればどんなことだって叶うはずだった。それを可能にしてくれたのはあの曲だった。あの曲には不思議な力があるのだ。世界最高の『love song』、あの曲がすべての始まりだったと思う。
「ごめんね真弥ちゃん……テープ、無くしちゃったんだ……」
 その話は、真弥にはすぐに理解できた。
 真弥がラジカセを父に駄々をこねくり倒してもらったあの時に入っていた唯一のテープ。
「もう一回リクエストしたんだけど……間に合わなかったみたい」
 声だけでさくらは笑った。
 心が痛んだ。声だけではなく、その笑顔が見たかった。
「最後にね、この景色が見たかったんだ……。真弥ちゃんと一緒に」
「最後なんて言うな!」
 大声を出すつもりはなかった。しかし口から出たのは大声で、そしてそれを自分では止めれなかった。
 視線を前に向けたままで、真弥は続けた。
「これからもずっとここでこうしてこの景色を見れるよ! なんで最後なんて言うのさ!」
 さくらの口から乾いた声が漏れる、
「だって、あたしはもうすぐ死ぬから」
 その言葉は、酷く簡素で重みがある言葉だった。体に鉄鋼を落とされたのと一緒の感覚だった。
 真弥は何も言えなくなる。今の言葉に、安易に「だいじょうぶ」とか「心配するな」など無責任な言葉は言ってはいけない。それは、さくらを苦しめることになる。そして、今の真弥にはさくらを苦しめずに済む言葉はなかった。
「わかるんだ。体からどんどん力が抜けていく感じがするの。ここまで来るのにも本当に大変だったよ。ちっちゃな頃はあんなによく来てた場所なのに、今日来るのは本当に大変だった……」
 ここで初めて、真弥はラジカセから微かに音楽が流れていたことに気付いた。あの曲ではない、もっと別の最近流行りのポップスだ。
「ここではあの曲しか聞きたくなかったんだけど、しょうがないよね」
 真弥は立ち上がる、さくらが視線でその姿を追う。ラジカセに手を伸ばして、真弥は電源を切った。
 立ったままで、さくらを見下ろす形で真弥はその瞳を見据える。
「ここではあの曲しか流しちゃダメなんだ。だから、」
 だから。そのあと、自分は一体何を言おうとしたのだろう。
 視線を先に外したのはさくらだった。広大な草原を眺めながら昔の思い出に思いを馳せる。
「ねえ真弥ちゃん? 憶えてる? ちっちゃな頃にここでやくやった遊び」
 憶えている、今でも鮮明に思い出せる、
「あたしね、あの頃から真弥ちゃんがずっと好きだったんだよ。大きくなったら真弥ちゃんと結婚するってずっと思ってた」
 でも、とさくらは言う。
「真弥ちゃんはいつまでも経っても真弥ちゃんのままだった。だからあたしもそれでいいと思った。このままでいられるならそれでいいかなって。でもね、大きくなるにつれてそれじゃいやだって思えるようになってきちゃって、でも真弥ちゃんはいつまで経っても真弥ちゃんのままで、あたしのことをどう思っているか伝えてくれなかった。怖くなって、不安になって……。本当は真弥ちゃんはあたしのことをなんとも思っていないんじゃいかって、ただの幼なじみの縁だから一緒にいるんじゃないかって。そんなことばっかり考えてた」
 外していた視線が真弥に結ばれる。さくらは表情を変えなかった。心に鍵を掻けたままで、さくらは真弥に伝えた。
「あたしは真弥ちゃんが好き。だから最後にここにふたりで来たかった。
 ……でも、もういいんだ、返事はもらえなくて。あたしはもうすぐ死んじゃうから。死んじゃったひとを想い続けるのは、本当に苦しいことだから」
 待ってほしい。
 僕もさくらが好きだ。だから、その思いを意味を伝えるから、ちょっと待ってほしい。
 死ぬなんて言わないでくれ。さくらが死んでしまったら、僕に残るものは何もなくなってしまう。
 さくらがいてくれればそれでいい。さくらが側で笑っていてくれるだけでいい。死ぬなんて言わないでくれ。
 僕がさくらを護るから。それが僕の信念だから。
 待ってほしい、死ぬなんて言わないでほしい。
「さくら」
 膝を落としてさくらの肩を掴んで体ごとこちらを向かせた。突然のことにさくらは口を噤み、驚きの表情で真弥を見つめる。その瞳を、真っ向から見つめた。
「待って。死ぬなんて言わないで。さくらが死んだら、僕に残るものなんて何もない」
 驚きの表情が、悲しみの表情に変わる。
「ありがと。でも、あたしはもうすぐ、」
「――言わせない。死ぬなんて絶対に言わせないからな」
 立ち上がれ、前を向け。立ち上がって前を向いて歩き出せ。
 隠すのはもうやめだ。場所は公園だと思っていたが、今ここで言おう。昔を懐かしみ誓いの言葉を想う。不可能なんてなかった、純粋なあの頃と何一つ変わらない、世界の流れだって変えてやる、運命だって捻じ曲げてやる、神の意などクソ食らえだ。人類を敵に回そうと神を敵に回そうと、人類が滅ぼうとも神の逆鱗に触れようとも。すべてはさくらのため、真弥が愛するさくらのため。どんな強大なものが向こうに回ったとしても、さくらを護りぬく。この命に代えてでも、護りぬいてやろうじゃないか。
 不可能は何一つないのだから。
 立ち上がれ、前を向け、隠すのはもうやめだ。
 言え。すべてに代えてでも護りたいと願い、笑顔が見たいと想うなら伝えろ。
 世界の流れを変えろ。


「僕はさくらが好きだ。
 子どもの頃から、そしてこれからもずっとずっと、僕はさくらが好きだ。だから、僕がさくらを護る」


 もし魔法があるのなら、今この時以外には有り得ないだろう。
 真弥の言葉は魔法になる。
「でも、神様があたしはもう」
 ――だったら、
「だったら、僕が神を倒してやる。僕が好きなさくらを、死なせはしない」
「神様を……倒すの……?」
「もちろん。さくらには指一本触れさせないよ」
 自身満々の真弥の笑顔と、ぽかんと口を開いたさくらの瞳。
 時空と空間がつながる。ここにいるのは、あの頃と何も変わらないふたりだ。どちらも純粋で気持ちを隠さず伝え合ったあのふたりがここにはいる。想いを伝えるのは本当に怖いことだ。しかしそれを乗り越えれば、すべては変わってゆく。素直になることだ。素直になれば世界の流れだって変わる。想いを隠さず立ち上がって前を向いて歩けば未来はいくらでも変わってゆく。そこからは、自分達の力で道を切り開かなければならない。誰かに道を作ってもらうのではなく、自分自身で道を作るのだ。未来への道を切り開け、世界の流れを変えろ。
 それは、ほんの一瞬の出来事だった。
 さくらが、声を上げて笑った。
「真弥ちゃんが神様を倒しちゃうの?」
「ああ。さくらを護るためならなんだってするさ」
「ダメだよ、神様を倒しちゃ。もう祈れなくなっちゃうよ?」
「そうだな……じゃあ今度からは伊塚先生にでも祈ることにするよ」
「なにそれ、ギャグのつもり? わあー真弥ちゃんがオヤジになったー」
 そして、今度は一瞬ではなかった。さくらは声を上げて笑う。
 急に立ち上がって走り出す。両腕を広げ、くるくると回ってさくらは草原を走る。
 舞い降りた天使のようだった。
 真弥も走り出す。
「待てさくら!」
「やーだよ!」
 ふたりで草原を走る。幼い頃もよくこうして走っていた。あの頃と同じように、真弥とさくらは追いかけっこをする。
 さくらは、心の鍵を解き放っていた。縛る物はもう何もない。
 草原に舞い降りた天使のように、真弥の大好きなその笑顔で、さくらは笑っていた。
 風が吹いて草原が波を作る。そこで走るふたりの少年少女を見守る大きな太陽。不思議に騒音は聞こえず、ふたりの耳にはセミの声だけが届いている。空だって飛べるはずだ。不可能なんて何もない、世界の流れだって変えてやった。前を向いて歩こう、空を見上げて行こう。どこまでもどこまでも行ける。果てはなくて終りもない。さくらとふたりで歩んで行こう。ずっと、どこまでも。
 やがて、ぺたんとさくらは草原に座り込む。
「どうしたの?」
 へへっとさくらは笑う。
「目が回っちゃっただけ。ねえ真弥ちゃん?」
「ん?」
 悪戯っぽく真弥を見つめ、照れくさそうにさくらはこう言った。
「おんぶして」
「……はあ?」
 と呆気に取られてからふと思い至る。
「……仕方ないなあ……」
 さくらの前に背を向けてしゃがみ、その背中に遠慮なしにさくらはおぶさる。
 首筋に感じる微かな吐息に頬が赤くなる。それをさくらに感付かれた。
「あ、もしかして照れてる?」
「ばっ、バカ言うな」
 照れ隠しの強がりだとは誰が聞いてもわかる。
 さくらを背に乗せたままで真弥は立ち上がる。嬉しそうに笑うさくらが愛しかった。
 ラジカセが置いてある場所まで歩いて向かう。
「懐かしいね、真弥ちゃんにこうしてもらうの」
「そうだね……。あの時以来かな?」
「うん」
 幼い頃、今日のようにここで追いかけっこをした時、さくらが転んだことがある。あの時のさくらは転んだ拍子に大泣きして、手が付けられなかった。日が暮れるまでさくらは泣いていて、どうしようかと悩んでいた真弥はふと思った。寝きべそをかくさくらの前にしゃがんでこう言った。「ほら、のりなよ」幼かったさくらはたったそれだけのことで機嫌を直した。涙で濡れた顔で笑って真弥の背中におぶさり、真弥がスピードを出すと声を上げて笑っていた。
 あの日と同じだった。
 草原を歩く真弥の背中で、さくらは笑っている。
「掴まってろよ!」
 真弥は走り出す。どこまでも行けると思った。
 不可能なんて何もないのだ。
 走る真弥と笑うさくら。バカみたいにはしゃいでいた。それだけでよかった。
 もう何もいらない。この時間だけでいい。たったこれだけのことで、すべてが救われた気がした。
 ――僕はさくらが好きだから。
 ――あたしは真弥ちゃんが好きだから。
 ふたりが望む方向に世界が流れてゆく。
 流れは変わったんだ、と真弥は思う。


 さくらが眠った。
 真弥の背中で、寝息を立てている。それは、とても嬉しいことだった。
 病院に帰ってもさくらは眠り続けていて、赤坂らに真弥は病室でふたりにしてもらえますかと頼んだ。何か反論がはるかもしれないと思ったが、三人は快くその申し出を受け入れてくれた。病室のドアに張り出された面会謝絶の文字を微かに忌まわしく思い、室内に入った。ベットにさくらを寝かせてその傍らにラジカセを置いて窓を開けた。夏の風が病室に吹き込み、カーテンが綺麗に揺れる。外の景色をしばらく見ていて、ふと思う。さくらのベットに歩み寄って座って、自分の膝に彼女を寝かせる。枕の方が寝心地がいいかもしれないが、どうしてかそうしたいと思った。さくらの寝息を感じ、さくらの温もりを感じ、安堵を憶える。
 さくらが眠った。それは、本当に嬉しいことなのだ。この五日間、さくらがこんなにゆっくり眠ったことはなかった。膝で眠るさくらの髪を撫でる。真弥は笑う。
「おやすみ、さくら」
 さくらが、何よりも大切だった。
 どんなことをしても彼女を護りたかった。僕にできることなんて高が知れている。だけど、それでも僕は君を護りたいと願うから。この世の何に代えても、僕は君を護るから。
 だって、僕は君が好きだから。だって、僕は君を愛しているから。
 体が自然に動いていた。ベットの脇に置かれた一台の古ぼけたラジカセに手を伸ばす。音量をなるべく小さくしてラジオの電源を入れる。赤ランプがぼんやりと灯り、微かなノイズに混じって馴染みのある司会者の声が病室内に響く。
『またリクエストもらいした、ラジオネーム『サクラ』さん。この子のリクエストと言えばやはりこれ、不屈の名曲『to love song』、それでは、聴いてください』
 少し音色が悪くなったスピーカーから少しひび割れた音楽が流れ始める。
「あ、」
 少し遅かった、と真弥は思う。もう少し早ければあの場所で聴けたのに。
 でも、これはこれでいいのかもしれない、とも思う。あの場所でこの曲が流れていたら、また運命は変わっていたのかもしれない。
 この曲は、さくらの大好きな曲だ。もちろん、僕も大好きだ。
 小さな頃から、本当に小さな頃からあの場所でさくらとずっと一緒に聴いた曲だ。この曲には思い出がたくさん詰っている。
 今、さくらが寝てしまっているのが残念だ。一緒に聴いていたい。けど、今はそっと寝かせておこうと思う。こんなにも、安心して寝ているさくらを見るのは久しぶりだったから。
 歌は少しずつ流れてゆく。僕とさくらの思いを乗せて。この曲を聴きながら、思い出が走馬灯のように頭の中に浮んでは消える。
 この世に生きとし生けるものの何より、さくらが大切でさくらを愛している。そんな彼女と共有するこの時間が、途方もなく大事に思えた。
 不意に、涙が溢れた。ポロポロと止まることなく流れる。その涙が頬を伝い、そしてさくらの頬を濡らす。
 あとどれくらいこうしていられるのだろう。あとどれくらいさくらと一緒にいられるのだろう。
 真弥は神を倒すと言ってのけた。だが、本当に神様はいるのだろうか? この世に神様がいるのなら、どうしてさくらにこんな運命を与えたのだろうか。神様がいれば、それを倒せばさくらの運命は変わる。しかし、もし神様がいなければ? さくらの運命は変わらないのではないだろうか。もしそうなら、違うものでもいい。それこそ悪魔と契約してもいい。真弥の命でさくらが助かるなら何だってする。さくらに一秒でも長く生きていてほしかった。
 さくらの体をそっと寄せて優しく抱き締める。抱き締めてはじめて気付く。さくらの体は、こんなにも華奢だった。抱き締める腕を弱めれば、このまま消えてしまうように、それはとても儚いことだった。
 曲は流れ続ける。この歌は、最高の『love song』だ。世界一の歌だ。さくらに笑っていてほしいから、僕がこの歌をさくらに送るよ。
 さくらの体を優しく抱き締めて、僕はひとり涙する。
 もう一緒にいたいなどとは言わない、もう二度と会えなくてもいい、それでもいいから、
 さくらに、少しでも長く生きていてほしかった。
「泣いてるの……?」
 いつの間にか、さくらが目を覚ましていた。
 しかし、僕はさくらから離れなかった。泣き顔を見られたくなかったのもある。でもそれよりも、もし今、この体を離してしまったら、彼女がこのまま消えてしまうような気がした。
「ごめん……さくら……もう少しだけ、このままで……」
「……うん」
 やがてゆっくりと、さくらの腕が真弥の背中に回される。
 病室のベットの上で、ラジカセから部屋に流れる『love song』を聴きながら、ふたりはいつまでも抱き合っている。
 さくらが何よりも大切で、何よりも愛しい。
 だから、


 もう一緒にいたいなどとは言わない、
 もう二度と会えなくてもいい、
 ただ、
 さくらに、少しでも長く生きていてほしかった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――




     「想いのメロディ」




 夢かもしれない、と真弥は思う。
 辺りを見まわしてもそこには何もなく、視界に入るのは無限の白。
 さっきまで、確かに自分は商店街が近い人通りの多い道を歩いていた。さくらのお見舞いに行くためだ。昨日、病院に帰ってから、さくらは本当に元気になった。寝ることが元気を取り戻したのかもしれない。しかしまだ『面会謝絶』の文字が消えただけで、決して安心していい状況ではなかった。いつまた再発するかわからないことに警戒は怠ってはならない。けれども、さくらの笑顔が見れたことが素直に嬉しかった。もう心に鍵を掛けてしまうことはないのだろう。
 と、今はそんなことを考えている場合ではないのだ。今考えなければならないのは、ここはどこか、である。左右を見まわしてもそこにあるのは白の空間だけ。気付いたら真弥はそこにいた。人の波に任せて病院に向かっている途中、異次元に投げ捨てられたようにここにいる。歩いてみるが景色が変わらないせいか全く歩いているという実感がなく、ただその場で足踏みしているみたいな感じだった。
 不安に狩られる。ここはどこなのか。まさか立ったまま寝てしまったのではあるまい。
 走り出そうとした瞬間だった。前を見据えたそこに、アスカは立っていた。
「やっほー真弥ちゃん」
 トントン、とまるで小鳥のようにこっちに白い空間を歩み寄って来るアスカ。
「アスカ……どうしてここに? って、ここは……?」
 子どもが悪戯を明かすような笑顔だった。
「ここは簡単に言えばあたしの世界。真弥ちゃんに話があって呼んだの」
「アスカの世界? そこに僕を呼んだ?」
 うん、と肯いてその場でアスカはくるりと回る。腰を屈めて下から覗き込むように上目づかいに真弥の顔を見つめる。
「昨日、真弥ちゃんがさくらに本当のことを言ったから呼んだの。もうあたしがいる理由がなくちゃったから、最後に真弥ちゃんに会いたくてね」
 真っ白な世界が切り替わる。
 真っ白な無限の世界から無限の緑の世界が視界に飛び込んでくる。そこは知っていた。それもそのはずだ、昨日行ったばかりなのだから。
 そこは、さくらに想いを伝えたふたりだけの場所だった。風が吹いて草を波立たせ、その風さえもが体に感じる。いつここに来たのだろうと錯覚する。
 思い至る、
「最後……?」
 今、アスカは確かに『最後』と言った。
 姿勢を戻して踵を返し、アスカは歩き出す。そのあとを自然と真弥が追う。草原を歩きながら空を眺め、アスカは振り返らずに真弥に話した。
「最後なんだ。もうあたしは必要ないから」
「ちょっと待ってよ、一体何の話をしてるの?」
 アスカは振り帰る、綺麗な笑顔だった。
「あたしはね、さくらが考えた『もうひとりのさくら』なんだよ」
 昨日もそう言っていたのを思い出す。しかしその意味が掴めない。
 どこからか小鳥が一羽飛んで来てアスカの肩に乗り、その小鳥をアスカは指で優しく撫でる。
 その小鳥に言い聞かすようだった。
「知ってる? アスカ・アールって名前の本当の意味」
「え……?」
 小鳥を肩に乗せたままで真弥を見つめる。
 それは、一種の信頼の類だったのかもしれない。
「『さくら』って名前をローマ字で書くと『SAKURA』になるでしょ? それを並び替えると『ASUKA』って名前になるんだ」
「でも、それじゃあ、」
「うん、『R』が仲間外れになっちゃうでしょ? だから『ASUKA』の後に『R』を付けて『ASUKA・R』」
 小鳥を空高くに舞い上がらせる、その姿を見送ってアスカは言う。
「あたしの名前はさくらが考えたんだよ。『もうひとりのあたし、それがアスカ・アール』だって。『気持ちを隠さず真っ直ぐになれるあたし』だって」
 アスカは笑う、
「でも、そんなあたしはもう必要ないんだ。さくらは自分の気持ちに正直になれたから。もうあたしがいなくてもさくらは真弥ちゃんと歩んで行ける。だからもうあたしは必要ないんだ」
「アスカ……?」
 でもね、とアスカは言う、真弥から一歩離れる。
「あたしが消えるっていうことは、さくらも消えるってことなんだよ」
「なっ――」
「さくらは病気でもなんでもないんだよ。もし病気だとすれば、あたしが心から抜け出したその影響。そして、あたしがいなくなればさくらもいなくなる」
 風が吹く。しかし瞬きをしてもアスカはそこからいなくならない。
 真弥を見つめて微笑む。
「だから最後に真弥ちゃんに会いたかったんだ。これでもうお別れだから」
「ちょっと待って! じゃあさくらはどうなるの!?」
 アスカの体が消え始める。ゆっくりと、ゆっくりと、光の粒子のように舞って、アスカの体はなくなり始めた。
「これが最後だよ真弥ちゃん。さくらを、護るんでしょ?」
 風が吹き止まない、視界が突然ぐにゃりと歪む。落下の感覚が真弥の体を包み、
 そしてアスカの体が消えるその瞬間、そのつぶやきを聞いた。
 ――鍵は開けておいたからね――


「真弥っ! おい聞いてんのか!」
 その声で我に返った。
 すべての感覚が戻った。そこは真弥がさっきまでいた商店街が近い人通りの多い道を歩いで、人の気配を感じて街の喧騒を聞き、夏の太陽の光を体に受けて空気に匂いを嗅ぎ、いきなり背中を蹴り飛ばされた。
 突然のことに反応が遅れて前を歩いてた人の背中にぶつかった。とっさに謝るとその人は何も言わずに怪訝な顔で歩き去ってゆく。誰が蹴ったのかと半ば怒りつつも振り返ったそこに伊塚がいた。
「あ……え、先生?」
 ボリボリと頭を掻き、伊塚はめんどくさそうに、
「何やってんだよお前? 魂抜かれたように道端突っ立って」
「え……?」
 道端に突っ立って? 辺りを見まわすと、そこには見なれた光景が広がっていた。
 真弥は首を傾げる。確かついさっきまで何か重要な夢を見ていた気がする。しかしその内容がどうしても思い出せない。
 呆然としている真弥の額を小突き、伊塚は、
「おい死んでんのか?」
「あ、いえ。それよりどうして先生がここに?」
 今日から夏休みで多分伊塚も学校が休みだ。なのに伊塚がどうしてこんな所にいるのか。いや、そもそも伊塚は休みの日は一体何をしているのだろうか。
 伊塚は道路の方を見て、そこに止まっている一台の大型バイクを親指で指す。そのバイクはぱっと見ただけでもわかるくらいに改造してあって、如何にも族上がりといった感じだった。つまり、伊塚のバイクなのだろう。
「今からさくらの見舞いをと思ってな。んでバイク走らせてたら道で立ち止まってるお前を見つけたもんだからよ」
 ああなるほど、それでか、と真弥は思う。今日は学校で見せるスーツにダラダラとネクタイを緩めた姿ではなく、それなりにラフな格好だった。よく考えれば伊塚の私服を見たのかこれが初めて――いや、写真でなら見たことある。あの胸に『紅蓮連合総長 伊塚龍千侍』と刺繍された特攻服。真弥の背中に寒気が走る。
「真弥も今からさくらんとこ行くんだろ? 何ならケツに乗せてやるぞ?」
 そうだ、早くさくらの所に行かなきゃならない。そう思ってから――
 一気に、真弥の頭の中でフラッシュバックが巻き起こる。
 真っ白な空間、緑の草原、舞い上がる小鳥、夏の風、『SAKURA』の文字、『ASUKA』の文字、『R』が仲間外れ、後ろに『R』を付けて『ASUKA・R』、くるりと回る、上目づかいの瞳、綺麗な笑顔、アスカの言葉。すべてがすべて真弥の中で思い出された。
 ――これが最後だよ。アスカはそう言っていた。
 気付いたら、伊塚に掴み掛かっていた。
「先生っ! は、早くさくらの所へ! 時間がないんです!」
 今すぐどうこうしなければならないか、と聞かれればどうなのかわからない。ただ、一刻も早くにさくらの所へ行かなければならないという確信だけはあった。
 伊塚はこう見えて勉強ができる。記憶力が良いというか頭の回転が速いというか。だから、慌てたくった真弥の剣幕で、すべてを了解していた。
 真弥の胸倉を掴み、至近距離から睨めつける、
「さくらがやべえのか?」
 声が出せなかったので必死に肯く。それを確認した瞬間、伊塚は走り出す、それこそ真弥を引き摺ってあっという間だった。歩道を横切ってガードレールを飛び越えた。投げ飛ばされた、とその時真弥は思った。そして気付けば、真弥は伊塚のオートバイの後ろに乗っている。前では伊塚がアクセル握っている。ノーヘルだと気付いて真弥は慌ててヘルメットを探すがどこにも見当たらず、そもそも伊塚もヘルメットを被っていないところを見ると初めから持ってないのかもしれない。
 体に振動がきたと思ったらそれはオートバイのエンジンが息を吹き返したもので、すぐ下から聞こえるマフラーの排気音が化け物の呻き声に聞こえる。歩道を歩く人々がその騒々しい音に視線を流し、伊塚は感覚を思い出す。
 真弥をそれを見たのは偶然だった。伊塚の肩越しに見えるサイドミラーに赤いランプが写った。それがパトカーだというのはすぐに理解できたし、どうしてこっちに向かって来ているのかといえば自分はノーへルだった。先生パトカーパトカー早く逃げて! そう言おうとした時にはすでにパトカーがバイクのすぐ横に付けていた。運転席のウィンドウが開いて制服に身を包んだ警官が顔を出した。
 中年のおっさんに見えた。
「こら、ノーヘルでエンジン掛けるとは何考えてやがる。エンジン切って免許書を出せ」
 違うんです、これには訳がっ。
 そして、真弥が言い訳するより早くに、伊塚は笑った。
「お久しぶりです、小松さん」
 パトカーから顔を出した警官は、突然自分の名前を呼ばれて伊塚の顔を見る。そしてふと口を噤み、同窓会で会ったのに名前が思い出せない旧友をみるような目付きで伊塚を眺めて考える。
「憶えてませんか? おれですよ、小松のクソオヤジ」
 その言葉で、警官はすべてが繋がった。運転席から身を乗り出さんばかりに伊塚の顔を睨み、突然大声で、
「おめえ龍千侍か!?」
「ええ、そうです」
 満面の笑みで、まるで久しぶりに会った孫を見る老人のような笑顔だった。
「なんだぁおめえそのカッコ! 誰だがわかんなかったぞ!」
「まああれから結構経ってますからね。おれ今、こいつらの先生やってんスよ」
 後ろの真弥を指差す、
「なに!? おめえ教師んなったのか!?」
「はい。マサやミナミのために、あの頃のおれらみたいなクソヤローの目を覚まさせてやりたくて。それならできるような気がして」
 悲しそうな表情で警官は伊塚を見据え、
「そうか……マサとミナミのためか……おめえも随分変わったじゃねえかよ」
 そこで突然伊塚の表情が一変する、真剣な表情を見せた。
「小松さん、頼みがあります。今、こいつの幼なじみがやべえんスよ。助けてはもらえませんか」
「なに……?」
 伊塚を見ていた視線が真弥に写る。警官に睨まれた、という事実が単純に怖かった。でも、真弥は引かない。
 警官は真弥を見据え、やがてゆっくりとこう言った。
「その子は、命が掛かってるのか?」
 真弥は肯いた。警官が考えたのは一瞬だった。
 警官は、いつかの伊塚のように悪魔の笑みを浮かべた。と、助手席に座っていた状況が飲み込めない新米警官に問い掛ける。
「なあ加藤。おれが今からやることは別に黙ってなくてもいいぜ。始末書でも辞表でも何でも出してやっから、今だけは何も言わないでくれぇや」
 新米警官も、考えたのは一瞬だった。すぐさま笑い、
「おれは小松さんに憧れてここにいるんです。辞表出す時は一緒ですよ」
「龍千侍、場所は?」
「春風病院」
「っしゃあ! 行くぞ龍千侍! しっかり付いて来いやあ!!」
 警官が動いたと思った瞬間、真弥のすぐ隣りにあったパトライトが赤い閃光を輝かせて回り、聞き慣れないサイレンが響いた。歩道人が見守る中、パトカーは走り出す。
「真弥、掴まってろ」
 伊塚の静かな声が聞こえた。その声に従って遠慮気味に伊塚の肩を掴む。
 瞬間、伊塚がアクセルスロットルを前回まで開けた。後輪がスリップして車体が揺れ、刹那、バイクが疾った。本当に爆発的な加速をした。遠慮して肩を掴んでいたのはほんの一秒に過ぎない、恥ずかしいとか何とか言っている場合でもない。本気で伊塚の肩に掴まっていなければ吹き飛ばされそうになる。道路の白線と対向車線を走る車が冗談みたいな速さで後ろに流れて行く。時速三百キロくらいで走っているではないかと思う。前を行くパトカーのパトライトが残す赤い閃光が真弥の目に微かに残り、突然スピーカーから『緊急事態に付き赤信号を直進します』との声が聞こえたと思ったらすでに信号は通り越していた。
 サイレンを鳴らして突っ走るパトカーとふたり乗りのノーヘルのバイクがその後を猛スピードで追う。後ろに流れる景色を何とか確認する。病院に着くまでいくらもない所まで来ていた。風が鉛のように真弥の体を襲うが、前の伊塚に比べれば比ではないのだろう。伊塚はただの一度もスロットルを緩めなかった。ブレーキすら掛けていなかったはずだ。スピードメーターが吹っ飛ぶくらいに限界まで振り絞っていた。伊塚が何か言ったように思う。しかし排気音と突風のような風のせいで全く聞こえない。そもそも真弥が口が開けば閉じれない状況だった。
 やがて、いきなりバイクがブレーキを掛けた。タイヤと道路が摩擦で嫌な音を奏で、真弥の体が前に押し出される。方向が九十度変わっていつの間にか縦向きから横向きになっていて、気付けばそこは春風病院の正面玄関だった。
 受付にいたナースが何事かと駆け寄ってくる。パトカーから警官ふたりが降りて説明を開始する。伊塚がバイクから飛び降りてスタンドを掛け、真弥もそれ続いたが脚が震えて上手く立てない。思いっきり背中を張り飛ばされ、そのまま伊塚に病院の中に投げ飛ばされるように、ちょうどナースと入れ違いになるように自動ドアを通過した。脚の震えはもうなくなっていて、振り返れば伊塚が何かを叫んだ。その叫びが何て言葉だったのかは、真弥にはわからない。
 前を向く。何事かと患者が続々と集まってくる受付を抜け、本来なら外来の名前を書かなければならないナースステーションを素通りにして階段を上がる。エレベーターより走った方が速く辿り着ける自信があった。二段飛ばしで階段を駆け上がり、三階のフロアに出ても止まることなく走る。角を二つ曲がったら170号室の廊下に出る。
 その病室の前に、赤坂がいた。真弥の姿を見つけると何かを言い、真弥は耳を貸さずにドアを開けようとして、目に飛び込んだ『面会謝絶』の文字を見て動きが止まる。赤坂が何かを言っている、容態が悪化して今は面会できない、正確には聞こえなかったがそんなようなことを言っていたと思う。それでも真弥はドアを開けようとして鍵が掛かっていることに気付いて死にたくなる、焦りと怒りで気が狂いそうになる。
 一瞬悩んでから真弥は踵を返す。一秒でも速くさくらに会いたかった。さっき来たばかりの道を引き返し、階段を二段飛ばして駆け下りる。二階の下り返し地点で脚を滑らせて転げ落ち、頭と肩を強打して激痛が走る。無視した。体制を立て直してまた駆け下りる。一回のナースステーションの前をまら素通りして受付に行くと、そこには野次馬の群れが出来上がっていて外に出られなかった。罵声を吐いて近くにあったゴミ箱を蹴り飛ばす。
 また走り出す。受付の近くにある待合室に飛び込んで立ち止まり、開いていた窓を見つける。机に飛び乗ってそこから窓にダイブ。外に出たら以外にも高さがあって焦り、しかし植えられている四角い形に整えられた木のようで草のような物がクッションになって難を逃れる。病院の庭に踊り出て、また走って病院の裏手に周り込む。
 前にやっておいてよかったと思う。上を見上げて三階を見据え、170号室の真横に伸びる配水管にしがみ付く。下りられないことなど知ったこっちゃなかった。手に懇親の力を込めて壁を蹴り、腕の力だけで上に這い上がる。一階分はすぐに通過して、二階に差し掛かろうとした瞬間に手が汗で滑って落ちそうになる。病院の裏手を散歩していた老人がその光景を見つめて腰を抜かし、杖を振り回して助けを求める。握力で汗を超越して再度上がる。二階分を乗り越え、病室の窓はもうすぐそこだ。
 そして、やはりここで真弥は愚かしさに気付く。鍵が開いていないかもしれないのだ。首を振る、今考えても始まらない。さらに配水管を上って病室の窓のすぐ隣りまで詰め寄った。片手を伸ばして鍵が開いていてくれと祈って窓を押す。
 窓は、いとも簡単に横にスライドした。
 そして、真弥はその言葉を思い出す。
 ――鍵は開けておいたからね――
 そういうことかアスカ。真弥は不敵に笑う。
 窓枠に手を置き、足を一緒に掛けてそのまま病室内に転がり込む。クーラーが効いているのかひんやりとした空気が真弥を迎え、汗だぐになった体にはそれが気持ち良かった。しばらく病室の床に座り込んで息を整え、夢中過ぎて何も感じなかった恐怖が今頃になって降り掛かって来る。
 立ち上がってベットを見つめる。そこには、微かな寝息を立てているさくらがいて、そのベットの隣りに医療器具が山ほど置かれていた。病状が悪化したのは嘘ではないのだろう。歩み寄ってベットの隣りのイスに腰掛け、さくらの手を握る。
「さくら……」
 呼び掛けるが当然の如く返事はなく、どうしようかと悩む。しかしまださくらは生きている。たったそれだけですべてが終るほど安堵した。
 目を瞑ってさくらの手の温もりを感じ、それは理屈ではなく確信だった。その名を真弥は呼ぶ。
「アスカ……いるんだろ?」
 そして次に目を開いた時、病室は真っ白な空間になっていた。
 あたしの世界だとアスカは言っていた。
 真っ白な空間でさくらは空気の上に寝ていて、その横で真弥は空気の上に座ってさくらの手を握っている。そして、さくらの向こうにアスカがいる。笑っていた。
「ちゃんと来てくれたんだ」
「当たり前だろ。それより、アスカがさっき言ってたことは一体どうゆうこと?」
 きょとんとした顔でアスカは真弥を眺める。
「何の話?」
 呆気に取られつつも、
「だから! アスカがいなくなったらさくらもいなくなるって話だよ!」
 ああ、それねとアスカは言う。きょとんとした顔はそのままで、アスカはけろっと、
「あれウソだよ」
「……は?」
 その時の真弥の表情を見て、アスカは急に笑い出す。体を曲げてお腹を抱え、目には涙まで浮べてアスカは笑う。
「ご、ごめんねっ、し、真弥ちゃん……さ、最後に、ちょっと、あそ、遊んで、み、みたくて……」
「遊ぶ……?」
 笑いの収まった頃にアスカはもう一度ごめんねと謝り、指で涙を拭いて真弥を見つめる。
「でもね、あたしが消えるのは本当だよ。だから最後に、三人でここにいたかったから」
 それから一歩アスカは前に出る。眠っているさくらの頬に手を添え、優しく微笑む。
「さくら、いつまで寝てるの? もう起きれるでしょ?」
 その声に導かれるようにさくらは軽い声を上げた。真弥の握っている手に微かな力が入って、やがてさくらは目を開ける。
 虚ろな瞳で真弥を見てから、今度はその逆にいるアスカを見て目を見張る。そうだろうな、と真弥は思う。なにせアスカはさくらとは瓜二つなのだから。目が醒めたらもうひとりの自分がそこにいるのだから。
「あなたは……?」
 呆然とそう言うさくらの頬から手を離して、アスカはさくらの瞳を見据える。
「もう思い出してるはずだよ。あたしは、もうひとりのあなた」
 さくらの表情が困惑から理解に変わり、すべてが一つに繋がったように、
「アスカ……?」
「そうだよ」
 さくらが起き上がる。自然と真弥は手を離し、そのふたりを眺めた。
 こうやって見比べると、本当にそっくりだと思う。しかし真弥にはどちらがどちらかハッキリとわかる。間違えるはずもないのだ。
 アスカの前に歩み寄り、さくらはアスカを、アスカはさくらを見つめた。
 先に言葉を話したのはアスカだった。
「やっと会えたね、さくら」
「でも……どうして……?」
 アスカはイジワルそうに笑う、
「もうわかってるはずだよ。さくらは自分に正直になれた、だからあたしと会えたんだよ」
 一歩後ろに下がってから、アスカは続ける、
「はじまりはあのラジオ番組。あれはね、『想い』を奏でる番組なんだよ。どんな曲でも、そのひとの想いが強ければ奏でられる。あたしはさくらの強い想いでここにいられるんだ」
「理屈じゃない。すべては想いの成すがまま」
 真弥の口から自然とそんな言葉が零れる。それは、自分の意思ではなかった。誰かが真弥の口を借りて喋っている、そんな感じだった。
「ひとの想いを伝えるためにあのラジオは存在する。ひとが想いを捨てない限り、それは現実となる」
「そうだよ。そして、さくらは想いを叶えることができた。だから、あたしはもう必要ないんだ」
「待って!」
 それまで黙っていたさくらがアスカに詰め寄る。
「待ってよ! あたしはまだっ……」
 その唇に、アスカは指を添えた。
「だいじょうぶ、さくらはもうひとりじゃないよ」
 後ろの真弥を見て、
「さくらには真弥ちゃんがいる。それに、」
 さくらの瞳を見据え、本当の笑顔でアスカは笑った。
「もちろんあたしもちゃんといる。でも、これからはさくらが自分で歩んで行かなくちゃならないんだよ」
「でもっ」
「さくらならできるよ。だって、あたしを想ったのもさくらなんだから」
 そしてアスカは歩み出す。一歩一歩、大切なものの上を歩くようにアスカは優しく歩んで行く。
 そこで振り返り、さくらを見てからその視線を真弥に向けた。
「真弥ちゃん」
 不思議と、アスカが何を言いたいのかがわかった。
 だから、真弥はこう言った。
「さくらを大切に――だろ?」
 アスカは肯いた。
 風が吹く。優しい風だった。すべてを包み込むような、そんな風。
「じゃあね、ふたりとも」
「アスカっ!」
 さくらは言う。
「あたし、頑張るから! だからっ! だから、また会えるでしょっ? あたしはまだ、アスカに何もしてあげてないから! また、会えるよねっ?」
 しばしぽかんとしていたアスカ。
 しかしやがて、さくらを見つめて笑う。
「当たり前でしょ。また会えるよ」
「約束、だからね!」
「うん」
 そしてアスカは踵を返す。踊るように歩き出し、くるくると両手を広げて回る。それは、昨日のさくらのようだった。空から舞い降りた天使のように、アスカは声を上げて笑った。
 やがてアスカはさくらと真弥を見て微笑む。風が吹いたと思った時、そこからアスカはいなくなっていた。
 真っ白な空間が消えて行く。そして、アスカの最後の微笑みを聞いた。
 その声と共に、白い世界は消えてなくなる。


 どこまでもどこまでも、世界が流れてゆく。
 そこを、さくらと歩んで行こうと真弥は思う。
 前を向いて歩いて行こう、空を見上げて行こう。
 どこまでもどこまでも。
 さくらとふたりで歩んで行こう。
 世界が流れてゆく。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――




     「エピローグ」




 ラジオネーム何にしようかな。
 変な名前は嫌だけど、でもこういうのってパッと浮んでくるものでもないし……。
 あたしの名前をそのまま『サクラ』ってのも何だか捻りがないしなあ……。
 ちょっと考えてみよう。『さくら』って名前を並び替えたらどうなるかな?
 『さらく』『くらさ』『くさら』『らくさ』『らさく』……どれもパッとしない。
 そうだ、真弥ちゃんの名前で出しちゃおうかな。あ、でもそれじゃ怒られるかも……。それにこれは真弥ちゃんにナイショでリクエストするんだから、やっぱりあたしが自分で考えないとダメだよね。でも、真弥ちゃんって頭の回転遅いからあまり捻るとたぶん気付かないと思う……。
 じゃやっぱり『サクラ』? でもつまらないしなあ……。暗号みたいにすると絶対に真弥ちゃんわかりっこないし……。
 ん? 暗号? そういえば暗号ってローマ字とかですることもあるよね?
 『さくら』って名前をローマ字にすると『SAKURA』、それをさっきみたいに並べ替えて名前ができないかな。紙に書いてみよう。S、A、K、U、R、A。それを組み合わせて名前名前……。
 あっ。見つけた。
 あたしってすごいかも! こういうのが閃きっていうのかな!?
 初めが『A』で『ア』、次が『SU』で『ス』、その最後が『KA』で『カ』、全部繋げて『ASUKA』、『アスカ』! できた! あたしって天才かも!
 ……あれ? ああ、やっぱりダメだ、『R』が仲間外れになっちゃってる……。せっかく閃きだと思ったのに……。
 こら『R』、なんでお前が余るんだよ。……でもしょうがないよね、『R』がなきゃあたしの名前できないし。でもどうしよう? 『R』が仲間外れだ……。お前も仲間に入れてあげたいけど、もうイスがないみたい……。
 『ASUKA』と『R』か……。あ、でも、もしかして!
 『ASUKA』が仲間で『R』が仲間外れ、でもそんなに難しく考えないで『R』を後ろにくっ付けちゃえば……。
 『ASUKA・R』、『ASUKA』をローマ字で読んで『R』をそのまま読めば……。
 できた! やっぱりこれって閃きよね!?
 『アスカ・アール』! なんか少しカッコよく聞こえるし、これでいいんじゃない!?
 ……でもあたしには少しもったいないかな。
 だけど、
 そうよね、これはあたしじゃないのよね。これはラジオネームなんだし、言わばあたしの分身、『もうひとり』のあたしなんだから。
 あたしと違って、ちゃんと真弥ちゃんに自分の気持ちを隠さずに素直になれるあたし、それがアスカ・アール。
 ……そう、だよね……。あたしは真弥ちゃんに素直になれないもんね……。だから、アスカに勇気付けてもらおう! もし真弥ちゃんとふたりであの 曲が聞けたら、その時はあたしも素直になろう! 真弥ちゃんにこの気持ちを伝えよう!
 ――あたしは真弥ちゃんが好き。
 真弥ちゃんはどんな顔をするのかな? ううん、今はまだいい。もう少ししてから考えよう。
 さて、ラジオネームが決まったから、後はそれとリクエスト曲をハガキに書いてポストに入れるだけだよね。
 でもいいのかな? 司会者のひとはそれでいいって言っていたけど、宛先なして届くのかな? でも司会者のひとがそう言うんだから、ちゃんと届くんだよね。うん、きっと届く。
 アスカ・アール、もうひとりのあたし。素直になれるあたし、か。
 いいなあ、もしアスカが本当にいてくれたら、あたしももっと素直になれるんだろうな……。アスカに頑張れって、背中押してもらえるんだろうな……。
 ねえアスカ? あなたは本当にいるの? あたしが考えたあなたは、あたしの中にいるのかな?
 もしいるなら、あたしはあなたに会いたい。あたしはそう想うよ。
 アスカはどう想う? 
 アスカ・アール、もうひとりのあたし。
 それが、あなただよ――。


     ◎


「でも、あたしはアスカを忘れちゃってた。あのハガキにはラジオネームは『サクラ』って書いてたし。やっぱり、あの時にはもうアスカはちゃんとあたしの中にいたのかな? 真弥ちゃんはどう思う?」
「どうだろう。でもさ、さくらの想いがアスカを生んだ、だからさくらは素直になれた。それだけでいいんじゃないのかな?」
「え?」
「だって、アスカはちゃんとさくらの中にいるんでしょ? だったら、それでいいんじゃない?」
「……そう、だよね。うん、きっとそうだね。それに、ちゃんとアスカとも約束したし、絶対また会えるよね」
「うん」
「じゃ、その時までにアスカにできることを考えなきゃ」
 さくらはそう言って笑う。そして手に持っていたソフトクリームの山を、小さな下でぺロリと舐めて甘い味を満喫する。
 そんなさくらの隣りで、やはり手にソフトクリームを持っている真弥は微笑む。
 さくらが退院した。あの日、さくらとアスカが出会ったあの時から、さくらはそれまでが嘘だったかのように元気になった。今ではすっかり元気一杯のさくらに戻っていた。
 そして今、真弥達はどこにいるのかと言えば、もちろん公園である。近くの老夫婦が経営するソフトクリームが売りの店でソフトクリームを貰って、そのまま公園に入ってあの日と同じベンチに座って並んでそれを食べている。老夫婦にはちゃんとお金は支払いますと言ったのだが、軽やかに交わされて貰う形となった。そして、老夫婦が約束をしてくれたように、このソフトクリームはまた一段と美味しくなっていた。
 また、ここでこうやっていることが、今は途方もなく嬉しかった。
 物思いに浸っていると、指先に冷たい物を感じた。見ればソフトクリームが溶け出していた。
「うわっ、」
 慌てて食べ始める。
 今日は天気が良過ぎるくらいだ。木陰になっているこの場所でさえ太陽の光の影響は受ける。気温が高いため、ソフトクリームが溶け出すスピードは半端じゃない。
 慌てて食べていると、隣りのさくらがクスクスと笑っていた。
「なに?」
 そう返すと、さくらは指を伸ばしてそっと真弥の頬を触った。その指先にソフトクリームが付いている。
「子どもみたい」
 急に恥ずかしくなる、
「ほっとけ」
 むっつりと怒ったようにソフトクリームを再度食べ始める真弥。その横でまだ笑っているさくら。
 やがてソフトクリームを食べ終わった頃、ふたりはのんびりと公園の風景を眺めている。
 風が吹いていた。いつも肌に感じている夏の風だ。
「気持ちいいね」
 さくらはそう言って目を閉じる。腕を上に伸ばして猫のように「ん〜」と伸びをする。
「なんか眠たくなるね。ポカポカしててお布団の中にいるみたい」
 ポカポカと言うには少し暑過ぎると思う。でも、眠たくなるは本当だった。この木陰は、本当に気持ち良い。
 次に言う言葉は真弥の中にはもうある。
「寝るの? 何なら肩でも貸そうか?」
 しかし、さくらは首を振った。
「今日は寝ないよ。真弥ちゃんに言わなきゃならないことがあるから」
「なにそれ?」
 さくらは立ち上がる。くるりと一度回ってから真弥の顔を覗き込む。
 微かに笑ってから、さくらはいきなりこう言った。
「あたしは真弥ちゃんが好き。ずっと前から大好きだった」
 不意打ちだった。
 自分でもみっともないくらいに顔が赤くなったと思う。
「あ、照れてる? あはは、真弥ちゃんかわいい〜」
「う、うるさいなっ」
 真弥も立ち上がると同時にさくらは走り出す。
 あの日のさくらのように、あの日のアスカのように。まるで舞い降りた天使のように。さくらはくるくると両手を広げて回る。
 空だって飛べるはずだ、不可能は何もない、純粋だったあの頃の、
 隠すのはもうやめだ。
「さくら」
 立ち止まってこっちを向くさくら。
 真弥は笑う、
「僕はさくらが好きだ。ずっと前から大好きだった」


 僕は忘れない、その時にさくらが見せた本当の笑顔を。
 僕の大好きなその笑顔を、僕はいつまでも想い続けてゆくだろう。


 さて、明日から本当の夏休みの始まりだ。
 さくらと一緒に海に行こう。
 もちろん交通費は真弥の負担で。
 夏が始まる。すべての始まりの夏だ。
 この日のことを、僕は永遠に忘れない。


     ◎   ◎   ◎


 最後に一つだけ。


 誰もいないさくらの部屋の机の上に、横っ面に白いマジックで『なるみしんや』と書かれている古ぼけたラジカセが置いてある。
 そのラジカセのスイッチがひとりでにONに切り替わる、赤ランプがぼんやりと灯り、微かなノイズに混じって馴染みのある司会者の声が室内に響く。
『さて、この物語はどうでしたか? 楽しんでもらえたでしょうか? そして突然ではありますが、この番組は本日を持って終了とさせて頂きます。毎回聞いてくれた方々、本当にありがとうございました。あなた方の応援のおかげで、この番組は続けられてこられました。今一度、感謝の意を込めてお礼を申し上げます。そして、これがこの番組最後のリクエストです。ラジオネーム『アスカ・アール』さん、曲は『サクラ』さんのリクエスト曲と同じ、不屈の名曲『to love song』、それでは、聞いてください。今まで、ありがとうございました。
 あ、しまった、忘れてるところでした。曲に行く前に最後にもう一つ。この番組の名前をまだ皆さんにお教えしていませんでしたよね?
 いいですか? この番組の名前は―――――


         『さくらのサクラ 〜to love song〜』です』



                              END




2004/03/16(Tue)12:58:12 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
これにてこの物語は完結です。最後の方はもうむちゃくちゃで意味不明でアスカって一体……みたいな疑問が残ると思われますが、その辺りはご了承ぐださい(ぇ 今まで見てくれた方々、誠にありがとうございました!さて、次は何を描こうかな……って、ESPがあったな……
あ、最後に。この物語に出てくるラジオの司会者。あれが神夜でした、ってオチはないです、たぶん……。
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