- 『赤い獣と蒼静のラプラス FRAGMENT 3』 作者:境 裕次郎 / 未分類 未分類
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原稿用紙約28.25枚
(FRAGMENT3 腐敗のキシリトール)
1
幾ら『朝なんて来て欲しくない。全てが夜のまま過ぎ去れば良い』と思ったところで、朝は何言ってんだって顔して東北地方から昇る。始まらない一日なんて、この地球上の何処にも無いんだ……いや、あるか。北極と南極には。
瞼の奥がズッシリ重い。首も痛い。寝起きはつらい。
僕はベッドから半身起こして、冷え切った室温に身を任せたままボーッとする。そのまま、また寝てしまいそうだ。雑然とした室内。隅においてあるゴミ箱が、茜色の日差しを被って寂しそうにしている。そうか、茜色か。
手近のカーテンをシャッと引く。窓の外に美しい夕日を臨むことができた。
ははは。おめでとう、僕。
朝はとっくの昔に僕を置き去りにして西の空に沈んでいくところだった。
「……今から学校行っても遅いだろうな……」
夜見のヤツ起こしてくれてもいいのに……僕のコトに気づかなかったのだろうか。やっぱりあんまりコミュニケーションとれてないじゃん。下半身に被っていた残りの布団をバサっと捲って立ち上がる。パジャマ代わりのシャカパンとロングTに襲い掛かる冷気。昨日濡れたままで寝たせいか生乾きだ。特有のしっとり感に居心地悪さを感じたが、面倒臭いので着替えずそのままリビングの降りることにした。扉を開ける時、ドアノブの銀色に掛かる赤さが妙に綺麗で僕はそのドアノブを見つめたまま佇んでみる。
そして少しだけ昨日の回想に耽る。一番印象的に思い出したのは、和泉の言った
『夜見ちゃんはもう死んでるよ』
の一言だった。が、その次に連想したのが『オノメキ アカ』の落書き。 記憶の片隅から消えかけていたその言葉を思い出したのは、夕日で部屋全体が赤く染まっていたからかもしれない。
廊下にでると更に冷えた空気が潜んでいた。無視してリビングに辿り着こうとするのはなかなか困難を極める作業だ。進化するときに極寒灼熱の大地に対応できるように進化してくれればいいものを。ご先祖様、さぼったな。英訳するとサボタージュ。なんて馬鹿な連想が脳裏をつく限り完全覚醒にはほど遠い。僕の思考は依然停滞中らしい。
冷たい空気は自然法則に則れば下に沈む。なら階下はおそらく此処より寒い。永久凍土の大地が広がっているかもしれない。『空気は吸い込むな!一瞬で肺が凍りつくぞ!』いつか見た映画の台詞を口走りながら自分を勇気付ける。ていうか、苦労してるな、僕。早くリビングに行け。
リビングのドアを開けると、生暖かさに思わず顔が綻ぶのを感じた。暖房が掛かっている。夜見のヤツ、もう学校から帰ってきたのだろうか。珍しいコトもあるもんだ。普段は部活のせいで七時過ぎにならないと帰ってこないはずなのに。さっきの夕日を見る限りでは現在時刻は五時ってとこだろう。壁掛け時計を見る。五時五分。大体正鵠。
僕は昨日と同じように、寝起きのせいで体内にたまっっている熱を排出するために、冷蔵庫から紅茶を取り出すべくしてキッチンに向かう。
「……?」
キッチンに入ろうとした僕は不穏な空気を感じた。いや、不穏≠ニ言うよりは…何と言うのだろう。どうも空気が濁っている°Cがする。部屋に入ってきたときには気づかなかったが、キッチンに向かおうとして生温い空気の中を歩き始めたとき、流れ始めた気流の中に鼻腔を擽る独特の匂いが漂っているような気がした。歯磨き前の口臭だろうか。
コップに水を注いで口をゆすいでみるコトにする。がぼがぼがぼがぼ、ペッ。すんすん。水に汚れを溶かして吐き出した口臭をかいでみる。……余り良く分からない。一つ大きく深呼吸。すーはー。……臭いはあいかわらず漂っている、のだろうか?
僕は暫くそのまま突っ立って思案していたが、気にしてもどうなることでも無いので、キッチンの窓を大きく開けて冷蔵庫から紅茶をとりだし、昨日と同じように飲み干し、昨日と同じようなフォームでゴミ箱に投げ捨てた。背後から吹き込む新鮮な空気が肺を侵食していく。うーん、と一つ大きく伸びをすると僕はリビングのソファにへたり込んだ。
そういえば夜見は何処に行ったんだろうか。リビングに暖房がついているせいで家に帰ってきているものだとばかり思っていたが、居る気配がしない。ゲームソフトは入れ間違えたままほったらかして置く妹だが、電気代のかかる電気機器のスイッチはきっちりと抜け目なく、必要ないならオールオフにする妹だ。あくなきセーフティロック。リビングの暖房を付け忘れたとはよもや思えないが……そういうコトもあるかもしれない。僕はこの部屋の何処にも夜見が居ないコトを確認すると、一旦外にでて妹の居場所を探すことにした。
最初に洗面台と風呂場に向かう。いや、やましい気持ちがあるとかじゃなくてリビングに一番近いだけだって理由だ、なんて自分言い訳をしつつドアをカチャリと開けて中を覗き込む。
左右に首を振って確認するが、誰も居なさそうだ。『ちっ』なんて舌打ちしてガッカリしたフリをしてみる。いや、フリだよ、フリ。
次に、一階和室を覗いて誰も居ないことを確認した後、二階にある両親が使っている部屋と自室を覗いた。勿論そんなトコロに居るはずも無く、あっさりと僕は、最後に残った妹の部屋へむかうことにした。帰ってきているなら、間違いなく此処に居るはずだ。
扉の前に立ってこんこんと軽くノックする。四、五秒待ってみるが反応は無い。仕方なくドアノブに手をかけて軽くまわしてみる。
かちゃ
軽い音がして、室内側に隙間ができる。僕はそろっとドアを押してゆっくりと開いていく。
やがてピンク色のカーペットが顔を覗かせる。僕は、半分まで開いたところで中に踏み込んだ。なんだか禁断の聖地に踏み入っているようだ。部屋全体に日常にありふれた夜見の臭いが漂っている。柔らかい仄かなベビードールの臭い。ベッドに寝転がってみてぇ。僕はそんなことを考えている自分にギョッとして、口を手で塞ぐ。ヤベ、これじゃ変態みたいだ。
高鳴りだした心臓の音が部屋に広がっていく感触を覚えつつ、僕は整理整頓された室内の何処にも妹が居る隙間が無いコトを確認すると、慌てて飛び出した。後ろ手でドアを閉めて前の壁によろめきかかる。
「……どうした僕」
さっきまで寒さでかじかんでいた、指先にまでどくどくと熱い血流が通っていた。其れすらも知覚できるほどに僕は焦っている。
そうやってもたれたまま五分もしただろうか。それとも一分程度した経っていないだろうか。ようやく落ち着いてきた脳内の思考を積み木の様に積み上げていく。
家中の何処にも妹が居ない。それじゃ、ただ単に暖房を付け忘れたまま学校に行ってしまっただけか。ま、たまにはそういうコトもあるだろう。昨日も良く分からない外出をした訳だし。傍目から見て良く分からない行動というものは、本人自身も良く分かっていないコトが多い。要は今の夜見は多少変だから、こんなコトも在り得るかもしれないってコトだ。
ん。自分自身の考えを肯定するように小さく頷く。夜見はこの家中の何処にも居ない。そう確認し終わった僕は、最後に一カ所だけ、まだ探していない場所に向かうことにした。
「それは玄関だ」
目の前にある現象が上手く掴めていない僕はわざわざ口に出して現在地を確認してみる。リビングに帰るがてらに寄った玄関にはキッチリ夜見の靴が通常通り三足並んでいた。夜見の持ってる靴は全部合わせて三足。記憶に違いがなければこれで通常通りだ。
「…………」
これはつまりそういうことなのだろうか。夜見は靴も履かずに外出した、と。そんなに常識外れだったかなぁ、うちの妹は。いや、何馬鹿なこと考えてる僕。靴も履かずに外出する現代人が何処に居る。僕の靴を履いて行ったのかもしれない。外に出ている僕の靴の数は減っていないが、下駄箱の中は。覗いてみて気づいた。
……下駄箱にある靴の数なんて覚えてるはずが無い。
自分の靴の横に両親の靴が並んでいた。
やれやれ、全く。自分の思考の浅はかさに毒づく。
僕はリビングに帰るべく、玄関に背を向けた。
廊下を歩く間、僕は顎に手を当てて考える。
……自分のもの以外の靴を履いて外出する理由など果たしてあるのだろうか。まぁ、夜見も十六年間生きてるわけだしそんな理由も時と場合によれば、もしかしたらあるかもしれない。……いや、無い、か。反語法で自分の考えを否定し、僕はこの思考に決着をつけるべく一つの結論を出した。
「面倒くせぇ」
結局、僕の思考は全て其処に帰結する。そういうコトだ。
リビングのドアを開けると同時に僕は思考を打ち切った。
2
パパラパパラパ〜
軽佻浮薄に鳴り響く本来なら重々しいはずのゴッドファザー愛のテーマ≠フ着メロが僕を現実世界に引き戻した。あの後、起きたといっても、それから学校に行けるわけでもなし、かといって一日分の学業進行度に縋りつこうとあくせくするでもなしに、ボーッとしたままリビングのソファに座り込んでいた。いつのまにか足がジンジン痺れている。
あぁ〜やっぱり分からない。ナメクジとカタツムリ、どっちの移動速度が速いかなんて。しかもそれに地球一周させようとする僕の思考は多少おかしい。
自らの脳内メカニズムに溜め息をつきながら、着信ナンバーも良く見ずに僕は携帯にでる
「はい、もしもし茶色です」
ふぁぁと大きく欠伸をオマケに一つつけておく
「あーもしもしー昨日ぶりだね」
この声は和泉か
「どうしたんだよ」
「昨日中途半端で帰っちゃったから、ちょっとね」
あぁ、そのコトか。しかもその後に余計な一言まで付け足されて放置プレイされた僕はたまらない。朝の存在も忘れちまうってモンだ。ってそりゃ言い訳か。
ま、ともかく僕には昨日の其れについて尋ねる権利があるわけで、次の一言で其れについて言及する必要がある。異議あり!って具合にさ。
「昨日、か。じゃ、その昨日あったコトについて一つ聞いていいか?」
「何かな」
えーと、何だったか。
「カタツムリとなめくじ、世界一周スピードはどっちが速いか……」
「話してないよ」
何かを聞こうとして、自分が聞こうとした事柄をまだ取りまとめていないことに気づいた僕は、どうでもいい話で会話を引き伸ばし時間を稼ごうとする。
「だけど、カタツムリとナメクジ、だね。それ、世界一周させようとするなら比べようが無いよ」
「ん?」
予想外の即答に僕の思考は霧散した。ロジカル崩しの一声。
「だって、両方とも海、渡れないよね」
「……あ〜。あ〜、あ〜」
こんな下らない事にもきっちり答えがあることに感動した僕は意味不明の言葉を呻く。成る程な。確かにその通りだ。
「成る程、成る程。なるほどザワール……」
「ネタが古いよ。マイナス五十点だね」
「なんだよ、そのマイナスポイント」
「私からの愛情度だね」
「馬鹿も休み休み言え」
話の展開をあさっての方向にそらしつつ、僕は言いたいことをまと上げていく。物事は単純明快、解答は『イエス』か『ノー』の選択肢だけでいい。それこそが他人との会話においては重要だ。曖昧模糊な言葉は言葉としての意味を果たさない。特にこんな不可解な物事に対してアプローチを仕掛けるときは。僕はスクラップにして綴り上げた言葉を和泉に向かって投げつけた。
「さて、それじゃ本題だ。夜見は生きているのか?」
敢えて、死んでいるのか、とは問わなかった。死んでいるかどうかを聞かれるよりも、生きているかどうかを答える方が、多少はまだ答えやすいだろう。いや、其れは言い訳か。ダイレクトに『死』という言葉を受け止めるのを僕が恐れたせいが大幅な理由を占めている。僕は携帯を握る手に汗がふつふつ湧き始めているのを感じる。和泉は此れにどう答えるのだろうか。この問いには取り敢えず、イエスかノーで答えるしかあるまい。今日、追い詰めているのは僕の方だ。人を追い詰める、というのはこんな気分なのか。薄っぺらい紙一重の張子の虎。虚実を虚勢で押し殺しつつ、相手に一撃必殺の理論を叩きつける。快感と後ろめたさ、胸の動悸が背骨の上を掛けずり回って、全身を頭の先から足の指先まで嘗め回す。
人の生死なんてインシャーアッラー=Bそれでも僕は其れを追い駆ける。
「…………」
電波受信地、向こう彼方の和泉の居る場所にはただただ静寂。僕が放つ唯とゼロで形成された音が無味無臭に広がっていく。和泉は動かない。猿真似か?いわゆる、見ザル聞かザル言わザル。僕の言葉は届いているのだろうか。が、やがてその心配は杞憂に終わり長い長い沈黙のあとに和泉が口を開いた
「……『ノー』……だよ」
携帯を握り締める拳に力がこもる。
「……ノー、ね。でも、僕は夜見が死んでいるところも、死体の在り処ですらこの眼で捉えて無いんだぜ。さっきの問いに対する答えが『ノー』なら昨日の時点から夜見は死んでるってコトなのか?」
「昨日の時点って言うのは何の事かな?」
和泉の訝しがる声。あんな台詞をいけしゃぁしゃぁと抜かしておいて、忘れたと言われたからって誤魔化されるような僕ではない。微量、語気を強めて追い討ちかける。
「昨日、別れ際にオマエ言ったよな。夜見が死んでるって」
「夜見ちゃんは昨日から死んでるぅっっ……」
言葉尻の途中、突然携帯の向こう側でゴトゴト、と音がして、和泉との会話が途切れる。なんだよ、アイツ。人が真剣に話してるのに、なんて思っていると打って変わってような明るい声が返ってきた。
「もう死んでるよ。死んじゃってるよ。夜見ちゃん、死んじゃったんだよ。悲しいね。悲しくないかな? 悲しくないはずないよね。死んじゃったんだもんね。妹が死んじゃったら、兄として何を守って生きればいいんだろうね? 一緒に死ねばいいのかな。それとも、守れなかったコトを悔いながら人生を投げ出すのかな? ま、そうなっちゃえば死んでいるのと一緒だね。あー、どちらにしろ死ななきゃならないなんてね。欝だ死のう、ってカンジかな?」
クスクス笑い声が聞こえてくる。壊れたテープレコーダーの様に、和泉は果ても知らず、『死』の一文字を僕の目の前で揺らし続ける。振り子のように揺れるその言葉に僕の意識は泥迷する。文字通り、二の句が告げない。追い詰めるつもりが、逆に追い詰められかけている。何でだ、何処をどう間違った。
「どうしたのかな? ねぇ、君の妹が死んでいるっていう事柄には寸分の違いも無いよ。此れはリアルな現象だよ。ネジ式に曲げることなんてできやしないんだよ。分かるかな?」
「あぁ」
「じゃぁ、探しておいでよ。夜見ちゃんを、ね」
プツリ、ツーツー。
一方的に掛かってきた電話は一方的に切れて闇に費える。
脳みそを孫の手で引っ掻き回された気分だ。僕は明々と輝く蛍光灯の光さえ、不吉なものに思えて仕方なくなっていた。
探すのか?
僕は?
夜見を。
何も映っていないテレビ。物静かに静寂の波をたゆたせる冷蔵庫の機械音。座っているソファーのふわふわ感。その他諸々。全てが僕から現実を奪っていきそうだ。
当て所も無く彷徨う視線。
二階の自室、リビングドアの一枚隔てたその向こう。物陰のキッチン。最後に数メートル目の前の真っ暗なテレビ画面で視線は停止した。
居た
ネジ式ならスパイラル。螺旋状に括れたその姿はお世辞にも恐怖の対象などではなく、そのなんというか滑稽だった。テレビに中継されたその姿は出来の悪いブラックユーモアに充ち満ちた、悪意の塊で創造されたカートゥーンアニメのやられ役、トムとジェリーなら間違いなくトムのモチベーション。
その姿は何の衒いも無く醜態をさらしていた。
テレビに映っているからといって、何処かに繋がっているわけではない。映っているのは、普段通り、何の味気も変哲もない我が家のリビングだ。そのリビングが映っている画面だからこそ、僕は妹の早期発見に辿り着くことができた。
早期発見、早期発見ねぇ。
何処からどう見ても『死体』を早期発見する必要はあったのだろうか。
僕は座っているソファの下に目線を落とした。そういえば、妙に濁った空気は其処から立ち上っていた。後からのこじつけかもしれないが、今ならそう思える。とどのつまり、居場所が分かっただけなのに。どうしても身体が動こうとしない。
妹の『嘘』は切欠だったのだろうか。とんでもない事態を招いてるような気がする。いわば、序章。すべての始まり。国造。
得体の知れないおぞましい世界が始まりつつある。現在進行形で。おそらく、僕はもう此処にどっぷりと浸かっていて、逃げ場もなく、遣りようもなく、意味もなく、何もなく。須くは神のみぞ知る。そんな世界に自分専用の棺桶を持ち込んでしまった。いや、妹の嘘によって持ち込まされてしまった。否。その前から既に始まっていた?
携帯を片手に携えたまま、僕は動けない。胸元に嫌な汗が浮き出してくる。其処に、暖房の生温い温風が吹き付けると、居てもたっても居られなくなる。
逃げたい。逃げ出したい。
だけど、両足が地について離れない。
僕は、夜見の全てに全体重を委ねている。腰元に夜見ががっしりとしがみついてソファから立ち上がらせようとしない。『いかないで、お兄ちゃん』
あぁ、あぁ、ああああああああああああああああああああああああ
その瞬間、思考の糸はいともたやすくふっつり途切れた。
気がつけば、リビングのドアに体当たりしていた。が、ドアは開かない。
「なんでだよ! なんであかねぇんだよ! 畜生!」
ドアの断壁は僕の逃避を許さず、拒み続ける。僕はその呪わしい壁に前頭部を叩きつける、叩きつける、叩きつける、叩きつける、殴打殴打殴打殴打。ものの八回。四苦が二回で四苦八苦。あぁ。崩れ込むようにドアの前に跪く。その時、僕の右手は偶然ドアノブを掴んだ。重力に引っ張られて、その右手はやんどころなく垂れ下がる。ガチャリ。ドアは簡単に、平常通りに開いた。
「あは、あはは、あははははははは」
可笑しいのは僕だ。ドアが開かないんじゃなくて、僕が開けようとしていなかっただけだ。其程までに僕は取り乱していたのか。頭がグラグラする。意識が一枚隔てた半透膜委の向こうで灰色に揺れている。へたりこんだまま俯くと、床に雫が落ちた。顎を伝って、赤色に滲んだ透明な雫。
僕は泣いていた。額を割り、真っ赤な鮮血を垂らしながら辺り構わず嗚咽をあげ泣いていた。其れが、もう一人僕が居るみたいに、手に取るように分かる。
うずくまって、地面を拳で殴りつける。痛みは左程感じなかった。だが、拳からは血が流れ出して、十分に傷んでいることが分かる。見ていなくても分かる。僕には分かる。僕は理解る。
血を流しているのは何故?
―― 無茶をして額を割ってしまったから
本当に?
―― 本当だ
泣いているのは何故?
―― 夜見が死んで悲しいから
本当に?
―― ……本当だ
……いや、違う
―― そう、違うよ
喜怒哀楽、全ての表情を夜見が無くしてしまったから
―― そうだね
あぁ、そうだ。そんな夜見が可哀想になったんだ
―― だから悲しい?
悲しい
―― 夜見の表情は何処にいったんだろうね
……さぁな。物好きな寂しがり屋さんがお家に持って帰ったんだろうよ
―― 悔しくないの?
何が?
―― 『持って行かれた』コトがだよ
悔しくは、無い
―― 本当に?
本当に。ただ……
―― ただ?
持って行った奴を許しはしない。僕が取り返す
―― 重いよ
重いだろうな
ベッドの下を覗き込みながら禅問答。
妹には首が無かった。
3
死の果てには何もない。文字通り、何もない無い。いや、『何も』ではなく、ただ単に無い。だが、それすら言葉で言い表せてはいまい。なんというのだろうか観念的で抽象的な表現を用いるなら『醒めない深い夢の先』という表現が一番正しいのではないか、と思う。死ななくても、死ぬということはどういったものなのか分かる。人は必ず眠りにつかなければ生きてはいけない動物なのだから。眠るのは死ぬことと何処かで繋がっている。だから、『眠るように死んでいる』『死んでいるように眠っている』なんて言葉も存在する。要は眠りに就いたまま二度と目覚めなければ、其れは死んでいるのだ。根本的に、其れがどういった類のものであったとしても。醒めない眠りは死の香り、いうヤツだ。
悪戦苦闘の末、僕はベッドの下から妹を引きずりだすことに成功した。死ねば魂の分だけ体重は減少するらしいが、それでもただの肉と化した人一人分の身体は重たかった。一息ついて腰を落ち着けて見れば、妹の身体には至る所にどす黒い死斑が浮いていた。完璧に死んでいる。この上なく。
第一、夜見の身体は首から上が無くなっていた。
首と頭の接続部に当たる切り口は綺麗に年輪を描くのではなく、何かでもぎ取られたようにぐしゃぐしゃに崩れていた。其処から若干傷み始めている。先程の臭いの原因は其れだった。崩れて引きちぎれて垂れた繊維のその先が薄く赤から紫色になり始めていた。独特の死臭。昔田舎の祖母が老衰で息を引き取ったときに嗅いだ臭いと同じだった。
「さて、どうするか」
全く。厄介なことになった。
僕はこの現状からどう動けばいい。殺害方法、犯人を明確に当たって、常識人だらけの警察なんてものは鼻から当てにならない。連絡したところで、僕への事情徴収と妹の死体の回収、法医学に基づく解剖で全てが終わる。此れは、此の妹の死は、おそらく推測の域を越えないがそういったものとは違う。予想された死であった時点で、既に常軌を逸し始めている。
……何かを知っていた和泉が鍵を握っていると見て九十九間違いない。
だから、だからこそ僕の開始点は和泉に電話するところから始まる。
携帯のディスプレイに浮き上がる文字の羅列を軽く操作してやると、すぐに繋がった。お手軽なもんだね。現代社会は。トゥルルル、ガチャ、僕ドッピオってな具合に簡素に通じる電波信号。
「もしもし、和泉だね」
「前から言おうと思ってたが、その喋り方は変だ」
「分かってるよ。でもしなきゃいけない理由があるんだよ」
「ま、そんなことはどうでもいい」
僕は一つ深呼吸して気持ちを落ち着かせる。そして吐き出すように話し始める。
「おい、なんで夜見が死んでいたことを知っていた。此は既にオマエの『魔法』の範疇を超えてるだろ」
つづく
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2004/02/27(Fri)09:51:53 公開 /
境 裕次郎
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境 裕次郎さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
人に読まれなくても、なるたけ良い物を書き連ねる。意味が在るようで無いようで結局は無さそうな行為ながらも、物書きになるための準備期間には必要な行為。でも、やはり読んでもらえないと、時には挫けそうになります。だからこそ、いつも読んで下さる葉瀬様に、感謝。勿論、今まで読んで下さった方や、これから読んで下さる方にも感謝。某F賞に送った作品が思いの外、好評価を戴いたため天狗になりかけていた自分を戒めるのに、この掲示板は最適です。長々とした此の作品を、此処まで読んで下さるならば、真に十全です。実は此だけ書いて、ようやく半分だったりするのですが……。