- 『桜光 contact-3』 作者:秋原灯真 / 未分類 未分類
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全角31215.5文字
容量62431 bytes
原稿用紙約103.45枚
プロローグ
――夢を見た。
どこまでも続く桜並木、降り注ぐ桃色の花雨。
ただ静かに、ただ騒がしく。
並木道は桜色に染まって、月光を浴びて淡く輝いていた。
足を一歩踏み出す――サアッと、桜の絨毯が歩調を奏でる。
どこまでも続く桜並木、はるか向こう側は桜光に霞んでいた。
それにしても静かな場所だ。ここは一体――?
花びらは差し込む月光の間をその美しい桜色を映し出し、そして儚げな光を放ちながらに舞う。
そこは永遠を思わせる空間だった。
――静かな場所だな。・・・ここは一体?
夢の中ではあるものの、ここが夢の世界であることを実感していた。
不思議な感覚だった。それは夢だと分かっている不安と、安心から来るのだろうか?
夢の世界――そこは心地よい世界だと言われている。
実際これまでみてきた夢もそうであった。
だが、この夢だけは――この場所だけは何故か違っていた。
いや確かに、心地よさを感じないこともない。
しかしそれ以上に懐かしさがこみ上げてきて、胸の奥が熱くなっていた。
と同時に、その懐かしさが思い出せない、もどかしさや歯がゆさが溢れ出ていた。
たくさんの「想い」で胸が一杯で、思わず目頭が熱くなりそうだった。
――懐かしい・・・
――帰りたい・・・
しかし、「そこ」がどこなのか分からなかった。
「そこ」がどうして懐かしいのか分からなかった。
それでも、とりとめもなく「想い」が溢れていた。
ふと、優しい夜風が吹いた。
単調な桜吹雪がわずかに乱れて、微妙な秩序の崩壊が美しい旋律を奏でた。
温かい風は体をそっと抱いて、ほのかな夜風の香りは鼻を突いた。
幾枚もの花びらが風に乗り、どこへ行くとも知れずその身を風に委ねていた。
――ここは、一体どこなんだ?・・・・・・ん?
ふと、背後で「温かさ」を感じて振り返った。
そこには一人の少女が立っていた。
白いワンピースのロングスカートが、風になびいて柔らかく踊るっている。
その黒い髪――背中の中ごろまで伸ばした髪が静かに揺れていた。
白い帽子を深く被っていてその顔を見つめることはできないが、帽子越しに少女の揺るぎない視線を感じた。
白の落ち着いた雰囲気で上から下まで統一したその体は、淡く輝いていた。
今にも桜色に溶けそうで、しかしその白をしっかりと映し出している。
――君は・・・?
どこかで会ったことがあるのだろうか、とても懐かしい。
いつもそばにいた、いつも一緒だった――
しかし、また思い出せない。
いや、喉元までは出てきているのだが、その先が言葉にならなかった。
サアァァァァ・・・。
再び夜風が吹いた――今度は優しさを持った強い風だった。
桜の花びらは、今度こそ完全に秩序を乱して風に舞った。
少女の帽子が風に吹き飛ばされる――しかし少女はじっとこちらを見つめていた。
その深い優しい瞳で、ただひたすらに・・・。
――そうか、ここは「俺たちだけの場所」なんだな・・・。
少女の顔を見て、そんな考えが頭に浮かんだ。
ここは、俺と彼女だけの場所。
ここは、二人が会える奇跡の場所。
まさに「夢の世界」――
サアアァァァ・・・。
風が強さを増した。
彼女の姿が、花びらで霞んで――そのまま消えた。
――ただいま・・・。
少女が消える瞬間、彼女は確かにそう言った。
いや、正確には彼女の口がそう動いたのだった。
少女が消えてしまった並木道には、再び静寂な桜光が残されていた。
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contact-1
夢現な目に、春色の暖かい日差しが眩しかった。
いつの間に目覚めたのだろう?
「あの」夢をみたときは、いつもこうだ。
気がついたら目が覚めていて、いつもと変わらない現実の匂いがした。
時々みる「あの」夢、どこか懐かしくて無性に恋しい。
どこまでも続く桜並木、絶えることのない桜吹雪。
そしていつもの様に、そばに現れるあの少女――
今までみてきた夢の中では、決して見ることのなかった少女の顔。
大きくて深い瞳に宿った淡いピンク色の光――
それは、ただ桜の花びらを映し出したわけではなく、どこか神秘的な輝きだった。
――ただいま・・・。
少女が言った、あの台詞。
・・・ただいま?
自分の言語認識が正しければ――
このセリフはある場所からある場所へ帰ってきた時のものだ。
時の流れを超えた再会を懐かしむ言葉、それが「ただいま」であったはず。
ということは、少女と自分とは面識があるのか?
しかし記憶のどこをひっくり返しても、それらしい記憶はなかった。
加えて、今日初めて少女の顔を見たのだから、すぐには思い出せないだろうし。
そもそも夢と言うものは、自分の見たいように、望むようにできている。
きっと甘い展開でも期待してしまったのだろう。
「でも、どうして今日に限って・・・?」
今まで数知れず、この「あの」夢をみてきたが、少女の顔を見たのは今日が初めてだった。
そして別れ際の台詞――
ご都合主義の夢の話だと片付ければそれまでだが、それでは片付けられないような気がした。
いや、片付けてはいけない気がした。
ふとベッドから見える窓の外を見やる。
寝ぼけた目には眩しい日差し――その光を浴びて、街は春色に輝いていた。
いつもと変わらない、和やかな景色。
ありふれた日常に、思わずあくびが出る。
重力と眠気とが合わさって瞼にのしかかってきたが、
彼らを追い払うためにごしごしと目をこすり、体をベットの中から這いずり出した。
そのままクローゼットへ行き、制服をあさる――昨日で夢の春休みは終わり、今日から学校というお勤めが始まる。
新学年だ、とは言うもののなんとなく実感が湧かず、新鮮な気分にはなれなかった。
ただ一つ学年が上がっただけのこと――まだしばらくは学校に縛られるのかと、憂鬱な気分になるだけである。
「もう2年生か・・・。」
桜をシンボルにした、ありふれた学校章が胸のポケットに縫い付けられている、薄い紺色のブレザーを着ける。
そのありふれた学校章には、やはりありふれた字体で「桜陽」と書かれていた。
あと2年はこの制服に身を包むのか思うと、やはり外の麗らかな景色が恨めしく感じられる。
燕脂色のネクタイ――やはりこれも学校章の付いたものを締め、ほとんどその意味を成していない、
薄っぺらい鞄を脇に抱えて部屋を出た。
いつもと変わらない、ある晴れた春の朝――
しかし、頭のどこかでは――この時は全く意識していなかっただろうが、何かが変わり始めていることを感じていた。
階段を降りて、リビングへの扉を開けるといい匂いが立ち込めてきた。
半分寝たままの頭に、香ばしい目玉焼きとパンの焼ける匂いはたまらなかった。
ソファーの上に鞄を放り投げ、匂いに釣られてキッチンに向かった――今流行のDLKなので特に区別はないのだが。
「ふんふんふーん♪」
リズミカルな包丁の音に、鼻歌が混じって聞こえた。
キッチンでは、いそいそと朝食の準備に精を出す少女の後ろ姿があった。
リズムに合わせて肩の少し上まで青みを帯びた黒い髪が揺れる。
小恥ずかしい鼻歌がやまないのを見ると、どうやらこちらが起きてきたことに気づいていないらしい。
気づかれないように背後に回る。
「らったった、らったった〜♪」
調子が乗ってきたのだろうか、料理の音楽に味付けをしていた歌が、口から紡がれるようになった。
小刻みに体を揺すり、淡々と料理を仕上げていく。
忍び足で彼女の背後に回る。
あと5歩、4歩、3――
しゅっ
何かが頬をかすめて飛び去った――背後でちょっと離れた壁に鈍い音を立てて「それ」が突き刺さる音がした。
かすった頬から、じわりと血が滲み出た。
血の気が引いて思わず硬直してした。
ぎこちない動きで「それ」を振り返った――大体予想はできていたが、やはり壁に刺さった「それ」は包丁だった。
「・・・殺す気か、美樹?」
冷静を装って――内面はかなり冷や汗だらだらであったが、
包丁を投げた張本人――つい今しがたまでリズミカルに料理をしていた妹を軽く睨んだ。
「あら、真也お兄様。お目覚めはよくって?」
美樹、と呼ばれた少女がわざとらしく振り返り、どこかの貴族を真似てスカートの端をちょいと摘み上げた。
藤谷真也――包丁の鋭さを身をもって体感しかけた少年は、短いため息を漏らしてキッチンの4人掛けのテーブルに腰掛けた。
「ったく、新学期早々に葬式でもしかたいのか?罰当たりめ・・・。」
ぶつぶつと、テーブルの上――既に朝食の準備がほぼ整っていたが、その中から牛乳を手に取り、真也はコップに注いだ。
牛乳がコップに注がれる音が妙に滑稽に聞こえてきた。
「あ〜ら♪それを望んだのは、どこのどなたかしら?」
スープでも作っているのか――深底鍋に向かいながら、美樹は笑った。
コンソメ風の野菜スープの匂いがすきっ腹を刺激する。
「こっそり背後に回って脅かす、なんて古い手は今の世の中通用しませんよ♪」
どこまで可愛い子振るつもりか――美樹は食器棚からスプーンを2本取り出した。
どことなく、美樹はいつもよりも機嫌がいいみたいだ――さしずめ、どこかで大金の入った財布でも拾ったのだろう。
「そんなに嬉しいのは分かるが、ちゃんと警察に届けないとな?」
牛乳を一口含んだ。
牛乳の冷たさが、残っていた眠気――さっきの包丁の一件でほとんど残っていなかった眠気を吹き飛ばした。
「・・・は?」
スプーンを自分と、牛乳を飲んでいる兄の前に置いていた手を止め、思わず美樹が真也を見上げた。
「なんで警察に届けないといけないの?」
兄のいきなりの言葉に少し驚いた風に美樹は尋ねた。
「落し物はちゃんと警察に届けないと、バレたら大変なことになるぞ。」
残りの牛乳を一気に飲み干し、真也はおどけた顔をしている美樹に言い放って、さらに続けた。
「今なら『ほんの出来心でした、すみません!』で済むかもしれないんだぞ。悪いことは言わないから早く警察に行けって。」
真也は焼きたてのトーストにバターを塗りたくり、大口でそれを頬張った。
「・・・なんだか私が財布を拾って、そっくりそのままネコババしたみたいな口調だね?」
苦笑いを残し、美樹は振り返ってスープを注いだ。
「ふも?・・・ふがっへは?」
トーストを頬張ったまま、真也は聞き返した――ちゃんと「あれ?・・・違ったか?」と言葉になっていたかは別として。
「そんな訳ないじゃん。財布を拾ったら、私はちゃぁんと交番に届けますワ♪」
再び「つくった」ように、美樹はふふっと笑った――妹よ、何故さっきの言葉が理解できた?
スープを注いだ容器を二つ手に持って、美樹はテーブルへとやって来た。
「そうか?じゃあなんでそんなに機嫌がいいのだ?」
トーストを牛乳で流し込み、妹からスープを受け取けとる。
「なんでって・・・それは、ね♪」
堪えきれない笑いを零して、美樹はくるりと回って見せた。
青みを帯びた髪がふわりと舞い、薄い紺色のスカートが風になびく。
そして同じ色の――真也も同じものをつけているが、薄い紺色のブレザーもしなやかに踊った。
「――ふふ〜ん♪ね、どう、どう?」
美樹がずいっと身を乗り出す――どうやら、その新しい制服を着たことが嬉しいらしい。
妹の美樹もこの春、真也の通う桜陽学園に合格した。
他の高校に比べてると、さほど倍率が高いわけでもなく、美樹も楽々と合格通知書を手に入れた。
美樹の頭脳なら、もう少しレベルの高い高校にも手が届きそうだったが、敢えて真也が通う桜陽学園を選んだ。
本人曰く、
「特に他に行きたい学校はなかったし。それに、大学までエスカレーター式で行けちゃうなんて、これを逃さない手はないよ!」
桜陽学園、正式には和歌崎大学附属桜陽学園高等学校と言う――早い話、大学の附属高校である。
もちろん大学入学の試験はあるものの、ほとんど名前だけの大学入試は簡単な筆記試験と面接だけである。
無論他校からの入学生も募集するし、また桜陽学園から別の大学に進学したり就職する者もいるが、
和歌崎大学の学生の約6割は桜陽学園の生徒が占めている。
真也もこのエスカレーター式の進学に釣られて入学してきた。
一見、どこぞの怠慢なる学生たちの集まってきそうな高校であるが、特にこれといった事件や問題が起こるわけでもなく、周りの一般的な高校とさほど変わらないごく平凡な高校である。
真也は、気付かない振りをして目玉焼きに手を伸ばした。
「最近、すっかり暖かくなってきたからな――自己愛に目覚めた変質者が現れてもおかしくはない。」
頬張った目玉焼きをもぐもぐと噛み締めながら、真也はこくりこくりと首を縦に振った。
だんっ!
美樹がスプーンをテーブルに付き立てた――スプーンはその体をテーブルに埋め、伝説の聖剣を彷彿させる姿となった。
スプーンがテーブルに突き刺さる、そんな非現実な光景に真也は目を皿にせざるをえなかった。
「いえ・・・大変似合っております、美樹サマ。」
「うむ、よろしい♪」
そう言うと美樹はどこから取り出したのか、フォークを――狙いは真也の首元をしっかりと狙っていたが、テーブルに投げ捨てた。
真也の向かいに座って自分のコップに牛乳を注ぎながら、美樹は兄をまじまじと見つめた。
「へへっ、これからは可愛い妹君と毎日学校に行けるんだよ♪――この幸せモノ!」
焼きたてのトーストをかじり――彼女の性格から考えれば、この表現がふさわしいのだが、「へへっ」と笑い顔を真也に向ける。
「そんなに、兄ちゃんと学校に行きたいのか?このお兄ちゃんっ子め。」
美樹の馬鹿げた台詞をそれとなく受け流して、真也はスープに手をつける。
「あ〜ぁ、そんなこと言っちゃって。素直に嬉しがりなさいよね〜。ね、お母さん。」
そう言うと美樹はテーブルの上に乗せてある、写真立てに向かって笑いかけた。
写真立てには女性の写真――とても若々しくて、朗らかな笑みを湛えている二人の母親の姿があった。
「せめてお父さんには、制服姿見て欲しかったな〜・・・。」
ぶーっと言って美樹は机に突っ伏して、腐ってしまった。
「父さんには、また今度見せればいいじゃないか?」
スープを飲み干して、真也は美樹に空になった容器を渡して――おかわりを求めて、言った。
「今日じゃなきゃ有り難味がないでしょ?――まったく、そういうことに無頓着なんだから。」
渡された容器にスープを注ぎながら美樹は「誰に似たんだか」とつぶやいた。
藤谷赳(たけし)――母親亡き後、男手ひとつで二人の子供を育てた、バイタリティー溢れる父親である。
現在その父親は、彼の勤める会社の海外事業のチーフとして、三年前からアメリカはサンフランシスコへと赴いている。
確かに気軽に行き来できる距離ではないが、大切な我が子と仕事を比べたら、どうするべきか分からないこともないだろうに。
真也の母親――藤谷佳奈美(かなみ)は十年前の春に交通事故で亡くなった。
まだ幼かった二人には、母親の死は大きな衝撃を与えた。
病院の地下にある真っ暗な部屋に、母親は白い布をかぶされて寝かされていた。
その目を閉ざして、口を開こうとしない母親・・・。
優しく微笑みもしなければ、真也たちを見ようともしない。
まるで自分たちが否定されているようで怖かった。
まるで母親が自分たちを拒んでいるようで悲しかった。
幼い真也の胸にも、「死」という言葉が深い悲しみと恐怖を伴って刻み込まれた。
「美樹ぃー、まだか?」
開け放たれた玄関のドアにもたれかかって、真也は家の奥に向かって叫んだ。
「――もう少しー、もう少しだから〜。」
ややあって、奥から美樹の返事が聞こえてきた。
入学式までだいぶ時間はあるが、時間ぎりぎりで慌てて学校へ向かうのは勘弁して欲しい。
真也たち在校生も、入学式には参加することになっているから、美樹の遅刻は真也の遅刻に繋がる。
こんな和やかな春の日に、遅刻というタイムリミットを競って人間の極限に挑戦する気にはなれない。
身支度に時間がかかっているのだろうか――こんな時だけは、真也も美樹が女の子だと感じるのであった。
お淑やかという言葉とは無縁の、いわゆる体育会系で活発的で明るく、それなりに可愛い妹である。
母親を早くに亡くし、父親も昔から出張やら研修やらであまり家にいる機会が少なかった。
そういった所以で真也にとっては、美樹だけが本当に家族だと感じられる、唯一の家族であった。
そう、本当の家族――
短いため息を吐いて、真也は空を見上げた。
どこまでも澄んだ春の青空、その浅い部分を漂う雲。
春独特の、生気に満ちた日匂いが、真也の鼻を突いた。
地上にはその最盛期を迎えた桜が満開である。
遠くの山麓は桜で霞み、また街並みも所々に咲く桜で春一色であった。
――桜、か・・・。
真也は舞い散る花びらを掴んだ。
――そういえば、夢の「あの」場所も桜が満開だったな。それに、あの女の子・・・。
今朝見た、例の夢がどうしても頭を離れなかった。
改めて疑問に思うのだが、どうして今日に限って少女の顔を見たのだろうか?それにあの台詞・・・。
いくら考えても答えが出てくるはずはなかった――真也は記憶の中にはその答えがありそうに感じたが、
結局答えは出てこないのだった。
ふと、真也は面倒くさい思考は止めた――というのも、自分に向けられた視線を感じたからである。
その視線のもとを辿っていくと、藤谷家の門の外に真也と同じくらいの年の女の子がこちらを見ている。
その瞳を見て、真也ははっと息を呑んだ。
大きくて深い瞳に宿った淡いピンク色の光――
間違いなくあの少女だった――背中の中ぐらいまで伸ばした髪、
白いロングスカートのワンピース、白い帽子、どれを取っても間違いなかった。
夢のように、こちらをただひたすらに見つめている。
体が動かなかった、まるで金縛りにあっているように。
真也には、ただ見つめることしかできなかった。
しかし、見つめるだけで真也は心が満たされ、安らいでいくのを感じた。
ふと、少女が微笑んだ――その笑顔は、夢と同じように優しさと懐かしさに溢れていた。
思わず真也は少女に手を伸ばした。
サアァァァァァァ・・・。
真也が手を伸ばそうとしたとき、桜の花びらを乗せた強い春風が吹きつけた。
思わず真也は目を瞑った――しばらくして目を開けたときには、すでに少女の姿はなかった。
――幻影(まぼろし)か?それとも・・・?
真也は目をごしごしと擦ってみた――ちゃんと目は覚めている。
「――お待たせ〜。」
若干息を切らせながら美樹が玄関先に転げ出てきた。
「ごめん、待った?・・・お兄ちゃん、どうしたの?」
肩で息をしながら、美樹は虚無を見つめている真也を見上げた。
「・・・。」
真也はしばらく沈黙を保った――そして、真也は指で頬を抓った。
ぎゅううぅぅぅ・・・。
「いたたたたたっ。もう、お兄ちゃん!いきなり何するの!?」
真也の手は美樹の頬を抓っていた。
「・・・夢じゃ、ないよな?」
真也は少女がいた場所をぼんやりと眺めてつぶやいた。
その傍らで、訳の分からない仕打ちを受けた美樹が、恨めしそうに兄を睨みつけていた。
二人は学校へ向かうべく、藤谷家の門を出て歩き出した――と思ったら、10mと進まないうちに立ち止まった。
自分たちの家の隣にあるこの家――「萩原」と表札の掛かった家だが、兄妹はこの家に用があるのであろう、二人して門の前に立っていた。
「おーい、凪ぃ〜――。」
美樹がその家に向かって叫んだ。
しばらくして、真也たちがいる通りに面した窓から、
赤みがかった髪の毛で、もみ上げの部分を結った少女が顔を出した――と、顔を赤らめてすぐに顔を引っ込めてしまった。
萩原凪沙(なぎさ)――美樹に「凪」と呼ばれて、窓から顔を出した少女は美樹と同い年で、
彼女もまた桜陽学園に入学したのだった。
凪沙は極度の赤面性を持ち、人見知りをするタイプで周りに暗い印象を与えがちだが、
決して根暗な少女ではなかった――素直で優しい子であるが、
それは藤谷兄妹のように彼女との距離が密接である人間のみが知る事であった。
ややあって、ドアが開いて凪沙が姿を現した――と思ったらそこには彼女の姿はなく、
代わりにずっと大人びた女性――どことなく凪沙にも似ている人物が出てきた。
「――あれ、みぃ姉?どうしたかしたの?」
予想していなかった人物の登場に、少し驚いて真也は尋ねた。
「それがねぇ・・・。凪ちゃん、恥ずかしいんだって。」
ふぅっとため息をついて、みぃ姉――萩原美伊那(みいな)は、困ったように垂れる頭を左手で支えた。
凪沙の姉、美伊那は真也たちの通う桜陽学園の本校となる、
和歌崎大学の二回生になる十九歳――真也より三つ上、である。
後ろで一本に結った髪は、ややオレンジ色を帯びた赤色をしていて、肩より若干したのところで春風に躍っていた。
縁なしの丸眼鏡が似つかわしく、彼女から知的雰囲気を漂わせていた。
「?――凪は何が恥ずかしいの?」
美樹が首を傾げながら、ドアの中へと入っていった、あたかも我が家のような振る舞いで。
この兄妹と姉妹はいわゆる幼馴染で、ずっと家族のように一緒に暮らしてきた。
と言うのも、父親同士が古くからの親友で、同じ会社に勤めていた。
そしてどこまで仲がいいのか、現在共に連れ立ってサンフランシスコへと赴いているのである――
ただ、美伊那たちの父親は最愛の妻を連れて行ったが。
それまでもかなり親密に付き合っていたが、真也たちの母親が亡くなってから特に、何につけては時間を共有するようになった。
真也たちの父親、赳が男手一本で二人の子供を育て上げられたのも、萩原家の支えあってこそのものだった。
そしてサンフランシスコに親が総出で赴いたのは、この家族よりも強く結ばれた「絆」を信じてのことであった。
最初は何かと苦労を感じていた四人だが、次第に四人だけの生活に慣れていき、自分たちで何もかもこなせる様になっていた。
そして真也たちが美伊那の家を訪れて、夕食をともにすることもしばしばあった。
真也は――いや、真也以外の三人も同様に、本当の家族以上の「絆」の感じていた。
いつもそばにいて、自分を支えてくれる人たち・・・。
「ちょっと、凪ぃ。どうしたの?――ぇ?何、恥ずかしいって?――」
ドアの影で、美樹が凪沙と話しているらしいが、凪沙の声はぼそぼそとしか聞こえず、美樹が独り言を言っているかようだった。
しばらくの間のやり取りの後――ほとんど美樹が押し切った形となったが、
美樹がおどおどしている少女を連れてドアの影から姿を現した。
「へへへっ、お兄ちゃん♪――じゃーん!」
美樹はまるで珍しいものを見せびらかすように、
こそこそと自分の後ろに隠れていた少女――彼女が凪沙であるが、を真也の目の前に突き出した。
恥ずかしさから凪沙は抵抗していたが、彼女の抵抗は抵抗と言えないぐらいのレベルだったから、
いとも簡単に美樹に連れ出されてしまったのだった。
「――ちょっ、美樹ぃ・・・。」
今にも消えそうな声を発した凪沙は、頬を赤らめながら恐る恐る真也を見上げた。
「凪はね、お兄ちゃんに制服姿を見て欲しかったんだって♪」
意味有り気な笑みを浮かべた美樹が、悪酔いで凪沙の背中をぽんと押した。
「わわっ・・・。」
いきなりの攻撃に、凪沙はバランスを崩して倒れそうになったが、素早く真也が受け止めた。
「おっと――」
凪沙は彼の胸に顔を埋める形で、真也にもたれかかった――後ろから美樹の「あらぁ〜。」と言う冷やかしが聞こえてきた。
「わ、わ・・・しー兄ぃ・・・。」
耳まで真っ赤にして、真也の胸の中で少しだけもがいたが、ほんのちょっとだけ真也に身体を預けた。
凪沙は真也を、「しー兄ぃ」と呼んでいるのだが、同じように真也たち藤谷兄妹も美伊那のを「みぃ姉」、凪沙を「凪」と呼んでいた。
真也は妹のように甘える凪沙の髪をくしゃっと撫でて、凪沙をまっすぐ立たせて彼女を上から下まで眺めた。
「――うん。よく似合ってるよ、凪。」
そう言うと真也は再び――今度は少し長めに頭を撫でた。
凪沙は少しくすっぐったそうに「あぅ・・・。」とつぶやいて、俯いて頬をピンク色に染めた。
その和やかな光景を眺めていた美樹が、美伊那と視線を合わせてふふっと笑っている。
「さてと――そろそろ行かないと、みんな遅刻しちゃうわよ。」
美樹の背中を、ぽんと優しく叩きながら美伊那が言った。
「私も、ちゃんと入学式には間に合うように行くから。」
学生の身である美伊那も、可愛い妹のために講義を休んでその晴れ姿を拝むつもりであった。
「お姉ちゃん、わざわざ授業を休まなくっても・・・。」
申し訳なさそうに凪沙が姉を振り返った。
「ふふふ、いいのよ。お父さんたちの代わりに凪沙ちゃんの晴れ姿を見ておかないと。それに美樹ちゃんの晴れ姿も、ね♪」
そう言うと、屈託のない笑みを浮かべて美伊那は片目を瞑って見せた。
「凪はともかく、美樹の晴れ姿なんて見る必要な――」
必要ないな、と言う言葉を発する前に真也は身体を「く」の字に曲げてうずくまった――
彼は発しようとした言葉の代わりにうめき声を出さざるを得なかった。
美樹の音速ボディーブローが、真也の腹部にクリーンヒットしたのだった。
「あら、お兄サマ♪そんなところでうずくまっている場合ではありませんことよ♪
――さ、凪。どっかの口減らずなんてほっといてさっさと行こ。私たちまで遅刻しちゃう!」
そう言い残すと、美樹は凪沙の手を半ば強引に引っぱってさっさと門の方へ向かった――
凪沙はされるがままに、美樹に連れ去られてしまった。
門まで差し掛かった美樹は美伊那を振り返って元気に手を振った。
「みぃ姉ぇ〜、行ってきま〜すっ!それと、今日は生ごみの日だから、そこら辺でうめいているごみを出しておいてください〜!」
美伊那は微笑みながら美樹に手を振って答えた。
腹部をさすりながらうずくまってる真也に近づいて、美伊那は彼のすぐそばでしゃがんだ。
「美樹ちゃん、今日も元気ね。」
両手で頬を支えながらにっこり微笑みかける美伊那、彼女は状況に関わらずに時々こういう風にマイペースな発言をする。
「ふっ・・・、可愛い妹ですから。」
出てもいない血を拭いながら、真也は言った――恐らくこの言葉の半分は嫌味でできていたことだろう。
「あらあら、仲がいいこと。――そうだ。今晩のおかず、何がいいかしら?」
真也の手を引いて彼を起こしながら、美伊那は思い出したかのように尋ねた。
真也は身体の埃をはたきながら身体を起こし、美伊那にウィンクをして答えた。
「うーん、そうだな・・・。んじゃあチキン南蛮ってのはどう?」
「チキン南蛮?――あ、それいいわね♪」
美伊那も真也が言わんとすることが分かった――チキン南蛮、それは美樹と凪沙が好きな料理である。
真也は真也なりに妹たちの事を考えていた。
「ふふ、しーくんらしい。」
無邪気な笑顔で、美伊那は真也の頭を撫でた――いつの間に背丈を越されたのだろう、
美伊那は背伸びをしなければ真也を撫でることができなかった。
「うーん・・・。しーくん、おっきくなったね。」
少しすねたように美伊那は真也を見上げた。
「もう、撫で撫でも抱っこもできないな〜・・・。」
この姉貴分は自分に何がしたいのだろうか、と思いつつ真也は逆に美伊那をの頭を撫でた。
「じゃあ――今度は、俺がみぃ姉を抱っこする番?」
ふざけた笑いを残して、真也は美伊那に背を向けて歩き出した。
「私も、後で行くからねー。」
美伊那の声に、真也は振り返らずに手をひらひらと振って応えた。
遠ざかる背中を見ながら、美伊那は複雑な表情を浮かべていた。
大きくて逞しい背中――ずっと自分の手の中にあると思っていた背中が、少しずつ巣立ちつつある。
嬉しくもあり、悲しくもある複雑な気持ちに紛れて、「別な」気持ちが胸の奥に渦待ていることに美伊那は気付かず、
自分も出かける準備をするべく、家の中へと姿を消した。
そこには、春風に賑わった風だけが残されていた。
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contact-2
春色の陽が射して、木々や花たち――そして無機質の塊であるコンクリート造りの校舎でさえも、春の賑わいを感じさせた。
校門から敷地の中央に位置する本館までの、レンガ張りにされた通り道――通称「桜道」は、
その名の通り絶え間なく桜が植えつけられており、この時期になると道はレンガの赤褐色から桜色に染まる。
桜道は惜しげもなくちる花びらで、淡い桜色で霞んでいた。
桜光を全身に浴びて桜道を抜けると、開けた空間に出る――そこは、公園を思わせる場所だった。
中央にある噴水を中心として、円形に敷き詰められた赤褐色のレンガ、その周りには青々しく生い茂る芝生。
所々に備え付けたれたベンチには、初々しい恋人同士の代わりに、桜の花びらたちが座っていた。
この空間の向こうにそびえ立つ無機質の建物――校長室や、事務室などの学校の玄関口である、本館がそこにあった。
その周りを囲うように、生徒たちが通いつめる、いわゆる生徒館が半円状に広がっていた。
その他の施設――講堂や体育館、校庭、食堂を兼ねたカフェテリアなども、本館を中心に設置されていた。
ここが真也たちの通う、桜陽学園であった。
学園のすぐそばには、本校となる和歌崎大学もあった――学園が大学の附属高校であることを考えると逆なのだが。
つまらなかった――少なくとも真也はそう感じた、入学式も終わって、在校生たちは諸注意を受けた後ようやく開放された。
先に出て行った新入生――凪沙や美樹たちもその中にいたが、
それぞれの教室でこれからの学園生活についての指導を受けている頃だ。
去年のクラスメイトと何気ない会話を交わした後で、真也は美樹の教室へと向かった。
今日は入学式だけが行われた――明日始業式があり、それから本格的に授業も開始される。
今朝学園に着いたとき、何となく美樹たちの入学手続きについて行った――本館の前に机が出されて、
それを白い布で覆って簡単な受付所が設けてあった。
そこで簡単な記名を行い、クラス編成を書いたプリントや、
その他学園生活を送る上での注意点などをだらだらと書いたしおりなどを受け取った。
その時に美樹と凪沙が同じ1−5Rであることを知った真也は、のろのろと生徒館へと向かった。
真也は体育館から生徒館までの道のりを、のんびりと満喫していた――と、背後で自分の名前を呼ぶ声がした。
「――真く〜ん。」
聞き慣れた声に、真也は振り向きもせず無造作に手を振り返した。
ややあって、声の主が姿を現した――ダークグリーンの髪を風になびかせて、
春の陽を受けてその髪をわずかに輝やかす女子生徒が真也の方へと駆け寄ってきた。
真也の背中にもたれ掛かってはぁはぁと大きく肩で息をしている少女――水無月 千紗(ちさ)は、
いつでもこういった大胆なことを何気なくやってしまい、愛嬌を振りまいていた。
その愛嬌は分けへだれなく振る舞われ、またそれが彼女の素であるため、千紗は誰からも愛されているのであった。
「はぁ、はぁ・・・。――真くん、もう帰るの?だったら一緒に帰らない?」
しばらくその体重を真也に預けていた千紗は、呼吸を整えてから真也の正面に立って彼を見上げた。
確か、千紗と初めて同じクラスになったのは中学二年の時だっただろうか。
その後中学三年でも、そして桜陽学園に入学して初めてのクラス編成でも同じクラスだった――
そんなことを考えながら、真也は千紗を見つめた。
何をやっても「面倒くさい。」と言って諦める真也を陰で支えている千紗、
二人はまるで血の繋がった姉弟のようであった。
不面倒くさがりの弟と、お節介焼きの姉――実際に二人の身の上を知らない人間が彼らを見たなら、
大概は姉弟だと勘違いすることだろう。
千紗は人なつっこくて人当たりもいい、まさに学園のアイドル的存在だった
――その容姿や性格だけではなく、学績も常に上位を占めていた。
たった三年間のクラスメイトではあったが、二人はそれ以上に時間を共にしたような雰囲気であった――
それは恋人とかそう言う関係ではなく、本当に心を許し合える関係であった。
「いや、これから美樹のクラスに行くところだ。」
真也は気怠そうな笑みを千紗に向けた。
「――あぁ、美樹ちゃん!美樹ちゃんもここを受けてたんだ。」
千紗の表情がぱっと明るくなり、つい今し方全力疾走してきた疲れを吹き飛ばした。
三年間真也とクラスメイトとして付き合ってきている千紗は、
幾度となく美樹についての話聞いて――そこから千紗に対して親近感が湧いていた。
「真くんの妹さんってどんな子だろ?きっと可愛いんだろうな〜。」
千紗は斜め上45°を見上げて、うーむと軽く唸った――
彼女なりに真剣なのだろうが、端から見ると可愛らしかった。
「それはもう、俺に似て可愛いものだ。」
真也は大げさに首を縦に振って見せた。
「ははっ。それじゃあまり期待できないかな〜?」
千紗も悪戯っぽく微笑んでみせて、
「それじゃあ、一緒に帰れないな〜。――残念。」と可愛らしく口をへの字に曲げて頬をふくらました。
「――そうだ!ねぇ、私も真くんと一緒に行ってもいい?」
「それは構わないが・・・。」
突然の提案に少しは戸惑いを感じた真也だったが、
別に拒む理由もない――むしろ、歓迎するほどであった。
真也の脇に並んで、千紗は催促するように――早く美樹に会いたいのであろう、真也の腕を引っ張った。
「妹さんも入学して来たんだから、しっかりしなくっちゃね♪お兄ちゃん。」
真也の背中を千紗が元気よく、ぽんと叩いた。
わざとらしくバランスを崩した真也は、
仕返しにデコピンをお見舞いするべく千紗に手を伸ばした――もちろん、冗談の範囲内でだが。
真也のデコピンを阻止すべく千紗が手を払いのける――こうして両者の攻防戦が展開された。
「この、この――」
「やっ、とっ――」
真也は千紗の防御をかいくぐることができす、また千紗は防御だけで精一杯でなかなか攻撃に転じることができなかった――
仁義なき戦いが繰り広げられていた。
この様子を見た人間は、姉弟かもしくは恋人同士がじゃれているのだと思うことだろう――こういったじゃれあいは彼らにとっては、
日常茶飯事のことであったが。
しかし、その戦い、もといじゃれあいも長くは続かなかった。
「――はろぅ〜、我がフレーンズたちよ!」
突如、二人の間に意味不明の絶叫――渾身のジャパニーズイングリッシュ、
そしてばか丁寧に英語の複数形に対して日本語でも複数形をつけた、
めちゃくちゃな叫び声と共に一人の男が姿を現した。
思いがけない奇襲に真也たちは思わず、
「ぬおっ。」やら「きゃっ。」やらと短い悲鳴をあげて仰け反った。
「何を甘〜く熱〜くじゃれあっているのかね〜?――あぁーん!?」
修羅の相を浮かべて、その男はずずいっと真也に迫った。
「抜け駆けは、良くないぞ・・・。我が弟よ。」
鬼気迫る――真也にしてみれば、彼が冗談でやっているのだと信じたい表情で、真也を追いつめる。
「別に甘く熱くじゃれていたわけじゃ――それに、お前の弟になった覚えないぞ、鉄」
真也は今にも激突してきそうな勢いで迫ってくる男――真也の悪友であり、幼い頃からの親友である、
黒屋 鉄次(てつじ)を押し返しながら弁解した。
「何を言う、我が弟よ。俺とお前は兄弟となる星の下に産まれたのだぞ。」
にぎぎっ・・・と真也の反発に抵抗しながら、鉄次は訳の分からない運命論を告げた。
「そんな星の下に・・・産まれた覚えは・・・ない!」
迫り来る鉄次を、真也は渾身の力ではねのけた――
「ぜぇ・・・ぜぇ・・・で、何の用だ?」
真也の肩が激しく上下する。
「――ふむ、特に用はないが。
ただ、帰路の肴として、共にマサイの戦士の明日について語ろうかと思ってな。」
全力の押し合いにも関わらず、息一つ上げないで鉄次は腕組みをして言い放った。
「何が哀しくてお前と帰らにゃならんのだ。――いや、それ以前に話の話題が不可解だ。」
息を整えた真也は、何か正体不明の物体を見るかのように鉄次を見やった――
こいつの思考回路は生涯理解できないだろう、むしろ理解したくはないがなと思いながら。
「――それに、俺はこれから美樹の所に行かねばならないしな。」
乱れた服装を整えつつ、真也は気だるそうに悪友の誘いを断った。
さすが鉄次も――彼は何があろうと、強引に真也を様々なゴタゴタに巻き込む知能犯であるが、
真也のたった一人の妹の名を出されてしまうと、真也を見逃さないわけにはいかなかった。
「ふむ――それならば仕方ない。さっさと妹君のもとへと旅立つがいい。」
しっしっと真也を手で払いながら、ターゲットを失った鉄次は目を伏せて、
若干落ち込んでいるかのように見えた――
そう思った刹那、その顔が溢れんばかりの希望を湛えてばっと上がった。
その目は新しいターゲットを見つけた野獣のものであった――
真也は鉄次の新しい標的、もとい千紗を心底哀れに思った。
この男がただで転ぶわけがなかった。
いまいち自分の置かれた立場を理解していない千紗は、鉄次の激しい表情の起伏と、
自分に哀れむ目を向けている真也とを代わる代わる見て、戸惑いの表情を隠せずにはいられなかった。
「――え、えっと・・・。」
思わず、千紗は頬をぽりぽりとかいた――刹那、その手は飢えた野獣と化した鉄次に奪われてしまった。
鉄次は千紗の手を引いて無理矢理に歩き出した。
「はっは〜、我が妹よ!共に武士道の未来について語ろうではないか!・・・熱〜くな。」
高笑いを残して鉄次は千紗を連れ去ってしまった。
「えっ、えっ?ちょっ――私は、これから真くんと一緒に・・・・・・きゃう〜。」
突然、誘拐に千紗は何が起こったのか分からない様子であったが、すぐにその状況を理解した。
千紗はもがいて鉄次の魔の手から逃れようとした――もちろん、逃れることなどできるはずもなく・・・。
「我々の未来は明るいぞ〜!我が妹よっ!!」
「にゃ〜、離してってば。――ていうか、私は黒屋くんの妹じゃ・・・・・・ふみぃ〜。」
そんなにぎやかなやり取りが、徐々に遠のいていった。
核爆弾を以てしても、彼の進行を食い止めることはできないだろう――
真也は人知れず合掌をした。
暖かい春の風が桜を舞わせ、緑の香りを運ぶ――窓の外には有り触れた春の景色が広がっていた。
廊下には生徒館へと向かう真也以外の人間の姿はなかった。
静寂に満ち溢れた廊下は、どこまでも続いている――まるで永遠の回廊を思わせた。
静けさが耳に痛い――どこか別世界に迷い込んだようであった。
心なしか、廊下が暗く感じられた。
大儀そうに歩く真也は腕を組みながら、大きなあくびを一つついた。
「かったるい・・・。」
春の陽気がそうさせるのか、
単に入学式での学園長の祝辞があまりにつまらなかったせいなのか、真也は倦怠感に襲われていた。
窓から差し込む日差しが眩しい。
思わず立ち止まって目を細めた――ほんの一瞬だけだったが光に包まれた気がした。
温かくて、懐かしい光・・・。
手をかざして、太陽を見上げる――
強すぎず弱すぎず、生きとし生けるもの全てに安らぎを与える春の太陽。
春は嫌いではない、だが好きでもなかった。
春、それは出会いの季節――そして別れの季節。
始まりのあるものには全て終わりが存在する――それが自然の理であり、決して逆らうことのできない贖罪であった。
真也は十年前のこの季節、交通事故で親愛なる母親を失ったことで、これを強く実感していた。
別れがあるからこそ、次の出会いが存在する――
前向きな志を持って生きられるようにと、誰かが願いを託したこの言葉がある。
しかし、真也にとってそれはただの言い訳にしか聞こえなかった。
別れは別れであって、出会いと繋がるものではない。
出会いに繋がる別れ――そんな別れが果たして存在するのか?
母親を失った彼にとって、この言葉はただの綺麗事でしかなかった。
それでは自分の別れは、何に繋がったのだろうか?
母親を失った悲しみを癒すことのできる出会いに繋がったのだろうか?
愛する人――それは時として家族である人、はたまた恋人である人を失った悲しみを癒す出会いというものが本当にあるのだろうか?
――やめよう。答えが出てこないなぞなぞなんて、うんざりだ。
しばらく太陽を仰いでいた真也は、深いため息をついてまた歩き出した。
美樹たちのクラスである1−5Rは、生徒館二階の中央階段のすぐそばにあった――
その上には二年生、そして最上階の四階には三年生の教室があった。
ここまで来て、真也は少し戸惑いを感じていた。
何とも言えない小恥ずかしさが真也に躊躇いを感じさせていた。
しかし今、美樹に付いていてあげられるのは自分しかいない、という想いが真也の背中を後押しした。
1−5Rの教室の後ろのドアが開け放たれていて、真也はそっと中に入ることができた。
既に多くの保護者がいたためだろう、真也が入ってきても誰も彼に注意を向けることはなかった。
あるいは親たちが、我が子の姿を写真に収めようとカメラを構えたり、
子どもの名前を呼んで後ろを振り返らそうとしているのに夢中だったためだろう――
呼ばれた子どもがその声に気づいたところで、振り返ることはできないのだが。
とにかく入ってきたとたんに、じろっと睨み付けられる、という展開ではなかったことに胸を撫で下ろした。
真也はぐるっと教室を見回して、美樹たちの後ろ姿を探した。
と、窓際から三列目の先頭で、教卓の正面の席に見慣れた青みを帯びた黒髪を見つけた。
その横の、窓際から四列目の先頭には、やはり見慣れた赤みがかった髪を見ることができた。
――美樹と凪は隣か・・・。
なんとなく安堵感を感じながら、真也は視界の端で何かが動くのを見た。
ゆっくりとその方向に目を向けると、そこには手招きをする美伊那の姿があった。
彼女は、どうやら真也が入ってきたのに気づいていたらしい。
美伊那に気づいた真也は、ゆっくりと保護者たちの塊をかき分けながら彼女の方へと近づいていった。
「――しーくん、お疲れ様。」
真也がそばまで来ると、美伊那は彼の耳元でそっと囁いた。
「美樹ちゃんと凪ちゃん。なんだか隣の席みたいよ。」
「みたいだな。」
真也はさりげなく美伊那を眺めた。
美伊那は春色の淡い黄緑色のシャツにおうど色のガウンを羽織り、同じ色のロングスカートを身につけていた。
周りの華々しく着飾った親たちに比べて決して華やかとは言えないが、
その姿は輝きに満ち優しさを湛えている美伊那の方がずっと素敵だと真也は密かに感じていた。
「みぃ姉は式に間に合った?」
今度は真也の方から囁いてみた。
と、美伊那は右手でVサインをつくって答えた。
そしておもむろに肩から提げたサイドバックからデジタルカメラを取り出した。
「ちゃぁんと、美樹ちゃんの分も撮ってあるから。後で焼き増ししておくね。」
真也は美伊那に向かって「すまない。」と手を合わせて軽く頭を下げた。
そのまま二人して、正面を向いて美樹たちのホームルームに耳を傾けていた。
「もう一年か・・・。」
それとなく、美伊那がつぶやいた。
「しーくんも一年前はああやって大人しく座っていたっけ。」
美伊那は美樹の姿に真也の後ろ姿を重ねているのだろう、美伊那の瞳は懐かしさを湛えていた。
「そうだな・・・。もう一年、いやまだ一年と言うべきかな?」
真也も、右も左も分からず少しおどおどしていた自分を思い出した――
と、同時に後二年はこの学園に通うことになるという実感が彼を少し憂鬱にした。
彼の入学式も、やはり美伊那はわざわざ見に来てくれていたのだった。
「やっぱり歳を取ると嫌だな〜。時間の流れがどんどん速くなっちゃって・・・。」
美伊那は困ったように右手を頬に当てた。
「いや、みぃ姉が歳のこと気にしていたら――」
真也はそこまで言うと、周りを見渡してさらに声を潜めて笑った。
「俺たちの周りの方々は、とっくに悩み飽きているね。」
「あら、そんなこと言っちゃって。」
釣られて美伊那もクスクスと笑った――コロコロと音が聞こえそうな笑顔は彼女に幼さを映し出していた。
美伊那が時折見せるこういった表情が、真也は好きだった――
そしてこの表情を見る度にこう思うのであった。
――守ってあげたい。
「・・・・・・ちゃんと守ってくれる?」
そっと袖を引かれるの感じながら、真也は美伊那の弱々しく尋ねる声が聞こえたような気がした。
真也は思わずはっと美伊那の方を見やった――いつの間にその瞳を瞑ったのだろうか、
彼女は目を伏せって俯き加減に何かを考えているようだった。
その横顔は美しくも儚いもので、何となく陰っているようだった。
真也の視線に気がついたのか、美伊那はふっと目を開けて真也の方を向いて首を傾げた。
「・・・どうしたの?」
「いや・・・。みぃ姉、今何か言った?」
真也の質問に、美伊那は首を横に振って答えた。
「ならいいんだけど・・・。」
さっき聞こえたの、きっとは空耳だったのだろう、
と自分に言い聞かせながら「なんでもない。」と軽くかぶりを振った。
「変なの。」
くすっと笑った美伊那は、袖を引く手に少しだけ力を入れたようだった。
「こうしていると、なんだか安心しちゃうな・・・。――昔と全く逆だね。」
かすかに頬を染めながら、懐かしさを湛えて美伊那の目が輝いた。
「昔はよくしーくんが私の袖を引っ張って、『みぃーねぇ、みぃーねぇ』って着いて来てたっけ。」
「そうだっけ?よく覚えていないな。」
恥ずかしい昔の記憶を引き出されて、真也はふいっと首を背けた。
「ずっと、私の後ろにいる思っていた。でもいつの間にか私がしーくんの背中を見ていたんだね・・・。」
少し寂しげに美伊那が目を瞑る。
「しーくん、どんどん大きくなっちゃって、どんどん遠くに行っちゃう気がして・・・。」
「みぃ姉――。」
美伊那の袖を引く手が微かに震えているようだった。
「しーくん、覚えてる?昔の約束・・・。」
「えっ?昔の、約束・・・?」
「忘れちゃったかな?昔ね、しーくんが――」
「はい、それでは今日はこれで終わります。明日から楽しい学園生活を楽しみましょう。」
まるで狙ったかのようなタイミングで、教師がホームルームの終了を宣言したため、教室全体にざわめきが広がった。
その間にも美伊那の口は言葉を紡いでいた――しかし、その紡がれた言葉は真也の耳に届くことはなかった。
我が子のもとへと向かう親、世間話に花を咲かせている親。
帰宅準備をする者や、回りの新しいクラスメイトに自己紹介をする者。
先程までの静寂を打ち破って、心地よい騒がしさが教室を満たした。
しかし真也の耳には何も聞こえていなかった――周囲の蠢きすら、真也の目には映ることはなかった。
ただその目には美伊那だけしか映っていなかった。
――昔の、約束・・。
真也は頭の中で反芻していた。
記憶の奥底で何かが反応いていたが、真也はそれが何のなのか分かることはなかった。
唯一分かるのは、それが昔の懐かしい記憶であること――
ふっと目を開いた美伊那の顔には、いつもの笑顔が戻っていた。
「昔、俺何か言ったっけ?」
真也は今美伊那が言った――そしてその昔、真也自身も刻んだ言葉を尋ねた。
「ふふっ。・・・さぁて、何だったかしらね?」
美伊那は悪戯っぽく笑って見せた――その顔には、先程の陰りは窺えなかった。
「みぃ姉〜!・・・あ、ついでにおまけもいた。」
美樹はぶんぶんと手を振りながら、歩いてきた。
その後ろには、美樹の背中に隠れるようにして歩いてくる凪沙の姿もあった。
「・・・・・・そのおまけ様がわざわざ来てやったんだぞ?」
真也が腕を組み軽く美樹を睨み付けた。
「これは、失礼しました。おまけ様、わざわざのご足労お疲れ様です!」
真也たちの所まで来ると美樹はわざとらしく敬礼をして見せた。
「お姉ちゃんも、しーにぃも、わざわざありがとう・・・。」
凪沙は頬を染めながら、俯き加減に呟いた。
そんな凪沙を、姉の美伊那が優しく抱きしめた後で、真也は彼女の頭をそっと撫でた。
凪沙はくすぐったそうに「きゃう・・・。」と漏らしてさらに頬を赤くした。
「全く・・・。誰かさんにも見習って欲しいものだな。な、美樹?」
美樹は凪沙を羨ましげに眺めていたが、真也の言葉に「あら、誰のことかしらね?」と言って顔を背けてしまった。
「あらあら、仲がいいこと。」
クスクスと笑う美伊那、その横で俯いて頬を染める凪沙。
そしていつの間にか美伊那の腕にからみついて、「べぇ〜っ。」と舌を出す美樹――
真也は三人の姿を見ながら、何か温かいものを感じていた。
それは、家族の温かさ・・・。
桜道を通って校門から出た四人は、家までの帰路に歩みを進めていた。
「――でさぁ、お兄ちゃんったら驚いちゃって家中を走り回っていたんだよ〜。」
先頭に立って、後ろを振り返って美樹は笑った。
「それ以上に驚いてきゃーきゃー騒いでいたのはどこの誰だぁ?」
頭の後ろで腕を組んで笑い声をあげる真也、その右横で二人のやり取りをくすくす笑う凪沙、
真也を挟んだ反対側には「あらあら。」と微笑む美伊那の姿があった。
いつもの、ありふれた四人の姿――
「――でね、でね。お兄ちゃん転んじゃってそのまま頭からお風呂に・・・。」
「どぼ〜んっ。」と美樹は両手を大きく回して見せた。
「はわわぁ・・・。」と驚いて口に手をやる凪沙の横で、美伊那はおなか抱えて笑い声を立てた。
「あの時はマジでびびったな〜。もし風呂に水が張っていなかったらどうなっていたことやら・・・。」
まるで他人事のように、真也は顎に手をやってふむふむと頷く。
四人の帰路を、春の日差しが優しく照らし出す。
ありふれた、四人の幸せな一コマ。
真也はふと空を見上げた――
どこまでも透き通る春色の青空。
視界に迷い込んだ桜の花びらが穏やかなステップを踏んで虚空を舞う。
「――えぃっ。」
美伊那が突然、どんっと真也の左手に絡みついてきた。
「!?ちょっ、みぃ姉・・・。」
突然の出来事に、真也は戸惑いと恥ずかしさから頬をかすかに染めた。
「このくらい、いいじゃない♪あ、もしかして・・・嬉しいの?ね、ね?」
美伊那の大胆で無邪気な行動に、真也は戸惑いを隠せず思わず顔を背けた。
「あらあら、照れちゃって〜♪」
美伊那は真也をからかうように見上げて、真也に体を預けた。
羨ましげに見つめていた美樹が、
何を思いついたのか真也の背後に回り込んで「とうっ♪」と真也の背中にダイビングした。
「――どわっ、何が『とうっ♪』だよ、美樹っ!」
美樹は真也の腰回りに手を巻き付けて、何が嬉しいのか「へへへ〜」とくすぐったそうに笑っていた。
一人取り残された凪沙は戸惑っていたが、「凪もはやくはやく〜♪」と囃し立てる美樹に押されて、
ちらっと真也の表情を伺ってから「えぃっ。」と右腕に絡まってきた。
「凪まで・・・か。」
三人にまとわりつかれて、真也は戸惑いの色を隠せなかった。
「しーくん、両手に花だね。」
「腰にも、ね♪」
「しーにぃ、重くない?」
真也に体を預けて、三人はしばらく真也にもたれ掛かった。
「しーにぃの体、あったかい・・・。」
凪沙が、恥ずかしそうにぽそっと呟いた。
「そうだね〜。それにしーくん、逞しくなった。」
美伊那が頬ずりしながら微笑んだ。
「中身は相変わらず、スッカラカンだけどね〜♪」
美樹がクスッと笑って、真也の腰に回した手に少し力を込めた。
――美樹も、みぃ姉も、凪も。みんなこんなに温かいんだな・・・。
真也も三人のぬくもりをしっかりと感じていた。
ずっと一緒にいた、ずっとぞばにあったぬくもり。
ずっと一緒で、そしてこれからもずっと一緒に――
いつもそばにいて、いつも自分えお見守っていてくれる。
些細な出来事で笑い合え、ちょっとしたことで言い争って、喧嘩して、
ほんのちっぽけなもので涙を流して、喜びも悲しみも分かち合える絆――
――いつまでもこうしていたい、ずっと一緒にいたい・・・。
真也は今感じている、このぬくもりを大切にしたいと思った。
このぬくもりに支えられて、自分は今ここにこうして立っていられるのだから・・・・・・。
見上げた空は、雲一つなくどこまでも続いていた。
春色の陽は全てを優しく包み込み、心地よい微睡みを運ぶ。
気怠い午後の一時が、ただ取り留めもなく過ぎていく。
何もかもが、春色の光を浴びて淡く輝いていた。
「――さてと、それじゃあ昼飯はみぃ姉のおごりでなんか食べよう!」
真也の突然の言葉に、三人共初めはきょととしていたが、
「さんせ〜い♪私もう、おなかぺこぺこ。」と美樹がおなかをさすりながら笑った。
凪沙も「私も・・・。」と、はにかみながら姉の美伊那の方を見た。
「しょうがないわね〜。よし、この美伊那お姉さんにまかせなさいっ!」
と美伊那が胸をとんっっと叩いて見せた。
「やっほ〜。――それじゃあお兄ちゃん、ファミレスにGOっ!」
美樹が真也の背中をこづいた。
「了解!・・・って、このままぁ!?」
思わず真也は美樹を振り返った。
「もちろん!」と美樹は微笑んだ。
左手に絡まる美伊那は他人事のように――実際他人事なのだが、のほほんとして「頑張れ〜。」と真也を励まし、
右手に絡まる凪沙はどうしていいのか分からずにおろおろしていたが、とりあえず「ぇ、えっと・・・
しーにぃ、がんばれぇ。」と呟いた。
「お前らなぁ〜・・・。」
ややあって真也は短いため息を漏らした。
「もてるうちが華、か。・・・よ〜し、いくぞぉ!」
真也はずるずると三人を引きずりながら歩き出した。
春風に乗った桜の花びらが陽に照らされて淡く輝いていた。
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contact-3
淡い桜色を帯びた光。
どこまでも続く路、いつまでも続く桜吹雪――
ただ静寂がだけ、耳にうるさかった。
――桜色の夢、か・・・。
思わずため息が出る。
静かな月の光に照らされて、花びらがその淡い輝きを放つ。
月の銀色を浴びた、淡い桜の色――
――夢か?現か・・・?
体には気怠さだけがのしかかっていた。
どうも、はっきりしなくなってきた――例の少女を現実で見てしまい、この夢がいったい何なのか、さらに分からなくなってしまった。
いや、これが果たして夢なのかすらも分からない。
ただ確実なのは・・・夢にしろ何にしろ、今自分が『ここ』に存在すること。
例のごとく、懐かしさが胸に溢れ出てきている――しかしどこか自分では意識できないどこかで、違和感を感じていた。
何故、懐かしい?何故、少女はいつも目の前に現れる?
どうして俺がこの『夢』を見る?どうして――
答えの出ない問い、それを補うように湧いてくる疑問・・・。
――相変わらず静かだな。ここは・・・。
深くため息をつく。
いくら考えたって出てこない答えなんて、それを知ったところで何の役には立たない。
そう言い聞かせて疑問を記憶の奥へと追いやった。
闇が桜吹雪に照らされて、淡く霞んでいる――
と、背後で懐かしい『温もり』を感じて思わず振り返った。
――また逢えたんだ、俺たち・・・。
いつもと変わらない――しかしもう、大きな白い帽子を深く被ってはいない、例の少女が立っていた。
少女が誰なのか、一体何の為に現れるのか・・・難しいことは分からない。
しかし、彼女に出逢うたびに心が満たされる。
言葉では表現できない――それは和み、安らぎ、温かさ・・・どれにも似ていたがしかしどれでもなかった。
今は彼女のことだけを感じて、考えていればいい。
直感がそう告げていた。
よくよく考えてみれば不思議なことだ。
世の中に無数とある、夢の中で巡り会う奇跡。
一度や二度だけではなく、いつもいつでも・・・。
何か因縁でもあるのだろうか?
しかし不思議と、その奇跡に疑いを持つことはない。
――なぜなら、俺たちはそういう人間(もの)だから・・・。
そう、まるでぐるぐる同じ所を回っているかのように――地球が変わりなく回っているように、巡り巡ってまたこうして出逢う。
これが『俺たち』という人間(もの)なのだ・・・本能的に似た感覚でそう思った。
運命とは違った、強い『絆』――
二人はまさにその『絆』によって結ばれ、この夢の中で出逢っているのだった。
少女が優しく微笑む。
その瞳には、不思議な光が宿っている――桜の花びらの輝きに似た、淡い煌めき・・・。
何故かこの光に魅せられている。
一度――正確には二度見ただけのその光は、心の奥底に揺るぎない軌跡を残していた。
むしろ三度目の今、その輝きは永遠に忘れることはできないものとなるだろう・・・。
と、少女がおもむろにこちらに手を伸ばす。
今までは、ただ帽子越しに見つめ合うだけだった。
しかし、昨日少女の顔を見て、そして現実でも彼女の姿を見て・・・。
何かが変わり始めている――そして今は、彼女はこちらに手を差し出してきた。
思ったほど少女との距離はなく、彼女が手を伸ばすと届くような距離だった。
しかしそれは、近いようで果てしなく遠い距離・・・。
少女の手が頬に触れる。
その手のひらからは温かさと優しさ、そして懐かしさが伝わってきた。
思わず、涙が込み上げてくるのをぐっと抑える。
近くて遠かった温もりが、今こうして直接伝わってくる。
それまではこうして触れることはなかった――そう言った意味で今までは少女の温もり、いや彼女自身も幻影であった。
しかし幻では感じることのできない優しさや温もり、確かに感じることができる。
少女が微笑む――思わず頬が赤く染まるのを感じる。
とても愛おしく、そしてどこか儚い微笑み・・・。
と、少女の口が微かに動いて言葉を奏でた――そう、それは流れるようなメロディーだった。
――私と共に夢を紡ぐひと・・・。
静かな、そしてしっかりとした言葉は途切れることなく耳に届く。
桜の花びらが優しい春風に乗って、行く当てもなく虚空を彷徨った。
寂しげなメロディーは、さらに続く。
――貴方のみるべき夢へ・・・。
すっと少女の手が離れた。
余韻を帯びた温もりが、体全体に広がっていく。
少女の手が離れたと思った刹那、視界全体が桜色に霞んだ。
徐々に全てが歪み、そして急速に色を失いつつあった。
鮮やかな色彩の世界からモノクロの世界へ、そして黒一色の世界が目の前に広がった。
どこまでも続く深淵、その深さに思わず身震いをする。
何もない世界――ただ暗闇がそこにあるだけだった。
その深淵はある言葉を彷彿させるものだった、それは――
――・・・っく、ひっく、ひっく・・・・・・。
誰かがすすり泣く声が聞こえる。
どこかで聞いた・・・そう、遠い昔に聞き覚えのある泣き声だった。
気づいたら、ちょっと離れたところで一人の女の子がうずくまってるのが見えた。
暗闇のせいか、その女の子はまるでモノクロのシネマの登場人物みたいに、時折歪んだり今にも消えそうになったりしている。
泣き声に合わせて、背中が震えている――きっと、さっきから泣き声をあげているのはこの子なのだろう・・・。
そっと女の子の近くへと近づく。
一歩、また一歩・・・近づくたびに、その女の子の姿が明確になってきた。
彼女の髪は赤みを帯びていて、もみ上げの部分は長く伸のばされてピンク色の可愛いリボンで括られていた。
こちらの気配に気づいたのだろうか、彼女はふとこちらを見上げた――その瞳には、怯えの色が浮かんでいた。
――・・・ダレ?マタ、ワタシノコト、イジメルノ・・・?
そのあどけなさとは裏腹に、その声はまるで機械から放たれたような無機質なものだった。
違う、この子の声はこんなものじゃない――
これはこの夢のせいだと言い聞かせながら、そっと少女の横にしゃがみ込んで、彼女と視線の高さを合わせた。
少しだけ少女の顔から恐怖が薄らいだようだったが、それでもその瞳からはぼろぼろと涙がこぼれていた。
――・・・おねぇちゃ・・・ん。ひっく・・・。・・・しーにぃ・・・・・・。
悲しみに枯れた声で、女の子は助けを求めている。
しかし、どうして泣いているか分からないから、どうすることもできなかった。
唯一できること――それは、その頭を優しく撫でることだけだった。
一瞬、女の子の体がびくっとしたが撫でる手を拒むようなことはしなかった。
と、撫でられることで安堵を感じたのか、やがて泣き声が止んでしまった。
女の子が「ぐずっ。」と最後の涙を拭って、顔を上げた。
その顔には恐怖のかけらすらなくなっていて、代わりに明るい笑みが顔一杯に広がっていた。
こそばゆいような、あどけない笑顔――どこか、遠くで見た懐かしい笑顔・・・。
心地よさが体を包む――どうやら、夢が終わりを告げているらしい。
重石を吊るされたように、急激に瞼が重くなる。
体中の力が抜け、まどろみに体を預ける。
薄れゆく夢の記憶の中で、かすかに聞こえる声――
――・・・しーにぃ・・・・・・。
何か自分に話しかけているようだったが、はっきりと聞き取ることはできなかった。
夢から目覚める前の気だるい闇が身を包んでいた。
「――ふぁ〜あぁ・・・。」
「もう、お兄ちゃん。みっともない・・・。」
春色に輝く学校への登校道、リンゴが一個丸々入りそうな大口であくびをする兄に、思わず美樹が眉をひそめた。
「朝っぱらから・・・。」と美樹はぶつぶつ続けたが、真也にはまるで聞こえていないようであった。
無理もない、二夜連続で『あの』夢をみたのだから・・・。
今までに無かったことではないが、連続でみるのは久しぶりだった。
しかも、最後には別な女の子まで出てきて――
真也はふと立ち止まって後ろを振り返ったみた――あまり離れていないところに、凪沙が一生懸命トコトコついてくる姿があった。
真也が立ち止まったのに気づいたのか、凪沙がはっと顔を上げた。
と、頬を赤く染めたかと思うと、すぐに俯いてしまった。
早く二人に追いつこうと、凪沙はスピードを上げた――少なくとも本人はそう思っていたが、実際あまりその速度に変化はなかった。
いつの間にか美樹も立ち止まって凪沙を見つめていた。
凪沙は美樹とは対照的に、おっとりしたタイプだ――その行動ペースは、時として二倍速で再生してみたくなる。
後ろを振り返っている美樹の瞳には、
凪沙の歩みのあまりの遅さに対する苛立ちとか、じれったさとか、そんなものは全く窺えなかった。
凪沙との付き合いが長いから、彼女の行動のスピードに慣れているというのも少しは影響しているだろう。
しかしその理由は別のところにあった。
――呼吸のペースとか歩く速さとか。人にはそれぞれ自分の『ペース』ってものがあってね・・・。
母親の台詞の一フレーズが蘇る――
幼い頃からそれを幾度となく言い聞かされて、そして今なお心に生きる彼女が言い聞かせるのであった。
人にはそれぞれ『ペース』というものがあり、歩く速さだとか行動の素早さだとかいうのは十人十色だ。
人とつきあう時に大切なのは、相手のペースと自分のペースを上手く絡み合わせること――
お互いのペースを理解して、無理に合わせることもなく。
そういった理由で、この兄妹は凪沙だけに限らず、周りの人間のペースをどうのこうの言うこともなく、
むしろそれが当たり前のことだと気づかぬうちに意識するようになっていた。
程なくして真也たちは学園に着いて、桜道を通って本館前の広場へと出た――と、真也はその光景に違和感を感じた。
「うわっ・・・。何?あの人集りは?」
美樹もその異様な光景に気づいたらしく、思わず口を覆った。
その横では「ほぇ〜っ。」といった様子で、凪沙がポカンと口を開けていた。
本館正面玄関付近で、在校生らしき生徒たちが蠢いている。
新入生たちが、何事かと不安げに人集りを見つめながらその脇を通り過ぎ、生徒館の玄関口へと向かった。
このご時世、しかもあの多勢でおしくら饅頭なんて・・・という冗談はさておき、真也は何故こんなにも人集りができているのか考えた。
三人はゆっくりとそちらの方へと歩み寄った。
「お兄ちゃん・・・。何なの、これは?」
「知らん。・・・むしろ俺が聞きたいくらいだ。」
何か忘れているような気がしないでもないが、真也は真相を確かめるべく人集りに近づく。
真也の後ろには、興味本位で付いてくる美樹が、そしてその後ろには成り行きで付いていくことになった凪沙が続いた。
人の塊が近づくにつれて、そのざわめきが聞こえてきた。
時に悲鳴が聞こえ、またこちらでは歓喜の叫びが聞こえたり・・・あちらこちらでどよめきや意味不明な叫び声があがっていた。
どうやら彼らは、何か玄関前に張り出されたものを見て一喜一憂しているようだ。
「・・・何が、張り出されているのかな?」
控えめな声で呟いた凪沙は、真也の横で必死になって、背伸びして何が張り出されているのかを確認しようと頑張ってる。
美樹も原因を見るべく、人集りの後ろで――
さすがに割り込んで前方へ向かう勇気はないらしいが、人の合間を伺って前の方を覗いている。
「――!」
真也は興味無さ気に蠢きを眺めていたが、突然カッと目を見開いた。
その眼光の鋭さは通常の真也にはあり得ないものであり、似つかわしくないものであった。
「・・・?ぁ、あのぉ〜、お兄ちゃん?」
「――しーにぃ、どうしたの・・・?」
美樹も凪沙も、ただならぬ真也の殺気を感じて彼の様子を伺った。
「俺はどうして忘れていたんだ?――」
二人の存在を忘れたかのように、真也は中途半端な独り言を残して人混みの中へと入っていった。
この混み合いからするとかなりの抵抗を受けそうだが、真也はあり得ないスピードで前へと向かっていった。
がんがん人混みをかき分けて真也は進行していき、あっという間に美樹たちには確認できない位置にまで達していた。
あっという間の出来事に、二人は呆気にとられた様子で、ざわめきの後ろで立ち尽くていた。
真也は楽々と人混みの中を進んでいるようであったが、実際には結構な体力を代償にしていた。
なんとか先頭まで達することかできた真也は肩で息をしていた。
「――ったく、ちゃんと覚えていれば・・・。」
今更ながら、自分のずぼらさを恨めしく思っていた。
進級して最初のイベント、クラス編成のことを真也はすっかり忘れていたのだった。
普通クラス編成のことなど忘れることはないものだが、進級をたかが一つ学年が上がっただけのことだ、
と考えていた真也において考えてみればあながちそうとも言えなかった。
どんなやつと同じクラスでどんな担任なのか、などといったことには興味がなかったのだが、
自分がどこのクラスなのかだけは知らねばならないことだった。
とりあえず目の前にあるクラス名簿に目を走らせる――偶然にもそこは1Rの掲示がされていた。
真也は二年に進級する際の文理選択では、一応文系を希望していた。
彼はどっちでもよかったのだが、とりあえずその時に楽な方だと思った文系を選んだのだった。
十クラスある二年生は1〜5Rば文系で、6〜10Rが理系、と分かれていた。
すなわち1Rから順に見ていっても、遅くとも5Rの掲示までには自分の名前を見いだすことができる。
真也はゆっくりと1Rの名簿を眺める――とりあえず、1Rではないようだ。
続いて2R、3R・・・4Rと順に眺めていって、自分が5Rであることを確信した。
5Rといえば生徒館中央階段のすぐ横にある教室であるから、
それでよしとしよう――などと思いながら、真也は名簿に目を通す。
「――藤谷真也・・・、藤谷真也・・・・・・ふじたに、しん・・・。」
思わず声に出して自分の名前を探す真也、しかしその声はやがてゆっくりになって、やがて止まってしまった。
「・・・あれ?おっかしいな・・・。他のクラスには名前がなかったからここだと思ったのに?」
それぞれ二回ほど各クラスの名簿に目を通したが、どこにも自分の名前はなかったのだった。
「見逃したのか?」と、真也はさらにゆっくりと5Rの名簿に目を通す――
しかし、何度見ても自分の名前はなかった。
「・・・・・・俺って、もしかして留年生?」
よからぬ思考が真也の頭の中をぐるぐる巡っていた。
彼は確かに成績の良い生徒ではなかったが、欠点を取って留年に引っかかるような成績でもなかった。
――それなのに、一体何故?
その時、ポカンとしていた真也の肩をぽんぽんと叩く者がいた。
きっと場所を空けるように、という催促だろう、
もう一度1Rから見直してみようか――などと考えながら、真也は後ろを振り返った。
「――あ、すみません。今場所を空けますんで・・・。」
「別に場所を空ける必要はないけど?」
「?――あっ。」
振り返った真也は、肩を叩いた人物が場所を譲って欲しくて呼びかけたのではないことに気づいた。
「千紗、お前って理系希望じゃなかったっけ?」
肩を叩いたのは千紗だった――真也は彼女が人混みに揉まれてここまで流れ着いたのだろうと、思っていた。
「そうだけど・・・。というか真くんがどうしてここにいるの?」
真也の疑問に、千紗は逆に彼に質問を返した。
「どうしてって・・・。俺は文系希望だからこうして1Rから5Rまで目を通したんだけど、
どこにも名前がないからもう一度見直してみようと思って。」
当たり前の質問に、真也は少し苛つきながら答えた――
もしも本当に留年だったらしゃれにならねえ、と思いながら。
「真くん。・・・多分何度探しても、名前見つからないかも――」
千紗は言いにくそうに俯き加減に、真也に向かっていった。
――それは、一体どういうことだ?
真也の背中に冷や汗が走る。
「ま、まさか・・・。本当に・・・りゅう・・・ね――」
「だって・・・。ここ、三年生のクラス掲示だもん。」
真也の言葉が全て発せられる前に、千紗があっけない真相を告げた。
「はぁ?・・・三年生のクラス掲示?そんなわけ――」
千紗の言葉が信じられる、真也はもう一度掲示板を振り返った――
と、真也はその掲示板に書かれた文字に、最後まで言葉が出せなかった。
そこにはしっかりと「3−5R」と書かれているのだった。
「・・・通りで名前がなかったわけだ。」
ふーっとため息をついて、真也は額の冷や汗を拭った。
「私は知り合いの先輩がどのクラスか、確認しに来ただけ。」
おっちょこちょいの真也をからかうように千紗は笑った。
「二年生はあっちだよ。」と、千紗は右手方向を指さした。
「分かった。さんきゅーなっ。」
千紗にびしっと敬礼を残して、真也は千紗が指した方向へと向かった。
「――あ、でも真くんの名前は・・・。」
既に二年生の掲示板へと向かって進軍を始めた真也には、千紗の最後の言葉は届いていなかった。
――たく、初日からハードな一日だぜ。
思わず出てきそうになるため息を堪えて、真也は目的地へと向かった。
分け入っても分け入っても人集り。
確かこんな歌を詠んだ俳人がいたな、と思いながら真也は人混みの中を進む。
――その気持ち分かるぜ。
勝手に古の俳人を共感したつもりになった真也はさらに奥へと進む――
実際には、その俳人は真也とは正反対の境地で、しかも全く逆の意味の歌を詠んだのだが。
と、人を掻き分けようと前に伸ばした右手を、誰かに取られてしまった。
「ちょ、離して欲しいんですが・・・。」
俺には行くべきところがある、と思いながら真也は思わず呟いた。
さっさとこの人混みから抜け出したい、それは真也とて感じているのであった。
しかし残念ながら、真也のささやかな望みは手を掴んだ主によって、砕かれたのだった。
「ふふふっ――グッモーニン!我が同志よ。」
この声、そしてこの人集りの中でもそのテンションを保てるのは・・・、そこまで考えて真也はため息を漏らした。
「――だはぁ・・・。あのなあ、鉄。お前は構わんかもしれんが、
俺はさっさと自分のクラスを確認して、この人集りから解放されたいんだ。」
真也は「離せっ。」と鉄次の手を振り切ろうとしたが、
がっちり捕まれた手は鉄次の束縛はら逃れることはできなかった。
「愚問!そういうお前の為に、この俺がいるのであろう?我が同志、藤谷真也よ。」
くくっと笑いながら、掛けてもいない眼鏡のずれを戻しながら、鉄次は真也の肩に手を乗せた。
「お前のクラスなど既にお見通しだ。――と、言っても偶然見つけたのだがな。」
お見通し、というのは少し違うような気がしないでもないが、真也は敢えてつっこむ事を堪えて悪友に尋ねた。
「で、俺は何Rだ?」
「――ふむ。教えてやらんこともないが。
・・・喜べ。俺とお前、そして我が妹君の千紗も同じクラスだった。」
目を瞑って不敵な笑いを浮かべながら、鉄次は腕を組んだ。
「そうか。またお前と、あと千紗も同じクラスか・・・。」
真也と鉄次は、小学校に入学してからずっと同じクラスであった。
そして千紗もそれなりに、彼らとは長い付き合いとなる。
「どうやら、お前とは何か因縁があるようだ。」
「それは、こっちの台詞、だ・・・。」
いつもの鉄次との馬鹿なやり取りをしようとしていた真也は、ふと違和感を感じた。
――千紗と、同じクラス?
最初に聞かされた時に気づけばいいものを、真也は今更になってはっと気づいた。
「・・・鉄。念の為に聞くが。俺たちは何Rだ?」
悪友をぎこちない動きで振り返る真也は、思わず鉄次に再度尋ねた。
「・・・2−6Rだ。喜べ、我々は昼食時戦線のあどばんてーじを手に入れたのだ!」
真也を見つめながら、鉄次は歯をむき出しにして笑って見せた。
昼食時の買店の戦闘風景は、まさに高校生の青春の象徴でもある。
四時限の終わりのチャイムは戦闘開始の合図であり、カフェテリアには餓えた獣たちが群がるのであった。
と、真也にとって、そんなことはどうでもよかった――その前に聞いてはならない台詞を聞いてしまったからである。
「・・・もう一度聞くが。オ・レ、は何Rだったか?」
鉄次が冗談を言っているのだろうと思って、真也は再度尋ねた。
「だから、6Rだと言っておるだろうが。顔も頭もおかしければ、ついに耳までおかしくなったのか、同志よ?」
鉄次は、いつになく真剣な目を向けていた。
これは嘘をついている目ではない――
そう思った刹那、先程とは逆に真也が鉄次の腕を取って、人混みの奥へと向かった。
「ぬぉ!?同志よ、我輩はもうこんな人混みに飽き飽きしているのだ・・・。って、その手を離せ〜!」
鉄次の叫び声を無視して、真也は二年生の掲示板に近づいていく。
「我輩を怒らせると大変なことになるぞ、同志よ。天から遣われし黒屋鉄次を怒らせると〜・・・っと。」
訳の分からない叫び声をあげていた鉄次だが、はたと叫ぶのをやめてしまった。
というのも、真也が突然手を離したからだ。
「ふむ・・・、ようやく我輩の怖さが分かったか?」
腕組みをして大きく頷いている鉄次の横で、真也はぽかんと立ち尽くしていた。
目の前にあるのは、理系である2−6Rのクラス名簿である。
その中には、確かに「水無月千紗」と「黒屋鉄次」の名前が書かれていた――
そして、あるはずのない「藤谷真也」の名前も。
真也の様子に気づいたのか、鉄次が真也の目の前で手をひらひらとさせたが、真也は固まったままだった。
「ふむ。我が輩と同じクラスになれた歓喜のあまり、フリーズしてしまったか。」
顎に手をやる鉄次の右頬に、急激な痛みが走った。
「アウチっ!・・・同志真也よ、何故こんなことをする!?」
思わず叫んで頬をさすりながら、鉄次はのけぞった――
フリースしたと思われた真也の左手が鉄次の頬に食らいついたのだった。
「――ゆめ、じゃないよな?」
片言の日本語を紡いだ真也は、相変わらず固まったままだ。
「当たり前だ。こんなに本気でつまみおって・・・。」
と、真也に掴みかかろうとした鉄次のポケットから一枚の紙が風に舞って真也の目の前に飛んできた。
「なんだ?」
真也はぱっと手を伸ばしてその紙切れを取り出した。
それは一年最後の時期に進級にあたって、文理の選択の際に記入した用紙であった。
「文理選択希望用紙、1−2R・・・藤谷、真也・・・・・・希望する学科は・・・・・・っ!」
去年自分が書いたものである。
思わず声に出して読み上げるうちに、真也の顔は驚きに満ちあふれてきた。
その横で、鉄次がこそこそと逃げようとしていた――が、あえなく真也の震える左手に襟を取られてしまった。
「て・つ・じ、く〜ん。これは一体どういう事かな〜?」
「・・・は、はは。さあ、なんだろうな?」
冷や汗を垂らしながらぎこちない動きで振り返った鉄次は、
真也の顔に阿修羅の相が浮かび上がっているのを見てしまった。
「これは、死を望んでの行動だよね〜?」
右手をばきばき鳴らしながら、真也はターゲットに向かって狂気に満ちた笑いを放った。
「――まままま待て、同志よ!話せば分かる、話せばぁっ!」
彼の必死の抵抗にも関わらず、真也の怒りの制裁は鉄次の右頬にめり込んだ。
真也が持っていた紙切れが宙を舞う――
その「希望する学科」の欄には文系と書かれた文字が赤線で消されており、
その上に赤で堂々とした鉄次の字で大きく「理系」と書かれてあった。
《To be continued》
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■作者からのメッセージ
桜光(おうこう)、これは僕の造語です。桜の花びらが光に照らされて淡く輝きますよね?あれをイメージしていただければ幸いです。
=近状報告=
ちまちま更新しております。
この調子でいくと、一体どのくらいの量になるんでしょうか?(汗 とりあえず、現在の容量は62KBです(メモ帳にて)・・・とにかく、読んでもらってもあきないものを書き続けますので、よろしくお願いしますねw