- 『〜雨〜 前後編』 作者:rathi / 未分類 未分類
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全角70643.5文字
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原稿用紙約247.4枚
――雨が降っていた。
→
雨は嫌いだ。
お袋が死んだ日を思い出してしまう。
葬式の日も降っていた。
俺が墓参りに行くときも、必ず降っていた。
どうやら雨の神様はとことん俺を嫌うらしい。
玄関で靴を履き、傘を持って家を出る。
「行ってきます」
この家には俺以外にはいないけれど、ただ何となくだ。
学校に行く途中、傘を差していても靴は濡れる。
それがさらに不快感を与えてくれる。
普段は自転車で通学しているのだが、雨が降るとバスを利用することにしている。
理由は簡単、濡れるのが嫌いだからだ。
正直、バスも嫌いだ。
雨に濡れた人々がギュウギュウ詰めになって、窓が曇るほどジメジメしている。
なにより金がかかる、それが一番嫌いだ。
バス停に着くと、人はほとんど居ない。
時刻は7時15分程。
朝一番のバス到着まで5分程ある。
じーさんばーさんの後ろに並んでバスを待つ。
このバスに乗ると、学校に着くのが7時40分。
朝のHRが始まるまで1時間も余る。
よっぽどの物好きでない限り、このバスを利用する奴は居ない。
だから俺はこのバスに乗る。
人混みは大嫌いだからだ。
窓際の席に陣取り、ただ呆然と外を眺める。
時折見える小学生達。
無邪気に水たまりに飛び込んでいた。
俺も昔は無邪気に雨の中を遊んでいたのだろうか……?
今となっては雨など苦い記憶でしかなかった。
誰かが俺を揺すっていた。
「起きて下さい。学校に着きましたよ」
その言葉に反応し、慌てて起きる。
外を見ると、学校のバスプールに着いていた。
いつの間にか寝ていたらしい。
「……さんきゅ」
見知らぬ女に礼を言う。
この時間に乗ってくる物好きの一人か。
バスから降り、誰も居ない昇降口へと入っていく。
→
雨は好きだ。
あの人と会えるからだ。
午前6時、目覚ましの音ではなく雨の音で目覚める。
小雨ではなく、少々強めの雨だ。
私は思わずガッツポーズを取る。
やった、あの人と会える。
私は雨の神様に愛されているんだ。
朝一番のバスに間に合わせるため、急いで準備を始める。
いつもは20分と掛けずに準備が終わるのだが、今日は違う。
あの人と会うんだから、御粧しして行かなくちゃ。
傘を差し、鼻歌を歌いながら上機嫌にバス停に向かう。
雨は良い。
空気が綺麗になったようで、おいしく感じる。
胸一杯に空気を吸い込み、そして吐き出した。
雨が降ろうが晴れていようが、本当は私は徒歩だ。
家から学校までは歩いて15分程の距離だ。
バスに乗ると、ムシロ遠回りになってしまう。
お金も掛かるし。
けれどあの人と会えるならば、それも苦にはならなかった。
バス停に着くと、列の一番後ろで待つあの人を見つけた。
心拍数が一気に跳ね上がる。
顔が真っ赤になっていくのが自分でも分かる。
今すぐにでも話しかけたい衝動に駆られた。
でもそれは時期尚早。
チャンスだ、いつか来るチャンスを待つんだ美奈よ。
冷静を装ってあの人の後ろに並ぶ。
あの人とは反対側の窓側の席に座る。
あの人の隣の席は空いているが、私にそんな度胸はない。
ただ遠くから見守っている。
それだけでも私は幸せだ。
バスが学校に着く。
朝一番のバスに乗るという物好きな人々と一緒に降りる。
あの人の後ろ姿を見ながら昇降口へ向かおうと思っているのに、あの人の姿が見当たらなかった。
バスの中に戻ってみると、あの人は窓に寄り添うように寝ていた。
無防備で寝るあの人の寝顔は、とてもかわいかった。
なんだかこのままキスでも出来そうな雰囲気だった。
心臓が壊れるくらい、心拍数が上がった。
どうしよう?どうしよう美奈?やってしまうのか美奈?
キスをしてから、あの人を起こし、『目覚めのキスです』とか言ってみようか?
いやいや、私はそんな大胆な事は出来ない。
でもチャンスだ。
あの人に話しかける絶好のチャンスだぞ美奈。
あの人の体に初めて触れる。
見た目よりも筋肉は固く、男の子って感じだった。
「起きてください。学校に着きましたよ」
ほんの少し、声が上擦ってしまった。
失敗だ、すごく失敗した。
あの人は慌てた様子で辺りを見渡す。
ここが学校だという事を認識したのか、鞄を持ってそのままバスを降りていこうとする。
でも、去り際に小さな声で「さんきゅ」と聞こえた。
初めてあの人から声をかけられた。
嬉しい。
すごく嬉しい。
あまりの嬉しさに泣きそうになってしまう。
足早にあの人は昇降口へと向かっていってしまった。
私は上機嫌であの人が居る昇降口へと向かっていった。
→
憂鬱な気分なまま教室へと着く。
無論、教室には誰もいない。
自分の席に座って仮眠をとることにした。
ガタガタと物音がするので起きた。
時間を見れば8時20分。
人が増え始める時間だ。
「よ、喜一(きいち)。お目覚めか」
目覚めて早々に銀助(ぎんずけ)から話しかけられる。
相変わらず自分お手製のノートパソコンをいじくっていた。
「相変わらず無駄に早いな。教室で寝るのが気持ちいいのか? 俺には分からんな」
こちらが返答しようがしまいが銀助はお構いなしに話し続ける。
「知ってるか? 2組の芹沢が恋人出来たってよ。お相手は3年生のサッカー部のキャプテン」
ノートパソコンを操作しながら、最近の恋い話情報を俺に伝えてくれる。
ハッキリいって興味がないので、脳に留まることはなく左から右へ抜けていく。
何の変わりもなく、いつも通りだった。
昼休みになり、購買からパンを買って教室で食べる。
「次に怪しいのはこいつら、3組の中川と1組の田中。最近ファミレスで一緒になっているところをよく見かけるらしい」
器用に片手で操作しながら、片手で一緒に買ったパンを食べていた。
誘った覚えはないのだが、いつしか銀助と昼飯を食うのが当たり前になっていた。
思い出してみても、やはり銀助が勝手にこっちに来て、勝手に喋っている記憶しかない。
外を見ると、相変わらず雨が降っていた。
天気予報では今日は一日晴れで、降水確率は0%だったはずだ。
「……銀助、今日は何日だ」
何故今日は雨が降っているのか、その理由に心当たりがあった。
「ん〜、5日だね。ちなみに大安」
そうか、やはり思っていた通りだった。
荷物をまとめて帰ろうとすると、銀助が「帰るのか。今日は何の日だ?」と聞いていた。
「お袋の誕生日だ」
それだけ言って、教室を出た。
→
教室には、当たり前だが誰も居なかった。
こんな早い時間に来る物好きなどほとんどいないだろう。
しょうがないので自分の席に座り、こんな時の為に持ってきた小説を読むことにした。
「今日ね、大進歩したんだよ! なんとね、朝あの人に話しかけたんだ! バスが学校に着いても起きなかったからさ、私が起こしてあげたのよ!」
お昼、弁当を突きながらも興奮気味に千夏(ちなつ)に朝の事を話す。
「はいはい、あんたにしちゃ大進歩だね」
千夏は相変わらずクールに受け流す。
お昼は2人で話しながら弁当を食べる。
といっても、ほとんど私が一方的に話し、時折千夏が返答する程度でしかない。
「あの人の寝顔かわいかったよー。普段と違って幼い感じ!」
今思い出してもキュンと来る。
「いい加減名前で呼んだら? 随分と前に教えたでしょうが」
「それはダメ。本人から名前を聞かなきゃ絶対にイヤ」
ここは私のこだわりだ。
他人から教えてもらったあの人の名前は、どこか偽りがあって嫌いだ。
あの人の口から、直接名前を名乗ってもらわない限り私はあの人の名前は呼ばない。
「あっそ、相変わらず変なこだわり」
お昼休みが終わり、次の授業になっても雨はざあざあと降っていた。
今日の降水確率は0%だと天気予報では言っていたのに……。
……そうか、雨の神様が味方してくれたのだ。
本当は降らせる予定ではなかったけれど、こんな出来事があるから神様は降らせたのだ。
ありがとう!雨の神様!おかげで今日はハッピーな気分です!
授業中だというのに教室のドアがガラガラと開いた。
「おい美奈。美奈は居るか?」
何故か担当の先生が私を呼ぶ。
「はい、居ますけど……」
「叔父さんから電話だ。職員室に来なさい」
叔父さんから?一体何故だろうか?
私は疑問に思いながらも職員室へと向かった。
→
お袋がよく行っていたケーキ屋に寄り、お袋が好きだったティラミスとマロンケーキを1つずつ買う。
お袋と俺の誕生日にはよくこの2つを食べていたものだ。
ケーキ屋を出ると、手をつないで歩いている母と子が居た。
大きな傘と、小さな傘を差し、端から見ても幸せそうだった。
その光景は、昔の俺とダブった。
――ねぇ、おかあさん。
――たんじょうび、おめでとう。
――ふたりで、いつものけーきやさんにいこうよ。
――♪あーめあーめふーれふーれかあーさんが――……。
やっぱりあの時も、雨は降っていた。
けれど、あの時は雨は好きで、毎日でも降って欲しいと思っていた。
お袋と一緒に傘を差し、手をつないで歩くのが好きだったからだ。
「ふ……」
何故か含み笑いになる。
やはり雨の日はいろいろと物を考え、どこか憂鬱になってしまう。
「いらっしゃいませ!」
花屋に入ってすぐ、威勢の良いおばさんが来客に挨拶をする。
「菊の花を2つと、牡丹を3つ下さい」
お袋に花を供える時は大体この組み合わせだ。
菊はお墓に添える定番として、牡丹はお袋が好きだったからだ。
「はい、どうぞ」
受け取ると、花の束は粗末な新聞紙ではなく、和紙のような良い紙を使ってくるんであった。
随分と気の利いたおばさんだ。
「ありがとうございます」
深々と礼をしてお礼を言う。
『義には義で返す』、お袋からいつも言われていた。
→
「ごめんね、授業中だったのに……。お駄賃は出すからね」
伯母さんが申し訳なさそうに私に言う。
「別に構いませんよ。いつもお世話になってるし」
父が死んでから伯母さんにはよくお世話になっていた。
『余計に作ってしまった』とか言って、いろいろご飯とか差し入れしてもらっていた。
「本当に困った亭主だわ、私に何の相談もなしに美奈ちゃんに頼むなんて」
伯母さんは深いため息をはいた。
まあ遠慮しないのは伯父さんらしくて私は好きだが。
ふと、職員室での電話のやりとりを思い出す。
――ガチャリ。
「もしもし伯父さん? 美奈ですけど……」
「よう美奈、久しぶりやな」
「あ、お久しぶりです……ってそうじゃなくて用事ってなんですか?」
「そうそう、今さっきな、ちょっと事故起こして病院に居るんだわ」
「……えっ!? ちょっちょっと、それ大事じゃないですか!!」
「怪我はないんだが医者が精密検査してけってうるさくてな。それでお前に頼むことがある」
「な、なんでしょうか?」
「ワシがそっちに行くまで店の手伝いをして欲しい」
……という訳で、伯母さんの手伝いをすることになった。
お店の後ろにあるハウスの花たちに水をあげる。
花は好きだ。
何処が好きかという理由は特にないが、とにかく好きだ。
ただ、ハウス内部は花の匂いがブレンドにブレンドされ、デパートの香水売り場のような匂いだ。
花が少し嫌いになりそう。
順々に水をやっていると、私が一番気に入っている花に辿り着く。
それは、水仙。
花自体が気に入っているのではなく、花言葉が気に入っているのだ。
水仙にも様々な花言葉があるのだが、その中でも一番良いと思ったのが『私の愛にこたえて』。
まさに今の私を指しているようだ。
そんな花言葉を持つこの花に親近感を感じ、特に可愛がってやっていた。
花にも水をやり終わり、店に戻ってくると伯母さんが困った顔をしていた。
「どうしたんですか?」
「あぁ美奈ちゃん、これ……」
伯母さんの手に握られていたのは皮の財布だった。
随分と使い込まれているのか、あちこちがボロボロになっている。
「どうしたんです? これ?」
「さっきのお客さんの忘れ物。途中で気づいて戻って来てくれればいいんだけど……」
「届けに行きましょうか? 住所とか書いている物が入ってると思うし……」
「そうね……。あ、でもあの男の人、多分墓地にいるわね」
「どうしてですか?」
「菊を買っていったからお墓参り以外ないでしょ」
もっともらしい言い分だ、私もなんとなくそんな気がした。
「私が届けに行ってきます」
「そう? 悪いわね、さすがに私が店から離れるのはマズイからお願いね」
「はい」
ボロボロな財布を手に握り、お気に入りの傘を広げて墓地へと向かう。
→
買ってきた花を生け、ケーキを箱から取り出し添える。
少し屈んでから両手を合わせ、目を閉じる。
「誕生日おめでとう、お袋……」
お袋の墓の前で誕生日を祝うのはこれで2度目だ。
そう考えると、お袋が死んでからそれなりに時間が経過しているんだなと実感する。
お袋が死んだのは今から約3年前。
丁度今日から1週間後、お袋の誕生日から1週間後の事だった。
今でも鮮明にあの時の事は覚えている。
あの時もやっぱり、今のように雨が降っていた。
――……23時31分、死亡確認……
医者は自分の腕時計を確認してから言い、俯いたまま何も言わなくなった。
単調な電子音だけが、その部屋の中に響いていた。
『お袋が死んだ』という事実は、その時は受け止められなかった。
ただ、単調な電子音だけが響いているのにしか過ぎないとしか、思えなかった。
医者は言葉なく部屋を出て行った。
俺はただ呆然と、手を握っていた。
お袋が死ぬ間際から今まで、ただ手を握っていた。
部屋の中には俺とお袋だけ。
既に単調な電子音は医者によって止められ、聞こえてくるのは雨の音。
ざあざあと降っている、雨の音だけだった――。
「……ケーキ、すぐに駄目になっちまうから早く食べなよ……」
石に刻まれたお袋の名を見ながら、お袋に語る。
どうせ食べることが出来ないのは馬鹿でも分かる。
近くに住む鴉にでも食べられてしまう事ぐらい知っている。
それでも、お袋に食べてもらいたかった。
「あの……」
少し遠くから、女の声が聞こえた。
振り向くと見覚えのない女が、オレンジという目立つ色の傘を被って少し離れた場所にいた。
声はどこかで聞いたことがある気がしたが、多分気のせいだろう。
少し早歩きでこちらに近づいてきた。
肩にかかるぐらいの髪で、染めたのか少し茶色い髪の毛をしていた。
今流行の髪型だが、俺は好きになれなかった。
「あの……これ、忘れていきましたよ」
そういって女が差し出したのは見覚えのある財布、俺の財布だった。
ズボンの後ろポケットを確認すると、確かに財布がなかった。
多分入れ損なって落ちたのであろう。
落としたのはケーキ屋か、花屋かは分からないが。
「そうか、ありがとう」
差し出された財布と受けると共に、少し腰を折って礼をした。
「い、いえ、別に大したことじゃありませんし……」
何故か女は慌てふためいていた。
少々挙動不審だ。
「……お墓参りですか?」
世間話でもしようというのだろうか?
突然話題を振ってきた。
「えぇ、お袋の墓参りです」
正直、見知らぬ人と世間話をするのは好きではない。
だが財布を届けてもらったのに、無下にするというのは可哀想だ。
「お母さん……ですか?」
「……はい、3年ほど前に亡くなりました」
女は少し驚いた顔になる。
「そう……なんですか……。お悔やみ申し上げます」
止めてくれ、そんな安い言葉。
葬式の時に散々聞いた。
見ず知らずの親戚達に言われる度に、『形』でしかないその言葉は俺を不快にさせただけだった。
ほんの少しだけ妙な間が空いた後、女は何かに気がついたのか「あっ!」と小さな声をあげた。
「自己紹介……まだでしたね。斉藤 美奈といいます、近くの高校に通っているんですけど……」
ちっ、これ以上関わりたくないと思ったのに自己紹介をされてしまった。
「……高田 喜一、俺も近くの高校に通っているんだ」
この辺の高校といえばその高校以外はないから、多分この女も同じ高校なのだろう。
「そう……なんですか」
何故か女は少しがっかりした様子を見せた。
「あの……この後どうなされるんですか?」
意図が分からない質問をしてきた。
「どう……とは?」
「い、いえ、別に深い意味はないんですけど、ただ気になったので……」
何の目的があってそんな質問をしたのかは分からないが、これ以上は付き合ってられない。
せっかくのお袋の誕生日だというのに、邪魔されたみたいで気分が悪い。
「一人で自炊しているので、家に帰って夕飯を作るだけです」
女の顔が少しだけ明るくなった。
「あ、あの……!」
女は何かを言いかけようとしたが、その言葉を飲んだ。
「いえ、何でもありません……」
「そうですか、わざわざ届けて頂いてありがとうございます。では」
これ以上話しかけられては困るので、足早にこの場を離れた。
墓地を抜けた後、ふと思い出した。
あの女の声をどこかで聞いたことがあると思ったら、今朝バスの中で俺を起こした女だった。
まぁ、どうでもいいことだが。
→
ボロボロになった財布を片手に、墓地へと向かう道をパシャパシャと音を立てて歩いていく。
度々通っているので迷う事はなかった。
墓地の入り口に着くと、少し遠くに男の人の人影が見えた。
他に人影はなく、多分あの人が財布を忘れた人だろう。
ざあざあと降る雨のせいで顔が見えず、屈んで祈っているということしか分からなかった。
もう少し近づこうと思い、大きく一歩踏み出した。
「あの……」
私の声に反応し、男の人が振り向いた。
(……え?)
私の心臓が、大きく大きく跳ねた。
間違いない……間違うわけがない。
お墓の前にいたのは、私の憧れのあの人だった。
どうして?どういうこと?なんでなんですか?
朝、初めて言葉を交わしたばかりだというのに、また絶好のチャンスが巡ってきたということですか?
雨の神様が与えてくれたチャンスならば、活かさないわけにはいかない!
「あの……これ、忘れていきましたよ」
冷静に本件を伝え、ボロボロの財布を取り出す。
あの人の財布だと分かると、このボロボロ具合もなかなか良い味を出しているなと思えてくる。
あの人は一度ズボンを確認してから財布を受け取った。
その行動が妙に愛らしい。
「そうか、ありがとう」
深く腰を折って私に礼をする。
あまりの礼儀正しさに正直驚いた。
「い、いえ、別に大したことじゃありませんし……」
人は見かけによらないとはこの事だろうか?
ぶっきらぼうな性格かと思ったけど、すごく礼儀正しかった。
素朴ながら、私にとっては重要な質問をしてみる。
「……お墓参りですか?」
誰のお墓ですか、と質問したかったがそれは不躾な言い方だろう。
ほんの少しだけ遠回しに言ってみた。
「えぇ、お袋の墓参りです」
お袋……つまり……。
「お母さん……ですか?」
我ながら間抜けな質問だと思う。
けれど伯母という可能性も頭にあったからこういう質問をしたのだろう。
「……はい、3年ほど前に亡くなりました」
私はさらに驚いた。
3年前といえば、私も父を亡くした年数と同じだったからだ。
あの人と私は、丁度同じ年数に育ての親を亡くしたかと思うと、不謹慎ながら共感できるモノがあって少しだけ嬉しかった。
けれど、それ以上に悲しいモノもあった。
「そう……なんですか……。お悔やみ申し上げます」
私は月並みな事しか言えなかった。
『私も同じ年に父を亡くしたんですよ』とでも言えば良かったのだろうか?
けど、名も知らぬ相手からそんな事を言われてもはた迷惑なだけだろう。
私では……あの人を慰めることは出来ないのだろうか?
気の利いたことも言えない自分が、悔しくて堪らなかった。
「あっ!」
私はわざと何かに気づいた風に声をあげた。
せめて……せめてあの人の名前を知っておきたいと思ったからだ。
「自己紹介……まだでしたね。斉藤 美奈といいます、近くの高校に通っているんですけど……」
あの人は、私を覚えているだろうか?
今日の朝、私が起こしたということに気が付いてくれるだろうか?
「……高田 喜一、俺も近くの高校に通っているんだ」
気づいては……くれなかった。
でも、それはしょうがない事だと思う。
まだ知り合っているわけでもないのに私の顔を覚えてくれるわけがない。
ショックを受けたけれど、それ以上にあの人名前、『高田 喜一』さんの名前が聞けた事の方が嬉しかった。
すごく嬉しかった。
今すぐ飛び跳ねて高田さんの名前を何度も呼びたかった。
でも落ち着くんだ美奈。
変な女と思われる救いようのない事態になる事だけは避けなくては。
でもこの後、私は何を言えば良いのだろう?
既に頭の中は真っ白だ。
一つだけ、言葉が浮かんできた。
「あの……この後どうなされるんですか?」
……私はなんて事を言っているんだろう。
これは遠回しに『デートしませんか?』と言っているようなモノではないか!
どうしよう……!?
「どう……とは?」
けれど高田さんは動揺する事なく、至って冷静に対処してきた。
そういうのには疎いのか、興味がないのか。
助かったと思う反面、ガッカリした。
「い、いえ、別に深い意味はないんですけど、ただ気になったので……」
弁解するようにしか言えない自分が悲しい。
「一人で自炊しているので、家に帰って夕飯を作るだけです」
言い方が少々キツい様な気がしたけど、それよりも重要なキーワードが聞こえた。
『一人で自炊をしている』、つまりは一人暮らし。
「あ、あの……!」
『私が夕ご飯を作りましょうか!』、喉まで出かかったが押さえて飲み込んだ。
高田さんにとっては私は初対面なワケだ。
そんな人から夕飯を作ってもらうなんて事は有り得ない。
さらに、私が怪しまれそうで怖い。
「いえ、何でもありません……」
「そうですか、わざわざ届けて頂いてありがとうございます。では」
言葉少なく、高田さんは去っていた。
その態度は『私が気にくわない』と言っているようにも思えた。
私は、胸の奥の痛みを抑えながら高田さんの後ろ姿を消えるまで見つめていた。
→
「ただいま」
誰もいないと分かっていても、自然と帰宅の合図は言ってしまう。
それが虚しいとは思わないが、辞めようとは思っている。
思ってはいるが、もはや条件反射となっていて気づかぬうちに口は動いているのだ。
もはや『癖』みたいなモノだろう。
夕飯を作るため、冷蔵庫を開けて中身を確認する。
セールの日を狙って、生モノ以外は買い込んであるので食料に困ることはない。
ただ肉がなかったので買い出しにでも行こうかと思ったが、いまさら出かける気にもならなかった。
きっと、雨のせいだろう。
ソーセージと野菜を炒め、後は適当に余り物を調理して今日の夕食は完成した。
口に入れると、いつも通りの味がした。
お袋を真似て料理を作っているのだが、その味に辿り着いたことはない。
『安い材料で最高の味を!』料理人みたいなこのセリフは、料理を作るときのお袋のモットーだ。
事実、お袋は2人分の食費を月1万前後で抑えていた。
それでいて尚、俺にとって最高の味を提供してくれていた。
お袋と一緒に外食に出掛けたことは何度かあるが、お袋より美味しいと思ったことは一度もない。
確か……お袋は隠し調味料を使っているから美味しく出来る、と言っていた。
それは『美味しく食べさせたいと思う心』、それがお袋の隠し調味料。
お袋の味を出すことが出来ないのは、俺にその隠し調味料がないからだろう。
食べ終わってから両手を合わせ、
「……ごちそうさま」
と言ってから食器を片づけ始めた。
炊事、洗濯、掃除は一人暮らしを始めてから覚えたのではなく、お袋を手伝っている内に覚えてしまった。
料理の仕方や洗濯の手順、掃除する部屋の順番までお袋のやり方そのままだ。
効率が悪いとも良いとも思ってはいない。
ただ、自然と体がそう動いているのだ。
……いや、掃除では唯一お袋と全く違う点がある。
糞親父……あの糞野郎の部屋だけは掃除してなかった。
一段落終え、後は風呂に入り寝るだけとなったが、時間はまだ10時も過ぎていなかったのでテレビでも見てから寝ようと思った。
テレビのスイッチを入れると、何やらくだらなさそうな番組がやっていた。
『好みの芸能人は誰ですか?』と、番組のレポーターが通行人に聞いて回り、その集計結果を発表するというモノだった。
男性の結果は既に発表されたみたいで、後は女性芸能人だけらしい。
美人と評される人や、ドラマで活躍の大物芸能人が名を連ねていた。
どうでもいい、それが俺の感想だ。
自分の好み、自分が結婚したいと思えるタイプは、お袋だからだ。
マザーコンプレックス、通称マザコンではないかと自分でも思っている。
でも、事実そうなんだ。
お袋こそ自分の人生の先生であり、目指したい目標でもあった。
でも、そのお袋はもういない。
3年前、元々身体が弱かったせいか病気で死んだ。
ストレスによる高血圧症、それが原因で起きたくも膜下出血、それが死へと繋がった。
ストレスの原因は勿論、家を出て行ったあの糞野郎のせい以外に考えられない。
お袋は、愛した夫に見放されて死んだ。
→
高田さんが帰った後も私は墓地にまだ居た。
来たついでに、父さんの墓参りでもして行こうと思ったからだ。
パシャパシャと水音をたてながら、お墓が並ぶ道を歩いていく。
幽霊の1人や2人、出てきてもおかしくはなかったが、怖くはなかった。
近くに父さんの墓があるんだ、きっと守ってくれるだろう。
もっとも、天国へと行ってしまっているからこちらには来られないかもしれないが。
私が好きだった父さんの名が刻んである墓の前に立つ。
その威風堂々とした墓は、まるで父さんそのものだ。
お供え物は何もないが、報告ぐらいは出来る。
立ったまま手を合わせ、静かに目を閉じる。
(父さん、前々から好きだった人の名前をようやく聞くことが出来ました。高田 喜一さんって名前だそうです。これからは高田さんって呼ぶことにします。『あの人』じゃあ父さん判りづらかったでしょう? ……今日、初めて言葉を交わしただけでなく、お話もしました。なんて事はない、つまらない会話だったと思います。でも、嬉しかったです。怒ったのかどうかは分かりませんが、去り際にちょっと冷たかったです。ちょっと胸が痛んだけど、見ず知らずの人からいきなり話しかけられて驚いたんだと思います。きっと、そうだと思います。だから……)
だから父さん、心配せずに見守ってて下さい。
ゆっくりと目を開け、父さんに向かって微笑みかけた。
(そう心配なんてない、ゆっくりでもいいから高田さんに歩み寄っていけばいいんだ)
自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
雨は相変わらずざあざあと降っている。
私は踵を返し、花屋に向けて歩き出した。
→
――1人は何かに悩んでいるのか、ただ前に進んでいた。
もう1人は、それを追うように後ろを歩いていた。
→
夢を見た。
今から6年前、糞親父が家を出て行く時の夢だった。
――お父さん、どこに行くの?
日も昇りきらぬ薄暗い朝に、糞親父は玄関で靴を履いていた。
その時俺は小学5年生、まさか糞親父が家を出て行くなんて思いもしなかっただろう。
――お仕事だよ、新しい仕事が決まったんだ
糞親父はやさしそうに俺に言った。
借金の取立屋が、こぞって糞親父の会社やら俺達の家を襲うように訪ねては嫌がらせをしていった。
そのせいで糞親父は仕事を失い、お袋は衰弱していった。
――茂(しげる)……
お袋が糞親父を心配してか、弱々しい声をかける。
糞親父は旅行にでも行くような大きさのバックを背負うように持つ。
――……行ってくる
玄関を開けるが、何かの躊躇いがあるのかその一歩を踏み出せないでいた。
糞親父は振り返り、お袋に最後の言葉を言った。
――……私が戻ってくるまで喜一を頼む
糞親父はその言葉を最後に、この家を後にした。
今思えば、子供である俺を騙すための言葉でしかなかった
その3年後、お袋が死んだというのに糞親父は帰ってこなかった。
ジリリと、目覚まし時計のベルで起きる。
この夢を見るのは、もう何度めになろうか。
『捨てられた』という事に気が付いていたのにも関わらず、『帰ってきてくれるかもしれない』という考えを持っていた自分が情けない。
それ以来、もしも糞親父がこちらに戻ってこようモノなら、殴ってやろうと思っている。
何回も殴って、お袋の墓の前に連れて行って、地面に頭を擦りつけて土下座させようと思っている。
でも、出来ることなら糞親父にはもう二度とここには立ち寄らないで欲しいと思ってもいる。
憂鬱な気分のまま布団から出る。
外を見れば、俺の気分とは反比例するように晴れていた。
→
『早よ起きんかーい! 遅刻してもしらへんでー!!』
「は、はいー!」
妙な返事をしながら、布団から飛び出るように起きる。
きょろきょろと周りを見回すと、枕元で目覚まし時計がベルの代わりに喋っているだけだった。
先々月、千夏から誕生日プレゼントとしてもらってからずっと使っているのだが、未だに慣れない。
確かに目覚ましとしては効果抜群、ただどういう感覚で千夏はこれを買ったのかは不明だ。
「ん〜……!」
声を漏らしながら身体を伸ばす。
カーテンからは眩しいくらいの光が差し込んでいる。
もう既に天候は分かっていたが、念のためと思いカーテンを開けて確かめて見るが、嫌がらせのように晴れていた。
ガックリと肩を落とすが、まぁこういう日もあるさと自分自身を励ます。
昨日の余り物を適当に調理し、朝ご飯を済ました。
身支度を調える為、洗面所へと向かう。
大体の身支度を終え、最後の仕上げとして自分の身長ぐらいある鏡の前に立つ。
モデルのように、様々なポーズをとってみる。
(う〜ん、高田さんがグッと来るポーズってどんなのだろう?)
前屈みになって、胸を強調させたポーズをしてみる。
(なんか……誘っているみたいでヤダな……)
今度は腰に手を当て、パリコレのような格好いいポーズにしてみる。
(……駄目だ、私のような幼児体型では合わない……)
最後に、思い切って可愛さを強調してみた。
(なんか……危ないおじさんがよって来そうな……)
結局最後まで決まらず、学校に行く時間となってしまった。
→
雨の時とは違い、遅刻ギリギリで登校する。
「や、喜一。久々」
昇降口で幼馴染みである千夏と会った。
幼馴染みといっても、小学校からだが。
「久しぶり、といっても3日間ぐらいだろ?」
「それで十分でしょ。私が久しぶりと言ったら久しぶりなの」
「へいへい、分かったよ」
上靴に履き替え、校舎内に入る。
「そういえばあんた、美奈って知ってる?」
唐突な質問だった。
「美奈……まぁ一応は」
確か昨日、墓地で会った女の名前が美奈だった気がする。
まさか千夏の知り合いだったとは思わなかったが。
「……で、その美奈がどうかしたか?」
「知り合っているなら別にいいけどね」
妙な言い回しだった。
『知り合っているなら』というのは、どういうことだ?
「それってどういう……」
「じゃね、私こっちだから」
手をひらひらと振り、逃げるように自分の教室へと向かっていった。
……が、途中で止まり
「虐めたりしたら、私があんたを虐めるわよ」
とだけ言って、また逃げていった。
端から聞けば、脅し文句にしか聞こえないだろうが、昔から千夏を知っている奴なら本気として受け止められる。
千夏は情に厚く、自分の友人が虐められたりすると例えどんな人であろうと虐め返す。
それが上級生であろうと、先生であったとしてもだ。
事実中学の時、千夏によって転任した先生は2人ほどいた。
(こりゃ……無下な扱いは出来ないな……)
深いため息をはきながら自分もまた、教室へと向かって歩き出した。
→
自分の心臓が壊れそうだった。
さっきからずっと激しく鼓動を続けている。
早く、早く千夏が来ないと私は壊れてしまいそうだ。
ガラガラと、教室の開く音がする度千夏ではないかと過敏に反応しするが、まだ来ない。
(早く……早く来てよぉ……! 千夏……!!)
「何やってんのよ?」
「ひゃぁッ!」
私の心臓は、本当の意味で壊れてしまいそうになった。
「ち、千夏!? いつの間に来たのよ!」
「い、いつの間にって……ついさっき普通に入ってきたけど……?」
「嘘! だって扉が開く音がしなかったよ!?」
千夏は呆れかえったように私を見た。
「最初から扉が開いていれば音なんかしないでしょうが」
「……あー……、うん。確かにね……」
我ながら馬鹿な事をした。
「それで、どうかしたの? やけに緊張してるみたいだけど……」
さすが千夏だ、私の異常にすぐ気づいてくれた。
「そう、そうなのよ千夏! これ、これなのよ千夏!」
私は一通の手紙を千夏に見せた。
表紙には男の子の文字で、私宛の名が書いてある。
「……これって、ラブレター?」
「……うん、た、多分……」
朝、いつも通りに学校に来て、下駄箱を開けると入っていた事を千夏に告げる。
「中身は見た?」
「……見た」
「で、なんて甘い言葉が並んでいたの?」
「そ、そんな言葉なかったってば! ……ただ、今日の5時限目に校舎裏の木の所に来て欲しいって……」
「じゃあ確定だね、間違いなく告白される」
私もそれしかないと思った。
この学校の伝説で、手紙書いてあった校舎裏の木の所で、5時限目中に告白し、結ばれるとその愛は永遠に続くという安い伝説だ。
周りではそういう話をよく聞いていたが、まさか私に来るとは思わなかった。
「ど、どうしよう……?」
「断ればいいじゃない」
千夏はさらりと言ってのけた。
「美奈、あんたには恋愛対象がいるんでしょ?」
千夏にそう言われ、すぐに高田さんの顔が思い浮かんだ。
思わず顔が赤くなる。
「そう……だね、うん。そうするよ」
こんな私に告白してくれるなんて嬉しいことだが、残念だけど私にはどうしても振り向かせたい相手がいるんだ。
それを、諦めるわけにはいかない。
「よろしい。どれどれ、振られることが確定したこの哀れな人の名前は?」
「あ……、見てないや」
『告白される』ということで頭がいっぱいで名前を確認するのを忘れていた。
もう一度手紙を開け、名前を確認した。
→
昼休み、相変わらず銀助は器用に片手でキーボードを叩きながらパンを食べる。
そして俺も相変わらず、銀助の最新恋い話情報をラジオ代わりに昼食を食べていた。
「そうそう、今日の5時限目は要チェックだぞ。3組の二ノ宮 龍が例の木の下で告白するらしい。」
3組の二ノ宮 龍、確か去年同じクラスになった気がする。
髪型は短髪で、いかにもスポーツマンって感じだったな。
「相手はな、なんと! み」
キーンコーンカーンコーンと昼休みを終える鐘が鳴り響く。
銀助の声はかき消され、口が動くのだけが見えた。
「……てさ、確かな筋からの情報だ」
肝心の部分はまるで聞こえなかったが、どうせ5時限目になれば嫌でも見えることになる。
「そうか、それは楽しみだな」
適当な相槌を打つと、銀助は満足した顔をして席に戻っていった。
「ふぁ……」
禿げた教師が歌う子守歌に耐えかね、思わず欠伸をしてしまう。
今は5時限目、銀助の言うとおり二ノ宮 龍は4時限目が終わってからすぐ校舎裏の木の下に現れた。
かれこれ授業が始まって10分程経つが、その相手とやらが一向に見えないでいた。
告白のシーンなど、好んで見たいワケではないのだが、俺の席からだと黒板を見ていても視線の中に入る。
校舎裏の木の下は、本来なら校舎や物置場などで完全な死角となるハズなのだが、俺が今現在居る3階の窓側の席からは丸見えなのだ。
正確に言えば、教室の後ろ半分の窓際の席からだが。
2年生になり、俺がこの席に座ってから十数回も告白のシーンを見せられていた。
覚えているだけでの数なので、多分もっと多いと思う。
めでたく結ばれ、腕を組んで学校の中に帰るのは別に構わない。
だがな、頼むからすぐにイチャ付くのは止めてくれ。
誰からも見えていないと思っているのかもしれないが、丸見えだ。
仕舞いには服を脱がし合って半裸になるのも止めてくれ。
見せつけているのか、てめぇらは?
「喜一、どうだ? 動きはあったか?」
右斜め前の席の銀助が、こちらに振り向いて二ノ宮の動向を聞いてくる。
「なんも。相手すら来てない」
「カカ、来ないで振られるってパターンも少なくないからなぁ」
銀助はすごく楽しそうだが、俺的にはどうでもよかった。
さして仲良くもない友人が、見知らぬ女子と結ばれてヨロシクやってても、俺には関係のないことだ。
「……ん?」
そわそわしていた二ノ宮の動きが一定方向を向いたまま止まった。
何度も見ている俺には分かる。
相手が来たんだろう。
やがて俺の予想通り、少々茶髪気味の髪をした女が現れた。
→
悪い冗談ではないかと内心不安になりながら校舎裏に来ると、確かに彼は居た。
手紙の主は二ノ宮 龍、去年同じクラスになった男友達だ。
何かと私に良くしてくれると思ったら、まさかこういう事だったとは思いもしなかった。
大きく深呼吸してから彼の元へと歩き出した。
「や、斉藤さん。手紙、読んでくれたんだね」
彼はさわやかとしか言いようのない笑顔を私に向ける。
だが――
「ごめんなさい!!」
彼が取り付く間もなく、深く腰を曲げて謝った。
つまりは、『お断り』した。
「……参ったな……出会い頭に言われるとは思いもしなかったな……」
言葉とは裏腹に彼は落ち着いていた。
いきなり断られた動揺はあったかもしれないが、まるで最初からそのことを予想していたかのような落ち着き振りだった。
「実は……私には……」
「知ってるよ、高田 喜一が好きなんだろう?」
……え?
「多分、斉藤さんを知っている人なら誰しもが分かっていると思うよ」
「え、え〜!?」
「あれだけ喜一を凝視するように見ていたら、誰だって気づくよ。本人以外はね」
うわわ〜……、そんなに露骨に高田さんを見ていたのかなぁ……。
そりゃね、1年生の時はさ、後ろの席をいいことに高田さんの背中をよく見ていたよ。
でもまさか、乙女の瞳で見ているとは自分でも思わなかったな〜……。
でも、でもそれだと――
「それを知っていて、私に告白したの?」
言葉なく、彼は頷いた。
意味が分からなかった。
私が高田さんが好きで、断られる事も分かっていたのに、どうしてそれでも私に告白なんかしたのだろう?
「俺がどうして告白したのか不思議なんだろう?」
「え? ……うん」
「簡単だよ、君が好きだからだ」
風が、私を撫でるようにサァ……と過ぎ去っていった。
「……え?」
あまりに素っ気ないせいか、何を言われたのか分からなかった。
どういうことだ?どうしたんだ?どういう意味なんだ美奈よ?
何の陰りもないその瞳で真っ直ぐ私を見つめ、彼は私に言ったのだ。
『好き』――と。
「……え、あ、う……」
ドキドキドキドキドキ……。
心拍数は上がり続ける。
初めて男の人から告白された。
それも一直線に、私に『好き』と言った。
断言した。
正直にいうとグラリと来たよ、これは。
安っぽい言葉なんかよりも、女の子はこういうのに弱いんだ。
「……駄目……なのか?」
ハスキーな顔をしているのに、そんな子犬みたいな瞳で私を見ないで!
揺れるから!私の決心がすごく揺れちゃうから!!
「……返事は後でいいよ。今決めてくれというのは酷だからさ」
「……うん、ありがとう」
確かに、今決めてくれなんて言われたら私、何て言うか分からない。
このまま流されて、頷いてしまいそうで怖かった。
本当に、どうしよう?
私は、このまま彼と付き合ってしまうのだろうか?
「じゃね」
素っ気ない別れを言って、彼は去っていった。
→
最初からすごい展開で始まったものだな。
声までは聞こえないが来て早々、女が深くお辞儀してお誘いを断った。
それで終わりかと思ったが、何やら会話を交わした後で今度は女が動揺し始めた。
今までにないパターンだ。
「どうした? 動きはあったのか?」
「いや、なんも」
銀助に教えると面倒になるので敢えて黙っておくことにした。
二ノ宮が小さく手を挙げた。
別れを告げたのだろう。
二ノ宮の恋が成就したかどうかは定かではないが。
そのまま校舎の影に消えていこうとした。
……が、何故か二ノ宮が止まった。
よく分からないが、状況からして女が呼び止めたと思う。
どうやら、まだ続くらしい――。
→
彼は去り際に、本当に小さな声で、呟くように彼は言った。
『絶対、あいつより俺の方が良いに決まってる』
カチンときた。
「ちょっと! 待ちなさい!!」
「……へ? どうかしたの、斉藤さん。そんな恐い顔して……」
「今のセリフ、何!?」
「今のって……?」
「『絶対、あいつより俺の方が良いに決まってる』ってセリフ!!」
さっきまでのドキドキなど何処へ行ったのか。
今ではカンカンで顔が真っ赤だ。
「あぁ……それが?」
「それがって……。『あいつ』って、高田さんを指して言ってるんでしょう!?」
「そうだよ、喜一の事だよ。当たり前じゃないか、あんな奴より俺の方が良いハズだ。」
「仮にも私が好きな人に随分な言い方ね。」
「斉藤さんには悪いとは思う、けれど言わせてもらうよ。あんな奴に惚れる要因がどこにある? 確かに頭は俺よりは良いよ、それは認める。けれど、それだけで斉藤さんが惚れるとは思わない。何をするにもやる気なさそうに物事に取り組んで、あんな奴の何処が良い!? 俺は君が好きだ! 君を幸せにする自信だってあるさ! けど、あいつにそれが出来るとでもいうのか!?」
核心をついた質問だった。
悔しいが、私はぐぅの音も出なくなった。
高田さんのことを思うと、ここで何か1つぐらい反論したいモノだが言葉が見つからない。
「……分かってくれた? 怒鳴り散らすような言い方になってゴメン。けれど、君を想ってのことなんだ。」
「でも、でも……!」
反論しようとして出た言葉は喉で支えて出なかった。
「だから、考えて欲しいんだ。1年半も喜一を想っていたんだ。今すぐは答えなんか出ないだろう? なんで喜一を好きになったのかは分からないけど、考えて欲しい。君と、俺との付き合いを。」
――高田さんを好きになった理由――?
それは、いつのことだったか?
あぁ、思い出した。
それは入学式の日の事だった。
その日は、朝から雨が降っていた。
入学式の最中も、ざあざあと降る音が体育館に響いていた。
入学式を終え、皆家族と一緒に帰る中、私は一人傘を差して歩いていた。
私には、家族はもう居ないからだ。
家には真っ直ぐ帰らず、私は墓地に向かった。
父さんに今日の入学式を報告するためだった。
墓地に着くと、傘も差さずに誰かが立っていた。
制服から見て私と同じ学校だとは思ったが、まさかそれが高田さんとは思いもしなかった。
――傘、無くしたんですか?
――いや
静かに高田さんは首を振った。
――風邪、ひいちゃいますよ? 傘、貸しましょうか?
――いや
静かに高田さんは首を振った。
――なら、どうしてこんなところに居るんですか?
今思えば、高田さんも私と同じ理由で母さんの墓へと行ったのだろう。
――さぁな
私の質問など無視するように、歩き出した。
――今日の入学式、すまんな
一度立ち止まり、私に向かって言った。
――こいつはきっと、お袋の涙雨だと思う
高田さんは物憂げな顔で、曇った空を見ていた。
――今日だけは、雨が好きになりそうだな……
私に言ったのか、独り言なのか、それだけ言ってその場を去っていった。
思えば、一目惚れだったのかも知れない。
根拠はないが、自分ではそうとしか思えなかった。
「……斉藤さん?」
私は決めた、もう迷わない。
「ごめんなさい」
最初よりも丁寧に断りを入れた。
「私、やっぱり高田さんに首ったけみたいです」
→
今度こそ、本当に終わったみたいだな。
何の迷いもなくお辞儀している女を見ればすぐ分かる。
結果は黒星っと、後でそう銀助に告げておこう。
女は踵を返し、帰ろうとする。
――が、右腕を二ノ宮に捕まれる。
どうやら、まだまだ話は続くらしい。
ただ、今度はタチの悪い方向へと――。
→
「……なんでだよ?」
二ノ宮はいきなり私の右腕を掴んだ。
「……なんでなんだよ!?」
ギュウと腕が締まる。
「痛ッ……!」
「なんで俺よりあんなクソ野郎が好きなんだよ! 頭以外であいつに劣っているモノなんてないハズだ!! なんでだ!! 答えろ!!」
振られたショックからなのか、高田さんに負けたという屈辱感からなのか。
すごい形相で私に詰め寄る。
でも……負けない。
高田さんを『クソ野郎』呼ばわりした、こんな人には絶対負けない!!
「えぇ、答えてあげるわよ! 私は高田さんが好き! それ以上の理由なんてない!!」
私も言い切った。
二ノ宮が最初に言い放ったセリフのように、真っ直ぐな瞳で彼に言ってやった。
「ふざけるな!」
「きゃっ!」
腕を強く引っ張られ、木に押しつけられる。
二ノ宮はそのまま覆い被さるように私を威圧してきた。
「あんな……あんな野郎に俺は負けるっていうのか? 劣るっていうのか!? どうなんだ!?」
なんだか、すごく腹が立ってきた。
さっきからずっと高田さんと比べてばかり。
「えぇ、劣っているわよ! 全部ね! 頭も、容姿も、性格も!! 全部私の好みじゃない!!」
言ってやった。
劣っているのは二ノ宮、あなたよ、と。
「ふざけるな…! このクソ女が!!」
私自慢の髪が強く上に引っ張られる。
「痛ッ……!」
でも負けない!
絶対に、こんな最低な人には負けてなるモノか!!
→
本当に、マズイ方向へと転がって行ってるな。
男が女を木に押しつけやがった。
この後予想されるのは、殴るか、乱暴するかしかない。
(さて、少し痛い目にあってもらうか)
カチカチとシャープの芯を少しだけだし、先生に気づかれぬように窓を開ける。
座標、風速、その他もろもろを考慮して位置を合わせる。
(神風シャープ隊、投下!)
パッと手を離し、目標に向かってシャープは降下していく。
何となく腹が立ったので、おまけも追加しといてやった。
任務は完了、後は女が逃げてくれることを祈るのみ。
窓を閉めてから、銀助を呼んだ。
「すまん、シャープ一本貸してくれ」
→
「ぐぁッ!」
殴られる事を覚悟して目を閉じていたのに、二ノ宮は苦痛の声をあげた。
それと同時に、髪を掴んでいた手も離された。
何事かと思って見ると、手の甲にシャープペンが刺さっていた。
傷自体は深くなさそうなものの、すごく痛そうだ。
「ちくしょう! 誰だ!!」
二ノ宮はシャープが振ってきた方向、空を見上げた。
私もその視線を追って空を見上げた。
「「あ」」
2人の声がハモった。
二ノ宮の頭上には一冊の辞典があった。
それも、結構分厚い。
二ノ宮は回避しようとしたのか、左足が少しだけ動いた。
――が、それも虚しく、本は二ノ宮の顔面に直撃した。
「へぶしッ!」
何とも情けない声をあげながら、二ノ宮はそのまま地面に倒れた。
……死んだ?
あぁー……、でも手足が痙攣しているから気絶してるだけかな。
「はは……」
助かった。
誰の御陰かは知らないけれど、助かった。
いまさら足がガクガクして、立っていられなくなって地面にへたり込んでしまった。
手も、小刻みに震えだしてきた。
今更何だ、恐怖は過ぎ去ったというのにワンテンポ遅れて身体が反応するなんて。
涙も、危なく出そうになった。
「美奈!」
何故か千夏がこちらへ来た。
そりゃそーか、告白だけでこんなに時間が掛かるワケがない。
「美奈! おぉ!? なんで二ノ宮が倒れてるの!?」
大の字になって倒れている二ノ宮と、座り込んでいる私を見て、千夏はもの凄く驚いていた。
千夏がこんなに驚いたところを見たのは初めてだ。
ちょっとだけ得した気分。
「千夏……」
「何!? どうしたの!? 乱暴されたの!?」
こんなに慌てふためく千夏を見るのも初めてだ。
やっぱり得した気分だ。
いや、それよりもこの事を千夏に伝えなければ。
千夏だったら、この気持ちを分かってくれるハズだ。
「私…、勝ったよ!」
そうだ、私は勝ったのだ。
もう、迷いはしない。
「……何に?」
……分かってくれなかった。
→
夕飯は、今日買ってきた鶏肉で作った親子丼とみそ汁の2品。
お袋のレシピ通りに作るが、やはり隠し味が足りないのだろう。
お袋の味とは似ても似つかない、紛い物の味でしかなかった。
いつも通り夕飯を食べ、いつも通り掃除をし、いつも通り洗濯機のスイッチを入れる。
いつも通りに『いつも通り』をこなす。
いつからだろうか?こんなにも日々がつまらないとは思うのは。
いつからだろうか?こんなにも日々が単調になってしまったのは。
いや、自分で全てが分かっているのだ。
けれど、自問自答してしまう。
そう、全てはお袋が死んでから変わってしまった。
生活、習慣、俺の性格、何もかもが変わってしまった――。
→
帰り道、見知った後ろ姿が見えた。
「銀!」
ちゃんとした名前は銀助なのだが、面倒なので略して呼んでいる。
「お……? 何だ美奈か。今日の彼氏は一緒じゃないのか?」
「ぐっ……」
やっぱりこいつ、今日私が二ノ宮から告白された事を知っていた。
多分、校内一の恋い話情報通だと思う。
それを考慮すれば当然と言えば当然だが、なんか悔しい。
「もちろん振ったわよ、だって――」
「『だって私には王子様が居るもの』、か?」
「ち、違うわよ! なんで飛躍して王子様になってるのよ!?」
「事実だろ? まぁ喜一が白馬なんか持っているかどうかは不明だがな、カカ」
「持ってるワケないでしょ!」
はぁ……、こいつと話してると頭が痛くなってくる。
小学校からの付き合いとはいえ、相変わらず人をおちょくるのが好きらしい。
しかも、何故か高田さんと知り合っているし。
なんで?
「しっかし、傷物にならなくてよかったな」
「うん……本当に危なかったよ……って、何で知ってるの!?」
いくら情報通とはいえ、まさか二ノ宮が私に乱暴しようとした事まで知っているとは驚きだ。
情報元は千夏?あ、でも、千夏は口堅いからなぁ……。
「例の場所から見てた見物人から聞いたんだよ。知ってるだろ? 俺の教室の窓側からそこが見えるって」
あぁー……、確かに風の噂でそんな事を聞いたことがある気がする。
「……そういえば、二ノ宮から乱暴されそうになった時にさ、空からシャープとか辞典とか振ってきたんだけど、誰が投げたか知らない?」
「知ってる。その見物人が投げたんだ」
「だーかーら、その見物人って誰よ? 名前をあげてよ、名前を」
「知りたいか?」
「もちろん、お礼も言いたいし」
「あー……、なんか喉乾いたなぁ……」
わざとらしく喋る。
深いため息をはきながら、近くの自販機に向かう。
一番甘そうなコーヒーを買い、銀に投げつけた。
「これで満足?」
「おや、悪いね。誰も『奢って』何て言った覚えはないけど……」
ちくしょうめ、やっぱり腹が立つ。
「いいから、早く教えてよ。勿体ぶってないでさ」
「カカ、お前を助けた優しい王子さまはな……」
王子さま?
その言い回しで高田さんの顔が思い浮かんだ。
マサカ、そんな馬鹿な。
「『それ』だ。」
「……は?」
銀は私を指さしながらもう一度言った。
「お前の頭に浮かんでいる『それ』で当たっているんだよ。見物人兼、王子さまはな」
私の頭に思い浮かんでいる人……。
つまりは……高田さん。
……高田さん?
→
「へっくしょん!」
何の前触れもなくクシャミが出た。
風邪か?
いや、それよりも心配なのは貯蓄か。
今俺は、お袋が残してくれた通帳を見ていた。
お袋が死んで下りた生命保険の御陰で今まで暮らせていた。
今まで通りやりくりしていけば、高校卒業までは持つだろう。
本当は、お袋の実家にでも世話になれば良かったのだろうが、ここを離れたくはなかった。
この家は、俺とお袋が過ごした証だ。
大黒柱を見れば、背丈を測った傷の跡がある。
カーテンも、お袋と一緒に買いに行った物だ。
そのカーテンを、俺が破ってしまい、お袋がそれを布で修復した跡もまだ残っている。
この家にはお袋と過ごした日々の証が、染み込んでいる。
俺はこの家を離れることはないだろう。
就職も、きっとこの近くの会社にでも就くのだろう。
俺は、俺は――。
「お袋が死んだとき、俺も死んだのかもな……」
その独り言は、誰も居ないせいかやけに響く。
お袋が死んでから、俺の時間は止まったままだった。
→
信じられない、そんなマサカ。
安っぽいドラマじゃあるまいに、そんな演出……嬉しすぎる。
やばい、やばいよ。
ますます私は高田さんを好きになっていく。
「おーおー、顔真っ赤にしちゃって……。ちゃんとお礼しとけよ?」
「……うん」
「お礼はお前自身な」
「……うん」
「……突っ込めよ」
「えっ……? 冗談? あはは、そうだよね。そりゃ冗談だよねー。何言ってんだ銀!」
……ちょっとだけ、本気にしてしまった。
さて、お礼はどうしようか?
銀と別れ、家に帰ってからもそのことで頭が一杯だ。
ハンカチとかペンとか、その辺を考えたがあんまり嬉しいとも思えない。
様々なお礼を考えていると、最終的に辿り着くのは『私自身』をプレゼント。
それを思いつく度に一人で、キャーキャー言いながらその妄想をかき消していた。
う〜ん……、ここは1つ千夏にでも相談してみようか?
携帯はお金がかかるので、有るのは設置型の電話のみ。
アドレス帳を引っ張りだして千夏に電話をかける。
『愛情の込もった弁当。それ以外考えられないね』
電話が繋がると同時に言われた。
「もしかして……パターン読んでた?」
『うん、あんたそういうのに弱そうだからね』
さすがは千夏ということか。
「愛情、ねぇ……。込めようと思えばいくらでも詰め込められるけどさ、もう少し何かないかな? 好きな食べ物とか」
『う〜ん……そうだなぁ……。特に好き嫌いしないからね、あいつは。給食でも残したことなかったし』
「そうなんだ……。残念、でも愛情弁当って案は頂くね」
『どうぞ、贈呈するよ。それと、アドバイスが一つ』
心なしか、千夏の声に力が入る。
『それはね、美味しく食べさせたいと思う心』
「……愛情じゃなくて?」
『喜一に食べさせるなら、こっちを優先させてみなさい。多分、イチコロよ』
千夏の言い方は、どこか確信めいた言い方だった。
「うん……? まぁ、分かった。とにかくがんばってみる」
『がんばりなさいよ』
耳から受話器を離し、本体に戻す。
よし、さっそく材料の調達だ!
意気揚々と玄関を開けると、外は雨が降っていた。
お気に入りの傘を片手に、外へと飛び出した。
→
――後ろを歩く人は、前の人に声をかけるが振り向いてはくれなかった。
それでも健気に、声をかけ続けていた。
――前を歩く人は、大切な人の影を追い続けていた。
決して追いつくことはない事を、知りながら。
→
夢を見た。
お袋が死んだ、3年ほど前の事だった。
――病院でお袋が息を引き取った時も、葬式の時も、雨が降っていた。
夢の中で俺は、玄関で泣いていた。
あぁ、この時の事はよく覚えている。
1週間振りの学校が終わり、家に帰ってきて、『ただいま』と言って返答が帰ってこなかった。
それでも、もう一度『ただいま』と言って、返答が帰ってこなくて、お袋は死んだんだと実感し、玄関で泣いたことを今でも覚えている。
それから、本当の意味で俺の1人暮らしは始まったんだ。
炊事洗濯は苦労はしなかった。
金銭面でも大して苦労はしなかった。
苦労したのは、何をするにもお袋の事を思い出してしまう事だ。
それは、今も変わらなかった。
もし、もしも今自分の手元に魔法のランプが存在し、願いを1つだけ叶えてくれるのなら、俺はお袋が生き返ることを願うだろうな。
けれどそれは夢、いや、夢の中ですら叶ったことがなかった。
せめて、夢の中でもいいから生きているお袋を見たかったが、この3年一度も夢には出て来てくれなかった。
夢の中で俺は、まだ玄関で泣いていた。
お袋の居ない家など俺の家じゃない、なんて事を思って家に入ることを拒んでいたのを、今でも覚えていた――。
億劫な気分のまま、目が覚める。
外はざあざあと雨が降っていた。
夢見が悪いのはきっと、雨が降っているからだ。
時間を見れば、6時40分。
6時にセットしておいた目覚まし時計は、スイッチの入れ忘れで鳴らなかったらしい。
準備する時間と、バス停に行く時間を考慮すると、朝ご飯など食べている暇などなかった。
短い舌打ちをした後、始発のバスに乗り遅れないように急いで準備を始めた。
→
「♪ん〜ん〜んん〜」
朝、目覚ましが鳴るよりも早く起きて弁当作りに励んでいた。
上機嫌のあまり、鼻歌まで自然に出てしまう。
「♪ん〜ん〜、ん〜」
私は自慢ではないが、料理の腕には結構自信がある。
伊達に1人暮らしはしてないという事だ。
弁当作りだって手慣れた物だ。
なんせ自分の弁当は自分で作っている。
それをもっと気合いを入れて、じっくり料理すればきっと美味しくなるハズだ、きっと。
わざわざ高田さんの為だけに買ってきた、このお弁当箱に料理を詰め込んでいく。
本当は愛情をたっぷり入れたかったが、千夏に言われた『美味しく食べさせたいと思う心』とやらを優先した。
高田さんにお弁当を美味しいと思わせれば、必然的に将来のことも想像してしまうという原理なのだろうか?
よく分からないが、まぁそんなとこだろう。
ピーという音と共に炊きあがったご飯を仕上げに詰め、青い布にくるんで美奈特製愛情弁当は完成した。
これを食べ、高田さんはイ・チ・コ・ロ!……なんて事になったらどんなに楽だろうか。
せめて、せめてちょっとだけでもいいから好印象くらいは与えたい、それが私の望みだ。
幸い、今日は雨が降っている。
高田さんと一緒のバスに乗れれば、渡せるチャンスも自ずとやって来るだろう。
エプロンを外し、制服に着替え、時刻を確認する。
時刻は7時30分、朝5時に起き余裕を持って準備したから、むしろ時間が余っている。
ソファーに座り、一息ついた。
もう一息つくが、それは深いため息だった。
始発の時間、とっくに過ぎちゃってるよ……。
「あれ、美奈? どうしたのこんな時間に」
結局、千夏と同じ時間帯のバスに乗るハメになった。
遅刻ギリギリで学校に着くため、そこまで混んではいなかったのが幸いか。
千夏の隣に座り、朝の事を話した。
「むしろ遅れて良かったんじゃない? 直接渡すほどあんた度胸ないでしょ」
……そう言われるとそうかもしれない。
そんな度胸があったら、今の今まで苦労しなかったと思う。
「どれ、その弁当私に預けなさいって。喜一に届けてあげるわよ」
「……うん」
本当は直接手渡したかったが、チャンスを待とう。
「へっくしゅ!」
「どうしたの、風邪?」
ポケットティッシュで鼻をかんでから、千夏に昨日の事を話した。
「ちょっと昨日ね、トラックが水を跳ねてさ、それの……へっくしゅ!」
「それの被害を受けた、ね。分かったから唾だけは飛ばさないでよ」
「う、うん。がんば……へっくしゅ!」
「うわッ! 言ってる側からかけないでよ!!」
「あ、ごめ……へっくしゅ!」
「だーかーら! 唾かけるな!!」
→
ただ呆然と外を眺めていた。
時折、教師が黒板に文字を書くので、それをノートに写してはまた外を眺めていた。
いい加減な態度で授業を受けているが、テストの点数は上位に入る。
中学の時、覚えるコツみたいなモノをお袋に習って以来、テストで苦労したことはなかった。
前方斜めを見れば、相変わらず銀助は寝ていた。
それでも、銀助は順位1ケタ台を逃したことはない。
まともに授業受けて、真面目にがんばって、それでも良い点数が貰えない奴らが哀れに思えてくる。
「ふぁ……」
まだ午前の授業だというのに、欠伸の回数は既に2ケタを超えていた。
朝、弁当を作るのが間に合わなかったので、昼食は学食で取ろうと思っていた。
「なんだ? 今日は弁当じゃないのか?」
「あぁ、少しばかり寝坊してな」
席を立ち、廊下に出ようと扉を開けた。
「あっ」
千夏の声がしたかと思うと、鼻をノックされた。
どうやらノックしようとしたが、俺がタイミング悪く開けてしまったらしい。
「……俺の鼻には誰も入ってないぞ」
「あははー、ごめんごめん。まぁ丁度良いや、はい」
青い布に包まれた四角い物体を手渡される。
大きさ的にいって、弁当ぐらいか。
「まだ弁当食べてなくて良かった。それ、弁当だから食べなさい」
「それは分かる。で、なんでお前が弁当?」
もし千夏が作ってきた弁当だとしたら、とてもじゃないが食べたくない。
別に料理が下手というのではなく、辛いんだ、それも強烈に。
「そんなしかめっ面しないの、私が作ってきたんじゃないから」
「じゃあ誰だ?」
「あんた、昨日ここからシャープとか投げて女の子を助けたでしょ? それのお礼だってさ」
「ふぅん……。で、名前は?」
「……へ? 知ってて助けたんじゃないの?」
「まさか、遠目で分からんかったが多分知り合いじゃないと思う」
千夏は一際大きなため息を吐いた。
「な、何だよ……」
「まぁいいわ、それよりちゃんと食べなさいよ」
「だから名前は?」
「教えない」
「はぁ?」
「弁当食べてから教える。じゃね、確かに届けたわよ」
「ちょ、あ、おーい!」
こちらの呼び止めなど無視して、千夏は自分の教室へと戻っていってしまった。
青い包みの弁当を一度見る。
まぁ、弁当がないので丁度良いと言えば丁度良い。
席に戻ると、案の定銀助がにやついてこちらを見ていた。
「なんだー? 正義の王子様の報酬は愛情弁当か?」
「うるせーよ」
茶化してくる銀助を無視して包みを開ける。
弁当の中身は、エビチリ、肉団子(エビチリのタレをそのまま使用)、などなど中華中心となっていた。
見た目は随分と立派なモノだ。
弁当というには少し贅沢な気もする。
「ほぉ〜……、うまそうだ。なんか食欲をそそられるレパトリーだな」
「やらんぞ」
「貰えねぇよ。なにせお前に対する愛情が詰まってるからな」
「……馬鹿か」
備え付けの箸を取り、エビチリを一口食べる。
「どうだ? うまいか」
「いや、あんまり。多分俺の方が上だろう」
「随分と辛口コメントだな」
好みもあるかもしれないけど、今ひとつ味が足りない感じだ。
「……あ……」
「ん?」
「いや、なんでも」
そんなに美味しくはなかった。
けど、うまかった。
→
ボウッと黒板を見ていた。
午前からずっとこの調子だ。
原因は勿論風邪、既に熱もあるっぽい。
あぁー……ちくしょう、昨日のトラックのせいだ。
「美奈」
遠くから誰かが呼んでいる気がする。
でも、なんかフィルター越しに声をかけられているような不思議な感じだ。
「美奈!」
「あ、へ、はい!?」
呼んでいたのは先生だった。
「体調が悪いのなら保健室にでも行きなさい」
「あ、何とか大丈夫です。多分」
言葉ではこう言ったが、多分駄目っぽい。
先生の顔が少し歪んで見えた。
元々男の中でもかなりごつい方に入る顔つきだったのが、さらに歪んでゴリラに見えた。
あははー、こりゃ楽しい。
あははー……今日はもう帰ろう。
うぅ〜……、ふらつく。
あの後すぐに5時限目が始まる前に保健室に行って、早退届けを出してきて正解だったと思う。
家に帰ってきて体温計で測ると、38℃半ば。
結構大変な熱だ。
ご飯を作る気力も食べる気力もなかったので、風邪薬を栄養剤と共に飲んだ。
……あれ?一緒に飲んで駄目だったような……。
まぁこの際どうでもいい、いずれお腹の中で混ざる事だろう。
救急箱に入れてあった熱冷ましシートをおでこに張る。
押入に入れてあった毛布を取り出し、初冬くらいな厚さの布団にして寝た。
夢うつつの中、高田さんにあげたお弁当の感想が、すごく気になっていた。
→
弁当箱を返そうと思い、放課後になってから千夏に会いに行ったが既に居なかった。
なんでも、風邪で早退した人のお見舞いに行ったそうだ。
まぁ、千夏らしいといえば千夏らしい。
結局弁当箱は返せず仕舞いで、家に持ってくるハメになってしまった。
今日洗って、明日にでも返すとしよう。
余り物の肉やら野菜やら適当に炒め、今日の晩ご飯は完成した。
一口食べると、確かにあの弁当より美味しかった。
でも、うまくはなかった。
夜、3日振りの掃除を始めた。
俺の部屋、居間などは毎日掃除しているのだが、他の部屋は3日置きに掃除することにしている。
糞親父の部屋だけを除いて。
お袋の部屋に入り、電気をつけた。
タンス、化粧台、小さな本棚、質素過ぎる部屋の中にお袋の仏壇はあった。
はたきで埃を取り、ホウキでゴミを掃く。
水の入ったバケツから布巾を取り出し、絞ってからお袋の仏壇を拭く始める。
お袋の仏壇は特に念入りに掃除していた。
塵一つ残さず掃除していると言っても、過言ではないと思う。
線香に火をつけ、鐘を鳴らし、両手を合わせて目を閉じた。
(今も健康に、何の支障もなく生きています)
しばらくしてから目を開け、電気を消してお袋の部屋を後にした。
→
ピンポーン
「……ん」
チャイムの音で私は目を覚ました。
起きあがると、寝る前よりは体調が良くなっていた。
とはいえ、未だに気怠い気分だ。
「美奈ー? 起きてるー?」
千夏の声だ。
きっと私のお見舞いに来たのだろう。
さすが千夏、友情に厚い。
起きてるよー、と返事をしてから玄関に行ってドアチェーンを外した。
台所から美味しそうな音が響いてくる。
晩ご飯を作る気力がない私に代わって、千夏が作ってくれていた。
「ゴメンねー、わざわざお見舞いに来てもらった上に料理なんか作ってもらってさ」
「安心しなよ、元々看護しにこっちに来たんだから」
なんというか、千夏は本当に頼りになる存在だと私は思う。
姉御肌っていうのかな?
「はい、出来たよー」
小さめのお盆に乗ってきたのは病人の定番ご飯、雑炊だった。
「食べさせてあげようか?」
「さすがに1人で食べられるよ」
小さなテーブルを囲い、2人で雑炊を食べ始めた。
一口食べると、ピリリと辛かった。
「ん……丁度良いね、この辛さなんかさ」
「え……そう? 私的には甘くしたつもりだったんだけどなぁ……」
迂闊、千夏の味覚を忘れていた。
危うく激辛雑炊を、この衰弱した身体で食べるハメになるとこだった。
「そういえばさ、高田さんから感想聞いた?」
「……あ」
分かりやすいくらい、『忘れてた』という顔をする。
「ちーなーつ?」
「あ、あははー……ごめん。明日、明日になったら分かると思うからさ」
ほんの少しだけガッカリした。
まぁ明日聞けるなら、それはそれで楽しみだから別にいいか。
「じゃあ私はそろそろ行くわ」
千夏は腕時計を確認して言った。
私は置き時計を確認すると時刻は7時30分過ぎ、さすがに帰らないとマズイ時間帯だ。
「ありがとね、今度何か奢るよ」
「じゃあ貸し1個ね、後でなに要求するか考えとくわ」
外に出るのはちょっと辛いので、玄関先まで見送る事にした。
「明日休むの?」
「う〜ん……多分。熱がまだ引いてないと思うし」
「そっか、じゃあ明日も来るから楽しみにしてなさい」
「うん、楽しみに待ってる」
「本当に楽しみ……ね」
去り際に何やら良からぬ事を考えた顔をして去っていった。
……ちょっと不安になる。
再びおでこに熱冷ましシートを張っつけ、厚くなっている布団にくるまって寝た。
→
――後ろを歩く人は、時折前の人に追いつき肩を叩いて呼ぼうとするが、いつも触れる直前で辞めていた。
知り合う前に、触れ合うのが怖かった。
――前を歩く人は、時折立ち止まり空を見上げていた。
あの空の向こうに、大切な人は居るのだろうかと思いながら。
→
目覚ましの音より先に目が覚める。
原因は少々強めの雨。
梅雨も過ぎ、秋も近いというのに雨の日はやけに多かった。
始発のバスに揺られ、憂鬱な気分のまま学校へと行く。
途中、ケーキ屋の前で見たあの親子が仲良く手をつなぎ、1つの傘を2人で射しているのが見えた。
走るバスと窓からなので一瞬しか見えなかったが、親子揃って楽しそうな笑顔だったのが、やけに目に焼き付いて離れなかった。
午前の授業、何を勉強したのかは特に覚えていない。
ノートを見れば思い出すかもしれないが、印象に残るような事はやってなかった。
お昼、今日は自分の弁当があるので困ることはない。
「やっぱりな、1組の柳川は4組の田中と付き合うのは間違いだったと思うんだよ。柳川は不良だろ? で、田中はクソがつくほど真面目だったのに彼氏にずるずると引っ張られて堕ちていってしまった、と」
相変わらず銀助は最新の恋い話情報を話している。
それを俺はラジオ代わりに聞いていた。
スイッチを切ることは出来ないが、耳障りなワケではないので大して気にならない。
「どう思う?」
「あぁ……そりゃ大変だな」
「やっぱりお前もそう思うか。だよな、柳川じゃなくて同じ4組の遠藤と付き合うべきだったんだって、な?」
「あぁ……そうだな」
俺はどう考えても適当としかいいようのない返事しかしてないが、それでも会話は成立していた。
端から見れば、不思議な光景だろう。
銀助は、別に俺の他に友人が居ないワケではない。
いや、むしろとんでもなく多い。
学校一の恋愛情報を持っているワケだから、必然的に頼ってくる人も少なくない。
それは男女問わずに、だ。
さらにモテないワケでもない。
前髪が鬱陶しいほど目にかかっているが、それをかき上げると結構格好いい部類に入る。
あいつの下駄箱に、ラブレターが入っているのを何回も見たことがある。
それでも何故か付き合わず、他の友人とも付き合わず、こうして俺に絡んでくることが多い。
「聞いているのか、喜一」
「あぁ、聞いているよ」
そうか、と言って再び話し始める。
お昼休みが終わるまで、こうしたやり取りが続いていた。
午後の授業も終わり、後は帰るだけとなった。
「じゃーな、喜一」
「あぁ」
手早く荷物をまとめ、教室を出た。
昇降口で靴を履いていると、誰かに肩を掴まれる。
千夏だった。
走ってきたのか、ぜぇぜぇと肩で息をしている。
「ちょ、ちょっと……待ちなさいって……。あんた、帰るの早すぎ……」
なんだか嫌な予感がしたので逃げようかとも思ったが、こうも肩をガッシリ掴まれてはどうしようもなかった。
「ちょっとだけ……待って……」
千夏は何度か深呼吸をし、息を整えてから話し出した。
「喜一、昨日の弁当の空は今有る?」
「有るよ。今渡すよ」
鞄から弁当箱を取り出そうとしたが、千夏にその手を掴まれる。
「ちょーっと待った。今私に渡されても困るワケよ」
「何故? こんなの荷物にもならないだろう?」
「残念、生憎鞄が一杯で入りません」
「これを寄越した人はまだ居るんだろう? 手で持って行ってその人に渡せばいいだろうが」
「残念、どうやらその弁当を作るのに風邪を引いたらしくてね、今日学校に来てないんだわ」
「……それで?」
千夏が、ニヤリと笑った。
どうやら嫌な予感は、当たりらしい……。
→
夢を見た。
あれはそう……中学に上がってすぐの事だから4年程前の事になるだろうか?
父さんがまだ、生きていた時の事だ。
――待っていろ、今雑炊を作ってやるからな
今と同じように、私は風邪を引いて寝込んでいた。
原因はもう忘れてしまった。
――ほら、父さん特製の雑炊だ。半熟卵も入ってるぞ
父さんの料理はとてもおいしかった。
今もその味を覚えている。
――はは、美奈は猫舌だからな、父さんが冷ましてやるよ
わざわざ父さんは、会社を休んでまで私の看護をしてくれていた。
父さんは男手一つで私を育ててくれた。
8年程前、父さんは離婚したが、何故か再婚はしなかった。
多分、離婚しても母さんを愛していたのかもしれないが、父さんが死んでしまった今となっては真相は不明だ。
――おいしいか?
私は頷いていた。
――そうか、それだけ食欲があればすぐ元気になるさ
父さんは立ち上がり、食べ終わった食器を洗い始めた。
その背中を、私は見つめていた。
頼りがいがあるようで、儚げで、寂しげで……。
そんな父さんの背中を私は夢の中に落ちるまで見つめていたのを、今も覚えていた――。
トントントン。
「……ん……」
キッチンから聞こえてくる音で目覚めた。
時刻はまだ夕暮れ時だというのに、雨のせいか既に部屋の中は暗かった。
トントントン。
小気味よい音は鳴り続ける。
時間的に考えて千夏だろうか?
自分の部屋から出て、キッチンへと向かった。
リビングから、誰かの後ろ姿が見えた。
背格好から千夏でないことは確かだ。
テンポ良く包丁を動かし、料理をしていたのは――父さんだった。
「父……さん……?」
これは夢の続きか?
それとも現実か?
そこには、確かに父さんが居た。
その背中は、相変わらず頼りがいがあるようで、儚げで、寂しげで……。
「父さん……」
私はもう一度父さんを呼んだ。
父さんは私に気づき、振り向いた。
その瞬間、父さんの面影は消え、替わりに残ったのは高田さんだった。
そう、キッチンで料理をしていたのは、高田さんだった――。
→
半ば無理矢理(いや、強制的に)お弁当を作ってくれた人の家へ、お見舞いに行くことになった。
千夏の家以外に女の家に行ったことがないので、余計に行きたくなくなる。
途中、何故かスーパーに寄ることになった。
千夏とは付き合いが長いので、考えていることは何となく察しが付いた。
アパートが建ち並ぶ住宅街の中に、その人は住んでいるそうだ。
その中でも比較的新しい、B館と大きく書かれたアパートに入る。
階段を昇り、208と書かれたドアの前で千夏は止まった。
「ここだよ」
「……斉藤……?」
扉の横には、『斉藤』という表札が掲げてあった。
その下に、住人の名らしきモノが書いてある。
『正明』、『美奈』と2名だけだった。
斉藤……美奈、確か墓地であった女がそんな名前だった気がする。
俺が助け、弁当を作った張本人がこいつか。
「さ、入るよ」
「インターホンで呼べよ、居るんだろう?」
俺の意見など無視して、開けようとする。
ガチャという音がし、扉は開かなかった。
「やっぱり鍵掛かってるか……」
「だから呼べよ」
またも俺の意見などお構いなしで、鞄から一つの鍵を取り出す。
まさか、合い鍵なワケないよな……。
予想通りというか何というか、ガチャリと鍵が外れる音がし、扉は開いた。
「……いくら知り合いとはいえ、これじゃあ不法侵入罪じゃねーのか?」
「大丈夫大丈夫、私と美奈の中だから……よっと」
ドアチェーンも、根本から外れた。
何の苦もなく外れた所を見ると、元々外れやすかったのだろう。
「さ、上がって」
「お前が言うことじゃないだろうに……」
こうなっては外で待っていてもどうしようもないので、取り合えず中に入ることにした。
中は思ったよりも綺麗で、典型的な1LDK型の部屋だ。
奥に部屋が見えるが、恐らくそこが寝室となっているのだろう。
「親とか来たらどうやって弁解すんだよ……、お前ならともかく俺はマズイだろ」
「あぁ、その辺は大丈夫。美奈、親居ないから」
千夏はさらりと言った。
さも当たり前のように言ってのけた。
「……どういう事だ? 表札下には父親らしき人の名前が書いてあったぞ」
この反論は自分でも無意味と分かっていた。
恐らく、美奈という女もまた、自分と同じ境遇という事なのだろう。
「察しているんでしょ? そう、あんたと同じ。美奈は3年前に父さんを亡くしたのよ」
3年前……。
俺がお袋を亡くした年数が全く一緒とは……。
「……原因は?」
「交通事故。トラックが居眠り運転してて、中央線突破して来たのにそのまま巻き込まれ……即死だそうよ」
「……そうか」
突発的な事故死は、病死よりも辛いときがある。
病死は、弱っていくお袋を見続けなければいけなかったが、お袋の『死』を看取ることも出来た。
遺言らしきモノも……聞くことが出来た。
突発的な事故死は、一瞬にして目の前から消えていってしまう。
何の前触れもなく、何の遺言もなく、一瞬にして……。
「それは……つらいな」
親を亡くすという辛さは、嫌と言うほど身に染みていた。
「そう、美奈はつらいのよ。で、あんたの出番なワケよ」
「……話しに繋がりがないぞ」
「ちゃんと繋がってるわよ。美奈は今風邪なのは分かってるわよね?」
「あぁ、昇降口でそう言ってたな」
「理由は何だと思う?」
「さぁな……知るよしもないさ」
「一昨日、美奈が乱暴されそうになったのは知ってるよね?」
「当たり前だろう。それを俺が助けたんだからな」
千夏の話の意図が、今ひとつ見えてこなかった。
「あの子ね……外で泣いていたんだ」
千夏が辛そうに話す。
「それは……二ノ宮に乱暴されそうになったなのか?」
「……うん。夕方、雨が降ってきたじゃない。その雨の中、あの子は泣いていたんだ。私が来るまでずっと……」
なんだか、いたたまれない気持ちになってきた。
親を亡くしてから、3年という月日は長いようで短い。
傷はまだ塞がっていないというのに、その傷を広げ、さらに深くの傷を残されたというのか……。
拳に力が入る。
「後で二ノ宮の野郎をここに連れてきて、土下座でもさせてやる……!」
怒りのあまり、ギリリと歯ぎしりまで鳴る。
「ま、待った! そ、そんな事しても美奈は喜ばないって! そ、そんな事よりもあんたのその気持ちが大事なのよ」
千夏になだめられ、何とか怒りは収まった。
「あの子は友達が少ないのよ。父さんを亡くしてからさ、内気になっちゃったみたいで……」
「あぁ……心中察するよ……」
「やっぱりね、私一人じゃ慰められるのにも限界がある。やっぱりさ、人数が多い方が慰めやすいのよ」
千夏にしては珍しく弱気だ。
それほどまでに深刻な事態というワケか。
「というわけで、あんたは美奈の男友達一号になりなさい」
「そう……だな。そんなので良いんだったら、別に構いはしないさ」
同じ境遇を持ち、同じ学校で、同じ年齢という奇妙なこの偶然も、何かの縁なのかも知れない。
「あんただったら、意外と美奈と仲良くなれるかもね」
「ふ……そうかもな」
今思えば、墓地で初めて知り合ったというのも、親を亡くしたという同じ境遇から来る偶然だったのかも知れない。
――そう……なんですか……。お悔やみ申し上げます
墓地で、俺のお袋が死んでいる事を美奈に告げると、美奈はこう言った。
美奈の父が死んでいるということを知った今では、同じ境遇者からの慰めの言葉だったのかもしれないと思った。
→
私の思考回路は停止していた。
「高田……さん?」
目の前に居るのは、確かに高田さんだ。
見間違えるワケがない。
でも何故学生服のままで、私の家の台所で、しかも料理なんかしているのだろうか?
「なんだ、起きてきたのか」
料理の手を一旦止め、私の元へと来た。
「悪いな、台所を借りているよ」
「そ、それは別に構いませんけど……あの……」
二の次の言葉が続かなかった。
質問した事が山積み過ぎて、言葉にならない。
「あぁー……そうだな、順を追って説明するよ」
「……はい、そうしてもらえると助かります」
高田さんは、私にここに来た経緯を掻い摘んで説明してくれた。
千夏に誘われて私のお見舞いに来たこと、私の為に料理を作ってくれている事など。
「……というワケだ。勝手に入ったのは悪いと思っているが、その辺は料理でチャラにしてくれ」
「え……? あ、はい。ありがとうございます」
私はペコリと頭を下げた。
「もうすぐ料理が出来ると思うから、座って待っててくれ」
「あ、はい」
言われるがままに、部屋の中央にあるテーブル近くに座る。
高田さんは踵を返し、台所に戻っていった。
(……どういう事?)
思わず自問自答してしまった。
いくら千夏に誘われた、もしくは頼まれたのかもしれないけれど、高田さんが私の為に料理を作ってくれているなんてちょっと変だ。
正直に言えば、すごく嬉しい。
でも、すごく変だ。
私と高田さんの面識はほとんどない。
いや、『知り合っている』と言っていいかどうかすら怪しい。
それなのに、高田さんは私の為に料理を作っているし、優しかった。
私が病気のせいだろうか?
「出来たよ」
高田さんは小さなお盆に、小さめの丼を2つ乗せてきた。
テーブルに置かれ、中身を見るとそれは雑炊だった。
「雑炊……」
これは偶然だろうか?
料理する高田さんの後ろ姿が父さんに見え、料理が雑炊とは……。
「嫌いだったか?」
「あ、違うんです。むしろ好きですけど……」
「千夏に言われたんだ。雑炊を作って置きなさいってな」
なるほど、納得。
……で、その千夏が見当たらない。
「あの、千夏はどこに行ったか分かりますか……?」
高田さんは、ほんの少しだけ首を傾げた。
「んー……さぁな。すぐに戻ってくるって言って、出て行ったきりだ」
「そう……ですか」
多分、千夏は帰ってこないだろう。
私と高田さんを2人っきりにするために、高田さんをここに連れてきたとしか思えない。
『2人で甘い時間でも過ごしなさい』
今、千夏とテレパシーのようなモノで交信できたら、きっとこう言うだろう。
でも……でも、どうしても腑に落ちない事がある。
高田さんと初めて会ったときは、すごく冷たくされた。
それなのに、今はすごく優しい。
私が病気だからという理由だけでは、片づけられない。
「あの……」
質問しようとすると、高田さんからレンゲを手渡される。
「積もる質問はあると思うけど、まずは食べてからにしとけ。冷める」
「あ、はい」
確かに、冷めた雑炊はおいしいとは言い難いモノに変化してしまう。
少しだけすくい、息でよく冷ましてから口に入れた。
「……おいしい……」
すごく驚いた。
本当に、言葉がないくらいに美味しかった。
「そうか? ならいいけどな」
なんだかすごく悔しいな。
せっかくお弁当を食べさせてあげたというのに、こんな味の前では霞んでしまう。
「あの……」
「ん?」
それでも、感想は聞きたかった。
「……お弁当、美味しかったですか?」
「ん〜……60点。あれは弁当というより、普通の料理で食べた方が良かっただろうな」
……思いのほか辛口評価だった。
「でもな……うまかったよ」
「本当ですか?」
「あぁ……うまかったよ」
嘘を付いているようにも見えないし、お世辞を言っているようにも見えなかった。
しみじみと、あのお弁当の味を思い出しながら感想を言っている、そんな感じだった。
「そうですか、ふふ……。本当に、作ったかいがありましたよ」
料理を作ってもらった人にとっては、『美味しい』は最高の褒め言葉だと思う。
「雑炊、おかわりいるか?」
「あ、はい。頂きます」
本当はあまり食欲がなかったけれど、こんなにおいしい雑炊だったら何杯でもいけそうだった。
「千夏……遅いですね」
来ないと分かりきってて、あえて言った。
→
「千夏……遅いですね」
美奈は時計を見ながら言った。
あいつの事だから、きっと戻ってこないだろう。
出て行くとき、あまりに白々しい態度で去っていったから、多分戻ってこない。
「あぁ、そうだな」
一人暮らしの女の部屋に、男と女が2人きりというシチュエーションは結構マズイ。
せめて、もう一人女が増えると思っていた方が相手にとっては楽だろう。
でも何故か、この雰囲気が気まずいとは思わなかった。
むしろ自然体で、互いに相手を気にしているようで、居るのが当たり前のようなこの空間。
とても、不思議だった。
「そういえば……」
本当は今言うべきではないのかも知れないが、こちらが知っているというのを相手が知らないというのは、俺の礼儀に反すると思い、言うことにした。
→
「そういえば……」
高田さんは思い出したように言った。
「千夏から聞いたんだ。 ……3年前、父親を亡くしたんだってな……」
高田さんは辛そうに話した。
そうか、なるほど。
妙に優しいと思ったら、そういうことか。
私同様、高田さんも3年前に母さんを亡くしている。
私と同じ境遇にある、同じ穴のムジナ。
だから、優しかったのか。
「それは高田さんも同じじゃないですか。 墓地で言いましたよね、3年前、母さんを亡くしたって」
「あぁ、確かにそうだ。 でも、そうじゃなくて……」
何故か高田さんは、言葉を詰まらせた。
→
「あぁ、確かにそうだ。 でも、そうじゃなくて……」
言葉に詰まった。
言うべきか、言わざるべきか、悩んだ。
でも、ここまで来たら言うべきだろう。
俺如きが慰めてやれるかどうかは不明だが、それでも言うべきだ。
「一昨日、二ノ宮に乱暴されそうになったよな」
俺は、少しだけ遠回りに言った。
→
「一昨日、二ノ宮に乱暴されそうになったよな」
確かにそうだ。
でも、そのお陰で高田さんに弁当を作ることが出来、こうしてお見舞いにまで来てくれている。
今となっては、二ノ宮に感謝すらしそうだ。
「辛いよな……それは」
「……え? えぇ、まぁ……少しは」
気遣ってくれているのだろうか?
でも、自慢の髪が数本程度抜けただけで別に怪我とかなかったし、対して気にしてないけど……。
「泣いたって別に不思議じゃない、いや、泣く方が自然だと思う」
泣く?
確かに泣きそうにはなったけれど、涙目で収まったし……。
「あ、あの〜……?」
何だかイマイチ話が噛み合っていない気がする。
→
「あ、あの〜……?」
何故そんな事を知っているのか?そんな顔だった。
「千夏から聞いたんだ……。 ……雨が降る中、泣いていたって……」
「……へ?」
気の抜けた返答。
「いや、だからな……。 昨日の夕方、雨が降っていたよな?」
「はい」
「で、辛くて外で泣いていた……」
「……はい?」
……ん?
なんか、噛み合ってない……?
→
「で、辛くて外で泣いていた……」
「……はい?」
なんだ?どういうことなんだろうか?
そんな事をした覚えもないし、泣いた覚えもない。
「風邪の原因って、外で泣いていたからじゃあ……?」
「いや、トラックの跳ね水がかかって、それで身体が冷えちゃったらしくて……」
妙な間が空いた。
「「……ん?」」
2人同時に首を傾げる。
→
「もしかして……千夏にやられた?」
「もしかして……千夏に騙された?」
→
――前の人は、後ろの人に気が付き、歩みを止める。
――後ろの人は、それに気が付き、歩み寄る。
――2人は、同じ歩調で歩み始めた。
→
『早よ起きんかーい! 遅刻してもしらへんでー!!』
「は、はいー!」
妙な返事をしながら、布団から飛び出るように起きる。
きょろきょろと周りを見回すと、枕元で目覚まし時計がベルの代わりに喋っているだけだった。
やっぱり、これには慣れない。
朝ご飯を作るため、キッチンへと向かった。
そこにはまだ、喜一さんが作ってくれた雑炊の残りがあった。
昨日の出来事が、嘘でないことを物語っているようで嬉しかった。
電子レンジで温め、それを朝ご飯にする。
「やっぱりおいしいなぁ……」
こんなに美味しくては私が形無しだよ、本当に。
雑炊を食べながら、昨日の出来事を少しだけ思い出す。
――「はは、ははは……!」
「ふふ、ふふふ……!」
私と喜一さんは笑っていた。
何とも馬鹿らしくて、笑うほかになかった。
「まさか……千夏にやられるとはね……はは」
「本当に……そんな話を信じたんですか……ふふ」
おかしくておかしくて、お腹が痛くなってきそうだった。
「信じてしまったんだよ、千夏が本気で話してたからなぁ……」
「千夏って、演技力はありますからね。使うのはそんな事ばっかりにですけど……ふふ」
バツが悪くなったのか、高田さんは頬をポリポリと掻いていた。
「駄目ですよ、高田さん。千夏の話を鵜呑みにしちゃあ」
「うん……面目ない。あいつとは小学からの知り合いなんだがな、あいつの性格は未だに把握できてない」
「クールに見えて、結構破天荒なとこ強いですからね、千夏は」
何の隔たりもなく、喜一さんと話すことが出来ていた。
今までウジウジしていた自分が、馬鹿らしく感じるほど簡単で、楽しかった。
しばらく他愛もないことを話し合い、時刻はあっという間に過ぎ去っていった。
「高田さん、今日はありがとうございました」
玄関を出ようとした喜一さんは、最後にこう言って去っていった。
「喜一でいいよ。じゃ、身体に気をつけてな」
そう、私は喜一さん公認で名前を呼ぶことを許された。
「喜一さん……」
噛み締めるように名前を呼んでみた。
「……くぅ〜〜……!」
何だか嬉しくなり、意味もなく部屋の中を跳び回った。
「よっしゃー!」
何だか訳の分からない気合いを入れ、学校の準備を進めた。
→
今日の目覚めは、妙に晴れていた。
外が晴れているからだろうか?
それとはちょっと違う気がするが、今ひとつしっくり来るモノが思いつかなかったので、考えるのを止めた。
朝ご飯を作り、それを口に入れるといつもの味がした。
(昨日の雑炊は、うまく作れたのにな……)
材料が良かったのか、それとも、たまたまうまくいっただけなのか。
手早く着替え、家を出た。
家を出ると、少し強めの日差しが俺に差しかかる。
秋も近いというのに、風は春のように心地よかった。
何だかいつもとはちょっと違う、そう感じた。
→
教室に入ると、いつもは遅い千夏が今日に限って早く来ていた。
「や、美奈。おはよう」
白々しいまでに爽やかな笑顔で私に挨拶をしてくれた。
「えぇ千夏。おはよう」
少しだけ嫌味を含んだ挨拶をしてやった。
「怒っている……ワケないか。そんなニヤけた顔してれば、どうなったか想像が付くよ」
「え……? そ、そんなにニヤけている?」
「うん、新婚さんみたいなニヤけ顔」
新婚さん……。
思わずウェディングドレスの私とタキシードの喜一さんを想像してしまう。
「はいはい……顔真っ赤になってるよ。相変わらず想像が豊かですこと……」
「あは、あはは……。まぁね、確かに喜一さんとは仲良くなったよ」
「へぇ〜……、名字から名前に変わったか。大進歩だね、美奈」
「えへへ……」
こそばゆくて頭をポリポリと掻く。
「本っ当に千夏に感謝! もう、なんでも奢ってあげるよ〜」
「へぇ? 本当に?」
千夏の左眉毛が少しだけ上がる。
「うん、本当に」
「じゃあ、松坂牛300gステーキミディアム焼きで」
千夏はさらりと言った。
「うッ……!」
私は頭を抱えて考え出した。
(え、え〜と……。確かこの前デパートで見たときの値段は100g……3000円ぐらい!? それを3倍だからー……。……9000円……・・)
財布を取り出し、お札のコーナーを確認する。
枚数は夏目漱石が4枚……か。
「ひゃ、100gならなんとか……」
「冗談よ、冗談。『ガルク』のBコースハンバーグセットで手を打ってあげるわよ」
確かBコースは、1000円でちょっとだけお釣りが返ってくるハズだ。
額にかいた冷や汗を袖で拭き取る。
「ほ、本気かと思ったわよ……。千夏は本気と冗談の区別がつきにくいのよ。それで昨日も……」
昨日の喜一さんの事を思い出す。
「そういえば千夏、昨日喜一さんにさぁ……」
昨日、千夏が喜一さんに伝えた、私の風邪を引いた原因を話す。
「どう? なかなか良い設定だったでしょう?」
自慢気に千夏は言った。
別に責めているワケではないのだが、ちょっとぐらいは反省して欲しいモノだと私は思った。
→
昼休み、いつもの通り何の約束も断りもなしに銀助は俺の席に来る。
席の半分を占領するノートパソコンをどっかりと置き、片手でパンを食べながら片手でキーボード操作という、いつものスタイルをとる。
残った半分の席を使い、俺の弁当を広げる。
相も変わらず、銀助はラジオのように喋り出す。
そして俺はそれを聞いていた。
と、何かを思い出したように俺に語りかけてきた。
「そういえば喜一。お前昨日、3日前に助けた女の家に行っただろう?」
箸で掴んでいた肉団子を、ポロリと落とした。
「……お前は俺のストーカーか?」
「カカ、俺の情報を舐めるなよ」
こいつの情報収集能力は、誰もが認める実力だろう。
だが、まさか昨日の俺の行動までもが知られているとは思いもしなかった。
「……あぁ、確かに行ったよ。千夏と一緒にお見舞いにな」
どうせ知られているのなら、堂々と包み隠さず言ってやった。
「で、その千夏もしばらくすると外に出て行った、と」
今度は卵焼きを落とした。
「……やっぱりストーカーか? それともCCDカメラでも俺に設置したのか?」
「どっちもハズレだ。もっとも、答えは教えられないがな」
軽い目眩を覚え、目頭を押さえる。
「で、どうだ? ラヴラヴな雰囲気にでもなったか?」
「ならねぇよ」
「カカ、俺としては非常に気になる所だな。なんせお前の恋い話情報なんて一切なかったからなぁ」
「勝手に気にしてろ」
「カカ、俄然やる気が出るよ。待ってろよ、美奈に関して色々教えてやるからな」
銀助はパンを一気に頬張ると、両手でキーボードを叩きだした。
そのスピードは、異常者ではないかと思えるほど速かった。
「出たぞ、え〜とな……」
「いらねぇよ」
「そんな遠慮するな、知っておけば便利だぞ」
「本人の了解なしで、知られたくない過去なんぞ知りたくもない」
「……それも、お袋の教えとやらか?」
「別に、ただそう思ってるだけだ。それと、悪いが美奈に関する情報は消しといてくれないか?」
「なんで?」
「別に、何となくだ。嫌ならいい」
「分かった、消しておくよ。お前にしちゃあ珍しい頼み事だしな」
「助かる」
再び銀助はキーボードを動かし、ノートパソコンをこちらに向ける。
初めてこいつの画面を見た。
「お前がやってくれ、情報消すなんて俺には出来ん」
画面には『完全に消去しますか?』という文字と『はい』『いいえ』の2択があった。
『はい』を選択し、Enterキーをゆっくりと押し込んだ。
→
外を見ると、空は雲が生い茂っていた。
きっと雨が降る。
そう、思った。
<雨は、まだまだ降り続いていた…>
雨が降っていた。
午後の授業の途中から降り始めた雨は、放課後になっても降っていた。
朝は快晴だったから、傘は持ってきてない。
ずぶ濡れになって風邪を引くのも馬鹿らしいので、バスを利用することにした。
→
雨が降っていた。
帰ろうと身支度を整えている時に、その事に気が付いた。
雲一つない天気に騙され、傘は持ってきてない。
ずぶ濡れになってまた風邪を引いては洒落にならないので、バスを利用することにした。
→
鞄を傘代わりにし、バス停へと急いだ。
地面には既に水たまりが出来、勢いよく足を入れる度に大きく水は跳ね、俺のズボンを汚していく。
(昨日洗濯したばっかりなのになぁ……)
今日もズボンを洗い、陰干しするハメになるかと思うと、走るのを止めようかとも迷った。
――が、風邪を引くのはもっと嫌なので結局は走ることにした。
バシャバシャと大きな音をたて、ようやく屋根のあるバス停へとたどり着く。
→
下敷きを傘代わりにし、バス停へと急いだ。
地面には既に大きな水たまりが出来、避けようとするが結局水に足を入れ、靴の中はもう水浸しだ。
(うえぇ〜……ぐちゃぐちゃして気持ち悪い……)
雨の日は好きだが、それは傘を差している日だけだ。
傘もなく、体中が水浸しになるのは大嫌いだ。
パシャパシャと音をたて、ようやく屋根のあるバス停へとたどり着いた。
→
ふと気が付くと、見知った顔が横にいた。
傘を忘れたのだろうか、体中が雨で濡れていた。
→
声をかけようとすると、丁度バスが来た。
プシューという音と共にドアは開いた。
「先、乗りなよ」
「うん、ありがと」
美奈が乗った後、それに続いてバスに乗った。
再びプシューという音が鳴り、ドアは閉まり、バスは出発した。
→
声をかけようとするが、タイミング悪くバスが来てしまった。
プシューという音と共に扉は開いた。
「先、乗りなよ」
「うん、ありがと」
短い礼を言い、私はバスに乗り込んだ。
喜一さんも乗り込んだ後、扉は閉じ、バスは発進した。
→
思ったよりも人は少なく、座席も多々空いていた。
いつもの定位置も空いていたので、俺はそこに座った。
美奈は、どこに座ろうか迷っているのか、辺りをキョロキョロと見渡していた。
「隣、空いてるよ」
と、俺は言った。
→
思っていたよりも人は少なく、座席も結構空いていた。
喜一さんはいつもの定位置に座り、腰を落ち着けた。
私もいつもの席に座ろうか、それとも喜一さんの隣に座ろうか悩んでいた。
「隣、空いてるよ」
と、喜一さんは言った。
→
バスは渋滞に巻き込まれながら、のんびりと走る。
俺はただ、窓から見える傘を差す人々を眺めていた。
隣には女の友人。
何か話しでもしようかとも思ったが、止めた。
横に友人が居るのならば、話の一つでもするのが道理というモノだ。
けど、話さなかった。
美奈の部屋で一緒に居た時に感じたのと同じで、自然体で、互いに相手を気にしているようで、居るのが当たり前のようなこの雰囲気。
何となく、この雰囲気を壊したくなかった。
→
喜一さんは、いつもの通り窓から外を眺めていた。
私はボケーっと前を見ながらも、時折その横顔を見ていた。
隣には私の好きな人。
何か話の一つでもしようかと考えたが、その考えを止めた。
横に好きな人が居るのだから、話の一つでもしたかった。
でも、止めておいた。
私の部屋で感じたこの雰囲気を、壊したくはなかった。
まるで長年付き添った恋人のように、居るけれど負担にはならず、自分は自分でいられるこの雰囲気。
とても、好きだった。
→
結局、バスを降りる直前までは、一切会話を交わさなかった。
けど、何かが通じ合っていた。
→
――2人は、同じ歩調で歩いていた。
歩く2人は何故か、会話は一切話さなかった。
まるで長年付き添った恋人のように、言葉を必要としてなかった。
だけど、2人は恋人の様だけれど、恋人ではなかった。
何を恋人としての定義にすればいいのかは分からないけれど、
2人は、恋人ではなかった――。
→
朝、降り続く雨の音で眼が覚める。
昨日、ようやく晴れたかと思ったらまた雨。
雨は好きだが、あんまり降ると洗濯物が乾かないからちょっと嫌になる。
今日は日曜日、急いで準備する必要はないが、念入りに準備する必要はあった。
買って置いたパンを食べ、気合いを入れて御粧しを始める。
自分でも、こんなにも早くこんなチャンスが巡ってくるとは思いもしなかった。
事の発端は昨日の夜、喜一さんからの電話だった――。
――ガチャリ
「はい、斉藤ですけど、どちら様でしょうか?」
「もしもし、喜一なんだけれど……」
「え? 喜一さん??」
「あぁ、悪いと思ったけど電話番号、千夏から聞いたんだ」
「い、いえ。むしろ知っておいてもらった方が何かと便利ですし……」
「そう言ってもらえるとありがたいよ」
「それで、何か用事でもあるんですか?」
「あぁ、実は明日、お袋が死んだ日なんだ」
「……え? それって本当ですか!?」
「え、あぁ……。そうだけれど……?」
「実は……明日、家の父さんの誕生日でもあるんですよ……」
「そう……なのか?」
「……はい。偶然とはいえ、何だか運命めいたモノを感じますね……」
「確かにな……。けど、丁度いいや。明日、墓参りに行こうかと思ってるんだが、一緒に行かないか?」
「そう……ですね。せっかくですし、ご一緒します」
……以上が昨日の電話の内容だ。
墓参りとはいえ、デートには違いない。
ただちょっと残念なのは、私の記念すべき初デートがお墓参りから始まるという事だ。
いや、この際だ、その辺には我慢しておこう。
全ての準備を終え、時間を見れば9時40分になろうとしていた。
銀助からもらった地図によれば、ここから10分程歩けば着くそうだが、早めに出発しておくことに越したことはない。
昨日の内に作って置いた弁当を持ち、靴を履き、お気に入りの傘を持ち、意気揚々と玄関を開けた。
「さぁ、いっちょやったりますか!」
→
ピンポーン。
来客を告げる音で眼が覚めた。
寝ぼけ眼で時刻を確認すると、10時ちょっと前。
一瞬誰かと思ったが、すぐに美奈と今日墓参りに行くということを思い出す。
(やば……!)
急いで洗面所へ行き、顔を洗う。
もう一度音が鳴り響く。
「悪い、もう少しだけ待っててくれ!」
玄関に居るであろう美奈に向かって言った。
それなりな服装に着替え、朝ご飯を食べようかとも思ったがこれ以上待たせるのも悪いので止めた。
腹がぐうぐうとデモ抗議を起こしているが、気合いで止める。
急いで靴を履き、傘を持って玄関を開けた。
「おはようございます」
オレンジという目立つ傘を差して、美奈は居た。
手にはお弁当、公園かどこかで食べようと予定していたのかもしれないが、生憎の雨。
まぁ、雨宿り出来る所であればどこでも食べられるが。
「あぁ、おはよう。待たせて悪かったな」
「私が来るまで寝てたんですね。大急ぎで準備してたのが、こっちからでも分かりましたよ」
美奈は、くすりと笑う。
「はは、まぁギリギリセーフって事にしておいてくれ」
「本当にギリギリですよ。女の子を5分以上玄関で待たせてはダメですよ」
『めっ!』という擬音語が似合うような叱り方をする。
「分かったよ、今後はそうする」
「では、行きましょうか」
くるりと舞うように、美奈は向きを変えた。
「そうだな、行こうか」
俺と美奈は、同じ歩調、同じ速度で歩き始めた。
→
お墓に添える花を買うため、伯母さんの店に立ち寄る。
「いらっしゃいませー……あら? 美奈ちゃん?」
「どうも、今日はお客さんで来ました」
伯母さんは訝しげに私達を見る。
「あら? あらあら?」
伯母さんは私の手を引き、喜一さんから離れた場所で耳打ちをした。
「ちょっと、どうしたのよ彼は?」
「えへへ……、まぁいろいろありまして……」
「あらあら、意外に美奈ちゃんもやるわねぇ……。よし、ちょっと待っててね」
店内にある花をいくつか見繕っていく。
「はい、美奈ちゃん」
両手一杯の様々な花を上質な和紙でくるみ、それを私に渡した。
「え? これって……?」
「伯母さんからのせめてものプレゼント。こんな物で申し訳ないけどね」
「そ、そんな事ないです! あ、ありがとうございます!」
私は勢いよく頭を下げ、礼をした。
「あなた、名前は?」
「喜一です」
「そう、喜一さんね。はい、あなたはこれでよろしいかしら?」
伯母さんが喜一さんに渡したのは、菊と牡丹のセット。
「いいんですか……?」
「えぇ、でももうちょっと付け足した方がいいかしら?」
喜一さんは、静かに首を振った。
「いえ、このくらいが丁度良いです。あんまり多いと、お袋が嫌がりそうですから」
「そう、あなたはお母さんのお墓参りなのね?」
「はい」
喜一さんはゆっくりと頷いた。
「雨が降ってるから、2人とも気を付けてね」
最後にもう一度深くお辞儀をしてから、墓地に向かって再び歩き始めた。
墓地に着いても雨は止まず、大きな水たまりを作っていく。
入り口の階段を上り、辺りを見渡した。
雨が降る中お墓参りに来る者など、私達のような特別な事情がない限りは来ないだろう。
(……あれ?)
けれど、遠くの方に人影のようなモノが見える。
オバケかも、なんてくだらない考えが一瞬過ぎった。
その人影を気にしながらも、喜一さんのお母さんのお墓に向かおうと思い、足を進めた。
進めようと思ったが、何故か喜一さんは立ち止まったままだった。
「喜一さん……?」
喜一さんは人影の方向をずっと見たまま、案山子のように立ちすくんでいた。
「喜一……さん?」
もう一度呼びかけるが、反応はない。
まるでオバケでも見たような、信じられない物を目撃した、そんな顔だった。
「……親父……」
力のない声で、呟くように喜一さんは言った。
傘の柄を握っていた手に、力が入っていくのが見えた。
「糞親父ーーーーー!!」
喜一さんは、持っていた傘を放り投げて走り出す。
「き、喜一さん!?」
私は、何が一体どうしたのか分からなかった。
けれど後を追うべきだと思い、喜一さんが放り投げていった傘を拾って、追うように私も走り出す。
雨は、よりいっそう強く降り出していた――。
→
見間違える訳がない、見間違えるハズがない。
あの背中を、俺が見間違えるハズがない。
一際大きな水音をたて、俺は止まった。
「糞親父!」
ゆっくりと、お袋の墓の前に立っていた糞親父がこちらを向いた。
皺が増えたということ以外、糞親父は6年前と同じだった。
「喜一……か」
哀しいような、嬉しいような複雑な顔を見せる。
「……元気だったか?」
その言葉に、俺は反射的に糞親父の頬を殴っていた。
殴った手には花が握られていて、桜吹雪のように花びらが舞った。
よろめきながらも糞親父は倒れず、すんでの所で踏み止まった。
「元気だったか……? それが、それが6年振りに帰ってきたセリフか!? 今更どの面下げて帰ってきやがった!!?」
糞親父は口から出た血を袖で拭い、頭を下げた。
「……すまなかった」
「それは俺に言うセリフじゃねぇ! あんたは……あんたは何をしたか分かっているのか!?」
バシャバシャと水音が聞こえ、美奈もこちらに来た。
俺が糞親父を殴る現場が見えたのだろうか、諭すように俺に言う。
「喜一さん……。事情は分かりませんけど、落ち着いて……」
「すっこんでろ、今はこいつと話している!」
まだ何か言い足そうな顔をしたが、それを無視して糞親父と話しを続ける。
「3年前にお袋が死んだのは知ってるよな?」
糞親父は黙ったまま頷いた。
「死因は何だか知ってるか? ストレスによる病死だぞ!? お袋が病弱ってことを知らないとは言わせない。分かるか? あんたがお袋を殺したんだよ!」
そう、こいつがお袋を殺した。
俺にとって一番大切な存在を、捨て、殺した。
「お袋は……どんな気持ちであんたを待っていたと思う? ずっと、ずっと信じていたんだぞ!? あんたはそれを裏切った!!」
6年という長い年月で蓄積された怒り、悲しみが堰を切ったように流れ出る。
止まることなく、溢れ出るように。
「何で帰ってこなかった!? 何でお袋が死んだときに帰ってこなかった!? 何で今更帰って来やがった!?」
糞親父は、何も言わず、何もせず、ただ聞いていた。
「何とか言え! てめぇは何様のつもりだ! 俺を捨て、お袋も捨て、一体何をしたいんだ!!?」
既に花びらの散った花束を地面に叩きつける。
糞親父は、頭を下げ、一言だけ言った。
「……すまなかった」
頭を下げる糞親父は、とても哀れで、矮小なモノに見えた。
こんな……こんなヤツが、自分の親だなんて思いたくなかった、認めたくもなかった。
踵を返し、背を向けたまま糞親父に言い放った。
「もういい! もう消えろ! もう二度と帰ってくるな! もう二度と俺に顔を見せるな!!」
帰宅しようと歩を進めると、美奈が俺の前に出て止めようとする。
「事情は何となく分かったけど……父さんなんでしょう? 何で、何でそんなに……」
美奈はうつむき、悲しそうな顔になる。
「どけ」
「嫌です!」
「邪魔だ!」
腕で押し避けるように美奈を退かす。
「きゃッ!」
強くやりすぎたのか、勢い余って美奈は水溜まりに尻餅をつく。
墓参りように持ってきた大きな花束は水に濡れ、持ってきたお弁当も水溜まりの中に沈む。
「……ちっ!」
悪いと思いながらも、再び歩を進める。
傘も差さず、雨に濡れながら。
墓地を出た後、近くにあった看板を殴る。
何度も何度も殴り、最後に大きく殴った後、そのまま看板に崩れかかった。
「なんなんだよ……なんなんだよ、ちくしょーー!」
実の親とはいえ、憎くて憎くて、殺したいと思っていた。
なのに、帰ってきて嬉しく思う自分もいた。
何か理由があって、帰ってこれなかったんだと思っている自分もいた。
心のどこかで、全てを許してしまっている自分もいた。
「くそ! くそっ!!」
再び看板を何度も何度も殴る。
雨は降る、ざあざあと。
どうしようもないこの気持ちが、雨に流れてしまえばいいのに。
いつもいつも、雨が降る日は嫌なことしか起きない。
雨は、嫌いだ。
→
倒れた私を一度だけ見て、喜一さんは再び歩を進め、雨の中に消えていった。
「大丈夫かい?」
倒れている私に、喜一さんの父さんが手を差し伸べてくれた。
「……大丈夫です。一人で立てますよ」
地面に手を付け、足に力を入れて立とうとするが、何故か力が入らない。
「あれ……?」
もう一度立とうとするが、どうしても足に力が入らなかった。
見かねた喜一さんの父さんが手を引っ張り、私を立たせてくれた。
「あ、ありがとうございます……」
「礼を言われるような事じゃないよ。それに、謝らなければならないのは私の方だからね……」
喜一さんの父さんはうつむき、哀しそうな顔をする。
頬には喜一さんに殴られた後が、赤々と残っていた。
「君は喜一の……?」
恋人です、なんて言えるわけもなく無難に答える。
「美奈っていいます。喜一さんとはつい最近知り合った友人です」
「そうか、今日は私に会ってしまったからあんなに荒れてしまったが、本当はあんな性格じゃないんだ。許してやってくれ」
喜一さんの代わりに頭を下げる、喜一さんの父さん。
「い、いえ。許すも何も……、事情を知らないで首を突っ込んだ私が悪かったんですし……」
「そうか、そう言ってもらえると助かるよ」
頭を上げた喜一さんの父さんは、少しだけ笑った。
含んだようなその笑い方、とても喜一さんに似ていた。
顔も、雰囲気も、そっくりだった。
喜一さんが歳をとったら、きっとこんな感じになるのだろう。
親子だから当たり前かも知れないけれど、そういう似ているとはちょっと違う感じがした。
「ここから家は近いのかい?」
「徒歩だと……、20分近くは掛かると思いますけど……」
喜一さんの家からここまで10分、それから私の家に向かうと考えれば大体そのくらい掛かるだろう。
「そのずぶ濡れの格好でそんなに歩いたら風邪を引いてしまう、近くに私の部屋があるから寄っていかないか?」
「え、えっとその……」
もっともな言い分だったが、いくら喜一さんの父さんとはいえ、抵抗感があった。
「安心したまえ、私は今でも妻一筋だよ。なぁ、加野子(かのこ)」
喜一さんの父さんは、含んだ笑いをしたまま振り返り、自分の妻が眠るお墓を見た。
その姿に私は、胸を打たれた。
この人は……、喜一さんが言っていたように自分の妻を見捨てるような人じゃない。
何かの理由があって離れたのかもしれないけれど、この人もずっと自分の妻を信じていたんだ。
帰ろうと思ったけれど、帰れなかった。
帰りたかったけど、帰れなかった。
自分の大切な人を置いてまで、しなければならなかった事が、きっとあったんだろう。
「……はい、寄らせてもらいます」
「そうか、それは何よりだ。その前に……」
喜一さんが捨てていった花束を水溜まりの中から拾う。
既に花びらは散り、みすぼらしい花束になっていた。
その花束を、喜一さんの母さんのお墓に添えた。
「喜一には悪いことをしたな……。あいつも、加野子が死んだ日に花を添えたかったろうに……」
喜一さんの代わりにだろうか、両手を合わせ、黙祷を捧げた。
「君も誰かの墓参りに来たのだろう?」
喜一さんの父さんは水溜まりから私の分の花束と、お弁当を拾う。
私はそれを受け取り、短い礼をした。
「私は父さんの墓参りなんです」
「そうか、せっかくだから行くかい?」
「はい」
私と喜一の父さんは、私の父さんのお墓へ向かい、花束を添え、一緒に黙祷を捧げた。
→
家に帰り、冷え切った体を温めるためにシャワーを浴びる。
ざあざあと、温かい雨に打たれながら俺は悩んでいた。
お袋が昏睡する前に言っていたセリフ、遺言が俺の頭に反響する。
『茂を、許してあげてね』
お袋が死んでから、死んでからもお袋の教えに背いた事はなかった。
けど、けれど……。
あの糞親父を許すのだけは、どうしても出来ない。
許したくなかった。
殺意を覚えるほど、俺は糞親父を憎んでいるハズだ。
それなのに、それなのに……。
「くそっ!」
風呂場のタイルを殴ると、鈍い痛みが拳に伝わった。
拳の痛みでは、心の痛みは消えないと分かっていた……。
シャワーを浴び終わり、髪をタオルで拭きながらお袋の部屋に入る。
鏡台に飾られた写真を手に取り、それを見る。
写真には、お袋、俺、そして糞親父が写っていた。
俺の格好からして、多分小学校入学の時だろう。
皆、笑顔だった。
何の曇りもない、見る人が微笑ましくなるような、家族円満の笑顔だった。
もう二度と戻ることのない、家族の笑顔だった。
「……ちッ」
俺はその写真を鏡台の引き出しにしまい、お袋の部屋を後にした。
→
少しばかり歩くと、ビル群が建ち並ぶ住宅街に着いた。
『シンフォニー』と書かれたビルに入り、エレベーターに乗り、5階で降りた。
「こっちだよ」
602号と書かれた扉の前で喜一さんの父さんは止まり、胸ポケットから鍵を出して開けた。
「狭い部屋だが、そこは我慢してくれ」
喜一さんの父さんに続いて部屋に入るが、玄関で立ち止まる。
ズボンはびしょ濡れ、今も水が垂れ落ちている状態で部屋なんかに入れる訳がない。
「タオルか何か、拭く物はないでしょうか……?」
「はい、どうぞ」
奥の引き出しのような場所からタオルを取り出し、投げて寄越してくれた。
「どうも」
せめて滴が垂れないようにズボンを拭き、それから部屋に入った。
中は簡素な作りで、必要最低限な物が揃っているだけだった。
「着替えはそのスポーツバックの中に入っている服から適当に来てくれ、私は外にいるから」
「え……? ちょ、ちょっと待って下さいよ」
私の意見など無視するように、スタスタと玄関に向かっていく。
「シャワーも浴びるといい。体は冷え切ってると思うから。鍵はここに置いていく、私が外に出たら鍵を掛けておくといい」
言うことだけ言って、喜一さんの父さんは外へと出て行ってしまった。
これは……喜一さんの父さんなりの私への配慮、という事だろうか?
『私は絶対に手を出さない』という意志が、ひしひしと伝わってくるようだった。
やっぱり思っていた通り、いい人みたいだ。
一応言われたとおり玄関に鍵をかけ、スポーツバックから適当に着替えを取り出す。
サイズは合う物はなかったが、何とか着られればいい。
服を脱ぎ、温度を調整してからシャワーを浴び始めた。
ざあざあと、温かい雨が私に降り注ぐ。
それはとても心地よく、体の芯まで温めてくれそうだった。
安心感からか、何か張りつめていた物が切れ、へたり込む。
「……あれ?」
立とうとするが、喜一さんに押し倒された時と同じように、足に力が入らなかった。
「……あれれ?」
ふと、私の目からも雨が降る。
一粒、二粒と増え、数は増し続ける。
「何で……何で涙なんか……」
何度も何度も拭うが、止まらなかった。
せっかく、今日は喜一さんと初めてのデートだったのに。
せっかく、喜一さんと仲良くなれたと思ったのに。
繋がっていたと思っていた心は、突き飛ばされた時と一緒に切れてしまった気がした。
「えっ……えっ……うぅ……」
私は、温かい雨が降る中、少しだけ泣いた。
玄関を鍵を外し、喜一さんの父さんを中に入れる。
喜一さんの父さんは中に入るとき、一度だけ私の眼を見て、それから中に入った。
「飲むかい?」
お茶を勧められ、私はそれに頷く。
息でお茶を冷ましながら、ゆっくりとすすった。
「もうこんな時間か……」
喜一さんの父さんにつられるように時計を見ると、既に午後2時を回っていた。
私の横に置かれたお弁当を横目で見る。
本当なら、今頃どこかで落ち着いて喜一さんと一緒にお昼をとっていたのかもしれない。
「お昼……出前をとるけど何か食べるかい?」
携帯電話を片手に私に聞いてくる。
何となく食欲が湧かなかったので、首を横に振った。
「そうか……、なら出前をとるのは止めにしようか」
喜一さんの父さんはああ言ったけれど、回りを見た渡す限りではお昼になるような食べ物は見当たらなかった。
「……食べますか?」
私は、喜一さんの父さんにお弁当を差し出した。
喜一さんの父さんは静かに首を振る。
「それは私が食べるべきではないだろう」
「いいんです。今日中に食べないと痛んでしまうし、きっと今日は……」
喜一さんとは、今日はもう会えない。
「そうか、なら頂こうかな」
私の気持ちを察してくれたのか、喜一さんの父さんは私からお弁当を受け取る。
包みを開け、蓋を取ると、今日のために作ってきたサンドイッチは無惨な姿になっていた。
幸いなのは、水がお弁当の中に染み出していなかったということぐらい。
「あっ……」
何の躊躇いもなく、喜一さんの父さんはサンドイッチを一つ取り、頬張った。
「……うん、うまいな。いや、驚いた。これは本当にうまいな……」
お世辞ではなく、本当に美味しそうに食べていた。
それを見ていると、食べてくれている相手が誰であれ嬉しくなってくる。
「実は、喜一さんにも私のお弁当を食べさせたことがあるんですよ。喜一さん、美味しいって言ってくれました」
「……うん、そうだろうな。あいつなら、きっとおいしいというハズだろうな……」
喜一さんの父さんの言い方は、どこか意味深だった。
喜一さんの味の好みを知っているという事だろうか?
ぽたり。
ふと、何かが落ちる音が聞こえた。
「え……?」
私のサンドイッチを食べながら、喜一さんの父さんは泣いていた。
静かに、何かを思い出すようにサンドイッチを味わいながら。
「ん……? あぁ、すまない。歳のせいか涙腺が緩くてな」
喜一さんの父さんは一度目頭を押さえた後、流れ出た涙をティッシュで拭いた。
「君のサンドイッチは、加野子の味とそっくりだな……。昔を思い出してしまうよ」
喜一さんの父さんは少しだけ笑った。
その笑いはどこか哀しく、空笑いに聞こえた。
「君は喜一が好きなのかい?」
突然の質問だった。
「え……!? い、いや……えと……」
私の顔があっという間に赤くなるのを自分でも感じた。
話の流れ的に全く関係ないのでは?喜一さんの父さん。
本っ当に唐突過ぎますよ、私はどう答えればいいでしょうか?
「ふふ……言わなくても分かるさ。君のその分かりやすい態度もだけれど、このお弁当が何よりの証拠だよ。『おいしい料理を作るときには、相手に美味しく食べさせたいと思う心』、加野子がそう言っていた」
「あ……」
千夏が言っていた事と、全く同じだった。
「それと、実はもう一つあるんだ。『そして、その人を愛する心』、だそうだ」
真っ赤だった顔から、血が出そうになる。
なんか、すごく恥ずかしい……。
「これは私にだけ言っていたみたいけどね。でも、喜一も愛していたからこそ、あいつはいつも加野子の料理を美味しいと言っていたな……」
喜一さんの父さんはその光景を思い出したのか、少しだけ遠い目をした。
「今となっては、全てが懐かしい、か……」
自嘲めいたように、喜一さんの父さんは笑った。
「あの……!」
私は、聞きたかった。
「……なんで、喜一さんの父さんは家を出て行ったんですか……?」
その、真実を。
→
時刻は3時を過ぎ、俺は今の椅子に座って、ただ呆然と思案を繰り返していた。
糞親父が出て行った後、お袋は気丈に振る舞っていた。
『自分は辛くなんかない、だから喜一。あなたは何も心配する必要なんてないのよ』と、そう言っているように見えた。
でも、人は弱いモノ。
お袋だって人だ、深夜に糞親父の写真を抱きしめながら泣いている姿を何度か見たことがあった。
それを見る度、出て行った糞親父の背中を思い出していた。
怒りと、憎しみを込めて。
何度かお袋に糞親父が出て行った理由を尋ねた事がある。
そのつどお袋は言葉を濁し、見たくもない空元気な笑顔を俺に見せた。
糞親父はこの家を出て行った。
愛する妻を捨て、自分の子供を置き、この家を出て行った。
どんな理由があった?
どんな事情があった?
糞親父はこの家を出て行った、それにどんな理由が添えられようと俺は許さない。
俺は……絶対に糞親父を許さない。
ギリリと、歯ぎしりが静かな部屋に響いた。
→
私の質問に答えるべきか、言わざるべきかを悩んでいるのか、俯いたまま喜一さんの父さんは黙ったままだった。
私は最低な質問をしたのだろうか?
恋人でもない喜一さんの家庭内事情に、土足で踏み入るような行為をしているのだろうか?
でも、知らなければならないんだ。
いずれぶつかる壁が少し早まっただけ、それだけだ。
喜一さんの父さんは俯いたままで、私はそれを凝視するように見つめていた。
静寂だけが、この空間に流れていた。
やがて、喜一さんの父さんが顔をあげ、私の眼を見つめる。
私は眼を反らすことなく、それを見つめた。
「……ふぅ、根負けか……」
小さなため息をはき、疲れたように体をだらけさせる。
「じゃあ……」
「あぁ、そんな本気の眼で喜一を想っているのなら、話してもいい。いや、話すべきだと思う。ただ……」
歯切れが悪いように、喜一さんの父さんは言葉を繋げた。
「素面では話せないと思うから、少し飲ませてもらうよ」
喜一さんの父さんは含んだ笑みを私に見せた後、冷蔵庫から缶ビールとオレンジジュースを取り出した。
オレンジジュースを私に手渡すと、喜一さんの父さんはさっきと同じ場所に座る。
プルタブを開けると、プシュといういい音と共に少しの泡が溢れ出る。
喜一さんの父さんはそれを喉を鳴らしながら豪快に飲む。
私もプルタブを開け、こくこくとオレンジジュースを飲んだ。
「最初に約束して欲しい、喜一には言わないで欲しいんだ。あいつは私を憎んでいる。あいつの母を殺した、その張本人としてな。だが、それでいい。私は家庭を捨ててしまった。そこにどういう事情があれど、許される行為じゃない」
眼を伏せ、哀しい顔をしながらも喜一さんの父さんは缶ビールをチビチビと飲みながら話し続ける。
「そうだな……、どこから話すべきだろうな……」
→
少々のろけ話に聞こえてしまうけど、加野子との出会いから話そうか。
私は昔、大手企業で働いていたんだ。
入社直後から期待され、それに答えるべく私は頑張っていた。
寝る暇も、ご飯を食べる時間も惜しんで働いていたんだ。
頑張りすぎ結果、私は過労で倒れ、病院に運ばれることとなった。
医者には1週間は絶対安静と言われ、何もすることがなくなったんだ。
平日も休日も仕事以外の事はろくに考えたことがなくて、そのせいで何をしたら良いのか分からなくなった。
私は2日ほど何もせず、ただ呆然と外を眺めていた。
入院してから3日目、お昼を過ぎた辺りだったな、今でも鮮明に思い出せるよ。
「外を眺めるのが好きなんですか?」
一人の女性が私に話しかけてきたんだ。
向日葵のような、温かい笑顔でさ。
私はこう答えたよ。
「いえ、することがないんです」
すると彼女はこう答えたんだ。
「なら、散歩にでも行きませんか?」
私は誘われるがままに、彼女と一緒に外へと出た。
あの時は……確か夏だったな、病院の外に出るとアブラゼミが鳴いていたのを覚えている。
強い日差しの中私達は歩き、大きな樹が側にあるベンチへと座った。
「なぜ私を外へと連れ出したんですか?」
私はずっと疑問に思っていたことを口に出した。
彼女は、また向日葵のような笑顔で私に言ったんだ。
「良い天気でしたからね、何もせず、ただ外を眺めるだけでは勿体ないとは思いませんか?」
――あれは、一撃だったな。
会って間もない彼女に、惚れたんだ。
「私は加野子、あなたは?」
「……茂、青井 茂です」
そこで初めて、加野子の名前を聞いたんだ……。
聞けば、すぐ隣の病室だったらしい。
私の病室を通る度に、外ばかり見る私の横顔を見ていたそうだ。
まぁそのお陰で今の妻と知り合う結果となったのだからな。
悪いがもう一本飲ませてもらうよ。
うん、じゃあ続けようか。
退院した後でも、私は加野子に会いに行った。
1ヶ月も経った頃だろうか、私は気になって加野子に質問したんだ。
『随分と長く入院してるみたいだけど、いったい何の病気なんだい?』ってさ。
加野子は少々困ったような顔で私に言ったよ。
「ううん、病気じゃないの。ちょっとね、体が弱いだけ。そう、それだけ……」
3ヶ月も経った頃、私と会話中に加野子は血を吐いて倒れた。
私は急いでナースコールをし、加野子は何とか事なきを得た。
その後、医者から言われたよ。
『彼女の命は、後1年も持たない』、てね。
結論から言えば、加野子は見事医者の宣言を破って見せたんだよ。
今でも忘れられないよ、丁度その日から1年後に加野子はその医者に言ったんだ。
「どうですか、私は生きています。そして、これからも生き続けます。この人と一緒に」
そうして加野子は病院を退院して、私と暮らし始めた。
本当は退院許可は降りないハズだったんだけどね、『賭に負けた』ってあの医者が言って退院させてくれたんだ。
加野子と同居して半年後、喜一が生まれる2年ほど前に私達は結婚した。
あの時の私の歳は25歳、加野子は22歳だったな。
幸せだったよ、本当に……。
あぁすまない、涙腺が……な。
それから一年経ち、子を授かったんだ。
そりゃあ喜んだよ、なにせ子供は出来ないかもって医者に言われていたんだからな。
またしても加野子は医者の宣言を破ったワケだ。
それからずっと名前を悩んでいたっけな、気の早い話だよ。
半年後に男の子って判別して、ちょっとガッカリしたな。
出来れば加野子に似た女の子が欲しかったなって思っていたんだ。
あいつに似たら、きっと美人になるからな。
それから加野子と話し合い、名前を決めようと話し合っていたんだ。
でも結局、生まれる1ヶ月前まで決まらなかったけどね。
『喜びを一番に、そうこの子の名前は”喜一”にしましょうよ!』、あいつの名前は加野子が決めたんだ。
世界で一番喜びを味わえる、そんな人に育って欲しいから『喜一』、洒落た名前さ。
何もかもが、幸せだったんだ。
その時まではさ……。
→
私はその事実を知って、いてもたってもいられず雨の中走り出した。
喜一さんの父さんが止まるように声をかけるが、私は止まらなかった。
向かう目的地は喜一さんの家。
悲しいよ……悲しすぎるよ。
→
出産の一週間前だったかな、恐れていたことが起きたんだ。
いや、今までなかったこと自体が奇跡に近かった。
夜、加野子は激しい吐血をした。
妊娠という負担が、加野子を蝕んでいたんだ。
医者に言われたよ、『このまま出産すればあなたは命を落とすでしょう』ってさ。
私は……悩んだよ。
夜も寝られないほどに悩んだよ。
そして加野子に言ったんだ。
『諦めよう』ってさ……。
→
聞かなければ良かったのかも知れない。
聞かなければ、今も喜一さんと仲良くやっていけたのかも知れない。
けれど、もう聞いてしまった。
全ての事実を、私は知ってしまった。
私は走る。
その事実を、喜一さんに伝える為に――。
→
加野子は私の手を握り、自分のお腹を触らせたんだ。
「この中にはね、『喜一』という命が宿っているの。あなたと私の、子どもなのよ。私は諦めないわ、絶対に。大丈夫よ、今の今まで医者の宣言を破って来たんですからね。今度も、見事破って見せるわよ」
そう言って、私に微笑みかけたんだ。
そして、加野子は喜一を生んだ。
見事、加野子も生き残ったよ。
その代償は、とても大きかったけどね……。
→
俺は再び、お袋の墓参りに来ていた。
毎年毎年続けていたことを、糞親父の登場で中断されるのは癪に障るからだ。
お袋の墓の前に立つと、花のない花が飾られていた。
それは、俺が持ってきた花だということに気が付いた。
糞親父が拾って添えたんだろう。
「………」
捨ててやろうかとも思ったが、止めた。
両手を合わせ、黙祷をお袋に捧げた。
いつもよりも長く、黙祷を捧げた。
遠くからバシャバシャと、水溜まりを弾く音が聞こえる。
「喜一さん!」
その声に、俺は少なからず驚いた。
今日はもう会うこともないと思っていたからだ。
バシャリと一際大きな水音を立てて、美奈は俺の前で止まった。
何故か美奈は男物の服を着ていた。
一目見て、糞親父の服だということに気が付く。
「喜一さん! 喜一さんは……喜一さんは誤解してるんです! 家を出て行ったのにも、ちゃんと理由がありました!」
まるで懇願しているかのように、美奈は必死で俺に語った。
「喜一さんの父さんは、喜一さんを捨てたりなんかしてません! 止む終えず、置いていったんです! 言ってましたよ、今でも自分の妻を愛してるって。この墓の前で!」
美奈の言葉に、何の喜びも、悲しみも感じなかった。
多分、俺は知っていたのだろう。
糞親父は、きっとそうなのだろうと。
「2人とも喜一さんを愛しているんですよ! だから、だから……!!」
だから、とその後に美奈は言葉を続けた。
全ての真実、全ての出来事を。
それは、俺が知りたい事実だった。
それは、俺が聞きたくない真実だった。
それは……それは。
→
喜一を生んだ加野子は、もはや肉体の限界としか言いようのないところまで来ていたんだ。
気力だけで持っている、そう言っても過言ではなかった。
それでも加野子は、生まれたばかりの喜一を抱き、笑みを絶やさなかった。
日に日に弱っていき、後は死を待つばかりというときに、医者は呟くように俺に言ったんだよ。
『奥さんを助けたいですか……? 莫大な資金がかかりますが、奥さんを助けることは可能です……』
私は、迷うことなく頷いた。
この身を投げ出しても、加野子を助けたかったんだ……。
程なくして、様々な場所から医者達が集まってきたよ。
詳しくは聞いてないけど、皆名医と呼ばれる人々だそうだ。
何度も何度も手術をし、加野子の延命処理をしていった。
手術をする度に私は祈ったよ、加野子が助かりますようにって。
半年にも及ぶ、大手術だった。
最後の手術が終わった後、意識を取り戻した加野子が私に言ったよ。
「ごめんなさい」って……。
だから私は、他の部屋で寝ていた喜一を連れてきて、加野子に抱かせたんだ。
そして、私は言ったよ。
『せっかく生んだんだ、一緒に育ててあげようよ。世界で一番喜びを感じるようにさ』ってね。
今思えばくさいセリフだったな、はは……。
加野子が助かった、それだけで私は幸せだったんだよ……。
それから私達は我が家へ戻り、暮らし始めた。
毎月給料の半分近くは手術代に持って行かれ、正直辛かったな。
でも加野子は、笑顔を絶やさなかった。
少しでも家計が楽になるように、様々な工夫を凝らしていった。
なかでも料理は凄かったな。
お店でも開けるんじゃないかと思ったほどだよ。
『お店でも開けば?』って私が言うと、「お金がないでしょうが」って返されたんだ。
ごもっともな話だよ、全く。
……あのまま、続くって思ってたんだ。
ずっと、ずっとさ……。
ある日病院からね、急遽お金が必要になったから百万単位で払って欲しいって言われたんだ。
勿論、日々を切りつめて生活していた私達にそんなお金はなかった。
駄目だと分かっていながらも、どうしようもなくサラ金から借金をすることになったんだ。
この後待つ結果なんて、予想していたのにさ……。
その後、嫌がらせのように毎日借金通告の電話、会社にまで来て請求をする始末。
会社は首になり、貯金も底を尽き、私達はどうすることも出来なくなった。
そして今から6年前、私はある決断をした。
向日三年間、漁船に乗って仕事をしようってね……。
条件が良かったんだ、料金の半分を先払いしてくれるらしいからさ。
それで借金を払い、病院代も若干残ったけれど、ほとんど支払いは終わったんだ。
残りの半分で病院代の全てを払っても、しばらく生活できるぐらいのお金は残る。
最初からこうしてれば良かったなんて思ったりもしたけれど、……怖かったんだ。
加野子から……離れてしまうのが。
あの日々を、失ってしまいそうで……。
遠くの地で1人になってしまうのが、寂しかった……。
でも、自分を納得させた。
自分1人が苦労をすれば、加野子も、喜一も助かるんだ。
喜んでこの身を捧げようって思ったよ。
三年間……か。
加野子と喜一と一緒に過ごした12年間よりも、ずっと長く感じたよ……。
そうして、全てが変わってしまったんだなぁ……。
→
それを聞いた俺は、どうしたらいいのか分からなくなった。
俺の糞親父は、やっぱり偉大だとでも思えば良かったのだろうか?
「だから……だから何なんだよ……」
俺の口はそう言っていた。
「だから何なんだよ! それを知ったからって俺にどうしろっていうんだよ! 今更……、今更ノコノコと現れた糞親父と仲良くして欲しいとでも言いたいのか!?」
自分の意志とは関係なく、怒号に近い声で美奈に問いかけていた。
その事実を受け止められない俺が、ただ単に八つ当たりしているとしか、言いようがなかった。
「そうじゃない! そうじゃないけれど……! 喜一さんを裏切ったんじゃないの! 理由があって、どうしようもなく置いていったのよ!? それなのに、それなのに……。もう、啀み合ったって意味ないじゃない……!」
美奈は、涙声で俺に言った。
そのことに俺は、少なからず心を動かされた。
だが、俺の怒号は止まらず、
「それを捨てたっていうんだよ! お前は弱っていくお袋を見てないからそんなことを言えるんだ! 分かるか!? 信じた相手をいつまでも待ち続ける、その悲しさ! 泣いているお袋を何度も見たんだ! そして、お袋はそのまま死んでいったんだ……!」
俺は拳をぎゅっと握る。
そうだ、どんな理由があろうと糞親父はお袋を捨てた。
「許せるか? そんな糞野郎をお前は許せるか? どうなんだ? 答えてみろよ!」
俺の問いに美奈は、目に涙を溜めたまま答えないでいた。
脅えているのか、耐えているのかは分からなかったが。
「ハッ、答えられないのか? どうせ目の前で哀れに語る糞親父に、同情でもしたのだろう? あんな野郎、親と思いたくも――」
パァン!
最後まで言い終わる前に、美奈の右手が俺の頬を叩いていた。
痛みはなかった。
ただ、叩かれたんだ、としか思えなかった。
目に溜まっていた涙は頬を伝い、叩いた自分の右手を一度見てから俺に言う。
「あなたは……、あなたは……! 自分の親を信じられないんですか!? 自分の家族の為に、自分を犠牲にした父さんを信じられないんですか!? 確かに、喜一さんの母さんは死んでしまったのは残念だと思います……。けど、守りたいからこそ置いていったんでしょう? なのに、なのに……!」
「あぁ信じられないね! 糞親父が言ったんだろう? 3年間漁船に乗っていたって? ならとっくに終わってるじゃねーか! その空白の3年間は何なんだよ! 3年間もあれば、こっちに帰ってこれるハズだ! でも帰ってこなかった! これが捨てたって言う以外になんて言えばいいんだよ!」
「……分からず屋……」
美奈は一度目を伏せ、短い嗚咽をもらしてから叫んだ。
「この、分からず屋ーーーーー!!」
パァン!
もう一度、美奈に同じ場所を叩かれた。
涙を流し、泣き声をあげながら美奈は、傘も差さず逃げるように走り出した。
反射的に右手を上げるが、空を掴んで下げた。
雨は止むことなく、激しさを増して降り続ける。
残ったのは頬に残る鈍い痛みと、雨の音だけ。
ざあざあと降り続ける、雨の音だけだった――。
→
――前の人は、突然現れた影によって縛られ、動けなくなる。
藻掻いても藻掻いても、影は取れることはなかった。
――後ろの人は、助けようと手を差し伸べるが払いのけられる。
何度も何度も手を差し伸べるが、全て払いのけられた。
やがて後ろの人は歩き出す。
繋がっていたと思っていた線は切れ、自分はあの人にとって
必要ないのだろうと思ってしまったからだ。
――やがて、2人の距離は開いていく――。
→
朝、私は布団の中にくるまっていた。
時刻は既に8時を過ぎている。
学校には、風邪を引いたと電話した。
多少だるいものの、風邪などという大それたモノではない。
いわゆる、ずる休みだ。
昨日一晩中泣いていたせいで目は腫れ、兎のように目は赤かった。
こんな顔で、こんな気分で学校に行けるワケもない。
私は自分の右手を見つめた。
昨日、私はこれで喜一さんを叩いた。
それも2回もだ。
あの感触は、今も手に残っていた。
『叩かれた方も痛いが、叩いた方も痛い』という言葉の意味が、すごく分かった気がした。
私は喜一さんを叩いた。
それは、私の恋愛の終わりを意味してるようにも思えた。
そう思っただけで、胸は締め付けられるように痛む。
これが、『失恋』というモノなのだろうか?
喜一さんとはあの時のように、何も言わなくても通じ合える事はないのだろうか?
思えば思うほど、胸は締め付けられていく。
そして私の意志とは関係なしに、涙は流れる。
「うぅ……うぇぇ……」
堪えようとするが、絶対に止まらないと自分で分かっていた。
最近の私は、本当によく泣いているなぁ……。
→
億劫な気分のまま、俺は目を覚ました。
時刻は8時を過ぎていた。
このまま学校を休んでしまおうかとも思ったが、止める。
適当に朝食を取り、適当に準備をして家を出た。
外は、青天井が広がる晴れ晴れとした天気だった。
授業中、様々なことが俺の頭を巡る。
俺は、糞親父と仲良くすべきなのだろうか?
お袋の死を水に流して?
6年間という時間も水に流して?
そんな事が簡単に出来るなら、こんなに悩んだりはしない。
糞親父はお袋のため、俺のために出稼ぎに行った。
だが結果、お袋は死に、俺は糞親父を憎むようになった。
その真相を知った俺は、今その糞親父を許そうとしているのか?
許そうと思えば、掘り起こされるように怒りが蘇る。
許さないと思えば、糞親父が取った行動が頭を過ぎる。
それはまるで、解けない紐のようにも思えた。
焦って解こうとすれば、紐はさらに絡まり続ける。
冷静に解こうとすれば、紐は解けるが時間が掛かりすぎる。
もはや堂々巡りとなってしまい、答えは出ない。
ふと、涙を流しながら去っていった美奈の後ろ姿を思い出す。
それを思い出した途端、胸が痛んだ。
今まで味わったことのない、言い表すことの出来ない痛みだった。
俺は、美奈に謝るべきなのだろうか……?
そんなことを思う。
→
――前の人は、影を振り払うように藻掻く。
だが、藻掻けば藻掻くほど、底なし沼のように深く沈んでいく。
――後ろの人は、それを気にしながらも歩み続ける。
やがて前の人を追い抜き、前の人は後ろの人となり、後ろの人は
前の人となった。
→
今日も私は風邪と言って学校を休んでいた。
喜一さんと顔を合わせるのが怖かった。
会えば、本当に終わってしまいそうで怖かった。
それに耐え切れなさそうで、怖かった……。
→
今日も俺は億劫な気分のまま学校へと行く。
外は快晴で、雨なんて降る気配はなかった。
雨が降れば、俺はバスに乗る。
美奈も、バスに乗ると思う。
そうすれば、話す機会が出来るのに。
そうすれば、この胸の痛みも取れるかもしれないのに。
俺はお袋が死んで以来、初めて雨が降って欲しいと思った……。
→
――それでも前の人は歩き続ける。
いつか追いかけてくると信じて。
→
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴り響く。
私はその音で目を覚ました。
時計を見ると、既に9時を過ぎていた。
学校に休む連絡を入れてないから、ちょっとやばいかもしれない。
ピンポーン。
再びチャイムは鳴り響く。
私はパジャマのまま玄関に向かった。
魚眼レンズから覗くと、そこには私の親友とも呼べる存在、千夏が居た。
いずれ来てくれるとは思っていた。
千夏なら、きっと……。
「ふ〜ん……」
千夏に、全ての経緯を話した。
喜一さんの父さんが帰ってきたこと、そしてその過去、そして……もう私の恋は終わったことを。
話している途中、私は泣きそうになって何度も話を中断した。
「止めようか?」と千夏が優しく言ってくれたが、これは意地でも話さなければならないことだった。
全てを聞き終わった千夏は、腕を組みながら唸ったままだ。
考えているのか、悩んでいるのか。
しばしの沈黙の後、千夏は口を開けた。
「それで?」
「……え?」
千夏が何を言ってるのか、理解出来なかった。
『それで?』、それが全てを聞いた千夏の感想なの?
「それで、あんたは何をしたいの?」
千夏は、私を見据えるように言った。
「何を、て……?」
「そのままよ、それを知った美奈は何をしたいの?」
何をしたいか?
「……そんなの、分からないよ……」
私は座ったまま項垂れた。
喜一さんの父さんの過去、そして喜一さんの過去を知ってしまったけれど、私には何も出来なかった。
衝動的にそのことを喜一さんに伝えても、ただ悪戯に事態が悪化したに過ぎなかった。
そして……、私の恋は終わった。
何も出来ない。
何かをしても、どうにもならない。
ならいっそ、何もしないほうがずっといい……。
「そっか……。あんたの恋は、そんなモノだったんだね」
千夏は嘲笑うように言った。
その信じられない言葉に、私は千夏の目を睨み付ける。
「何よ、その目は。私の言葉に文句でもある?」
口を開いて何かを言おうとするが、言葉が出なかった。
言い返すことが、出来なかった。
「ハッ、何よたったそれだけで。喜一に突き飛ばされた? 喜一に怒鳴られた? それがどうしたの? ただそれだけじゃない」
「それだけって……! せっかく仲良くなったのに、せっかく分かり合えたと思ったのに、それなのに突き飛ばされたんだよ!? 怒鳴られたんだよ!? それが『それだけ』なワケないじゃない!!」
叫ぶようにして言うが、千夏は受け流すようにして答えた。
「いいえ、それだけよ。あんたはどんな恋愛をしたいの?」
唐突な質問だった。
答えが浮かばず、言葉が詰まった。
「ほんわかとした空気だけが流れる恋愛をしたいの? 相手の顔色をうかがってその関係を取り繕う恋愛をしたいの? それとも性欲に溺れた恋愛? 喜一を支配したい恋愛? 支配されたい恋愛? さぁどれ? さぁなんなの?」
千夏は問いつめるように私に迫ってくる。
「そんなの……分かんないよ!」
両手で頭を掴み、脅えるように丸くなった。
今はそんな話しなんて、聞きたくもない。
「分からない? それが美奈の答えね。じゃあ、あんたに付き合う資格なんてないわ」
「やめて! もうなんにも言わないで!!」
悲鳴に近い声で私は叫んだ。
頭を抱え込んだまま、脅えた子どものように私は呟くように言う。
「ただ、ただ私は……。喜一さんが好きで……。あの人の事が知りたくて……。あの人と知り合いたくて……。とっても好きで……」
がたがたと震える私に、千夏はそっと頭に手を乗せた。
そして、撫でてくれた。
「喜一の事がまだ好きなんでしょ? 諦められないんでしょ?」
その問いに、私はただ頷いていた。
「あのね、人と分かり合うためにはね、時には自分が傷つかなければいけない時もあるのよ。分かり合うって事は、自分達の傷も見せ合わなければ本当に分かり合ったって言えない。喜一の傷は特に深いからね。さらにあいつは他人に自分の弱いところを見せたがらないのよ。だからいつかきっと、拒否されるだろうとは思っていた。そしてあんたは傷ついた。いいじゃない、それで。傷つかない恋愛よりはよっぽど上出来よ。諦めたら所詮はそこまでの恋愛だった、ということだしね」
千夏は、私に諭すようにゆっくりと語りかけてくれていた。
やがて包み込むように私を抱きしめた。
忘れていた母の温もりを思い出す。
「諦める?」
千夏の手が乗せられたまま、頭を横に振る。
「よし、それでいい。今日はあんたの泣き言でも何にでも付き合ってあげるわよ。ねっ?」
手が乗せられたまま、顔を上げて千夏の顔を見た。
千夏は微笑むように、にっこりと笑いかけてくれた。
「……ぅえ、うぇぇ……。ちなつ〜!」
そして私も千夏を抱きしめた。
私は泣いた。
ずっとずっと、えんえんと泣いていた……。
→
朝、起きてすぐに外を確かめる。
雨は、降ってはいなかった――。
昼休み、銀助が俺の席に来る。
いつも通りにノートパソコンを置き、昼飯を食べるのかと思えばそうではなかった。
初めてノートパソコンも持たずに、俺の席に来た。
「喜一、悪いがこっちに来てくれ」
親指を廊下の方に向ける。
「……あぁ」
雰囲気からして、ただ事ではないと思ったので弁当は持たずに席を立つ。
階段を上り、屋上へと繋がる扉の前まで来た。
屋上へは立ち入り禁止なので、ここの扉は鍵が閉まっている。
「ちょっと待ってろ」
胸ポケットから鍵らしき物を取り出し、その扉を開けた。
どういった経緯でその鍵を入手したのかは不明だが、屋上まで行くということは極力人が居るところを避けたいのだろう。
扉を開けると、短い階段があった。
それを上ると、屋上に出た。
一年生の時以来ここへは来ることはなかったが、相変わらず柵は錆びていて、枯れ葉は散乱していた。
滅多なことで人が来ないから、当然と言えば当然か。
銀助は錆びた柵に寄りかかり、話し始めた。
「お前、少し前に親父さんに会ったらしいな」
こいつの事だからきっと知っていると思っていたので、動揺することはなかった。
「……それがどうかしたか?」
「『それが』って言う割には随分と動揺していたみたいじゃないか? 出会い頭に殴るのはどうかと思うぞ」
どこから、一体どうやってそんな情報を入手しているのかは不明だった。
それに対して今までは大して気にしていなかったが、今日ばかりは不快感と怒りを覚えた。
「……なんだ、それだけが言いたいのか? 銀助。 てめぇが人様のプライベートばかり覗いているストーカー野郎ってことは前から重々承知の上だがな、俺まで不快に思わせるのは止めろ」
怒りと殺意を込めた声で銀助に言う。
だが、俺の声は『虫の羽音』ぐらいにしか思っていないのか、忠告を無視して話は続く。
「そこに居合わせた美奈がとばっちりを食らった、と。酷い話しだな」
銀助が一つため息をはく。
「女の子にまで手を上げるとはな。何やってんだか……」
俺は、怒りを抑えきれずに銀助の胸ぐらを掴んだ。
「てめぇに言われる筋合いはねぇ。そこまで知ってるんなら分かっているんだろう? 俺はただあいつを突き飛ばしただけだ。何にも事情を知らないヤツが俺を見下すように言うな!」
銀助の胸ぐらを掴んだまま持ち上げる。
ぐいぐいと締め上げるように持ち上げると、邪魔くさそうな前髪の下から銀助の眼が見えた。
酷く、悲しい眼をしていた。
「知ってるよ、全部な」
そう言った後、銀助が俺の手を掴んだかと思えば世界が反転した。
空が一瞬見えたかと思えば、次の瞬間には地面に寝そべっていた。
「知ってるんだよ、俺は全部な」
銀助は俺の右手を掴み、空に向かって手を挙げさせたかと思えば、そのまま肩胛骨の方向に向かって押し倒す。
ミシリと、骨が軋む音がした。
「痛っ……!」
「俺は、知っているんだよ。お前の過去も、美奈の過去も、美奈がお前を好きな事もな」
美奈が俺を好き――。
それは別に驚くことでもなかった。
一年生の時から、薄々ではあるが気づいていた。
「知っているか? あいつの過去を。お前なんかよりもよっぽど酷いんだ……」
「なんだ……? またお得意のプライベート調査か……?」
ギリギリと間接を決められながらも、皮肉たっぷりに言ってやる。
「いいや、美奈とは幼馴染みだからな。知っているのさ、いや、見てきたと言ってもいい……」
銀助は俺の手を離し、さっきと同じ場所に寄りかかる。
痛む肩を押さえながら立ち上がった。
銀助はどこか遠くを見ながら、悲しそうな顔で美奈の過去を話し始めた。
「お前の親父さんが出て行った8年前、その時に美奈の母親は出て行ったんだ。理由は離婚。本当は母親が別の男を作って、逃げるように出て行ったんだ……。美奈の母親が残していったモノと言えば、くだらない貴金属の為に使った借金だけ。どうだ? これでも自分は不幸だと言えるか? 喜一。 自分は悲劇の主人公と呼べるのか?」
喜一は俺を見据えるように、見定めるように見た。
言葉無く、首を横に振る。
「残った親父さんも、交通事故で亡くなった……。良い人だったよ、本当に。今でも尊敬している。働いて、借金を返して、美奈も育てて……。自分が死んでも美奈が苦労しないように、生命保険にも加入していた……。こんな人が俺の親父さんだったら嬉しいな、なんて思ったこともあったよ。そんな親父さんを亡くても、美奈は明るく振る舞っていた。誰かさんのように、過去を引きずることなく、な」
俺はただ黙って、銀助の言葉を聞いていた。
何も、言い返す事が出来なかった。
「高校に上がる前に、聞いたんだ。『寂しくはないのか?』ってな。そしたら笑顔で答えてくれたよ、『寂しがってたら、父さん成仏出来ないじゃない』ってさ。その時俺は思ったんだ。『美奈を不幸にしてはいけない』って。しばらくして、美奈がお前を好きだって噂を聞いた。悪いとは思っていたが、調べさせてもらった。驚いたよ、美奈とさして変わらない境遇に居たって事が分かって。こいつなら、こいつなら美奈の傷を分かってくれるんじゃないかって。こいつなら、美奈を幸せにしてくれるんじゃないかって……」
「銀助……お前、もしかして……」
「それを――」
ダンッ!
銀助が、拳を握ったままこちらに向かって飛んでくる。
俺は防御することなく、甘んじてそれを受け入れた。
ガッ!
激しい痛みが右頬に伝わり、踏み止まる事なく、そのまま大の字になって倒れた。
「お前は不幸にした。あの日、美奈を突き飛ばした痛みはこの比じゃない! もっともっと、心をえぐられるように痛かったんだ!!」
俺は、右頬の痛みを味わっていた。
これの、比ではない……か。
殴られた瞬間、意識が飛びそうになった。
殴られた後、涙が出そうなくらい痛かった。
それよりも痛いのだろう。
もっともっと、痛いのだろう……。
銀助は俺を見下すように上から見ていた。
いや、見下してはいない。
ただ単に、見下ろしているだけだった。
「……何で俺のパンチをワザと受けた?」
「別に。……避けられなかっただけだろ」
「お前が、……もっと嫌なヤツだったら良かったのにな……」
銀助は俺に手を差し伸べてくれた。
俺はそれを握り、立ち上がる。
「……もう気づいているとは思うけど、お前に近づいたのはお前を見定める為だよ。友達なんかじゃねぇ。相応しくないって思ったらこの学校から追い出してやろうとすら思っていたよ……」
銀助は三度同じ場所へと寄りかかり、反転して明後日の方向を向いた。
「とっとと行けよ、俺の用件はこれで終わりだ……」
俺は銀助の肩を掴もうとして、止める。
踵を返し、階段を下りる直前で銀助に言った。
「……感謝するよ。お陰で気合いが入った。もう、迷わない」
銀助の肩が少し動いたが、振り向きはしなかった。
何も言わなかった。
それを少し寂しく思いながらも、扉を開け、屋上を後にした。
→
私は青い包みにくるまれたお弁当箱を手に持ち、靴を履く。
「まったく……、あんたらしいわ。仲直りの印にお弁当だなんてね」
千夏はため息混じりに言う。
「だって……一番喜んでくれそうなのって、これじゃない?」
「なんか喜一を餌付けに行くみたいだよ? まぁ、それが一番良いのかも知れないけどね……」
千夏はもう一度ため息をはく。
なんか、ちょっと老けて見えた。
「本当に良いの? 一緒に行かなくて?」
「うん、今回は私一人で片づけなきゃ気が済まないから。千夏はここで私の報告でも待っててよ」
「へ〜いへい、帰ってきたらのろけ話でも聞かせてもらいますよ」
玄関を開けると、雨が降り出していた。
お気に入りの傘を持ち、背を向けたまま千夏に言った。
「千夏、本当にありがとうね。もう、本当に駄目かと思ってたからさ……」
本当に、本当に千夏には感謝しても感謝しきれない。
帰ってきたら、松坂牛でも奢ってあげようと本気で考えていた。
「それは帰ってきてから言いなさい。この後、振られるってオチも考えられるんだから」
そんなパターンもあることを、私はすっかり忘れていた。
でも、それはないだろうなと思える私が居た。
「じゃ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
『行ってらっしゃい』、その言葉を聞いたのは父さんが死んで以来だった。
私は一度深呼吸してから、意気揚々と玄関を開けた。
→
昼休みを終える鐘が鳴り響く前に、俺は鞄を持って学校を抜け出した。
自然と足取りは速くなる。
向かう先は一つ、美奈の家だ。
謝らなければならない。
突き飛ばしたこと、気持ちを分かってやれなかったことを。
勝手に自分が一番不幸だと思いこんで、悲劇の主人公を演じていた自分が恥ずかしい。
美奈は……、美奈は俺の糞親父と自分の父さんをダブらせていたのだろう。
美奈の父さんがどんなのかは、容易に想像が付いた。
きっと、家の糞親父と似ているのだろう。
例え自分がどうなろうと、自分の我が子を育てようとするその自己犠牲が。
「……でも、似ているのはそこだけなんだろうな……」
ふと、俺は呟いた。
家の糞親父と、美奈の父さんとでは決定的に異なる点が一つあった。
それは一緒に居たか、居ないか。
どんな貧しい暮らしでも、好きな親と一緒に居られればそれも苦にはならないだろう。
家の糞親父は、家族の為に出稼ぎに行くという間違った大義名分を背負って出て行った。
「……あんたが、出て行かなかったら……」
奥歯が、ギリリと鳴く。
もっと、幸せな家族生活が送れたのかもしれないのに……。
ぽつりと、頬に冷たい物が降り注ぐ。
雨だ。
空を見上げると、太陽の光が見えないほど雨雲が密集していた。
このままでは大降りになるだろうと思い、傘を取りに家へと寄ることにした。
玄関を開け、
「ただい――」
お帰りの合図を言い終わる前に、家の中の空気が違うことに気が付いた。
足跡も何もないが、誰かが入ったという事だけはハッキリと分かった。
壁を背に、慎重に居間を覗く。
誰も居ない。
俺の部屋も見るが、誰も居ない。
荒らされた痕跡も見つからなかった。
お袋の部屋を開けた時、誰かがここに入ったとすぐに分かった。
清涼としていた空気は何かと混ざり、一瞬懐かしさを感じた。
見渡すが、特に荒らされた形跡はない。
出ようかと思ったとき、お袋の仏壇が気になった。
引き寄せられるように、お袋の仏壇の前に立つ。
お袋の位牌の後ろに何かある事に気づき、手に取ってみる。
それは、通帳だった。
登録者は――糞親父名前、『青井 茂』と記載されていた。
通帳の間には、一枚の紙が挟まっていた。
白い、レポート用紙のような紙に、『喜一へ』と糞親父の字で書かれてあった。
俺は丁寧にそれを開き、読み始めた。
『喜一へ
父さんは間違った選択をしたのかもしれない。貧乏でも、お前達と一緒に居た方が良かったのかもしれない。だが、もう遅い。悔やんでも、加野子は帰ってこないんだ。三年前、父さんは一度ここへ帰ってきた。加野子が死んで、既に火葬も済ませた後だったが。お前は、加野子の墓の前で泣いていた。雨が降っているというのに、傘も差さずにただ泣いていた。そんなお前の姿を見て、いたたまれなくなって、逃げ出した。自分の選択肢は間違っていたのか、自分は大切な物を壊してしまったと思って逃げ出した。なんとも、自己勝手な親さ。喜一、父さんを恨んでくれ、呪ってくれ。お前の全てを壊してしまった、この愚かな父さんを蔑んでくれ。もしもいつかまた会ったら、父さんを殴ってくれ。けど、死ぬな。何があっても死ぬな。迷惑かもしれないが、父さんは今でもお前を愛している。加野子と同じくらい、お前を愛している。それを、忘れないでくれ。この通帳は、せめてもの償いだ。お前に苦労ばかりかけていた、せめてもの償いだ。どうか、受け取ってくれ。お前に惚れている女の子が一人居る。加野子にすごく似ていた。きっと、お前に合うと思う。どうか仲良くやってくれ。そうだな、さっきは償いと書いたが、それを結婚資金にでも充ててくれ。少し長くなったな、もしかしたらここまで読んでくれないのかもしれない。けど、書いておくよ。ここにはもう帰ってこない。どんな事情があったって、私はお前を捨てた。本当にすまない。本当に、すまなかった』
俺は通帳を開き、その金額を見た。
振り込まれた年数を見ると、半年に一回ずつ振り込まれていたようだ。
引き出された形跡はなく、計6回分漁船組合から振り込まれていた。
「……はは……」
なんて、なんて馬鹿な糞親父なんだろうか。
自己犠牲で、自己勝手で、家族思いの大馬鹿野郎な糞親父だ。
通帳を元の場所に戻し、俺は走り出していた。
最後に糞親父に会わなければ気が済まない。
会って、ぶん殴らなければ気が済まない。
どこまでもどこまでも、糞親父は糞親父のままだった。
頼りがいがあって、家族思いで、家族を愛する大馬鹿野郎のままだった。
急いで靴を履き、傘を持ち、雨が降る外へと飛び出して行った。
→
私は雨の中、ゆっくりと歩いていた。
悲しみも、怒りも、焦燥感もなく、ただゆっくりと。
すごく、落ち着いていた。
今日なら、今日ならきっと私は言える。
好き――と。
私がぼうっとしていたのか、誰かの傘と私の傘がぶつかり合う。
「――と、すまない」
その声には、聞き覚えがあった。
傘の下からその人を覗き込む。
「喜一さんの父さん……?」
「ん……? あぁ、君か……。どうしたんだい?」
喜一さんの父さんは、私に微笑みかけた。
その微笑みは、どこか物悲しい。
「私は……これから喜一さんの家へと行こうと思っているんです……。喜一さんの父さんこそ、どうしたんですか?」
「いや……、ちょっとした野暮用さ……」
歯切れの悪い言い方をする。
やましいことではないと思うけど、すごく気になった。
「喜一さんの家の方から来ましたよね……? 喜一さんに会ったんですか?」
「会ってはないよ。私から会えるわけもないさ……」
喜一さんの父さんは、寂しそうな顔をした。
そんな喜一さんの父さんに堪らず、
「会って、話をすれば……。会って話をすればきっと分かってくれるハズですよ……!」
しかし、喜一さんの父さんは首を横に振る。
「もう、無理なんだ。遅すぎたんだ。私はあいつを置いて行ってしまった……」
「でも……!」
喜一さんの父さんは、私の頭に手を乗せた。
私の父さんの手みたいに、温かかった。
「気持ちだけで充分だよ。後は、喜一を頼んだよ……」
頭に乗せられた手は離れ、喜一さんの父さんも離れていく。
私は気づいた。
喜一さんの父さんは、すぐにでもここを離れるつもりだ。
もう二度と、ここへ戻ってくる気はないんだ。
「それで……それでいいんですか!? あなたの愛すべき子供なんでしょう!? また置いていくんですか!!」
私は、離れていく喜一さんの父さんの背中に向かって叫んだ。
喜一さんの父さんは立ち止まり、身体をこちらに向けた。
私に向けて深々と礼をすると、また歩き始める。
そして、雨の中に消えていった。
私は少しばかり、その方向を見たまま立ちつくしていた。
やがて、喜一さんの家に向かって歩き始めた。
ズボンが汚れることも気にせず、走り始めた。
喜一さんに言わなくては。
言って、喜一さんの父さんを止めてもらわなくては。
喜一さんが自分の父さんを恨んだまま、今生のサヨナラなんて悲しすぎる。
そんな結末、私が絶対に許さない――!
→
俺は当てもなく走っていた。
糞親父がどこへ行ったのなんか、分かるワケもない。
それらしい人を見つけては、顔を確認するという事を繰り返していた。
俺は迷走するように走る。
傘を差す人混みを掻き分けるように。
見つからない、糞親父は見つからない。
交差点に差しかかり、赤信号で立ち止まる。
足は既に限界に達していた。
体力も、もう空っぽだ。
信号が青になる。
俺は、歩き出せないでいた。
足が動かない。
俺は――諦めてしまうのだろうか?
「喜一!」
誰かが俺を呼んだ。
交差点の向こうには、千夏が立っていた。
千夏は左手を上げる。
俺もその方向を見た。
遠くには花屋が見えた。
さらにその奥には、墓地が見えた。
「行け! 行って、全てを解決してきなさい!!」
交差点の向こうから、千夏は俺に喝を入れてくれた。
俺は背筋を伸ばし、大きく深呼吸をした。
千夏に向かって手を伸ばし、親指を立ててやる。
俺はまた走り出した。
足の限界なんて知るものか。
体力の限界なんて知るものか。
足が縺れて転んでも、立ち上がって走り出す。
傘は俺の元から離れ、全身が雨に濡れても構いはしない。
俺は行かなければならないんだ。
あの、大馬鹿野郎な糞親父の元へ――!
→
玄関口で私はチャイムを鳴らす。
ピンポーンと家の中に響くのが聞こえるが、反応がない。
もう一度押しても、やはり反応がなかった。
留守なんだろうか……?
「美奈」
振り向くと、そこには銀助が居た。
「銀……、こんなところでどうしたの? 喜一さんなら留守みたいだけど……」
「知っている。だからこっちに来たんだ」
「え……?」
銀助の言っている意味が把握出来なかった。
「喜一なら今、墓地向かって走っている。恐らく、最後の決着をつけにな」
その言葉を聞いて、すぐに喜一さんの父さんが思い浮かんだ。
「最後の決着って……?」
「そのままさ。喜一の親父さんはこの町を出て行こうとしている。きっと、二度と戻ってくることはないだろうな」
「そんな……!」
私は墓地に向かって走り出したが、すぐにその足を止めた。
「どうした?」
「……行って、私はどうしたいのかな……」
「告白してこい。そして、喜一の親父さんから祝福でも貰ってこいよ」
銀助はさらりと言った。
そして私もそれが良いと思い、頷いた。
銀助は右手を上げる。
「行ってこい」
「うん!」
私はその手を思いっきり叩いてやる。
パァン!
私は、雨が降る中走り出した。
向かう場所は墓地。
初めて喜一さんと会った場所でもあり、初めてデートした場所でもある。
そして今度は全てを終わらせる為に、私は走っている。
この騒動も、この恋愛も、きっと全てそこで終わりを告げるんだろう。
願わくば――。
→
千夏は、墓地に走り去っていく喜一の背中を見ていた。
いつも見ていたその背中は、いつもよりも頼もしく思えていた。
墓地に辿り着く前に、千夏はその場を去った。
家に帰ることもなく、千夏は商店街をうろうろしていた。
欲しい物があったのではなく、気晴らしに彷徨いているだけだった。
「あれ……?」
後方から声が聞こえ、千夏は振り返った。
そこには、見知らぬ男が立っていた。
印象的だったのは、邪魔くさそうな前髪だった。
「あんた、もしかして千夏か?」
「……それが?」
千夏は警戒心を強めた。
「俺は銀助、美奈の幼馴染みさ」
「銀助……。あぁ、例の情報屋のね。美奈から何度か話を聞いたことがあるわ、性格が悪いって」
「カカッ、そりゃ手厳しいな。それより、こんな所でぶらついてていいのか? あいつらの物語はもうすぐ終わりを告げそうだぞ」
千夏は眉をひそめた。
銀助の真意が今一つ掴めないでいたからだ。
「知ってるわよ。ついさっき、喜一を見送ったばかりだしね。私は結果だけ聞ければいいのよ」
「カカッ、見送った……ねぇ。自分にケジメを付けたかったんじゃないのか?」
銀助はニヤニヤと笑いながら千夏を見ていた。
(さすがは情報屋ね……)
千夏は頭を掻きながら、ため息をはく。
「そうね、多分そうなんだと思うわ。あいつの傷はよく知っているから、私じゃ駄目ってことは分かっていたから……」
「カカッ、お互い辛い立場だなぁ。俺もついさっき美奈を見送ってやったよ」
「お互い……?」
千夏はそこで気が付いた。
だが、あえてそのことは口にしなかった。
「なぁ、二人の物語の終結を祈って、酒でも飲まないか?」
銀助は左手で酒を飲むジェスチャーをした。
「それって奢りかしら?」
「まぁ、お前さんが豪酒じゃなかったらな」
千夏はくすりと笑った。
「多分、財布のボリュームが減るわね」
「そりゃ怖いな。2リットル1500円くらいの酒でいいか?」
「そんな安酒飲むくらいだったら、自分で出すわよ」
「カカッ、冗談さ。バーなんて洒落たモンはねぇが、良い酒を出す居酒屋なら知ってるぜ」
「あら、いいわね。今日ぐらいはそのくらいじゃなきゃ駄目でしょ」
「全くだ」
そして銀助と千夏は、歩き始めた――。
→
「糞親父!」
一際大きな水音を立てて、俺は立ち止まる。
糞親父は、前と同じようにお袋の墓の前で黙祷を捧げていた。
「喜一……か」
ゆっくりとこちらを向きながら、俺の名前を呼んだ。
嬉しいような、悲しいような顔だった。
「手紙を読んだのか……?」
肩で息をしつつも、俺は頷いた。
「また置いていくつもりなのか……? 自己勝手な判断で、俺をまた置いていくのか……?」
俺の言葉を聞いて糞親父は目を伏せた。
「……あぁ」
その返事を聞いて、俺は糞親父の右頬を殴った。
数歩よろめいた後、糞親父は踏み止まる。
俺は追い打ちをかけるように、今度は左頬を殴った。
糞親父は、よろめきながら水溜まりの中へ倒れ込んだ。
「それが……最良の選択だとでも思っているのか!? ふざけんな!!」
倒れている糞親父に向かって叫ぶ。
「自分がまた過ちを犯そうとしていることに気が付かねぇのか! お袋が生んで、あんたが育ててくれた子供をまた置き去りにしていくのか!?」
糞親父は水溜まりに浮いたまま、ただ俺の言葉を聞いていた。
糞親父は何も言わず、俺も何も言わなかった。
辺りには、ざあざあと降る雨の音だけが鳴り響いていた。
「手紙の約束、さっそく果たされてしまったな……」
糞親父はそう言いながら、上体を起こした。
頬は濡れており、それが涙なのか雨なのかは判断が付かなかった。
「分かってはいるのさ、それが一番駄目な選択だって事にはさ……。お前と一緒に暮らすことが、一番の罪ぼろしだって事も分かってはいるんだ……」
「だったら……!」
糞親父は左手を上げ、俺の言葉を遮った。
「言うな。その先は頼むから言わないでくれ……!」
泣きそうな声で、俺に懇願した。
言えば、糞親父はここに留まってくれるのだろうか?
言えば、糞親父は一緒に住んでくれるのだろうか?
今言うべきだ。
糞親父を全て許したという証の言葉を。
「…………ぁ!」
声が詰まって、出なかった。
言いたいのに、言うべきなのに、その言葉が出なかった。
糞親父は、そんな俺を見ていた。
嬉しいような、悲しいような顔で。
少しだけ含んだ笑いをした後、糞親父は立ち上がった。
「これが、最後の自己勝手な願いだ。……じゃあな、彼女と仲良くやってくれよ」
彼女と言われて、すぐに美奈の顔が思い浮かんだ。
「頼む……! なぁ……!」
言葉は出ない。
その一言が、どうしても出なかった。
糞親父は傘を拾い、俺のすぐ前に立つ。
「……6年前は、お前の頭を撫でるのは簡単だったけどなぁ……」
糞親父は少しだけ背伸びして、俺の頭を撫でた。
少しだけ含んだ笑いを俺に見せた後、俺の脇を通っていった。
俺は振り向いた。
糞親父の背中は、6年前のあの日と重なって見えた。
「『親父』!」
俺は、呼んだ。
親父は、立ち止まった。
「いつでも帰って来いよ! あの家は……、俺とお袋と、親父の家なんだ……!!」
親父は、少しの間だけ立ち止まっていた。
振り返らずに右手を上げ、親指を立てて見せた。
そしてそのまま振り返らずに、親父は去っていった……。
→
私は入り口の階段を上がり、墓地の中へと入っていった。
向こうの方には、一つの人影があった。
私はゆっくりと歩きながら、その人影に近づいていく。
案の定、傘も差さずに全身びしょ濡れになった喜一さんがそこに立っていた。
「風邪、引いちゃいますよ……?」
そっと私の傘の中に入れてあげた。
「美奈……」
「喜一さんの父さんは……?」
喜一さんは、遠くの方を見る。
それで私は理解した。
「行ったんですね……」
「あぁ……」
「父さんを……許してあげられましたか……?」
喜一さんは何も言わず、頷いた。
「そうですか……」
私はそれ以上何も言わず、遠くを見ていた。
喜一さんも何も言わず、遠くを見ていた。
静寂の代わりに、ざあざあと降る雨の音だけが鳴り響いていた。
「お弁当、持ってきたんですよ。……後で一緒に食べませんか?」
ワザと明るい声で、その沈黙を破った。
「近くの公園がありますし、そこで食べましょうよ」
私は公園に向かって歩こうとしたが、喜一さんはその場に立ちすくんだままだった。
「ほら」
喜一さんの手を握ってあげる。
初めて喜一さんの手を握ったが、不思議と高揚感はなかった。
握ってて当たり前のような錯覚すら感じる。
「……なぁ、美奈。どうしてお前は俺に付いてくるんだ……? 前に、突き飛ばしてしまったっていうのに……」
喜一さんは、前の出来事を気にすることもなく接してくる私に、戸惑いを隠せないでした。
だから私は、今出来る最高の笑顔で答えてあげた。
「決まってるじゃないですか、喜一さんが――好きだからですよ」
私は恥ずかしがることなく言った。
告白をした。
「喜一さんはどうなんですか? 私の事をどう想っているんですか?」
少し意地の悪い質問をしてみる。
「え……! いや、嫌いじゃないけどな……。いや、むしろ……なぁ」
案の定、顔を真っ赤にして曖昧な答えをする。
そんな答えを聞けただけでも、私は満足だった。
「ふふ、まぁ答えは後でも良いですよ。今はお弁当でも食べましょうよ」
喜一さんはばつが悪そうに頭をポリポリと掻き、ため息を一つはいた。
「なんか、してやられた感じがするなぁ……」
喜一さんは私の傘を手に取り、
「んじゃ、行くか」
「はい」
相合い傘をしながら一緒に歩き出す。
同じ速度、同じ歩調、同じ傘の中で。
ふと気づくと、ざあざあと降っていた雨はいつの間にか止んでいた。
うっそうと生い茂っていた雲の間からは、一筋の光が射していた。
私と喜一さんは少し見つめ合った。
でも結局、相合い傘をしたまま歩き出す。
しばらくの間は、このままで居たかったと二人とも思ったからだ。
言わなくても、私と喜一さんは分かり合っていた。
上辺だけではなく、心の奥の傷も、想いも……。
そう、全てを。
→
――後ろの人は気が付く。
この影は自分自身なんだ、と。
己の過去の呪縛なんだ、と。
後ろの人は、声のあらん限り叫んだ。
全てを断ち切る為に。
――声が聞こえた。
前の人は、初めて後ろの人を見るために振り向いた。
追いつこうとしているのか、後ろの人は走っていた。
前の人は、それを見て立ち止まってあげた。
――やがて、後ろの人は前の人に追いつく。
離れぬよう、離されぬよう、互いの手を絡め合うように
紡ぎ、歩き始めた。
同じ速度、同じ歩調、同じ想いで二人は歩き始めた。
二人は誓った。
もう二度と、離すまいと――。
【完】
――エピローグ――
―ガチャリ
「ただいま〜」
「お帰りなさい、喜一」
「うん、ただいま美奈。壱奈は?」
「さっき寝かしつけた」
「そっか、おみあげ買ってきたのにな」
「明日の朝にでも良いじゃない」
「それもそうだな」
「ご飯温めたけど、すぐに食べる」
「あぁ、もう腹ぺこだよ」
「そういえばさ、この前千夏と会ったんだけどさ」
「ん? 元気にしてたか?」
「うん、ムシロ元気すぎ。もうお腹膨らんでたし」
「えぇ!? もう!? 早いなぁ〜……。2人目生んでからまだ一年も経ってないじゃないか……」
「本当にねぇ。私達より早く結婚したかと思えば、私達よりも早く生んでるし……」
「3人目の名前は?」
「まだだってさ。銀一、千奈と来て次はどうしようって悩んでた」
「いっそ全員分混ぜるとか」
「……訳が分かんない名前になるわよ」
「それもそうだな」
「ねぇ、お義父さんはいつ頃こっちに来るって行ってた?」
「さぁな、相変わらず『気が向いたら』だってさ」
「もうわだかまりなんてないのにねぇ。あの時以来に会った回数ってたった2回しかないのに」
「俺達が結婚した時と、出産した時と……壱奈の初めての誕生日の時にも来たんじゃなかったっけ?」
「あぁ、うん。そうだった」
「親父は頑固だからなぁ……、気長に待つほかないだろ」
「それもそうだね。無理意地なんて出来ないし」
「……うん、ご馳走様。また腕が上がったな。もう少しで俺を越えられるんじゃないか?」
「うぅ〜……、悔しいなぁ〜……。主婦の私が喜一の料理を越せないなんて……」
「精進しろよ」
「はぁ〜い」
「……ん? なんだこれ?」
「え? 何が?」
「これ」
「あぁ、それね。それはね〜、私が書いた詩よ」
「詩……? 何で?」
「ちょっとね、面白そうだから書いてみた」
「題材か何かあるのか? 結構こだわってるっぽいけど」
「ふふ〜ん、実はね、私達が題材になってるのよ。結構波瀾万丈な恋愛だったじゃない? それを元に考えたら結構良くなってさ」
「へぇ……。タイトルは決まってるのか?」
「もち。タイトルは――……」
【Fin】
-
2004/03/30(Tue)21:54:17 公開 /
rathi
■この作品の著作権は
rathiさんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
よ〜…っやく前編終了です。
なんだかもの凄い量になっていますね、この小説。
新規で読み始める人はちょっとつらいかも…。
え〜、これからようやく後編へと移ります。
さすがに前編よりは短くなると思います。
よろしければ、前編を読んだ感想は後編の方に書き込んでもらえるとありがたいです。
ではでは〜
【あとがき・後編】
家の手伝いで更新が遅れました、申し訳ないです。
はい、終わりました。
わ〜い、わ〜い、終わった〜!
さて、暴露話。
実はこの〜雨〜、書くのが途中で嫌になってました。
すごく飽きてました。
元々恋愛小説なんて柄じゃなかったですからねぇ…。
そして描写の甘さに痛感、痛感。
泣けて来ますよ。
途中の設定まで、最後の墓に向かっていくのは喜一と美奈が一緒に行く予定でした。
でも、勝手に動き出して、勝手に分裂してしまったので、最後はこうなりました。
終わりよければすべてよしって事でしょうかね?
はるかさん、飛鳥さん
グリコさん、nervさん
daikiさん、ベルさん
グリコさん、白い悪魔さん
柳瀬羽魅さん、モンタージュさん
九邪さん、卍丸さん
オレンジさん
皆様、本当にありがとうございました。
本当は前編の方々にもお礼を言いたいのですが、歴が消えてしまっているので名前をあげてのお礼を言うことが出来ませんが、今まで読んで頂いてありがとうございます。
一つ気になったのは、本当の意味でのリアルタイムで読んでいてくれた方は居るんでしょうか?
もし居ましたのなら、ぜひこちらまでご連絡下さいな。
盛大な拍手でお迎え致しますよ(笑)
一応、この〜雨〜は累計500点!…ちょっと手前でした。
ではでは最後に、皆様、本当にありがとうございました!!