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『まんげつはきらい エピローグ』 作者:神夜 / 未分類 未分類
全角71030文字
容量142060 bytes
原稿用紙約211.55枚

     「少女は猫耳」


 誰に言われたのかは忘れたが、確かこう言われた事がある。
 おまえってなんか冷静だよな。そうかもしれないと三神恭介は思う。
 しかし今回は、そうも言っていられなかった。


 都築(つづき)高校に入学してその新学期の初日、恭介がさて帰ろうかという時に、名前も知らないクラスメイトにいきなりカラオケに誘われ、別に断る理由も無かったので行ってみたのが運の尽きで、五時間もの間永遠とカラオケボックスに監禁されてしまった。
 すっかり暗くなった春の空の下、監禁された代わりに仲が良くなったクラスメイトの中の一人、秋山慎治(しんじ)と携帯の番号を交換して別れた。
 疲れたが、楽しくなかったわけではない。中学の連れは少しか都築高校に入学しなかったし、その中にあまり親しい友人はいないこの状況で、新しい友人がすぐにできたのは嬉しかった。そこまでの仮定がどうであれ、つまらない学園生活を送るよりかはよっぽどいい。
 新しい友人達と別れた恭介は家へと続く帰路を歩いている。携帯のディスプレイに時刻が「PM7:45」と表示されていたのを確認し、歩きながら空を見上げた。今日は綺麗な満月だった。この辺りはポツポツと民家があるだけの、田舎のような中途半端な道なので空一面に月と星がはっきりと見れる。星座を探してみるが、生憎そっちの知識はほとんどない恭介にとってはどれもこれも一緒にしか見えなかった。
 星座を見つけるのを諦め、視線を前方に向ける。今度は耳を澄ましてみる。思っていたよりもずっと遠くの音が耳に届いた。何処かの家の電話が鳴り、一昔前の音楽が流れ、川のせせらぎに合わせて虫が合唱会を開いている。いつもならこんなことをしない恭介だが、新しい学園生活のためか、そういう当たり前の日常が新鮮に思えた。
 そのまま耳を澄まし歩いていると、背後に不思議な音を聞いた。重いサンドバックを地面に置いたような、そんな音だ。
 ふと後ろを振り返ると、さっき恭介が歩いて来た一本道の途中、所々に設置されている街灯の灯かりの下で、女の子が一人倒れていた。
 考える。さっきそこを通ったが誰も倒れていなかった。ということはつまり、さっきのサンドバックを置いたような音はこの女の子が倒れた音だったのだろうか。だけど何で倒れているのだろう。
 だが理由はわからないが、女の子が倒れているのを見てしまった後ではすでに遅く、知らん振りをするのも出来ないから一応は助けておこうと思った。
 来た道を引き返し、ゆっくり女の子に歩み寄って初めて気付く。
 その女の子は、普通とは違った。
 まず目に止まったのはその子の髪だった。真っ白、とは違う。白銀と呼ぶのが一番適切だろうか。街灯の灯かりに照らされ、春の風に揺れるその髪が微かに光って見える。染めてそうなったのではなく、生まれ付きその色なのかもしれなかった。
 そしてもう一つ。これは確かめなければ何とも言えないが、もしかしたら飾りかもしれないが、恭介が見る限りでは、その女の子の白銀の髪の頭の上、人にあったらこんな感じだろうという場所に、まるで猫のようなもこもこした耳があった。
 これにはさすがに驚いたが、まさか本物ではあるまい。こういう猫耳が付いたカチューシャはよく売っているし、その前の白銀の髪のインパクトが強過ぎて本物かもしれないと錯覚しているだけかもしれない、いや事実そうなのだろう。
 当初の助けるという理由を忘れ、それを確かめるために女の子に近づく。そしてそんな馬鹿な理由で近づいたことを後悔した。
 放っておけばよかったのだ。猫のような耳が本物かどうかなんて確かめずに、そのまま帰ればよかった。幸い女の子は向こうを向いていたし、恭介に見えたのは女の子の髪とその猫耳だけであって、顔は見えてなかった。だから意識があるかどうかなんてわからないし、その子が恭介の顔を見たわけでもないのだから恨まれることは一切ない。それでも心配なら救急車でも呼んでここからさっさと立ち去るべきだった。
 だが恭介はその猫のような耳は本物かどうかという事を確かめるために近づき、女の子の側にしゃがんで無防備にも手を伸ばした。もこもこした耳に恭介の手が触れるか否かの瞬間でそれは起る。
 何者かの気配、つまり恭介の気配を感じ取った女の子がいきなり身を翻して立ち上がり、恭介の手を思いっきり振り叩いた。
 突然のことに呆気に取られた恭介は振り叩かれた手を見つめる。そして目を疑った。浅かったが、手の甲に獣のような爪跡があって、そこから少量の血が流れ出していた。驚いて女の子を見上げる。
 一瞬、まるでそこに本当の巨大な獣を見たような錯覚に陥った。反射的に立ち上がるとその巨大な獣に見えた女の子の背は恭介の胸の辺りまでしかなく、いきなりちっぽけに思えた。だがそう思ったのもほんの数秒で、その子の異変に気づいた時には一歩足が後ろに下がっていた。
 戦場を乗り越えてここに辿り着いたように服はボロボロで、頬は炭が擦れたように黒く、そして何よりもその女の子の瞳が紅く、指の爪が通常よりも鋭く、獣のようだったことに引いた。怖い、と言えばそれまでだった。
 女の子の紅い瞳は真直ぐ恭介の瞳を見ていた。しかしその瞳が、まるで助けを求めているような、迷子の子どものような不安で泣き出しそうだったことに気付き、恐怖は不思議なくらい消え去った。
 女の子の息遣いが荒い。何かに追い詰められた弱者のような緊張感、その裏腹に助けを求める紅い瞳。
 何かを言おうとしたのだろう。口が微かに動く。だがそこから言葉が出てこない。そんな無言の言葉を、恭介はなぜか理解できた。聴くのではなかった、思ったのだ。
 確かに、女の子はこう言ったはずである。
 ――逃げないで。
 そして女の子がすっと目を閉じた。どうなったのかと思う前に、壊れたマリオネットのように女の子の身体が前に倒れる。条件反射で恭介がその身体を支え、胸に預けられた女の子の瞳が微かに開き、恭介を見ていた。その瞳が、黒かった。鋭かった爪も、普通の爪になっていた。
 もう一度女の子が目を閉じると、身体から完全に力が抜けた。まさかとは思ったものの、微かに感じる吐息に安堵した。どうやら眠ってしまったらしかった。
 このままここに置き去りにすることなんて、もうすでに出来なかった。
 助けを求めるような紅い瞳と、思った言葉。
 これからの行動は、一つしか思い浮かばなかった。
 今日は、綺麗な満月だった。



     ◎



 三神恭介の両親は少々変わっている。
 父の伸明は少し無口だが頑固というわけでもなく怒られた記憶はない。
 母の笑子はその名の通りにいつも笑って笑顔を絶やしたところを見た記憶がない。
 それだけならどこにでもいそうな両親だが、変わっているのは恭介に対する教育方針である。無関心、とは違うが父と母は恭介のする事やる事やった事に一切観賞をしない。恭介が学校のテストで0点を取ろうが喧嘩して停学になろうが無断外出しようが、例え警察に捕まっても多分怒られはしないだろう。
 だが放し飼いのようなその教育方針が逆に、恭介をちゃんとした人間に育てている。恭介にしてみればそんな教育方針はかなり気楽でいいし、そんな育て方をできる両親を尊敬すると同時に好きだった。
 自由気ままな方針だが、親からの愛情が無いわけでもなく、それも逆に愛情をたっぷり注がれて今まで育て上げられてきた。
 その両親が、恭介のする事に一々驚くはずもないのだ。落ち着いている、というのを通り越しているのかもしれない。大地震が起きようとも恐らく二人だけはのんびりとしているに違いない。
 だからそんな両親が、実の息子が夜遅くに帰って来て、しかも戦場を乗り越えてきたように服はボロボロで、髪は白銀でおまけに猫のような耳が頭に付いた気を失っている女の子を抱えていても、
 「ちゃんと看病してやれ」「あら大変」とだけしか言われなかった。父はそれだけで缶ビール片手にさっきまで見ていたと思われるテレビの時代劇に視線を戻し、大変と言った母でさえ洗物が途中だったらしくまた台所に戻って行ってしまう。少しは驚いてほしいと思う反面、そっちの方が都合がいいと考える。
 取り敢えず両親にはこの子を看病するから少しの間休ませると告げると、時代劇に見入っている父から「おう」と生返事が返って来た。
 初めから恭介の考えは通ると思っていたが、こうも簡単に通ると少し虚しくなる。だがそんな事よりも、早くこの子を寝かせてあげなければ思って恭介は女の子を抱えたまま階段を上がる。幸い女の子の体重がかなり軽かったため、家に帰り着くのも階段を上がるのも苦労はいらなかった。部屋のドアノブを器用に足で回し、部屋に入っていつも恭介が使っているベットにそっと寝かせる。
 運んでいる途中に起きるかもしれないと思っていたが、眠ってしまった女の子は全く起きようとはしない。目覚める気配が微塵も感じられない。このまま起きないかもしれないと最悪の考えが浮ぶが、それも簡単には否定できないのが怖い。だが少なくとも女の子は生きていて、今は眠っているだけなのだ。その証拠に寝息は聞こえるし、何でかは知らないが時折猫のような耳がピクっと動く。
 猫の耳。
 すっかり忘れていた。いろいろなインパクトが強過ぎて忘れていたが、果たしてこの耳は本物なのか。そう思い込ませるだけの出来事はもう起こっている。白銀の髪もそうだし、紅い瞳や鋭い爪は十分過ぎるくらいだ。しかしまだ完全に信じたわけではない。本当に確かめるまでは信じてはいけないのだと勝手に思う。
 恭介はさっきと同じように、その耳が本物かどうかを確かめるために手を伸ばす。もこもこした耳に手が振れるか否かの瞬間、今度は女の子は起きなかった。そして遂に、恭介の手は猫のような耳に触れた。
 冗談ではなかった。夢などでは毛頭ない。この白銀の髪の女の子は本当に存在し、そして何よりこの耳は本物だった。もこもこした毛からは微かな温もりを感じるし、恭介が触ったからかその耳がピクンと動いた。
 耳から手を離し、三歩後ろに下がって椅子に座る。猫耳娘やら動物の耳が生えたそんなキャラを漫画や何かで見た事は少なからずある。だが、実在するなんて誰が思おうか。それがよりにもよって恭介自身の所に現れるとはこれは不運と呼ぶべきか幸運こ呼ぶべきか。
 悩んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。扉越しに声がする、
「恭介、ちょっといい?」
 母だ。
「いいよ、開いてる」
 ドアノブが回って母が入って来きた。いつもと同じ笑顔、そしてその手には風呂に置いてある水の入ったプラシチック性の桶とタオル、それに恭介が昔着ていたが小さくなって着なくなった服を持っていた。
 少し驚いて母を見る。すると母は、
「その子汚れたままじゃかわいそうでしょ。ちょっと拭いてあげようと思って」
 ああそうかと恭介は思う。これもすっかり忘れていたが、この女の子は戦場を駆け抜けてきたように服はボロボロで汚れている。
 このまま放っておくのは少し可哀想だし、それにこの子は女の子なのだ。
 恭介は肯く。
「わかった。おれは外で待ってるから、終わったら教えて」
「ごめんね」
 母と入れ違う形で廊下に出た。
 廊下に座って天井を眺める。この暇な時間は、物事を考えるのには最適だった。
 母は、あの子のことをどう思うだろう。拒絶するのだろうか。いや、あの母に限ってそんなことはまず有り得ない。動物の耳が付いていようが本物の動物だろうが、母は何も変わらずに接するに決まっている。父もそうだ。耳が付いているだけ怖がりはしない。それどころか父なら我が子のように可愛がるかもしれない。やっぱり両親はすごいと今更ながら感心する。普通ではまず有り得ない想像も容易にできる。
 それにしても、あの子は一体何なのだろう。いつの間にか恭介の後ろに倒れ込み、髪は白銀で猫の耳があって、今は違うが瞳は紅く爪は鋭かった。本当の獣のように。だが今は違う。見る限りでは耳がある以外、普通の人間と変わらない。真相は、あの子が起きるまでわからない。だけど、
――逃げないで。
 その言葉が頭に焼き付く。どういう意味だろうか。そのままの意味なのだろう。この姿を見て逃げないで。多分あの子はそう言いたかったのに違いない。
 思う。起きるまでなんとも言えないが、もし、もしあの子に帰るべき場所がなかったら、その時は、
 ドアが開いた。そこからすっと母が出て来る。
「終ったわよ」
「そっか」
 恭介が立ち上がって部屋に入ろうとすると、
「一つ聞いていいかしら?」
「なに」
 母は言った。
「あの耳は、本物?」
 あの女の子が起きなければ断言はできないが、恭介の見る限りでは、
「たぶん」
「そう」
 もう少し追究があるかと思ったが、母はそれだけだった。部屋に入って来た時よりも少し汚れの付いた桶とタオル、それとさっきまで女の子が着ていた服を持って階段を下って行った。
 その姿を最後まで見送って、恭介はひとり母に感謝する。恭介がまだ全部状況を理解していないことを、母はもうわかっている。だから敢えて耳が本物かどうかと聞くだけで、それ以上は追究しなかったのだ。やっぱり、母はすごい。
 部屋に入ってドアを閉め、さっきまで恭介が座っていた椅子に腰掛ける。そしてまじまじと女の子を見つめる。ベットに横になって肩まで布団を羽織って寝ているその綺麗になった寝顔は、さっきよりもずいぶん幼く見えた。まだ十歳半ば、もしくはそれ以下だ。こんな少女がどうして道端で倒れ、そして髪が白銀で猫のような耳が付いているのか。疑問は数え切れないくらいにある。
 だがまずは、この子の元気なってもらいたかった。それから話しを聞こう。わからないことを全部聞いて、それでもし女の子に帰るべき場所がないのなら、その時は、両親に頼み込んでここに居させてあげよう。両親のことだ、簡単に了解してくれると思う。
 微かな睡魔が恭介を襲った。考えてみれば今日は新学期でいろいろと面倒事が多かったし、放課後は五時間のカラオケ、疲れは溜まっているはずだ。部屋の中央の柱に備え付けられている時計に目を移す。時計の長針は九を過ぎ、短針は六を過ぎていた。つまり九時三十分過ぎだ。寝るには早いが、明日も学校はまだある。新学期の二日目早々からの居眠りは避けたい。だけどこの子を放って寝るのはどうもできない。制限時間は十二時まで。それまでに起きなかったら寝ようと決めた。
 椅子に座ったまま、何をするでもなくベットで眠る女の子を見つめる。たまに耳がピクっと動くのが何だか愛敬があった。もう一度触ってみようかと思ったがそれも何だか失礼に思えてやめた。
 そこからは記憶が途絶え途絶えになっている。何か夢を見ていた気もするが思い出せない。何度も視界が閉ざされ、微かに目を開けても女の子は眠り続け、また目を閉じる。そんなことを繰り返した。どこからか音楽が聞こえる。道端で聞いたあの一昔前の音楽と、外でいつまでも奏で続ける虫の合唱会。それが子守唄のように聞こえた。いつしかその音を追いかけていた。そしてその追いかける気力も無くなり始めた頃、今までとは違う音を聞いた。
 ふっと目を開けて時計を眺める。時計の針はかなり進んでいて十二を過ぎていた。もうタイムリミットは切れた。寝る時間だ。それによく考えればまだ風呂に入っていない。下に行って風呂に入って寝よう。まだ眠気が残る頭でそう決めて椅子から立ち上がってふとベットを見れば、
 眠気は一発でなくなった。
 ベットに上半身だけ起き上がっている女の子が、こっちを不思議そうに眺めていた。
「あ、っと……」
 言葉に詰る。
「お、おはよう……?」
 何とかそう言ってはみたものの、今は夜でその表現は途方もなく間違っている。
 かと言って他の言葉は出て来なかった。
 そんな恭介を見ていた女の子が何かを言おうと口を動かす。だが言葉が出てこない。しばらく待ってみると、やがて女の子はゆっくりと、
「ここは……?」
 と言った。ここはどこですか、そう言っているのだと理解するまでもかなりの時間が掛かった。そしてやっと自分が椅子から立ち上がろうと奇妙な体勢でいることに気づいて座り直した。
 できるだけやさしく質問の答えを返す。
「ここはおれんち。迷惑かもしれないけど、一応運んだ」
 そして女の子は視線を恭介から外し、部屋の中をゆっくりと眺める。一つ一つの物に興味を示し、たまに何を思ったのか一点を見つめてじっとしていた。やがてその視線は女の子が着ている服に移る。自分の着ていた服が違うことに戸惑っているようだった。
「服は汚れてたから替えた。でもそれはおれがやったんじゃないから……」
 正確には母だが、そんなことはどうでもよく思えた。そしてまた女の子の視線が恭介に戻る。
 真直ぐ恭介の瞳を見つめていた。あの時とは違う女の子の黒い瞳。知りたい事は山ほどある。だけど口から出たのは今まで考えもしなかったことだった。
「君の名前は?」
 考えもしなかったが、いずれは聞いておかねばならない事だった。
 予期していなかった質問を投げ掛けられた女の子は少し驚いたように微かに身体が動き、それに合わせて耳もピクっと動いた。
 そしてやがて、女の子が恐る恐るぽつりとつぶやく。
「……梨紅」
「梨紅?それが君の名前?」
 こくりと女の子――梨紅は肯いた。
 名前はわかった。さて、次は何を聞こう。どうしてその、猫の耳があるの。それはさすがにストレート過ぎるだろう。まずはやっぱりどうしてあんな道端に倒れ込んだのか、それにどうして服がボロボロだったのか。その辺りから聞いていくのがいいのではないかと思う。
 それを聞こうと思って梨紅を見ると、何か言いたそうにこっちを眺めていた。
「ん、なに?」
 すると梨紅は言い難そうに視線を外し、それっきり黙ってしまった。
 どうしたのだろう、何が言いたかったのだろう。しかしそれを恭介が知るはずもなく、どうすることもできなかった。
 そして思い至る。
「ああ、そっか。自己紹介がまだだったな。おれは三神恭介、恭介でいいよ」
 だが梨紅はそれでも視線を恭介に戻そうとはしなかった。
 どうやら違ったらしい。じゃあなんだろう。考えていると、今度は梨紅の方から話し掛けてきた。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、逃げなかったの……?」
 どうして逃げなかったの、か。そりゃあ逃げ出したかった。紅い瞳と鋭い爪を見せられた逃げたくなるに決まっている。それでも逃げなかったのは両親の御かげかもしれない。いつも落ち着いている二人を見て育ったから、大抵のことでは取り乱したりはしない。
 誰かにおまえって冷静だよなと言われた事がある。それも間違いではないのだろう。
 それより、
「じゃあ、なんで梨紅はおれに逃げないでって言ったんだ?」
 はっと視線が恭介に戻って来る。その表情が驚き染まっていた。どうしてそれを知っているのかと言いたげな瞳だった。
 恭介は軽く笑う。
「あの時、梨紅がそう言ったように思えたからさ。やっぱりそう言ってたのか」
 照れたように、梨紅はまた視線を外した。それが何だか嬉しかった。
 今はまだいいだろう。もう少ししてからでも遅くはないと思う。今はまだ梨紅は少し怯えているような節がある。まずは梨紅がこっちに興味を持ってくれてから知りたい事を聞けばいい。それまでは待とう。
 恭介は椅子から立ち上がる。
「さて。梨紅、腹へってないか?」
 梨紅はベットの一点を見つめたまま答えなかった。
 まあいいか。まずは風呂でも入って、それからまたするべきことを決めよう。
 恭介が椅子から離れ、ドアに向かって歩く。ドアノブに手を掛け、梨紅をもう一度だけ見る。しかしベットに視線を落としたままだった。しょうがないか、そう思ってドアノブを回した時、
「……村に帰れなくなったの……」
 梨紅はそう言った。
ドアノブから手を離し、振り返る。梨紅はまだベットに視線を落としたままだったが、手が布団を握っていることに気づいた。部屋から出るのをやめてもう一度椅子に腰掛ける。
 多分、梨紅はどうしてあそこに倒れていたのかを話そうとしているのだろう。理由はわからないが、話そうとしてくれている以上それを聞こうと思う。
 恭介が見守る中、梨紅はゆっくりと話し始めた。


 梨紅は不器用な、決して上手い説明ではなかったが精一杯、恭介に伝わるようにゆっくりと話した。
 暮らしていた村に戻れなくなった。まず始めに、梨紅はそう言った。
 この近くに氷狼山(ひょうろうざん)というかなり大きい山がある。その山頂には年中雪が残っている不思議な山で、周りを川で囲まれていて人の立ち入りを禁止されている。しかし毎年正月だけはその立ち入りが許され、氷狼山の中腹にある神社に初詣に行く、というのがこの町では昔ながらの決まりになっていた。そういった山には神話や昔話は付き物で、この町に住んでいる恭介にしてみてもそういう類の話しは聞いたことが少なからずあった。代々古くからの言い伝えみたいな物だ。
 その中で一番幅広く知れ渡り、一番定番の神話が一つある。
 氷狼山には『狼狗(ろうく)』と呼ばれる人の姿をした狼が住んでいる。
 いつからそう言われはじめたのかは誰もわからないだろうし、何が原因でそう言い伝えられているかも誰も知らない。調べてもわからないだろう。だが確かに、そういう言い伝えの神話は存在する。この地方にだけはそれを元にした絵本なども数多く存在する。恭介も小さな頃はそれをよく読んだ記憶があった。
 そして梨紅は、その狼狗の一族の末裔だと言う。
 それをはいそうですか、といきなり信じられるわけはなかったが、最後まで聞き終わるまで何も言わずに梨紅の話を聞いた。
 氷狼山の山頂にある、人の立ち入りを絶対に許さず、結界のような物で今まで守られ続けてきた村、神月村。
 その神月村には厳重に守られた、決して破ってはならない掟がある。――村から出てはならない、それを破った者は、もう二度と村には戻れなくなる。古くからそう言われ続けてきたその掟に従い、狼狗の一族は今まで誰一人として村から外の世界には出なかった。
 だが時は流れ、梨紅の世代までその掟は守り抜かれてきたが、梨紅がそれを犯してしまった。
 蝶を追いかけていたのだと梨紅は言った。友達の梨緒という少女と一緒に、梨紅は村に入り込んだはじめて見る蝶を追いかけていて、親から出てはいけないと教えられていた鳥居を潜ってしまい、気づいた時には周りには誰もいなくっており、村はどこにも見当たらなかった。
 それからは村を探して山をさ迷い続け、それは起こった。
 崖から落ちたんだと思う、と梨紅は言う。
 歩いていたらふっと意識が無くなり、気が付いたら地面に倒れていたそうだ。そして時間は進んでいたらしく辺りは暗く染まっていて、さらにその付近をさ迷い、気付いたらそこは山ではなく、その外の世界だった。必死になって走り回り、やがて体力の限界が訪れ、街灯の灯かりの元に倒れ込んだ
 そして、今に至る。


 所々あやふやで、簡単で表面的な説明しかなかったが、梨紅はそのような事を話した。
 話し終えた梨紅は、帰れなくなった不安と心細さを抑えるようにぎゅっと布団を握った。
 ずっとその話しを聞いていた恭介は、ひとり思考を巡らせる。
 理解はしたが納得はできるかどうかは微妙だった。確かに、氷狼山には人の姿をした狼がいるという話しは定番過ぎるくらいに知れ渡っている。だから逆にそれを利用して、梨紅は恭介を騙そうとしているのではないか。そうも思ったが、そうだとしたら梨紅の耳が説明できない。作り物のはずがない。それは紛れもない本物だ。それにこの子がそんなことをするとは絶対に思えない。
 梨紅の話しを信じればつじつまがすべて合う。証拠は何よりその耳だ。だが一つ疑問が残る。
 梨紅と初めて会った時に見せた、あの姿は一体何だったのか。それは梨紅の説明の中には入っていなかった。聞こうかどうか迷う。だが話さなかったということはつまり、知られたくないのかあるいは話してはならないのか。理由はどうであれ、梨紅から話してこない限りこちらから聞き出すのは避けた方がいいだろう。
 そして一つの結論が出た。梨紅が起きる前からもうすでに決めていた事でもある。
 梨紅に聞いておこうと思う。
「じゃあ、梨紅は今、その神月村って所に帰れないんだな?」
 重く、梨紅は肯く。
 そんな梨紅を見て勇気が砕ける。
「あのさ……もしよかったら……。梨紅が村に帰れるようになるまで、ここに住まないか?」
 梨紅の瞳が恭介を見た。恭介は鼻の頭をポリポリと掻き、
「村に帰れる方法がわかるまでどれだけ時間がかかるかはわからないんだろ。だったら、それまで暮らすとこがないと困るだろ。だから、それまでここに住まいか?」
 逃げないでと言われた時から、あの紅い、助けを求めるような瞳を見た時から、恭介はもう梨紅という一人の少女を放っておくことはできなくなっていた。乗りかかった船なら、最後まで乗ってやろうと思う。もちろん、それを梨紅が迷惑だと思えばそれまでで強制する気は全くない。
 梨紅も同意の上でそうなった時は、ちゃんと最後まで見届けようと思う。
 最後まで、助けてあげようと思う。
「おれは梨紅を助けたいんだ」
興味本意の部分もあったのだろう。小さな頃から聞かされていた狼狗の話。それが実在するとわかった今、形はどうであってもその船に乗りかかっているなら、その一歩を踏み出して船に乗って進めば、今までとは違う光景が見れる。そう考えた部分は少なからずある。だが、やはりそれだけではない。
 本心から、梨紅を神月村に返してやりたいと思っている。幼い少女がたった一人で、出てはいならないと言われていた村を出てしまったその孤独感は生半可なものではないのだろう。梨紅が帰れるようになるまで、梨紅が本当の帰るべき場所に行けるようになる時まで、少しでもいいから手助けがしたかった。
 恭介はずっと梨紅の瞳を見ていた。その瞳がやがて潤み、涙が流れた。
 梨紅はベットから立ち上がって椅子に座っていた恭介に抱き付き、大声で泣いた。
 幼い子どもが両親と逸れ、そしてやっと再会した時のように、梨紅は恭介の背に手を回し、泣き続けていた。


 それからの梨紅は少し変わった。いや、本当の梨紅という少女に戻ったのだろう。
 口数は相変わらずだが、とにかく人懐っこい。狼というより子犬か子猫。恭介が一歩歩けばその後を付いてくるし、どこかに座ればその隣りに座る。それが嫌なわけではない。避けられながら一緒に暮らすよりはいいし、そんな梨紅がまるで妹のように思えた。いつか弟か妹がほしいと思ったことがあった。もしできたら、両親から受けた愛情をそのまま注いであげようと考えていたことも密かにある。
 そして突然、期間ははっきりしないが、それでも恭介に妹のような存在ができた。正直、嬉しかった。
 梨紅にもう一度確認を取った。ここに住まないか、と。すると梨紅は笑って肯いた。これでよかったのだ、正しいことをしたのだ、と恭介は思った。
 そうと決まればこれから取るべき行動は一つだった。付いて来ようとする梨紅をベットに残し、恭介は一人部屋から出た。階段を下って一階の居間に入る。そこに両親は二人揃っていた。父はまだテレビを見ていて、母は机の上に裁縫箱を出して何やら服を縫っている。
 どちらから先に声を掛けようかと迷っていると、母が持っている服に目が止まった。それは間違いなく、梨紅が着ていたボロボロだった服だ。だが今その服は母の裁縫技術によってほぼ完全な形まで修復されていた。汚れは洗濯していないから綺麗になってはいないが、ちゃんと洗えばすっかり新品同様になるのではないかと思う。
 しかしそんなことよりも、
「母さん、それ……」
 やっと恭介がいることに気づいたように母は「あら」っと服を縫うのをやめて恭介を見る。
 そして恭介の視線が手に持っている服を向いていることに気づいて少し笑う。
「これね、ボロボロのままよりちゃんと直しておいてあげようと思って」
 何と言っていいかわからず、素直な感謝の言葉を母に言った。
「ありがとう……」
 母はまた笑った。
「お礼ならお父さんに言いなさい。あの女の子をちゃんと綺麗にしてやれって最初に言ったのお父さんなんだから」
 今度はテレビを見ている父に視線を向ける。
 また素直な感謝の言葉を父に言う。
「父さん、ありがとう」
 父は恭介に視線を向けず、テレビを見たまま「おう」と返してきた。
 さて本題に入らなければならない。断られるとは思わないが、言い出すのには勇気が必要だった。恭介一人で解決できる問題ならそうするが、こればっかりはちゃんと了解を得なければならない。迷惑はあまり掛けたくないけど、もうすでに母には少し迷惑を掛けているのかもしれなかった。
 そして恭介が勇気を振り絞り、二人に向かって言うより早くに、テレビを見ていた父が、
「母さん、布団もう一式あったろ。出してやりなさい」
 忘れてたわ、と母はつぶやいた。持っていた服をテーブルの上に置き、針を布に刺して立ち上がる。突っ立っている恭介を見て、
「布団は恭介の部屋に運べばいいの?」
「え、あの……え?」
 父がはじめてテレビから視線を外し、意外そうな顔で恭介を見る。
「なんだ、違うのか?」
「いや、違わなくはないんだけど……なんで?」
 また視線がテレビに戻る。
「何年おまえの親やってると思ってるんだ」
 それだけ言って、父は黙ってしまった。恭介はその背中にもう一度、さっきよりも感謝の気持ちを込めて「ありがとう」と言った。
 するといつの間にか布団を一式分持った母が居間に現れ、床に置く。
「これ、恭介が運んでくれる?」
「わかった」
 それくらいはしなければならない。というかこの両親の前ではこれくらいしかできない。我が両親ながら、やっぱりすごいと関心する。
「恭介、あの子は起きたの?」
「ああ、起きてる。――そうだ、説明しなくちゃ」
 それから恭介は梨紅から聞いた話を、多少アレンジしながら両親に聞かせた。梨紅が見せた、あの姿のことは言わなかった。すべてを話し終えたあと、驚くかな、と思ったがやはりこのふたりは驚かなかった。父は「あの話しって実話なんだな」と肯き、母は「すごいわねえ」とただそれだけ。そしてこれから梨紅が神月村に戻れるようになるまでここに居させてやってほしいと頼むと、何の抵抗もなく二人はあっさりと承諾してくれた。
 今日は遅いから、また明日ちゃんと梨紅を紹介すると言い残して恭介は居間を後にした。布団を持って上がるのは梨紅を抱えて上がるのより難しかったことが何だか変に思える。
階段を上がりきって廊下を進み、また足で器用にドアを開けた。部屋に入って布団を床に置いて一息つくと同時に、梨紅の姿を探す。と、梨紅はいつの間にか恭介の横まで来ていた。その姿が無邪気な子犬のように見えた。耳がぴんと立っている。この猫のような耳がなんと言えず愛敬があって、
 猫。疑問が浮ぶ。
 取り敢えず恭介はベットに座る、それを真似するかのように梨紅もベットに座った。
「なあ梨紅」
 梨紅がこっちを見る。
「この耳ってさ、」
 恭介が梨紅の耳にそっと触れる。触れられるのが恥ずかしいのか、少し耳が動く。だけど梨紅は嬉しそうだった。
 耳を触ったままで、恭介は梨紅に尋ねる。
「狼の耳なのか?」
「うん」
「猫じゃなくて?」
 むっと怒ったように梨紅は恭介を睨む。
「いや、なんか狼っていうより子猫みたいな耳だから……」
 そしていきなり梨紅は恭介をぽかぽかと叩き始めた。だがちっとも痛くなかった。
 ベットに寝っ転がった恭介の上にちょこんと梨紅が座り、背中に小さな拳の雨を降らせる。恭介はひとり笑う。
 どうやら、そう言われる事にコンプレックスを持っているようだった。だがどう見たってこの耳は猫のようだ。白銀の髪は狼の毛並みを表しているのだろうが、耳はちょっと違った。まだちゃんと成長していないからかもしれないが、ほんの少し白銀の毛があるだけで残りは茶色みたいな毛並みをしている。それだけ見れば完全な猫耳だった。しかしこれは梨紅が言う通りにちゃんとした狼の耳なのだろう。
 これ以上そのことをつっつくと、梨紅が泣き出しそうな気がしたのでもう何も言わなかった。
 って、ちょっと待て、いつまで殴ってる気だ……。
 いつまで経っても、梨紅の小さな拳の嵐は止むことがなかった。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

     「少女は料理上手」




 次の日、目が覚めてはじめに違和感を感じた。
 いつもより余計に布団が暖かい。それにきっと、いや絶対布団の中に何かいる感じがする。
 恭介はベットに横になったままでそっと布団を退かしてみる。するとそこに猫がいた。ぱっと見は猫だった。その猫はベットの中央で小さな手で恭介の服を掴みながら丸まって寝ていた。時折、白銀の髪から生えた猫のような耳が微かに動く。
 考える。視線をその猫から外してベットの隣を見た。そこには布団が一式綺麗に並べられたままになっていて、そこには誰もいない。確かに昨日、この猫にはそこで寝るようにと言ったはずだ。ベットの方がいいと駄々をこねたのを憶えているが、しっかり言い聞かせて何とかベットは死守した。猫の了解の上で、ちゃんとそこの布団に寝かせやったのだ。なのになぜ、この猫は当たり前のように恭介のベットで寝息を立てているのか。
 布団を退けていたのが寒かったらしく、猫は眠ったままで布団の奥底に潜り込んでいく。すっぽりと潜ってしまったが、ひょっこりと猫のような耳だけが片方出ていた。
 触ってみる。するとそれを嫌がるようにピンと動いた。何度もそれを繰り返した。だが耳が動くだけで起きようとはしない。
 ため息を吐いて部屋にある時計を見た。まだ朝の六時前。七時半に起きれば学校には十分に間に合う。まだ寝ていてもいい時間だ。だが眠れない。猫はそこを安住の地と決めたのかぐっすりだ。しかし恭介にしてみればその猫は邪魔だった。どうにかして起きないものかといろいろ試した。
 耳を突ついたり引っ張ったり、指で弾いてみたり。だけど猫は一向に起きる気配はない。どうしようかと思い始めた頃になって、ベットの上に置いてある『それ』に気づいた。いつから、なんのために置いてあるのかはわからないが、確かに『それ』はそこにあった。手に取ってみる。プラシチック性の、真中にアルミの輪が付いたどこの家庭にもある品物。
 しばらく『それ』で遊んでいた。するとちょっとした意地悪なことを思いつく。何をしても起きなかったこの猫だが、もし『これ』で耳を挟んだらどうなるのだろう。そうしてみて起きたらどうしてここで寝ていたのか聞けばいいし、もし気づかずにそのまま寝っているようなら黙っていて新種のアクセサリーとして付けっぱなしにしておくのも面白いかもしれない。まずはやってみなくては何とも言えない。
 でも、本当にやっていいのだろうか。そういう考えがまだある。確かに、猫にはちゃんと布団を用意してやってそこで寝かせやった。何のにこっちに侵入してきている。だったら、これくらいのことはしていいのではないのか。現にそのせいで恭介は貴重な睡眠時間を無くしてしまったわけであるのだし。これで猫が怒っても恭介の責任ではないのではないか。いや、恭介の責任であるわけがない。
 腹をくくった。取り敢えずやってみよう。もしややこしい事態になったらその時に考えればいいのだから。
 よし、やろう。


 その頃、恭介の両親は朝食の用意をしていた。
 と言っても用意をするのは母であって、父は居間でテレビニュースを見ながら新聞を読んでいるだけだ。
 ニュースキャスターの話しを聞きながら新聞の内容をちゃんと完璧に理解できるのは、密かな父の自慢でもある。自分は聖徳太子にでもなれると思ったことも少しだがあった。そしていつも通りに父は新聞に目を落としながらニュースを聞いていると、ふと気になることをキャスターは言う。
『立ち入りが禁止されている氷狼山に不法侵入しようとした男性が昨夜未明警察に逮捕されました。この被害者は警察の質問に、おれは狼狗を捕まえて金にしたかった、などと供述しており、警察はより一層氷狼山への立ち入りを禁止する方針で行くと発表しました』
 そのニュースを台所で聞いていた母は、朝食の用意の手を止めて居間に歩いてくる。父の横に座って、
「これって、梨紅ちゃんが住んでた場所ですよね?」
「そうだな……。まったく、けしからん奴もいるもんだ」
「そうですね……」
 しばらく二人揃ってそのニュースを見ていたが、番組が天気予報に移った辺りで母はまた朝食の用意に戻るため台所に向かって、何かを思い出した時によう突然足を止めて考えはじめた。その様子を見ていた父が不思議そうに「どうした?」と尋ねると、母は父の方を向いて言った。
「梨紅ちゃんの朝ごはんって、ごはんと味噌汁でいいのかしから?」
 父は「はあ?」と一度呆気に取られたが、母の言いたい事を理解して一緒に考える。恭介からの話では梨紅は狼狗と呼ばれる人の姿をした狼なのだ。狼なら肉食であって食べ物は生肉とかそんなような物ではないのだろうか。
 考えていたが何かの結論を出したように父が母に向かって、
「いいんじゃないのか。狼って言っても、耳がある以外は人なんだし」
 母もさっきまで考えていたのが嘘のように、
「そうですね」
 と言ってまた朝食の用意に取り掛かろうとすると、いきなり二階から物凄い物音がした。
 普通なら飛び上がるほどの大きな物音だったが、この二人は全く動じずに「元気だな」「そうですね」と言うだけでいつも通りだった。


 ややこしい事態になった。
 突然のことに恭介はベットから転げ落ち、マット運動の後ろ回りをやって途中で力尽きたような体勢で床に這いつくばる。頭をどこかにぶつけたらしく痛かった。その辺にベットから落ちた拍子に散らばった小物が散乱している。どうにかその場に座れるように体勢を立て直し、手でぶつけたと思われる場所を手で摩る。幸いたんこぶはできていないようだった。
 「おーいて」とわざとらしく言いながら立ち上がってベットを見る。そこには布団のお化けがいた。ベットの奥、壁の端っこに毛布に包まって震えている梨紅。泣いているような声が聞こえる。
 さすがに罪悪感が出てきた。何て言っていいかわからず、取り敢えず取ってあげようと思った。
「梨紅、悪かった。取ってやるから耳出せって」
 そうするとゆっくりと布団が動き、梨紅の耳がちょこんと出てくるとそこに何かが付いていた。
 なんのことはない、ただの洗濯バサミだった。恭介がさっきベットの上で見つけたのはこの洗濯バサミで、何となく梨紅の耳に付けたみた。そうしたら何をしても起きなかった梨紅がいきなり飛び起きて、布団を強奪して端っこに立て篭もってしまったのだ。布団を剥ぎ取られた時に足を取られ、恭介は不様にもベットから転倒した、ということになる。
 ベットに座って手を伸ばし、ゆっくりと耳を挟んでいる洗濯バサミを取ってやった。そこの毛並みが洗濯バサミの強靭な力によって乱されていたので、手でそこを少し摩って元通りにしてやる。そうすると耳はゆっくりと布団の中に戻って行った。
 ふうっと息を吐いて恭介はベットに倒れる。隣りにはまだ怒っているのか泣いているのかわからない梨紅が布団に包まっている。謝罪の言葉を言うべきか、このまま黙っているべきか。それより先になんで恭介のベットに寝ていたのかを聞くべきか。いろいろ考えていると、布団が動いた。
 隙間から梨紅の顔が出てきた。恨めしそうにこっちを見ているその瞳は少し潤んでいる。
「おはよう」
 そう言ってみるが梨紅の反応はない。どうやら本気で怒っているらしい。
 苦笑した。手に持っていた洗濯バサミでまた一人遊び始める。指を挟んでみたりその辺に放置してみたり。まるで引き篭もりみたいな行動だった。
「なんで……?」
 梨紅の小さな声。
 洗濯バサミをベットの上に戻す。
「なにが?」
「……それ」
 梨紅の瞳が洗濯バサミを見ていた。
 なんで洗濯バサミで耳を挟んだのか、と聞いている。
 だったらこっちも聞きたいことがある。
「なんで梨紅がおれのベットで寝てたんだよ? こっちに用意してやったろ?」
 ベットの横の布団を指差す。梨紅もその指を追って布団を見て、そしてまた恭介を見る。
 ぽつりと言う。
「寒かったから……」
 猫みたいな理由だ。狼だったら寒さには強いというイメージがあるが、実際はどうなのだろう。寒さに弱かったりするのだろうか。
 だがそんなこと恭介にわかるはずもなく、愚かにもそのままの感想を言った。
「寒かったって……猫じゃあるまいしそんな、」
 布団が飛んできた。
 視界が奪われた恭介を、また昨日と同じように梨紅はぽかぽかと叩いた。
 それから梨紅の機嫌をなんとか直している間に時間は進み、いつの間にやら七時を過ぎていた。
 そろそろ朝食を摂ってもいい時間になっていたので、梨紅を連れて一階に行く。なぜか梨紅は怯えるように恭介の背中にぴったりとくっ付いたままだった。一階に下りて居間に向かう。テレビの音が聞こえていたからそこにいるだろうと思った。
 案の定居間に両親はいた。父はテレビを見ながら朝食を食べていて、母はその隣りで茶碗にごはんを装っていた。
「あら恭介、おはよう」
「おはよう」
 そして母はまた茶碗に視線を戻そうとして、恭介の後ろに隠れるようにしていた梨紅を見つけた。
 梨紅はなぜかまだ怯えていて、恭介の服の裾を握っていた。恭介がその頭に手を置いて「ほら」と前に押し出す。怖がった犬のように耳の片方がぺたんとしていた。
 母は立ち上がって梨紅の側まで歩く。梨紅が怖がらないようにか、膝を曲げて目線の高さを一緒にする。
「おはよう梨紅ちゃん」
 また梨紅は恭介の背中に隠れてしまったが、顔を少し出して遠慮気味に「おはようございます」と頭を下げた。母は嬉しそうに笑ってから梨紅の頭を撫でた。その撫で方が恭介が見ていても優しさが伝わるくらい穏やかだったためか、梨紅の片方の耳が元通りになった。
 母はもう一度嬉しそうに笑った。
「さ、ごはん食べましょう。恭介も食べるんでしょ?」
 肯いて父のいるテーブルに座ると、その横に梨紅も小さくなって座る。また耳の片方がぺたんとした。
 どうやら母には慣れたが今度は父が怖いらしい。確かに父は優しいが、会ったばっかりじゃそんなことはわかりっこないし、少し無口な父は怖く見えるかもしれない。恭介が怖くないからと言おうとしたら、その一歩早くに父が動いた。
 恭介が見たこともない薄ピンクの茶碗を手に持ってごはんを装り、恭介が見たこともないような優しい笑みを浮べ、父は茶碗を梨紅に差し出した。慌てて梨紅はその茶碗を受け取る。そしてその光景を呆然と見ていた恭介が一言、
「驚いた……。父さんってそんな笑顔できるんだ」
 父は「むぅ」と小さく唸り、いつもの仏頂面に戻った。その隣りに座った母が、
「そんなこと言わないの。梨紅ちゃんのその茶碗だって昨日の夜にお父さんが慌てて買いに行ったんだから」
「そうなの!?」
 見たことない茶碗だと思ったが、まさかそんな裏話があったなんて驚き以外の何物でもなかった。
 父を見つめる。優しいとはいつも思うが、この仏頂面でテレビを見ながらごはんを食べる父が慌てて茶碗を買いに行く所なんて想像ができなかった。だが、それは紛れもない事実なのだろう。
「ありがとう、父さん」
 その横から、状況を理解した梨紅がこれまた遠慮気味に「ありがとうございます」と言う。恭介の言葉では表情を変えなかった父が、梨紅の言葉では少し表情を変えていた。そしてテレビを見たままで、恭介にではなく梨紅に向かって父は話した。
「帰れるまでここにいるといい。ここを自分の家だと思って自由に使いなさい」
 いつの間にか、梨紅の耳がまた元通りになっていた。恭介の横で嬉しそうに肯く。
 それを横目で見ていた父は微かに微笑んだように見えた。
「さ、じゃあごはん食べましょ。梨紅ちゃんもごはんでいい? 嫌いだったら何か違う物用意するけど」
 首をふるふると振る。それを確認した母は茶碗とお揃いの薄ピンクの箸を手渡した。これも父が買ってきた物なのだろう。女の子だからピンクという発想は少し単純だが、それでも梨紅は嬉しそうだし、贅沢を言ってはバチが当たる。素直に感謝するべきなのだ。
 そして梨紅の嬉しそうな笑顔を見てから恭介もごはんを食べようとしてようやく気づく。
「あれ? おれの分は?」
 母はさも当たり前のように言う。
「自分でしなさい。高校生になったんだからそれくらいできるでしょ」
 勘弁してほしかった。
 その横で小さく笑っている梨紅がなんだか羨ましかった。


 朝食を自分で用意して自分で片付けた後、まだ食べている梨紅を居間に残して学校に行く準備をし始める。
 都築高校の制服を着るのはこれで三回目になるのだが、どうもネクタイという物を好きになれない。十分も掛かってようやく結べたのだが、形が歪になってしまったのはまあしょうがない。何か持って行く物はなかったかと考えていると、部屋のドアが開いてそこから梨紅が入って来た。
 あ。忘れてた。
 恭介は学校がある、ということは梨紅をここに残しておかねばならない。父は仕事でもうすでにいないと思う。母は専業主婦だから家にいるので、頼むなら母だ。朝食の時に梨紅はもうふたりに慣れたようだから平気だろう。
 何も入ってない鞄を持って椅子に座る。いつの間にか梨紅はベットに座っていた。
「梨紅、よく聞け」
 気付いてこっちを見る。
「おれは今から学校に行く。だから梨紅は留守番。母さんに頼んでおくからちゃんと言う事聞くように。わかった?」
 梨紅は不安そうにこっちを見つめていた。それでも仕方がない。梨紅を学校に連れて行けるはずもないし、一人でここに残して行くのはこっちが不安だ。それだったら母に頼んでおけば安心だろう。
 梨紅がなんと言おうとそればっかりはそうしなければならない。
 鞄を持って立ち上がる。しかし梨紅は立ち上がらない。寂しそうな瞳と目が合う。
「……ああもう、だいじょうぶだから。それにおれは昼過ぎに帰ってくる。それまで待ってろ」
 この一週間は授業がなく午前中で終る。何か面倒事に巻き込まれなければ早く帰ってくれるはずだった。
 それで一応は納得したのか、梨紅は立ち上がって恭介の後に続く。居間に行っても母の姿はなく、台所に行ってみると母はさっきの朝食の洗物をしていた。その背中に声を掛ける。
「母さん?ちょっといい?」
 洗物をしたまま、顔だけこちらを向く。
「どうしたの恭介……前も言ったけど、あなたネクタイ結ぶの下手ねえ……」
「ほっといてよ」
「それで。どうしたの?」
「それなんだけどさ、」
 隣りにいた梨紅の背中を押す。
「学校行っている間、梨紅のこと頼めないかな? 一人で残してくのは不安で……」
 ちょっと意外そうな顔をした母だが、すぐに笑顔を取り戻して手を拭いてこっちに歩いてきた。梨紅の頭を撫で、一度触ってみたかったのか、耳を優しく摘んで遊ぶ。だいじょうぶかよと思う。
「いいわよ。あ、それじゃあ梨紅ちゃんに何か手伝ってもらおうかしら」
「そうしてやって」
 そして恭介は台所から出て玄関に向かう。その背中に視線を感じた。見れば梨紅がこっちを見ていて、その耳を摘んでまだ遊んでいる母のやりたい放題になっていた。だがその顔が少し嬉しそうだったことに安堵したが、母はいつまでも耳を摘んで遊び続ける。
 まったく。だが恭介も今朝それに似たようなことをやってしまっているから何とも言えない。
 梨紅を見て、
「それじゃ、行ってくるから」
 玄関に向かった。これで一安心。今日は早めに帰ってこよう。そっちの方が梨紅も喜ぶと思うし。それに母に任せておけば悪いようにはならないだろう。帰って来る頃には梨紅も笑っていると思う。
 玄関に座って中学から履いている少し汚れたスニーカーに足を突っ込んで「いってきます」と言おうとすると、台所の方からカシャーンと皿が割れる景気の良い音を聞いた。
 一度は消えた不安がまた浮んでくる。だいじょうぶか、本当に。でもあの母に限って梨紅を怒ったり叩いたりはしないはずである。恭介ですら怒られた記憶もなければ叩かれた記憶もないのだから。うん、だいじょうぶだ。
 玄関を抜けて外に出て、春の風を肌に感じて気分もすっきりしたら苦労はいらない。やっぱり不安は残っていた。
 今日は絶対早く帰ってこよう。そう心に決めて、恭介は足早に学校に向かった。


     ◎


 学校では全校集会みたいな事が体育館で行われ、校長らしき髭を生やした老人の長話を聞き続けた。中学でもそうだったが、どこの学校でも校長の話しは長くて退屈だった。関係ない物事を無理やり教育に繋げるその話し方はやめてほしい。
 それに大半の生徒は寝ているか前後の人と喋っているかで、全く校長の話しを聞いていないときている。だがそれも、学校という名の場所で行われる全校集会にしてみれば普通の光景なのだろう。それに恭介もその中の一員なのだ。だから注意をしようなんて気はこれっぽちもないし、今日びの学生がそんなことをしたら裏切り者だという暗黙の了解が恭介の中学にはあった。それが卒業した今でも恭介の中では継続されている。
 やっと校長の長話が終わって開放されると思ったら、今度は生活指導と名乗るデブが現れて何やら熱弁する。お前らは最近たるんどる、ピアスや髪を染めとる者はこれからビシバシ指導しておくから覚悟しておけ、学生の本分は勉強であってお喋りや居眠りではない。おらそこ起きろ! そっちも話しをやめてこっちに注目せんかあっ!
 マイク越しに大声を出すものだからスピーカーからひび割れた声が反響する。突然の奇声のような大声に寝ていた生徒は飛び起き、喋っていた生徒は一斉に前を向く。しかしすぐになんだあのデブ、という表情に変わる。これも、全校集会の普通の光景なのだろう。
 校長の長話にも引けを取らないくらい教育指導の話しは長く、大声で今の若者は学問を舐めていると熱弁していた。ほっとけ、大きなお世話だ。
 やっと長い長い話がすべて終り、開放された生徒達は皆出口に向かって歩き出す。その波に任せて恭介も出口から外に出ようとして肩を掴まれた。まさか上級生が喧嘩でも吹っ掛けてきたのかと思ったが違った。
 そこにいたのは昨日知り合ったばかりだが、それなりに仲が良くなったクラスメイトの秋山慎治だった。
「あのデブ声がうるせーんだよな。恭介もそう思うだろ?」
「そうだな、確かにうるさかった」
 ふたり並んで人波に任せて出口から外に出る。
 太陽の光に少し抵抗を覚えながら、今度は校舎に向かって歩くと慎治が何かを思い出したように、
「そうだおまえ、なんで携帯に出ないんだよ? 昨日何回も電話したんだぞ」
「あ、」
 忘れてた。昨日のカラオケの後、鞄に入れてそのままだった。マナーにしてあったから全く気づかなかったし、それに昨日はそれどころじゃなかった。けど電話を無視していたのは悪かったと思う。
「ごめん、昨日携帯みてないんだよ。それで? 何か用あった?」
「おお、昨日おれ達カラオケ行ったろ」
「行ったな」
 途中で帰してはくれなかったが。その御かげで五時間も監禁されてしまったのだ。だがもし監禁されていなかったら、彼女と出会うことはなかったのだろう。その件に関しては慎治に感謝しなくてはならないのかもしれない。
 あれは、梨紅と出会ったのは、偶然なのか、それとも必然だったのだろうか。物思いにふけようとしていると、
「それでよ、今日も昨日のメンツでボーリング行かねーか? 恭介以外は全員行くんだよ」
「ボーリングか。そういえば最近行ってないな」
「そうだろ。じゃあ行こうぜ」
「まあいい、」
 わけがあるか。今日は早く帰ると決めていた。梨紅のことが心配だからだ。このまま慎治達とボーリングに行ったら昨日同様に途中では帰してくれずに拉致されてしまうに決まっていた。それは避けたい。梨紅にも昼過ぎには帰ると言ってあるし、もし夜中に帰って怒った梨紅にぽかぽかと叩かれるのは勘弁してもらいたかった。別に叩かれるのは痛くはないが、面倒なのはそれからだ。梨紅の機嫌を直すのが難しい。そんなややこしいことはこっちから願い下げだった。
 だから、慎治に返す言葉は決まっていた。
「わりぃ、今日はちょっと用事があ、る……え?」
 慎治の顔が真剣になっていた。目の奥から炎が上がるようだった。そして殺気が入った声が尋ねる。
「恭介、正直に答えろ」
「は、え……?」
「おまえ、女いんのか?」
「……はあ?」
 何を言われるかと思えばそんな事だった。身構えた自分が馬鹿らしく思え、
「いるわけないだろ。いたら昨日も遊びに行かないって」
 慎治の顔が穏やかになった。
「っかそっか、やっぱりお前はおれの友達だ。よし、じゃあ今日はボーリング行こう」
「いやだから、今日は行けない」
「やっぱおまえ、女いるだろ?」
 また殺気の入った声だ。その声、本気でやめてくれ。梨紅も怒らすと大変だが、この秋山慎治という男はもっと大変だった。
 結局、その問いに恭介は明確な答えを返すことができずにずるずる引き延ばされ、やがて強制的に三神恭介はボーリングに参加という形にされてしまった。そうなったらもうヤケで、馬鹿騒ぎしながらボーリングを盛り上げた。その甲斐あってか、昨日カラオケであまり喋らなかった奴とも親しくなれたし、アベレージ120前後の恭介はスコアが160を超えて自己ベストを軽く凌駕した。今日も楽しくなかったわけではないが、常に頭の中では梨紅のことを思い、そして何より謝罪の言葉を必死で考えていた。
 それからはなぜかファミレスで「あの生活指導のデブに乾杯」という意味不明な理由で食事をする羽目になった。それでも、遅くなっても構わないから晩飯は家で食べると決めていた恭介は、コーラだけを頼んだ。他の奴らはもうやりたい放題で、制服を着ているのに堂々とウエイトレスのお姉さんに酎ハイは頼むわ挙げ句の果ては生ビールを一気飲みするわのどんちゃん騒ぎ。こんな所を学校の教師、あるいは生活指導員や警察に見つかったらタダでは済まない。恭介はビールなどは飲んでいないが、一緒に捕まれば共犯だ。ほとんどの奴が酔っているか寝ているかで、そんなことを考えているだけの余裕はないが、恭介にしてみれば気が気ではない。
 そしてやがてこの大騒ぎする馬鹿な学生団体に業を煮やしたのか、店長らしき人物が大声で怒鳴った。もうそこからは滅茶苦茶だった。酔っているからそんなこと言われてもすぐに納得できずに逆上して突っ掛かって行く奴が続出するし、寝ている奴は一向に起きない。そろそろ怖くなってきた恭介は、生ビールのジョッキを片手にボーっとしている慎治に「おれは先帰るわ」と伝えると、「おあ、きーつけてなあー」とふやふやな声が返ってきた。これで明日なぜ逃げたと追及されても大丈夫だ。テーブルにコーラの代金だけ置いて足早にファミレスを出た。
 昨日と一緒でもう辺りは暗くなっていた。だがゆっくり帰っている余裕はない。こっちもこっちで一杯一杯だった。走りながら携帯のディスプレイを見る。七時をすでに過ぎていた。やばいやばい、これじゃあ梨紅が機嫌を損ねる。ボーリングの時に考えた謝罪の言葉なんて何一つ憶えていなかった。
 必死で走って、中学のマラソン大会の時のように息が切れた。限界が近づいた頃になってやっと昨日梨紅と初めて出会った場所まで辿り着いた。だが何かを考える余裕はない、もう一息だ。
 全力を振り絞り、ようやく家の前まで辿り着いた。表札に手を掛けて息を整えていると、ふとその表札が目に入った。まず、三神伸明の名前が一番上にあってそれから笑子、そして恭介。そこまではここは三人家族なのだから当たり前だ。だがその恭介の下に、梨紅という名前が付けたされていた。まだ新しい。今日の昼にでも母が書いたのだろう。ちょっとやり過ぎのように思えたが、それでも恭介にしてみれば嬉しかった。梨紅は、たった一日で三神家の一員となったのだ。新たな、家族となったのだ。
 その気持ちが抑えきれず、少し笑った顔で玄関を開けた。「ただいまあー」と力なくつぶやき、玄関に今朝と同じように座る。靴を脱いでいると、台所の方からトテトテと足音が聞こえた。怒ってるんだろうなあと思って振り返ると、そこに満面の笑みの梨紅を見た。
一瞬言葉を無くした。怒っているかと思ったが、この満面の笑顔はなんだ、なんでこんなに嬉しそうにしている?
 そしてよく見れば、梨紅はエプロンをしていて、耳のすぐ横にリボンが付いていた。エプロンもリボンも見覚えがあった。両方とも母の物だ。ということはつまり、母は梨紅にリボンを付け、そして料理を手伝ってもらうためにエプロンをさせた、ということになるのだろうか。
 梨紅が恭介の隣りに座る。
「おかえり!」
「た、ただいま、」
 台所の方から母の声が、
「梨紅ちゃーん、どこ行ったのー?」
 と聞こえる。どうやら恭介が帰って来たのに気づいて梨紅は仕事をほっぽり出してきたようだった。
 母の声を聞いた梨紅は残念そうにトテトテと台所の方に歩いて行った。靴を脱いだ恭介はその後を追う。するとそこには母の料理を手伝う梨紅の姿があった。何やら一生懸命に鍋の中に具を入れている。材料からして肉じゃがか何かだろうか。
「あら恭介、おかえりなさい」
「ただいま、って。何やってんの?」
「何って見てわかるでしょ、お料理よ」
「それはわかる。けど何で梨紅まで?」
 自慢するように母は胸を張った。
「それがね、梨紅ちゃんにお料理教えたらそれはもう飲み込みが早くて早くて。ついつい手伝ってもらってるのよ」
 すると梨紅がこっちに近づいてくる。小皿を持っていて、その上にジャガイモの一欠けらが乗っていた。その小皿を恭介に差し出す。どうやら味見をしろと言っているようだった。ジャガイモを摘んで口に入れる。梨紅の笑顔が気になっていたので、もし不味かったら無理にでも美味いと言おうと思ったが、そんな心配は無用だった。そのジャガイモは普通に美味かった。
「美味いなこれ、」
「それね、梨紅ちゃんが作ったのよ」
「作ったって、もしかして一人で全部!?」
 目の前の梨紅は嬉しそうに肯く。意外も意外だった。勝手に梨紅は料理なんてできそうもないと思っていたが、実際こんなに上手く作れるのだ。母が自慢気になるのもわかる気がする。
「出来あがるのもうちょっと掛かるから待ってて」
「あ、じゃあ先風呂入るよ」
「そう、じゃそうしてくれる?」
 隣りにいた梨紅の頭を撫で、頑張れよと言い残して台所から出た。居間を見るともうすでに父は帰宅しており、ビール片手に昨日と同じようにテレビを見ていた。それでも恭介が「ただいま」と言うと、視線はテレビから外さなかったが「おう」と返って来た。その返事を聞いてから二階に上がって鞄をベットに投げ出してから風呂へ向かう。自然と上機嫌だった。
 梨紅の作った料理が食べれることが、どうしてか嬉しかった。


 風呂から出て居間に戻ると、料理はすでにテーブルの上に並んでいた。
 座っていた梨紅が恭介に気づいて歩み寄ってくる。早く料理を食べろと言わんばかりに梨紅は恭介の服を引っ張るので、わかったからやめろってと梨紅を落ち着かせてテーブルに座ると、その横に梨紅も座った。本当に子犬みたいになったなと思う。耳も今はちゃんとぴんとなっているし、もう両親を怖がったりはしないのだろう。
 そんなことを考えていると、梨紅が恭介の茶碗にごはんを装って差し出した。その量が普通の三倍くらいだった。ファミレスで何も食べてはいないとはいえ、この量はないだろうと思ったが、梨紅は嬉しそうにこっちを見ていて戻すどころか残すこともできない状況だった。頑張れば食べれない量ではないのだが、でもやはりこれはやり過ぎだろう。なんか昔話に出てきそうな量だぞ。山盛りとはこういうことをいうのだろうと実感した。
 そして梨紅は父と母、そして自分の分もごはんを装った。その量が普通だったことに文句を言いたかったが、やはり言えるはずもなかった。
 母も居間に来て揃って夕食を食べ始めた。梨紅の作った肉じゃがは普通に美味かった。そのことを梨紅に言ってやると、また嬉しそうに笑っていた。
 何とか山盛りのごはんを平らげ、肉じゃがも食べ終えた。それで腹が一杯なのに、梨紅がまたごはんを装そろうとしていたので、これはさすがにやめさせた。残念そうな顔していた梨紅に「じゃあおまえももっと食えよ」と言うと、「もうお腹いっぱい」と返してきた。それなのに恭介には勧めるその考えはどうかと思う。
 それから少し時間は流れ、恭介は一人で部屋にいる。梨紅は今風呂に入っていて、その前になぜかは知らないが恭介に絶対部屋にいてとお願いしてきた。理由はわからないが、どうせ部屋にいる気だったからちゃんと了解しておいた。まさか覗かれるとでも思ったのはないかと考えたが、それならわざわざ言わないだろう。まあ何はともあれ、恭介は一人の時間を満喫していた。
 昨日からずっと一人でいる時間がなかった。朝だって梨紅がベットに入って来ていたからのんびりできなかったし、放課後は慎治に拉致されて馬鹿騒ぎ、家に帰ればこれまた梨紅とずっと一緒にいたし。だがそれが嫌だとは決して思わない。それは好意を持ってくれているということだし、恭介も梨紅といる時間は楽しかった。だけど、たまにはこういう一人の時間が欲しいものだった。
 ベットに仰向けになって倒れて天井を眺めていた。何か考えようと思うと、梨紅のこと以外考えれなくなっている自分に気づく。なんか父親みたいな心境になって、少し憂鬱になる。歳を取ったなと実感せずにはいられなかったからである。
 何も考えずに天井を眺めて木目の数を数えていると、ドアが開いてそこから梨紅が入って来た。気づいてベットに座り直すと、部屋に入って来た梨紅はいかにも風呂上りという感じだった。髪も耳も濡れているし、頬は少し赤くて首にタオルを巻いていた。
 そして何を思ったのか、恭介の方に歩いてきて、恭介の前に座る。小さな梨紅は恭介の足の間でも十分座れた。
「……で。なに?」
 その意図がわからない。しかし梨紅は何も言わずに笑っていた。
 ふと見れば、梨紅の髪はまだ濡れていて微かにシャンプーの香りがした。仕方なく恭介が梨紅の首にあるタオルを取って、無理やり髪を拭いてやる。すると梨紅は嬉しそうに笑った。それが何だかしゃくだったので、さっきよりも力を入れて思いっきり拭いてやった。それなのに梨紅は、いきなり今まで聞いたことがないような声で笑った。
「な、なんだよ?」
 前を向いたまま梨紅は言う。
「笑子さんが言ってた。こうすれば髪を拭いてくれるって」
「……」
 ハメやがった。多分、恭介が帰ってくる前に母が梨紅にそんなことを吹き込んだのだろう。梨紅が怒ってなかったのは、料理をしていたこともあるのだろうが、こういう理由もあったのだ。しかしまあ母には感謝をしなくてはならない。その御かげで梨紅は怒ってなかったのだし、髪を拭くのだって梨紅は喜んでいるわけだし。
 今度はちゃんと優しく拭いてやる。さっき力を入れて拭いたから髪が乱れたのが少し申し訳なかったが、それも母の思惑通りなのか、梨紅がくしを恭介に手渡す。どこまで先を読んでいるのか怖くなった。
「でも梨紅、おれはくし使うの下手だぞ?」
 恭介が自分でやっても髪が痛いのに、これを梨紅にやったら怒るかもしれない。だが梨紅はふるふると首を振り、そして早くしろと頭を恭介に向ける。しょうがない、怒ったら怒っただ。
 そう思ってくしを使ったのだが、梨紅の髪はさらさらだったためか、一度も引っ掛かることはなかった。乱れいた髪が綺麗に整えられていく。微かに濡れて肩の辺りまであるその白銀の髪は、本当に綺麗だった。そして茶色の方が多い毛並みの耳も濡れていたので、そこもタオルで拭いてやる。
「ほれ、終り」
 しかしまた梨紅はふるふる。まだ何かあったっけ、と思うと今度はリボンを差し出した。夕食の時に付けていたあのリボンだ。
「それはダメ。おれリボンなんて付けたことねーし、それに寝る時までする必要はない」
 不満そうな顔で梨紅は恭介を見る。そんな顔したって寝る時までリボンを付ける意味がない。
 でもこのまま放っておくのは後々ややこしいことになると思う。
「じゃあ明日の朝付けてやるから。それまで我慢」
 それで納得したのか、梨紅は肯いた。
 しばらくそのままで部屋にあるテレビを見ていた。恭介がそっち座れよと梨紅に言っても、梨紅は断固として恭介の前を動こうとはしなかった。別に梨紅がいることに不満はない。小さいから気にもならないが、問題は梨紅の耳だ。その耳がちょうどテレビの画面の半分を隠す形で恭介の前にある。これでは落ち着いてテレビを見れない。邪魔だったので耳を手で前に倒してみてもすぐに元通りになるし、あまりやり過ぎると梨紅が怒る。どうしようもなくなって、結局は画面半分だけのテレビを恭介は見ていた。
 やっと梨紅の耳が片方だけぺたんとなった。どうしたのかと聞くと、梨紅は小さな欠伸をした。時計を見るとそれなりに時間は過ぎていて、梨紅くらいの子ならとっくに寝ている時間だった。恭介のベットの横に梨紅の布団を敷いてやり、今日こそはここで寝ろと言いつける。あやふやに梨紅は肯いてその布団に入る。絶対朝起きたらベットにいるんだろうな、と思う。
 恭介はもう少し起きていようと思ったが、電気が付いていると寝れないと梨紅が抗議してきて恭介も寝る事になった。ベットに横になって電気を消すと同時に、梨紅の寝息が聞こえた。寝つくの早過ぎ。
 その寝息を微かに聞きながら、恭介は目を閉じた。
 さて、明日はどんな起こし方をしてやろうか。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――




     「少女は怒る」




 朝起きると、やっぱり恭介のベットで梨紅は寝ていた。
 昨日と同じように丸まって、片方の手で恭介の服を掴んでいる。狼じゃなく、やはり梨紅は猫ではないのか。でもそれを本人に言うと怒るから心の奥にそっと閉まっておこう。
 梨紅が服を掴んでいるから起き上がれず、恭介は寝転がったままでベットの上に手を伸ばす。もちろん洗濯バサミを探しているのではない。何度か往復した手が、ようやくお目当ての品に触れた。掴んで目の前に持ってくる。携帯電話だった。昨日寝る時は誰からも連絡はなかったが、もしかしたらきているかもしれないと思ってディスプレイを見ると、予想通りの人物からメールが来ていた。カーソルを合わせてそのメールを開く。送ってきたのは慎治で、件名はなくて内容は『明日ヒマか?』だけだった。またかよ、と恭介は一人苦笑する。今からメールを送るのも迷惑だと思ってそのまま携帯を閉まい、その時に時刻を見た。六時半過ぎだった。
 少し早いけどいいだろうと思って、ベットの中で眠っている梨紅の、狼だと言い張る耳を見た。たまにピクっと動くのが、見慣れているとはいえ愛敬がある。そっと手を伸ばして触る。いつも同じようなことをしているが、この耳は触っていると以外と気持ちいい。引っ張ったりしてみるが、やはり梨紅は起きない。放っておけばこのまま昼まで寝ているのではないかと思う。
 ベットの上の洗濯バサミを見る。連続はさすがにやり過ぎだと思うし、それにその後が面倒くさい。今日は洗濯バサミは諦めよう。いろいろ探してみるが、寝たままで探せる小物なんて知れていて、結局洗濯バサミしかなかった。でもそれも使えない。
 今日は普通に起こそう。梨紅の肩に手を置いて軽く揺すってやるが起きない。少し強めに揺すっても結果は同じだった。いつまでも小さな寝息と一緒に梨紅は目を瞑っている。
 ったく。梨紅を起こすのを諦め、梨紅の手だけを解いて恭介一人起き上がる。その後で丸まって寝ている梨紅に布団を掛け直してやってから部屋を出た。階段を下りて居間に行くと、やはりそこには父がいて新聞を見ながらニュースを聞いていた。母は台所で朝食の準備中だ。
 取り敢えず近場にいた父に「おはよう」と言うと、これもやはり視線を外さず「おう」と返してきた。そんな父を、恭介はしばし見ていた。視線に気づいたのか、父がふと顔を上げて恭介を見る。
「どうした?」
「い、いやなんでも……」
 視線が戻って行く。
 正直な話、恭介は未だに父の仕事の内容をよく知らない。一般的なサラリーマンだと父と母は言うのだが明確な仕事内容は聞いたことがないし、それに白状すると、どうしてもその事が気になったことがあって、恭介は中学三年生の夏、父の部屋に侵入した事がある。もちろんそれは父の仕事が何なのかという真相を確かめるためであって、それさえ知れればよかったのだ。そもそも三神家にはパソコンは二台あって、その一つが居間のテレビの横、もう一つが父の部屋にある。父の部屋は本棚とパソコン以外ほとんど何もなく、常に居間にいる父にとってはそれでいいのかもしれないが、恭介にしてみれば怪しいと思えるのはそのパソコンだけだった。もちろんその場でデスクトップ型のパソコンを起動させた。
 そこから先の出来事を、恭介はあの時以来誰にも言ってはいない。パソコンが普通の物とは比較できないほどカスタマイズされていたとか、無意味に暗号が多かったとか、見た事も聞いた事もないソフトが数多くインストールされていたとか、そんなことは見なかったことしている。部屋に入ったことでさえ父には永遠の秘密だ。だから、未だに恭介は父の仕事内容はわからないし謎は深まるばかりだった。
 あの時の事を思い出していると、台所から歩いて来た母が、
「恭介、梨紅ちゃんは?」
「あ、ああ。まだ寝てる」
 母は笑う、
「そう、寝る子は育つって言うしね」
 それは関係ないだろう。それに裏を返せば、恭介は寝てないから育っていないと言ってるようなものだった。
 不満そうな顔をしていた恭介に気づき、母はもう一度笑って台所に引き返して行った。その途中で振り返り、
「まだごはんできるまでに時間あるから、もうちょっとしたら梨紅ちゃん起こしてあげなさい」
「わかった」
 肯いて恭介は居間から出る。洗面所で顔を洗って歯を磨いてから二階に向かう。部屋に入るとまだ梨紅は布団の中にいるようだった。その証拠に布団の中央に誰か寝ていますよという膨らみがある。ベットに座って布団を退けるとやっぱり梨紅はそこに寝ていて、さっきと同じように丸まっていた。本当に子猫かあるいは子犬で、どう見たって狼には見えない。また耳を摘んで引っ張るが梨紅は起きない。
 恭介はため息にも似た息を吐き、
「梨紅? 起きろ、朝だぞ」
 肩を揺すってやる。しばらく名前を呼んで肩を揺すり続けると、やっと梨紅は目を開いた。この光景から考えると、昨日の洗濯バサミはよっぽど痛かったのだろう。まだ寝惚けている梨紅の耳、洗濯バサミで挟んだ方をゆっくりと撫でてやった。完全に意識がはっきりしない顔で梨紅はベットの上に座り、片目を手で眠たそうに擦る。
 もう片方の瞳で恭介を見た。
「おはよう、梨紅」
 梨紅は何も言わなかったが、小さく肯いた。そして何かを思い出したようにはっとし、さっきまでの眠たそうな顔から一転して辺りをきょろきょろ見まわす。どうかしたのかと思って見ていたら、テーブルの上に置かれたリボンを手に取って恭介に差し出す。
 恭介は意味がわからず、
「なに?」
 と尋ねると、梨紅は怒ったような顔で、
「約束した」
「約束……?」
 そして思い出す。昨日の夜、梨紅の髪を拭いてやった時だ。最後に梨紅はこのリボンを付けろと恭介に頼んできたが、寝ている時はしても意味ないと言うと不満そうな顔をしていたので、仕方なく確か朝に付けてやると言ったはずである。
 それを憶えていたのはすごいと思うが、生憎恭介はネクタイすら満足に結べない不器用さを誇る。
「それは母さんにやってもらえ。おれがやると変になるぞ」
 それでも梨紅は下がらない。ふるふると首を振り、さらにリボンを恭介に差し出す。もう一度変になってもいいんだなと尋ねると、得意顔で梨紅は肯く。そこまでされたら断ることもできずに、恭介はリボンを受けとった。梨紅は昨日みたいに恭介の前に座る。覚悟を決めて恭介は昨日のように梨紅が付けていた場所にリボンを結んだ。
 それから数分経ってから案の定、恭介は不器用さを誇った。昨日と同じ場所にリボンはあるが、昨日とは比べ物にならないくらいに下手な結び方だった。ネクタイみたいに形は歪だし左右の長さは違う。梨紅に鏡で見せてやって、怒るかと思ったが梨紅はどうしてか嬉しそうだった。
 どうやら、「恭介にリボンを付けてもらった」という事に意味があるようだった。それはそれで嬉しい事なのだが、母に見られた言われることは決まっている。早めに解いて母にやってもらおうと思ったのに、いきなり梨紅は立ち上がって部屋から出て行った。この嬉しさを母にも見せに行ったようだった。恭介はその後を急いで追ったが時すでに遅く、梨紅は台所で朝食の準備をしていた母の所にいた。
 歪なリボンを手に取って母は、
「やっぱり梨紅ちゃんにこのリボンは似合うわね。それにしても、結んだのは恭介でしょ?」
 的確に鋭い所を突いてきた。
「ネクタイもそうだけど、リボンも結ぶの下手ねえ」
「ほっといてよ」
 母は梨紅のリボンを持ったまま、恭介には聞こえない小さな声で梨紅に、
「よかったわね」
 とつぶやいた。梨紅は嬉しそうに笑っていたが、その理由を恭介は知らない。
 まだ何かを話す梨紅と母を台所に残し、恭介が居間に行くとテーブルにはもう朝食はほとんど揃っていて、父だけがそこに座っていた。いつも通りの場所に恭介が座ると、話しが終ったのかその隣りに梨紅が座る。台所からきゅうすを持って居間にきた母が人数分のお茶を湯飲みに注ぎ、梨紅が手伝って人数分の茶碗にごはんが装られる。今度はちゃんと梨紅に普通の量でと頼んだからよかったが、梨紅の不満そうな顔を見ると今も山盛りにしようとしていたのだろう。朝からあの量は食べ切れない。
 家族四人で朝食を食べ、それからは母と梨紅が片付けをしていた。母が言うには「梨紅ちゃんは恭介と違って飲み込みが早いから助かるわ」だそうだ。そう言った母の横で笑っている梨紅に何だか負けた気がした。片付けは二人に任せ、気を取り直して二階に行こうとするとちょうど玄関から父が仕事に行く所だった。「いってらっしゃい」と送ると、父はいつも通りに「おう」と返して外に出て行った。どこに行くのか追跡しようとも一瞬思ったが、学校があるのでそれは却下された。上がり掛けた階段を上り、部屋に入って着替えはじめる。制服はすぐに着れるが、やはりネクタイが強敵だった。学習できないから、やっぱり十分も掛かってようやく結べたが形が歪になる。知ったことではなかった。
 何も入っていない鞄を持って部屋を出ようとすると、ちょうど梨紅が部屋に入って来るところだった。
「梨紅、おれは学校行ってくるから留守番よろしく」
 入れ違いになろうと思ったら、梨紅に制服の裾を引っ張られた。振り返ると梨紅は何やら待っていたが、何を待っているかはわからない。そのままじっとしていたが梨紅の方からは何も言ってないところを見ると、これはこっちから何かしなければならないのだろう。それでは何をするべきか。そういえばさっき母と何か話してたなと思い出す。あの母のことだから、多分ここは、
 半ば勘を頼りに梨紅の頭を撫でてから、
「いってきます」
 と言った。
 梨紅は笑顔になって、
「いってらっしゃい!」
 どうやら正解だったらしい。梨紅が裾を離したのでそれから階段を下りる。その後を梨紅が追い掛けて来ていたが別にいいだろう。
 玄関で靴を履いて外に出ようとすると、梨紅が手を振っているのが見えた。恭介がそんな梨紅を見て笑い、そして手を振り返した。
「いってきます」
 もう一度そう言うと、さっきと同じように梨紅は笑顔で、
「いってらっしゃい!」
 そして恭介は玄関から外に出た。春の太陽はまだ低く、少し寒かったがそれもどこか気持ち良かった。
 いってきますと、こんなに楽しく言ったのはいつ以来だったろうか。


     ◎


 迂闊にも今日は大掃除だった。
 担任がそんなようなことを言っていて、ジャージがいるから忘れずに持ってこいと何度も念を押していたことを今更ながら思い出した。忘れてきた者には罰を受けてもらうとも言っていたはずである。だが忘れてしまったものは仕方なく、どうしようかと思っていると同類がいた。しかも恭介とは違い、担任に堂々と手を上げて発表する。「せんせー、おれジャージ忘れたんですけどどうしたらいいですかー?」秋山慎治はさも当たり前に言うのだった。クラスが苦笑し、カラオケやボーリングに行ったメンツ達は拍手やらちゃちゃを入れる。
 担任は西園寺とかそういう演歌歌手みたいな名前のそれなりに若い男で、罰を与えるとは言ったもののそういう感じの人には見えない。どちらかといえば優しそうだ。
「昨日あれほど持ってこいって言ったろう、いきなり忘れるなよ」
「すんません、気をつけます」
「他に忘れた奴いないか? ちゃんと正直に言っておけよ」
 同類がいたということに勇気付けられたのか、恭介が担任に正直に言うのにあまり抵抗はなかった。担任に言うと同時に、さっきと同じようにメンツからは拍手やらちゃちゃが入れられ、担任からは「お前もか」と言われた。別にそれだけだったらよかったのだが、恭介と一緒に立っている慎治がいきなり、「おおーさすがおれの友達! おれのことを気遣っての行為だな」なんて言うもんだから担任に誤解されてそれを解くにのに無駄な時間を費やしてしまった。だが結局は誤解を解いても大した違いはない。
 そんな訳で今、恭介と慎治はゴミ袋片手に学校の中庭と呼ばれる所に制服のまま突っ立っている。
 そこは中庭と呼ぶには程遠く、草は膝まで伸び放題でゴミは辺りに散乱していて、しかもその二人の情けない姿は他のクラスからも丸見えだった。罰にも程がある、気弱な生徒だったらこのまま登校拒否にもなりかねない仕打ちである。つまり、ジャージを忘れた奴の罰というのはここの掃除だ。制服で掃除するのは途方もなく間違ってはいるが、忘れた奴が悪いと諦めるしかなかった。
 恭介のクラスの窓から声が飛ぶ。ばーかばーかありえねーっておまえら! なっさけねー、惨めスギ! 精々頑張ってくれよお、おふたりさん! っるっせーアホ共、これでも食らえ! と慎治がゴミを掴んで投げ付ける。うわっきたねーやめろバカ! と窓から顔が引っ込んだ。
 そんな光景をまるで他人事のように恭介は眺めている。確かにジャージを忘れたのは恭介であり、悪いのも恭介である。だがしかし、入学してまだ日が浅いのにこの罰はないだろう。呆然と辺りを見るが何回見ても景色は変わらず、草は伸び放題でゴミは散らばって、草むらの中から慎治がぎりぎりまで吸った煙草のシケモクを穿り出してビンボーくせーと一言つぶやく。
 忘れていた、
「慎治、」
 恭介のその呼び掛けに、慎治はシケモクをゴミ袋ではなくその辺に捨てて振り返る。
「あん?」
「メール返してないだろ、昨日。今日なんかあるのか?」
「おおそれな、今日おれおまえんちに行くぞ」
 さらっととんでもない事を言ってくれたものだ。
「ダメ、お断り」
「なんでだよ! いいじゃねーかよ!」
 駄目なものは駄目だった。理由なんて何通りでも思いつく。
「大体よお、昨日おまえがファミレスから逃げるからいけねーんだよ。あれから警察は来るわ来るわの大騒ぎ」
 帰って良かったと思う。
「もうそっからはハチャメチャ。でもその御かげで食い逃げできたんだけどな」
 酔っていてもそのあたりはちゃんとしているらしい。それにしても食い逃げって、足が付いてたらどうするつもりだ。
 だが何はともあれ、慎治を家に呼ぶのには賛成しかねる。別に慎治を家に呼ぶのが嫌なのではない。友達だし大切にしたいとは思うのだが、慎治を家に呼びたくない一番大きな理由は梨紅だ。多分、恭介の予想では家に帰れば梨紅は出迎えてくれるだろう。しかしそこに慎治がいればどうなるか。問題はそこだ。梨紅の事だから慎治に怖がって隠れてしまうと思うし、それに慎治が帰った後が問題なのだ。慎治を連れてきた事で梨紅は怒るかどうかわからないが、間違いなくそれに似たことが起こり、そしてその機嫌を直すのがやはり面倒だった。だったら結論は、慎治を呼ぶなに行き着く。
 そんなようなことを考えていると、いきなりパンパンに膨れたゴミ袋を差し出され、無意識に手に取ってみるとそれなりの重さがあって一発で我に返った。急いで中身を確認すると、驚いたことにそこにはゴミが積め込まれていた。辺りを見まわす、が。そこには草が伸び放題なのを除けば、さっきまでとは全く光景が違った。
 慎治を見る、
「お前、これ……」
 恭介の間抜け顔を見てにやりと笑い、慎治は高らかに言う。
「これで恭介にはおれに対する借りができた。と、いうわけで今日は恭介の家にお邪魔するぜ」
 反論は、できなかったと思う。
 掃除は、もうとっくに終っている。
 どこからかチャイムが鳴っていた。


 学校が終れば気分は晴れやかになり、家路を急ぐ者もいればクラスで出来たばかりの友達と遊びに行く約束をする者も目立つ。誰も落ち込んではいないし俯いてもいない、放課後という神がもたらした最高の時間を誰もが楽しんでいる。
 ただ一人、三神恭介を除けばの話しだが。
 家に帰るのが重苦しかった。慎治はもうすでに恭介の家に行く気満々だし、ゴミ掃除の借りもあるから拒否するのは今更遅い。ならばいっその事、慎治を家に呼んで借りを返しつつも、梨紅の機嫌を損ねないように接するという高技術が要求される選択肢しか残されてはいないということになる。だがもうすでにあれこれ考えている時間もなく、それを実行する以外に方法はなかった。精一杯頑張ろうと思う。
 慎治が恭介の家を見ての感想は一言、
「普通だな」
 何を想像していたのかは知らないが、普通が一番なのだ。慎治が家にいる時間をなるべく短くしたかったのでゆっくりと玄関まで歩くが、道端から玄関までの距離なんて知れていていつもと大差はなかった。玄関に手を掛け、開けようかどうかという最後の確認を求める。いいのか、まだ今なら間に合う、言い訳はなんとでもなる、鍵がないから入れないとかそんな理由でいいだろう、悪い事は言わない、やめておけ、梨紅の機嫌を直すのが大変だぞ。
 結局は、慎治を外に残したままで玄関を開けて中に入った。
「……ただいまー」
 出来るだけ梨紅に気づかれないように小さな声でそう言ってみる。もし気づかれてなかったら慎治をさっさと二階に上げて上手く言い訳して梨紅を居間に居させればいい。だが最初から黙って入ればそんな心配ことをする必要はどこにもないが、今の恭介はそんな些細な事さえ満足に考えられない状況だった。
 そして恭介の望みは即座に否定された。
 居間の方からテトテトと足音が聞こえる。こうなればまずは簡単にふたりを紹介してからそこからはアドリブで考えよう。成るように成るだろう、だいじょうぶだと思う。
 梨紅の姿が見えた。嬉しそうにこっちに歩いて来て、昨日と同じように恭介の横に来て子犬のように、
「おかえりなさい!」
「あ、ああ。ただいま」
 ニコニコとしていた梨紅が、開けっぱなしになっている玄関に気づく。恭介に視線を移し、どうして開いているのかと言いたげな瞳を向ける。
 恭介がその瞳を見たまま決意を決め、梨紅に慎治のことを話そうとした時に、連鎖的に幾つかの物事が重なった。
 まず、いつまでも玄関に入れない恭介に痺れを切らした慎治が玄関を開け放ち、その拍子に玄関に置いてあった傘置きが盛大な音を立て倒れ、その急な物音に驚いて梨紅が恭介にしがみつき、しがみつかれた恭介は情けなく床に倒れ込み、その光景に慎治が驚きの表情を見せ、それとはまた違う驚きの表情を恭介と梨紅は見せていた。
 変なタイミングで変な事が起きた。物事には順序というものがあって、それが狂わされればそこからは滅茶苦茶になってしまう。そしてこの状況はまさにそれだ。
 時間が止まっているかのようだった。言葉が出ない、梨紅がいつまでもしがみついている。何から言おう、この状況をどうやって乗り越えよう、まずはどうするべきか。取り敢えず、先に慎治に梨紅を紹介しておこうか。玄関で立ったままの慎治に視線を向け、そこで初めてわかる。
 慎治は、この光景に、恭介が女の子に抱きつかれているからとかそういうのに驚いているのではなく、もっと別の、普通とは違う光景に驚いていた。その意味を、やっと恭介は理解する。
 迂闊だったと思う。
 大掃除を忘れていたとかそんなレベルではない、本気でそう思う。
 恭介にしがみついている女の子は、梨紅は、普通とは違うのだ。
 そもそもいつからだろうか、梨紅という少女の違いに、何の抵抗もなく接していたのは。三神家の人間は恭介を含め、梨紅を普通の人として接してきた。それに抵抗はなかったし、それ以前に梨紅は家族であり、そんなことを気にする必要はどこにもない。だから、三神家の人間は誰一人としてその疑問を口にもしないし忘れていた。梨紅は、ひとりの人で、三神家の家族なのだ。
 だがそれは、『三神家の人間』に限定される。恭介も初めはそうだったように、梨紅の普通との違いに戸惑ったのだ。しかしそれは両親の御かげでさほど驚きとしては表に出なかったが、果たして慎治はどうなのか。驚くに決まっている、目を疑うに決まっている、言葉が出ないに決まっている、
 それもそのはず、今現在、目の前で恭介に抱きついている女の子は、髪が真っ白とは違う白銀で、そして頭に、人にあったらこんな感じだろうという場所に猫のような耳がついているのだ。驚かない方がどうかしている。
 咄嗟に考えを思いつく。正直に梨紅が何者なのかと話す気は毛頭ない。
 恭介は倒れたままで呆然と立ち尽くしている慎治を見て、さも当然のように、
「慎治、紹介するよ。おれの妹の梨紅。ちょっと変わっているけどいい子だから仲良くしてやってくれ」
 出来るだけ自然な、これが普通だと言わんばかりの表情を作った。まず、この状況を乗り越えるべきである。
 恭介の言葉にはっと顔を上げた梨紅の口元を手で押さえ、「後で事情を話すから今は取り敢えず話しを合わせてくれ」とアイコンタクトをすると、それでちゃんと理解したのか、梨紅は渋々肯いた。その表情がどこか怒っているようだったが、しかし今はそんなことに構っている暇はない。
 まだ身動き一つできないでいる慎治に再度声を掛ける。
「おれの部屋は二階の突き当たりにあるからそこで待ってて、なんか飲み物でも持ってくから」
 やっと、操り人形のように慎治は動き出した。不自然な動きで靴を脱ぎ、不自然な動きで階段を上がり、不自然な動きで二階に消えていった。部屋のドアが開く音と閉じる音がする。
 張り詰めていたものが消えた気分だった。それがため息となって口から出る。
 ふと見れば、梨紅が恭介に抱きついたまま、不機嫌気味にこっちを見ていた。
「ごめんな梨紅。今ちょっとややこしい事態になってるんだ、少し居間にいてくれないか?」
 梨紅はふるふると首を振る、
「頼むよ、ちゃんと後で一緒にいてやるから」
 その頭を撫でてやる。梨紅はふるふるをやめ、しばしそのまま恭介に撫でられていた。
 しばらくそうしていたが、やがて梨紅は納得してくれたのか、まだいささか不機嫌ではあったが居間にゆっくりと歩いて行った。その耳の片方が元気がないようにぺたんとしていたのを見て、何だか悪い事をしたような気がした。
 だが梨紅とずっと一緒にいるわけにはいかない。まだ慎治が残っているのだ。恭介は二階に上がる。部屋に入ると椅子の上に慎治は座っていて、どこかをただ眺めていた。
 何と声を掛ければいいのかわからない。
「……なあ、」
 慎治から話し掛けてきた、
「なに、」
「あの……お前の妹の、梨紅だったっけ? あの子は……なんだ?」
 正直に答える気はない、ここは誤魔化すのが一番だ。
 恭介は笑った。
「驚いたろ? 梨紅はさ、ああいう猫耳みたいなアクセサリーが大好きなんだよ。部屋にはもっといろいろあるぞ」
 どこかを眺めていた慎治の視線が恭介と重なる。
「なんだよお前その顔、まさか本物なんて思ったわけじゃねーだろな? どこまでメルヘンチックなんだよ」
 深刻そうな表情が一転して、照れ隠しのように怒る。
「ば、バカ! んなわけねーだろ! 耳は偽物だってすぐに気づいたけど……あの髪は……? なんか病気でああなってんのか……?」
「違うよ。まあそうだな……。その辺はお前の想像に任せる。っにしてもさっきのお前のあの顔最高だな、写真に収めたいくらいだ」
「う、うるせー! 学校の奴に言いやがったらタダじゃおかねえぞ!」
 やっといつもの慎治に戻った。一時はどうなるかと思ったが、どうやらこっちは問題ないようだ。
 残るは、梨紅。そっちの方が慎治より大変そうだった。
「で、恭介。飲み物は?」
 そんなこと言ったような気がする、すっかり忘れていた。苦笑いをしてもう少し待っててと慎治に言い残して、恭介は部屋を出てすぐに居間に向かった。足音に気づいたのか、梨紅はちょうど居間から出てくる所だった。
 まだ耳は片方ぺたんとしていて、少し怒っているようにも見えた。
「梨紅、本当にごめん、夜まで待ってくれ、そうしたらお前の好きなようにさせてやるから」
 梨紅の元気が急になくなったようだった。何も言わず、ただ悲しそうな瞳で恭介を見る。その微かに潤んだ瞳に気圧される、だが圧されてはならない。梨紅には悪いが、ここは夜まで我慢してもらうしかない。慎治が帰ったら、ずっと一緒にいてやるから、だからそれまで待ってほしかった。
 もう一度、恭介は梨紅の頭を撫でた。しかしすぐに梨紅はその手を無視するかのように居間へと戻って行った。そんな事は初めてだった。どんなに怒っていてもこういう態度は取られた事がない。どうやら、今までで一番怒っているようだ。機嫌を直すのに時間が掛かるかもしれない、いやそれ以前に、
「ごめん、梨紅……」
 小さな声でそう言う。梨紅には、聞こえなかったのだろう。それでも仕方がなかった。
 恭介は一人で二階へと戻って行く。部屋のドアを開けて慎治を見て、また飲み物を忘れた事に気づいた。
 結局は、それからしばらくして飲み物は母が持って来てくれた。
 初対面の慎治は丁重に挨拶し、母もそれに習っていた。飲み物をテーブルの上に置いた母が部屋から出て行く際に恭介を呼び、慎治を部屋に残したままで廊下に出る。話すことは大体予想がついている。母は深刻そうな顔でやはりこう言った。
「梨紅ちゃん、怒ってるわよ」
 予想していたとは言え、グサリと刺さる言葉だった。
 だが母はそれだけを深刻そうな顔で言うと、またすぐに笑顔に戻った。
「だから、夜はいっぱい甘えさせてあげなさい」
「え、あ……うん」
「そう、それでいいの」
 飲み物を乗せていたおぼんを片手に、母は嬉しそうに階段を下りて行く。
 その背中を見送り、いつかのように恭介は母に感謝する。
 夜は、梨紅の思い通りにさせてやろう。


     ◎


 時間は夜になるが、なぜか食卓には慎治の姿がある。
 原因は母にある。飲み物のグラスを片付けに来た母は慎治に腹は減ってないかと尋ね、慎治は正直にも減っていると答えたのだ。そこからは流れに任せて慎治が食卓に参加した。いつもなら梨紅が座っている場所に慎治が座っているので、梨紅は両親の間に座っている。慎治はたまに梨紅を見るだけで何も言わないが、猫耳があまりにもリアルであることに少し不思議に思っているのだろう。偽物ですよと言われれば信じられなくもないが、やはり疑いはするのだ。だがさすがにその事を慎治は言わない。
 梨紅のことについて言えば、少しまずい状況になっている。ごはんは梨紅が装ってくれたのだが、昨日とは違ってごはんの量は山盛りどころか普通の量の半分くらいだった。ささやかな抵抗なのだろうと恭介は思う。食事中、一度も梨紅は恭介と目を合わせなかったし、今日の料理美味いよと梨紅に言ってみても何も返してくれない。本格的に怒っているのだろう。ちょっとやそっとじゃ機嫌が直らないようだ。
 夕食が終り、慎治がそろそろ帰るわと言う。メシまで食わせてもらって悪かった、妹の機嫌が悪いのはおれのせいかもしれないな、すまなかったと慎治は苦笑い気味に恭介に話した。まあいいさと恭介が返し、近くまで慎治を送った。そして別れた後、その姿を最後まで見送った瞬間、恭介は走り出した。
 家に飛び込んですぐさま梨紅の姿を探す。梨紅は台所に居て母の洗物の手伝いをしていた。何と声を掛けようかと思っていると、母が振り返って「先にお風呂に入ってくれる?」と言われたので、そのまま梨紅に話し掛けられずに風呂に入った。もう少し粘ればよかったのかもしれない。
 湯船に鼻まで浸かって一人思う。梨紅は、いつまで怒っているつもりだろう。いい加減話くらいしてくれてもいいのではないのだろうか。だが梨紅は怒っている、それは紛れもない事実であり、それを晴らせるのは恭介しかいないのだ。仕方がない、やるしかないのだ。風呂に浸かったままでいろいろな事を考えていたので、いつの間にか溺れ死ぬところだった。風呂から出ると入れ違いに梨紅が風呂に入って行ってしまった。また話す機会を失った。こうなれば部屋で話すしかない。
 恭介は部屋に入ってベットに座る。昨日はこうして一人でいられる時間が欲しいなどど思ったが、本当の一人になったらこうも落ち着かない。梨紅が隣りにいる事が、たったの三日で当たり前になっていた。だから、どうしても梨紅に機嫌を直してもらいたかった。
 いつもならすっと過ぎる時間が途方もなく長くて、その待っている時間は永遠に近かった。やがてその長く永遠の時間が動き出し、部屋のドアが開いて梨紅が入って来た。恭介は弾かれたように視線を梨紅に向ける、しかしやはり梨紅は視線を恭介と合わせようとはしない。
 濡れた髪と濡れた耳、タオルを首に巻いてゆっくりと梨紅は歩く。昨日はこのまま恭介の前に座ったが、今日はベットの少し離れた場所に座って自分で髪を拭き始めた。少し迷ったが、恭介は梨紅に近づいた。そっとタオルを手に取って、梨紅の髪を拭いてやる。無視されるということはなかったが、昨日みたいに嬉しそうにはしない。
 梨紅の髪を優しく拭いたままで、恭介は勇気を持って尋ねる、
「なあ梨紅?」
 返事はない。乾いた笑いが恭介の口から漏れた。
「悪かった、許してくれ。……つっても無理なんだろうな」
 幸い、明日は休みだ。これで機嫌が直ってくれるなら何でもやる。
「明日どこかふたりで遊びに行こう。梨紅の好きな所に。何かほしい物があったら買ってやるから」
 梨紅の身体がぴくっと揺れる。どうやら機嫌を直してくれるようだ。
 タオルの向こうから、梨紅の瞳が見えた。上目づかいにじっとこっちを見ている。
 恭介は再度笑う。どうやら機嫌を直してもらうにはもう一押し必要のようだ。
 梨紅が、ゆっくりと恭介に言う。
「今日……」
「ん?」
「一緒に寝ていい……?」
 いつもベットの中にいるじゃないか、ということは言わなかった。
 それで機嫌が直ってくれるなら、返答は決まっていた。
「おう、いいよ」
 梨紅が、やっと笑ってくれた。
 それが嬉しくて、また髪を拭いてやる。今度は、昨日のように梨紅も嬉しそうだった。
 思うのだが、梨紅も恭介と同じで一人でいるのが落ち着かなかったのではないのだろうか。
 ふたりは出会ってから、恭介が学校でいない間を除けばずっと一緒にいたのだ。恭介にしてみれば梨紅といられる時間は楽しかったし、梨紅にしてみても楽しい時間なのだろう。その時間を取り戻すためには何だってやる。他の人にしてみればどうでもいいのかもしれないが、恭介にしてみれば大切なことだった。
 髪を拭いていると、梨紅がいきなり立ち上がる。どうしたのかと尋ねる前に、梨紅は恭介のベットに潜り込む。
「梨紅、まさかもう寝るとか言うじゃないだろうな?」
 布団から顔だけ出して梨紅は肯く。
 時計はまだ九時半にもなっていない。寝るには早過ぎだ。
「それにまだ髪濡れてるだろ、それ拭いてからだ」
 ふるふる。どうやらすぐにでも寝たいらしい。
 しかし髪が濡れたまま寝て風邪でもひかれたら後が大変だ。そう思ってベットから出ている梨紅の髪をタオルで大雑把に拭いてやった。これで大丈夫だと思うが、それ以前に今から寝るというのには賛成できない。
 だがそんな恭介とは反対に、梨紅はすぐにでも寝たい様子だった。このまま梨紅だけ寝かせるとなればまた機嫌を損ねかねない。だったら、眠らなくてもいいから一緒にベットに入ってやるだけはしてやった方がいいのかもしれなかった。
 苦笑して恭介は布団をちゃんと敷く。電気を消してベットに入ると、梨紅はいつものように丸まって、そして恭介の服の裾をきゅっと掴む。その表情が嬉しそうだった。
「ね、」
 梨紅の弾んだ声、
「ん?」
 上目づかいに恭介を見て、
「明日どこ行くの?」
「どこでも。梨紅の行きたい場所。行きたい所ある?」
 少し考えてから、梨紅は笑顔で言う。
「どこでもいい」
 それもそうか、と恭介は思う。
 梨紅は、恭介とどこかに行くことが嬉しいのであり、その場所はどこでもいいのだろう。もし行きたい場所ができたならその時に決めればいい。まずは、明日になってから考えればいいのだ。それに明日は久しぶりの休みだし、ゆっくり寝てから、それからだ。今日は、ゆっくり寝よう。
 梨紅は、いつまでも嬉しそうに笑っている。よっぽど寂しかったのだろう。だから、こんなにも喜んでいるのだろう。そんな梨紅は、本当に子犬みたいだった。
 恭介の頬に、梨紅の耳が触れる。その柔らかい毛並みが少し面白かった。
 少しつっついてみようと思う。
「梨紅、聞いていいか?」
「なに?」
 頬に触れた耳を少し触り、
「この耳って少し茶色があるけど、これって大人になれば白銀になるの?」
 むっとした顔で梨紅は恭介を見てほっぺたを膨らませ、
「なるもん……」
「ほんとに?」
「ほんとに!」
 梨紅が布団の中で少し暴れ、恭介はその光景に笑いながら少しばかりの抵抗をする。
 こんな何でもないような時間が、途方もなく楽しかった。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「少女は狼狗」




 ゆっくり寝よう、そう決めて昨日は寝たはずである。
 だが上機嫌の梨紅と一緒に寝て、そう簡単に安眠を手に入れられるはずもなく、いつもは恭介より遅く起きる梨紅に今日ばかりは叩き起こされた。そして起こすにしても数多くの起こし方がこの世には存在し、肩を揺らすとか名前を呼ぶとかが一般的であり、それは中には洗濯バサミで耳を挟んで起こす馬鹿もいるにはいる。しかしそんな馬鹿がいるにしても、上には上がいるものだ。
 恭介はにしてみれば、決して一緒に寝た大切と思われる人をベットから突き落とし、それでも起きないならその上に飛び乗って小さな拳の雨を降らせるなんて芸当は間違ってもしない。それに加えて時間が朝の六時過ぎ。学校に行く時よりも早起きになってしまった。
 何が起きたのか理解したと同時に、恭介が腹の上に乗っている常識外れに向かって何を言うより早くに、梨紅は嬉しそうに、
「行こう!」
 どこに、
「どこでもいいから行こう!」
 寝かせてくれ。それにまだ六時過ぎだ、まだどこも開いてなんかいないしもし開いてるとすればコンビニ程度だ。そんな所に男女が二人で行くなんて何か違うだろう。
 それに今日は休日であり、まずは寝たかった。だから恭介は上に乗っている梨紅を取り敢えず退け、ゆっくりとした動作でベットに這い上がって布団に包まって目を閉じる。しかし梨紅が納得するはずもなかった。
 布団に包まれている恭介の横に座って揺する。
「寝かせろって。まだ六時だぞ、どこも開いてないって」
 梨紅が首を振るのがわかる。
「だってよお、せっかくの休日だぞ。それになんで今日に限って早起きなんだよ」
「約束したもん」
「そりゃ約束はした、それは認める。だけどこんな時間から行く所なんてない」
 ふるふると布団越しにでも感じる。
 ため息と欠伸が混ざったような奇妙な行動をしてから、恭介は布団を梨紅にも掛けた。太陽の光を、これ以上感じていたくなかった。ドラキュラの気持ちがよくわかる瞬間だった。布団の中で梨紅を見つける。座ったままで梨紅は恭介を見ていた。
 手で寝転がれと合図を送ると、ちゃんとわかったのか梨紅はベットに寝転がる。二人とも布団の中で実に変わった体勢で話す。
「どこかにはちゃんと行こう。でもまだ早い。それはわかるな?」
 渋々、梨紅は肯く。
「じゃあ寝よう。一緒に寝てやるからもうちょっと寝よう、頼むから寝よう、うんそうしよう」
 ふるふる、
「勘弁してくれよ、梨紅。ほれ、こっちこい」
 梨紅の頭に手を置いて撫でてやる。不服があるようだったが、そうしている内は大人しくしていてくれた。このまま寝ていきたい。せめて十時までは寝ていたかった。学生の休日というのは無くてはならない大切な物なのだ。その中でも睡眠は重要中の重要。それがどんな形であれ、無くなるのは嫌だった。
 しばらく髪を撫でていて、ふと見ればいつの間にか梨紅は目を閉じて寝息を立てていた。どうやら梨紅は寝つくのは早いらしい。だが何にせよ、これでまた寝れる。安心して恭介が目を閉じると同時に、梨紅の手が恭介の服の裾を握った。
 ゆっくりと、意識がなくなっていく。
 結局、次に起きたのは十時を少しばかり過ぎた辺りだった。そして早起きしたのが少し疲れたのか、梨紅はまだ寝ている。軽くその肩を揺すってやると、梨紅は微かに瞳を開いて小さく「おはよう」と言った。
 恭介は梨紅より一歩早くにベットから降り、梨紅はまだベットの上に座って目を擦っている。窓に歩み寄ってカーテンを開けると、外は気持ちいいくらいの青空だった。そんな青空を見ていると、恭介の腹の虫が鳴る。朝食を食べたかった。
「朝飯食べるけど、梨紅はどうする?」
 まだ眠たそうな声で、しかし梨紅は、
「食べる」
「わかった。じゃあ下行って顔でも洗おう」
 こくりと、梨紅は肯く。
 部屋から出て階段を下り、先に梨紅に洗面所を使わせてやることにしてから、恭介は一人居間へと向かう。テレビの音が聞こえていたから誰かがそこに居るはわかった。予想通りに、そこには父が居ていつも通りにテレビを見ながら新聞を読んでいた。「おはよう」と言ってから、「今日は仕事休みなんだ」と付け加える。父は「まあな」と言ってから、ふと視線を上げて恭介を見る。なに、と言うより早くに気づいた。父は、多分梨紅を探しているのだろう。だから恭介は「梨紅なら顔洗ってる」と答えると、意図を感づかれたのが不愉快だったのか、父はすぐさま恭介から視線を外して「むぅ」と唸る。
 まあいいだろう。次は母を探さなければ、と思ったらちょうどその本人が台所から居間に入って来た。
「あら恭介おはよう。梨紅ちゃんは?」
「顔洗ってる。それより、朝ご飯の用意ってできる?」
「梨紅ちゃんも?」
 肯く。母も一度肯いてからまた台所に戻って行った。それと同時に洗面所から梨紅が戻って来て、父がいることに気づいて小さく頭を下げてから「おはようございます」と挨拶する。父は視線は動かさなかったが、微かに嬉しそうに「おはよう」と返していた。恭介と梨紅に対する接し方が違うじゃないか、という意見はここでは言わなかった。
 さて、梨紅が帰って来た所で顔でも洗うか。恭介は一人で洗面所に向かって容赦ないくらいに冷たい水で顔を洗ってから歯を磨く。洗面所にはコップが四つあってそれぞれに歯ブラシが立ててある。少し前まで三つだったが、梨紅が来てから一つ増えたのだ。コップの色はピンク、考えるとやはりこれも父が買ってきた物なのだろう。そんなことを考えながら歯を磨いてから口を濯ぎ、また居間に戻る。
 珍しい事に、今日の朝食はトーストと紅茶だった。三神家では、朝食はごはんに味噌汁という日本人的な物に決まっている。理由は簡単で、単に父の好み。恭介にしてみてもごはんは好きなので不服はない。だから自然と三神家の朝食はごはんなのだが、今日はなぜかトーストだった。
 呆然としていると母が、
「なにしてるの?」
「いや……なんで今日はパンなの?」
 少し照れた様に母は笑う。
「ごめんなさいね、昨日ごはん炊くの忘れちゃって。それで今日はパンで我慢してちょうだい」
 まあたまにはいいか。肯いてから梨紅の隣りに座る。
 そして何を思ったか、梨紅は紅茶に入れるために母が用意した砂糖の入ったガラスの入れ物をまじましと見つめていた。どうしたのかと思っていると、梨紅がこっちを向く。
「どうした?」
「あれなに?」
 砂糖の入ったガラスの入れ物を見る。
「砂糖。って、知らないのか?」
 それには母が答えた。
「ああ、梨紅ちゃんはその入れ物が気になるんじゃないの?」
「入れ物?」
 改めてその入れ物を見てみてる。少し変わった形をしてはいるが、何の事はないただの猫の形をしたガラスの、
 笑った。そうか、小さい頃から見慣れているから何も思わなかったが、そうなのだ、この砂糖が入っているガラスの入れ物の形は猫を象っている。それが梨紅にとっては不服なのだろう。
 笑っている恭介に、梨紅は怒ってぽかぽかと拳の雨を降らそうとして、思い止まった。ここは両親がいる、だから恭介に怒っている姿を見られたくない、とかそんな理由なのだろうと恭介が勝手に解釈して、そしてそれを良い事に業とらしく、
「さてと、この猫の入れ物の中に入っている砂糖でも入れようかな」
 拳はこなかったが、梨紅の怖い目付きがそれはそれで面白かった。
 トーストを食べている最中も、梨紅はずっと恭介を見ていた。食べながらも恭介はひとり笑いを噛み締め、これは後が怖そうだと考える。
 その考え通りに朝食を食べ終わって部屋に戻った途端に、梨紅はいきなり恭介をぽかぽか殴る。痛くないので笑いながら「ごめん」と謝り続けた。
 それがやはり不服なのだろう。いつまでも梨紅は恭介を殴り続ける。
 それからしばらく掛かったが、何とか梨紅の機嫌を直して時計を見れば時刻はすでに十一時手前だった。そろそろどこかに連れていかなければ梨紅が怒り出す頃だろう。
 その事を梨紅に話すと、嬉しそうに笑ってからトテトテと部屋のテーブルに歩み寄り、その上からリボンを持って恭介の所に戻って来る。リボンを恭介に差し出す。
「だから、おれはリボン結ぶの下手だって。出掛けるんだし母さんにやってもらえよ」
 ふるふる。ため息一つでリボンを受け取る。集中して、自分の限界を超えて、リボンを梨紅の白銀の髪に結ぶ。なんだか今は綺麗に結べそうな気がする。快挙を成し遂げることができるかもしれない、
 しかし結果は残酷で、梨紅の髪に結んであるのは昨日と対して変わらない形の歪んだリボンだった。しかしそれでも梨紅は嬉しそうに鏡を見てリボンをちょんちょん触る。まあ喜んでくれているのならいいだろう。
 今度は恭介の準備の番だ、と言っても財布と携帯を持って上着を羽織って終りだ。梨紅を連れて一階に下り、居間にいた両親に「ちょっと出掛けてくる」と告げると、何かを思い出したように母は「ちょっと待って」とどこかに去って行き、そしてすぐに手に帽子を持って戻って来た。毛糸でできたスキーなどの時に被るあの帽子だ。どうするのかな、と思ったらそれを梨紅に被せた。
 はっとする。昨日、慎治の出来事があったのにもう忘れていた。梨紅の頭には、普通の人には有り得ない耳があるのだ。それを隠さないで出掛けたらややこしい事態になるのは目に見えている。そしてそれを恭介よりも先にすぐに思い出した母はやはりすごい、というか恭介が間抜けなだけかもしれない。
 母に「ありがとう」と礼を言ってから梨紅と二人揃って外に出る。太陽の光が眩しく、春にしては熱かった。梨紅も眩しいと思ったのか、片手で影を作っていた。
 恭介は考える。外に出たはいいが、これからどうするのか。梨紅に行きたい所はない、それでは恭介が行きたい所に連れて行くのがいいのだろうが、生憎恭介に行きたい所なんて今はない。どうする、取り敢えず街にでも行ってみるか。そこをぶらぶらしていたらそのうち何か面白い物があるかもしれない。よし、そうしよう。
 梨紅と並んで道を歩く。街に出るには電車を使わなければならないのが少し面倒だが、それでもしょうがない。梨紅はいつにも増して上機嫌で、道端にあるいろいろな物に興味を示してきょろきょろとしている。それは所構わず生えている雑草だったり、電柱に結びつけられている看板だったり、石ころだったりと様々で、兎に角なんでも興味を示す。そんな梨紅を見ているのが楽しかった。
 しばらく歩くと駅が見えてきて、切符をふたり分買う。恭介は大人料金だが、梨紅は子ども料金で通した。そのことを梨紅が知ったら怒るかもしれないが、気づかれなかったのでよしとする。座席に座っていても梨紅の興味が尽きる事はなかった。子どものように座席に膝を着いて窓の外を眺めている。ふと恭介が前を見れば、おばさんかおじさんかわからない中間生物が梨紅を見て微かに笑っていた。
 急に恥ずかしくなって、
「おい梨紅、ちゃんと座れって」
 恭介の言葉なんて聞いちゃいない。きょろきょろと嬉しそうに流れて行く景色を見ていて、そしていきなり恭介の方を振り返り、電車に乗っている人全員が驚くような大声で、
「はやい!!」
 度肝を抜かれた、
「ちょ、静かにしろってこらおまえっ!!」
 問答無用で梨紅を引き寄せて口を手で押さえ、引っ掴んで身動きを取れなくする。しかし梨紅は突然の事に意味がわからず、恭介の手から逃れようとジタバタ暴れる。
「暴れるな静かにしろ落ち着け」
 納得してくれるはずもなかった。さらに激しく梨紅は暴れる。しかし恭介は何事もなかったように愛想笑いを浮かべ、腕の中で暴れる梨紅を無視して、こっちを凝視している乗客に向かって「何でもないんです、気にしないでください」と弁解する。
 ったく、こいつは。暴れていた梨紅をやっと落ち着かせ、大人しく恭介の隣りに座らせた。じっと、不服満々でこっちを眺めている梨紅の視線を受け流し、一刻も早く電車がホームに着くのを願う。これ以上この冷たい眼差しを感じていられなかった。
 電車がホームに到着すると同時に飛び出し、梨紅の腕を掴み、カモシカのような俊敏な足取りで改札口を通過した。それでも安心できずにしばらく走った。一度振り返ると、駅はすでに小さくなっていた。息を整えてやっと安心できた。
 梨紅を見れば、恭介と一緒に走ったのに関わらず息は切らしておらず、それどころか少し怒った表情で恭介を見ていた。
「怒るなよ。あれはお前が悪いんだぞ」
「何もしてないもん」
 それ以上は言葉を返さなかった。またすねられでもしたら後が面倒だ。
 さて、街に来たはいいがこれからどうするか。辺りを見ると、まだ昼前なのにやたら人が多く、それに加えて太陽の光が強かった。取り敢えずその辺をぶらぶらしてみようか。その考えを梨紅に言おうと思ったら、聞き覚えのある声が聞こえた。
「おい、あれって恭介じゃねー?」「あ、ほんとだ。おーい恭介ー! なにやってんだー?」
 声のする方を見れば、五、六人の高校生くらいの集団がいた。その中の何人かが手を振っていて、それで全員がこっちに向かって来る。どいつもこいつも知った顔だった。都築高校で恭介と同じクラスの、カラオケやボーリングに行った面々だ。その中にはやはり慎治の姿もあった。
「よお、おまえらこそなにしてんだよ?」
 すっと、梨紅が恭介の後ろに隠れた。しまった、と思った時はもう手遅れで、すでに集団は恭介の前まで来ていた。
「なにしてるって、あれ? 慎治から聞いたんじゃねーの?」
 こうなってしまったのなら仕方がない、なるべく早く切り上げよう。
 そして恭介が返事を返そうとすると、慎治が先に口を開いた。
「おまえら、恭介は今日は妹とちょっと用事があんだよ。邪魔してやんな。先行っててくれ、後ですぐ行く」
 何か言いたそうだったが、まあいいか、とそんなような雰囲気が流れて全員が恭介に軽く挨拶してまた歩き去って行った。状況がよくわからない恭介は、残った慎治に視線を向け、
「どういうことだよ?」
「ああ、今からまたカラオケ行くんだよ」
 珍しく、慎治からの誘いはなく、朝携帯を確認してもそんなような連絡はなかった。
「今回はお前はパスにしといた」
「どうして?」
 すると慎治はその質問には答えず、恭介の後ろで隠れていた梨紅に視線を巡らせる。慎治にしてはちょっと意外な笑顔をした。
「わりいな梨紅ちゃん、昨日は君のアニキ取っちまって。でも今日はちゃんと遊んでもらえよ」
 梨紅が恐々と恭介の後ろから慎治を見る。慎治は軽く肯き、そしてまた視線が恭介に戻って来た。
「と言う訳だ。だから、妹は大事にしろよ。じゃ、おれは行くわ」
 それだけ言い残し、慎治は人込みに消えた。
 慎治が歩き去った方向を見ながら、恭介は思う。余計な気遣いしてくれたものだ。だが、その気遣いが少し嬉しかった。恭介と同じように慎治が消えた方向を見ていた梨紅の頭に手を置いた。
「今度また会ったら、お礼の一つでも言わなきゃな」
 少し経ってから、梨紅はこくんと肯いた。


     ◎


 疲れた、その一言に尽きる。
 楽しくなかったと言えばそれも違う。梨紅と二人で街を歩いたことに対しては楽しかったと言い切れる。だが所々で見せる梨紅の奇怪な行動のせいで神経が擦り切れる気分になった。例えば、その辺の子どもが持っていた風船を割ってみたり、デパートで動く玩具と格闘したり、どう見てもそっち系のサングラスの男に声を掛けたり、ここでは説明できないほどの出来事が存在し、その責任を取るのはもちろん恭介だった。恭介が怒られられると、いつの間にか梨紅は姿を消し、怒られ終わるとふいっと姿を現す。おそらく、計算しての事なのだろう。その事は言わなかったが確信はあった。
 そんな訳で今は疲れたの一言に尽きる。
 すっかり夕日が傾き掛けた頃になってようやく、恭介と梨紅は帰路を歩いていた。今朝も通った、田舎のような中途半端な道を歩く。影が長く、その影を追い掛けるように梨紅は早足だった。
 疲れはないのだろうかと思う。
「梨紅、楽しかったか?」
 そう聞くと、恭介の前を歩いていた梨紅はくるりと振り返り、後ろを向いたまま歩いて満面の笑みを浮かべ、
「うん!」
 大きく肯いた。
 そうか、そうならいいや。楽しんでくれたのなら、それでいいか。
 梨紅はまた前を向いて影を追い掛け、その後ろを恭介が追う。無邪気なその姿に、ほんの少し和みのような感じを受けた。
 梨紅の笑顔が、途方もなく嬉しかった。
 恭介が笑みを浮べ、梨紅に声を掛けようと、
 途端、
 ――満月、紅い瞳、鋭い爪、
 あの日、あの時が、鮮明にフラッシュバックする。
 恭介は歩みを止め、辺りを見まわす。間違いなかった。ここは、梨紅と初めて出会った、あの場所だった。
 急に寒気を感じる、このまますべてがなくなってしまうような奇妙な感覚に囚われる。
 恭介の異変に気づき、梨紅も立ち止まり、どうしたのかと言いたげな瞳を恭介に向けて首を傾げる。思う、何か言え、何でもいいから言え、心配するな何でもないでもいい、とにかく何か言え。どうかしたのか口が動かない。
 梨紅が心配そうな表情をしてトテトテと来た道をひき返し、上目づかいに恭介を見る。今自分が、どんな表情をしているのかさえもわからなかった。
 汗が流れ始め、倒れそうになって、
 梨紅が一歩あとづさった。
 ふと我に返って梨紅を見れば、恭介を見てはいなかった。恭介のその後ろ、信じられない物を見るような表情で、梨紅は何かを見ていた。
 予感、なんて生易しいものではなく、それははっきりと、終りを告げるものだった。
 恭介は、振り返る。
 そこに、一人の男性を見た。見た事のない顔、白銀の髪のオールバック、黒い服、年齢は六十を超えてそうな老人と呼べそうだが背が異様に高く、杖を持っていて、しかしその背筋はぴんとしている。そして鼻と口の間に両側に伸びる白髭が緩い曲線を描いていた。一見すれば優しそうな、白髪の老人だった。だがそれは、白髪と呼ぶには程遠く、まるでその髪の色は、白銀のその髪は、まるで、
 梨紅が駆け出した。
 それこそあっという間に。方向は恭介の家の方だ、一瞬どうしようか迷ってから、梨紅の後を追って駆け出そうとした瞬間、
「ちょっと時間を貸して貰えないでしょうか」
 老人に呼び止められた。
 足を止め、考えてからゆっくりと振り返る。やはり、その髪は白銀のままだった。
 恭介は、老人の瞳を見たまま、動けなくなっていた。
 老人は、恭介の瞳を見たまま、動こうとはしなかった。
 彼は、狼狗(ろうく)の末裔、新月村の長、名前を無上夷月(むじょういつき)といった。


 近くの公園に二つ並べるように設置されているベンチの片方に恭介が、もう片方に夷月が座っている。
 それとなく恭介は夷月を見るが、夷月は何を考えているかわからない表情で真直ぐ公園の敷地内を眺めていた。
 何か言わなければ、と思う。
「あ、あの、」
「梨紅は、あなたとの暮らしを楽しんでいるようですね」
 突然だった。言葉に詰る恭介を余所に、夷月は続ける。
「彼女が村を出てからしばししか経っていないのに、あんなにも嬉しそうにしている梨紅を見た時は少々驚きました。あの子は心が少し弱いですから、尚更です」
 視線を公園に向け、ふと口が動く。
「梨紅を、連れ戻しにきたんですか」
 自分でもどうしてこんな事を言ったのかはわからなかった。
 夷月は表情を変えなかった。公園に視線を注いだまま、彼は言う。
「そうです。狼狗は新月村で暮らすのが最も最適なのです。人間の世界に来て、下手に狼狗の事が表立ったらそれこそ取り返しの付かない事になってしまう。ですから恭介さん、梨紅が新月村に帰った後、我々狼狗の事はもちろん、梨紅の事も他言しないでもらいたい」
 いきなり過ぎるその言葉に、怒りを覚える。
 恭介の意見と梨紅の意見を無視して強引に連れ戻そうとするその気が、妙に気に障った。気づいたら立ち上がって、夷月を睨んでいた。
「梨紅の意見を無視して勝手に連れ戻すって言うのか?」
「言ったはずです、狼狗は新月村でしか暮らせず、新月村でしか生きられない」
「でも実際に梨紅はここで暮らしている、笑顔だって見せてる! さっきあんたもそうだって言ったじゃないか!」
 夷月の視線が、真向から恭介にぶつかる、
「貴方に何がわかるのですか? 我々狼狗のことを完全に理解した上での発言なのですか? 一時の感情ですべてを捻じ曲げないで頂きたい」
 目付きが変わる、
「梨紅がなぜ狼の耳が付いたままなのかご存知なのですか? それに彼女はまだ、」
 そこで夷月は言葉を切り、そしてそのまま押し黙る。睨み合ったままで二人は動かない。
 その状態で時間が過ぎ、恭介は何も言い返せないでいた。
 夷月が立ち上がる。
「また、近々お会いになるでしょう。その時までに、結論を要求します。しかし結果がどうであれ、梨紅は新月村に連れ戻します」
 恭介に背を向け、歩き始める。そしてふと足を止め、夕日に染まる空を見上げて、確かにこう言ったはずである。
 ――『今日も満月』ですか。
 恭介がその視線を追う、しかしそこには何もなく、また視線を戻したそこに夷月の姿はなかった。
 誰もいない公園に、恭介はひとり取り残されていた。


 すっかり日が暮れ、夜になってから家に帰ると、梨紅は恭介の部屋のベットの上で転がっていた。
 膝を抱え、恭介に背を向けて寝転がっている。部屋に入って来た事に気づいているはずなのに、梨紅はいつまで経っても恭介の方を向こうとはしない。仕方なく恭介が歩いてベットに近寄って座る。何から話そうか迷う。言いたい事聞きたい事はあり過ぎるくらいある。だけどそれを言葉にすることがどうしてもできない。
 微かに息を整える。
「メシはもう食べた?」
 寝転がったまま梨紅はこくりと肯く。
「風呂は入った?」
 こくりと肯く。
「髪は拭いた?」
 こくり。
「……村に、帰りたいか?」
 今度は、梨紅は肯かなかった。だがそれだけで、肯定も否定もしない。
 ベットに寝転がったままで、身動き一つしない。恭介が意を決して次の言葉を掛けようとして、
 いきなり梨紅は立ち上がった。窓の外を見つめ、そして一瞬で駆け出した。
「おい梨紅っ! どうした!?」
 聞こえているのか聞こえていないのか、梨紅は恭介の言葉には耳を貸さずに部屋から出て行ってしまった。階段を下りる音が聞こえ、気づいた時には恭介は梨紅を追い掛けていた。部屋から飛び出し、二段飛ばしで階段を駆け下り、ちょうどその頃に梨紅は玄関から飛び出した辺りで、居間から出てきた母にぶつかりそうになってそれでも必死に走って。梨紅は、本当に早かった。恭介の倍、下手をすればそれ以上だ。
 玄関でスニーカーを履く時間も惜しかったが、まさか裸足で飛び出して行くわけにはいかない。梨紅が開け放った玄関から飛び出して道路に転がり出て、左右を確認する。左には誰の姿もなく、右にかなり小さくなった梨紅の姿を見た。その背中を追って駆け出す。しかし恭介なんかが比べ物にならない程の早さで走る梨紅に追い付けるはずもなく、その背中を見失わないだけで精一杯だった。どこに向かっているのかとは、全く眼中になかった。ただ、梨紅を追い掛けることだけで頭が一杯だった。
 どれくらい走ったのかは憶えてないが、梨紅が走るのをやめた時のことだけは鮮明に憶えている。
 恭介の家からかなり離れた場所の、辺りは田んぼしかない田舎のような中途半端な道の真中、街灯の灯かりに照らされて、梨紅はひとり夜空を眺めていた。ゆっくり、恭介は梨紅に追い付き、息も絶え絶えに近づいた。
 声を掛ける前に、恭介は空を仰いだ。満天に広がる星の群れ、そして綺麗な満月。夷月が言っていた、その通りになったわけだ。
 梨紅を見た。口を開いたが言葉が出ず、何とか喉の奥から絞りだし、第一声を吐いた。
「――梨紅、」
 梨紅の肩がびくりと震える。それでも梨紅は振り返ろうとはしない。
 恭介が一歩を踏み出そうとした瞬間、
 ――来ないで。
 あの時と同じだった。聴くのではない、思うのだ。梨紅は、確かにそう言っていた。
 踏み出そうとした足を止めた。言葉がまだ出なくなった。身体が動かない。
 今日は満月だった。
 梨紅が、ゆっくりと、
 ゆっくりと、
 恭介を振り返る。
 心の底から力が無くなる感じだった。
 あの時と、同じだった。


 梨紅の、瞳が紅く、爪は鋭く、獣のようで、
 ただ一つ、瞳から涙が流れていることだけが、あの時とは違った。


 言葉が何一つ出てこなかった。何か言ってやれば、少しは好転したのかもしれない。だけどどう頑張っても口は動いてはくれず、今の梨紅に対してどうしようもないくらいに怖がっている自分が死ぬほど情けない。
 恭介は梨紅を、梨紅は恭介を見つめたまま、数秒が経った瞬間、梨紅が踵を返して跳躍する。目でも追えなかった。気づいたら梨紅はどこにもいなくなっていて、そこには恭介一人が取り残されている。
 最後の、梨紅が跳躍する時に流れ落ちた涙の雫だけが、目に焼き付いて離れなかった。


     ◎


 あの後、どうやって家まで帰ったのかはよく憶えていない。
 気がつくと恭介は、家の前の玄関に座り込んでいた。何をするでもなく、ただ夜空を見上げている。遥か彼方から見下ろしているあの満月が、悪魔の城に思えた。いつまでもその城を見てもいられず、視線を落とした。
 どうすればよかったのだろう。
 どうすればこんなことにならずに済んだのだろう。
 夷月が言ってた。梨紅がなぜ狼の耳が付いたままなのか知っているのかと。知るわけがない、知ったことではない。ただ耳があるかどうかなんて問題じゃない。そんなことどうでもいいのだ。
 問題なのは、何もできなかった自分自身。言葉の一つでも掛けてやれば、梨紅は救われたのかもしれない。ただ近寄って、いつもように頭を撫でてやれば梨紅は笑ったのかもしれない。梨紅の流した涙が、いつまでも目に焼きついている。
 悪いのはおれ。そうなのだろうか。もし今日、夷月に出会わなければ何も起きなかったのではないのか。
 思わず乾いた笑い声が出た。
 責任転換もいいところだ。何もできなかった自分を棚に上げ、人を貶める最低な行為。
 結局は、何もできなかった自分が悪いのだ。無力で、ここぞという時には怖気づく、そんな自分が悪いのだ。
 梨紅はもう、新月村に帰ってしまったのかもしれない。もう、ここに戻ってはこないのかもしれない。
 夷月の言う通りだ、何も知らないで一時の感情で何もかも決めて何になる。
 梨紅は狼狗で人とは違う。
 でも心の大半で、そう思いたくはなかった。梨紅は人で、恭介と同じ人で、ここで一緒に居たかった。そう思って何が悪い、悪くないと思いたい。何もできなった自分を、誰かが罰してくれたらどれほど楽になるか。
 誰でもいい、この空に輝く星でも満月でも、誰でもいいから罰してほしい。
 梨紅が戻ってきたのは、夜空が微かに白くなった辺りだった。
 いつもと何も変わらず、瞳も黒くて爪も丸っこくて、いつもの恭介がよく知る梨紅がそこにいた。
 思考の泥沼の中にいた恭介が、突然の梨紅の登場に良い言葉が言えるはずもなく、双方無言のままの十秒が過ぎた。
 やっとの思いで、恭介は立ち上がって、
「……どこ行ってたんだよ……」
 違う、おかえりと言いたかった。
「……心配してたんだぞ……」
 違う、もっと優しい言葉を掛けてやりたかった。
「……なあ梨紅、お前は、」
 突然、梨紅が倒れ込んだ。まるで支えていた糸が消えたように、その場に倒れ込む梨紅。何が起きたのかなんてのは、どうでもよかった。すぐさま梨紅に近づいて肩を揺するが、反応を示さない。最悪の考えが浮んだが違った。
 梨紅はあの時と同じように、ただ眠っているだけだ。
 あの時と同じように、目覚める気配が感じられないほど深く眠っているだけだ。
 安心するべきか、不安になるべきか、喜ぶべきか怒るべきか。だがただ一つ、梨紅がまたちゃんとここに戻って来てくれたということだけになぜかすべてが許される気がした。
 梨紅の肩を抱いて、朝日が昇る空を見上げ、視界が涙で滲む。
 正しい事がしたかった。
 狼狗である梨紅が本当に楽しく暮らせる場所は何処か。
 考えるまでもなかった。ここは、梨紅のいるべき場所ではないのだ。
 満月はもう空から消え、今は太陽がすべてを照らしていた。
 梨紅との生活を、終らせなければならなかった。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――




     「少女は初めて彼の名を呼ぶ」




 今日が休みだった事が、唯一の救いだった。
 倒れた梨紅をベットに寝かせ、恭介は一人公園に来ている。まだ朝日が完全に昇っていない事もあって人の気配は全くなく、静寂がそこにあった。公園のベンチに座って前を眺め、早朝の寒さを肌に感じて待っている。
 確証はなかった。ただここにいれば、もしかしたら来るかもしれないと思っている。来なければそれまでで、こちらから探す手段は何もない。だが家でじっとしているよりは、こっちの方がよっぽど可能性があった。
 目を閉じて耳を澄ます。遠くで新聞屋がバイクを走らせている音が響き、どこからかラジオ体操の歌が流れて、ピントの外れた虫が一声鳴いて、隣りのベンチに誰かが座った。恭介はそれでも目を開けなかった。
「どういうつもりですかな、恭介さん」
 夷月の声だ。
「ここで待っていれば、私がここに来るとでも思いましたか?」
 目を瞑ったままで恭介は答える。
「でも、あんたはここに来た」
 夷月は鼻で笑う。杖が地面を突く音が妙に響いた。
「それで、私を待っていた理由はなんでしょうか?」
 恭介はここでやっと目を開く。家からここに来るまでに考えてきた事を、一つ一つ聞いていく。
「梨紅に耳が付いたままの理由を教えてくれないか?」
「……それを聞いてどうするつもりです、と言いたい所ですが、いいでしょう」
 虫の鳴き声が止むのを同時に、夷月は話し始める。
「昨日は満月でしたね……」
 恭介の身体が微かに震える、それを夷月は確認した上で、
「その様子ですと、梨紅の姿は見たようですね……。梨紅は、少々異質な存在なのです」
「異質……?」
「ええ。狼狗はこの世に生れ落ちて約十年の歳月で大人になります。と言っても姿形が変わるわけではありません。制御できるようになるのです」
「制御……? 何に対しての?」
「耳と満月」
 夷月ははっきりとそう言うと、不意に恭介の方を向いた。恭介も習って夷月に視線を向け、言葉を無くした。
 夷月の白銀の髪のオールバックの、梨紅と似たような場所に、毛並みが銀色の耳が二つ付いていた。昨日はなかったはずだ。それにさっき少し確認したが、その瞬間もなかったはずなのだ。呆然としている恭介の目の前で、再び不意に夷月の耳が消えた。目の錯覚にも似たその光景にしばし行動できなくなる。
「これが耳を制御するということです。幻術、とでもいうのでしょうか。これで耳がないように錯覚させるのです」
 どうしてそんな必要があるのか。そう言おうとしてやめた。理由は簡単だった。人間の世界で、波風立てないため。
「そしてもう一つが満月。貴方も見たんでしょう、梨紅の姿。あれが本来の狼狗の姿です」
 紅い瞳に鋭い爪、獣のような雰囲気。あれが狼狗、人間とは違う存在。
「満月の日、狼狗はあのような姿になりますが、それは生命を燃やすことになるのです」
「生命を燃やす?」
「あの姿になれば運動能力はもちろん、視覚、聴覚、嗅覚、すべての能力が著しく向上する変わりに、代償として命を燃やすのです。しかしそれでは寿命を無駄にするようなもの。そこで我々は二つ目の、本来の姿に戻らないようになるためにそれを制御するのです」
 どこか遠くを見つめたままで、夷月は話していた。
「狼狗は生れ落ちて約十年でこの二つの制御を覚え、それができれば大人の仲間入りになるわけです。ですが梨紅、あの子は少し違う。生れ落ちてすでに十三年が流れていますが、あの子はまだ制御ができない。このまま制御できずに過ごせば、恐らく近い内に……」
「死ぬ……なんて言うんじゃないだろうな」
「ここで暮らせば、の話です。梨紅が新月村に戻ればその心配もなくなります」
「どういうことだ……?」
「……新月村では、ここに比べて……そうですね、満月の光りの届きが曖昧、とでも言うのでしょうか。詳しいことは今もわかってはいませんが、ここに比べて満月の光りが届き難いのです。新月村を覆っている結界のおかげかもしれませんがね」
 やっぱり、そうなのだ。
 梨紅は、ここでは暮らせない。
 自分の感情など押し殺してしまえ、正しい事をしろ。双方が一番穏やかに暮らせる選択を選べ、後悔などしない道を決めろ。
 どうしても声が震えてしまう。
「……じゃあ……梨紅はやっぱり……」
 夷月が畳み掛ける。
「そうです。新月村でしか生きられない、ということです」
 ここからは恭介にしかできない。梨紅を納得させる事ができるのは恭介だけなのだ。
 俯いた恭介を横目で見ていた夷月が、ほんの少し悲しそうな顔をしてからいきなり立ち上がった。
 恭介は顔を上げない。
「それでは、また……」
 不意に夷月の気配が消える。確認しても同じだろう。
 朝日が昇り始めた公園のベンチには、恭介一人が座っている。
 いつまでも経っても、動こうとはしなかった。


 梨紅はぐっすり眠って、まるで起きなかった。
 あの姿になったせいなのかもしれない、と恭介は思う。そう言えばあの時もこんな感じだった。
 逃げないでと言われたあの時、梨紅は倒れ込んで深い眠りに着いていた。このままここで暮らせば、本当に起きなくなる時が遅かれやってくる。それでは駄目なのだ。二人が一緒に暮らす、なんてそもそもの間違いなのだ。恭介は人であって狼狗ではなく、梨紅は狼狗であって人ではない。その壁が在る限り、共存しようなんて考えが間違いだった。どちらも感傷せずに、思い出として心に残しておくのが一番なのだ――
 そう考えなければ、決意が砕けてしまう気がした。本音を言ってしまえば、すべてを投げ出してでも梨紅と、このベットに眠る少女と一緒に居たかった。しかし少しでもその考えを胸に抱けば、一瞬で決意が砕けてもうその決意を作ることができなくなってしまう。
 正しい事をしよう。自分の感情なんて知ったことではない、『それ』が一番良い方法で最善の選択なのだ。
 太陽が高く昇り、外にはすっかり人の気配が漂い、朝食も昼食も摂るのを忘れて梨紅が起きるのを待っている。起きるのは夕方か、あるいは明日かもしれない。だけど梨紅が起きるまで、恭介は待ち続ける。
 そして以外にも早くに機会は訪れる。時刻は昼の一時を過ぎた辺りだったと思う。
 梨紅がゆっくりと瞳を開いた。
 思わず涙が出そうになって、必死で堪えた。
 目を覚ました梨紅はむくりと身を起こし、隣りにいた恭介に視線を止める。
 おはよう、と言う間もなく、恭介の視線にぶつかって何も言えなくなる。
 決意は固まった。心を閉ざして感情を押し殺せ。
「夷月さんに、全部聞いた……」
 見ていてこっちが不安になるほどに、梨紅の肩がびくりと震えてたちまち瞳に弱さが積もる。
 次に何を言われるのかと、梨紅は怯えていた。
 本当は、
 そんな事、おれはどうだっていい。梨紅と一緒に居たい。そう言いたかった。何も心配しないでいいんだ、怯える事なんて何もないんだと力一杯叫びたかった。でも、それはできない夢で、してはならない許されない事。恭介と梨紅にとって最適な環境で暮らすのが、最も良い事なのだ。
 梨紅から視線を外しては駄目だと言い聞かす。ここで視線を外したら、もう何も言えなくなる。ただでさえ、涙を堪えているのに、視線を外したら、すべてが終ってしまう。
「……梨紅は、村に戻った方が、」
「――いちゃ、いけないの……?」
 恭介の言葉が最後まで達する前に、梨紅がそう言う。今にも泣き出しそうな梨紅の瞳に、決意が萎えそうになる。
「……ここに、いちゃ、いけないの……?」
 居ていいんだ。おれも梨紅と一緒にいたい。
「帰った方が、いいんだ……」
 心を閉ざして感情を押し殺せ、梨紅のためだ、我慢しろ、頼む、上手く口が回ってくれ。
「村にいないと、梨紅は大変なことになる。だから……」
 声が震える、止まれ、
「だから……村に、帰るんだ……」
 それでも梨紅は一縷の望みを掛け、何かを懸命に言おうとした。その拍子に瞳から涙が流れ、シーツを濡らして、
 恭介は直感で思った。その言葉を聞いちゃいけない。聞いたら最後、もう何もかも投げ出したくなるに決まっていた。梨紅と一緒にいる以外に、選択肢がなくなってしまうに決まっていた。
 だから、その一縷の梨紅の望みを、打ち砕く必要があった。
 もうこれで、終りにしよう。
 いい夢を観ていた、ただそれだけ。
 もう、終らせよう。
「おれはっ、梨紅がっ、嫌いなんだ……」
 何かを言おうとした梨紅の動きが止まる。
「もうウンザリなんだ。何をするにしてももう沢山だ。めんどくさいんだよお前と一緒にいるの、迎えが来たんならさっさと帰れよ。ここはおれんちだ、成り行きで仕方なく一緒にいたけど、限界なんだよ……」
 本当に限界だった。これ以上こんなことを言ってしまったら、壊れてしまうような気がした。
 本当の、終りが訪れようとしていた。


「自分の帰るべき場所に帰れよっ!!」


 だから、そんな捨て台詞を吐いて、それ以上梨紅を見ないようにして部屋から立ち去った。
 部屋のドアを閉めた瞬間、すべてが開放された。ドアの前に座り込んで、視界が涙で一瞬でなくなって、もう何も考えられなくなって。
 これで本当に終ったのだ。でも、これでよかったのだ。正しい事をしたんだ。
 口から漏れる嗚咽が自分のものなのだという実感がなく、意思とは無関係に動く肩が他人のように思える。
 もう何もかも嫌になった。ドアに凭れたままで、声と嗚咽をできるだけ室内に聞こえないようにするが、多分無駄だったと思う。
 こんなにも、本気で泣いたのは初めてだった。でも、どうして泣く必要があるんだろう。自分は正しい事をしたはずだ、それなのに泣くなんてのは無意味だ。泣いても仕方がない、泣くな、止まれ涙、もうこれ以上流れるな。無駄な抵抗もいいところだった。
 どうして泣くのか、決まっている。梨紅と一緒にいたかったからだ。でもそれはできないから、できないからこそ、恭介は泣くのだ。泣く以外に、恭介にできることは何も無い。
 部屋の中からは物音一つ聞こえない。梨紅は、どうしているのだろうか。何もせず、ただベットに座っているのか、それとも、もうすでに部屋に梨紅はいないのかもしれなかった。どちらにせよ、今の恭介にこのドアを開ける勇気はなかった。
 終らせてしまったのだ。恭介自身の言葉で。恭介がはじめた物語を、恭介が終らせた、だたそれだけ、それだけだ。
 なのに、
 どうして、
 ――涙が止まらないんだろう。


 いつまでも座り込んでいるわけにもいかず、恭介は立ち上がる。
 もう涙なんてものは枯れ果ててしまったが、どうしてか泣き足らないと感じてしまう。ドアとは反対の壁に立ったまま凭れて廊下の天井を眺め、物音を懸命に追い掛けるが、音は何一つ聞こえない。ドアに視線を移し、一人考える。この扉の向こうに、彼女はまだいるのだろうか。
 ふっと顔が緩む。いるはずがないのだ。恭介が終らせてしまったのだから。緩んだ顔とは裏腹に、右手が拳を作って力強く握り緊めていた。
 正しい事をしたんだ。そう思いたかった。不意に口から言葉が溢れた。
「……梨紅」
 そう呼び掛けると自分が馬鹿だと感じた。でも、もしかしたら呼び返してくれるかもしれないという微かな、そして愚かな希望があった。
 呆然と扉を見ていると、梨紅が、その扉を開けて恭介の部屋から出てきた。
 何もできなった。
 梨紅は、俯いたままで、恭介の方など見もしないで、すっとその場から歩き出した。
 ちょっと待ってくれ、そう言いそうになるのをやっとの事で堪えた。そう言えるだけの資格が、今の恭介にあるはずもない。梨紅はゆっくりと階段を下っていく。そこでやっとそれに気づいた。
 梨紅の髪に、恭介が結ぶよりも形が歪なリボンがあった。
 枯れ果てたはずの涙が、また溢れ出す。
 自分で結んだのだ。お気に入りのリボンを。恭介に結んでもらえなかったので、梨紅は自分の手で結んだのだ。恭介の部屋には、今鏡がないはずだ。それでも、下手でもよかったから、梨紅は、
それくらいは、いや、それだけでもしてやればよかったのだ。
「――りく、」
 声を絞り出し、発音が変になったけど、それでも恭介は梨紅の名前を呼んだ。
 結果的に、それが引き金になる。恭介の言葉を聞いた梨紅は、それまでゆっくりだったのに急に走り出した。一度も振り返らなかった。玄関で転びそうになってもなお、梨紅は振り返らずに、止まらずに。玄関を開け放って、梨紅は外に飛び出した。
 彼女は、泣いていた。


 二階の廊下で一人立ち尽くしている恭介に初めに気づいたのは母だった。
 何もしないでただ立っている恭介に不信感を覚え、取り敢えず声を掛けてみた。
「恭介?」
 それでも動こうとはしない。益々不審に思って階段を上って恭介に近づき、わかる。息子は、自分を見ていない。玄関を見ている。そういえばさっき誰かが出ていったような物音がしたと思う。
 直感がある方だと母は思う。そしてその直感は外れた事は今だかつて一度もない。確認するために恭介の部屋を覗いた。そこに、梨紅の姿はなかった。
 廊下に立ち尽くして玄関を見ている恭介、誰かが出て行くような物音、そして極め付けに梨紅がいない。
「何があったの?」
 その言葉に、やっと恭介は反応を示した。
 母は責めるでも慰めるでもない口調で、恭介にもう一度同じ事を問い掛けた。
「何があったの?」


 居間に三神家の住人が勢揃いしている。
 テーブルを挟んで恭介とその両親が向き合う形となった。知る権利があるのだ、と恭介は思う。父も母も、梨紅には我が子のように接してきてくれた、そんな両親には、すべてを知る権利がある、いや、知らせなければならない。
 三人無言で約一分が過ぎた。それでやっと恭介は重い口を開いて、恭介が知っているすべてを、細かく両親に説明した。まず、初めて出会った時に梨紅が見せていた狼狗の本当の姿のこと、夷月のこと、夷月が話したこと、ここでは梨紅は暮らせないこと、だから梨紅と話しをして村に帰そうとしたこと、そしてさっき梨紅がこの家を出ていったこと。それらを慎重に言葉を選んで、ゆっくりと二十分は掛けて説明した。終止両親は何も言わず、ずっと恭介の話しを聞いていた。
 話し終えた恭介は言葉を無くし、言い訳などする気もなくただテーブルの中心を見つめている。両親の顔は見えないが多分、良い顔はしていないだろうとおぼろげに感じる。また無言の時間が続き、今度は五分も沈黙が守られた。
 最初に沈黙を破ったのは、いつもは無口の父だった。
「それで、梨紅は本当に帰ってしまったのか?」
 肯く。確信はない、もしかしたら家の前でうろうろしているのかもしれないと思ったが、それはまず有り得ない事だということを、恭介が誰よりも一番理解していた。
 恭介が肯いた事を確認してから、父はただ「むぅ」と唸って再度沈黙する。何かを考えているようだった。また沈黙の時間が過ぎ、今度それを破ったのは父ではなく母だった。
「恭介、一つだけ聞かせて」
 いつも母からは想像のつかない真剣な声色。恭介は少しずつ母に視線を上げ、そこに笑顔ではない真剣その物の母の表情を見た。何か言おうと思ったが、それだけで恭介は石化にも似た状況に陥る。
「梨紅ちゃんは、納得してここを出て行ったの?」
 答えられなかった。納得、してくれたかどうかなんて恭介にわかるはずもない。だが、どう考えても納得してここを出て行ったようには見えなかった。あの涙が何よりの証拠だし、それに恭介も納得はしていない。だけど、これが最も最善で最も最適な選択だったはずだった。
「納得、してるかどうかはわからない……」
 母の目を見ながら話す、なんてことができようはずもなかった。
「だけど、おれはこれが正しかったと思ってる……。もしこのまま梨紅がここで暮らせば、梨紅は……だから、これでよかったと思ってる」
 恭介の言葉を聞いても、母は何も変わらなかったと思った。それだけ、母の変化は微塵も感じられなかったし、この世でその変化をわかるとすれば、三神伸明だけしか存在しないだろう。その証拠に、母よりも父の変化の方が恭介には感じられた。しかし、それはどうでもいいことだった。
「恭介。ちょっといいかしら?」
 すっと、母は立ち上がった。反射的に、恭介も立ち上がらなければならないと思ってそれに習う。母が二歩前に歩み出て、恭介は一歩前に歩み出る。母と向き合う形となった。
 何を言われるのかと考えていた。それとなく母の様子を覗う。いつもは見せない真剣な表情、それでも、怒っているようには見えなかった。
 突然、恭介の身体が右に傾いた。頭から傾く感じだった。何が起きたのか理解しようと思うと、左の頬に痛みではなく熱を感じた。普通の熱ではなく、何か違う熱だ。状況を理解するまでもなかった。
 母に叩かれた。
 理解したが、これこそ納得できないことだった。生まれてこの方、恭介は放し飼いのような教育で育てられていきた。自由気ままな教育方針。恭介のやること成すことに一切観賞しない両親。そんな両親が、恭介は好きだった。そして今、生まれて初めて、父ではなく、母に叩かれた。
 左手を頬に添えると、本当に熱を持っていて赤くなっているのが確かめなくてもわかる。呆然と、母に視線を移す。
 言葉を忘れてしまった。母が、泣いていた。
「恭介、」
 震える声が母の口から聞こえる。
「あなたは、もっと人の心がわかる優しい子だと思っていたわ……でも、思い違いだったようね……」
 それだけ言い残し、母は歩き出す。居間から出て恭介の前から完全にいなくなった。
 残された恭介は、何もできないままで、叩かれた頬を押さえたままで一人、迷子の子どものように立っている。
「どうして私や母さんが、お前を自由に育てたと思う?」
 父だった。その問いの答えを返すだけの思考能力は、今の恭介にはない。
 しかし父もそれはわかっていたのか、恭介の答えなんて待たずに言葉を続けた。
「こんな事を言ってはいけないのかもしれないが、私達は学校の勉強なんて本当はどうでもいいんだ。テストや成績なんて、何の価値があるのか私にはわからない。本当に価値があるものがあるとすれば、それは優しさだ。妬みや嫉妬、人を疑う事なんて誰にでもできる。だから、息子には、優しくなってほしかった。優しくなってほしかったからこそ、人の心がわかるようになってほしかった。だから、勉強なんかよりも人と触れ合えるように、私達はお前を自由に育てたんだ」
 無口の父が、これほどまでに喋ったところを、今までに見た記憶がなかった。
 そして父は、最後の、本当に言いたかった言葉を、恭介に伝えた。
「恭介、お前にとって、梨紅という少女は、どういう存在だ?」
 もう、言葉を聞いていられなかった。父の問には返答せず、恭介は無言で走り出した。居間から出て階段を上り、部屋に入ってドアを叩きつけるよに閉じた。
 そんな恭介を見送った父はひとり、すっと立ち上がる。やれやれ世話の掛かる息子だ、と父は思う。居間から出て寝室を通り過ぎる際に少し母の様子でも見ようかと思ったが、ひとりになりたい時は誰にだってあるだろと考えて何も言わずに通過し、その奥の父自身の部屋に入る。
 ここは、かつて中学三年生であった頃の夏、恭介が侵入したあの部屋だ。
 部屋は薄暗く、本棚とデスクトップ型のパソコンしかない味気ない部屋だ。父はゆっくりと歩き、パソコンの前の椅子に腰掛け、一つ息をついた。
 ――使わないと決めたが、仕方がない。
 父は、デスクトップ型のパソコンを起動させた。
 薄暗い部屋にぼんやりと灯かりが灯る。


     ◎


 部屋に飛び込んだ恭介はベットの上で死んだ。
 母の気持ちはこれ以上ないくらい共感できるし、父の正論はこれ以上ないくらいに理解できる。だがそれでも、恭介自身が行動を移すのにはそれ以上の勇気が必要だった。
 納得させずに、一方的に、こちらから拒絶した。今更どの面下げて逢いに行けと言うのだろう。泣き顔で謝るのか、笑顔で冗談を飛ばすのか。気でも狂ったかと思う。そんな下らないことで彼女に許してもらおうなんて虫がよ過ぎる。
 拒絶した代償は、苦しむ事。悩み、嘆き、そして苦しむ。当然だ、悪者はこっちなのだから。
 ベットの枕に顔を埋め、恭介はひとり死んでいる。
 窓の外から聞こえる喧騒は、いつも以上にどうでもよく聞こえた。テレビや音楽でも聞こうか。そう思うが身体が動かない。もういい、もう疲れた。忘れろ何もかも。なかったことにしてしまえ。知った事ではない、ただ初めから何もなかった、それだけが事実だ――
 窓の外で何かが動く。
 見はしなかったがその気配は感じた。動かない身体が一瞬で反応して窓枠によじ登り、
 なあっ。
 猫がいた。
 そして、その猫の耳が梨紅の耳に重なって見える。一瞬、心がかたりと音を立てる。
 続いて反射とはいえ動いた身体が悲鳴を上げる。もう駄目だ、動く気力もない。そしてベットに再度倒れ込む。窓の外でカリカリと音がする。うるさい、何引っ掻いてんだよアホ猫。枕に顔を埋め、いま何時か確認しようと時計に視線を向け、
 テーブルの上に置かれた一枚の紙を目にする。
 爆発的な緊張が走る。まさか、もしかして、
 身体が勝手に動く。ベットから這い出てテーブルに寄り、紙を手に取って文面を見る。思わず泣き出しそうになる。
 下手したら読み取れないような、本当に汚い字だった。そうだろうな、と恭介はどこか懐かしげに感じた。彼女は言葉は喋れるが、文字が書けるかどうかは別だ。苦手だったんだろう。本当に、小学生がはじめてひらがなを教わって、誰にでもいいから手紙を書きたくなって書いてみた、という感じの少し歪な文字だった。
 こう読み取れた。


 ――ごめんなさい


 何がごめんなさいだ、と恭介は思う。どうしてお前が謝る必要がある。悪いのはおれだろうに。
 ごめんな、梨紅。何度謝っても謝り足らないだろう。
 納得させずに、一方的に、こちらから拒絶したのに、それでもお前は謝るんだな、優し過ぎるよ、馬鹿だよ。
 本当に、馬鹿だよ、お前……。
 窓の外の猫が行けとばかりに「なあっ」と鳴く。
 もう一度だけ。
 思う。もう一度だけ、物語をはじめてみようか。もう一度だけ、正しい事をしてみようか。
 目を閉じ、今はいない彼女を想う。正しい事を、しよう。
 そこからの行動は素早かった。ペンを剥ぎ取って紙に「悪いのはおれだよ、バカ」と殴り書き、ドアを突き破る勢いで廊下に飛び出て階段を転がるように下り、微かに聞こえたテレビの音を頼りに居間に飛び込む。と、そこには意外ないつもの光景があった。新聞を読みながらテレビを見ている父と、その横で何やら縫い物をやっている母。二人とも、何事もなかったように自然とそこにいた。やはり、この両親は尊敬に値する。
 手を壁に押し付け、息を整え、どちらに言うでもなく、恭介は言う。
「行くから、」
 両親は何も言わない、
「梨紅を、迎えに行くから」
 それでも父と母は何も言わなかった。しばらくしてからやっと父がいつものように「むぅ」と唸り、母が「そう、いってらっしゃい」と言ってくれた。それだけで十分過ぎた。恭介は一人笑って居間から飛び出そうとすると、不意に父の声がそれを止める。
「恭介」
 振り返る、
「水無月橋、知ってるな?」
 聞いたことのある橋だ。それもそのはずだった、近頃は行ってないが、氷狼山(ひょうろうざん)の近くにある少し大き目の橋の名で、小学校時代によくそこの橋の下で遊んだ記憶がある。
「そこに行け」
 なんで――と言いそうになって止まった。理由なんて決まってる、『そこに』彼女はいるのだ。
 尊敬に値する、いやそれ以上だ。敢えて礼は言わず、肯くだけして居間から飛び出した。
 玄関に手を掛けた丁度その頃、居間にいる両親が二人して優しい笑みで笑っていることなど恭介が知るはずもなかった。
 その事はさて置き、恭介は自転車に飛び乗った。記憶を頼りにすれば、あそこに行くまでには自転車で三十分くらい掛かったはずだ。しかしそれは幼少時の恭介であり、今の恭介ならば少なくとも二十分は掛からずとも――いや、十五分で行く、そう心に決める。ペダルを死に物狂いで踏み倒して道路に乱入し、普段ならあまり通りの少ないくせにこういう時だけ通った車とぶつかりそうになり、道を空けるとかそういう決まりクソ食らえで真中を縦横無尽に突き進み、車のクラクションに中指を突き立てた。更にペダルを踏む足に力を入れる。いつも歩いて行っている駅を通り越し、曲がり角を力ずくでハンドルを切り、後輪をぶれるのを捻じ曲げてまた進む。いつの間にか背中に汗が浮んでいた。知った事ではなかった。
 やっとここらで半分、という所で最悪の事態になる。普段田舎のようなこの道で、工事なんて普通ならない。どうして今なのか。工事する必要なんてないだろうに。黄色い鉄の塊と板切れの作業員がまさに悪魔のように感じる。一瞬迷ったが、ここから迂回するなんて時間のロスも半端じゃない。一秒で決めた。黄色い鉄の塊を踏み倒し、板切れの作業員を蹴散らして真直ぐ進んだ。しばらくは何のことはないただの道だったがすぐにデコボコの道に差し掛かり、数人の作業員と無数の機械が蠢いていた。おいおい、入ってきちゃ困るよ。退き返しないさい。冗談じゃなかった。ちゃんとした道はどこか一瞬で見極める。自分が最強のサイボーグにでもなったような気分だった。立ちはだかる作業員の横を通過してデコボコ道の中の安全で最短のコースを進む、何人かが止めようと恭介に近づくがどれもこれも跳ね返してやった。振り切ってまた進むと、すぐに平坦な道に出た。またペダルを全力で漕いでさらなる加速を求める。坂道なんのそので登ってようやく川が見え始めた。
 間違いない。小学校の頃、よく遊んだあの川だ。橋までもう少し、何分経っているかは知らないが速過ぎるくらいだった。川を見た瞬間、気が緩んだ。もう少しで、と思う。川から流れる風に身体を撫でられ、疲れていたはずの身体が元気になった気がする。更に自転車のスピードを上げた。緩やかなカーブを曲がってすぐに橋が見えた。自転車を乗り捨てる。走って橋のはじまりに立った。両側の柱に大きく『水月橋』と彫られていた。ふと顔を上げると、巨大な山が目に飛び込んで来た。
 ―――氷狼山。自然が自然のまま残る山。そして、狼狗が住む山。
 また視線を戻す。一直線に伸びる橋の先を辿る。橋が森の入り口まで続く。この橋は、異世界への掛け橋なのだ、と恭介は思う。
 この先に、梨紅はいるのだ。迷うことはない、真直ぐ進め。歩く。異世界への橋を渡るのだ。森から吹ける風は少し冷たいが、自然の匂いは気持ちを安らいでくれた。一歩一歩踏みしめながら歩き、丁度橋の途中くらいまで来て、
「何をしているのですかな」
 心臓が跳ねる。見れば奥の、橋と森との境目、この世界と異世界との境界線に、夷月が立っていた。
 目付きが険しい。余所者がここに何をしにきた、とでも言いたげな目線。
 しかし恭介は退かない。
「梨紅を、連れ戻しに来た」
 杖がこつりと地面を叩く。気配が変わっていた。
 空気を伝わり感じる明確な怒り。
「貴方が自分で突き放しておいて、よくもまあ平然と言えますね。あの子がどれほど落ち込んでいるか、御分かりですか?」
 ヒシヒシと感じる威圧感。これが、狼紅の長の威厳という物なのかもしれない。
 けれど、どうしても退くわけにはいかない。
「あんたが望んだことでもあった、違うか?」
「確かに、わたしは彼女がここに戻って来るのを望みました。ですが……」
 夷月の整えられた髪がざわりと揺れて白銀の毛並みの耳が姿を現し、表情が堅くなって威圧感が変わる。緊張が高まった。真直ぐ恭介を見据えていた瞳が変化する、爪がざわめく。そして夷月は解き放ち、瞳は紅くなり、爪は鋭くなる。
 狼狗の本当の姿。今は昼で満月ではない、だが理由など考えている余裕はどこにもない。
 声が鉛の塊のように重く圧し掛かる。
「やり方という物を考えなされ。あの子はまだ十三の子ども。幼く、そして弱いただの子どもなのだ。それを貴方は叩き潰し、突き放し、あの子から信頼という名の絆を取り払った! それがどういう事か、恥を知れ三神恭介っ!!」
 生半可な覚悟では到底、この夷月という男の前に立っていられないだろう。恭介にしてみても、圧されるのをやっとのことで堪えた。言葉を探す必要はなかった。身体の芯から湧き上がってくる。
「おれはあんたの言う通り、やり方なんて、梨紅の気持ちなんて考えずに突き放した。その事については、全部おれの責任で悪いのもおれだ。けど、けどな、」
 今度は恭介が圧す番だ。
「だからこそおれが迎えに来たんだ。梨紅に謝るためにここに来たんだ。夷月さん、邪魔するなら力づくでもおれは先に進むぞ」
 夷月は何も言わなかった。だが道を空けるつもりは毛頭ないようだ。
 橋の中央から、恭介が一歩踏み出し、そして夷月は言う。
「貴方がここより先に進んでも、村に辿りつくのはまず不可能。それ以前に、私相手に力づくで対向しようなど愚の骨頂」
「御託はいいんだ。退かないって言うならそうするまでだ」
 歩みを止めない。恭介は進み続ける。
 夷月が杖を捨てる。
「ここより先は神聖なる氷狼山。人間の立ち入りを拒む自然だ。それを守るのが、新月村の長、無上夷月の役目。梨紅を助けて頂いた恩があったので、危害は加えたくなかったのですが仕方がない」
 姿勢を低くして獲物、つまり恭介に狙いを定める。人間の姿といえど、夷月は紛れもない正当な狼狗の血を受け継ぐ一族の中の一人。人間である恭介が勝てる保証は限り無く少ない、しかしそれでも、恭介は退かない、橋を歩くのを止めない。この先に梨紅がいる、恭介を突き進めるのはそれだけで十分だった。
「――参る」
 夷月の声が聞こえ、それと同時に恭介の視界から夷月の姿が消える。辺りの風が切り裂かれる音だけが響き、肉眼でその姿を捕らえるのはまず不可能だった。これが、狼狗が本当の姿を開放した時の運動能力、常識を軽く超越している。風を切り裂く音は、背後から聞こえたり左右、はたまた上とばらばらで一定のパターンすらない。いつ飛びかかられても恭介に対処できるとは到底思えない。
 つまり、賭けに出るしかないのだ。恭介は走り出す。夷月が獲物を仕留めるのが先か、恭介が異世界に飛び込むのが先か、狼狗と人間の追いかけっこだ。力の限り走って橋がもう終ると思い始めた瞬間、背中に風を感じた。反射的に振り返り、そこに襲い掛かる夷月を見た。
 駄目だ間に合わない、そう思った刹那。


「やめてっ!!」


 夷月が瞬間で止まって風が止み、恭介はその反動で後ろに吹き飛ばされる。数回地面を転がった所で、恭介は頬に砂を感じた。体勢を立て直して辺りを見れば、夷月は橋の最高峰に立っていて、それから三歩離れた所に、氷狼山の入り口に恭介は立っていた。
 そして、森の奥に彼女がいた。
 恭介と視線を合わせず、その向こうの夷月を見たままで、梨紅は氷狼山の入り口に立っていた。
 たまらず恭介は立ち上がるが、いざとなって言葉が消える。梨紅を見るが、やはり恭介を見てはいない。
 後ろから夷月の声が通り越す。
「村に、先に帰っておきなさいと言ったはずですよね?」
 振り向くと、夷月は元通りになっていた。安堵するなんてことはなかった。
「ごめんなさい。でも……」
 また前を向く。それでも梨紅はこちらを見てはいない。
 恭介は拳を握り、意を決した。
「……梨紅、」
 やっと、彼女は恭介を見つめた。そして、恭介が何を言うよりも早くに梨紅は言う。
「どうして、来たの?」
 今度は、梨紅が突き放す番だった。
 恭介は石になる。
 そんな恭介にもう一度、梨紅は言う。
「どうして来たの?」
 答えられなかった。
 当然の報いだと心のどこかで思う。勝手に突き放して勝手に迎えに来て、都合が良過ぎる。だがそれでも、恭介はここにいる。梨紅に言わなければならないことがある。それを、伝えにおれはここにいるんだ。
「悪かった、ごめん梨紅」
 少し前にもこんな事を言ったような気がする。が、今回は場合が違い、こんな軽い言葉では何も解決しない。
 恭介は一人笑う。
「おれが悪かったんだよな……はは、何がごめんなさいだよバカ。謝る必要は、お前にはないだろう。謝るのはおれの方だ」
 笑みを打ち消す。梨紅の瞳を見据える、
「すまなかった梨紅。確かにおれはお前に酷いことを言ったし、突き放した。今更こんなこと言って許されるとかは毛頭思っちゃいないし、調子良過ぎると自分でも思う。けどな、梨紅。これだけは言わせてくれ……」
 父は言った。『お前にとって、梨紅という少女は、どういう存在だ?』と。あの時は恭介は逃げ出した。それでも、心の中にはその問の返答は確かに存在した。それを言葉にする勇気があの時の恭介にはなかったが、今は違う。この心の中の想いを、ちゃんと言葉にするだけの勇気はある。想いを、目の前の梨紅というという小さな少女に伝えれるだけの勇気はあるし、しなければならない。それがどういう結果を導こうとも、そうしなければ二人は前には進めない。前に進むため、もう一度ふたりの物語をはじめるためには、それが必要なのだ。
 恭介にとって、梨紅という少女は何なのか。恋愛対象にするには少し早い、妹は欲しいと思ったがそれとは違う。梨紅は、恭介にとって、そう。
「おれにとって梨紅は、大切な存在なんだ。いなくちゃならない『人』なんだ」
 梨紅の肩がぴくりと震える。
「だから、おれはお前を連れ戻しにきた。もう一度、はじめさせてくれないか?」
 彼女は、何も言わなかった。合わせていた視線を外し、俯いてしまう。
 恭介は続ける、
「……都合、良過ぎか? やっぱり、甘いよな……」
「貴方に、その価値があるのですか?」
 答えたのは梨紅ではなく、後ろにいた夷月だった。恭介は振り返らずに視線を向けたままだが、その背中に夷月は言葉を掛ける。
「貴方には、そうするだけの価値があるのですか? それに、今貴方が踏み締めているその大地、それは氷狼山の大地です。貴方に、そこに立つだけの資格はあるのですか?」
 夷月の歩む音が聞こえる。
 恭介は答える。
「多分、ないんだろうな」
「それではなぜ貴方はそう言い切れるのです?」
「それはな、夷月さん」
 振り返る。その恭介の見せた笑顔に、夷月は少し戸惑う。
「おれは、梨紅が好きなんだ」
「それは、貴方の本心ですか?」
「ああ。嘘はない」
「そうですか」
 そうして、夷月は恭介の隣りを通り過ぎる。恭介はその姿を追う。そして夷月は歩み続け、梨紅の側にまで寄る。俯いたままでいる梨紅の肩にそっと手を置いて、独り言のように言う。その声が小さ過ぎて、恭介には完全には聞こえなかったが、多分、「君が望むようにしなさい」と言ったはずである。そして夷月は梨紅の肩から手を離し、その後ろに歩いて止まって梨紅の背中を見据える。
 それからしばらく、梨紅は動かなかった。俯いているので表情はわかないし、泣いているのかどうかさえわからない。だが、どうしてか恭介には、正確に梨紅の感情が理解できた。梨紅は今、泣いているんだろうなと思う。だから、恭介が先に言葉を掛けるのはやめた。梨紅から話してくれるまで、恭介はいつまでも待とうと思う。
 森の匂いを運ぶ風が三人を透り抜け、川の流れる音が包んでくれた。ここは、自然が自然のまま残る山。古くからの神話が生きている山。そして、狼狗の住むことができる神聖なる山、氷狼山。汚れを知らない高貴なる場所だ。
「――っても、いいの……?」
 梨紅は俯いたままつぶやくように恭介に問う。
「…………帰っても、いいの……?」
「ああ。あそこが、お前の家だろう?」
 表札に書かれた『梨紅』という名前。あれが何よりの証拠だった。あれが在る限り、梨紅はいつでもあそこに帰って来てもいいのだ。それもそのはずだ。あそこは、三神家の家族のための、三神伸明と三神笑子と、そしてもちろん恭介と梨紅の家で、帰るべき場所なのだ。
 梨紅は顔を上げる。涙が頬を伝うその瞳に、迷いはなかった。「……うん……うん……」そう何度も、恭介を見ながら肯いた。何度も何度も、帰るべき場所がどこか探すために、梨紅は肯き続けた。
 恭介が一歩歩み出すと同時に、梨紅は走り出す。
 すぐに距離が縮まって、梨紅は恭介の胸に抱き付く、そして、
「きょうすけ……っ、きょうすけ……っ!」
「……お前、初めておれのこと名前で呼んだな……」
 微かに瞳が涙で濡れる顔で、恭介は胸で自分の名前を呼びながら泣き続ける梨紅を抱き締めて微笑む。
 物語がはじまるのだ。一度は終りかけた物語がまたはじまる。
 ここから、はじまる。
 ここは、自然が自然のまま残る、澄んだ川と綺麗な緑の包まれた、頂上には年中雪が残る、神話が生きてる、狼狗が住む神聖な、汚れを知らない高貴な山、氷狼山。
 ここから、新たな物語が、はじまるのだ。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「まんげつはきらい 〜エピローグ〜」



 まず、言っておかねばならない事がある。
 三神梨紅は今現在、今まではしていなかったアクセサリーを身に付けている。皮の紐と狼の牙で出来たチョーカーである。これは、あの日、三神恭介が梨紅を迎えに行った日に、夷月から渡された品物だ。どうしてそんな物を身に付けているのかと言えば、理由はちゃんとしている。梨紅は十三になっても身体の制御ができないため、恭介達と暮らせば命を早くに落とす危険せいがあったのだが、この狼の牙のチョーカーを身に付けていれば新月村に張られた結界と同等の能力を発揮するそうだ。それに加え、逆に望めばいつでも本当の姿に戻れると付け加えた。詳しい理由などは夷月も知らないと言う。結界もそうだが、長とはいえど無上夷月には知らないことはまだまだあるのだと。
 そして夷月は、恭介と梨紅を見送る際にこう言った。「たまにはこちらにも顔を出しなさい。梨緒も寂しがる」そう言い残して、夷月は氷狼山の入り口に姿を消してしまった。少し寂しそうにしていた梨紅だが、それでも元気に恭介に向かって言った。
「行こう!」どこに、とは言わなかった。決まっている、帰るべき場所にだ。


     ◎


 恭介が学校から帰ると、梨紅は父と一緒に居間にいた。
最近ではこの組み合わせも珍しくはない。それに、なぜか梨紅は父の無言の言葉を理解することができるのだ。例えば、テレビを見ていた父がふと梨紅に視線を送れば梨紅はすぐに新聞を手渡すし、食事中にも父が視線を向ければ梨紅は茶を入れる。これには母も驚いていた。天性の才能かしらと母は言うがどうしたものか。しかし梨紅は父だけには止まらず、母の無言の言葉まで理解してしまう。料理中に視線を向けられれば数ある調味料の中から目当ての物を当てるし、材料も的確に選ぶ。喋らなくてもいいから楽よねと母は言う。
 そして恭介の無言の言葉はと言うと、これが不思議な事に梨紅は全く理解しない。お茶、と視線を送ってもテレビを付けるし、卵、と送ってもなぜか上着を持ってくる。恭介は、これは梨紅のインボーではないかと考えている。ささやかな仕返しであるのだと思う。
 まあそんな事はここでは保留としよう。一番の問題なのは夜である。髪はどうしてか恭介が拭いてやるのが役目になっているし、寝るのもどうしてか必ず恭介のベットだ。一度梨紅に対して、そっちの布団で寝ればいいじゃないかと抗議してみれば、涙目で「きょうすけ、昨日はいいって言ったのに」と訴えられ、哀れ今夜も恭介は梨紅にベットを占領されてしまうのだった。
 しかし、そんな少し変わった時間が、恭介は途方もなく楽しいのだった。
 この時間が、このままずっと続くのだと恭介は信じている。
 信じれるのだ、梨紅と二人でなら。


     ◎


 今、恭介と梨紅はふたり揃って近くの公園に来ていた。
 時刻はもう深夜に近く、辺りに人の気配はない。そんな公園に男女がくる、ということはもしや如何わしい行為をしようとしていると思うかもしれないが、このふたりに限ってまずそんなことは有り得ない。恭介はともかくとして、梨紅がそんなことを思うはずがないのだ。
 では何をしに来ているのかと言えば、天体観測である。この公園は無駄に広く、大きな木もなければ辺りに家もないので、無限に広がる夜空をしっかりと視界に収めることができる。満天に輝く星の夜空の下で、恭介と梨紅はベンチに座った。天を仰ぐ。星座を探してみるが、生憎そっちの知識は全くないのでどれもこれも一緒にしか見えなかった。
 そして、ふと目に止まる。無数に輝く星の中で一際大きく光を放ち、他の星より大きい惑星。
 今日は、満月だった。
 不安になって隣りの梨紅に視線を送るが、しかしそこにはいつも通りの梨紅がいて、首に狼の牙のチョーカーを身に付けていて、頭に付いた猫のようで狼の耳が可愛らしかった。恭介の視線に気付いた梨紅は、不思議に思って恭介を眺め返す。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ。それより、今日は星がキレイだな……」
 また天を仰ぐ。それに習って梨紅も夜空を見上げた。どこからか虫の鳴き声が聞こえる。小さな小さなオーケストラによる合唱会だ。
 そんな合唱に合わせるようにして、梨紅は言う。
「……まんげつはきらい」
「ん?」
 しばし、梨紅は無言だった。だがやがて、でも、と続けた。
「今はすき。だって、きょうすけと一緒に見ていられるから」
 ぽかり、と恭介が梨紅の頭を叩く。
「ぁぅっ」
 頭を押さえた梨紅は、微かな涙目で恭介を見る。その視線を、真向から恭介は受け止める。
「この際だ、お前に言っておくことがある」
 何が何だかわからない、とでも言いたげな表情を梨紅は見せる。
 しかしそんなことなどお構いなしに、恭介は梨紅の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
「どうしてお前はおれを呼び捨てにする? 目上の人には敬吾を使えって習っただろう。しかも呼び捨てはおれだけだ。母さんを笑子さん、父さんのことは……そういえばお前って父さんのことなんて呼んでるんだ? まあいい、それに挙げ句の果てには慎治に至っては慎治くん。なのに、どうして、おれだけ呼び捨てなんだよ?」
 また頭をぐしゃぐしゃ。そしてイヤイヤをするように梨紅は首を振って恭介の手を振り払う。
 じっと、梨紅は恭介を見て、やがて、
「だって、きょうすけはきょうすけだもん……」
 ぽかり。
 梨紅が泣き出しそうになる。そろそろやめておかなければややこしい事になる、と思った矢先、梨紅はいきなり立ち上がって恭介の背中に小さな拳の荒しを降らせる。
「うわっ、やめろバカ! ここ外だぞ!? ちょ、聞いて……わ、悪かった、悪かったって―――――!!」
 いつまで経っても、梨紅の小さな拳が止むことはなかった。



 そんなふたりを、夜空からやさしく照らす大きな満月。
 今日も、この満月に導かれ、新たな出会いをする人がいるのかもしれない。
 もし、満月の夜に出歩くことがあるのなら、新たな出会いを探してみてはどうだろうか。
 もしかしたら、楽しい出会いが待っているかもしれない。
 しかし、それはまた別の物語――。




     「おまけ 〜少女のインボー〜」




 楽しい生活を続けている恭介と梨紅とは裏腹に、ふたりの与り知らぬところで巨大なインボーが進行していた。
 三神家の家の前で、一人の少女が立っている。今日は日曜日で、時刻は昼の十二時きっかり。その少女は少し変わっていて、髪は白銀で、おまけに頭に猫のようなふわふわした白銀の耳も付いていた。これは、さっき家の前に着いた時に制御を止めたのだ。こっちの方が事情がわかりやすいだろうと彼女なりに気を遣ったのだった。
 表札に書かれた名前を確認する。三神伸明、笑子、そして恭介と梨紅。にやりと、少女は笑う。
 ここが、梨紅のいる家。思ってたより普通ね、と少女は思う。
 それでも、そっちの方が梨紅らしいとも思う。
 そして少女は、三神家のインターホンを押す。しばらくして中から騒々しい音が聞こえ始めた。「やめろ、おれが出るからお前は引っ込んでろって! まだ制御できてないだろ人に見られたどうすんだよ! は、なに? 誤魔化す? アホか! それやるのおれだぞ、おれの苦労考えろバカ!」、そんな声が聞こえて、やっとドアが開いた。
「どちら様です、か……あれ?」
 中から出てきた恭介は、はじめ誰もいないと思った。悪戯かと思った瞬間、思っていたよりもずっと下に彼女はいた。思わず言葉を失った。それもそのはずだ。その子の髪は白銀で、それに猫のような耳が付いていた。梨紅と同じだった。
 と、いうことはつまり、この子は、
「なに呆然としてんのよ。あなたが恭介? まあどうでもいいや。ねえ、それより梨紅いる?」
 突然自分の名前が呼ばれた事に驚いた梨紅が中からひょこりと頭を出して、いきなり、
「梨緒ちゃん!?」
「は〜い梨紅、久しぶり」
 少女は笑って手を振る。
「ど、どうして……梨緒ちゃんが……?」
「遊びに来たに決まってるでしょ。梨紅ったら最近ぜんぜんこっちに顔出さないんだもん、だからこっちから来た」
 話しに置いて行かれていた恭介が我に返った。
「ちょ、ちょっと待て! 君、だれ?」
 少女は腰に手を当てて胸を張り、恭介に高らかに宣言した。
「はじめまして。これからしばらくここにお世話になる梨緒です。よろしく!」
「…………………………………………………はあっ!?」


 そう、二人の与り知らぬところで、梨緒という少女の巨大なインボーが進行していたわけであるのだが、それはまた別のお話。



2004/03/02(Tue)19:31:47 公開 / 神夜
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■作者からのメッセージ
これで「まんげつはきらい」完です。今まで読んでくれた方々、感想くれた方々、本当にありがとうございます。
これからはその感想とご意見を生かし、もっといい小説を創っていきたいと思います。
新しい作品はまた少し早めに出せると思いますので、その時はまたよろしくです!
それでは!
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