- 『痣 ―前―』 作者:宇多崎 真智 / 未分類 未分類
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どこか遠いところから、私を呼ぶ声。
昏く、深く、重く……
それは私の身体を──意識の中から巻きつくように締め付けて、私の呼吸を奪う。思考を奪う。命を奪う……
自分を束縛する悪夢から逃れるべく、皐月は飛び起きた。
嫌な汗が、じっとりと身体を伝う。自分の心臓が、それ自体意思を持っているかのように飛び跳ねる。──まだ身体に、何かが締め付けられる感覚が残っているようだ。
「……また……あの夢……」
小袖で額の汗を拭う。深呼吸をすると、少し自分が戻ってきた。
「…………」
しかし、胸を締め付けるような圧迫感は消えない。皐月は恐る恐る小袖の帯を解くと、暗闇に浮かび上がった自身の白い腹を見た。
「大きく……なってる……」
皐月の目には、自身の腹から胸、胴体に巻きつく蛇の如く、肌を侵食する黒い痣が映っていた。
皐月にとって、あらゆる意味で蛇は天敵だった。皐月の母は、彼女を産んですぐに蛇の毒で命を落としたと言うし、彼女自身幼い頃には、大蛇に襲われたときの怪我で失明しかけた。
そして何より、皐月が巫女を務めるこの社、朱雀社(スザクノヤシロ)の守護神、朱雀神(スザクノカミ)にとっての天敵が、人々の陰の感情を糧とする、蛇神だった。
「皐月。どうした?」
巫女の日課の一つである、朝一番の祈り。皐月の動きが急に止まったのを見て、佑介は声を掛けた。
「……いや。何でもないよ?」
「顔色が悪い」
指摘すると、彼女は眉を顰(しか)めた。どうやら自覚はあるらしい。
「……本当に何でもないから。少し夢見が悪かっただけ」
「ならいいが……調子が悪いようだったら、うちの親父に言えよ」
佑介の家は、村に一つしかない医者である。先月十八になった彼は、医者に必要な精神を養うため、この社で三ヶ月程生活することになった。その世話係となったのが、幼馴染みで生まれたときからここで暮らしている皐月である。
「ご心配なく。私よりも佑介の方が、そろそろ参ってるんじゃないのか?」
なんとなく勝ち誇ったような皐月の笑み。確かにここの生活は規制が多く耐え難いものがあるが、それを表に出すと立場が弱くなりそうなので、そんな思いは微塵も見せずに言った。
「そうだな。確かに三月も博打ができないのは参る。禁欲生活も長いしな、周りは女ばかりなのに」
思ったとおり、上に馬鹿が付くほど真面目な皐月は顔色を変えた。
「……っ……お前、そういう不埒なことを……!」
「悪いか。こちとら健康な青少年だ」
「変態だ。変態がここにいるッ!」
皐月が頭を抱えてうずくまる。期待以上の反応だ。
「……『変態』は少し傷付くな」
「知るかっ! それに博打なんてやってたのか、佑介!」
今にも噛み付かんばかりの勢いで攻められる。
「なぁに、嗜(たしな)み程度に」
「医者の息子がそんなもの嗜むな!」
「教えたのは親父だ」
「ああもう、何考えてるんだ……!」
皐月が再びうずくまる。彼女の負けだ。
「お、顔色も良くなったな」
「……頭に血が昇っているだけってこと位、分かってるんだろう」
「もちろん。さて、そろそろ飯にしよう」
「その前に禊(みそぎ)をしろ、禊を!」
佑介はうずくまった皐月の脇に腕を入れ、立ち上がらせた。医者の目で彼女を見つめる。
「な、何を……」
さらに血色を良くして、皐月は怯んだ声をあげる。
「……触診」
同時に肩や腰、腹を触ると、無言で顎に拳を喰らった。てっきり固まっているかと思っていたので、不意打ちだった。
「変態!」
「医者を変態呼ばわりするか、お前……」
しかし先ほどは少し苛めすぎたかと思ったので、それ以上は彼女を責めなかった。代わりに、言う。
「皐月。お前も気付いてるだろうが、胴の辺りに悪いものを感じる。……気を付けろ」
途端、皐月の表情が強張った。
「……皐月?」
声を掛けると、はっとしたように身体を震わせる。
「大丈夫か?」
「大丈夫。
……禊に行ってくる」
彼女の様子に釈然としないものを感じながらも、佑介は皐月の後ろ姿を見送った。
パシャリ。
水桶に冷水を満たし、頭からそれを被る。何もかもを白く、清く、堅く感じられる瞬間。
皐月は水に濡れて肌に張り付き、肌を透かす小袖を見た。
──胴を蝕む、黒い痣。
(佑介にも、気付かれた)
まさか彼に気付かれるとは思っていなかった。前から医者よりもそういう方面に適性があるとは思っていたが。
(悪いモノ、か)
(これが全身を蝕んだら、私はどうなるのだろう……)
現実味のある想像だった。全身が黒い痣で埋め尽くされ、蛇に絞められるように苦しんで死んでゆく自分の姿が、容易に思い浮かべられる。
皐月はもう一度、頭から冷水を浴びた。
禊を終えて袴に着替え、皐月は社の奥の部屋へと赴いた。そこには皐月の育ての親にしてこの社の大巫女、卯伊がいる。
「……皐月か。どうした」
襖の前に立つと、しゃがれた声が返ってくる。皐月は膝を折り、そっと襖を開いた。
「卯伊さま……」
返ってきたのは、硬い声。
「……お前、どこの物の怪に憑かれてきおった。獣の匂いがする」
その言葉に、背筋が凍る。
今しがた禊を終えてきた自分の体から、この老婆は異臭を感じ取っている。やはり自分には何かが取り憑いているのか。
「卯伊さまっ!」
大きく襖を開け、彼女は部屋の中に足を踏み入れた。卯伊もそれを咎めはしない。
「これは一体……何なのですか」
帯を解き、腹に巻きついた蛇の痣を見せる。卯伊の目が大きく見開き、驚愕に震えた。
「……卯伊さま?」
「おお……おお……!
何ということ……! 呪いはまだ、消えてはいなかった……!」
「呪い……?」
背筋に薄ら寒いものを覚え、皐月は無意識に自身の腕を抱く。
卯伊は重々しく、言葉を搾り出した。
「蛇神の……呪いよ……」
痣が、獲物の息の根を止める蛇の如く、身体を締め付けたような気がした。同時に脳裏に浮かんだのは、大蛇に締め付けられ、肺に空気を送ることもできず死んでゆく自分の姿。
「……そこに座れ。教えよう、十八年前のことを……」
何かを飲み込むような卯伊の声は、皐月にとって死罪宣告にも聞こえた。
「この十七年間、誰もがお前の父は戦で亡くなり、母はお前を産んだ後すぐに蛇の毒に斃(たお)れたと教えてきただろう……」
「……はい。違うのですか?」
震える声で、尋ねる。
「お前の母の名は美登璃。
……朱雀神の巫女でありながら、邪神蛇神の妻となった女だよ」
「……母が……蛇神の妻……?」
皐月の顔色が蒼白になるのを、卯伊は辛辣(しんらつ)な思いで見やった。
亡くなった皐月の母が、生前彼女と同じようにこの社で巫女をしていたことは、皐月も知っているだろう。だが、十八年前、美登璃が彼女を身篭った経緯──それを知っているのは、卯伊を含めて何人もいない。
「じゃあ……じゃあ……っ、私の父は……」
──なんと不幸な娘。
「そう……お前の父は、他でもない、蛇神じゃ」
「あ……ああ……」
皐月の身体から力が抜け、表情が消えていく。
「お前の母親、美登璃は、朱雀神に背いたわけではない。この地に罹(かか)った蛇神の呪いを、蛇神と交わることでその身に閉じ込めたのだ」
皐月は、言葉も無い。俯いて、虚ろな眼差しで畳を見つめている。老婆は、自分の無力を呪った。
「――異類婚、というのを知っておるか」
つい、と力なく皐月の視線が動く。卯伊は小さく頷いた。
古来より、人が人以外のモノと婚姻し、子を授かることを異類婚という。女の妖しが子を産めば、その子は類稀なる神力を持ち、家も栄える。
「しかし、人の娘が妖しの子を身篭れば……母体は激しく消耗する。子を産む前に狂い死にすることも、珍しくないという」
こうした異類婚――特に若い娘を人外のモノに『捧げる』慣しは、別段珍しくもない。所謂(いわゆる)『生贄』と呼ばれる、無力な人間の苦肉の策であった。
「美登璃は優れた巫女だったが……あやつの身体も、その呪いに耐え切れなかった。結果、お前を産むと同時に亡くなってしまったのだからね」
「なら──なぜ私もその時に殺して頂けなかったのですか! 忌まわしい蛇神の子を!」
皐月の悲痛な訴えに、卯伊は力なく首を振ることしかできなかった。
「……自身を犠牲にしてまでこの地を守った女の子を、どうして殺すことができようか……」
今でも忘れられない。皐月の産声を聞いた瞬間、微かに笑みを浮かべて……そのまま逝った女の貌(かお)を。
「……社の上層部では、お前を殺してしまおうという意見も出た。しかし……覚えてはいないだろうが、あれはお前が三つの年。
お前は他の巫女が踊っているところをたった一度見ただけで、朱雀神の舞を覚えてしまったのだ。その美しい舞で物の怪すら魅了したという巫女、花月の生まれ変りとも言われた。
……朱雀社の巫女は、お前しかいない」
「私──私は……」
「皐月。お前、年は幾つになる」
一見何の関係もない問いに、皐月は面食らったようだった。それでも、答える。
「あと一月ほどで、十八になります」
「一月…………一月か」
美登璃が彼女を産んだのは、丁度十八のときだった。おそらく──
「あと一月だ、皐月。一月の内に、呪いを解け。
おそらくお前が十八になるのと同時、蛇神の呪いはお前を殺すだろう」
「殺……す……」
皐月の呆然とした呟き。
「蛇神を消せなくとも、呪いは消せるかもしれぬ。早々に決断せい」
皐月はふらふらと立ち上がり、力なく襖まで歩いて行った。
「……少しだけ……時間を下さい……」
卯伊は、そんな彼女を何も言わず見送った。
皐月は渡り廊下を歩いていた。淡い朝日が視覚を刺激する。
(私は……蛇神の娘だったの? この身体には、穢れた血が流れているというの?)
考えても考えても、信じられなかった。理解できなかった。受け入れられなかった。
「私は……何なんだ……っ」
誰か教えて欲しい。
「……皐月。記憶力が低下したか」
部屋の前に辿り着いた時、聞き慣れた声が頭上から降ってきた。はっとして、顔を上げる。
「……佑介。いつからそこに」
「今来たところだ。様子が変だったし、朝食にも来てなかっただろう」
無感情な口調ではあるが、付き合いの長い皐月には、その中に心配の色があるのを感じ取った。だから、素直に謝る。
「心配かけてすまない。……何でもないから」
それだけ言って佑介の脇を通り抜け、自室へ入ろうとしたら、無言でそれを阻まれた。
「……何?」
「何が『何でもない』んだ。
その腹に巻きついてるモノは、何なんだよ」
反射的に、皐月は自身の腹に手をやった。
「見える……のか?」
「影だけな。それにお前の『気』が、いつもより格段に落ちてる」
そう言って佑介は右腕で、皐月の左肩──触れるか触れないかの所を撫でた。
「……弱い。とても弱い。
何があった、皐月。話してくれ」
皐月は迷う。もし本当の事を言ったら──佑介はどう思うだろう。私が蛇神の娘で、その父親に呪い殺されそうになっている、と言ったら。
……逃げる、だろうか。嫌うだろうか。どっちにしろ、幼馴染みを無くすことに変りはない。いつかは知られることかもしれないが――それは出来るだけ後回しにしたかった。
「──俺には言えない、か?」
呟いた声はどこか哀しそうで。皐月は首を横に振る。
「……佑介には、関係ない」
強引に腕を振り払うと、今度は強く肩を掴まれた。
「お前、このままだと……」
「いやぁっ!」
叫んで身を捩り、腕から逃れようとする。彼女の様子に異変を感じたのか、佑介は一瞬驚いたが大人しく手を放し、その代わり半ば強引に皐月の手を引いて部屋の中に入った。
「皐月、言ってくれ。それは何なんだ?」
「……本当の事を知ったら……きっと佑介は私から……離れていってしまう……」
肩を掴まれた瞬間感じた、締め付けるような恐怖。そうだ、私はこのままでは死ぬ。……ここには居られない。
「……何を言ってる。何年幼馴染みやってると思ってるんだ。今更ちょっとやそっとのことで、俺がお前から逃げるか」
ぺしん、と掌で軽く額を打たれる。
張っていた緊張の糸が、その言葉でぷつりと切れた。その場に崩れるように、へたり込む。
「……嫌……死にたくない……」
「お前やっぱり……何かの呪いに……」
佑介も膝をつき、視線を合わせる。
「私は蛇神の娘……蛇神の呪いは、母が死んだだけでは消えなかったんだ……」
「……蛇神……か」
佑介の反応に、皐月は顔を上げる。
「佑介。……驚かないのか?」
「何がだ」
「私が、蛇神の娘だということに!」
思わず声を荒げると、彼は少し困ったように微笑した。
「昔……親父に少しだけ聞いたことがあるんだ。お前のお袋さんとは幼馴染だったらしくてな。詳しいことは親父も知らなかったが……」
佑介の父親は、妻を早くに亡くしたやもめであった。母の幼馴染だということも知っている。子どもたちが兄妹同然に育ったこともあり、皐月の父親代わりと言っても過言ではない。
「お袋さんがお前の親父さんと結婚する直前、神隠しに遭って行方知れずになったことがあるらしい。すぐに戻って来たが、婚礼後間もなく親父さんは戦に駆り出されて戦死。おまけにお袋さんは、普通では考えられない位の早産だったそうだ。
……まあ、医者の端くれの親父としては、何かあると思っていたそうだ」
佑介は、皐月以上のことを知っていた。
彼女の無知は、卯伊が真実を知られぬよう取り計らってきたが故。しかし皐月は、自分がひどく情けなかった。
「佑介は……知っていたのか」
ぽつり、と呟く。
「……確信を持ったのは、今だ」
暫(しば)し沈黙が流れた。皐月は生まれて初めて、この兄妹同然の幼馴染の、次の言動を恐れていた。
「……他の誰が、何と言おうとな」
びくり。皐月は肩を震わせた。佑介はそんな彼女を慈しむように、頭に手を置く。
「皐月は、皐月だ」
堪える間もなく、皐月の目から涙が溢れた。
「大丈夫だ。大丈夫だから……」
皐月は迷子の子供の様に、泣き止む術を知らなかった。
思い切り泣いたら、幾らかすっきりした。皐月は糸の切れた操り人形の様に、壁に寄りかかっている。
佑介は皐月が泣き止むまでずっと部屋に居た。もう大丈夫だからと言うと、
「少し休め。それから考えよう」
そう言い残して仕事に戻った。食後の皿洗いは、彼の仕事だ。
今は何も考えられない。考えたくない。しかし眠ると、あの悪夢が追いかけてきそうで。
前を向くことも目を瞑ることもかなわず、皐月はずっと膝を抱えていた。
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2004/02/07(Sat)10:50:05 公開 / 宇多崎 真智
■この作品の著作権は宇多崎 真智さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
和風ファンタジー第2話です。たくさんのコメント有難うございました!全4話予定なので、1,2話分をまとめて前編とします。
作中に出てきた異類婚(いるいこん)は、民俗学の話です。古今東西(今?)昔話とかでは珍しくないパターンで、有名所としては安倍晴明などがそうです。
そして不思議に思った方もいらっしゃると思いますが、なぜ『巫女』が『結婚』できるかということ。それはこの社が修道院のような役割も果たしているためです。出家目的の者だけでなく、花嫁修業や行儀見習に来る者、親がなく社に預けられた者、そして卯伊さまのように神に身を捧げ、生涯をそこで過ごすという者もいるわけです。ちなみに女だけしかいない訳じゃありません。比率的には少ないけど、坊主もいます。
以上、本編では書ききれなかった補足でした。ここまで読んで下さって、ありがとうございました。