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『君のために…僕のために(1〜最終章)』 作者:柏原 純平 / 未分類 未分類
全角35551文字
容量71102 bytes
原稿用紙約131.2枚
 
 〜第1章〜 (木漏れ日のなかで)
  


 枯葉が舞い落ちる楡の木の並木道。

 通い慣れた午後の通学路。

 木漏れ日は、俯きながら歩く君の頬を黄金色に優しく照らす。

 僕は君の足元を気遣い、そっと肩を抱く。

 いつまで、この道を君と歩けるのだろう…。


 

 「おい、正樹。ちょっと来なさい」

 親父の呼ぶ声に僕は習いたてのギターを置き階段を下りる。

 「なに? なんか用?」

 親父は大学病院で外科部長をしている。

 いつも忙しくこんなに早く帰宅することは珍しい。

 「ここに、座りなさい」

 親父はリビングのゆったりとした鞣革のソファーに

 前かがみで座っている。

 この姿勢の持つ意味を僕は知っている。

 説教するとき、親父はいつもこのスタイルだ。

 僕の脳裏に、この前受けた模擬試験の、目も当てられない点数が

 鮮明に過ぎった。

 僕は覚悟し親父の前に座る。
 
 「ごめん、父さん。この間の模擬試…」と言いかけたとき

 「なあ、正樹。お前のクラスに橘 麻有美という娘がいるだろ」

 思いがけない親父の言葉に僕は仰天した。

 「橘 麻有美」は何を隠そう僕の最愛の彼女だ…

 しかし、厳格な両親のいる我が家ではそれは絶対にバレてはいけない

 僕のトップシークレットだ。

 「なんで、麻有美の…い、いや橘さんのことを?」

 どこで親父は聞きつけてきたのだろう。もしかして机の奥に隠してある

 彼女の手紙でも見付けられたのか…。

 「1週間ほど前にな、彼女が病院にきた」

 親父は前かがみだった姿勢をソファーの背もたれに預け腕を組んだ。

 「病院に? 何故?」

 麻有美が幼い頃から心臓が弱いということは知っていたが…。

 僕は親父の言葉から心配していたことよりも重大な状況を予感した。

 「うん…実はな」

 親父は躊躇しながら僕に視線を合わせず続けた。

 「彼女は心臓に重い障害があって、もう手遅れなんだよ…」

 手遅れ…? そんなまさか…だって…。

 親父は冗談を言わない人間だ。僕はすでに真実だと悟っている。

 僕は親父の言葉を遠い空の彼方からぼんやり聞いていた。

 「以前、お前の忘れた鞄を学校に届けたときな、父さんはうっかり

 落としてしまって中身をばら撒いてしまったんだ」

 僕はまだ遠い空に浮かんでいた…。

 「その時、お前の手帳が開いて可愛い女の子の写真がでてきた」

 僕は、ハッと我に返り親父を見詰めた。

 「彼女が診察室に入ってきたとき、父さんも驚いてしまってな…」

 やっとのことで口が開き、僕はか細い声で言った。

 「じゃあ、父さんはずっと知っていたんだね…彼女のこと」

 親父は背もたれからまた姿勢を前かがみに戻しながら言った。

 「お前ももう18だ。彼女の1人や2人いたって不思議じゃない」

 とっさに僕は言った。

 「じゃあ、彼女との交際を認めてくれるの?」

 親父は初めて僕に視線を合わし、暫くしてから言った。

 「彼女はいい娘だ」

 少しの間があった。

 「だがな、彼女は重い病を患っている。大きな発作が起きたらだぶん…」



 《麻有美の笑顔が…麻有美の怒った顔が…麻有美のはにかむ顔が…。

 『あたしがお嫁さんになってあげようか?』麻有美の声が…。

 そんな光景が浮かんでは消え、万華鏡のように美しい色彩に変わった。

 やがて美しい色彩は音も無く崩れ、暗黒の闇に閉ざされた》



 僕は身を乗り出し、初めて親父の手を握り、言葉を振り絞った。

 「父さんお願いだ! 彼女を助けてやって! どうか…おねがいだ…」

 親父は僕を引き寄せ5歳の頃の記憶以来に…抱いてくれた。

 「正樹。よく聞きなさい。父さんは全力で彼女を治療する。

 僅かな望みでも決して諦めたりしない。約束しよう」

 もう、何もいらない…叶うなら僕が代わりになってもいい…。

 「彼女は本来ならば、入院して安静にしていなければ

 いけないんだ。だが、ご両親と本人の強い希望でな…」

 僕は瞳から溢れ出る雫をどうすることもできずにいた。

 「彼女もお前もあと半年で高校を卒業だ。どうしても、高校だけは

 通いたいと…」

 僕は嗚咽が出ないよう堪えながら親父の言葉を待った。

 「学校側にはご両親が話して了解を得ている。しかし、何時何処で

 発作が起きるか分らない」

 親父は僕の髪をくしゃくしゃにしながら無理に微笑し言った。

 「いいか、正樹。彼女との時間を有意義に使え。

 彼女もお前との時間を大切にしたいと思っているはずだ」

 キッチンの隅で母さんが目を腫らし、鼻をかんでいた。

 
 
 〜第2章〜(約束)



 「ねえ、マー君」

 麻有美は僕をそう呼ぶ。

 「今度の土曜日さ、映画見に行こうよ」

 並木道が終わり、商店街に出たところだ。

 「ああ、いいよ。どんな映画?」

 麻有美は前から見たかった映画のことを夢中になって説明している。

 「そんなに詳しいなら見なくてもいいんじゃない?」

 僕はわざと意地悪にいう。

 「だって、予告編しか見てないんだもん。本編、見たいよ〜」

 悲しいラブストーリーはごめんだ。僕にはとても耐えられない。

 「ねえ、いいでしょ? あたしがおごるからさ! ね?」

 僕は仕方なく肯いた。これからの時間は全て麻有美のために

 使うと誓ったのだから…。

 「やった〜! マー君大好き!約束だよ!」

 麻有美は明るくはしゃいで僕の腕に絡んでくる。

 「おい、あまりはしゃぐなよ」

 僕は常に麻有美の体を案じている。少しの油断もできないからだ。

 「は〜い。ごめんなさい…」

 麻有美は伏目がちに僕の機嫌を伺う。

 「いいかい、麻有美。僕はいつでも君の傍にいる。どんな時もだ」

 麻有美は伏せていた瞳を大きく開き微笑した。

 「だから、心配しないでいい。大丈夫だ」

 語りかける言葉を慎重に選びながら言った。

 傍目から見れば、どこにでもいる高校生のカップルだろう。

 僕はそうであって欲しいと、心から願っていた。

 

 
 麻有美を家まで送ったあと、帰宅の道でいつも寄る小さな公園がある。

 秋も深い夕暮れ時の公園は無邪気に遊ぶ子供達の姿も無く

 いつものように、ぶらんこが風に揺れている。

 僕は揺れているぶらんこを摑まえ、ゆっくりと漕いでみる。

 夕焼けに紅く染まる地平線と暗くなりはじめた空が

 交互に上下する。

 僕は毎日、麻有美と過ごした記憶をぶらんこの揺れに合わせ

 しっかりと脳裏に焼き付ける。

 自然に目頭の奥から暖かい雫が溢れてくる。

 ぶらんこの揺れはその雫をそっと拭いてくれる。
 
 「今度の土曜日か… 」

 僕と麻有美にとって確実な今度なんてありはしない。

 今この瞬間でさえ、不安は心から離れない。

 一頻りぶらんこに揺られたあと僕は家路に着く。

 ちょうど雫が枯れ果てた頃に。


 
 それから、3日が過ぎ土曜日になった。

 僕は麻有美を連れ、小綺麗な映画館にいた。

 「ポップコーン買って来たぞ」

 まだ始まらない映画の上映を待っている麻有美に言った。

 「もう、そんなの食べながら観る映画じゃないのに〜」

 麻有美は口を尖らせている。

 「だって、映画にはポップコーンだろ?やっぱ」

 僕はバケツほどもある大きなポップコーンのカップを

 麻有美の膝に置き、おどけてみせた。
  
 「こんなのボリボリ食べてたら、うるさいし気になるでしょ〜」

 そう言いながら、ポップコーンはもうすでに麻有美の口に入っている。

 「あら? 意外とおいしいわね。これ」

 笑いながら食べる麻有美に僕は一瞬、常に付きまとう不安を忘れた。 
 
 映画は悲しいラブストーリーで、麻有美は人目をはばからず大いに

 泣き、そしてポップコーンを頬張っていた。

 僕は映画に感情移入しまいと頑張っていたが、不覚にもまた雫が溢れて

 しまい、それを麻有美に見られまいと必死に平静を装った。

 こんな時間が僕達にはこの上ない幸せだった。

 

 帰りは麻有美の体を気遣いタクシーを拾った。

 土曜の夕方、地下鉄では麻有美が座れる席を確保できないからだ。

 「いい映画だったね。もう感動!」

 麻有美は僕の腕を抱き、そして肩にもたれ掛かる。

 「う〜ん…まあまあだったかな?」

 僕は本心を曝け出さずに言った。

 「ねえ…。 泣いてたでしょ?」

 ドキっとした僕の顔を覗き込み麻有美は微笑している。

 僕は返事をしないで窓を流れる街並みを見ているふりをする。

 「あのさ、1つお願いがあるんだけど…いいかな?」

 麻有美が言い難そうに囁いた。

 「なんなりと、どうぞ」

 本心を見透かされた照れと、麻有美の望みならなんでも叶えて

 やると決めていた僕だったのでそう答えた。

 「じゃあさ、今夜は一緒にいたい。いいでしょ?おねがい!」

 僕は動揺を隠すことも忘れ、ただうろたえてしまった。

 「それは…ちと、ま…まずいんじゃないかと…」

 「なによ…。 さっきなんでも言うこときくっていったでしょ!」

 麻有美は思いつめた表情で僕を見詰める。

 「どうしたんだよ? いったい…いつもの麻有美じゃないぞ」

 有無を言わせぬ態度で麻有美は言った。

 「あたし、もう時間が無いの… だから…お願い」

 凍りついた僕の体はもう身動きが出来ない。

 僕はやっと息をし、そして言った。
 
 「わかった。今夜はずっと一緒にいよう」

 麻有美は泣きそうな顔で僕に抱きついてきた。

 僕はこんなときでも麻有美を心配している。

 「おい、あまり感情的になるな。落ち着け!冷静に!」

 親父の話では興奮したり走ったりとにかく心拍数のあがることは

 避けなければいけないということだったからだ。

 なにげに聞いていた運転手が、ぶっきらぼうに言った。

 「お客さん。この先ホテル街ですけど、どうしますか?」 
 
 僕は反射的に答えていた。

 「赤坂プリンスホテルにお願いします」

 麻有美をこんな繁華街の場末のホテルに連れて行くわけにはいかない。

 僕はいつ緊急事態になるかわからない麻有美のため、

 常にある程度のお金は持っている。

 まさか、こんなことに使うとは思いもよらなかったが…

 

 
 東京の夜景がこんなに綺麗なものだとは今まで知らなかった。

 僕達はホテルの窓から、幾重にも広がる大都市の

 光々とした鼓動と首都高速を流れる光の帯を眺めていた。



 「ありがと…マー君」



 僕達は愛し合った。

 これ以上ない緊張のなか細心の注意を払い

 ほとばしる愛の慟哭を慎重に心へ刻んだ。

 僕の腕枕で愛しく寝息をたてる麻有美。

 小さな息遣いに運命の非情さを呪う。



 「マー君…」

 「ん…なんだ寝ていたんじゃないのか?」

 「あのさ…」

 「なんだよ、言ってみな」

 「うん…あたしを……あたしを忘れないでね」

 僕は込み上げてくるものを必死に耐えた。

 「麻有美は僕の嫁さんになってくれるんだろ?

 なんでそんなこと言うんだ」

 「あたしも、ずっとマー君と一緒にいたいよ…でもさ」

 僕は麻有美の細い肩を引き寄せ、きつく抱いた…。

 「心配しないでいい。僕はずっと一緒にいる」

 麻有美のしなやかな指が僕の背中を掴んでいる。

 「僕は医者になる。親父よりも凄腕の医者にだ。麻有美の

 病気なんて僕が簡単に治してやる。絶対だ。約束する」

 「マー君…あたし怖いんだよ。死ぬのが怖いんじゃない…

 マー君があたしを忘れちゃうのが…怖いんだよ」

 僕は震えだした自分の声を抑えることが出来なくなっていた。

 「麻有美…僕は約束する。君を1人にはしないし、病気も

 必ず治してみせる。だから… だからもう怖くなんてないんだ」

 その夜、僕達はお互いの体温を確かめ合いながら

 浅い眠りにまどろんでいた。


                                   
 〜第3章〜 (可能性)




 「父さん話があるんだ」

 僕は親父の病院に行き、オフィスを訪ねた。

 「正樹か、どうした…麻有美さんのことだな」

 以前、麻有美の病気は一流の心臓外科医が手術しても

 成功確率は限りなくゼロに近いと聞いていた。

 でも、ゼロではない。0コンマいくつかは

 可能性があるということだ。

 「父さん。麻有美の手術してやってくれないか」

 親父はなにやらカルテでも書いていたのか

 その手を休め、振り返り言った。

 「なあ、正樹。父さんは医者だ」

 そういうと西日が差す窓に歩み寄り

 ブラインドを閉めながら続けた。

 「医者である以上、患者の治療に全力を尽くす」

 それは以前にも約束してくれた。

 親父はどんな患者にも手を抜くようなことはしない。

 「彼女の心臓は手術できない。死期を早めるだけだ」

 「でも、父さんは言ったはずだ。確率はゼロではないって」

 親父は憔悴しきった表情で大きな肘掛のついた椅子に座って言った。

 「父さんは心臓外科医だ。世間じゃ一流と言われてもいる。だが

 父さんにも彼女の手術は出来ない。危険すぎるんだ」

 僕は諦めなかった。

 「どっちみち放っておけば彼女は死んでしまう。僕は約束したんだ。

 絶対に治してやるって。」

 僕は悲鳴に近い声で捲し立てた。

 「僕は医者になる!父さんより凄腕の一流な医者になってみせる。

 だけど…それまで麻有美は…麻有美は生きていられるか分らない!」

 親父は立ち上がりキャビネットから

 1枚のレントゲン写真を取り出した。

 「これを見なさい。彼女の心臓だ。」

 「そんな物僕に見せていいの?」

 「本当は他人に見せたりする物じゃないが

 お前は彼女にとって他人ではないだろ」

 そう言って写真を蛍光パネルに貼った。

 それはまるで、どこにでもある

 ありきたりのレントゲン写真に見えた。

 「いまのお前に説明しても理解できないと思うが…」

 親父は理路整然に彼女の病状と

 何故手術ができないかを詳しく説明してくれた。

 幼い頃から当然のように外科医を志していた僕には

 親父の説明は十分理解できる。

 遠くから救急車のサイレンの音が近づいてくる。

 サイレンは僕のぽっかり空いた心にこだましている。

 「やっぱり、無理なんだね…」

 僕はやり切れない思いに胸が張り裂けそうになった。

 親父がキャビネットに写真を戻している時

 ドアがノックされ、同時に若い研修医が血相を変えて入ってきた。

 「先生!大変です!すぐ来てください。」

 「何事だ?村松君…」

 研修医は無精髭を生やし、白衣もヨレヨレで

 見るからに「ヤブ医者」という風貌だ。

 「とっ、とにかく、来てください!私では手に負えません」

 恐らくさっきの救急車で運ばれてきた

 交通事故かなにかの急患だろう。

 親父は休みの日でもこういった重症の急患のため

 たとえ家族旅行の最中であってもよく駆り出されていた。

 幼い頃の僕は、そんな親父に罵声のような文句を言ったものだ。

 「わかった。すぐに行く」

 「お願いします!第2オペ室です。クランケは

 若い女性で心臓発作を起こしています」

 僕は凍りついた。

 「村松君!そのクランケの名は?」

 親父がとっさに言った。

 「はい…え〜と西田 洋子 年齢21歳 動脈瘤による…」

 「わかった。君は先に行って緊急オペの準備を」

 そう言うと親父はチラッと僕を見て白衣を羽織った。

 「安心したか?」

 僕はすでに安堵の溜息を漏らしていた。

 「だがな、彼女にも愛する人がいるだろう

 お前のように彼女を心から愛している人も…」

 そう言うと僕の髪をクシャクシャとやり

 急ぎ足で親父は出て行った。

 僕はオフィスに取り残され、呆然とした。

 そして他人の名を聞いた時

 『良かった』と思った自分を恥じた。

 

 ふと、デスクのパソコンが起動したままなことに気がついた。

 病院内のコンピューターは普段パスワードがないと起動できない。

 僕は罪悪感にかられながらも、麻有美のデータを検索した。

 身体データや治療課程など、詳しい内容が羅列されている。

 しばらく病状の推移が書かれているページを見ていた。

 すると特記事項の部分に思わぬことが書いてあった。



 《移植は可能。しかし本人の意思でこれを拒否》



 僕は自分の目を疑った。

 親父からは麻有美の場合、移植は不可能と聞かされていたからだ。

 麻有美の体力が持たないことと

 特異な体質で適応できるドナーがいないと…。

 「助かる可能性があるじゃないか!」

 僕は喜びと共に複雑な心境に苛まされた。

 何故、麻有美は移植の拒否を?

 僕は病院を後にし、麻有美の家にバイクを飛ばした。

 「どうして…なんでだ!」

 ヘルメットのバイザー越しに映るいつもの並木道。

 僕はスロットルを大きく開ける。

 突然、対向車線の車がガードレールに接触し

 こちらの方に突っ込んできた。

 僕は回避しようと頑張ったが、無駄に終わった。

 正面衝突した僕とバイクはまるで人形を放りだしたように

 宙を舞った。走馬灯のようにとはよく言うが

 本当に記憶がぐるぐる回った。

 そして麻有美の笑顔を最後に地面に叩きつけられ

 そのまま、深い闇の中に落ちていった。






  
 〜第4章〜 (君がいなければ…)







 小高い丘の上から少年が駆け下りてくる。

 ちいさな手には色とりどりの花束を抱えている。

 少年は僕に駆け寄るとその花束を差し出した。

 僕は丁寧にお礼を言って花束を受け取った。

 少年は満面の笑顔で丘に走り出し、振り向いて大きく手を振った。

 僕も手を振り返し少年を見送る。

 小さくなっていくその背には、純白の翼が輝いていた。






 「正樹!気が付いたのね?」

 母さんの声だ…。

 「心配したのよ!まったくもう…」

 僕の手を握り、母さんは涙ぐんだ笑顔で言った。

 そして思い出したように

 ナースコールを押しながら言った。

 「503号室の蘇我です。息子の意識が戻りました。
 
 主人を呼んで下さい。お願いします」

 どうやらここは親父の病院らしい…。

 体を起こそうとしたが、少し動いただけで

 全身をバットで殴られたような痛みが走る。

 「母さん…僕はどうなったの?」

 母さんは少ししかめっ面をして言った。

 「もう大変だったのよ。車とぶつかって、大怪我して」

 そして急に怪訝そうに言った。

 「正樹…あなた覚えてないの?」

 僕は全部覚えていた。地面に叩きつけられる瞬間まで。

 そうだ!麻有美…。 麻有美は?

 「母さん僕は大丈夫だよ。ほら!」

 と言って起き上がろうとしたが無理だった。

 そして僕は体中に巻かれている包帯と

 あちこちに付いているコードや管に気が付き驚いた。

 「思ったより元気そうだな」

 親父が看護婦と一緒にやってきた。

 「どうだ、2日ぶりに目覚めた感想は?」

 僕は2日も寝ていたのか…。 麻有美は大丈夫だろうか…。

 「どれ」
  
 と言って、僕の手足の指や瞳孔、それに

 意識や感覚を念入りに調べた。

 母さんが心配そうに見守っている。

 「うん…大丈夫だ」

 母さんがホッと溜息をついた。

 「お前は運がいい。脳震盪と全身打撲

 それに鎖骨と肋骨の骨折だ。打ち所が悪ければ即死だったんだぞ」

 親父はそう言うと看護婦になにか指示を出した。

 看護婦は僕にまとわり付いていたコード類や透明な管を

 テキパキと外してくれた。

 最後に点滴を取替え軽く会釈をし出て行った。

 「いいか、正樹。これから1週間は安静にしてなきゃいかん」

 親父は手を腰にあて厳しい口調で言った。

 僕は黙って肯いた。

 「それとな、彼女には父さんから連絡しておいた」

 思いがけない親父の言葉に、僕は全身の痛みを忘れた。

 「明日から検査を兼ねて彼女も入院することになった」

 親父は含み笑いをしながら続けた。

 「さすがに同じ部屋という訳にはいかんがな」

 「ありがとう。父さん」

 僕は笑顔を取繕ってみせたが、内心は複雑だった。

 こんな無様な姿を麻有美に見せたくは無い。

 でも、麻有美には一刻も早く逢いたい。

 それに…。

 「父さん。2人だけで話がしたいんだ。今すぐに」

 親父は母さんと目を合わせた。母さんはうなずいて

 男同士の話に遠慮し、部屋を出て行った。

 「僕は謝らなければいけない。1つはこんな怪我をしたこと」

 僕は少し間をおいて言った。

 「もう1つは父さんのパソコンを勝手に見たことを」

 親父は見舞い客用の椅子に座り黙って聞いている。

 「麻有美を助けたいんだ。どうしても」

 僕は体を起こして話そうとしたがやっぱり無理だった。

 「心臓移植。できるんでしょ?」

 父さんは難しい表情で口を開いた。

 「うむ…移植は可能だ。だが…」

 「じゃあ、なんで?」

 「父さんは彼女の意思を尊重した。彼女のご両親も理解されている」

 「そんな…そんなことって…あんまりだ」

 親父は足を組みなおし、腕を組んで言った。

 「彼女は体質的にアレルギー反応が強い。つまり他人の心臓では

 生体間移植をしても拒絶反応でショック死する可能性が高い」

 僕を子供扱いしないでまじめに説明してくれる親父に感謝した。

 ≪だけど…≫

 「それなら、僕の心臓を麻有美に…きっと僕の心臓なら!」

 僕は心からそう思った。

 「馬鹿なことを言うもんじゃない!」

 親父は目を見開き僕を睨んだ。

 「誰の心臓でも同じだ。お前がいくら彼女を好きでも

 彼女がいくらお前を愛していても…適合性に関係は無い」

 更に語気が強くなった。

 「お前は父さんの子供だ。生きている自分の子の心臓を

 他人にくれてやる親がどこにいるか!」

 そしてなだめるように優しく言った。

 「仮にそんなことをして、彼女が受け入れると思っているのか?

 お前には彼女の分まで生きる義務がある」

 親父が正しい。僕が馬鹿だった…。

 だけど、僕には麻有美のいない人生なんて考えられない。

 麻有美がいなければ生きていけない。

 だったら、僕の心臓を麻有美にあげて僕が死んでも…。

 それで麻有美が助からなくても同じじゃないか…。

 それに麻有美の分まで生きる義務なんて僕には重過ぎる…。

 親父の言うように、生きている僕の心臓を移植できるはずもない。

 それならば、あの事故で死んでしまえばよかった…。

 「なあ、正樹。お前が何を考えているか父さんには分るつもりだ」

 僕は痛む体を無視して上体を起こした。全身を激痛が襲う。

 「と…父さん、僕はどうしても麻有美を助けたい!」

 親父はゆっくり歩み寄り僕の肩を抱いた。

 「よく聞きなさい」

 そして、僕のベッドの端に腰掛けて言った。

 「仮に適合するドナーが見つかり、移植手術をしたとしても彼女の体力、

 体質を考えると成功確率は50%程度なんだ…」

 僕は痛むわき腹を堪えて言った。
 
 「でも、50%もあるじゃないか…今のままよりましだ」

 「それは彼女が決めることだ」

 確かにその通りだ。≪だけど…≫

 麻有美が移植を拒否する理由を僕は聞いていない。

 「父さんは麻有美が拒否した理由を知っているんだろ?」

 唐突に僕が言った。

 「父さんにも理由は言わなかった。だが、仮に知っていたとしても

 父さんからは教えられない」

 僕は俯いたままうなずいた。

 「お前にも話していないのなら、きっと話したくない訳があるんだろう」

 親父は起き上がった僕の上体を、そっと元に戻し言った。

 「とにかく今は安静にしてることだ。あのまま昏睡状態が続けば

 危ない状態だったんだ」

 僕は花束を抱えた純白の翼の少年を思い出した。

 「うん…わかったよ。いろいろありがとう、父さん」

 親父は軽く微笑し、部屋を出て行った。

 明日になれば麻有美に逢える…。

 きっと心配しているに違いない。

 立場が逆になってしまったな…。

 僕のことで体に影響がなければいいが…。

 さっき替えていった点滴のせいか、急に睡魔が襲ってきた。

 僕は知らない間に深い眠りに就いていた。






 〜第5章〜 (心)








 「ほら!ちゃんとあ〜んして」

 麻有美は怒っているとも笑っているとも形容しがたい表情で

 お粥をスプーンにのせ、僕の口に運んでいる。
 
 麻有美は検査のため2〜3日入院する。

 さっき手続きを済ませ、隣の個室に引っ越してきた。

 ちょうど昼食時だった為に僕の「介護ヘルパー」をやっている。

 母さんは麻有美の両親とぎこちないあいさつをして

 気を利かせたのか、一緒に買い物に出掛けた。



 「まったくもう…だからバイクは危ないって…」

 麻有美はせっせとお粥を僕の口に運びながら

 なにやらブツブツつぶやいている。

 「ちょ…もう…無理、食べられないよ」

 僕は懸命に麻有美の運ぶペースに合わせ

 必死に糊のようなお粥を飲み込んでいたが

 もう体が受け付けない。

 「なに言ってんの! ちゃんと全部食べなさい!」

 鬼のような形相だ…

 ここに来てからずっとこんな調子で機嫌が悪い。

 僕はもっと感動的な再会を予想していたのだが

 以外な展開に少々困惑していた。

 「だ…だけど、もう入らないんだよ〜無理です…」

 僕は哀願にちかい情けない声で訴えた。

 「だめ! 食べないと…治らないでしょ…」

 急に麻有美の表情が悲しげに曇り、そして大粒の涙が

 絹のような色白の頬を伝って落ちた。

 「麻有美…」

 「あたしより先に死んじゃったら…許さないからね…」

 僕は麻有美の頬に手をやり、溢れ出る涙を拭った。

 「心配かけちゃったね。ごめん…」

 麻有美のために僕は何ができるのだろう…。

 空回りする空虚な願いを、ただ祈る…。

 僕の傍らに顔を埋めてすすり泣く

 愛しい人の髪を撫でながら…。

 

 

 入院4日目

 僕はやっと自分で起き上がることが出来るようになった。

 親父も僕の脅威的な回復力には驚いているようだ。

 麻有美に無理やり食わされる

 病院のまずい食事のおかげかも知れない。

 麻有美は今日から検査のスケジュールに入った。

 心配で堪らないが、今は主治医である親父に

 任せるしかない。
 
 「検診です」

 午後の検診時間だ。看護婦と一緒にあの研修医が入ってきた。

 「お!元気そうだな」

 僕は体を起こし窓から見える中庭の噴水を、ボーっと見ていた。

 「もう、体を起こせるのか。大したもんだ」

 研修医は相変わらず無精髭を生やし、白衣もヨレヨレだ。

 「はい、お蔭様でもうだいぶ痛みも無くなりました」

 僕は社交辞令的な答えをした。

 研修医はいきなり目の前に手を差し出し、にこやかに言った。

 「初めまして、研修医の村松です。これからよろしく!」

 僕は条件反射でその手を取り、作り笑いで握手した。

 「村松先生、僕達は初対面じゃありませんよ」

 僕はにこやかな作り笑いで答えた。

 研修医は『はて?』という表情で首を傾げている。

 「4日前、親父のオフィスでお目にかかっています」

 僕は尚もにこやかに言った。

 「ん? 4日前…ねぇ? え〜と…」

 ついこの間のことを思い出せないのだろうか…。

 「ほら、救急車で心臓発作の女性が運ばれて来た時…」

 そこまで言ってやっと思い出したようだ。

 「あー! あの時か!」

 研修医はパチンと手を叩きうれしそうに言った。

 「いや〜あの時は気が動転していてね、君のことは

 まったく覚えていないんだ。すまん」

 僕は作り笑いが歪んでいくのが自分で分った。

 「そういえば、あの患者さんどうなりました?」

 僕は気になっていたこともあり、つい聞いてしまったが

 すぐに後悔した。もしかしたら…。

 「うん! 彼女は一命を取り止めたよ。君のお父さんのおかげさ」

 僕は心から良かったと思い、今度は自分から握手を求めた。

 研修医は髭面の顔に満面の笑みを浮かべ僕の手を取り

 何度も大きく上下に振った。

 風貌からは想像もつかないが、とてもさわやかで

 人懐っこい人物だ。

 検温と血圧、脈拍を測り、簡単な検査をしながら研修医は言った。

 「そういえば彼女…橘さんっていったね」

 なんで知っているのか不思議な気がしたが

 狭い病棟では噂なんて看護婦を媒介しゴキブリのごとく

 あっというまに繁殖するらしい。前に父さんがそう言ってた…。

 「はい、麻有美っていいます」

 僕は自分でも驚くほど素直に答えた。

 「麻有美ちゃんか。いい名前だ!」

 研修医は血圧計を僕の腕からはずし看護婦に渡しながら言った。

 「今度、ゆっくり話をしよう。何か力になれるかも知れないから」

 思いがけない研修医の言葉に僕は驚き、そして感謝した。

 

 
 麻有美が検査から戻り、夕食の時間になった。

 食事はいつも僕の部屋で一緒にとる。

 僕の病室は12畳ほどの広さがあり簡単なテーブルと

 セットの椅子が4つ、それと地味な応接用のソファーセットが

 備え付けてある。テレビと小さな冷蔵庫、電子レンジも完備した

 いわゆる高級な個室だ。贅沢だと思うが、麻有美のことも考えて

 親父が配慮してくれたものだ。

 今夜は親父に感謝しなければならない。

 今日は体を起こし、立ち上がってみた。

 まだ少しフラフラするが、悪くない。

 僕達はテーブルで食事を楽しんだ。まるで新婚のようだ…。

 質素だが部屋もちょうど1ルームマンションのような感じだ。

 これで、メニューが病院食でなければ、ほぼ完璧だ。

 「どうだった、今日の検査は?」

 僕はまだ少し痛むわき腹を押さえながら言った。

 「うん! 別に問題なかったよ」

 問題はあるはずだが、悪くなってはいなかった、ということだろう…。

 「よかった! 今日は顔色もいいし安心した」


 《麻有美は透き通るような白い肌をしている。

 きゃしゃな線はいっそうそれを惹き立て、抜群なスタイルと

 相まって小さく幼い顔立ちは、絶妙なバランスで美少女を

 造形している》


 安心などしている訳はない。顔色だっていつもと変わりはしない。

 だけど、僕はそう言った。

 麻有美は微笑し、僕がわき腹を押さえているのを見て言った。

 「ねえ、まだ無理しないほうがいいよ。痛むんでしょ?」

 「もう、大丈夫だよ。脅威的な回復力だってさ!」

 僕はそう言っておどけてみせた。激痛が走る…。

 悟られないようにおどけて上げた手を、ゆっくりと下げた。

 「ねえ、麻有美…」

 僕は今まで躊躇して聞けなかったことを話し出した。

 「事故した日、僕は親父のオフィスで君のカルテと診療データを

 勝手に見てしまったんだ。」

 麻有美は僕にそのクリスタルのような瞳を合わせ、黙って聞いている。

 僕は遠回しに言うのをやめた。

 「何故、移植を拒否したんだい?」

 麻有美は僕から視線をはずし、食べかけの皿に目をやった。

 「あたしはね…。あたしなんだよ…」

 僕は言っている意味を理解しようと頑張ってみた。

 「心臓は『心』なんだよ…あたしの心臓は壊れているけど…」

 僕は次の言葉を待っている。

 「心はちゃんとここにあるんだよ…。だから…」

 僕はやっと理解した。

 「そうか…。そうだね」

 麻有美は小さくうなずき言った。

 「先生は移植すれば助かるかもしれないって言ってた。でも

 絶対に成功するわけじゃないことも…」

 僕は黙って聞いていた。

 「それにもし成功しても、知らない人の心臓で生きていくのは

 嫌なんだよ。 その人の心で生きていくみたいで…」

 麻有美は顔を上げじっと僕を見詰めながら続けた。

 「あたしはこの心でマー君を愛して、マー君も

 そんなあたしを愛してくれた。だから…あたしは…

 あたしの運命を受け入れることに決めたんだよ。」

 また目の奥から勝手に雫が溢れてきた。

 「いつまで生きられるか分らないけど…。いつまで一緒にいられるか

 分らないけど…。あたしはこのままでいいんだよ」

 僕は体中の激痛を無視して立ち上がり言った。

 「僕は嫌だ! 絶対に嫌だ! 誰の心臓でもいい、麻有美が生きてさえ

 いてくれたら…僕はもう何も望まない」

 テーブルに手を付き頭を垂れる僕に麻有美がそっと言った。

 「マー君…泣かないで。あたしはまだ生きているんだから…。

 それにもしかしたら、急に治っちゃうかもしれないし…あは!」

 自然に治癒する病気じゃないことくらい知っている。

 僕は無理におどけてみせる麻有美を見れない…。

 「お願いだ…。移植手術を受けてくれ。頼む…」

 「マー君言ってたじゃない『僕が凄腕の医者になって治す』って

 あたしそれまで頑張るからさ…」

 麻有美の心臓は、そんなに長くはもたない…。

 麻有美は泣き顔をみせない。

 健気に毅然と現実に立ち向かっている…。

 「よく聞いてマー君…」

 僕はゆっくり椅子に座り麻有美を見た。

 「移植手術しても50%は失敗するんだよ。発作が起きてからじゃ

 無理だから、やるなら今しかないって…」

 麻有美は食べかけの皿を端にやり、僕の手を握った。

 「あたし…くじ運とか悪いからさ…。壊れた心臓でも

 まだ生きているのに、失敗したらそこで死んじゃうんだよ…」

 僕は言葉が出てこない。

 「だからこのままでいいんだよ…」




 
 非常灯だけがぼんやり点いている、誰もいない病院のロビー。

 僕は手すりを頼りにヨタヨタ歩いていた。


 《ちょっと聞いた〜? あの子妊娠してるらしいわよ。3ヶ月だって!》

 
 さっき自室からトイレに行くときナースステーションで

 偶然小耳に挟んだ看護婦の噂話だ。

 当然僕は聞き流したが、あとになって妙に気になり始めた。

 3ヶ月といえば計算が合う…。

 それに5階のナースステーションの看護婦が『あの子』と

 言っていることを考えれば…。

 今5階の入院患者で若い女性は2人しかいない

 10歳位の虫垂炎で入院している子と…麻有美だけだ。

 


 僕は薄暗いロビーを抜け、当直室に辿り着いた。

 今夜の担当はあの研修医だ。

 きっとなにか知っているに違いない…。

 僕は意を決し、ドアをノックした。

 「はい…。どうぞ〜」

 聞き覚えのある眠そうな男の声だ。

 ドアを開け中に入る。

 「すいません、こんな夜分に…」

 僕は小さな声で言った。

 「お〜なんだ、正樹君か…。ふぁ〜…で…どうした?」

 研修医は寝ていたらしく、寝ぼけた姿は

 まるでボロ雑巾みたいだ。

 当直室は夜勤担当医の仮眠室みたいなものだ。

 この部屋には僕と研修医しかいない。

 「あの…実は」

 僕はことの次第を話した。

 一頻り僕の話を聞いて研修医は言った。

 「うん…。俺は聞いていないが、気にはなるな…」

 そう言うとヨレヨレの白衣を着ながら言った。

 「ちょっと待ってろ。確かめてくる」

 僕は慌てて言った。

 「え? まさか…麻有美に?」

 研修医はボサボサの髪を掻きながら言った。

 「なわけないだろ…。パソコン見てくんだよ」

 僕は胸を撫で下ろし、暗い通路に消えていく研修医を見送った。

 




〜第6章〜 (あたしの想い出)






 眠れない夜にはもう慣れっこだけど、今夜はいつになく

 憂鬱な時間が長く感じる…。

 マー君の言葉が胸に焼き付いて離れない。


 《生きてさえいてくれたら、僕はもう何も望まない…》


 私は彼を苦しめるだけの存在なのかも知れない。

 決して私の前では涙なんて見せなかった彼が

 あんなに取り乱して…。



 ベッドに突っ伏して枕を抱く。

 目を閉じるといつも思い出す。

 マー君と過ごした楽しい日々を…。



 
 足元に小さなボールが転がってきた。

 私はそれを拾い上げ、見た目よりも硬く重い感触に戸惑った。

 「すいませ〜ん!!」

 ボールを追いかけてきた人が大声で言った。

 その人は立ち止まり両手を振っている。

 どうやら私に投げ返してくれという様子だ。

 私は始めて持つボールの感触に、投げ返す自信が無かった。

 生まれてから一度もあんなに遠くへ

 何かを投げたことなど無かったし、もし変な方向に

 投げてしまったら、申し訳ないと思った。

 私はボールを持って、小走りに届けた。

 その人は面食らった様子で、私に言った。

 「悪いね! わざわざ…」

 「どう致しまして」と笑顔で答えた。

 その人は私からボールを受け取ると

 振り返りまた大きな声で叫んだ。

 「おーい! 蘇我! 飛ばし過ぎだぞ〜」

 随分と遠くから返事が返ってきた。

 「すいませ〜ん。竹中先輩!」

 《返事の主は蘇我というらしい…この人は竹中というのか》

 あんな遠くからあそこまで

 よく飛ばせるものだと…信じられなかった。

 私はとっさに質問していた。

 「あの…。そのボールあの人が打ったんですか?」

 ボールをグランドに投げ返し、竹中は振り返り言った。

 「あぁ『蘇我』のことか?」

 私は肯いた。

 「あいつ1年生のくせにえらいパワーでさ」

 遠くから見ているせいだろうか、蘇我という人は

 そんなに筋骨隆々には見えない。

 「まったく、あいつの打球を何度フェンスの

 向こうに探しに行ったか…」

 私は少し気の毒になり、愛想笑いをした。

 突然、竹中は私をまじまじと見て言った。

 「きみ、可愛いね! ねえねえ、1年生でしょ? 名前は?」

 私は愛想笑いを継続したまま答えた。

 「はい、今日は編入の手続きをしに来たんです。クラスはたぶん

 1年D組になると思います」

 後ろからお父さんの呼ぶ声が聞こえた。

 「あ!いけない…お父さん待たせてたんだ!」

 私はお父さんを待たせたまま、学校の散策をしていたことを

 思い出した。

 「じゃあ、すいません。失礼します」

 お父さんの所に急ぐ私にまた大きな声で

 「ねえ〜! 名前は〜? 電話番号は〜…」

 と、その人は叫んでいた。

 



 《あれが、マー君との出会いかな? でも…。

 私だけが出会った訳だし…。マー君はまだ私を知らなかったから

 出会いじゃないわよね…》


 マー君との想い出は私の大事な宝物だ。

 楽しいことも、悲しいことも全部…。



 
 私は1年生の2学期に編入した。

 生まれつき心臓に障害があって

 ずっと入退院の繰り返しだった。

 勉強は通信教育制度を利用していたから

 小学校も中学も、殆ど通ったことがない。

 そんな私には、友達なんてできるはずも無かった。

 『引きこもり』になるのを心配した両親が

 高校への編入試験を受けさせてくれた。

 幼い頃に比べ体力もついてきたことと

 ここ、1年は大した発作も起きていなかったから

 医者も了解してくれた。

 そして学校では大勢の友達ができ、私には到底縁のない

 ことだと、期待もしていなかった『彼氏』もできた。

 

 私は『野球』なんて知らなかったし、興味もなかった。

 時々、お父さんがテレビで観ているのを

 横目でチラッと見るくらいだった。


 《あの人たちはいつもボールで遊んでいて

 いつ仕事をしているんだろう…》


 そんなことを心配していたことはあったけど…。

 でも、蘇我君のことがきっかけで野球を知りたくなった。

 《あんなに遠くへボールを飛ばせたらきっと楽しいだろうな》

 私はお父さんに詳しく教わり、見た目よりも複雑なルールに

 辟易しながらも、一生懸命野球を覚えた。

 マー君と出会わなかったら、一生野球なんて知らずに

 いただろう。


 
 《特に大切な私の1ページ…。

 それは、いつでも鮮明に思い出せる》






 登校初日はとにかく蘇我君を探した。

 遠くからしか見ていない彼を近くで見たかったから。


 《きっと、体が大きくて太い腕をしているんだろうな…》


 クラスメートは新入りの私にもみんな親切で

 不安だらけだった気持ちはどこかに消えてしまった。

 でも、流石に初日から蘇我君のことは聞きづらく

 自分で捜すことにした。



 昼休み、それはあっけなく達成された。

 「すいません…。あの…」

 私の目の前には、照れているのか耳まで赤くした

 可愛い男の子が立っている。

 私は黙って彼を見詰めてしまった。

 「あの…先輩が…。その…君に会いたいと」

 私はにこやかに言った。

 「先輩って、竹中さんのことでしょ?」

 可愛い男の子は何故かうろたえている。

 「ど…どうしてそれを?」

 「あは! やっぱり!」

 この学校で『先輩』って呼べる人は竹中さんしか面識がない。

 私は何気に聞いてみた。

 「あなたも野球部の人?」

 彼は戸惑いながら答えた。

 「はい…。蘇我っていいます。僕のクラスは隣のC組で…」

 私はこの時の、彼が発した言葉の続きを覚えていない。

 「え? あなたが…蘇我君?」

 私はあまりにも想像とかけ離れた現実に目眩がした。

 「ぼ…僕を知っているんですか?」

 目の前で戸惑い、シドロモドロになっているこの

 可愛い男の子が…まさか!

 「ねえ、あなた以外に蘇我って人は野球部にいる?」

 「いえ…。僕だけですけど…」

 私は胸の爆弾が爆発しないように

 大きく深呼吸して、自分を落ち着かせた。

 「私、『橘 麻有美』っていいます。あなたを捜していました!」



 
 
 その後、私とマー君は急速に接近し

 お互いを必要とする仲になっていった。

 2年生からはクラスも同じになり

 ますます仲のいいカップルになった。

 ただ、私は時々具合が悪くなり欠席することも

 何度かあったけど、甲子園を目指し毎日頑張っているマー君には

 余計な心配を掛けないように気をつけていた。

 心臓のことは『幼い頃から弱かったけど、今はもう大丈夫』

 と言ってある。

 

 
 3年生の夏…そう、ついこの間だ。

 マー君は都大会で優勝し、去年逃した

 甲子園の切符を手に入れた。

 私の前で戸惑っていた可愛い男の子は

 今では、逞しく成長し甲子園のマウンドに立っている。



 並居る強豪を相手に、マー君は投打共に大活躍をした。

 惜しくも準々決勝で敗れてしまったけど

 プロからスカウトもあり、テレビや新聞で大きく取り上げられた。

 だけどマー君は、プロの野球選手になる気は更々無いと

 以前から言っていた。

 医大に進み、外科医になるのが夢だという。

 お父さんもお医者様だそうで、私にしてみれば心強い。

 だけど、厳しい両親なので異性との交際は卒業まで

 禁止されているという。

 なんか、18にもなって情けない気もするけど

 両親を心から尊敬している彼にそんなことは言えない。

 《いつか、ちゃんと紹介してもらえるように

 私も頑張らなくっちゃ!》




 
 マー君が高校生活の全てを懸けて戦った甲子園は終わり

 これからは受験生としての厳しい戦いが待っている。

 出来ることなら、私もマー君と同じ大学に進みたいけど

 最近、体の調子が少しおかしい…。

 たまに軽い発作が起きる…。

 薬でなんとかもっているけど、以前より痛みが辛い…。





 幼い頃からお世話になっている主治医に大学病院を

 紹介された。

 私の通う病院は個人病院だけど、優秀なことで有名な病院だ。

 でも、主治医が海外に転勤することが決まり仕方ない。

 私は紹介状をもって、大学病院を訪ねた。



 
 「失礼します」

 私は診察室のドアを開けた。

 先生は振り向きざま、口をポカンと開けひどく驚いている様子だ。

 私は不安になり恐る恐る訪ねた。

 「あの…あたしに何か?」

 先生はハッと我に返ったようだ。

 「いや…なんでもない」

 急に穏やかな表情になり続けた。

 「前の主治医から詳しく聞いています。これからよろしく」

 「こちらこそ、よろしくお願いします」

 私はなんだか不安なまま検査を受けた。





 一週間後、私は両親と一緒に検査結果を尋ねに出掛けた。

 先生から連絡があり、両親と同伴でくるように言われたからだ。

 両親を待合室で待たせ、診察室に入った。




 先生は微笑し私に椅子を勧めてくれた。

 私が座ると先生はゆっくり話しだした。 

 「失礼だが…蘇我 正樹をご存知ですか?」

 私はその言葉と同時に、先生の胸に付いているIDを見て驚いた。

 何故、この前気が付かなかったんだろう…。

 「は…はい。蘇我君とは同じクラスメートです」

 厳しい両親なので私のことは秘密にしていると

 マー君は言っていた…何故私を知っているんだろう…。

 「もしかして…蘇我君のお父さんですか?」

 私は、心臓を心配した。今にも止まってしまいそうだ…。

 先生は私の動揺に気が付いたのか

 満面の笑顔で答えてくれた。

 「いかにも、私は正樹の父親です」

 私はつい先生の笑顔に釣られた。

 「あ…あの、申し遅れました。橘 麻有美です。

 蘇我くんとは親しくお付き合いさせて頂いています」

 自分の言葉に誤解されないように付け加えようとした。

 「あの…親しくと言っても…その…あの」

 「はっはっは!」

 先生は急に笑い出した。

 「そんな事は心配していない」

 にこやかな先生の言葉に、私は心底安心した。

 それから先生は偶然見てしまった

 私とマー君の2ショット写真のこと

 初めて私が診察に来たとき、驚いたことを話してくれた。

 しばらくは楽しく会話が弾んだ。

 私はもっと怖いお父さんをイメージしていたから

 ちょっと、安心して嬉しくなった。

 「さて、じゃあご両親を呼んで来て下さい。君は外で待っているように」

 私は一抹の不安を他所に、笑顔で両親を呼びに行った。

 



 その後の話はもう思い出したくない…。



 1時間ほど先生と話した両親は沈痛な面持ちで

 私を呼んだ。

 私の心臓はもうだめらしい…。

 すぐに入院するように言われた。

 私は一生懸命お願いした。

 「どうしても、高校だけは通わせて下さい。あたし…

 マー君と…正樹君と一緒に卒業したいんです!」

 先生は腕を組み、静かに言った。

 「麻有美さん…。あなたの体なのだから、あなたが決めて

 いいんですよ」

 少しの間があった。

 「だが、ご両親はあなたを心配している。私も心配だ

 きっと正樹も同じだろう」

 私は諦めずに言った。

 「手術が出来ないなら、病院にいても同じです。どうせ長く

 生きられないなら私は学校に行きたい!」

 お父さんが静かに優しく言った。

 「先生どうでしょう…。この子は幼い頃からこの病気のために

 ずっと学校にも通えず、辛い思いをしてきました」

 先生はお父さんに視線をやり黙って聞いている。

 「この子の言う通り、長くない命ならせめて…」

 先生は肩を落として俯くお父さんに手を差し伸べた。

 「まだ、絶望だと決まった訳じゃありません。もうすこし

 詳しい検査をしてみましょう。移植の道も選択肢にあるんですから」

 私はすすり泣くお母さんと、がっくりと肩を落とすお父さんに

 精一杯の笑顔で言った。

 「そうよ! まだ死ぬって決まった訳じゃないんだからね」

 お母さんが涙目で私を見詰める。

 「でも、あたしは学校に行きたい。先生お願いです…どうか」

 「解りました。でも、無理は禁物ですよ。少しでも体調が

 悪化したら入院すると約束できますね?」

 私は、小さく肯いた。







 〜第7章〜 (魔法のライター)





 「なんてことだ…」

 僕は頭を抱えていた。

 「こんな事になるなんて…」

 「そんなに悩むな。悩むより考えろ」

 ボロ雑巾の研修医は慰めとも励ましとも取れない

 難しいことを言う。

 「村松先生、麻有美はどうなるんですか…」

 たぶん梳かしたことなど無いであろうボサボサの髪を

 両手で掻き回しながら神妙に彼は言った。

 「う〜ん…。出産は絶望的だな…」

 僕は今以上の負担を麻有美にかけてしまったことに

 悩んでいた。

 妊娠させたことで僕が責めを受けることは当然だ。

 それに、どんな責めを受けようと

 今の僕にとっては屁でもない。

 それよりも麻有美がどうなるのか…。

 ただ、そのことに悩んでいた。

 「胎児がまだ小さいうちなら大丈夫だが、

 これから成長するに従って母体への負担は大きくなる」

 僕は黙って聞いていた。

 「それよりも、薬の影響で胎児が成長しない可能性が高い」

 研修医はヨレヨレの白衣の裾を弄くりながら続けた。

 「どっち道、人工中絶しかないな…」

 
 《人工中絶…》


 去年の丁度今頃、同級生の女の子が妊娠して

 みんなでカンパし合った事を思い出した。

 あの時は僕も協力したが、内心蔑んだ気持ちでいた。

 と…同時に思い出した。

 
 《そういえば…!》


 そのことを、冗談まじりに麻有美に話した時

 すごい剣幕で怒っていた。

 《そんなことになんで協力なんてしたの? 絶対に産むべきよ!》

 その子の場合は、夏休みにどこの誰だか分らない相手と

 遊んだ結果だった。

 それを説明してやっと麻有美は怒りが収まった。

 《それじゃ仕方ないと思うけど…。でも赤ちゃんに罪はないんだよ…》

 僕はこの時、まだ麻有美の手も握ったことが無かった。

 とにかく、僕にとって麻有美はとても神聖な存在であったし

 純真な心を持つ彼女に触れることが、何故か汚らわしい行為

 のような気がしていたからだ。

 先輩や友達にはよく進展状況を聞かれたが、そんなことさえも

 鬱陶しいと思っていた。

 それなのに…。

 今、麻有美はその神聖で純真な心と一緒に

 小さく儚い命を、風前の灯火の如しその体に宿している。

 「村松先生…。麻有美はきっと産みたいって言います」

 僕は自分を買被っている訳ではない。

 ただ、1つだけ確信していること…麻有美は僕を愛している。

 「でもな、それは無理だ」

 僕は肯くしかない。

 「もし、中絶をしなければ母子ともに助からない」

 僕は呟くように言った。

 「中絶をしても、麻有美は助からない…」

 村松は簡易ベッドに腰掛け、前屈みで話し出した。

 「俺が医者になろうって決めたのは、死んだ彼女のお蔭なんだ」

 僕は驚き彼を見詰めた。

 「お蔭っていうのも変だけどな…でもそうなんだよ」



 「俺の彼女は癌でな…骨肉腫って骨に出来る腫瘍で…悪性だった。

 丁度、君と同じ歳だったよ。彼女…美穂っていうんだけどな

 俺はとても美穂を愛していた。今の君に負けない位にな…。

 美穂は『背中が痛い』ってよく言ってたんだ。息を引き取る

 半年前からな…よく言ってた…。

 俺はそんなのほっときゃ治るって…はっは…馬鹿だよな…

 医者でもないのに…。

 あんまり痛がるんで病院連れてったら、そんときはもう手遅れだった」



 村松は胸のポケットから皺くちゃなタバコを取り出した。

 無言で1本差し出し、僕はそれを受け取った。

 タバコなんて吸った事が無かったけど、今日は彼に付き合おう。

 村松は自分の首に下げているネックレスの鎖を手繰り寄せ

 胸から出した。

 随分と使い込まれたオイルライターが先に付いている。

 ≪カチャ、シュポ≫

 小気味良い音を放ち火がついた。

 先に僕のタバコに火を点けてくれた。

 彼は自分のタバコにも火を点けゆっくりと続きを話してくれた。

 

 「俺と美穂は同棲してたんだ。俺にはちゃんと親も家もあったけどな

 美穂には無かった…俺は俗に言う不良でな、高校2年で中退して

 家出して、バイトしながら暴走族やってたんだよ…驚いたろ?

 美穂とはそのバイト先で知り合ったんだ。

 彼女、生まれてすぐ親に捨てられて、ずっと施設暮らしでな…

 なんとなく気が合って…自然と一緒に暮らすようになった」


 しばらくの沈黙…。


 「最後の日、美穂は俺に言った。『あたしを忘れないで…』ってな」



 村松はさっきのオイルライターを握り締め

 1点を見詰めている。

 「同じ事を麻有美も言っていました…」

 彼は僕に顔を向けた。

 「そのライターは美穂さんが?」

 「あぁ…俺の18の誕生日にあいつがくれた物だ」

 微笑しながら彼はそのライターを差し出した。

 僕はそれを受け取り火を点けてみた。

 彼がやったような、いい音が出ない…。

 「それ、やるよ」

 僕は驚きすぐ返そうとした。

 彼は髭面にあの満面な笑顔で言った。

 「俺にはもう必要ないんだ」

 「こんな大事な物貰えません! お返しします」

 僕は彼の手に戻そうとした。

 「今まで俺はそのライターに何度も助けられた。

 今度は君を助ける番だとライターが言っている」

 僕は困り果てた。

 「俺はそのライターがあれば美穂を忘れることはないと

 ずっと大事にしてきた。でもな、そんな物必要ないんだ」

 彼は僕の肩に手を置きそっと言った。

 「それに、そのライターな不思議な力があるんだ…」

 急にまじめな顔になり囁くように続けた。

 「願い事が叶うんだよ」

 僕はまじめな顔で囁く彼の髭面を見詰め

 思わず吹き出してしまった。

 「なんだよ…せっかくシリアスな場面なのによ」

 「すいません…。でもあんまりおかしくて…」

 「でも、本当なんだぜ。あんなどうしょうもない不良だった

 俺が今じゃ医者になってるし、それに…」

 僕はやっと笑いが収まり話を聞いた。

 「ライターが無くても俺は絶対に美穂を忘れない…。

 美穂は俺の心にいるからな。やっとそのことに気が付いた」

 彼は少し照れながらそう言った。

 僕はなんだか、この髭面をすごく好きになっていた。

 「彼女を大事にな。俺も出来る限り力になるから」

 「ありがとう。でも…。どうしたらいいか…」

 僕は現実を思い出し、途方に暮れた。

 「実はな…。まだはっきりとした事じゃないんだけどな」

 村松は言いにくそうに話し出した。

 「本当はちゃんと分ってから話そうと思ってたんだけど

 仕方ない…。彼女のドナー手配できるかもしれないんだ」

 僕は静かに言った。

 「麻有美は移植を拒否しているんです。ドナーが見付かっても

 意味がないんです…」

 村松は言った。

 「それは、俺も知っている。でもな、そのドナーの適合性は

 彼女の体質に対しかなり良い数値が出ているんだ」

 「でも、麻有美は心が…心臓は心だから他人の心じゃ

 生きていけないって…」

 「そうか…」

 村松は難しい顔で考えている。

 「心は脳が司るというのが、現代医学の定説ではあるんだが

 そういう問題じゃないみたいだしな…」

 僕は無言で肯いた。

 「よし、わかった!」

 僕は首を傾げた。

 「ちょっと俺に任せておけ! どうなるかわからんが…。

 なんとかなるだろう…。たぶん…」

 段々と語尾が小さくなっていく彼の言葉…。

 僕は僅かな期待だけに留めておいた。
 

 







 〜第8章〜 (クリスマス・イブ) 






 
 「おはよ!」

 麻有美は屈託の無い明るい調子でドアを開け入ってきた。

 「あ、おはよう」

 精一杯元気に答えたつもりだったが、違ったようだ。

 結局僕は一睡も出来ないまま、憂鬱な朝を迎える事になっていた。

 「どうしたの? 元気ないね」

 麻有美はドン臭いようで実はかなり鋭い。

 「う…うん。ちょっとね」

 いきなり切り出すには余りにも唐突過ぎる。

 「やっぱり、体痛むんでしょ?」

 


 村松の話では親父もまだ知らないらしい…。

 検査結果を確認する前に、学会へ出掛けたからだ。

 そもそも、妊娠の陽性反応自体、尿や血液検査の副産物みたいなもので

 それを目的にしていた訳ではないから

 親父も気にかけてはいなかったはずだ。

 つまり、検査結果をコンピューターに入力した看護婦か

 あるいは事務員から洩れた話だろう。

 勿論、麻有美が知っているはずは無い。

 ≪いや…もしかしたら気が付いているのかも?≫

 

 「ねえ、麻有美」

 僕は何気無い素振りで聞いてみた。

 「なあに?」

 「あのさ…最近なんか変わった事なかった?」

 「なにが? 別に何にもないけど」


 ≪どうしよう…やっぱり気付いてないんだ≫


 「変なマー君…」

 麻有美が気付いていないことで、僕は話の切欠を失った。

 「あ! そういえば」

 僕はドキッとしたまま顔が歪んだ。

 「忘れてた! ごめん」


 ≪忘れてた?≫


 「そういえばね、クラスの子達と野球部の人達から

 お見舞い来てもいいかって聞かれてたんだ!」

 安堵の溜息を悠長に吐いている場合ではない。

 「ちがうんだ、そんな事じゃなくて」

 「じゃあ、なによ? なんかおかしいな」

 「いや…実は」

 こうなったら、もう白状するしかない。

 「あのな、麻有美。落ち着いて聞いてくれ、君は妊し…」

 「おはよーございまーす! 朝食で〜す」

 いきなりドアが開き、やけに陽気な看護婦が入ってきた。

 「あら!そんな格好じゃだめよ! ご主人が付いていながら」

 僕は呆気にとられ言葉が出ない。

 「ほら、もっと暖かい格好しなきゃ。」

 麻有美は辛うじて微笑を保っているが、その目は泳いでいる。

 「はい! じゃあここに置いておきますよ。残さず召し上がれ」

 僕と麻有美は自然と目を合わせ、そして一緒に陽気な看護婦に

 視線をやった。

 「あ! そうそう、はいこれ!」

 看護婦はポケットから小さな巾着袋を取り出した。

 麻有美は受け取ると同時に表情が無くなった。

 「昨日、帰り際に聞いたのよ! それで急いで明治神宮に行って

 頂いてきたって訳! あ! 気にしないで。どうせ家の近くだから

 お参りがてら、ついでにね! じゃ、お大事に〜」

 機関銃のように喋ったあと、嵐のような看護婦は

 意味深な笑顔を浮かべ出て行った。

 「なんだ…あの人は?」

 僕は閉まったドアから麻有美に視線を移した。

 「マー君…これ」

 麻有美はさっきの巾着袋を、僕の目の前にぶら下げた。


 ≪安産祈願…≫


 






 俺のシナリオはこうだ。

 まず、あのドナーを確保する。たぶん大丈夫だろう。

 すでに手は廻してある。そして彼女には赤ん坊を助ける為だと説得し

 移植手術をする。そして、同時に中絶もやってしまう。

 それしかない!

 しかし…。

 「あ〜くそ!」

 結局、騙して手術なんて出来るはずも無い。

 「なんとかするって請け負っちまったからな…」

 俺は美穂の面影をあの子に見付けちまった。

 正樹…あいつもいい奴だ。なんか昔の俺に似ている。

 まあ、生い立ちはまったく違うがなんとなく他人のような

 気がしない。


 『あたしを忘れないで…』


 同じ事をあの子も言っていたと聞いたとき、俺は決めた。

 「命に代えても絶対なんとかしてやる!」

 とにかく、ドナーの確保が最優先だ。

 ドナー情報は今や世界中でネットワークが結ばれている。

 何万人もいるドナーの中でさえ彼女の体質に適合できる

 ものはめったにいない。

 今回、これほど彼女の体質に合致するデータを持ったドナーが

 見付かったこと自体、奇跡に等しい。

 だが、ドナーの所在地に問題がある。

 アメリカのサンディエゴ大学病院なのだ。

 心臓の場合ドナーから摘出後遅くとも30時間以内が限界だ。

 それに、心臓は需要も多く競争率も高い。確保するには莫大な

 金額も必要だ。確実に確保するには現地に飛ぶしかない。

 「もしもし、村松ですが蘇我先生をお願いします」

 


 
 
 僕と麻有美は親父のオフィスに呼ばれた。

 案の定、妊娠についての話だった。

 「気持ちはわかるが、賛成はしかねる」

 麻有美はやはり産むと言って聞かない。僕はただ、うろたえるしか

 やることがない。

 「どんなことがあっても堕すなんて嫌です!」

 「だが、このままでは赤ん坊も君も助からん」

 「あたしが生きている限り赤ちゃんも生きているはずです!」

 親父は憔悴しきっている。

 「言い難い事だが、そうとは限らない。君の場合常用している薬の

 影響で胎盤剥離が起きる可能性が非常に高い」

 麻有美は一歩も譲らない。

 「また可能性ですか? 解りました。ではもう薬を飲むのは止めます」

 親父は威厳のある態度で言った。

 「麻有美さん。あなたのお腹の子は私の孫でもあるんです。私だって

 つらいのです。もはやあなたは私の家族も同然なのですから。」

 僕は親父の言葉に驚いた。親父は冗談も嘘も決して言わない。

 「麻有美…父さんは本心で言っている。僕には分るんだ」

 麻有美はうつむき嗚咽を堪えている。

 大粒の涙は真珠のような輝きで落ち、手の甲を濡らしている。

 「ごめんなさい…。あたし…あたし」

 「父さんもう一度2人で話をさせてくれないか」

 親父は難しい顔で肯いた。

 「いいだろう。2人でよく話し合いなさい」




 
 僕達は病室に戻り、テーブルに付き向かい合った。

 「麻有美、ごめん。この通りだ」

 僕はテーブルに頭をつけ彼女に詫びた。

 「どうして謝るの…マー君は何も悪いことなんかしてないよ」

 僕は頭を上げられない。

 「あたし、嬉しいんだよ。赤ちゃんが出来た事と

 先生があたしも家族だって言ってくれた事」

 麻有美の気持ちを考えると、辛すぎる。

 「それに、あたしこの子のためなら死んでもいいんだよ」

 僕は頭を上げた。目の前には麻有美が微笑んでいる。

 「あたし、何が何でもこの子を産むわ! だって、一人っ子のあたしが

 死んじゃったらお母さんとお父さん淋しがるでしょ」

 麻有美は少し伏目がちになった。

 「それにマー君の子供産むんだから、あたしは生まれてきた

 意味があったって、そう思うことが出来るから…」

 そして心配そうに呟いた。

 「マー君は嫌なの? 迷惑…かな」

 僕は声を振り絞った。

 「迷惑なもんか…僕は麻有美に産んでもらいたい! だけど

 君の体は出産までもたない…」

 瞳の奥に溜まっていた雫が落ちそうだ。

 「麻有美! お願いだ…どうか移植手術受けてくれ」

 麻有美は立ち上がり僕の傍らに来た。

 「この子が助かるなら移植だってなんだってやるわ!」

 そう言うと僕の首に抱きつきそっと囁いた。

 「もし、あたしの心が他人になってもあたしの心は

 この子が持ってるから…生きていけるよ」




 
 僕は親父のオフィスを訪ね、麻有美との話を伝えた。

 「それで、どうなんだろう。やはり確率は50%なの?」

 親父は珍しくサイドボードからブランデーを取り出し

 小さなグラスに注いだ。

 「うん、それなんだが。データを見る限り、適合性は抜群

 なんだ。それにドナーも若いから良い結果が出ると思う」

 親父はちびちびとブランデーを舐めている。

 この変な飲み方だけが唯一親父の欠点だと昔から思っていた。

 でも、今日は気にならない。

 「だが、妊婦の心臓移植は世界でも数例しかない。それも

 すべて予後不良だ」

 親父は渋い顔で言った。

 「彼女の容態次第だが、移植前に中絶する必要が生じるかも

 知れない。それは、覚悟しておきなさい」

 覚悟といっても、そんなこと麻有美には言えない。

 「まあ、今は彼女のことだけ考えてやりなさい。父さんも

 全力で治療にあたる」

 僕は気になっていたことを聞いてみた。

 「もし、麻有美が無事に出産出来たらどうしたら良いと思う?」

 「可能性は僅かだ」

 「だから、もしもだよ。もし、無事に生まれたら…」

 「当然、結婚して一緒に暮らす。当たり前のことだ」

 僕が言えなかった事を、親父が言ってくれた。

 「だが、お前は医大にいくつもりなんだろ? だったら1人前

 になるまで家で同居だな」

 「それよりも、麻有美さんのご両親にはちゃんとあいさつを

 しておけ。取り敢えず、彼女の容態を見ながら早めに籍だけでも

 入れておかんとな。たとえ、最悪の場合でも男は責任をとらなければ

 いけない。父さんが言わなくてもお前には分っているだろ」

 ≪最悪の場合…≫

 それは考えないようにしよう。今はとにかく麻有美と赤ん坊が

 無事でいられることを祈るしかない。

 しかし、あんなに厳しかった親父がなんでこうも変わったのかと

 不思議で堪らなかった。

 よっぽど麻有美が気に入ったようだ。

 僕はまだ体の節々が痛かったけどそんなこと構ってられない

 これから、忙しくなるはずだ。今日はもう12月17日だから

 もうすぐ2学期が終わる。2月には受験だし、順調にいけば8月には

 赤ん坊も生まれる。若すぎるパパとママだけどなんとか上手く

 やっていけるさ。

 あとは、麻有美の手術が成功することを祈るだけだ。

 2〜3日の検査入院だった麻有美は体のことを考え長期入院になった。

 僕と麻有美はその後1週間を病院で過ごし、将来の事について

 時間を忘れて語り合った。

 僕の体は、ほぼ回復しもう全力投球も出来そうだ。

 そういえば、村松先生はどうしているだろう…。

 アメリカに出張しているらしいが、詳しくは知らない。

 まあ、あの人なら大丈夫だろう。きっとどこでも

 上手くやってるに違いない。

 そうだ!今日はクリスマスイブだった。病院でもささやかだが

 パーティーもあり、クラスメートや野球部の連中も見舞いがてら

 差し入れやプレゼントを持って来てくれた。

 楽しいイブを過ごし消灯時間になった頃、部屋の電話が鳴った。

 「はい、もしもし」

 「正樹君か?」

 懐かしい髭面の声だ! 

 「村松先生どこにいるんですか? 心配しましたよ」

 「緊急事態なんだ。今から言う事をよく聞いてくれ」

 しばらく受話器を持ったまま僕は凍りついていた。



  

 〜最終章〜(計画)





 親父は母さんと食事に出掛けているらしく、連絡が取れない。

 我が家のイブは毎年馴染みのレストランでディナーを楽しむ。

 村松の電話を切り、すぐレストランに連絡を入れたが、もう帰った

 後だった。

 携帯はイブのためか『回線が非常に混み合っています』のアナウンス

 ばかりで、通話出来ない。

 混乱する思考回路を落ち着かせ、親父には取り敢えずメールを入れた。

 麻有美には、詳しく説明している時間が無く、とにかく手術に備え

 心の準備をしておくようにだけ言って病院を飛び出した。


 麻有美のドナーが、5時間程前に脳死状態となり心臓を摘出した。

 しかし、土壇場になって書類上の不備を理由に、摘出した心臓を確保

 出来なくなった。村松は書類不備の確認を取るため、何度も病院側に

 直訴したが受け入れて貰えなかったらしい。

 ≪俺は今、ロサンジェルス空港に向かっている。勿論、麻有美ちゃんの

 心臓も一緒だ。俺が勝手に持ち出した事はまだバレてはいないはずだ≫

 村松はらちの明かない交渉を諦め、保管庫から盗み出したと言う。

 ≪運が良ければ日本時間の25日15:00に成田に着く。だが、その

 頃にはすでに手配は回っているだろう。ここからが重要だからよく頭に

 叩き込んでくれ≫

 成田に着いた途端、身柄を拘束される可能性が高い。そうなったらどんな

 に説明しても、簡単に開放されることはないだろう。心臓は証拠品として

 没収され、摘出後30時間の限界を超えてしまう。

 村松の計画通り、上手くいくだろうか…。


 僕はタクシーで家に向かった。入院以来2週間ぶりの我が家は人の気配が

 無く、まだ親父達は帰ってはいないようだ。

 いったい何処に行ったんだろう。久しぶりにホテルで外泊でもしている

 のだろうか。よりによってこんな時に…。それよりも、やる事がある。

 急いで親父の書斎に行き、隠し金庫の暗証番号を入力した。

 しかし、扉は開かない…。

 以前、親父から教えて貰った番号に金庫は反応しない。

 何度か試してみたがやはり駄目だ。

 親父と母さんの携帯も『電源が入っていないか電波の届かない…』の

 アナウンスばかりで繋がらない。

 「肝心な時に役立たずな携帯め!」

 受話器相手に悪態をついても仕方ないが、気持ちを落ち着かせる

 効果はあったようだ。

 僕は書斎にあるパソコンを起動させ、ネットバンクを呼び出してみた。

 よかった…。これは以前の暗証が通用した!

 残高を照会し、村松から指示された金額に足りていることを確認した。

 胸を撫で下ろし、慎重にドル建ての計算をして20万ドル分を自分の

 口座に振り込んだ。

 それからガレージに行き、シャッターを開けた。 

 そこには大破した愛車の代わりに、最新型のバイクが僕を待っていた。

 事故の相手は居眠り運転をしていたらしく、全面的に非を認め入院費

 と新車のバイクを弁償してくれた。僕もスピードを出し過ぎていたから

 自分にも非があると思い、それ以上の要求はしなかった。

 まあ、保険会社が弁済するのだから気にする事もなかったが…。

 僕は新車に跨り、イグニッションを入れた。心地よいアイドリングの

 音が狭いガレージに響き渡る。寒い夜なので、十分暖機運転をして

 おこう。エンジンを掛けたまま部屋に戻り、麻有美宛に僕の気持ちと

 想いを真剣に綴った手紙を書いてバッグにしまい、両親には村松との

 経緯を書き留めた手紙を玄関の床に貼った。

 ここなら帰ってきた両親が見落とすことは無い。

 僕はありったけの現金とキャッシュカードを革ジャンのポケットに

 詰め込み、念を入れて玄関の灯りだけ点けたまま家を出た。

 今は25日3:30。時間はまだ十分ある。僕は麻有美の家に寄った。

 こんな時間に訪ねるのは非常識だと思ったが、今はそんな事を言っている

 場合ではない。突然な僕の来訪に麻有美の両親は驚き慌てていたが、

 事の次第を差し障りの無いように説明し、一応の報告を済ませた。

 ありのまま説明するのが筋だと解っていたが、敢えて止めておいた。

 それでも、娘を心配し、僕に気を使う、精一杯の複雑な感情が

 僕には見て取れた。

 本来ならば、病に伏せる愛娘を妊娠させた僕に対し、怒りをぶつけて当然

 のはずだ。それなのに娘の気持ちを尊重し、僕を信頼してくれる麻有美の

 両親には感謝の言葉も無い。娘を案じ脆くも崩れそうなこの両親に、

 これ以上の心配をさせない為に僕は言った。

 「僕にとって麻有美は全てなのです。ですから、後悔しないように

 今出来る限りの事をやります」

 微妙な僕の言葉に、何かを敏感に感じ取ったのか

 ためらいがちにもご両親は微笑し肯いてくれた。

 後は行動あるのみだ!

 

 空港に行く前に、一度病院に戻った。麻有美を起こさないように

 そっとドアを開ける。部屋中クラスメートや看護婦からの

 クリスマスプレゼントで一杯だ。僕は母さんに頼んで白いセーターを

 買って来てもらいそれをプレゼントした。きっと麻有美に似合うはずだ。

 麻有美からは手編みのマフラーを貰った。密かに編んでいたらしいが

 お節介な看護婦からすでに情報は入手していた。去年は手編みの手袋

 を貰ったが、親指以外全部一緒に入るタイプだった事と色がピンクな

 こともあり、流石に学校にしていくにはためらいがあった。

 それを察してか、今年はグレー調のシックなマフラーを選択してくれた

 らしい。

 僕は静かに麻有美の枕元に近づき、さっきしたためた手紙を置いた。

 麻有美の寝顔はこの世のものとは思えない程美しく

 まるで陶器で出来たアンティーク人形のようだ。僕はその絹のように

 きめ細かく、陶器のような美しい白い頬に軽くキスをして部屋を出た。

 

 首都高から湾岸線に入り東関道に抜ける。時間は7:00を回った。

 村松は大丈夫だろうか…。

 順調ならば、今頃は丁度ハワイ上空辺りだろう。

 不安は絶え間なく僕を襲う。ここ3ヶ月はずっと不安と同居してきたけど

 こんな気持ちに慣れることはない。

 成田空港に着いたのは10:15だった。ここに来る前、銀行に寄ってい

 たから少し時間が掛かった。だが、時間はまだ十分ある。

 今、僕は北ウイングの待合ロビーにいる。この場所で彼と落ち合う

 約束だからだ。10:30を少し回ったところで

 僕の携帯が鳴った。

 「正樹か? 今、手紙を読んだ。いったい…」

 親父の緊迫した声がデジタル信号を介して僕の耳に響いた。

 僕の残した手紙で事態と状況はおおよそ把握しているらしい。

 僕は知りうる限りの事を付け加えて伝えた。親父は冷静に受け止め

 僕の行動を咎めはしなかった。

 「とにかく、父さんは手術の準備をしておいて下さい。予定では

 15:00に成田に到着しますから、病院には17:00までに

 届けられると思います」

 「解った。父さんはこれから病院に行き、準備に取り掛かる。お前は

 こちらの心配はしないでいい。それよりも、十分に気を付けなさい。

 くれぐれも危険な真似だけはしないように。いいな」

 僕は電話口で肯き、何かあったら連絡する事を約束して電話を切った。

 
 摘出から受け取るまでに23時間は掛かってしまう。手術に要する

 時間を考慮すればギリギリ間に合うタイミングだ。

 もしも、飛行機が遅れたり計画通りに事が進まなければ一巻の終わりだ。

 今、時計は14:00を回った。あと1時間で到着する。僕はただ祈る

 しか手立てが無い。

 村松の乗った飛行機は、定刻通り到着するとインフォメーションは伝えて

 いる。しかし、問題はその後だ。はたして上手くいくだろうか…。


 携帯が鳴った。どうも病院からのようだ。

 「もしもし…。あたしだけど」

 麻有美の声だ。

 「今、何処にいるの? なんか怖いよ…」

 僕は手術までに戻る事を約束して、宥めながら言った。

 「何も心配しなくていい。絶対に成功するから大丈夫だ」

 「うん…。でも、赤ちゃん大丈夫かな…」

 僕は親父の言葉を思い出した。

 「それも、大丈夫だ。親父は全力で君と僕達の赤ちゃんを

 助けてくれる。だって、君のお腹の子は親父の孫なんだから」

 状況に依っては中絶も止む終えないと、親父は言っていたが

 今は嘘も仕方ない…。

 「とにかく、気持ちを落ち着けて成功する事だけ考えるんだよ」

 「うん! そうする。あ…手紙ありがとう。嬉しかった」

 「うん。じゃあ、あとでな!」


 時計が15:00を指した。飛行機はここから見える位置のターミナル

 に接続した。僕は逸る気持ちを抑えながら到着デッキに目を凝らした。

 次々と乗客が降りてくる。その時、警備員が大勢デッキに駆けつけ1人の

 男を取り囲んだ。男は抵抗する素振りもなく大人しく連行された。

 「村松先生…」

 男は身だしなみも良く、髪はきちんと整えられ、上等のスーツを身に

 着けていたが、紛れも無くあれは『髭面』だと僕には分った。

 「すみません、村松先生…。このご恩は一生忘れません」

 僕は待ち合わせの場所に戻り、彼が来るのを待った。

 

 20分程たった頃彼はやって来た。どうやら、着いて来いと言っている。

 僕は彼の指示に従い後を追った。ロビーから下層階に行く階段の踊り場で

 彼は立ち止まり非常ドアを開けた。薄暗い通路に出た所で僕に言った。

 「物ハコノ中ニアル。確認シロ」

 彼は肩掛けバッグを僕に寄こし、巨体を揺らしながらニヤっと笑った。

 村松の計画は現地で雇った探偵に、運び屋をやらせるというものだった。

 急遽、海外へ出掛けられる人間はそう多くない。アメリカの裏社会に詳し

 い私立探偵なら、偽造パスポートもビザも簡単に手に入る。なによりも

 金になるなら、少々危険な仕事も引き受けるのが彼らだ。

 彼は村松と一緒に搭乗し、日本にやって来た。報酬は20万ドルで僕から

 受け取る約束になっている。 僕は受け取ったバッグを開けて中を

 確認した。ビニール袋に包まれた肉の塊が氷の中に漬けてある。

 普通の肩掛けバッグに見えたそれは、携帯用の保冷バッグだった。

 本物の人間の心臓など見た事もないが、肉の塊は人体模型の標本で

 見覚えのある心臓の形をしている。

 「確カニ受ケ取ッタ。約束ノ20万ドルダ」

 慣れない英語で僕は答え、さっき銀行で両替してきた20万ドル分の

 小切手を渡した。時間はもう16:00になろうとしている。

 僕がバッグを肩に掛けようとした途端、運び屋の大きな手が僕の腕を

 掴んだ。僕はあまりの馬鹿力に驚き、悲鳴をあげてしまった。

 「ヘイ! ボーイ。約束ハ現金ノハズダ」

 「ソンナ事ハ聞イテイナイ。小切手デ用意スルヨウニ指示ガアッタ」

 村松は確かに小切手で用意するように言っていた。それに現金で20万

 ドルなんて大金は税関で目立つから普通は避けるはずだ。

 「俺ハ現金ヲ指定シタ。小切手ナラ、アト10万ドル必要ダナ」

 こいつは最初から僕に吹っ掛けるつもりでいたらしい。契約した本人

 の村松は連行され、確認の取りようが無い。

 「分ッタ。デハ貴方ノ口座ニ後デ振リ込ム。今ハ時間ガ無イカラ無理ダ」

 彼は厳ついサングラスを外し、濁った群青色の目で僕に凄んだ。

 「ナメテイルノカ? 今スグ、アト10万ドル用意シロ。ソレマデコレハ

 渡セナイ」

 そう怒鳴ると、僕からバッグを奪い取ろうとして腕を捩じ上げてきた。

 ここで、こんな奴に構っている時間は無い。僕は渾身の力を込めて

 大男の股間を蹴り上げた。断末魔の呻き声と共に僕の腕を捩じ上げていた

 大きな手がはずれた。すぐさま僕はバッグを抱え薄暗い通路を全力で

 走った。後ろから叫び声を上げながら、奴が追ってくる。本当なら

 あんな奴に追い付かれるような僕ではないが、体が言う事を聞かない。

 まだ、怪我の影響であちこちの筋肉が悲鳴を上げている。だけど、

 そんなことに構ってはいられない。やっと、明るい場所が見えてきた。

 ここを抜ければ人込みに紛れて逃げられる。そう思った瞬間、後ろから

 ≪パーン≫という乾いた音が聞こえた。背中に鈍い感触が走る。

 前につんのめりそうになったが、なんとか堪えて明るい場所に出られた。

 後ろで複数の大声が聞こえる。振り向くと警備員らしき連中が、大男に

 飛び掛り取り押さえているところだった。途中、警備員控え室と書かれた

 ドアを見つけ走りながら叫んだことが功を奏した。

 僕はバイクを置いてある場所に急ぎ、バッグを肩からたすきに掛けた。

 時計を見ると、もう16:30を過ぎている。エンジンを掛け、急発進

 しながら親父に連絡を入れた。

 「正樹か? 何度も電話したんだぞ! 今何処だ」

 「たった今、空港を出たところです。1時間…いや、40分でそちらに

 着きます。受け入れ準備をお願いします」

 「準備はとっくに整っている。それより、成田から40分では無理だ。

 電車を使いなさい。そのほうが早…」通話が切れた。どうやら電池が

 無くなったみたいだ。今から電車ではどうやっても1時間半は掛かって

 しまう。それに、体がだるい…とても歩けそうに無い。迷ったが、考えて

 いる余裕は無い。僕は電池の切れた携帯を投げ捨てヘルメットを被った。

 空港から病院まで約120キロ。この新型バイクなら軽く250キロは

 出る。途中の一般道を考えても40分で着くはずだ。

 いや、着けてみせる!




 
 「先生、赤ちゃんを助けて下さい。あたしよりも赤ちゃんを」

 わがままな事だと解っている。それが、難しいという事も知っている。

 だけど、私はそう言わずにはいられなかった。

 「麻有美。先生を困らせてはいけない。今は自分の事だけ考えなさい」

 お父さんが優しく言った。

 先生は私の手をそっと握ってくれた。

 「私は、君のお腹の子のお爺ちゃんになる。もっともこんなに早く

 孫が出来るとは予想外だったがね」

 私が微笑むと先生も笑顔になった。

 「だから、私はこれから生まれてくる可愛い孫と、お嫁さんのために

 私の全てを懸けて君を手術する。安心していなさい」

 私は涙で声が詰まり、感謝の言葉も出ない。

 お父さんとお母さんもあたしとマー君を祝福してくれている。

 なんてあたしは幸せなんだろう。

 「もうすぐ、正樹が戻ってくる。君に最高のクリスマスプレゼントを

 持ってね。あいつが戻り次第、すぐに手術を始めるからね」

 私の心臓を受け取りに空港に行ったことは聞いたけど、そういうことって

 国際赤十字がやるんじゃなかったのかな…。前に調べた時、本には

 確かそう書いてあったと思うんだけど。まあ、いいか…。

 それより、早くマー君帰ってこないかな。段々、怖くなってきたよ。

 「じゃあ、そろそろ手術室に行こうか。先に赤ちゃんの様子を調べて

 おいたほうがいいからね」

 私は先生の言葉に肯き、お腹をそっと撫でた。

 「さあ、赤ちゃん! 行くわよ」




 
 途中の事は覚えていない。ただ風を切る轟音だけが記憶にある。

 もう、病院は目の前だ。正面玄関より救急搬入口の方が手術室には近い。

 何故か視界が霞む。気力を振り絞りなんとか搬入口に到着した。

 入り口では何人か看護婦達が待ち構えていた。僕はバイクを止め

 足を着いたが、重さを支えきれず転倒してしまった。とっさにバッグを

 かばい抱きかかえた。よかった…心臓は無事だ。

 倒れた僕に看護婦達が駆け寄ってきた。僕は抱えていたバッグを

 看護婦に渡し、そのまま意識を失った。


 

 
 「おい! しっかりしろ! 目を覚ませ!」

 髭面の声だ…僕の耳元で叫んでいる。ここは…何処だ。

 真上に手術用のマルチライトが見える。

 「手術室か…」

 僕は無意識に呟いていた。

 「気がついたか! よかった…」

 僕の右側から声がする。振り向くと村松が僕と平行に寝ている。

 だが、何故か髭面じゃない…。髪も整っている。

 「村松先生…なんでこんな所で寝てるんですか」

 「なんでって…。輸血してんだよ。お前に」

 「輸血…?」

 「ああ、俺で5人目だ。麻有美ちゃんの親父さんもさっきまでお前に

 輸血していたんだよ」

 目を凝らしてよく見ると、確かに輸血用のカテーテルが腕についている。

 僕は何があったのか思い出せなかった。ただ、風を切る轟音だけが

 頭に残っていた。

 「しかし、なんて運のいい奴だ。これを見てみろ」

 村松は僕の目の前に、穴の空いたライターをぶら下げた。

 あのライターだ。美穂さんの…魔法のライターだ。

 「お前、銃で背中を撃たれたんだぞ! たぶん、走っていてこれが

 後ろに回ったんだろう。奇跡だよ…これがなきゃもうとっくに」

 僕はやっと思い出した。

 そうか…やっぱりあの乾いた音は銃声だったんだ。もしこのライター

 が無かったら、きっと間に合わなかったな…。

 そうだ…。

 「村松先生! 麻有美は…麻有美はどうなりました?」

 「安心しろ! 蘇我先生はゴッドハンドだ。母子共に無事だったよ」

 村松はあの満面の笑顔で言った。

 「本当に願いが叶いましたよ。美穂さんと村松先生にはなんてお礼を

 言ったらいいか…」

 「よせやい! 逆に俺がおまえに謝らなくちゃならん。あんな運び屋

 雇ったせいで、こんな目に遭わせちまって…悪かった」

 「そんな事…。村松先生がいなければ麻有美も赤ん坊もきっと

 助からなかったはずです。ありがとうございました」

 「止めてくれ! 俺はお前と約束したから。ただそれだけだ」

 僕は村松に笑顔で答えた。だが、意識が遠のく…。

 「空港で連行されてどうなるか、心配しました」

 段々と感覚が薄れていく…。

 「うん。サンディエゴ病院から通報されてな、予想通り空港で捕まった

 訳だけど、すぐ被害届けを撤回したみたいなんだ」

 僕は虚ろな意識の中にいたが、村松の話はよく聞こえていた。

 「どうやら、病院側のミスらしくてな、書類に不備なんてなかったんだ。

 おかげで、俺もお前もえらい目にあったけどな。まあ、麻有美ちゃんと
  
 赤ん坊が無事だったから良しとしようか」

 僕は微笑し肯いた。麻有美も赤ん坊も無事で良かった…。だが、僕は

 どうやら、もう駄目みたいだ…。

 「村松先生。麻有美に…僕のために生きてくれと…伝えて下さい」

 「なに言ってんだ。おい! 正樹…死ぬな! まだ早すぎる!」

 その言葉を最後に、僕は何も聞こえなくなった。








 「麻樹ちゃん、これテーブルに運んでちょうだい」

 今日はマー君の23回目の誕生日だ。私は腕によりをかけて

 マー君の大好きな春巻きを作った。

 「はーい!」

 娘は今年で5歳になる。よく私にそっくりって言われるけど

 私はパパに似ていると思う。

 「今日はお爺ちゃん達が来るから、嬉しい!」

 蘇我先生夫妻は麻樹に会うのを楽しみにやって来る。

 私は償えない罪ほろぼしを、麻樹に委ねているみたいで少し気が引ける。

 「あ! そうだ。髭の先生も来るんだよね!」

 麻樹は村松先生が大好きだ。いつもいないパパの代わりに村松先生が

 よく遊んでくれるから…。

  
 『ピンポーン!』

 「あ! お爺ちゃんかな?」

 麻樹が勢い良く玄関に走り出す。私は麻樹の後に付いて玄関を開けた。

 「いらっしゃいませ! お義父さん、お義母さん。それに、村松先生」

 「お爺ちゃん、お婆ちゃん! 髭先生!」

 麻樹は、嬉しくて大はしゃぎだ。

 マー君のために作った手料理で本人のいない誕生日をみんなで祝った。

 「お! そろそろかな? 麻樹ちゃん、テレビ付けてくださいな」

 お爺ちゃんが膝に抱いていた麻樹に言った。

 「はーい!」

 麻樹は素直で明るく伸び伸び育ってくれている。

 「お義父さん。本当にすいません。私のために…」

 「麻有美さん。私はもう気にしていませんよ。それに正樹が自分で

 選んだ道ですからね。君が詫びることは無い」

 唐突に村松先生が言った。

 「お! 今日は3番か!」

 お義父さんがテレビを見ながら言った。

 「医者だけが職業じゃない。あいつがこれを選んだのなら私は

 それでいいと思いますよ」

 村松先生が麻樹を呼び膝に抱きながら言った。

 「ほら、次パパの番だぞ」

 アメリカ大リーグの生中継。アナウンサーが軽快な英語でバッターを

 紹介している。


 「次ノバッターハ日本ノ怪物! マサーキ ソーガ〜!!」





 (完)

2003/12/27(Sat)07:02:33 公開 / 柏原 純平
■この作品の著作権は柏原 純平さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
たくさんのメッセージありがとうございます。こんなに大勢の方に読んで頂けたことをとても嬉しく思います。今回は初めて恋愛物に挑戦しましたが、思っていた通り難しかったです。原稿を読み返し何度も修正を加えてやっと完成しました(^^;長い作品に最後までお付き合い頂き本当にありがとう御座いました。数々の感想、ご指摘
全て私の宝物です。今後の作品に反映させて、もっと上達するように頑張ります。次回は私の得意な(下手ですが…)サスペンスを投稿する予定です。これに懲りずまたよろしくお願い致します。
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