- 『蝶の夜』 作者:織方誠 / 未分類 未分類
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全角2660文字
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原稿用紙約9.35枚
ひらり、ひらりと。
そのゆるやかな残像を目で追う。
目の前を横切ったのは、小さな白い蝶。
母が死んだ。
半年間に渡る入院の末の病死だったので、心の準備は出来ていた。
―――というか、すでに誰かの死によって動かされるほど正常な精神を持ってはいない。
それがたとえ、母親の死であっても。
そもそも、母に対しての感情は随分と前から欠落していたように思う。もちろん、母だけではなく父に対しても。
父母の自分に対する態度からすれば、当然のことなのかもしれない。
彼らは「親」として失格だった。
彼らは二人の子供の内、一人に愛情を偏らせていた。
自分は、いてもいなくても構わないかの様に扱われていた。
これは生まれた時からのことであり、どうしようもない事実であり、変えようのない真実。
とにかく『あの子ではなく、お前が死ねばよかったのに』と面と向かって言うような人の死を身が引き裂かれんばかりに哀しむほど、異常な精神を自分は持ってはいなかったようだ。
―――そう、両親に愛されていた兄は死んだ。
両親に愛されていなかった自分の代わりに、その身を海に攫われた。
この落ちこぼれの自分と同じ遺伝子を持つとは思えないほど優秀で、有望で、秀麗で、才能に溢れ、両親の大きすぎる期待を受けてそれでも平然としていた人。
そして――誰よりも自分を愛してくれた人。
その兄が死んで母は病に倒れた。母が死んで、仕事に打ち込む父は家に帰らなくなった。
残された自分は、兄と言う唯一の支えを失って、ただぼんやりと日々を過ごしていた。
かろうじて合格した中堅の公立高校には、もう何日も何ヶ月も行っていない。制服はすでにクローゼットの中で埃をかぶって、だんだん白っぽくなっている。
外に出るのは燃えるゴミの日くらいで、あとは二週間に一度ほど食料を買いに行く程度。
誰かが訪れても居留守を決め込み、電話に出る気はないので電話線を抜いてしまっている。
それって人間としてどうだろう、と首を傾げたくなる生活。
それでも最低限の生活を送って生きているのは。
死にたいと思いながら、死なないのは。
兄が救ってくれた命だから。
ただ、それだけ。
ある夜。冷蔵庫を開けると、食事になりそうなものはほとんどなかった。
マヨネーズと、スライスチーズと、梅干。
「……………………」
時刻は深夜を回っていたが、さすがに37時間も活動していない胃が不調を訴えている。
便利なこのご時世だ。近くのコンビニは不眠不休で商品を売ってくれている。
二週間と三日ぶりの買出しは明日にすることにして、とりあえずコンビニに弁当でも買いに行くことにした。
妙に乾いた明るい声と、眩しすぎる照明。
コンビニエンス・ストアーが高い光熱費を払って、昼でも夜でも店内を必要以上に明るくするのは、客を寄せ付けるためなのだそうだ。
虫たちが夜、街灯に集まるのと同じ原理なのだろう。
「そうか、人間は虫なのか……」
兄にその話を教えてもらった時と同じ感想を呟きながら、小さな不夜城を後にする。
手には、確実に自然破壊の一端になっているのであろう白いビニール袋。
街灯が照らす夜道をのんびりと歩きながら、
「……あ、」
ふと目の前の白い物体に気付いた。
ひらり、ひらりと。
そのゆるやかな残像を目で追う。
目の前を横切ったのは、小さな白い蝶。
―――こんな深夜に飛ぶのものだろうか、蝶は。
けれど、とても蛾には見えない。
ひらひらと頼りなく飛ぶその蝶が妙に気になった自分は、後についてゆくことにした。
巡回中の警官に見つかればそれはそれで厄介だろうとは思うが、そんなことはどうでもいい。
この蝶は、どこに帰るのだろうか。
ココロの帰る場所を失った自分は、そのことがとても知りたかった。
辿り着いたのは、近所の小さな公園。
そこで自分は、突然あの蝶を見失った。
「あれ?」
きょろきょろと薄暗い公園を見回す。
一本しかない街灯に照らされているのは、小さな古ぼけたベンチ。
その前に申し訳程度の砂場があり、横にはところどころペンキの剥げた滑り台。
そんなものしかない小さな公園をぐるりと見渡して、自分は小さく溜息を吐いた。
ここは幼い頃、兄とよく遊んだ場所だ。
呼び起こされた記憶が次々と蘇り、思考を支配する。
もう二度と戻ることのない、大切な日々。
愛おしい、光に溢れたあたたかな毎日。
佇んだままゆっくりと目を閉じて、脳裏に浮かぶ残像を意識の中で追いかける。
待って、と。縋るように。
置いて行かないで、と。請うように。
こんな意味のない世界に、自分をひとりにしないで。
自分がこの世に存在する必要など、既にない。
兄に愛されることが、両親にも見捨てられた自分の唯一の存在意義で。
自分を愛することが、過剰に期待を寄せられた兄の無二の存在理由で。
だから自分は生きていて、だから兄は平然としていた。
二人でひとつの存在だった。
助け合うとか、補い合うとか、そういった意味ではなく。
ただ、本来ひとつであったものが元に戻ろうとしていただけだった。
それはとても当然なこと。
けれど、その片割れは。
いつも目の前にあった背は、永久に消えてしまった。
―――もう少しでその背を捕えられる、と言うところで目を開けた自分は、ようやくあの蝶を見つけた。
蝶は、足元に落ちていた。
しゃがみ込んでよく見なくても判る。この蝶はもう飛ばない。
そういえば忘れていたが、今の季節は冬である。
季節外れの蝶に、帰る場所など最初からなかったのだ。
この自分と同じように。
蝶は、土に帰してやった。
冷たい土を素手で掘り、軟らかくなった土を屍骸に被せながら。
自分は海がいいな、とぼんやりと思った。
―――帰る場所は、海がいい。
まだ見つかっていない兄の遺体は、あの広い海のどこかにいるのだろうから。
だから、海がいい。
せめて同じ場所に眠りたいから。
蝶の夜の翌日。新月の夜。
買い物帰りの海で、黒猫に出会った。
兄を奪った海から、突然現れた黒猫。
美しくしなやかなその肢体は、どこか兄を連想させた。
兄の名で呼ぶとついて来たので、家に連れて帰ることにした。
自分が入水自殺を図ったのは、それから一ヵ月後。
もちろん、骸が見つかることはなかった。
[END]
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■作者からのメッセージ
受験が終わったのでやりたい放題中の織方です。
かなり以前からあっためている双子の兄弟話。
決してハッピーエンドではないけど、ほんの僅かな「救い」がある話が好きなのです。
現在リハビリ中につき、調子が悪いです。
中途半端な話で申し訳ない……
こんなものですが、感想を下さるととても嬉しいです。
よろしくお願いします。