- 『美人画怪奇譚』 作者:辻原国彦 / 未分類 未分類
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全角3115文字
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原稿用紙約8.95枚
その店は、賑やかな大通りから一本路地に入ってすぐのところにあった。店名を記した看板もなく、一見しただけではそこが骨董品店とはわからないような店で、曇ったガラス窓越しに注意深く中をのぞかない限り、初めて訪れて発見できるような店構えではない。
幸運にも、私にはその店の常連という友人がおり、私はその友人から詳しくその店のことを聞いてから、今日、ここにやってきた。
何の植物かもわからない鉢植えが所狭しと並べられた店先に立ち、私はしばらく曇ったガラス窓を見つめていた。店の中からは、まったくといっていいほど人の気配は漂ってこない。そのとき、ふと周りが異常なほど静かなことに気付いた。大通りのほうに首を向ければ、幾人もの人間が忙しそうに行き交い、その向こうでは車がのろのろと進んでいるのにもかかわらず、騒音は何ひとつ聞こえてこない。まるで、何か見えないものでそっくり切り取られた世界にいるような気がした。もしかすると、向こうからはこちらが見えていないのかもしれない。
急に怖くなってきた。自分は異空間に足を踏み入れてしまったのでは、と思い始めたとき、店の引き戸が音もなく開いた。
「お客さんかね?」
ひどくしわがれた声と共に姿を現したのは、腰を曲げた小柄でやせ細った老人だった。禿げ上がった頭から顔までしわとしみに覆われ、色を失った唇が幽かに動く。両の目は落ち窪んでいて黒目の部分しか見えない。それでも、あごから長く垂れ下がった真っ白な髭は立派なものだった。
「それとも、単なる冷やかしかな?」その老人がいたずらっぽく言う。
「いや、私は客ですが、ここでいいのかなと思っていたんです」
「ええ、ええ。ここでいいのですよ。あなたが探している店はここです。ささ、中へどうぞ」
顔をさらにしわくちゃにしながら招き入れる老人に、私は少しながらの違和感を感じながらも、勧められるままに店内に足を踏み入れた。
薄暗く、幽かに黴臭さが鼻をつく店内は、予想に反して整然としていた。壁に作りつけられた棚には、数え切れないほどの骨董品が並べてあるものの、埃ひとつ積もっていないし、散らかっているという印象を与えなかった。
「さて、なにをお探しかな?」
いつの間にか店の奥の上がり框に腰掛け、煙管で一服している老人が問いかけてきた。右手で古そうな煙管を口元に運びながら、左手ではあの純白のあご鬚を優しくさすっている。
「ええ、実は掛け軸をひとつと思っていたんですが、ここでは取り扱っていらっしゃらないのですか?」
私は少し残念そうに問い返す。なぜなら、この店を教えてくれた友人が、この店ならきっとすばらしい掛け軸があるはずだといっていたからだ。
「いえいえ、心配なさらずに。掛け軸ならとっておきのものが奥にありますよ。少しお時間を頂戴いたします。どうぞここにおかけになってお待ちください。」
そういうと、老人はひどくゆっくりした動作で店の奥に消えて行った。
私は上がり框に座ると、もう一度店内を見回した。どれも値打ちがありそうなものばかりだ。まだまだこういう世界に足を突っ込んで日が浅い私にとっては、どれもが高価で価値のあるものに見えてくる。もしかすると、掛け軸も驚くほどの値段がついているのではあるまいか。
財布の中を気にしていると、老人が奥から戻ってきた。小脇に抱えられた長細い木の箱は、それだけでひどく高価なものに見えた。ごくりと喉をならす私を尻目に、老人はゆっくりと正座し、恭しい手つきで私の前に木の箱を置いた。紫の細い布で縛られた蓋には、『女』と薄い筆文字が読み取れる。
「どうぞ、お開けになってください」
そう促されると、私はゆっくりと紫の紐を解く。蓋を開けると、何か得体の知れない、それでいて芳しい香りが幽かに立ち昇った。一瞬めまいに似た感覚にとらわれるも、すぐに拭い去られた。
箱の中には、さらに紫色の布で包まれた巻物があった。私は恐る恐るそれを持ち上げ、布をはがす。見えてきたものは相当年月を経てきた巻物のように見えたが、しみや汚れはひとつもなく、今なお豪華な金色の刺繍が光り輝いている。私は一度店主である老人をちらりと見、震える手で掛け軸を広げた。先ほどの香が、再び鼻腔をくすぐる。
私は立ち上がると、両手に持った掛け軸をまじまじと見つめる。
「お持ちいたしましょう」
そういうと、老人が掛け軸を持ってくれた。私は一歩下がり、わざとらしく手を顎にやる。そこに描かれていたものは、すばらしかった。
不思議なほど真っ白な世界に、着物をはだけさせて座り込む女性が描かれていた。俯き加減のその顔は、妙に現代的な美しさを備えている。少し乱れた髪の毛の隙間から、真っ赤な紅を引いた唇が見える。白くはちきれそうな肌を惜しげもなく露出する女性の右手はうなじにそっとあてがわれており、左手はあらわになりそうな乳房を着物で隠している。
私は、一瞬でこの掛け軸の虜になっていた。
さらによく見ると、この掛け軸には似つかわしくないものが描かれているのに気付いた。掛け軸の中の彼女に、下の方から何本もの影が伸びているのである。まるで、美しい彼女を我が物にしようと、亡者達が地獄から伸ばした手のようだ。
「すばらしいものでしょう。江戸中期に描かれたらしいのですが、詳しいことはわからないのです。何しろ、書も印もありませんから」
その老人の声で、私は現実の世界に引き戻された。老人は、掛け軸の裏からひょいと顔を出した。
「どういたしましょう?」
「おいくらほどでしょうか?」
私は、もうこの掛け軸から離れられなかった。なんとしても手に入れたかった。私は、掛け軸の中の女に一目惚れしていたのだ。
「一千万ほどでどうでしょう?」
最初、老人が言ったことがよくわからなかった。掛け軸の中の女のことで頭が一杯だった私の頭の中に、現実という波が押し寄せてくる。
私は愕然とした。
「一千万・・・・・・そんな・・・・・・」価値があるわけないじゃないか、とはいえなかった。一度この掛け軸の女を見てしまえば、それ以外のすべてが魅力を失うほどに美しく思えてしまう。
「かなり悩んでいらっしゃるようですな。よろしいですよ、この掛け軸を眺めながら、好きなだけ熟考してください」
老人はそういうと、壁に掛け軸を掛けた。私はその前に座り込み、じっと掛け軸の女を見つめる。再び、あの香が鼻腔をくすぐる。
私は買うか買わないかを考えていたのではなく、ただ掛け軸の女に見とれていただけだった。ただただ、私は掛け軸の女を見つめ続けた。そのため、老人が私の傍らに蝋燭を一本立てたのも気付かなかった。やがて、まわりは暗闇に包まれ、蝋燭の炎だけがゆらりゆらりとあたりを照らす。
どれほどの時間が経ったのだろうか。ふと、今までになく強い香が私の鼻腔をくすぐった。そして、うなじに熱い吐息が吹きかけられた。一瞬からだが硬直するも、私は後ろを振り向いた。そこには、女がいた。透き通るような白い肌をした女が、着物をはだけさせ、畳の上にぺたんと座り込んでいた。
俯き加減の顔を上げ、女は私に優しく笑いかける。白魚のような指が、艶めかしく私を誘う。
ゆらり、ゆらり。炎が揺れる。
私は立ち上がると、ゆっくりと女に近寄った。少しでも早く触れたい。その白い肌に。真っ赤な唇に。私は手を伸ばす。すぐそこに、女がいる。すぐそこに。
ゆらり、ゆらり。ゆらり、ゆらり。炎が揺れる。
そして、私は亡者になった。掛け軸の中で、これからも永遠に彼女に手を伸ばし続ける。いつまでも、いつまでも。
ふっと、蝋燭が消される。あたりは真っ暗になった。
了
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■作者からのメッセージ
骨董品というものは、それだけで非常に不気味なものもあります。それでいて、今回のような魅力的なものも。
今作は、できるだけ和風なものに仕上がるように気を使ってみました。