- 『「歩き出すために」』 作者:カニ星人 / 未分類 未分類
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原稿用紙約12.15枚
もうずっと昔から、私は現実を歩んでいない。
夢見心地で、地に足が着いていないような感覚で、ここまで来てしまった。
六年前のあの日から、ずっと。
* * *
「明日、○○駅に五時待ち合わせでいいか?」
彼と付き合い始めて三ヶ月が経った頃。私達はいつもと同じように、電話で週末のデートの待ち合わせをした。
「うん! O.K。いつも通りだね」
私は笑って言う。何も変わらないでいることが嬉しかった。と、同時になんだかおかしかったから。
「ん、じゃあ明日」
そう言う彼の声に目を閉じて薄く微笑み、私も、じゃあ明日、と言って電話を切る。
切った後はしばらくそのまま横になって、彼との会話の余韻を噛み締める。
私は彼が大好きだった。
次の日、私は三十分遅れて待ち合わせ場所に着いた。
まずかったな、と思ってはいたが、彼は優しいからと高をくくっていた。
なんといっても六歳年下なのだ。
いくら私が三人兄弟の長女で甘えるのが下手でも、彼が一人っ子で甘え上手でも、こういう場合年上が目を瞑るのは暗黙の了解。
笑ってごめん、と言えば済んでしまうのだ。
いつもなら。
帰省ラッシュの始まる駅の人ごみの中に、約束の銅像の下で座り込んでいた彼を見つけて、私は駆け寄った。
Tシャツ、ジーパン。
残り一メートル、と言うところで彼がおもむろに顔を上げた。
だから私は、笑顔で、ごめん遅れたと言った。
「あぁ」
その時の彼はいつもと変わりなかったように見えた。
気づくべきだったのだ、異変に。この日の彼の顔は、今まで見たことのない表情だったってこと。
私達は駅ビルのエレベーターに乗りこむ。
入って向かい側の壁がガラスになっていて、昇るにつれて外の景色(色とりどりの服を来た人が豆粒のように散らばっている)が時々黒い機械や梁にさえぎられながら、遠くなっていく。
私は馬鹿みたいにそれを眺めていた。ガラスにぴったり手をついて。
古めかしい円いボタンの一つに橙色の弱い灯りがついている。
いつの間にか彼が押したものだろう。
誰も乗ってくることはなかったので、私達は二人きりのままボタンで示された階……屋上に着いた。
やっと異変を感じたのはこの時になってだった。
エレベーターが昇りきるまで密室なのにも関らず、おしゃべりな彼が一言も喋らないから。
(ちょっと変だな)
ドアが開き私はおニューの靴で一歩出る。
彼はと言えば、もうその三歩前を行っている。
屋上から下の階に降りる薄暗いじめじめした階段のところで、話をすることになった。
付き合う前から、とりとめのない話ばかりしてきたふざけた二人。
付き合ったって本質は変わらない。
嫌いなもの、「暗いもの・重いもの」。
きっと一生真剣な話なんてしないと思っていた。
けれど、その時そんなことを思っていたのは私だけだ。
今思えば、あの時笑っていたのも私だけ。
彼は、私たちには似合わない真面目な話を用意していた。
「田崎に会ったのか?」
ギクッとした。田崎、彼の高校時代からの友人。
「会ってないよ?」
なんでそんなこと、と言わんばかりに不思議そうな眼で彼を見た。
我ながら白々しい演技だった。
田崎に会ったのはつい先日だ。水曜日、俗に言う密会。
「本当なんだな?」
低い声で彼は問う。うん、と私は即答する。
途端に彼は立ち上がり、私を見下ろして言った。
「あいつから全部聞いた、本当のこと」
ひんやりとした階段に座って、彼を見上げたまま固まってしまった。
キイタ? ダレニ? タサキニ? タサキホンニンニ?
(ばれた)
眉を寄せて、私は誰よりも悲痛な顔をしていたと思う。
何もかもが崩れた。彼を手に入れるために頑張ったプロセスも、関係も。
「マジでもう無理だ。お前がそんな奴だとは思わなかったよ」
低く、静かに怒った彼の声。私を突き放したような冷めた瞳。
「帰るよ」
押し殺した呟きで別れを告げる彼を、引き止める権利なんか私にはなかった。
涙を流す権利すらないように思われた。
タンタンタン、と小刻みに聞こえる階段を下りる足音が耳につく。
本当に彼が好きだった。
床の冷たさが、全身に広がっていた。
* * *
「また! またやったでしょ、恵子」
左腕を掴まれて、私はへへへ、と情けない顔で笑う。
百合は溜息をついて、捲し上げた私の服の袖を下ろした。
空色の薄いシャツの袖の下。
私の腕にある無数の傷跡の中に混じった、新しい傷を発見されてしまった。
全く、長年の友人だけあって鋭い。
いや、私の行動パターンが変わっていないのか。
「どうしてこういうことしちゃうの。あれから五年も経ってるんだよ?」
だよね、と相槌を打つとまた呆れたように溜息をつかれる。
わかってない、と言う目で睨まれて、私はうーんとうなる。
だって、自分でもどうしようもないんだもの。
あれから私は普通に過ごしてきた。
学校に通って、卒業して、就職して。そして旧友とこうしてたまに会っている。
あの当時は色んな人が慰めてくれた。
他にも男はいっぱいいるよ、だの、仕方ないよ、だのと言って。
私はそれに対して、ものすごく傷心している女のごとく、か細い声で答えるのだった。
でも私は不可抗力だとは思わない。あくまで自分の責任なのだ。
別れる原因となった浮気。相手の田崎とは疎遠になり、連絡も取らなくなった。
私は泣かなかった。自業自得だと思った。若気の至りじゃ済まされない。
怒らせるのも、嫌われるのも、当然だろう。
彼の前から姿を消すことだけが償いだった。
だからと言って、学生時代クラスメイトが言ったみたいに、他の男を見つける気にはならなかった。
彼を忘れるつもりもなかった。
眠たそうな目、大きい声、タバコの匂い、教えてくれた歌。
たった三ヶ月でも、永遠の思い出。
私は思う。
彼への気持ちは五年経とうが十年経とうが、消えない。
私の時間は、あの時から止まってしまったのだ。
16歳のあの日から、ずっと。
忘れなよ、と百合は言う。
「いい加減忘れなよ。きつい言い方かもしれないけど……終わったことなんだから」
私はあの時の彼と同い年になった。
とうとうこんな年になるまで、私は現実から逃げ続けてしまった。
友人の言葉も、時間も、心に届かなかった。
笑顔を作って言う。
「大丈夫だよ。縁がないだけで、彼のことは今はなんとも思ってないよ」
私は蓋をするのがとても上手い。
カランと、アイスコーヒーに浸かった氷が音を立てる。
私は上の空で、ストローで琥珀色の軽い液体をぐるぐるかき回す。
さっきから百合の視線は私の左手首に行ってる。
慣れたでしょうに。
私は死ぬまで、抜け殻で過ごすんだ、とぼんやり思った。
感情にもやがかかったまま。
コロロロン……
喫茶店のドアについたくぐもったベルの音。
何気なく視線を移したその先に。
彼だ。
何年経っていてもわかる。
色素の薄い髪、太い眉毛、血管が浮き出た白い腕。
その腕が、隣にいる大人びた女性の腰に回っている。
彼だ。間違いない。
笑ったあの顔も、女の人に話しかける声も。
ほら、私の大好きな……。
大好きな?
気がつけば、私の頬は雫だらけだった。
「どうして女の人がいるのぉ……」
みぞおちが痛くなるほどひいひい言いながら、私は声を絞り出した。
「なんで! なんで! 好きなのに、大好きなのに。本当に好きなのは君しかいなかったのに!」
なんて自分勝手なことを言っているんだ、と思った。そんな権利ないって、自分で言い聞かせてたくせに。
テーブルの向かい側では百合が唖然としている。
私は声をあげて泣いた。
他の客の視線なんてお構い無しだった。
大の大人が、大声で泣き叫んでいるのは異様な光景だろう。
だけど。
私はずっとこうしたかったんだ。泣く権利とか、好きになる権利とかかなぐり捨てて。
がむしゃらに泣きたかったんだ。
五年分の涙が溢れた。
押し込めてきた気持ちがせきを切ったように流れ出た。
彼が好きで、なのに自分のミスで失って、彼には他に好きな人が出来て、それでも自分はまだ彼が好きで。
店の入り口の辺りで、私に気づいた彼が他の店に帰るために出て行くのがわかった。
構わなかった。悲しいけれど、受け入れようと思った。
もう隠さずに。
* * *
それから半年間、私は悲しみに明け暮れた。
でもこれからはきっと、現実を踏みしめて生きていけるはず。
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■作者からのメッセージ
長ったらしくなっちゃって集中力が……(汗)
気持ちに蓋をしていると、いつまでも整理できませんよ、と言うお話のつもりです。