- 『海』 作者:ねこ / 未分類 未分類
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原稿用紙約6.45枚
去年は彼と二人ではしゃぎながら都心から電車をのりついで行った。
でも今年は私一人だけで電車に揺られてここまでやってきた。
鎌倉の駅前は秋になった今日もにぎわっていたけれど、江ノ電の中は空いていた。
海のまぶしい季節はもう終わり、秋は秋の鎌倉のよさがあるのだろう。
無人駅で降りて、海までの道を歩く。
海岸までは10分もかからない。
潮の香りがする秋風に吹かれながら、ゆるい坂道を降りていくと、やがて視界が開けて海が見えてきた。
一年ぶりの海はまだ充分強い午後の日差しを浴びてきらきら輝いていた。
海岸道路わきに植えられたフェニックスの木。
ここで去年は二人で写真をとったっけ。
なにもかもが去年のまま。
浜辺へ降りて、胸いっぱい深呼吸して潮の香りを吸い込んだら、
涙がこぼれてきそうになった。
逗子沖のほうにちらほらとウインドサーフィンをする人影が見えるだけで、季節外れの浜辺には 人気 ( ひとけ ) がなかったのを幸いに、一人しゃがみこんで思いっきり泣いた。
涙は海のようにしょっぱかった。
そう思ったらますます泣けてきた。
胸が痛くて苦しい。
涙っていったいどこからこんなに湧いてくるんだろう?
「ばかやろぅ」
『ごめんね、泣かないで』
海へ向かって思い切り叫んだらすっとするだろうと思っていたのに、私の唇からこぼれたその言葉は小さなつぶやきだった。
けれど、体から出したら少しすっきりした。
悲しみは、甘い麻薬だ。
切なくて胸が裂けそうになるほど痛いのに、
現実に戻らないでいつまでもその苦痛の中にどっぷりと浸かっていたくなる。
いつまでもこうして悲しみに浸っていたかったが、
日差しが変化してオレンジ色になってきたのに気が付いて、ここに来た目的を思い出した。
砂浜は夏の観光シーズンが終わったあとの海らしく、ごみや海草で散らかっていた。
それらを掻き分けて、やっと少しはきれいで欠けていない貝殻を3個見つけた。
バックから持参のビニール袋を出して、砂浜の砂のきれいなところをすくって入れて、貝殻も壊れないようにタオルにそっとくるんで、しまう。
泣くだけ泣いたら疲れ果ててしまったので、だるい足を動かして帰ることにした。
最後にもう一度、波打ち際に行って海を見た。
海は夕焼けに染まってオレンジ色のメタリックな輝きを帯びて、空は真っ赤に染まっていた。
ふと自分の手を見ると、自分の体もオレンジの光を浴びていた。
こんな夕焼けをみたのはいつ以来だろう。
この一年近く、空を見上げたことなんてあっただろうか?
その時だった。
ぬるい風が吹いて、潮の香りに混じって突然懐かしい臭いがした。
マルボロのメンソール ( たばこ ) の臭いと混じったウルトラマリンのコロンの臭い……
『ふりむかないで……そのまま』
忘れていたあまりにも懐かしいその臭いはそっと私を包んで、潮風に散っていった。
両腕を体にぎゅっと巻いて自分を抱きしめて、ゆっくりと振り返ったが、
ただ風が吹いているだけだった。
気が付いた時にはあたりは暗くなり始めていた。
駅のベンチで冷えたお茶を飲んで、帰途に就く。
帰りの電車は通勤と反対方向のせいか空いていたので、
座席に座って窓の外を見るとはなしに見ながら揺られていた。
家に戻って、明かりをつける。
一人きりの秋の室内は、冷え込んでいた。
「ただいま」
『おかえり』
チェストの上の彼の写真。
写真の中で彼はいつも微笑んでいる。
微笑んでいるだけで、もうしゃべったり一緒に声をあげて笑うこともない。
それでも私は習慣となっている挨拶を彼の写真にする。
「今日、由比ガ浜に行ってきたよ」
『一緒にいたから知ってるよ』
「ほら、新しい砂、取りに行ってきた」
『ありがとう』
写真の前に置いた焼き物を取って、中に入っている砂を捨てて洗い、
今日取ってきた砂を入れて貝を上に飾る。
この焼き物は前に彼と行った旅先の陶芸工房で私が作った湯のみもどき。
もう一つ、写真の前に置いてある小さな水の入った焼き物は、
その時彼が作ったぐい飲みもどき。
水を捨てて、冷蔵庫から缶ビールを出してぐい飲みもどきに注いでから、
残りの缶ビールで彼の写真に乾杯して一口飲む。
『乾杯』
新しく取り替えた砂にお線香を立てて火をつける。
なぜか思いついて帰りに買ったマルボロのメンソールを一本取り出して、
火をつけて軽く吸い込む。
煙草は苦く、かすかに 薄荷 ( はっか ) の味がした。
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■作者からのメッセージ
はじめまして。
はじめての投稿です。
黄昏時は逢魔が時などと申します。
そんな時間に母なる海が見せてくれた、死に別れた大切な人との一瞬の逢瀬のお話です。
暗いですが前向きなお話なので、重くならずに読めると思います。
どうぞよろしくお願いします。