『仔猫と僕の居場所』作者:境 裕次郎 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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原稿用紙約12.12枚
 雨が降り止まない日。
 僕は鉄橋の橋桁の物陰にうずくまっていた。
 流れを止めてしまったかのように、雫が波紋を立てる川を眺めながら。
 ダンボールの捨て猫と一緒に。

 つい、と横を向く。
 こちらをジーッと見つめる仔猫と目が合う。
 ふぁ〜、僕がそのまま一つ大きく欠伸をすると、仔猫もつられて大きく口を広げて目を細める。
 ふふ。
 可笑しくて、口元が緩んでしまうのが分かった。
「こっちにおいで」
 僕は柔らかく仔猫を抱き上げるとコートの裾に隠した。
 寒さが全てを奪っていかないように。
 コートの中に入れられた仔猫は小さな瞳で僕のコトをじっと見つめていたが、やがて安心したのか懐に潜ってうずくまった。
 熱いぐらいの温もり。
 僕だって、生きているんだよ。
 仔猫の切なる想いが溢れ出しているような気がした。
 僕はポケットから湿気ったフロンティアを取り出して、イルカ型のライターで火をつける。
 ジジ。
 仄かな灯りに刹那世界は照らされ、次の瞬間には元通りの灰色に戻っていた。
 
 雨はまだ降り止まない。

 適当な石を手に握りこむと、軽く放り投げる。
 ポチャン。
 一際大きな波紋を立てて沈んでいく。
 音に驚いたのか、仔猫が懐からひょこっ、と顔だけ覗かせる。
「あぁ、ごめんよ」
 僕は謝る。
 すると、仔猫は僕の顔を暫く覗き込んだまま、じーっとしていた。
 そして、おもむろに顔を洗う。
「おいおい」
 変な猫だ。
「猫たるものが、雨の日に顔を洗うなんて間違っちゃいないか?」
 僕がそう冗句めいた口調で問いかけると、仔猫は顔を洗うのを止め、コートの裾からちょっと身体を乗り出し、冷え切った僕の手の甲を舐めた。
 そして、また僕の顔を覗き込む。
 偶然出会った仔猫は随分と変わり者だった。

「なら、僕の話を聞いてくれないか?」
 誰にでも無く、仔猫に向けて僕は呟く。
 ほとんど燃え尽きかけたフロンティアを地面にそっと押し付けて。
「誰にも言えない、言える人ですら誰もいない寂しい独り言を、さ」
 僕は霧立つ川の向こう岸を遠くに見やりながら仔猫の頭をそっ、と撫でた。
 
 こんな雨の日だからこそ、少し傷は癒えていきそうだった。


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 君は大切な人の死を経験したことがあるかい?
 いや、まだ幼いからないだろうね。
 僕はね、あるんだよ。
 あれはまだ暑い晩夏の一日だったかな。
 母がね、死んだんだよ。
 
 優しい母親でね。
 幾ら僕が裏切ろうとも、決して僕の手を離したりしなかった。
 時に叱り付けて、時にきつく抱きしめて。
 僕を離しはしなかったんだよ。

 だけど、当時の僕は青くて、その慈悲深い愛に気づけなかったんだよ。
 ただのお節介だと思って。
 乱暴に、邪険に扱い続けてきた。
 手を上げたこともあったよ。 
 無抵抗の母親に手を上げる。
 なんて馬鹿なガキだったんだ、と今じゃ思えるけどね。
 殴りつけた時に僕はどう思ったと思う?

 僕の方が強い

 はっ。
 てんで馬鹿だよ。
 救いようもない、さっさと地獄にでも消えちまえば良かったんだ。
 あの時に。
 それでも母はね。
 僕を許し続けたんだ。
 
 だけどそんな日々はいつか破綻することぐらい目に見えてた。
 見えてなかったのは、僕だけ……いや、母ももしかしたら見えていなかったのかもしれない。
 いや、見えていたけれど、わざと目を逸らした。
 多分そういうことだったんだろう。

 そしてついに……いや、突然終わりはやってきたんだ。
 何時も通り退屈な時間の大半を学校で潰し、帰宅した僕は見た。
 母が首を吊っている姿を。
 
 今でも鮮明に焼きついてるよ。 
 この目の奥にね。
 濁っていて、真実すらもう見分けることが出来ない目だけど、あの時の記憶は目の奥底に留まり続けている。
 
 僕は泡を食って、救急車を呼んだっけなぁ。
 母を抱きかかえて床に下ろし、水を口に含ませた。
 呼吸は残っていたけど、幾ら呼びかけても答えない母親。
 僕は激しく後悔した。
 懺悔した。
 
 電話をしてから到着するまでに、十分も浪費した救急隊員を背中から呪ったりもした。
 だけど、其処まで母親を想った僕が、母親が自殺しようとした原因について聞かれたとき、何て答えたと思う?

「わかりません」

 はぁ?
 なんだそれ?

 ってカンジだよね。 
 自分のせいなのに、自分が招いた罪なのに、僕はその全てを被るのを恐れたんだ。
 敢えて原因不明瞭にしてしまったんだ。
 最低だ。
 後悔も懺悔も呪いも。
 そして母親と、元の生活に戻れますように、なんて愚かな祈りも。
 その一言は僕の其れ、全てを霧散させに値する一言だった。
 
 それから一ヶ月間、母は植物状態で長い長い夏を過ごす。

 いや、植物状態じゃなかったかもしれない。
 母は意識が無いのに、死のうとしていたから。
 呼吸器と自らの舌を噛み千切って。

 医者は
『意識不明状態に置いて、一時的に肉体と精神のギャップが起こった場合、こういった現象が起こりえる可能性は十分にあります』
 と言っていたけれども。
 
 僕は知ってたさ。
 自殺未遂の理由を知ってる僕だから、分かった。
 母は、もう一度自らの手で死のうとしてたんだよ。
 だけど、また死ぬことはできなかった。
 死ぬことすらもう既に自由にならなくなっていた。

 誰のせいで?

 僕のせいで。

 僕は毎晩夢を見た。
 繰り返し繰り返し、寄せては返すように繰り広げられる母との日々。
 慈悲深い母と、最低のガキが織り成す、平穏な家族とは真逆の日々。
 あぁ。

 涙すら涙になりえなかった。
 いつしか、母のために涙を流せなくなっていた。
 最低の僕が、人のために流す涙なんて全部嘘さ。
 その想いだけが溢れ出しそうな心を塞き止めていた。

 やがて、引き千切れた舌と、痩せ衰えた身体を抱えた母の、最期の夏が終わる。

 電話を貰って駆け込んだ病室には、ただいつもと変わらない姿で横たわっていた母の身体があった。
 隣で顔をしかめて俯く医者は淡々と
「残念です」
 の一言と共に死因を告げていた。
 舌の傷口からの出血に伴う免疫低下による感染症。
 半分も聞こえていなかったが、それだけは明確に脳内にインプットされていた。
 その後、母の身体は霊暗所に運び込まれた。
 
 霊暗所から抜け出した僕は、その足で病院を出て空を見上げた。
 暮れかけた陽の光が、陽炎で揺らめくアスファルトに差し込んでいた。
 肌を流れ落ちる汗にまみれて僕は。
 空をずっと見上げていた。

 それから数日後。

 数少ない親戚一同が集い、小さいながらも葬式を挙げることができた。
 白い布に包まれて、もの言わぬ姿になった母は、薄化粧が施されて綺麗だった。
 まるで死んでいなかった。
 身体も無事で、魂も此処にある。

 だけど、二度と僕に微笑むことは無かった。

 大きく怒声を上げながら無機質に響く、念仏が感覚を失わせていく。
 今にも僕は席から立ち上がり母の亡骸に縋りつきたかった。

 ごめんよ、ごめんよ。

 聞こえることがなくとも、そう言いたかった。
 自分に言いたかった。
 言うことで自分の罪が少しでも軽くなると思ったのかどうか、いまだに良くわからないけど。
 僕は、当ても無く何かに謝りたかった。

 更に数日後。

 本当の別れがやってくる。

 親戚の車から降りて火葬場に佇んだ僕は、いささか母への想いが薄らいでいた。
 母親はもう死んだんだ。
 一人ぼっちの僕には、もう関係ないさ。
 
 相変わらず僕は最低のままだった。

 火葬場館内に足を踏み入れると、悲痛な泣き声が幾場所かであがっていた。
 黒い服でめかしこんだ数人づつの塊がポツリ、ポツリと見受けられた。
 彼、彼女達は泣いていた。
 大切な人のために泣いていた。
 僕は今の今まで涙の一滴も流していなかった。
 どうせ今度も泣けやしないさ。
 そう思っていた。
 
 やがて棺から運び出された母が、火葬寝台に寝かされる。
 寝かされて、職員に
『最期のお別れでです』
 と言われた。
 この時初めて、僕は泣いた。

「あれ?」

 瞳から止め処もなく涙が溢れ出して止まらなかった。
 痛い、胸が痛い。
 母を乗せた寝台がゆっくりと火葬炉に吸い込まれていく。
 僕の涙は止まらなくなっていた。
 頬を喉を身体を伝って、雫は地面へと叩きつけられる。
 嗚咽が漏れ出して止まらなかった。
 僕は全身で泣いていた。

 母の身体が火葬炉に消える。
 重たそうな金属製の蓋が閉まる音がやけに大きく響いた。
 
 次の瞬間、僕は走り出していた。
 母と僕を繋ぐ唯一の扉に向けて。
 
 あと、一歩で手が届く、そう思ったときには、火葬場職員に羽交い絞めにされていた

「どうしてぇ、どうして、どうしてどうしてどうしてどうして」

 なんで死んだんだ、母さん。
 やけに暑かった。
 暑くて、暑くて、流れる涙を止めることなんて、到底できそうになかった。
 燃えている、母が燃えてなくなっていく。
 二度と会えない。
 顔も見れない。
 話せない。
 
 この時、初めて僕は母に素顔を見せた。
 ……もう遅かったけどね。

 泣き崩れてへたり込んだまま、暫く待っていると火葬寝台が運び出された。
 抜け殻になった母の骨だけが、其処に残っていた。
 抜け殻、本当に何処からどう見ても抜け殻だった。
 其れは一抱えほどの壺に収められ、シルクの布で包まれて僕に返される。
 
 重たかった。

 帰りに乗り込んだ親戚の車の中で、僕は其れを抱えながら空を見上げた。
 窓から差し込む斜陽がやけに眩しかった。 
 胸に抱えた母の亡骸にはまだ熱が残っていた。


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 雲間から光が川に差して、時折水面で反射する。
 雨はいつしか止んでいた。
 
 あれから半年、僕は変わらない日々を過ごしていた。

「にゃー」
 懐の中から泣き声をあげる仔猫の存在で我に帰る。

「……あはは、君にはつまらなかったかな」 
 仔猫は首を傾げる。
 その仕草が、可笑しくて可笑しくて涙が溢れた。
 目尻を軽くこする。
 仔猫の舌と同じ温もりだった。
 僕は生きている。
 誰かと触れ合えなくても、僕は今、生きている。
 仔猫を抱きかかえて目線と同じ高さに持ってくる。

「君と同じように、ね」
 
 そのまま僕は立ち上がった。ジーンズについた草を軽く手で払う。

「さて、君も一人ぼっちなんだろ? 僕と一緒にくるかい?」
「にゃー」

 伝わっていないようで、伝わってる奇妙な会話を一人ぼっちの僕と、一人ぼっちの仔猫は交わし帰るべき場所へ向かう。
 
 今日は良い天気だ。
 僕は少し軽くなった心と、仔猫ほど重くなった身体を抱えて、晴れた空の下を歩き出した。

2004-02-24 18:43:18公開 / 作者:境 裕次郎
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■作者からのメッセージ
モノを書くことができる環境は、素晴らしい。しかも其れが人に評価されるならば最高だ。謝々、掲示板。並びに、管理人さん。 そして、此れまで数少ないながらも評価して頂いた皆々様。心より感謝の辞を。 
この作品に対する感想 - 昇順
とてもよかったです!場面場面の切り替えもよく、読みやすかったです!猫に語りかけるシーンから始まるところに一番惹かれました。。
2004-02-24 22:42:04【★★★★☆】葉瀬 潤
とても読みやすかったです。ちょっと感動しちゃいました。猫が
2004-02-25 12:31:26【★★★★☆】水野理瀬
可愛くて良かったです!! ↓の続き
2004-02-25 12:32:20【☆☆☆☆☆】水野理瀬
計:8点
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