『人形の心 序〜三章』作者:林 竹子 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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序章


 彼は闇の中にいた。自分の手足さえも見えない闇の中に。ここには一切音も光もなかった。時間の感覚もよくわからない。それでも彼には自分は長い間この闇の中にいた気がした。
 ふと、はるか下方――そんな気がした。もしかしたら上かもしれないし右や左かもしれない――に、小さな光が見えた。本当に小さくて今にも消えてしまいそうなその赤い光に、彼は覚えがあった。ひどく懐かしい感覚。
 彼はその光を目指そうとした。しかし、思うように進めない。何かが彼にまとわりついて邪魔をしようとしているように思えた。
 いくら進もうとしても、赤い光はまるで近くならない。そればかりか、どんどん遠ざかっていく。彼はあわてた。あの光は決して失ってはならない物だという気がした。
 ――待ってるから。
 唐突にそんな言葉が頭に浮かんだ。そうだ、待っているんだ。あそこで、誰かが。彼が戻るのを待っている。
 彼は必死で進もうとした。まとわりつく何かを引き剥がし、歩を進める。
 突然、闇が晴れた。まぶしいほどの光が彼の後方に現れた。振り向くとその大きな光はとても優しい金色をしていた。
 彼は二つの光を見比べる。大きな金の光に対して赤い光はもう見えるか見えないかぐらいだった。どんどん遠ざかっていくのだ。それでも赤い光は彼を待っている。彼は行かなければならない。
 しかし、赤い光は本当に遠くに行ってしまって、もうそこまでたどり着くことは不可能なように思えたし、金の光はとても優しく彼を呼んでいた。だから彼は金の光の方に一歩踏み出した。
 すると先ほどまで邪魔をしていた何かが、今度は勢い良く彼の背を押すのだ。おもしろいほど容易に進める。金の光はもうすぐそこだった。
 彼はもう一度だけ赤い光を振り返り、頭を下げた。そして赤い光に背を向け、金の光に向かって飛び込んだ。

 彼が目を開けると、一面は闇だった。また逆戻りしてしまったのかと彼が思っていると、だんだんと視界が澄んできた。
 そこは土壁に囲まれた小さな部屋で、照明は数本のろうそくだけのようだった。彼は部屋の中央の寝台の上に寝かされていた。
「おめざめですか?」
 彼が驚いて声のしたほうに目をやると、女がろうそくを持って立っていた。髪の色も瞳の色も黒で、黒のローブに身を包んでいた。肌だけが抜けるように白く印象的だった。
「誰だ」
 女は何も言わずに近づいてきた。彼はあわてて身を起こそうとしたが、体がうまく動かない。
 女は彼の裸の胸に手を置いて一言二言何か口の中で唱えた。
「起きてください」
 女にうながされるまま彼は体を起こした。今度は体がとても軽く、たやすく起き上がることができた。
「誰なんだ? どうして俺はここに居るんだ?」
 再び彼が問うと、女は静かなため息をついた。
「私はルーシイと申します。そしてあなたの名はエースです」
 女の言葉に彼は首を振った。
「違う。俺の名前はそんなんじゃない。俺の名前は……」
 そこまで言って彼は黙り込んだ。名前が思い出せなかった。
「あなたの名前はエースです」
 女の静かな声に彼はまた首を振った。覚えていないが、そんな名前ではないという確信があった。
 女はため息をついた。
「もうお休みになってください。お疲れでしょう?」
 確かに彼はひどく疲れていた。何をしたというわけでもないのに。それで彼はおとなしくもう一度横たわった。
 額に女の指が伸びてくる。女の指は冷たかった。女はまた口の中で何か唱えた。
 すると急に眠気が彼をおそった。彼はまぶたを下ろす。眠りに落ちていく彼に、女の静かな声が降ってきた。
「あなたの名前はエース。カリーヌ様にお仕えするのです」
 彼は違うと言いたかったけれど、それは声にならなかった。



一章


 さまざまな植物が植えられ、花々は競うように咲き誇っている。光のあふれる王宮の中庭は、今日も美しい。
 フレア王国第一王女カリーヌは、純白の上品なドレスを身に纏い、そろいの日傘を差している。肩からこぼれる金の髪は、まるで日の光で編んだかのよう。金のまつげに縁取られた碧の瞳は、ぱっちりと大きく、白くみずみずしい肌に、形のいい唇。完璧な美しさ、だった。見るものすべてが必ず魅了されるだろうほどに。
 カリーヌが花々の間を通る小道を歩く。その隣には銀髪の青年が居て、腕の中に一匹の子猫を抱いていた。
「リル、ほら、ごらんなさいよ。何てきれいなんでしょうね」
 カリーヌが鳥のさえずりのような声で話し掛けると、リルと呼ばれた子猫も答えるようににゃーと鳴いた。
 ラウルはその光景を数歩離れたところから見ていた。ラウルはカリーヌの身辺警護を務めているのだ。唇を真一文字に引き結び、太い眉をひそめて、絶えずカリーヌにあやしい者が近づかぬように目を光らせる。
「ラウル」
 カリーヌに名を呼ばれて、地を張っていた目線をあわてて上げる。
「そんなにジロジロ、キョロキョロしないで。気分がこわれてしまうわ」
「申し訳ございません。……しかし、やはり姫様の警護が私の任務ですので。ある程度は我慢いただけませんか?」
 ラウルの言葉に、カリーヌの美しい眉がぴくりとはねた。ラウルは叱咤を覚悟して身をすくませる。
「ラウル! あなたは誰に口を聞いているの? わたくしに我慢ですって? ふざけないでちょうだい!」
 カリーヌの碧の瞳がまっすぐにラウルを捉える。ふっとやわらかく微笑んだ。見とれてほうけるラウルに、冷たい言葉が放たれた。
「もういいわ。下がりなさい。護衛はかまわないわ。ここは王宮内だし、わたくしにはエースが居ますから。誰かに聞かれたら、そう言われたとおっしゃい。命令だったと」
「へ?」
 ラウルは間の抜けた返事を返した。カリーヌが再度言い放つ。
「邪魔だと言っているのよ。――下がりなさい!」

「はあ……」
 兵舎の一室で、ラウルはこれで幾度目かになるため息をこぼした。粗末なベッドとタンスが一つずつあるきりの、小さな部屋。今の任務に就く際に与えられた。最初は何てすばらしいのだろうと思った。今まではずっと数人で一部屋で、個室なんて夢だったから。しかし、夢は手に入れてしまうとすぐにあせてしまった。小さな部屋に一人きりでいるより、少し広めの部屋で数人で居るほうが落ち着く。ラウルはそういう男だった。
「ああ……」
 またため息をつく。だがこの部屋にはどうしたのだと尋ねてくる者も、うるさいと煙たがる者も居ないのだ。それがひどく寂しく思える。昔は任務で失敗した時など、皆で慰め、励ましあったものだった。
(あの男のせいだ)
 ラウルはぼんやりと考える。あの、エースという男。あいつさえ居なければ、いくら邪魔に思われようと、カリーヌがラウルを側から離すことはなかっただろう。王宮の中とはいえ、王女が一人で出歩くものではない。
 エースは数日前に突然現れた。王宮魔術師のルーシイという女が連れてきたのだ。カリーヌはすぐに彼を気に入った。側から離さないようになり、ラウルに対する扱いはひどいものになった。
 気に食わない、とラウルは思った。それは彼にとって珍しいことだった。ラウルはおおむね誰とでもそれなりに付き合うことができた。しかし、エースだけはダメだった。なぜかはよくわからないが、あの男といると嫌な気分になる。自分の職務を盗られたとか、そういうものではなかった。確かにその思いはあったが、それはラウル自身の落ち度でもある。エース以上に自分を信頼させることができないのだから。ただ、嫌なのだ。本能的に嫌悪してしまう。
 他者に対してそういう思いを抱いてしまう自分に、ラウルはまたまたため息をついた。自分が汚く思えてならなかった。

 翌日、ラウルがいつものように王女の部屋へと向かった。扉の前には当然のようにエースがたたずんでいた。その横をすり抜け、王宮でも一、二を争う豪奢な部屋に入ると、部屋の主の罵声が飛んできた。
「ラウル! この部屋の警備はどうなっているの!?」
「何かございましたか?」
 カリーヌは部屋の隅の細やかな細工を施された棚を覗き込んでいた。そこには確かアクセサリー類が入っていた筈。ラウルがいぶかしんで尋ねると、カリーヌは低い声で言った。
「何かあったか、じゃないわよ。ないって言ってるのよ。わたくしの、お父様にいただいたペンダントがないのよ!」
 ラウルは駆け寄り、棚を覗き込んだ。物の配置を変え、ごまかそうとしているが、確かにスペースが余っていた。何かが盗られたのだ。そう、カリーヌのペンダントが。
 カリーヌは怒りに震える声でラウルに命じた。
「ラウル。絶対に犯人を捕らえなさい。捕らえてわたくしの前に連れて来るのよ。……もし逃げられてごらん。クビどころじゃないわ。わたくし直々に死刑にしてやるから!」
 


二章


「アミィ。ちょっと、アミィ」
 洗濯物を両手に山のように抱え歩いていたアミィは、声をかけられて振り向いた。すると見知らぬ中年の女が立っていた。体はがっしりとしていて男にも引けをとらなそうだが、にこにこと人好きのする笑みを浮かべている。
「何、ですか?」
 アミィは少し戸惑い気味に応じた。この王宮に下働きに入ってから数ヶ月、アミィは一度もこの女を見かけたことがなかった。なのに女はまるで昔からの知り合いのように話し掛けてくる。
「今日はその仕事で終わりだろ?」
「そう、ですけど」
 どうして女がアミィの仕事を知っているのか。アミィは一歩下がった。
「頼みたいことがあるんだよ。なに、簡単なことさ。王女様の部屋の掃除を代わってもらいたいんだ。ちょっと、用があってね」
 どうだい、と女は一歩近づいてきた。アミィはまた一歩下がって、頭を下げた。
「すいません。ちょっと、それは…。王女様の部屋は、許されたごくわずかの者しか入ってはならぬと聞いております。あたしなんかじゃ…」
 そう言ってまた歩き出そうとしたアミィの腕を女ががしっとつかむ。強く引かれて、洗濯物が落ちた。
「頼むよ。お礼はするから。王女様の部屋の見張りにはもう話をつけておいたから、ぱっと行ってやっといておくれよ」
「離してください!」
 アミィは力任せに女の手をふりほどいた。せっかくの洗濯物を落とされたことで、少し頭に血が上っていた。また洗い直さなくてはいけない。
「頼んだよ」
 女はかがんで洗濯物を二、三枚拾ってアミィの腕に押し付けると、足早に行こうとする。角を曲がった。アミィがあわてて角を曲がると、どこか近くの部屋にでも入ったのか、もう女の姿は見えなくなっていた。アミィは探そうと思ったが、まわりを見てあきらめた。たくさんのドアに、曲がり角。とても見つけられそうにない。それに、アミィは王宮内を完璧に覚えているわけではない。仕事のときに通る道順だけでせいいっぱいだったし、それで充分だった。下手にうろついて、迷ってしまってはいけない。
「…もう、なんなのよ」
 戻って洗濯物を拾いながら、アミィは小さく呟いた。苛立ちのあまり床を蹴ったが、厚手の絨毯に吸い込まれてたいして音はしなかった。
 洗濯物を抱えなおすと、来た道を戻る。落ちて汚れた洗濯物をもう一度洗い直すために。

 洗濯係の者に渋い顔をされながらも謝り倒してもう一度洗ってもらった。それを干して、それで今日のアミィの仕事は終わり。家に帰って久しぶりに少しゆっくりする。――という予定だった。
 しかしアミィは今、一度も来たことのない部屋の前に居た。そう、カリーヌの部屋の前だ。
 本当はさぼって帰ってしまうつもりだった。でも、もし後で王女様のお叱りを受けたら? もちろん悪いのはあの女なのだけれど、そこをわかってくれるだろうか。もしこの仕事をクビにでもなったらアミィは生きていくすべを失う。アミィだけでなく、一緒に暮らしているあの少年まで。鳶色の髪と瞳の幼い少年の顔が浮かぶ。血はつながっていないが、アミィのたった一人の家族だった。あの少年を飢えさせたくはない。
 そう思うと、どうしても帰ることができない。それでアミィは仕方なく王女の部屋の場所を聞いて、やって来たという訳だった。
 部屋の前にたたずんでいると、見張りの兵士にじろりと睨まれた。掃除道具を見せると、兵士は顔を緩めて扉を開けてくれた。軽く会釈をしてすばやく部屋に入る。
 掃除してから帰ったら、予定よりだいぶ遅くなるだろう。
 アミィは頭を振る。短く切った赤い髪が揺れた。
「大丈夫。ぱぱっと終わらせればいいんだから」
 自分に言い聞かせるように呟いて、改めて部屋を見回す。大きな窓と、小さめの棚と、テーブルとイスが一つずつ。そのすべてがアミィなどには一生縁のない高級な物なのだ。でも今こうして部屋に一人で居るとまるで自分の物のように思えてくる。アミィは中年の女に少し感謝をした。こんな体験、めったにできない。
 入ってきた扉とは違うドアがあった。神々や妖精が彫られたそのドアを開ける。
 思わずため息が出た。次の部屋は衣裳部屋のようで、色とりどりの美しいドレスがかけられていた。黒の落ち着いたドレスから、黄や赤の輝くようなドレス。アミィは一つ一つ見て回った。気に入ったのがあれば取ってみた。いくつか持って鏡の前に行く。
 体に当ててみて、アミィはがくりと肩を落とした。先ほどまでの浮かれていた気持ちが急速にしぼんでいく。ドレスは本当にどれも美しかったが、アミィのそばかすだらけの日に焼けた顔やくせのある赤毛には似合わなかった。
 アミィはやっきになって自分に似合うドレスを探した。全部を出して試してみて、それでわかったのは、アミィには今着ている粗末なワンピースが一番似合うということだった。
 またドアがあった。開けると、そこはまた衣裳部屋だった。さっきの部屋と変わらぬ美しさのドレスが部屋いっぱいにかけられている。アミィはそれらを横目で見ながらまた次の部屋に進んだ。
 今度は寝室だった。部屋の中央に天蓋付の豪奢なベッドが一つあるきりの部屋。アミィはなんとなく足音を忍ばせてベッドに近づいた。布団はふかふかで、枕はやわらかそうだ。そっと触れてみると、思った以上にふんわりとやわらかかった。
 寝転んでみたいという欲求をアミィはどうにか抑えつけて最初の部屋に戻る。王女様の部屋はこの部屋と衣裳部屋が二つと寝室の計四部屋らしかった。
「よしっ」
 アミィは腕まくりをして気合を入れた。まずは高いところのほこりを落とし、床を掃く。それから湿った布で棚を拭く。
 ふと棚を拭いていたアミィの手が止まった。取っ手に手をかけしばし悩む。ここを開けていいものかどうか。しかし開けなければ掃除ができない。それともこんなところまではしなくても良いのか。
 アミィは意を決して開けることにした。
 そこにはアクセサリー類が所狭しと並べられていた。それらを慎重に一度出して、拭く。それからそっと元のように直す。
 最後の一つを戻そうとして、またアミィの手が止まった。その手には銀の鎖に小さな石がいくつも並んでついたネックレスを持っている。それは十分に美しいのだが、他のものに比べて幾分古ぼけた、質素な印象を与えた。
(これくらいなら……)
 アミィの頭を暗い考えがよぎる。これくらいなら、密かに貰っていってもきっとバレない。こんなにたくさんあるのだから。
 アミィはぎゅっと細い銀の鎖を握り締めた。これさえあれば、あの少年を医者に見せることができる。最近は治まっているが、時々思い出したように発作を起こす。アミィはその度に医者に連れて行こうと思うが、どうにも金がない。だが、少年の症状はどんどんひどくなっていく。次の発作が来たらもう耐えられないかもしれない。
 アミィは激しく首を振る。赤い髪が頬を打った。
(ダメ。絶対、ダメ!!)
 ネックレスを戻して乱暴に棚を閉めた。掃除道具をひっつかんで部屋を出ようと扉の前に来た。扉を開けようとするが腕が重くてあがらない。
 少年の苦しそうな顔が脳裏に浮かぶ。アミィの足は棚に向かっていた。ゆっくりと開けてネックレスと取る。他の物の配置をずらし空いたスペースをそうとわからないようにごまかす。またゆっくりと閉めて、ネックレスを掃除道具に隠すようにして持った。
 扉を開いて出て、見張りの兵士に軽く会釈して廊下を歩き出す。意識してゆっくりと歩を進める。本当は走りたくてたまらなかった。早くここから離れたい。駆け出そうとする体を無理になだめて歩く。
(掃除道具を片付けて、すぐに街に出る。市場で売ったら家に帰って明日医者のところへ行く)
 そんなことを考えながらアミィは角を曲がった。王宮の廊下の真紅の絨毯やクリーム色の壁がぼやっと滲む。まばたきをすると視界が澄んだ。頬に手をやると、指にしずくがついた。
 それでやっとアミィは自分が泣いていることに気づいた。強くぬぐう。気づいたらもう後は止まらなくなってしまった。いくらぬぐってもどんどんと涙があふれてくる。
 アミィは駆け出した。――早くあの少年に会いたかった。



三章


 街の広場には所狭しと店が開かれ、たくさんの人があふれていた。今日は月でもっとも多く店が集まる市場の日だった。大きなテントを張った店もあれば、薄い布一枚を敷いてその上に商品を並べている店もある。人は好き好きに店を覗き込んだり、ひやかしたり、座り込んで真剣に悩んでいる人も見られた。
 アミィは一番大きな店に向かった。まっすぐに店主らしき男のもとへ歩いていく。小太りで人のよさそうな顔をしている。
「すいません。あの」
 アミィが声をかけると、にこりと微笑んで応対してくれた。
「はいはい。何でしょう、お客様」
「買い取ってもらいたい物があるんですけど。見てもらえますか?」
「はいはい。どうぞどうぞ」
 アミィはポケットからネックレスを出して渡した。店主は楽しそうな顔でそれを確認する。
「ん? んん?」
 店主の顔が厳しくなった。胸元からルーペを出し、じっくりと調べ始めた。
 アミィはうつむいて待った。今にもばれてしまうのじゃないかと汗が吹き出てくる。
「ふーむ……お客様、こちらの品はいったいどうされました?」
「知り合いにもらったんです」
 アミィは事前に考えていたことを答えた。店主は思い切り首をひねった。
「お知り合いに? それはそれは、ずいぶん気前の良い方ですな。これはすばらしい品ですよ、ええまったく」
「きっと価値を知らなかったんだと思うんです。全然興味がない人ですから。それかあたしがお金に困ってるのを知ってたから。親が病気なの。すごく重くて。早く医者に行かなきゃならないんだけどあたし程度の稼ぎじゃそれもできないから、少しでも足しになったらって。彼、いろんなところを旅してるんで、きっとその途中で手に入れたんだと思います」
 アミィは早口にまくしたてた。店主は驚いた顔をしている。急にネックレスを持っていないほうの手を伸ばしてきてアミィの肩をつかんだ。がくがくと揺するようにする。
「これを旅の途中で手に入れたと? いったいどこで? どうして?」
 血相を変えて尋ねてくる店主に、アミィは頭を振る。
「すいません、わからないんです。詳しい話は何も聞いてないから」
「じゃあ、その彼に会えませんか? ぜひとも話をさせて頂きたいのです」
「それも、ちょっと。……あの! 手を、放して下さい」
 アミィが言うと、店主ははっとして手を放した。恥ずかしそうに体の後ろに引っ込めた。
「これはすいません。驚いてしまいまして……」
 大きな体を縮めて、しゅんとしている。
「いえ、別に大丈夫ですから。それより、買い取ってもらえますか? あたし、急いでるんですけど」
「ああ、そうでしたそうでした。これほどの品なら、そうですね、五枚で引き取らせていただきますが?」
 王宮の下働きでのアミィの月々の給料が銅貨三枚。これで幼い少年と二人、どうにか食べていける程度。それに加えて暇なときに他の仕事をしたりして服の布などを買ったりしている。銅貨十枚が銀貨一枚で、銀貨一枚といえば贅沢をしなければ三人家族が一ヶ月暮らしていける。
「……五枚って、銀貨ですよね?」
 まさか王女様の持ち物が銅貨五枚な筈がないと思いつつ、アミィは尋ねてみた。銀貨五枚なら少年を医者に連れて行けるしもう少しいい暮らしができる。でももし銅貨なら医者に連れて行くことはできても何度も治療を続けて受けることはできない。
 アミィが期待を込めて見ると、店主はゆるやかに首を振った。
「うそ! 銅貨五枚なんですか? そんな。せめてもう少し、お願いします。親が病気なんです!」
 アミィは涙目になって詰め寄った。その高そうな生地の服を掴み、ぐっと引っ張る。店主は慌てて何やらもごもご言おうとしているが、アミィの耳には入らない。
「銅貨五枚じゃ何にもならない! 早く医者に行かなきゃならないのに! どうしたらいいんですか? お願いします。せめて、せめて銀貨一枚になりませんか? どうしても早くお金が必要なんです、お願いします!!」
 店主の襟元を掴んでいるアミィの手に力が入り、首を絞めるような格好になっている。店主は苦しそうに口をぱくぱくさせるのだが、それは興奮しているアミィにはからかわれているように思えた。それで余計に力が入った。
「何とか言って下さい!」
「うぅっ」
 店主はくぐもった声をあげる。アミィが襟を掴んで前後に激しく揺すると、店主の薄く脂っぽい頭ががくがくとシェイクされる。店主の顔はすっかり青ざめて、今にも気を失いそうだ。しかし、アミィはそのことに全く気づいていない。
 更に激しく揺すろうとしたアミィの手に、何かが触れた。と思ったら手首を掴まれ、ビッ、という音とともに無理やり店主と引き剥がされた。
 驚いてアミィが目をしばたたくと、店主との間に栗色の髪をした一人の男が割って入っていた。
「少し落ち着きなさい」
 男は低くやわらかい声でそうアミィに諭すように言うと、店主の背をなで、声をかけてやる。店主は男に頷きを返し、荒い息を整える。
 アミィはぼんやりとその様子を見ていた。ふと自分の右手に目をやると、何か布切れを握っていた。手を開いてみる。少しの間その布切れを見つめて、はっとした。店主を見る。やはり、店主の服の襟元が破れて、裕福な暮らしをしているのだろうことをうかがわせる、白いつやつやとした肌が覗いていた。
(最悪……)
 男に引き剥がされたとき、ビッ、という音がしたのはこれだったのだ。アミィがあまり強く服を握り締めていたため、破れてしまったのだ。
 アミィはおずおずとだいぶ呼吸を整えた店主のもとへ寄る。布切れを差し出すと店主はいぶかしげに受け取った。アミィと同じように少し悩んでから気づいたらしく、襟元を押さえてタメ息をついた。
「すいませんっ!」
 アミィは深く頭を下げる。
「あたし興奮しちゃって……。五枚でかまいません、わがまま言ってすみませんでした。本当にすいません」
 アミィは耳まで赤くなって何度も頭を下げた。店主は疲れた様子で奥へ行き、またすぐに戻ってきた。アミィに小さな袋を手渡すと、張り付いた笑顔で、
「ありがとうございました。是非また機会がありましたら当店へ……」
 そうは言ったが、完全に目が死んでいた。
「ありがとうございましたっ!」
 アミィは叫ぶように言って急いで店を出た。広場を走り抜ける。手に持った袋から硬貨のぶつかり合ういい音がする。
 人の数が少なくなったところで道の端に腰を下ろし袋の中を検めた。
「……あれ?」
 袋を逆さにして硬貨を手で受ける。日にかざしたり、指で弾いたり、軽く噛んだりしてみる。
「あれれぇ?」
 アミィの手に乗っているのは、銅貨でも銀貨でもなく、五枚の金貨だった。

「あー殺されるかと思った」
 アミィが居なくなったあと、店主はそうひとりごちた。隣に立っている男の手を取り、満面の笑みを向ける。
「助かりました。あなたのおかげです。本当にありがとうございます」
「いえ、わたしは何も。大丈夫ですか?」
 栗色の髪の男は生真面目にそう答えた。胸には王宮兵であることを示すバッヂがつけられている。
「それより、さっきの少女は何かあったのですか? 随分せっぱつまった様子でしたが」
 店主はふんと鼻を鳴らした。
「知りませんよそんなこと。大体こちらはもとより金貨五枚だと申しておりますのに、勘違いなされて首を絞めるなんて」
「金貨だったのですか?」
 男は幾分驚いて尋ねた。金貨は銀貨の十枚分。大金だ。
 店主は腕を組んで頷いた。
「ええ。とてもすばらしいネックレスでしたから。少し古びておりましたが、そこがまた良かった」
 男の動きがぴたりと止まった。眉根を寄せて、厳しい表情を作る。
「……そのネックレス、見せていただけますか?」
「もちろんかまいませんとも。少々お待ち下さい」
 緊張した面持ちで言った男に、店主は快く承諾して奥に入っていった。すぐに戻ってくると、手に持っていたネックレスを男に手渡した。
 男はごつごつした硬そうな手に受け取り、鼻息があたりそうなほど顔を近づけた。
「これは……」
 呟いた男に店主は嬉しそうに微笑んだ。
「すばらしいでしょう?」
「あの少女はどうしてこれを?」
 男は勢い込んで尋ねた。店主は少し驚きながら答える。
「人にもらったとか。尋ねてみたのですが、あまり詳しくは。本当にどうしてこれほどの物を……」
 店主と男はしばし腕を組んで考え込む。不意に店主が顔をあげて言った。
「そうだ、何か必要な物はございますか? 御礼をしたいのですが」
 男は組んでいた腕を解き、ゆっくりと、だがはっきりと首を振った。
「本当にたいしたことはしていませんので。御礼などいただけません」
「そうですか? それは残念です。せめて名前は教えていただけますか?」
 店主の言葉に、男ははにかむようにして答えた。その無骨な四角い顔が人をほっとさせる笑顔に変わった。
「名乗るほどではありませんが、ラウル、と申します」
「ラウル様ですか。兵士なのでございますか?」
 店主が胸のバッヂにちらりと視線をやりながら言うと、男は恥ずかしそうに手で隠すようにした。
「まだまだ若輩者ですが一応は。王女様の護衛が任務です。いや、でした。今は違う任に就いておりまして」
「そうですか。大変でしょうが、頑張ってください」
 男は髪と同じ色の瞳をやわらかくなごませて笑った。
「ありがとうございます。……あなたのおかげですぐにこの任を終えることができそうです。とても重要な情報が手に入りましたから」
 店主は男の言った意味がよくわからなかったが、とりあえず頷いておいた。
2004-03-08 15:26:16公開 / 作者:林 竹子
■この作品の著作権は林 竹子さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
少し追加と修正をしてみました。少しでも皆さんが読みやすく、楽しめる文章になっていると良いのですが。
感想・批評など何でもいいのでくださると嬉しいです。
この作品に対する感想 - 昇順
序章なんでわけわかんないところはあとあと分かると思いますんで大丈夫だと思いますよ。自分は長いの読む気がしないんでこのくらいの長さなら読みやすいですよ(^^
2004-02-22 18:38:37【★★★★☆】蒼い狐
序章という事なので、読み手の興味を引くためにはこれくらいのが丁度いいように思います。個人的には。
2004-02-22 23:03:40【★★★★☆】オレンジ
心地の良い雰囲気がしました。読みやすくて、なおかつ引き込まれるものがありましたよ。続編に期待しておきます。
2004-02-22 23:55:13【★★★★☆】湯田
皆さん、感想どうもありがとうございます。続編、全力で書いていきたいと思います! よろしければまた読んでください。
2004-02-23 13:41:22【☆☆☆☆☆】林 竹子
お話に引き込まれました。 
2004-02-27 15:34:46【☆☆☆☆☆】空アルファ
お話に引き込まれました。 ・・・死刑って怖いですね。続きがとても楽しみです。
2004-02-27 15:37:03【★★★★☆】空アルファ
いい雰囲気が出てますね。題名とどうやって繋がっていくのか楽しみです。
2004-03-01 23:36:13【★★★★☆】オレンジ
レスありがとうございます。皆さんに少しでも楽しんでいただけるよう頑張ります。ので、見捨てないでまた読んでください。
2004-03-02 18:23:39【☆☆☆☆☆】林 竹子
初めまして。みなさんの言っている通り雰囲気が心地良いです。このような雰囲気を出せるのは才能だと思います。
2004-03-03 17:32:25【★★★★☆】風
風様、感想どうもありがとうございます。最近少し沈んでいましたので、とてもありがたかったですv続き頑張っていきますので、また読んでいただけたら嬉しく思います。
2004-03-07 20:51:45【☆☆☆☆☆】林 竹子
出だしの観念的な部分が独創的ですね。内容もしっかりと描写してある割りに読みやすく、話の展開がやや起伏少な目ながらも、読み手を引っ張るのに成功していると思います。そしてタイトルが、文章とどう繋がっていくのか?と言う所も内容をより魅力的に見せる手助けになっていると思います。世界観に引き込まれますねー。続き、頑張って下さい!
2004-03-08 18:23:53【★★★★☆】境 裕次郎
独特な感じがまたいいです。次も楽しみにしてます!
2004-03-10 20:27:40【★★★★☆】フィッシュ
計:32点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。