『真夏の途中(プロローグ〜第6章)』作者:柏原 純平 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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 真夏の途中


〜プロローグ〜

 私はいつものように目を覚ました。3つ仕掛けた目覚まし時計と格闘して……。
「沙希! 早くしなさい。また遅れるわよ」
お母さんの急かす声が階下から聞こえる。私はしぶしぶベッドから這い出して、床にあぐらをかく。
いつもこうやって血圧の上昇を待つのだ。生まれつき低血圧だから朝は苦手だ……。
ぼーっとした頭にゆっくりと血液が回ってくる。そしてドレッサーまで這っていき、鏡を見る。
やっぱり──いつものように髪はボサボサで顔は腫れている。
「もう……」
私は朝が大嫌いだ。というよりも、寝起きの自分が嫌いなのだ。真夏の朝は特に酷い……。
「沙希! いいかげんに起きなさい! またシャンプーするんでしょ?」
お母さんは朝のヒステリーが日課だ。まあ、それは私のせいだけど……。
「は〜い。もう起きてるよ〜」
どんなに時間が差し迫ろうと、朝シャンだけは欠かせない。眠い目を擦りながら階段を下りて洗面所に行く。
「やあ、おはよう」
お父さんが髪を整えていた。と言ってもバーコードだけど……。
「おはよう」
私は歯ブラシを取り、壁を背もたれにして、しゃがみながら歯を磨く。このほうが楽だから。
「沙希。何処にでもすぐ座り込むのは止めなさい」
耳にタコが出来るほど、何度も聞いたお父さんの台詞だ。
「ふあーい」
取り敢えず返事だけはするけど、立ち上がる気など毛頭ない。だって、面倒くさいから……。
「なあ、沙希。今度の日曜日、久しぶりにドライブ行こうか」
先週、ついにお父さんは念願の新車に買い換えた。前の車は、私が小学校1年生の時に買った車だったから、もう11年乗っていたことになる。
「えー? 無理。友達と約束あるから」
本当は約束なんて無かったけど、私の歳でお父さんとドライブなんて……。ありえない。
「そうか──残念だな。お前とドライブなんて、もう何年も行ってないからな──でも、仕方ないか……」
ちょっと可哀想になった。
「じゃあ、友だちも誘っていい?」
なんとなく、こう言えばお父さんが遠慮するかなと思った。そうすれば、無下に断った罪悪感から私が開放されると考えた。しかし……。
「それはいいな! 沙希の友達に父さんは会ったこと無いから、いい機会だ」
《しまった──》
新車を自慢したいお父さんの心理を読み間違えた。
《どうしよう──》
「あ! でも友達、車酔いするって言ってたな──たしか」
苦し紛れに出た言葉だったが、我ながら上手い言い逃れだと悦に入ろうとした時。
「そうか! それは丁度よかった。今度の新車な、最新型のクッションが装備されていて、絶対車酔いなんかしないと、セールスマンが言っていたんだよ。本当かどうか判るな! で、友達は何人来るんだ?」
《どうしよう……》

 お父さんは、先に出勤していった。私は憂鬱なままシャンプーをして、朝ごはんを済ませた。
「あ! もうこんな時間だ。やばい!」
私は学生鞄とポーチを抱え玄関に急いだ。後ろからお母さんの声がした。
「沙希。お父さん嬉しそうだったわよ。でも、いいの? あんな約束しちゃって」
たぶん、私の顔は引きつっていたに違いない。
「う、うん──まあ、たまには親孝行しないとね! じゃ、いってきまーす」
珍しく、お母さんは微笑で見送ってくれた。いつもは早く行けと鬼の形相で叩き出されるのに……。

 お父さんは大手都市銀行に勤めるサラリーマンだ。去年45歳でやっと課長になった。私はお父さんの仕事に興味などないけど、やっぱり出世はして貰いたい。同期の人が支店長になった話しとか聞くと、私なりに少し悔しい。お母さんがいつも発破を掛けているけど、本人はおっとりとした性格で、全く気にしていない様子だ。私にとって良い父ではあるけど、見た目ダサいから……友達には会わせたくない。だって、久美のお父さんはピアニストで、TVなんかにもたまに出ていて《カッコいいおじさま》って感じだし、由香のお父さんなんて元ファッションモデルで、今は有名なデザイナーズブランドのオーナーだし──まあ、いいか。私のお父さんだって、昔はカッコ良かったんだ! バーコードになる前は……。
 
 私の通う『聖和女子学園』はいわゆるお嬢様学校で、私立女子高の中でも郡を抜いて知名度も偏差値も、そして入学金も高い。校則やモラルに厳しい校風でも有名だ。私は1人っ子だし、成績も割りと良かったので、両親が見栄を張って無理やり受験させたのだ。最初は嫌だったけど、久美や由香みたいな良い友達も出来たし、今は満足している。
《担任の『デバ亀』を除いて……》

 「新井 沙希」
私のクラスは2年B組。出席番号は3番なので、点呼が早い。
「はい」
『亀山 富士夫』こいつが私のクラスの担任だ。何代も前の先輩達から『デバ亀』とあだ名されている。
年齢51歳、趣味は卓球、痩せ過ぎの貧相な身体つきで、異様に出過ぎた『出っ歯』が彼のチャームポイントだ。恐らく、私が出会った教師の中では最悪な性格をしている。どんなに嫌な奴か、筆舌にし難い。
「新井。お前今日も遅刻したな。後で職員室まで来るように」
我が校は毎朝校門で、生活指導の教師による立門検査がある。今朝はギリギリセーフだったはずなのに、
最後の交差点で、運悪く赤信号に捕まってしまった。いつもなら交通量の少ない道路なので、無視して渡ってしまうのだけど、今朝は反対側で風紀委員が取り締まりをしていたから諦めた。
「分かりました──」
力なく私は呟いた。
どうせまた散々小言を聞かされて、親宛に指導通知書を持たされるだろう。私の脳裏にお母さんの激怒する光景が浮かんだ。
《これで、何回目かな?》
1年生の時から数えると既に20回以上は職員室に呼び出されている。20回までは数えていたけどそれ以上はもう覚えていない。私の唯一の不幸はデバ亀が1年生からずっと担任だということだ。どうも、彼は私を心底嫌いらしい。こんなに可愛いのに……。
《昔振られた女に私が似ているのかしら?》 

 昼休みになろうかという4時限目の終わり頃、教室の通話機が鳴った。通話機は職員室と直結していて緊急時等に使用するものだ。英語の授業中だったので沢登先生が受話器を取った。沢登先生は大学出たての若い男性教師で、アメリカに留学していた経験を活かし、実に身になる英語を教えてくれる。生徒にも人気のあるカッコいい先生だ。 私も密かに沢登先生のファンだったりする。
 ふと、気がつくと沢登先生は受話器を耳につけたまま、私を見詰めている。嫌な予感が私を襲った。
「新井。大至急職員室へ! 亀山先生が待っているから。気をしっかり持つんだぞ! いいな」
ただならぬ様子に一瞬戸惑ったけど、結局はデバ亀の呼び出しか……。
私は書きかけのノートを机にしまい、席を立った。久美と由香が心配そうな視線を投げかけている。私は無理に微笑し、そのまま職員室に向かった。
《もうすぐ昼休みなんだから、それからでもいいじゃん! まったく、むかつくし〜。──でも変だな──いつもは放課後に呼び出されるのに。なんで今日は……》
考えながら重い足取りで職員室に歩く。
《まさか……停学? いや退学とか?》
悪い予感は良く当たるのが私の自慢だ。あまり、特技にしたくない技だけど……。職員室のドアが目の前に迫ってきた。もう、ジタバタしても仕方ない。私は平静を装って扉を開けた。
「失礼します」
私の声は職員室にいる全員を注目させた。その目々は好奇と慈愛に満ちた──そんな感じだった。それほど大きな声は出していないのに、なんて大袈裟なリアクションなんでしょ。
《きっと私は停学か退学なんだわ》
この陰湿な雰囲気はどう考えてもそうとしか思えない。
デバ亀が席を立ち、私について来るように合図した。職員室の奥にある応接室だ。
《ほお。わざわざ応接室で申し渡しかい……》
デバ亀は応接室のドアを閉め、私に座るように指示した。白いレースのカバーが付いた、アンティークと言うよりも只単に古めかしい、趣味の悪いソファーに私は座った。
《もう、覚悟は出来ている。でも、お母さん怒るだろうな──お父さんはきっと悲しむな……》
デバ亀は私の正面に座り一つ咳をした。そして視線を向けず、ゆっくりと話し出した。
「落ち着いて聞きなさい。先程、お母様から連絡があった。──お父様がお亡くなりになられたそうだ」


〜プロローグ〜 (完)



第1章 (悲しみの始まり)


 お葬式は密葬で行われた。お母さんは昨日まで寝込んでいたけど今日は喪主として、気丈にその役目を務めた。私はクラスの友人や先生方にお悔やみを言われる度に虫唾が走った。
《誰も本気で悲しんでなんかいないくせに!》
 お父さんは犯罪者の汚名を着たまま天国に召されたからだ。お父さんは銀行の融資係をやっていた。不正融資と使い込みが発覚して銀行の屋上から飛び降り自殺をした。いや、した事になっていた。連日、新聞やTVでこの事件を大きく報道していた。今や日本中の人がお父さんを犯罪者だと思っているだろう。ワイドショーでは自宅まで映され、お父さんの新車もその報道の餌食にされた。

《三矢銀行港支店 融資担当課長 自殺の真相! 使い込んだ金で豪遊、高級車、一戸建て!》

こんな見出しが3〜4日続いた。私はお母さんが潰れないように、一生懸命に励ました。だってお父さんは無実なんだから。どんなことがあっても、私とお母さんはお父さんの味方でいなければ。
 皆が帰り、葬儀はひっそりと終わった。私はお父さんの棺を前に固く誓った。
「あたしがお父さんの無実を証明してみせるからね。安心して……」
涙は止めどなく溢れる。悲しみの涙なのか、悔し涙なのか、自分でも分からない。ただ、私にはひとつだけはっきり分かる事がある。それは──お父さんは誰かに濡れ衣を着せられ、殺されたということだ。

 警察には亡くなった次の日に、ショックで倒れたお母さんの代わりに行って説明した。お父さんは無実で、絶対に自殺なんてするはずがない事を必死で訴えた。だけど、警察は自殺と断定した。動機もあるし、直筆の遺書もあると説明された。私は動機自体濡れ衣で、遺書もお父さんの字ではないと主張したけど、警察の判断は覆らなかった。
 ただ1人、私の話を興味深く聞いてくれた刑事がいた。年齢はお父さんと丁度同じくらいで、燻し銀という感じの刑事だ。刑事課の課長に、必死で再捜査を頼んでいる私を見かねたのか、声を掛けてくれた。
「お嬢さん。私がお話を聞きましょう」
私は藁をも縋る思いで、この刑事にぶちまけた。刑事は名を『麻生』といい、階級は警部捕らしい。
一頻り私の話を聞いたあと麻生は言った。
「うむ──話は分かりました──やはり、自殺では解せませんな……」
麻生は取調室で私の話を聞いてくれた。刑事ドラマでよく見るあの部屋だ。全く同じ殺風景な造りで、机の上に載っている電球スタンドも同じものだ。もしかしたら、カツ丼でも出てくるのかしら? と思わずにいられなかった。勿論、出てきたとしても喉を通るはずもないけど……。
「もう一度ちゃんと調べ直す必要がありそうですね」
麻生が顎を撫でながら言った。
私は身を乗り出し、思わず麻生の手を取った。
「お願いします! お父さんの無実を証明して下さい!」
麻生はちょっと驚き、照れたように手を引っ込め言った。
「捜査本部の見解と真っ向から衝突することになりますが……」
神妙な顔つきで麻生は続けた。
「ご期待に副えるか分かりませんが、独自で捜査は続けてみましょう」
煮え切らない麻生の言葉に、苛立ちを隠しながらも、私は丁寧にお礼を言って警察を後にした。

 あれから、5日経つけど麻生から何も連絡は無い。昨日、警察は事件解決と正式に発表した。家宅捜索もされ、お父さんの持ち物はパソコンからゴルフバッグまで尽く持ち去られた。麻生は上司と揉めて諦めてしまったらしい。いや、最初から捜査なんてする気が無かったのかも知れない。誠実な振りをして女子高生と知り合いになりたいだけの、助平オヤジだったに違いない。こうなったらもはや、打つ手は一つ。私が自分でやるしかない。
 まず、真犯人が誰なのか見当を付けなければ。銀行の屋上から飛び降りたのだから──いや、恐らく突き落とされたのだから、同じ銀行の人間が一番怪しい。お父さんの上司か、さもなければ取引先か? でも取引先の人間が銀行の屋上で凶行に及ぶのは不自然だ。やっぱり内部の人間が犯人だろう。だけど簡単に尻尾を出す訳も無い事くらい私でも判る。だとしたら、不正融資をした取引先と親しい銀行の人物を探るのがベストだろう。不正融資をした相手先は『安藤物産』だ。取り敢えずここから調べようか。ちょうど来週から夏休みだし、今週は事情が事情なだけに学校も公然と休めるだろう。早速、明日から捜査開始だ。
 だけど、もう学校には行き辛いな。久美や由香はどう思っているんだろう。あれからまだ話もしていない。きっと、お父さんが犯人だと思っているんだろうな……。さっきお焼香には来てくれていたけど、私とは目も合わせなかった。ちょっとつらいかも──泣きそうだよ……。

 お父さんの遺体は落下時の衝撃と検死解剖を経て無残な姿になっていた。火葬場で私とお母さんはお父さんに最後の別れをした。辛うじて形を留めている、冷たくなった左手を握り、心の中で呟いた。

《お父さんをこんな目に合わせた奴を、あたしは絶対許さないからね》


第1章 (悲しみの始まり) 完




第2章 (親友)

 次の日の午後、久美と由香からメールが届いた。なんて書いてあるのか、怖くてなかなか開けられなかった。しばらく、着信表示を見詰めながら、私は震える指で『新着確認』を押した。

≪沙希〜元気? ってそんなわけないよね……。なんか大変なことになっちゃったけど、あたしと由香は何があっても沙希の友達だからね! 今日はお葬式で沙希と話し出来なかったから、メールしたんだよ〜。私達に出来ることがあったら何でも言ってね! あたしも由香も沙希が心配だから、絶対返事ちょうだい!≫

≪やっほ〜! 由香で〜〜す。落ち込んでるそこのあなた! 元気出しなさい! 電話しようと思ったんだけど、多分忙しいだろうと思ってメールにしました〜。時間あったら電話してちょ! 待ってるよ^^≫

 どんなに私が嬉しかったか、久美も由香も分からないだろう。もう、涙が止まらない……。
私には親友がいる。もうそれだけで、十分に蔑んだ心は癒された。不思議と力が湧いてくる! 

「もしもし……。由香? あたし、沙希だけど……」
電話の向こうで悲鳴のような返事があった。
「さぁきぃ〜?! きゃー! よかった〜! 電話してくれないんじゃないかって、心配してたんだよ〜」
由香は学校でも1,2を争う美人で、その美貌は私の可愛さとは対照的に大人のムードを漂わせている。
でも、見た目とは違って中身は17歳の女の子にしてはやや幼く、良く言えば無邪気なのだ。
「ごめんね……」
「ううん。こっちこそ、ごめんね! もっと早く連絡しようと思ったんだけど、久美と相談してお葬式終わってからにしようって! だから今日メールしたんだ!」
彼女たちなりに、気を使ってくれていたのか……。
「ありがとう。嬉しかったよ……とっても」
由香が唐突に言った。
「ちょっと、まって!」
いきなり、違う声に変わった。
「沙希! 心配したよ!」
久美の声だ! どうやら2人は一緒にいるらしい。
「あは! びっくりした? 今、由香と駅前の『マック』にいるんだ! ねえ、沙希も来ない?」
私は躊躇なく答えた。
「うん! すぐ行くから待ってて!」

 私と久美と由香の家は、港北ニュータウンにある。この街は横浜市が15年ほど前から都市計画の一環で開発したブルジョアジーな住宅街だ。穏やかな自然が残る丘陵地帯に、高級住宅や高層マンションが立ち並ぶ。住民は所得水準が高い割に、世帯主の平均年齢は35歳と若い。近代的なモニュメントが似合うモダンな町並みは、よくTVドラマのロケでも使われている。私は2歳の頃からここに住んでいる。久美と由香は最近都心から移り住んできた。家はすこし離れているけど、3人とも最寄り駅は市営地下鉄の『仲町台』だ。街の中心街から1つ離れた駅で、朝夕のラッシュ以外は閑散としている。唯一のファーストフード店である、駅前のマックは私たち3人の憩いの場なのだ。
「あ! 沙希〜! ここ、ここ!」
由香が手を振って呼んでいる。私は自転車で上り坂を漕いで来たから、汗が出て息が荒くなっていた。
「あーいたいた! ふ〜つかれた〜」
店内の冷房は、噴き出した汗を心地よく乾かしてくれる。
「なんか、久しぶりだね〜。3人でここ来るの」
久美が笑顔で言った。
「うん。そうだね〜。1週間振り?」
久し振りと言っても、まだ1週間しか経っていない。でも、学校帰りには毎日のように3人で寄っていたから、1週間も間を空けたことなど無かった。私はカウンターでアイスティーとポテトを買って席に座った。
「ねえ、沙希。学校辞めないよね?──なんか心配でさ」
久美が不安な表情で私に言った。
「辞めないよ。まあ退学になったら仕方ないけど……。でも、そんな理由も無いから」
お父さんが亡くなった日、遅刻のやり過ぎでそうなるかと思ったけど……。遅刻だけなら最悪でも出席日数が減るくらいのペナルティーだろう。それに──お父さんの事を問題になんかさせない! だって無実なんだから。
「なんか、噂があってさ」
久美は由香と目を合わせて言い難そうにしている。
「どんな噂?」
おずおずと久美が言った。
「あのね……。あくまでも噂なんだけど、学校が沙希に自主退学をするように勧告するんじゃないかって」
私は大体予想していたから、別に驚きはしなかった。
「うん。でも、それは出来ないよ。だって、お父さんは無実だから」
久美と由香は食べかけのポテトを口にくわえたままジーっと私を見詰めて、次の言葉を待っている。
「お父さんは濡れ衣を着せられて、殺されたんだよ……」
「え------------?」
 
私はありのままを2人に話した。2人共、興味津々で聞き入っているようだ。お父さんが買った新車は頭金以外、三矢銀行のローンを利用していた事。帰宅はいつも20時前で、豪遊なんてしていない事。自宅だって30年ローンでまだ15年も残っている事。趣味は家の庭いじりって事。亡くなった日の朝、今日の日曜日に久美と由香を誘って、私とドライブに行く予定を楽しみにして出勤して行った事……。そして、警察はちゃんと捜査をしてくれないことも。
「だから、お父さんが犯人じゃ無いって信じてる。だって……」
私は、我慢していた涙を抑えられなくなった。
「私も信じる! 沙希のお父さんは絶対無実だよ」
由香が私にハンカチを差し出しながら言った。
久美は真剣な表情で考えている。
「私も信じるよ。でも本当の犯人がいるなら、捕まえないと腹の虫が治まらないね」
久美の言葉に由香も肯いた。
 久美は意外にも少林寺拳法の達人だったりする。小さい頃からピアノと少林寺を平行して習い、どちらもプロ並みの腕前で、既に2回ほど痴漢を病院送りにした実績を持つ。正義貫の武闘派なのだ……。
「ありがとう、2人とも。でも、これはうちの問題だから、2人に迷惑はかけられないよ」
久美が言った。
「なに水臭いこと言ってんのよ! どうせ警察なんて当てにならないんだから、私たちで犯人捜そうよ」
由香も身を乗り出してきた。
「そうよ! もうすぐ夏休みだし、自由研究の課題これでいいじゃん! なんか面白そう〜!」
 この2人は事の重大性を理解しているのかしら? もしかしたら、すごい危険な目に遭うかも知れないのに……。私は2人を巻き込みたくなかったけど、どうやら無理みたいだ。2人はもうやる気満々で、なにやら相談を始めている。
「ねえ、沙希。誰か怪しい奴はいないの?」
私は自分の考えを2人に伝えた。不正融資先の『安藤物産』のことだ。まず、ここから調べて怪しい奴を捜すつもりだったから。
「うん! それがいいね。あたし、帰ってからネットで調べてみるよ」
久美はパソコンもプロ並みの腕前だった……。自分でホームページも作っちゃうし、OSだって自作しちゃう。
成績も学年で10番以内にいつも入っているし、久美はスーパーガールだ。今度の試験だって……ん?
「あ! 忘れてた。そういえば、期末試験どうした?」
私はそれどころじゃなかったので受けていなかった。私の記憶が正しければ昨日で終わっていたはずだ。
「来週、欠席者用の再試験があるよ。それ受ければ大丈夫だよ」
久美が微笑しながら教えてくれた。病気や怪我等で試験を受けられなかった生徒は本試験とは違う問題をやらされる。それは大体が本試験より難しいのが通例だ。
「あ〜そうか。やだな……」
テーブルに突っ伏した私を由香が励ましてくれた。
「いいじゃん。受けるだけ受けとけば。ね?」
由香は優しいけど、いまいち要領を得ない……。まあ、そこが由香の良い所なんだけど。
久美が切り出した。
「じゃあさ、あたしは安藤物産を調べておくから、沙希はお父さんの交友関係を調べておいてね」
由香が満面の笑顔で言った。
「ねえ、ねえ。あたしは?」
久美が優しく言った。
「由香は取り敢えず、お化粧の練習でもしておいてね」
「え? なんで? なんか関係あんの?」
 由香の美貌は、すれ違う男が必ず振り返るほど悩殺的だ。スタイルは非の打ち所が無いし、甘く妖艶な顔は化粧なんてしなくても洗練された大人の魅力がある。学校の制服を着ていなければ、とても高校生には見えない。
「関係あることになるかも? とにかく由香は美容院に行って髪型をもっと大人チックにしておいで」
由香はちょっと首を傾げて肯いた。
「ほ〜い。じゃあ、水曜日に行ってこよう! どんな髪型がいいかな?」
夏休みは水曜日から始まる。今日は日曜日だから後3日だ。

 閉店時間まで私たちはお喋りを楽しんだ。久美はあらゆる方法で安藤物産を調べあげるだろう。久美に任せておけば安心できる。あたしはお父さんの交友関係を調べ上げて────でも待てよ。良く考えたら私はお父さんの友達を知らない──--お母さんに聞いてみるか……。
 今日はいろいろあったけど、まあ──--良かった。久美と由香には本当に感謝している。やっぱり、持つべきものは友達だな! 


第2章 (親友) 完



第3章 (電脳ショップ りんご屋)


 今日から学校は夏休みだ。私は久美の調べた安藤物産の情報と、お母さんから聞き出したお父さんの上司や部下、その他親しかった友人の名前や住所などのデータを整理するのに忙しかった。お母さんは私が何をしているのかしつこく聞いてきたけど、喪中状を作るからと言って上手く誤魔化した。それでなくても神経が参っているのに、余計な心配をかけさせたくなかったし、『犯人探しに必要で……』なんて言ったら大変だ。
《さあ、準備完了したわ! 後は作戦通りに……》
 久美は持ち前の天才的な頭脳を活かし、綿密な作戦を計画してくれた。
《なんか、スパイ映画のような作戦だけど、大丈夫かしら……》
一抹の不安はあったけど、久美がリーダーシップを発揮してくれているから、その点は頼りになる。
──久美なら大人を手篭めにすることくらい朝飯前だから──去年の夏休みだって、反対する親たちを久美は言葉巧みに丸め込み、3人だけの沖縄旅行を成功させた。学校でも教師相手に対等以上のディスカッションが出来る彼女は、他の生徒たちからも一目置かれている。
 用意した資料と小物をプラダのリュックに詰め込み、待ち合わせのマックへ自転車を走らせる。家から駅までは、公園の脇道から綺麗な花と緑が生い茂る遊歩道を抜ける。5分位の道程だけど、穏やかながらずっと上り坂が続く。朝から気温は30度を超えている。私はニューヨーカーのTシャツとデニムのミニスカートで涼しい格好をしているけど、この暑さは容赦ない。なるべく、汗を掻かないようにゆっくり急いだ。

 駅前のマックでは既に久美と由香が待っていた。私達はくつろぐ時間を惜しみ、すぐに秋葉原に向かった。
市営地下鉄で横浜駅、京浜東北線に乗り換え秋葉原に到着。車中では買い物リストのチェックに久美は余念がなかった。今日はここに、久美が書き出した必要な道具を揃えにやってきたのだ。
「あっつい〜! なに……この暑さ」
電車を降りると同時に由香が言った。
「夏なんだからあたりまえでしょ。さあ、行くわよ」
人込みを掻き分け、久美はさっさと階段を下りていく。私と由香は、茹だるような暑さに気後れしながらも、それに続いた。

 秋葉原は久美の庭みたいなものだ。大きな電気店よりも、路地裏に軒を連ねる『ジャンク屋』が彼女のお気に入りらしい。 私と由香は何度か買い物に付き合ったことがあるけど、久美の買う物は何やら訳の分かんない部品や分厚い本ばかりで、私達にはさっぱりだ……。今日も久美はお気に入りのお店に行くらしい。しばらく歩くと薄暗い路地裏に所狭しとガラクタを並べた、まるで発展途上国の闇市のような光景が広がる場所にでた。その中に以前一度連れて来られた、見覚えのある小汚いお店の看板が目に入った。

『電脳ショップ りんご屋』

《何度見ても怪しい名前だ……》
 久美は店先に並べてあるジャンク品をいくつか物色し、目ぼしい物が無い事を確かめ、店の奥に入って行った。私と由香は恐る恐る久美の後に続く。何度来てもこの異様な雰囲気には慣れない。店の中は相変わらず壁から天井から、ありとあらゆるガラクタで埋め尽くされている。狭い店内は通路も人1人がやっと通れるほどのスペースしかない。奥のカウンターに、この店の主人が座っていた。前に来た時と同じ格好をしている……。久美が親しげに言葉をかけた。
「こんちわ。チャン爺! 元気そうね」
店の主人は香港出身の老いも深い小柄な男だ。長い白髪を後ろで束ね、皺くちゃな顔に一際目立つ頬の大きな刀傷は、この男が只者では無いことを物語っている。久美はこの男を親しげに『チャン爺』と呼ぶ。
「やあ。岡田久美。待っていたよ」
久美はチャン爺の視線が私達に向いていることに気が付いた。
「あ! この2人はあたしの友達。覚えてる?」
チャン爺は私達から視線を外し、今度は鋭い眼光を久美に向けた。
「短いスカートが新井沙希。白いワンピースが近藤由香」
久美は苦笑いしながら私達に目配せをした。
「このチャンは一度会った人間の名前、顔、決して忘れない」
チャン爺は私達をフルネームで呼ぶ。誰にでもそうらしいが……。
「久し振りです。チャンさん……」
私と由香は怖気づきながらも、挨拶をした。
チャン爺はその厳つい顔に不釣り合いな微笑を浮かべ、肯いた。
「チャンはお前たちを待っていた。これを用意して」
チャン爺はカウンターの下から大きなバッグを取り出した。
「ありがとう、チャン爺! で、全部揃った?」
久美は一昨日、チャン爺に連絡して事情を話し、必要な物を注文していた。
「チャンは全部揃えると約束した。チャンは必ず約束守る」
そう言うと彼はポケットから小さなリモコンを取り出しスイッチを押した。店のシャッターが閉まる。そして、ゆっくりとバッグの中身をカウンターに並べ始めた。
「お! すごい! さすがチャン爺だ」
久美が感激の声を上げた。
「使い方、説明する。お前たち覚える。いいな」

 カウンターには見たこともない代物が並んでいた。チャン爺はそのひとつひとつを手に取り、たどたどしい日本語で詳しく使い方を教えてくれた。盗聴機、超高感度集音マイク、GPS発・受信機、デジタル録音機、CIA諜報員用多機能携帯電話3つ、赤外線暗視スコープ、デジタル通話傍受機、これらを繋ぐ複雑なパソコンの周辺機器、それに小型催涙スプレー3つ、22口径デリンジャーピストル3丁と弾丸30発。
 「このピストルはチャンからの贈り物だ。念のため持っていけ」

 私達は重たいバッグの中身を3つに分けた。そうしないと、重すぎて持ち帰ることが出来なかったからだ。
来た時と逆の手順で電車を乗り継ぎ、仲町台に向かった。私は久美の家に一緒に行き、作戦準備に掛かる。由香はそのまま1つ先の中心街、『センター南』駅近くの美容院に行く。今日の16:00に予約を入れてある。私と久美は仲町台駅で地下鉄を降り、自転車で久美の家に急いだ。
「ねえ、沙希。誰か車運転出来る人いない?」
久美が額の汗を手で拭い、自転車を漕ぎながら言った。
「う〜ん。いないな……。あ! 雄太ちゃんがいたか」
雄ちゃんとは私の従兄弟のことだ。お父さんの兄の長男で新井 雄太という。今年、大学2年生になる。去年、運転免許を取って自慢していた。
「その従兄弟、協力してくれないかしら? これから車ないと大変かも」
私と雄太は歳も近いせいか、結構気が合って仲も良い。お葬式ではろくに話も出来なかったけど、お父さんの死には疑問を抱いている様子だった。
「よし! 雄太ちゃんに頼んでみよう。大学も夏休みだし、どうせ暇人だから大丈夫でしょ」
とは言ったものの、一抹の不安が過ぎる。
《あいつちょっと性格に問題があるからな……》


第3章 (電脳ショップ りんご屋) 完




第4章 (嵐の前)


 久美の家は高層マンションの最上階で、テラスから見下ろす景色は絶景というよりも高すぎて怖い。高所恐怖症の遺伝子はお父さんからしっかり受け継いでいる。2階の窓からさえ下を見ることが出来なかったお父さんが、飛び降り自殺するはずが無い。
《その事も警察では話したんだけど……》

 私たちは重たい機材を久美の部屋に運び込み、一息いれた。なにしろ、駅から由香の持っていた分まで運んだので大変だったのだ。久美はエアコンを『強』にして、蒸し風呂のような部屋を冷やしてくれた。
「昨日から、両親はヨーロッパに演奏旅行に行ってるから、夏休み中は家を自由に使えるよ!」
 久美のお父さんは世界的なピアニストだから、ヨーロッパとかアメリカとかよく演奏に行っている。今回はお母さんも一緒に付いて行ったらしい。
「ねえ、沙希。さっきの従兄弟、聞いてみようよ! 彼、どこに住んでんの?」 
雄ちゃんは湘南大学の学生で、茅ヶ崎にアパートを借りて一人暮らしをしている。
「湘南の茅ヶ崎だよ」
「へ〜。じゃあ、サーファー?」
私は返答に困った。
「う〜ん。サーフィンはやるみたいだけど……」
久美が気の無い返事をした。
「ふ〜ん」
「取り敢えず、電話してみるよ」
私は携帯を取り出し、雄太を呼び出した。すぐに応答があった。
「はい! お! 沙希ちゃんか? どうした?」
今までの事情を説明するより、直接来てもらったほうが早いと久美が言うので、ここに来てもらう事にした。
暇人の雄太はすぐに来ると約束してくれた。茅ヶ崎からここまで、横浜新道と第三京浜を使えば、大体1時間というところか。 
 雄太が来るまでの間、私と久美はチャン爺から買ってきた機材を床に並べ、整理することにした。こんな特殊な機材が、本当に必要なのか私には理解出来なかったが、久美が必要だと言えば仕方ない。それに、支払いも久美がやってくれたから文句など言えない。──こんな高そうな機材って、いったい幾らするんだろう?──たぶん、100万円でも足りないと思うけど……。
「ねえ、久美。これ、高かったでしょ? 大丈夫なの?」
久美は笑いながら言った。
「ああ、全然。全部で1000万は下らないけど、別に大丈夫だよ。お金払ってないもん」
《なに? これ、ただなの? 全部?》
「どういうこと?」
私は心配のあまり、つい聞いてしまった。
「うん。あたし、チャン爺に貸しがあるから。その対価ってことよ」
《なんだか、よくわかんないけど──絶対、普通じゃないよね……》
「秘密だから、内容は言えないんだけどね。前にチャン爺の仕事、手伝ってあげたんだ。その報酬ってこと」
見るからに怪しい店だから、きっと怪しい裏があるに違いない。
「あのさ、このピストル。本物だよね?」
『デリンジャー』を手に取り、気になっていたことを聞いてみた。
「チャン爺は本物しか扱わないよ。それ、弾出るよ」
《なんですと! それって銃刀法違反じゃないの?見つかったら逮捕されるじゃん》
「ねえ、久美……。やばくない?」
私は完全に怖気づいてしまった。だって、これじゃ本当のスパイみたいじゃん。
「あは! 大丈夫だよ。あたし達、悪いことしてないじゃん。それに少々犯罪を犯すことになっても、警察が動いてくれない以上、目的達成のためには仕方ないよ」
《確かにそれもそうだ。ただ、指を銜えている訳にはいかない……でもそうなったら2人には申し訳ない》
「沙希もさ、覚悟決めなさい。いざとなったら自分の身は自分で守るのよ」
 久美の説明では、本来デリンジャーはH・デリンジャーという人が開発した小型のピストルで、200年程前に護身用として造られた懐中拳銃を意味するそうだ。その後、小型護身用拳銃の総称となったらしい。チャン爺がくれた銃は香港地下組織が独自開発した物だそうだ。オリジナルは8mm弾を使用するらしいが、これは入手が楽な22口径弾を使用する。本来、単発式で縦2つの銃身があり、2発の弾を込める物が主流だけど、これはオートマチック式の7連発の性能を持つ。手の平に収まるサイズで7連発とは腕時計並の精密機械だと久美は感心している。
「それに、サイレンサーを付ければ音もしないから、まさに暗殺銃ね」
《久美ってちょっと怖いかも……》
銃なんて興味無いし、ましてや撃った事なんてある訳無い。よく外国に旅行する久美は、射撃場で何度も撃った事あるらしいけど──まあ、これを使うような事は無いと思いたい……。
 他の機材は、大体チャン爺の説明で使い方は把握している。すごいのはGPS受信機だ。1円玉くらいの発信機を付ければ、地球上のどこにいてもその場所が特定できる。パソコンにつなげて使うのだけど、誤差は僅か1メートルだ。あと、超高感度集音マイク。これもすごい! なんと300メートル離れた人の内緒話を聞くことが出来るのだ。
 3人分の装備を分けて一段落した頃、来客を知らせるチャイムが鳴った。
「はい。岡田です」
久美は私に合図した。どうやら雄太が来たようだ。
「いま、ロック開けましたからエレベーターで最上階にどうぞ。部屋はP−003です」
久美は受話器を置き、私に言った。
「新井 雄太ですって。あは! 可愛い名前」
私達は女子高だから、あまり男子に免疫が無い。よく駅とか電車の中でナンパされるけど、大体が久美に撃退されて尻尾を巻いて逃げてしまう。久美は基本的に男が嫌いらしい。別にレズって訳じゃないみたいだけど……。そんな久美が雄ちゃんを『可愛い』って──なんか変だな。
──ピンポーン──
「沙希、行って来て」
私は玄関に行ってドアを開けた。
「いらっしゃい!」
雄太が戸惑いながら突っ立ている。幼い頃からよく知っているけど、雄太は気が弱い。そのくせ格好は付けたいタイプなのだ。まあ、見てくれは悪くないんだけど、どうもイマイチ2枚目に成り切れない、そんな奴なのだ。
「あ……。沙希ちゃん」
「よく迷わず来れたね! 待ってたよ。さあ上がって」
私は自分の家の如く、雄太を中に招きいれた。
久美がリビングに飲み物を用意している。私はお互いを紹介した。
「これが、従兄弟の雄太ちゃん。で、こちらが岡田 久美ちゃん」
久美が微笑しながら言った。
「よろしく。雄太さん」
雄太は毅然と言った。
「新井 雄太です。よろしく」
《だが──膝がモジモジしている》
 その後、私と久美は今までの経緯を雄太に説明し、協力を頼んだ。雄太はソファーにドッカリと座り、腕を組んで神妙な表情で考えている。最初の戸惑った感じはもう何処かに行ってしまった様で、今は男の威厳を醸し出している。
「俺も叔父さんが犯人だとは思えない。だけど、俺たちだけで犯人探しって──ちょっと無謀な気がする」
久美が言った。
「確かに無謀かも知れないけど、じゃあ誰が真犯人捕まえてくれるの?」
雄太が私を見ながら言った。
「うーん。だけど君達、高校生だろ? 危険すぎるな……」
私は大人の男性を装った、雄太の演技を当然見抜いていた。雄太は久美の手前、もったいぶって格好を付けているのだ。
「じゃあ、いいわ。雄ちゃんには頼まないから。だけどこの事は絶対秘密よ! 言ったらあのこと伯父さんにバラすからね!」
雄太はビクッと眉毛を反応させた。
「さっちゃん。それは……」

──ピンポーン──

 誰か来たようだ。エントランスからのコールじゃない。玄関からだ。ということは……由香だ! 駅で別れるとき久美が予備のカードキーを渡していた。由香が来た時、買い物にでも出かけていたら中に入れないからだ。久美が玄関に迎えに出た。
「やっほ〜! どう? 大人チックになったかな?」
リビングに入ってきた由香は──銀座のラウンジが似合うような、可憐でゴージャスな女だった。
「あ……あんた、由香?」
ストレートのセミロングだった髪は軽くウェーブがかかり、淡い亜麻色にカラーされている。妖艶な顔は絶妙にメイクアップされ、どうみても17歳の女子高生では無い。
「もうさー大変だったんだよ〜。パーマ臭いし、メイクも長いし……。でもプロのメイクさんにコツを教わっちゃった。今度は自分で出来るよ! へへへ」
私と久美は想像を絶する由香の変身振りに、言葉を失った。
由香がきょとんと首を傾げた。
「あれ? この人だあれ?」
雄太はだらしなく、口をあんぐりと開けたまま呆然と由香に見とれている。さっきまでの大人を演じていた威厳は、もう微塵も無くなっていた。
「あ……あたしの従兄弟。雄太ちゃんっていうの。でも、もう帰るから、ね?」
雄太はいきなりシャキと立ち上がり、由香に手を差し出した。
「申し遅れました。新井 雄太と申します。今回、俺…いや私も貴女方の計画に参加させて頂く事になりました。これから、よろしく!」

 なんか釈然としない私と久美だったけど、これで運転手は確保出来たし、まあ、良しとするか。明日はいよいよ行動を開始する。今日は全員で久美の家に泊まることになった。ちょっと雄太が心配だけど、久美が少林寺拳法の大会で取った、おびただしい数のトロフィーや賞状を目の当たりにしているから、馬鹿な真似はしないでしょう。雄太は自分より強い相手には逆らわないタイプだから。
 私達3人は久美の部屋で寝ることにした。雄太はリビングのソファーを使っている。明日の予定を話しながら、3人ともいつの間にか夢の中に落ちていった。これから吹き荒ぶ嵐を予感しながら……。


第4章 (嵐の前) 完



第5章 (作戦開始)


「毎度、ありがとう御座います。安藤物産で御座います」
「あ……。もしもし、PPCと申しますが──経理課の石田係長様、ご在社でしょうか?」
電話口の受付嬢は丁寧な口調で答えた。私達はデジタル録音機を介しイヤホンで会話を聞いている。
「はい、かしこまりました。只今確認致します。少々お待ちくださいませ」
久美は落ち着き払っている。大したものだ……。
「お待たせ致しました。ただいま、お繋ぎいたします」
受付嬢が回線を切り替えた。
「はい、石田ですが」
久美は大人っぽい口調で話し出した。
「初めまして。私、『大滝』という者ですが」
「大滝様……ですか?」
石田は怪訝な様子で聞き返した。
「はい。『ピーチピーチ倶楽部』の支配人です。この電話は勤務先の確認のため、差し上げたものです」
石田は急に声のトーンを落として囁いた。
「あ……。困りますよ……会社に電話されちゃ」

 作戦の第一段階は、安藤物産の経理課係長『石田浩二』に近づき、必要な情報を提供してもらう事だ。久美が調べた内部資料で、この役には石田が適任だと判断したからだ。予め用意した作戦内容は、雄太の参加で筋書きに若干の修正が加えられた。
 石田浩二は36歳、結婚暦の無い独身、一人暮らし、趣味はパソコン、映像で見る限り真面目そうな『お宅系』だ。得てして、このタイプの男は1つや2つの知られたくない秘密を持っているものだ。久美は社員名簿から石田のEメールアドレスを調べ、契約プロバイダーを特定した。そして、石田のパソコンに侵入し、彼のプライベート情報を盗み出した。──狙い通り、石田には秘密があった。

 久美は安藤物産のホストコンピューターから、社員情報などの内部データを根こそぎ持ち出していた。勿論、ハッキングによる不正アクセスだ。海外のサーバーを数十箇所経由し、偽名で契約した香港のプロバイダーを使っている。そう簡単にこちらのことは特定できない。これも『りんご屋』の主人、チャン爺の手引きだ。
 石田は、案の定『罠』に掛かった。今夜19:00『みなとみらいの』ランドマークタワーで落ち合う事になっている。
 みなとみらいは横浜の新名所として注目を浴びるアミューズメントタウンで、ショッピングモールや遊園地、博物館や展示場などが整然と立ち並ぶ。特にランドマークタワーと大きな観覧車が有名だ。東京の『お台場』に似たイメージで、シーフロントの一画にある。オフィスビルとも融合した、その名の通り近未来的な街だ。
 
 私達は雄太の車で由香の家に向かっている。雄太の車は『なんちゃってサーファー仕様』のワンボックスだから、何かと便利に使えそうだ。車内に置いてあったサーフボードやウェットスーツは殆ど使用した形跡が無かった。雄太はあの時一度だけ『サーフィン』をしたらしい。半年前、湘南のさざ波に揉まれて溺れ、救急車で病院に担ぎ込まれた。親戚中の笑い者になって以来、これらのサーフ用品はナンパ用の飾りになっていた。今朝、車内の飾りを片付け、久美がパソコンや機材を取り付けた。むさ苦しかった車内は動く『作戦司令室』と化していた。
「ねえ、沙希。ちょっと声を出してくれる?」
私は言われた通り声を出す。
「あー、あー、テスト、テスト」
 私の口の中には、超小型の受信機が入っている。前歯の裏に特殊な接着剤で固定しているのだ。舌が触って少し違和感があるけど、慣れれば気にならない。受信した音声は歯から骨を伝わり鼓膜に届く。受信範囲は半径5キロ程で実用性に問題は無い。私の声はネックレスのペンダントトップに仕掛けられた超小型盗聴機が拾っている
「うん。OK! こっちの声は聞こえるわね? よし、ばっちり!」
久美が満足そうに微笑んだ。 
私の鼓膜には、骨伝導により久美の声が鮮明に響いている。
「あと、これも忘れないでね」
 久美が多機能携帯電話を差し出した。これは2つ折りのデザインで外観は普通の物と変わらない。この携帯の凄い所は『衛星回線』を使用することだ。世界中どこでも『圏外』にはならない。地下でも30メートル程度ならば通信に支障は無いようにも作られている。超高感度500万画素デジタルカメラ内臓で、撮った映像は動画、静止画ともにGPSでリアルタイム送信できる。勿論、受信も可能だ。特筆すべきは、カードエントリー式や指紋検知式、網膜検知式のセキュリティー端末やロックを、ほぼ完全に無力化できる機能だ。その他の錠にはオプションの?線解析マスターキー接続して使用する。これは特殊合金の薄く細い板で出来ていて、シリンダー内部に合わせ磁気により突起が飛び出る仕組みだ。磁気式シリンダー錠や特殊シリンダーにも完全に対応できる。まさにスパイの道具と言える。

 車は派手な門構えの、まるでお城のような豪邸に到着した。由香が携帯を取り出し、電話をした。
「あ! ばあや? あたしだけど。門を開けてちょうだいな」
由香の豪邸と比べたら、あたしの家なんて『小屋』だ。この豪邸には今、由香とお手伝いの『ばあや』の
2人だけしか住んでいない。両親はニューヨーク在住で、3つ離れたお姉さんはフランスに留学中でいない。
《なんて勿体無い豪邸なんでしょう》
 すぐに派手な門が開き、由香は雄太に車を中に入れるよう指示をした。車はホテルの玄関を思わせるロータリー式のスロープに止まった。玄関が開き、ばあやが巨大な旅行用スーツケースを引きずってきた。
「お……嬢様。これでよろしいんですか?」
由香が急いで車から降り、ばあやを手伝った。
「もう、ばあや歳なんだからだめだよ。無理しないでね」
由香は優しくばあやを気遣っている。
由香の豪邸に圧倒され、目が点になっていた雄太だったが、それを見て機敏にかつ華麗に反応した。
「私がお持ちしましょう。いえ、お気遣いはご無用。男なら当然のことです」
こいつは普段、横の物を縦にもしない無精者なのだ。
《なにが男ならよ! この下心丸見え男が……》
 このスーツケースには久美が指定した服が入っている。あらかじめ由香が用意していた物だ。由香のお父さんの『コンドーダジュール』ブランドは私も大のお気に入りで、何着か持っている。高品質な素材とセンスの好いデザイン、その割りにリーズナブルな価格で老若男女を問わず人気が高い。
「ばあや。あたし、しばらく久美の家に泊まってるから、心配しないでね」
ばあやが心配そうに言った。
「かしこまりました。岡田様、新井様、どうかお嬢様をお願い致します」
私と久美はにこやかに挨拶した。
ばあやがスーツケースを車に押し込んでいる雄太に言った。
「運転手さん。くれぐれも安全運転でお願いしますよ」
雄太は振り返り、複雑な表情で会釈した。
《運転手さん……だって。あは!》
雄太はこれからの出番に備え、久美のお父さんの黒いスーツを借りて着ているのだ。
《なるほど、運転手に見えて当然な格好だわ》

 私は装備をチェックして準備を完了させた。肩掛けのバッグには『デリンジャー』も入っている。由香のスーツケースからフリルの付いた白いミニスカートにピンクのスニーカー、胸に大きなヒマワリのプリントが入ったタンクトップを選び、可愛さを強調した。由香も衣装に着替え、これから始まる『作戦』を待ちきれないようにはしゃいでいる。
「ねえ、ねえ! なんかワクワク! ちょーキンチョーしない?!」
まったく緊張感の無い由香の言葉に、私は苦笑いをするしかない。

 車は首都高を降り、みなとみらいに着いた。ランドマークタワーを少し過ぎた辺りに車を止めた。時間は18:50。 久美が機材の最終チェックをしながら私に言った。
「沙希。あたしたちが付いているんだから、安心して行っておいで。何かあったら直ぐに飛んでくから」
私は不思議と不安は無かった。たぶん、周到に計画されたこの作戦と仲間を心から信頼しているからだろう。
「そろそろ時間だ。準備はいいな?」
雄太がバックミラーで髪を整えながら、低い声で言った。
 こいつの格好はどうみても『ヤバ系』だ。ヘアワックスでオールバックに固めた髪と、濃いブルーのサングラス。
それに、ダブルの黒いスーツ。まあ、この役作りが『狙い』だからいいんだけど──こいつは既に成りきっている。
「準備OK。じゃあ、行ってくるよ」

 石田浩二は俗に言う『ロリコン』だ。趣味が高じて、アダルト掲示板に匿名で少女斡旋を希望する書き込みをしていた。久美はそれに目を付け、『ピーチピーチ倶楽部』=『PPC』という『架空少女売春組織』をでっち上げ、こちらから石田を勧誘したのだ。最初はメールでやり取りし、久美は私の写真を添付した。まだ中学生でも十分通用するほど、幼い顔立ちをしている私が囮役に抜擢されたのだ。凄く嫌だったけど仕方がない。だってお父さんの濡れ衣を晴らすために、みんな一生懸命やってくれているんだから。
 石田は何度かメールをやり取りする内に、完全にこちらを信用した。『ヤラセ』や『インチキ』ではない証拠に、石田の望む格好をした写真を送ったり、電話で話もした。当然、写真は久美が合成(コラージュ)した物だけど、その完璧な出来映えには恥ずかしさよりも驚きのほうが大きかった。100万円の入会金と身元確実な者のみという会員規約は、尚さら信憑性を与えた。計画通りPPCに会員登録した石田は、こちらの思惑通り『美由紀』を指名した。
《美由紀とはつまり、あたしのことだ》


第5章 (作戦開始) 完



第6章 (スイートハニーグラタン)


 ランドマークタワーのロビーに石田は待っていた。メールで写真のやり取りをしているから、お互いすぐに分かった。私はラウンジに座り、片言の挨拶をかわした。
「う〜ん。美由紀ちゃんって本当に可愛いね」
石田が私を舐め回すように見ている。
「そ……そうですか? ありがとうございます」
背筋がゾッとしたけど、なんとか我慢した。
「食事はまだでしょ? なにかリクエストがあれば」
小太りで髪もかなり薄い……。度のキツイ眼鏡の奥に、腫れぼったい一重の目が淀んでいる。
「食事は済ませ……」
言いかけた時、鼓膜に久美の声がした。
≪食事はまだって言って。時間稼がないと≫
私はあわてて言い直した。
「あ、まだです。食事。あの、どこかで美味しい物食べましょう」
≪いいわ。その調子! 元町に『リカルド』ってイタリアンレストランがあるから、そこに誘って≫
「じゃあ、中華街でも行こうか?」
私は無理に微笑みながら言った。
「あの、あたし中華は苦手なんです。よかったら、あたしの知ってるお店行きません?」
石田はちょっと考えながら言った。
「どんな店?」
《うっ、やばいかも……。なんかちょっと警戒したかな》
「あの、前に友達と行ったことがあるイタリアレストランなんだけど」
「イタメシか。俺も好きだよ。じゃあ、そこにしようか。で、場所は?」
 私は久美の言う通りに説明した。こちらの話は全部久美が聞いている。絶妙なタイミングで鼓膜に指示が来るから助かる。
 今頃、由香は石田のマンションに向かっているはずだ。
《盗聴機と隠しカメラを取り付けに……》

 石田と私はタクシーで元町に向かった。後ろからは雄太の車が付いて来ている。車内では石田が何度も私の足を触ってきて泣きそうだったけど、嫌味の無いようにその手を払い続けた。
 タクシーは15分程でリカルドに着いた。本当は一度も来た事など無いお店だったけど、私は常連のような素振りで振舞った。
「ここはパスタも美味しいけど、ピザが最高なの」
鼓膜に響く久美の言葉をそのまま復唱しているだけなんだけど、石田は全く気が付かないみたいだ。何品か久美のお勧めを注文して、私は味の解らない料理を無理やり詰め込んでいた。歯の裏に付いている受信機が邪魔なのと、目の前の『変態』のせいで食欲などある筈も無い。
「うん。本当に美味いね。ここの料理」
この変態はまるで爬虫類のような食べ方をする。噛まずにただ飲み込んでいるように見える。
≪沙希、ちょっとトイレに行って≫
「ちょっと、失礼します」
私は席を立ち、足早に店の奥に向かった。
「どうしたの? 今トイレに入ったけど」
私はペンダントトップに付いたマイクに喋っている。
≪あと、どれくらい時間稼げそう? 由香から連絡でカメラを隠す場所がないんだって≫
「え? どういうこと?」
超小型CCDカメラの大きさは100円ライターの半分程で、家具や電化製品の隙間に仕掛ける。
≪なんか、パソコンとベッド以外家具が無いらしいのよ≫
由香は潜入には成功したみたいだ。
≪それで、仕方ないからエアコンの隙間に取り付けるように指示したんだけど、椅子に乗っても届かないんだって≫
「で、どうすんの?」
≪ここから、石田のマンションまで20分位だから雄太さんと行って取り付けてくる。作業と往復で約50分、なんとか時間を稼いでいて≫
「え〜! 50分はちょっと、無理かも」
≪今日中に取り付けないと意味が無いんだから、なんとか頑張って≫
「もう〜」

 私は怪しまれないように、急いで席に戻った。石田は料理を平らげて、満足そうにしている。
「なにか、デザートでも食べたいな」
私はメニューを広げ、何が一番調理に時間が掛かるか必死に考えた。
「あ! グラタンがいいわ」
石田が怪訝そうな表情で言った。
「デザートにグラタン?」
≪ちょっと沙希! なに考えてんの≫
久美の呆れた声が聞こえる。
苦し紛れに私は言った。
「あ……あのスイートハニーグラタンなんです」
「スイートハニーグラタン?」
私はウェイターを呼んで注文した。
「無塩のホワイトソースを蜂蜜とシナモンで伸ばして、トッピングにアップルソースとレーズンをのせて焼いて下さい」
ウェイターは石田と同じ怪訝そうな表情で言った。
「お客様、当店にそのようなお料理は御座いませんが?」
《そんな料理、どこのレストランにもあるはず無いじゃん! たった今、私が考えたんだから……》
私は怯む事無く、すまして言い放った。
「知ってるわ。だから、作り方を言ったんだけど。シェフに出来るか聞いてきて下さいな」
「か……かしこまりました」
≪沙希! 大丈夫?≫
石田は複雑な表情で私を見詰めている。
「ごめんなさい。あたし、今日は覚悟してきたの。だから、ちょっとだけ我がまま言っちゃった」
私の『覚悟』という言葉に石田が敏感に反応した。
「いや、いいんだよ。気にしないで」
「ありがとう。浩二さん」
──浩二さん──この一言も石田の助平心を刺激したみたいだ。
「美由紀ちゃんの好きな物なら、どんな物だって頼んでいいんだよ」
≪沙希ってば、なかなかやるじゃん! その調子よ≫
《なんて単純な変態オヤジなんでしょ……》
しばらくして、シェフがやって来た。
「失礼します。お客様のご注文、詳しく教えて頂けますか?」
《なんか、面倒臭い事になってきたな……》
「すいません……。無理を言っちゃって。作り方は……」
私は、思いつく限りの調理方法で『スイートハニーグラタン』をシェフに伝授した。
「ほお! それは、美味そうですな。是非試してみましょう。では、しばらくお待ちを」
≪そのシェフおかしいんじゃないの?≫
私もそう思う……。
≪まあ……いいわ。もうすぐ石田のマンションに着くから。もう少し頑張って≫
グラタンが出来るまでの間、石田は私の事をいろいろ質問してきた。いやらしい事ばかり聞いてくるけど
できるだけ愛想良く受け答えした。憂鬱な地獄の30分が過ぎようとした頃
「お待たせ致しました。これで、いかがでしょうか?」
シェフが直々に運んで来た。
「わ〜! ありがとう御座います。美味しそう!」
≪美味しそう……って嘘でしょ? お腹壊さないでよ≫
久美は信用していないけど、シェフの持ってきたスイートハニーグラタンは本当に美味しそうだった。
「私なりに少しアレンジしておりますが、お口に合いますかどうか?」
私は、一口すくって食べてみた。
「美味しい!」
≪マジで? 信じられん……≫
それは、今まで食べたことのない食感で、程よい甘さとバターの風味がアップルソースに絡み合って、何とも言えない絶妙な美味しさだった。

 リカルドのシェフが是非『スイートハニーグラタン』を店のメニューに加えたいと申し出てきた。
≪ちょっと、どうなってんの? そんな馬鹿な≫
鼓膜で騒いでいる久美を無視して、私はシェフの申し出を快諾した。『お礼』だといってシェフは食事代をサービスしてくれた。私が払う訳じゃないから別にどうでもよかったけど、丁寧にお礼を言って店を出た。石田は食事代が浮いたことが嬉しいらしく機嫌が良い。とにかく、私の気転で優に1時間は稼いでいた。久美たちは石田の部屋に盗聴機と隠しカメラを設置し終わり、私のいる場所へ戻っていた。
 石田はタクシーを拾い、私を奥に座らせた。どうやら、もう待ちきれない様子だ。
「美由紀ちゃん。これから、いいよね?」
私はなるべく恥ずかしそうに俯き、無言で肯いた。
 石田は元町から程近い桜木町のホテル街を運転手に指示した。私は後ろから雄太の車が付いて来る事を確認した。タクシーは黄金町を経て、桜木町のホテル街に止まった。石田は最初から決めていたのか、その中でも一番派手な外装のホテルに私を連れ込んだ。
 ホテルの狭いロビーは人気が無く、フロントにも誰もいない。部屋の内装写真が大きな透光式パネルに貼ってある。部屋の写真には料金と部屋番号、それにボタンが付いている。石田はその中から空室表示の部屋を無造作に選んだ。
 私は石田の選んだ部屋番号を何気ない素振りで言ってみた。
「307号室って私の家と同じだ……」
久美の声が鼓膜に響く。
≪了解!≫

 部屋に入ると石田はいきなり抱きついてきた。キスを迫る鼻息とキツイ口臭で眩暈がしたけど、なんとか気絶だけはしないように頑張った。しつこく迫る変態をなんとか食い止め、私はなだめるように言った。
「浩二さん──先にシャワーを浴びてから……」
石田は渋々ながら言った。
「ああ、そうだね。じゃあ、一緒に入ろうか」
私は作戦通りに言った。
「うん。でも、恥ずかしいから……。先に入ってて。あとで行くから」
石田は水を得た魚のように、活き活きとした動きで服を脱ぎ捨てた。
「じゃあ、先に入ってるから! すぐに来てよ」
バスルームに石田が入ったことを確認し、ペンダントに言った。
「いいわよ。早く!」

 ──ガチャ──
 雄太と由香が鍵を開け入ってきた。この手のホテルは精算を済ませてからでないと、中からはドアが開かない仕組みになっているらしい。多機能携帯にはどんな鍵も開けられる機能が付いている。由香が私に抱き付いてきた。
「沙希! 大丈夫だった? 怖かったでしょ」
由香は優しい……。でも、今はそれどころじゃない。私は由香に微笑して無事を知らせた。
雄太がデリンジャーを手に颯爽と部屋に入る。これは筋書き通りだけど、ちょっと動きがオーバーだ。私はその間に石田が脱ぎ捨てたスーツから携帯を探し出し、発信機内臓の電池と取り替えた。石田は何も気が付かず呑気に鼻歌を歌っている。
「美由紀ちゃ〜ん。早くおいで〜。一緒に背中流しっこしようよ」
雄太がこちらを向いて1回うなずいた。──別にうなずかなくてもいいんだけど──そしてバスルームのドアを勢いよく蹴破った。
「おい! このロリコン野朗。出ろ」
雄太は由香が見ていることを意識して、実力以上の演技力を発揮している。
「な……なんですか? あなたは」
石田は驚きのあまり声が裏返っている。
雄太は静かにドスの効いた声で言った。
「俺は出ろと言ったんだ。聞こえなかったのか?」
石田は泡だらけの素っ裸でオズオズと出てきた。
「あねさん、こいつ此処でバラしてもいいですかね?」
由香が台本通りに言った。
「そうさね、こんな奴どこでバラしたってかまやしないよ」
その妖艶な美貌と豹柄のセパレートスーツは、由香の幼い声を完全にカモフラージュしていた。
石田は訳が分からず、ただオロオロしている。
「おい。そこにひざまづけ」
雄太は部屋の真ん中をデリンジャーで指して言った。
石田は惨めなヒキガエルのように這いつくばった。
「ひぃー。な……なんで」
「なんでか知りたいか?」
雄太の演技はちょっと臭いけど、パニック状態の石田には逆に効果的みたいだ。
「お前がここに連れ込んだお嬢さん。いくつか知ってるな? それに誰の娘さんだと思う?」
私は台本通り、不安な面持ちを演出し由香に抱きついている。
「だ……誰の娘さんかなんて、し……知りません」
「このお嬢さんはな、大山組総長、大山勇美のご息女だ」
《実在する有名な暴力団だけど、実は大山総長に娘などいないらしい……まあ、隠し子ならいるかも》
石田は雄太の言葉を聞いたとたん、土下座の格好になり必死な形相で命乞いを始めた。
「ひ……ひぃ〜。す、すみませんでした〜。知らなかったんです。どうか命だけは、どうか〜」
「あんた、あたしの妹をこんな所に連れ込んで、ただで済むと思ってるのかい?」
由香は総長の長女役で私は由香の妹役、雄太は組の若頭だ。
石田は既に泣き出している。やっと私の台詞の番だ。
「お姉ちゃん、もう許してあげて。あたしが悪いんだから」
由香が私の頬を平手打ちにした。
──パチーン──
「あんたが家出してから、あたしがどんなに心配したか。分かってるの?」
《由香ったら本当に力一杯やることないのに……》
「ごめんなさい。お姉ちゃん──あたしもう家に帰るから。だから許してあげて」
ここは嘘泣きをする場面だけど、難しい……。
雄太の番だ。
「指の一本や二本じゃ済まねえんだ。覚悟しな」
デリンジャーのスライドを引き、チャンバーに弾を送る。『ガチャ』という冷たい機械音に、石田は裸のまま小刻みに震えている。
「お、お願いします……助けてください……」
「往生際が悪いな。え? 変態さんよ」
今度は由香の番だ。
「沢木、待ちな」
『沢木』は雄太の役名だ。それにしても、由香は意外と演技のセンスがあるかも知れない。
「ねえ、あんた。そう言えば、安藤物産に勤めているそうじゃないか?」
「は……はい。でも……ど、どうしてそれを?」
「馬鹿だねぇ。あたし達がどうやって美由紀を探したと思ってるんだい?」
石田は考えがまとまらないのか、しどろもどろだ。
「い……いや、あの。美由紀ちゃんはPPCの人に……その」
雄太がそっけなく言った。
「そのPPCな、さっき潰してきたよ。経営者の『大滝』って女とその男、今頃はコンクリート漬けで海の底だ」
石田は恐れおののいて、言葉が出ない。
「お前がお嬢さんと食事だけで帰るつもりだったら、俺たちは黙っていたさ」
石田が恐々と呟いた。
「じゃ、じゃあ、ずっと後を付けていたんですか?」
「そういうことだ。お前がお嬢さんと待ち合わせしていることは、大滝が唄ったからな」
≪もう、いいでしょ。そろそろ、終わりにして≫
由香が久美の指示通りに切り出した。由香と雄太も歯の裏に受信機を付けている。
「あんたの出方に寄っちゃ、助けてやってもいいんだよ」
石田はすすり泣きながら、由香にすがった。
「何でもします。お願いです……。助けて下さい〜」
「実はね、安藤物産にはちと貸しがあってね──あんた、調べ物を頼めるかい?」
「は……はい、はい! どんな事でもお調べいたします! ですから」
雄太が駄目押しの台詞を言った。
「役に立たなかったら、お前も海の底だ。よく覚えておくんだな」


第6章 (スイートハニーグラタン) 完




2004-01-29 13:15:21公開 / 作者:柏原 純平
■この作品の著作権は柏原 純平さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ご指摘頂いた「OSを書く」等、数箇所修正しました。ですが、物語に影響はありませんから、読んで下さった方は安心して下さい。投稿小説としては長〜い作品になりそうで……ごめんなさいm(_ _)m ≪今回は第5章、6章を追加しました≫ 
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