- 『イナイ世界』作者:智也 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
- 全角19385.5文字今日も日が高い。
容量38771 bytes
原稿用紙約48.46枚
うらかかな午後の陽気に誘われるように私は外へと出ることにした。
透明度の高い冬の空気に、暖かな日差しが差し込んで、散歩日和。
クリスマスの訪れる告げる、イルミネーションが、普段は殺風景な並木道に
電飾で作られたアーチをかけている。
夜になるとこのアーチがキラキラと輝いて、光の海を作り出す。
恋人達が愛を語らうようなロマンチックなムードへといざなってくれる。
そんな……相手が居ればの話しなんけどね。
相手が居なくても想像……だけはできるかな。
どんどんと現実を逃避する方へ転がり落ちていく。
道端に転がっている石ころをひとつ蹴飛ばしながら、テンションが下がりかけたので気を取り直すことにする。
――由香里ファイト。
親友の智美が普段かけてくれる言葉を自分にかけてみる。
不思議とそこに智美がそこにいるようで、苦笑いを漏らしながら、
並木道を歩いた。
今日も天気がいいな。
吐き出した息が白く高く空へと上っていった。
苦しかった期末テストも終わった、日曜日の午後。
気だるさを透明度の高い爽やかな風が、奪い去っていく。
明日からの予定をボンヤリと考えてみた。
考えごとをしながらポケーっと歩いていると、並木道の脇に一匹のクロネコさんがうずくまっていた。
お昼寝でもしてるのかな。
天気がいいから。
日差し、暖かいよね。
ネコさんが大好きな私は、うずくまっているクロネコさんのもとへと近づいた。
撫で撫でさせてくれるかな。ネコさん。
すぐ近くまで近づいた時に、変だなって思った。
だって、クロネコさんから血……流れている。
どうしたんだろう?
怪我したのかな。
私は、クロネコさんに触れてみることにした。
私の指がクロネコさんの体に触れる。
――痛ッ
静電気のようなものが指先から伝わってきた。
どうしたんだろう……いったい。
判らないまま、痛さで涙目になる。
ネコさんは……大丈夫かな。
私がネコさんの居た場所に視線を向けると。
そこには黒いコートを着た小柄な女性が立っている。
目だけがやたら釣りあがっていて、どこか冷たい印象を持った。
誰だろう。この人。
「あの……っ」
ネコさんと同じ腹部。
コートの黒い色の上から赤い血の色が滲んでいた。
「貴様ッ……何者」
「あの、怪我……どうしたんですか?」
黒い服の女性は殺気だったような怖い目で私を見ている。
困ったな。
私は曖昧に微笑み返した。
「あの〜。ネコさん見ませんでした?」
「貴様は何者だ!」
異様に殺気だった目をギラつかせながらその女性は声をあらげた。
「琴村由香里です」
自己紹介でよかったのかな。
「愚弄しているのかっ。貴様」
ネコさんは余計に怒りをあらわすると、コートの中に隠していた両腕を
あらわにした。
あらわになった両腕から長くするどい爪がその姿を現した。
そしてその爪を真っ直ぐに私へと向けると、陽光を背に向かってきた。
金属のような硬質の爪が喉元へと迫ってくる。
――怖い。
泣きたいのを我慢しながら、体を丸めてその場にうずくまる。
目を閉じた。
死んじゃうのかな。私。
………
……
…
いつまでたっても、爪が迫ってこないので、おそるおそる目を開いた。
そこには黒いコートを着た女性の姿も、クロネコさんも居ない。
さっきまで歩いていた平穏な並木道がいつもどおりあった。
まるで夢でも見た後のように記憶にもやがかかっている。
本当に夢でも見たのかな。
疲れているのかな。私。
小首を傾げながら、クロネコさんのうずくまっていた場所へと立ってみた。
アスファルトの上に被る砂利とかすかに血の跡が残っていた。
夢……じゃなかったんだよね。
もう一度、小首を傾げながら私はアスファルトについた血に自分の
人差し指を当てた。
まだ、完全には固まっていないために指先にわずかに血がつく。
あの、ネコさんの血かな。
何だったんだろういったい。
考えても判らないので、そのまましばらく並木道をうろついた。
不思議なことがあったけれども、絶好の散歩日和だった。
次の日、いつものように学校へと向かった。
いつもの通学路で親友の智美に会う。
少し嬉しくなった。
「おはよう。智美」
「おはよう。由香里」
智美は私と違ってしっかりしている。
いつもぼぉぉぉっとしている私を心配してくれた。
なにより、綺麗だと思う。
涼しい目元に形よく結ばれた唇。
長い黒髪が硬質の艶を湛え、その顔立ちと相まって、凛とした雰囲気をかもしている。「
由香里。昨日のテストどうだった?」
「う〜。よしギュウ」
「意味判らないから。それ」
「今日のお昼。よしギュウにしようよぉ。智美」
「はー。素直にダメだったって言えないの。この子は……」
智美は呆れたようにため息を吐く。
「だって。テストが終わったら、冬休みだよ」
「赤点取った子は冬休みの前に補習だよ」
「いぢわる〜」
智美と同じように私の口から白い息が漏れる。
「赤点取ったら、一緒に冬休み遊べなくなるんだから……さ」
「判ってるよ。智美」
「ほんと。由香里って手がかかるよね」
「あ〜。ひどぉ〜。そんなことないよ〜。智美心配性なだけだって」
「由香里の友達していれば、自然と心配性にもなるよ」
「むー」
智美の唇から笑い声がもれる。
同じように私の唇からも自然に笑い声がもれた。
智美と私の白い吐息が一緒に空へと駆け上っていく。
この空気に溶けてひとつになりながら。
智美と私。
きっと空気みたいな存在なんだろうな。
「どうしたの? 間抜けな顔をして由香里」
「生まれつきこの顔だよぉ。私」
たまに、智美との関係に感謝をしたい時がある。
ダメな私の側にいてくれてありがとう。
いつも励ましてくれて……ありがとう。
「由香里。遅れるから、少し急ぐよ」
「あっ。待ってよ。智美」
いつものように私の少し、前を行く智美の背中を見つめた。
息が切れるけれど走ると……
暖かくなるね。智美。
今日もいいことがあるといいな。
私はいつものように知美の背中に一人で語りかけるのだった。
クラスメートたちとの挨拶を終え、窓際の席に腰を降ろす。
HRが始まるまでの間、みんな思い思いの友人たちと昨日の休みの話しで盛り上がっている。
それに、もうすぐ冬休みも近い。
どこかみんなの間にも開放的な空気が流れていた。
私はそんな喧騒とは一歩引いた位置で、外の景色を眺めていた。
そんな時にふと、思い出す。
昨日のネコさん、どうなったのかな。
外を見ても別に、ネコさんが居るわけでもないのに、視線だけが色々な場所へと泳いでいる。
校舎の物陰やグランド、目に映る範囲でネコさんの姿を探す。
学校で会ったわけでもないのだけれど、なぜか、この場所に居るような
気がしていた。
もう一度、視線を屋上の方へと向けると、屋上に誰かが立っている。
はっきりと誰なのかは判らないけれど。
確かに人が立っていた。
ネコ……さん。
なんでそう思うのかは自分でも判らなかった。
だけど、胸の中がざわついている。
行かなきゃ。
本能のような何かが私の中でささやいていた。
私は席を立って廊下へと向かって足を進める。
「琴村〜。授業、もう直ぐはじまっぞ」
不意に呼び止められる。
「ゴメン。祐二君。私、用事があるの」
仲良い男子の相原祐二君だった。
「トイレか?」
「そんな……とこかなっ。へへ」
「祐二! 女の子になんてこと聞いてるのっ。デリカシーがない!」
「げぇっ。智美」
「たくっ。朝から由香里にセクハラなんて最低ッ。祐二」
「別に、セクハラを狙ったわけじゃ……」
「口答えしない!」
「何でだよ」
祐二君と智美は幼馴染なんだけれども……
いっつも喧嘩ばかりしている。
いつものことなので、誰もクラスメートは二人の喧嘩に興味を示そうとしない。
みんな慣れちゃったのかな。
いい争いをつづけている二人の間を抜けて私は廊下へと出た。
朝のHR間際の誰も居ない廊下をひた走る。
知っている場所を抜け、足を踏み入れたことない屋上がある
5階の階段を上った。
使われていない教室の間を抜けるのが少し怖かった。
ポツンと置き忘れたような場所を越えて、屋上へと続く廊下へと着いた時に、HRの始まりを告げるチャイムが鳴った。
完全に遅刻になったことを少し後悔しながら、屋上の扉を開く。
本来なら来るものを拒むように鍵がかかっているはずなのに。
あっさりと扉が開いた。
まだ、さっき、屋上に居た人は居るのかな。
開いた屋上の扉から寒気が流れ込んだ。
想像以上に屋上は寒かった。
リボンで縛った髪が大きく流される。
差し込んだ日差しで目を細めながら屋上へと立った。
吹き込んだ風が抜け、陽光にも目が慣れた頃に声をかけらる。
「……何しに来たんだ?」
「えっ、ゴメン」
薄っすらと開けていく視界に見覚えのある顔が映る。
「別に……謝らなくてもいいけどな」
「ケホンっ。ごほっ、ごほっ」
吸い込んだ空気に苦いものが混じっていたために思わずむせ返った。
「タバコ……吸いに来たわけじゃねぇのか」
「タバコ?」
あたふたとしている私の口に真新しいタバコが差し込まれた。
「苦いっ」
「これで、共犯な。チクリはなしだ」
「ひどいよ〜。片瀬君」
見覚えのあるその顔と名前が一致するまでに少しの時間がかかった。
同じクラスに居る片瀬君。
下の名前は知らない。それにあまり話したこともなかった。
最近、学校に来ていなかったために周りの人があれこれと噂をしていたためにかろうじて片瀬君の名前……覚えていた。
「琴村……だっけか? おまえ」
「うん。琴村由香里だよ」
「あっそ」
私に興味がなさそうに片瀬君はタバコを吹かしていた。
煙が私にかからないように少し立ち居地を変えてくれた。
「片瀬……君。タバコ……好き?」
「さぁな」
まるで心ここにあらずといった様子で片瀬君は宙を仰いでいた。
普段ならここで片瀬君とお別れのはずなんだけれど……
制服の形口に爪でひっかれたような痕が残っている。
「それ……どうしたの?」
「さぁな」
目線を合わせようとしない片瀬君。
でも、私にはひとつの予感があった。
「ネコ……さん?」
その予感を遠まわしな言葉で口に出す。
「かもな……」
片瀬君は相変わらず何も言わずに宙を眺めていた。
「それとも、黒いコートの女性?」
片瀬君は初めて私と目を合わせた。
泣いているとも怒っているともとれない表情で私を見つめる。
「その両方かもな」
私から視線をそらすと片瀬君はまた、宙を仰いだ。
一瞬だけ、片瀬君の表情に何か私に期待するものがあった気がした。
でも、それが何なのかは判らなかった。
ゴメン。片瀬君。
ネコさんと片瀬君、どんな関係があるんだろう。
相変わらず片瀬君は宙を仰いだままで、タバコの煙を吐き出している。
その横顔は老人のように生気がなかった。
ネコさんの気配の完全になくなった屋上で私は寒さに耐えながらチョコンと座っている。
完全に遅刻になったためにいまさら教室には戻れなかった。
それに……片瀬君のことも少し放っておけなかった。
口から息を吐き出して凍えた手のひらにかける。
何度か繰り返しながら、少ずつ暖かさを求めた。
どれくらい同じ動作を繰り返していたか判らなくなった頃に、
屋上の扉が開いた。
「うっす。サボり魔」
開いた扉と共に姿を現したその人物に片瀬君も私も一瞥した。
「お前……も遅刻だろ」
「相変わらず。連ドラのようにシリアスこいてるのか」
ポケットに手を突っ込んでその人は片瀬君のもとへと向かっている。
誰なんだろう。
でも、どこかで見たような記憶があった。
「ご苦労だな。副会長ともなると、サボリ魔の相手も仕事か」
「まぁそんなところだ」
片瀬君はその人にうんざりしたような表情を向けて、立ち上がった。
「帰る」
「授業でてきゃーいいじゃん」
「気分じゃねーよ」
「無理にとは言わねぇけどな」
屋上に片瀬君の足音が響く。
その足音は入り口付近で座っている私の前で一旦止まった。
「ネコのことは忘れた方がいい」
そんなことを言って、片瀬君は校舎の方へと姿を消した。
追わなきゃ。
私も追いかけようとしたけれど、足の感覚がなくなっていて、上手く立ち上がることができない。
「で、君は誰?」
「あのぅ、えぇっ、ゴメンなさい」
「片瀬の知り合い?」
謝っていた頭を上げて声の主を見た。
ストレート黒髪にどことなくつり上がった目。
昨日のネコさんを少し思わせた。
「私、2年の琴村由香里って言います」
「あっ。俺は2年の有村」
「有村……さん。もしかして、生徒会の人ですか?」
「そそ。それ」
悪戯っぽい笑みで有村さんは笑った。
「さんなんて付けなくていいよ。同じ2年だし」
「えっ、ぁっ、ゴメンなさい」
「謝らなくてもいいって。それより、琴村さん。アイツの知り合いなん?」
よく見ると有村さんの釣りあがった目には祐二君と同じように愛嬌があった。
怖い人だと思ったけれど、少しほっとする。
「はい。同じクラスなんです」
「ほっか。ほっか。アイツさー。俺と中学の頃のダチで」
「そうなんですか」
「そそ。最近、授業出てないだろ。生徒会のほうでも問題になってってさ」
「問題? ですか」
「うちの会長様は厳しいから」
そう言って有村君は頭をかいた。
「本当はさ、アイツ辛いと思うんだ」
「ツライ?」
「アイツの姉さん自殺未遂で寝たきりらしい」
「えっ、そうなんですか!」
「…………」
私の驚いた表情を見て、有村君も驚いた表情を浮かべた。
「もしかして……知らなかった?」
「はい。知りませんでした」
「…………」
しまった、と言うような表情を有村君は作った。
「俺ぁてっきり、屋上に一緒にいたから、知ってるのかと……」
癖なのかな。
頭をかきながら、有村君は困ったような顔をしている。
「えっと、琴村さん。これ上げる」
「えっ、何?」
山なりの軌道で紙パックに入ったコーヒーが放られてくる。
私は反射的にそのコーヒーを手で受け止めた。
手のひらに温くなったコーヒーの温度が伝わる。
「口止め料ってことでひとつ頼むよ」
拝むような仕草を有村君は見せた。
「うん。いいよ。誰にも言わないから」
生徒会副会長さんの弱気な姿勢にいつもの調子で答える。
「まぁ。恩に着るよ。アイツもあんまりそういうこと知られたくないみたいだしさ」
「大変なんだ……。片瀬君」
「まぁ。何か力になってやってくないか」
「うん。がんばってみる」
「じゃあ。俺は行くから。またね。琴村さん」
「またね。有村君」
自然な会話で有村君と別れた。
有村君から貰ったコーヒーにストローを差し込む。
冷え切った体にゆっくりと、生ぬるいコーヒーが流れた。
かさかさに乾いていた唇が湿っていく。
それだけでも、助かったと思った。
片瀬君のことを少し、考える。
そういえば、担任の先生に片瀬君が呼ばれて、あわただしく教室から出て行ったことがあったことをボンヤリと思い出す。
あの時に、片瀬君のお姉さん……
私は、あの時、片瀬君のことほとんど知らなかったな。
いまでも、ほとんど知らないか。
少し判るに連れて、何もしてあげられなかったことに後悔が募る。
それが自分のエゴであっても。
知るってことは後悔を生む、贖罪なんだと少し思った。
冷たい風が吹き抜けていく。
あらためて、冬の屋上が寂しい場所であることで気づく。
ここから眺める景色には。
空にも町並みにも雑踏にもどこか、寂寥感があった。
片瀬君には誰か支えになってくれる人は居ないのかな。
智美が居なくなった世界を、ふと想像してみた。
その世界はこの屋上だった。
寂しくて冷たくて、孤独が似合っていた。
もしも、孤独が愛情を生むために存在するとしても……
やっぱり、寂しいなと思った。
あの……ネコさんも一人ぼっちなのかな。
口の中に流れ込んでくるコーヒーの味をいつも以上に苦く私は
感じているのだった。
すっかり冷え切った体を温めてから教室へと戻った。
教室内には片瀬君の姿はない。
そのことを確認してから自分の席へと戻ると。
「由香里〜。何してたの? 一体」
「智美。ゴメン。家に忘れ物を取りに行ったの」
「相変わらず。ドジっ子なんだから。由香里は」
「ゴメン。朝、弱いんだモン。私」
「はぁ〜。寒くなかった? 外」
「うん。少し寒いけど平気。平気」
「由香里は本当に、手がかかるんだから」
そう言って智美はポケットの中に入れていたホッカイロを渡してくれる。
「それで、少しは温まるから……ね」
「うん。ありがとう。智美」
智美から受け取ったホッカイロを両手で握った。
暖かさと少しの優しさが伝わってくる。
本当にありがとう。智美。
この時期の屋上は寂しい場所だったよ。
まるで、智美の居ない世界のように……
そんな場所にたっていた片瀬君。
きっと、寂しいんだろうな。
「由香里? どうしたのぼぉぉぉっとして」
「ううん。なんでもない……から」
もう一度、あのネコさんに会えるかな。
確かめなきゃ。自分で。
何で自分でもそんなことを思うのかよく判らない。
でも、知ってしまうことが贖罪なら。
きっと、確かめることが免罪符なんだって思う。
何もできないままなのは……
後悔を生むだけだからきっと……ね。
――由香里ファイト。
また、少し自分に言い聞かせみた。
智美の前で、智美がよく言ってくれる言葉を自分に言い聞かせる。
少しこそばゆい。
「由香里。ファイト」
「えっ?」
直ぐ側で智美の声がする。
「次の時間、智美の嫌いな数学だから落ち込んで……まったく」
「そんなこと……」
あっ。
考えごとしていたからかな。
「あはは。ゴメン。数学いやだなぁ」
落ち込んでいた風に見えたのかな。
智美……元気つけてくれようとしたんだよね。
「数学。赤点じゃなきゃいいけど……」
「う〜。大丈夫……だよ」
「本当に? 自信アリ?」
「ない……」
「冬休みが遠くのね」
「私の……冬休みぃ」
授業が始まるまでの間、智美とお喋りをしていた。
いつものように。
それと、智美のくれたカイロから伝わった熱が、優しさと同時に少しの勇気をくれたようだった。
放課後。
私は智美の誘いを断って早々に家路についた。
まだ、喧騒の収まらない教室を抜け、人ごみでごったがえす廊下を抜けた。
人もまばらな昇降口で靴にはきがえ、学校を後にする。
目指す場所はあの場所。
昨日ネコさんに出会った並木道。
テストが終わったので、半日で授業が終わるため、まだ日が高い。
昨日のつづきのように人通りのない並木道を今度は昨日とは反対側から歩く。
走ると息が切れる。
吐息が宙を舞った。
冷たくなった目元に涙が溜まっている。
長い距離を走りすぎたみたいだった。
汗が布地にまとわりつくようで気持ち悪い。
肩をふるわせながら、私はネコさんの姿を探した。
居るはずないか。
風が出てきたいた。
智美と一緒なら大して寒くなかったはずなのに。
急に思い出しように寒さが押し寄せてきた。
日は高いはずなのに。
並木道の中央でポツンと置き忘れられたように私は立っている。
白い季節に乗り遅れたオブジェのように、どこかこの季節に馴染めないでいた。
居るはずなんかないか……
何をやっているんだろう。私。
風が落ちた木の葉を揺らし、足音を作る。
寂しさが、そこに居るはずのない、ネコさんの影を作った。
振り向くことも進むこともできないまま、この場所に立っている。
両手を自分の顔の前において、吐息を吐く。
震える肩を癒せないまま、寒さに身を任せた。
うらかかな午後の散歩道。
だったはずだよね……この場所は。
賑やかな街の喧騒から置き忘れたようなこの場所も、教室の賑わいから取り越された屋上と何も変わらなかった。
寂しいよね。
片瀬君もネコさんも。
今日、何度目かのため息をついた時に誰かに声をかけられた。
「あれ? 琴村……さん」
下を向いていた私は、その声の主へと視線を向けた。
「有村……君?」
制服姿の有村君が目の前に立っていた。
「琴村さんってこっち側なの家?」
「ううん。違うよ」
「何か、用事でもあるの? こんなところに立ってて」
「ん〜。用事と言えなくもないのかなぁ」
「何だか、わけありっぽいね」
有村君は目つきは悪い。
でも、根は優しいんだなって思う。
「ネコさんを探しているの」
「はぁ? 飼い猫でも逃げたの」
「ちょっと、違うかなぁ。昨日、あったネコさん」
「そんなの見つけられるわけ……ないと思うけど」
有村君は呆れたようにため息をついた。
「やってみなければ、判らないと思うよぉ」
正直、自分でもあんまり自信がない。
「まぁ。頑張れと」
「うん。頑張るよ」
有村君がため息をつく。
少し、智美と似た動作で。
「俺は行くから。あんまり、無理して風邪ひくなよ」
「引いたら。有村君にうつすから大丈夫だよ」
「それは厄介だ。俺のためにも風邪を引かないでくれ」
「そう思うなら。暖かいもの欲しいなー」
「なぅての恐喝かよ……」
「ううん。お願い♪」
「はぁ〜。何かあったかな」
そう言って有村君はゴソゴソとカバンの中をあさった。
ゴメンね。有村君。
少し、冗談言っただけなんだよ。
「あった。はい。これ」
有村君はカバンの中から貼るタイプのホッカイロを手渡してくれた。
「近所のドラッグストアーでお試しに貰ったヤツ。これなら暖かいと思うよ」
「わぁ〜。ありがとう。有村君」
「何にしても風邪。引くなよ」
「うん。これで大丈夫だよ」
「じゃあ。俺行くから。またね」
「ばいばい。有村君」
私は有村君の背中が見えなくなるまで見送った。
ありがとう。有村君。やっぱり、優しいな。
貰ったホッカイロを手のひらの上で見つめた。
これで、ネコさんも暖かくなれるよ……ね。
よかったね。ネコさん。
よかったね。私。
はぁ……
息、白いよね。
今日はもう、来ないのかな。ネコさん。
高かった日が、遠くに映る稜線へと沈んでいく。
空が焼けるように赤い。
この時期、日が沈むのが早かった。
すぐに長い夜が……
私たちの街を包み込む。
夕焼けが長い影法師を作る。
私の身長よりも長く伸びた影が、並木の影と重なりあった。
影法師の海の中に飲み込まれた私の影の頭の部分の上に、もうひとつの
影が浮かんだ。
その女性は影法師から姿を現したように私の目の前に現れる。
そう、まるで迫り来る闇が、その人を運んで来たようだった。
「また、会えましたね」
「探していたのだろう?」
昨日と同じ殺気だった怖い目つき。
「ネコさん。好き……ですから」
「それが、私を探す理由か……」
昨日と同じ真っ黒なコートに血溜まりがついている。
「何かを、思い出せそうなんです」
「ふっ。くだらない」
「ゴメンなさい。くだらない理由……ですよね。自分でも何を考えているのか、よく、判らなくてっ」
言葉がつまる。
智美によく、説明が下手だと笑われたことを思い出す。
伝えられない気持ちって。
あってもなくても……変わらないのかな。
「なぜ? 泣く」
「私……っ、私、私っ」
呂律が上手く回らない。
言いたい言葉が山のようにあって、でもその言葉が、上手くまとまらなくて、結局何が言いたいのか判らなくて、言葉として発するのが怖くて、曖昧な笑みという名の海の中に沈めていく。
だから……私の笑みは作り物っぽいものが多かった。
智美のように心の底から笑うことなんて……できないよ。私。
きっと、莫迦だからかな。
「ふぅっ。お前はなりそこなったんだな」
目の前の女性から殺気が消えていった。
鋭い目元に宿っていた炎のようなものがなくなっている。
「主は居ないのか?」
「あ・る・じ?」
女性の手が私の頬に触れた。
冷たい。
今日は爪がなかった。
一瞬触れた後、昨日と同じように静電気が起こる。
ネコさんの手を拒むように。
バチバチと激しい音を立てて、青白い炎が舞った。
その青白い炎が女性と私の髪を逆立たせる。
――痛っ。
声を出して泣き出しそうになる。
違う。
痛みよりも、もっと、別の感情が伝わってくる。
体の痛みより……もっと痛い。
曖昧な光景が揺れた。
ゆらゆらと夏の日の陽炎のようにの地面が揺らめく。
別の場所へ……
私の意識だけを残して体が消えていく。
怖かった。
それにとっても悲しい。
何でなんだろう。
――と・も・み。
闇に染まる光景の中で親友の名を心の中で呟いた。
それが、私‐由香里‐の最後の言葉のように感じるのだった。
「こまや。おいで。いい子だね」
柔らかい声がする。
その柔らかい声に誘われるように私は近づいた。
ゆっくりとその人のもとへ駆け寄る。
「よしよし。こま」
差し出された手に私は擦り寄った。
大きな手のひらが私の頭を撫でてくれる。
撫でられた頭が心地いい。
そのまま抱きかかえられて大好きなあの人の膝の中へ身を埋めた。
「おまえは。いい子だ。こま」
逆光の中に映る微笑んだ柔和な顔。
そう、この人は私の主人の倉本陽一さんだ。
強く抱きしめられた陽一さんの体から、温もりが溢れてくる。
この人から居てくれるから私は、この場所が大好きだった。
「こま。よしよし」
微笑んだその横顔が好きだった。
そして喋っている口元が好きになり。
すぐに笑っている顔が好きなって。
そして泣いた顔が好きになって。
私はこの人が大好きになった。
この手のひらが、指先が、身を預けている膝が、私の心を温もりで
満たしてくれる。
平穏な日々。
少し退屈なくらいの日常。
それが私の望む永遠だった。
これは……私の記憶?
曖昧な波紋のような渦の中で考える。
こま……さん。
あのネコさんの名前かな。
主の名前は……
陽一さんかな。
「こまちゃん。おいで〜」
「ふぅぅぅっー」
私はその声に不機嫌そうな声を出す。
陽一さんを私から奪っていくからだ。
「こまや。ダメじゃないか。絵美さんに謝らないと……なっ。こま」
私は陽一さんから視線を逸らす。
「困ったな。こまには」
困らせてやりたかった。
私、以外の人に陽一さんは渡したくないから。
雨の多いこの季節、それでなくても気分がよくないのに。
今年は雨が多い。
そんな雨の中を陽一さんと恋人(?)の片瀬絵美は外へと出って行った。
一人この家に取り残される。
寂しかった。
あの包み込んでくれる大きな手も、優しさを含んだ笑みも、柔らかな膝もない。
暖かさを運ぶ日光の変わりに、うるさいくらいの雨音が耳に響いた。
ふて寝をすることにする。
ごろりとフローリングの床に横たわった。
気だるさが眠気をすぐに運ぶ。
私は静かに目を閉じた。
………
……
…
目を開いた。
相変わらずの雨音。
どれくらい時間が経ったんだろう。
外は薄暗いままなので判らなかった。
お腹の音が空腹を訴える。
ウロウロと食べられそうなモノを私は探した。
なんだか、妙に腹騒ぎがする。
人間の言葉で言うと……
胸騒ぎだったかな。
うる覚えの言葉を引用しながら、自分が落ち着かないことに気づく。
どうしたんだろう。いったい。今日は。
こんなにもチクリと胸が痛む。
陽一さんが早く帰ってきて欲しい。
あの大きな手で……もう一度、抱きしめて欲しい。
不意に扉が開いた。
陽一さんだろうか。
私は玄関へと駆け出した。
頭を撫で撫でしてもらいたい。
お膝の上で寝転がりたい。
大きな胸の中で抱きしめて欲しい。
走りながら、色々としてもらいことが、頭の中を駆け抜けた。
でも、まずは、陽一さんの顔を見たい。
そうすれば、この不安も姿を消すと思った。
駆け抜けた玄関先に……見ず知らずの女性が立っていた。
誰だろう、この人。
判らないまま、私はその女性に抱きかかえられた。
陽一さんとは違う、柔らかい肌。
「アナタが、こまちゃんね」
「にゃぁ〜っ」
「あら。言葉が判るのかしら。いい。こまちゃん。アナタは今日から私の家の子になるの。いい?」
微笑んだ女性の横顔。
その横顔に私は飛びかかった。
私の主人は陽一さん以外には居ない。
「ふぎぃぃぃぃ」
「何をするの。やめなさい。こまちゃん。いい! 陽一は……陽一はね。もう、居ないのよ。判る? 死んだの……よ」
嘘だ!
そんなこと信じられなかった。
私はその女性から飛び降りると、足元を爪で引っ掻いた。
「ふぎぃぃ」
そして威嚇するように低い声を出す。
「痛っ。やめなさい。本当なの。陽一は……陽一は……」
「ふぎぃぃぃ」
やめろ! やめろ!
聞きたくなんてない。
「絵美さんと一緒に……」
「ふぎぃぃぃ」
続きを聞かずに私は外へと飛び出す。
「待って、こまちゃん。待って!」
雨が……
この体を濡らす。
でも、そんなことは構っていられなかった。
あんな嘘つき。大嫌いっ。
ご主人様が。陽一さんが。私を置いてどこかへ行くはずがない。
絵美なんかに陽一さんは渡すものか。
――こまや。いい子だね。
その大きな手のひらが私の背中を撫でる。
――こまや。よしよし。かわいいな。
その広い胸で私を抱きしめてくれる。
――おいで。こま。お昼ねしようか。
そのお膝が私に安らぎと温もりをくれる。
どこに居るの陽一さん。
雨が……
目元から流れる涙を隠す。
濡れたアスファルトに足を滑らせながら、陽一さんの姿を探した。
視界が悪い。
濡れた毛が重い。
鳴り止まない雨音がいまいましい。
走った。
どこへ向かっているかも判らないまま走った。
息が切れ、胸が痛くなってもまた、走った。
目がかすんで、地面に倒れそうになっても走った。
ただ、陽一さんに会いたくて。
その温もりが欲しくて。
私は……走った。
雨の匂いに。
血の匂いが混じる。
血の匂いに誘われるように私は歩く。
もう、走れるだけの力は残っていないみたいだった。
マンションの一角に血だまりがあった。
その血溜まりの中心に陽一さんは居る。
近づくにつれ、目がかすむ。
意識がこの体を残して消えていくようだった。
声が発せられない。
雨が。
容赦なく私の体と陽一さんの体に降り注ぐ。
私は陽一さんの体にやっと触れた。
だらりと伸びた手のひらに血がついている。
その血でぬりると体を滑らせた。
この手は……
もう、私を撫でてくれない。
目を閉じた陽一さんの顔を覗き込む。
閉じられたその双眸はもう開くことはなく。
もう、私に笑いかけてくれない。
仰向けに倒れたその体は、血溜まりの中に居る。
まるで赤い花びらが陽一さんの体を包むようだった。
陽一さんの居ない世界……
想像しただけで暗闇だった。
どうして? ねぇ、どうして? 陽一さん。
なんで? なぜ? ねぇ、なんで?
私を……私を……私を……私を……
壊れていく何もかもが。
嫌だよ。
壊れていく欠片を必死で繋ぎとめる。
でも、それはすぐにまた、壊れていく。
積んでは崩れる砂山のように、私の世界が壊れていく。
嫌だよ。嫌だよ。
うわぁぁぁぁぁぁぁん。
陽一さんの笑顔……
私を孤独‐ひとり‐にした。
降りしきる雨の中で。
私は、ずっと陽一さんの側に居るはずだった、
なのに……
なぜか……
望んだわけでもないのに……
私の体は人間の体になっていた。
これは神様が与えてくれた慈悲それとも罰。
あるいは悪魔が与えてくれた夢それとも戯れ。
そのどちらにしても。
私は冷たくなった陽一さんの手を握った。
雨に打たれ、冷たくなったその手は、もう何も探せない。
だから、私が。
陽一さんを孤独‐ひとり‐にした絵美に復讐をするんだ。
そのために手にいれたこの身体。
少しのお別れです。
陽一さん。
また、会えますよね。きっと。
今度は……
私が壊れる番だから。
それまで、待っていてください。
陽一さん。
初めてこの唇が。
主人の名を刻んだ。
発せられた言葉はどこまでも儚いままで。
届かない言葉に意味や価値なんてないんだろうな。
ただ、一人、私は天を仰いだ。
心が冷たい。
氷で覆われた幕の中に居るようだった。
このまま、私の心、壊れちゃうのかな。
悲しいよね。
だって……大切な人。
イナイ世界なんて。
からっぽな宝箱のように、夢も希望もないんだよね。
きっと。
ゆらゆらとしていた光景が元の形を作る。
痛みも。
めまいも。
冷たさもなくなっていた。
ゆっくりと私は、目を開く。
そこに、あの女性。
こまさんの姿はない。
あれは……こまさんの記憶。
変わりに、私の記憶をこまさんは持っていったのかな。
身体が、いまさらのように震えだす。
何に対して震えているのか判らなかった。
怖かったから。
寒かったから。
それとも、寂しかったから。
判らない……よ。
どうして。
私の……主って誰?
判るわけ、ないよね。
こまさん。
後を追わないと。
片瀬君のところへ向かわないと。
間違っているよね。
復讐なんてきっと。
夕暮れが夜風を運ぶ。
日が暮れ始めるのと同時に、電飾に光が灯りだした。
どこかぼやけた空の色に、光の海が広がっていく。
光でできた海を私は駆け出した。
駆け出したために解けていくような光景の中で、光の海は流星群へと
姿を変えた。
電飾の流星群。
景色と一緒に光も流れていく。
正直に、キレイだなぁと思いながら、私は並木道を後にするのだった。
どこをどう走ったのか判らなかった。
ただ、真っ暗な道を闇雲に走る。
正直、苦しいなと思いながら頑張った。
こまさんを止めなくちゃ。
こまさんはきっと……
大切な人がイナイ世界で。
愛を学ばないといけないんだ。
愛を学ぶために、孤独があるんだから。
包んでくれる温もりは、きっと勇気をくれるよね。
智美がそうしてくれるように。
だから。私も頑張れるんだって思う。
一軒の家の前にたどり着いた。
表札には『片瀬』の文字が書かれている。
私は迷うことなく呼び鈴を押した。
「はい。片瀬ですが」
ぶっきらぼうな男の子の口調。
「私。琴村。片瀬君?」
「琴村?」
「うん。お願い。話があるの、開けて欲しいな」
「何の用だよ?」
「いいから。緊急事態超なんだからっ!」
「超の使い方間違ってねぇか?」
「それくらい慌ててるってことで、聞き流しておいてっ」
「何の用だか知れないが。帰れよ」
「お願いだから。片瀬君」
声の感じからしてこまさんはまだ来ていないみたいだった。
「たくっ。しょうがねぇ。少し待ってろ」
よかった。
こまさんよりも、早く片瀬君の家につけて。
安心したら、少し、ぐったりきたみたい。
でも。由香里ファイト。
頑張らなくちゃ。ダメだよね。
少しして不機嫌そうな顔の片瀬君が姿を現した。
「何の用だよ。琴村」
「あのね。片瀬君」
息が上がっている。
言葉を喋ろうとしても上手くいかない。
「お姉さんの名前……絵美さん?」
ゴメン。
こんな訊ね方しかできなくて。
「だったら、どうだって言うんだ?」
「お姉さんは、今、どうしてるの?」
言葉ってどうして上手く伝えたいことを伝えられないのかな。
もどかしさばかりが募るのに。
「そんなことしってどぅすんだよ!」
「いいから。教えて。お願い」
こまさんを止めなきゃ。
「ネコさんを止めなきゃ。ダメ」
「おまえ。ネコに会ったのか」
「こまさん。飼い主の仇だって片瀬君のおねぇさん狙ってるの。
だから、止めなきゃ」
「仇だと! ざけるなぁぁ」
片瀬君は一段と高い声で吼えた。
思わず私は肩を震わせる。
「いいか。琴村。あのネコに何を吹き込まれたが知らないが。俺の姉さんはな。アイツの飼い主の陽一とか言うのと心中しようとして、今、寝たきりだ」
一気にそこまでまくし立てて、片瀬君は自嘲気味に笑った。
「それをよりによって、復讐だと。身体の弱い姉さんとの結婚を反対された挙句に、心中だって! 笑わせるなよ」
であった頃のこまさんと同じ憎悪が片瀬君の瞳に宿っている。
「今日こそは、あのクソネコをぶっ殺してやる。判ったら、失せろ。琴村」
「ダメっ。片瀬君。やめようよ……ねっ」
「お前に何が判るって言うんだ。姉さんはな! 俺や家族を残してアイツを、陽一とかいうヤツを選んだぞ。全部捨ててだ。その結果が、植物人間で、寝たきりだ。笑えるだろ。笑えよ。笑いに来たんだろ。琴村」
大切な人がイナイ世界。
そこは……あの屋上よりも、並木道よりも、寂しいんだよね。
片瀬君。
辛いよね。
でもね……片瀬君。
どんなに寂しくたって、どんなに辛くたって……
一人じゃないよ。きっと……ね。
どうやったら、気持ちや言葉って伝わるんだろう。
ゴメンね。
私……莫迦だから。
何かを言ってあげたいんだけど、伝わらなくて。
ゴメンね。
イナイ世界は辛いよね。寂しいよね。悲しいよね。
考えが言葉が鉛のように重い。
その重さに押し潰されていた。
時間が緩やかに流れる。
「もう。帰れよ。琴村。そろそろ、アイツが来る時間だ」
「ダメ……っ」
風が変わる。
冷たい風が、生暖かい風へと。
ここが異界であることを告げるように。
「来たな。化け猫」
片瀬君は私を残して家の中へ引き返した。
バタンと音を立てて扉が閉まる。
扉一枚しか隔てていない片瀬君との距離がどこまでも遠い。
直ぐにまた扉が開いた。
金属バットを持った片瀬君が姿を現す。
目だけが異様にギラついていた。
「片瀬君! 片瀬君ってばっ」
私の声は届かない。
「陽一さんの仇ぃぃぃぃぃ!」
庭先からこまさんの声が聞こえる。
「出たな! 化け猫っ」
その声に呼応するように片瀬君は駆け出した。
「邪魔をするな!」
「今日こそ息の根をとめてやるよ」
殺意と殺意が火花を散らす。
孤独と孤独がお互いの存在を確かめるように二人を傷つけ合わせた。
こまさんは長く伸びた爪で、片瀬君は金属バットで、お互いの身体を傷つける。
血が飛び出ても。
服や皮膚が破れても構うこともなく。
まるで、死を望むように二人はお互いを傷つていた。
こまさん。
片瀬君。
イナイ世界は辛いですか。
大切な人がイナイ世界は寂しいですか。
「止めてよぉぉぉ。二人ともぉぉ! 喧嘩なんてダメだよぉ」
それでも……
その世界を乗り越えることが。
生きるっていうことなんじゃないのかな。
私は片瀬君とこまさんの間に入ろうとした。
二人の憎悪を含んだ視線が私と交錯する。
私……今、どんな表情なのかな。
また、愛想笑いなのかな。
「邪魔をするな!」
「邪魔するな。琴村」
――おまえなんかに……大切な人に捨てられた気持ちが判るか!
――置き去りにされる辛さがわかるか!
責めるような視線が痛い。
でも。
「判るよ。私。自分の主。誰だか……判らないモン」
琴村由香里。
一体、誰の名前なんだろう。
「大切な人に置き去りにされて、信じていた物に裏切られた自分が恥ずかしくて、そんな自分を嫌いになって。そんな自分を傷つけることでしか……納得させられないなんて、悲し、過ぎるよぉ」
胸の辺りがうずく。
遠い昔に癒えたはずの傷がまた開きだしたように。
「自分を好きになるってできないのかな。大切な人が居た時と同じ気持ちになるってできないのかな。いい所ってどうやって探すんだろうね。無理やりこじつけてみるの? 違うよね。そんなの虚しいモン。そんなことじゃなくて。自分のいい所って……誰かに受け入れてもらうことで、見つけるんだよね。受け入れて貰えることで、ダメな自分を許そうって思うんだよね」
「そして、そんな気持ちが、勇気になるの。暗がりで、怯え続けるだけで、大切ただった人を自分を傷つけるための道具に変えるなんて……寂びしいよ。やめようよ。ねっ。探してみれば……いいじゃないっ。自分だけの絆。消えない絆を」
智美が、私にとってその絆だって信じてもいいかなぁ。
ダメな私を好きで居てくれるよね。
包み込んでくれる優しさが勇気をくれたの。
この胸の中に灯った温もりが消えないように。
少しだけ、格好つけたかな。私。
こまさん。
片瀬君。
仲直りファイト。
私の役目、終わったみたいだから。
消えるね。
涙。白くなったかな。
違う……か。
これは雪だね。
クリスマス前にこの街に初めての雪が降る。
キレイ。
消えていく私に、神様からのささやかなプレゼントかな。きっと。
白い雪。
小さなその結晶がこの街を白く染める。
片瀬君もこまさんも白く染める。
二人の悲しみも、背負った罪も消えてくれますように。
手のひらからこぼれる雪のように私の身体。
消えていくんだね。
さよなら。私。
琴村由香里だった。私。
………
……
…
この街に二回目の雪が降った日。
私は小さな箱の中に居た。
寒くて凍える身体を癒せなくて。
小さく箱の中で丸まっていた。
ちらついている雪が、開いたままの箱に降り注ぐ。
このままじゃ、凍えちゃうよね。
困ったな。
どうしょうもないので、箱から顔を出す。
「あーネコだ。ネコ。ネコ」
「智美。走るなよ」
「祐二。ネコだよね。ホラ。ネコ」
「見りゃ。判るっつうの」
「ほらぁ。寒くない。ネコ。おいでおいで」
私はひょいと抱き上げられた。
温かいな。
それに懐かしい。香りがする。
「このネコカワイくない? 祐二」
「ん〜。なんかさ。捨て猫なのにリボンとかしてて可愛いな」
「でしょ。でしょ。持って帰ってあげよう。かな」
「智美のところ、ペット飼えたっけ?」
「お母さんもOKしてくれるよ。こんなにカワイイし。……ねぇ」
抱きしめられた温もりに私はすりすりと自分の身体を摺り寄せる。
「やっぱり。カワイイ」
「愛嬌のある、捨て猫だな」
「のんのん。祐二。捨て猫なんて言わない!」
「飼うのか?」
「うんうん。名前。決めてあげないとね」
「捨ててあるから。ポイでいいんじゃない?」
「却下。祐二は単細胞だから考えなくていい」
「へいへい。そうですか」
「ん〜。由香里。君の名前は由香里だ」
「おいおい。いいのか? 智美。その名前って」
「いいの。今日から家族になるんだし。由香里は。ね〜」
「にゃぁぁっ」
「おぉ。気にいってくれたか。由香里。この名前は。生まれてくるはずだった。妹の名なのだ。こーえーに思えよ」
由香里。
私の名前。
「琴村由香里ねぇ。琴村智美より可愛いな。よしよし」
「莫迦! 祐二」
「事実だろうが」
「知らない! 莫迦」
「わぁ。待てよ。由香里じゃなかった。智美」
「ホントに、知らないっ。莫迦!」
智美。
智美だったんだね。
私の主って。
今まで見ていた世界はきっと。
生まれてこれなかった私が見ていた夢。
私がイナイ世界だったんだね。
でも……寂しくも悲しくもないよ。
智美。
私のことを好きになってくれてありがとう。
抱きしめてくれてありがとう。
私だけの絆はずっとここにあるかな。
「にゃぁぁ〜」
「おっ。鳴いた。カワイイ」
「しっかし、よく懐いてるな。そのネコ」
「ネコじゃない! 由香里」
「おう。それそれ」
大切な人のイナイ世界。
私たちはそんな世界の中で。
自分だけの絆を探してさ迷って行くんだね。
きっと。
永遠に。
この孤独な旅路に、いちまつの灯りがありますように。
白い輝きの中と智美の中で私は眠りについた。
由香里という新しい名前と共に。 - 2004-01-10 20:39:21公開 / 作者:智也
■この作品の著作権は智也さんにあります。無断転載は禁止です。 - ■作者からのメッセージ
初めまして。
簡単な表現で面白さって伝えられたらなって思って書き始めました。
やりたかったことを完全に消化しきれていない感は強いと思います。
もし、よろければ、感想やご意見を頂けたらなと思いました。
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