『香の怪―沈香』作者:えりん / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
友人の家で見た大きな錦鯉。その鯉が見せた、幻かと思える出来事。
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 白く冷えた朝霧が煙る中。
身を乗り出して見ていた池から、 朱と白の斑模様に、ぼたりと筆で墨を落としたような黒点のある、大きな錦鯉が悠々と泳ぎ来て、水面に幾重かの波紋を描き、私の前で旋回していきました。そのときに、ぱしゃっと水しぶきが上がり、近くに寄って見ていた私の頬へと撥ねたのです。
「わっ。怖い」
 私は、思わぬことにたいへん驚いて、立ち上がると転びそうになりながら、必死に走って池の傍から離れました。
 その池には、何十匹という大小の鯉達がいたのですが、中でも、その黒渕の鯉は、身体も大きく特に目立っており、長のような風格でもって迫力がありましたから、近くに来られると恐ろしい気持ちになりました。
このぐらいのことで、と思われるでしょうが何分、まだ幼い頃の話しです……。
その池から、だいぶ離れて、もう大丈夫と胸を撫で下ろしているところへ、くすくすと笑い声が聞こえてきました。

くすくすくす……ふふふふ……。そして、堪えきれないというように、あははは、と大きな笑い声をあげて、可笑しくてたまらない様子の千映ちゃんが、連翹の咲き連なる花の陰から姿を現したのです。
「千映ちゃん、ずっと見てたの?恥ずかしい」
「だって、来てみたら紗代ちゃんがいたから、ちょっと脅かそうかなと思って。隠れていたら、そしたら……あはははは」
 そう言いながら、彼女の笑い声は、しばらく止むことはありませんでした。
 千映ちゃんのことを話すとき、私はいつも真っ先にこのことを思い出します。
 それと、家の中からはいつも芳しいお香の香りがしていたことも。
その香りは、大人になってから沈香であると知りました。
 ところでこの池は、千映ちゃんの家の敷地内に作られた、大きな庭の一部なのです。
 彼女の家は、お金持ちだったので、自宅周りには素晴らしい眺めの、風情豊かな日本庭園
が流麗に再現してありました。池には、朱塗りの橋までかかっていたんです。また、きれいに刈り込まれた松や、紫の藤棚、朝顔を網に絡ませた日除け屋根など、子供の私でも、見る度にその美しさに酔ってしまいそうになったものです。
 夏は軒先に、お寺の屋根だけを形にしたような、緑黒い鉄の風鈴がかけてあって、澄んだ響きを奏でていました。今でも、耳のすぐ傍に聞こえてくるようで、あの涼しげな音色が、目に染みるようでございます。

 そんなわけで、私は自分の家にはない、広い敷地で橋を渡ったり、鯉を見たりするのが楽しくて、それこそ千映ちゃんもまだ起きていないだろう早朝から、その庭へ遊びにきているのが常でした。
 子供の時分ですから、なんの引け目もなく、ただただ千映ちゃんの家は、立派でいいなあと思うのみでございましたが一度だけ、あれは確か、小石か何かを千映ちゃんから受け取ろうとしたとき、ふと私は自分の掌が、爪やしわに土が入り込んで薄茶色に汚れているのに対し、千映ちゃんの手は、綿菓子のように、ふわふわして真っ白できれいだったので、思わず私は手を引っ込めてしまったことがあります。
そのときだけは、なんとなくですが、家柄の違いのようなものを感じました。なぜなら、私のような家(もっとも、私の家ぐらいが世間一般の程度でした)は、子供にも、草むしりや、畑の手伝いなどをさせるのが当たり前でしたから、手が土で汚れているなどというのは何も珍しくはなかったのです。彼女の家にも、趣味程度の小さな畑はありましたが、使用人の方達が働いていたようでした。


 さて、こうして思い出話しをしていては、限がありません。
 ここからが、私が本当に聞いて頂きたいところなのです。
先の通り、私は毎日のように朝、夕と千映ちゃんの家へ行き、暗くなるまで
遊んでいたのですが、ある日、夕陽も傾いてきたのでまた明日と約束をして、家へ帰ると間もなく、通りがにわかに騒がしくなってきたのです。なんだろうと胸騒ぎする心を抑えて、外に出てみますと、火事だ火事だの声がします。
 私は急に、心臓がどくどくと跳ね上がって、不安がつのり、母を探しましたが、あいにくまだ仕事から帰っていませんでした。こうなれば、どこが火元なのか確かめなければと勇敢にも人混みの中へ混じりまして、大人たちの誰かは火元を口にするのではと耳をとがらせていたのです。一人ではいたくなかったのもあります。心細くて。
 するとそこへ、
「火は、酒井さんの家かららしいぞ」
「台所の火が移ったらしい」
などと、慌ただしく叫ぶ声が次々と聞こえてきました。
 酒井さんとは、まぎれもなく千映ちゃんの家のことでした。それを聞くと、熱い涙が込み上げてきて止まらなくなってしまいました。そして、すっかり暗闇に包まれて足元のあやしい中、電灯を持った大人たちと押し合い圧し合いしながら、今では何も覚えていないのですが、とにかく色々とわめきながら、半狂乱になって千映ちゃんの家まで走りました。
ぜいぜいと息はあがり、足はもつれて草一つにも転びそうになりました。
近づくにつれて、煙が濃くなり、むせ返ります。
やっとのことで、千映ちゃんの家まで行くと、危ないから、これ以上近づいてはいけないと、手を広げて止められましたので、もうそこで見ているしかありませんでしたが、あの広い庭とお屋敷は、勢いづいた炎にまかれ、今まさに崩れ落ちようとするところでした。その業火たるや、離れた所にいる私にまでその熱が感じられるほど、すさまじいものでした。声が、ほとんど枯れてしまうくらいに彼女の名を叫びながらも、いつしか私の心の中には、もうどうにもならないと諦めの気持ちが渦巻いてきていました。

 ですが、そんなとき私は見たのです。
 あの、黒渕の大きな鯉が池から、高く高く跳ね上がったかとおもうと、その身体が十倍にも百倍にも巨大に膨れあがり、そのままお屋敷の方へとものすごい速さで飛び行き、
居間の辺りでどさっと、その濡れた身体をそこに落して火を消したのです。私は、目玉が飛び出さんばかりに驚いてその成り行きを見つめました。その光景は、不思議なことに、私にだけ見えていたようです。周りの大人たちは、居間の辺りだけは火が小さくなってきたなあ、などとただ呟いているだけだったからです。
 身体を張って火を食い止めた鯉は、業火と相まって、鱗が焼けただれ痛々しく、息も絶え絶えになっておりましたが、最後の力を振り絞って思いきりうねると、その尾の反動で何かを強くこちらに弾き返してきました。
 よくよく見てみれば、それは間違いなく千映ちゃんだったのです。あんなに、白くて綿菓子のようだった手は、かわいそうに煤で黒く汚れ、たくさんの擦り傷で血が滲んでいました。艶があってきれいだった髪の毛も、火でちりじりになってしまっており、あまりの酷さに目をそむけたくなりました。
「千映ちゃん、千映ちゃん」
その場にいた人々は、ほぼ皆同時に名前を呼びました。そうして千映ちゃんが、ふと我に返って泣きじゃくりながら、火消しのお兄さんにしがみついたのを見ると、皆、子供だけでも助かったという安堵の気持ちで、嬉し涙を流して喜びあいました。
 しかし、やはりあの鯉のしたことを見たのは、私のみだったようでございます。周りの者達には、千映ちゃんが何かの拍子に、運よく火の中から、転がり出てきたように見えたのだそうです。ではなぜ、私だけにその様な光景を見せたのでしょうか?
 おそらく、毎日のように遊びに行っていた私に、最後の姿を千映ちゃんに伝えてくれるよう願ったのではないかと。

数日経って、千映ちゃんが療養している、叔母さんの家を訪ねた際に、思い切ってあの出来事を話してみました。やはり初めのうちは、不思議そうな表情で半信半疑という様子で聞いていました。それが本当ならば、とても嬉しいと目に涙を浮かべながら。
私は、思いのほか元気そうな千映ちゃんに安心しつつも、まだ話さないほうが良かったかしら、余計な考え事を増やしてしまったかもしれないと後悔しながら帰りました。
 しかし、そのまた数日後、千映ちゃんから手紙が届き、それによると、私の話しを聞いてから、辛かったが元の家まで行き、池の様子を確かめてきたらしいのです。跡形もなくなってしまったお屋敷の跡を見て、傷心しきった千映ちゃんを思うと胸が痛みました。
 さてそこで、懸命にあの黒渕の鯉を探したそうですが、その鯉だけがどうしても見当たらず、いなくなっているようだと言うのです。ですから、絶対に助けにきてくれたんだ、と確信できたようでした。なんでも、千映ちゃんはその鯉がお気に入りで、一番かわいがっていたんだそうで。
 今は、その鯉に似せて作った置き物を仏壇に飾って、毎日感謝しているのだとか。
 この手紙にも、封筒の中に鯉の姿を模った小さな文香が同封されており、便箋についた
移り香がほんのりと香りましたは、あの沈香。
2015-08-23 00:53:40公開 / 作者:えりん
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■作者からのメッセージ
今回は、女性の語り調にしてみました。最後のほうは、細かい描写も何もなく、ただただ早く〆たかった気持ちが出てしまい失敗したなと思っています。香も、怪という感じでは絡んでないですよね〜。で?何が言いたいの、とか言われそうですがほんの少しでも読んで頂ければ嬉しいです!
この作品に対する感想 - 昇順
今回は謎がらみもなく直球ですね。ふたりの可愛らしい少女と、少々コワモテぎみの鯉の交流、気持ちよく読ませていただきました。
ただ、これまでのお作と比べて、筋が直球なぶんだけ、文章の練りの甘さが目立つ気もしました。
たとえば冒頭のシーンでも、『身を乗り出して見ていた』と『近くに寄って見ていた』は、文法的誤りではないにしろ、重複を感じます。そして直後の『立ち上がると』に動きを流すためには、それまで膝を突いているか、あるいは屈みこんでいなければなりません。細かいようですが、ストーリーをガンガン転がすタイプのエンタメとは違い、こうした情緒的な作風であればあるほど、言葉の流れと一語一句の吟味は大切です。あと『黒渕の鯉』は『黒斑』の誤変換でしょうか。
……うわ、なんか偉そうになっちゃった。
でも、こうしたジャンルが本当に好きなんです。本屋に並ぶプロの新作はもとより、ネット小説でも近年ほとんど見受けられなくなってしまった純和風シットリ感、次作でも浸らせてくださいね。
……などと言いつつ、狸自身は、とうぶんトンデモ系。
2015-08-26 21:34:48【☆☆☆☆☆】バニラダヌキ
バニラダヌキ様。
 読んで頂いて感謝です。指摘頂いてみると、あちゃ〜綻びだらけですね至るところ。重複表現かあ、難しいですね〜。たしか前にも言われた気がします。黒渕、は間違いではなく、黒点だから黒渕でいいかという単純な考えからです。すみません、テキトー人間なのです、割と。これからは、もっと細かい部分に気をつけますね。
 それと私、夏なら夏の話ししか書けんのか。。と今までを振り返って情けなくなったので、よし次は、秋には春モノ、真冬には、常夏モノを書いてみようかなどと、ほくそ笑んでおります。となれば、早速ネタ集めしなければ。
 ではでは、急に涼しくなってきましたので風邪などには、お気をつけください。
2015-08-26 23:48:32【☆☆☆☆☆】えりん
こんばんは。作品を読ませていただいたので、いつぞやの毬のお話し以来、久しぶりに感想を書いてみようと思います。
なるほど確かに、自分路線まっしぐらでいいですね。明らかにカラーがあって、誰が書いたものかすぐわかるというのは素晴らしいことだと思います。
ただ、すでにバニラダヌキさんも指摘しておられますが、確かに文章の洗練度が足りないようには思います。このようなスタイルの作品は文章命ですから、やはりそこは徹底的に詰めないといけないでしょうね。何度か出てくる「ございます」という言葉遣いも、他の部分における語りのトーンと微妙にそぐわない感じがしました。
話の筋も、変なひねりがなく素直に良かったと思います。ただ…「沈香関係ねえー!」と突っ込んでしまいましたけどね。あまりプロットをいじらない範囲で、もう少しだけ絡めてあればと思いました。
これだけ独自の世界を持っておられるのなら、もっと書き慣れて来られたら、大化けした作品が出てきそうに思われます。期待してお待ちしております。
2015-09-17 19:09:18【☆☆☆☆☆】天野橋立
天野橋立さま。
感想いただいていたのに気づきませんでした。ここ、感想付いたら何かマークでも点滅すればいいのに。そうすれば、過去の話にレスついても、さかのぼって読めるのになあ、と思いません?

あ、さて文章の洗練さですか。それを、このえりんめに求めるとな。そいつあ、長い目でみてもらわねえといけねえぜ(←誰よ)急に、ここいらに出没した輩と、数年前から縄張りよろしく頻繁に作品あげてる方々と、肩並べるような文が、いきなり書けるわけがねえのさ。

え?沈香がなんですって?よく聞こえませなんだ。近頃、都合の悪いことなぞ特に聞こえてこぬのよ。なんと!
苦し紛れで、二か所に香の場面を入れたなど、めっそうもございません。言いがかりも、たいがいに、あっ眩暈が。

アディオス、アミーゴ!!
なお某の、支離滅裂なお返し、陳謝いたす。

というわけで、イタイところを突かれると現実逃避から、多重人格に陥る(何人いる?)えりんでございました。
2015-09-19 16:47:18【☆☆☆☆☆】えりん
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