『香の怪―白檀』作者:えりん / V[g*2 - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
夏。雨が降らずに、参っていた私の身に起きた微笑ましい出来事。
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 朧月夜。
 空は、薄ぼんやりと明るく、その光の中に幾つかの小さな星の輝きも見られる。
 月は、濃い山吹色をして、和紙で作った、ちぎり絵のような風で懸っている。さわりと肌を撫ぜた風は、湿気を帯びて暖かい。
 明日こそは、雨が降るか。
降るならば、どうかたくさん降ってくれ。その淡くぼやけた夜空を見上げて祈る。このところ、ほとんど雨が降らないせいで田畑は、ひびが入りそうな程、からからに乾いているのである。

 そんな考え事をしつつ、外で湯上りの肌を涼めていた私が、何気なく家の前の路地まで歩いていくと、何かが足元に触れて、からんと音がした。何だろう。屈んで拾い上げてみると、それは黄色のちり緬生地に、椿が描かれた小さな香袋であった。
 袋口は、朱の紐で蝶結びにしてある。その結び目に、鈴が付いており、からからと愛らしい音色を奏でているのであった。
 風にのって、微かに白檀の香りが漂う。心が穏やかになるような、優しい香りだ。
 誰かが、着物の袂や袖口に入れておいたものを落としたのだろう。私は、軽く汚れをはたいて、懐にしまうと家に戻った。
もし、明日以降、何かを探しているふうな人が通ったならば、声をかけてみよう。それまでは大事に預かることにしよう。そう決めて、
その日は、枕元に香袋を置き、布団に入った。
 
 それから幾時間か経ち、うとうとしかけた頃だろうか。外に、ざあざあとものすごい大雨の降る音がして目が覚めた。
これは大変な土砂降りだな。先程までは、まるで降る様子もなかったが。しかし、この調子ならば、田畑は充分潤う。明日中、ずっと
この雨が続いてくれればいいのだが。
 私は、待ち望んでいた雨に安心したのと、一定に降る大きな雨音が逆に静寂を際立たせ、その後は泥のように深い眠りに落ちていった。

 あくる朝起きてみると、まだ雨は勢い衰えず屋根をうるさく叩いていた。今まで降らなかった分が、一度にきたかのように、いつまでも止むことなく降り続いた。陽が出ないので、夏といえど家の中は寒いぐらいだ。私は袖長を羽織って、窓の外の水煙を見やりながら、朝餉をとる。
温めなおした昨夜の味噌汁が、じんわりと冷えた身体に染み渡った。この雨では、外に出るのは、とてもじゃないが無理だ。今日は、田畑の仕事は諦めてゆっくり家で本でも読もうか。食後の茶をすすりながら考える。

 先ずは、と布団を持ち上げ押し入れへと片付けようとしたそのとき、またもあの香袋に足がぶつかった。ちゃりんちゃりん。
そうだ、一晩寝たらすっかり忘れてしまっていた。踏まぬように注意して拾い、それを一目見た瞬間、私は、あっと自分の目を疑った。
 昨日拾ったときには、ぷっくりと膨らんでいた香袋が、思いきり手で握りつぶされたかのように、ぺしゃんと凹んでしわしわになり、
干からびたような様をしていたのだ。まったく、どういうわけだ。私が寝ている間に、寝相が悪く押しつぶしてしまったのかもしれないと
考えてみたが、しかしここまで縮んだように、しわくちゃにはならないだろう。
心なしか、白檀の香りも弱弱しい。
 さては、夜露で湿気たかな。また踏んでしまわぬよう、台の上に置いた。それにしてもよく降る。午後には、少し治まるだろうか。もう少し小降りになったなら、隣の宗助を茶飲みにでも誘おう。今日は肌寒いから、酒でもいいかもしれない。どうせこんな日は、どこに出かける用事もあるまい。
 何をするでもなく、暇を持て余していると、雨音が少し小さくなってきたので、私は宗助の家まで行くことにした。
土間の隅に置いていた酒瓶をひょいと掴んで、戸口に立てかけていた傘を取り、開きながら外に出る。思った通りで、雨はだいぶ小降りになっており、遠くの空に一端の青空も覗いている。道には、多くの水たまりができ、歩くとその泥水が草履と足首にばしゃばしゃと撥ねた。

 宗助は、私よりも五つほど若いのだが、昔からここに住んでいるのと、同じく畑仕事を生業としていることでウマが合い、気のおけない友人なのだ。その上、聞き上手なので、一緒に酒を飲むと気持ちよく喋ることができ、いつも楽しい時を過ごすことができるのである。
「宗助。いるか、俺だ」
入口の戸を軽く叩いて呼んだ。
「おう、いるぞ」
言いながら、戸を開けてくれた。客、といっても何も気兼ねのいらない私の訪問なので、彼は着物を膝まで捲り上げ、胸元も広くはだけたままの
格好である。
「いやあ、毎日暑くてかなわないな。さあ、入れ入れ。まあそれでも今日はだいぶ涼しくていいけどな」
 私は、居間に上がり、持ってきた酒を出す。
「おう、いいねえ。ありがたく頂くとしますか。それにしても、やっと雨が降ったかと思えば朝方、ちょろっと降っただけだもんなあ。畑にはまだまだ足りねえよ」
盃を二つ出してきて、酒を注ぎながら宗助はぶつぶつと言った。
「何言ってる。夜中にかなり降っていただろう。俺は、寝入りばなにその大雨の音ではっきりと一度目が覚めたから間違いない。いや、夜どころかついさっきまで、すごい勢いで降っていたじゃないか」
 宗助の奴、さては昨夜は早くに床に入り、夜中の雨に気づかずにいたのだな。
「俺は、普段は早めに寝てしまうんだが、昨日に限っては縄ないをして、けっこう遅くまで起きていたんだ。だが雨の音なんて全く聞こえなかったぞ。蛙やおけらの鳴き声はしていたが」

 これは妙だ。すぐ隣の宗助が、あのように激しく降った雨の音を、全く聞かなかったとはどういうわけか。
一時、お互い考え込んで無言で盃を口に運ぶ。
 今ここに来る道中、多くの水たまりがあったではないか。あれは、大量に雨が降った故に、掃けきれずに残っていたのだ。ならば宗助の家と、私の家との間が、偶然にも雨と晴れとの境界線だったのだろうか。それは俄かには考えられない。例えそうであったとしても、あの激しい雨音が全く聞こえないということはないだろう。
 だが、いくら頭をひねってみても明確な答えなど出ず、その場は不思議なこともあるものだな、とお互い笑い話にして終わらせてしまった。

 帰り際、外を見ると雨はすっかり止んで、水たまりもほぼなく、爽やかな夏の日差しが照っていた。
「やあ、また真夏に逆戻りか。それじゃあ、またな」
 朝からは想像もつかない真っ青な空を仰いで、これでしばらく雨は降らないだろうなと思う。さっきは、紫陽花の葉や、道の小石の上などに見られた蝸牛や蛙は姿を消し、今はうるさいほどに蝉の声が耳につく。

 家に帰り、ふうと畳に腰を下ろすと、何気なしにあの香袋が目に入った。おや、元に戻っている。それは、初めに見たときと同じように、
ふっくらとした巾着型の形をしていた。そうか、天気が良くなったので乾いて元に戻ったんだな。白檀の香りも部屋じゅうに広がっており、とても心地が良い。
 私は、また外に出た。家の前に蒔いた、朝顔と風船かずらのツルが、青々と伸び始めているのを見て笑みが浮かぶ。たっぷりと雨を吸い込んで、今は陽の光を存分に浴びている。もう少しすれば、斜めに張った数本の紐に、ツルが絡んで自然の日除けとなり、同時に美しく咲いた花々が、私の目を楽しませてくれるだろう。

 しかし、そううまくはいかないもので、またも雨は全くと言っていいほどに降らない日が続いた。こうなると、強い日差しを受けた植物は日に日に弱って、もう駄目かもしれないと、私は半ば諦めに近い気持ちで過ごしていた。
「早く雨よ来い。頼むから、こないだのように降ってくれないか」
 部屋で、誰に言うともなく、ぽつりと独り言を落とす。雨の音がするわけでもないのに、窓の外を見る癖がついてしまった。気がつくと、また窓のほうへと視線を向けていた。そこへ白檀の香りが鼻先をかすめる。
 ただ考えていても仕方がない。雑草取りでもするか。草刈鎌を持ち、少しでも暑さを防ぐために、ほっかむりをして家をでた。
 だが正にそのときだ。つい今しがたまで、強い日差しに閉口していたというのに、見る間に彼方から黒雲が走り、重々しい曇り空になったかと思うと、一気に雨が降り出したのだった。あっという間に、着物からも髪からも雨滴が滴り落ち、たまらず顔を手で拭いながら引き返した。

 この前といい、今回といいあまりにも急な降り方をする。私は別の着物に着替えて、また窓を見た。
激しく地べたを打つ雨が、時折跳ね返って窓から入ってくる。まったく予測のつかない雨であった。まるで、私の願いを誰かが聞いていて、すぐにそれを叶えてくれたのではないかと思えてしまうほどに。
 窓からは、宗助の家も見えた。やはり同じく、強く雨が降っているらしいのが窺えた。今度こそは、話しが食い違うこともなさそうだ。

 それから、何かつまもうかと茶箪笥のほうに向きなおった際に、またしてもあの香袋が目に入ったのだが、それは前回の雨のときと同様、痛々しいほどにしわが寄り、縮んで干からびた体でそこにあった。こないだよりも傷みが激しい気がする。そんなに湿気に弱いのだろうか。
まあでも、また雨があがれば元に戻るだろうから。さして気にも留めずにいたのだが、二日ほど経ち、晴天の日が続いてもなお、今度ばかりは元に戻ることはなかった。

 そして不思議なことに、あの急な雨のことを宗助に話したのだが、またもや彼は、そんなに急に雨が降ったことはないと言うのだ。私は確かに見たというのに。しかし、それを信じざるを得なかったのは、その畑をみたときだ。土は乾き、穀物は半数近くが枯れ果て無惨な様をあらわにしていた。私は言葉を失う。一方で隣には、活き活きと野菜や花が葉を広げ、柔らかい黒土を湛えた私の家の畑があった。その違いと言ったら、一目瞭然で同じ土地とは思えなかった。
「清さん、何か雨乞いの儀式でもやったのかい。降った降ったと言うけれど、嘘だろうと初めは思っていたが、こう穀物の育ちが違うんじゃ、やっぱりそっちのほうには雨がきてるんだろうと思ってな」
宗助がそう言うのも無理はない。私にも、何が何だか分からない。
「何も、とくにやったということはないが……。そうだ、まさかとは思うが、一月ほど前に自宅前の道で、香袋を拾ったな。それがな、雨の日になると決まって、干からびたように小さく縮んでしまうんだ。それで、晴れると元通りになっていたんだが、こないだの雨以来とうとう元に戻らないままだ。もしかすると、あれは雨の種でも入っていたのかもしれないぞ」

思い当たることと言ったら、それぐらいしかないので馬鹿にされるのを承知で言った。が宗助は、
「本当かもな。どれ、ひとつそいつを見せてくれよ」
と以外にも興味を持ったようだった。
「分かった。それじゃあ、家に来てくれ。」
一緒に家に上がると、
「おう、なんだかいい香りがするな。香袋のか」
と言われ、もうこの香りには慣れてしまっていた私は、改めてその香りに今気づいたような気がした。
「そうだ、そしてそれが……」
と言いながら、いつも置いてある台の上をみた、がそこに香袋はなかった。
「なくなっている。ずっとここに置いていたのに。一体どこに……。宗助、信じてくれ。確かに朝はあったんだ。黄色のちり緬生地に、椿が描かれているやつだ」
台の下、襖の周辺、押し入れの中まで探してみたが、どこにも見当たらなかった。私は、気恥ずかしいやら、申し訳ないやらで、もごもごと宗助に謝るしかなかった。
「清さん、もういいよ。部屋にこのぐらい、香の香りがするなんて今までにはなかったことだし、本当に香袋はあったんだろう。どんどん縮んで消えてしまったんじゃないのか」
そう言うと、あっけらかんと笑うのだった。それで、私の気分も少しばかり晴れて、帰る宗助を外まで見送りに出た。
 
 だが、先に出た宗助が、驚いた顔をしながらすぐ戻り、私の着物の袖を引いてこちらに来いと言う。
「清さん。さっき言っていたのは、これかい」
促されて見ると、そこには日除けにしようと植えた、風船かずらの実が、いつの間にか張られた紐いっぱいに、小さなホオズキにも似た
かわいらしい実を鈴なりに付けて、自然の簾のごとく伸び広がっていた。よく見れば、その中ほどにあの香袋が、他の実と同じようにツルにぶら下がって揺れている。蝶結びの一つに、ツルが入っているので、取るためにはツルを切らなくてはいけない。

夢を見ているようだった。これは……。

「清さん。素晴らしいな。やっぱり雨粒の種が入っていたんだよ。大事に育てた、風船かずらがその想いに応えて、香袋として現れたんじゃないいのかい」

 宗助と私は、しばしうっとりとして、夏の陽に映える優しい緑を眺めた。

 翌日、もうあの香袋は消えていた。だが、部屋に残る白檀の仄かな香りは消えることがなく、今でもあれは、現実だったのだと思うことが
できる。微笑ましい、風船かずらからの贈り物の話は、今もときどき、二人の話題にのぼる。

 あの簾の下で、涼むときなどは、とくに……。




 

































































































2015-06-23 01:01:53公開 / 作者:えりん
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■作者からのメッセージ
梅雨どきの朧月夜、いいなあと思い物語に織り込んでみました。なんだか、昔話のような、時代小説のような雰囲気に仕上がりましたが、どうでしょう。
この作品に対する感想 - 昇順
今回も、とてもいい感じです。しっとりと、この世界に浸れました。
一読、ラストの宗助の種明かしが理に落ちすぎているかなとも感じたのですが、再読、やはりこれでいいのだと思いました。なにかのどかな民話の世界のような今回の話では、素朴なオチも快いです。

前作の感想で述べた、イレギュラーな改行や字下げの件、了解いたしました。
自分も昔、ワードや書院(ふ、古い)を使っていた頃、それで打ちこんだ文章をネットに上げると不思議千万な画面になってしまい、往生したことがあります。同じようなことが、webのシステム上でも、あるのかもしれません。
ちなみに自分は現在、空白や改行情報も薄く表示できるテキスト・エディタを使用しております。これで打ちこんだ文章だと、ここの本文入力画面にそのまんまコピペすれば、乱れなく投稿できますので。
2015-06-23 23:46:52【★★★★☆】バニラダヌキ
バニラダヌキ様
また感想を頂けて嬉しいです。しかも、再読とは二度も読んでもらえたんですね!有難や〜♪
初めてポイントも頂けましたし、今飛び上がって喜んでいますよ!物語中の香袋と雨の関係性が、うまく伝わるか不安でしたが、理解してもらえたと思って大丈夫でしょうか?お香シリーズと言ってしまったからには、もう一つぐらい書かないとな、と考えており次回は沈香でいこうかと、、。なんだか、線香三部作みたいですよねえ。

そしてバニラダヌキさんの作品も、少しづ〜つですが読んでいます。何やら、山形県民の私には、すぐそこの蔵王が出てきてましたね。読み進んだら、感想欄にも、お邪魔してみます。
2015-06-25 22:01:45【☆☆☆☆☆】えりん
計:4点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。