『香の怪― 伽羅』作者:えりん / V[g*2 - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
伽羅の香りに惑わされて見るは、夢か現か幻か……。
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 伽羅の芳醇な香りが、その庵全体に立ち込めていた。その香りは、神経にまで染み入って、洗脳されていくようだ。
 しん、と静まり返った部屋の中には、香立てに数本の長短さまざまな香が立てられ、僅かな空気の振動によって、その煙が左右に
ゆらりゆらりと揺らめいている。
 主は、まだか。
 あまり静かなために、すぐ裏の竹林がざわざわと鳴るのが、風の唸りと共に一際大きく耳に届き、なんとなく不安な気持ちにさせる。
することもないので、暇に任せて部屋を見渡す。こじんまりした室内に、茶の湯の道具が一式と、その為に湯を沸かす囲炉裏が切ってある。
入口から左手の壁には、船旅の様子を描いた、華やかさのない水墨画が掛けてあり、その下には、今朝生けたのではないであろう、すでに
萎れ始めている、気の抜けたような紫の芍薬が、所々痛々しい茶色を見せながら飾られていた。詫び寂びであろうか。そうであれば、故意に
このようにしているのかもしれない。いずれにせよ、華美な物は何一つない。
 
 一通り、部屋を眺めてみたが、主が現れる気配は全くない。私は次第に、この場所にいることが窮屈になってきた。
 あちらから言い出したことではないか。昨日、畑仕事をしていた私に、この庵の主であるらしい一人の僧が、話しかけてきたのだ。
「すみません。私は、あちらに見える竹林の傍に建つ寺に居る僧でございますが……」
と言ってその男は、私のいた畑からはだいぶ遠いが、なんとか窺える所にある竹林を指さした。
「ああ、見えますね。それで、どうかしたのですか」
忙しいところに、声をかけられて内心面倒だなと思ったが、相手がお坊様であると分かると、無碍にもできず、私は手を止めて応対したのだった。
「実は、お話したいことがあるのです。大変、お手数をかけて申し訳ないのですが、明日の夕刻、あの竹林まで来ては頂けないでしょうか」
 突然の話に、私は驚いた。このお坊様と私は何の面識も縁もなく、たった今出会ったばかりだというのに、なぜこんなことを言うのだろう。
「それは、急ですね。私でないといけないのでしょうか」
何やらおかしいぞ、と思った私は少々身構えて答えた。簡単に信用して出かけたが最後、家に戻れないようなことになるのは御免だ。


「先程、この道を歩いていたときに、あなたを見かけたのですが、とても心根の優しいお方だとお見受け致しました。なに話してみずとも、そのような雰囲気で分かるものでございます」
「そんなことは、ないですよ」
私は、慌てて否定する。お坊様は、柔らかな微笑を浮かべながら、
「もし、宜しければで構わないのです。お寺の隣に小さな庵がございますので、そこで待っていてください。来て頂ければ嬉しく思います。では」
そういうと、法衣の裾をはためかせながら、行ってしまった。

 私は夜じゅう、行くべきか否か悶々とし、やはり生来の人の良さなのか、はたまた押しに弱い小心者のそれかで、ついに行くことに決めたのだった。



しばらく待つ間に、数本立てられていた香も次々と燃え尽きて、僅か三本あまりになったとき、外から大きな声がした。
「いや、遅れて申し訳ありません〜 〜」
 遠くから、謝罪の言葉を述べながら駆けてくる草履の音が聞こえる。最後のほうは、例の竹林のざわめきと、更に強くなった風の音とにかき消されて、何を言ったのか分からなかったが、余り気にしなかった。すぐに、その狭い入口の戸がガラリと開けられて、あのお坊様が顏を出すのだろうと思ったからだ。
 ところが、いつまでたってもお坊様が入ってくる様子がない。いい加減、痺れを切らせた私は、そろそろと入口まで行き、怖々その戸を開けてみた。
 誰もいない。はてさて、近くまで来た草履の音は確かに聞いたが、その後は戻るような音もしなかった。おかしい。お坊様は、どこに行ってしまったのだ。それとも、吹き抜ける風音の空耳だったのか。
 何気なく竹林を見ながら、あれこれ考えていた私はふと、恐ろしいことに気づいた。なんだか竹林が、初めにここに来たときより、庵の傍まで迫ってきたような気がする。そんなまさか、狭い部屋にずっといたので、感覚が少し狂っただけだ。竹林が、たった数時間で目に見える程広がるなど、あるわけがないのだから。
 私は、静かに戸を閉めた。気の短い人ならば、もう待てないと帰るところだろうが、気長でのんびりしている私は、あと少しだけ待ってみようと思い、またそこに座りなおした。

 障子から射す陽の色が、茜色に変わってくる。
 これ以上待っていては、帰り道が暗くて難儀する。結局、大事な話しなどなかったのだ、狐狸、妖怪の類に騙された私が馬鹿だったのだと思うことにして、手早く帰り支度を始めたのだが、そこに、
「もし、誰か居られますか」
と戸口の方から、女の声がした。今度こそは、幻聴でないだろうなと怪しみながら戸を開けると、質素な着物を着た、髪の長い細い目をした女が一人、立っていた。私は、以外な訪問者に驚きながら、
「私は、このお寺のお坊と、今日の夕刻にこの庵で会う約束をしていたのですが、いっこうに現れる様子もないので、もう帰ろうとしていたのです」
と今の状態を簡潔に説明した。
「存じております。実は、和尚から言伝を頼まれてきたのです」
 女は、ふふふと微笑して、話し始める。
「和尚は、急な用事ができまして、今しばらく時間がかかるらしいのです。あなたには悪いのですが、もう少しお待ち頂けないかとのことです。それから、そこに香が焚いてありますが、それが尽きることのないよう新しい物を継ぎ足して頂きたいそうでございます。決して絶やさないでほしいと、口すっぱく申しておりました。香は、茶道具の収めてある箪笥の引き出しにあるそうです。では、失礼致します」

言い終えると女は、すっと戸を閉めて帰ろうとするので、
「待ってください。お坊様は本当に来るのですか」
と思わず声をあげた。女は、それには答えず、そのまま去ってしまった。急いで戸を開け、女の姿を追おうとしたが、もはやどこにも影一つ見当たらなかった。
 どうにも仕方ないので、私はまたも、庵の中へと引き返し、帰り道のことはもう諦めようと思いながら、香立てに目をやった。
 そこには、最後の一本となった香が、あと少しで消え入りそうな具合で、ちろちろと灯っていた。いけない、香を絶やさぬようにと言われたのだった。急いで、箪笥から香の入った桐箱を取り出し、中から二、三本つかむと火をつけた。あわや寸でのところで、どうにか間に合った。
また香りが強くなった。

 空は、茜色に薄墨色が混ざり合ってきている。掛け軸の水墨画は、すでに何が描かれているのやら判別できない。
 遅すぎる。もう待ってはいられない。さすがに私は、ここまで待っていたお人好し加減に自分でも呆れた。今すぐ帰ろう。目を凝らして草履を探し、足を入れる間ももどかしく戸口に向かい、外へ出た。


 そこで、目に飛び込んできた風景に私は絶句した。
 庵は、広大な竹林に囲まれていたのだ。すぐ隣にあったはずの寺も見えない程に、笹竹が生い茂って左右も分からない。
それが、覆い被さってくるようにざわりざわりと鳴っている。四方八方から私を見下ろして、ぐわんぐわんと竹を唸らせている様は、例えようもない程に恐ろしい。帰ろうにも、来たときの道は、完全に消えてしまっているし、人の気配も全くない。
 夢であってくれたら。このような場合、誰でもそう思いたくなるだろう。私とて同じで、これは暗さが目の錯覚を起こしたのだ、とか初めから竹林の中にこの庵があったのだと思い込もうとしたのだが、所詮無理な話しだった。

 そのうちに、竹のざわめきが、あのお坊様の声に聞こえたような気がした。ぐわんぐわん……。いいや、元々お坊様などはいなくて、私が聞き間違えただけかも知れないとさえ思えてくる。ぐわんぐわん……。頭の中に、その音が鳴り響いて、思考が閉ざされていく。
 今度は、竹の葉音が……。ざわりざわり……。あれは、さっきの女性の声だ。
やはり二人とも、どこかにいるのですね。なぜ、出てきてくれないのですか。

私は……私も……今そちらに……。
 深い竹林に足を踏み出した私は、その刹那、着物に染みついた伽羅のきつい香りを嗅いだ気がしたが、あとの記憶は全くない。




































































































2015-05-26 00:12:59公開 / 作者:えりん
■この作品の著作権はえりんさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
お香シリーズにしていこうかな(漠然と)。でも、たまに現代ふうの話しもいいなあ。
今回も読んでくださった方、有難うございます。感想など、一言でも頂けたら、飛び上がって喜びます。

5/25 脱字、補いました。
この作品に対する感想 - 昇順
こうした古風で耽美的で幻想的な掌編が、大好きな狸です。
ただ今回、字下げや改行に、えりん様の以前の諸作には見られなかった乱れが見られ、もともと端正な作風だけに、やや引っかかりを感じました。エディター、あるいはワープロを変えられたのでしょうか。こうした詩的な散文を味わう場合、やはり見た目も大きく印象を左右するので、整えられたほうがいいと思います。
それから、『頭の中が洗脳』は明らかに重複表現です。『暇に任せて部屋を見渡すこじんまりした室内に』は、句点が抜けているのでしょうか。
なんだか、すっかり重箱の隅モードになってしまいましたが、好ましい作品であればあるほどそうなってしまうのが狸の悪癖、どうかご容赦。さらなる文章世界の磨き上げを期待します。
2015-05-25 01:23:01【☆☆☆☆☆】バニラダヌキ
 こんにちは。
 伽羅と竹林に直接の関係がなかったためか、読後に物足りなさが残りました。香の怪というより竹林の怪では……? それともやはり何か関係があったのでしょうか。女性が香を絶やさぬようにと言っていたので、香が怪異から身を守るとか、そういう類の話かとも思ったのですが……。逆に竹林の物の怪が、伽羅の香りが大好きだったりするのかもしれないですね。
 ショートショートとして簡潔にまとめるのであれば、お坊様から誘われる場面は間接話法の形で、地の文での描写にとどめておくと良いかなと感じました。
2015-05-25 21:57:04【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
バニラダヌキ様。   
 読んで頂き、有難うございます。重複表現、脱字補修しました。それから、改行なのですが、投稿ボタンを押す前の本文入力の画面では、ちゃんと一つの区切りのない文として書いているのですが、投稿ボタンを押すとなぜだか分からないのですが、勝手に変なところからぶつ切り状態で改行されてしまうのです。直したいのですが、編集画面では、ちゃんとした文で出ている為、後どうしたら良いのか分かりません。読みにくいだろうなとは思っているのですが。話しのほうは、古風路線をひた走っていますが、皆さんの爽やかで、おしゃれな小説など読んだりすると私浮いてないかい?と思ったり。なので、こういう話しが好きだと言って頂けると、安心でき且つ次作へのモチベーションがアップするのです。じゃあ、次回は狸登場させますか(笑) また、お時間ありましたら感想お待ちしています。

ゆうら 佑様。
 毎回感想を有難うございます。読んで頂いて嬉しいです。竹林の怪……確かに、ですね。私の狙いとしては、話しを読んでいる間中、読み手にも伽羅の香りにクラクラした状態になってもらい、そのまま明確な正体などは示さず(伽羅は〜の為だったなど)、最後も煙に巻くような感じで、ぼわ〜んとあれは何だったんだ?というあいまいな終わり方にしたかったのです。伽羅の香りに酔って見た泡沫の夢のような。主人公もその後、どうなったか想像にお任せします、という。ですので、ん〜何と言うか伽羅と竹林の関係というのであれば、伽羅が灯り続ける限り竹林の夢も途切れず続く、ということですかね。  会話の文は、地の文の方が良かったですか。なるほど、参考にします。また次回投稿の際は、執筆の合間にでも来て頂ければと思います。
2015-05-26 01:07:48【☆☆☆☆☆】えりん
計:0点
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