『Motorbike and Wind of Loves』作者:遥 彼方 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
僕は流れ着いた波があっという間に引くように、刹那の恋をした。それは僕の胸を切り裂き、逆に包み込み、痛みと陶酔を同時に訪れさせた。彼女は僕を捨てたけれど、僕はこれからもずっと彼女を好きでい続けるだろう。切ない束の間の恋を描いた、青春小説。
全角13286文字
容量26572 bytes
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 僕は彼女のことを全く何も知らないのだ。そして、彼女も僕のことは本当に小さな、限られた領域でしか知らない。僕らはお互いの全貌を見ることなく、ただわずかな時間を共にし、恋に落ちた。
 きっと彼女は僕に自分の一部になって欲しかったのだと思う。でも、彼女にとって僕はただの永遠に続くレールの上の小さな駅にしか過ぎなかった。そこで彼女は少しの間過ごし、また列車に乗って旅していってしまったのだ。
 何故彼女が旅を続けるのか、またそれに終着点はあるのか、それは僕が知ることは未来永劫ないことかもしれないけれど、それでも僕はこれからも彼女のことを好きでい続けるだろう。
 彼女が僕を捨てた事実を、僕は受け止めきれず、ふとした夜に涙するかもしれない。でも、彼女は本当に僕を好きでいてくれたのだろう。あの言葉は絶対に嘘ではなかった。それだけが僕にとっての救いだった。
 僕は今、語ろうと思う。
 彼女が僕を選び、この街に残したその刹那の恋物語を。

 *

 僕は元旦でも初詣に行かず、湖の側の道を走り続けていた。朝のひんやりとした空気が心地良く、ウインドブレーカーの中は熱で篭っていて、吐く息は白いけれど、確かに僕の心は暖まっていた。
 湖面はキラキラと眩いほどに輝き、木々の影が映って揺らいでいた。遊歩道を歩く老夫婦の姿や、犬の散歩をしている若い女性の横を通り過ぎて、僕はどこまでもどこまでも走り続けた。
 やがていつもの折り返し地点に来て、そこでようやく足を止めた。帰りは歩きでマンションまで行ってその後おせちを食べて、神社に行こうかな、と考えていた。
 そこまでは僕の日常は確かにゆるやかに歯車を動かして、小気味良い音を奏でていた。でもその時、突然女性の金切り声のような“うなり”が聞こえたのだ。
 それはけたたましいほどに湖に木霊し、遊歩道の横の車道を突き抜けてきた。バイクの音だと気付いた時には、僕は身を固くして道路の先から現れたその影を見つめていた。
 そのスピードは風より速いのではないかと思うほどで、それは清々しくさえあった。いや、野蛮で心を突き刺すようなドライブだった。その人は黒いライダースーツに身を包んで疾走し、このまま僕の前を通り過ぎるのかと思った。
 でも、そのバイクは徐々にスピードを緩め、老人の唸り声みたいなエンジン音を鳴らして僕の前で停車した。僕は何をされるのかわからず、怖くなって踵を返そうとしたけれど、そこで声を掛けられたのだ。
「ねえちょっと、この辺りでご飯食べられるところってあるかな?」
 それは本当に透き通るような高い声で、女性のものだった。僕は思わずその無骨な黒いヘルメットを見つめて、そのほっそりとしたシルエットを確かめてしまった。
 彼女はゆっくりとヘルメットに手をかけて、それを脱いだ。その途端、風に乗って彼女の汗と花の香りが僕の鼻先まで届き、何故かそこで緊張が消えるのがわかった。
 彼女の黒いストレートの髪がふわりと浮き上がり、宙を流れた。それは背中にふわりと着地すると、きらきらと天の川のように光を放った。ライダースーツを纏った細い肢体をこちらに近づけてきて、手を上げてみせた。
「お腹減っているんだけど、食事処が見つからなくてさ。道順、教えてくれないかな?」
 彼女の声は本当に明瞭で、はきはきとしており、その明るい響きが直に伝わってくる。その綺麗な長い鼻筋と、細い目が特徴的な、本当に美しい人だった。僕は思わず見惚れて、返事を出すのを忘れてしまう程だった。
「あ、えっと、その、この道をまっすぐいったところに交差点があるんですけど、そこをさらにまっすぐいって、住宅街に入って、」
 僕は必死に言葉を絞り出して彼女に説明しようとするけれど、あまりに彼女に目が吸い寄せられてしまい、満足に声を紡げなかった。説明が訳わからなくなってきたので、僕はかなり焦る。
「も、もしよかったら、案内しますけど」
 言ってしまってから、お前何言ってるんだよ! と理性が僕の頭を思いっ切りぶっ叩いた。あまりに頭が真っ白になっていて、変なことを口走ってしまった。どうしよう、と彼女の言葉を待っておろおろしていると、そこで、
「じゃあ、お言葉に甘えて案内してもらおうかな」
 彼女はそう言って、よろしく、と額の前で手の先を振ってみせた。僕はしどろもどろになりながら、「は、はい、こちらです」と歩き出す。
「ごめんね。ジョギングしている最中だったんじゃないの?」
「いえ、もう家に帰るところだったので。そんなに遠くではないので、大丈夫です」
 僕は俯いて、遊歩道の煉瓦のタイルを数えながらそうつぶやく。彼女はバイクを手で引きながら、どこか上機嫌に鼻歌を唄う。
「この湖、本当に素敵な場所だね。今まで日本全国を旅してきたけど、ここが一番私にとってしっくりくる。君はここに来て、長いの?」
 女性がそのつややかな黒髪を肩から滑らせて振り向いたので、僕はドキッとしてしどろもどろになりながら言った。
「僕、去年の春に大学に入学する為にここに来たんです。そんなに長い間ではないけど、ここにいると心が落ち着くんですよ」
「だよね。ここを歩いている人達、皆明るい顔してるもの。私もなんだか嬉しくなるんだ、そういうのを見ていると」
 彼女はそう言って、くすくすと笑う。僕は顔が熱くなって、頭から湯気が噴き出しそうなぐらいパニックに陥ったけれど、彼女が纏っている雰囲気が本当に柔らかく優しいので、次第に緊張が解けていく。
 不思議な人だな、と僕はぼんやり思った。
「君はどんな学部に行ってるの?」
「えっと、文学部です」
 僕が精一杯笑みを浮かべてそう返すと、彼女はへえ、と目を丸くした。
「将来の夢は?」
「まだ決まってないけど……できれば、小説家になりたいな、なんて」
 彼女は大きく腰を折って笑い、僕の背中を大きく叩いてきた。僕は突然のことに体を仰け反らせて彼女を戸惑ったように見つめる。
「奇遇だね。私も昔、小説家を目指していた頃があったんだよ。今はバイクで旅を続けているんだけど、小説だけは書き続けているから」
「そうなんですか、それは……」
 僕は彼女との思わぬ共通点に顔を綻ばせ、嬉しくなる。彼女も口元を優しく微笑ませ、僕をじっと見つめて何度もうなずいている。
「私も、君ぐらいの弟がずっと欲しいと思ってたくらいなんだ。話しやすいよ」
 あ、ありがとうございます、と僕はつぶやきながら、本当に鼓動が荒れ狂うように跳ね上がるのを抑えられなかった。そのミステリアスな女性を前にして、まだまだ子供のままの僕にはどうすることもできなかったのだ。
 やがて湖の横を通り過ぎ、並木通りから遠ざかり、住宅街に入った。その人通りの少ない抜け道を辿って、僕は繁華街に入った。
「ここです。食事ができるところもいくつかあるので。おすすめは、ラーメン一発屋です。美人だと、安くしてくれますよ」
 僕がそんなことを言って頭を下げ、彼女から離れようとすると、女性が「ねえ、君」とどこか懇願するような甘い声で囁いてきた。
 僕は振り向き、彼女の困ったような笑顔へと視線を据えた。
「ここまで案内してもらったのも悪いし、昼食奢るよ。どう、一緒に食べない?」
 でも、と僕がつぶやくと、彼女は「いいから、行こう」と僕の腕を取り、一発屋の店舗の横にバイクを停めて中に入った。
 店内には熱気が篭っていて、数人の客が麺を啜って額に汗を掻いていた。僕と女性がカウンターに座ると、店主は僕の顔を見つけて、「おう、あんちゃん、正月によく来たね!」と話しかけてくる。
「最近来ていなかったから、たまにはラーメンもいいですしね」
「正月にラーメンとは、いいチョイスだ! そこの美人さんは誰だい?」
 女性はにっこりと屈託ない笑みで店主を見返し、「さっきそこで会ったんですよ」と僕の肩にぽんと手を置いた。
「あんちゃんもやるときゃやるなあ。よし、美人さんの分は半額でいいよ。メニューは?」
 ネギラーメンと僕が答えると、女性も私もそれで、とうなずいてみせる。
「ネギラーメン二人前!」
 店主が叫ぶのを僕たちは笑って見つめながら、その不思議な巡り合わせに少しだけ高揚している自分に気付いた。
「そうだ、まだ名前聞いていなかったね」
 彼女がお水のコップを口に運んだ後に、首を傾げて言った。
「広瀬と言います」
「下の名前はなんて言うの? 当ててみようか」
 わかるんですか、と僕は驚いて彼女の顔をまじまじと見つめてしまう。
「広瀬五右衛門達吉でしょ?」
 彼女がそう言ってくすくすと笑い、僕の背中をまた叩いてきたので、僕は苦笑してしまう。
「陽介って言います。あの、あなたは?」
 僕が恐る恐るそう聞くと、彼女は少しだけ沈黙した。どうしたんだろう、と思う。
「まあ、知り合いの間では私はエーコって呼ばれてるよ。名前の頭文字を取って、A子」
 僕は何と返したらいいのかわからず、そうなんですか、と起伏のない声でつぶやいた。
「五右衛門君は帰省しなくていいの?」
 五右衛門じゃないですってば。
「別に実家に帰るの嫌いじゃないんですけど、この湖でゆっくりしたいな、って思って」
「ふうん。君は私に似てるね」
 え、と僕は突然の言葉に、目を白黒させる。
「どこかに留まるより、自分が落ち着いていられる場所を探して歩き続けるんだ。それが私のスタイルなの」
 彼女はそう言って、なんてね、と舌を出して笑った。
「は、はあ」
「君も、旅人に向いているかもしれないね。見ず知らずの怪しい女にラーメン屋に連れ込まれていじられても、平然としていられるんだから」
 別に成り行きでこうなっただけで、僕に度胸がある訳じゃないような気がするけど。
「へい、ネギラーメンお待ち!」
 どんぶりが差し出され、僕らはそれをテーブルに置くと、顔を見合わせて微笑みを交換する。
「いただきます」
 そっと麺を啜りこむと、少しピリ辛のスープが麺に溶けて舌に広がり、僕は唸った。同じくエーコさんも「お」と驚いたような声を上げる。
「おいしい……ラーメン食べたの久しぶりだから、すごくおいしく感じるね」
 彼女はその女らしい容姿に似つかわしくない豪快な食べっぷりで麺を啜り、勢いよく食べていく。僕はその様子を見て、少し清々しさを感じてしまう。
「大将、ラーメンすごく美味しいです」
 エーコさんが顔を上げ、そのとびきりの笑顔で言うので、店主も照れたようにはっはっはと笑った。
「美人にそう言われると作り甲斐があるよ。あんちゃんの女運には叶わないなあ」
 僕は危うく咽そうになり、水のコップを喉に流し込む。
「私、正月がこんなに楽しかったの、久しぶりかも」
 エーコさんがティッシュで口元を拭いながら言うので、僕はスープをゆっくりと飲みながら聞いた。
「どのぐらい旅しているんですか?」
「そうだね、七年かな」
 僕は箸を止めて彼女を食い入るように見つめてしまう。七年……僕はその年月をあまり想像できなかった。
「驚いてるね。今、二十五歳なんだけど、ずっとバイクで旅してるよ。ルポライターもやっていて、記事をのっけながら生活してる」
「すごいんですね。危なくないですか?」
 思わずそんなことを聞いてしまう。
「危ないね、確かに。でも、私こう見えて武闘派だからさ。柔道、剣道、ボクシング、空手全部やってるから」
 彼女が軽快に笑うので、僕は却ってその笑みに凄みを感じてしまう。
「なんて言うのは嘘で、私相当危ない橋渡ってきたよ。変質者に遭遇したり、男に絡まれたりしてね。でも、そんな時、いつも側に誰かがいてくれたから」
 彼女がすっと遠い目でガラス窓の向こうを見つめたので、僕は何も言い出せなくなる。遠い昔に一緒にいた誰かのことを想い、彼女が懐かしんでいることを僕は聞かなくとも理解した。それだけ色々な人と恋に落ちて、生きてきたのだろう。
「なんてね。この命ある限り、旅を続けるつもりだよ。夢を叶えるまでは」
「僕には全く手の届かないところにいるんですね」
 僕が俯き、どんぶりの端に箸を置くと、彼女は何言ってるのよ、とつぶやいた。
「手の届くところにいるじゃない。私、君の目の前にいるんだから」
 その言葉に、僕ははっと彼女の優しい眼差しを見つめた。
 彼女は諭すように、僕の心を暖かな指先でそっと撫でてきた。その感覚は僕の人生の中で一度も味わったことのない、くすぐったい感情だった。
 僕はふっと微笑み、そうですね、とうなずいた。
「それより、食べよう。麺が伸びちゃうし」
 彼女はそう言って周囲の目も気にせずどんぶりをつかんで一気にスープを飲み干した。僕はそれを見て、本当に気持ちの良い人なんだな、と少しだけ感慨深げに思った。

 彼女はゆっくりと通りを歩き出しながら、僕の顔を見つめて明るい声を上げた。僕は彼女の少女のように無邪気な笑顔を見る度に、くすぐったいような気持ちに駆られてしまう。
「これから少し一緒に街を回らない? 私、初詣に行ってなくて」
「あ、いいですよ。僕もちょうど行きたいと思っていたところなので」
 僕らはそう口々に言い合いながら繁華街を進み、そこで彼女が「バイクに乗らない?」と言った。
「え……バイク、ですか?」
 僕は彼女の引いているそれを見つめて、少しだけ気が引けてしまう。
「結構面白いよ。私の運転でいいなら、だけど」
「ごめんなさい。乗り物は苦手で」
 そう視線を逸らしてつぶやくと、彼女は苦笑し、「いいよいいよ」とそのまま歩き続けた。
「陽君はいつも休日は湖の前をジョギングしているのかな?」
「ええ。体動かすのも好きなので。ほっとできる場所があるのって、なんだかいいなって思います」
 私もそう思うよ、と彼女は笑った。
「私の場合、今その瞬間にいる場所が一番落ち着くところなんだ。いつも自分の求めている場所に辿り着いてほっとしてる。でも、それってどこにも留まらないってことだよね」
「どこか、安心できる場所に腰を落ち着けようとは思わないんですか?」
 彼女はそこで僕へとじっと視線を向けてきて、くすくすと笑った。
「今、考え中なんだ。この街にいるかどうか」
 彼女はそう言って僕の背中をとんとんと優しく叩いた。彼女のその仕草が出会った瞬間から僕をひどく安心させた。
「この街に滞在する間は、どうしているんですか?」
「うーん、そうだね、知り合いのアパートを借りて少しの間居させてもらってるんだけど、長い間はいられないね」
 彼女が僕の顔を見て少し残念そうに言うので、僕はふっと笑い、また来たらいいですよ、と語りかけた。
「この街に留まらなくても、いつかまた来て、この街のことを好きでいてくれれば、それでいいです。旅を続けてても、この街を覚えていてくださいね」
 もちろん、と彼女はうなずいた。
「君のことも、絶対に忘れないよ」
 彼女はそう言って僕へと手を伸ばそうとして、ふっとそれを下ろし、淡く微笑んだ。
 僕らは神社へとやって来ると、バイクを駐車場に停めてそのまま境内に入った。さすがに元旦だけあって人が列を作って並び、それは境内をぐるりと囲っていた。
 僕たちはまず中に入って屋台でたこ焼きを買い、二人でそれを分け合った。彼女は爪楊枝にたこ焼きを刺して僕の口元に持ってきて、はい、と差し出してきた。
 僕はそれを口に入れて頬張ると、彼女はくすくすと笑った。僕らには七歳という歳の差があったけれど、心は同じ年代のような、そんな親近感をお互いに抱いているようだった。
 最後尾へと並び、順番が来るのを待ちながら、久しぶりだな、と彼女は語った。
「私、誰かと一緒にこうしてどこかに行くの、久しぶりのことなんだ。いつも一人で神社にお参りした後に、映画を観に行ったり、そんなことばかりしてたから。君は今年、何を願う?」
「えっと、やっぱり新人賞獲れますように、とか」
「じゃあ、私も君と同じ願い事をしよう。君が新人賞を取れますように、って」
 僕は噴き出し、お願いします、と笑った。
「エーコさんは願い事、ないんですか?」
「うーん、やっぱりこの旅がうまくいきますようにってことかな。女の一人旅は危険だけど、他の人の協力なしにはできないものだからね。だから、いつも私は皆に感謝してるよ」
 彼女は僕の肩を叩き、順番が来たみたいだよ、と前へと促した。
 僕は礼をした後、鈴を鳴らして拍手をし、目を閉じた。
 新人賞が獲れますように。それから、隣にいる彼女が無事旅を続けられますように。
 そう願うと瞼を開き、彼女へと振り向いた。彼女はまだ掌を合わせて何かを願っているようだった。
 彼女がようやく顔を上げて僕を見つめた時、彼女の瞳は何か深い感情を籠めた眼差しをしており、彼女は何故か寂しそうな表情を浮かべた。
 僕が何かを言い出そうと口を開くと、彼女は行こう、と背を向けておみくじの前へと歩いていく。
「どうかしたんですか?」
「いや、何でもない。私、いつまでこの旅を続けるのかなって、そう思ってね」
 彼女は百円玉を取り出しておみくじの箱に入れると、ごそごそと一枚を引き出した。僕もそれに続く。
「あ、大吉だ」
 彼女が少しだけ驚いたように、でもそれ程気にしていないような様子で、そのおみくじを僕へと見せた。
「僕も、大吉みたいです」
 同じくそのおみくじを彼女へと差し出すと、彼女はぷっと噴き出した。
「私達、付いてるね。二人でいれば、運気がアップするのかもね」
 彼女はそんなことを言って、僕の手首をつかんだ。僕は体を震わせて、彼女を困惑の目で見つめる。
「これからアパートに来ない? こう見えて、料理できるんだ。うちに泊まってかない?」
 その突然の言葉に、僕は心臓を杭で打たれるような感覚を覚えた。目を見開いて、少しだけ視線を下へ向けて、それから再び彼女を見る。
「ごめんなさい。今日はまだうちでやることがあるので」
 そんなに気の利かない言葉があるのだろうか、と自分でも思った。すると、彼女は明らかに沈んだ表情を見せて、そうだよね、うん、とうなずいた。
「ごめん。長い時間付き合わせて悪かったね。また会えることを願っているよ。それじゃあ」
 彼女は軽く手を上げて、すぐに歩き出してしまう。僕は彼女の背中に何か言葉を掛けようとしたけれど、心がごちゃごちゃに入り乱れていて、声を絞り出すことは叶わなかった。
 彼女の姿が消えてすぐに、そのバイクのすさまじい金切り声が聞こえてきた。僕はその場に立ち尽くし、彼女が渡したままのおみくじを握り締めながら、その黒い影が疾走していくのを見守った。
 周囲の人々が冷めた目でそのバイクを追う中、僕だけは彼女の影をいつまでも胸に刻み付け、ただ後悔に揺れていた。
 なんで、断ってしまったんだろう。あんなに彼女といるのを楽しんでいたのに、彼女を傷つける言葉を掛けてしまった。
 でも、それが僕という薄情なガキが言える言葉の限界だったのだ。僕はおみくじを結び、二つ重ね合わせながら、小さく微かな吐息を漏らして、俯いた。

 僕は家に帰り、おせちを食べてすぐにベッドに横になった。脳裏に浮かんだ彼女のあの寂しそうな笑顔がちらついて、居ても立ってもいられなくなる。そんな落ち着かない気持ちになってしまったのだった。
 彼女の申し出を否定せず、あのまま彼女と仲良くなったら良かったじゃないか、と自分自身をなじる声が繰り返されるけれど、僕には彼女とどうにかなるとか、そんな度胸はなかった。
 僕が今求めているのは何気ない穏やかな日常で、幾度も危機を潜り抜けて冒険してきた彼女を受け止める覚悟などなかった。そもそも彼女はただ僕に軽い気持ちで誘ったのかもしれないし、僕の考えすぎだったのかもしれなかった。
 ただ、わからなかった。僕にはあまりにも経験も知識も、それを補うキャパシティさえもなかったのだ。
 僕は額に腕を載せ、目元を隠して何度も溜息を吐いた。その間に家の電話が二度鳴ったけれど、出なかった。きっと両親からだろうけれど、今は誰とも話す気になれなかった。
 なんだか胸が締め付けられて、頭を抱えて叫び出しそうになってしまう。彼女がくれたあの優しい言葉が何度も頭を駆け巡り、鐘のように響き渡った。
 時間が経っても、その苦しさは依然として僕の心に残っていた。夜になり、テレビを消して部屋を暗くしても、アパートのすぐ前の通りを走る車の音ばかりに耳がいってしまう。
 時折あの獣のいななきが道路を突き抜けて、バイクが走行する音が聞こえてくると、それが彼女なのではないかと思ってカーテンを引き、外を覗いてしまう。
 でも、そんなことをしても全く意味はなかった。僕と彼女は全く生きている日常が違うし、もう二度と会うことはないのだろう。
 きっと好きになりかけていたのだ、と思った。もうどうすることもできない。次に彼女と会ったとしても、それは全くの別人で、彼女はとっくにこの街を出て風の唸りに身を任せて、旅を続けているに違いない。
 結局、僕は彼女に弄ばれていたのかもしれないな、と思った。けれど、彼女のあの一つ一つの言葉は絶対に嘘ではないことはわかっていた。それだけが僕にとっての救いだった。
 僕は寝間着に着替え、ベッドに滑り込むと、すぐに眠りについた。今日に限って表の通りにはバイクの往来が激しく、何度となくその風の唸り声が絶頂を迎えて叫ぶ女性の声のように街全体に木霊していた。
 それが彼女のバイク音なのではないかとどうしても思ってしまう。けれど、未練とあきらめの感情の間で僕は揺れ、結局すぐに眠りへと誘われていった。


 翌日もその翌日も僕は湖の前をジョギングし続けた。また彼女に会えるのではないか、とそればかりを考えてしまい、そして実際に走ってみると何だか馬鹿らしくなってしまう。十五分走って家に戻り、その後は昼食を摂ってから喫茶店へ行って読書をするという日々を過ごしていた。
 夜になるにつれて、またあのバイクの雄叫びが通りを突き抜けていくので、僕は窓に身を寄せて確認してしまうのだった。それが本当に彼女なのではないかと、そう信じ込んでしまう自分がいた。
 でも、僕にももう何もすることができない。そのままベッドにもぐり込んで身を縮めて眠るだけだ。
 一月四日の朝、再びジョギングに出掛け、僕はもうさすがに彼女は行ってしまったのだろうな、と思った。もうそれでもいい。彼女がほんの記憶の片隅に僕の存在を刻んでくれれば、僕はそれだけで自分の言ってしまった言葉を許せるのだった。
 朝陽がきらきらと湖面に反射して瞬くのを眺めながら、僕はずっと走り続けた。走っていると、次第に涙がこみ上げてきた。なんでこんなに悔しいのだろう、と自問しても涙の意味はわからなかった。
 でもその時、あの“うなり”が聞こえてきた。
 それは確かに遠く彼方から聞こえてきて、やがて風を切り裂くような叫びを上げて直進してきた。その風の稲妻に体をずたずたに引き裂かれてしまうのではないか、と思ってしまうほど、それは激情の篭められた運転だった。
 そして、ゆっくりとそのバイクはスピードを緩め、僕の傍らで停まった。僕は唇をわななかせ、振り向き、彼女を見つめて硬直してしまう。
「やあ、奇遇だね」
 彼女がヘルメットを脱ぎ、長いストレートの髪を宙に舞わせながらにっこりと微笑んだ。髪に彼女の汗が纏いつき、それはすぐに散っていった。
「ずっと君を探していたんだ。このまま君に何も言わずに去ってしまうのが怖くてね。あの時、なんで君を置いて行ってしまったんだろう、とずっと気になっていたんだ」
 そう言って彼女は近づいてきて、僕の手首を握った。そして「捕まえた」と笑った。
 僕はどんな言葉を返すこともできず、唇を噛んで俯いた。やがて「会えて嬉しいです」とそれだけを零した。
「私も君に会いたいって、ずっと思っていたんだ。もしもう一度話すチャンスをくれるなら、私のバイクに乗ってくれないかな?」
 彼女が僕をじっと見つめて、小さく首を傾げて微笑んだ。僕は唇を噛んで俯き、必死に涙を堪えた後にうなずいた。
 彼女がヘルメットを投げ、僕はそれを受け取るとすぐに被った。彼女の後ろに乗り、その細い腰につかまる。
 彼女は僕の掌をぎゅっと握り締め、何か想いを篭めるように撫でてきた。そして、ヘルメットを被ると、ハンドルを握った。
 その瞬間、けたたましいほどの音が耳を覆い尽くし、僕らは弾丸のごとく風の唸りに身を任せ、疾走していく。何もかもを切り裂いて、二人だけの世界を時空の彼方に見つけると、時を静止させ、永遠に二人の魂を植え付ける。そこでは僕の高鳴る鼓動と、彼女の荒れ狂う程の激情が幾重にも絡みついて、限りなく一つになっていく。
 僕は強く強く彼女の体を抱き留め、その温もりに溶け合い、少しでも彼女と一緒にいたいと深くそう思った。彼女は次々と車を追い抜かしていき、道を折れて直進し、螺旋状に車の間を縫い、そして風そのものとなった。
 僕らは確かにこの世界で一つの想いとして、羽を広げて自由を手にしていた。彼女が本当に願っているその奇跡を、僕ら二人ならば見つけることができる。僕らは一つで、どこまでもどこまでも地の果てまで旅していけたのだ。
 彼女はどこにも留まることなく疾走し続けた。もう呼吸することを忘れたみたいだった。時が止まったまま、僕らは気付かないうちに光の彼方に消えてしまいそうだった。それ程僕らは異なる世界の景色を見ていたのだ。
 それでも彼女のドライブはやがて静かに、燃え上がった炎が徐々に縮んで消え失せるように、その悲痛なバイクの叫び声を掻き消してスピードを緩めていった。やがて湖の側の公園手前で彼女は停止させ、ヘルメットを脱いで振り向いた。
「どうだった? 私のこと、少しはわかったかな?」
 僕は何度も顎をうなずかせた。二人で並んで歩き、僕らは湖が見渡せる柵の前に立ち、熱い吐息を漏らした。
「君のこと、最初から何か繋がる部分があったんだ。なんでだろうね。今まで旅してきたけど、こんな気持ちになったのは初めてだよ」
 それは嘘なのかもしれなかったけれど、僕はその言葉だけでどんな哀しみも掻き消えて、彼女の温もりと同化していくのを感じた。彼女は僕をベンチへと促し、腰かけると、そっと顔を乗り出してきた。
 そのままされるがままに唇を重ねた。それは本当にさっぱりとした、彼女らしい優しい感触だった。僕は指を組み合わせながら湖面をじっと見つめた。
 頭の中が水を打ったように静まり、僕はただその穏やかな時に身を委ねて、彼女の頭を肩に感じながら深い吐息を繰り返した。
 僕たちは確かに今、束の間の恋人となった。でも、それがあっという間に過ぎてしまう刹那の出来事であることを知っていた。それでも僕には彼女がただ一人の女性であることを感じるのだった。
 僕はただただ彼女の掌を握り締めて、その花びらにも似た優しい香りを身近で感じた。僕らの間に言葉はなかった。でも、何度も息遣いを交換し、僕らはお互いの気持ちを知っていた。
 それだけで、僕らは一つになれるのだ。バイクと恋の風に乗って、どこまでも……。

 彼女は僕と時間を共にし、本当に二人だけの時間を共有できたことに、嬉しそうだった。僕も彼女と手をつなぎながら公園を出たところに戻り、向かい合った。
「それじゃあ、また明日。今日は本当に楽しかった」
 彼女が僕の肩を軽く叩き、顔を綻ばせる。僕もうなずき、身を寄せてその背中を叩き返した。
「この日のことは、いつまでも忘れないと思います」
「うん。例えいつか君と会えなくなっても、絶対に忘れないよ」
 彼女は軽く手を振って、バイクに寄り掛かりながら僕が歩き出すのを見守った。僕は何度も振り返りながら、彼女に手を上げて合図し、ゆっくりと、ゆっくりと進んで住宅街へと向かっていった。
 もう彼女が小さくなって見えなくなっても、それでも彼女はまだそこにいて、僕を見送っているらしかった。僕は本当に嬉しくなって、何か声を上げながらアパートへと走り始めた。
 僕の吐息が薄暗くなった街に小さな模様を刻んで消える中、まだその炎は静かに燃え続けていた。明日彼女に会ったら、僕ははっきりと彼女に伝えようと思う。
 あなたが好きです、と。ずっと一緒にいたいです、と。

 でも、翌日彼女は現れなかった。待ち合わせの時間になっても、そのバイクの唸り声は聞こえてこず、ただ鳥のさえずりだけが異様に寂しい静けさを僕の心に訪れさせるだけだった。僕は公園の入り口で立ち尽くし、なんだか悪い予感を抱き、それでも何もできずに一時間半の時を過ごした。
 彼女が昨日、最後に残したその言葉を思い出す。
 ――例えいつか君と会えなくなっても、絶対に忘れないよ。
 僕は気付けば地面を蹴って、湖の側の道を走り始めていた。何か叫び声を上げながら、どこまでもどこまでも進み続けていく。
 そんなの、嫌だよ、と僕は囁く。それでも、彼女がそこにいた証はこの世のどこにも残っていなかったのだ。
 僕は彼女と歩いた湖の遊歩道をずっとずっと走り続けた。やがて湖が遠のき、住宅街が見えても、僕の足は止まることはなかった。
 エーコさん、と僕は心の中で何度も呼びかけながら、そのラーメン屋へと入った。そして、大将! と大きく叫ぶ。
「おいおい、あんちゃん、どうしたんだよ。いや、少し遅かったな」
 店主は僕の切実な眼差しを受けて困った顔をしながら、扉の先を見つめた。
「さっき、彼女、いっちまったよ。また旅に出るんだってさ」
 僕の頭の中で全ての思考が凍り付き、地へと吸い込まれていく。僕はその場に座り込みそうになって、そして何とか椅子に座って涙を浮かべた。
「まあまあ、こういうこともあるって。あんちゃん、今日ばかりは塩ラーメンサービスしてあげるよ。さっきも彼女、それ食べてたんだ」
 店主はこちらに歩み寄ってくると、何か紙切れのようなものを差し出してきた。僕ははっと目を見開く。
「これ、姉ちゃんから預かってるよ。あんちゃんによろしくって」
 僕は震える手でその封筒を受け取り、中から手紙を取り出した。そして、ふっとわずかに微笑んでしまう。

「君には本当に悪いことをしてしまった。私はまた旅に出ることを決めたよ。本当にころころ気が変わるどうしようもない女だと思っているだろうね。でも、私は君が嫌いだから別れる訳じゃないんだ。好きだから、別れる。君がどんなに好きでも、私は旅を続けたいと思っている。
 私のことを理解してもらおうなんて思ってないけど、たぶんさっきこの店で塩ラーメン食べてる時に、また旅に出たいと深く思えてきたんだ。君もどうか、私のことを恨まずに、好きでいてほしい。
 いつかまた会えることを願ってるよ」
 ――A子より。
 僕は唇をきつく噛み締め、涙を堪えようとしたけれど、無駄だった。それは悔しいからでもない、悲しいからでもない、もっと別の、彼女を呼ぶ切実さに満ちた何かだった。僕はきっと彼女のことをこれからも好きでい続けるに違いない。
 でも、こうして塩ラーメンを食べていると、少しだけ、彼女の気持ちがわかったような気がした。彼女はきっとラーメンを食べながら、まだ見ぬ世界を夢見て、動き出したいと思ったに違いない。
 それだけで、僕は十分だった。僕は手紙を胸ポケットに入れ、ラーメンをただ夢中になって食べた。鼻水でぐちゃぐちゃになった顔のままで涙を流して麺を啜りこみ、塩味のスープを一滴も残さず飲んだ。
 僕の失恋は、恋に破れた訳でもなく、相手を傷つけた訳でもなく、ただ時間が来て終わってしまった約束事の一つであったのだ。
 それに対して後悔はない。ただ、僕は彼女が好きだという証として、ラーメンを食べ、涙を流すだけだ。
2015-05-03 17:27:30公開 / 作者:遥 彼方
■この作品の著作権は遥 彼方さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
お久しぶりです。今回、また短編を一本、掲載させていただきます。最近は試行錯誤し続けていて、少しでもいいものを書きたいと思って試したりするのですが、何とかこれからも書いていきたいと思います。この作品を読んで、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
この作品に対する感想 - 昇順
 こんにちは。
 なぜかはうまく言えないのですが、遥さんの描く男性主人公には、ぼくはいつも感情移入できないんですよね。AKBとかの歌に出てくる「気弱なボク」みたいな感じがして好きになれないというか……。男ならもっとガツガツ行くだろ? みたいな(笑) たとえ言葉には出せなくても、心の中ではもっといろんなこと思うだろ? みたいな。
 そういう「ボク」の前にきらきらした女性が出てくる話、遥さんはよく書かれていますよね。この作品もまさにそういう構造です。どういう意図があってこのような作品を多く書かれているのかなと、ふと気になりました。あと、全然スルーしていただいていい話題なんですが……いままで遥さんのことを女性だと思っていたんですが、男性視点の作品が圧倒的に多いので、もしかして男性?? とも思えてきました。ぼくはよく女性と間違われるんですが(笑)
 さて、今回の作品は感想に困りました。たしかに切ない話ではあるのですが、登場人物がどこか人情味に欠け、どうしても作り物の感じが出てしまっていると言いますか。また、美しい描写が逆に重すぎて、読者を入り込みにくくしているとも感じられました。これは無用で的外れなアドバイスかもしれませんが、読む人の心を揺さぶろうとする場合、気合いを入れた描写はここぞというときだけ使うべきではないでしょうか(今回でいうと、ラストで二人がバイクに乗るシーンなど)。
 でも、届かない女性に憧れる気持ちって絶対男性は持ってるんですよねー。それは否定できませんし、主人公が女性の前で緊張する場面など、あるあると思って読んだところもありました。
2015-05-13 22:27:20【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
また出没しました。遥 彼方さんの、好きな話しの感じがなんとなく分かってきたような気がします。映画になったりしたら、すごくお洒落なものになりそうな、本だったら素敵な表紙が付きそうな、そんな感じかなと。私とは正反対、、。さて今回のお話ですが、頭にフジコちゃんが浮かんだのは私だけ?メットを颯爽と脱いで、髪がふわ!とか憧れます。私その昔、中型のバイクを乗ってまして、それやろうとしたら、髪は額に張り付き、化粧は汗で落ちてドロドロでおばけ状態だったのを思い出しました。そんなの絶対小説には書けないですよね( ゚Д゚)

本文の『あまりにも彼女に目が吸い寄せられてしまい』というところ、なんだかちょっと、な気がしました。彼女に見とれてしまい、とか又は、目が釘付けになってしまい、の方が明解なのではないでしょうか。
あとは、ラーメン屋の名前、一発屋。。って。う〜ん。一発屋芸人のようで、すぐ潰れそう。

そして、女性がずっと、「僕」のことを君と呼んでいたのが、常に微妙な距離がこの二人にはあると感じました。二人が対等になることはないな、と。つまり「僕」の恋が実ることはないんだろうなと。
男の人が失恋する、きれいな物語はあまり読んだことがないので新鮮でした。まとまりがなくて、すみません。
2015-05-16 00:38:16【☆☆☆☆☆】えりん
計:0点
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