『猿神家の一族(第四話まで)』作者:江保場狂壱 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
 新宿区雷丸学園二年生猿神拳太郎は内閣隠密防衛室の諜報員スペクターの一員である。 ある日彼は夢を見る。それは自身の過去に触れる忌まわしい物だった。 そんな折に雷丸学園に新任の美術教師が現れる。 一見平凡でどこにでもいそうな中年男性に、猿神はある気配を感じるのであった。 それは猿神の出生の秘密、そして彼に巡る血筋が彼を修羅の道へ叩き込むのだ。 学園スパイアクションの始まりである。
全角44187文字
容量88374 bytes
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『序章』

 新潟県は佐渡島近辺に猿神島という島がある。島は断崖絶壁で、周りは暗礁に囲まれており、うっすらと森に包まれていた。地元では鬼の住む島と呼ばれ、誰も近寄らなかったという。ごくまれに近づく者がいたが、大抵無残な死に様を遂げていたが、大半がフカに喰われたのだろうと気にも留めなかったのである。いや、フカのせいにしておくことで、鬼の島から遠ざけたかったのだろう。
この島は明治維新後に発見されており、今まで無人島だと思われていたのだ。だが住民はまるで原人のような格好で自然と共存をしていたのであった。それというのも猿神島の住民は忍者の末裔だったのである。
 元は戦国時代で上杉謙信に仕えていた軒猿(のきさる)の子孫だったとも言われているが定かではない。軒猿自体その存在を疑問視されていたから、自己申請かもしれないのだ。
 だが彼らは主君謙信公と同じく毘沙門天を信仰しており、百足の家紋であった。百足は毘沙門天の使いだからである。
 さて猿神一族はなぜ発見されたのだろうか。そのきっかけは定かではない。明治政府に発見されたか、もしくは自分達から歴史の表舞台に上がったのか。今となってはわからないのだ。
 猿神家の歴史よりも彼らの特徴を記していきたいと思う。彼らは当時平均的な日本人より身長が高かったという。まるで毛唐と間違えたほどだというのだ。手足が長く、まるで猿神のようだったそうだ。日本人から見れば外国人は鬼か天狗に見えたのである。
 なんでも彼らは戦国時代、南蛮人から黒人の奴隷を購入していたという。のちに宣教師追放から、徳川幕府の鎖国政策になるまで黒人を買い求めたとのことだ。その他にも船が難破して生き延びた外国人を見つけては島に連れ帰ったというのである。その金は謙信からもらった褒美で出ていたそうだ。
 これは猿神一族が自分たち以外の血筋を混ぜ、よりよい肉体を作るためだという。特にカポイドの特徴が多く、狩猟を利用した技が多い。もちろんコンゴイドという種もおり、農耕に役立てていたそうだ。走り方も黒人独特の物であり、狩猟方法もブーメランとか色々な物を使用していたのだ。
 さて現在の猿神一族はスペクター育成学校が作られている。これは今から三十年前に創立されたそうだ。これには大勢の猿神一族が血を流しており、まずそれを説明しなくてはならない。
 現在の当主は猿神金太郎(きんたろう)と言い、四十六歳である。当主と言ってもお飾りであり、育成学校の校長として働いている。ころころ丸く太った体型で名前の通りに金太郎に似ていた。
彼には八重子(やえこ)という妻がおり、金時(きんとき)という息子がいた。彼は二十二歳であり、島にはいない。極秘任務で離れているのだ。他にも子供はいるがここでは省く。
 金太郎の父親は猿神蔵人(くらんど)といい、二十年前に亡くなっている。金太郎自身は蔵人の二男であり、当たり障りないおとなしい性格であった。問題は蔵人の長男である。
 長男は猿神桃太郎であり、次期当主として育てられてきた。だが桃太郎は父親に反発し、三十三年前に島を抜けたのである。歳は十八歳であった。
 桃太郎が島を抜けたのは反抗期ではなかった。衰退する一族の命運を変えるべく、死を覚悟して抜けたのである。当時の猿神一族は外部から孤立していた。明治維新から始まり、太平洋戦争に翻弄されたために蔵人は猿神島に閉じこもってしまったのである。蔵人の意見に一族が反対しなかったのは、他の者も同じ意見だったからだ。
 これは蔵人の性格にも問題があった。彼は広い世界に叩きのめされてしまい、小さい、自分だけの世界に閉じこもってしまったのである。向上心はまるでなく、人を見下すことしか能がないのだ。下忍の子孫は家畜のようにつらく当たり、好き勝手に暮らしていた。 
まさに暴君と呼ぶのにふさわしく、一族では嫌われていた。だが当主なのでだれも逆らえずにおり、ちょっとでも反発と見なされたら切り殺すという時代錯誤であった。これは同じ一族同士による近親結婚のせいかもしれない。つまり正常な人間が少なくなってきたのである。
 桃太郎はそれに反発し、島を抜けたのである。そして花戸利雄と出会い、内閣隠密防衛室を設立したのだ。内閣隠密防衛室とは日本を影から守るための組織である。通称は内防と呼ばれていた。その独自性ゆえに時の総理大臣すら手出しできないというのだ。
手品のタネは各政治家や官僚たちの弱みを握り、脅迫しているのである。内防はかつて亡霊党と呼ばれる組織だった。明治維新から影で活躍しており、その間貴族や企業から脅迫のネタを仕込んでいたのである。
 普通は脅迫された者はなんとかして脅迫者を潰そうとするが、できずにいた。亡霊党は脅迫して搾り取るだけでなく、脅迫された者のために動くのである。たとえば身内に粗相をしたものの尻拭いをしたり、厄介な相手を人知れず暗殺したりしていたのだ。それ故に被害者たちは金を絞られるも、その間は政敵や醜聞に悩まされずに済むので重宝していた。飴と鞭の使い分けである。
 そして二十年前、猿神島へ桃太郎たちが襲撃をしたのである。桃太郎に鍛えられた兵士と最新の銃火器。時代遅れの忍者集団では話にならなかった。蔵人は火の海と化した村と鉛玉で息絶えた下僕の躯を見て発狂し、火に包まれた屋敷の中に身を投げて自害したのである。
 その後島は内閣隠密防衛室によって再建された。育成学校には全国の福祉施設から身寄りのない子供が集められ、修業をしていた。猿神一族の訓練に、内地から運ばれた資材により、科学的トレーニングなどを加えられ、スペクターの資質はぐんと高くなったのである。
 さらに同じ一族同士の結婚を禁止にした。おかげで近親結婚の悪夢を断ち切ることができたのだ。そして猿神一族の血族は全国へ広まったのである。警察や自衛隊、役所はもちろんのこと、マスコミ関係にもスペクターが潜んでいた。スペクターとは亡霊という意味であり、前身の亡霊党にちなんでつけられた諜報員の別称である。
 さて桃太郎は十八年前に死亡している。これはある事故に巻き込まれたのだが、まだ語る時期ではない。スペクター育成学校の校長は弟の金太郎が選ばれた。確かにお飾りではあるが、実力はあった。同年代で金太郎より強い人間はいなかったのである。
 そして猿神桃太郎には子供がいた。正確にはまだお腹の中におり、その手で抱くことはなかった。この話は猿神桃太郎の息子の話である。

『第一話:新任教師』

 君は罪人の子供だ。
 一生罪人の子供として過ごさなくてはならないのだ。
 絶対に忘れてはいけない、忘れさせてはならないのだ……。
 赤と黒が渦巻く世界だった。そこに無数の影法師が子供の周りを囲んでいる。
 子供は小岩のように丸くなっていた。影法師たちは子供に囁いている。
 子供は必死に耳をふさぎ、目から涙がこぼれていた。
 肌寒く、一切の温かみのない世界。その世界に突如光が射したのである。
 
 「いやな夢を見たな」
 俺はベッドの上で目を覚ました。汗でびっしょりである。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。ここは俺の部屋だ。もっともここに来てから数日しか経っていない。俺が住んでいたところはトラブルが起きて住めなくなっちまったからだ。
 部屋は六畳間で本棚に机、ベッドが置かれている。部屋の天井にはサンドバッグが吊るされているが、俺の趣味だ。
 俺の名前は猿神拳太郎。新宿区にある雷丸学園高等学校に通う二年生だ。人は俺のことを人間ニホンザルと呼ぶ。俺の顔がニホンザルそっくりだからだそうだ。もちろん運動神経には自信があるぜ。木登りは得意だし、実際猿のように体が軽く、相手のパンチなんかかすりもしない。
 さて俺は上半身裸だ。下半身はパンツ一丁である。寝巻はうっとうしいのでつけていない。季節はすでに夏だ。暑くてたまらない。眠気を振るって上半身を起こす。早くシャワーを浴びるか。
「あれ、うなされていたけど大丈夫」
「ああ、大丈夫だ。ちょっと嫌な夢を見ただけさ」
 横から声がした。声の主は俺の横で毛布にくるまったまま寝ていた。
「……」
 俺は首を傾げた。ここは俺の部屋だ。そして横に寝ている奴を俺は知っている。問題はなぜこいつが俺の横で寝ていたのかだ。
「ヘイヘイヘイ!! コウちゃん、お前は何で俺と同じベッドで寝ているんだ!!」
 こいつの名前は丸尾虹七といい、俺のクラスメイトだ。俺はコウちゃんと呼んでいる。容姿は平凡でどこにでもいそうな感じだ。だが同じベッドの上で見るコウちゃんに色気を感じるのはなぜだろうか。
「ケンと一緒に寝て親睦を深めろと、大槻先生に言われたから……」
 俺は頭を抱えた。大槻先生とは俺とコウちゃんの担任教師、大槻愛子のことだ。生徒からは教授という仇名で呼ばれている。とびきりの美人だが性格に難があるので人気がない。所謂残念な美人だ。ただ教師としては有能な人だから性質が悪い。
 ちなみにこの家には俺とコウちゃんが住んでいる。雷丸学園が買い取った空家のひとつだ。全国では高齢者が増え、家を継ぐ子供がいない。その高齢者から家を買い取り、遠出の生徒のための寮にしているのだ。ちなみに食事は自炊であり、今日は俺が当番なのだ。もっともコーンフレークと前日に切ったサラダ、ハムエッグくらいしか作れないが。
 コウちゃんは起き上がった。コウちゃんも上半身は裸である。見た目は華奢で女に見えた。コウちゃんは着ぶくれするタイプなのかもしれない。
 いかん、いかん。俺は首を降り回した。俺にはれっきとした恋人がいるのだ。俺はコウちゃんに目を奪われている場合ではない。
「ほら、早く起きて支度をするぞ」
 そう言って俺は毛布を取った。するとコウちゃんの裸体が丸見えになる。彼の身体はまるでギリシャ彫刻の黄金分割みたいな美しさだった。思わず俺は紅潮してしまう。
「あ、ケンの顔が赤くなった。僕の裸で興奮してくれているのかな」
 コウちゃんはうふっと笑った。まるで妖精がほほ笑んでるようだった。
 ……かわいい。
 平凡で何の特徴もないと思っていたが、実際コウちゃんは中性的な顔立ちで美女と間違われてもおかしくないのだ。それなのになぜこの長所が目立たなかったのだろう。
「それは僕がスペクターだからだよ」
 うわっ、俺の心を読んだのか。いいや、もしくは思っていたことを口にしていたのかもしれないな。
 コウちゃんは自分のことをスペクターと呼んでいた。スペクターとは内閣隠密防衛室という組織の諜報員の別称である。通称内防と呼ばれており、日本を影から防衛しているというのだ。所謂スパイという奴だ。ちなみに俺も同じスペクターである。もっともつい最近に入ったんだけどね。
「スペクターは亡霊なんだ。だから僕は亡霊のように影が薄くて人の目に入らないんだよ」
 コウちゃんは淡々とした口調で言った。そりゃそうか。スパイが自己主張したらまずいもんな。
 するとコウちゃんは俺の胸元に抱きついた。肌と肌が重なり合う。互いの体温が重なり合い、熱くなってきた。そしてコウちゃんは俺の胸元に軽く口づけをする。
「なななななっ!! 何をするんだ!!」
「亡霊の僕たちは普通の人と愛することはできない。だから亡霊同士で愛し合うのだと先生が言っていた」
 〜〜〜〜〜!! 何が愛し合うだ!! 教授の野郎、コウちゃんにでたらめを教えやがって!! 頭の中で教授のドヤ顔が浮かんできたので、首を振るって吹き飛ばした。
「ヘイヘイヘイ!! コウちゃん。俺たちは愛し合うことはできないんだ。俺には恋人がいるからね。コウちゃんとは無理なんだよ」
 俺は至ってノーマルだ。男を相手にするほど飢えてはいないし、まだ興味はない。するとコウちゃんは泣きそうな顔になった。
「ケンは僕のことが嫌いなの?」
 目に涙を浮かべてうるうると訴えてくる。なんてこった!! こんなに俺の胸をかき乱すなんて!! いやいや、俺はホモじゃない。ホモじゃないぞ!! これではユリーに勧められた同人誌の内容と同じではないか!! 俺はBLに興味はないぞ!!
 ちなみにユリーとは俺の恋人のことだ。名前は白雪小百合と言い、金髪の黒ギャルである。一年生の時は黒髪の三つ編みで黒縁メガネをかけた真面目な生徒だった。俺と付き合い始めてからギャルになってしまったのである。
「僕が男であることに問題があるのなら、女装してもいいよ」
「違う!! なんで女装になるんだ!! 俺たちは友達であって、恋人じゃない!! 友達は愛し合わなくてもいいんだ!!」
 第一コウちゃんが女装をしても無意味だ。ユリー曰く、男の娘はBLではなく、あくまで男を女性の代用品として扱っているとのことである。
「じゃあ衆道の契りを交わす?」
 ちなみに衆道とは男同士が交わることだ。戦国時代ではよく武将がやっていたそうで、主従関係に固い絆が結ばれていたそうな。戦国時代では本能寺で明智光秀が謀反を起こしたのは、織田信長が森蘭丸に嫉妬したためとか歴史の授業で教師が冗談交じりで言っていた。
「交わさないよ!! つーか早く支度をしろよ!! 学校に遅刻するぞ!!」
「えーっ、でも遅刻ギリギリまで粘れと先生が……」
 教授の野郎、余計なことを吹き込みやがって!! コウちゃんは事情があって精神年齢は幼稚園児並なのである。知識はあるのだが経験が皆無なので、大人に、特に教授に騙されやすいのだ。これは俺がしゃべることではないので割愛にしておく。
 俺は急いで朝食の準備をして、弁当をこしらえた。そして二人仲良く登校したのである。コウちゃんは途中手を繋いできたが、振り払った。

 *

 新宿中央公園の近くに俺が通う雷丸学園がある。戦後アメリカ人のテレンス・フレミング・サンダーボールという実業家が設立したそうだ。そのため鉄筋コンクリートで作られているがどこかおしゃれなのである。もちろん戦後数十年経っているから補給工事はしている。
 昔はそれなりに格式があったが、数年前は不良学校になってしまった。漫画に出てくる天を貫く槍のようなリーゼントに、魔人ドラキュラのマントみたいな学ランを着ている奴らが闊歩していたそうだ。女は童話に出てくる意地の悪い魔法使いみたいなセーラー服を着て、メデューサの蛇の髪みたいなパーマをしていたという。まさしく学校は地獄の獄卒たちが、教師の名を持つ亡者をいたぶっていたそうな。
 ところが三年前に変わった。立派な進学校に変貌したのである。当時の不良たちは淘汰されてしまったそうだ。それを行ったのは四人の新入生だった。現・生徒会長の満月陽氷(みつき・ようひょう)と現・副会長の乙戸帝治(おっど・ていち)である。この二人はまるで北欧神話に出てくる巨人のような体格をしている。他の二人は自主退学した。こいつらは関係ないので省く。
 季節はもうすぐ夏だ。衣替えは終わり、夏服になっている。雷丸学園は男子は学生服で、女子はブレザーだ。男子はワイシャツに紺色のズボンである。女子はワイシャツに学校指定のネクタイを締めている。スカートはチェック柄だ。
 さて教室に入った俺は窓際で一番後ろの席に座った。そこが俺の席である。その前がコウちゃんで、その横はユリーの席だ。
「よぉ、おはようさん」
 横から声をかけたのは女子だ。だがユリーではない。銀色の短髪で鹿のように活発そうな女子である。こいつの名はビーネ。ヨーロッパにある小国ヴァイスシュネー公国からの留学生だ。屈託のない笑顔を浮かべている。
「なんでお前が横に座っているんだ。ビーネ」
「おいおい、人前でビーネと呼ぶなよ。ビーネはコードネームなんだからさ。本名はアリエテ・ステファヌッティと呼んでよね」
「まあお前の本名なんかどうでもいいさ。それよりユリーはどうしたんだ。まだ来ていないのかよ」
「来ているよ。ほら、ボクの席に座っている」
 そういってビーネは指を差した。一番前で窓際の席に金髪の黒ギャルが座っている。彼女は白雪小百合、俺の恋人だ。一年の頃彼女はいじめられていたので助けたのだ。それ以来彼女は俺の恋人気取りでくっついてくる。なんというか年の近い妹みたいな感じだ。
 ユリーは振り向くと申し訳なさそうに頭を下げた。
「なんでユリーがお前の席に座っているんだ」
「決まっている。プリンツェッスインを守るためだ。お前みたいな悪い虫からな」
「悪い虫って……。ケンは悪い虫なんかじゃない! 益虫なんだ!!」
 コウちゃんが怒ってフォローしてくれた。結局俺は虫扱いかよ!! ちょっとずれてるよ!!
「ふふん。ボクこそ益虫なのさ。そう名前の通りボクは蜂。ミツバチなのさ。このお尻のようにね」
 そう言ってビーネは立ち上がった。こいつの身体は細身だが、尻だけはミツバチのように大きい。かといって色気があるとは思わないが。
「ボクの使命はプリンツェッスインを守るためさ。そう女王蜂を守る兵隊蜂なのだよ」
 プリンツェッスインとはドイツ語で姫という意味だ。ユリーは日本人ではなく、ヴァイスシュネー公国で生まれたお姫様なのである。あの金髪は地毛であり、肌が黒いのは黒ギャルなら金髪でも誤魔化せるという理由で焼いたのだ。実際校則だと地毛なら金髪でも問題なしなのだが、ユリーは気付かなかったのである。
 ユリーの父親は今年薨去したヴァイスシュネー公国のヘンゼル・アルツナイ前国王である。そして母親は没落貴族のアッシェ・ディーナーであり、彼女も亡くなっていた。
 アッシェはアルツナイ家に使用人として働いていたが、ヘンゼルのお手付きになり身籠った。それを知ったヘンゼルは側室になってくれと頼んだが彼女は断ったのだ。そしてヘンゼルの前から姿を消した。日本なら玉の輿であり喜ぶべきことだが、ヴァイスシュネーでは違ったのである。平民が貴族の側室になったら、その人の恥になると思っているそうだ。
 その後アッシェはユリーの両親にかくまわれ、現国王のグレーテル・アルツナイにより発見された。その時ユリーを出産していたが、もう虫の息だったという。そしてグレーテルの侍女頭であるマギー・シュピーゲルの手配によって、ヘンゼルはアッシェの死に水を取ることができたのだ。
 ビーネはヴァイスシュネー公国の特殊部隊イェーガーに所属している隊員だ。その中でも暗殺と護衛を担当するヘキセンハウスの一員でもある。グレーテルとマギーが将来ユリーの友達として育成したそうだ。でも特殊部隊の人間を友達にするなど、発想がイカレテいると思うのは俺だけではないはずだ。
「おいおい、プリンツェッスインなんて呼ぶな。ここでは白雪小百合なんだ」
 あんまりでかい声でしゃべるので俺は小声で注意した。こいつすごくうっとうしいぞ。以前俺の家に襲撃した時は催眠ガスを使用したり、含み針を使ったりしていた。その上接近戦は異様に強い。女性でありながら骨格の固さが男並みなのだ。しかも手首から針が飛び出る。血液中の鉄分を凝縮させて作るとんでもない力だ。でも戦闘以外に頭が回らないので残念すぎるのが欠点である。
「おっと、それもそうか。日本ではプリンツェッスインは聞きなれないからね。じゃあ姫と……」
 俺は思わずビーネの腹にパンチを喰らわせた。姫と言ったらまずいだろうが!! 女を殴ったのに少しも罪悪感がないのはどういうわけだろうか。寧ろ清々しい気持ちでいっぱいである。
「おおぅ、これが日本で有名な腹パン……。ああ、リョナ好きがボクを見て欲情してしまうじゃないか……。このスケベ♪」
 ビーネは涎を垂らしながら、口元に笑みを浮かべ、親指を立てた。こいつは意外にタフなのである。
「ビー、アリエテさん。白雪さんの席はケンの膝と決まっているんだ。白雪さんは冷え症だからケンに抱きかかえられないと凍って死んでしまうのだよ」
 するとコウちゃんがくそまじめな顔でくそみたいなことを言い出した。違うよ! あれはユリーが勝手にしたことだよ!! 一年の時は授業中によく上級生から呼び出されたけど、その度にユリーが俺に抱きついてイチャラブしたりしたの
だ。そのおかげで上級生は毒気を抜かれて去ってしまうのである。
 ユリーなりの防衛策なのだ。俺は血気が多いのでユリーは俺に手出しをさせないように、抱きつくのである。そのくせキスをしたり、それ以上のことはしたことはない。抱きつくたびにユリーの顔は赤くなるので、愛しいと思ったことはある。
 ユリーの顔を見たが、顔を赤くしただけで反論はしなかった。むしろ微笑んでいたよ。うわっ、否定しないのか!! そこは否定しろよ。お前も俺に抱きかかえられないと死んじゃうみたいな扱いにされるんだぞ!!
「へぇ、そうなんだ。ボクも冷え性だよ。でも我慢することを覚えないとね。本国にいた時はよくKSKの訓練に参加させてもらっていたよ。パラシュート訓練とか、スノーモービルの運転とかやってた。すごく寒かったよ」
 ちなみにKSKとはドイツ陸軍の特殊部隊の名称だ。つーか普通の女子高生はパラシュート訓練とかスノーモービルの運転はしないぞ。
 だがクラスメイトたちは知らんぷりしている。真面目で優等生な生徒がほとんどの雷丸学園では俺たちのような生徒は異質なのだ。無視するに限るのである。ビーネは普段俺たち以外と接点がないのだ。そりゃそうだ、鬱陶しい性格なので誰も寄りつかないのである。
 するとチャイムが鳴った。俺はビーネに自分の席に戻れと促し、しぶしぶ戻らせた。そして俺の隣にユリーが座る。
「ごめんね。ビーネさんが私を守るんだってきかなかったから……」
 ユリーはすっかりしおらしくなっていた。本当はこの姿が正しいのである。普段はギャルっぽいしゃべり方なのだが、無理して演じているのだ。
「いいさ。どうせあいつが強引に押し付けたんだろう。うざい奴だ」
「うざいだなんて……。彼女は、彼女なりに私を思ってくれていたわけだし……」
 ビーネの悪口が言えず、もじもじしている。やっぱりかわいいなユリーは。ビーネはこちらに振り向き笑顔を見せている。歯をむき出しにして、目を見開いていた。鼻の穴が開いている。
 うざい。同じ女の子の笑顔でも癒すものと胸糞悪くなるものがあるのだなと思った。
「そしてコウちゃんもかわいいんだよな。そう、思わずベッドの中に連れ込みたくなるような」
 そうそう今朝もコウちゃんをベッドの中に……、って、あるわけないだろ!! 誰だ、俺の耳元に話しかけたのは!!
「ふふ〜ん。今日も元気そうだね〜、猿神く〜ん? 恋人がいっぱいできてよかったじゃないか」
 俺の横に声をかけたのは女性教師だ。年齢は二十代後半で、モデルのようにすらっとした長身に、鴉の羽のようにきらきらした黒い髪で、前髪はきっちり切りそろえており、黒いマントのように腰まで伸びていた。
 瀬戸物の人形のような顔で縁なしメガネをかけている。そして水色のスーツに白衣を身にまとっていた。こいつこそが俺たちの担任教師で化学を担当する、大槻愛子である。あだ名が教授なのは昔テレビで流行った大槻教授からつけられたものだ。俺は世代が違うからよくわからないが、大槻と言えば教授というイメージはある。それに本人も教授の資格があるので的外れではないが。
「おはよう皆の衆〜♪ 今日もお勉強をがんばりましょうね〜、そして影でこそこそライバルの足を引っ張りましょう〜♪ 毒の盛り方から暗器の使い方まで教えちゃいますよん」
 とんでもないことをいう教師だ。とても教師の台詞とは思えない。かといって授業の教え方はうまく、科学の成績が全国平均を超えているのだ。俺も化学は興味がなかったが、教授のおかげで成績は良くなっていた。
「そうそう、今日は新任教師を紹介しま〜す。まあ美術担当なので受験大好きなみんなにはどうでもいい人だけどね〜。うっしっし」
 厭らしい笑みだ。よくもまあ人の神経を逆なでする笑い方ができるものである。PTAに抗議がないのが不思議だが、実は教授の家には公然の秘密があり、学校の教師でもなかなか手に出せないのだ。もっとも本人がそれを武器にしたことはなく、周りの大人が勝手に怯えているだけなのだが。
 新任教師か。もちろんこの学校にふさわしい教師だろう。ここの教師はなぜか有能な教師が多い。全国的に有名な教師が集まってくるのだ。それにはあるからくりがあるのだが、それは後にする。
 美術教師なら有名な美大出身かもしれない。人は国立大の肩書に弱い。キャリアなら偉いと思い込む風習のせいだろうな。
「で、入ってきてください。どうぞ〜」
 そう言って教室に入ってきたのは一人の男であった。すらりとした長身でまるでオオカミ、いいやシェパードが二本足で威嚇するような感じがした。髪の毛は黒く癖毛なのかまさに狼と言った容貌である。
 顔つきは平凡なのだが、どこか凄みを感じる。目つきが尋常ではないのだ。静かだが獲物を監視するような目だ。手をよく見ると、岩のようにごつごつしており、美術の教師には見えなかった。
「今年都或(とある)美大を卒業した牧野羊介(まきの・ようすけ)と言います。年齢は三五歳で独身です。よろしくお願いいたします」
 そう言って牧野は頭を下げた。まるで事前に覚えた文句をそのまま読んだ感じである。俺は思わず前の席に座っているコウちゃんに声をかけた。
「なあ、コウちゃん。あいつをどう思う?」
「あいつって、牧野先生の事? いきなり先生をあいつ呼ばわりするのはどうかと思うけど……」
「いやいや、そうじゃないんだ。コウちゃんから見て、あいつ、いや、牧野先生はどう映るか教えてほしいんだよ」
「ああ、そういうこと。そうだね。牧野先生は歴戦の傭兵だよ」
 コウちゃんがあまりにさらっと言ったので俺は耳を疑った。歴戦の傭兵だと? なんでそんなことがわかるんだ?
「僕は世界中を回って、いろんな職業の人と出会ったからね。牧野先生は傭兵で軍人じゃない。軍人なら規則正しい生活をしているから、身だしなみもきちんとしているけど、牧野先生は違う。軍人は軍律を守ることで戦争を正当化するんだ。でも傭兵は金のために戦う。もちろん命は惜しいから常に周辺の気を配るからね」
 なるほどな。実際に見たからわかるんだ。納得だぜ。
 だが歴戦の傭兵が何で高校の教師になったのだろうか。まあ、この学校はトンデモ学校だ。どんな人種が来たからと言って驚いていては務まらない。
 もっとも俺と牧野にはとてつもない因縁があり、そして大事件につながるなど思いもよらなかったんだ。それは俺の忌々しい過去の扉をこじ開けることになるとは想像しなかったのである。
 
『第二話:水端』

 目を開くと闇が見えた。見回しても闇しか見えない。
 風景も空の色も、土の色すら闇一色であった。
 音は全く聞こえなかった。風すらも吹かない無の世界だ。寒くもなく、暑くもない不思議な世界。
 不安だ。とても不安になる。いったいどこに自分がいるのかわからなくなった。
 そんな中にポツリと火が灯った。それは松明の火ではない。なんとなく不安になる火だ。
 近付くとそれが木造の屋敷であることがわかる。それが紅蓮の炎に包まれているのだ。
 バチバチと木が焼ける音と、火の粉が闇の中を漂っていた。
 そして縁側に白い着物を着た老人が立っていた。
 真っ白な総髪で、青白い肌をしている。まるで幽鬼だ。目をギョロギョロさせ、睨み付けた。それが後ろの炎に照らされ、鬼気迫るものがあった。鬼哭をあげている。
 いつの間にか老人の周りに自動拳銃を持った兵士たちで囲まれていた。全員軍人のような格好をしている。
 さらに兵士たちの足元には死体が転がっている。すべて忍び装束を着ていた。そしてどれも年寄であり、目を見開き、口を大きく開けて血を流して死んでいる。
 それを見ても何も感じない。「ああ、死体が転がっているな」としか思わなかった。そう死が日常のように感じられたのである。
「イヒヒヒヒッ!! 許さん、お前ら許さんぞぉ!!」
 老人は歌うように叫ぶ。両腕を大きく広げ、黄ばんだ歯をむき出しにしながら、げらげら笑っていた。その笑いは人の心を冷やす不愉快なものである。
 身体を回転させ、背中を向けた。そして素早く蟹歩きしながら、また回転させる。そして反対方向に走り、バンと高く飛んだ。まるで狂言のように踊りまくっている。
「――は、もうおしまいじゃ!! お前らのせいで滅んでしまったのじゃあ!!」
 兵士たちはでたらめに踊る老人に銃口を向けつつ、黙って見ていた。彼らは動かない。まるで石像のようだ。
「復讐だ!! 復讐してやる!! お前ら罪人の血筋をひとり残さず根絶やしにしてやるぞ!! ウッヒャッヒャア!!」
 バババババ!!
 兵士たちは一斉に老人を蜂の巣にした。胸元は肌蹴て血まみれになる。目が飛び出さんばかりにむき出し、口を大きく開き、ケチャップのように血を垂れ流す。
「ウゴッホォ!! 呪われろォ!! 拳太郎!!」

 *

「ヒヤァァァァ!!」
 俺は起き上がった。悪夢だった。動画サイトで見た暗黒太極拳みたいな夢である。ちなみに暗黒太極拳とは俺が生まれる前に発売された恋愛シミュレーションゲームのオープニングアニメのことだ。暗闇の中で美少女が太極拳を踊っており、首を傾げた。
 まったく変な夢だった。寝汗でびっしょりになっている。蜂の巣にされたあのじいさん、俺は見たことがないし、出会ったこともない。ただしあのじいさんには嫌悪感が湧く。殺されても害虫が潰れたくらいにしか感じなかった。俺は嫌いな奴はなるべく無視している。人が死んで喜ぶなと母親にしつけられてきたからだ。それなのにあのじいさんが殺されたとき爽快感が湧いた。不思議なことである。
 最後、あの爺さんは俺の名前を叫んだ。恨みの籠った声である。一体あいつは何者だろうか。俺は額の汗をぬぐった。夏服のワイシャツはすでに汗まみれだ。
確か今は授業中だ。普段は居眠りなどしないのだが、知らないうちにうとうとしてしまったらしい。
「よ〜。猿神君、今お目覚めかな〜?」
 それは女性の声であった。一体どこから聞こえてくるのかと首を回した。
「ここよ〜、ここ、ここ。ここなのよ〜♪」
 それは俺の目の前にあった。俺の机の前に別の机が置かれてあり、そこに女性がM字開闢していたのだ。ストッキング越しのパンツは丸見えである。そして両手で親指を下に向けていた。
 こいつは俺の担任である大槻愛子。あだ名は教授である。
「なんだ猿神。少しは驚きなさいよ。せっかく丸尾の机を使って、サービスしてあげたのに」
 こいつは何をほざいているんだ。誰が驚くか。呆れているだけだ。こんなことしてよくクビにならないのか不思議である。ちなみにコウちゃんはユリーと同じ席に座っている。
「ほう、私のパンツをガン見しておるな。うっふっふ、年下の生徒に見られると感じちゃうね〜。もう体が火照って来たよ。ああん、いっちゃう〜♪」
 そう言って教授は体をくねらせながら、胸を揉みつつ、悶え始めた。
 こいつマジでイラつく。ぶん殴ってやりたい。
 ガバッ!!
 教授の両足が俺の首を素早く挟みやがった。油断した隙を一瞬で突きやがる。だからこいつは侮れない!!
「あ〜ん。私の股間に男子生徒が頭を突っ込まれている〜♪ いや〜ん、すけべ〜♪」
 何が突っ込まれているだ、お前が離さないだけだろう。おそらくクラス中誰も口を出せないだろうな。ユリーは普段は生意気なギャルを演じているが、教授には押されると弱い。コウちゃんは多分教授に言いくるめられて黙っているな。ビーネはどうでもいいと思っていそうだ。
 うぐぐ、苦しい。両足が異様なまでに強く挟みやがる。さらに口を押さえつけられているから息ができない。
 もっ、もうだめだ……。
 俺の目の前は真っ暗になった。

 *

「まったくどうして止めてくれないのかねぇ?」
 今は昼休み。俺は食堂に来ていた。教室の二倍ほどの広さで、長机が十二台ほど置かれており、二台ずつ合わせてある。
 食券は自動販売機で売られている。メニューは豊富で、ラーメンからどんぶり物などがある。この学校にはイスラム教徒が多いので、彼らのためのメニューも用意されていた。
俺は一緒にユリーとコウちゃん、ビーネもいる。四人ともテーブルの前に座っていた。俺は手製の弁当を広げている。納豆に緑黄色サラダ、鳥のささみを入れた高タンパク低カロリーの弁当だ。これはコウちゃんも同じである。
 ユリーはかけうどんで、ビーネはコロッケ蕎麦だ。コロッケ蕎麦は関東にしか売られてないものである。
俺はコウちゃんに嫌味を言った。なんで教授の暴挙を止めなかったのかと。
「ケン、ごめんね。大槻先生にケンのためだからと言われたんだ」
 生徒の頭を授業中に蟹ばさみすることのどこがためになるんだ。だが俺は怒っていない。コウちゃんなら仕方がないことである。コウちゃんの見た目は高校生だが精神年齢は五歳なのだ。知識は豊富でも経験がまったくないのである。これには理由があるが、今は関係ない。
 コウちゃんはしょんぼりしている。悪いのは教授であり、コウちゃんは悪くない。まったく教授はむかつくな。
「あたいもさぁ、一応止めようとしたよ? でもあの野郎、止めたら内申書をどう書かれてもいいのかと脅しやがるんだよね」
 これはユリーだ。生徒が多いところだとギャル口調になる。だがどこかトーンがずれており、演じているのがバレバレだ。けらけら笑い飛ばしているが、内心教授の暴挙を止められなかったことを悔やんでいると思う。だって悲しそうな表情をしているからね。
「ちっ、内申書ならしょうがないな。まったく教授の野郎はむかつくぜ」
「ほーんと、むかつくよねー。えーっへっへっへ!!」
 ユリーは咳き込む。過呼吸だろう。無理して演じているからたまに咳き込むのだ。
「ちなみにボクは止めなかったよ。というか君のことなんかどうでもいいからね」
 これはビーネだ。やっぱりこいつは俺のことなどどうでもいいのである。
「けど、命の危険があったら助けるよ。あくまで個人的に興味がないだけだからね」
「命の危険てどんなことだよ」
「そりゃあ、ギャングがマシンピストルを乱射したり、殺し屋が青龍刀とか暗器を降り回したりしたときさ。ヴァイスシュネーではよく起きていたからさ」
「ねえよ、そんな状況!! つーかお前の母国じゃよくあることなのかよ!!」
 俺は突っ込んだ。まあビーネは特殊部隊に所属しているからな。さっきの例えはまるっきりでたらめではないだろう。もちろんそれは口に出さないけどな。
「……あの、周りの人に迷惑をかけていますよ。声が大きすぎます」
「もう、先輩たち騒ぎすぎですよ。もう少し静かにしてもらえませんかねぇ?」
 俺の後ろから声がした。首だけ振り向くと女子生徒が二人立っている。二人ともトレイを持っていた。
 ひとりはすらりとした長身で、金髪の三つ編みで碧眼だ。眼鏡をかけており、おどおどしている。そのうえ胸がはちきれんばかりに大きい。そのせいで猫背になっていた。
「ああ、ハールか」
「猿神さん違います。私はアンネ・アインデッカーですよ」
 ハールと呼んだ女子生徒は俺に訂正を求める。彼女はハールと言い、三年生だ。ビーネと同じヘキセンハウスに所属している。ハールはコードネームだ。他人の前だけ本名で話せということだろう。
「ちなみにあたしはブリュンヒルデ・シュピーゲルで〜す。ヒルデちゃんと呼んでくださいね」
 こちらは小柄であった。赤い髪にツインテール。そばかすが目立つ少女だ。首にはネックレスを下げており、手首にはブレスレットをはめている。見た目はコギャルに見えるが、こいつもビーネやハールと同じヘキセンハウスのメンバーだ。名前はアプフェルバオムで一年生である。二人ともヴァイスシュネー公国から来た留学生だ。
「つーかお前らの本名を今日初めて聞いた気がするんだが、気のせいだろうか?」
「気のせいですよ。一応転入初日にクラスメイトに自己紹介しました」
「右に同じで〜す。先輩が聴いてないだけじゃないですか〜。猿神のくせに馬耳東風なんですね、あはは」
 アプフェルバオムがさらっと毒づいた。ビーネといい、こいつといい、俺は嫌われているのだろうか。
 アプフェルバオムは俺の隣に座った。横にいたユリーを押しのけてだ。さらにハールが俺を挟むように座りやがった。
「ごめんなさい。白雪さんはとても大切なお方なのです。清い身体を守るように命じられていますので……」
 ハールは小声で申し訳なさそうに謝罪した。こいつは使命で動いているようだ。つーか清い身体ってなんだよ。俺たちは不純異性交遊などしてないぞ。やっぱり外見で疑われているのだろうな。
「あはは♪ ここの学校ってみ〜んな真面目な人ばっかりなんですよね。だから先輩たちみたいな人と話が合うんですよ。あたしたちは白雪先輩とも〜っと仲良くなりたいです。丸尾先輩も一緒にね♪」
「おい、俺は一緒じゃないのかよ」
「ああ?」
 アプフェルバオムは冷たい眼差しを向けた。背筋が凍りつきそうな目つきだ。そして耳元で囁く。
「あたしはお母様の命令で小百合様を守っているのです。あなたが恋人であることは認めません。もし一線を越えたら三途の川を渡ってもらいますよ」
 なんとも底冷えのする声だ。こいつはコギャルの仮面をかぶっている。いざとなればその仮面を脱ぎ去ることも躊躇しないのだ。こいつの母親はマギー・シュピーゲルと言い、ヘキセンハウスのボスだ。母親からユリーを護衛するように言われているのである。ユリーのためなら命を捨てる覚悟があるのだ。
「あはっ♪ 猿神先輩も一緒ですよ。当然じゃないですかぁ♪」
 先ほどの豹変ぶりはまわりの人には気づかない。俺たちのグループだけである。
「へぇ、ヒルデさんたちはケンと仲良しなんだね」
「ヘイ! コウちゃん!! 今のを見て、どうして仲良しに見えるんだよ!! 眼科に行けよ!!」
「え? 僕の視力は七だよ」
「ヘイ! そういう意味じゃないよ! てか視力七なのかよ、すごいな!!」
 アフリカのある部族じゃ、視力が七なのは珍しくないそうだ。つーか、眼鏡は伊達なのかよ。
「ダメですよ〜。みなさん、なかよくしてください〜」
 ハールが立ち上がった。
 その瞬間、顎に衝撃が走った。頭がくらくらしてくる。
 原因はハールの胸だ。彼女の胸が立ち上がった瞬間、俺の顎にヒットしたのだ。
 なんて重さだろうか。彼女はあんな重い物を二つ下げて生活しているのである。
「わわわ〜。ごめんなさい〜!!」
 ハールは頭を下げる。今度は俺の後頭部にバチンと当った。
 目から星が出るかと思ったよ。視界がぐるぐるとまわって気持ち悪い。
 頭を金属バットで殴られたらこんな感覚かもしれない。
「猿神さん〜、大丈夫ですか〜!!」
 ハールは床に倒れた俺を起こすと、ゆさゆさとゆすった。
 その度にハールの爆乳が俺の両頬を叩きまくる。
 やめろぉ、やめてくれぇぇぇ!!
 あんたが心配してくれるたびに、あんたの胸が凶器と化すのだ!!
 ボクシング部の練習でもこれほどのパンチはもらったことがない。
「ちょ、ちょっとハー、アインデッカー先輩、ケンから離れてくれない!? 先輩の胸でケンが死にそうだよ!!」
 ユリーが俺とハールを引きはがしてくれた。ビーネとアプフェルバオムは何もしない。ニヤニヤ笑って眺めているだけだ。ハールは俺に対して含むものはないだろう。だが天然で俺に対して好意を示しても、それが悪い方に向かうのだろうな。
 ハールは謝ろうとしたが、ユリーが遮った。これ以上こいつの胸でなぐられるのはごめんだ。ハールを席につかせ、俺も席に戻る。そして食事を再開した。
 ハールとアプフェルバオムも食事を始めた。なんかコロッケみたいなものを食べている。
「ポテトパンケーキだね。北欧や東欧でよく作られる料理だよ。すりおろしたジャガイモを生地にフライパンで焼くのさ」
 説明をしたのはユリーだ。
「ここの食堂はドイツ料理が豊富で驚きました。黒パンは豊富だし、ジャガイモのスープや牛肉の野菜クリーム煮もあります。日本の学食はすごいですね」
 ハールは感心していた。すごいのはここの学食だ。ここにはセッル共和国という中近東から来た留学生が大勢いる。彼らの国の料理が格安で食べられるのだ。郷に入らずは郷に従えというが、留学生の為に学食を変更するのも珍しいと思う。
「それはともかく、今日新しく来た先生はどういう人でした?」
 アプフェルバオムが話題を変えた。新任教師の牧野羊介のことを言っているのだ。
「……」
 俺とコウちゃん、ユリーとビーネは黙っていた。
「えーっと、どうして黙っているのですか?」
 ハールが重くなった空気に耐えられず、恐る恐る訊ねた。
 だが答えることはできなかった。その新任教師は普通じゃなかったからだ。

 *
 
 午前中の美術の授業は人物画だった。木炭を使ったデッサンだ。木製のイーゼルに画板、そして木炭紙を配われた。
モデルは俺にされた。牧野が適当に俺を選んだのである。別に断る理由もないので、俺はしぶしぶ椅子に座り、じっとしていた。俺は待つことが得意だからだ。その理由はまだ話せない。
 牧野は俺に握手をした後、デッサンを始めた。生徒の指導は一切していない。
「モデルを忠実に描け。デッサンに個性はいらない。基本は大事だ」
 それだけ言ってデッサンに夢中になった。コウちゃんやユリー、ビーネもデッサンに勤しんでいる。
 他の生徒はやる気がなさそうにデッサンをしていた。この学校にとって美術などは息抜きみたいなものだからだ。
 暑い。額から汗が流れた。季節は夏である。夏服を着ていても暑さを防げない。窓は開いているが、風がろくに吹かないので意味がなかった。
 俺は動かなかった。クラスメイト達はちらりと時折覗きながらデッサンを進めていく。
 こちこちと時計の針の音だけが響いていた。
 俺は牧野の方を見た。牧野は一切俺の方を見ていない。がりがりと絵を描いている。時々食パンで修正していた。木炭デッサンでは食パンは消しゴム替わりなのだ。
 背中が汗でじわりと濡れている。喉が渇いてきたな。休憩とか入れないのだろうか。
 俺はまた牧野の方を見る。奴はまったく俺の方を見ないし、画板の前を動かない。
 そうこうしているうちに時間が経った。
「よし。今日は終わりだ。後始末をしておけ……」
 牧野はやる気がなさそうに答える。まあ進学校で美術など評価にならないのだろうな。
「ごくろうさん、ケン。ほら」
 ユリーがスポーツドリンクをくれた。ポケットに入れたままになっているから、ぬるくなっている。でもありがたいので飲んだ。
「そうそう、ケンの顔だよ。ほれ」
 そう言ってユリーは木炭紙を向ける。なかなかうまく描かれているが、なぜか顎がとんがっていた。
「なんで顎がとんがっているの?」
 コウちゃんがユリーに訊ねた。
「BLでは結構多いんだよ。コウちゃんのはどう?」
「はい」
 コウちゃんは木炭紙を差し出した。そこには写実的に描かれた俺の顔がある。
 なんというか没個性的だ。いやデッサンに個性はいらないから正しいのだが。
 そもそもコウちゃんはあまり美術が得意じゃない。写生は得意だが、想像力が欠けているのだ。
「へへぇ、似ているねぇ。すっごくうまいよ」
「ふふん。今度はボクのほうを見てよ」
 今度はビーネが木炭紙を差し出した。それを見て、俺たちは絶句した。
 なんというか芸術になっていたのだ。目がでかく、鼻がひん曲がり、口は歯をむき出しだ。それが全体的にゆがんでいるのである。
「いや〜、ものすごく上手に描けたよ。最高傑作だね」
 これが最高傑作だと!? こいつの脳内はどうなっているんだ? それにどうしてこんなに自信満々なのかさっぱりだよ。
「へぇ、すごく上手だね。意外な才能だよ」
「えーっと、ホント、個性的だねぇ……。あは、あはは……」
 コウちゃんは感心していたが、ユリーは苦笑いを浮かべている。ギャル口調でも人の悪口は言えないのだ。言っても後で自己嫌悪に陥るのである。
 俺はふと牧野のイーゼルに目に入った。あいつは俺をちらっと見ただけであとは画板にかぶりついていたのだ。いったいどういう出来になったのか興味本位で覗いてみた。
 それを見た瞬間、俺は唖然となった。
 木炭で描かれた俺は裸なのだ。全身を入れており、一糸まとわない姿で座っている。
「ははは、猿神の裸を妄想して描いたんだな」
 ビーネが笑いながら言った。俺としては笑い事ではなかった。
 冗談だろう……。なぜあいつは俺の身体を正確に描けたのだろうか?
 腕はともかく、胸や腹回りに足はまるで実際に見て描いたようであった。
 俺は夕食後に筋力トレーニングをする。その際鏡に向かってシャドウボクシングをしたりするのだ。だから自分の身体をよく知っているのである。
 牧野は俺のことを一瞬しか見ていなかった。あとは握手をした程度だが、ここまで正確に描けるなんて信じられない。
「すごいな。ケンの身体を正確に描いている。さすが美大出身だね」
 コウちゃんが感心したように言った。美大だからなんだというのだ。
「美大は解剖学を講義するんだ。ルネッサンス時代のイタリアで、画家たちが人体解剖に関わっていたんだよ。かの天才画家レオナルド・ダ・ヴィンチも解剖学者として活躍していたんだ。人体の筋肉の凸凹をよく知るために、画家たちは解剖学の基礎を必要としたのさ」
 それは意外である。てっきり解剖学は医者の専門だと思っていた。だがそれでも牧野はちらっと見ただけだ。それだけでこれほどの物が描けるとは思えない。
 あいつには何か秘密がある。そんな気がした。

 *

「へえ。すごいですねぇ」
「ほんとですね〜。私も見てみたかったです〜」
 ハールは小声で、アプフェルバオムはわざとらしく感動した。二人も牧野が怪しいと思っているのだろう。俺に対する態度はさておき、仕事に関しては真剣なのである。
「すごかないさ。俺の裸のデッサンなんぞ見ても面白くもなんともない」
「そうですね。先輩の裸なんかこちらから願い下げです」
「はっ、はっ、裸ですか!? わっ、わたしは、その、男の人の、はっ、裸に、きょ、興味は……」
 ハールが一番テンパっている。裸と言ったってデッサン画なのだから赤くなる必要はないだろうに。こいつは以前ユリーの部屋に忍び込み、天井に潜んでいた。自分の髪の毛を蜘蛛の巣のように張り巡らせ、そこでユリーが帰ってくるのを待っていたそうだ。
 その後、ユリーは身の危険を感じて逃げ出した。そして電線の上を走って追いかけたという。とても普通じゃない行為だが、今のこいつを見るととても特殊部隊の人間とは思えなかった。
「落ち着け」
 ビーネがハールの頭をチョップした。ハールの目から星が飛び出た気がする。目を回すハールに俺たちは呆れ顔になっていた。
「お前ら。何を騒いでいるんだ?」
 背後から声がした。野太い男の声だ。後ろを振り向くと男子生徒が五人立っている。
 一目で不良と分かる服装だった。中央の男はさらに別格である。
 小岩のような男だ。頭は丸刈りで丸い目に団子鼻、分厚い唇である。肌が浅黒く、首は太い。両手は黒い皮手袋をはめている。
 この学園の生徒会役員で、副会長の乙戸帝治先輩である。後ろにいるのは生徒会執行委員で、乙戸の部下だ。こいつらは学園を我が物顔で闊歩している連中なのである。
「ヘイ! 俺たちは仲良くお昼のランチタイムだよ。何しろ同じ風紀委員だからね」
 そう俺たち六人は風紀委員会に所属しているのである。俺は二年の時に教授に無理やり入会させられたのだ。教授は風紀委員会の顧問なのである。
「ふん。風紀委員はどうでもいいさ。問題は転校生と仲良く食事をしていることだ。俺は前に言ったはずだぞ。あまり転校生と関わるなとな」
「へイ、そうですか。その割には留学生さんたちに何も言わないのはどうしてですかね? 
なんで転校生だけ差別をするのか、わかりませんや」
 俺はわざとおどけた口調で言った。すると乙戸先輩は怒鳴り声をあげる。
「うるさい!! そんなことはどうでもいいんだ!! いいか、転校生は我が校にとって害虫だ! 身体を腐らせる寄生虫なんだよ! われわれは転校生を認めない! 転校生に手を貸すものは裏切り者だ、この学園の敵なんだよ!」
 めちゃくちゃな理論だ。普通の人なら頭がおかしいと思うだろう。
 だがこの雷丸学園ではそれが正しいのである。おそらく周りの生徒たちも同じ気持ちだろう。知らないのはコウちゃんや最近来た留学生くらいだ。だが俺は逆らった。わかっちゃいるけどやめられないのである。
「ヘイヘイヘイ!! 俺が誰と飯を食おうが勝手だろう? 第一あんたらにとって俺は敵だ。なら敵同士仲良くするのは自然だろう? まあ、仲間を暴力で押さえつけているあんたに言われたくないわな」
 乙戸先輩がやれやれと首を振った。実際俺の言ったこととは逆に乙戸先輩たちの横の繋がりは太い。士気が高いのだ。乙戸先輩の目には俺が駄々っ子に見えるだろうな。
「なんだとぉ……。てめぇ、俺様をバカにするつもりかよ……。食堂だからって遠慮する俺だと思っているのか……」
 乙戸先輩はどすの利いた声を上げる。どこか芝居臭いが、迫力があるので気づきにくい。
「ヘイヘイヘイ!! 俺だって遠慮はしませんぜ。俺には失うものはない。退学になってもかまいやしやせん。それとも後輩が怖くて尻尾を巻きますか?」
 俺は立ち上がろうとした。だがユリーがアプフェルバオムを押しのけて、いきなり俺に抱きついた。
「んも〜、ケンたら、あたいを無視するなんて許せな〜い。ほ〜ら、あ〜んして、あ〜ん」
 そういってユリーは俺の弁当から鶏のささみを差し出した。俺はそれを口に頬張る。うん。今日のささみは胡椒が効きすぎているな。
 隣でハールは口に手を当てて、赤面していた。あまりに破廉恥な行為に目がくらくらしているようだ。
「おいし〜? ならあたいにも食べさせてよ。ほら、お口を開けるから、はい、あ〜ん」
 ユリーは口を大きく開く。早くしてとせがむので、俺はユリーのうどんを箸でつまみ、食べさせてやった。ユリーは口を開けて麺を啜る。
「あはっ、おいしい♪ やっぱりケンが食べさせてくれるのが一番おいしいや♪」
 ユリーが甘えてくるので、乙戸先輩たちは毒気を抜かれた様子だった。乙戸先輩たちは呆れたように首を振り、俺たちに背を向けた。
「また女に助けられたな」
 乙戸先輩がぼそりとつぶやいた。その言葉は俺の心を突き刺す。
「あまり調子に乗らないことだ。風紀委員会などいつでも潰すことができるからな。おい、いくぞ」
 乙戸先輩は執行委員の面々を引き連れた。
「そうだ忠告してやろう。今日来た新任教師の牧野先生だが、手を出さないことだ。出せば火傷では済まなくなるぞ」
 そう言い残して乙戸先輩たちは立ち去った。執行委員たちは食堂を出るまで、俺たちから目を離さずにいた。
「せんぱ〜い。あの人なんなんですか〜? もうすごく感じワル〜。食事が終わったら風紀委員室に行きましょうよ。今日はお昼に会議があるって言ってましたし〜」
 俺に抱きつくユリーを引きはがしながら、アプフェルバオムが言った。
「つーか、転校生が嫌いってどういう意味なのかな? それにあいつらただものじゃない雰囲気を感じたよ」
 ビーネが冷や汗を垂らしながら言った。こいつは乙戸先輩や執行委員たちの実力を肌で感じ取っていたのだ。乙戸先輩たちは俺たちに背を向けても決して気を緩めていなかった。箸を投げようと思っても隙が全く見つからなかったのだ。
「そういえば僕も転校初日に言われたよ。でもどうしてここの人たちは転校生を嫌うのかな。僕にはわからないよ」
 コウちゃんも同じ気持ちのようだ。コウちゃん自身俺たち以外の生徒が転校生を嫌っている、というより、恐れている空気を感じ取ったのだろう。わざわざ転校生に近づくのは、俺やユリーのようにあえて危険な道を歩む奴しかいない。
「まあその話は風紀委員室でしようじゃないか」
 この話は人前でするものではない。関係者以外にしか話すべきではないと思う。
「そうですね〜。早く食べちゃいましょう。それに……」
 アプフェルバオムは俺の耳にささやいた。
(あとでゆっくりふたりでお話ししますよ。小百合様に抱きつかれるとはどういうことでしょうか)
 アプフェルバオムの目が座っていた。滅茶苦茶怖い。こいつはユリーのことになると激昂しやすくなるのだな。
 俺はうんざりした。

『第三話:掩撃(えんげき)』

 朝食を終えた俺たちは風紀委員室に向かった。風紀委員室は校舎の外にあり、粗末なプレハブ小屋で、日当たりが悪い場所に建てられている。元々二年前まで風紀委員会など存在しなかったのだが、市松水守(いちまつ・みもり)という先輩が立ち上げたという。小屋の方は二年前に校舎の改装工事のために建築業者によって建てられたものだそうだ。それを市松先輩が買い取り、風紀委員室にしてしまったのである。
 学校側はもちろんだが、生徒会のほうはあっさりと認めたそうだ。むしろ張り合う好敵手がいた方がいいという理由があったらしい。まったく俺には理解できない世界だよ。
 さて扉を開けると、中には長机にパイプ椅子やホワイトボード、本棚に食器棚、電気ポットなどが目についた。そしてパイプ椅子に座って重箱三段重ねの弁当を食べている女子生徒らしい人がいる。
 女子生徒らしいというのは、彼女が高校生に見えないのだ。身長は一五〇と小学生並みの高さなのである。黒髪で前髪はパッツン、腰まで伸びており、人形のような顔立ちである。逆に人間としての温かみを感じられないともいえるな。
「あなたたち。ノックもしないで入室するのは失礼ですよ」
 それはカン高い声であった。例えるならヘリウムガスを吸った後の声に似ている。もしくは声変りをしていない小学生の声と言っても過言ではないだろう。
 彼女こそ、俺たちの先輩で、風紀委員長でもある市松水守先輩なのである。
 俺は市松先輩の声を聞いて噴き出しそうになる。なんというか声優の金田朋子みたいな性質なのだ。
「猿神君。何かおかしいことでもあったのですか?」
 市松先輩が質問するたびに笑いが込み上げてきた。でもうっかり笑ってはいけない。先輩を侮辱して生き延びてきた者はいないのだ。
「えっと、その……。実は今日猿神君のお母さんが帰ってくる日なんですよ。だから嬉しくて笑いがこぼれたんです!!」
 ユリーが慌てて補ってくれた。今日俺の母親が家に帰ってくるのは本当だ。だがそれだと俺が母親に乳離れができてないと思われるじゃないか。
「まあ、猿神君は乳離れができませんのね。わたくしもちちばなれ、お父様に離れないので他人事ではありませんが」
 そういって市松先輩は弁当を食べていた。よく小さな体でそこまで入る物だと感心する。
「はっはっは。偉大なる父親を持つ子は苦労するでござるな」
 男の声がした。それは市松先輩の向かい側に座っている。
 容姿はすらりとした身長で物腰柔らかな雰囲気がある。頭は丸刈りだが色は金だ。顔付はギリシャの彫刻みたいに整っている。
「まあトビーアス先輩。おはようございます」
 ユリーは頭を下げて挨拶をした。トビーアスと呼ばれた男はユリーの従兄に当る人だ。彼はヴァイスシュネー公国のルドルフ・アルツナイ将軍の息子である。そしてユリーの父親ルドルフの甥でもあるのだ。丸刈りなのはユリーに関する事件があり、そのけじめを取るためである。
 そのトビーアスはパイプ椅子の上に座布団を敷いて正座していた。そして湯呑みでお茶を飲んでいる。
「よう小百合殿。おはようでござる。今日も一段と美しゅうござるな」
 トビーアスは笑顔を浮かべながらお茶を飲む。
「ねぇねぇ! トビーアス様。ボクはどうですか!」
 後ろからビーネが手を挙げて訊いてきた。トビーアスは顔をしかめながら、
「ビーネは今日もうっとうしいでござるな」
「えへへ〜。そんな褒めすぎですよ〜」
 トビーアスの嫌味をビーネは好意的に受け止めた。こいつの耳はどうなっているのか。
「褒めていないと思うけど……。あ、トビーアス様。私はいかがでしょうか?」
 ビーネに突っ込みを入れながらも、ハールはおどおどとしながら前に出て訴える。
「うむ。ハールは今日も挙動不審じゃな。せっかくの美貌が台無しでござる」
「はっ、はい!! 以後気を付けます!!」
 ハールは深く頭を下げた。それをアプフェルバオムが呆れ顔でつぶやく。
「まったく誰も褒めていないのに、感悦するなんて……。めでたい頭ですわね」
「アプフェルバオム。今日もお前の毒舌が冴えるな。だが身内ならともかく、余所ではひかえるのだぞ」
「申し訳ございません。以後気を付けます」
 アプフェルバオムは丁寧にお辞儀をした。なんなんだこいつらは。
「市松先輩、まだ昼食が終わってなかったのですね。失礼しました」
 こちらはコウちゃんだ。ぺこっと頭を下げる。なんか頭を下げるバーゲンセールみたいだ。
「いいえ。構いませんわ。わたくしは食すのに時間がかかりますの。もう少しで食べ終わりますので、みなさんは椅子に座ってお茶でも飲んでください」
 そう言われて俺たちは席に座る。俺とユリー、コウちゃんは市松先輩側で、残りはトビーアス側に座った。
「うむ。お茶は拙者が淹れよう。なーに、Tパックのお茶だ。拙者でも簡単にできる」
 そう言ってトビーアスは立ち上がり、人数分の湯飲みを用意するとお茶を入れ始めた。アプフェルバオムは止めようとしたが、トビーアスに押し切られてしまう。穏やかな雰囲気に俺は最初にあった頃のことを思い出す。
 トビーアスはぼっちゃん狩りで牛乳瓶の蓋みたいな眼鏡をかけた、バカボンみたいな男だったのだ。ユリーを一度誘拐したのである。ユリーがいると父親であるルドルフ将軍が王位に就けない。だから自分がユリーを誘拐し、抹殺すると宣言した。
 その時のトビーアスの態度は目に余るものがあった。わがままで苦労知らずの暴君だったよ。俺に殴られるまで、必死に権力を盾に泣きわめいていたんだ。
 もう海外アニメのアドベンチャータイムのレモングラブ伯爵並にいかれていた。
ぶん殴った時の爽快感はたまらなかったね。だが俺のお咎めはなしだった。小国とはいえ、一国の王子を殴ったのだ。何か罰則があると思っていたのに、何もなし。
 反対に自分を止めてくれてありがとうと礼を言われる始末だった。
「こうして見ると、とてもユリーを攫った卑劣漢とは程遠いんだよな」
 俺の何気ないつぶやきに、アプフェルバオムが立ち上がり、烈火のごとく怒りだした。
「当たり前です!! トビーアス様は実直で、ルドルフ様には陰日向となって助けていたのです。誠直なこころの持ち主で、克明な方なのです。猿の分際でトビーアス様を非難することなど許しませんよ!!」
「これ、アプフェルバオム。人のことを猿とは呼んではいけない。きちんとニホンザルと区別をつけるでござる」
 いや、叱るところが違うだろ。人を猿呼ばわりするのが問題じゃないか。
「猿の種類は豊富でござる。一括りに猿呼ばわりされて愉快になる人はいないでござる。きちんと分別しないとその人に対して無礼でござるよ」
「申し訳ございません。以後猿神先輩はホンドニホンザルと呼ぶことにします」
 ちなみにニホンザルには二種類いて、ホンドザルとヤクザルがいる。俺に近いにはホンドザルのほうだ。って違うだろ!! 結局俺を猿呼ばわりかよ!! トビーアスの方は悪気がないから余計たちが悪いぞ!!
「あの、猿神君を猿呼ばわりしないでください。その……、私の恋人なんですから」
 ユリーが赤面しながら擁護してくれた。うん、かわいいな。ユリーは。
「まあ小百合様は慎ましいですわね。大方猿神先輩に調教されて三猿を叩き込まれたのでしょう。所謂都合の悪いことは見猿聞か猿言わ猿ですわ」
 アプフェルバオムは毒を吐いた。俺を睨みつける目はリンゴアイスのように冷たい。何が調教だ。俺がユリーに調教されているんだよ。おっと、失言だ。こいつは俺のことを徹底的に嫌っているな。ユリーのこともあるが、トビーアスの件も心証を悪くしたようだ。ちなみに当時のトビーアスは洗脳されており、俺に殴られたおかげで戻ったのである。
「それはそうと今日は会議があるんですよね。いったい何の会議なんですか」
 これはコウちゃんだ。これ以上猿の話で盛り上がるわけにはいかない。ちょうど市松先輩も食べ終わっていた。
「はい。明日の朝に遅刻チェックを行います。各自早めに登校するように、あとは他の生徒たちの模範となるべく、規則正しい生活を……」
 俺の目の前でハールがあやとりをして遊んでいた。それも自分の髪の毛で。やまやかわなど簡単なものから始まり、高度な東京タワーなどを作っていた。
「あなた!! 人が話をしているのに遊ぶとはどういうことですか!!」
 市松先輩が怒った。そりゃ怒るわな。でもハールが遊んでいるとは意外だった。ビーネとかやりそうだったのに。
「ボクはそんな遊びはしないよ。遊ぶなら男と一緒さ」
「おっ、男と一緒ですって!!」
 ビーネが火に油を注ぎやがった。市松先輩は猥談が嫌いなので目を血走らせている。
「そうだよ。男と一緒に鬼ごっこやかくれんぼで遊ぶのさ」
 あー、やっぱそんなオチか。市松先輩は目を丸くしてポカンとしていた。
「負けたら、ボクを好きにしていいのさ。だからボクの純潔はとうに……」
 うわー! 何を言っているんだお前は!! そんな話をしたら市松先輩が激高するに決まっているだろう!!
「ごめんなさい!!」
 唐突にハールが謝った。おかげで緊張した空気が一瞬で消えたのだ。ひとまず危機は去ったか。
「私もヘキセンハウスに入る前に養父に暴行されたんです!! きれいな身体じゃないんです!!」
 あやとりの謝罪じゃないのかよ!! しかも養父って、生々しいぞ!! お前も空気を読め!!
「まあ……、そんな経歴があったのですね。ですがもうここには養父はいませんよ。来てもわたくしが守ります」
 逆に市松先輩の怒りが鎮火した。卑猥じゃなく、虐待の話ならきちんとなぐさめてくれるんだな。見直した。
「猛獣みたいな市松先輩を手なずけるなんてすごいね」
 コウちゃんが余計なことを言いやがった。確かに市松先輩は小柄な身体だが身体能力は高い。俺たちが入るまでたった一人で風紀委員の活動をしていたのだ。遅刻者に対しては自慢の投げ縄で一度に五人も捕獲したのを見たことがある。さらに校外に逃げた生徒に対して、あっという間に縄を投げて屋上に駆け上り、ターザンの如く追いついたのだ。その姿はまるで虎の如きである。
 だが市松先輩は優しくコウちゃんをたしなめた。
「あらあら。女性に対して猛獣なんて言葉を使ってはいけませんよ」
「そうそう、市松先輩を猛獣呼ばわりするのはよくないぜ。ちっちゃな猫と言えよ」
 すると市松先輩が睨み付けた。目は血走り、文字通り獲物を狙う猛獣のようになったのだ。
「ちっちゃな? 今なんておっしゃいました? わたくしをちっちゃいですって?」
 そう言って市松先輩は腰から縄を取り出した。先端には十手を結びつけてある。 
 しまった! 先輩にとって身長の話は禁忌だった。その割に猛獣呼ばわりされても怒らないからちょっとずれている。
「うふ、うふふふふ……。最近品性が良くなったと思ったら、上級生に対する礼儀が鳴っていないようですね……。いいでしょう、わたくしがけじめを教えて差し上げますわ」
 うわっ、目が座っている。この状態で市松先輩を説得するのは無理だ。俺は立ち上がり、風紀委員室から逃げ出そうとした。
 だが突然扉が開く。俺はそいつにぶつかり尻餅をついた。前には教授が立っていたのだ。男の俺にぶつかっても身じろぎもしやがらない。
「ん〜? 猿神。おっぱいが恋しいのかな〜?」
 そう言って俺の頭を押さえつける。肉まんのように熱いが顔を押し付けられていい気分になるか。
「うふふ、姉上。よく捕まえてくれました。さて優しく縛って差し上げますわ……」
 俺の身体に市松先輩の縄が複雑に絡まった。俺は蜘蛛の巣に囚われた虫のように縛り上げられる。誰も俺を救うことはできなかったのは仕方がない。

 *

「で、会議の続きをしよう。まず虹七、お前は明日からうちと同じ区内にある象林高校に転入しろ」
 風紀委員会の顧問である大槻愛子こと教授がホワイトボードの前に立っていた。俺はというと縄で縛られ天井から吊るされていた。市松先輩はまだむすっとしている。先輩にとって身長は禁句なのだ。ユリーを始めとした面々は何も言わない。先輩の迫力に口をはさむことができないのである。
 ちなみにトビーアスは「人の嫌がることを言うのはよくないでござる」と黙認している。
「それは花戸さんからの命令ですか?」
「ああ、そうだ。転入と言っても一週間ほどだけだから安心しろ」
 教授に言われてほっとなでおろすコウちゃん。
「ヘイ! そいつは問題があるぜ。同じ区内にある学校だとうちの生徒とかち合うこにとなる。また戻るにしても、なんで簡単に転入できるか疑問を持つ奴が出るぜ」
「あ、問題ないよ。僕が変装すればいいだけの話だから」
 俺の質問にコウちゃんはあっさり答えた。
「僕が女になればいいだけだからね」
「なんのこっちゃ?」
「特性ホルモン注射を打てば、僕の性別は女に変るのさ。そうすれば雷丸学園の人に会ってもばれないでしょう?」
 頭がくらくらしてきた。コウちゃんは普通の身体ではない。遺伝子操作されて生まれたのだ。生まれてから四倍の速度で成長したという。四年で十六歳ほどに成長し、その後は二十歳まで維持されるらしい。その特性ホルモン注射を打てば性別が変わってもおかしくないが、どこかコウちゃんが便利な道具扱いされて不満だ。
「ちなみにその注射は花戸さんが許可しない限り打てない。打つつもりはない。虹七は人間だよ。もちろん組織に所属はしているけどね」
 俺の心を読んだように教授が答えた。こいつはなかなか鋭いとことがある。
「あの、先生。どうしてコウ……、虹七君が象林高校に転入するのでしょうか?」
 ユリーが恐る恐る手を挙げた。それはそうだろう。象林高校は同じ区内にある不良学校だ。昔の雷丸学園と似たり寄ったりな学校である。なぜコウちゃんが潜入捜査しなくてはならないのだろうか。
「それには理由がある。象林高校が今もっとも怪しいからだ。前に白雪が誘拐されたことがあっただろう。その時トビーアスと一緒にいた兵士が象林高校の生徒たちだったことはわかっているな?」
 忘れるわけがない。前にユリーは謎の忍者に誘拐されたのだ。そしてそこにはトビーアスが兵士たちを連れて待っていた。目の前にいる穏やかな表情ではなく、吐き気のする下種な人間だったね。兵士たちは全員機関拳銃を所持していたが、ブレーメンの面々によって一掃されたのだ。
「そういえばブレーメンの奴らはどこにいった?」
 ブレーメンとはヘキセンハウスと同じ系統のグループだ。本来はトビーアスの護衛として付き添っているのだが、彼らはいない。
「別件で動いてもらっている。というか本来はそれが目的なんだ。まあこちらは置いておこう。象林高校の生徒たちは全員洗脳されていた。特殊部隊の技術や知識を植え付けられていたのだ。だが元ある人格はすでに崩壊しており、家族や友人の顔を忘れてしまっている。ある意味殺されたと言ってもいいだろう」
 教授は淡々と答えた。ユリーは少しうつむいている。当然だろう、元ある人格が消えるということはそいつが生きてきた人生がなかったことにされたのだ。家族にとっては十数年過ごしてきた息子が自分たちの顔を覚えていない。これほど残酷なことはないだろう。
 ヘキセンハウスの面々は黙って聞いていた。三人とも目が真剣である。私情と仕事をわきまえているのだろう。
「実は象林高校に関しては前々から不審な点があった。虹七たちは知っていると思うがうちの学校に象林高校の生徒会長魚健鴻助(うおけん・こうすけ)が殴り込みをかけたことを覚えているだろう。あいつらは不良マンガみたいにうちの生徒を脅し、嫌がらせをしている。これをお前たちはどう思うかな?」
 どう思うかと言われてもな。俺は魚健を見たことがあるが、うちの生徒会長である満月陽氷によって撃退されている。しかも喝だけでだ。指一本も使わずに不良を退けたのである。今を思えばなんかやらせに思えるな。生徒会はある意味欺瞞の集まりだ。生徒会長が漫画みたいな学園生活を送るための組織なのである。たぶん魚健もうちの生徒会に雇われたエキストラかなんかだろうな。
「それがエキストラでもなんでもないんだ。生徒会は象林高校の連中とは一切関わりないんだよ」
 俺の心を読んだかのように、代弁する教授。一体どういう意味なんだ。
「生徒会でもなぜ象林高校が難癖をつけるのかわからないんだ。満月に手を出させないのは乙戸の指示さ。下手に関わると学園に迷惑がかかるからな。執行委員の連中も外では絶対に手を出さないのさ」
 なるほどな。だが教授がそれを知っているのはどういうことだろうか? すると教授はポケットから箱のようなものを取り出す。もしかして盗聴器かもしれない。
「それに象林高校には不審なトラックが頻繁に出入りしているんだ。調べたらそいつは生徒の家族が経営している製鉄工場からだった。さらに詳しく調べてみるととんでもないことがわかったのさ」
「とんでもないことってなんですか?」
 コウちゃんが質問する。教授は一瞬黙った。そして口を開く。
「銃火器の密造だよ」
 教授が重々しく答えた。
 銃火器の密造だって? なんでそんな話になるのだろうか。
「これに気付いたのはつい最近なんだ。何しろ工場長すら何を作っていたのかわからなかったからな。その理由がサイコプリンターなのさ」
 サイコプリンターというのは特殊な機械である。人間の脳に一度に大量の情報を刷り込むものだ。だが人間の脳には容量は限界がある。一度に大量の情報を刷り込まれると、元の人格が塗りつぶされる危険があるのだ。トビーアスもサイコプリンターの犠牲になったが、軽度なのですぐに戻れた。
「象林高校の生徒の親が経営する工場はほとんどが霊細だ。従業員は家族だけ。その家族にサイコプリンターをかけて、銃火器の部品を作らせたのさ」
「でも作っている本人が気づかないことがあるのでしょうか?」
 ユリーが訊ねた。
「気づかないことがある。刷り込む情報が、作ったものに疑問を抱かないというものだけならな。さらに従業員以外に秘密を洩らさないと付け足しておけば守られる」
 単純な命令ほど長続きするというからな。なんだか恐ろしい。
「そのことに気付けたのは白雪の事件のおかげさ。白雪を襲った兵士たちが象林高校の生徒であり、その使用した武器の出所が「そのことに気付けたのは白雪の事件と、セッル解放戦線襲撃事件のおかげさ。どちらも使用された銃火器の出所が同じだとわかったんだ」
 セッル解放戦線襲撃事件は前に雷丸学園にそいつらが乗っ取った事件だ。使用されたのはAKというアサルトライフルだった。もっともそいつらもサイコプリンターみたいなもので操られた被害者で、実際はセッル共和国の大使館勤務者だ。本物は本国で逮捕されている。
「もちろん以前から象林高校にスペクター二人を送り出している。だがそいつらはことあるごとに廃人にされてきた。一人目はダンボール箱に詰められて返されたよ。潜入した後の記憶はすべて消されていた。二人目はひどかった。男子生徒なんだが中央公園でフリル付きのメイド服に着替えさせられ、アへ顔ダブルピースをさらしていたんだ。速攻で片づけられたから知らないと思うけどね」
 記憶を消すならともかく、女装でアへ顔ダブルピースはきついな。そいつらがどれほどの実力かは知らないが、人の記憶をあっさり塗り替えるのは恐ろしい。危険な相手だな。
「象林高校で一番妖しいのは二年前に来た新任教師だ。名前は天野瓜生(あまの・うりお)と言って、二〇代後半の男だな。こいつが来てから不良どもがおとなしくなったと報告がある。そしてうちの生徒会とは一切接触がないことも調べがついてる」
 なるほどな。そいつを調べるのがコウちゃんの仕事というわけか。
「あと、お前らに配給する物がある。これだ」
 教授は長机の上に紙袋を置いた。中身はヘアスプレーみたいな缶が数本入っている。
「こいつは防弾スプレーと言ってな。身体に吹きかけると銃弾から守ってくれる優れものなのさ。当ると衝撃で成分が変化し、どろりと赤い血が流れるように見える。さらに血の臭いもしっかり再現されるから、とどめを刺される危険性が低くなる。ただし効き目は一時間で、熱に弱い。さらにナイフみたいに鋭い物には効果がないから気を付けろ」
 なんとも便利なアイテムだな。正直俺は使いたくない。なんとなくだが。
「猿神。こいつはお前にとって必需品だ。常に持っていろよ」
 教授が念を押す。今の俺の気持ちを呼んだのだろうか。
「お前は白雪の事件で銃に撃たれただろう。手術は生徒会にしてもらったからよかったものの、こいつは私の監督不行き届きだ。お前に何かあったらおふくろさんに申し訳が立たぬ」
 教授が真剣な目で言った。肝心の俺は天井につるされたままだけどな。
「ところで猿神は母親に恋人のことは報告したのか?」
「はぁ? そんなもの言うわけないだろう。俺が誰と付き合おうと俺の自由だ」
 俺がきっぱり言い切ると、ユリーの頬が赤くなった。
「言わない方がいいな。たぶんおふくろさんは二人が付き合うことを反対するだろう。何せ似た者同士だからな」
 教授の言葉に俺とユリーは固まった。それは俺にとって痛い言葉なのだ。
「お前らは頭がいい。不良ぶってはいるが、中身は誠実なままだ。自分のことも客観的に見ることができる。だからこそ自分の殻に閉じこもる、誰にも相談せず、自分だけで解決しようとする。一見自立しているように見えて、実際に中身は子供なのさ」
 教授の言葉が胸に突き刺さる。教授の言葉は的を射ていたのだ。教授は普段はちゃらんぽらんだが、時折まじなことを言うから始末に悪い。
「ヘキセンハウスのお前たちは知っているだろう。白雪の場合、どうだった? お前たちの特殊能力に白雪はどうしていたか。冷静だっただろう。だがあまりに動じなさすぎとは思わなかったかな。一般人にしては異様だと感じなかったか?」
 教授に言われて、ヘキセンハウスの面々は顔を曇らせる。
「そう、ですね。私が天井に張り付いていたことに最初から気づいていましたし、その後もアパートの二階からトラックに飛び降りるなど普通ではありませんでした」
「そうだな。猿神の部屋で機械拳銃を突きつけられても平然としていたのは驚きだよ」
「グレーテル様の命令でホテルに連れてきても特に動揺はしていませんでしたし、謎の忍者に襲撃されても同じでしたね。ただグレーテル様の悪趣味な冗談だけ心音が高くなってましたが」
 ヘキセンハウスの面々は特殊部隊の一員だ。そんな彼女らが評価しているからユリーは大したものだろう。いや、異常というべきだろうか。
 俺とユリーの出会いは一年生の時にさかのぼる。当時のユリーは髪を黒く染めていた。クラスメイトがユリーをいじめていたのにむかついたので、いじめっこを三人ぶん殴ってやったんだ。正直学校なんか面白くないので退学になってもよかったんだ。
 てっきり退学になると思いきや、自宅謹慎三日でおしまいになった。その日を境にユリーのいじめがぴたりと止んだ。ユリーも不思議がった。
 いつユリーと付き合いだしたかは覚えていない。いつの間にかユリーがまとわりつくようになったからだ。俺が生徒会、主に乙戸先輩と執行委員に喧嘩を売ろうとすればすぐユリーが抱きついてくるのである。授業中に呼び出されてもユリーが膝の上に乗って甘えてくるのだ。
 そのうちユリーは地毛をさらし、肌を焼いて黒ギャルになった。雑誌やテレビを見て学んだのかギャルっぽいしゃべり方になっていた。そのくせ俺たちは清い仲を貫いてきた。ユリーは泥に塗れた美術品である。下手にいじって価値観を下げることは許されない。
 ユリーはどこか達観した態度だった。自分のことに関心がないみたいなのだ。あの時もユリーは俺と一緒に学校をやめるつもりだったが、説得されたという。
 ユリーは自分が愛されていないと思い込んでいたのだ。それは今の両親が本当の両親ではないからだ。自分見た目が周りとかけ離れていることに悩んでいた。なぜ自分はこの国にいるのか理解できなかったのである。
 理由は本当の親であるヘンゼルの妻、グレーテルの実家の家臣たちがユリーを狙う可能性があったからである。家臣が勝手に暴走し、側室の子供を殺そうとしたためだ。グレーテル本人に嫉妬心はなく、側室は貴族のたしなみとしか思っていない。だが家臣はそれを無視する場合がある。そのためにユリーは日本に預けられたのだ。
「ヘイヘイヘイ!! 俺はともかくユリーをディスるのは許さないぜ!!」
「いやディスってないぞ。本当のことを言ったまでだ。母親ってものは子供と同じ性格の相手は嫌がるものさ。一見相性がよさそうに見えるが実際は同族嫌悪に陥りやすいんだ。うちの親父もそうだった」
 教授と市松先輩は性格がまるっきり違う。俺としては教授の性格が悪すぎるから、市松先輩が潔癖症になったと思っている。
「あと今日赴任してきた新任教師の牧野先生がいただろう。彼は生徒会とはまったく関係ないから安心しろ。では解散!!」
 こうして会議は終わった。じゃあ俺を下ろしてくれ。

 *

 放課後になった。俺とユリー、コウちゃんは掃除当番なので、掃除をしていた。ビーネは用事があるからと言ってさっさと出て行った。
 俺は机を並べている。コウちゃんとユリーはごみを捨てに行った。教室には俺だけがぽつんと残っていた。
「ふう……」
 俺は机を並べ終えて一息ついた。俺の心の中には渦潮のように荒れている。昼休みに風紀委員の会議で教授の言葉でかきまぜられたからだ。
 俺がユリーを放っておけないのは、彼女に俺と同じ臭いを感じたからだ。この世に対して未練がない。釈迦が仏教で死後のことなど関係ないと教えたと言われている。戦国時代で大名が仏教を崇めたのは、死が常に隣りあわせだったからだという。
 以前ユリーと共に中央公園に逃げたことがある。そのとき俺は謎の兵士に銃で撃たれた。だが死を感じたことはなかった。ああ、銃で撃たれた痛みってこんなのかと思ったくらいだ。
「おや、君だけなのか」
 突然声がした。振り向くと教室の入り口に男が立っている。新任教師の牧野だ。両手はズボンのポケットに入れていた。
「あっ、ああ、俺だけだ」
「そうか」
 それで終わった。なんとなく牧野は人間嫌いの印象が強かったので、俺に話しかけたのは意外だった。
 改めて牧野を見るが、どこか目が死んでいる気がする。それに俺はこの男が好きではない。なんとなく近寄りがたいのだ。コウちゃんが傭兵だと言ったからではなく、最初から見た時に言い知れぬ嫌悪感があった。
 美術の時間で一目見ただけで俺の身体を正確にデッサンしたことは驚いてない。俺の周りには超人が多いからあまり珍しいと思わないのだ。
 なぜ平凡な? 学校に赴任してきたのだろうか。そういえば教授がなぜか生徒会との関わりがないことを言っていたな。コウちゃんですら牧野が傭兵だと気付いたのに、教授が気づかないことがあるだろうか。もしかしたらあえて内緒にしたのかもしれない。
「確か猿神君だったね。今君は幸せかい?」
 牧野は唐突に話題を振った。俺が幸せかって? なんとなく話題が切れたから無茶ブリした感じがする。
「幸せ、ねえ……。よくわからないな。そもそも幸せって意味が分からない」
「ほう、なんでわからないのかね?」
「長い人生いろいろなことがあった。俺は母子家庭で父親は俺が生まれる前に死んだそうだ。金を拾ったり、落としたりしたこともある。うまい飯やまずい飯を食べたこともあったな。中学に上がる前に祖父母が亡くなった」
「ふむふむ」
「だが親が死ぬのは当然のことだ。家族と死に別れるのは自然の摂理だろ。それで悲しんだら不幸になるのか? 人生でほんの少しでも不幸があれば幸せじゃないのか? だから幸せの定義がわからないんだな」
 これは俺の正直な感想だ。母子家庭だが、最初からいない人を悲しむ気持ちがない。周りの人は俺のことを可哀そうというが、俺自身はそれが普通だと思っている。
「その通りだ。私も幼い頃に両親を事故で失っている。そしてある団体に育てられた。そこで生活していたら数年後に迎えが来たのだ。だが迎えられた先でなじめなかった。もう私はそこの生活に慣れてしまったからだ。その後紆余曲折があって元の場所へ帰った。まあ四年前に帰国して美術大学に入学したけどな。少なくとも幸せは自分が納得することだと思っている。他人が同情するのは勝手だが、自分の考えを押し付けるのは間違っていると思うな」
 牧野は吐き出すように言った。なんとなくだが共感を覚えたね。俺が満足しているならそれでいいと思っている。
「あれ、牧野先生どうしたんですか?」
「ああ、丸尾、虹七君だったね」
 牧野の後ろからコウちゃんが現れた。ユリーも一緒である。
「アハッ!! ケンたら、まきのんと何話してたのさ〜。まさかあたいを差し置いて女と遊ぶ相談でもしていたわけ〜?」
 ユリーは無理してギャル調に話す。
「……、君は白雪さんだったね。無理してギャルを演じるのは痛々しいね。やめたらどうだい? 周りの生徒たちも、君がなんちゃってギャルとしか思っていないよ」
 牧野がずばりと言いのけた。
「えっと……。あたいはなんちゃってじゃ……、ひゃん!!」
 ユリーが突然驚き声を発した。そして頬を紅潮させ、胸を抑え込む。そしてへたへたと床に腰を落とした。一体何が起きたんだ。
「うむ。ちょっと触れられただけで果てるとはね」
 牧野が何気なくつぶやいた。触っただと!? 牧野はポケットに手を入れたままだ。いったいどうやってユリーに触ったというんだ。
「すごいですね。牧野先生。一瞬で白雪さんの乳首を指で突くなんて」
 コウちゃんが言った。牧野がユリーの乳首を突いただと。俺には全く見えなかった。逆にコウちゃんには牧野の行為が見えていたというのか。やっぱりコウちゃんはすごいな。
「あれ、ケンは怒らないの? 自分の彼女が知らない男に胸を触られたのに」
 コウちゃんの言葉に俺は正気に戻った。そうだ、人の女にセクハラをするなど許せん。ましてや教師が生徒に触れるなど言語道断だ!!
「証拠はあるのか? 白雪と猿神は見ていないのだろう? 触れたと言ったのは丸尾だけだ。その丸尾もお前たちの友達だから、お前らに対して有利な証言をするのは当然だろうな」
 そうだ。実際に証拠はない。俺もユリーもコウちゃんに言われるまで気づかなかったのだ。
「猿神。お前が怒らない理由を教えてやろう。それは彼女に命の危険を感じなかったからだ。もし、俺が殺意をむき出しにしていたら、お前はその身を犠牲にして白雪を守っただろうな。そして自分の命など軽く見ている。違うか?」
 牧野の口調が変わった。俺を呼び捨てにし、私から俺になっている。
 その瞬間、俺の背筋に寒気が走った。まるでライオンのような猛獣に頭をかじられかけた、そんな感覚だった。
 俺の視界が歪んだ。思考の川がせき止められ、氾濫したみたいにごちゃ混ぜになる。
「きぇぇぇぇぇぇ!!」
 知らないうちに俺は右拳を牧野の顔面に向けていた。右ストレートが牧野の鼻を潰そうとした。
 だが当らなかった。俺の右ストレートは空を切る。俺は大振りをしてバランスを失い、こけた。
 牧野は顔を右に軽く曲げただけだった。瞬きもせず、ぎりぎりまで俺の拳を交わしたのである。
 牧野は床に転んだ俺を見てやれやれと首を振る。
「俺がここに来た理由はただひとつ。猿神拳太郎、お前を守るためだ。俺の見ている範囲内で無茶をすることはさせないし、許さない。それとこれだ」
 牧野はポケットから財布を取り出すと、俺に五千円札を渡した。その紙幣には白いボタンが五個乗せている。
「弁償だ。お前のワイシャツのボタンを無理やり取ったからな」
 その言葉に俺はワイシャツに触れた。ボタンがいつの間にか無くなっていたのだ。俺の拳を躱した間にボタンをすべて取ったというのか?
 重要なことを言って、牧野は去った。俺を守るためだって? いったい何のために?
 俺はコウちゃんを見た。コウちゃんは首を横に振る。牧野のことは何も知らないようだ。
「あの、あのね、ケン!!」
 呆然としていた俺にユリーが声をかけた。
「そのボタン、私が縫ってあげるね!!」
 ありがとう。そう気張る必要はないと思うが。
 俺は釈然としないが、校舎を出た。周りはもう部活で残っている生徒くらいしかいない。校庭では野球部や陸上部の面々が走っている。進学校とはいえ勉強ばかりだと就職に弱い。だから部活をしているのだ。ボクシング部は上級生たちが後輩をリンチにして楽しんでいたので、生徒会に潰された。俺がせっかく先輩たちをぶちのめそうとしたのに乙戸先輩が先回りしたのだ。
「ねえ、虹七君が明日転校するなら、今日は私たちで送迎会をやりましょうよ」
 ユリーが提案した。もっともコウちゃんは一週間くらいで帰ってくるが、騒ぐのは悪くない。だがコウちゃんの表情が曇った。
「それはいいけど、今日はケンのお母さんが帰ってくる日じゃないの?」
「必要ない。あいつはいつも気まぐれだ。今日の件もいきなりだからな。放置したって問題はない」
「……でも、お母さんと会えるなら会った方がいいと思うの。いつ会えなくなるかわからないから」
 ユリーが鎮痛した面持ちで言う。自分の過去と照らし合わせているのだろう。
「送迎会と言っても一時間程度で終わらせましょう。今からコンビニでお菓子とジュースを……」
 校門の前に一人の少女が立っていた。短髪で乱れており、目が爛々と光っている。ピンク色のねまきを着た。素足で足がぼろぼろになっている。まるで亡者のような姿だ。通行人もこいつの危なげな雰囲気に道をよけていた。
 こいつは―――!!
 なぜ、こいつがここにいるんだ!?
 その少女は操り人形のように首を動かす。視線は定まっていない。えへえへと笑っている。そして俺の視線が合うと、右手を突き刺してこう言った。
「見つけたぞ!! 加害者をゆるした被害者め!!」

 『第四話 瘋癲(ふうてん)』

「見つけたぞ! 加害者をゆるした被害者め!!」
 そう言って俺に指を差して叫んだのは亡者のような少女だ。俺はこいつを知っている。だがなぜこいつがここにいるのかわからない。そもそもこいつは……。
「いたぞ!!」
「逃がすな、捕まえろ!!」
 男の声がした。二人組で黒縁メガネにマスクをかけ、白衣を着ている。少女に抱きつき、ガムテープで手足を縛り始めたのだ。一見変質者に見えるが彼らは医療関係者である。
「何をする!! 私は悪を糾弾しにきたのだ。こいつは父親を未成年者に殺されたのに、加害者をゆるした大罪人なのだぞ!! 普通犯罪者は一生いじめていい存在なのだ、恨み言を延々と聞かせるべき罪を犯したのだ。それなのに加害者をゆるしたのだ。そんなことがゆるされていいわけがない!!」
 少女は叫んだ。まるでスピーカーのようにがなり立てていた。まったく筋の通らない発言に通行人は呆れている。
「あーはいはい。わかりました。わかりました」
「じゃあ、車に乗ろうねぇ。ほうらこっちだよ」
 二人組の男は少女をずるずると引っ張ると、真っ白なワゴン車に乗せた。病院名は書いてない。書いてはいけない病院なのである。
 少女はそのまま詰め込まれて去って行った。
「……いまのは何?」
 コウちゃんが訊ねる。俺は答えた。
「精神病院の職員だよ」
 赤い夕陽の中、鴉が数羽カァカァと鳴いていた。
「あいつの名前は茨木(いばらぎ)やまめ。俺が住んでいた石川県の金沢市にいたのさ」
 あの女は犯罪被害者だ。母親を少年に殺され、少年は五年以上十年以下の不定期刑に処せられた。父親は判決に不満があり、被害者の会に参加していたのである。
 ちなみに母親は夫が居ながら男と遊び不義を重ねていたのだ。相手は未成年が多く、彼らを脅迫して金を搾り取っていた。そして追い詰められた少年に刺殺されたのである。
 被害者ではあるが、一方で加害者でもあった。加害者の少年は情状酌量の余地があるとして不定期刑になったのだ。
 だが父親は被害者であることを盾にし、加害者の家族を執拗なまでに責め立てた。加害者の両親の人格を徹底的に否定し、土下座や賠償金を要求したのである。少しでもむかつけば加害者の家に落書きをしたり、窓ガラスを割り、車のガラスを割り、タイヤの空気を抜くなどやりたい放題だった。
 もちろん警察に逮捕された。例え犯罪被害者でもそれとこれとは別である。
「それとケンと何の関係があるの?」
「私にはわかる気がするな。その人にとって加害者は一方的にいたぶっていいい存在なのに、ケンのお母さんが加害者をゆるしたらそれが台無しになるからだと思う」
 コウちゃんの問いにユリーが答えた。まさにその通りなのだ。
 茨木の父親は狂っていた。自分が犯罪被害者であることに甘えており、ことあるごとに同情しろと相手に要求するので親戚や友人に見放されていたそうだ。
 おふくろに対し、執拗に加害者をゆるすなと要求し、自分に謝れなど意味不明なことを言い出していた。俺が金沢市に住んでいたときには毎晩のようにスピーカーでおふくろの悪口をいいふらしていたのだ。もちろんおふくろは黙って耐える人ではない。そいつの文句を録音し警察に証拠として訴えたのだ。結果として逮捕されたのである。
刑務所に入れられた後は独房に入れられた。最初は他の受刑者と一緒に労働をしていたが、あまりにうるさくて二四時間ずっと独房に入れられたのである。
 その後、父親は死んだ。おしゃべりできずにストレスが溜まり、脳卒中で死んだのである。
 この話はおふくろから聞いた。そいつがかわいそうだった。最初は犯罪被害者だったのに、なぜか加害者になってしまったのである。ボタンのかけ違いで破滅の道に迷い込んでしまったのだ。おふくろはいつ自分も同じようになるかもしれないと、忠告していた。
 さてそうこうしているうちに寮に帰ってきた。途中コンビニでお菓子や飲み物を買った。
 俺は鍵を開けて中に入った。
「ただいま」
「おかえり」
 誰もいないとわかっているが、自然に声を出した。すると返事が来た。女の声である。
「やあ、愚息よ」
 その女は三十代後半で、ブルーのワンピースを着ていた。グラビアアイドルと言っても遜色はないだろう。だが俺はこの女に見覚えがある。
「あなたはどなたですか? ここは雷丸学園の学生寮ですよ」
 コウちゃんが突っ込んだ。
「ふふん。あたしはねぇ、そこにいるお猿さんの母親なのよ」
 そう、こいつは俺の母親なのだ。名前は猿神美羽。とても高校生を生んだとは思えないスタイルだが、息子にとっては毒でしかない。
「お猿さん? ここにはそんな名前の人はいません」
 コウちゃんは真面目な顔で返した。おふくろはため息をつく。
「あなた、お名前は?」
「はい。丸尾虹七と申します」
「なるほど。あなたがねぇ。ごめんなさい。きちんと説明するべきだったわ。私は猿神拳太郎の母親で、猿神美羽です」
 おふくろはふざけた態度を改めて頭を下げる。
「遅くなりましたが、私は白雪小百合と申します。猿神君のクラスメイトです」
 するとおふくろはユリーの顔をじろじろと眺めた。そして体全体を見回すと、にやりと笑う。
「ふむふむ。あなたは日本人ではないわね。私にはわかる」
 そう言ってユリーの右手を取った。そして上の方に行く。手はユリーの頬まで行った。
 ズキュゥゥゥン!!
 おふくろはユリーの唇を奪いやがった!! ユリーは咄嗟の出来事で思考が停止していた。俺だって一瞬何が起きたのかわからなかったのだ。
「アメリカ風の挨拶ですか? あれは頬にキスをするのであって、口にはしませんよ」
 コウちゃんが的外れな発言をした。いや、問題はそこじゃないぞ。
「てめぇぇぇ!! ユリーのファーストキスをよくも奪いやがったな!!」
「あ〜ら、女の子同士だからノーカウントよ」
「女の子って歳か!!」
 俺のこめかみがぴくぴく動いている。ひさしぶりに会ったがいつもこの調子だ。
「そういえばお母さんはどうやって中に入ったのですか?」
「うん。鍵がかかっていたからピッキングで開けたよ」
「へぇ、すごいですね」
 いやコウちゃん感心しちゃだめだから。こいつのやったことは犯罪だよ。
「本当は合鍵を持っていたけど、普通に入るのは面白くないから」
「いや、合鍵使えよ。なんでわざわざ不法侵入する必要があるんだよ」
「あっはっは。そう褒めるな」
「褒めてねぇよ!! 耳がおかしいんじゃないのかよ!!」
「そんなことはないぞ。私は数キロ先の蟻のあくびを聴き取れるんだ」
「蟻はあくびなんかしねぇ!!」
 ハァハァ……。こいつと話をしていると普段の倍以上疲れるな。

 *

 学生寮の台所で俺たちは夕食を取っていた。なぜかおふくろが用意していたのである。テーブルの上には治部(じぶ)煮が乗っていた。石川県金沢市の名物料理である。カモ肉をそぎ切りにして小麦粉をまぶし、だし汁に醤油、砂糖、みりん、酒をあわせたものだ。カモ肉、麩、しいたけ、青菜を煮ている。
 石川県にいたころから食べていたが、東京には存在しないことを知り、ずいぶん驚いたものだ。ちなみにユリーは北海道出身で鶏のから揚げをザンギと呼んでいたという。地域によって食文化が違うことにも驚いたものだ。
「うん。おいしいですね。だしがおいしいです」
 コウちゃんが褒めた。俺は特においしいと思わない。いや、子供のころから食べていた味だから、いまさら感想などないのだ。
「そうかい。そうかい。嬉しいねぇ」
「はい。本当においしいです。普段はコンビニの惣菜くらいしか食べないから、手の込んだものはひさしぶりです」
「白雪さんだったっけ。あんたは料理を作らないのかい?」
「休みの日しか作れません。普段はバイトで忙しいですから」
「そうか。一人暮らしじゃきついだろう。けど、ごはんはきちんと食べないといけないよ。若い頃は身体が基本だからね」
 ユリーとの会話に違和感を覚えた。あれ、ユリーは自分が一人暮らしのことを教えていたっけ?
「聞いているよ」
 俺が首を傾げていると、おふくろが声をかけた。
「担任の大槻先生からすべて聞いているよ。あんたがこの子と付き合っていることをね」
 教授の野郎、余計なことを教えやがって。
「ところであんたは拳太郎のどこがいいのさ? 母親として知っておきたいのさ」
「えっと、たくましいところですね」
 ユリーはもじもじしながら答えた。おふくろの問いに答える必要はないだろう。
「たくましいってどこさ? お姉さん詳しく知りたいな〜」
 おふくろは酔っ払いみたいにユリーに絡む。マジでうざい。ユリーは返答に困っている。正直あんまり構いたくないが、ユリーを守るためだ。仕方がない。
「おい、クソババア。ユリーに絡むんじゃねぇ。俺が承知しないぞ」
「え〜、いいじゃない。あたし、拳太郎がどんなプレイをしているのか知りたいの〜。てへぺろ♪」
 うわ、うざい。ここまでうざいにもほどがある。ぶん殴ってやりたい。
「今あたしをぶん殴ってやりたいと思っているだろう。ふふん。あんたがマザコンな証拠だね」
「なんでそうなるんだよ。意味が分からねぇ」
「愛情と憎悪は紙一重さ。あんたがあたしを殴りたいのは、あたしが反撃しないと理解しているからさ。だってあたしを信用しているからね。ある意味子供が母親の関心を取りたいためにいたずらしているのと同じなのさ」
 ああ頭がくらくらしてくる。なんでこいつはこんなにうざいのだろうか。しかも、語彙が豊富だから余計腹が立つ。
「あれ、ジュースが尽きてしまいました。僕が買いに行きましょう」
 コウちゃんが空のペットボトルを振りながら言った。コウちゃんは何もしゃべってなかったけど、ずっとジュースを飲んでいたのか。
「いいえ。拳太郎、あんたが買いに行きなさい。その間この子たちにあんたの昔話をしてあげるから」
「何抜かしてやがる。クソババア!!」
 その瞬間、俺の目の前が真っ暗になった。おふくろが一瞬で俺に詰め寄り、右手で顔を掴んだからだ。
 おふくろは冷たい目で見つめている。まるで獲物を刈る猛禽類のような眼であった。
「早く買いに行きなさい」
 俺はこくんと頭を振った。冷や汗が出る。こいつは普段、ばかっぽく振舞うが、今みたいにするどい殺意をむき出しにするのだ。だから俺はおふくろに逆らえない。
「じゃあ頼むわね。はい、お金」
 おふくろはにっこり笑いながら、財布から千円札を数枚取り出し、俺に渡した。先ほどの殺気とは別物だ。赤ん坊のように屈託のない笑顔を浮かべている。
 俺はしぶしぶ、買い物に出かける羽目になったのだった。

 *

 夜の住宅街を歩いていた。新宿でも歌舞伎町は不夜城だが、住宅街は静かなものだ。
 俺は駅前のグリムマートでペットボトルのコーラとお茶を買った。夏の蒸し暑さがうっとうしい。早く帰ってシャワーでも浴びたいな。
「もしもし、ちょっといいですか?」
 後ろから声がした。振り向くと俺は驚いたね。
 だってそこに忍者が立っていたからだ。口元は隠れているがなんとなくオランウータンみたいな男である。両腕がひょろりと長く、地面につきそうだった。
「こんばんは。猿神拳太郎さん。私は季武(すえたけ)と申します。今から、あなたを殺します。覚悟しなさい。シャア!」
 すると季武と名乗る男は俺に対し、右拳を二度突き出した。
 まるで槍のような感じだ。二発ともかわしたが、そこから鋭い殺気を感じた。冷や汗が出る。
「ホイ!!」
 次に季武は左足で蹴り上げてくる。俺の顎を蹴り上げようとして来た。床に叩き付けられて飛ぶバスケットボール並みである。俺は顎を引き、ぎりぎりで躱す。
 俺は思わず生唾を飲んだ。考えて行動したわけではない、ほぼ本能で動いていた。挨拶されたら返すようなところだ。
 俺は恐怖に駆られた。頭の中が真っ白になったのだ。前に自動拳銃を突きつけられたことがあったが怖くなかった。なのに寸鉄身に付けないこの男に恐怖が湧きあがったのだ。
 俺は奇声を上げたと思う。幼稚園児が意味なくあげるような感じだ。そして右拳を二発、左拳でアッパーカットを狙った。
 それらはすべてかわされてしまう。季武の目には余裕が見えた。子供のいたずらを見抜く母親のような眼だ。
 プチポーン!!
 それを見た俺は頭に血が上った。それは温度計の水銀みたいなものだ。頭の何かがキレた感じがしたのだ。ほつれたボタンを一気にぶちきったようなところだ。
 俺はますます拳に力を入れる。もうポーズなど関係ない。ひたすら季武を打ちのめすことしか考えていなかった。
 視界が歪んで見える。時間の感覚がわからない。
「ウラァ! ウラウラウラァ!!」
「のろい、のろいよ。のろすぎだ」
 季武は反撃をしてこない。それなのに焦りを感じるのはなぜだ。
 ケツの穴につららを突っ込まれたという表現はこれに価すると思った。
「ウラウラウラウラッ!! ベッカンコー!!」
「ホイホイホイッ!! のろまだね」
 こいつは微動だにもせず、避け続ける。反撃するならともかく、こいつは一体何がしたいのだろうか。
 わからない。わからないのだ。
 汗は額からだらだら流れている。喉はすでにカラカラだ。日本の都会にいるのに、砂漠にいるような錯覚した。
 腹部は嫌な音を立てている。中のものが破裂してしまいそうだった。
「いやぁきみはすごい。すごくこわいのに、逃げる気がない。本当は、楽しいのだろ?」
 季武は笑いながら言った。楽しいだと? なんでそう思えるんだ。
 だが、奴の言い分にも一理がある。なんで俺は逃げないんだ。こいつの得体のなさに恐怖して、逃げ出してもいいはずなのに。
「待っていろ。お前の願いを、叶えます」
 季武は右手をあげた。爪は鋭く光っている。それを見た俺は小便がちびりそうになった。
 死の予感を感じたのだ。抜き身を見たらこんな感覚なのかもしれない。
「ウラァァァァァ!!」
 俺は季武にまっすぐ突っ込んだ。右拳に力を込める。渾身の一撃を喰らわせてやるんだ。
 その後俺がどうなるかは知ったことではない。俺の脳内は徐々に真っ白になった。
 視界がぐにゃりと歪む。音は聞こえない。無の世界へ突入したのだ。

 *

「やれやれね。住宅街で、殺し合いなど、感心しないわ」
 それは女の声であった。いったいどこから聞こえるのだろうか。
「貴様は誰だ。なんで邪魔をする?」
「私の名前は影形美四八(えいけいび・しや)。現役アイドルよ。ただで握手しているんだからありがたく思いなさい」
 影形美四八だと? アイドルの名前だったな確か。興味はないがよく耳にする。
 俺の視界が開けた。目の前に俺より少し年上の女性が立っていた。
 いやその女は左手を突出し、俺の右拳を受け止めていたのだ。
 もう一方で季武の右手刀を右手で受け止めているのである。
「…なるほど。あなたが丸尾虹四(まるお・にじよ)だったのですね。納得です」
「納得してもらってありがとう。この子にどんな用事があるかは知らないけど、今日は退きなさいな。あなたに殺意は感じないし、止められても慌てていないしね」
「御見通しですな。では退きましょう」
 女は手を放した。季武は去ろうとしている。だが俺は見逃さない。
「ウラァ!!」
 俺は右拳を突いた。だが季武は右手を突き出す。そして手のひらを上に向けた。
「ホイ!!」
 その瞬間、信じられないものを見た。
 俺の右拳を受けた瞬間、季武の身体が半月のように上がったのだ。ふわりと暖簾に腕押しをした感覚だった。
 季武は俺の右手に片手で逆立ちしていた。ぴんと背筋を伸ばしている。それなのに俺は羽毛程度の重さしか感じないのだ。
「あなたの力は、よくわかりました。今日はこれで、退きましょう。それではまた」
 季武は手に力を入れると、逆立ちのまま飛んで行った。なんなのだ? あいつはいったい何者だったのだろうか?
「初めまして私は丸尾虹四です。影形美四八のほうが有名かしら?」
 女は手を差しのばした。握手のつもりなのだろう。俺は一応手を出しておいた。
「……感動が薄いわね。あなたは私のことをまったく知らない。もしくは興味がないというところかしら?」
 全くその通りだ。俺はアイドルに興味がない。だがこいつの容姿は常人と違い、美人なのはわかった。
黒い総髪で腰まで伸びている。顔立ちはロシア系のようにくっきりしており、まるでギリシャ彫刻のように体型が美しかった。服装は白いロングジャケットにホワイトデニムクロップドパンツを穿いている。身体の線をくっきり浮かび上がらせるものだが、似合っている。
それ以上にこいつの名字が気になった。
「あんたに訊きたいんだが、こうし……」
「名前」
 女は俺の言葉を遮った。
「私は自己紹介したのに、あなたが何も言わないのは失礼でしょ? 挨拶は神聖な行為、古事記にも書かれているわ。挨拶はされたら返さなければならないのよ」
「いや、それ某忍者小説の受け売りだろ?」
「あら、忍殺を知っているくせに、アイドルは知らないわけ? もしかして二次元しか興味ないの? ニコ動画でアイマスMADを見たり、薄い本で興奮しているんだ」
 なんだこいつは。言葉のマシンガンに俺は呆然となった。先ほどの死闘が嘘のように思えてくる。
「あのな。挨拶してほしいんだろう? 俺の名前は猿神拳太郎だ。ついでにいうとアイドルには興味がない。恋人や友達の趣味に付き合う程度だ」
 ユリーはテレビアニメのソシエール・コントという魔女物が好きだ。それにコウちゃんもオタクネタを披露している。大半は担任教師の教授から教えてもらっているが。
「そうなんだ。じゃああなたは幸運ね。アイドルと知り合いになれたんだから」
 こいつは何を言っているのか。先ほどの死闘は無視している。神経が同化しているとしか思えない。
「それより私の家に来なさいよ。助けてもらったお礼をしないとね」
「いや、助けてないし。助けてもらったのはこっちだし。それじゃ」
 俺は背を向ける。これ以上この女に関わるのは危険だ。さっさと帰るに限る。
「まあ、待ちなさいよ。遠慮なんかすることないって」
 そう言って俺の両肩を掴む。イタタ。なんて力だ。万力で挟まれたようだ。女の力とは思えない。
「いてぇよ。はなせったら」
 だがこいつは離さない。ずるずると俺を引きずっていく。なんて日だ。夜はこうして更けていくのだった。

 続く。
2015-06-23 19:42:51公開 / 作者:江保場狂壱
■この作品の著作権は江保場狂壱さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 2015年2月9日:シークレット・ノーマッドの新作です。
 今回は猿神拳太郎の一人称で進めてみました。序章以外はなるべく視線を猿神だけに固定する予定です。作中に出ている固有名詞は今回初めて作ったものが多いです。
 ヴァイスシュネー・プリンツェッスインに出てきたヘンゼルやアッシェの名字は今回初めて出しました。ビーネの本名は即興で作りました。
 長く書いていると作者である私自身も予測がつかなくなるのは面白いですね。

 二〇一五年:二月一九日。私はすぐ結論を急ぐ癖があるので、今回牧野の秘密や、学園で転校生を嫌う風潮を書きませんでした。あとビーネを含めたヘキセンハウスの面々が猿神に対して冷たいのは、今回猿神が主役なので、いじられた方が面白いと思ったからです。

 二〇一五年:三月八日。今回はひさしぶりに水守が身長についてキレる話を書きました。あと牧野のすごさも書いてみました。

 二〇一五年:六月二三日。おひさしぶりです。当初この話で影形美四八を出すつもりはなかったのですが、彼女を出すことで話を変化させたかったのです。
 実は私六月に交通誘導警備業務検定二級に合格しました。四月から勉強して、五月に試験を受けたのです。
 これからは仕事に責任が生じ、今までみたいに執筆できないです。でも書くのは好きなので。
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