『さよなら雨の日』作者:えんがわ / t@^W[ - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
鳥のように自由に空を飛ぶことができる翼を持つ人間が存在する世界。飛行中の墜落事故で翼を失った「渡り」の元にまたひとり「渡り」が落ちてきたところから、物語が始まります。
全角28254.5文字
容量56509 bytes
原稿用紙約70.64枚
 これは、みんなが地球と同じように宇宙が丸いと知った日から、全てに最果てや無限などないと知った日から、幾百もの終わりを経た今の物語。

  * * *

 渡り鳥が、一匹、落ちた。

  * * *

   1 雨の日の始まり

 ホァンはおどけながら言った。
「今年もやって来たわね。雨の季節……」
 空には雲が何重にも重なり、太陽を覆っていた。その天から地へと、びゅうびゅうと叩きつけるように風が吹いている。
「ああ……」
 ジギリドはズボンのポケットの中に、右手を入れながら応えた。ポケットには何もない。ただ手持ちぶさたを埋めるように、忙しなく動かしていた。これからの長雨を告げるようにジギリドの背中から生えた翼、と言っても短く切断された翼が、キリキリと痛む。ホァンにはそうした申し訳程度の翼もない。ホァンに限らず、この土地の村民らは、翼を持っていないのだった。それはそれでラッキーなのかもしれない、とジギリドは思う。
 一粒、二粒。それから俄かにザザザっと雨足が強まっていく。
「雨!」
「ああ」
 ジギリドは相槌を打ちながら、ぼんやりとあの頃を思い返していた。初めてこの村に飲み込まれた時を。なまりの酷い村民達だったが、精一杯その輪の中に入ろうとして、何時しか自分も彼らの一人のように、言葉というよりも口の動かし方をなまらせたことを。だがそんなおぼろげな目が丘の方へと流れ、その上空の異変に気づいたとき、声はクレッシェンドを踏んだ。
「あっ! ああ!」
「何よ?」
「落ちてくる! 大きい! 意識は、息はあるのか!」
 そのまま、それは地面へと落ちた。どん、と音が聞こえるようだった。二人は恐る恐る丘の方へと急ぐ。
 奇妙な鳥だった。身体は今まで見てきたどの鳥よりも二周り以上もあり、トサカは鮮やかな赤色をし、クチバシは黄色い。その顔を支える頑強な身体は、灰色と土色に染まっていたが、よく洗えば白鳥のような純白になるのではないかと思わせる煌きがあった。がっしりとした両腕。背中から大きな翼が生えている。
「大丈夫、息はしている。目立った外傷もない。それにしても、また、巻き込まれる奴が出てくるなんてな」
 ホァンは意地悪そうに、また今の異常事態を何とか取り繕うとするかのように、
「ほんと、あんたみたいに。きっとこいつも、ロクな奴じゃないわね」
「皮肉は後だ! 早く村長とゲンマ爺を呼んでこい!」
「えっ…… 父さんのところ? 教会? 嫌よ。ジギリドが行ってよ」
 ジギリドは荒っぽく
「馬鹿! こいつが凶暴な奴だったら、どうするんだ! この体躯、オレ達なんて一捻りだぞ!」
 それまで緩んでいたホァンの頬に緊張が走る。
「ええ! 行ってくる!」

 ジギリドは意識を失っている彼に、ぽつぽつと問いかけた。ひょっとしたら、自分自身に問いかけていたのかもしれない。
「お前は、オレと同じなのか? 『渡り』なのか? それとも違うのか?」
 三十分が過ぎた。ジギリドは焦らされながらも、女の足に、小さな村とは言え相当な距離を走らせていることを後悔し始めていた。
 丘は隆起していて、この辺りで一番見晴らしが良い。やがて遠景に三つの輪郭が映った。華奢な少女ホァン。立派なアゴヒゲを生やした村長のアルフレッド。そして嘗てジギリドと同じ『渡り』だったらしいゲンマ爺。『渡り』だった、らしい、のだけど。丘の上にジギリド、ホァン、アルフレッド、ゲンマ爺、そして見知らぬ鳥。五人が集った。
 ゲンマ爺が注意深く、手の爪、足の爪を探り、ほっと息を弾ませた。
「少なくとも、猛禽類ではないようじゃな」
「猛禽類? あの古典の話に書いてあった……」
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。あれは恐ろしいぞぅ。何でも喰らうのだからな」
 そう言いながら、羽を念入りに調べる。
「折れてはいないようじゃ、幸か不幸か。こりゃ頭から突っ込んだようじゃ」
 ジギリドは堪らず叫んだ。
「幸せに決まってんだろ!」
「すまんすまん、お主の時は……」
 そこで罰が悪そうに
「すまんな」
 ジギリドは、五年前のことを想った。あの時、彼はこの村へと翼から落ち、そして永久に羽ばたくそれを失った。ホァンとアルフレッドの方に目をやる。彼らは二人とも、空を飛ぶのには退化している。つまり、翼を持っていない。すっきりとした少し猫背の背中だ。大地にしがみつくこの村では、飛ぶことは必要の無いことだった。ゲンマ爺を見る。その背中には、『渡り』らしく鉛色の尖った翼が立派に生えていた。そして自身の背中を指先でなぞる。ジギリドの翼は、ひしゃげていて、折れ曲がっていて、短く切られていた。
「クッ……」
 巨鳥から、声が漏れる。にわかに緊張が走る。
「水を」
 ゲンマ爺はそれを受け取り、クチバシへと近づける。
 すると、ごくごくと、砂漠が一片の雪を飲む込むような勢いで、その巨漢は革の水筒を空にした。

「辺境の村にようこそ。旅人さん」
 ゲンマ爺は皮肉っぽく笑い、
「お主、名は?」
「クックドゥドゥ」
 鳥は、そう呟いた。
「名は?」
「クックドゥドゥ」
「ほう、クックか」
 いい加減そうな答えだ。
「何か言いたいことは?」
「クックドゥドゥドゥー」
 ゲンマ爺は子供をなだめるような声で
「そうか、そうか」
 村長のアルフレッドが焦れて
「それで何と?」
「年寄りは大切に。特に独身の、耳の丸い貫禄のあるご老体を大切に。毎日一時間は腰をマッサージすること」
 ジギリドは「おいおい」とぼやきながらも、目を細めた。ゲンマ爺のこういうところは嫌いじゃない。あの見知らぬ鳥―クックと言うそうだが―は敵ではない。それだけでも確かになったことは、大きな収穫だ。
「クックドゥドゥー……」
 クックはそう言って眼を閉じた。
「死んだか?」
 ゲンマ爺はクックの胸に手を当てながら
「いやいや、お陀仏じゃあない。極度の疲労で、意識を失っただけじゃ。それよりこの異国の言葉、恐らく『渡り』だ」

   2 温かいスープ

 雨がしとしとと降る。窓ガラスに水滴が流れる。これから5ヶ月、止むことはないだろう。雨季が来たのだ。
 レンガで組み立てられた暖炉に火が灯っていた。パチパチという音が、緩やかに空間も心も和らげる。
 ホァンはベッドからはみ出しながら眠っているクックを、じぃっと見つめている。そのトサカやクチバシは今まで見たこともなく、ジギリドから言葉だけ伝えられた熱帯魚を見ているような、そんな不思議な気分だった。
 しかし実際のところは、鑑賞ではなく監視を任されているのだろう。彼がこの村に災いをもたらさないとは、まだ限らないのだ。
 台所から薬膳カレーのような香りが、鼻をくすぐった。アルフレッドが膝から肩まである長い寸胴で、スープを作っている。丁子や草豆蒄といった香料を混ぜた、少し塩っ辛い肉入りスープだ。ホァンは風邪や熱射病で酷く弱ったとき、何時も作ってくれた懐かしい味を思い出した。堪らず、味見と称して少し分けて貰おうかと思い、台所のアルフレッドへと声をかけた。
「ねぇ、お父さん、あの鳥さん、此処のスープなんて飲めるのかしら?」
「飲ませるさ。目の前で、死なれちゃ、こっちの気分が悪い」
「でも、何でウチが」
「村長だからな、それに司教でもある」
 ホァンは抗議するように声を少し張り
「でも、でも、何でこんなの」
「それに、他には、よそ者を養えるだけの蓄えがないんだよ」
 ホァンは自分も『よそ者』なのかな、とふと思った。すると胸が苦しくなり、あれだけあった食欲も失せていた。
 雲に覆われた空に、夜を待ちきれぬようにカエルの合唱が響いていた。ホァンはうつらうつらしてしまっていた。
 ベッドから音がした。ホァンが思わず顔を上げ振り向くと、もう台所にその男、クックはいた。背後にいる見知らぬ者に、父は全く動じる素振りを見せない。元々このような性格なのだろうか、それとも神へ祈り続ければこのようなことは些細なものになるのか、ホァンは不思議に思う。
「まだ作りかけだが……飲むか?」
「クックドドゥドー」
 クックはまだ熱く煮えたぎるスープを寸胴ごと持ち上げ、口元をつけ、一気に流し込んだ。
「ちょっ、ちょっとは遠慮しなさいよ!」
 クックは寸胴を傾けながら、ごくごくとスープを飲み込んでいる。
 食事とは理不尽なものだ。作る手間や時間に対して、食べるそれは余りに短い。しかし、ここまで極端なものも中々無いだろう。まるで沢山の子供が競っていたかのように、五分もしない内にスープは空になった。
 アルフレッドがぽつりと。
「やはり『渡り』か……」
「えっ?」
「『渡り』は一度に大量の食べ物を摂る。それから何十日も飲まず食わずで海を渡る」
 スープを平らげたクックは、アルフレッドの方を向いて
「クックドゥドドゥー」
 アルフレッドは溜息をついて
「さすがに俺でも分かるぞ。ごちそうさま! じゃないな。もっともっと食べるものは? ってことだな」
 結果、二人の夕食にとっておいた小魚も、非常用の缶詰も、瞬く間にクックの胃に収まった。その勢いが余りに速いものだったから、ホァンは苛立ちを通り越して、感心してしまった。
「クックドゥドゥー」
「どういたしまして、だろうな」
 それからクックは玄関のドアを開け、外へと駆けていった。
「もう、一体なんなの?」
「威勢のいいことだな。だが、もう渡れない」
 アルフレッドは軽くため息をついた。
「何でそれをわかっていて……ジギリドの時もそうだったじゃない」
「彼も言ってただろう。渡れない『渡り』に何が残るのかって。俺たちが若い頃のゲンマ爺も似たようなことを言っていたよ」

   3 雨豚

 ジギリドは古びた柵に寄りかかっていた。村長の家はもう目の前だ。それから玄関へと訪ねようとして、止めた。それを何度か繰り返した。
「土地の者じゃないもんな。オレも」
 柵越しに話しかける。そうやって何時間か費やした後、クックが風になびく羽毛のように駆け抜けようとした場面に出くわした。
「おいおい、そんなにせいちゃ、こいつらがびっくりしちまうだろ。見ろよ、周りを」
 道沿いの左右両方に、柵が真っ直ぐ連なっている。その中のものが珍しいのか、クックは足を止めた。
「知らないのか? ここに来るまで俺も知らなかったぞ」
 つい勿体ぶった口調になってしまう。何せこの村に落ちて初めて、先輩面が出来るのだ。
「クックドゥドゥー?」
「雨豚さ」
 柵の中では象のような巨体が何十匹も、のしのしと歩き回り、それぞれ背中に麦わら帽子のような大きなコブを突き出していた。
「あれはな、雨豚っていうんだよ。大量の雨を皮膚から取り込んで、あのコブの中に蓄える。そうやって、乾季を乗り越える。乾季かぁ。その話はまた今度な。とにかくあのコブには水がぎっちぎちに入ってんだよ。それも幾重も濾過したような透明な水がな」
 自分でもまくし立てるような早口になっていることは、ジギリドにも分かっていた。しかしこの高揚感は隠すことは出来ない。ふっと息をついて、手のひらを空中に差し出す。雨が貯まり、そこに小さな小さな水たまりのようなものができた。それを口に含む。
「うぇっ」
 と声を出した。そして水を舐めた手で、クックを指差す。
「やってみな」
 クックはしばらく不思議そうに鉛色の空とそこからこぼれる雨を見つめていたが、ジギリドと同じことをしてみた。そして彼の方を向いて、うなづいた。ジギリドは言葉が通じたことが嬉しくて、更に早口で
「しょっぺえだろ。海に囲まれているからな。この村の雨は塩っ辛い。風呂や洗濯にはいいが、飲むのには向かない。だから、あいつらの水が必要なのさ」
 雨豚は草を食み水を貯め、殺され、肉とコブから濾過された水を村人に供されるために生きている。しかし家畜とは元来そういうものだと、ジギリドは知っていた。ここに至るまでの旅の途中で彼は見かけていた。広大な小屋に隙間なく詰め込まれ、上空から降ってくる餌欲しさに、我先にと口を開け閉めする赤白の巨大鯉などを。
「クックドゥドゥドゥー」
「こっちは、お前が何て言ってんのかわかんねぇよ。ありがとう、で良いんだな。そういう事にしちまうぞ」
「クックドゥドゥドゥー」

   4 雨の中に立つ

 雨は本降りになっていた。傘からは弾ける音が響き、そのてっぺんからは水がぽたぽた流れていた。
「もう五日も……何を待ってるの?」
 ホァンは傘もささずに丘に立ち続けるクックを、不思議そうに見つめた。返事はない。しかばねのように身動きもせず、ただ立っている。
「ほんとはね、お父さん、いえ村長さんからは関わるな、って言われているの。ロクなことにならないって」
 空いた小指をもじもじと交差させながら、思い切って
「あなたは何処から来たの?」
「クックドドドゥー」
「何処へ行くの?」
「クックドドドゥー」
「何よ! わからないわよ!」
 そう言いながら、ホァンは妙に納得していた。恐らくは聞いたこともない街から、聞いたこともない街へと向かっているのだろう。ならば、この意味不明の響きの言葉こそが、正解なのかもしれない。
「はい、これサンドイッチ」
 固い棒状のパンに縦へと長く切れ目が入れられ、中には緑のレタスと黄色のチーズとわずかばかりの薄桃のハムが挟まれていた。不器用なホァンにとって、得意料理だった。誰が作っても、格別に成功することなく、かと言って失敗することもない料理だ。最早、料理とも言わないかもしれないが。
「わたし、ダイエット中なんだから、要らないの。食べるといいわ」
 骨が浮いて見えそうな華奢な細い身体で、そう喋る。クックは白く透けそうなその手から、サンドイッチを受け取り、わしゃわしゃと食べ始めた。その豪快な食し方に、ホァンは堪らず笑った。
「相変わらず遠慮って言葉、知らないのね」
「クックドゥドゥドゥー」
「不思議、ありがとうと言ってるの? 違ってたら、はっ倒すからね」
「ドゥドドゥー」
 ホァンは満ち足りた笑顔を浮かべた。しかしクックが食べ終え、また空を見始めると、それを曇らせ
「気をつけてね。お父さんは旅人にも優しいけど、あなたのこと気に入らない人って、ケッコウいるのよ」

   5 水たまり合戦

 でこぼこの土道には、水たまりがぽつぽつと出来ていた。その表面で幾つもの波紋が雨によって撒かれる。
 休日の子供が二人。
「水たまり合戦やろーぜ」
「水たまり合戦?」
「今から道を外れたり、水たまりを踏んづけたらアウトな」
 そう言って片一方の子が、小さな水たまりをジャンプして飛び越す。要領をつかんで、もう一方の男の子もジャンプする。
 男の子が大きな大きな水たまりを飛ぶ。淵に足がかかる。長靴が水を跳ね上げた。
「はい、アウトー」

 しばらくジャンプしていると、道が二股に分かれた。大きな道と小さな脇道。
「こっち、行こ」
「なんでだよー、このままの方が近道じゃん?」
 軽く抗議するように、疑問を口にする。
「ガイジンさんがいるんだよー」
「ガイジンさん?」
「うん、僕らよりずっと背が高くて、低い声で知らない言葉を話す、ガイジンさん。悪い子はでっかいオナベの中に入れられて、食べられちゃうんだって!」
「なら、なおさら行かなくちゃ! テイサツだー」
「うーん」
 恐れよりも好奇心が勝ったのか、頷いてしまう。
「うん……」
「テイサツだー」
「テイサツだぁー」
 大きな道へと真っ直ぐに駆けた。

「思ったより、怖くなかったね」
「ねー」

   6 秘密基地

「良いとこ、連れてってやるよ」
 ジギリドとクックはシダの森を歩いていた。巨大な木々や岩々がそびえ、全体を黄色がかった緑の濃いコケが覆っている。豆粒大の蟻が行列を作っていた。その先には白っぽいキノコが群生していた。似たような景色が、道なき道へと続く。方向感覚がしっかりしていなければ、迷ってしまうような場所だった。幸いにも、ジギリドにもクックにも、『渡り』が持つ正確な方位磁針のような生まれ持った感覚がある。しばらく歩んでいる内に、切り株が並ぶ少し開けたところに出た。そこには雨を弾く油を塗られた大きな布が、木と木の間に吊らされ、中には様々なガラクタが雑然と置かれていた。
「秘密基地だ、お前が最初で最後の訪問客だ」
 辺りは、じめじめとして、一層蒸している。そこに青く輝く貝殻やすっかり古びた板切れが積まれていた。中でも一番奥に、半ば骨組みを剥き出しにした鉄と羽で出来た白い翼が展示されているように立てかけられていた。ジギリドはそれを見つめながら
「翼さ!」
「クックドゥ」
「そう見えないって?」
 確かに骨組みは翼そのものだった。しかし羽は左側の大部分に付けられてなく、がらんどうで、背後の薄茶色の板がはっきりと見えている。
「まだ、完成度は60%だな。ん? この羽根はな、全部俺の自前さ。カットした羽というのかな、抜け毛というのかな、何というか。そうしたのを集めて貼り付けてるんだ」
 ジギリドは初めての満点のテストを母に報告するような、そんな調子でとうとうと語る。
「オレの翼は折れ、使い物にならない。でも、いつか、きっと」
 ジギリドは照れくさそうに笑いながら、しかし真剣な瞳で
「空を飛ぶのさ。そして楽園へ。東の楽園へ行くのさ。お前もそうなんだろう? だから教えてやった」

   7 底辺

 クックは空を見上げていた。何時しか夜になっていた。分厚い雲によって太陽の光は遮られていたが、それでも真っ暗な夜になるとその恩恵が身に染みる。
 クック以外、誰もいない真夜中の丘。しかしその夜は小太りの中年が、アルコールで頬を赤く染め、クックの元へと千鳥足を運んでいた。
「よー、底辺。今日もお月見かー! 月なんて雲に隠れちまってるがな」
 クックは返事をせずに、ただひたすら空を見上げていた。
「気に入らないんだよ、お前。媚びないで、へつらわないで! そんなんで底辺が生き残れる訳ないんだよ! このクズが!」
 中年は悪意の塊のような眼差しで、クックの目を見上げ、睨んだ。次いで首元を掴もうとしたが、長身のそれに手が届かない。
「くそっ!」
 忌々しそうに吐き捨てると、クックの腹めがけて殴った。殴って、殴って、殴り続けた。鈍い音が響く。ケロケロケロケロ。それも四方からのカエルの鳴き声でかき消される。それが十分ほど続いていた。クックは呻き声も出さずに、ただ殴られるのに任せていた。
「くそ! 俺の拳の方が痛くなっちまった。腹立つんだよ!」
 そして中年は、クックの足指を思いっきり踏みつけた。ぐりぐりと踏みにじる。クックはただ黙っている。
「この! 生きる価値のない! ゴミが! 何でだよ! 何で反論しないんだよ! これじゃ惨めじゃないか! 俺の方が!」
 肩で息をして、泣いている。
「ナグリカエセヨ……」
 それは司教の祈りのようにぼそぼそとした声だった。
「それとも殴る価値もないのか! 俺には!」
 足元を正し、拳を引っ込め、顔を突き出す。
「お願いだよ」
「クックドゥドゥ」
「思いっきり、俺を殴ってくれよ」
 クックは、腰を捻り、丸太のような拳で中年の腹を殴った。「ぐぇっ!」という声と共に、中年はあお向けに倒れ込んだ。それで終わらない。クックは倒れ込んだ中年の腰に乗り、拳の連打を顔面へと叩きつける。二十七発。中年は気づいていないかもしれないが、丁度、彼に殴られた回数だった。
「思いっきりやってくれたな。ははは。お前、良い奴だな」
 中年は赤く腫れた目でクックを見つめる。
「まさか、殴られて気持ちいいなんてな……俺の名前はコール。ま、覚えてくれなくても構わないんだけどな」
「クックドゥドゥドゥ」
「はは、真性のマゾだって。この馬鹿者がってか。何でもいいさ。ありがとな」

   8 過去:ジギリド

 長雨は古傷を疼かせる。ジギリドは背中の先を襲う、熱を持ったようなピリピリとした痛みに耐えていた。じっとして居られない。堪らず外へと歩き出した。ぐるぐると同じコースを辿り、思考を巡らせる。そうして痛みをごまかそうとするが、今回は特に酷く、それでは収まらない。何時しか足は、丘の方へと向かっていた。
 先客がいる。
「よー、ホァン。お前、ひょっとして、ホノジか? みんなみんな外人さん、外人さんってな。遠くにいるからカッコヨク見えるのさ。いざ歩み寄ってみれば、どうでもよくなり、憎しみのこもった無関心になるかもな」
 ホァンはそっぽを向き
「バカ! あんたも、外人さんじゃない!」
 ジギリドは両手を肩のところまですくめ
「オレは特別さ。社交的だからな」
 クックが口を開いた。
「クックドゥードゥー」
「ああ、オレも外人なんだ。それに『渡り』でもあるんだぜ」
 それ以上のことをジギリドは言わなかった。クックにもホァンにも。
 『渡り』に感傷は似合わない。それがジギリドの信念だった。

 十年前。彼がまだ少年だった時。
 深緑がふざけているかのように砂浜に身を寄せているマングローブの森に彼はいた。砂はさらさらとしたチョークの粉のようで、真っ白だった。ジギリドは翼の手入れを丹念にこなしながら、浜辺を渡る小さな赤茶のカニの群れをぼぅっと見つめていた。翼は『渡り』らしく、横に長く風を切るように生えている。それに比べて、水上でホバリング出来るように三角になっている翼の少女が隣り合っている。丁度、ホァンと似たような年頃だった。街の者よりも『渡り』に関心を示すところも似ていた。ショートヘアがさっぱりとした性格に、とても似合っていた。その髪が風に揺れる。旅立ちの風だ。
「行かなきゃな。東の楽園に」
 ジギリドには夢があった。噂だけで誰も辿り着いたことのない楽園。常に温暖で、世界中の果物や魚が集まり、沢山の『渡り』が空を思うがままに飛んでいる。『渡り』には空を東へと飛ぶという生まれ持った衝動がある。それが満たされ、埋められる場所。
「ねぇ、わたしにとっては、ここが楽園。出来れば、その、出て行って欲しくないなぁ。なんてね。好きよ」
 今にも落ちてきそうな青い空を見上げ、少女は言った。
「えっ?」
「なんてね。嘘」
 それから視線を前に向け
「夢を追うあなた、輝いてるわ。だからその記憶だけで、わたしは生きていける。これは別れじゃないわ。出会いよ。あなたのいない世界とわたしが出会うの。そして、きっと、心の中であなたが楽園に居る世界になるわ。楽園! 見つけてね!」
 それから三時間後、ジギリドはマングローブに別れを告げた。

 更にそれから五年先。今よりも五年前のこと。

 ジギリドの視界に陸地が映った。どうやら険しい山に囲まれた孤島のようだ。前の街から旅立って二ヶ月、体力も気力もそろそろ限界を告げていた。しかし、彼はそこに休憩しようとは思わなかった。嫌な予感。長年の勘。それをジギリドは信じていた。右方へと避けようと翼を傾けた。
 しかし、しかし、島の背景は徐々に大きく、目の前に迫っていた。強烈な風が海から島へと向かっている。このままでは山肌に激突してしまう。
「バカ野郎!」
 ジギリドは叫びながらその風に抵抗したが、逃れられない。焦げ茶の山々が迫る。ジギリドは抵抗をやめた。そして風吹く方向に身を委ねる。やがて強烈な上昇気流。雲が吸い込まれていく孤島の中心へと、ジギリドも流れる。山々を飛び越えた。だが、次の瞬間、ジギリドは異変に気づいた。島の陸地へと強烈な下降気流が流れていた。上昇から一転、叩きつけるような下降気流が襲ってくる。抵抗虚しく、彼は島へと急降下したのだった。
 その時、ジギリドは翼をクッションにし、身体への直撃を回避した。そうしていなければ、彼は哀れな犠牲者になっていただろう。しかし、その代償として翼を失った。そして彼は、最後まで風に抵抗し、頭から落ちたクックに、不思議な敬意を抱いていたのだった。

「オレにもロクでもねぇ過去があるんだ。でもな、オレはこの閉じた島から抜け出すぜ。なぁ、クック、あれでな」
 ホァンは謎謎を聞かされたように
「あれってなによ?」
「さぁな」
 あの新しい翼を作り始めて四年。あと、二年かければ、ジギリドはそれを手に入れることが出来ると信じていた。

   9 過去:ホァン

「過去ね……」
 ホァンはしばらく雨粒が水滴となり垂れる黄色いタンポポの花へと、顔をうつむかせていた。
「栄光あるノニラ神は、太陽の神と雨雲の神を司り、気流を支配する」
「クックドゥドゥー」
「難しかったかしら。ノニラ教よ。ウチのお父さん、村長でもありノニラ教の司教でもあるの。この村に住むみんなが信仰しているのよ。きっと」
 きっとあなたもそうなるわ、そう言いかけて口をつぐんだ。それから
「司教は神以外のものを愛することを禁じられているの。つまり、恋人や妻を持つことは出来ないのよ。けれど、寂しくなんかない。その隣には何時も神がいるから」
「湿っぽい話は止めとけ。話したところでお互い辛くなるだけだ」
 ジギリドの制止に拘わらず、ホァンは意を決したかのように
「じゃあ、何でわたしが居るかって? 孤児よ。わたしは。本当の父も母もいない。まだ物心つかないわたしを、彼が引き取ったの。コールが言ってたわ。

 お前は底辺の中でもドン底だ。何せ誰からも愛されてないんだからな。あいつはな。村長の座を得るために、親切なおじさんの振りをするために、お前を利用したのさ。
 女を選んだのは、権力を持った男はジャマ、いや怖かったんだよ。二世に、家を乗っ取られるのがな。いやいや、卑しい意味があったのかもな。なぁ、お前、実際のところ、どうなんだ? あいつとは」

 長口上をそのまま覚えていられるほど、その時の衝撃はホァンには大きかった。
「わたしは要らない子。だから、わたしは何時、死んでもいい。ずっと、そう思って来た。あの約束の時までね。ねぇ、ジギリド、覚えてる?」

   10 過去:約束

「わたしには何もないわ。何も」
 ジギリドはかりかりとライ麦パンをかじっていた。次いで大きなマッシュルーム入りのスープをすすり
「うーん、それメシドキに伝えに行くほど、大事なことなのか?」
 ホァンは湯気が出そうなほど、顔を赤く染めて
「わたし、父さんが居なくなったら何が残ると思う? 抜け殻よ!」
 ジギリドは彼女を羨ましく思った。頼りになる父が居るということが、どれほど大切なことなのか。物心付けば一人ぼっちだった『渡り』には縁の無いものだ。
「それは無いんじゃないか」
 それからスプーンを置いて、自分の身体を覆う服を指差し
「ほら、お前が編んでくれた、このニットのセーター。背中に折れた翼が出せるように穴のあいた特製セーター」
「えっ?」
「あったかいぜ。お前がなくなっても、この温かさは俺には残る」
「でっ、でも!」
 それを打ち消すように
「こんな俺によ。『渡り』の外人さんによ。そこまで自分を見せてくれるなんて、嬉しいよ。いいか、お前は一人の男を嬉しくさせるだけの、もんなんだよ。それで十分だろ?」
 ジギリドは思う。彼女は優しいと。だから優しく包み返してやらなければと。
「ちっ、違うわ。こんなこと出来るのも、言えるのも、あんたが村の一員じゃないから、外人さんだから」
「ははっ、動機はどうでもいいさ。空を渡るのに、理由がいるか? 空を飛んだという結果があるから、それ以外のものは求めない」
 カエルが泣いている。雲が止まっている。村の明かりは蛍のようにちかちかと光る。
「それでもさ、この村にお前の居る場所がないのなら……俺が外の世界に連れて行ってやろうか? なんてな」
 ハハハと笑う。
「冗談だよ! ふっくらしたお前じゃ、こんな荷物じゃ、飛ぶ前に肩がいかれちまうよ」
「わたし、痩せれたら、連れてってくれる?」
「さーてね」

   11 現在:約束

 あれから三年が経った。
 今のホァンは思う。
 ジギリドは藍染の布のように、村の色にすっかり馴染んだ。まるで此処こそが故郷のように人々の会話の中に、険しい山々に囲まれた緑の風景の中に、溶け込んでいった。
 約束、なんて言ってもジギリドは覚えていないだろうが。約束を守ることなんて出来そうもない。
 でも、彼なら。孤高を保つ彼になら、それは果たしてもらえる。そんな気がした。
「ねぇ、クック、わたしを空に連れて行ってくれないかしら?」
「おいおい」
 何も返事が来ない。
 ホァンには分かっていた。クックは本気なのだ。本気でこの世界から飛び立とうとしている。だから、自分は、そこに入り込めない。
「いいわ、でもわたしのこと、手作りのサンドイッチの味、覚えていてね! 何時か遠い国の酒場で、わたしのこと、話してね。約束よ!」
「おーい」
 と丘の下の方から声がする。
「こんなところにいたのか……」
「お父さんこそ、何時からいたのよ!」
「ついさっきだよ」
 それから手短かにアルフレッドは
「さっ、帰るぞ。近頃のお前は雨に打たれすぎだ」
「それならあのでっかいあいつにも言ってよ! 毎日、あんなところに突っ立っていて」
 ジギリドは呟いた。特別な『渡り』の習性。
「風を読んでるのさ」
「えっ?」
「さっ、今日のところは解散だ。腹も減ってきたしな。何時の間にかか? あっという間にか? 背中の痛みも消えちまった 」
 ぽつぽつと
「代わりに……痛くなっちまったとこは……あるけどな」

 家路への途中、アルフレッドは諭すようにホァンの目をじっと見て
「なぁ、無闇に約束なんて、するもんじゃないぞ」
「なっ、なによ! わたしの勝手でしょ?」
「だからな、相手もいるだろ、約束って。ああいうのはこっちもあっちも重くて痛い。守るのも大変だし、何より破られる度に、心をえぐっていくんだよ。約束ってのは」
 声が少し震えてしゃがれていた。
「お父さんも、約束したことあるの?」
「ああ、昔。大きな約束をな。破られちまったが」
「父さん」
「それともう一つ、別の約束をな。ただ、相手は生きている人間じゃあない。神様ってものかな。こっちは守ろうと思う」
 ホァンは一つ息を吐き、それがしんしんと降る雨に溶けた。
「お前もな、約束をするなら、神様にしなさい。神様は優しい。もし約束が破られても罰することはない。それでも、ささやかでも守られるように何時も見守ってくださる」

   12 空を見上げ続ける

 夕暮れ後の丘。
 ケロケロケロケロ。
 カタツムリがのそのそと、舐めるように這っている。
 クックは空を見上げていた。
 彼の足元は型が出来るほど、湿った土にめり込んでいた。
 深緑の草が丘一面に生えていて、稲穂のように風に揺れる。
 脚は硬くなり、筋は張り詰めていた。
 羽は雨でぐしゃぐしゃに為っていた。
 両腕は組まれ、背中の翼はなびいていた。
 泣き腫らしたように目は赤く、冬のプールで素潜りをしたかのようにクチバシは色を失っていた。
 しとしとと降る雨。
 一面に広がる雲。
 そして空の間を彷徨っている雷雲。
 この雷がある内は、飛ぶことは出来ない。
 しかし、彼にはわかっていた。
 空を見続けていた彼は、何時しかカエルのように天に近づいた気象予報士へと、変わろうとしていた。

   13 可能性

 雨足は徐々に強くなっている。その中をゲンマ爺は走っていた。丘の手前で息を整える。それから何事も無かったかのようにそこに赴き
「ああ、やっぱり、まだ居ったか。クックよー。ここらは直に嵐になる」
 ゲンマ爺はクックを見つめて
「村長というか、あのお嬢さんにな、岩場の洞窟に来るようにと、わしゃ説得されてな。それでお前さんを、説得しに来たわけじゃよ」
「クックドゥドドゥー」
「そうじゃよな。お前さん、わかっとるんじゃろ。『渡り』の本能かのぉ。わしにもわかる。今夜にも、雷が一杯、降ってくる」
 クックの目は真っ直ぐにゲンマ爺に向かい、見開かれていた。
「そしてお前さんは知っとる。それこそが、『渡り』が待っていたシグナルの一つだと」
 ぽりぽりと頭をかいて
「誰もお前さんを変えさせることは出来んよなー」
「クックドゥドゥドー」
「ありがとう。優しいおじいさま。皆に、ご褒美に小魚のステーキを食べさせてやってくれ、じゃと」
 クックは何時も通り、無表情のままだった。
 気まずい沈黙が流れた。
「おいおい、突っ込まんか」
 目の前をアマガエルがピョコンと跳ねた。
「本当に貰っちゃうぞ。美味しいんだぞー」

   14 流雷群(前編)

 切り立った山々にできた自然の洞窟の中。
 クリーム色の鍾乳洞の尖った先から、水がとっとっと垂れていた。豊かに実ったみかん色のランプが壁にかけられている。そこに村民たちが一同、詰め込まれている。
「今年のは、厄介そうだ」
 何処とも知れぬ声が聞こえた。
 赤ん坊が、「アアアアアアッ」と泣く。
 少し先輩の年長の子供が、まるで祭りの前夜のようにはしゃいでいた。
「もうちょっとで、カミナリだよねー」
「カミナリさまだー」
 老人の祈りの声がそれに混じる。ぽつぽつと、しかし次第にそれを発する数は増え、合唱となった。

 ホァンは帰ってきたばかりのゲンマ爺に聞く。あれだけ連れて行くように頼んだクックは隣に居なかった。
「クックは?」
「ありゃあ、真性の馬鹿じゃよ。しょうがない。後は天に任せるんじゃな」
「そんな」
 稲光が差し込み、しばらくしてドォンと火薬が爆発したような音が響く。
 雷の音。
「始まったか」
 流雷群。雷が流星群のように絶え間なく落ちてくる、雨季の中でも特別な日。
 音は鳴り止まず、終わったかと思えば、次の雷の音が響く。
 既に洞窟の外はピカピカと明滅している。
 地上の罪人を跡形もなく消そうと、神様が定めた雷鳴の日だ。

「行かなくちゃ」
「ダメだ!」
 アルフレッドが洞窟の入口で止める。ギュッと抱きしめ、しかし強く拘束する。
「何よ! わたしの勝手でしょ! 自由でしょ!」
「村の掟だ」
 ホァンは怒鳴る。涙が出てくる。手を噛む。足を踏んづける。でも、両手は離れない。離さない。
「俺はな。お前まで失いたくない。お前の本当の父さんと母さんだけで十分なんだ」
 ホァンの耳にかろうじて届く声量だった。泣き声だった。
「今だから、話そう。俺たちのこと」
 雨音と雷音がその声をかき消して、ホァン以外の誰の耳にもそれは届かなかった。

   15 流雷群(後編)

 アルフレッドは、目を滲ませてホァンに語る。
「俺にはな、友人が二人いたんだ。女の子と男の子」
 少し言葉に躊躇して、しかし思い切って
「正直言うとな、あの娘に惚れてたんだ。俺は。好きで好きで堪らなかった。顔を見ようとして、覗き見て、それで頬を真っ赤にするくらいだった」
「お父さんにも、そんな時があったんだ」
「ああ、そうさ。誰にでもある。だから、あの娘から告白されたとき、俺はとてもとても嬉しかったよ。だけどね、直ぐに『うん』とは言えなかった。俺は聖職者に成ろうとしていたからね。太陽と雨の神以外、愛しちゃいけなかったんだ」
 雷が近くの木に落ちたのか、一際大きな炸裂音を立てる。
「三十秒くらいかな。迷いは。あと一分あったら、結果は違っていたかもしれない。あの娘と手と手をつなぎ、終わりまで一緒にいるような、そんな未来もあったかもしれない。実際に夢に見るくらいだから。若いままのあの娘と俺と、それで何故か五、六歳くらいの男の子と、暖炉の前で何か喋っている夢をね。何時も音が聞こえない夢だったから、何を話しているのかわからないんだけどな」
 ホァンの両手から力が抜ける。
「あれから、十年。彼女は結婚をした。でも、悲しくはなかった。むしろ嬉しかったんだよ。その相手がね。お父さんの親友でね。優しさと強さを併せ持った男だった。山々の奥を行き来し、山菜や猪を狩る勇敢な戦士だった。それでね、父さんが結婚式の神父になってね。三人とも笑ってたな」
 喧嘩を止めさせようと、間に入ろうとしたジギリドは、二人から涙がこぼれていることに気づいた。何も言わずに引き返す。
「幸せってもんは掴みどころのない曖昧なものだ。それに順位をつけるなんて、ナンセンスなのかもしれない。でも、あの時が一番、幸せだったなぁ。
 『永遠の幸せを共に分かつと神に誓いますか?』
 あれはね、儀式の言葉を借りた、俺の心からの約束だったんだよ」
「それで二人は?」
「その二人に本当に愛らしい子が産まれた。体が弱かったから、神への祈りを名目に、何度も何度も見に行ったよ。名は異国の花の名前。ホァン、それがキミだよ」
「えっ?」
「それからの二人は、どうなったのか。それは今は言わない。キミが立派に成人になるまで、話さないと決めたんだ。でも、ただ一言だけ。二人は幸せだった。そして、キミのことを愛していたんだよ」
 ホァンは平然と村長と司教の仕事をこなしていく父を、この上なく器用な人だと思っていた。余りの世渡りの上手さにイライラさえしていた。しかし、ホァンはアルフレッドも殊に愛情に関しては不器用な人なのだと思った。
「キミを引き取ったとき、俺は不安だった。あの二人ほどキミを愛せるとは、思えなかった。でも、でもね、他の誰よりも愛そうと、そう神様に誓ったんだよ。それが俺が神と交わすことになった二度目の約束だ」
 雷は鳴り続ける。雨が洞窟の中にまで吹き付けている。ただホァンには温かいものが流れていた。

   16 わたしは何もできなかった。しなかった。

 雷の夜は続く。深夜になった。
 ホァンは思う。去年までは毎日毎日あの五月蝿さの為に、身体が疲れきって倒れそうになるまで寝付けなかった。でも、今年は違う。眠る気なんてしなかった。ただただ、雷が鳴り止むのを待っていた。わたしは何もできなかった。しなかった。
 光の柱が降り注がれ、地面がわっと輝いたかと思うと、間髪いれず、飛龍が創造主へと吼えるかのような轟音が響く。
 次いで、空を捕まえようと投網を放り投げたかのように、ジグザグの細い線が視界一杯に広がる。
 外は灰色の雲をバックに、黄金色の稲光が幾つも枝分かれし瞬いている。神様が描いた一枚の絵のようで、綺麗だった。
「出るのか?」
「ジギリド!」
「なぁ、オレが言うのも何だがさ。少しはあいつのことを信じてやれよ。追い出されたんじゃなくて、あいつがそれを望んだんだろう。だからさ……」
 ホァンは首を横に振る。
「出るつもりなんかないわ。ただね、待ってるの。この流雷群が過ぎ去るのを」
「そっか……俺も待ってるんだ。胸騒ぎがしてな。お前のような心配事じゃないぞ。長い雨が明ける前の日のような、近くの泉にキャンプしに行くような。そんなわくわくした気分なんだ」

   17 空

 雨がざぁっと降る音が、遠くから聞こえる。
ザザザザザZaZaZaZaZZZaZZZZaZZZZ
 ZZZ……
「おい!」
 ジギリドの呼びかけ。
「んっ……わたし眠ってた?」
 ホァンには眠気のモヤがまだかかっていて、視界はぼんやりとしていた。
「ああ、起きろ! 雷がおさまったぞ!」
「えっ!」
 心臓が跳ねた。何時の間にか、丘へと全速力で駆けていた。しかし、体力が続かない。足が運ばれない。あれだけ心は飛んでいるのに、辺り一面の緑草の風景は全く変わらない。
「一足お先に失礼」
 傘を片手にゲンマ爺が追い越す。
 ジギリドはホァンの隣を併走していたが、
「おいおい、もっと懸命に走れよ。青春な女の子、いや、こりゃ、恋する乙女かな」
「そっ……そん」
 息が切れ、声が返せない。
「ショウガねぇな、ほらよ」
 とジギリドは背中を差し出す。
 ホァンは息が切れ、体力が切れ、走る気力も無くなっていた。ぜぇぜぇと歩きながら、
「いいわよ。先に行ってて」
「また何時もの強情っぷりか。花は切られて、束ねられて、贈られるものじゃない。野に咲くもんなんだ」
「何よそれ」
「素直が一番ってことさ」
 そうしてジギリドは屈んだ。ホァンは背中に捕まる。
 ジギリドは駆ける。ホァンは彼がこんなにも速く走れるなんて思ってもいなかった。怖いくらいの速さだ。身体をギュッと寄せる。きっと、誰もいない時に、誰もいないところで、鍛錬を積んでいたのだろう。とうとうゲンマ爺を抜き返した。
「なぁ、お前って、その軽いのな。カバンよりも軽い。だからさ、重荷に何かならねぇよ。むしろさぁ、オレってフックラピチピチお嬢さんの方が好みなわけ。ちゃんと飯食えよ」
 丘の先っぽが見えた。ジギリドも流行る気持ちを抑えられないのか加速する。
「もう、ここでいいわ」
「やれやれ、背負われてるのを、見られちゃ困るのか。誰も尻の軽い女なんて思わないよ、その、物理的にゃ軽いがな」
 結局そのまま丘へと着いた。
「クック」
 笑った、ような気がした。
 それからクックは空を見つめ、足をバネみたいに上下させて、飛んだ。

   18 翼

 イカロスは何故、太陽へと挑んだのだろうか。
 神と呼ばれ、調子に乗ったから? お日様と、少しだけ仲良くなりたかったから?
 理由はわからない。イカロスは熱で溶けた翼と共に、海の底へと沈んだのだから。
「行っちまったな」
「うん」
 草を引きちぎりながら
「オレ達を置いちまって……くそっ! オレにも翼があれば……きっとこのタイミングで」
 珍しくも汗で顔中のしわを濡らしたゲンマ爺がゆるりと
「翼があっても無理じゃよ」
 久しく使われていない、ススが溜まったような自身の翼を撫でながら
「まぁ、見とくんじゃな。十五分。これで決着は着くじゃろ。無理じゃよ。逆風が吹いとる。じゃが、或いはこの村で……いや、これ以上は夢物語になっちまうなあ 」


 空には白い雲。昨日まであった黒味を帯びたそれは、雷雲は、もう無い。これを抜ければ、村を一望できる山脈の上、次いで広い海へと至る。クックはそこにたどり着いたのだろうか、とジギリドは思う。
 ホァンはただ、ぼうっとしている。喜びの笑顔も悲しみの涙も、うかがえない。ジギリドは、昔、大きな街で興味本位で見た劇を思い出していた。物語がどうにも行き場を失った果てに、ふいに終わりをもたらす超常現象、歯車で出来た神。そんなものに呆気にとられた、失望を通り越して声も出せないそんな観客の表情が浮かんだ。拍手も野次も無い、重苦しい沈黙。劇はもう終わったのだ、と納得できないもどかしさ。ホァンもきっとこの別れをまだ、受け入れられていないのだろう。

「十五分、経ったぞ」
「あと五分」

 雨はしとしとと降り続ける。
 村全体に、水のベールを被せる。
 雨に濡れた丘の草花。コスモス。
 湿った空気が、流れている。
 ホァンの髪が風に揺れた。

「五分経ったぞ」
「あと三分」
「おいおい、いくら頑固ジジイでも 」

 クックは落ちた。

 クックはうつ伏せに倒れている。
「うむ、まだ呼吸はある。翼も無事じゃ」
 ゲンマ爺は己に言い聞かせるように説いた。
「雷雲が無くなったとしても、雲を村の上空へと集め、吹き付ける下降気流は、続くんじゃよ。そして登山家も諦める高さの切り立った山。出られんよ。出られたら、とっくにワシは海の上におるよ。お主の気概はわかるが、もう、ここまでじゃ」
 それから二人の方を向いて
「ジギリド、ホァン、あんたらもそこまでにしなさい。この村で生きること。諦めることは決して、悪いことじゃあない。ここでの生活も慣れていけば、案外、悪いものではないぞ。最近、そう思うんじゃよ」

   19 緩やかに死んでいく村

 村民の数は、二百あるかどうか。半世紀以前は、四百を超えていたのだから、半減したことになる。
 数だけではない。特定の『持つ者』、金持ちや力自慢は生き残り子孫を増やし、その他大勢の『持たざる者』は乾いた季節を越えられずに、その営みを終えることが多い。
 その為、血はどんどんと濃くなり、次の次の世代になれば近親相姦の域にまで達するだろう。
 だが、村人たちはそれらに驚く程、関心を示さない。それは無知ゆえの楽観なのかもしれないし、半ば神の定めた運命だと諦念しているのかもしれない。でも、あの青年なら、この流れを変えられるかもしれないと思った。
 流雷群の後の、娘の顔。どこか悲しそうで、でもほっとした顔。アルフレッドも何時の間にか同じ顔をしていたのではないかと思う。
 彼が出来るなら、俺たちも抜け出せるかもしれない。
 彼が無理なら、俺たちもこの運命に従う覚悟が出来るかもしれない。
 アルフレッドは疲弊してベッドに運び込まれたクックへと静かに歩いた。枕元を向いた椅子に、娘が座り、泣きそうに見守っている。
「少し二人きりで話をしたい。いいかな?」
 異邦人がアルフレッドの言葉を理解しているかどうかはわからない。でも、話しておきたかった。彼もまた自分に言い聞かせようとしただけだったのかもしれない。

   20 雨季と乾季

「なぁ、お前まだあそこに立つのか。無茶な真似は止せ。今だけならまだいい。雨に打たれるくらいなら、まだいい。風邪をこじらすくらいで済む」
 アルフレッドはクックに説いていた。職業柄、長時間のスピーチには慣れていた。
「だけどな、雨の後には太陽がある。雨季の後には乾季がある。あの重たそうな、てんで動きそうもない雲を、底から吹き出る気流が弾けさせ、空は真っ青。湖のように、真っ青になる。すると太陽が容赦なく襲いかかる。あんな所にいたら脱水症状で、衰弱し、死んでしまう。だから俺たちは普段、家に篭ってるんだ。雨季は雨に濡れぬように、乾期は太陽の影に隠れるように。お前さんら、『渡り』からみればしょうもないかもしれんが、これがこの土地での生き方なのだよ」
「クックドゥドゥードゥ」
「納得しないか。でも、考えてくれよ。俺が信じている神はね、気流を司っているんだが、こんな格言がある。
『向かい風も何時の日か追い風へと変わる』
 俺は気流の中心にある教会で何度も風を見ていたからわかる。俺たちは風になるべきなんだ。柔軟に、もっと柔軟に」
 クックが今までにない調子で、大きな声で応えた。
「クックドゥドゥドゥドウー」
 アルフレッドは続けて
「ジギリドは言っていた。楽園に向かうと。お前さんも、楽園を目指してるのか? じゃあここを楽園にしてくれんか。お前さんは恵まれた体格をしているし、意志も強い。きっと、この閉ざされた世界の、新しい旗手になれる。そう思うんだがね」

   21 動く

 椅子にもたれながら、ホァンは眠っていた。元々、体力には自信はなかったが、ここ数日、気を張り詰めていて消耗していた。
 幾重もの雲をすり抜けた朝の清潔な光と共に目覚める。ベッドには、誰も居ない。クックが居ない。
「また、あの場所ね」

 雨豚の牧草地を駆けていき、丘につく。クックは、居ない。
「えっ?」
 コールが意味深げに笑いながら
「何だあの野郎にお熱なのか? 来るのはわかってたよ」
「うるさいわね! あんたに何がわかるって言うの?」
 ホァンは秘密の場所に土足で入られたかのような不快感に震えていた。
「あいつは、確かにいい奴だよな。芯が通ってる。やっぱり湿気っちまった世界にいると、ああ言うのが眩しく映るのかな」
「何よ!」
「お前さん、聖職者の娘だろう。信心深くおしとやかじゃないと。偶には、そうだ、お祈りでもしてみりゃいいぜ」

   22 引越し

 教会は風の集う場所、気流が最も活発な場所に建てられた。それから八百年、時の流れと戦い、増改築を頻繁に行なったが、今も気流の中心に位置している。雨と太陽と気流を信じるこの宗教では、信仰の偶像化、例えば神の彫像や絵を装飾することは禁じられていた。つまり、とても質素な石作りになっている。
 ただ、四層も続く地下図書館には膨大な数の記録が眠っていて、時々熱心な信者が涼みがてら訪れる。沢山の経典の他に、毎日の天気を連綿と記した資料や、過去の司教達によって書かれ続けた日記なども連なっている。
「わしゃ、じめじめした所が好きなんじゃ」
 と言うゲンマ爺はそこを管理し、幾つかの異国語で綴られた書物を翻訳している。
「ああ、こんなところに」
 アルフレッドは、首をいっぱいに空を見上げた。
 教会の三角屋根のてっぺん。
 そこにはクックがいた。
「風見鶏みたいだな」
 思わず軽い笑みが溢れた。
「諦めたか。素直じゃないな。言えば、中に入れてやるのに」
 ホァンが走ってきて
「何よこれ? どうしてこんなところに! はた迷惑な奴なんだから」
 素直じゃないのがもう一人、とアルフレッドは笑った。

   23 『渡り』

 ジギリドは笑った。泣きそうな目で。
「お前、諦めるのか……」
「クックドゥドゥー」
「ずっと仲間だと思っていたよ。同じ楽園を目指す『渡り』として。でも、こんなんで止めちまっていいのか! 何ていうかさ、身体の奥底から、湧き上がる、想いってないのか?」
「クックドドドゥー」
「オレはまだ取り憑かれてるぜ。何時か、オレは空を飛ぶ。お前の負けた下降気流に逆らってな」
「クックドドドゥー」
「そりゃダメだ? ってか。他に何があるんだ。飛べない『渡り』に何が残るってんだ? お前、乾季があるのを知ってるだろう。気流が吹き出て、立っていられないくらい。雲が散り、雨が止む。お前のように大きすぎる大飯食らいは、栄養が切れ、干からびて死んじまうぜ。だから、だからさ、もう一度、飛んでくれよ!」
「クックドゥドゥー」
「わかんねぇよ!」

   24 お願い

 赤モヤシと青ピーマンの、作りたての野菜炒めが出来ていた。ほかほかと湯気が立ち、唐辛子の匂いがアルフレッドの鼻を刺激し唾液を溜めさせる。
「へぇ、珍しいこともあるもんだな」
 口にしてみる。火の通りが甘いのか、ベタベタしている。ホァンは得意げに
「わたしでも、やる時はやるのよ。オカワリも、ちゃんとあるわ」
「でも、ちょっと量が多すぎないか?」
 ホァンは顔を伏せた。
「あいつの分か……」
 取り繕った笑顔で
「うん、教会の番人さんにね」
「確かにここ数日、物珍しさからか、訪ねる人もお供えをする人も増えた。でも、一過性のブームだよ。雨季が済めば、萎んでいくだけだ」
「うん、わたしもそう思う」
 そこで意を決したかのように
「だから引き取って!」
「えっ?」
「ウチに住ませてあげて! 重荷になるかもしれない。でも、今までお父さんが一人で背負ってきた荷物。わたしが少しでも肩を代すわ。その分に、ほんとに少しだけでも軽くなった分に、あの人を入れてあげて……」
 子供の駄々のようだった。しかしアルフレッドには、自分がホァンとは血を分けた親子ではない、と告げてから初めて受けるリクエストだった。

   25 おしゃべり

「ねぇ。クック、何でお家に来ないの?」
「此処の方が快適なのさ。風も読めるし、空も見れる」
 饒舌に言葉が動く。
「喋れたの!」
「ああ、黙っていてゴメン」
「いいわ、許してあげる。その代わり、教えて。あなたは何処からやって来たの? 何を見てきたの?」
 ホァンにはこの村が全てだった。だから偶に酒に酔ったゲンマ爺やジギリドから聞く異国の話は、とても刺激的で、心を豊かにしてくれる気分へと浸らせた。肌が切れるような冷たい風吹く空を、輝かせる虹色のカーテン。頂上まで水しぶきで見れないような、高く巨大な滝。クックは感慨深げに話す。
「小さな島、色んな他の『渡り』と編隊を組んで飛んだり。出会ったり、別れたり。でも、それも最後だ。此処を住処にするよ。僕は渡れない『渡り』だけど、素晴らしいものを見つけた。本能よりも、もっと素晴らしいものを」
「クック、それって何?」
「クックドゥドードゥ」
「はぐらかなさいでよ。恋とか愛とか夢とか、そういうもの?」
「クックドゥドードゥ」

 父が目玉焼きを焼いている音が聞こえた。何時もの朝。
「夢……か。覚えてない。どんな夢だったんだろう。とても幸せで、でも……」

   26 液体

 ジギリドは屋根の上に立つクックを視界に見つけた。しかし、何も言わずに教会の扉を押した。
 地下図書館には、澱んだ空気と湿気が溢れていた。整列した黒の本棚に、茶色い書物が並んでいる。
「どうやら彼も、この村の一員になったようじゃぞ。アルフレッドから聞いた」
「そっか」
 ジギリドは曖昧な相槌を打った。
「なんじゃ、驚かないのか?」
「どうせ他人が決めたことだろ? オレはまだ『渡り』のつもりだけど、村民だ」
「ワシもいつの間にかなぁ」
 少し目を伏せてジギリドは
「オレも脆い。あの娘と一緒にこの村に住んでもいいかなと、最近、思ってる。そんなことしたら、もっと嫌われちまうのにな」
 渡れない『渡り』に何が残る。口癖となったその言葉に、何時も目を輝かせ笑ってくれたのはホァンだけだった。
「オレたちも、雨豚みたいなもんさ。ただ水を搾取されるために、生を終えるためだけに生きている 」
 ゲンマ爺はほぅっと息を吐き
「水と人生か。それは誰にも当てはまるな。ワシらはな。液体を運んでいるんじゃよ。遠い昔から、もっと遠い未来へとな」
「液体?」
「血液じゃ。ワシらは誰かを好きになり、愛し、大地に血を残す」
「……」
「もっと言えば、汗や涙だって、そんなもんかもしれんぞ」
「……」
「此処に留まるのなら、ワシは歓迎するよ。あの娘も、きっと、お前さんを愛してくれるさ」
 雨音はここまで届かない。図書館の静寂の中、ぽつりぽつりとした一言が、妙に鮮やかに響いた。
「答えは出てるんだ。あのマングローブに大切な人を置いて来た。あいつは今も空を飛ぶオレを想い描いてくれているんだ。だからさ、その想いに応えなくちゃな……だけど、それでも俺は」
「奇遇じゃな。ワシも置いて来た。家族、をな。どうしても渡りたくなるんじゃな。『渡り』だから」
 ゲンマ爺は言い訳じみた台詞に、少し苦しそうに
「雨豚には翼がない。お主の翼も壊れとる。そうなると、翼を持つワシが滑稽じゃ。すっかり枯れて、もう使わない羽根の固まり。お主に分けてあげたいよ」
「分けてくれよ。生まれ持った翼が全てじゃない。オレ……翼作ってんだ」
 ジギリドの目に光が宿った、ように見えた。
「それで、今は三人で飛べるように、二つ作ろうと思ってる」

   27 ちゃんばら傘

 鉄に黒い布を貼られた傘が、振り回され、ぶつかり、ミキミキと音を立てる。
「ダイチザン!」
「カイハザン!」
「アバンストラッシュ!」
「アバンストラッシュクロス!」
「ギガブレイク!」

「ギガブレイクは反則だろー」
「やられたー、って言ってよ」

「クズリュウセン」

「これは、もっと反則だよー」
「やられたって言えよー」
「ダメでしょ。誕生日にもらった傘で、あんなことしちゃ!」
 何時の間にか家の庭に着いていた。
「でもでも、そろそろ雨やむよ。カサ、要らなくなるよ」
「そうかも知れないけどね」

   28 長靴潜水

 おやつ時に、寺子屋帰りの男の子が二人。右手に傘、左手に手提げを持っている。
「今日も、ちゃんばら傘しようぜー」
「ダメだよ、母ちゃん、怒る」

「そんならさ、長靴潜水」
「えっ? 何それ?」
「おう! 例えばそこの水たまり」
 ばしゃんと水たまりの淵に入る。
「ほら、長靴で濡れない」
 徐々に真ん中へと足を滑らせ
「うん、ぎりぎりギリギリ」
「ギリギリだねー。濡れないね」
 長靴は上部まで水に浸っていたが、中の靴下は濡れていない。それでも心なしか、少しひんやりとする。
「そう! 濡れたら負け! じゃ、次、お前!」
「やだよー」

 しぶしぶ水たまりに入る。徐々に深くなってくる。突然、沈む。
 膝から腰までビショビショになった。慌てて戻ろうとすると、さらに深みにはまっていく。水の奥の奥まで落ちる。水面からの景色は見えなくなり、こぽこぽと気泡とともに深みへと沈む。銀色の魚たちの群れを通り抜ける。底の方には、巨大な幽霊船があった。ぼろぼろの布を纏った骨人間が、海賊帽を被っている。
「ふふふっ、活きのいいおこちゃまだ。みんなー、今夜はごちそうだぞー」
「あいあいさー」
「あいあいさー」
「あいあいさー」
「あいあいさー」
「あいあいさー」

「ってことになっちゃうよ」
「そんなん、ないって!」
「でも、お父さん、いるって言ってたよ。水たまりのお化け」
「いないって!」

「でも、止めとく?」
「あー、おう」

   29 てるてる坊主

 てるてる坊主、照る坊主。玄関先に付いていた。
「おっ! 懐かしいなぁ」
 仕事帰りの鞄を置きながら、感慨深げに撫でた。
「あの子、そろそろ太陽が恋しいみたい」
「それで、乾季も半ばになると『雨あめ降れふれ』言い出すんだろう」
「まぁね、でも、いいんじゃないの。素直で」
「そろそろ雨雲にサヨナラして太陽にオハヨウする祭りがあるからな。余り小遣い与え過ぎんなよ」
「はいはい」

   30 海

 クックを見上げるホァンの顔は、淡いピンクに染まっていた。
「ねぇ、クック。クックは色んなところ旅してきたんだよね」
「クックドドゥー」
「ね! 海ってどんなところ? ゲンマ爺とジギリドが言ってたけど、辺りを見渡す限り、一杯の水が広がってるんでしょ? お風呂でちゃぷちゃぷするのと比較にならないくらい大きな水の波紋が、途切れることなく続くとも言ってたわ」
「クックドゥドドゥー」
「なーに? わかんないわよ。これからこの村に住むんだから、こっちの言葉くらい覚えなきゃ!」
 そこで思いついたように、しかしずっと考えていたかのように滑らかに
「そうだ、ゲンマ爺に教えてもらえばいいわ! あの人、二十ヶ国語も話せるって言ってたわ。眉唾ものだけどね。それでも、四、五の外国の言葉を聞きかじっているらしいの。簡単な単語とかなら、わたしも手伝うわ。そしたら、クックの旅の話、わたしにも聞かせてね」
 ホァンはくくっと笑いながら
「時間はタップリあるわ。ゆっくりゆっくりこの村に溶け込んでいきましょ!」

   31 屋根の上で

 壁に梯子がかけられた。ごそごそと一段一段、それを登る男が一人。
「ようっ!」
 コールだった。
「クックドゥドドゥ」
「ここは風が気持ちいいな。そろそろやって来るぜ! 嵐が! 祭りが! 俺は行かないけどな。あんなのは家族持ちと金持ちが、馬鹿騒ぎして酔っ払うためのもん、さ」
 コールは勢いよく話そうとするが、ロレツが回らない。
「なぁ、そろそろお別れだな。今日で最後だ。俺さ、何か調子悪いんだ。喉の奥がひりひりして、乾いて乾いて性がねぇ。最近は食べ物を、通すのも、億劫になった。死ぬな、こりゃ。乾季で、もたないよ。背中も骨が飛び出ているみたいに死ぬほど痛むしな。でも、死んでも泣いてくれる人はただの一人もいないんだ」
 クックは何時も通りどんな表情も浮かべなかった。それがコールには有難かった。
「こうなると、後悔するんだよ。ああ、つまらない見栄や羞恥なんて捨てて、もっと素直になってたらってな……お前はさ、もっと素直になるべきなんだよ。あの娘のこと好きなんだろ?」
「クックドゥドドゥー」
「余計なお世話だって? 馬鹿にすんじゃねーよ」

   32 気象予報士、泣き止む……

 静かな夜だった。風に揺れる草の音が聞こえるくらい。おかげで夜はぐっすり眠れるような、それはそれで寂しいような、そんな夜だった。
「明日、祭りだな」
「えっ?」
「カエルが泣き止んだ」
「うん」

 雲で覆われた空。
 太陽が顔を出さない今は、夜明けは劇的には起こらない。ゆっくりとゆっくりと景色に色が付き始め、何時の間にか朝が来る。灰色の空、石炭色の教会、赤レンガの石畳。
 クックの頬を涙が伝った。

   33 祭り

 アルフレッドはゲンマ爺に問う。
「風からの通達では、何時ごろだ?」
「ちょうど夕刻時だな」
「そうか……」
 気流が猛り、雨雲が去り、太陽が顔を出す時、教会では儀式がある。司教が感謝と挨拶を込めて、祈りを唱える。そしてそれを祝う祭りは最高潮に達する。

 その夕刻時が迫ってきた。
 村民が集う。
 ぼったくり価格の屋台も賑わい始めた。山菜おこわが、通常の三分の一の量で、二倍の値段がする。鮎の塩焼きが、豚肉のような値段になる。それでも祭りに浮かれた群衆によって次々と売れる。
 赤いスカート、水玉のブラウス、緑の帽子。村人たちそれぞれが、とっておきのオシャレをして、人ごみを練り歩く。
「母ちゃん、おいしいよー」
「採れたてですからな」
「また、嘘ついちゃって」
「奥さん、ほんとですよ」
「でも、おいしいよー」

 ゲンマ爺とアルフレッドが教会から厳かに、しかし何処か陽気そうに出て行く。
「ほれ、こんな壁の花、いや教会の風見鶏か。そんなんになっておらんで、もっと楽しまんか!」
「クックドゥッドドゥー」
 ゲンマ爺の翻訳が始まった。
「何、大切な用事がある?」
「またいい加減なことを。ゲンマ爺、知らないんだろ。コイツの言葉を」
「わしゃー、歩く博物館と呼ばれた男じゃぞ」
「今は、単なる酔っ払いだ」
「なんだとー、わしゃ七つの海を制した大海賊王じゃぞー」
「だから酔いすぎだよ」

 ホァンとジギリドは、そんな二人を笑いながら
「こういうの見てると、つくづく俺は『渡り』なんだなと実感するよ」
「そう?」
「なんつーか、浮かれねぇんだよな。どんちゃん騒ぎ出来ないんだ。やっぱさ、オレってよそ者なんだなーって」
「あいつも、そうかしら」
「だろうな。あんな見晴らしのいいところにいるのに、下なんて見やしねー。ずっと空ばっか見てる」
 ホァンは首を縦に振る。
「不思議ね。わたしもそう。ねぇ、もしかしてわたしも『渡り』の才能があったりして」
「ねーよ」
 うつむき
「それもそうね」
「いやさ、ごめんな。時期が来たら、俺とお前とあいつ、三人でこの村、抜け出さないか? 才能はどうか知らないけど、一杯練習すれば、何とか形になる。流石に『渡る』のは無理だけど、空を飛ぶことはできる。ここから、俺のたどって来た風の道に大きな街がある」
 ジギリドは両手を広げて
「そこでさ一緒にサンマ釣って、山ぶどうのワイン飲んで、楽しくさ。こんな祭り、馬鹿らしく思えるくらい、何時もたくさんの人で賑わってんだぜ」
「そっか……行ってみたいな。わたしには翼がないけど」
「用意してやるさ。お前の分の翼も」
「何の根拠もないデタラメでも、嬉しいわ。行ってみたいな、わたし。此処ではない何処かへ」
 ジギリドは悟った。それは口中が一杯になるような甘い、甘すぎる夢だった。
「デタラメなんてことは……いや……ああ……そっか……デタラメだ」

「いよいよだな」
「うむ、ヒック」
 風の流れが変わった。雨の日は終わろうとしていた。

   34 在るべき場所

 風が暴力的に天へと吹き付ける。傘を広げたら浮かんでしまうくらいの上昇気流が、吹き上がる。
「神よ、恵みを、暖かな太陽を」
 アルフレッドが儀式での祈りの言葉を紡ごうとした時だった。
「クックドゥドゥドゥドゥドゥー」
 高く響く声で、クックは叫んだ。
 翼を広げる。
 アルフレッドが声を張り上げる。
「まさか」
 ジギリドは自嘲気味に
「いやいや、無理だよ」
 しかし、ゲンマ爺は遠くを見つめる目で
「もしかしたらと、思い描いていたよ」
「何を?」
「全盛期の、力のあったワシならどうするか。ここ何年も。今しかない」
「こんな豪風の中、無理だよ」
「だからこそ、じゃ」
 ジギリドは声を上げる。
「ああ!」
「雲を蹴散らす気流、上昇気流。クック、あなたまさか」
「帰るんじゃよ、空へ」

 風が上へ上へと、地の底から流れ始める。
「待って!」
 ホァンは泣きながら止めようとする。屋根上へと届く訳がない右手を一杯に伸ばす。
 ジギリドはそれを制する。
「『渡り』は渡る為に生きるのさ、この世界を。ありがとな、希望を。東の楽園、行ってこいよ!」

   35 グッバイレイニーデイ

 風は地を這いながら、島の外側から中心の教会へと吹きつける。教会から風の根元へと三つの丘を越え、二つの森を過ぎた辺り。かろうじて教会が見える。それを見つめながらコールは口を開いた。
「なるほどな」
 それから背を向けて、何時もどおりの家路をたどる。ただその顔は今までになく、にこやかだった。
「底辺からのぼっちまえよ! てっぺんにな!」

 ホァンはずっと俯いていた。涙が止まらない。一人ぼっちになってしまう、涙の底に沈んでしまう。その肩に暖かな手がかかる。
「見守ってやれよ。これで最後だ」
 そこには何時も見守ってくれていた『渡り』の顔があった。振り向くと母の胎内にいた頃から見つめてくれたアルフレッドとゲンマ爺の顔。そのまま視線を屋根へと持ち上げる。
「クック……」
 涙は止められない。でも、下は向かない。

 アルフレッドは祈りの言葉を続ける。
「神よ、恵みを、暖かな太陽を、罪深き我らに……旅人にも」
 ゲンマ爺が「あの堅物がなぁ。ほっほっ」と陽気に笑った。

 ジギリドは嬉しさと、それ以上の悔しさに震えていた。ああ。そうだ。俺はまだこれで最後じゃない。
「追いついてやる! 楽園で……いや、空で待ってろ!」

 ホァンも涙の勢いに負けないように言葉を吐き出す。
「バカ! 早く飛びなさいよ! 飛ぶのよ! クック! ずっと今日を待ってたんでしょ!」

 クックは屋根上から、初めて、みんなの方を向き
「クックドゥドゥー」
 と言った。

 クックは目線を空に移し、翼を上方に向け、教会の屋根を蹴って、上昇気流に乗り、飛んだ。
 周りから歓声が上がる。太陽が顔を出す。雨の日は終わった。


 ホァンは濡れた瞳の焦点を、何処にも置かずに呟いた。
「クック、最後に何て言ってたのかな」
 アルフレッドが
「さよなら、ごめんね、かな?」
 ゲンマ爺が
「行ってきます、じゃよ。他には何もあるまい」
 ジギリドが空を見上げながら
「クックドゥドゥー、だよ」
 久しぶりの太陽が眩しい。
「うん、クックドゥドゥー」

  * * *

 渡り鳥が、一匹、飛んだ。高く、高く、空へと。

  * * *


2015-01-06 06:33:59公開 / 作者:えんがわ
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この作品に対する感想 - 昇順
 遅くなりましたが、読ませていただきました。断片的なシーンが連なる独特な書き方ですね。もしかして骨組みだけ作って、肉づけされていない未完の作品? とも思ってしまいました。そうでないとしたら圧倒的に描写が少ない。はじめのうちは、「わかりにくいなあ」と思ってなかなか読み進められませんでした。でも慣れてしまうと逆に、こんな断片的な書き方でこれほどの情緒と感傷を生み出せるのか、とびっくりしてしまいました。地の文にも美しい表現が多いのですが、何より会話に深みがあって、一言二言しか発していないのに人物の感情や表情がわかってしまうというか。ときおり挿入される村の子どもたちの様子もいいですね。全体的に、何となくマンガっぽいと感じました。ジブリや少年漫画みたいな世界観もそうですし、文章の書き方、シーンの切り方もそう。小説としてならもっと書き込んでほしいのですが、もし、これに絵がつくとしたらすばらしい作品になるだろうと思いました。(もしや、と思って検索したらやっぱり、これ本当はAAで絵が付くんですね。でもぼくは小説版のほうが好きかな。想像がかき立てられますし笑)
 もちろんストーリーも良かったです。クックが飛び立つラスト、それまでの伏線がきちんと効いての終わり方で、お見事でした。ちなみにぼくのお気に入りのシーンは、雷がやんだあと丘へと走るジギリドとホァンの場面です。この二人、どうなっていくんだろうなあ。
2015-01-22 23:41:17【★★★★☆】ゆうら 佑
ゆうらさん、あああ、ありがとうございます。
断片なんですよね。プロットを書いて、そこで力尽きて、肉付けが不十分で。

・圧倒的に描写が少ない
・小説としてならもっと書き込んでほしい

胸に刻んで刻んで切り刻み、こうしたスタイルは今に始まったことではないので、長い時間がかかりそうですが、何時か小説としても納得できそうな濃さとか書き込みを出来るように、意識していきたいです。
ジブリは「ラピュタ」とか「紅の豚」が好きで、影響はモロ出てますよね?

会話は気に入っていただいて嬉しい。なんか乗ってる時はキャラからしゃべってくれることがあって、そういう体験を増やして行きたいです。

AAは。わー。
はじめての場所ではじめての人に、自分が「2ちゃんねらー」だってバレてしまうと、ほんと恥ずかしー。うわー。
でも、検索していただき、AAまで読んでいただき嬉しいです。
ゆうらさんの旺盛な探求心によるところが大きいのでしょうが、読んだあとなにかしたくなるような余韻があったなら、幸いです。
小説とAAは自分にとって表現の両輪で、どちらか一方でも欠けてしまうとダメダメーになっちゃいそうなんで、こうして続いていくと思います。
文章がスカスカ過ぎるのも、ちょっとAA化にひきずれれたのかなー。頑張ろう。

ラストにふれていただいて嬉しいです。
ほんとはそこで曲を流したかったんです。堀下さゆりさんの「グッバイレイニーデイ」という曲を。
でも、著作権怖いですからー。怖い怖い。
2015-01-24 09:58:50【☆☆☆☆☆】えんがわ
計:4点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。