『カノメリノヤミツメ〔完結〕』作者:夏海 / t@^W[ - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
和風ファンタジーを意識した、人間の醜さを描きたい、そんな作品です。
全角70553.5文字
容量141107 bytes
原稿用紙約176.38枚
     カノメリノヤミツメ


  序


 闇の森。
 白の月。
 笛の音。
 紅の唇。

 漆黒の髪。
 墨染の衣。
 蒼白の肌。
 微笑の頬。

 妖しき女は、魔と神々しさを纏い、舞台の如き巨石の上にて能弁なる月明りを帯び、拍の無い蜿蜒たる調べを奏する。
 若き男は深き森の、闇を月色が裂く、その開けた草原の様子を窺っていた。
 カノメリノヤミツメ。
 その名が、男の脳裏に脈絡無く浮かんだ。
 黒き衣を纏いて、封じられし神域であるカノメリを彷徨う妖(あやかし)。カノメリに住まいし大神の使いにして、淫靡なる肢体の持ち主。
 その笛の音は聴く者を幻惑し、現とは異なる世へと誘う。
 若き男は、幼い頃より寝物語に聞かされたカノメリノヤミツメをその眼でしかと見た。黒い姿、白い肌。……垢染みて月光を照り返す衣の、破れのある裾から覗く腿の白さが、男の視線を釘付けにした。
 男は息を呑み、震え、立ち尽くした。
 ヤミツメが、応えるように、嗤う。
 『カノメリサツ』の夜、出逢うはずのない二つの琴線が、呼応する様に微かな音色を奏で始めた。




   第一章

 アメノシキシマは、大洋に浮かぶ孤島である。
 漁民や海賊が漂流の果てに辿り着いた、地図にすら載らぬ島。
 強く吹きつける潮風、生い茂る原生林。
 漂流民達はその限られた島に、畑を、村を、社会を、作り上げた。同時に、悪しき風習をも。
 島に、秋がやって来た。




 風が、音を立てて吹き抜けてゆく。
 空から射す陽の光は、夏の盛りを過ぎて弱弱しく変わり始めていた。もうすぐ、風雪吹き荒れる厳しい季節がやってくるだろう。
 イチクラサトノシズネは、傾斜地に作られた畑で、父であるイチクラサトノコマキと共に収穫期を迎えたヒエの刈り入れを行っていた。
 シズネは一つ息を吐いて、軽く伸びをした。
 錆びかけた鎌を中腰で振るうのは、腰にくる。
 しかし、歩き始めた時分より野良仕事を手伝わされ続けてきたシズネにとっては、もう慣れたものであった。父のコマキにも負けない速さで刈り取りを続けている。
 シズネは日焼けした肌に精悍さを湛えた、細身の青年である。決して大柄という訳ではないが、筋骨逞しく、贅肉はどこを探しても見当たらない。日に焼けて黄色く色褪せた、麻の生成りの着物を身につけている。いかにも純朴さを絵に描いたような幼い顔立ちの青年であった。
「あ」
 シズネは呟く。見ると、畑の畦に仔犬が一頭ちょこなんと座っていた。柴犬だろうか、愛くるしい瞳がシズネを見つめている。シズネは近づいていく。
「可愛いな、お前」
 その小さな頭を撫でて、懐から取り出した小さなキビの団子を一つ、仔犬に与えた。仔犬は驚いたようにシズネを見つめ、それから遠慮がちに団子をくわえて駆け去っていった。
 その後姿を見つめて、彼は小さく微笑む。
「あ、父さん」
 気分良く見上げた空に、シズネは鳶を見つけた。
「トンビが回ってる」
 円を描くように、高く高く舞い上がっていく鳶を、シズネは指差す。
 コマキは無言で刈り取りを続けた。
「今日は何かいいことがあるのかな? いつか父さん、言ってたよね。トンビが空で回ってるのを見つけたら、いいことがあるって」
「手が止まっている」
 コマキは、静かに言った。低く、かすれた声である。
「もうすぐ、『カノメリサツ』がやって来る。それが終わって冬になったら、いよいよお前の祝言だ。怠けている暇はない」
 コマキの声音は優しい。長年の労苦が刻みつけられた皺だらけの顔に、頬笑みが浮かんだ。
「そうか、そうだったね。いいことは今日じゃなくて、『カノメリサツ』を越えてからだったね」
 シズネはやや浮かれたように笑った。それを見て、父の顔色が僅かに曇る。
「良いことは、悪いことの始まりだ」
「え?」
 聞き返したシズネの顔から目を逸らし、コマキは先程までの仕事に戻った。
 良いことは、悪いことの始まり。
 シズネは、父のその奇妙な言葉を首を傾げながら聞き流した。
 人生万事塞翁が馬、とでも言い換えたならば、コマキの伝えたかったことがシズネにも伝わっただろうか。
 いや、シズネにしろコマキにしろ、諺を知らない。
 彼等は教育を受けていない。それは村里に暮らす人々の中では何も特別なことではない。
 そもそもこのアメノシキシマは、文化圏から遠く離れた洋上に浮かんでいる。
 新しい造船技術、航海術の進歩からも取り残され、大洋を渡って文化の香りを運んで来る程の船乗りはそう多くない。
 命懸けの航海によって齎された貴重な書物は、一般の村人の目に触れることなく、島役人の庄屋が全てを独占しているのであった。
「シズネ!」
 畑の向こうの方から、若い男の声が聞こえた。そちらに目を向けると、シズネの顔がほころぶ。
「ヤカデ!」
 駆け寄って来る同年輩の青年に対して、シズネは親しげに呼び返した。
 膝に手をつき、肩で息をしたアカミチツチノヤカデは、少しばかり緊張した様子でシズネを見上げた。
 シズネに比べるとやや小柄なヤカデだが、十九のシズネに対して、ヤカデは二十二。シズネからすれば年上なのだが、若い衆の少ない村里のこと、二人はまるで兄弟のように仲良く育った。
「どうしたんだ、そんなに慌てて?」
 シズネが竹の水筒を差し出しながら言うと、ヤカデは水筒の水を一口ごくりと喉を鳴らせて飲み、口の辺りを袖で拭った。
 ヤカデの人を疑う様な視線が、今シズネを射ている。
「カクラ様の、使者の方がこれからここに来るぞ」
「ここに?」
 驚いた様子のシズネは、そう聞き返した。
「そうだ、……ああなんだなんだ! そんな汚い野良着しか無かったのか? もしも失礼があったら」
 そういうヤカデの野良着はシズネ以上にひどい。継ぎ目からは糸がほつれ出て、元は何色だったのかというくらいに赤茶けた着物である。
 シズネがヤカデの言葉に、思わず自分の野良着を見下ろしていると、遠くから駕籠舁きの威勢の良い掛け声が響いてくる。
「来たぞ来たぞ! くれぐれも、カクラ様の使者の方に、失礼が無いようにな!」
 そんなことを言われても、と口ごもるシズネを無視して、ヤカデは弟分の肩を軽く叩いてから、駕籠舁き達の声から逃げるように畑の外れの林に分け入っていった。
 やがて駕籠舁きがシズネの前に辿り着き、質素な駕籠を畑の土の上に置いた。
 駕籠は質素だが、このアメノシキシマで駕籠に乗れる、というだけで、それは既に乗客が貴人であることを意味する。
 シズネは緊張の冷や汗をかきながら、貴人が現れるのを待っていた。
 その脇で、コマキが黙々と作業を続けている。
 畑の中に、気不味い沈黙が流れた。
 どの位時間が経っただろうか、漸く駕籠の覆いが上げられた。
 そこには、村里では見かけることの無い、色の白い細面の優男が座っていた。身につけている裃は決して上等とはいえない代物だが、シズネのような農夫からすれば、それは天女の衣に匹敵するほどの、別世界を感じさせる衣服だった。
 対面する両者の視線は、重なる事がない。
 身を強張らせながら使者の胸の辺りを見つめるシズネ。貴人を前にして跪く礼儀も、シズネは知らない。
 汚らわしい物を見るように口許を片手で覆いながら、シズネの粗末な野良着をじろじろと眺め回す、使者の男。
 暫しの沈黙の後、緊迫した心地に耐えられなくなったシズネの方から、言葉を発した。
「あの、今日はどういう」
 シズネの言葉にも、使者は不躾な視線を変えない。
「うむ、祝言の日取りのことじゃ」
「日取り?」
 問うシズネの声にはまるで興味を示さず、男は今度はシズネの日に焼けた黒い顔を睨め回す様に見つめた。
「あの、日取りが変わったのですか」
「あぁ、そうじゃ。うむ、祝言は冬の頃に、ということじゃったが、ミヤノミシメノカクラ様は御多忙なお方じゃ。先の事を見通すのは難しゅうてな。手空きを探すのに難渋しておる」
 言葉を連ねる間も、使者は不躾な視線を変えない。
「そこで、これはミヤノミシメノカクラ様の仰言った事なのじゃが、お主とシト殿の祝言は、カノメリサツのすぐ後にしてはどうか、との仰せじゃ」
 一気に言い終えた使者は、満足気に不遜な笑みをこぼした。
「カノメリサツのすぐ後? しかしそれでは、里の掟が」
 言いかけた途端、使者の顔が苛立ちに歪んだ。
「小百姓、貴様、誰に意見しておるか!」
 鬼の様な形相でシズネを睨みつける使者の男。
 シズネは半ば怯み、助けを求めるようにコマキに視線を送るが、勤勉なコマキは黙々とヒエの刈り入れに精を出している。
「カクラ様は、この島を取り仕切っておられる御方だ。塵芥の集まったこのような里の掟など、取るに足らんわ!」
 細いが良く響く、使者の声だ。
 確かに、その通りかもしれない。思わずシズネは頷いてしまった。
 ミヤノミシメノカクラ、島の役人を取り仕切る絶対的な権力者。全ての富をその掌中に収め、全ての罪を裁き、全ての人間を支配する。
 シズネなどとは住む世界の違う存在。
 奇縁により関わる事になりさえしなければ、シズネのような平凡な里の百姓など一生出会うことのなかったであろう、大人物である。
「失礼しました」
 シズネは頭を下げた。
 折角巡って来た幸運を、この貧困から抜け出す一筋の救いの光を、手放したくなかったのだ。
 乳飲み子の頃に母を亡くしたシズネを、その無骨な腕に抱え、近所の乳の出る女の家々を回ってくれた、大切な父の為にも。
「ハッ! 分かればよいわ。して、よもや異存はあるまいな」
「はい」
 シズネという男にとっては自分の頭を下げることなど、造作も無いことだ。
「ならば、良い。以後気をつけることじゃ」
 そう吐きつけて、使者は駕籠の簾を下ろした。これ以上薄汚れた百姓の姿など見たくも無い、とでも言うような態度であった。
 駕籠舁き達は汗を拭うと、もう一度駕籠を持ち上げて、声を掛け合って足取り軽く去っていく。
 残されたシズネは、項垂れて視線を落とす。
 足下には乾いた土塊が転がり、秋の陽を浴びて影を作っていた。





 奇縁は、その年の春に芽生えた。
「ミヤノミシメノシト様が、近々婿を取るらしい」
 春のまだ雪解けから間もない頃、アカミチツチノヤカデが畑に鍬を入れているシズネに、そう教えたのだった。
 春の花曇りの空は、陽光を鈍く大地に注いでいる。
 迸る汗に潮風が涼しく、毎年の恒例である仕事にも精が出るシズネは、鼻歌交じりに鍬を振るっていた。
「俺たちには、縁の無い話、そうだろう?」
 シズネはさして気にも留めずにそう応える。
 ミヤノミシメノシト、かの島宰相ミヤノミシメノカクラの愛娘であり、その姿を見たことのある人間すらシズネは知らない。それほどに住む世界の違う人物なのである。
 小百姓とは、住む世界が違う。シズネは余計なことは考えず、若き汗を流していた。
「ああ、その通りかもしれん。だが、果たしてどんな婿を取るのか、気にならないか?」
 ヤカデは心ここにあらずといった風情で、鍬の柄に顎を預けている。
「こら、手が止まってるぞ。そんなことだと、今日の食い物は出せないな」
「な、いや、少し休んでただけだ!」
 ヤカデは声を張り上げ、盛大に鍬を振るい始める。シズネはその様子を見て笑い、自分も負けじと一層精を出し始めた。
 ヤカデの家は、田畑を持たない水呑百姓であった。ヤカデだけでなく、父母と3人の妹達も皆、村の土地持百姓の野良仕事を手伝い、辛うじて糊口をしのいでいた。
 シズネはといえば、狭いながらも先祖伝来の田畑を受け継いだ父コマキの下に生まれ、村里で言えば恵まれた暮らしをしている方だ。貧しいながらも毎日の食に事欠くこともなく、毎年冬を超えることが出来ている。
 それからすれば、ヤカデは悲惨な生活を強いられている。
 極貧の家に生まれ、嫡男でありながら継ぐべき家督も無く、稼いだなけなしの日銭は冬への蓄えに全て回され、遊ぶことも許されず、寝る間も惜しんで仕事に明け暮れる毎日。働けど働けど生活は楽にはならず、幼馴染のシズネにすら顎で使われる始末。
 シズネなりにそんなヤカデの事情を知っており、彼なりの温情をかけてはいるが、しかし人を使う以上は甘やかすばかりではいけないと心を鬼にして、ヤカデを叱咤しているのだった。
 ヤカデが数年前の祭りの夜に飲み慣れない酒を口にして語った言葉を、シズネは忘れてはいない。


『俺の家は、鬼の家だ』
 赤ら顔で不機嫌そうにヤカデがもらした言葉。
『シズネ、お前も知ってるんだろ。……ぉい、陰でお前も嗤っているんだろ。なあ、答えろ!』
 シズネ自身も酒杯をいくらか重ねており、ぼう、と惚けた頭ではあったが、いつもと明らかに違うヤカデの態度に戸惑っていた。
『……口減らしだ、姥捨だ、子殺しだ……それの何が悪い!?』
 呆気に取られたままのシズネに、ヤカデは詰め寄って襟首を掴み上げた。そして、そのまま泣き崩れたのである。


 そのことがあってから、シズネはヤカデに対して以前よりも深い同情を感じている。
 細かい事情は知らない。
 だが、親友である自分に対してすら話せない苦痛を、ヤカデは抱え続けていたのだ。
「おい、今度はお前の手が止まってるぞ」
 ヤカデが意地の悪い笑みを浮かべて、そう言った。
 シズネは軽く狼狽えて、わかってる、と言った。



 その日の夕刻の出来事である。
 日が暮れる前にはもう、シズネとコマキは雑穀の粥と香の物の質素な夕餉を済ませ、藁敷きの褥に身を横たえていた。
 雨が降っている。
 板葺きの簡素な屋根に、雨粒が小気味良い音を立てている。灯りの無い室内は、雨音以外には何も聞こえない、雑音と沈黙の交錯する空間である。
 明日の天気はどうなるか。
 シズネはまだ、雲の動きや風の匂いで天候を予測することは出来ない。コマキのように四十余年も空と大地とに挟まれて生きてきた人間ならばわかることも、十九の年月しか知らないシズネではまだ感知出来なかった。
「父さん、明日は晴れるのかな」
 寝床を並べた父、コマキに、シズネはそっと声を掛ける。眠っていないのは息遣いで分かっていた。
「雨だ」
 飾り気の無い言葉を、コマキは口にした。無骨な言い方だが、決して冷たくもない。声音が優しいためであろう。
 雨か。シズネはやや陰鬱な思いで天井を見上げた。
 雨が降れば、野良仕事は捗らない。
 空模様と、土と相談しながら糧を得るシズネ達は、干天に唇を噛み締め、豪雨に立ち尽くすより他に生きる術を持たないのだ。嘆いても嘆いても、天は情けをかけない。
 重い溜息が、雨音の中に紛れて消えた。
 その時であった。
「……し、……もし」
 何処からか、蚊の鳴くような弱々しい女の声が聞こえてきたのである。
 シズネは、上体を起こして辺りを見回した。コマキは瞼を閉ざしていて、今の声に気付いた様子は無い。
 一体、何処から?
 不思議そうに、暗い室内を見回すシズネだが、雑多な品物の溢れたそこに女の影を見つける事は出来ない。
 やはり聞き間違いだろう、と決めつけ、改めて床に身を横たえたシズネであったが。
「もし、もし」
 聞き間違いではない。寧ろ先程よりも明瞭に、女の声が耳に届いて来た。
 シズネは何か薄気味悪いものを感じながら、再び身を起こして声の出処を探して視線を巡らせる。
 と、その時、薄板一枚の立て付けの悪い戸が、軽く打ち鳴らされた。
「もし、どなたかいらっしゃいませんか」
 間違いない、先程から聞こえていたあの声は、戸の向こうにいる何者かの発する声なのだ。
 シズネは立ち上がると、ゆっくりと戸の方へと歩み寄った。
 ……こんな時刻に、一体誰が?
 村里では、日暮れを過ぎて出歩く者などまずいない。まして、女が出歩くなどあり得ないことである。
 シズネは父の顔に目をやるが、既にコマキは寝息を立てているようだ。
「もし、……もし」
 女の声が繰り返される。
 シズネは意を決して、引き戸を押さえている棒切れを外した。
 鼓動が高鳴る。
 ……戸を開けても、いいのだろうか。
 シズネは言葉に出来ない不安感に苛まれながらも、戸に手を掛けた。
 立て付けの悪い戸が、がたがたと音を立てて開く。
 そこにいたのは、濡れた編笠を着けた、紅き衣を身に纏う、小柄な人影であった。背丈が低く、顔は見えない。幽かに、シズネの鼻を白粉の香りが擽る。
 紅い衣など、村里では決して見かける事の無い物で、闇の中にあってなお鮮やかなその色彩に、シズネは唾を飲み下した。
「夜分にすみません」
 雨音に紛れそうな細い声は、シズネの知る村の女達の威勢の良い声とはまるで違う。繊細で、可憐な響きである。
「あ、はぁ」
 間の抜けた声で応ずるが、シズネの頭の中は混乱してしまっている。
「道に、迷ってしまいました。唐林の町までは、どう行けば?」
 シズネは目の前の女の言葉を聞いていたが、心は上の空で、編笠の下に覗く紅く膨らんだ唇を凝視していた。
「もし」
「あ、……カラバヤシ……、ええと」
 まだシズネの頭は、地名について思い浮かべることが出来なかった。
 一度咳払いをしてから、シズネは、あっ、と声をもらした。
 唐林といえば、アメノシキシマの都とも言うべき町である。この島で唯一、文化の香りのする土地だ。
 こんな夜中に、村から町へ出る?
 シズネは訝った。
 しかし、訊かれたのだから、答えない理由もない。
「唐林は、そこの坂を下って、道なりに海の方へ歩いて行けばつく」
 唐林は海辺の町だ。小さい島の中である、そう遠くはない。
「坂を下って……、分かりました」
 紅の衣を纏う女は、丁寧に頭を下げた。編笠に溜まった雨の雫が滴り落ちる。
 ふとシズネは女の衣の裾を見遣った。
 泥に汚れている。随分長い間、雨の中を歩いて来たようだ。
 このままか弱い女を、雨の中に放り出していいものだろうか。
 シズネは一瞬考え、それから思わず言葉を発した。
「休んでいかないか。むさ苦しいところだけど」
 その時、女の顔がシズネの視界に入った。
 ……白い。
 紅をさした唇を引き立てる様に、薄化粧に見えるが地肌の白さが映える、そんな白さだった。淡く白粉を引いているのだろうか。
 村里で見たことのない、異世界の住人を見るように、シズネはまじまじとその白さに見入っていた。
「しかし、こんな時分に、良いのですか」
 尋ねる女の言葉で、シズネは正気に戻る。
 あまりにも、その少女と言ってもいい女は美しかった。潤んだ瞳が伏し目がちになり、女はなお艶っぽさを増している。
「ああ、いや、大したもてなしも出来ない、けれど、白湯くらいなら出せる。囲炉裏の前で温まっていけばいい」
 どうして素性も知れぬ女を、こんな風に引き止めているのだろう。シズネ自身も不思議ではあったが、少女には男を惹きつける何かが確かにあった。
「それでは」
 言って、女は編笠を外し、粗末な室内へと足を踏み入れた。
 シズネは、普段から用意してある火縄に藁をかぶせ、火種を作って手際良く囲炉裏に火を入れた。鉤にぶら下げた鉄瓶に、水瓶から水をくむ。
 木の爆ぜる音が、沈黙を埋めた。
 女は囲炉裏の傍に置いた、編んだ藁の上にちょこなんと座り、無心で火を見つめている。
 父のコマキは褥で眠りに落ちたまま、寝返り一つうたない。
 やるせない沈黙を、シズネは埋めようと何か話そうとする。
「あの、何故、唐林に?」
 その問いに、女はシズネを見遣った。
「……それは」
「それは?」
 女は俯く。
「私は、私はミヤノミシメノシト、と申します」
 ぱちり、と木が爆ぜた。
 ミヤノミシメノ、シト?
 その名をシズネは昼間、ヤカデの口から聞いたばかりであった。
 あの島の支配者と言っても過言ではないミヤノミシメノカクラの娘であり、近々婿を迎えるという、あのシト様のことだ。その名を名乗るものはこの島には他にいない。
 その言葉一つで、何故女、シトが唐林に向かおうというのかがわかった。シトは家に帰る途中なのだろう。ミヤノミシメ家は唐林にある。
 しかし、こんな夜更けに、従者の一人もつけず?
「あの」
 シトが言葉を発した。
「え?」
「……お湯が、沸きましたよ」
 そう言って少女は口元を隠し、嗤った。
 あわてた様子でシズネは、鉄瓶から欠けた茶碗に白湯を注ぐ。
 その茶碗を、薄暗がりの囲炉裏端でも色の白さがはっきりとわかる女、シトの手に渡した。
 シトは受け取った茶碗の粗末さに一刹那、口をつけることを躊躇った様子であったが、意を決したように品良く一口、白湯を飲んだ。続けざまに二口目を飲む。
 ほう、と息を吐くと、彼女の肌に僅かに朱がさしたように見えた。
「生き返りました、有難うございます」
 小さく礼をしたシトに、寧ろシズネの方が恐縮してしまう。冷汗をかきながら、深々と頭を下げた。
「いや、あの、何もお構い出来ませんで、申し訳ありません」
「いえ、十分です」
 一息ついて、シトは囲炉裏に手をかざした。実のところ体中が凍えていたのだろう、色が白く見えたのはそのせいもあるのかもしれない。
 雨の音と、薪の爆ぜる音の中に沈黙がある。
 シズネは頭の中で考えている。こんな時分に、島宰相の娘がただ一人で村里を歩いていた理由はなんだろうと。
 しかし、それを尋ねることは憚られた。なにしろ島の中でも最も高貴な人物の部類に入るような彼女に、どう言葉を切り出していいのかわからなかったからである。
 騒がしい沈黙が続く。幽かにコマキの鼾がそこに混じった。
 今は一体、夜のどのくらいの時分だろう。島には時計も無いし、あったとしても貧しいイチクラサトの家にそんな貴重な物が置かれているわけも無い。時刻を告げる時鐘も島には無かった。時は太陽と星が教えてくれる。
 アメノシキシマは、漂流民が開拓した島である。その多くは漁民であり、一部には大洋に船を漕ぎ出し他の船や島を襲う海賊も含まれていた。島に女がいないがために滅びてしまわなかった理由はそこにある。つまり、島の人間は皆、かつてどこかの島からさらわれてきた女性の子孫ということになる。
 そういった歴史の為か、アメノシキシマでは女を他の文化のように穢れが多いという風に蔑視せず、寧ろ貴重な存在として扱われた。
 その為か、島には独特の信仰がある。女神を祀るのである。
 アメノカノメリノオクナ、それがこのアメノシキシマにおいて創造神として信じられている女神の名である。略奪者が、さらわれてきた女を神聖視するというのは一種異常ではあるが、そこにはある種の罪悪感が働いていたと考えられる。女を神格化することによって、漂流民の島に独特の信仰が生まれた。
 この女神は厳しく立ち入りを禁じられている神域の森『カノメリ』に住まい、その全知全能の力で世界の全てを支配する、と島民の殆どが信じていた。
 そして、このアメノカノメリノオクナの子孫として信じられているのが、ミヤノミシメ家である。つまり、ミヤノミシメ家は神の末裔として島民から崇められているのだ。ミヤノミシメ家が絶対的な権力を持つのはそれゆえである。
 信仰はそこに取り入る者達に権力を生み、権力は必ずや階級を生む。階級は差別を生み、差別が貧困を生む。世の中はどこにあっても変わらない。
 シズネの前に、そんな階級の頂点にいる、ミヤノミシメノシトがいた。
 見た目は美しい娘であるが、シズネの眼にはそこに神聖さがこもっているように感じられる。それは信仰の生む幻想かもしれなかった。
 本来ならば始終平伏して、顔を仰ぎ見ることすら許されない相手がそこにいる。それも、少女の様に可憐な姿で。
「随分、温かくなってきました」
 不意にシトが呟いた。目許に優しい笑みが浮かぶ。
 ……綺麗だ。
 シズネは心からそう思った。美しい。
 同時に、ヤカデと昼間に交わした会話を思い出した。
(ミヤノミシメノシト様が、近々婿を取るらしい)
 かっ、とシズネの中に嫉妬の炎が燃えた。
 一体誰が、この人の婿になるというのだ、忌々しい。シズネは内心で毒づいた。
 静かな時が、二人の間に流れる。だが限られた時間は終わりを迎えようとしていた。
「そろそろ、帰ります」
 シトがそう言って立ち上がると、シズネは一拍遅れて立ち上がった。
「送ります、唐林まで」
 青年がそう言うのを聞いて、シトは首を傾げる。
 この人を一人で、夜道を帰らせていい筈がない。シズネは思った。
 女性がこの島にとって貴重な存在であることは今も昔も変わらない。そして、島には今も海賊や野盗のように野蛮な男達が多数いる。いついかなる時、その獰猛な牙がシトを襲わないとも限らないのである。そんな危険の中にシトを放り出してしまえるほど、シズネは冷血漢ではなかった。
 そこには一点の邪心も無い。
 よいのですか、とシトは遠慮がちに問うた。涼やかな目許がシズネを見つめる。
「はい、どうせ明日は雨です。仕事は出来ませんし」
 筋骨逞しい男が自らの胸を拳で打って請け負う姿は、いかにも頼もしい。
「今、支度します。暫くお待ちを」
 言って、シズネは笠に蓑、藁沓を履いて、手早く支度を終えた。
 そうしてから、改めてシトを振り返る。
 ……小さい。
 決して大柄ではないシズネの肩までしか背が無い。そのことがまた、シズネの中で彼女を守らなければならないという使命感を強めた。
「それでは、行きましょう」
「はい」
 応えたシトは、戸を開けて歩き出したシズネに遅れぬようにと、水溜りの出来た道を歩き出した。
 島の村村と唐林の町は、荷車も通れるだけの道幅がある道で繋がっている。ヒエや野菜などを町に納め、交換で魚などを求めてくる為にある道だ。
 だが、暗い。静静と雨が、音も無く二人の上に降り注ぐ。
 月も無い雨の夜、明かりを持たずに道を誤ることなく町に辿り着くのは容易ではない。頻繁にこの道を行き来するシズネですら危ういのだから、土地勘も無いであろうシトが迷ってしまっても不思議ではなかった。
「あの、お聞きしてもいいでしょうか」
 ややシズネが先行する形で並んで歩く二人。シズネが不意に切り出した。
「なんでしょう」
「今日は、何故お一人で? 従者の方達はお連れではないのですか?」
 問うて顔をうかがうと、シトの顔色は闇夜のせいだけではないだろう、暗いように見える。
「あ、いえ、無礼なことを」
「私は家を出たのです」
 打ち消しかけたシズネの言葉にシトが言葉を重ねた。
「えっ」
 呆気にとられ立ち止まるシズネの目を見つめて、シトが続けた。
「私はもう、ミヤノミシメ家を出ようと思ったのです。定めに縛られて、勝手に婿を取らされて、そのうえ自由になることが一切無い。あんな家、出て行ってやろうと思ったのです。出来ることなら、どこか遠い町で暮らしたい」
 更に呆然とするシズネは、自分がミヤノミシメ家のことについて何も知らないことを改めて思い知らされた。
 シトは雨の中、不自由な身の上を語り始める。
 ミヤノミシメ家は女神の末裔であるという謂れを持ちながらも、家中の物事は全て主人であるミヤノミシメノカクラが決定する。出納帳の管理から家の修繕の指図まで、その役割はあらゆる雑事にまで及ぶ。
 その中には、一人娘のシトの婿を決めるという重要な役割も含まれていた。
「私には、自由などどこにも無いのです」
 俯きながら歩くシトの顔を振り返り振り返り、シズネはその様子を窺った。星明りすら無い闇夜、顔色を完全に読めるほどの観察は出来なかったが、それでも言葉の沈み具合から、シトの心の落胆が伝わってきた。
 シトの婿は、町役人の息子と決まった、らしい。
 しかしシトは、その縁談を蹴りたかった。
「だから私は、家を出たのです」
 衝動的な行動で、侍従の者の監視の目をかいくぐり、闇雲に家を飛び出したというのか。
 それならば何故、唐林に戻ろうとしているのか。シズネには再び疑問が浮かんだ。
 だが、その質問を投げることが、シズネは出来なかった。
 その答えは、彼女自身の口から語られた。
「ですが、この島に私の逃げられる場所は無かったのです」
 聞いた途端、シズネの心は沈んだ。
「道を辿り辿って行き着くのは、皆餓えた村村ばかり。そしてその向こうには海が待っていました。……私には逃げ場なんてどこにも無いのです」
 小さな島、女の足で半日もあれば縦断も横断も出来てしまう、そんな小さな島。
 今踏みしめている足の下はその小さな大地なのだと思うと、シズネは胸が締め付けられるような想いがした。
 ……俺にも、逃げ場なんて無い。
 それはこの島に住む者全てに言える事であった。
「夕日が沈んで、夜が更けて、私は崖に一人きりで立っていました。海を見つめて、このまま死んでしまえばいっそ楽になれるのかもしれないと何度も思いました。ですが」
 言葉を切り、シトは急に明るい声色に変化した、シズネはそれを敏感に感じ取った。
「死ななかったからこそ、こんな出逢いもありました」
 その言葉に、シズネは思わず頬が緩むのを感じる。今が暗闇の中でよかった、と思う。
 それきり言葉を交わさないまま、坂を下り道なりに海を目指していく。小波の音が闇に響いた。
 紅い衣の少女は、シズネの足の速さについてこれないのか、シズネが気を使って時折立ち止まってやらねばならなかった。だが、雨の中を追ってくる彼女を待っている時間が、シズネには苦痛には感じられない。寧ろ、心安らぐような、そんな気がした。
 ずいぶん歩いたところで、林の中を抜けると、真夜中にしてなお明るい篝火の光が二人の目を刺した。
「唐林だ」
 シズネは呟く。彼自身、夜の道を歩いて唐林まで辿りついたことは無い。いつもならば荷車に収穫物を載せて父と共に昼間にやってくる町である。
 島の都、といってもそれは所詮小さな島のこと、百数十戸の家屋と粗末な造りの露店が並ぶだけの町、いやそれは村と言い換えてもおかしくない規模である。しかしこのアメノシキシマに唯一といっていい文化の香りのする、そんな町であった。真夜中を照らす篝火もアメノシキシマでは唯一のものだ。
「あの、ありがとうございました」
 シトが言った。
「何の縁もゆかりもない方に、こんな真夜中に送って頂くなんて」
 シトは言うなり、頭を深々と下げた。編み笠から雨粒が落ちる。
 青年はその行動に思わず戸惑ってしまった。
「あの、いえ、頭をお上げください」
 その時、シズネの手がシトの肩に触れた。
 篝火の照らす中での、一瞬の接触。
 それが二人の初めての触れ合いであった。
「あ」
 シトが切なげな声を発する。
 慌ててシズネは手を離した。
「す、すみません」
「いえ」
 それきり二人の間に距離が生まれた。それまで近かった互いの距離が遠のいた。暗闇の中を先導する為に近づいていたシズネの優しさが、照れと畏れ多さに鳴りを潜めてしまったのである。
 唐林の町の丁度中心辺りに、ミヤノミシメ家はあった。
 篝火の明かりで照らされた門は太い木々をふんだんに用いた豪壮極まる門である。門と塀に使われている瓦葺の屋根が他の家屋との明らかな違いであった。海を渡ってきた者が持ち帰った瓦を供出させたのだろう。一目で他の家々とは違うことがわかった。といっても、家屋は門の前からは窺うことすら出来なかったが。
 その鉄鋲を穿った見事な門を見上げて、シズネは溜息を漏らした。なんと自分の暮らす家と違うことだろう。
 正門を通り過ぎ、勝手口までシズネはシトを共に来たが、そこで踵を返そうとした。
「俺は、これで」
 そう言って帰ろうとしたシズネの蓑を、シトが掴んだ。
「待ってください、もう少しだけ、もう少しだけ付き合ってもらえませんか」
「そう言われても、用は済みましたよ」
「もう少しだけ」
 言われてシズネは、早く逃げ出したい気持ちを抑え込んだ。こんな美女に懇願されるなど、彼の人生では経験のないことである。出来ることがあるのなら、応えてあげたい。
 言われるままに、勝手口に連れられて来たシズネは、その勝手口すら自分の暮らす家とは比べ物にならないほど豪華であることに嘆息した。用いられている角材は樫の木であろうか、島では希少な木材である。
 その勝手口に取り付けられたやや大振りの鳴らし鐘をシトが打ち鳴らすと、戸の向こうから人の気配がした。
「誰だ」
 若い男の声がして、戸に取り付けられた覗き窓が小さく開いた。声色に真夜中の来訪者を訝る色が混じる。
「私です」
「し、シト様っ!」
 小さく叫んだ男がガチャガチャと戸の鍵を外し、戸を乱暴に開いた。シズネはその様を一歩引いて見ている。
「一体どちらへ行かれていたのです!? カクラ様がどれほど御心配なさったことか」
 言いながら、従者らしい頭巾を被った男はシトの後ろに立つ謎の男に対して警戒の眼差しを送る。一目で怪しいと見て取ったのか、シトとシズネの間に立って、シズネに詰め寄った。
「貴様かっ、シト様を誑かしたのは!」
 シズネの首を絞めるように男は掴みかかった。
 しかし、筋骨逞しいシズネは幼馴染のヤカデとの喧嘩で鍛えられている。非力な男の力では全く動じなかった。
「おやめなさい! このお方は私を屋敷までお連れ下さった方なのですよ」
「は、ハハッ」
 シトに言われて従者は素直に引き下がった。
「それよりも、この方のおもてなしの支度をなさい」
 使用人に命を下す姿は堂に言っている。シズネはその姿に驚きを隠せない。先程までの従順そうな姿とはまるで違う。
 シトの後ろから屋敷に入ると、土間で雨具を脱ぎ、汲み置かれた水で足を濯ぐと、板張りの廊下をシトと共に歩いた。廊下の右側は玉砂利を敷き詰めた中庭になっており、一本の松が見事な枝振りを見せている。左側には幾つと知れぬ部屋に続く障子が並んでいた。シズネはただた感嘆させられるばかりである。
「こちらの部屋でお待ち下さい」
 言って開いた障子の中には燈台の灯った畳敷きの部屋があった。畳に使われる藺草のことを思うと、島の民にとってはこれほどの贅沢はない。足を踏み入れることにすら躊躇したシズネだったが、シトが立ち去ってしまうと仕方なくその八畳間の端に腰を下ろした。
 しばらくすると、女中らしい女が供応の膳を運んできた。
 その女の目の色が、明らかにシズネを軽蔑していた。それもそうだろう、この島で最も権威ある人物の家に、素性も知れない野良着の男が座っているのだから。
 膳には尾頭付きの焼き魚、色とりどりの香の物、そして島ではあまりに貴重な酒が置かれていた。シズネが見たこともない御馳走である。酒など、シズネは年に一度の秋祭り、『カノメリサツ』の日にしか口に出来ない。ヒエを主原料にした酒だが、それすら島では貴重な物資の一つであった。
 おそるおそる膳の物に手をつけて半刻も待っているうち、シズネは障子の向こうに近づく気配を感じ取った。
 音も無く障子が開き、二人の男とシトが入ってくる。
 シトの衣が先程とは違っている。菖蒲色の花を染め抜いたいかにも乙女らしい浴衣に変わっていた。
 二人の男は先程の非力な男と、もう一人は鶯茶の着物を着たでっぷりと貫禄のある壮年の男である。黄ばんだ白髪で髷を結った姿が印象的であった。
「お前か、儂の娘をここまで送ってくれたという男は」
 壮年の男が言った。
 ということは、この男は……。
 シズネは思わず額づき平伏した。
「よいよい」
 壮年の男、ミヤノミシメノカクラは従者が置いた座布団の上に腰を下ろし、手をひらひらと揺らした。面を上げろの合図である。
「聞けば、イチクラサトの百姓だとか。うむ、いい面構えをしておる」
 声に表情に、威厳が漂っている。シズネは恐縮してしまった。
「は、ありがとうございます」
「まあ、呑め」
 そう言って、カクラは立ち上がると手ずからシズネに酌をした。
 シズネは冷汗をかきながら、震える手でそれを受ける。島の数千の民の棟梁、頂点に立つ男の酌を受けるのだ、平静でいられるわけが無い。注がれた酒を、シズネは一息に飲み干した。
「良い呑みっぷりじゃ。男はそれで無ければいかん。……ミヤノミシメ家に婿に入る男ならば尚更じゃ」
 カクラは、重々しく言った。
 その言葉に、シズネは耳を疑った。どういうことだ?
 その疑問に答えるように、カクラは言葉を重ねる。
「娘が、ぬしを大層気に入ったらしくてな。それとも儂が勧める男が余程気に入らんのか、初めてじゃ、儂の言う事に娘が逆らったのは」
 苦虫を噛み潰したような腹立ち交じりの声でカクラは言った。
「しかし、何故俺が、いえ、私が」
 シズネは困惑を隠せずにカクラの顔と後ろに控えるシトの顔とを見比べた。シトは恥ずかしげに俯いている。
「儂が決めたのじゃ、今年の『カノメリサツ』の後、暫くの後にシトに婿を迎えると。儂が決めたことは覆らん、これだけは決まったことじゃ。相手も儂が決めるつもりじゃったが、ぬしの面構えを見て心変わりをした。あの青瓢箪よりもはるかに良いわ。シトが想いを寄せるのも頷けるわい。そうなれば、善は急げじゃ」
 青瓢箪とは、例の町役人の息子のことであろうか。
「ですがカクラ様、私とシト様とでは身分が違い過ぎます。そんな申し出を受ける訳には」
「ぬしも、儂に逆らうか」
 一瞬、鋭い眼差しがシズネを射た。
 シズネは息を呑む。
 相手は一声で百姓如きの首を落とせる権力の持ち主だ。とても逆らえる相手ではない。
 その一瞬後、カクラは豪快に笑った。
「ぬはははは、そう怯えずとも良い! 儂とて無理強いはせんわ。身分違いもぬしの言う通りじゃ」
 その笑いに救われた気持ちになって、シズネは杯を干した。
「しかし考えてみるがいい。今のままの人生に満足か? 島の領主として民を統べてみたいとは思わんか? 地べたを這い蹲り土をこねくり回すまま一生を終えるつもりか? まあそれもいい。人の感覚はそれぞれ違うものだろうからな」
 言って、カクラも杯を傾けた。豪傑笑いに覗く歯があまりに白い。
「ぬはははは、だがな。ぬしにも家族はいるであろう。一族郎党の幸せを願うものならば、このような申し出を断るものか。親を想う気持ちがあるのならば、儂の娘の婿になれ。さすれば自然、家族も浮かばれよう。民百姓の暮らしから解放されるであろう」
 カクラは言い切って、満足そうに頷いた。まるで自分の言葉が絶対であるとでも言いたげに。
 それは実際、事実であった。島の宰相が言っていることは、島の中では全て実現する。
 カクラの言うように、確かにミヤノミシメ家に婿入りすれば、シズネのただ一人の肉親である父のコマキも楽隠居できるかもしれない。乳飲み子の頃に母を亡くしたシズネにしてみれば最大の親孝行となるだろう。
 コマキだけではない。幼馴染のヤカデに今のイチクラサトの土地を与えて、土地持ち百姓にしてやることも可能だ。困窮するアカミチツチの家がどれだけ助かるか知れない。
 そしてなにより、あの美しいシトが、自分のものになる。それがなによりもシズネの心を惹いた。
 シトと目が合う。可憐な少女は一刹那視線を合わせただけで、恥ずかしげに目を逸らしてしまった。
 急なことだ。あまりに突然降って湧いた幸運といっていいだろう。
 しかし、シズネは心を決めた。
 膳の脇に体をずらし、シズネは改めてミヤノミシメノカクラに対して平伏した。
「どうぞ、よろしくお願いします」
「うむ、賢い判断じゃ。それでよい。あとは万事、儂に任せておけ。シトも良いな」
 後ろを振り返り、娘に問うカクラ。
「はい」
 白い透けるような肌をしたシトは、その頬を朱に染めて深々と辞儀した。
 これが、イチクラサトノシズネとミヤノミシメノシトとの奇縁の顛末であった。

 



     第二章



 島の季節の移り変わりは早い。実りの秋を迎えれば、それは即、厳しい冬の始まりでもあった。
 木々の色も色合いを急速に変え、島中が赤や黄色の鮮やかな色に染まっていた。
 そんな季節に、島中を賑わせる行事が執り行われる。
 カノメリサツ。
 神域である、アメノシキシマの奥に広がる深い森、カノメリ。その神域に年にただ一度、衆生が足を踏み入れることが許される特別な一日、それがカノメリサツであった。
 秋の満月の日。秋の実りを百姓が揃え、漁民達が様々な魚介を揃える。それは収穫祭と豊漁祭を兼ねた秋祭りの一日。この日を楽しみに一年を暮している者も多い。
 禁じられた神域に、島中の老若男女が集まるのであった。




「本日は、このような場所にお招き頂きまして。不調法者で申し訳ありません」
 カノメリの近く、小高い丘の上の庵で、奇妙な宴が執り行われていた。畳敷きの八畳程の空間に数人の人間が居る。
 その場に居合わせているのは、イチクラサトノシズネ、同じくコマキ、ミヤノミシメノカクラ、同じくシト、そして仲人役としてカクラの部下である役人が三人だった。カクラの背後に掛けられた掛け軸が見事な枝振りの紅葉で空間を絶妙に彩っていた。
 今口上を述べているのは、シズネの父、コマキである。イチクラサトの代表者という肩書きはあれど、真に不調法であった。お仕着せの麻の上下がいかにも不似合いである。
 この場は、イチクラサトノシズネとミヤノミシメノシトの両者による結納の儀の舞台であった。
 通常はイチクラサトで婚礼が行われる際には結納などという七面倒くさい手続きは行われない。それはイチクラサトの家でも同様である。島の大半の男女は、親戚を集めての婚礼の儀を執り行うだけで済ませるのが一般的であった。
 だが、島の貴族であるミヤノミシメの家においては、話が別であった。
 元来ミヤノミシメ家では、いかな豪農といえど、百姓と婚礼を挙げるなどということは今までに例が無い。
 しかし今回については家長であるカクラの一存で全てが決まった。彼の鶴の一声には誰も逆らえないのである。
「謝らずともよい、儂が望んで百姓を婿にとったのだ。おぬしが頭を下げる必要がどこにある」
 カクラがよく響く低い声でコマキに言った。
「はっ、申し訳ありません」
 思わずシズネが謝ってしまった。たまらずカクラは笑った。
「謝らずともよいと言うたであろう。それよりも結納の儀はこれで終いじゃ。儂は政務が忙しい。これで帰らせてもらうぞ祝言は伝えた通り、四日後じゃ」
 そう言うとカクラは立ち上がった。決して大柄ではないこの太った男のどこに、これほどの威圧感と迫力が秘められているのか、シズネは不思議に思った。
「今日は年に一度のカノメリサツ、おぬしらも早く行って楽しむがいい」
 誰にともなくカクラは声をかけ、襖を開けてその場を去っていった。
 シズネはほう、とひとつ大きな溜息を吐いた。一気に気が抜けてしまったような様子である。無理もない、島一番の権力者と半刻程も対峙していたのだから。
「どうか、なさいましたか?」
 向かい合わせに座ったシトがシズネに声を投げた。薄紅を引いた小作りの唇が可愛らしく微笑んでいる。
 シズネは言葉を返すでもなく、その唇を見つめていた。美しさに見惚れていたというのが正しい。可憐な唇にはそれだけの魅力があった。
「いえ、なんでもありません、気にしないで下さい」
「そうですか」
 淡く化粧をしたシトは眉根を寄せて軽く怪訝そうな顔をした。その表情もまた可愛らしい。
「さて」
 一つ咳払いをして、コマキは立ち上がる。
「儂も帰るとしようか」
「えっ、カノメリに行かないのかい?」
「今日は場違いなところに来て疲れてしまった。お前だけでも行って来い」
 コマキは心底疲れたように言って、カクラの去った襖を開けて部屋を出て行く。カクラの従者たちもそれに続いた。
 残されたのは、若い二人だけ。
「シト様は」
「様、は余計です」
 シトがぴしゃりと言い切った。
「私達はこれから夫婦になるのですよ、夫が妻を様付けで呼ぶのはおかしいでしょう」
 少し怒ったような口調で、シトは言った。しかし表情は落ち着いていて、如何にもカクラの娘らしい。何事にも動じないということを感じさせる凛とした顔立ちであった。
「すまない。……それでシトは」
「はい」
「君は、カノメリサツには行かないのか?」
 言われてシトは、再び困ったように眉根を寄せる。
「私は生まれてから今の今まで、カノメリサツには行ったことがありません。父が止めるからというのもあるのですが、何より私は人込みが怖いのです」
「そうか……」
 シズネは腕を組んで考え込んでしまった。
 そんなシズネの様子を見て、シトは微笑む。
「どうか私に構わずに、カノメリサツを楽しんで来て下さい。そして出来たら」
 そこで言葉を切り、シトは頬を赤らめた。
「次のカノメリサツの日には、私をお連れ下さいね」
 その言葉を聴いて、シズネは顔が赤くなっていくのを感じていた。




 人いきれの中、シズネは辺りを見回す。
 既に西の空は暮色を加え、宴も酣、酒の入った男女が祭囃子に合わせて踊っている。
 幾つも並んだ露店では酒や魚介類、また普段口にすることが出来ない菓子や豆腐等の加工品が売られていた。
 酔いつぶれ、木に背を預けて眠りこける男達の姿も多く見受けられる。
 シズネはそんな人混みの中で、幼馴染のヤカデを探していた。
 昼前から始まった毎年恒例のこの祭りの雰囲気に、シズネはすっかりのまれている。毎年のこととはいえ、これほどの乱痴気騒ぎはなかなか慣れるものではない。
 先程まで、シズネはミヤノミシメ家との結納の儀に招かれていた。その為、シズネはミヤノミシメノカクラに渡されたお仕着せの礼服を身に着けている。普段から野良着一枚で暮らしているシズネにしてみれば、これほど肩の凝る服は重荷でしかなかった。よく日に焼けたシズネには麻の礼服は似合わない。
 しかしそれも仕方のないことである。これからシズネはミヤノミシメ家に婿として招かれるのだから。
 祝宴の主役はシトとシズネであった。カノメリサツの後に行われる祝言の前祝いと結納の儀を兼ねた宴だったのである。その為にわざわざ設えられた庵で、シズネは足を痺れさせながら白い顔をした人々の述べる長ったらしい祝いの言葉を延々と聞かされる羽目になった。
 その祝宴がようやく終わり、シズネは毎年一緒に祭を見て回るヤカデを探しているのであった。父であるコマキは既に家路に着いている。そろそろイチクラサトの人間は里へ帰らなければ日が暮れてしまう時間であった。
 ヤカデの奴、一体どこに行ったんだ。
 酒癖の悪いヤカデのこと、放って帰る訳にはいかない。ある種の保護者の様な感覚で、シズネはごみごみと混み合った森の中を歩き回った。
「おい、シズネ。妙な格好をしてるな」
 そこで顔見知りの男と出くわした。イチクラサトの村人である。その垢にまみれた顔が赤黒い。既にかなり酒で出来上がっているようだ。
「ああ、丁度よかった。ヤカデを見かけなかったか」
 男はじろじろとシズネの服装を眺めていた。シズネがミヤノミシメ家に婿入りすることは周知の事実である。しかしそれでも、普段見慣れた野良着姿のシズネとは見違えるのであろう。男の視線は無遠慮だった。
「ヤカデを見なかったかと聞いてるんだ」
 厳しい口調で言うと、男は乱杭歯を覗かせて卑屈に笑い、森の奥を指差した。
「むこうに歩いていった。……あっちには店も無いし、お社以外何も無い筈なのだがな」
「そうか、わかった」
 シズネはそう言って踵を返す。
 イチクラサトの人間との間に、少しずつ距離を感じるようになったのは今に始まったことではない。
 考えることを拒否して、カノメリの奥へと少しずつ足を踏み入れて行く。次第にあれほど多かった人気も途切れていった。深い森の中はまだ十分に明るい刻限にあってなお暗い。不気味さがシズネに怖気を立てさせる。
「ヤカデ、どこだ!?」
 シズネはわざと大きな声を発した。
 カノメリサツの日以外は足を踏み入れることの禁じられた、神の森。そこに今、シズネは立っている。
 イチクラサトにも森はある。シズネなどヤカデと競って木を登り、木の実を採ったり野鳥の卵を採ったりしたものであった。
 しかし、カノメリには他の森とは全く違った雰囲気があった。それはまるで、踏み入る者の魂を鷲掴みにするような、独特の空気感である。立っているだけでシズネは総身が粟立つのを感じていた。
「ヤカデ、いないかっ!」
 大声も木々に吸い込まれていくようだ。
 全く一体どこへ行ってしまったのだろう。シズネは溜息をついた。
 その刹那、どこからか笛の音が聞こえてきた。
 祭囃子とは全く異なる、透き通るような繊細な音色は、しかし背筋を凍らせるような不気味さを湛えて響き渡った。節の無い、どこか間延びした蜿蜒たる調べ。いったい何処から聞こえてくるのか、無気味で仕方がない。
 寒気が全身を襲った。これ以上、森の中に足を踏み入れるべきではないのではないか。シズネは思った。
 だが彼は思い留まる。酒癖の悪いヤカデを放置したまま帰る訳にはいかない。
 耳を澄ます。笛の音は聞こえない。やはり気のせいだったのだ。
 一度溜息をついて、シズネは足元から生えた背丈ほどもある草を踏み分けて、歩いて行った。
 そうしてしばらく進むと、開けた場所に出る。
 そこには、大きな社が建てられていた。赤い屋根はシズネの背丈の二倍ほどの高さがある。元は黒く塗られていたのであろう木材を用いた建物は明らかに色褪せ、障子紙はあちこち破れている。見た目にも古ぼけた建物であった。
 これが、カノメリの社か、とシズネは父から寝物語に聞かされていた話を思い出していた。
 カノメリの社はアメノカノメリノオクナ、つまりアメノシキシマを創造したといわれる女神を祀った社である。創造神が祀られているにしてはあまりにも、その社は古び果てていた。
「ヤカデ!」
 悲鳴にも似た声で、シズネは辺りに声を放った。これ以上社に近づくことは許されないと思ったのであろう。彼の足は完全に止まっていた。
「ここにいるぞ」
 不意に、声が返ってきた。聞き慣れた、幼馴染の声が。
 垢染みた野良着姿のヤカデが、社の後ろ側から姿を現した。顔色が青白い。
「ヤカデ! こんなところで何をしてるんだ」
 あわてて駆け寄ろうとして躊躇うシズネ。
 その手には大振りな刀が握られていた。大きな革袋を背負ってもいる。
「何をやってると思う?」
 その声に、酔った気配は感じられなかった。冷静な時のヤカデの声である。
 シズネは訝った。何故にこんな森の奥深くにヤカデはいるのだろう。
「わからない。そんなことよりもう帰らないと日が暮れるぞ」
「そんなことくらいわかってるよ。俺はまだ、帰らない」
 親友の言葉にシズネは更に疑念を深めた。
「何言ってるんだ? こんなところに何の用事があるっていうんだ」
「なんだお前、知らないのか。まあ、近々お大尽になられる方には関係の無いことか」
 その口ぶりに棘を感じる。が、シズネは聞こえないふりをした。
 ヤカデとシズネの関係はシトとの婚約以来、確実に悪化していた。かたや極貧の水呑百姓、もう一方は今、島では最も高い位に上り詰めようとしている。そんな二人の関係が良好であり続けるはずはない。
 だが、シズネはその現実を認めたくなかった。無二の親友との関係が、自分が幸せになることで壊れるなど、とても受け容れられるものではなかった。
「とにかく、帰るぞ」
 シズネはヤカデに歩み寄り、その手を取ろうとした。
 しかしその手をはね除けるヤカデ。
 二人の間に晩秋の冷たい風が、落ち葉と共に吹き抜けて行った。
「俺はこの森に用事があるんだ」
「用事?」
「アヤノツメクサを採りに行く」
 シズネはアヤノツメクサと聞いて、一瞬唖然とした。
 アヤノツメクサとはアメノシキシマに古くから伝わる薬草の一つで、葉を煎じた物が熱毒や炎症の特効薬になるとして古来珍重されてきた特殊な薬草である。この草には特徴があり、夜に淡く発光するのであった。それゆえ、ホタル草の異名もある。
 その絶対量の少なさから、この薬草には宝石と同じだけの価値があるとされている。宝石は何の役にも立たないが、アヤノツメクサは庶民から上流階級の者に至るまで必要とされていた。高価な薬草ではあるが、人々の暮らしに欠かせない物であることは確かだった。
「この森に、アヤノツメクサがあると俺は睨んでる。だから年に一度のカノメリサツの夜にここに忍び込むことにした」
 カノメリは一般衆生が足を踏み入れることを禁じられた神域。深い森と、森に暮らす獣の伝承が侵入者を拒み続けてきた。森には恐ろしい狼が棲みついている。更に、童子の頃に聞かされる寝物語に現れる妖(あやかし)のおぞましさもカノメリに対する恐怖を倍加させた。
 カノメリは危険だ。それが島民共通の認識であった。
 だからこそカノメリは神域として、禁域として、守られ続けてきた。そこには意味が確かにあったのだ。
 その禁忌を今、幼馴染が冒そうとしている。禁忌を冒すことは、島の獄に身を投じられることに直結する。
 シズネは純朴で誠実な青年だ。島の神域を冒そうとしている親友の行動は、彼にとっては許しがたいものだった。
「駄目だ、何を言っているんだ。帰るぞ」
「うるさい、俺はお前の指図など受けない」
「指図なんかじゃない、とにかく一緒にくるんだ」
 再び掴みかけたヤカデの手を、シズネは逃してしまった。
「偉くなったもんだな、いっぱしに島宰相になったつもりか」
「何を言ってる。そんなんじゃない。この森は危険なんだ。一緒に戻ろう。きっと家族も心配している」
 ヤカデは鼻で嗤った。
「はっ、よく言うぜ。こっちはその家族の為に草を採りに行こうとしているんだ。そうじゃなければ誰が獄に入れられる危険を覚悟でこんな薄気味悪いところにくるもんか」
 アヤノツメクサは高値で取引されている。それを売りとばせば、苦しい生活が楽になるというわけだ。
 そう言われてシズネはうむ、と唸った。
 自分にヤカデの行動を止める資格があるだろうかと。確かにカノメリの奥へ踏み入ることは禁忌だ。
 しかしそれが家族を貧農の生活から解放するためだと言われれば、ヤカデを制止する心も萎えてしまう。禁忌を冒すことと友人の家族の豊かな生活と、どちらが大切なのか。シズネにはわからなかった。
 ならば、シズネはどうするべきか。何を為すべきなのか。
「俺は行く。必ずアヤノツメクサを見つけて帰るんだ」
 親友を一人で獣の棲む森に放り出すことは、心優しいシズネには出来ない。
 だがだからといって、今のシズネに何ができるというのだろう。強引にヤカデを連れ戻すことは出来そうにもない。
 それならば。
 シズネは大きく溜息をついた。
「それなら、俺もついていく」
「はぁ? 何言ってんだお前」
「お前を一人でカノメリに置いていくことは出来ない。ヤカデが帰らないと言うなら、俺もついていくしかないだろう?」
 アカミチツチノヤカデは日に焼け黒々とした顔を歪めて、卑屈な笑みをこぼした。
「島宰相になろうって御人は大層お優しくてございますねぇ。一緒に獄に繋がれてくださいますか」
「茶化すな。それよりも、早くツメクサを探しに行こう」
「まあ待て。それにはまだ時間が早い。完全に日が暮れるのをこの社で待とう」
 覚悟を決めたイチクラサトノシズネは、精悍な顔立ちを空に向けた。
 西の空から茜色が色彩を失いつつある。
 夜の訪れはもうすぐそこにあった。





 
 闇が音もなく訪れた。
 白い満月が森の中を幽かに照らしている。
 だが鬱蒼と茂る木立の下に潜り込んでしまえばその光すら届かない。無明の闇が確かにそこにある。
「行くぞ」
「ああ」
 二人は小さく言葉を交わし、森に足を踏み入れた。
 時折何処からか、無気味な獣の声が聞こえた。その声音はまるで脆弱な二人の侵入者を脅かすような色を帯びている。少なくともシズネにはそう感じられた。
「この森には、狼が棲んでいるんだろう?」
 シズネは声を震わせながら、下草を山刀で切り払うヤカデに問う。
「ああ。いつどこから出てくるかわからんな。せいぜい気を付けるこった」
 ヤカデと違ってシズネは丸腰だ。それも麻の礼服、長い袖や裾が森の中では更に動きにくさを増す。
 こんな格好をするんじゃなかった。シズネは着替えを持ってこなかった不用意さを嘆いた。
 しかしそもそもシズネにはカノメリの奥地に用事などなかったのだ。手甲脚絆の用意などあろうはずもない。
 木々が途切れた所に出ては、ヤカデは空を見上げた。星の位置で方位を確かめているのだろう。
 秋の夜の森は肌寒い。シズネは思わず寒風に首を竦めた。
「そんな格好で森に来るからだ」
 ヤカデは笑い、首に巻いていた厚手の手拭いをシズネに手渡した。シズネはそれを己の首に巻きつける。これだけでも少しは寒気をしのげるはずだ。
「それにしても、ツメクサはどこにあるんだ? 目星はついているのか?」
 シズネはヤカデに問うた。
 ヤカデは困ったような顔をする。
「そんなわけないだろ。年に一度しか入れない森なんだ、見当なんぞつくはずも無い。闇雲に探すしかないさ」
「それじゃ、今どこにいるのかもわからないのか?」
「ああ。まあ狭い島だ、真っ直ぐ森を突っ切れば海に着くさ。そうすれば道を探すのも難しくない」
 ヤカデの言う通りだった。
 だがシズネは不安を覚える。こんな無計画に森をさまよって大丈夫なものだろうか。狼も居る、妖の類も居ると言う。危険な領域に足を踏み入れているという危機感がヤカデの行動からは感じられなかった。
「大丈夫なのか」
 心配になってシズネは尋ねた。
「さてな。こればっかりは運だろう。そんなことよりも、今はツメクサだ」
 闇の中なので顔色は掴めなかったが、ヤカデの声には焦りの様なものが感じられた。
 そのまま二人は暫し森をさまよっていた。野鳥の囀りと下草を切り払う音だけが森に響く。時折混じる獣の吠え声にシズネは震えた。
 本当にツメクサはカノメリにあるのか。
 本当にここから無事に帰れるのか。
 シズネはヤカデと共に森を立ち去らなかったことを早くも後悔し始めていた。あの時強引にでも引き返していれば、今頃は家で床に就いていただろうと思うと、その後悔は数倍に膨れ上がった。
 そもそも彼には無理にアヤノツメクサを探さなければならない理由など無いのである。幼馴染の親友を放っておけない、ただそれだけの理由で今彼は危険な場所に足を踏み入れていた。
 今からでも遅くないかもしれない。ヤカデを止めるべきではなかろうか。
「ヤカデ」
 そう声をかけた時、二人は僅かばかり開けた土地に出た。丁度アメノカノメリノオクナの社があった所に似ている。そこに社が無いというだけで、円型に開けていることはそっくりだった。社の代わりに、大きな舞台の様な岩が鎮座している。
「少し疲れた。ここでちょっとやすんでいこうか」
 ヤカデはそう言うと背中の革袋から火熾しの道具を取り出した。
「ちょっと待て。カノメリで火を使うのは……」
「掟で禁じられている、か? 今更何を言ってんだ。夜にこの森に踏み入った時点で俺達は重罪人なんだぞ」
 言われて、シズネは口ごもる。確かにその通りかもしれない。
 島では罪人は獄に入れられる。アメノシキシマの東のはずれ、『ナシアの獄』に。
 ナシアの獄は島中の人間から恐れられている。中に入った者は二度と娑婆の土を踏めないということで有名であった。実際そこから生還した人間というのにシズネは一度も会ったことが無い。それほどに恐ろしい場所なのだと、これも島中の人間の正しい認識であった。
 投獄される者は何も殺人や強盗といった重罪人ばかりではない。軽微な盗み等の行為でも、行き着くところは同じであった。
 その裁決権は全て島宰相のミヤノミシメ家の当主に一任されている。つまり、カクラが罪人と決めたなら、その人物は即ナシアの獄に繋がれることとなるのであった。
 シズネがぼう、と自らの罪について考えている内に、ヤカデはそこいらの枝葉を集めて火を熾していた。
「あたたまれ。まずはそれからにしよう」
 言われて、シズネは焚火の傍に腰を下ろした。
 暖かい。体の芯からの冷えが、ゆっくりと癒されていくのがわかる。
「ほら」
 そういって投げ渡されたのは、竹の水筒だった。
 ふたを開けて口を付けると、その中身は酒である。水だと勘違いしていたシズネは思わず噎せ返った。
 その様を見てヤカデが笑う。
「ハハハ、なにをやってる!」
 噎せ返るシズネは、それでもどこか昔に、無邪気にじゃれあったあの頃に二人が戻ったようで快い気分を味わっていた。
 そうだ。昔はこんな風に、笑い合えたのだ。いや、ごく最近まではそうだったはずだ。
 それがいつからだろう、二人の間に距離が生まれたのは。
 考えるまでもない。それはシズネが、シトに見初められたことに由来する。その事柄が二人の間に亀裂を生じさせたのであった。
「そういえば憶えているか、カノメリノヤミツメ」
 ヤカデがふと、思い出したように呟いた。
 湿った枝が、音を立てて爆ぜる。
 カノメリノヤミツメ。その名は、カノメリに属する事柄の中で最も忌むべき存在の一つだった。
「奴はこんな、月の夜に姿を現すと聞かなかったか? いやらしい体をして、男を惑わすって」
「やめろよ。聞きたくもない」
 聞かずとも、シズネの頭の中では童子の頃に寝物語に聞かされた、父のコマキのしわがれた声が蘇ってくる。
(いいかシズネ。カノメリサツの昼以外に、絶対にカノメリには入っちゃならん。なんでか分かるか。それはな、あの森には恐ろしい女の魔物が棲んでいるからだ。名をカノメリノヤミツメという。笛の音で人を惑わし、男を骨抜きにする力を持っている。奴に捕まったら、もう二度と深い森からは抜け出せないのだ)
 父の声は厳然としていて、幼心にその話が如何に恐ろしいかがシズネにはわかった気がした。
「一度遭ってみたいもんだ、その美人の妖とやらに」
「何を言うんだ、憑り殺されるぞ」
 ヤカデは鼻を鳴らした。
「ハン、一体どこのどいつが憑り殺されたってんだ? そんな噂は聞いたこともないぞ」
「そ、それは」
「そんなもんはきっとこの森に人が踏み入らないように、昔の人間が考え出した作り話に決まってる。そして、そんな風にして守らなきゃならない物が、この森の奥にあるってことだ。違うか?」
 ヤカデの言葉には説得力があった。確かにそう考えれば合点がいく。
 しかし、シズネの脳裏にあの笛の音がよぎった。
「でも俺は、笛の音を聞いたぞ、この森に足を踏み入れた時に」
 そう、シズネは聞いたのだ。あの不気味な節の無い笛の音を。その時にはカノメリノヤミツメには思い至らなかったが、今考えればあの笛の音が、ヤミツメの吹いた笛の音だったのかもしれない。
 だがヤカデは首を振る。
「気のせいだろう」
「いや、確かに聞いた」
 シズネは強気に言った。聞いた、というほどはっきりした音ではなかったが、それでもシズネは思い出せば思い出すほどにあれがヤミツメの警告だったのだと感じるようになった。
「それじゃあ祭囃子が風に乗って聞こえたんだろ。そんなにムキになるなよ、あんなのは子供騙しのおはなしさ」
 あきれた様子でヤカデに言われると、シズネは確かに自分が熱くなっていることに気付かされた。ヤカデの言うように、ヤミツメの話自体、信憑性に欠ける寝物語に過ぎない。大人が頭から信じることこそ莫迦らしいことだった。
「そんなことよりも今はツメクサだ。きっともうすぐ、宝の山に出喰わすぞ。そんな気がする」
「その強気はどこから出てくるんだ?」
「お大尽様とは頭のつくりが違うもんでね」
 ヤカデは嫌味交じりに言った。シズネは口ごもる。
 もしも今のシズネとヤカデの関係が反対だったら、自分も同じように嫌味を言うのだろうか。そう考えて、シズネは詮無いことだと頭を振った。今更二人の関係を取り換えてくれと言っても通る訳がない。
 やはりイチクラサトの土地持ち百姓はシズネであり、シトに見初められたのもシズネなのだ。シズネとヤカデでは性格も違えば育った環境も微妙に異なる。それを取り換えるなど、不可能なのであった。
「そろそろ、行くか」
 そう言ってヤカデが立ち上がる。シズネもそれに従った。
 火の始末をして、二人は森の中を再び進み始める。遅々とした歩みではあったが、下草に邪魔をされては仕方のないことであった。
 木々の枝が途切れた先に、時折白く大きな満月が覗いた。薄い雲に下半分が隠れながらもその存在感はカノメリにあっては絶大だった。それほどにカノメリの闇は深い。
 それから暫くして。
「おい、なんだか向こうの方が明るくないか?」
 突如ヤカデが声を発した。
 言われて彼の指差す先を見ると確かに、そちら側に不思議な明るい空間があるのが見えた。
「当たりだ、ツメクサだ!」
 ヤカデは叫んで、下草を切り払うのも煩わしいと言いたげに、藪の中へ走り出した。
「ちょっと待て! ヤカデ!」
 嫌な予感がした。森の中の明るい空間という不自然さが、シズネの第六感を刺激した。
「行くなっ!」
 そんな声を無視してヤカデは走る。
 その姿が不意に、消えた。
「ヤカデ!」
 叫びながらヤカデの進んでいった方向に足を進めると、……そこにはぽっかりと底の見えない大きな竪穴が口を開けていた。
「くっ、ううっ!」
「ヤカデ!」
 ヤカデは崖の縁を片手で掴んでいる。が、その手が滑り始めた。
「待ってろ、今助ける!」
 言って手を伸ばす。
 しかしその両者の手が触れ合うことは、なかった。
「ぎゃああ!」
 ヤカデの悲鳴が闇を劈く。
 崖の縁が崩れてしまった。ヤカデの体は竪穴の断崖から転げ落ちる。
「ヤカデー!!」
 シズネは竪穴の縁に手を突いて、穴の底へと叫ぶ。だがその声は穴の闇へと飲み込まれていった。
 月明かりを浴びてなお、穴の底は見えない。この穴はどれほど深いのだろう。
 崖の向こう側に、淡く青く発光する植物が群生していた。あれが、アヤノツメクサであろうか。
「ヤカデ……」
 シズネは力なく声を漏らした。
 これほど深い穴の中に落ちてしまえば、無事では済まないだろう。そして彼がもしも生きていたとして、この断崖から彼を助ける方法をシズネは今持ち合わせていない。縄どころか、シズネはまるきり何も持っていないのであった。
 森を出て村に戻り、縄を運んでくることも考えた。
 しかしそれでは時間が掛かりすぎる。それほど深く、二人は森の中に迷い込んでいた。森を抜ける頃には夜も明けているかもしれない。大怪我をしているであろうヤカデの事を考えると、希望は薄かった。
 金に目の眩んだ親友の最期である。あまりにあっけない最期であった。
 シズネは暫し途方に暮れる。親友を喪った今、彼の中には深い絶望が満ち満ちていた。
 何故それほどまでに、事を急いだのだ。足元も疎かにしてしまうほどに。シズネは穴の底の親友に問いたかった。なぜそれほどまでに。
 だがそれも仕方のないことなのかもしれない。何故ならシズネも同じだったから。
 シトとの縁談をカクラに提示された時、彼は躊躇いもなく承諾した。自分自身を貧農の身から解き放つことも勿論念頭にはあったが、それよりも彼はたった一人の家族である父、コマキの身の上を案じたのであった。ヤカデも同じだったに違いない。あの青く淡い光が、極貧の生活から家族を救う光に見えたのだろう、とシズネは思った。
 しかし、死んでしまっては家族は救えない。
 シズネは立ち上がった。このまま森の中にいることがどれほど危険なのか、思い出したのである。森には狼や熊、そして妖がいるのだ。妖についてはわからないが、少なくとも危険な獣が森にいることは確かだった。
 ここで立ち止まってはいけない。シズネには身を守る物は何もないのだから。
 親友の命を奪った穴と、穴の向こう側の青い植物に一瞥をくれて、シズネは踵を返した。
 通ってきた道はわかっている。ヤカデが下草を丁寧に切り払ってくれたおかげである。シズネは静かに心の中で感謝した。
 一人きりだと、自分の発する音がやけに大きく聞こえる。この足音や息遣いが獣を引き寄せるのでは、とシズネは思わず息を殺した。森に響き渡る狼の遠吠えには何度も肝を潰した。
 やがて先程休憩を取った、巨石のある円形の草むらがあるところまで辿り着いた。
 ふと足を止めた。
 聞こえる。
 確かに聞こえる。
 あの、笛の音だ。
 拍の無い蜿蜒とした音色、篠笛のそれに似た澄み渡った音色。
 満月の光に照らされた巨石。
 その上に、女がいた。
 妖しき女は、魔と神々しさを纏い、舞台の如き巨石の上にて能弁なる月明りを帯びている。
 シズネは深き森の、闇を月色が裂く、その開けた草原の様子を窺っていた。
 カノメリノヤミツメ。
 黒き衣を纏いて、封じられし神域であるカノメリを彷徨う妖。カノメリに住まいし大神の使いにして、淫靡なる肢体の持ち主。
 その笛の音は聴く者を幻惑し、現とは異なる世へと誘う。
 シズネは、幼い頃より寝物語に聞かされたカノメリノヤミツメをその眼でしかと見た。黒い姿、白い肌。……垢染みて月光を照り返す衣の、破れのある裾から覗く腿の白さが、男の視線を釘付けにした。
 男は息を呑み、震え、立ち尽くした。
 ヤミツメが、応えるように笛を吹くのをやめ、嗤う。
「お前は」
 シズネは辛うじて声を発した。しかしそれが限界だった。
 金縛りにあったように動けない。逃げ出したいがそれも叶わなかった。
 ヤミツメは岩から飛び降りた。獣、そうそれは丁度猫の様な柔軟性で、浅い下草の上に降り立った。
 不気味な笑みの為に歪んだ表情を変えようともせず、ヤミツメは迫ってくる。三間程の距離で二人は向かい合っていた。その距離をジリジリとヤミツメが詰めていく。
 来るな、言おうとしたが声は出ない。
 やがて顔と顔の距離が一尺もないところまで詰め寄られた。もう後が無い。
 こうしてまじまじと見ると、女にしてはヤミツメは背が高かった。シズネとそう変わらない身長である。
 顔立ちには毅然とした印象を受ける。切れ長の眼や薄い唇がそう感じさせるのか。凛とした顔立ちは真っ直ぐにシズネを見つめている。化粧気のない顔は、シトとは対照的だ。
 この女がどうやって男を惑わすというのか。
 ヤミツメは立ち止まらずに距離を詰めた。決して早くもなく、遅々として遅い訳でもない。
 胸がぶつかった。柔らかな感触がシズネの胸に当たる。ヤカデに渡された手拭いを首から外された。
 女は抱きついてきた。彼女の顔がシズネの肩に乗る。細い両の腕がシズネの体を締め付けた。
 全身に電流が走るような感覚がシズネを襲う。
 これは快感なのか? シズネは自問する、答えは無い。
 その時、まさに電撃のような激痛が走った。
「いつっ!」
 ヤミツメが首筋に噛み付いてきたのだ。血が流れる感触が肌にある。焼きつくような痛みがあった。
 そのまま女に強引に草むらへ押し倒される。力が強い。まるで男のような力だ。相変わらず体の自由は利かないままだった。
 麻の礼服を無理やりに引き剥がされた。
 ヤミツメはシズネの体を舐めていく。くすぐったいような、しかし首筋に立てられた歯の痛みが引かない為にむず痒いような感触がある。何故かシズネの体はその舌になんとも言えない感覚を味わっていた。それは、快感に近かった。
 これが、ヤミツメ。
 現とは異なる世界へといざなう魔性の妖。
 快感にむせぶ声が漏れるたび、ヤミツメはクスクスと嗤った。抗う力をかき消すような、妖しい微笑。
 ヤミツメの爪の伸びた手が、麻の袴に掛かった。無理に下ろされた袴の下には、下帯が露わになっている。
 やめてくれ。
 叫びたいのに思い通りに声が出ない。
 そこではたと気づくと、シズネの体はヤミツメに接吻をしていた。
 こんなことは望んでいないのに。
 だが、本当にそうなのだろうか。本当にこれは望まない行為なのだろうか。心の何処かに、ヤミツメとの出逢いを、誘惑を望んでいた部分があったのではないだろうか。はっきりと否定出来ない自分が、弱い自分がそこにいた。
 ヤミツメの力がシズネの体の自由を奪っているのではなく、シズネの心自体がヤミツメに奪われることを望んでいる。そんな気がした。
 垢染みた女の手がシズネ自身に触れた時、どこか覚悟を決めたもう一人の彼が、シズネの中で目覚めていた。
 女の体に触れたい。その感触を肌で味わいたい。
 シズネの中で平衡感覚が歪んでいく。快楽が精神を惑わしていく。
 もっと深く、ヤミツメに触れたい。
 自然と彼の体は、人外の魔物の肌に触れた。彼自身の意思で。誰に操られている訳でもなく。
 彼の頭の中から、シトの清純な笑みが掻き消え、代わりにヤミツメの妖しい微笑がその空白を埋めた。
 もう、どうなってもいい。どうにでもなれ。
 惑わされているのか、自ら惑っているのか。それすら彼にはもうどうでもいいことになり始めていた。
「ウレシイ……」
 腕の中でヤミツメが呟くのを、シズネの耳が確かに聞き取っていた。そのかぼそい声がシズネの中の残酷な淫欲を呼び覚ます。
 ヤミツメの中に分け入る時、既にシズネの精神は快楽に蝕まれていた。
 薄れていく意識の中で、シズネは決して戻れない闇の姫の悦楽の奥へと、入り込んでいった。




  




     第三章



 
 カノメリサツを終えれば、島には雪の舞う冬がやってくる。
 百姓の殆どが家の中に篭りきりになり、風雪厳しいこの季節を命からがらやり過ごすのであった。
 貧農の家では餓死者も少なくない。土と太陽と雨と風と暮らす民にとって、冬は残酷な季節である。
 カノメリサツの賑わいは嘘のように、現実は民を試すかの如くに時を待たずしてやってくる。
 冬。その一語は、死と同義語のように百姓の間では扱われていた。




 

 くしゃみを一つして、その拍子に目が覚めた。
「あれ、ここは」
 シズネは重い上体を起こして、寝ぼけ眼に辺りを見回した。
 そこは、アメノカノメリノオクナの社の前である。どうして自分はこんなところで寝ていたのか。シズネにはわからなかった。ただ、朝が来ていることには寒さで気が付いた。日の明るさからするに、おそらく早朝だろう。
 寒くて自分の衣服を見る。カノメリにやって来た時に身に着けていた麻の上下のままだった。
 ぼう、と呆けた頭で眠りに落ちる前の出来事を思い出そうとする。
「……あ」
 そうだった。
 シトとの結納の儀、ヤカデと共にカノメリの奥へと足を踏み入れたこと、そしてその奥でヤカデが転落し命を落としたであろうこと。次々とシズネの頭の中につい数刻前の出来事が蘇ってくる。
「……カノメリノ、ヤミツメ」
 その記憶も、シズネの中に確かにあった。 
 カノメリノヤミツメの魔性の魅力に負けて、あの官能的な体を抱いたこと。それは確かにシズネの中にはっきりと刻まれた記憶である。
 あの時の自分は、どうしてあんな風に。シズネは悔やんだ。 
 自分にはシトがいるというのに。幸せな日々が待っている筈なのに。
 ふと、あの記憶は間違いだったのではないか、夢か幻でも見たのではないかと疑ってみた。
 そう考えれば考えるほどに、それが事実のように思えてくる。そうだ、あれは夢だったんだ。そう考えれば合点がいく気がした。あれはただの淫夢だったのだ。
 自分があんな風に欲望に溺れてしまう訳は無い。自分はそんなに弱い人間じゃない。
「つっ!」
 独り頷いたその時、首の横側に鋭い痛みを感じた。
 これは。
 シズネは痛んだ部分に手を触れて、そこに何か湿った感触があることに気が付いた。
 手を見てみると、黒く変色しつつある乾きかけた血が付着している。
 これは、なんだ。
 シズネは思わず両手で頭を掻き毟った。
 これは、あの時の傷じゃないか、あの時ヤミツメに噛み付かれた傷じゃないか!
 なんということか。やはりあれは夢でも幻でもなく、確かな現実だったのだ。
 自分は、裏切ってしまった。シトとの婚礼の前に、一体、何をやってしまったのだ。
 自分自身のした行為を全く理解できず、シズネは頭を抱えた。
 このままではシトに顔向けできない。とても顔を合わせられる状況ではない。それほどのことを自分はやってしまったのだ。魅入られていた、惑わされていたとはいえ、これほどの裏切り行為をシトが許してくれるはずは無い。
 そう思い至って絶望に暮れている時、草むらに置いていた手に何かが触れた。
 見ると、そこには一枚の手拭いが風にひらひらと揺れていた。
 これは。
 シズネはその時思い出す。これはあの時の、そうだ、ヤカデの手拭いだ。防寒の為に首に巻きつけていた物だった。
 ……そうだ。
 一つの考えが純朴だった青年の中で大きくなり始めた。それは渦巻くような黒い感情。彼には不似合いの感情だ。
 隠してしまえばいい。 
 誰も知らないのだ。あの森で起きたことを、自分以外に誰も知らないのだった。
 無論、カノメリノヤミツメという証人はいる。当の本人だ。
 だがあの妖は森から出られない筈だった。だからこそカノメリという言葉がその名に含まれているのだ。
 それならば隠してしまえばいい。そうすれば誰も傷つかずに済むのだ。自分自身も、シトも、父も。
「俺は、カノメリにはいかなかった」
 そうだ。そもそもカノメリにカノメリサツの朝から夕暮れまでの時間以外に踏み入ることは許されていない。夜に足を踏み入れる、それだけでも重罪なのだ。そのうえカノメリノヤミツメと媾ったというのなら、自身が妖怪のように扱われても文句は言えない。まして、島の領主の娘との婚礼を間近に控えている身としてみれば尚更である。人々は悉く自分を非難し軽蔑するだろう。そして自分の身柄はナシアの獄へと送られるだろう。
「俺はカノメリにはいかなかった」
 もう一度言葉にしてみる。今度ははっきりと発音してみた。そうしてみると、それがまるで事実のように思えてきた。
 そう、自分はカノメリには行かなかったのだ。ヤカデの死も知らない。ヤミツメも知らない。昨日、自分は何もしなかったのだ。
 そう考えてみて、改めて自分を再点検してみる。この嘘を自分は貫き通せるのか? 本当にこんな嘘が通るのだろうか。
 ……大丈夫だ。何の問題も無い。問題があるとするならば……。
 シズネは手に持ったヤカデの手拭いを首に巻きつけた。
 それはまるで今は亡き親友からの助け舟のように感じられた。こうすれば、首筋に残された歯形を誰にも見咎められることは無いはずだ。
「俺は、カノメリには行かなかったんだ!」
 叫ぶことでそれを事実にしたかった。いや、それは事実なのだと自分に信じ込ませたかったのだ。
 シズネは凍えた体を起こして立ち上がった。
 



「ただいま」
 カノメリから冷たい体を引きずり帰り着いたシズネを、無言の父、コマキが迎えた。
 おかえりの言葉は無い。それはシズネにしてみればごく自然なことだった。土間に足を下ろし板の間に腰掛けて、黙々と藁打ちの作業をしている。元来無口な性質の彼は、無駄口をあまり叩かない。
 ただ、その日の父は何かが違っていた。まるでシズネに気付かないかのような素振りなのである。
「ただいま父さん、今帰ったよ」
「わかってる」
 ぶっきらぼうな物言いは、普段の父とは何かが違っていた。寡黙な父ではあるが、けっして乱暴な言動を取る人物ではない。シズネは不安になる。まさか、何か勘付かれたのか。
「どうしたんだよ」
「それはこっちが訊きたい。今まで一体どこで何をしていたんだ」
 そう問われて、シズネは押し黙る。
 言われてみれば、昨日の夕方に父と一緒に結納の儀を済ませて以来、一度も顔を合わせていないのだった。その言い訳は考えていなかった。単純な彼らしいといえば彼らしい。
 なんと答えればいい? シズネは慌てて答えを探そうとする。
 だが、答えなど何処にも無かった。あるはずはない。
 事実を隠そうとすれば必ず矛盾に行き当たる。そしてその事実は、たとえ父といえども決して知られてはいけない事実なのであった。絶対に。
 父から息子へ厳しい視線が注がれている。
 それから沈黙が父子の間に流れた。シズネにとってはあまりに息苦しい沈黙が。
 暫くそんな時間が続き、ふっ、と緊張の糸が切れたようにコマキが視線を外した。
「まあいい、お前が無事に帰ってきたならな。それより」
 コマキはそこで一度言葉を切り、立ち上がって、佇んでいるシズネの方へ一歩歩み寄る。
「なんだよ」
 その視線は先程よりも更に深刻な色を湛えていた。
「ヤカデを知らないか」
「……ヤカデ?」
 辛うじてシズネは言葉を返した。ヤカデが竪穴に落ちていく姿を思い出して、不意に押し黙ってしまうところであった。
「昨日のカノメリサツから、帰ってきていないらしいんだ。ヤカデの母親が家に来た。もしかしたらお前と一緒にどこかに遊びにでも行ったのかと思ったんだが」
「……知らない」
 またどうにかして言葉を振り絞った。
 自分は今、嘘をついている。ただ一人の肉親、自分をここまで育ててくれた一番大切な相手に対して。乳飲み子の自分を連れて、村中を回って乳を飲ませてくれた、そんな父に対して。
「そうか」
 嘘は、通ったのだろうか。不自然さは無かっただろうか。自分ではわからない。なにしろ父に対して嘘をついたことなど、生まれてこのかた一度も無いのだから。
 ヤカデのことは忘れてはいない。今、シズネの首に巻かれているのがヤカデの手拭いなのだから。
 家族を極貧の生活から救う為に、カノメリに挑んだヤカデ。その挑戦は崖に、無情の竪穴に阻まれてしまった。 
 これからアカミチツチの家はどうなってしまうのだろうか。一番の働き手を失って、彼らは冬を越せるのだろうか?
 考えても詮無いことだった。一人の男の人生が深い森の中で終わりを迎えた、それだけが一つの事実としてシズネの心に刻まれている。
 再び藁打ちを始めたコマキの横に座り、自分も藁打ちを始める。百姓としての仕事をこなすことだけが、唯一の罪滅ぼしのように思えた。
 そんなシズネに、コマキはそれ以上の問いかけをしなかった。あくまでも自然に、息子に寄り添うことを大切にしているように見える。そういう父を、シズネは好ましく、誇りに思っていた。
 そして、そんな父を騙している自分に対して、言い知れぬ悲哀を感じてしまうのは仕方の無いことであった。




 祝言の日は、カノメリサツの四日後にやってきた。
 シズネはといえば、やはりお仕着せの黒紋服を身に着けさせられ、八畳の、自分の家と同じくらいの広さの部屋で待たされている。
 あれから、シトとは一度も顔を合わせていない。それはミヤノミシメ家の慣例上の決まりであった。嫁となる女性と婿となる男性は、結納の儀から祝言の日までは顔を合わせてはならないというのが、ミヤノミシメ家という神の末裔として崇められる家系に伝わるしきたりである。純潔を重んずる家ならではの暗黙の掟であった。
 それがシズネにとってはありがたかった。どんな顔をしてシトと会えばいいのか、どんな言葉を交わせばいいのか、彼には全くわからなかったからである。
『カノメリサツからひと月の間は祝言を挙げてはならない』
 これはイチクラサトのみならず、島中の村々で守られている教えである。その謂れは様々であるが、創造神であるアメノカノメリノオクナの祭事であるカノメリサツをそれだけ重要視するように、というのが一般的な島民の理解であった。
 しかし、カクラはこれを破るようにとシズネに言った。自身の多忙を原因として、使者をつかってその旨を伝えてきたのである。シズネは従うよりほか無かった。
 この教え、掟を破ることがどんな災厄に繋がるのかは誰も知らない。ましてまだ二十を少し過ぎたばかりのシズネにわかる筈も無い。誰もこの掟を破る者がいなかったからである。
 首筋をそっと撫でた。今は手拭いの下で瘡蓋が出来、傷は治りつつあった。
 だが、その傷跡は誰にも見せることは出来ない。何故ならそれが歯形であることは明らかであろうからである。木綿の布の上からでも触れてみれば、鏡で見なくとも傷跡が人の歯の形に並んでいるのがよくわかった。それを目で見たなら誰しもが歯形であると理解するであろう。そしてその歯形の主が女であろうことは、シズネという男性の首筋に刻まれていることからも想像に難くない。
 誰にも、この手拭いは外させない。
 シズネの着付けを担当したカクラの従者も、それを外そうとしてきた。
 しかしシズネは断固として断った。従者は訝ったが、決して譲る気はなかった。
 ヤカデの手拭いはシズネの秘密を守る唯一の鍵であった。
「シズネ様、お時間です」
 従者の声が襖の向こうから聞こえた。
「はい、わかりました」 
 明朗に応えた精悍な一人の青年は、これから訪れる緊張の時を身を強張らせながら迎えようとしていた。
 これから自分は一世一代の大法螺を吹こうとしている。それがはっきりとシズネにはわかっていた。
 きっとやり果せてみせる。いや、やり遂げなければならない。そうすれば全てを、父を、シトを、ヤカデの家族を守ることが出来るのだ。強く自分に言い聞かせる。自分は決して、ナシアの獄に繋がれることになってはならない。
 彼は立ち上がる。そして一歩、静かに一歩ずつ、歩き出した。
 いざ、行かん。




 祝言はミヤノミシメ家の大広間で行われた。
 島の宰相の一人娘、シトの祝言としてはあまりにも簡素であったのは、やはり掟破りの婚礼であったからであろう。
 祝言といえばアメノシキシマでは村中の人が集まる盛大な祝いを意味する。振る舞い酒の風習もあり、ただ酒を求めてふらりと立ち寄る者も少なくない。
 だが、今日大広間に集まったのは、シズネとシトを正面に見て左右に、ミヤノミシメノカクラを筆頭にミヤノミシメ家に仕える者や役所の人間、イチクラサトからは父であるコマキと親戚が数人、そしてアカミチツチ家の男女が数人と極めて少なかった。アカミチツチ家の人々は冬の、仕事が無い時期にはどうにかして糊口をしのぐ必要があったため、こうして足を運んだのだろう。それぞれの席には座布団が敷かれ、饗応の膳が供されている。
 シズネはといえば、着慣れない礼服に身を包み、唐松の絵図屏風を背にしてミヤノミシメノシトと並んで座っていた。酒にも料理にも全く手をつけていない。そんな余裕は無かった。
 カクラの従者や役所の幹部達が次々と祝辞を述べていくのを聞いているだけで、冷汗が腋から伝うのがわかる。
 明らかに、シズネの首に巻かれた質素な厚手の手拭いは、礼服から浮いていた。
 そこに祝辞を述べる人々の視線が刺さるのがわかるが、人々はカクラの手前、その点には何も触れない。余計なことを言ってカクラの不興を買うのを恐れているのである。
 シズネは横に座る白無垢姿のシトを、大広間に入るほんの一瞬しか見ていない。いつもの薄化粧とは違い、濃い化粧で肌を白く、唇を紅く彩られたシトの伏し目がちな姿は、この世のものとは思えないほどに美しかった。
 この世のものとは思えない。
 そう思い至った時、脳裏をカノメリノヤミツメの顔が過ぎった。化粧気の無い顔、粗野でいてどこかに洗練された美しさを秘める面差し。
 シズネはかぶりを振り、頭からヤミツメの記憶を振り払おうとした。それ以来、右に座る白無垢のシトを全く目に入れていない。見ることが出来なかったという方が正しいかもしれない。
「本日は、若い両人の前途を祝し……」
 挨拶は同じような内容で延々と続く。シズネは押し黙って聞いている。
「しかし、このように逞しい婿殿を迎えられて、カクラ様におきましては誠におめでたく……」
 青白い顔をした老人が挨拶をしている。
 逞しい。その言葉を聞いて、シズネは違和感を感じた。
 辺りを見回せば、そこには白く、日焼けなどしたことも無いといった顔立ちが並んでいる。下座に列せられたコマキやヤカデの家族などは、それと比べるといささか薄汚く見えた。
 ……俺も、こう見えているのだろうか。
 シズネは何気なく思った。
 島第一の権力者であるカクラに従う者達にとって、逞しさとは一体どんな意味のあることなのだろう。逞しさとは無縁の白い顔をした人々は、シズネの目にはどれも同じ能面のような顔に見える。
 カクラの部下達の言葉には、裏にシズネを詰る棘が含まれているように思えた。カノメリでの出来事以来、シズネの中にはどこか他人の言葉を素直に受け取れない性質が芽生え始めている。その性質がシズネに、棘の存在を認識させる。白い顔の男達は明らかに自分を蔑視し、疎んでいた。
 ……シトは、こういう男達を婿に迎えるべきだったんじゃないだろうか。
 そう思えてしまうほどに、自分やイチクラサトの人々はこの大広間には不似合いだった。
 何故、シトは自分のような男を婿として迎えようと思ったのだろう。そしてカクラのような権力者が何故そのような暴挙を許したのだろうか。
 ちらと、シズネはシトのすぐ横に座るカクラの顔を見遣った。
 その顔からは表情が読み取れない。めでたい席であるというのに、いつもの豪傑笑いは鳴りを潜め、無表情といっていいほどに顔色がすぐれなかった。
 一体どんな理由で、彼らは自分を選んだのであろう。シズネにはそれが全くわからなかった。
 少なくともシズネには今、シトという女性に見合うだけの財力も資格も無い。ましてやあの忌まわしいカノメリでの出来事を踏まえれば、自分にはナシアの獄に繋がれる根拠はあれども、島の領主の婿として迎えられる資格などあろうはずも無いのであった。
 余りにも場違いだ。シズネは首に巻きつけたヤカデの手拭いに首を締め付けられているような気がした。
 目を閉じると、ヤカデの姿が瞼の裏に浮かぶ。その顔はシズネの恵まれた境遇を責めているようにすら感じられた。
 恵まれすぎていると、シズネは思った。
『良いことは悪いことの始まりだ』
 父の言葉が脳裏を過ぎる。全くその通りだった。
 従者たちの祝辞を聞き流しながら、シズネはこれからを思った。これから自分はどうなっていくのだろう。本当に幸せは訪れるのだろうか。幸せなどというものが、自分にやってくるのだろうか。
 自分を責める気持ちと向き合いながら、慣れない生活の中に身を投じていく。そんな生き方の中に幸せなどあるはずも無い。
 今すぐにでもこの場から逃げ出したい想いを胸に秘めて、しかしそんなことは父のためにも出来ないことを嘆きつつ、シズネはなるべく表情を消すことに努めた。
「それでは、儂から挨拶をさせてもらおう」
 その時、立ち上がったカクラがおもむろに口を開いた。
 場がしん、と静まり返る。掟破りの祝言を指示し、これもまた掟破りの身分違いの婿を迎えた島の領主が一体どんな挨拶をするのか、その場にいる誰もが耳を澄ませているようだ。
「儂は、この日を待ち望んでおった」
 感慨深げに、カクラは語った。
「儂がこの婿を迎えると決めたのは、娘が家出をした夜のことじゃ。その夜、娘はこの薄汚い男に連れられて帰ってきた」
 薄汚い。その一言がシズネの耳に鋭く刺さり、いつまでも耳に残る。
 そうだ、自分は薄汚い。カノメリサツの夜の出来事がある前から、もうすでに薄汚かったのだ。そのことに、この席でカクラの従者たちと自分の親族を見比べて初めて気付いた。
「儂は怒った。娘はこの屋敷に泥に汚れた男を招きいれたのだ。とても許せることではなかった。神聖な我が家に、神の末裔たる儂の家に、土をこねくり回す百姓如きが足を踏み入れるなど、許されることではないのだ。儂はこの男をナシアの獄に落とそうと心に決めた」
 カクラは苛立ったように言葉を続けた。
「地獄の責め苦を味わい、死んでいくのがこの男の末路。そうなる、はずだった」
 そこでカクラはいったん言葉を切り、それからシズネに視線を向けた。
 その視線は、柔らかだった。
「だが、この男と目を合わせた時に、儂の心は一変した。シズネ、儂はな」
 名を呼ばれ、シズネは慌てたように膝をカクラの方へと向けた。
「儂はぬしの瞳の奥に光を見たのじゃよ。今までに出会ったことの無い、眩い光を。それを見た途端、儂の思いは変わった。何かがこの儂とぬしを繋いでおる、そう感じたのじゃ。言葉にはとても言い表せぬ、不思議な気分じゃった。神の末裔たるこの儂とぬしの間に、一体何があるというのか。わからんが、とにかく儂はこの男、百姓であるこのシズネを手元に置きたいと強く思ったのじゃよ」
 話を聞いていて、シズネは不可思議な感動を味わっていた。薄汚い、泥に塗れた百姓と貶められた後だからこそ、カクラが見出した自分の瞳の奥の輝きというものに、シズネは心を動かされたのだろう。
「娘はこの男を婿にしたいと言った。どうせ婿をとることになるのならば、自分が選んだ男が良いとほざきおった。そんなことを許す儂ではない。が、この男を見た途端に、我が娘にも人を見る目があったものだと思わず頷いた。それからは、一日も早くシズネを我が家に迎える為にと奔走した。今日のこの日を迎えられたのも、アメノカノメリノオクナ様の御加護の賜物よの」
 シズネは頬が熱くなるのを感じていた。それほどまでに自分は、カクラに、そしてシトに認められていたのかと、胸の高鳴りを覚える。
 しかし一方で、今の自分にカクラが、シトが見出した輝きが秘められているとは思えなかった。
 今の自分は穢れている。親友を見殺しにし、ヤミツメの誘惑に負け、最愛の父に嘘までついて、ようやくここに存在していることが許されているのだ。そんな自分に輝きなどというものが宿っているはずは無い。
「ミヤノミシメ家にも、新しい血を入れるべきなのじゃ。そしてそれに相応しい輝きを持つ者がいる。……今日は些か瞳が曇っておるようじゃが」
 流石は島の宰相だけある、観察眼に間違いは無い。シズネは自分の心の奥を見透かされたようで不気味だった。
「これ以降、イチクラサトノシズネは我が家の一員じゃ。シズネの言葉はミヤノミシメ家の言葉であり、儂の言葉でもある。者共、ゆめゆめ忘れるな」
 厳しい声音で締め括ると、再び広間には沈黙の時が訪れた。
 自分の言葉が、カクラの言葉。
 その意味を考えると、どれだけカクラがシズネを信頼しているかがよくわかった。ゆくゆくは自分の権限や仕事をシズネに継がせる、という意味が暗に含められていた気がする。
 そんな大きな信頼に、応えることが出来るのだろうか。シズネは心配でならない。首の傷がじくじくと痛む。
 カクラの挨拶が呼び水となったか、それから宴は盛り上がりを見せ始めた。



 
 美しい十六夜の月が空にあり、ミヤノミシメ家の縁側で初夜の余韻を醒ましていたシズネの身体に冷風が吹き付けてくる。着慣れない上等な綿入れを着用して、シズネは夜空を見上げていた。
 宴はその後、人数の割には大層盛り上がり、役人達も後ろ髪を引かれる様な思いで帰っていったことであろう。イチクラサトの人々も満足そうに帰っていった。
 それからシズネはシトと、二人のために用意された寝間で初めて体を重ねた。
 首に巻いた手拭いにシトの手がかかった時には狼狽えたが、初めて主導権をとって女を抱いたにしては、概ね巧くいったのだろうという自負がシズネの中にはある。村の下世話な噂に聞いていたよりは、それは難しいことではなかった。
 媾いの折、ヤミツメの面影をシトの面差しに見出してしまうこともあったが、それも一瞬のことで、なんとかその場を取り繕うことも出来た。
「あれ、シズネ様。どうなされました」
 勝手口に設けられた門衛所から出てきた頭巾を被った若い男が声をかけてきた。この男も宴席に顔を出していたらしく、口から酒臭い息を吐いている。シズネは、そういえば以前にこの男に首を締められたな、と思い出していた。
「その節は大変な非礼を、お許し下さい」
 男もそれを思い出したらしく、頭巾を外して頭を下げてきた。年齢はシズネより五つ六つ上かと思えたが、その頭は顔立ちの若々しさとは似つかず、禿げ上がっている。
「いやいや、それにしても、あなた様がシト様の婿としてこの家に入られるとは思いませんでしたぞ。このエズナ、これ以上の驚きに出遭ったことはございません」
「そう、ですか」
 シズネは気の無い返事をした。
 今日の今日から、イチクラサトノシズネはこの世から消え去り、代わりにミヤノミシメノシズネが生まれた。それは一人の人間の人生を完全に変える出来事である。
 アメノシキシマには姓名を取り締まる役所のようなものは無い。夫婦別姓もあって構わないのだ。出自を姓として名乗るこの島の場合は、結婚した後も以前と同じ名前を名乗ることも決して珍しいことではない。
 しかし、ミヤノミシメ家という島を代表する偉大な家に婿入りしたからにはその姓を名乗らなければならない。
 それだけではない。これからシズネはミヤノミシメノカクラの名代としての言動を求められる。その為には勉強しなければならないことが山ほどあろう。
 シズネはアメノシキシマの平均的な百姓と同じように、読み書き計算など出来はしなかった。それでは庄屋の役割を持つミヤノミシメ家の一員として、やっていけるはずは無い。そんな一つ一つのことを考えては、自分がどれだけ場違いなところへやってきたのかと悔いる気持ちもまた湧いてくる。
「どうなされました? 顔色がすぐれませぬが」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
 エズナと名乗った男に対して手を振り、シズネは無愛想に応じる。エズナは明らかに気分を害した様子であったが、それでも近い将来新たな主人となるであろう男の機嫌を損ねてはまずいと思ったのか、それ以上何も言わずに立ち去った。
 ふとシズネは、視線を月夜に浮かぶ見事な庭に転ずると、そこに蠢く小さな影を見つけた。目を凝らして見ると、それはいつか団子を分け与えたことのある仔犬である。門衛もいるこの屋敷の庭に、どうやって忍び込んだのであろう。
 遠巻きにこちらの様子を見つめていた仔犬は、シズネが優しく手招きをすると勢い良く走り寄ってきた。
「おお、チビ。元気だったか?」
 まるで親友と再会したように、シズネは心から喜ばしいという表情をする。
 じゃれつき、キャンキャン、と明るく鳴く仔犬にシズネはさざなみだった気持ちを癒されていく気がした。チビ、と呼ばれた柴犬はシズネに懐いた様子で、その手を甘噛みして遊んで欲しそうにしている。甘えているのだろうか、そんなチビをシズネは愛おしく感じていた。
 暫しの間のじゃれ合い。その時間が至福のもののように思えた。
 その時、背後から聞こえてくる音に、シズネは思わず振り返る。
 襖の向こう、シズネとシトの寝間からその音は聞こえてくるようだった。そこには今シトが一人で寝ているはずだったのだが、厠にでも起きたのだろうか。人の動く音が聞こえてくる。
 じゃれつくチビをその場において、シズネは背にしていた襖を開けた。
 寝着の下にいるはずの、先程肌と肌を合わせたシトがいない。やはりあの音はシトが何処かに移動した音だったのだ。
 向こう側の襖が微妙に開いている。その向こうには内庭があり、コの字型の屋敷がその庭を取り囲んでいる。
 シトはどこへいったのだろう。シズネは訝った。
 内庭に面する縁に出て、シズネはあたりを見回す。と、内庭の丁度反対側に障子戸から小さく灯りの見える部屋が一室あった。間口の大きい、広い部屋であることが窺い知れる。
 一体誰の部屋だろう。シトはあの部屋にいるのだろうか。
 この広い屋敷の中でも特に大きな部屋といえば、それは大広間か主人の居室に決まっている。そしてあの部屋が奥まった場所にあること、更に宴が催された大広間ではないことを加味すれば、自然とそこがカクラの居室であることがわかった。
 シトは、初夜の晩に父親に一体どんな用があるというのだろうか。
 シズネは言い知れぬ不安を抱きながら縁に沿って内庭を回り込み、その部屋の手前まで来た。
 すると、声が聞こえる。
 それは、意味の無い声であった。言葉ではない、声であった。
 ……一体、何を。
 シズネは息を殺し、聞こえてくる声に耳を澄ませた。
 ……まさか。
 声は、シトの声であった。 
 その声は獣じみていて、発狂しているようにすら感じられる。声を殺すように何かを口に咥え、そこから漏れ出てくる声のようであった。必死に喘ぎをおさえている、そんな気配。
「どうだった、え? 泥塗れの百姓の体はどうだったのじゃ。言え、シト」
 小さな声だが良く通る、明らかにこれはカクラの声だった。その声がいかにも下卑ている。
 何をしている? シズネは混乱の中で廊下に立ち尽くしていた。
「お父様っ……、おやめくださいまし、ああ……」
 小さいながらも乱れた声が縁にまで漏れてくる。
 何を、しているのだ?
 シズネは拳を握り締めた。唇を噛み締めた。
「答えよシト。儂の一物よりもあの若造がよかったか、ええ?」
「そんなことは、ああ、ございま、せん」
 シズネは咄嗟に首の手拭いを掴んだ。傷口が傷むのか、その手拭いを力任せに外してしまった。
 ……俺は一体、何をしているんだ?
 父子で交わう二人と、その声を障子戸越しに聞く一人の男。
 シズネには何が起こっているのかわからなかった。いや、現象として何が起こっているのかはわかっても、何故そんなことが起こっているのかが朴訥な一人の青年にはわからなかった。
 何故? 
 疑問がシズネの頭の中に次々と浮かんだ。
 祝言でのカクラの言葉が頭を過ぎる。
(娘はこの男を婿にしたいと言った。どうせ婿をとることになるのならば、自分が選んだ男が良いとほざきおった。そんなことを許す儂ではない。が、この男を見た途端に、我が娘にも人を見る目があったものだと思わず頷いた)
 あの言葉は一体どういう意味だったのだろう。自分をこんな形で裏切り、慰み者にするのがカクラの意図だったのか。
「ああっ、お父様……」
 声は途切れ途切れ漏れてくる。シトの声は先程シズネが臥所で抱いた時よりも遥かに潤んでいた。
 シズネは頭を掻き毟った。叫び出したい思いを辛うじて堪え、その場を後にする。
 寝間にはやはり、シトはいなかった。当たり前だ、今彼女は自分の父親に抱かれている。
 二人分の褥の一方に寝転び、親指の付け根を力任せに噛んだ。何かを噛まずにいられなかった。
 最低であった。何もかもが、一日にして狂ってしまったような気がした。
 今日、若い二人の祝言が執り行われた。その夜に、妻の父親が妻を犯す場面に遭遇するとは、一体誰が予測出来ただろう。少なくともシズネにとって今日は幸せな未来に繋がる一日になるはずであった。それだというのに、新妻は僅かにシズネが寝間を離れた隙に、父親に抱かれたのである。それも、おそらく自ら足を運んで。
 なんという裏切りだろう、なんという不貞であろう。これ以上の裏切りが、不貞がこの世にあるだろうか。
 シズネ自身確かに祝言のわずか数日前に不貞を働いた。
 しかしそれは妖に操られてのことであり、その後言い知れぬ罪悪感に苛まれ、苦しみながら今日のこの日を迎えたのだ。シズネの首に巻かれていた手拭いがそれを証明している。
 だが、彼らは違う。彼らは自らの意思で不貞を働いている。どちらが主体になっているのかはわからないが、明らかに自分達の意思で交わっている。 
 シズネは手拭いを握り締めた。
 ……俺は一体、何をしているんだ?
 自らに問いかける。答えは返ってこない。
 カクラの言葉は全て嘘だったのか。自分の瞳の中に見出したという光というのも、全て虚言だったのか。だとしたらなんという残酷な嘘だろう。自分は単なる慰み者の役目でしかなかったのか。
 噛み締めた唇から血が伝う。痛みはなかった。
 彼の中にはただ、言い知れぬ不快感だけが谺していた。
 涙が頬を伝うのがわかった。それが何ゆえの涙なのか、それはシズネ自身にもわからない。自分の不甲斐なさを憂えているのか、それともカクラ、シトの両人による残酷な裏切りを嘆いているのか、純朴なだけが取り柄の青年にはわかる筈もなかった。
 首筋の傷跡がじくじくと痛む。その上に再び手拭いを巻き直した。それは、自らの感情に蓋をしてしまいたいという感情の表れであった。全て忘れてしまいたい、その為にヤカデに助けを求めているのである。
 しかし実際には忌まわしい記憶は一切消えぬまま、いつまでも彼の中で谺し続けていた。




 翌朝、鳥の声で目を覚ます。いつの間に眠ってしまったのだろう。全く記憶にはなかった。
 体を起こすと、隣で寝ているシトの姿を見つけた。いつの間に寝所に戻ったのか。シズネは全く気づかなかった。
 その顔は、化粧も落としていて、障子戸を通して射す陽光に照らされているのは幼さの残る顔立ちである。口許にある小さな黒子が、奇妙に淫猥さを感じさせた。整った顔だが、どこかに爛熟した匂いのする面差しであった。昨夜の記憶が脳裏にこびりついているからかもしれない、とシズネは思った。
 その時、彼女の呼吸が急に止まり、シトが目を覚ました。
「おはようございます」
 微笑みながらそう声を発したシトに、シズネはああ、うん、と言葉に詰まる。どう応えていいのかわからなかったのだ。
 この純真そうな妻が、まだ夫婦になって二日目の真新しい妻が、昨晩本当に父親相手にあれだけ乱れていたのだろうか。シズネの中には自分の記憶を疑う気持ちすらあった。
 しかし、どう思い返しても、あれは事実だった。昨夜のあの出来事は確かにシズネの目と鼻の先で起こったのである。
「どうか、なされましたか?」
「いや、なんでもない」
 首を振ると、シズネは寝着を取り払って起き上がった。首に巻きつけてある手拭の下が痛んだ。
「お着替えをなさいませんと。ちょっと、誰かいる?」
 襖の向こうにシトは声をかける、とそれを待っていたかのように、使用人の女が襖を静かに開けて中に入ってきた。
「若旦那様のお着替えをお願いするわ、それと私の着替えも」
 若旦那。シトが発した言葉にシズネは顔が熱くなるのを覚えた。
 何が若旦那だ、自分のどこが若旦那なんだ。腹の底で嘲笑っているくせに。今も薄汚い百姓だと思っているくせに。
 その感情を外に出さぬように、シズネは使用人と共に寝間を出た。
 寝所の隣にはシズネのために用意された着物を並べた六畳程の部屋がある。すべての着物がシズネの体を採寸した末に作られた物で、カクラの指示によって用意された部屋であった。
「お召し物をお取替えいたします」
 三十四、五の目つきの悪い年増女は言葉こそ丁寧ではあるが、下から睨めつけるような視線がシズネには軽んじられているように感じられた。彼の気のせいである可能性もあったが、昨日まで百姓という身分であった彼を、奉公人が全て敬ってくれるはずもない。
 シズネは案山子にでもなったように両腕を広げ、女のするがままに任せた。寝巻きを脱がされ、山鳩色の袷に袖を通し、その上から薄紺の綿入れを羽織る。不鮮明な姿見の鏡の前に立つと、それが自分であるとは到底思えなかった。髷こそ結っていないが、まるで自分が大尽にでもなったような気分になる。
「その、汚れた手拭いは外しましょう」
 女が言った。
「いや、これはいい」
「何を仰います。そのような汚れたものを身に着けていては、折角のお召し物が台無しでございます。どうぞお外しください」
「駄目だっ! 触るなっ!」
 シズネが急に叫んだので、女は驚いたように一瞬身を引いた。
 その反応に自身も驚いてしまった様子で、シズネは自分の呼吸を整えるように努める。
「これは、大切なものなんだ。外すわけにはいかない」
「そう仰いますが、それをつけたままで今後も暮らすおつもりですか?」
「何か悪いか」
 開き直ったように言うと、女はさも汚い物を見るかのように口許を袂で隠した。
「カクラ様に対して、ご無礼にあたるとは思わないのですか」
「何が無礼なんだ、首に手拭いを巻いていることの何が」
「ご無礼でしょう、そんな汚い物を婿様が身に着けているなんて。あなたもこのミヤノミシメ家に入られたのです、この家のやり方に従っていただかなければ困ります」
 シズネは唇を噛んだ。この女の言うことはもっともかもしれない。
 しかし、この手拭いの下には誰の目にも明らかな人間の歯形が残されているはずだった。そんな異様なものを、誰にも見せるわけにはいかない。
「なら、代わりの布を持って来い。それに取り替える」
 女はまだ何か言いたげであったが不承不承頷いて、桐の箪笥から木綿を藍で染めた布切れを取り出して手渡した。
「外に出ていろ。自分で付けられる」
 その言葉に従って、女は愛想が尽きたというように溜め息を一つ吐き出してから、部屋の襖を閉めて出て行った。
 辺りに誰の気配もないことを確認してから、シズネは手拭いを外してみる。
 あまり磨かれていない鏡に、自分の首筋を映してみた。そこにはまだ赤味の残る小さな歯形がくっきりと映っていた。
 こんなものを、誰かに見られるわけには、いかない。
 シズネは決意も新たに、ヤカデの手拭いを懐に仕舞い込んだ。




「起きてきたか」
 朝餉の膳が並べられた十畳ほどの部屋に足を踏み入れたシズネに、カクラの太く通る声が掛かった。部屋の四隅には火鉢が置かれ、かなり温かかった。従者達が壁際に数人、カクラの声がかかるのを待っている。
 シズネは思わず身構える。昨夜、自らの娘を抱いていた男だ。騙されていることもその時に知った。
 警戒の眼差しでカクラを見つめる。黄ばんだ白髪の鬢には一筋の乱れもない。朝から髪結いでも呼んだのであろうか。
 シズネの視線に、カクラは例の豪傑笑いを見せた。
「ぬはははは、そう畏まらんでも良い。老人になると朝が早うなるものでな、ぬしの顔を見るのを楽しみにしておった」
 カクラの目にはシズネの訝しむ視線が畏まっていると映ったのか。
 何が、楽しみだ。心の奥底で嘲笑っているくせに。それが楽しみだったとでもいうのか?
 シズネは目に敵意が宿りかけるのを堪えて、膳の前に座った。床の間を背にしたカクラの斜向かい、次席である。そこが自分の座る位置だということは手招いたカクラの仕草から分かった。
「むう、どうした、顔色が悪いようじゃが」
「いえ、なんでもありません」
「そうか。……おぬしの瞳の輝きが見えぬのは寂しいのう」
 腹立たしい、シズネは思った。まだそんな虚言を振り回すというのか。
 もう騙されはしない。決意と共にシズネは懐の手拭いに軽く手を当てた。
 かといって、シズネの中に事を荒立てるつもりなど一つもなかった。それは、実の父親に対する孝行の一環である。自分がミヤノミシメ家に属していれば、それだけで父のコマキを幸せに導くことが出来る、シズネはそう信じていた。
 嬉しくもないのに笑顔を作るのは不快だ。
 だがただ一人の父の為と割り切ってしまえば、それも難しいことではない。
「体調でも、悪いか」
「ええ、少し。風邪でもひいてしまったようです」
「そうか、大事にするのじゃぞ」
 カクラのいたわりの言葉は嘘とは思えなかった。
 しかしシズネにしてみれば、獣に情けを掛けられて嬉しい筈もない。昨夜の許されざる情事が、シズネの中に大きなしこりを残していることは否めなかった。
 それでもシズネは小さく「はい」と応えて、食膳に向かった。
 昨夜の宴の席では食事に手をつけることも出来なかった。腹が減っている。
 梅干、茄子の糠漬け、焼いた鯖に根深汁。ヒエと麦に米の混じった雑穀飯。その一つ一つが、島の庶民が口にするものとはまるで味が違った。そもそもこんなに贅沢な飯を朝餉に食することなど、庶民には年に一度も無い。
 驚きながら鯖の身を口に運ぶと、脂の乗りが普通ではない。舌の上で甘い脂が溶け出し、雑穀飯ともよく合った。絶妙の塩梅の香の物に箸を運べば、単純な葱の味噌汁の出汁が引き立つ。今までこんなに旨い朝食は食ったことが無い。
 シズネはその旨さに思わずおかわりをしてしまった。
「ぬはははは、どうじゃ、気に入ったか? 旨いじゃろう」
「はい」
 憎むべき相手に、思わず本音がこぼれてしまったシズネである。食の前に人は無力なのかもしれない。腹が減っては戦は出来ぬというように、チビと言われた犬が団子をもらった恩を忘れていないように、人間もまた食の前では無力なのではあるまいか。
 昨夜の出来事に思いを馳せれば、怒りはする。沸々と煮え滾るものが青年の中にあるのは間違いの無いことだ。
 だがしかし、旨そうな飯の前では怒りも無に帰するのかもしれない。健康な青年が旨い飯の前で怒り続けることは土台無理なのだ。
 カクラがシズネの様子をまじまじと見つめている。自らは食膳に手もつけず、旨そうに食事を摂るシズネの姿に魅入られているかのように、カクラは目を丸くして見守っていた。
「……おぬしは、本当に、たまらんなぁ」
「えっ?」
 カクラの零した言葉がシズネには良く聞き取れなかった。
「おぬしはやはり、そうなのじゃ。何かを持っている。若い、それだけではない。素直、それだけでもない。純朴、だけでは語りつくせぬ。おぬしは一体何者なのじゃ? おぬしのような男に、儂は今まで逢ったことがない。いや、違う」
 そこでカクラは首を振る。
「おぬしは、若い頃の儂によう似とるのじゃ。顔かたちではなく、もっと深いところにある何かが似ている気がするのじゃ」
 その言葉に、シズネは思わず自らが働いた不貞について思い返していた。
 シズネの不貞、カクラとシトの近親相姦、その底流には似通った何かがあるのかもしれない。カクラはそれを無意識に感じ取って、今言葉にしているのかもしれない。
 一緒にしないでくれ、とシズネは思った。だが他者から見ればどちらも似たようなものなのかもしれない、とも感じている。妖と交わること、父子で交わること、どちらも異端視されても仕方の無いことである。
 操られていたとはいえ、シズネは自らヤミツメを抱いた。そこに働いている感情は、娘を褥で抱く父親に似てはいないだろうか。侵してはならない領域に足を踏み入れるその感覚は、きっと似ているもののはずである。
 シズネは何も考えず、カクラの方に目をやる。
 カクラとシズネの目が、しっかと互いを見つめ合った。
「その目じゃ!」
 叫んだカクラの目の中に、シズネも何か底光りするものを感じ取っていた。
「……カクラ様、しかし、俺は」
「ああ、また光が曇るっ! なんだというのじゃ、おぬしは何故、瞳を曇らせるのじゃ?」
 シズネは無心だった。その瞬間、彼の脳裏からは俗世のあらゆる雑事が取り払われていた。
 罪の意識に耐えかねたといえば、それもある。だがそれだけではない。旨い飯を与えられて、自分にそんな資格など無いと感じた。それもある。だがそれだけでは語り尽くせない。
 結局のところ、先程カクラが言った言葉が最大の原因なのだ。
(シズネは若い頃の自分に似ている)
 それを聞いた時、自分はこんな老人になりたくはないと思った。姿かたちは立派でも、金がいくらあろうとも、自分の娘婿を慰み者にするような人間には決してなりたくないと思ったのだ。
 もしもこのまま秘密を全て隠しおおせたとしても、それが一体何になるというのだろう。本当に父であるコマキがそんなことを望むか、と考えた。
 コマキは一人でも生きていける。楽な暮らしではないが、食い扶持が一人分減ると考えればそれほど大変なこともないであろう。コマキならば大丈夫だ、とシズネは思った。乳飲み子の自分を立派に育て上げた父である。
 といって、このようなことをはっきりと意識していたわけではない。言葉を発しながら考えた、という方が正しい。
「自分は、汚れた人間です」
 シズネの言葉にカクラは首を捻った。
「何を言っている?」
「あなたの仰るとおり、俺は薄汚れた人間です」
「なんじゃ、それは。祝言の時のことを言っておるのか。それならば、婿として迎える時に心変わりをしたと申したであろうが」
「そんなことはありません」
 シズネは首を振り、その首に巻かれた藍色の布切れに手を掛ける。
「昨日の夜、仰ったじゃありませんか、泥塗れの百姓と。あなたはまだ、心の中で俺を蔑んでいる。だから娘と二人きりの時には、そんな言葉が出てくるんだ」
「な」
 カクラが言葉に詰まると、周囲の従者達が一歩身を乗り出した。あるいはカクラとシトの関係は、従者達の誰もが知っている公然の秘密だったのかもしれない。シズネに怪しい行動があれば、即座に取り押さえようという魂胆なのか。
 シズネは布切れを解いて、言葉を続けた。
「でもあなたは知らない。俺はもっと汚れているんだ。ここにその証がある」
「何を言うておるのじゃ。訳がわからん」
 布切れを、勢い良く外す。
 と、そこに赤い傷跡が確かに浮かび上がっていた。従者達からざわめきが起こる。
「……シズネ、もうやめよ」
 カクラは落ち着いた声音で言った。
「これ以上はならぬ。これ以上、何も語るな。儂とて一人の人間じゃ。守ろうと思うても守りきれん場合もある。もう何も語るな」
「そんな訳にはいかない」
「シズネっ!」
 カクラの怒声が飛んだ。その迫力に、その場にいた多くの者が首を竦める。
 しかしシズネは止まらなかった。
「俺はカノメリサツの夜に、カノメリノヤミツメと媾った」
 その言葉に、カクラを含めた全ての人間が驚きを隠せない様子である。
「ヤミツメ、だと?」
 カクラが思わず呻いた。
 禁忌に触れた、とシズネは感じていた。それでもいい、とも感じる。こんな風に小汚く老いぼれていくよりも、死んだ方がましだ、とシズネは思った。
「カノメリに、夜に足を踏み入れたと? おぬしは決して許されぬ掟破りを犯したのじゃぞ。わかっておるのか」
 カクラが言う。それをシズネは嗤う。
「父子で媾うことと、どちらが掟破りなんですか?」
「なっ」
「昨日の夜、シトが部屋から姿を消しました。どこへ行ったのかと思って探していると、カクラ様の部屋の中から声が聞こえてきたもので。これ以上、何か訊きたいことはありますか?」
 カクラの顔が紅潮していく。大きな目が三白眼に変貌を遂げていく。
「貴様……」
「俺は、罪人です。カノメリに勝手に踏み入った。その罪のせいで親友を一人喪った。……そんな俺に、こんな食事なんか食べる資格はありません」
「貴様は何が言いたいのだ? これ以上一体何を望むのだ?」
 カクラは紅い顔で茶を啜った。精一杯自分を落ち着けようとしているのだろう。
「儂の好意を無にするか? それだけでは済まされまい。貴様は大罪を告白した。儂には貴様の罪を罰する権限と責任があるのだ。……のう、シズネよ」
「なんですか」
 再び茶を啜ると、カクラの顔からは血の気が引いていた。冷静な表情で穏やかにシズネを見つめる。
「儂がおぬしに見出した光というのは、嘘ではない。本当におぬしの中にかつての自分を見出したのだ」
「やめてくれ」
「まあ落ち着け。今なら、引き返せる。儂の力でお前を守ってやれる。この者共に口止めの金を払って、黙らせておくことも出来る。それに、その首の傷だってそうじゃ。シトに噛まれたと言ってやろう。……それに、夜の媾いについても、シトの奴に控えるように言ってやろうじゃないか」
 シズネは、ここまで言うカクラの態度に不思議な気分を味わっていた。
 自分は罪人だと告白したというのに、それでもこの老人は自分を庇おうとしている。それほどまでにこの老人を魅了している自分の瞳とは一体何なのか?
 考えて、わかる筈も無い、と打ち消した。
 それよりも、父子の媾いはシトが求めていたと言われ、自分の妻が傷付けられている、と感じた。今更、妻も何もあったものではないというのに。
「どうじゃ、シズネ。今ならまだ間に合うのじゃ。引き返せるのじゃ。引き返せ」
 シズネは答えなかった。その場に佇んだまま動かない。
 そのまま長い時が流れた。どれほどの時が経ったのだろう。およそ四半刻程か。
 ふと、カクラが長い溜息をついた。
「もうよい」
 その言葉で、シズネの周囲にいた男達が挙ってシズネを押さえつけた。
「座敷牢に入れよ。あるいは心変わりもあるかもしれん。生き地獄に送るのは、余りにも惜しい」
 ハハッと数人が応え、シズネは腕を締め上げられた。力自慢のシズネでも、六人もの男達に腕を掴まれれば逃れることは出来ない。
 いや、彼に逃れる気など最初から無かったのである。彼は自分が罰せられることを望んでいた。
 親友を見殺しにし、闇の妖と媾い、そんな立場にありながら島の宰相の娘と婚姻し、幸せを掴もうとしている自分を、彼は許すことが出来なかった。そして、そんな自分の末路がミヤノミシメノカクラのような男であるということが、彼に決断を迫った。
 罪を抱いて穢れを隠して生きるのか、それとも罰せられて素直に死を選ぶのか。ナシアの獄に入れられるということは、それが死ぬことと同意義であることはシズネも理解していた。
 シズネは決断した。せざるを得ない心境になったという方が正しいかもしれない。
 生ぬるい裁決に、シズネは激昂した。奇声を発して反抗の意を示した。
 だが、決定は覆らない。
 シズネは屋敷の座敷牢へと運ばれていった。
 初雪の舞いだした、冬の始まりの出来事である。






      第四章


 
 冬は雪を連れて、アメノシキシマにやってくる。
 島は雪に埋もれてしまうのではないかというほどに白く包まれてしまう。
 島の百姓達は皆、いつ終わるとも知れない吹雪に身を縮こまらせ、綿入れや夜具に包まって毎日を過ごすのであった。
 海に生きる漁民達は、落ちたら死んでしまう極寒の海に船を出し、庶民の冬の暮らしを支えた。
 島の人々は、それぞれに自分の役割を果たして生きるのであった。





 寒風が、半地下の座敷牢にも格子窓から吹き込んでくる。
 ここはミヤノミシメ家の奥に設置された座敷牢であった。そこでシズネは夜具にくるまっている。吹きさらしの半地下はとても寒い。わずか三畳の牢は樫材の格子で外界と区切られ、畳の色も褪せて黄色く、粗末な夜具と布団が、便器代わりの肥桶の隣に置かれているだけの部屋だった。格子の向こう側では音も無く雪が降り積んでいる。庭の雪景はまた見事なものであった。
 ……俺は、いったい何をしているんだろうか。 
 シズネは何度も思った。何故自分はこんな所にいるのだろうかと。
 ここに来て、もう幾日経ったろうか。十数日はとうに過ぎたはずだった。日にちなど数える気にもならないほど、シズネの精神は疲れ果てていた。いったい何のために、こんな環境にいるのだろうか、それすらわからないほどに。
 出してくれ、そう叫べば、あるいは助けてもらえたかもしれない。いや、その公算は高いだろう。
 シズネはナシアの獄につながれてもおかしくない罪状を吐露した。ミヤノミシメノカクラが下した自分への裁決が、この座敷牢への入獄だった。生ぬるい判断だ、とシズネは思った。
 けれど、こうして寒さに震える毎日を送るうち、自分は一体何をしているのだろうと考えるようになったのだ。シズネは確かに禁を犯した。しかしそれは全て親友を助けたいがためであって、彼自身が何か悪さを働いたわけではない。ヤミツメとの邂逅も、彼女を抱いたことも、シズネが望んだことではないのであった。
 助けて欲しかった。誰かに。初めて自分の弱さに直面したシズネであった。
 だが心の中ではどうにでもなれという感情も湧いてくる。どうせ自分は罪人なのだと諦める気持ちも確かにあった。
 葛藤があった。シズネの心の奥で。
 座敷牢とは言えど、ここはミヤノミシメ家の敷居の内。与えられる食事もシズネが普段口にしていたものよりも遥かに上等なものばかりだった。寒さは酷かったが、それとてイチクラサトの家に比べればさしたるものでもない。
 この状況に満足するか。
 それとも、助けを求めて安穏とした生活を手にするか。
 シズネはそれだけのことをもう十数日も考え続けていた。
 ふと、シトの顔を思い浮かべる。
 その顔立ちは可憐で、穢れなど知らないように思えた。自分の浅はかさに胸が痛む。穢れを知らないどころか、彼女は穢れそのものだったというのに。それに全く気付かないばかりか、褥を重ねて満足な振る舞いをしたつもりでいた自分の浅薄さに吐き気がした。
 シトとカノメリノヤミツメ、どちらが穢れているのだろう。シズネは両者の像を頭の中で重ねてみる。
 シトは父親のカクラと媾った。それもおそらく一度や二度のことではないだろう。あの声の気配は、馴れた男と女の息遣いだった、少なくともシズネにはそう思えた。つまり、一族郎党を含めて、彼らの行動は暗黙の了承の内だったということか。なんということだろうか。実の父親と媾うことが認められているなんて。
 しかしシズネには母親がない。彼を生んですぐに命を落としてしまっている。彼にとって近親相姦がタブーであるという認識は、村の一般論から出たものに過ぎない。それでも忌避すべきことであるという認識に違いは無い。
 シトは、穢れている。その可憐な容姿とは裏腹に、内奥には恐るべき巨悪を抱えている、シズネにはそう思えた。
 では、ヤミツメはどうか。
「お食事です」
 座敷牢の外から声がした。死角になっている縁の廊下を通って、下男のエズナが盆を片手に現れた。
「変わり映えのしない食事ばかりで飽きてしまうでしょう?」
 禿頭に頭巾のエズナは、二枚目な顔立ちに柔和な笑みを浮かべている。座敷牢のシズネの世話は全て彼がしてくれていた。シズネが罪人の身に落ちても、情け深く接してくれる変わった人物である。その態度と優しさに、シズネは父といる時のような安心感を抱いた。
 牢の格子の下から、盆が差し入れられる。
 麦とヒエの雑穀粥に、大根の漬物。それのみだが、粥の温かさが身に染みた。その温かさが、エズナの気遣いであることをシズネは肌で感じていた。というのも、この座敷牢は炊事場からかなり離れている。この牢屋まで粥を冷まさずに運んでくるには、相当気を遣わなければならないだろうと、シズネは思っていた。
 エズナの中にシズネは、ヤカデに対するのにも似た親愛の情を抱くようになっていた。
「毎日、何もすることが無くて退屈ではありませんか?」
 彼の言葉遣いは、今もまだ貴人に対するもののままだ。それでいいのかと心配になるが、エズナは特に気に留めている様子も無い。
「はあ、まあ」
「そうでしょうとも。……よろしかったら、私の話でもお聞き願えませんか?」
 一体何を話すつもりなのだろう。シズネは一刹那訝ったが、今更自分をどうこうすることも出来まいとエズナの言葉に耳を傾けることにした。
「実は私の老母が、もう六十を超えて、とうに腰の曲がった母なのですが、これが未だに気性だけは若いつもりでして。先日も近くに暮らす茶飲み友達と手をつないで歩いているのを村の人に見つかって、私のところまで噂が伝わってくるのにほんの三日でした。ハハハ、悪事じゃあありませんが、後ろめたいことはすぐに噂として広まるものなのですね」
 シズネにしてみればどうでもいい話だった。だが老人の恋路について語るエズナのにこやかな表情を見ているだけで、シズネの小波だった心が静やかになっていく気がした。
「『おっかあ、そんな恥ずかしいことやめてくれや、俺はカクラ様のお屋敷にご奉公に上がらせてもらっている身なんだぞ』、そうやって言って聞かせるんですが『何を恥ずかしがることがあるや、お前だってカクラ様だって、みんな手をつないで口吸いするところから始まって生まれたんじゃ』とこうですからね。全く、頭が上がりませんよ、うちの母には」 
 どうでもいい世間話だ。そんな世間話が心地よく感じられるシズネがいた。
 手をつないで口吸いするところから始まって生まれた、か。確かにそうかもしれない。自分の両親もそうだったのかと思うと、どことなく面映い思いがする。
「そんな母親が、『早く孫の顔を見せろ』ってうるさくて。こちとらまだ結婚もしてないってのに。こんな私ですが一人っ子の総領息子ですからね、残す名も無い家ですけれど、それでもこんな息子に期待をかけてくれている母親がいるというだけでも有難いことだと思わなければならないのですがね。せいぜい親孝行のつもりで嫁探しに精進するつもりですよ」
「父親は、いないのですか」
 シズネは問うた。エズナの家庭環境など彼にとってはどうでもいいことではあったが、聞かずにはいられない雰囲気だったのだ。
「もう三年になりますか、病で亡くなりました。それほど苦しんだわけでもなく、静かな最期だったのがせめてもの救いでしょうか。それでもうちの母親にはやはり大きな出来事だったのですね、それ以来めっきり老け込んでしまいました」
「それでも、今は茶飲み友達もいるのでしょう?」
「はい、だから女というのは不思議でなりません。老け込んでいたものがまた再生するように、潤いを取り戻したというか。……人間という生き物は、生来寂しがりな生き物なのかもしれませんね」
 そう話を締めくくると、エズナは「では」とだけ言って、その場を後にした。
 シズネは、このエズナとの会話の時間が生きがいになりつつある。これからのことは何も確定的ではないが、エズナと言葉を交わす時間だけがシズネにとっての癒しの時間になっていた。
 もし自分がナシアの獄に繋がれることになったなら、おそらくはこんな時間すら与えられないであろう。これから自分は一体どうなってしまうのか、先が全く見えない状況だった。
 食事で途切れてしまった思案を、シズネは再開させる。
 ヤミツメは穢れているのか。
 シズネは再びシトとヤミツメの顔を思い浮かべる。
 すると、一つのことに気付かされた。
 それは、彼女らがどこか似た顔立ちをしているということだった。
 どこが具体的に似ているという訳ではない。全体像の雰囲気がどこか似通っているようにシズネには感じられたということだ。シトの薄化粧を落とした姿を思い浮かべると、その凛とした印象はやはりヤミツメの顔にどこか似ている。
 それだけではない。
 ヤミツメの顔は、どこかカクラにも似ていたのである。
 だからどうしたというのか。シトとカクラが親子であるのは明白なのだから、それは当たり前のことなのだ。
 シズネは自らの思案の途方もなさにシズネは嘆息した。
 しかし、考えてみればカノメリノヤミツメという妖は、何故カノメリに棲みついているのだろうか。何故神域の森であるはずのカノメリに妖が棲むのか。よくよく考えてみれば不可思議なことだった。
 それに、父のコマキから寝物語に聞いていたように、ヤミツメがシズネを憑り殺すようなことは無かった。今シズネがここに生きているのは、ヤミツメに殺されなかったからである。やはりあの妖が若い男を憑り殺すというのは、アヤノツメクサに一般衆生を近づけないための嘘なのだろうか。そう考えてみれば、実際にヤミツメに誰かが殺されたという話は聞かない。カノメリに迷い込んだ人間という話もシズネは聞いたことが無かった。それは掟に誰もが従って生きているから、といえばそうなのかもしれない。しかし、本当にそうなのだろうか。アヤノツメクサが島のどこに生えているか、など聞いたことも無い。アヤノツメクサを隠すための嘘だとしたならば、それは随分と念の入った嘘である。しかしそう考えれば説明がつく。
 では、あのヤミツメとは一体何者なのだ。何故カノメリに暮らしている。いや、そもそもシズネが出会ったあの女は本当にカノメリノヤミツメという妖だったのか?
 謎が謎を呼ぶ。シズネは軽く混乱した頭を抱えて、夜具に包まっていた。
 そこへ、足音が静かに聞こえた。耳を澄ましていると、その音はどんどんとこちらに近づいてくる。
 現れたのは、綿入れに袖を通したカクラであった。
「……シズネ」
 丹前に身を包んだシズネに、カクラは声をかけてきた。シズネは応えない。
「儂の話を聞いてくれまいか」
「今更、何を話すと言うんですか」
 シズネはつんと突き放すように言った。
 カクラの瞳には光が無い。まるで放心してしまったかのように、生気が感じられなかった。
「儂と、シトのことじゃ」
「だからっ! 今更何を聞かせる気なんですか。俺はもう、何も、聞きたくない」
 シズネは声を荒げた。
「今だからこそ、間に合うのじゃ。今お前が改心してくれれば、全てが丸く収まる」
「改心? 改心しなければならないのはどちらですか」
「無論、おぬしの方じゃ」
「なんですって?」
 カクラの決めつけるような言い方に、シズネは激怒する。
「親子で媾うことが、正しいことなんですか」
 怒りの感情を内に秘めつつ、シズネは言った。
「それは認識の違いじゃ。おぬしと儂達、ミヤノミシメ家では常識が違う」
「そんなのは、言い訳だ」
「言い訳ではない。正当な主張じゃ。そもそも、何故親子で媾うことが正しくないことだと言えるのだ?」
「それは……」
 返す言葉がない。シズネは黙り込むことしか出来なかった。
 言われてみれば、何故に近親相姦が異端視されるのか。シズネにはその説明が出来ない。
 遺伝的な悪影響を考えれば、シズネの思う通り、近親相姦は許されざる行為だと言えるだろう。しかしシズネにそんな知恵はない。ただ生理的な嫌悪感を催すからと、それだけの理由で彼は非難をしているのだ。
「我がミヤノミシメ家では、代々女児が生まれた時には父親がそれと媾うという習わしがあるのじゃ。それを知らせなかったのは儂の落ち度じゃ。責めるならば儂を責めてくれい」
「なにが習わしですか。それじゃああなた方は、親子で媾った末に出来た子供を、俺に我が子として育てさせるつもりだったのですが?」
 不潔だ、卑怯だ、とシズネは思った。なにがどう不潔なのかはわからないが、とにかく彼にとっては到底受け入れられることではなかった。
「そんなつもりはなかった。子が出来ぬよう工夫はしておる。我が家に新しい血を入れようと考えたのは事実なのじゃ。……分かってはもらえんか?」
「わかりません。わかりたくもない」
 吐き捨てるように言うと、シズネはカクラに背を向けた。
 雪の舞う半地下の座敷牢に静寂が訪れた。あまりにも静か過ぎて、その場に二人の男がいることすら忘れてしまいそうだ。
「そうか。ならば、致し方あるまい。……おい! 誰かおらぬか!」
 カクラが叫ぶと、従者が三人現れた。中にはエズナの姿もある。悲しそうな目をして、シズネを見つめていた。
「どう、なされましたか」
 エズナが三人を代表してカクラに問う。カクラは大きくかぶりを振った。
「もう、儂にはどうにも出来ぬ。……罪人を引き出せぃ!」
 その声に三人はそろって「はっ」と発声し、座敷牢の鍵付きの扉を思い切りよく開いた。
 悲しい目をしたエズナが、シズネの腕を掴み後ろ手に手枷を嵌める。
 罪人。シズネの耳にはその残酷な響きだけが谺していた。
 そう、彼は罪人なのだ。カノメリに、定められた刻限を超えて踏み入った罪は、大変な掟破りなのであった。それを彼は自ら告白したのであるから、彼の行き着く先は最初から定められていたといっても過言ではない。今の今まで、ミヤノミシメ家に匿われていたこと自体が異常なことなのであった。
 そしてカクラは、島の罪人の処遇を取り仕切る立場の人間である。彼の好きなように罪人を罰することも可能なのであった。彼の独断で、この場でシズネを斬首することすら自由自在だった。
「おぬしの瞳は、おお、今、また輝いておる。……可哀想に、その光が喪われることになろうとは」
 カクラは悲しげに呟いた。シズネにはなんのことやらわからない。瞳の輝き? それがどうしたというのか。シズネには何もわからなかった。
「……おぬしを、ミヤノミシメ家から除籍する」
 厳然と言い放ったカクラの言葉には迷いはもう無い。
「そして、おぬしをナシアの獄へ送ることとする。よもや異論はあるまいな」
 ナシアの獄。その名がカクラの口から発せられたことが、シズネの運命を決定づけることとなった。
 決して生きては戻れない、監獄。そこに送られた誰もが地獄の責め苦を味わい、死んでいくことになるという文字通りの『獄』。生きて帰った者のいない、地獄。
 実感は湧かなかった。シズネの中にはどこかにまだ希望のようなものが残されているような気がした。自分が間違ったことをしているという感覚は無く、カクラの方こそ獄に送られるべきだという想いがある。自分をこれほどまでに裏切ったカクラとシト。その二人こそが獄に繋がれるべきなのだと。
 手枷を嵌められたまま、シズネは長い廊下を歩かされた。
 ふと視線を庭に転ずると、そこには雪色の中に点のように赤い印が残されているのに気がついた。そばに、重々しいきらびやかな和装のシトが無言で立っている。
 よくよく目を凝らすと、彼女の傍にできた雪山の脇に、シズネがチビと呼んだ仔犬が倒れているのが見て取れた。チビは倒れ伏したまま、起き上がろうとしない。
 シズネはシトの手に小さな懐刀が握られているのに気がついた。
「……殺したのかっ!?」
 思わず叫んでいた。自分の今の立場を忘れて、シズネは叫んでいた。
 こらっ、とカクラの従者の一人が背後から棒で一突きする。
 薄化粧のシトが、こちらを向いて不気味な微笑みを浮かべていた。その唇は、まるで血のように紅い。
 狂っている。シズネは思った。
 自分は知らぬ間に、地獄にいたのだと今更になって気がついた。そうだ、ここは最初から地獄だったのだと。
 たったひと晩しか夫婦ではなかったにしろ、手枷を付けて獄に運ばれていく夫に、微笑みを投げ掛けるような女だったのだ、あのシトという女は。シズネは、その美貌に騙されていた自分があまりにも愚かしく思えて仕方が無かった。
 ここは、地獄だ。改めてシズネは思った。こんな場所からはすぐにでも離れた方がいいのだ。
 たとえ行き着く先が、どんな地獄であろうとも。
 雪の舞う中で荷車に乗せられたシズネは、絢爛豪華なミヤノミシメ家を後にした。
 もう二度と踏み入ることのできない、その屋敷を後にして、シズネを乗せた荷車は険しい山道を登っていった。





 ナシアの獄は、峠の上にある。巨大な黒塗りの門と塀が、今は吹雪に包まれていた。
 厳しい雪道を登った先にあるこの獄に、シズネは連れてこられたのであった。
 出迎えは丁重だった。それが何故かはシズネにはわからなかったが、祝言の席で見た顔もある。きっとその影響だろうとシズネは思った。ここの官吏はカクラの部下なのだ。
 墨染の衣に袖を通した官吏達はそれは丁寧に、シズネに接してくれた。
 これならば、酷い扱いは受けないかもしれない。シズネは淡い想像を浮かべていた。
「よくぞ遠いところをいらっしゃいました。汚いところですが、どうぞお寛ぎ下さい」
 手枷を解かれて、シズネは門扉の中にある幾つかの牢獄の一つに通された。
 そこは確かに薄汚い場所ではあったが、適度に掃除も行き届き、藁敷の床も我慢できない程のものではなかった。ミヤノミシメ家の座敷牢と比べればあまり褒められたものではなかったが、それも仕方のないことだ、とシズネは諦めの気持ちを持っている。
「今、お食事をお持ち致します」
 官吏の丁寧な言葉遣いがいかにも奇妙だったが、ミヤノミシメ家に一度でも属したことのある人間に対してはこのような扱いが妥当なのかとシズネは思った。
 石造りの牢獄は床冷えがした。手足の指先から体温が失われていくのがわかる。
 時折、雪の降り積む音の向こうから不気味な呻き声が届いてきたが、自分には無関係な音なのかもしれない、シズネはそう考えていた。
 もしかしたら、カクラは自分をこの獄に暫く預けておいて、そのうちに無罪放免でここから出してくれるのかもしれない、などという妄想までがシズネの中に湧いてきた。
「お待たせしました、こちらが、お食事です」
 牢の格子を通して渡された食事を見て、シズネは思わず絶句する。
 ヒエの粥の中にウジが蠢いているのであった。この真冬にどこでわいたのか、うねうねと動き回るウジが大量に椀の中にいる。
 思わず官吏の顔を見遣ると、そこにはいかにも下卑た笑みが浮かんでいた。
 シズネはその椀をそのまま官吏に突き返す。
「こんなもの、食えるはずがないだろう」
「ほう、流石にお大尽様は違いますなぁ。獄に落ちて、まともな飯にありつけるとでも思っていたのですか」
 馬鹿にしている、シズネは思った。
「飢えて死にたければ、食わずにいるがいいさ。ヒヒヒ、それとも地獄の沙汰もなんとやらで、金に物を言わせますか」
「金なんて、持っていない」
「おやおや、ミヤノミシメ家の婿殿ともあろうお方が、なんということをおっしゃいます。ヒヒヒ、ケツの穴にでも隠した金でも出せば、まともな食い物をだしてやってもいいんだぜ」
 なんということか。シズネは牢の格子を掴んで揺すぶった。
「ふざけるなっ!」
 しかし格子は硬い角材で出来ていてビクともしない。
「ヒヒヒ、怖いねぇ。せいぜい暴れるがいいや。誰もお前の手当などしちゃくれないぜ」
 怒りに任せて、シズネは角材を殴り付けた。拳から血が迸る。それでも格子はなんら壊れる様子を見せない。
「自分の身の程をわきまえるんだな、お大尽様よぅ。お前が百姓の出だってことは誰もが知ってるんだぜ、ヒヒヒ」
「それが、どうしたというんだ!?」
 シズネが叫ぶと、他の官吏が飛んできた。
「何を騒いでおる。……貴様か、新入り」
 その手には六尺程の長さの棒がある。硬そうな棒であった。
「身の程を知れ!」
 棒が牢の格子の外側から刺し入れられ、シズネの胸を思い切り突いた。激痛がシズネを襲う。
「ケッ、馬鹿が」
 最初に応対した官吏が言葉を吐き捨てて去っていく。突棒を持った男もそれに続いて去っていった。後には胸を押さえて蹲るシズネだけが残される。
 彼は自分が如何に甘い考えでいたかを思い知らされていた。生きて帰る者のいない獄、ナシアの獄に入れられたのだ、その事実をシズネは理解しきれていなかった。
 これが、獄の現実。
 どこかから聞こえてくる呻き声が、いったい何の為に発せられているのかを、シズネは静かに悟った。





 翌日から、地獄の責め苦が始まった。
 冷え切った体に水を浴びせかけられることから朝が始まる。極寒の環境の中で、シズネは無理矢理に目を覚まされた。震えながら、襤褸雑巾のような垢じみた獄衣を着る。防寒の綿入れなどは当然無い。
 寝床も何もかもが冷たく凍って、床に座ることすら出来ず、立っていなければならない状態になった。その姿勢を保っているのが難しくなるほど、長い時間をそのままで待たされた。
「待たせたな、時間だ」
 真面目そうな官吏が、シズネにそう声をかける。そして牢獄の鍵を開け放つ。
 逃げ出そうと思えば逃げられる気もした。
 しかし、痺れ切った足は凍傷を起こしかけていて、とても走れる状況ではない。まして、高い塀と硬い門扉に囲われたこの空間から抜け出す方法など、シズネには思いつかなかった。
 雪の中を裸足で歩かされる。もし足が止まれば容赦無く突棒で身体を突かれる。シズネはこの獄に来て二日目にして、身体中が赤黒く変色する目に遭わされた。足は霜焼けとあかぎれで不気味な色に変わっていた。
 次は食事の時間だ。これも酷い。例の虫がたかった粥が冷え切った状態で出されるのであった。空腹に耐えかねて、口の中で虫が動き回るのを感じながらも、無理にその粥を飲み下す。気味が悪かった。
 そうして、今度は大きな獄舎に移されて、腕を宙吊りにされ、ササラのようになった竹で身体を打たれるのだ。痛みに身悶え、意識が薄れると、氷のように冷たい水を浴びせかけられる。生傷に水が染みて、痛みが徐々に麻痺していくのがわかった。
 この一連の行為が毎日行われるのだ。
 身体中が悲鳴を上げ、涙さえ枯れ果てた。凍った床で夜を明かして、眠れないままに次の日を迎えることが数え切れないほどあった。
 十日程の内に、シズネの体は全身が赤紫色に変色し、精悍な体つきが瞬く間に痩せ細り、不気味に膨れ上がった傷が目立つようになった。
 右の足の小指と薬指が壊疽を起こしてぼろりと抜け落ちた時から、シズネの中で何かが壊れた。
 あらゆる責め苦が、苦ではなくなったのだ。自我が崩壊し、その環境に慣れ始めたのである。自由に歩くことすら難しくなり、雪の上を這いずって進むようになって、彼はよく笑うようになった。
「おい、お大尽、何がおかしい」
 官吏に問われても、卑屈な笑みを浮かべたままシズネは答えない。突棒で殴られ、痛々しい傷を突かれても、彼は笑ったままだった。
「チッ、こいつ、狂いやがった」
 官吏はいかにもつまらなそうに言った。しかし壊れてしまったシズネに対しても、地獄の責め苦は変わらず与えられ続けた。シズネが死ぬまで、この責め苦は続くのである。
 繰り返される変わらない毎日、生かさず殺さずの生活が続いていく。シズネの心と体は、徐々に冒されていった。





 雪の中を這いずり回る生活が、季節と共に終わりを迎えようとしている。
 土の地面が見え始め、粥に混じったウジ達が元気を見せ始めた頃、シズネに来客があった。
「面会だ」
 真面目な官吏がそう言って、シズネの独房の扉を開けた。
 しかし、シズネにはもう、自らの身体を支える力は残されていなかった。這いずることさえままならない状態で、シズネは震えていた。笑いながら。
「早く出ろ!」
 そう言われて、初めてシズネは不自由な身体を動かした。もう、手指は片方に三本ずつしか残されていない。その残された指さえ全て紫色に変色し、壊死し始めている。
 匍匐前進の要領で牢を出たシズネは、官吏に導かれるままに、獄舎の一角に向かう。
 そこは板敷の間で、小さな文机の向こう側に官吏に挟まれるように一人の老人がいた。
 老人、そう見えたのは、シズネの父、コマキであった。
「シズネっ、なんという姿に」
 窶れたコマキの目から、涙が流れ落ちる。
「あ、うう」
 シズネは応える言葉を持たなかった。
「シズネ、これは、儂が作ったキビの団子だ。さあ、食え」
 コマキはシズネの口に団子を運んだ。シズネは抗う事もせず、それを口にした。
 シズネは、無意味な笑みを消して、涙した。
 自分にはこんなに優しい父がいたのに。共に暮らすだけで幸せな家族がいたのに。それなのに何故、多くを望んでしまったのか。
「うう、……父さん」
 数ヶ月振りに発した言葉は、父を呼ぶ言葉だった。
「どうした、なんでも言ってみろ」
 父は息子の変わり果てた姿に、目を見張っている。
 その姿はまるで妖怪だ。襤褸雑巾のような黒い獄衣に身を包み、赤黒くあるいは青黒く変色した姿は見る者を怖気づかせる。その姿を見てなお、父は父であった。息子の痛ましい姿に心を痛めているが、決して怖気づいたりしない。
「助けてよ……、もういやなんだ。ここは辛いよ」
「……悪いことは良いことの始まりなんだ」
 父は以前とは逆のことを言った。
「悪いことや辛いことの後には、必ず良いことが訪れるんだ。その時を待つんだ」
「そんなの」
 赤黒く腫らした顔を涙で濡らして、シズネは父に泣きつこうとした。しかしそれすら自由にはならない。彼には自分の体を支える力は残されていなかったのだ。
「大丈夫だ、必ず悪いことは終わるんだ。お前は何も悪いことはしていないんだろう?」
 その時シズネの中に蟠りが生まれた。自分はこの父に嘘をついたのだ。思えばその辺りから何かが崩れ始めたように思えてならない。あの時に正直に父に告白をしておけば、あるいは結果は違ったかもしれない。また、引き返す時機は何度もあった。それを悉く裏切ってきたのは自分自身なのだ。
 シズネは心の底から深く反省した。怒りも悲しみも捨てて、自らの行いを省みることだけを優先させた。
「父さん……」
「そろそろ時間だ」
 官吏が残酷にもそう告げた。
「えっ、もう?」
「……この面会自体が、カクラ様の命による特例なのだ。悪く思うな」
 シズネは焦った。こんなにも伝えなければならないことが沢山あるというのに、時間はもうない。
 コマキは優しい目で息子を見つめ、それから踵を返して部屋を後にした。その背中を、シズネは言葉を失ったまま見送ることしか出来なかった。
「ったく、金でも積めば、ちったぁ取り計らってやろうってのに、気の利かねぇ爺いだ」
 不真面目な官吏が言うなりシズネの脇腹を蹴り飛ばした。
「オラ。さっさと動くんだよ、ウジ虫野郎」
 蹴りの衝撃に咽びながら、シズネは考えた。
 悪いことは良いことの始まり。コマキの言葉を思い出す。
 本当にその通りならば、この地獄にも終わりがやってくるんだろうか。もしそうなら、一体誰がこの地獄から自分を救ってくれるのだろう。
 カクラか、それともシトか。コマキにはそんな力は無いだろう。
 しかし、カクラにしろシトにしろ、このナシアの獄に自分を送る時点で、おそらく相当な決意をしていたに違いない。だからこそ座敷牢で心変わりを待ったのだろう。そして自分は改心しなかった。納得できなかったという方が正しい。結果としてこの場所に送られることになった。そして、父のコマキならいざ知らず、こんな変わり果てた姿の男を再び婿として迎えることなど、ミヤノミシメ家に限ってあろうはずもない。希望は持てなかった。
 それでも、シズネは痛む体を引き摺りながらも、父の言葉を信じた。父の言葉に嘘は無いはずだった。そう、今までに一度だって父は嘘を言わなかったのだ。そんな父が気休めで励ましの言葉をかけたりはしないはずだ。
 それほどまでにシズネはコマキを信じていた。





 それから、シズネは変わり始めた。
 微かな季節の変化以外、何ら変わらない毎日の中にも希望を失わずに過ごし始めた。
 季節が春から夏に移り変わり、傷ついた体からウジがわき始めても、その希望は揺るがなかった。
「おはようございます」
 そう声をかけられて、獄吏は目を見張る。完全に心を失っていたはずの男が、不意に挨拶をしてきたのである。
「お、おう」
 水を浴びせかける手からも力が抜けていた。
 粥からウジが消えるのに時間はかからなかった。獄吏達の感情をシズネが動かしたのは明白である。官吏とはいえ人の子である。罪人に地獄の責め苦を与えるのが仕事であるとはいっても、彼等にも感情がある。ひたむきに自分の罪と向き合い始めた罪人に、敢えて鞭打つような真似を出来るものではなかった。
 シズネは明らかに変わった。不条理な態度の官吏にさえ、冷静で落ち着いた対応をし始めたのである。
「チッ、……貴様はやりにくい」
 これが官吏の口癖になり始めた。それほどまでに、シズネは変わった。誰もが、死にかけのこの男の変貌に驚きを隠せないでいた。
 冷静な頭で、シズネは考える。自由のきかない体を引き摺りながら、存分に時間を使って考えたのだ。
 それでもわからなかった。一体誰が自分を救うというのか。あらゆる可能性を考え尽くした。
 ヤカデは死んだ。シズネの目の前で、崖から落ちて死んだ。
 コマキはきっと助けに来てはくれない。それは仕方のないことだ。
 可能性があるとしたらカクラやシトの心変わりだが、それもありえないとは言い切れないが、しかしあまりにも心許ない希望である。今のシズネの姿を見て彼等がどんな嫌悪感を催すか、考えるまでもない。
 それでは一体、誰が自分を助けてくれるというのか? シズネは首を捻らざるを得なかった。
 それでも諦めない限り、希望は続いていく。
 もしかしたら獄吏の人々が特例的に自分を放免してくれるかもしれない。このまま冷静な応対を続けていれば、それもありえないことではないようにすら思える。
 夏が虫の鳴く声と共にやってきた。
 その季節が終わり、再び水が体を凍えさせる季節が近付いてきた。
 カノメリサツの季節だ、シズネはおもった。カノメリサツ、今の自分の状況を作り出した元凶。
 獄の中ではカノメリサツがいつなのかすら教えては貰えない。
 しかし、その日は刻々と近づいて来るのが肌で感じられた。もう戻れない、あの季節がまたやってくる。
 シズネは静かに心の中でアメノカノメリノオクナに願った。
 もう何も望まない、せめてこの苦しみから自分を救って欲しい。ただそれだけを願った。




     終章



 その日は唐突にやってきた。
 朝に水を掛けに来る獄吏が、今日に限って来ない。
 季節の移り変わりから想像するに、それはきっと今日がカノメリサツの日だからだろうとシズネは思った。
 その日は朝から曇天に覆われていて、牢格子越しに見える空は鈍色をしていた。
 シズネはこの一年を振り返っていた。色々なことがあった一年だったが、今思えばもう少し何かやりようがあったように思えてならない。後悔ばかりが残されている。
 去年のこの日、カノメリサツの夜に起こった出来事、それさえなければ今頃は、と詮無いことを考えてしまうシズネがいる。今頃はミヤノミシメ家の一員として、権勢を誇っていたのだろうか。考えれば考えるほど、その想像が馬鹿げているということに気付かされる。
 去年の今日、シズネは確かに夜のカノメリに踏み入った。幼馴染のヤカデと共に。
 もしもあの時にヤカデを止められていたら。もしもあの時、自分だけでも森から引き返していたなら。自分がこんな結末に囚われる必要もなかったに違いない。
 そしてもしも、カノメリノヤミツメに傷をつけられなければ、そもそもあの女に出会っていなければ、シズネはそう考える度、悔しさに苛まれる。
 あの女は、本当にカノメリノヤミツメだったのか?
 今となってはそれを確かめる術もない。
 そうして、シズネは咎人としてナシアの獄に落とされることとなった。
 妻の、そして義父の裏切りには耐えられないものを感じたからだ。
 妻は、鬼畜だった。平気な顔で犬を殺すような鬼畜生だった。あの女から離れられたことだけは、唯一ナシアの獄に落とされたことを幸運と思える出来事であった。 
 それから、シズネを虐待が襲った。極寒の獄の暮らしはシズネから身体の自由すら奪い去った。精悍だった体つきはすっかり痩せ細り、餓鬼のような胃下垂の体つきに変わってしまっている。今では自分の足で立ち上がることもできない。
 そんなシズネに、コマキは「悪いことは良いことの始まりだ」と言い残していった。手足の指を失い、這いずる以外に身体を動かす方法を失ったシズネに、コマキはそれでもそう言ったのだ。
 一体どんな幸運が、これからの自分に待っていることだろう。想像することすら難しかった。今のシズネには、人並の幸せすら念頭に挙げることも出来ない。かつて、自分が暮らしたイチクラサトの村里が懐かしく思い出されるだけだった。あの慎ましくも幸せな生活にもう一度戻ることが出来たなら。そう考えると、シズネの心は仄かに和らいだ。
 獄吏が一人も顔を見せない。やはり今日はカノメリサツなのだろうと考えると、シズネにはやはり感慨深かった。
 ふと、耳鳴りがした。幻聴を聞くのも初めてではない。
 しかしその耳鳴りは余りにも明瞭で、はっきりと聞こえてきた。
 その耳鳴りは、ドドド、と大地が轟くような激しい音。
 それがただの耳鳴りではないと気づいたのは、激烈な揺れが突如としてシズネの身体を揺さぶったからであった。
 地面に身体を横たえていたシズネは、身体を独房の端と端にぶつけられ、自分の身に何が起きているのか全く分からずにいる。
 その揺れが地震であると気付いたのは、揺れが数分もの間続き、石造りの牢の一部がメキメキと音を立てて崩れ去った時であった。こんな揺れは今までに感じたことはない。未曾有の災厄が今、目の前で、自分の足元で起こっているのだった。
 よりによって、カノメリサツの日に。
 シズネは意外に冷静だった。それは、いつ死ぬとも知れない生活の中で培われた素養だったかもしれない。砕けた石の裂け目から、シズネは揺れる大地を全身で感じながら這い出した。
 牢の外は惨憺たる有様であった。辛うじて牢の原型を保っているのはシズネの入っていた牢だけで、他の牢は跡形もなく崩れ去っている。中に入れられていた人々がどうなったか、考えるまでもない。
 やがて揺れがおさまると、今度は地震とは違う響きの音色がシズネの耳に響いた。
 ナシアの獄は高台にある。そこからは大海を見下ろすことができた。眼下には唐林の町も見える。
 シズネは、丘の上に這い上がり、その場所から音のする方角を見つめた。
 海が、起き上がった。シズネにはそう感じられた。白い波頭が、まるで巨大な怪物の口のように大きく牙を剥き、高台にいるシズネの目の高さにまで達した。
 津波だ。
 巨大な津波が、今まさに唐林の町を、そして島中を飲み込もうとしている。
 一刹那が数分に感じられるような圧倒的な迫力で、唐林の町は強大な瀑布に飲まれた。
 シズネは言葉を発する気力すら起きなかった。どんな言葉も無意味に感じられるほど、目の当たりにした光景が異常すぎたのである。
 高台にいるシズネのすぐ目の前まで、津波は迫った。
 しかし辛うじてシズネは難を逃れた。津波はまるでシズネを避けるように、海へと引き返していったのだ。
 暫しの間、シズネは呆然としながらその場を動かなかった。津波は第二波、第三波と押し寄せたが、そのどれもがシズネの下までは届かない。
 呆然とした頭に父の顔が過ぎった時、初めてシズネは意識を取り戻した。
「父さんっ」
 シズネは思わず叫ぶ。泥濘に浸かった唐林の町の成れの果てを見つめて、シズネの故郷であるイチクラサトのことを考えたのである。イチクラサトは唐林の町よりは少し海抜が高いが、それでもこのナシアの獄ほどではない。間違いなく、今の強大な津波がイチクラサトを襲ったことだろう。
 みんなは無事か、と考えて、シズネは一つの事実に思い至る。
 そうだ、今日はカノメリサツだ。みんなはカノメリに集まっている。
 考えて、再び落胆する。カノメリは唐林の町のすぐ近くだ。今の津波が森を飲み込んだのは間違いない。
 それでは。シズネは思った。
 もしかしたら。
「生き残ったのは、俺一人なのか?」
 口にしてから、シズネは絶句する。なんということなのか。
 父の言葉が蘇ってくる。
(悪いことは良いことの始まりだ)
 これが、良いことなのか? 
 おそらく今の大地震と大津波で、多くの人が、もっと言えば島中のほとんどの人が死んでしまっただろう。眼下に広がる森の薙ぎ倒された木々を見ていればそれがはっきりわかった。この獄よりも上に、村はない。
 コマキも、カクラも、シトも、エズナも、皆死んでしまった。愛する家族も、憎むべき相手も、皆死んでしまったのだ。
 獄吏たちもあの津波に巻き込まれてしまっただろう。これでシズネを縛る者はいなくなった、それも事実だった。
 しかし、これの一体どこが「良いこと」なのだろう。
 このままでは、シズネは飢えて死ぬより他ない。結局自分も死ぬことになるのではないか。
 それでは全く意味がない。
 なんということだろう。シズネの思考は暫し平静さを失った。
 その時、声が聞こえた。人のものではない。犬の鳴く声だった。
 見ると、崩れた獄の門扉の隙間から、犬が一匹やってくるではないか。それも見覚えのある犬が。
「チビっ!」
 シズネは思わず叫んだ。
 あの犬は確か、殺されたはずだった。あの残忍な元の妻の手によって。
 それが、どうしてこんなところにいるのだ?
 チビは元気よくシズネのもとへ駆け寄ってくる。シズネは指の欠けた手でその頭を撫でた。間違いない。そこにいるのは確かにあのチビだった。
「一体どうして」
 シズネは喜びつつも首を捻らざるを得ない。
 じゃれつくチビの体に触れながら、シズネは再び眼下の唐林の町を見つめた。
 すると、そちらから小さな人影がやってくるのが見える。
 その姿は墨染の衣を着、長く伸ばした黒髪が遠くからでもはっきりと見ることができる、見覚えのあるもうひとつの存在であった。
 カノメリノヤミツメ。
 それは間違いなく、去年の今日、カノメリの奥地で出会った美貌の持ち主に違いなかった。
 彼女の手には、信じられないものが乗っている。
 それは、赤児。
 嬰児を抱いて、女は坂を上ってくる。
 逃げ出したい衝動がシズネの中にはあった。
 しかし、あの女の正体を知りたいと思う気持ちの方がよほど強かった。それにシズネにはこの場から逃げ去る体力も残されていない。どの道なるようにしかならないのだ。
 女は、子供を抱いたまま崩れ去った門扉を通り、シズネのもとへ早足で近付いてきた。
 彼女が目の前に佇むと、シズネは心臓を掴まれたような心持ちになる。
「お前は」
 シズネは言葉を口にした。以前のように操られている感覚も無い。
「お前は、カノメリノヤミツメか?」
 単刀直入に訊いた。それが一番の早道のように感じられたからだ。
 女は首をひねる。言葉の意味が解らないとでも言いたげだ。
「お前は一体、誰なんだ?」
「私ハ、おくな」
 おくな? シズネは一瞬意味を掴みかねた。
 しかしその聞き覚えのある音韻に、シズネの頭はすぐに反応する。
「アメノカノメリノオクナ、か?」
 口にしてから、畏れ多いとシズネは目線を下げた。
 墨染の垢染みた衣に身を包んだ姿の女は、それでもどこかに光輝を秘めているように感じられる。以前カノメリの奥地で出会った時とは何かが違う。それはもしかしたら、抱いている赤児の為かも知れない。
「私ヲ、ソウ呼ブ者モイル。シカシ私ハ、タダノおくな」
 不思議な発声法で、彼女の口元はほとんど動かない。微笑みを浮かべた姿がどこか神聖にすら感じられる。
 シズネは心の中で、まさか、と思った。まさかこの島の創造神といわれる存在と、自分が対峙しているなどとは誰も思わないだろう。
 この女は、カノメリに棲む妖カノメリノヤミツメではなく、カノメリにおわすとされる神、アメノカノメリノオクナだったのだ。これほど信じられないことに出会ったことはシズネの人生史上無いことだった。
「貴方ノ、子供ヲ連レテキタ」
 そう言って、背の高いオクナはシズネの傍にかがみ込むと、シズネの腕に産着に包まれた子供を手渡した。
 俺の、子供?
 島の創造神が、自分の子供を宿した?
 シズネの頭の中に疑問が次々と浮かぶ。
 しかし、考えてみれば合点がいくことがあった。ヤミツメと思われていた彼女がシトやカクラにどこか似た顔立ちをしていたこと。当然だ、ヤミツメではなく、彼女は彼等の先祖であるアメノカノメリノオクナだったのだから。
 オクナはシズネの手足に触れた、優しく静かに。
 するとなんということだろう。抜け落ちていた数本の指が元通りに治ってしまったのだ。生えてきた、というよりは一瞬のうちに手品を見せられたように実感の無い感覚だった。
 更にオクナはシズネの身体に手を触れる。
 今度は生傷から古傷まで、ありとあらゆる傷が治っていくのがわかった。それと同時に、萎えていた手足や体つきまでもが健康だった頃のように元通りに戻った。
 これが、神の力。
 シズネは手渡された頑是無い赤児を抱きながら、驚愕に打ち震えていた。
「チビを生き返らせたのも、お前が?」
 シズネの問いに、オクナはこっくりと頷く。
「何故」
「私ノ血ガ、乱レテシマッタカラ。モウ一度最初カラ、ヤリ直スコトニシタ」
 血が乱れた? シズネには意味がわからない。
 しかし心のどこかでオクナの言葉に共感できる自分もいた。シズネはカクラ、シト親子を見て狂っていると思った。そんな人々に嫌気がさして、口にしなければ見つかることのない罪状を口にして、この獄にやってくることになったのだ。
 そこで、はたと気付く。
 まさか。
「まさか、先程の地震と津波も、お前が?」
 またオクナはこっくりと頷いた。
「ヤリ直シ。……ココニハ、私達ダケ」
 オクナはニヤと笑い、それから子供を引き取った。
「なんで、なんでだっ!?」
 シズネは叫ぶ。その目には、この獄に面会に来てくれたコマキの姿が浮かんでいる。
「やり直す? それならミヤノミシメ家だけを消せば良いことだろう。なんで、他の関係の無い人まで巻き込んだんだ? 何の罪もない人まで!?」
「ナンノ罪モ無イ? オカシナ人。乱レタ血ガ作ッタ決マリゴトノ中デ、誰ガ罪人デ誰ガ罪ノ無イ人カ、決メルコトがソモソモオカシイコトニ気ヅカナイノ?」
 シズネには意味がわからなかった。ただしかし、シズネの目の中のコマキの姿は少しも色褪せなかった。
「父さんはっ、父さんは真面目に生きていた! そんな父さんまで巻き添えにするなんて間違ってるっ!」
「ソンナコト、ドウト言ウコトモナイ。私ガ決メタコトハ絶対ナノ。貴方ニモクチヲ出スコトハ許サレナイ」
 冷然と言い放つオクナの言葉に、シズネは絶句せざるを得ない。
 これが、神なのか。なんと残酷なのだろう。自分の決めたことは絶対。女性の姿をしているからこそ、尚更厳しく感じられる。これが、神の姿なのか。
 シズネは言葉を返す気力を失った。どう反論しようとも、コマキは帰っては来ない。言葉を繰る口が虚しかった。
 数ヶ月ぶりに、シズネは自分の足で立ち上がった。もう足は萎えていない。しっかりと大地に根を張るように立ち上がった。
 これから、自分はどうして生きていくのだろう。何もわからなかった。
 絶望とは少し違う、暗い感情が胸を満たした。
 シズネは歩き出す。
「ドコヘイクノ」
 シズネは答えない。
 暗澹たる気持ちを胸に秘めたまま、シズネは崩れた門扉を乗り越えて、どこへともなく歩き去っていった。チビと共に。
 残されたアメノカノメリノオクナは、何ゆえにかほくそ笑んだまま、その後ろ姿を見送っていた。




 罪人であるはずの自分が生き残り、何の罪もない父が殺された。その事実が、いつまでもシズネの心の中に谺し続けた。





      完











2014-11-19 13:44:15公開 / 作者:夏海
■この作品の著作権は夏海さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 初めまして、夏海(なつみ)と申します。
 なるべくなるべく一つの表現に重みを持たせたつもりですが、至らない点があったならご指摘ください。

 全体に改稿が必要だな、と感じている今日このごろです。全体的にもう少し分かり易い、共感しやすい展開と構成が必要だと皆様のアドバイスにいちいち頷いています。
 とりあえず完結です。決して完成度は高くない作品ですが、それでも幾らかでも何かを考えていただける結末になったとは思います。
 この作品の基点は、刑務所に入っている囚人が大多数生き残り、多くの人が亡くなったあの大震災に端を発しています。刑務所という状況で生き残った人々が外で死んでいく人々に対してどんな感情を持っているのか、と考えたのが始まりでした。
 その後、カノメリノヤミツメという妖の存在と絡めて作品に仕上げたらどうだろうと思いついて、こんな形になりました。再考の必要はありそうですが、作品としては一応この状態で完結です。
 とりあえず一旦は作品から解放されて、何か短編でも書こうかな、と考えているところです。


 それではお読み頂きありがとうございました。ご指摘やご感想、アドバイスなど、お聞かせ願えれば幸いです。
この作品に対する感想 - 昇順
 はじめまして、夏海様。上野文と申します。
 御作を読みました。
 情景描写に気を使われて、世界観もミステリアスで、とても良い雰囲気が出ていますね。
 若干難を言えば、主人公のシズネちゃんが、無色透明すぎて、今ひとつキャラクターが掴み辛かったです。今回の部分だけでは、お白粉と紅の女性の方が強く印象に残ります。
 あまり見られない作風でこれからが楽しみです。頑張ってください。 
2014-07-06 21:39:19【☆☆☆☆☆】上野文
上野文様、お読み頂き有難うございます。
作風が変わっているとの御感想、嬉しく思います。独自色を出すコトは非常に難しいことですよね。
ちなみに、シズネ君は精悍な筋骨逞しい青年、と表現したつもりだったのですが、描写が他の描写に紛れてしまいましたか……(苦笑
異世界感を描くためにユニセックスな名前にしたのがまずかったか……。
何にせよ、このまま重いストーリーが続きますが、お付き合い願えれば幸いです。
有難うございました。
2014-07-06 22:22:58【☆☆☆☆☆】夏海
 はじめまして。
 シズネの結婚話の真相が気になりますね。高貴な人との縁組ということで、何か裏がありそう、と思いながら読んでいました。文章はしっかりしていて、かつ読みやすいので良いと思います。
 一点だけ気になったのは“漂流民の島”という設定です。こういった極端な身分社会は、隔絶された島では起こり得ないのでは、という気がするんです。中央との交流、たとえば支配階級がやってくるとか、そういったことがあれば別ですが。“漂流民が作った社会”というイメージとはちょっと違うかな、と思いました。
2014-07-10 22:43:50【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
 ゆうら佑様、お読み頂き有難うございます。
 文章が読みやすいとのご評価、非常にうれしいです。厚い文章を如何にシンプルに伝えるか、というのが自分なりの裏テーマというか、目標ですので。どうやって切れ目無く描写を続けるか、難しいところです。
 さて、島のヒエラルキーについてですが、ご指摘の通りです。
 そもそも漂着民が住みついたというならば、その漂着民は何処から来たのかということになります。設定では漁民が流れついたとなってますが、漁業は大抵男の仕事で、女は何処から来たのか、という疑問が湧きます。
 そのあたり、これから描写していけたらと思いますが、かなり無茶な設定であることは否めません、ご容赦頂いてお付き合い願えれば幸いです。
 有難うございました。
2014-07-11 11:54:59【☆☆☆☆☆】夏海
 こんばんは、夏海様。上野文です。
 御作の続きを読みました。
 そうか、シズネくんのレッツ逆玉サクセスラヴストーリーだったのかw
 というのは冗談にしても、いっきに展開が進みましたね。
 社会制度なども納得でした。
 けど、こう、なんかあんまりシズネ君が羨ましくないかも。
 奥さんと富を得て、家族を守るために結婚して、ユーアーショックとばかりに、明日を見失わなきゃいいけど……
 続きを楽しみにしています!
2014-07-24 19:53:51【☆☆☆☆☆】上野文
 上野文様、お読み頂きありがとうございます!
 そうそう、逆玉の輿ラブストーリーな訳ですよ……って、違いますから!(笑
 この作品の主題はあくまでも『カノメリノヤミツメ』なのです。序章にしか登場していませんが、この存在を引き立てたいがために対比として、第一部では主人公の日常と結婚の経緯を描写したかったのです。『カノメリサツ』というイベントが第二部で重要な役割を持つのですが、それについて匂わす程度でここはいいと思っています。
 ミヤノミシメノカクラが強引に百姓を婿にとる理由とか、シトがシズネを気に入ったわけとか、色々あるのですがそのへんは一切省きました。というよりもここからその辺りが主題になってくるかなと。
 YOUはSHOCK! な部分は今後やってきますが、今はこの位で。
 有難うございました。
2014-07-25 10:34:25【☆☆☆☆☆】夏海
初めまして、神夜です。お礼となって申し訳ないですが、読ませて頂きました。
個人的にはあれだ。最近読ませて頂いたゆうら 佑さんの作品もそうだったが、これも同じだ。神夜が「絶対に書かないであろう物語」の典型例だ。いやでもこれは違うか。これは物語ではなく、「絶対に書かない文章構成」か。固い描写、あるいは畏まった描写とでも言えばいいか、まぁまず自分は書かないものである。ただそれ自体は楽しませて頂いているのですが、いかん、「ミヤノミシメノカクラ」とかの横文字が神夜にはキツイ。頭にぜんぜん入って来ない。略さないと神夜はその内に振り落とされそうになる。
ストーリー性に関しては今は様子見段階、これからの展開を楽しみにしております。しかしひとつ引っかかるのが、これが「第一部」と表されている点。これが「プロローグ」、ないし「序章」であれば何も違和感がないのですが、本編である以上、登場人物の書込みが少ないと感じます。人物を掴み切れないまま、ここまで読み終わってしまった印象。カクラの人物像しか神夜の頭の中に残っていないのが残念。主人公とヒロインに対し、もう少し感情移入が出来る書込みが欲しかったです。
いろいろ突っついていますが、それでも神夜の書かない物語、楽しみに続きをお待ちいたします。
2014-08-01 16:42:51【☆☆☆☆☆】神夜
 神夜様、お読み頂きありがとうございます。
 神夜様の文章が王道を行くとしたら、私の文章は赤道を行くというか(苦笑 へたくそでもなんとか頑張っています(といいつつ更新が途絶中)。
 ミヤノミシメノカクラ、アカミチツチノヤカデ、イチクラサトノコマキ、……全部ホントは漢字なんです。宮見占神楽、赤道土焼手、一倉里小巻……、敢えて漢字にしなかったのは異世界観を強調したかった為です、が、失敗でしたか(汗 振り落とさないように頑張ります。
 人物造型の描写が足りないとのこと、全くその通りだと思います。ただ感情移入は、ヒロイン(ではない)に関してはしないで欲しかったのも現実。主人公の純朴さをもう少し描写しておけばよかったかなぁと言う反省はありますが。
 色々突っついて頂いて寧ろ助かります。今後の自分のためにもなると思いますのでどんどんご指摘下さい。
 有難うございました。
2014-08-11 10:26:54【☆☆☆☆☆】夏海
 こんにちは。
 なるほどそういう信仰があったわけですね。女神信仰は日本にもありますが、やはりアメノシキシマって古代の日本をモデルの一つにしてるんでしょうか? 登場人物の名前もなんとなく『古事記』っぽいなあと思います。
 島の階級社会の由来が、今回で明らかにされたわけですね。何回もいちゃもんを付けて申し訳ないのですが、信仰それ自体が権力を生むわけではないと思います。かなり素朴な例を考えてみると、道端のお地蔵さんをみんなが信仰しているからといって、そこに権力が生まれるわけではないですし。だから権力は別のところで生まれて(たとえば力が強いとか頭が切れるとかで優位に立つ人が現れる)、その人たちが信仰を利用して権力を強めていくんだと思います。新興の宗教権力者はまさに信仰によって力を得ているわけですが、それだけでは社会制度を変えるほどの力ではありませんし。社会の頂点に立つような階級が生まれるには、信仰以外の要素が必要な気がします。ミヤノミシメ家が神の末裔として認められるのは、おそらく昔からリーダー的存在であったとか、何か隠れた理由があったんだろうと思います。でないと本当に天からお降りになったということになりかねませんし(笑) 信仰とか社会制度とかには興味があるので、今後もつたない知識で口をはさむかもしれませんが、どうか寛大なお気持ちで応じていただければと思います。
 今回はどんどん話が展開しておもしろかったです。カクラが登場してぐっと物語が引き締まったというか、彼の存在が話を一気に進めましたね。まだ隠されている秘密もいろいろとありそうで、楽しみにしています。
2014-08-15 08:12:12【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
ゆうら佑様、お読み頂きありがとうございます。返信が遅れて申し訳ありません。
さて、御指摘の通りこの作品は古代史をモデルにしております。個人的にそういう世界観が好きなので。人名が読みにくいという副作用もあって切ないですが。
そして、信仰がそのまま権力に直結するという記述は、私のものぐさが原因です。誤解を恐れるなら微に入り細に穿つ説明が必要だったのでしょうが、その部分が重くなりそうで省きました。御指摘のように、信仰=権力ではなく、そこに隠れた人間模様があって当然なのですが、とにもかくにもミヤノミシメ家が島の重要なポストを占めているとご理解頂ければ、この章はそれで成功なのです、という言い訳をします(汗
気になる部分ではありますので、もう少し表現を考えてみます。
とにかく、少しは楽しんで頂ければ嬉しいです。御感想どうもありがとうございました。
2014-09-11 20:17:07【☆☆☆☆☆】夏海
 こんばんは、夏海様。上野文です。
 二章更新、お待ちしていました!

 シズネくん、なにしてんの( ̄▽ ̄;)

 ヤミツメさんの登場とか、ヤカデくんの死とか、人間の醜さとかいう以前に、シトさんとの婚礼前に「浮☆気」しちゃったことに、さすがに、ヒいてしまいました。
 それは、ちょっとやっちゃ不味くないかな……

 だいぶショックだったので、まとまらない感想でごめんなさい。
 ここから、どう展開されるのか、続きを楽しみにしています。
2014-10-08 20:22:04【☆☆☆☆☆】上野文
 こんにちは。
 ぼくもそれほど長くこの掲示板を利用しているわけではありませんが、確かに以前と比べると寂しいですね。良いサイトですし、けっこうお世話になっているので、これからもできるだけ貢献していきたいと思っています。
 今回更新分は衝撃の展開で、このあとどうなっていくのか予想もつきません。第一章が今回のための前置きであったという意味もよくわかります。ただ、対比をもっと強烈にするために、シズネとシトの関係をより強調しておいてもよかった気がします。第二章ではシズネとミヤノミシメ家との祝宴もあったわけですし、ここでもう少しシトとのからみがあれば、ヤミツメに落ちていく場面でのシトのほほえみがもっと説得力を持ったのではないでしょうか。それはともかく、あれは本当にシズネの意思なのか……本当に操られているわけではないのか……まだぼくは希望を捨てずにいます(笑)
 ストーリーは順調に進んで文句なしなのですが、構成といいますか、話の進め方をもう少し工夫できるのではないかと感じました。例えばシズネがヤカデを探して森の奥に入っていく場面ですが、ヤカデが実際そこにいるのかどうかもわからないのに突き進んでいくのは、少し不自然ではないでしょうか。ヤカデが森の奥に入っていくのを見た人がいるとか、そういうことにして、もっとシズネの行動を必然性のあるものにできるのではと思いました。
 気になるのはヤミツメ、女神、ミヤノミシメ家の関係ですね。ヤミツメは女神の手先であり、その女神の子孫がミヤノミシメ家なのだから、ヤミツメとミヤノミシメ家も何か関係があるのでは、と思えてきます。もし関係があるのなら大変なことですが……。また現在明かされているのはあくまでも「表の関係」であり、別に何か裏があるのでは、とも感じられます。このへんはこれからの展開に期待ですね。
2014-10-09 01:06:05【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
 >上野文様、こんばんは。お読み頂き有難うございます。 
 折角良作を読ませてもらっているというのに、こちらは混乱させるばかりで申し訳なく思います。
 『浮☆気』なぞと生易しいものではありません。シズネ君は心も体もヤミツメさんに魅入られています。
 もうちょっと展開の先が読めるような記述を考えないと、ひかれてしまうんだなと猛省中です。更新は時期尚早だったかと。もう少し表現を考えてやり直してみたいと思います。ショックを与えてしまったようで本当に申し訳ないです、お許しください。でもこの展開が無いとこの後の「人間不信覚醒ショー」が盛り上がらなくて困ってしまうので、どうか温かい目で続きを見守って頂けると嬉しく思います。
 お読み頂き有難うございました!

>ゆうら佑様、こんにちは。お読み頂き有難うございます。
 私は別HNで十年前から、ブランクをはさみつつもこの掲示板を利用させてもらってきたので、昨今の寂しさは一入であります。
 『ゆめはるか』を拝読した後に、この愚作について感想のお返しをするのも非常に心苦しいのですが、一応作者としての責任を果たそうと思います(苦笑
 やはり衝撃が大きかった様子、混乱させてしまったなら申し訳ありません。
 なるほど、対比と構成ですね。言われてみて、まだ甘かったなぁと今更ながらに実感しました。加筆修正の必要性を感じました。貴重なアドバイスをありがとうございます。次回更新時に修正したいと思います。シズネの真意は、三人称形だからこその藪の中です。作者にも今のところわからない、ということにしておいて下さい(汗
 ヤミツメと女神とミヤノミシメ家の関係性ですが、ここは肝心な部分なので今は触れられません。ヤミツメと女神が同性であることやミヤノミシメ家が島の創造神の子孫であることなどから類推すれば自ずと結末に近づくとは思いますが。
 お読み頂き、貴重なアドバイスまで頂き有難うございました!
2014-10-09 14:47:37【☆☆☆☆☆】夏海
 こんばんは、夏海様。上野文です。
 御作を読みました。

 二章が改稿されて、全体的に読みやすくなっていました。

 また、シズネくん側から積極的に不貞を働いたのでなく、ヤミツメさんに捕獲された上で誘惑された。
 ヤカデ君のことを伝えなかったのは、わからなくもない。手拭いは、彼への罪悪感の証である。

 と、不貞行為や友人の死に対し、罪の意識と自身への嫌悪をもっている、ということが明らかになって、ちょっとだけシズネ君の株が持ち直しました。

 歴史上、一夫多妻、一妻多夫が機能した時代はありましたし、私は……、当人たちが納得の上なら、ハーレムを築こうが、アブノーマルな関係を爆走しようが、「不倫は文化、不倫こそ純愛」と強弁されようが、そういう物語だと納得します。
 私の小説にも、「夢は演劇部員全員で永遠に続く乱交パーティを開くことです!」と斜め上にかっとんで、「先輩、さすがにそれはないわ」「ワロエナス」と、残り全部員から拒否くらってるキャラがいますし。

 ただ、やはり婚約して、結婚式直前に不貞、というのは、とても褒められた行為とは、私には思えないのです。
 シトちゃんだけでなく、コマキさん、カクラさん、その他大勢の信頼を裏切ったわけですから。

 前回ひいたのは、カノメリノヤミツメという物語ではなく、あくまでシズネくんの不貞(特に、改稿前はシズネくんから突撃したように見えた)に対してです。
 どのように展開されるのか想像もつきませんが、危うい物語、たいへん先が気になります。続きを楽しみにしています。
 三章、面白かったです!
2014-10-17 19:42:21【☆☆☆☆☆】上野文
 初めまして、作品を読ませていただきました。
 簡潔ながら状況がよく伝わってくる文章をお書きになるなという印象を受けました。コメントを見ますに、熟練の書き手さまである様子。僕のような若造の感想が貴方の参考になれるかは分かりませんが、せめて思ったことを率直に正確に伝えられるよう頑張りたいと思います。
 以下二点、思ったことを羅列していきます。いずれも改稿の難しい点について書いています。執筆の勢いを殺さぬためにも、あまり気にされないようにお願いいたします。また僕の感想を読んで不快に感じられましたら謝罪いたします。
 一点目、主人公の顔が見えづらいと思いました。外見の描写ではなく、彼がどういう人物なのか詳しい性格が分からなかったということです。人並みに黒いところは持っていて、愚直な側面が少しあるということは伝わってきたのですが、読者が彼の気持ちを汲み取って、「こういう状況なら彼はこうするだろうな」という予想が付きにくいのではないかと思いました。ハリウッドのシナリオ作成法というのがありまして、起承転結の起の部分では、まず主人公の人柄について詳しく表現し、そのあと物語の発端というべき問題を起こすそうです。これに倣えと言うわけではありませんが、主人公について人格を想像しやすいような描写を入れるべきだったのではないかと思いました。
 二点目、物語の展開についてです。この作品のアピールポイントは背徳感にあると思います。これを売りにする話というのは所謂寝取りモノ浮気モノの作品に多いです。寝取りモノ、浮気モノの構成というのは、大体、?『ヒロインないし主人公が如何に貞操観念が強く、不義理をしにくい人物かを読者に教え、そのあと彼女たちがどんどん快楽によって堕ちていくところを緻密に描く』というものと?『最初からヒロインないし主人公が誰かを好きになっていて、そこに別の誰かが割り込んできて結ばれ、結ばれた相手に秘密で最初から好きだった相手と恋をしていく様を描く』というものの二つに分けられます(ピンク色調べ)。この作品はどちらかと言えば?に属するタイプなのだと思われますが、個人的には?の構成の方が良かったのではないかと思いました。
 具体的に言いますと、最初いきなり森の妖とエッチな事をして、主人公が妖の影を追い求める中(親友が死んだことで森はしばらく侵入禁止になるんじゃないかな?)、シトに出会って『恋』をするという風にした方が胸が高鳴ったような気がします。ちょっとプロットがどうなっているのか分からないので勝手な妄想になりますが、ここでシトが妖に似ているだとか、シトの親父さんが妖と交わっているシーンをのぞき見するだとかシーンがあるなら、ミステリー要素も増したように思います。こちらの方が序盤から読者に対して積極的に攻めていけたのではないかと考えます。
 以上です。僕自身も未熟者ゆえ、間違った記述や読み違い等あるかと思います。どうかご容赦ください。先に述べましたようにお話はここからが本番だと思っています。これから主人公がどのようにして堕ちていくのか、シトはヤンデレ化するのか、村人たちの反応はどうか、そして島の妖とは一体何者なのか等、今後の展開が楽しみですね! 
 それでは次回更新、頑張ってください。ピンク色伯爵でした。
2014-10-18 17:00:16【☆☆☆☆☆】ピンク色伯爵
 >上野文様、お読み頂きありがとうございます。
 二章が読み易くなったとの事、非常に嬉しく思います。上野文様の御感想も参考にさせて頂きました。この場を借りまして御礼を申し上げます。
 第二章では自ら突撃したかのようなシズネでしたが、第三章では罪の意識が大きな主題になっています、というか第三章はまだ終わっておりません。ここで更に一段事件を起こして物語を盛り上げようと思っております。
 この作品は一般的な道徳観に倣った小説、とは言えない作品へと変貌していく、まだ前段階にあります。アブノーマルな設定も陰に隠されていて、そのあたり、なんとなく匂わせておくつもりでこういった展開になりました。
 ……あの作品の演劇部ってそんなにヤバイんですか? 知らなかった……(苦笑
 自身に誘惑に乗る意思があったにせよ無いにせよ、誘惑に乗った事実だけがシズネの首筋に残されているということが、今後展開上の重要なポイントになると思われます。
 一夫多妻にせよ一婦多夫にせよ、それがタブー視されるのは現在の法制度や倫理観がその時代と異なっているためで、実際にその時代の人間からすれば、一夫一妻の制度自体がナンセンスな可能性もありますよね。より優れた人間の子孫を多く残すべきなのは動物の本能ですし。ああ、トドに生まれたかった(笑
 作品自体にひかれたのではなくてよかった、と安堵の溜息をついております。
 出来ましたら今後もお付き合い願えれば幸いです。お読み頂きありがとうございました。


 >ピンク色伯爵様、初めまして。お読み頂きありがとうございます。
 状況がよく伝わる文章、とよく言われますがその実、芯が無いというか、表現が巧いとはあまり言われないのが私の実力ですね。所詮はその程度ですから遠慮なく、忌憚無いご意見をお聞かせ下さいませ。「アドバイスを真摯に受け止める」が今の私の信条ですから。
 さて、ご指摘の二点についてですが。
 まず第一に主人公の顔が見えない、とのこと。言われて「確かに」、と頷きました。ハリウッドはどうかわかりませんが、確かにもうちょっと主人公の人物像を掴み易い記述を増やしても良いな、と我ながら感じました。実を申しますと、三人称形の小説を長編で書くというのは初めてのことで、普段なら地の文で主人公を演出しているところなのですが、この小説には客観性が必要だろうという理由で三人称形にしたのですが、やはり挑戦にはリスクが付き物ですね。第一章を改訂して、リズムを崩さずに主人公の人物像を描く方法を模索してみようと思います。
 第二点目。なんだか鋭い先読みをされているようで空恐ろしくなりました。素晴らしい読みですね。全く仰るとおりで、この作品は?に属する作品です。後の展開については触れませんが、?に近い展開に流れていく予定です。
 実のところこの作品の重要なポイントは、シトとカクラの親子がどんな存在なのか、ということに尽きると思います。シトとカクラの関係性が今まで殆ど描かれていないのは、それが主題になるからです。そのあたりに着眼されるあたり、確かな読解力がおありのご様子(偉そうですみません(汗 羨ましい。
 一点目の御指摘については次回更新時に改稿してみようと思います。貴重なアドバイスをありがとうございます。
 年を余計に食ってるだけでまだまだ筆力は発展途上の私ですが、どうぞこれからもよろしくお願いします。
 お読み頂きありがとうございました。
2014-10-20 11:14:53【☆☆☆☆☆】夏海
 こんにちは。第二章、ぼくの意見通りに加筆してくださっていますね。ほかの方がどう思うかはともかく、こちらのほうが自然ですし物語にもタメや深みが出てきていいなあと思いました。ただ単なる出来事の追加にとどまらず、島や村の状況もちらりと見える感じで興味深かったです。
 上のコメントを見て気づきましたが、なるほど一人称っぽい文章構成ですね。一人称の「私」がそのまま「シズネ」に変わったようで、内側からの視点は多いけれど外側からの視点が少ないというか……。そのせいか時折、シズネの思いなのか語り手の説明なのかわからなくなる時があります。「そんなシズネに、コマキはそれ以上の問いかけをしなかった。あくまでも自然に、息子に寄り添うことを大切にしているように見える。そういう父を、シズネは好ましく、誇りに思っていた。」ここは何だか交錯しているようにも感じられます。これはぼくもよくやってしまうことなので、あまり偉そうにはいえないのですが。
 しかし、ピンク色伯爵さんの想像力はすごいですね。一人で感嘆していました。カクラとシトの関係なんてぼくはたいして気にしていませんでしたし。しかしさすがにシトとヤミツメが深い関係を持っていることはない、とぼくはあくまで希望的観測を続けたいと思います。
 共通の秘密、いいですね。いつばれるのかとこっちもヒヤヒヤしています。それからカクラがシズネの目に見出したという光、あれには深い意味があるのかどうか……続きを楽しみにさせていただきます。
2014-10-20 19:35:13【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
 >ゆうら佑様、お読み頂きありがとうございます。
 第二章はゆうら佑様のご指摘に従って加筆修正いたしました。ご意見を聞いて「もっともだ」と思ったのがその理由で、おかげさまで自然な表現になったと感じております。ありがとうございました。
 一人称と三人称ですが、この点についてはこのままでいいかと自分なりには思っています。というのも、そういう作品が散見されるからで、特段そこに違和感を感じない自分がいるからです。三人称といっても形は様々で構わないと思いますので、こういう形もあってもいいのではないかと私個人は思います。ご不快でしたらもうしわけありません。シズネを主眼にした三人称というのが今回の作品のあり方の自然な形だと、納得していただけるようにこれからも精進していきたいと思います。
 カクラとシトの関係性に陰の部分があることを現時点で想像するのは常人にはまず不可能かと思います(汗 だからこそピンク色伯爵様の御指摘に軽く焦った訳でして(大汗
 カクラがシズネの目の中に見出した光……、ミヤノミシメ家とカノメリノヤミツメの関係性を考えるとシトとヤミツメにも……、これ以上は作品で語ることとしましょう。
 共通の秘密を作者と読者が作品を介して持つというのは、やはりなんとも言えずいいものですよね。こういう切迫感というか、そういうものが作者と読者間には必要不可欠だと思うのです。といってもこういう要素を作品に盛り込むのは初めての事ですが(苦笑 
 お読み頂きありがとうございました! 今後もお付き合い願えれば幸いです。それでは。
2014-10-22 10:53:29【☆☆☆☆☆】夏海
 こんばんは、夏海様。上野文です。
 御作を読みました。

 あひゃひゃひゃっwww……?(・∀・) コワレタ !!

 ありのまま読んだことを話すぜ。
 私は前回まで新郎のシズネくんが最低だと思っていたら、新婦シトちゃんと義理の父カクラさんは畜生道に堕ちていた。
 人間不信とかピカレスク以上の、もっと恐ろしい喜劇の片鱗を味わったぜ。

 うん、どうしよう( ̄▽ ̄;)

 ……基準点が必要だな、と思います。
 確かに全員狂気孕んで踊るのも、それはそれで味がありますが、感情移入できるキャラがいないと、読み手は外から眺めるしかできなくなるんです。
 シズネくんは、悲劇の主役であればこそ、難しいでしょう。ひとりくらい、無色透明なワトスンキャラを加えたほうがいいかもしれません。主観のみで見ると、相当に危うい物語だと思います。
 驚天動地の展開で驚きました。面白かったです!
2014-11-01 19:31:28【☆☆☆☆☆】上野文
 続きを読ませていただきました。
 おお、いきなり必殺技をぶっぱなしてきましたね。もうちょい溜めても良かったんじゃないかと思いますが、この後さらに状況が二転三転するならこのくらいペースが良いのかもしれません。
 感想としては上野様のおっしゃっていることはもっともだなと……。僕としては、前の感想でも述べましたが、?の構成で行くなら主人公に読者が共感できるよう序盤は展開すべきだったのではないかという一言に尽きるというか。
 上野様がおっしゃっている基準点が必要という言葉は――つまり普通の(まっとうな)人間を出すことで読者がそれに共感し、物語にのめり込みやすくすることなのだと思います。
 この物語は背徳感とドキドキ感とを演出することが、おそらく最も大きな目的の一つになってくると思うのですが、そいつを読者が味わえるよう展開させていくところに肝があるわけです。ですから、その前提条件としてある程度読者をシズネなり登場人物なりに共感させないといけない。シズネたちと一緒に読者も、書いている作者さえもドキドキしなければならない。そういう意味で無色透明キャラは、現段階で必要になって来てしまっているのかな、と。本質的には読者を誰かに共感させてしまいさえすれば良いのですが、三章まで来てしまっていますし、登場人物が無秩序にやりまくっている状態ですから、ワトスンがほしいってことなのだと思います。
 改稿は非常に難しいですし、新たに誰か別の人物を出すのも難しい……。無色透明キャラを出すことはベストだと僭越ながら僕も思いますが、お話がプロット段階のものと全然違うものになってしまう可能性が高いですし……。
うーん、僕ならこのままプロットをなぞりつつ強引にシズネに読者を共感させ、基準点にする方に逃げちゃうかな。読者にシズネに共感さえさせれば――ああ、でもそれだとこのあとすぐシズネが壊れちゃうから基準の意味をなさなくなるのか。うーん、ごめんなさい。まともな事を言えずに申し訳ありません; 夏海様の采配に期待です。
 想像になりますが夏海様が現段階でこの物語に納得されていないというのは、書きたいことを書ききったが、自分の予想していた盛り上がりと違うと感じられているからではないでしょうか。背徳感やドキドキ感の演出よりも登場人物たちが背徳的な行為をしているところを書きたかったから、それを書ききった今、シズネ目線の物語から離れてしまって、第三者的な冷めた目線になってしまっているのだと思います。シズネならこの絶望的状況からどうするか、それを受けて、周りはどう予想外の行動に出るか、楽しく妄想してみるのが良いかもしれません。予定調和を徹底的に嫌い、読者をアッと驚かせる隠しカードを増やせば、「ここからが本番やで~」とうきうきできると思います。作者も一緒にハラハラドキドキし、物語を楽しむ――小説を書く醍醐味ですよね(的外れな励ましだったらごめんなさい)。
 色々駄文を連ねましたが、驚きの展開で楽しめました! 次回更新お待ちしています! ピンク色伯爵でした。
2014-11-03 08:05:15【☆☆☆☆☆】ピンク色伯爵
>上野文様、お読み頂きありがとうございます。
 驚天動地の展開に驚いて頂けて光栄です。まだ少し仕掛けが早いかな、と思っていたので、ちょっと唐突だったかもしれません。驚かしてしまってすみません。
 感情移入できるキャラクターですか、それですね、この作品に足りないのは。無色透明、基準点、ワトスン君、呼び方は色々ですが、全員が全員狂気に踊っているのは確かにおかしい気がするし、でもこの場合いったい誰がその役になるのか、……あのお父さんしかいないのですが。それは今後の展開に任せるとして。
 相当に危ういストーリーではありますが、今後もお付き合い願えれば幸いです、ありがとうございました!

>ピンク色伯爵様、お読み頂きありがとうございます。
 ええ、必殺技ピュキューンドドーンパラリラパラリラです。三人称長編は初めてなので、展開の仕掛けとか全然読めません。なのでやはりちょっと仕掛けが速かった感は否めません。
 やはり序盤をかなり加筆修正しなければならないな、と思います。お父さんであるコマキを無色透明キャラに仕立て上げるにしても、書き込みの足りなさが目立っていますね。言われて気付く芋作者で申し訳ありません。
 何にせよ、この物語はここからが本番というと言い過ぎですが、描きたいテーマはこの先にあるので、カクラとシトの近親相姦など通過点に過ぎないと言うのが本当のところです。だから、この点についてはあまり大問題として作者自身は捉えていません。隠しカード、ありますよ〜(苦笑
 今回も貴重なアドバイスを頂きありがとうございました。続きもお付き合い願えれば幸いです。ありがとうございました!
2014-11-04 10:56:40【☆☆☆☆☆】夏海
 こんばんは、夏海様。上野文です。
 御作を読みました。

 シズネくんがまともになったぁ!?Σ(´∀`;)

 コマキさん効果というか、普通の等身大の青年に見えてきました。
 今回はちゃんと感情移入できました。
 コマキさんが年配の常識枠をカバーしてるので、あとひとりヤカデ君に代わる新しい友人枠か、いっそ懐くショタっ子でも出したらどうでしょう。
 価値観は普通で!
 シズネくんが大変だった4章ですが、個人的にすごく楽しめました。面白かったです!
2014-11-15 21:44:44【★★★★☆】上野文
>上野文様。お読み頂きありがとうございます。

 シズネがまともになった、というよりは、彼の周囲の異常さをより強調したために彼が基準点にならざるを得ない状況を作った、というのが正しいかもしれません。序盤の弱さをここに来て少しは挽回できたかな、とほくそ笑んでおります。
 全体像を一新して作品全体に手を加える際には、アドバイスに従って、ショタっ子を出すかもしれません(苦笑 確かにこの作品の中で主人公を強調するにはそういう存在もありなのかな、と思いましたので。誰もが異常ってぇのはやっぱり読みにくいですからね。
 楽しんでいただけて良かった、というのが素直な感想です。ご評価まで頂き、感涙の極みであります(涙 あんまり評価ばかりを気にしていてもいけないと思うのですが、書きたいことをそのイメージを崩さずに描けるということが一番楽しい、嬉しい瞬間です。
 これからいよいよ物語の総まとめの段階に入るので、続きもお付き合い願えれば幸いです。ありがとうございました!
2014-11-17 10:31:24【☆☆☆☆☆】赤月 水織
赤月 水織じゃねぇよ、間違った。夏海の間違いです↑失礼しました。
2014-11-17 10:33:48【☆☆☆☆☆】夏海
 こんにちは、夏海様。上野文です。
 完結おめでとうございます!
 あぁーっ・゜・(ノД`)・゜・
 書きたかったことはわかります。わかりますが、こういう結末しかなかったのか。
 超越者の身勝手さを感じました。
 オクナさんの「思い通りにならなかったからゼロにしちゃえ」って、ぶち壊しにする気性、カクラさんやシトちゃんに遺伝してますよね( ̄▽ ̄;)
 伏線の大半が回収されて、息を呑みました。ただ心情的には、悲しいなあ。と。
 とても面白かったです!
2014-11-20 07:25:47【☆☆☆☆☆】上野文
 完結のお祝いと、見事な収斂にm(_ _)m
2014-11-20 07:26:36【★★★★☆】上野文
>上野文様、お読み頂きありがとうございます。
 一応この作品はこれで完結ということになりますが、まだ作品としては未完成な作品であることは否めません。だからおめでたいかどうかはわかりませんが、ありがとうございます!(苦笑
 結末としては当初に想起していた結末通りに物事が運んだので、紆余曲折はありましたがどうにかこの形にこぎつけることが出来て、感慨深いものがあります。超越者の身勝手さ、まさにその通りですね。
 しかし謎はまだ残っているんですね。シズネはこの後一体どこへいったのか、カクラ、シトの親子は本当に死んだのか、そもそもタイトルのカノメリノヤミツメとは一体なんなのか。そのあたりにほとんど触れていないので、読む方によって様々な読み方が出来るようにと考えました。
 オクナは超越者として、まっとうなのかどうかはともかくとして、確かに気性は遺伝してますね(苦笑
 ご評価とご感想を賜り、感慨無量の一念です。長いようで短い物語にお付き合い頂き、誠にありがとうございました。今後の創作にもお付き合い願えれば感激の極みであります。それでは。
2014-11-21 10:10:43【☆☆☆☆☆】夏海
 完結おめでとうございます。
 最後まで読んで貴方が書こうとされていたお話の概要は何となく分かりました。更にあとがきを見て、物語を書き始めるきっかけを知って、妙に納得してしまいました。なるほど、津波に飲み込まれるラストを最初に考えていて、これを強く意識したらこうなるのだろうな、と。僕はこの作品のテーマを愛と裏切りの物語だと思っていたのですが、どうやら貴方はあまりこれを重要視していなかったようです。感想を書く人間として、読み切れなかったのは悔しかった。分かっていたらより楽しく読めたかもしれません。
 一応の完結ということは、貴方が書きたいことの大筋はこれで全部でしょうか。もしそうなら特に書くことはないというか、どういう感想を書けばいいのか分からないというか……。『登竜門』には、必ず読み手を楽しませるために投稿しなければならないという規約はありませんので、「これが(一応の)完成品だ」と言われましたらそれ以上は何も言えないのですよね。
 その上であえて三つほど読んでいて思ったことを書いていきます。
 まず、津波に飲み込まれるラストを際立たせるための構成は本当にこれで良かったのだろうかということです。流れを確認すると、?主人公が神域に迷い込み、嫁がいるにもかかわらず関係を持つ→?シト達の近親相姦の背徳シーン→?主人公が訳も分からず虐げられる→?津波が来て全部無くなってしまう(終わり)。?が唐突すぎるような気がします; ?を一番書きたかったというなら?から?は究極的には関係ありませんし(?から?を別の物で代替することは非常に容易でしょう。?から?でなければならないという理由はないと思います)、?でなくて、?から?を書きたかったというのなら投げっぱなしエンドになります。両方書きたかったというならば、詰め込み過ぎでしょう。要素が喧嘩してしまっています。何を読者に伝えたいかを整理し、伝えたいことを最大限伝えられるようブラッシュアップする必要があったのではないかと思います。
 次に、主人公たちの『物語』が読みたかったということです。大体の物語の中では登場人物たちは様々な決断し、様々な過ちを犯し、悩み、何かをやり遂げると思います。しかしながらこの作品ではただ主人公たちが予定調和に動き、淡々とイベントをこなしていくだけでした。ドラマを作り出す余地は十分にあったと思うのですよね。主人公も出来事に流されて、流されて、流れ着いて終わっちゃっただけでしたし、これでは『シズネ』という人間が主人公でなければならない理由がありません。彼以外だって漫然と辿りつけるお話の最後だったのですよ。「シズネだからこそこうなった」とは言えないのではないでしょうか。欲を言えば、『シズネ』の物語がほしかった、そういうことです。
 最後に、細かいですが演出はこれでよかったのかということ。例えば、物語の導入。仕掛けるのが遅いと感じました。一気に読者を引き込んで物語の流れに乗せないといけないのに、何の変哲もない日常シーンから始まっています。主人公の人柄も分かりづらいですし(彼でなくとも人間ならばとるだろう行動を彼は繰り返している。彼を普遍的な人間――モブキャラと同列レベルの存在――として描きたいなら、彼が如何に『普通すぎる』のかを示さなければならない)、もう少し強く引っ張り込んでほしかったなと思いました。また中盤のシト達が背徳的な行いをしているシーンについて、ここは読者をどきどきさせるところでしょう。いわゆる寝取りアングルです。シトが親父と交わって獣みたいによがっているかもしれないんですよ。普段はおしとやかだけど、実は内側にすさまじい性欲を秘めているかもしれないんです。読んでいる方が嫉妬で狂ってしまいそうなほどいやらしく、ねちっこく、倒錯的な雰囲気を出さないといけないと思います。そのあと、シトにシズネが『問い詰め』をするまでが寝取られの定番だと思います。キスは何回したのか、彼とする前の昼間はどれくらい股間が濡れていたのか、やっている最中の指使いはどうだったのか、何回イったのか、実の父とのセックスはどれくらい気持ち良かったのか等々――読んでいるこっちも生唾を飲み込むような文章がほしかったと思いました。
 色々書きましたが以上です。自分自身が出来ていないことを指摘し、その指摘も見当はずれのものであるかもしれません。しかし、何か参考になるものがあればと思ったことをできるだけそのまま伝えてみました。気分を害されたのならば謝罪いたします。
 改稿作業と言うものは一番面白くないものですよね(笑い)。泥沼の中でもがいている気分になります; 改稿……せんでもええんやで……?(何)
 短編お待ちしていますヨ。ピンク色伯爵でした。
2014-11-22 14:35:57【☆☆☆☆☆】ピンク色伯爵
>ピンク色伯爵様、お読みいただきありがとうございます。
 ……難しいですね。感想も難解であれば、その返信は更に難しい。
 この作品自体が自分でも背伸びをした作品だな、と思ってしまいました。結局のところ、究極を言えば確かに津波の前段階は必要ないと言われればそれまでで、それでも精一杯読者の方を楽しませたいと思った為にエンタメ要素を取り入れたというのが実際でして、確かに仰るとおり、詰め込みすぎの感は否めません。読者に何を伝えたかったのか、自分自身よくわかっていないというのが本当のところで、不甲斐ない結果に終わってしまったことをお詫び申し上げます。
 主人公のキャラが立たないのは本当に悩みどころで、どうしたらいいのかわからないというのが実際です。悲しいかな、これが今の自分の叙述能力の限界なのだろうと嘆くくらいしか出来ません。
 また、カクラ、シトの寝取られシーンですが、ここは遠慮が多かったです。どこまで描いていいのか、どう描くべきなのか、慮る気持ちが強すぎて表現が縮こまった感があります。ここに力点を置けば或いは序盤のどうしようもなさを挽回できたのかもしれませんね。かといってあちらが立てばこちらが立たずの形になるのは否めず、そういう意味では作品の全体像が間違っていたのかもしれません。
 中編程度に作品を収めたことがそもそも問題なのかもしれないです。いっそ長編に改稿してしまうのも手かな、と考えていますが、今のところ精神力が持ちそうにありません。ので、短編でも書いて気分を一新してから全く新たな形でこの作品に向き合おうかな、と思っています。その際には、頂いたアドバイスを参考にさせて頂こうと思いますので、またお付き合い願えれば幸いです。
 最後までお付き合い頂いてありがとうございました。また拙作でお目にかかれる日を楽しみにしております。それでは。
2014-11-26 10:43:56【☆☆☆☆☆】夏海
 こんにちは。ううむ、衝撃のラスト。
 感想は書かなかったのですが、シズネが座敷牢に入れられた所までは更新された際に読んでいました。そのあとはシトの手助けがあったりして葛藤しながらの逃避行とかになるのかなーと漠然と思っていたのですが、こうも話が急展開するとは。シトが庭で笑みを浮かべるシーン、あれにはぞっとしました。あのあたりからもう、読者は話の流れに身を任せるしかないですね。シズネと一緒に翻弄されるしかないような、超越的な展開だったと思います。振り返ってみれば結局シズネは翻弄される役目ですし、キャラが立っていなかったのはそれほど問題ではなく、むしろ必然だったかもという気もします。
 上のコメントで「自分でも何が書きたかったのか……」というようなことを書いていらっしゃいますが、まあ、そういうもんですよね(笑) ぼくはおもしろかったと思いますし、全体的に良い作品だったと思います。ストーリーをほじくり返せば「これ何で?」「あれの意味は?」と疑問百出なのかもしれませんが、ぼくはもうそういう疑問も出すのがおっくうなほど、この急展開に圧倒されてしまったので……。お疲れさまでした。次回作も頑張ってください。
2014-11-27 00:27:59【★★★★☆】ゆうら 佑
>ゆうら 佑様、お読み頂きありがとうございます。
 読んでいただいていたとのこと、誠に嬉しく思います。そうですね、確かに座敷牢に入れられた辺りから急展開に次ぐ急展開で、読者を置いてけぼりにした感は否めません。身を任せて読んで頂けたとのこと、喜ばしい限りです。シトについては最初からヒロインとして描く気はなかったので、あれでいいのだと自分に言い聞かせているところです。
 シズネのキャラが立っていないのはやはり自分の筆力の足りなさが原因だと思います。もう少しキャラを立てていたら、結果はもっと違った形になっていたのかもしれません。改稿の際には気をつけたいと思います。
 おもしろかった、の一言に救われている今日このごろです。全体を通して読んで頂けた上に、ご評価まで頂けたこと、誇りに思います。おっしゃるとおり、疑問は百出する作品ではありますが、最後までお付き合い頂けて光栄でした。ありがとうございます。
 次回作でもお会い出来れば感慨無量の極みです。ありがとうございました。
2014-12-02 10:37:51【☆☆☆☆☆】夏海
最初の方に感想を入れたきり、音沙汰が無くて申し訳なかったです。改めて全部読ませて貰いました。
しかし――この物語はこう終わるのか。個人的な意見を言うのであれば、「全部がすっきりしない」になってしまう。何だろう、痒いところに手が届かないというか、むしろ痒いところ自体が判らないというか。主人公も含め、言い方は悪いんですけれども、登場人物の全部が全部、感情の篭っていない人形が動いているかのように思ってしまった。唯一、カクラだけが感情を持っていたかもしれない。
あとがきであるような、「刑務所という状況で生き残った人々が外で死んでいく人々に対してどんな感情を持っているのか」をコンセプトにするのであれば、いっそのこと、主人公を極悪人にして、「おれがここを出たら、お前らを皆殺しにしてやる」とか憎悪滾らせて、しかし結局は全部流れて終わり、「なんてちっぽけな世界なんだ」とかそういうことをつぶやく方が良かったかもしれない。
文句ばかりで申し訳なかったです。現在の連載もまた読ませて頂きます。
2014-12-24 16:32:52【☆☆☆☆☆】神夜
計:12点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。