『笹舟』作者: / Ej - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
小説のような恋。罪深い珈琲の味のように、罪深い恋。まだ初恋を知らなかった財閥の娘、駒田鈴子の初恋は、あまりにも複雑で、西洋菓子のように甘いものだった。
全角18277文字
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 第一章

 駒田鈴子はその日も、通学路にあるお気に入りのカフェで珈琲を頼んで、お気に入りの恋愛小説を開き自分の世界に浸っていた。一度開いた頁からは登場人物たちが飛び出し、現実世界に起きているかのように、彼らの日常を鈴子に見せるのだ。鈴子はそれを平日の楽しみにしていた。なにしろ、週末は家業の手伝いで忙しく、ゆったりと小説の世界に浸っている時間はないのだ。
「あら……」
 丁度主人公とヒロインが駆け落ちをしようと決意したところで、鈴子は次の頁から数頁ほど破れて抜けていることに気付いた。空白の数頁後に現れた頁では、主人公はとある街で和菓子屋を営んで、静かな生活を送っていることになっている。肝心のヒロインの存在には触れられていない。
「これじゃ一番気になるところが分からないわ。」
 鈴子は鼻を鳴らし、珈琲を一口啜る。初めてこの苦さを口にした時は顔をしかめたものだが、慣れてみるとこれが癖になる。同じ年の女の子たちに共感してくれる子は少ないが、男子学生の中には珈琲通が何人かいる。いつかそういう学生たちとここでお茶会をしてみたいと思っているのだが、男子学生たちは学生運動を起こそうと近頃何か会議をしているそうなのだ。これでは、お茶会の実現は遠い未来の話になるだろう。
 大きな窓ガラスの向こうでは、習い事へ通う女子たちの姿や、同期同士で夢を語り合う男子学生たちの姿が絶え間なく動いて見える。それを鈴子は、時が流れることを忘れたかのようなこのカフェの中から、まるで小説の中の世界を見ているかのように眺めるのを好んだ。
「鈴子さん、そろそろ夕飯の買い物に行く時間じゃないかい?」
 マスターの声で我に返り、鈴子さんは店の奥にある置時計を確認する。
「あら、もうそんな時間なのね。平日は時間が過ぎるのが異様に早いわ」
 小説を鞄にしまい、鈴子は珈琲の残りをくいっと飲み干した。濃い苦みがのど越しにやってくる。この苦さにほんの束の間酔いしれて、鈴子はお会計を済ませた。ここが開業してからの常連ということで、いつも通り安くしてもらっている。
「それじゃぁまた明日、マスター」
「また明日。お気をつけて」
 外国の男のように、髭が良く似合う、体格のいいマスターは、学生の頃は相当女子の間で人気があったことだろう。三十代後半に差し掛かった今でも、その男らしさは見れば分る。けれど鈴子は、そのマスターから滲み出るような優しい雰囲気が居心地よく、マスターは実はとても繊細な人なのではないかと、想像を巡らせている。
 マスター本人にそう言ったら、恥ずかしそうに笑っていた。
 
 江戸という一つの時代が終わり、明治という新しい時代が始まって、もう三十年以上は経っている。最初は西洋文化が流れてくることを拒んだこの町も、いつしか洋装の男性が煙管を片手に闊歩するようになり、女子たちも洋装に移り変わり始めている様子が見られる。洋装の男性などは大抵軍人か華族の出であろう。女学校に通う鈴子は、彼らの洋装がとても好みだった。足の線が見える洋装は、袴で隠されていた男の女々しさを引き出す。そしてその女々しさが、強かな黒地に覆われ清純さと実直さに変わるのだ。少なくとも、鈴子にとっては。
 そんな人たちを横目に、お気に入りの着物に袴姿で街を歩く鈴子は、さながら純愛小説の主人公である。見栄えの良い洋装の男性とすれ違った後の高揚感は何とも言えないものがある。あの人は私の着物を見たかしら。私の袴を見たかしら。私の黒髪によく映える真紅のリボンを見たかしら。それを見て、あの人はどう思ったかしら。
 もしかして、慌てて引き返して私を呼び止めるのではないだろうか。そうしたら、私は何と答えよう。私はどんな態度で接しよう。こんな考えを巡らし、小説の主人公になった気分で妄想を楽しむのが鈴子の毎日だった。
「鈴子さん!」
 しかし呼び止められたのは、端正な顔立ちの男性からではなく、聞き馴染んだ女子からであった。
「君世さん。ごきげんよう」
 向かいから小走りでやってくるのは、鈴子の学友、本条君世だ。本条財閥の一人娘であり、ほぼ毎日と言って良いほどお見合いをしているのだがその大人しさのせいか交際までいけないという、いかにもお嬢様らしい彼女である。
「鈴子さん、これからどちらへ?」
「おばさまのところでお洋服を少し縫ってこうかと思って。君世さんは?」
「私、実はこれからお稽古があるのだけれど……」
「まさか、また抜け出してきてしまったの?」
「あぁ鈴子さん、どうしましょう! ばあやに知れたら、今度こそ私、次のお見合いの方と無理やり結婚させられてしまうわ!」
 君世が両手に顔を埋めて嘆く。鈴子は実際涙が出ていないことを知ってはいたが、小さくため息をついて君世と腕を組んだ。
「君世さん、私に良い案があるわ」
「本当に?」
「えぇ。今度お見合いする方の写真が届いたら、私に見せて頂戴。私がその人を説得して、縁談を断ってもらうようお願いしてみるわ」
「鈴子さん……!」
 羨望の目で見つめられ、鈴子は少し気分がよくなる。けれど、君世はすぐにまた項垂れてしまった。表情がころころ変わるのは君世のいいところでもあり、なおした方がいいところでもあるのではないかと、付き合いの長い鈴子は思っているのだが口にしたことはない。
「あぁ、でも鈴子さん、それじゃぁ後でお叱りを受けるのは私ですわ!」
「あら、どうして?」
「本条家の娘がお見合い相手に断られた、だなんて噂が広まれば、恥をかくのは本条家ですもの。どうにかして私の方からお相手を断る形にしなければ……」
「まぁ! 本当に面倒ね財閥って!」
 鈴子は鼻を鳴らして歩幅を大きくする。ドレス姿の君世は袴を着ていながらいつも早歩きができる鈴子に関心しているのだが、話を聞いてもらえないのでは意味がない。
「鈴子さん、お願いよ! こんなことお願いできるのは鈴子さんしかいないんだもの」
 確かに、君世には学友さえ少なかった。本条財閥といえば女学校の生徒の中でも頂点に立つ権力者であるため、お家同士のお付き合いは多くとも、雑談を交わせる学友というのは、鈴子の他にいないのである。
 かと言って、鈴子が本条財閥に劣らない財閥の娘であるという訳ではない。鈴子の実家は呉服屋で、本条財閥は駒田屋の創立以来のお得意様なのである。そのおかげで、同じ年に生まれた鈴子と君世は小さい頃から一緒に遊ぶことが多かった。小難しいのは側近や家の召使いたちなどだけで、本条家当主とその妻は陽気で親しみやすい性格だったため、鈴子の両親である駒田夫妻と意気投合したのである。
 以降、鈴子と君世を同じ習い事に通わせたり、同じ女学校に通わせたりと、何かと一緒に過ごすことが多かったため、君世はすっかり鈴子に懐いていた。鈴子も君世と一緒にいると楽しかった。なぜなら、お見合い相手の写真を見せてもらう度に、その男性の今までの人生についての妄想ができたからである。そんな鈴子を、君世は下げ眉で見つめるのだが。
「じゃぁ、今度のお見合いを断るために、その男性に君世さんの悪口でも言い続ければいいのかしら?」
「それは悲しいわね。鈴子さん、私に何か不満があるの?」
「別にそういう訳じゃないけれど。でも、縁談を断ってもらうにはそういう方法しかないわ」
「何かほかの方法を探しましょうよ! 私の評判が悪くなったら、本条家のみんなに迷惑かけるわ!」
 君世は一生懸命考え始めるが、鈴子は君世の提案することには決して賛成できないであろうことを知っていた。昔からそうなのだ。お嬢様育ちで温室育ちである君世は、鈴子よりも世の中を知らなすぎる。
「そうだわ!実は私が男性だった、ってことにすれば……!」
「君世さん、とりあえずどうするかは私が考えておくから、家に戻りなさいよ。今あなたが逃げ出していること自体、本条家のみなさんにとっては迷惑なはずだわ」
 鈴子の提案に君世はぱっと明るい笑顔を作り、鈴子の手を握る。
「ありがとう鈴子さん! お礼に今度何かおごるわね!」
 そう言って小走りに本条家という名の鳥籠に戻っていく雛のような君世の背中を見つめて、鈴子はまだ見ぬ今度の君世のお見合い相手に思いを馳せた。本条財閥の娘というまたとない縁談相手が、自分とまだ会ってもいないのにすでに拒否する準備を始めていることを知ったら、どのような気持ちになるのだろう。
 鈴子の両親はお見合いをさせるつもりなど一切ないと言っていたが、もし気が変わって自分がお見合いをすることになったら。そう考えただけで、悪寒に身が震える。一生を添い遂げる約束をする相手なのだ。運命に身を任せて出会いたい。そう思うのは、女子ならば誰でも同じなのではないだろうか。
 夕飯の献立を頭の中で整えながら、鈴子は夕暮れの街をぼんやりと歩いた。


「マスター、今日も珈琲をお願い」
「鈴子ちゃん、今日は新しく入った砂糖とミルクも入れてみたらどうだい?」
 マスターの提案に、ふむ、と鈴子は考える。鈴子が好むのは苦い香りのする珈琲である。とても甘くて美味しい砂糖とミルクを入れてしまったら、その苦さは消えてしまうのではないだろうか?
 慣れた手つきでマスターは珈琲に砂糖とミルクを入れていく。鈴子はその動作を見て、聞こえないように小さな吐息を漏らす。男らしい大きな手、ごつい指先が小さな角砂糖を掴み珈琲に落とす。聞こえるか聞こえないかほどの音を立てて、角砂糖は珈琲の海に溶けていく。ミルクが珈琲の黒茶色に混ざり、みるみるうちに珈琲の水面下で肌色の噴火が起こる。
「マスター、珈琲は罪だわ」
「洋菓子ではなく、珈琲の方が?」
「もちろん、洋菓子も罪だけれど。それでも、珈琲の罪深さには勝てないのよ」
「それは、鈴子ちゃんにしか分からない世界だね」
 マスターは温かい笑みを浮かべて、完成した珈琲をそっと目の前に置いてくれる。食器の芸術など、珈琲の香りの前にはただの飾りでしかない。
 鈴子は一口それを啜り、珈琲の世界に入り込む。こんな甘く、苦い香りが共存しあっている飲み物が、かつて存在しただろうか。飲み込む時のあの苦さに甘味が加わり、残り香はすぐに洋菓子と合うことが分かる。
「とっても美味しいわ!」
 マスターのカフェに通い始めて、もうどれくらいになるだろう。洋菓子を初めて口にした時も、珈琲を初めて口にした時も、この感覚に陥った。まるで、この世界から別の世界に旅をしているような。
「洋菓子の珈琲の相性がとてもいいのは知っていたけれど、これと一緒に召し上がったらより一層おいしいでしょうね!」
 鈴子の案を聞いて、マスターはくすりと笑う。それに気づいた鈴子が不思議そうな目線を送ると、マスターは食器を磨きながらこう教えてくれた。
「いやね、今朝同じものをお出しした学生さんのお客様も、同じことを言っていたものだから」
「あら、私が一番目じゃないの?」
「最初は鈴子ちゃんに出そうと思っていたんだよ。けれど今日一番目のお客さんも甘党好きだと言っていてね、早く味の感想を聞きたくてお出ししちゃったんだ」
 自分よりも先にこの美味しさを知った人がいることだけでも鈴子にとっては悔しいのに、ましてやその人が自分と同じ学生だとは!
「そのお方もここの常連さんなの? 女の子?」
「うーん…あまり見かけない顔だったけどなぁ。男の子だよ。年は鈴子ちゃんと同じくらいじゃないかな」
「でも、学生さんだとしたらまたお店に来る可能性は高いわね?」
「お店も気に入ってもらえたみたいだし、来てくれるとありがたいねぇ」
 同じ物を飲んで、同じことを思ったのだ。鈴子とその学生は何か通ずるものがある。鈴子は前に読んだことのある純愛小説を思い出す。ひょんなことから同じ趣味を持つことを知った男女が、その趣味のおかげで仲良くなり、恋仲に発展する話。
 鈴子にも、そんな恋が訪れるのだろうか。
「鈴子ちゃん?どうしたんだい?」
 気付けば、いつものように自分の世界に浸ってしまっていたようだ。弁解しようとしたところに、君世がお店に入ってきた。
「鈴子さん! よかったわ、ここに居ると思ったの!」
「君世さん、どうしたの?」
「どうしましょう……今度のお見合い相手の写真が送られてきたの!」
「えっ?」
 突然の君世の言葉に、なぜか自分のお見合い相手でもないのに、どきっとなる。君世は鈴子の向かいの席に座って、手提げ鞄から写真の額を取り出した。立派な額に収まっているのは、白黒の写真。
「この方なんだけどね……」
 君世が鈴子に渡したその写真の中には、整った顔をした、まっすぐな瞳をした青年であった。力強さと繊細さが存在し、なお気品のようなものさえ感じ取れる。写真なのに、まるで絵画のように完成されたその姿に、鈴子はなぜか珈琲をお腹いっぱいに飲み込んだかのような気持ちになった。
 その様子を気にもせずに、君世は頭を抱えて嘆く。
「もしそのお方がこの縁談を断ってくれなかったら、私は……」
「あら、でもこのお方、素敵じゃない。少なくとも、今までのお見合相手たちとはくらべものにもならないわ」
「それじゃぁ鈴子さんは私にこのお方と結納を済ませろというの?」
「そこまでは言ってないじゃない。ただ、これほど完成した男性に巡り合うのは難しいわよ。付き合ってみてもいいと思うけれど……」
「鈴子さん分かってないわ。私は男性が怖いの。できることなら、関わりたくないのよ!」
 愛くるしい顔をしていながら、言い寄ってくる男性がこの町中にいながら、よくもまぁ言ってのけると、鈴子は君世の顔をまじまじと見つめ、諦めのため息を吐いた。
「約束は守るわよ。何とかして、この縁談を断らせていただくことを了承してもらうわ」
「お願いよ鈴子さん! 鈴子さんが失敗してしまったら、私じゃどうにもできないんだもの。」
 何とも他人任せなお嬢様。けれども君世は、昔っからそうだった。嫌気がささないのは、鈴子もまた君世の世話を焼くことを、好んでいたからである。君世のお見合い相手たちと話をすると、色々な事情がきけて楽しかったのだ。さながら小説を読み進めるかのように、鈴子は彼らと他愛ない話をして、妄想の世界を広げていったものだ。
「この人が、お見合い相手、ねぇ……」
 今回もきっと、同じようになるのであろう。いくら端整な顔立ちをしていようと、気品があるように見えようと、結局彼らは君世との縁談のためにやって来たのであり、鈴子と話をするためではない。彼らにとっての世間話は、鈴子にとっての妄想の糧になるのだ。この男性も、きっと鈴子に面白い話を聞かせてくれるに違いない。
 だって、今までこの町で、これほどまでに心惹かれた男性を、鈴子は見たことがないのだから。まるで鈴子のお気に入りの恋愛小説、「はぐれ舟」の中から、飛び出してきたかのようなその姿。主人公を見守り、時には厳しい言葉で諭してくれる、心優しく自立した、頼りがいのある男性、相馬小太郎。そんな人は、小説の中にしか存在しないと思っていた。
 けれど、容姿だけは、これほどまでに忠実に小太郎を再現できる人がほかにいるだろうか。写真の中にいる彼は、鈴子が想像していた相馬小太郎に他ならないのである。いや、きっと「はぐれ舟」を読んだことのある乙女ならば、誰しもがこの写真の彼を思い浮かべていたことだろう。
「お見合いなんて私はしたくないのよ。私だって、鈴子さんのように運命の出会いに憧れているの」
「あら、私は積極的に出会いを見つけに行っているのよ。逃げてばかりいる君世さんとは違うわ」
「自分の理想に合うお方が相手だったら、お話の一つや二つ、聞かせてもらうわ。けれど、そんなお方今まで会ったことがないのだもの」
 その通り。理想の男性など、そう簡単に現れるはずはないのだ。だって、そんな人にすぐ出会えてしまったら、乙女である理由がすぐになくなってしまう。
 恋に恋焦がれ、待ちわびるからこそ、訪れる恋の予感は人生で一番の喜びを持っているのだから。
「……このお方とは、いつお会いするの?」
「今週末に……。その日は朝から外には出してもらえないでしょうね」
「じゃぁ、それまでにこのお方にお会いしなきゃいけないのね」
「鈴子さん、お時間大丈夫?」
 君世が時計を見て呟く。
 あぁ、もうこんな時間か。思わぬ楽しそうな計画に胸が躍って、柄にもなく時が経つのを忘れてしまっていた。
 鈴子はお勘定をマスターに渡して、君世を従えカフェを出る。街は静かに黄昏ていて、帰路を急ぐ学生たちがちらほらと見えていた。鈴子たちは大通りを歩きながら君世の家へ向かう。鈴子の家はあまりうるさくはないのだが、君世の家は門限が厳しいのだ。
「それじゃぁ、鈴子さん、どうかお願いね。私のために、このお方に縁談を断らせていただく旨、了承してもらってね」
「分かったわ。とりあえず、何かあったら君世さんに知らせに来るわね。じゃ」
 大きな家の門をくぐり、家の中へ入っていく君世を見送ってから、鈴子は小さなため息を吐いて帰路に着いた。
 今まで習い事と、カフェで純愛小説を読むことしか楽しみのなかった鈴子の人生に、やっと面白そうなことが舞い込んできたのだ。鈴子の頭の中は、小説の世界でいっぱいに染まっていた。
 君世から渡された写真に写っていたあの青年。実際の彼はどんなだろう?声は?香りは?雰囲気は?写真だけでは分からないことなんてたくさんある。というより、分からないことの方が多いだろう。それでも鈴子にとってあの写真は、衝撃的であった。そして、もうすでに鈴子の頭の中では、彼という人物は出来上がっていたのである。



第二章

 翌日、鈴子は地元の図書館に出かけた。君世から重大な任務を任されたとはいえ、鈴子は学生であり、何より本を読むのが大好きだった。君世の稽古が終わるのは午後に入ってからということもあり、午前中は書物に浸ろうと考えていたのである。
 鈴子の家の中で親しい者に調べさせた結果、写真の彼は古伊勢塚学院の生徒であることが分かった。古伊勢塚学院と言えば、この周辺では随一に頭のいい学院である。財閥の子息などが通う男子校であり、鈴子たちのような良家のお嬢様たちでさえ、あまり近付けない存在であった。
 鈴子に男子の学友も何人かは居るが、古伊勢塚学院に所属しているものはいない。
 はて。どうして近付こうか。
「おや、鈴子さんじゃないか」
 声がして振り返ると、書物を二、三冊持った学生が立っていた。確か……。
「覚えているかな? 藤堂 宗司。何週間か前、食事会で一緒だった」
 そうだ。母親に無理やり着飾られて連れていかれた、父親の仕事関係の会食で出会った、同い年の御曹司。あまり話した記憶もないが、まさか覚えられていたとは。
「お久しぶりです。奇遇ですね、こんなところでお会いするなんて」
「いや、実はここはおじい様が作られたところでね。休みの時間はいつもここで書物を読んでいるんだ」
「まぁ……私も、よくここで読書してるんですよ。もしかしたら、お会いしていたかもしれませんね」
「そうだね」
 笑顔が可愛い。なるほど、冷たい印象の人の方が魅力的に見えていたけれど、こう屈託のない笑顔を向けられる人も、なかなか素敵だ。なんてことを、思っていたら。
「藤堂さん、その制服……!」
 鈴子は目を疑った。目の前の藤堂 宗司が来ている制服はまさに、写真の彼が着ていた制服と同じものである。
「ん?あぁ……そういえば、この前は洋装でしたから、僕の制服姿をお見せするのは初めてですね」
「驚きました……。藤堂さん、古伊勢塚学院に通ってらっしゃるんですか?」
「えぇ、まぁ。僕は哲学を勉強したかったんですが、父が理数系でしてね。古伊勢塚に行けとうるさくて」
「藤堂さん……もしかして、もしかして、今度、古伊勢塚学院に招待してくださらないかしら?」
「えっ?」
 鈴子は書物を机の上に置いて、宗司に椅子に座るよう促す。宗司は紳士に鈴子を座らせてから自らも腰を下ろした。
「それは、どういうことです?」
 宗司のまっすぐな瞳に見つめられて、鈴子は逸る心を抑える。思わぬ再会に、思わぬ希望。この機会を逃すわけにはいかない。
「その……私、古伊勢塚学院にいる知り合いに会いに行きたいんですの。けれど、あそこは有名な男子校でしょう?女学生の私が一人で行くには、少し気が引けるし…。藤堂さんが案内してくだされば、知り合いを見つけやすいかと……」
 自分で言っていて怪しい言い訳であることは分かっているのに、宗司は真剣な表情で聴いてくれている。次に宗司が言ってくれた一言で、鈴子は胸の高揚を抑える術を失った。
「……なら、今度の木曜日はどうだろう。丁度空き時間があるので、校内を案内できると思います」
「じゃぁ、木曜日に。無理を言ってごめんなさい」
「いいえ。鈴子さんとお近づきになれて嬉しいです」
 宗司は微笑んだ後、積み重ねた本の一つを手に取って読み始めた。鈴子は宗司の横顔を見つめ、彼の今までを妄想してみる。良家に生まれ、御曹司として育てられた。父親の厳しい教育に耐えながらも、学院生活で良い友人に恵まれ、青春を送る。人懐っこい宗司の笑顔は相手を安心させるものがある。きっとこの笑顔と優しさで、多くの女子たちの心を射止めてきたのだろう。鈴子は今回の件で、宗司を大変気に入っていた。
「……僕の顔に、何かついてます?」
「えっ?」
 本から目を離さないまま、宗司はクスッと笑った。鈴子は慌てて視線を反らして、本で顔を隠す。
「いいえ、別に」
「そうですか」
 宗司が頁をめくる音がする。その音が、鈴子の心に入ってきて、まるでさざ波のように連続する。どうして聞きなれたこの音が、こんなにも心地良いのだろうか。
 すっかり昼下がりになり、宗司が用事のために席を立ってからも、鈴子はそこに座り、本で顔を隠し続けた。そして、数分に一度、首をかしげた。
 ふと、雨が窓を叩く音で我に返る。
「あら、雨……。」
 意図もなく呟いたその言葉に、宗司が目線を上げた。
「傘は?」
「持ってきてないわ。家を出た時は雨が降るような空じゃなかったもの」
「送ります。行きましょう」
 宗司は本をしまい、すっと立ち上がる。その動作の滑らかさには、鈴子はついていけなかった。
「え、でも」
「ほら」
 肩で風を切るような歩き方が、宗司の癖なのだろうか。すらりと長い脚が交互に地面を踏み進む。鈴子の歩幅に合わせることのないそれは、しかしなぜだか心地良かった。

 霧のような雨の中、下り流れていく雨とともに坂道を下り、鈴子は時折擦れる自分の肩と宗司の肩に緊張した。目の前をゆっくりと走っていく路面電車の淡い光の中から、今自分たちはどのように見えているのだろう。
 いつもは自分が想像する側なのに、想像される側の世界に居るのだろうか。横切っていく車窓から、相合傘の下の私達を見つけ、私達の時間を想像する人は居るのだろうか。だとしたら彼らが想像する世界の私達は、どんな時間を過ごしているのだろうか。
「そうだ、鈴子さんはあの駒田財閥の娘さんでしたね」
 突然隣から声が聞こえ、鈴子はびっくりして少し肩を震わせた。
「え、えぇ」
「駒田と言えば、有名な和紙製造会社だ」
 路面電車を見送り線路を通り越して、街中へと進んでいく。
「父の仕事のことはよく分らないわ。あまり聞かないようにしてるから」
「なるほど。まぁ、女性からしたらつまらないことでしょうね」
 苦笑したかのように、息がかかった声が聞こえる。顔をあげればあまりにも近いようで、鈴子はただ傘の下から見える町並みを見つめながら答える。
「いいえ。話を聞くのは面白いけれど、お父様もあまり仕事の話を家でしないお方だから」
「へぇ……。意外だな。駒田さんは家でも仕事ばかりの人だと思っていた」
 駒田さん。あまり聞きなれない呼び方に、鈴子は驚いて宗司を見つめた。
「あら……家のことをご存知なの?」
「僕もまがりなりにも御曹司ですからね」
 見つめ返し微笑んでくる宗司の表情に、心が冷たい風にいきなり吹かれた時のように、
きゅっとなる。一体どうしたというのだろう。
「まぁ、確かに」
「今度学内をご案内する時は、僕の友人も紹介しましょう。気前のいい奴だから、きっとすぐ打ち解けられます。そうしたら珈琲でも飲みに行きましょうか?」
「いいですね! 楽しみにしてます。」
 
 角を曲がれば正門だ。宗司は足を止め、数歩先を歩く鈴子を見つめる。一人で歩いていることに気付いた鈴子はふと横を見やり、後ろに立つ宗司に笑った。
「僕はここで」
「あら、お茶でもお出ししようかと……。」
「また今度ぜひ」
「じゃぁ、お気をつけて」
 帽子を取って会釈し帰路につく宗司の後ろ姿を眺め、鈴子は君世の見合いの相手が宗司でないことに、少し安堵していることに気付いた。


第三章
 長い夢から覚めたような、そんなぼんやりとした感情のままある人に出会い、恋をしてみたかった。どんな風に笑うのか、どんな声なのか、どんな時を歩んできたのか。そんなことを想像させて、あぁでもない、こうでもない、あぁもう一度会いたい、と思わせてくれるような、これからの日々の薔薇色を期待させてくれるような人に。
 そんな人がいつか現れると、鈴子はそれでも信じていた。縁談の話が来るたびに、おばあ様の口から恋愛の話が出るたびに、自分の人生にはそんなものではなく、もっと運命的な何かが起こるのだと、それを待っているのだと力説した。
 けれど、宗司とのやりとりが忘れられない。帰路につく宗司の後ろ姿が忘れられない。夕日を背景にしていたせいだと、久しぶりに同い年の男の子と肩を並べて歩いたからだと、疑問に思っては理由を見つけ気持ちを落ち着かせていた。
「お嬢様、昨日からため息が多いですね」
「えっ!?」
 いきなりお手伝いさんの梅に声をかけられ、鈴子は慌てて席を立った。梅は鈴子が生まれてからずっとお世話になっている人で、御年七十五だがちょくちょくお見合いの話を詳しく聞かせてくれと頼んでくる、お手伝いさんの中でも大の噂好きとして有名だ。
「もしかして、それは恋のお悩みですかな?」
「まっまさか! やめてください梅さん、何言ってるんですか!」
「そうお慌てになるところを見ると、ますます匂いますな。」
 梅がにやにやと近付いてきて、鈴子は追いつめられるように椅子に倒れるようにして座る。頭の中を覗かれているような梅の視線がいつも怖い。何も言っていないのに、まるですべてを見透かされているような。
「本当に、なんでもないんですったら」
「ま、お嬢様がそうおっしゃるのならそういうことにしておいてあげましょう。しかし若い子たちはいいですねぇ」
 来た。梅の、最近の若者は、から始まる話はいつも面白い。普通は嫌がる子たちが多いけれど、鈴子にとって昔の若者たちの話を聞くのは、いい妄想のネタになるのだった。鈴子は梅に椅子をすすめて、隣で梅さんの顔を覗き込むように身を乗り出す。
「梅さん、ねぇあのお話を聞かせて。雄三さんとのお話!」
 雄三とは、梅の旦那のことである。雄三もこの屋敷で庭師の仕事をしていて、鈴子のことを生まれた時から可愛がってくれている、まるで祖父母のような存在だ。実際のおばあちゃんは縁談の話しかしないし、おじいちゃんは鈴子がまだ小さい頃に亡くなってしまった。
「あれは、私がまだ高校生の頃でした…」
 梅の話を聞きながら、鈴子は目を閉じて若かりし頃の二人の姿を想像する。夏の川辺、花火をしながら微笑み合う二人。友人たちに冷やかされながらも一緒に下校する時のその胸の高鳴りは、どんなものだったのだろうか。休みの日に会えないことが、どれほどもどかしいものなのだろうか。声を聞きたくて電話をかけ、呼び鈴が鳴っている間、それが自分の心臓の音に遮られるような恋は、きっと甘酸っぱかったに違いない。
 鈴子もいつか、そんな風な恋をする日がくるのだろうか。梅の話を聞くたびに思う。当時恋する乙女だった梅の美貌は、そのほかのどんな女子よりもとびぬけたものだっただろうと。
「いいわね…。私もいつか、そういう恋をしてみたい。」
「まぁお嬢様ったら。恋はするもんではありませんよ。」
「え?」
 梅はにっこりと笑って鈴子を見つめる。梅にとってはまだまだ小さい、赤子のような鈴子である。恋をして大人になっていく鈴子を見たいという気持ちもあれば、まだ純粋な乙女であってほしいと願う気持ちもある。何しろ恋をするとなれば綺麗ごとだけではいかないのだから。嫉妬や欲望や駆け引きや、醜いことだってあるのだから。
 だがそれを教えるのは梅の役目ではない。いつか鈴子が心から愛しいと思う相手と出会って初めて、鈴子は知ることになるのだ。
 小説のような恋は、そう簡単に転がっている訳ではないということを。


第四章
 宗司と約束していた、学院を案内してくれる木曜がやってきた。その朝鈴子は新しい着物をおろし、念入りに髪を整えた。黒髪に艶を出し、頬紅も少し多めに支度する。途中梅に茶化されたが、鈴子は胸の高鳴りを抑えるので手一杯だった。
 鈴子だってお見合いのような類のものはいくつかやったことがあるが、これはそれとは違うのだ。最初から、自分が気になる人だということが分かっている。もっと話をしてみたくて、隣を歩いてみたい男性だということを、もう分かっている。今日会うことで宗司に失望などしないだろう。彼はきっと、全うに紳士としての務めを果たしてくれるはずだ。
 そう思うと、鈴子は今から妄想が止まらなかった。歩くときは彼が車道側で、雨が降って来たなら相合傘、そしてどこかに入るのなら扉を開けてくれて、座るのなら椅子を引いてくれるだろう。
 行先が古伊勢塚学院だということをほぼ頭の片隅に追いやって、鈴子は西洋の洋館が建ち並ぶ神戸の街並みを優雅に歩く自分と宗司の姿を想像して何度も小さな笑みを浮かべていた。

 古伊勢塚学院は財閥の子息たちが通う小学校と中学校が合わさったところで、鈴子の家柄のせいもあり父の仕事相手の子息たちが通っている学校、というイメージしかなかった。だが実際来てみると、鈴子が通う女学校よりも大きく、清潔感があり、やはり何かが違うことを感じ取れる。それは建物にかけられたお金だとか、庭を整えるお金だとか、そういうところから出てくる差だろうと鈴子は心の中で思った。
 校門で宗司を待つということはなかなか勇気のいるものだった。何しろほかの学生たちが鈴子を物珍しそうに見ては小声で何かを話しながら通り過ぎていく。鈴子は自分の服装がおかしかったか、髪が乱れているのかと、気になって気になって仕方がない。
 実際は、その容姿に見惚れた学生たちが、声をかけるかかけまいかで論議を交わしていただけなのだけれど。
「鈴子さん!」
 宗司の声がして、ぱっと振り返る。院内から出てきた宗司は制服にびしっと身を包み、以前見た時よりも魅力的に感じた。
「すいません、お待たせしてしまって」
「いいえ、そんなに待ってませんから」
「どうぞ、案内します。一人でここに立っているのは辛かったでしょう?」
「まぁ…少し」
「ここの学生たちはみんな、女学生には免疫がないんですよ。中には社交的な奴もいるけど…僕も含めて、女性と話す時はいつも少し緊張してしまう奴らばかりで」
 宗司が笑顔で鈴子を振り返る。横を歩いていた鈴子は、近距離で初めて見る宗司の大きな笑顔に、心臓が一瞬止まるかと思うほど息を呑んだ。
 今まさに、夢のようなことが起きている。こんな素敵な男性の横で、私は歩いている。あぁ、この素敵な時間が、いつまでも続けばいいのに…。
「宗司? こんなところで何してるんだ?」
 鈴子の甘く淡い妄想は、冷たい男性の声に終わった。
「静人! お前こそ珍しいじゃないか、まだ学院にいたなんて」
「今日は会議がないから図書館で本でも読もうと…」
 宗司が親しげに話をしている処を見ると、彼は宗司の友人なのだろうか? 確かに端整な顔立ち、漆黒の髪がよく映える雪のように白い肌、まるで人形のような人ではあるが…。
 と、そこまで観察したところで、鈴子は今回の訪問の本当の目的を思い出した。
「あーっ!」
 女学生あるまじき大声で、鈴子は宗司の友人を指さす。
「あ、あなた…!」
「…?」
 眉をしかめ鈴子を見下ろしてもなお美しい顔には見覚えがある。君世から見せてもらった、あの写真の中の君。
「…俺がどうかしましたか?」
「え、っと…」
 いきなり叫んでしまったはいいものの、どうやって説明すればいいのか考えるのを、すっかり忘れていた。というか、大声は叫んだ上にいきなり指をさしてしまうなんて、なんて失礼なことをしてしまったのだろう。
 慌てて姿勢を整えて、鈴子は角度を意識しながらお辞儀する。
「初めまして、私、藤堂さんの友人の駒田鈴子と申します。」
「駒田…?あぁ、呉服屋の…」
 友人は鈴子を品定めするような目で見まわした。その態度にいささか腹が立った鈴子だが、ここはぐっと我慢しなくてはいけない。私の行動が、君世の破談にかかっているのだから。
「お前も自己紹介しろよ」
 宗司につつかれて、彼は初めて鈴子にきちんと向き合った。
「初めまして、鹿野宮静人です。」
「鹿野宮…? って、あの有名な和菓子屋の?」
「えぇ、まぁ」
 鹿野宮財閥と言えば、駒田財閥よりも上の存在で、和菓子界だけでなくとも随一の権力を誇る財閥だ。資産は数えきれないほどで、現在の当主は雲の上のお方のような存在のため社交界にもあまり顔を出さないらしい。
 厳格でありながら幅広い事業からの支持を受けているという当主の一人息子がいると聞いたことはある。だが、彼もまた父親同様、あまり社交界に出ることはないらしい。父親は息子に代わりに参加するよう言っているのだが、息子も父親のように社交界には興味がないのだとか。息子は父親よりも近寄りがたいと言う者さえいるらしい。
 そんな、誰もが知っている情報を、なぜ彼が古伊勢塚学院に通っていると調べ上げた時に報告してこなかったのか。鈴子は抜けてる部下に心の中で罵倒を浴びせながら、にっこりと笑みを浮かべた。
「まぁ、すごいですね。私もよく鹿野宮さんのお菓子をいただくんですよ。すごく美味しくて大好きです。」
 とりあえず、相手を持ち上げとかなければ。
「…そういうことはわが社の工場に直接言っていただいた方が助かるんですけどね。俺にはまだ鹿野宮の事業に関わるほどの権利は与えられていないので」
 予想外の答えに、鈴子は細めていた目が引き攣るのを感じた。
「は、はい…?」
「お、おい静人!」
「では、あまり暇でもないので俺はこれで失礼。宗司、また明日」
 静人は一礼だけして去って行ってしまった。鈴子は呆然とその背中を見つめたまま、何も考えることができなかった。
 壊れていく。あの写真を見た時から鈴子が抱いていた夢が、音を立てて壊れていく。もう二度と修正できないほどに。かつてこんなにもひどい扱いをされたことはあっただろうか? もちろん自分が財閥の娘だからという理由で周りの人間がよくしてくれていたことは百も承知だが、自分が非を働いていない相手にここまでの扱いをされたことはない。
 ―まぁ、指をさして大声で叫ぶという非は十分に働いてしまったのだが、それにしても、だ。
 宗司は慌てて鈴子の前に回り、必死でつくろう。
「すみません鈴子さん、先ほども言った通り、あまり女学生と会話をすることに慣れてないせいっていうか静人はもともとぶっきらぼうなほうで誤解されやすいんですが、決して悪いやつではないので」
「…宗司さん」
「はい?」
 鈴子は悩んだ。果たしてあの忘却無礼で慈愛心などまったくもってなさそうな男が、君世の縁談の話をしてこちらの要求通りに動いてくれるだろうか。言ってみなければ分からないということも世の中にはあるけれど、鈴子はすでにひしひしと感じていた。
「少し、協力していただきたいことがあるんです」
 あの男は、一筋縄ではいかないと。

第五章
 その日の朝、鈴子はいつもより少し厚めにお化粧をして、いつもより少し丁寧に髪を整えたのだが、それは休みの日に男性にプライベートな用事で会うのが初めてだからという訳でもなく、しかもその相手が宗司だからという訳でもない。今日は戦なのである。腹が減っては戦はできぬから、朝食もいつもよりしっかりととる。
「お嬢様、今朝はいかがなされたのですか? いつもは少ししかお召し上がりにならないのに…」
「今日は戦なんです梅さん。気を引き締めていかなきゃ!」
「戦? そんなおめかしして戦だなんて…あらお嬢様、もしかして!」
 梅が紅茶を注いでいた手を止めて、鈴子を大きな瞳で見つめる。鈴子は紅茶を啜りながら、戦を別の意味で解釈した梅の心情になど気付きもせず、腹をくくっていた。今日は何があろうと逃げない、逃げ出してはいけない。
「それでは梅さん、行ってまいります!」
「お嬢様、今日はまたなんとお美しい…」
 新調したワンピースは今春の新作で、明るく可愛く、気分も新たになる。そう。今日はこの勝負服を着て、ある勝負をしなければいけないのだ。

「鈴子さん!」
 待ち合わせ場所の山田書店に、宗司はもう到着していた。前回会った時とはまた違う、私服の宗司はけれどお坊ちゃんだった。最新のデザインを取り入れられたベストは、おしゃれ好きの鈴子から見ても魅力的だ。
「宗司さん、お待たせしてしまってすいません」
「とんでもない。丁度気になってた新刊も見られましたし。あいつはカフェに仕事からそのまま来るらしいので、我々は先に行っておきましょうか」
「あ、はい」
 カフェは書店から少し離れたところにあり、鈴子が一度も入ったことのないところだった。それもそのはず、鈴子が行くカフェといえばマスターがいるところだけだ。新しい珈琲の味に思いを馳せながら、鈴子は目の前に座る宗司を見つめる。
「鈴子さんも珈琲でいい?」
「あ、はい。…宗司さん、本当によかったのかしら」
「うん?」
「あなたにこんなことお願いして…」
 鈴子の言葉に、宗司は小さく笑ってテーブルに身を乗り出した。
「とんでもない。僕はこれ以上ないほど楽しみにしてたんです。なんせあいつの行動はいつだって予想外で面白いんだから」
 鈴子はそれが心配なのだ。そんな親友さえ予測不可能な行動をする人に、今から非常識なお願いをするのだから。
 宗司に初めてこの話を提案した時は、なんとかなるという自信が、まだ少なからず残っていた。希望を捨ててはいなかった。
「え…静人の縁組を壊す?」
「しーっ!宗司さん声がでかい!」
「あっす、すいません…。でも…え、一体どういうことです?」
 鈴子は君世のことを話し、君世のお願いのことも話した。改めてこうして第三者に話をしてみると、なんて勝手な話だろうと思ってしまう。けれども親友の一大事、見過ごす訳にもいかなかったのだ。馬鹿のように映ってしまっても仕方がない。
「…という訳で、君世さんのお家のためにも、静人さんに君世さんが縁組を断ることを了承していただきたい、と…」
「んー…」
 宗司は話を聞き終わった後、しばらく考え込むようにしていた。それもそうだろう。いくら友人の話とはいえ、これが自分だったら、恐ろしすぎて仕方ない。
「どうだろう…。鈴子さんも財閥の娘さんなら分かってるはずだ、父さんたちが本当に俺たちの幸せを願って縁談を持ってくるわけではないということを」
 そうなのだ。鈴子もそれは、小さい頃から疑問に思い、不満に思っていたことである。財閥の娘だからと言って、小説のような恋をすることも叶わず、ときめきを感じたこともない男性と一緒になることを運命づけられるなんて、不幸にもほどがある。
「それは…そうですけど。でも、このまま君世さんを静人さんと結婚させるわけには…!」
「多分、静人にも考えがあると思います。あいつだって、今までの縁談を頑なに断って来たんだ。結婚願望だって聞いたことないし」
「でも、今回は静人さんに振られてもらわないといけないんです!」
「そこ、ですよね…。静人は見ての通りプライドが高いから、そこに納得するかどうか…」
「…なんとか、ご協力いただけませんか?」
 宗司が考え込んでいる間、鈴子は居てもたってもいられなかった。今すぐにでもあの仏頂面の失礼な男に会って、今すぐにでも縁談を白紙にしてもらいたい。いっそ夜道を襲おうか? けれど護衛がついてない訳がないし、ましてや男相手に鈴子が勝てる訳がない。と、馬鹿な妄想を一通りし終えたところで。
「静人は小細工とかを嫌うんです。仕事でもプライベートでも。だからむしろ、真正面から切り込んだ方がいいのかも」
「真正面から?」
「そう

直にお願いするんです、静人に」

 と、いう訳で。カフェで静人を待っている、ということだ。
「…もうそろそろ約束の時間ですけど」
「まぁ、静人は忙しいですからね」
 宗司はいつもこうして約束の時間を過ぎても静人を待っているのだろうか。こんないい人を待たせるなんて、なんて人なんだ、とまで考えて怒りがわいてきたところで、カフェの扉を開けるベルがなった。
 入ってきたのはスーツ姿の静人で、鈴子は静人が目の前に座るその間、目を離せずにいた。ネクタイを片手で緩め、眉を顰めながらソファにどさっと腰を下ろした静人は、鈴子を一目見て、ふぅとため息をついた。
「宗司、これは一体どういうことだ? お前から折り入った話があると聞いて仕事の合間を縫ってここまで来たのに」
 冷たい声がカフェに響く。いかにもこれからするお願い事を快く聞き入れてくれる訳ないと感じさせる声。けれど鈴子は言うしかない。図々しくても、どれだけ馬鹿に見えようとも。
「あの…申し訳ありません。覚えてらっしゃいますか? 私…」
「駒田鈴子さん。駒田財閥のご令嬢。覚えてますよ」
「そう…そう、それで、今日は失礼を承知で、静人さんにお願いしたいことがあるんです」
「本条君世との縁談を破棄しろと?」
「っ!?」
「静人、お前なんで知って…」
 静人は出された珈琲を口に含み、実にくだらないというように眉をひそめて見せた。
「あなたは駒田財閥の令嬢で本条財閥にもあなたと同学年の令嬢がいる。提携も結んでるし友好関係があることは明らかだ。この前会った時特に話もしていない僕に駒田財閥の令嬢が話があるとすれば仕事のことが妥当だろう。だがうちと駒田財閥の間で折り入って見直さなきゃならない契約内容も噂もない…ということはこの前縁談を持ってこられた本条財閥の令嬢が唯一の親友であるあなたに頼み事をしたと考えるのが妥当だ。本条財閥の令嬢は俺と顔を合わせるのも嫌らしいからな」
 さすがは鹿野宮家の御曹司。その偉そうな態度は鈴子の父親に引けを取らない。こちらのペースで話を進めるのは無理だろうと踏んではいたものの、完全にペースを持ってかれるとは。しかしどうしようもない。こっちも引けない。
「…その、縁談の件なんですけど…。静人さん、振られてください!」
「無理だ」
 躊躇する間もなく即答した静人を見て、鈴子は腸が煮えくり返るようだった。けれど耐えなくては。
「…条件がある」
「え?」
 思いもよらぬ静人の言葉に、鈴子は思わず顔をあげる。目が合った静人の目は、冷たいようで、どこか爛々と輝いていた。まるで、新しいおもちゃを見つけたような子どもの目。秘密基地を完成させた時のような、わくわく、という言葉が似合う目。
 嫌な予感がする。とても、嫌な予感がする。
2013-12-28 20:19:33公開 / 作者:角
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■作者からのメッセージ
初めまして、角です。

時代設定は情勢というよりは、背景や登場人物たちの服装などの想像の助けにしてください。
この作品に対する感想 - 昇順
 こんにちは。
 時代小説はあまり読まないので新鮮です。「時代設定は情勢というよりは、背景や登場人物たちの服装などの想像の助けにしてください」とのことですが、明治の町なみや服装はぼくにとってちょっと想像しづらいものですので、いくらか描写していただけると助かります。
 鈴子の実家が「呉服屋」「和紙製造会社」と二通りに書かれているような気がするのですが、これはミスでしょうか?
 妄想屋の女の子ということで、読んでいてほのぼのしますね。続きも楽しみにしています。
2013-10-06 08:35:19【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
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