『アンサリング 〜女子内暴力〜 【第1話】』作者:アイ / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
名門高校に通う彩音(さおん)との美香(みか)は、トップクラスの成績を誇る仲良しの親友同士。だがふたりはその陰で互いの悪口を言う仮面友達だった。互いに尊重する部分はあれど許されない欠点もあり、それを別の友達に愚痴りながら笑顔で友達づきあいを続けていた。ある日、彩音がネットサーフィンをしていると、同じクラスのイケメン男子・風宮と自称お嬢様の管理人との妄想恋愛日記をつづったブログを見つける。風宮と親友同士でもある彩音は、ブログを大型掲示板で晒し者にする。やがて荒らしたちによって炎上するコメント欄。一方、美香は風宮の幼なじみの美少女・夏樹と同じ委員会になったことから、彼女に露骨な敵意を向けるようになった……
全角49503文字
容量99006 bytes
原稿用紙約123.76枚
 救急車のサイレンが聞こえて、久しぶりにまばたきをした。橙の音が学校全体を包み、嬲り、教室に響くざわめきと悲鳴に被さる。人の死を現実に釘どめする。飛びまわる赤の光が、生徒たちに非日常の興奮を教える。
 飛び降りだ。自殺だ。女子だ。何組かな。あいつじゃね? 死んでんの? エグい。グロい。ヤバイってとにかくガチでヤバイから。えーあの子とうとう自殺したんだ凄い。お前どんだけ見てんだよ死体好きなのかよ。
 誰もが教室の窓側に集まり、怖いもの見たさで中庭にある死体を見物していた。一瞬だけ見た。彼女のは仰向けに倒れていた。花か花火のように放射状に散った、大量の赤黒い血。あらぬ方向に曲がった手足。垂れ流された糞尿。隣に転がる携帯電話。割れた画面にうつっているのはツイッターのタイムラインか、掲示板のスレッドか、判別できなかった。強烈な錆の臭い。忘れるなと叱責する姿。窓から顔を出し、きつい臭いを嗅いで、彼女がどんな人間だったかを一瞬、忘れた。そして、急速に思い出した。
 そこにいたのだと、思い出させた。すぐそばで笑っていた彼女のことを。
 窓枠を握りしめた。指先が震えていた。先生が中庭に集まった野次馬たちを追い払う。救急隊員が目隠しをすると、騒ぎに笑い声が混じるようになる。まぁあいつなら自殺したっておかしくねえよ、と誰かが言った。
 彼女は勝った、と思った。逃避でも解決でもない、これは勝利なんだと。サイレンの音を振りまいて走り去る救急車を見送って、疑問視することをやめた。ケータイをひらいてスレッドをチェックする気には、なれない。ノイズがかった誰かのすすり泣く声を、口の中で必死に噛み砕いていた。そうしなければ、この事態を理解できなかった。騒ぐクラスメイトたちの声が、音のすべてが、水のように溶けて足元から学校を浸水させる。

   * * *

「死ぬ瞬間にいっこだけ願いが叶うとしたら、何お願いするん?」
 なんの脈絡もなく唐突にたずねられ、美香は口に運びかけた肉だんごを弁当箱の上に落としてしまった。トンデモな例え話をはじめた彩音(さおん)は、こたえを待って、その大きな目でこちらを見ている。美香は質問の意味を考えながら、肉だんごに再び箸をつけた。
「それって、死んだあと、それが叶ったかどうかも分からないじゃん」
「せやんねえ、自分は死ぬんやから自分以外の誰かのことになるしなあ」
「それって微妙じゃない? 世界平和なんてアバウトだし、家族がこれから先も元気でとかでも、娘が死んでる時点であんまり元気にならないと思う」
「余命なんぼかって人が、最後に焼き肉が食べたいとか言いだすんとちゃうくて、死の瞬間ってとこがミソやで。どうしてもこれだけは! みたいなん、あるやん。金返してもらってへんこと思い出したりとか」
 彩音が笑う。口をあけた瞬間、噛んでいる途中のおかずがちらりと見えた。美香はわざとらしく眉をひそめたが、彩音は気づかない。せっかくの美少女が台無しだ。耳の上で小さなお団子になるように結んだ彩音の髪が、尻尾のようにぴょんと揺れる。
 昼休み中の教室は人影もまばらで、ほとんどのクラスメイトが学食にいる。美香はいつもどおり彩音と、彼女の親友の由乃と、自分の親友の礼紗に声をかけた。昼のお弁当は大抵、この四人で食べる。机を四つ寄せ集めてくっつけ、色とりどりのお弁当をひろげる。
 入学式から二週間。誰もがようやく他人行儀な態度を崩しつつある中、美香、彩音、由乃、礼紗のグループが定着していた。
「うちやったら絶対、ナゴヤドームの爆破やな」彩音が言った。
「は? 何それ」礼紗が控えめに苦笑する。「国会議事堂とかじゃなくて?」
「阪神な、ナゴヤドームでの中日戦の勝率がアホみたいに低いねん。だいたい負けとる。やから、ナゴヤドームの呪いを解くために、いっぺん爆破して再建とか」
「それって死に際じゃないと駄目なの」由乃が低い声でクールにツッコミを入れた。
「生きてる間やったら捕まるやん。こればっかしは犯罪やもんなあ」
 彩音らしい着地点。美香は、あいかわらず卑怯だな、と思った。物騒で自己中な考え。彩音以外に誰も野球ファンがいないので、礼紗も反応に困って苦笑いをするのみだ。
 美香は短くしたばかりの髪を耳にかけた。焦げ目のない卵焼きを口に運ぶ。口元に手を当てながら「私だったら」と言った。
「東北の被災地の完全復興とか、そういうのをお願いするなあ」
 窓のほうを見て、切なげな目を演出して言う。すかさず礼紗が「すごい、超いい子」と感嘆の声をあげた。当たり前じゃん、時期的にそれしかないでしょ、と思う。どうせ死ぬのなら自分のためより、誰か別の人のために使ったほうがいいはず、とも。
 が、彩音と由乃のコメントは、期待していたものとは少し違った。
「めっちゃ聖人やん。ええ子すぎてびびるわ。うち、顔も知らん他人のためにそこまでせんし。死ぬ寸前の願いとか、絶対みんな恨み辛み晴らすもんばっかやろ」
「みんなではないだろうけど、いっこだけ確実に叶うとしたら、そういう、自力じゃ不可能そうなものを選ぶよね。復興とかもさ」
 由乃の言葉がいちいち尖っている。美香の夢見がちな例え話を根底から壊すような現実味たっぷりの理屈に、見透かされた気がした。由乃は表情の変化に乏しく、情動の幅も狭い。いつもぼんやりしている。感情が読めない。が、言葉少なに的確な指摘をする。
 褒めた矢先に彩音が「でもなあ」と言う。
「さすがにそれ偽善者っぽくない? 作った感があるやん。嘘くさいで、なんか」
 美香の喉から頬にかけて、熱い何かがぞわっと皮膚を伝ってきた。礼紗も一瞬固まり、「そうかなあ、美香、いい子じゃん」とフォローを入れたが、苦しい。
 ちょいと厠へ、と言って彩音が立ちあがった。由乃も彼女について教室を出ていった。廊下から楽しげでかん高い笑い声が聞こえてくる。ふたりの弁当箱はすでに空になっていたが、美香と礼紗はまだ食事の途中だった。
「なんか、うけたね。爆破って」
 礼紗がちいさな声で言った。まあね、と美香が曖昧にぼやく。手鏡を出してアイメイクのチェックをする六条礼紗は、美人に見えるが武装の下はごく平凡だ。つけまつ毛は標準装備、ファンデーションを塗った肌は綺麗すぎる。おしゃれなモデルを真似したい気持ちが透けていて、はじめは見ているこっちが恥ずかしかった。だが、礼紗は美香をよく褒めるので、適度に優越感を感じていられる。やがて礼紗の派手な見た目にも慣れ、彼女と同じグループになった。
 いつだったか、美香がテレビで「宝くじが当たったら何に使いますか?」という街角インタビューを見たとき、最も多い回答が「被災地に寄付する」だった。だろうね、と思った。被災地への寄付ブームは去りつつあるが、今もなお賛辞される。だから彩音の思いつきの例え話で、ふと自分も使ってみたのだが。
「物騒なのは関西ならではかもね。阪神ファンって、汚い川に飛び込んだり、選手をひどく罵ったりするらしいじゃない」
 美香が彩音を直接攻撃しないように言うと、礼紗は笑いをこらえつつ言った。
「ナゴヤドームをぶっ壊して世間に与える迷惑とか、ぜんっぜん考えてねえし。あいかわらず彩音って毒舌だよね。さっきの『偽善者』って、ひどくない?」
「礼紗、悪口は言わないほうがいいよ」ひどいと思ったのは事実だが。
「悪口じゃねえよ、純然たる事実。あたし、さっきちょっとキレそうになったし。美香も腹立たなかった? よく平然としてられたよね、言われたとき」
「あの言いかたはキツいかも知れないけど、偽善っぽいのは事実だよ。被災地の復興を願うなんて、確かに現実っぽくない。気どってるって言われても反論できないよ」
「それでも美香は本気でそう願いたいと思ったんだよね。なのに、偽善者呼ばわりって失礼じゃん。思ってても言うことじゃないよ」
 だよね、人の神経逆撫でしてるよね。美香はそう思いつつも、「でもアメリカとかはそんな感じで、自由な雰囲気だし」と言った。
「ここは日本。美香は優しいから言い返せないの分かるけど、たまにはビシッと言わないと駄目だよ。ああいう子、いつか人の恨み買って夜道でグサッとやられるんだから」
「やめてよ、縁起でもない」
「事実だから言ってるんだし。彩音も、あの物言いさえなくなれば面白いやつなのにね。美香がニコニコしてるから、人にストレス蓄積させてるってことに気づいてないんだよ」
「蓄積なんて。私はしてないよ」嘘だけど。「でも、ナゴヤドームの爆破の話は、ちょっと悲しいね。そんなことしても、阪神ファンは喜ばないよ」
 はっきりと馬鹿にせず、「悲しいね」と憂いを含んだ言葉を選ぶ。彩音の話はあくまでジョークだと分かってはいるが、言及せずにはいられない。
 美香は東京生まれの東京育ちだ。声も態度も大きく、不遜で、些細なことで怒り、暴言をためらいなく吐き散らすのが、美香の思う関西人のイメージだった。阪神が負けた日、泥酔したファンが一般人に暴力をふるったなどというニュースを見て、関西人は野蛮だ、という印象が擦りこまれていった。もちろん全員がそうだとは思っていないが、先入観が強く、できれば関わりたくないと思う。
 今年から高等部にあがり、同じクラスに関西人がいると知ったとき、戦慄したのも確かだ。実際、仲良くなってしまえば「思ったより普通だ」と分かったものの、ときたま、やっぱり関西人だな、と思わせられる。ストレスは、雪のように、踏まれることによって固められ、次の蓄積を容易にさせる。
「美香はやっぱり、模範的だと思う」
 礼紗が、空の弁当箱を包みながら言う。「願いがいっこ叶うってときに『被災地の復興』なんて言葉、つるっと出ないし。自分が得する路線でしか考えられねえわ、普通」
「ううん、それだって当たり前じゃない。自分の幸せを追求したって間違いじゃないと思うよ。自分を幸せにできない人は、他人も幸せにできないんだから。私も、自分の幸せを願ったその延長上で、誰かが一緒に幸せになれるなら、それは素敵なことだと思うしね」
 目を細めて笑うと、礼紗が「うわあいいこと言った」と苦笑する。美香は、だってみんなそう言うし、と心の中でつぶやいた。
 弁当箱をクロスで包み、手を合わせて「ごちそうさまでした」と言う。そして先刻の、被災地の復興の話はちょうどブログのネタになると思った。次の授業中にでも書こう、と思いながら弁当箱を鞄にしまう。彩音はふざけてばかりのお調子者とはいえ、根はいい子なのだと分かっている。ナゴヤドームを爆破したがるのも、美香の話に「めっちゃ聖人」とかえしたのも、あの素直さゆえなのだ。確かに恨みも買うだろうが、建前でものを言わない人間は希少で、生きづらい。
 礼紗の「頭いいのに、彩音ってなんであんななんだろな」という、愚痴じみたぼやきを笑顔で聴きながら、美香はさりげなく腕時計を確認した。女子のトイレが長いのはよくあることだが、輪をかけて長い気がする。

 危ない危ない。あのままにしとったら、美香の聖女アピール炸裂しとるとこやったわ。
 無意識にため息が漏れた。トイレの手洗い場で蛇口を勢いよくひねり、まだ冷たい水を両手に浴びせる。ハンカチで手を拭き、髪のヘアピンを差しなおして、右耳の上で作ったちいさいシニヨンを整える。個室から出てきた由乃が、彩音の横で手を洗いながら「被災地の復興って」と苦笑する。地味な眼鏡の奥の目が細められる。由乃が笑うのは、本当におかしいことがあったときだけだ。
「びっくりしたね。何言い出すのかと思った。あれ絶対計算だよね。礼紗はいい子って褒めてたけどさ、あんなの素で言える聖人君子、リアルにいないって」
「まー美香の場合、ある意味素なんちゃう。聖人じみた言葉のストック用意しとって、それをいつでも引き出すってのが。ブリッ子キャラのお約束をナチュラルにいく系」
「ボロカスに言ってるけど、彩音も褒めてたじゃん」
「うちみたいに、普通に自分の恨み辛みを乗っけて笑いのネタにするんちゃうくて、計算でもああいうこと口にできるってのは、迷惑ではないやろ。嘘も方便やって」
 とは思いつつも、なんかおかしなってきたな、というのが本音だった。
 美香とは入学式当日に初めて言葉を交わした。今年の高等部入学試験のトップ合格者は二名で、彩音と美香の珍しい同率一位だった。ふたりは新入生代表として一緒に入学式の壇上へあがった。そのとき互いに「おめでとう」と言いあったのが最初だ。同じ学校の中等部にいた美香は、別の高校を一度受験したために内部進学権を失い、外部生と同様の試験を受けたらしい。厳しい受験を乗りこえた者同士、すぐに仲良くなった。ギャルの礼紗が加わり、地味系の由乃を呼び、あっという間にグループができた。美香は旧家生まれの本物のお嬢様らしく、知的な雰囲気をまとう彼女を素直に褒めちぎってはいたが。
 なんかちゃう気がするんよねえ。彩音は鏡を覗きこみ、首をかしげた。
 どこがどうとはまだ判然としない。だが旧家の令嬢という華やかな肩書きから連想できるイメージとは、違う。
「美香はちょっと自己主張しすぎるんだよ。自分いい子アピールしてるから、気品も何もないんだって。上品な子ぶってるけど」
 由乃の文句が的を射ているので、彩音はつい笑ってしまった。
「まあ、直接迷惑かぶっとるわけちゃうけど、イラッとすんのは事実やんな」
「でしょ? 最初は丁寧で優しそうな子だなって思ったけど、今じゃ盛大に猫かぶってるみたいにしか見えないんだよね。あれ自分で分かってるのかな」
 どうやろな、自己顕示欲が強いって、自信がないってことちゃうんかな。彩音は首をかしげて笑った。由乃はそれ以上話をつづけなかった。
 ふたりで廊下を歩いていると、反対側からこちらへ歩いてきた風宮修一と目が合った。彼は全女子生徒を自分のファンクラブ会員にさせた無邪気な笑顔を見せる。
「あれ、村井と支倉、さっき教室で見たのに。飯は?」
「食ったっちゅーねん。あと、ええ加減名字呼びはやめい。仲ええんやから」
「悪い悪い。慣れてねえんだわ、特に『さおん』なんて珍しいから」
 二枚目俳優のような風宮の笑顔。「学園の王子様」を素でゆくルックスと明るい性格、抜群の成績。そして風宮という少女漫画じみた名字が彩音の笑いのツボにはまり、「風早くーん」とボケては「黒髪のピュアっ子連れてこいよ」とツッコミを入れられる。特に恋愛感情も何もなく、親友としてここまで連れ立ってきた。しかし改めて、イケメンだと思う。高校一年生とは思えない大人びた顔立ちと高い背が、傍から見てもかっこいい。
「ちょうどいいや。忘れるとこだった、村井。じゃなくて彩音」
「なんですか風早くん」
「その呼び方やめい。お前、早く漫画かえせよ。二十六巻から三十巻」
「うっわごめん! ちょお待っとって」
 彩音は手をばたばたと振り、あわてて教室に入った。自分の鞄の中から、海賊をテーマにした少年漫画の入った紙袋を取り出す。窓際の席では、美香と礼紗がまだ座っていた。彩音に気づいたふたりが顔をあげる。「ごめん、もうちょっと待っとって」と言うと、美香が「ごゆっくり」と笑ってこたえる。どこか突き放されたような感じが、した。
 外で待っていた風宮に「ほい」と紙袋を突きかえす。
「おせえ。俺に言われたら二秒で支度しな」
「やかましいわ、あと三十八秒よこせや。ほら、今週のダッシュも持ってきたったから」
 彩音は風宮の頭を、すっかり読みこんだ「週刊少年ダッシュ」で叩いた。彩音と風宮は普段、頻繁に漫画や雑誌の貸し借りをする漫画好き同士だ。
「ペナルティと言っては弱いけど、こないだ言ってた漫画の全巻貸して」
「アホか全巻て! 四十巻ぐらいあるで! 重いわ! 家まで取りに来いや!」
 風宮の足の甲を踏む彩音。仕返しにと風宮が彼女の頭を両手で力いっぱい挟んで笑う。「俺に勝とうなんて三百億光年早い」「それ距離や」風宮の頬をつねると顔面を手で押さえつけられる。彩音は手探りで風宮の脇腹をくすぐり、ひるんだ隙に彼の右足の爪先を蹴り飛ばす。滑った風宮が床にみっともなく倒れるのを見て、傍観していた周囲の男子生徒が笑い声をあげる。「いってえな、てめえ、くっそお」とうめいて痛がる風宮の後頭部を押さえつけて「着払い決定」と言って笑う彩音。頬を手で拭うと、落ちた化粧が黒く滲んだ。ふたりの取っ組み合いなどすっかり見慣れた一年生たちは、笑って拍手を送る。
「修一、また村井さんに喧嘩売ってる!」
 野太い歓声を鈴の音のような声が一閃する。廊下の向こうから駆けてきたかわいらしい女子生徒が、手に持った鞄を放り出し、美しいダークブラウンの髪をふわりと踊らせて風宮の隣にしゃがむ。「草食系は村井さんに勝てないって」「ちげえよ、彩音が先に」女子生徒は風宮の腕を支え、呆れたように笑う。彩音も顔と名前は知っている、二組の姫野夏樹だ。風宮の幼なじみで、つい最近までお隣さんでもあった。トップアイドルかと見紛う小柄で細身の美少女で、濃いまつ毛に彩られた大きな目と、雪のように透明感のある白い肌、何よりシルクのような髪が人目をひく。彩音も風宮つながりで何度か話したことがあるが、未だに彼女を見るとドギマギしてしまう。
 夏樹は風宮を立たせたあと、彩音のほうを見て困ったように笑い、「ごめんね、怪我してない?」と言った。小動物のような愛くるしい表情が、同じ女ながら胸にくる。彩音は全力で頭を横に振った。夏樹は他の女子に呼ばれ、「じゃあまたね」と言って手を振った。走り去る彼女のちいさな背中をじっと見つめる。まだ短い会話しか交わしたことがないが、いつかはきちんとメアドを交換して、友達になりたい。いつもそう思っているが、違うクラスのためなかなかチャンスがない。
「あの、彩音と由乃さ」風宮が負けた屈辱をごまかすように言った。「次の五日ってあいてるっけ? 親父が会社で映画のタダ券もらってきたらしいんだけど、こういうCGまみれのアメリカ映画には興味ねえってさ」
 風宮はポケットから一枚のチケットを取り出した。連休に封切りされる、VFXを多用した宇宙人襲来系SFパニック映画「ギャラクシー・バトル」だ。日本人俳優もひとり出演している。チケットの写真を見て、彩音の目がぱっと華やいだ。
「それ、ロバート・ジャクソン監督やん! めっちゃ行きたい行きたい連れてけ」
「よかった、彩音は絶対行きたがると思った。俺の連れ、誰もあいてないみたいで」
 彩音は歓声をあげたが、隣で聞いていた由乃は悔しそうに首を振った。
「ごめん、私は無理だ。休み明けに塾でテストあるし、勉強したい」
「あちゃー、タイミング最悪やん。塾も空気読まんかね」
「無茶言うな」由乃は控えめに笑った。「いいよ、行ってきなって。感想聞かせてね」
 彩音は仰々しく敬礼し、「由乃のぶんまではっちゃけて来ますであります」と言った。
 当日の待ちあわせを簡単に取りつけ、風宮は「金曜にまたメールする」と言って階段を駆け降りていった。これからグラウンドでサッカーでもするのだろう。廊下にいた女子たちが風宮のうしろ姿を見て、「超かっこいい」「マジかわいい」と言ってはしゃぐ。その無自覚なモテっぷりに、ため息が漏れる。
 三組の教室に戻ると、美香と礼紗が「おっかえりー」と言った。
「風宮と話してたの?」美香がなんでもないといったふうな顔をして言った。
「あれ、ばれとんの」
「声聞こえてきたもん。映画行くって?」
「タダ券もらってん。千円浮いたわ」
「気をつけないと」美香が苦笑した。「風宮ファンの女の子から、冷たい視線を山ほど浴びることになるよ。前後左右ガードしないと、頭をぶつけるどころじゃないから」
 彼女の冗談と思えない話と少しの皮肉に、彩音は「うわーやばいわー」と言って笑った。内心、笑い飛ばせない。女の残酷さなど、嫌と言うほど理解しているつもりだ。
 だけど、かといって風宮と縁を切るわけにはいかない。漫画の貸し借りは絶えないし、間違いなく彩音と風宮は親友同士だった。他の女子に関係を問われても、ふたりで「こいつと? ないない」とハモって鼻で笑う。恋人に発展しないのは、互いの本性を知りすぎてしまったからだろう。
 が、風宮は自分がモテることを自覚したうえで、彩音や由乃のような特定の女子と仲良くしているのか。彩音がいくら「風宮は友達」と公言しても、世の風宮ファンたちはわざわざ自分の都合の悪いように解釈し、ふたりが勝手にそういう仲になっているのだと決めつけて牽制する。彼と仲良くなってすぐの頃は「風宮に近づかないで」といったクレームが何度もあった。根拠のない噂は、本格的には困らないとはいえ迷惑だ。なら姫野夏樹はどうなのかとたずねれば、「あの子は公認の幼なじみだし」「風宮が、あいつは恋愛対象にならないって言ってた」というこたえがかえってきた。自分も公認の「親友、かつ喧嘩相手」にならないだろうか。
 ま、イケメンの功罪か。彩音はそうつぶやいて自嘲気味に笑った。
 色恋沙汰は人を狂気に陥れる。その陳腐な言葉は、広く出回ることで陳腐になったのだ。

 中学のときと変わらない手順で委員会を決めてゆく五限目のホームルーム。学級委員長を誰にするかという場面で、当然のように学年上位の彩音や風宮などの面々が推薦された。だが全員が拒否し、美香も断った。
 自分の席から勢いよく立ちあがり「無理っすー駄目っすー色んな意味で頭悪いんでリーダーなんぞ勤まりません!」と言ってみんなの爆笑を誘った彩音は、結局保健委員におさまった。美香は斜め後ろの席から、うるさいなあ、もっと落ちつけばいいのに、と心の中で文句を言った。昼休みのときのように、廊下で彩音と男子が喧嘩していることがある。先生に毎日注意されるほど落ちつきがないが、常に輪の中心にいて人が絶えない。
 一緒にいれば毎日楽しいに違いない。そう思って自分のグループに由乃ごと引き入れたが、このやかましさは想像以上だった。
「じゃあ、次は図書委員」
 先生は決定した美化委員の項目にチョークでマルをつけ、そう言った。美香は少しの間をおいて手をあげた。
「私がやります」
「お、桜川さん、そういえば中等部でも図書委員だったもんね。慣れてるのがいいかな」
 どこかから「そういえば桜川ってよく本読んでるよな」という男子の声が聞こえた。美香は教室で暇ができると必ず、誰も知らなさそうな難しい本を読んでいる。自分の席で文庫本をひらいていると、上品な文学少女のように見えるからだ。
 黒板の図書委員の項目に桜川美香の名前が書かれる。先生は「あとひとり、誰かやらない?」と言った。しかし貸出業務のために休み時間と放課後が潰れる図書委員は、美化委員と並んで人気がない。文句混じりのひそひそ話が飛び交う。
「なんか埒あかないから、俺やるわ」
 手をあげたのは風宮だった。美香は驚いて後ろをふりかえった。彼はしれっとした顔で「ホームルーム早く終わらせて自由時間にしたい」と言う。
「嘘だろ、活字とか二行で寝るんじゃねえの」男子のひとりが茶化した。「ハリポタは読めたぞ」とぶすくれる風宮。彼が無類の漫画好きであることは周知の事実だ。
 ふと美香は、だからこそ彼が彩音と親友だということを思い出す。昼休み、廊下で立ち話をする彩音と風宮の声が、少しだけ聞こえていた。美香は気が気でなかった。彩音は本当に、ただの友達として風宮と接しているのか? 美香が語れそうな少女漫画の類を、ふたりはまったく読まない。何十巻もある少年漫画や暴力的な青年漫画の魅力が、美香には分からない。何度も同じクラスになりながら、趣味だけは風宮と一切共有できていない。
 後ろの席の風宮をからかっている彩音と、一瞬目があった。彼女は満面の笑みを浮かべて美香に手を振る。彩音は裏表のない子だ。誰に対してもあんなに無邪気な笑顔をふりまける――だからこそ、読めない。
 残り時間は自習になり、彩音に「図書委員デビューおめでとう! あ、二回目やったか、ごめんごめん」と言われてようやく現実に戻ってきた。新保健委員は呑気だ。
 そのとき、ふと思った。彩音にもし恋愛感情があれば、風宮と同じ委員会に入ろうとするのではないかと。だが彩音はしなかった。やっぱり、単なる男女の友情なのかな。ほっとした瞬間に力が抜け、彩音に笑顔で「同じ委員だと楽だからね」とこたえた。
 元々漫画オタクで、映画の趣味も同じで、何の障害もなくいきなり風宮の懐に入れた彩音が、いささか疎ましい。美香も「自分を無理やり変えてまで相手に合わせる必要はない、そんな恋は本物じゃない」と、どこかで聞きかじった言葉を自分に言い聞かせて、納得するようにしていた。変えるまいと無理やり律することは、本物だった。実際、今のままでも美香は風宮とよく話す仲だし、彩音と友情の度合いを比べる必要は、ない。
 放課後、新しい委員に決まった生徒は、残って説明会に出席することになった。図書委員会の会議はもちろん、別館にある図書室で行われる。高等部一年の席には、すでに風宮が座っていた。こっちに手を振って、隣に座るようジェスチャーする。
「ごめんね、ちょっと遅れちゃったかも」
「いや、大丈夫だよ。先生、まだ来てないし」
 風宮は優しい声でそう言った。すでに先輩によって配られていたプリントを、一枚「はい、美香」と手渡される。私のぶんもとっておいてくれたのか、と考えると、胸の真ん中あたりがあたたかくなる。
 どうして、風宮は女の子みんなと仲良しなんだろう。私に接してくれるように、彩音にだって優しいし。いや、むしろ彩音に対しては遠慮がないぶん、ものすごく素だ。無理に作ったかっこいい自分を演じてない。
 ため息が漏れそうになって、それは死ぬ気で止めた。吐きだしてしまったら、形にしてしまったら、風宮を追いつづけることはできないと思った。
 プリントをながめながら、昼休みに盗み聞きした風宮と彩音の会話を思い出した。映画のタダ券。CGまみれのうるさいハリウッド映画。恋愛ものが好きだと公表している美香は、確かに誘われないはずだ。
 だけど。シャーペンを動かしていた手が止まる。選ばれなかったのは自分だから、彩音を妬ましく思うのは恥ずかしいことだ。それでも、と思うとペンを持つ手に力が入る。
「あ、修一だ。何何、図書委員になったの?」
 背後から声が聴こえた。姫野夏樹が、机の上に乗りだして風宮の背中をシャーペンの尻でつついている。風宮が「お前もか、美術部もあるのに?」と言うと、彼女は兎のように愛らしく、控えめに笑う。その顔を見るだけで腹が立ってきた。美香がふりかえると、こちらに気づいた夏樹と目があった。何かを言わんとしてあけられた彼女の口が、ゆっくりと閉じられる。先生が図書室に入ってくると、夏樹は何事もなかったように「ほら修一、前向いて」と言って椅子に座りなおした。
 姫野夏樹。その名前を思い出しても無意識に歯を食いしばってしまう。いくら周りの人間がかわいいかわいいと褒めていても、美香にとっては憎悪の対象だ。正直、なぜ同じ高等部にいるのか理解できない。他のみんなと同じように転校して、目の前から消えて欲しい。うざい。会いたくない。その髪めがけて消しゴムのカスを投げつけたい。
 あんたのせいで、私は一年間いじめられたのに――
 夏樹がいつもくっついているから、風宮に近づきづらくなる。美香が風宮に話しかけようとすると、夏樹は当て付けのように「あとでね」と言って去る。彼女と仲良くしておけばもっと日々が楽になると思うのだが、和解しようとは絶対に思わない。友達は多いから、夏樹ひとりに避けられても別に困らない。こっちだってずっと夏樹を避けてきた。もう二度と関わるまいと思っていた。
 なのに、同じ委員会だなんて。これから会議のたびに、あるいは図書室での業務のたびに、顔を合わせないといけなくなるのか。この女と。知らず、鼻から息を強く吐いた。プリントに当てたシャーペンの先で、細い芯がぱつっ、と音を立てて折れた。
 会議のあと、風宮は「悪い、ちょっと急いでるから」と言って駆け足に図書室を出ていった。美香は彼を笑顔で見送ったあと、夏樹を見た。机の上で、プリントをクリアファイルにきちんと入れている。彼女の前に立つと、夏樹がこちらに気づいて顔をあげた。
「久々だね、夏樹」
 夏樹の口元がきゅっと引き結ばれ、目が瞬きを忘れてまっすぐに美香を睨む。強気な態度に見えて、しかしただ恐怖に怯えて吠える小型犬を思い出した。
「まだ懲りてないの、風宮に友達宣言されたのに。あなた、絶対下心あるでしょ。幼なじみの看板ひっさげて予防線張って、あわよくばを狙うなんてみっともない」
「何が」夏樹の長いまつ毛が小刻みに震える。「あわよくば、なの」
「その態度は天然なのかな。無自覚なことを免罪符にできるんだから、本当、姑息」
 いつもどおりの声音で、しかし少しちいさな声で言うと、夏樹の白目の淵が段々と赤くなっていった。美香は踵をかえして図書室から出ていき、プリントの束を胸元でかかえた。知らず早足になり、呼吸を忘れる。自分の足音が、耳を蹂躙する。


 朝からケータイをほったらかしにしたせいで、メールが九件も来ていた。「今日暇?」などという遊びの誘いに、彩音はかたっぱしから断りの返事を入れる。
 顔をあげると、彩音の目の前を見知らぬ他人がゆきかうばかりの雑踏。露骨に肩を落とした。ゴールデンウィークやろ暇やろ起きろよ。はよ来いや風早くんめ。風宮遅い。風宮遅い。大事なことやから二度言いました! 
 土曜の駅前は混雑している。人が多い。よくぶつからないものだと感心する。ブランド服が飾られているショーウィンドウに背をあずけ、「先入ったろ」とつぶやいた矢先。
「ごめんごめんごめんマジごめん、彩音さますんませんでした」
 通りの向こうから風宮が走ってきた。かなりの全力疾走をしてきたらしく、息はあがり、顔は真っ赤になっている。彩音は容赦なく、彼の頭を一発叩いた。
「急行逃してさ、普通電車待ってるあいだにトイレ行ったらそれも逃した」「あほやん」「知ってる」「フォローの余地なしや」「弁解してくれねえの」「するかボケ」
 ふたりでどつき漫才をしながら映画館に入った。いつもと変わらずふざけあえるし、あまり変わらない休日。何かあったら、の何かすらない。ふたり並んで座っていても、対女子と気分が同じだ。一年間、この王子様に一ミリもときめかなかった自分はどうなっているんだろう。我ながら、変だ。
「ギャラクシー・バトル」を見たあとファミレスに入り、ハンバーグとドリアを食べながら感想を交わしていた。風宮は根っからのインドア気質なので、映画にもあかるい。
 彩音が大量の漫画を持っていても、深夜アニメを見ていても、ゲームを山ほどクリアしていても、同じ漫画好きの風宮はまったく気にしない。ふたりは自分が何かに夢中になってしまうことの楽しさと、それがもたらす周囲からの冷たい視線の両方を知っている。キモい、必死すぎ、ついていけない、などと言われるのは当然の結果だ。
 だがふたりの分かりやすいルックスが、そんな中傷から守ってくれた。「変わった趣味を持ってて博識」と言われる。正直、助かっていた。友達も関西にいたときよりはるかに増えた。男子にもそこそこモテる。どこを歩いていても友達に声をかけられる。授業中はいつも手紙が回ってくるし、メールもひっきりなし。土日の予定は友達とのショッピング、お泊まり、外食、カフェ。人気者だと自分で思っているし、実際そうだった。周囲にも「彩音のケータイの登録数がすごすぎる」と言われる。それだけ大勢の友達に囲まれてはいるが、やはり何でも相談できる風宮と、オタク仲間の由乃、このふたりだけは絶対に親友だ。
 もう中学校までの自分をすっかり捨ててやる、このまま青春を謳歌する。彩音はドリンクバーで風宮のぶんも飲み物を注ぎながら、真剣にそう思った。
「そいや、彩音って美香となんかあったの」
 テーブルに戻るなり風宮に言われた。
「どしたん、その雲行き怪しい物言い」
「そんな気にすることでもないんだろうけどさ、昨日、美香が他のクラスの女子と話してて、ちょろっと『彩音に言われたのがムカつく』って言ってたのが聞こえたからさ。彩音がまた毒舌振るったのかと」
「毒舌言うな」自覚はしているが。
「まあ険悪な空気ってわけじゃなかったし、ほっといていいんだろうけどさ。でも、彩音ってあんまり頭で考えないで、思ったことぽろっと口に出すだろ。見た感じ、美香も気にしてなさそうだけどさ、気をつけろよ。美香ってちょっとプライド高い子だし」
 ちょっとどころか、ねえ。彩音はそっと心の中でつぶやいた。
「プライドっていうか、なんなんやろね、あの雰囲気。高飛車? は言いすぎか」
「うーん、俺も初等部と中等部で何回か同クラだったけど、雰囲気ってのは分かる気がする。漂わせてるんだよな、自慢っぽいところ。本人はほとんど自覚できてない無意識に限って、第三者には何気に感じ取れちゃうんだよな。分からなくもない」
「言葉の端々がいちいち自慢っぽいというか、上から目線なんよ。よくさ、教室で意味分からん外国の本とか読んどんねんけど、文学少女アピール? っていう。正味ウザい」
「やっぱり彩音って毒舌家だな」風宮が笑う。「でも、分かる。なんとなく」
「やろ? 普段から自分のこと、そう思ってんねやろな。でないとそんなぽろっぽろ自慢口調にならんし、自分のスペック晒して相手を下に見るような言いかたせんやろ」
 そんな彼女が風宮に片思いをしている、ということに、彩音は薄々気づいている。
 男子と話すときだけ声がワントーンあがる女子、というのは嫌われる対象だ。だから、美香は風宮と話すとき、意識してそれを抑えているのが分かる。他の女子に接するときと変わらない態度で、と言い聞かせているのが分かった。よく見せようと努力し、目線が風宮を追っている。それは、恋だ。美香は気づいているのだろうか。そして、風宮も。
「俺は気にしないけど、いつか他の女子の反感買わないかだけが心配」
「大丈夫やって。美香、基本的に人望はあるし頭もええ。反感買ったとしても、あの子なら自分で論破するやろ」
 なんか皮肉っぽくなってしもた、と目を細めた。そして、どこまで持つかな、と思う。劣等感を感じた女子の牙は鋭利になる。自分より優れた部分を持つ他人が、それをひけらかすか謙遜するかによって攻撃力は違うが。美香は自分の家柄のよさや知識を、決してあからさまには口にしないがそれとなく表に出して見せる。褒められれば必ず謙遜するから、露骨には批判できない。しかし、自分の劣っている部分も明確になっていく思春期の女子たちが、美香との差をはっきり自覚したとき、それがどんな形で出てくるのか。
 彩音はハンバーグを大きめに切った。ひとくちでそれを食べる。
 体裁がいい子など腐るほどいるのだ。友情の爪跡は、少女の柔肌を醜く鬱血させる。
 その日の午後はショッピングをして過ごし、陽が落ちる寸前に駅に戻ってきた。本当は夕食も一緒に食べたかったが、風宮は夜に用事があるらしい。完全にデートの様式だったが、互いに色気のまったくない普段着で雰囲気などあったものではない。
 それぞれ電車のホームが違うので改札口で別れた。上り線のホームに突っ立ち、彩音はケータイをひらいた。日中に届いたメールにすべて返信し、電車に乗ってからはツイッターとミクシィのコメントにもレスをした。
 毎日見ている大型掲示板のスレッドに『実名と学校名晒してる馬鹿JCがいる』という書き込みを見つけ、今どきそんなアホおるんや、と思った。ネット上での個人情報の扱いについては、授業で習う以前に常識レベルまで膾炙しているのに。彩音は試しに、友達の名前でいくつか検索してみた。だが、なかなか出てこない。当然だろう。ネット上に平気で自分のプリクラ画像を載せる小中学生とは経験値が違う。そのくせつい、たまに自分の本名で検索してしまうのは、自覚しているゆえのことかも知れない。あるいは――また名前が出てくることを恐れるからこそ。
 数分後、ついにヒットした。検索ワードは風宮修一だ。だが表示されているサイトに書かれているのは「風早秀一」だった。似たような名前の別人かな、と思いつつ、単純な好奇心に駆られてそのサイトをひらく。
 瞬間、彩音の背筋が凍りついた。
『今日は秀一くんと映画に行ってきました! なんと、なんと、初めての映画デートでーす! あの「ギャラクシー・バトル」です(*・ω・*) さすがロバート・ジャクソン監督! 「レッド・ブラスター」でもメガホンをとっただけのことはある! 大迫力のCGと音響がかっこよかった! 秀一くんとも一緒にごはんを食べに行ったり買いものをしたりして、もっとお近づきになれたかも?? 秀一くんって、オタク!? ってぐらい映画に詳しいから、さすがのみぃなもびっくり (゚Д゚)! でも素敵な趣味だと思う* まだ恋人同士じゃないけど、こんな時間をもっと彼と過ごしていたいなあ……☆』

「まったくの別人っていう可能性は低いか」
 月曜日の始業前、生徒でごったがえす廊下の端、女子トイレの前で、彩音は由乃にケータイでブログを見せた。彩音が風宮と過ごしたスケジュールと、ほぼ一致している記事。事実と食い違うところもあったが、偶然とは思えない。土曜日のことを知っている誰かが書いたということは、すぐに分かった。大学附属高校の一年生で、同じ日に「風早秀一」に近い名前の男子が、クラスの女子と「ギャラクシー・バトル」を見に行った、という話が国内にもうひとつあれば奇跡だ。もちろん、彩音はこんなブログを書いていない。
 動揺を止めたくて、彩音は由乃に相談を持ちかけた。由乃はいつもノートパソコンかタブレットを持ち歩いている、真正のネット中毒者だ。彩音が話しかけるまで誰も友達がいなかった。孤独を好む根暗気質だが、この手の話を持ちかければ目つきが鋭くなる。
「この『みぃな』ってさ」
 由乃が画面から目を離さないまま言った。「間違いなくこの学校の誰かだよね。大学附属の名門校ってのは確かだし、そこらへんにいないでしょ、『風早秀一くん』なんて」
「明らかにうちの風宮修一やんね、これ。ギャラクシー・バトルも日付も同じなんよ」
「風宮ファンが、彩音への妬みから妄想日記に走ったってのが妥当だよね。ネット慣れしてない子だと思うよ。名前の漢字変えたら大丈夫、って思ってそうだし」
「やっぱり、廊下とかで風宮ファンに聞かれたんか、映画の話」彩音が怒りと困惑をあらわにして言う。「妬まれたんかなあ、うち。風宮は友達やって何億回も言うたんに」
「ファンにとってはそうじゃないって、前も言ったじゃん」
 でもさあ、と天井を仰いで叫ぶ彩音。もしかしたら、一緒に映画館にいるところを見られたのかも知れない。そして、自称風宮の彼女候補のファンたちが、追体験でもしたくてブログに書いたのかも知れない。彩音への当て付けでなければ、ただの自己満足だ。だが、不完全燃焼の煙が心臓を中心に全身へ蔓延し、無意識に爪を噛む。
「どうしたの、村井さん」
 鈴が転がるような声に、彩音は顔をおろした。自分より二十センチぶん背の低い美少女が、彩音を見あげていた。夏樹だ。胸の内でくすぶっていた火種が、しゅっと窄まる。
「ああ、ごめんな、姫野さん。トイレの入り口、塞いどったな」
「ううん、大丈夫」花が咲くように笑う夏樹。「それより、村井さんも支倉さんも厳しい顔して、何かあったの」
「やー、なんかな、おもろいブログ見つけて」言い終わる前に由乃に顔面をどつかれた。その際に彼女の手からケータイがこぼれ落ちる。由乃が「まあ、ちょっと色々あったんだよ」と取りつくろった。
 夏樹は彩音のケータイを拾い、はい、と手渡した。彩音は痛む鼻の頭を押さえて、ケータイを受けとる。
「分かった。じゃあ、これ以上は聞かない」
「ごめんね」由乃が謝った。
 夏樹がトイレの個室に入ると同時に、彩音が声をひそめて「あかんの」と言う。
「他人を巻き込みたくないでしょ、この程度のことに。まして幼馴染のこととなれば、姫野さんが動揺するよ。私がどうにかする」
「さすが由乃、頼れるねえ」彩音はまだ鼻の頭をさすっていた。「犯人見つけたら生死を問わず連れてきたって。うちがしばく」
 由乃は苦笑して、ブログのURLを自分のケータイに転送した。読みとり完了を示すバイブ音に驚いて、彩音は肩を震わせた。

   * * *

「あ、この人、テレビで見たことある!」
 礼紗が「おはよう」の言葉もそこそこに、美香の机の前にしゃがんで言った。美香は手にしていた本から顔をあげ、「ああ、なんかNHKでやってたみたいだね」と笑った。涼しさが残る五月の朝、まだ半分も生徒が登校していない、落ちついた教室。
 美香が読んでいたのは、マイケル・サンデルの講義録である。まだ何かを語れるほど読みこんではいないが、難しそうな本を読んでいる、という見かけがよければいいのだ。
 やがて彩音も教室に入ってきた。
「美香に礼紗、お早いお着きやね」
「そっちこそどうしたの。いつも朝礼ギリギリじゃない」美香が皮肉交じりに言った。
「ちゃうねんちゃうねん、ぶっちゃけ昨日寝れんくてな。一時間仮眠しただけやねん」
 彩音は本当に眠そうな顔でフラフラと歩いてきた。美香の席の真横で膝をつき、机に額をつける。髪はいつもの凝ったアレンジではなく、シンプルなハーフアップだった。
「なんでまた徹夜とかって」礼紗があきれたようすで言った。
「んー、んんん」ぐったりとした彩音は、唇を動かすのがやっとだとばかりに微動だにしない。「オンラインゲームのやりすぎー。ああいうのってさ、うちが寝落ちしたらギルドのみんな全滅する! って思うんよ。深夜はヘビーユーザーが跋扈するねんて」
「ごめん、何も理解できない」礼紗が言う。
「漫画だけじゃなく、ゲームも大好きなんだね」美香が困ったように笑って言った。
 寝不足でもケアは欠かさないらしい、彩音の肌はツヤを保ち、唇には薄くクリアグロスが塗られていた。干された布団のようになっていた彩音だったが、美香が手にしている文庫本を目にし、急にぱっと顔をあげた。
「サンデル先生や! うち、この人好き!」
 有無を言わさず美香の手から本をもぎとり、パラパラとめくった。
「最初のやつだけ持ってんで。これは初めて見るわ、面白そう」
「あの、いいけど、とりあえずかえして。どこまで読んだか分からなくなる」
 美香に言われてはっと気づいたように目を丸くした彩音は、ごめんなすって、と全く悪びれたようすもなく本をかえした。栞を挟んでいなかったので、読んでいたページが分からなくなった。だが空気を壊さないために、美香はいつもどおり笑う。
「さすが学年上位の彩音だね。こういう哲学っぽい本も読んでるなんて」
 見た目に合わんってよお言われるけどな、と彩音は笑った。本当だ、と美香は思う。このお調子者で、どうしてあんなにも周りに人が集まって、学年上位の成績なんだろう。正直な物言いが信頼されるのだろうか。面白いからいいとして、遠慮を知らない態度や行動にはときどき、ふいをつかれて戸惑う。
 礼紗が好きな恋愛小説の話をしたことで、話題は恋バナに変わっていった。
「彩音って、好きな人とかいるの?」
「おらんおらん」うんざりした表情で手を振る彩音。「ただでさえ、風宮とうちが付き合っとるって散々誤解されてんねんから、恋愛とかめんどくさいわ」
「ほんとに付き合ってないの?」美香が緊張を押し殺してたずねた。
「ちゃうよ、それ全部噂やし。めっちゃ仲ええ友達やけど、それ以上はないわ」
 へえ、とかえしつつ、内心ほっとしていた。同時に美香の中で、別の方面への苛立ちも生まれる。ただの友達だったら、なおさら、風宮とあんなに親密にするのはよくないと思うんだけど? 風宮に片思いしてる子もたくさんいるんだから、人の気持ち考えてよ。
「そう言う美香はどうなん?」
 唐突に振られて、美香は「えっ」と声をあげてしまった。「好きな人おるんちゃうの」ニヤニヤと笑う彩音の態度が癪に障る。
「いないよ、私みたいな、勉強してばっかの女なんて」
「またまたあ」彩音が笑ったまま、美香の頬を指でつつく。力が入っていて痛い。
「違う違う。中等部時代に、男関連でちょっと嫌なことがあってね……」
「え、どしたん?」
「うん」美香は少し目を伏せた。「友達だと思ってた子に、好きな人を盗られたことがあったの。そこから卒業までの間、私……」
 そこで言葉を切った。美香は数秒溜めたのち、苦笑して「ごめん、ここから先はあまり話したくないんだ」と言った。彩音は返答に困って黙り、やがて「そう、そっか。ふうん」と言って苦し紛れに笑った。
 あれ? と美香は思う。辛い過去を持つ少女を演出したのに、反応が微妙だ。その後も、当たり障りのない会話が進められた。急にあいた穴を無理やり泥で埋めるように。
 やがてチャイムと共に先生が入ってきて、連絡事項を告げるのみのホームルームをひらく。一時限目の先生が来るまでの短い時間、美香はスマホを出した。自分のブログを見るためである。常連の読者がいつもコメントを残すので、まめにチェックする。昨日書いた記事にもすでに誰かが書きこみをしているはずだ。ブログをひらき、記事一覧を見ると、「コメント(65)」とあった。
 六十五? いつもより多いな。どんな反響があったのかと期待しながらコメントのページをひらくと、心臓が一瞬にして凍った。
『ちょww ロバート・ジャクソンはレッド・ブラスターの監督なんかやってねえよwww ウィキで流し読みしただけの知識ひけらかすなwwww』『映画に詳しいアタシかっこいいアピール?ww』『言ってるわりにはこいつの過去記事見てもさほど映画のこと書いてねえな』『重箱の隅だけど、日本人は軍艦一艘にいっぱい乗ってたからねw』『俳優じゃなくて監督に注目したら映画に詳しそうな雰囲気出るから即興で書きましたって感じ』『全宇宙の映画ファンに謝れw』
 コメント欄は、ブログを焼き尽くさんばかりに炎上していた。中には常連の人たちが『そんなひどいこと言わないでください!』『書き間違えただけじゃないんですか?』『みぃなさん、こんな暇人たちに構わずまた秀一くんとの進展を教えてください♪』と書いてくれているが、今もまさに罵倒のコメントが増えていて、どんどん上部へ流されている。
 みぃな、というハンドルネームで美香が運営しているブログは、三割が事実、七割が作り話だった。開設したのは中等部二年のころ。内容は風宮への片思いをつづった恋愛日記だ。風宮は「風早秀一」と名前を変えている。最初はただ出来事を書き、自分の気持ちを素直につづっていた。しかし、徐々に記事の内容に誇張が混じり、「風早秀一くん」は現実の風宮修一を乖離するようになった。ただ風宮と食堂でばったり出会っただけなのに、『お昼休みに食堂で秀一くんと合席しちゃった*』と書く。登校中に道端で風宮と偶然会おうものなら、『朝起きたら、秀一くんが家の前で待っててくれた! とっても嬉しかったぁ*』と書く。妄想じみた内容がブログにつづられてゆく。荒れている件の記事も、彩音と風宮が映画に行くという話を聞いて、もし自分だったら、と想像した末の内容だ。フィクションだと自覚はしているが、書いている間は無意識だった。心地良い疑似体験だった。
 徐々に手が震えてきた。次々に増えるコメントの数々。百を超えたそれらひとつひとつを読む。先生が授業をはじめても、まだ机の下でスマホをいじっていた。
 どうしてこんなことになるの。今まで、ファンの人たちと楽しく交流していただけなのに、荒らしなんて。しかもこんなに大勢で。喉から氷が逆流するような感覚に耐えながら、美香は冷静になろうとした。先生の声に合わせて教科書をめくり、平静を装う。
 考えるんだ、私。美香は天井を見あげた。荒らしに対して真面目にとりあおうとするべきじゃない。私は人気ブロガーなんだ、悲観的になるな、落ちつけ。何度か深呼吸をして、美香はふたたびブログをひらいた。
『主コメしろよ』『逃げたんじゃね』『まだ恋人同士じゃないけどって何様?』『恋愛体質の愛されガールww』『コメ伸びすぎだろ、みんな暇人だな』『↑みぃな本人登場w』
 駄目だ。苛ついてくる。手に力が入り、スマホケースがきしむ。どうしてこういう頭の悪い、学歴も低そうな、いかにも人を嘲り罵ることで自分の立ち位置を守っているような人に攻撃されなきゃならないのか。
 だが、苛だちはすぐに落ちついた。私は挑発にいちいちカッとなるような子供じゃない。美香はロバート・ジャクソンのことを再度検索したあと、新しい記事を投稿した。
『みなさん、私の書き間違えです! ロバート・ジャクソンは「レッド・ブラスター」の監督じゃなくて、出演者ですよね! 元から知っていたんですが「ギャラクシー・バトル」で監督として有名になった彼が印象的で、つい監督と書いてしまいました(汗)。やっぱりロバート・ジャクソンは名監督にも名俳優にもなりうる偉大な人物なんだと思います☆』
 投稿し、息をつく。少し中傷されただけでブログを消して逃げる子とは違う。私はそんな幼稚な人間じゃない。間違えたのは私だから、きちんと訂正するのが大人の対応だ。
 安心していたが、二時限目にふたたびブログをひらくと、悪化していた。
『本人登場www言い訳苦しすぎwwwww』『書wきw間w違wえwwwと供述しておりww』『私の見栄っ張りです! の書き間違えです!』『こいつ一言も謝らねえな、人としてどうなんだよ』『答え・人に頭を下げることを知らないワガママお姫様』『片思いの相手なのに「まだ恋人同士じゃないけど」とか言ったり、少女漫画のイケメンキャラの名前にあてはめたりしてるあたりがDQN』
 意味もなく唇を舐め、無意識に鼻の穴を膨らませた。吐く息に熱がこもる。よほど険悪な顔をしていたのだろう、先生が「気分でも悪いの?」と声をかけた。保健室に行くようすすめられ、断ろうとしたが、そのほうが堂々とネットができると思いなおした。
「じゃあ、新保健委員さん、桜川さんに付き添ってあげて」
「はいはいはーい」
 手をあげた彩音のかん高い声に、苛立ちが増える。
「大丈夫? 美香。ちょっと顔青いで」
「うーん、朝は大丈夫だと思ったんだけど、授業進むうちに悪化してきて」
 少し声のトーンを落として、心底具合が悪そうに嘘を並べる。彩音は困ったような顔をして、美香の背中をさすりながら歩いた。ずいぶん久しぶりに、心の底から彩音への感謝の気持ちが湧いた。雨水を含んだ地面が、徐々に水を滲み出すように。
 保健室で真ん中のベッドを借りた。彩音は「次の授業の先生にも言っとくから、昼休みまで寝とってええで。ていくけあー」と、美香を励まそうとしているのか、ただいつもの調子を崩していないだけなのか分からないテンションのまま保健室を去った。
 安心した美香は、布団を頭からかぶり、スマホを出した。
『ていうか、こんな時間にネットいじってるって、授業サボってる不良なわけ? それとも女子高生騙ってる暇人ニート? ブログ内じゃかわいいお嬢様ぶってるけど』
 怒りがぶりかえしてきた。馬鹿じゃないの、私は保健室で寝てるのよ。正直、学校の授業なんて出なくても、予習と復習だけで事足りるんだから。それぐらい脳味噌の基礎ができてるんです。公立に行ってる人と一緒にしないで。何も立派なことをしてないのに批判は一人前、自分の考えをみんなが持てば世界が平和になると信じてる幼稚な人間。そんな人たちにネット越しに何言われたって私の品位は落ちないし、逆にあんたたちがどんどん小物になるだけじゃない。やめといたら?
 心臓がうるさい。冷や汗が止まらない。毛布を肩までひきあげ、強くにぎりしめた。


 美香の鞄は、重かった。教科書もノートも毎日持ち帰っていて、そのうえ電子辞書、デジタルカメラなどが入っている。同じ鞄なのに、まるで運動部のスポーツバッグのように重い。仕方なく、美香のお弁当と水筒が入った保冷トートを出すため、鞄をあけた。
 そのとき、美香の鞄の中でふと、見知った絵柄のメモを見つけた。それは彩音がいつも持ち歩いているメモ帳の一枚だった。いつの間に、と思ったが、すでにそのメモには書きこみがあったので、今さらかえしてくれとも言えない。どうせ、トイレに行っている隙にでも勝手に盗ったのだろう。美香に腹は立つが、今にはじまったことではない。言っても聞かなさそうだと決めつけていた。
「あ、保健室行くの?」由乃がいつものように机を四つ並べながら言った。
「うん、美香にお昼ごはん届けて来るわ。こっちで食べるんかも知れんけど」
「分かった、じゃあ待っとくね」
 ういー、と返事をして教室を去ろうとすると、礼紗が「一緒に行くよ」と言ってついてきた。男子たちが走り抜けていく廊下を歩きながら、講堂に着くまで延々とふたりで再来週の金冠日食の話をしていた。保健室のドアに手をかけながら、そういえば、と礼紗が唐突に話題を変える。
「彩音って関西のどこらへんから来た系?」
「うち? うちは兵庫県やよ。甲子園からチャリで十五分圏内」
 なんでまたそんな話を? 彩音は口には出さず、首を少しかしげた。礼紗はそれ以上話をひろげることはせず、「そうなんだ」と言ってドアをあけた。
 保健室のベッドの上で、美香はすでに上体を起こしていた。
「美香、具合どう?」
 彩音がたずねると、美香は魂の抜けかけた声と表情で「生きてはいるよ」と言った。微笑んではいるが、どこかぼんやりしている。手を伸ばしたら通り抜けてしまいそうだ。
「お弁当持ってきてんけど」手に持っていたトートをかかげる。「ここで食べる? 元気そうやったら、教室で由乃たちと食べてもええと思うけど」
「わ、わ、ごめんね! 持ってきてくれてありがとう。正直ちょっとまだ頭がクラッとするから、昼休みいっぱいはここにいるつもり。そこのソファで食べるよ」
「了解。お茶かなんか買って来たろか? 微妙に顔、青白いで」
「大丈夫。水筒があるから」美香はそう言ってベッドから静かに降りた。ソファの上でトートをひらく。その横顔は俯き加減で、数時間見なかっただけなのに、一気に疲れを溜めこんだような色をしていた。知的なイメージを際立たせるつやつやのミディアムヘアを、耳にかけず顔に垂らしっぱなしにしている。ほっといたら何日でも床見つめてそうやな。そうは思うものの、美香はその横顔に対して何か言葉をかけることはしなかった。
 ふと、メモ帳のことを聞こうと思った。しかし、数秒でやめた。以前、貸したシャーペンをなかなかかえしてくれなかったとき、催促すると彼女は「ごめんね」の一言もなく、「もうちょっと使っていたかったなあ」と言いながら手渡した。少し腹が立って、「不便やからもうちょっとはよかえしてや」と言うと、美香はむすっとした表情で「彩音、シャーペン二本持ってるんだからせかさなくても」と文句を言ったのだった。だから今では、あまり美香に物を貸したくない。シャーペンは一本だけ持ってくるようにして断りやすくした。が、その末路がこれだ。他の友達からもよく耳にするが、美香は女子が持っているメモ帳をよく勝手に盗っていくらしい。「一枚ぐらい」「緊急だったから」と美香は言うが、せめて反省の意思ぐらい見せてほしい。
 そういえば、美香が「中等部で一部の女子にいじめられてた」とぼやいていたことがあった。メモ帳を勝手に盗られた女子たちが一斉に美香を避けていたことを、いじめと思いこんだのかも知れない。始業前、好きな男を盗られた、という話を美香から聞いて返事に困った。どう反応すればいいのか分からなかった。かわいそうと思わせたいことが透けて見えていた。メモ帳の件でもそうだが、美香はあらゆる状況で自分を被害者に仕立てようとしているのかも知れない。
 彩音が保健室を出ようとすると、礼紗は「あたしは美香とお弁当食べるよ」と言った。美香は嬉しそうに笑っただけだった。彩音は「ほんじゃね」と笑って保健室を出た。
 ケータイをひらき、「みぃな」のブログにアクセスする。今日も伸びる伸びる、誹謗中傷のコメントの数々。順番に見ながら、廊下をほこほこと歩いてゆく。教室に戻ると、由乃が机の上で愛用のノートパソコンをひらいていた。向かいの席の椅子を借りて彼女の前に座り、「何見とんの」とたずねる。
「教えてくれたスレ。四百まで伸びてる」
「うん、今見とったわ」
 自分の弁当箱をあけながら画面をのぞきこんだ。有名な大型掲示板の中の「今の女子高生怖すぎワロエナイ」というタイトルのスレッドだ。一番目は、自分の写メも学校名もプロフィールサイト内に書いてしまっている、十五歳の女子中学生の不用心さを嘲笑うものだった。やがてコメントが伸びるにつれ、子どもの行動を晒しては笑いものにする趣旨のスレッドになっていた。「妹がエロいレディコミ読んでて俺絶望」「ここのDQNファビョりすぎww→http://……」「将来子供につけたい名前ランキングがマジキチ」などと好き勝手に書き散らす。規制の緩い大型掲示板では日常的な光景だ。
 その「女子高生怖すぎ」スレに、ふたりの目をひく書き込みがあった。「自称名門高校の生徒が無知丸出し」と書かれ、最後に風宮との映画の帰りに見つけたブログへのリンクが添えられている。書き込んだのは彩音ではない。あのブログを見た誰かがロバート・ジャクソンの間違いに気づき、晒したのだろう。今はリンク先のブログに飛んでいった掲示板の住人たちが、そこのコメント欄を荒らしている。彩音とは着眼点が違うが、この大型掲示板で吊るし上げにされたことで多少の溜飲は下がった。たまに荒らしに加わって書き込みもする。この掲示板で笑いものにされた対象の末路を、彩音はよく知っている。
 日頃の憂さ晴らしか、単なる遊びのつもりだった。頭の悪い同世代をからかうのは案外楽しい。ブログを閉鎖させて根源を消し、スッキリしたかった。悪質な晒しはよくないと思うが、今回は自分が被害者だ。そう思って祭りの様子を楽しみ、ときどき自分も荒らしに混ざって書きこみながら、昨日は朝方まで炎上に加担してしまった。
 だが、どうやら事態はそれだけにおさまらなかったようだ。管理人の「みぃな」がコメント欄に現れ、書き間違えたと言った。苦しい言い訳、謝罪の言葉がなかった、という点をついて掲示板住民たちがさらに面白がり、過去の記事を話題にしてみぃなを叩きはじめた。「秀一くんはまだ彼氏じゃないけど」「学校は大学附属の名門校なの」「英語のテストが百点でした!」などという細かい点をつつき、「自意識過剰で自慢好きなお嬢ちゃん」として掲示板で有名になった。スレッドもブログも、いまだ炎上しつづけている。
「みぃなのブログ、昨日の夜のうちに全部読んだけど」そのわりに由乃はちっとも眠そうじゃない。「ボロ出してるような文はなかったね。あったらスレ住人の誰かが見つけて晒して、特定厨がこの学校を晒してるだろうし。あ、でも同い年だったよ。十五歳だって」
 誰が? この学校の誰かが、自分と風宮が過ごした楽しい連休を、あたかも自分が当事者であるかのように妄想の中で振る舞った。泥棒だ。踏み台にされた。気持ち悪い。
 彩音は、晒し者にされたブログの管理人に対する怒りを、それでも完全には捨てきれずにいた。閉鎖されないうちは、日に何度もケータイをひらいて見てしまう。
「あ、ちょっと見て、彩音」
 由乃がパソコンを動かして、画面をこちらに見せた。「今の女子高生怖すぎ」スレの最下部に表示された新しいコメントに、彩音は目を見ひらいた。
『誰だよお前www』『さすがは名門高校のお嬢様! 持ってる友達も一般人とは格段に違うw』『りぃって何様?』『上品でかわいらしいお嬢様みぃなの親友がこちらですww』『暴言が凄すぎて訴えが真に迫ってこないよね』『監督と役者は全然ちげえよw』
 何? りぃ? 誰それ?
 由乃は困惑した表情のまま、再度みぃなのブログに戻った。コメント欄を古いほうへスクロールしていくと、「りぃ」という名前で書きこみが残してあった。
『文句あんならアタシが聞いてやるからもうここには書くな! →http://……』
 彩音と由乃は、ほぼ同時に互いの顔を見あわせた。言わんとすることは分かっていた。由乃がクリックしたそのリンクは、別のブログへつながっていた。たった今作ったばかりだと分かるデフォルトのテンプレートと、ひとつしかない記事。改行もほとんどなく、怒りの言葉が詰まっていた。
『アタシはみぃなの心友のりぃ。今みぃなのブログを荒らしてるやつがいるみてぇだが、あんなに優しくて純粋な子を集団でイジメて、罪悪感ねぇのかよ!?』『監督と役者なんか大して変わんねーし! てめーら人間か? 今すぐ人間やめろよ欠落品!!』『迷惑かけてねーのに謝る必要ねーだろ! いちいち相手に謝罪要求するほど心狭いのかよ? 荒らしにも返事するみぃなの健気さ見習え!』『悪役ごっこはおともだちとやりまちょーねー。こういうゴミが溜まるからネットは害悪だな。感情ねーの?』『てめーらみたいな産業廃棄物がイジメやってんだろ? で大人になったら通り魔殺人すんだろ?』『日本の平和のために死ね!! みぃながこれ以上傷つくのは見てらんねえよ! 今度みぃなに何かしたらアタシがその筋の友達に消させっぞ!!? 一刻も早く死ねよ犯罪者予備軍!!』
 すべて読んだあと、思わず苦笑した。が、うまく笑えていないかも知れない。書いてるほうもアホや、同類や、と思ったが胃が痛い。由乃を見ると、彼女もさすがに気分が悪そうに顔をゆがめ、口元に手を当てていた。
「凄いね、よくここまで人を罵倒するボキャブラリーがあるもんだ」
「阪神ファン顔負けやな」冗談のつもりで言った彩音は、しかし笑えなかった。
 ツッコミどころは多い。ここまで支離滅裂だと、怒りかえすのも馬鹿らしい。だが、りぃの言葉のすべてがいちいち人の癪に障るものばかりで、読んでいると神経を刃こぼれした包丁で削られているような気分になる。
「これ、どないすんの?」
「どうするも何も」由乃は見かけに反し、対応は冷静だ。「みぃながこの学校の誰かなんだとしたら、このりぃってやつも同じでしょ。こういうの、叩かれたらあっさり逃げるタイプだし、どうせ掲示板のみんなが炎上させるよ。でもこれはそこまで悪化しないかも」
 さすがにネット社会の猛者だ。引き際やスルースキルが身についている。
 まあ、成り行きを見守りますか。彩音は自分で勝手に納得し、「お弁当、ええ加減食べようか」と言って椅子に腰を落とした。
 だが、その前にふたたび由乃がパソコンの画面を向けた。口にソーセージをくわえたままそれをのぞきこむ。有名なケータイ小説サイトで、そこに投稿されている小説のトップページが表示されていた。タイトルは『青空に瞬く星 〜Shining〜』。せやからなんやっちゅーねん、と言おうとして、息をのんだ。
 作者の名前は「みぃな」だった。
『この物語は、私が体験した悲劇の実話を元にしたフィクションです』

   * * *

 みっつめのため息が漏れた。学校へつづく坂道をゆるゆるとのぼっていく。背後から誰かが走ってくる足音が聞こえた。友達かな、と思って美香は身がまえたが、男子がひとり追い越していっただけだった。
 これから雨のたびに暑くなっていくのだろう。凶悪な夏の息遣いを感じさせる。五月も半ばなのに、美香はうんざりした表情で、身体にまとわりつくブラウスを軽くはたいた。衣替えまであとひと月。待ちきれない。
 眠れない日がつづいている。先週の月曜、連休明けの事件からずっとだ。恋愛日記ブログに突如現れた、大量の荒らしコメント。過去記事の内容までひっぱりだされ、どんどん「自意識過剰なお嬢ちゃん」と吊るし上げにされていった。
 一昨日、保健室から帰る途上、震える手でブログに新しい記事を書いた。
『今、このブログで大変なことが起こっています。とてもとても悲しいです。今は体調を崩して保健室通いです。風早くんもお見舞いに来てくれましたが、うまく笑えてたかな……。「人を傷つけるな」とお母様に厳しくしつけられてきたから、こんなにも他人を傷つけられる人がいるということに驚きました。けれど、今はこの理不尽な試練を乗りこえていきたい! みぃなはこの痛みをばねにして、大切な人との時間を守りたい。だから……神様。もっと愛で溢れて、誰も悲しまない世界にしてください……☆+。*』
 荒らしを決して責めない、むしろ自分への成長のきっかけになるのだと、いつも見に来てくれる大切な読者たちを安心させる意図も込めて書いた。
 しかし、たった三日のあいだに、この記事のコメント欄にも誰かが火を放った。
『うまく笑えてたかなwwwお母様に厳しくしつけられてきたwwww理不尽な困難wwwwワロスwwww』『陳腐で安っぽい浅漬け感のある言葉ばっかり』『どんだけ悲劇のヒロインぶりたいんだよww』『この理不尽な試練を乗りこえていきたい!(キリッ』『さすがお嬢様、戦わず神様任せで祈るだけか』『理不尽かどうかは自分の良心に問えw』
 コメントは今もなおどんどん伸びてゆくが、美香はもう見るまいとブラウザを消した。これ以上気が滅入ってしまったら、本気で体調を崩しかねない。
 みんなして、何十人も束になって、ネットで私を攻撃するなんて。卑怯者だ。一人じゃ何もできないくせに。いや、実際に面と向かったら絶対反論できないくせに。
 美香は画面の向こうにいるであろう荒らしの姿を想像した。デブでメガネで臭くて、ダサいシャツと着古したジーパンで、べったりした髪。一生童貞。オタク以外の友達はいない。学歴はせいぜい三流大学。働かず実家暮らし。英語もろくに話せないのに、機械の知識はやたら豊富。暗い部屋でパソコンの明かりに照らされ、アニメキャラのフィギュアに囲まれて、カップ麺をすすりながら、ネットで政治や他国を批判し、エロ動画を貪る。ネットでは口達者、リアルでは嫌われ者。
 思わず苦笑が漏れた。どうせそんなやつらが大半だ。なんだ。たいしたことない。そんな頭の悪そうな人間と実際に会ったら、絶対論破して黙らせるのに。
 気分を切りかえた美香は、少し胸を張りながら足取り早く、校舎へと向かった。すると、必要以上に目立つ足音が迫ってきて、背中を強く叩かれる。
「おっはよっす、美香!」
 予想どおり、彩音だった。いつもどおりのテンション。一度あがった美香のゲージがするすると下がる。美香は背中をさすりながら「おはよう」と笑ってこたえた。彩音の隣にいた由乃が「はよ」と無表情のまま言う。
「最近、彩音も由乃も朝早いね。すごい」
 いつもならチャイム近くになって教室に滑りこんでくる彩音は、自慢気に鼻を鳴らす。
「よりよく健康な毎日を送るためには、朝型生活が必須だと思いましてね!」
「何を心にもないキモイことを」由乃がぼそっとツッコミを入れた。
「いいことじゃない。チャイムギリだったら、校門前でアウトになることだってあるんだし。宿題忘れても、教室でやれるよ?」
「まあ、実際そんな深い意味ないねんけどな。とりあえず、今日はちょっとやることあるから先行くわ!」
 ほんならまた教室でなー、と叫びながら駆けだしていく彩音。由乃は手を振って「ゆっくり歩いてきなよ、具合悪そうだし」と言い、彼女のあとを追いかけていった。由乃はともかく、彩音の体力とバイタリティーはどこに溜めこんであるのだろう。
 気楽でいいな、とは、思う。美香は日々の予習復習を欠かさず、学年順位も常にひと桁だ。なのに、漫画とアニメとゲームにばかり没頭し、放課後はいつも女友達とショッピングやカラオケやマクドナルドに寄り道している彩音と、成績に関しては拮抗している。彼女はいったいいつ勉強しているのか。
 外部から入学した彩音に、自分が唯一誇れる成績で張りあっているというのは、楽しいぶん、悔しかった。強い光を前にして、目が開けられずにいる。
 下駄箱で靴を脱いでいると、奥から名前を呼ばれた。礼紗だ。「おはよう」と言うと、礼紗は足早に美香のところへ歩いてきた。
「早く上靴に履きかえて」「え、どうしたの?」「いいから」「ええ?」
 連行されたのは本館四階のコンピュータールームだった。礼紗は手近な一台を起動させると、素早くインターネットを立ち上げ、検索ボックスに『青空に瞬く星』と入力した。
 それは一年のときに美香が書いた、実話を元にしたフィクションという触れこみのケータイ小説のタイトルだった。礼紗も読んでくれて、「感動した」「あたしはずっと友達だからね」と言っていた。どうして今さらになって、と思ったが、礼紗が感想ページをひらくと同時に、ここ数日うんざりするほど味わった吐き気と嫌悪感にまた襲われた。
『自意識過剰のお嬢様みぃな発見wwロバート・ジャクソン監督作品レッド・ブラスターwww』『ブログでの自分語りと一致するな。同一人物か』『マジで実話? ならみぃなって相当性格悪いね。友達になりたくない』『いじめられても仕方ないww被害者ぶんな』『いじめられたアタシかわいそ〜過去の傷を背負ってるの〜まで読んだ』『ブログでも高慢だと思ってたが、これは相当だな』『悲劇の実話(笑)』『日 本 語 で お k』
 美香は無意識に拳をにぎりしめていた。何これ。誰これ。
 小説へのリンクは、みぃなのブログのコメント欄に誰かが貼っていた。
『【速報・閲覧注意】みぃなの実話小説発見したったww→http://…』
 礼紗は椅子をくるりとまわし、眉をひそめて美香を見あげた。
「ブログでえらいことになってるっていうのは、こないだ保健室で聞いたけどさ」
 彼女の声は落ちついていた。「あのブログとこのケー小、リンクつなげてないよね?」
「ない……リンクは絶対に貼ってない。ケー小だけ独立してる」
「でも、ハンドルネームが同じだよね」
「それだけだよ。でも、みぃななんてハンネ、どこにでもあるよ!」
 美香はつい大声を出してしまった。「ごめん」と呟くと、礼紗は首を横に振った。
「ネットで『みぃな』で検索しても、すぐには出なかったよ。この小説、有名じゃないしね。でもさ、みぃなっていうハンネと、ブログに書いてることを合わせて検索かけたら、この小説に辿り着くのは簡単だと思う」
「ブログに書いてること?」
「大学附属の学校に通ってるとか、成績優秀でいじめられたとか、海外の高校に行く予定だったとか。そのへんはブログと小説の両方に書いてたっしょ? そのあたりのキーワードを集めて検索したら」
「そんなことだけで分かるわけないじゃない! 個人まで特定できちゃうし!」
「でも実際、ネットの住民って個人の特定までやっちゃってんじゃん。これ書いてる人は特に。怖がらせるつもりはないけど、たまたま見つけたから、ちょっとこれ見て」
 礼紗はまた新しいサイトをひらいた。背景が灰色で罫線が引かれていない、文字だけの掲示板。一番上には「今の女子高生怖すぎワロエナイ」と書かれてあった。
 礼紗は美香でも知っている、有名な大型掲示板の名前をあげた。瞬間、くらりと目の前が暗転したような気がした。足の力が抜け、床に膝をつきそうになる。礼紗がマウスで画面をスクロールすると、「自称名門高校の生徒が無知丸出し」という書きこみがあった。貼られているアドレスは間違いなく、自分のブログのもの。誰もがみぃなを馬鹿にして、好き勝手に書きこみをしている。礼紗が更新ボタンをおすたび、次から次へと増えていく。
 美香は泣きだしそうになった。犯罪者予備軍しかいないから、絶対にアクセスするなとかつて父に言われていたことを思い出した。そこに、自分のことが書かれている。
 手の筋肉が動かない。指を曲げようとしても、方法を忘れたように曲がらない。
「礼紗」美香はすがるように、礼紗の座っている椅子の背もたれに手をかけた。「どうしたらいいの。こんなことになってるなんて知らなくて。この掲示板で話題にされて悪口言われたら、現実でも大変なことになるって、お父さんが言ってた! 道を歩いてる人がこの掲示板のこと知ってたら……犯罪者みたいな人が家の場所を調べたりしたら!」
「いやいや落ちつけって、美香」
 礼紗は半泣きになって慌てふためく美香を、肩をつかんで揺さぶった。
「そこまではいかねえよ、さすがに。だって、今こいつらが知ってるのって、ブログのみぃなと小説のみぃなが同じっていうことだけだし、ふざけ半分だろうからさ」
「でも、でも、私、大学附属高校の主席合格者で旧家の子、って書いたし」
 美香は今になって、ブログに書いたさまざまなことを後悔した。「私は一流大学附属の高校に首席で合格した旧家の一人娘」と何度か書いた。虚勢を張ったわけじゃない。誇るべき事実だ。だけど、気づいてしまった。これだけで個人の特定ができることに。
 自慢なんかじゃない。勝手に成績優秀になったわけじゃない。必死で努力した結晶だ。それを、低学歴の人たちに「自慢っぽい」と言われたって全然痛くない。まして自分は、あの想像を絶する凄惨なイジメに耐え抜いて、それでも生き抜いた強くて優しい人間なんだ。こいつらはきっと、そんな経験をしたことなんてないはずだ。
 なのに、どうして腹が立つんだろう。
 美香はとうとう泣いてしまった。ぼろぼろとこぼれる涙を見て、礼紗はそっとハンカチを差し出した。涙を拭っていると、礼紗が「とにかく」と落ちついた声で言った。
「もうこれ以上、この人たちを怒らせるようなことはしないほうがいいよね。でないと、美香が怖がってるように、本当に個人が特定されちまうって」
「そんな……」
「毅然としてればいんだよ。嫉妬なんだから。美香は何も悪いことしてねえじゃん。ブログはいつでも閉鎖できる。嫌だろうけど、美香が傷つくほうがあたしは嫌だし」
 目の腫れがひいたら教室来なよ、と言って礼紗はコンピュータールームを去っていった。彼女が残してくれたハンカチを、そっと手に力を入れてにぎる。また涙が溢れそうになって、目元を押さえた。
 どんなときでも味方でいてくれる親友。世界じゅうの冷たい人たちがどれだけ私を嫌っても、礼紗だけは私を見捨てないでいてくれる。そう考えるだけで心強かった。何度でも立ち上がれる気がした。大丈夫なんだ。守ってくれる人がいるんだ。礼紗が友達への暴虐を絶対に許せないたちだということを改めて確信した。そしてそれが、美香の憧れる「暴力に訴えてまで守ってくれる友達思いの親友」であるところの「りぃ」の基盤になった。
 美香はパソコンを操作し、自分のブログにアクセスした。そして別のタブで「りぃ」のブログもひらく。だから、と美香は決心した。今のこの気持ちに整理をつけよう。傷つけられっぱなしじゃ、笑顔もうまく作れない。大丈夫だ、「みぃな」は何も悪くないから。
 気分が悪くなって保健室で寝ていたあの日、礼紗に「自作自演」という言葉を教えてもらった。ネットで別人のように振る舞ったり、複数人いるように見せること。大量の荒らしがいるように見えるが、実は人数自体は少ないだろうと言われ、少し励まされた。そして、その案を逆手に取ることにした。
 お嬢様の「みぃな」が荒らしたちに反撃することは、いつも応援してくれている常連たちの持つイメージを壊してしまう。そう思って美香は先週、新規に作ったブログで架空の親友「りぃ」を作った。自分にはりぃという、友達のために身体を張って、相手に暴力をふるってでも黙らせる仲間思いの力強い親友がいるのだという、新しい盾ができる。そのりぃのブログもすっかり荒らされてしまったが、みぃなのブログではないぶん、まだ気楽だ。礼紗には「りぃは小学校時代の友達」と説明した。今後も真実は話さないつもりだ。それでいい。彼女にも、自分が自作自演に走るような人間だと思われたくない。
 みぃなのブログは、ショックを受けたように見せるためほとんど記事を書いていない。そのぶん、りぃのブログでは荒らしに逐一反撃をしている。美香はりぃのブログにログインし、新しい記事を作った。
『みぃなの小説を見つけたやつがいるみてーだが、だからどーした? 楽しいか精神異常者たち?』『自分の人生を小説にしてみろよ! 感動する話になんねーだろ?? 感想欄にたくさん「生きる勇気をもらいました」って書いてんだろ? そんだけ支持されてんだよ!!』『感動的な話が書けねーなら批判すんな低学歴!! 人を傷つけてばっかなくせに、大勢の人を救ったみぃなを批判とか惨めでちゅねー』『あの子は小説にあるような残酷なイジメを受けて自殺未遂までしたんだ!! アタシはみぃなのために戦う!! あんなに優秀で優しい子が傷つくなんて理不尽だろーが!! 全員殺すまで戦うからな!!』
 推敲せずに投稿したあと、今度はみぃなのブログにログインして記事を書いた。
『みなさん、いつもコメントありがとう! 荒らしに負けるな、というみなさんの励ましの言葉が、本当に本当に心の支えになっています。学校にも行けるようになりました。友達が大勢歓迎してくれて、大切にされてるなぁって実感しました* 今私のために必死で戦ってくれているりぃちゃんも、「みぃなは何も悪くないから、絶対に諦めんなよ!」と言ってくれます。こんなに優しい友達に囲まれて、私はなんて幸せ者なんだろう……☆ りぃちゃん、頑張って! つらくなったら、私が真っ先に相談に乗るからね……! 神様、お願いです。早くこの悲しい出来事を終わらせて下さい……』
 ふたつの書きこみを終えて、早々にパソコンをシャットダウンした。すぐに、どちらのブログにも荒らしが寄ってくるだろうが、今は穏やかな気分でいたいから読みたくない。あとでまとめて目を通そう。りぃも礼紗もいるから、大丈夫だ。
 目元に残った涙を拭っていると、コンピュータールームのドアが突然ひらいた。慌ててふりかえると、風宮が立っていた。
「あれ、美香? 朝から何してんだ」
「そっちこそ!」
「俺は委員会で使うプリントの原本作るんだけど。ていうか、何、どうかしたの?」
「え? ううん、別に何も。どうして?」
「いや、目が赤いんだけど。泣いてた?」
 そのうえ手にハンカチを持っている。バレバレだ。赤くなるほど泣いたかな、それなら逆に利用してやる、と思い「色々とややこしいことがあって」と思わせぶりに言ってみた。まさかネットで誹謗中傷されてるなんて言えるわけがない。
「ややこしいこと?」
 低い、少し掠れた、だけど落ちつける優しい声。風宮は美香の隣の席に座った。椅子を回してこちらを向く。
 美香は礼紗に借りたハンカチをワンピースのポケットにしまい、静かな声で話した。
「嫌がらせ、されてるの。いじめに近い」
 ――そうだ、あれは、ネットいじめだ。
「私のちょっとした些細な失敗を、何度も何度もつついてからかってくるの。最初は相手にしなかったんだけど、次から次へと。人格否定じみたことも言われてる」
「人格否定」
「例えば……欠落品は人間をやめろとか、産業廃棄物とか、精神異常者とか」
 それは全て「りぃ」に言わせたことだが、実際に口にしてみると、本当に自分が言われたような気分になってしまった。またじわりと涙が滲む。
「誰だよ、それ。この学校のやつ? 俺が蹴り入れてやるよ」風宮は眉をひそめた。
「いいの、大丈夫。どうせ悪ふざけだから。遊び半分でやってることだろうし」
 まさかネット上でだなんて言えるわけがない。学校の誰かからいじめられているということにしておけば、教室で風宮ともっと長い時間、一緒にいられるかも知れない。絶えず心配してくれるのなら、そのほうが嬉しい。
「美香、あのな。無理に訊こうとはしないけど、そっちこそ無理に黙ろうとしなくてもいいんだからな」風宮の眼差しは真剣だった。「例えば美香が何かやらかして、それで怒った相手がそう言ったんだとしても、言いすぎだ。自分の身を守っていい。そこまで言われるようなことって、どんなことだよ。美香は恨まれるほど誰かを傷つける子じゃないって、俺は知ってるし。初等部からの仲だろ?」
 ゆっくりと、言葉を丁寧に編みこむような話しかた。あたたかい毛布のような彼のぬくもりに、おそるおそる身をゆだねた。
 美香は確信した。ああ、この人も私の味方だ。この試練を乗り越えるところを、神様が見てくれている。戦いつづけよう。絶対逃げない。誇り高い、誰もが目指しては手が届かなかった場所に辿りつけるように。
 美香は風宮の優しさに耐えきれず、ふたたび涙を流した。ハンカチを目元に当て、声を殺した。風宮は、そっと美香の背をさすった。母親のような、優しい手つきで。
 美香はその後数分、嗚咽を漏らしていたが、やがて目元を強く拭った。顎を上げて背筋を伸ばし、前をしっかり見据えた。そして「よしっ」と声をあげる。
「私は頑張れる。絶対に負けないから!」
 その声に、風宮も笑って「強いな、美香は」と言った。そのかわいらしい表情に、美香はつい見とれてしまった。
 立ちあがり、「そろそろ教室行こう」と声をかける風宮の背を、じっと見つめていた。初等部のときからずっと見ていた――耐えられなくなるほどに。中等部にあがっても、風宮ばかりを見ていた。風宮のことだけを。
 美香は思わず「ふふっ」と笑った。ふりかえった風宮が「思い出し笑いするやつはエロいんだぞ」と言って美香の額を指で突いた。風宮の口から「エロい」なんて単語、初めて聞いた。女子の前でも言えるのか。
 彼の新たな一面をひとつ知ったような気がして、美香はますます上機嫌になった。

 八時二十分ごろ、教室に美香と風宮が入ってきた。セットで。彩音は目をみひらいた。間髪いれずに手もとのケータイをパチンと閉じ、机の横にしゃがんでいる由乃と「まあそんなところやな」「うん」と早口に言葉を交わした。強制的に話を終わらせる。
 美香が頭を下げると、風宮がそれに手を振って否定する。こちらまで声が届かない。そういえば登校中に美香を見かけたのに、今まで何をしていたのだろう。
「改めて、おはよう、彩音と由乃」美香がふたりの隣に立って言った。
「はよっす。てか、さっき道端で会ったやん。今までどしたん?」
「あ、ちょっと図書委員の雑務があってね。ふたりこそ、何の話してたの?」
 彩音は一瞬考えたあとケータイをひらき、画像フォルダの中にある写メを美香に見せた。彩音の生まれ故郷、兵庫県にあるごく普通の公立中学校の校舎の写真だ。
「うちの母校やねん。思い出話とか、そんなんしとったんよ」
「へえ、ほんとに公立だったんだ」
「先生にびびられたで。関東の、大学附属の高校を受験するって言うたら」彩音は肩をすくめて苦笑した。「さすがに首席合格とか、自分でもびびったんやけどな」
「凄いね、ただでさえ、半分近くは内部進学者なのに」
「いやあ、それほどでもおー」クレヨンしんちゃんの真似をすると、もちろん由乃が「褒めてない」とツッコミを入れる。美香は鞄を床に降ろし「いや褒めてるよ」と言った。
「そういや、美香も内部生やのに入試受けたんやんな? 同じ主席合格やったし」
「うちは内部に試験はないけど、別の高校を一度でも受験したら内部進学権が剥奪されるから、外部の一般受験生に混じって入試を受けさせられるんだよ。それが私」
「あ、聴いたことあるわ。美香、海外の高校に行く予定やったけど、直前で辞退して、結局内部で上を受験したんやったっけ」
「そうだよ。……あれ、でも、海外の学校だって話したっけ?」
 彩音は、やばい、と思ったがすぐに笑顔に戻した。「そのへんは噂で聞いただけやから」と言う。美香はそれで納得したようで、「恥ずかしいなあ」と頬を指で掻いた。
 そのとき、チャイムが鳴った。美香は鞄を持って「じゃあ戻るね」と言い、自分の席についた。彩音より斜め後ろの、少し離れた席である。その延長線上には風宮がいる。
 まさか、の三文字が彩音の頭を低回している。机の上で両の手を組む。下唇の内側の皮を噛みちぎった。警告音がうるさい。まさかまさかまさか、と何度も振りはらおうとするが、無駄だった。これまでの一ヶ月半、美香と過ごした思い出が、一気に轟音とともに瓦解していくような気がした。
 耐えきれず、彩音は授業中、鞄の中から愛用のメモ帳を出し、素早くペンを走らせた。
『美香が他の高校の受験を辞退したんって、理由とか聞いてる?』
 メモ帳を適当に四つにたたむと、後ろの子に「由乃に」と言って渡した。机の間を渡ってゆく手紙。しばらくして、今度は後ろの子が彩音の肩を叩き「返事」と言って、四つ折りのメモ帳を手渡される。
『本人から直接聞いたわけじゃないけど、一番よく聞かれた噂は、日本の文化を愛しているから離れたくない、もっとこの国のことを学びたい、っていう話だった。だから間違いないと思う。こんな偶然、そうそうない』
 由乃も気づいていたのだ。そうだ、間違いない。彩音は急速に氷点下まで冷えてゆく心臓を手で押さえ、もう片方の手で手紙を強くにぎった。皺が寄り、由乃の字が曲がる。

 ――「みぃな」は、美香だ。

 大型掲示板からはじまった「みぃな」を叩く炎上騒ぎ。彼女の親友と名乗る、強気で口の悪いヤンキー少女「りぃ」の登場によって火の手は広がった。そして、盛況まっただなかにあるその火は、次は彩音によって新たな場所に放たれた。
 由乃が見つけたケータイ小説。総閲覧数は五百にも満たない地味な小説だ。作者の実話を元にしたという、ケータイ小説にありがちな眉唾もののキャッチコピーを掲げていた。
 その小説の内容と、みぃなのブログ内で書かれていることが、ほぼ一致していた。
 由乃はみぃなのブログから厳選したキーワードを、彼女の武器であるネットで検索した。語句は『みぃな 大学附属 初等部 成績優秀 いじめ 妬み』など、みぃながブログ内で強調していたものだ。その結果出てきたのが『青空に瞬く星』の一ページだった。
 作者の名前まで『みぃな』だったものだから、彩音は面白半分に、そのケータイ小説を『【速報・閲覧注意】みぃなの実話小説発見したったww』と大型掲示板に晒した。そして、時間をかけてじっくり読んだ。前後編合わせて九百ページを超えるそれは、彩音を打ちのめすに充分だった。
 概要はこうだ。
 一流大学附属の中学校に通うみぃなは、かわいくて愛嬌があり、先生や他の児童にも好かれる子だった。だが二年になると、クラスの女子からいじめられるようになった。理由は友達のいたずらやサボりを、みぃながいつも先生に報告するからだ。体育のバレーボールでは敵チーム全員がみぃなを狙う。机に「死ね」「チクリ魔」と落書きされる。廊下では背中を押され転んでしまう。みぃなは何度も泣いたが、それでも必死で生き抜いた。
 三年にあがったみぃなは心機一転、新しい友達を作る。ハル、ナツキ、セイラ、ユウタ、マミ。そして思春期の女子らしく、みぃなにも好きな男子ができた。それが「風早秀一くん」だった。新しい友達は誰もが「みぃなを応援するよ」と励ましていたが、事件が起こった。マミとナツキも秀一くんが好きだということが発覚したのである。そのことを知ったみぃなは悲しんだ。応援してくれるんじゃなかったの? と。
 みぃなはふたりをそれぞれ個別に呼び出し、「どうして私が秀一くんが好きって知ってて好きになるの」「私の秀一くんをとらないで」「私のほうが秀一くんのこと好きだもん」と泣きわめいた。家に帰って布団にもぐって泣き、神様はなんて意地悪なんだろうと嘆く。
 翌日から、みぃなは女子全員に無視されるようになる。マミとナツキは「付き合ってもいないのに彼女ヅラされた」と、みんなに泣きながら言いふらす。みぃなが「私が先に好きになったんだから」と反論すると、女子たちは「自意識過剰」「自己中」と言ってみぃなを避けた。十代前半の子供の持つ残酷で理屈の通らない凶暴性は、簡単にスケープゴートを生みだす。無視され、ひどいいじめを受け、それこそ何度も怪我や打撲を重ねた。体育から戻ったら、制服に潰れた虫が入っていた。トイレの個室で、頭から酢を大量にかけられた。みぃなの名前が書かれた生理用ナプキンが大量に教室に落ちていた。電子辞書を窓から落とされた。「死なないなら殺す」と書かれた手紙が机の中に入っていた。
 耐えきれなくなったある日、とうとう学校の屋上から飛び下りて自殺を図ろうとした。それを止めたのが秀一くんだった。「あいつら、他高を受験するらしいぞ」と彼に言われ、みぃなは生きる勇気をとり戻す。その後、両親から海外の高校に入るよう言われ、みぃなは遠いアメリカのハイスクールを受験した。しかし、日本を離れたくないという想いが強く、辞退した。日本文化を愛し、この国のために尽くしたい、もっと勉強したい、と。
 内部進学の権利を失ったみぃなは、学校では誰とも話さずひたすら勉強に打ち込んだ。一度は海外を志望しながらも結局舞い戻ってきたみぃなを誰もがからかい、いじめつづけたが、みぃなは何度も立ちあがって努力した。その結果、高等部へはトップの成績で合格した。クラスにいた誰もがみぃなを妬んだが、逆に彼女たちを嘲笑い、「私より頭が悪いことが悔しい?」「勉強できないくせに」と言えるほどになった。
 いじめっ子たちは他校へ進学し、新しい環境へ身を投じたみぃな。「私、頑張るよ。これから、私のように苦しんできた人たちを救いたいから。どんなにつらくて、逃げ出したくなったって、絶対、強く生きていくよ! 神様、お願いします。どうかもっとしあわせで、誰も苦しまない世界になりますように……」という言葉を最後に完結した。
 だが、最終章にはさりげなく、こうも書かれてあった。みぃなが受験した某大学附属高校の入試で、もう一人トップで合格した女子生徒がいた、と。
 ――彩音は戦慄し、身震いした。最後まで読んだことを後悔した。
 同率一位で二人の女子が大学附属高校に合格した、などという話はそうそうない。海外の高校を受験しようとしたことも、「風早秀一」という片思いの相手の名前も、映画のことを利用された記事も、すべてが証左だった。ここまで読んだとき、彩音は思わず自室のベッドから立ちあがった。両腕をかき抱き、震える奥歯を止めようと口元を覆う。
 美香だ。
 その名前が頭に浮かんだとたん、いやいやいや、と頭を振った。しかし、現実が容赦なくのしかかる。このケータイ小説の作者が美香なら、あのブログも美香が書いたのだ。そして掲示板の住民が炎上させたコメント欄に何度か書きこんだのは、自分だ。
 みぃなは普段見ている美香とイメージがほぼ合致した。自分より格下の人間を努力が足りないと見下す態度も、被害者意識が激しいところも。以前、美香が話していた「友達に好きな人を盗られた」という話が、小説の内容と酷似している。思い出したくない辛い過去であるかのように話していたが、これでは同情の余地もない。「風早秀一くん」を盗られたと言っても、あくまで片思いの相手だ、独占する権利はない。
 彩音はその場で、深夜にも関わらず由乃に電話した。由乃も小説を読み終わっており、今朝、みぃなと美香の共通点について話をしていたところだ。途中で美香が乱入し、咄嗟に母校の話をしていたと嘘をついたが。
 美香は確かに成績優秀だ。引き出しが多く、話もうまい。家柄や上品さに関しても自分より上だが、素直にすごいと思えた。親友だと信じて疑わなかった。だけど、違った。無意識では、彼女の言葉の端々ににじむ自慢口調に、たびたびイラついていた。成績では自分が優れていると思っていたからこそ。
 だから美香によく似た物言いをするみぃなを叩くことに懸命になった。燃やした。面白いほどに燃え上がる荒らしの炎を、彩音はただ楽しんで見ていた。火柱となってしまえばいっそ美しい。
 みぃなを追いつめ、言動のミスをあげつらう。自信をなくしていく彼女を見ていると、普段、美香の鼻につく物言いや態度に「なんやねんコイツ」と思っていた気持ちが晴れていくのが分かった。無意識に彼女に腹を立てていたことを、嫌と言うほど自覚させられた。
 ――もし、みぃなが本当に、親友の、あの桜川美香だとしたら?
 確信はしつつも、それでも口に出せるほどには自信がなかった。美香の笑顔を横目でうかがい、言動のひとつひとつに注意しながら、いつも通りの日常をつづける――そんな日々が一週間もつづいた。由乃ですら対応に困り、様子見に徹していた。もし美香がみぃななら、あれだけ叩かれて落ち込まないはずがないのに、彼女の笑顔には一点の曇りもない。何も変わらない。おかしくないか。何か企んでるのか。美香の考えていること以上に、自分が何も分からないことが怖い。

 五月も終わりかけのある日、美香、礼紗、由乃、そして彩音の四人、いつものメンバーで放課後、教室でテスト対策の勉強会をしていた。誰もが普段どおりなので、彩音もできるだけ不自然にならないように笑って、会話に加わっていた。
 彩音は帰る雰囲気になったところを見計らい、「ちょっとトイレ」と言って中座した。由乃も「じゃあついでに」と言ってついてくる。
「あ、そんじゃ先に帰ってるわ。また明日」礼紗が言った。美香も手を振っていた。
「うん、また」「そんじゃね」「ばいばーい」
 彩音と由乃は、少し離れた三号館一階へ向かった。茶室や空き教室、古い下駄箱などがあって、ほとんど人は通らない。その校舎の端にある女子トイレに入った。
「ここ数日、ずっと考えててん。もし」
 一度口をひらけば、言いたかったことが溢れだす。「もし、みぃなが美香やとしたら」
 彩音は興奮しきった声で愚痴を言った。「うち、美香に悪いことしたやん。あんなにブログ荒らして、由乃が見つけた小説も晒して」
「仕方ないよ、知らなかったんだもん。私だってびっくりしたし」
 由乃の声は落ちついていたが、組んだ腕をせわしなく何度も入れかえている。
「うちも焦ったわ、小説のラストで。主席合格者が二人とかそんなん、しょっちゅうあるもんちゃうやん。まして大学附属の高校って絞られとるし」
「下手したら、そのへん目ざとく見つけた特定厨が、美香を嗅ぎつけるかもね」
「うちの学校のサイトとかで、ダブル主席とかなんとか言ってたっけ」
「覚えてない。でも可能性はある」
「あーっ、なんやねんもう! 美香、こないだ保健室で休んどったんも、それで気分悪くなっとったんかなあ。しばらくブログも更新してへんかったし」
 手洗い場をぐるぐる回りながら苦悩する彩音を、由乃はいつもの無表情でじっと見ていた。たっぷり二十秒、無言だった。やがて、とどめの一声を放つ。
「彩音。本当に、美香のこと心配してる?」
 ゆっくりと足を止める彩音。さらに丸々一分ほど沈黙し、彩音は顔をあげた。衣擦れの音が大きく響く。頭を掻きながら、「分からん」と言った。
「このまま成り行きを見てたいっていう気も、せんでもない」
 由乃は一度も目線をそらさなかった。焦りと呆れが混じったような、複雑な感情をその瞳に孕んでいた。その目に気圧されて焦り、彩音は「だって」と言った。
「確かにうち、あのブログや小説を荒らして、楽しんどったで。美香やとか知らんかってんもん。でもな、でもな、今になってもつづけたいって思うねん。今もまさに掲示板巡回しそうになんねん。おかしい? 態度ひるがえして荒らしに対抗したほうがええの? でもあんな大騒ぎ、今さらどうにもならんし」
「彩音」
「自分を聖女様みたいに描写しとるの、キモいやん。ええ子やったのはただの皮で、身は自意識過剰で、実話のケー小書いて自分を天使や呼ばわる子やなんて。いじめられたとかほんまかどうか知らんけど、それにしてもひどい。前もさ、初等部時代に男関係でひどい目にあった的なこと言ってたけど、小説の内容読んだら美香のほうがひどいやん。逆いじめやん。そんなこと思ううちって、変?」
「彩音、分かってるって。大丈夫。私も似たような気持ちだから」
 矢継ぎ早に話す彩音の肩を持って、由乃が止めに入った。徐々に落ちついてきた彩音に、由乃は穏やかな声で言う。
「でも、過剰に怯えなくてもいいと思う。私だってネットで叩かれたことあるけど、所詮画面の向こうだよ。美香だって図太いとこあるし、見た感じ平気そうだし」
「そやねんけど、気持ち悪いっていうか」
 彩音は何気なく、ケータイからみぃなのブログにアクセスした。荒らしの模様でも覗いてみようと思ったのである。だがトップに現れた新しい記事を見て、目を見ひらいた。
『これ以上りぃちゃんをいじめるのはやめてください! 私のブログも荒らさないで! 心がボロボロです。イジメられたときと同じくらい傷ついています。ひどすぎます。
 批判は仕方ありません。小説やブログを読んで感じることは人それぞれだと思います。ですが、人格否定は犯罪行為です!! みぃなの人権を侵害する誹謗中傷は、名誉棄損罪、そして 憲 法 違 反 です!!
 みぃなは今後、荒らしを見つけた場合、すぐに警察に通報させていただきます。みぃなが警察に通報すれば、プロバイダからあなたたちの情報を簡単に調べられます。逮捕されるのも時間の問題だとお考え遊ばせ?
 そしていつもみぃなのブログや小説を応援して下さる善良な読者のみなさん。気持ち悪いオタクたちがいることで、すっかり雰囲気を悪くしてしまってごめんなさいね。みぃなは絶対に負けません。こんなの、初等部時代のイジメに比べれば鼻で笑える程度です。みなさんも、もし荒らしに遭ったら、みぃなのとった撃退法を参考にして下さいね!』
 全体的に大きなフォントで書かれている。特に「憲法違反」の字は最大で、しかも赤文字、太文字に変えられている。
 彩音は思わず、ぶっ、と吹きだし、その場で腹を抱えて爆笑した。
「ごめん、無理ー! あかんわー! 笑かすわー! 死ぬー! ひはははは」
「ちょ、彩音、そんな大声で、ふっ」
 由乃もついつられて笑った。彩音は膝を叩いてゲラゲラ笑い、咳きこむ。由乃は口元を手で押さえているが、肩が細かく震えている。
「あかん、ほんまあかん、笑い死ぬわ、殺す気かみぃなさん、センスありすぎやろ」
「私もびっくりした」由乃が涙の滲んだ目を拭う。「凄いね、動揺しすぎ」
「しかも、しかも、お考え遊ばせ? って! うける!」
「何キャラ目指してんだろうね。ごめんなさいね、って上から目線だし」
「憲法違反どんだけ強調したいのこの人! それに、人権侵害を憲法違反だと思ってるアホたまにおるけど、憲法って本来、国家のやることに対する法令やなかったっけ?」
「そうそう、だからペーペーの個人が個人を中傷したごときで違憲にゃならんよ」
「あと、侮辱罪と名誉棄損罪の区別ついてへん! そっくりやなほんま。上からで悲劇のヒロイン気どりなあたりが」
「彩音、もうそれ全部教えてあげたら」
 あいかわらず息があがるほど笑っている彩音に、由乃が珍しくはっきりとみぃなへの攻撃の意志を示した。彩音は腹筋の痙攣やまぬまま「え?」とかえした。
「だから、さっき言ったようなこと、コメント欄に書いてみなって。私らだって気づいてないだろうし。それにあの子、プライド高いでしょ。最初は映画の知識不足が原因で荒らされたんだし、さらにあんな巨大フォントで自信満々に書いた刑法のことがまた無知ゆえのミスってなったら、羞恥に耐えれなくなってブログ消しちゃうと思う」
「あ、それって逆にええかも知れん」
「うん。荒らされてる側としても、そのほうがいいでしょ。ファンは多いみたいだけど、そんなのにすがりついてもいいことないよ。消しちゃえば荒らしも飽きる。削除するよう促すのは間違ってないと思うよ。そしたらいつもの平穏な日常に戻れるし」
 ネット中毒の由乃らしい解釈だった。彩音はふたたびケータイをひらき、みぃなのブログを更新した。そこにはすでに荒らしが複数いて、また炎上していた。
『必死すぎワロスww』『鼻で笑えるならこんな過剰反応すんなよw』『お前の撃退法はりぃ召喚だろww早くりぃの反論ブログ更新されねーかなー』『警察も大変だな、ネットで中傷された〜って泣きつく高校生の相手もしなきゃなんねえんだもんな』
 彩音は投稿欄から、先刻由乃に愚痴った内容をそのまま書いた。荒らしコメントはすぐさま、決壊したダムのように次から次へと押し寄せてくる。
『一流高校のお嬢様マジキチwwwww』『憲法違反(笑)』『ただのアホ』『また無知晒したな』『覚えたての単語使うから……詰んだな』『成績優秀ww名門高校www主席合格wwwww』『みぃなさーん、早く暴力的な親友のりぃさんに助けを求めて下さいよ』『頭いいアピールしたかった見栄っ張りのブログがこちらです』『また書き間違え?w』
 彩音はケータイを閉じた。これを見た美香は、どんな気分で明日を迎えるのだろうか。
 ごめん、美香。でも、うちも美香のことちょっとムカつくって思っとったし、そんなん我慢しろってほうが無理やん。憂さ晴らしぐらいさしてや。これに懲りて、その上から目線ひっこめえ。もうネットで自分自慢なんかするもんちゃうで。
「それにしても」彩音はトイレを出るとき、ふと由乃にたずねた。「由乃にしては珍しく棘あるな。どしたん、温厚キャラさん」
 由乃は十秒ほど時間を置いて、鼻から思いきり息を吐いた。
「荒らしはオタクってひとくくりにされて、ムカついただけ」
 なるほど、正論や。彩音は彼女の肩をよろけるほど勢いよく組み、「風宮も漫画オタやでー! アイドルオタのくせにー!」と叫んだ。よく通る声が天井で反響する。
 すがすがしい気分だった。匿名とはいえ、美香に対して鬱憤晴らしができた。それだけで、腹の中に溜まった汚泥がすすがれていくような気がした。なんて単純なうち。
 下駄箱で靴を履き替え、駅までの道のりを歩いていく。これですっかり問題が解決した気でいた。人の少ない住宅地は穏やかだ。空はよく晴れている。だけど、ふと見あおいだ西の空は、今にも雷が落ちてきそうなほど、黒く深く雲が立ちこめていた。
 こりゃひと雨くるかな、と思ったそのとき、
「彩音! 由乃!」
 背後から名前を呼ばれて、ふたり同時にふりかえった。


 腕時計を見ると、三十分ほど経っている。美香はスマホを片手に、遅いな、と呟いた。壁にもたれかかったまま、後ろの廊下をふりかえった。礼紗が出てくるようすはない。
 トイレに行った彩音と由乃を見送り、ふたりで帰ろうとしたところ、茶道部の礼紗が茶室に忘れものがあると言ったので、三号館に向かった。茶室は一階の、人通りが少ない場所にある。美香は彼女を待って、茶室近くの古い昇降口に立っていた。
 吹奏楽部の演奏が聞こえてきて楽しい。しかし、ひとりで誰かをじっと待っているのは根気がいる。ほんの十分ほどで済むと思っていたぶん、なおさらだ。すぐ戻るって言ったくせに、まったく。イライラしてきて、礼紗のケータイに電話をかけようとした矢先、昇降口のドアが勢いよくひらいた。美香の肩がびくりと跳ねる。
「ごめんっ、待たせた!」
「もう、ほんとに遅いよ。帰り、アイスおごってね」
 苛ついていたことを隠すように笑いながら言ったが、礼紗の表情は険しかった。「冗談だって」と訂正するが、言い終わる前に「美香」と遮られる。
「歩きながら話す」
 その真剣な目つきに圧倒され、美香は言葉に詰まった。敷地の外へ出て、しばらくふたりとも無言のまま歩いた。学校の校舎が見えなくなるほど遠くまで来たところで、礼紗は決心したように、すうっと深く息を吸いこんで、言った。
「すぐには信じてくれないかも知れないけど、美香。あんたのブログや小説を荒らしてるのは、彩音と由乃だよ」
 美香の足がぴたりと止まった。礼紗はめいっぱい顔をしかめている。その表情が真実味を帯びていて、しかしすぐには受けいれることができず、美香は「まさか」と笑った。
「だって、いつもどおりじゃん。今日も一緒にお昼食べて、休み時間もしゃべってて。そんなことしてたら、できないでしょ?」
「うん、あたしも最初はそう思った」礼紗が先刻よりずっとちいさな声で言う。「でも、聞いたんだ。さっき、三号館のトイレで、彩音と由乃が陰口叩いてた。ブログのこと、超大声で馬鹿にしてた。すごい笑い声だったよ」
「それって」一瞬、美香は言葉に詰まる。「もしかしたら、別の誰かかも」
「ううん。廊下を歩いてるとき、なんかすごい爆笑が聞こえてきて。トイレの中を覗いたら彩音と由乃がいた。ケータイ見ながら、美香がブログに書いたこと馬鹿にしてた。なんか、法律のこと間違ってるとか色々。これコメントで教えてやろう、ブログ閉鎖させようって話してた。そりゃ、あれ全部がふたりの仕業だとは思わないけどさ。前に見せた掲示板のスレッドあったじゃん? あそこで話をしてまわってるんじゃないかな」
「そんなの……」
「ごめん、言おうかどうか迷ったんだけど、友達だからこそ言わなきゃなんねえと思ってさ。美香だって、彩音と由乃とは仲いいけど、多少は腹に獣飼ってるでしょ?」
 獣。
 人ならざるもの、人の傍に常にあるもの。
 美香は思わず、自分のおなかを押さえた。熱を孕んだ、大きく重たい肉塊が、ぐるぐると内臓をかき乱しているような気がして、吐き気がこみあげてきた。指先に力を入れると、ワンピースに皺が寄る。

 ――彩音と由乃が、私のブログを荒らしてる。

「毒舌、遠慮のなさ、口の軽さ。彩音の欠点なんて、一度あげはじめたら止まらねえし。それ知っていながら、『空気を壊したくない』『ノリが悪いと思われたくない』とか言って、無意識に我慢してきたでしょ? 彩音がいない場所で私が愚痴ったときも、美香、貼りつけた笑顔で否定するばっかだしさ。悪いって思ってんじゃない? 悪くなんかないよ。そうやって陰口をみんなと共有して、ストレス発散するから嫌な友達とも卒業まで一緒にいられるんだよ。彩音のこと、無理に全部受けいれようとしなくてもいいんだよ」
「全部……」
「今回のこと、彩音が加担してるのは確かだよ。彩音が悪い。擁護しなくてもいいんだって。優しい女の子になんか、ならないで。あたしだってショック受けてるんだから。我慢してつづける友達なんて、本当の友達じゃないよ。ああいうことする子だったんだよ」
 本当の友達。その言葉に、美香は両耳を同時に引っ張られたような気がした。
 例えば私に、クラスに、りぃのような友達がいたら。きっと彩音を怒鳴りつけて、彼女の胸倉をつかんだり机を蹴ったりして、守ってくれたに違いない。だけど、りぃはいない。身を呈して私を守ってくれる親友が、ネット上には、いる。だけど現実には、いない。
 ネット上にいる人は、現実にもいるんだ。それがたまたま彩音だったんだ。
 どうして? 荒らしって、汚くて臭いオタクじゃなかったの? どうして、友達が多くて人気者の、学年主席の常連で、同じクラスの、同じグループの、あの彩音なの?
 足元がおぼつかない。指先から溶けてしまいそうだ。
「ごめん、少し落ちつきたい」
 美香はそう言って、顔の前で手を合わせた。礼紗は心配してカフェに誘ったが、美香はすべて断った。とにかく状況を整理したかった。自分の中で、自分の中にある獣と対峙すべきだと思った。礼紗は「ひとつだけ安心していいことがあるよ」と言った。
「ふたりとも、みぃなが美香だってことには気づいてなさそうだった。途中から聞いたから確信持てないけど。もしそうだとしたら、単にあのふたりは相手が美香だってことを知らず、ネットで中傷して楽しんでるだけだよ。こう言っちゃ悪いけど、だから本人たちに悪気はないんだと思う。美香だって分かってたら、さすがにここまでしないでしょ」
 またメールする、と言って礼紗は駅のほうに歩いていった。美香はその場にしばらく立ちつくして、見えなくなった背中を探す。三十分ほど、ぼんやりと立っていた。車のクラクションで現実に引き戻されると、やがてふらふらと歩きはじめる。
 駅前に来たとき、同じ高等部の制服を着た、見覚えのある男女を見つけてマクドナルドのほうを見やった。入り口前の列に並んで談笑している四人組。白いワンピースの女子制服に、男子のブレザー。いちばん大きな声で笑っているのは、やはり彩音だった。その横には当然のように由乃がいて、彼女らの後ろに並んでいるのは、風宮と、夏樹だった。
 美香は息をのんだ。四人は何やら親しげに話し、弾けるように笑っている。あの無口無表情の由乃や、控えめの夏樹ですら、大口をあけて笑っている。どんな話をしているのだろう。美香は吸い寄せられそうになりながら、しかし足を止めた。人ごみを挟み、離れたところから四人を注視する。
 かすかに、彩音の「ああ、ウェストウッド監督のやつやんな?」という声が聞こえた。映画の話なのか。そういえば最初に自分のブログが荒らされたきっかけも、映画に関する間違いだった。礼紗の、彩音と由乃が荒らしの中にいる、という話がふいに重みを増す。無邪気に笑う美少女の肌がどろりと濁って、緑とも青ともつかない色になる。
 美香は自分の下唇が震えるのが分かった。ネット上で人を散々に中傷しながら、リアルでは自分の好きな男と仲よく買い食いをしている。彩音は、自分の親友が風宮に片思いしていることに気づいていないのだろうか。確かに、話してはいないけれど。
 彩音。あなたは今、何を考え、何をしているつもりなの?
 悔しくて、色んな思い出がフラッシュバックして、自問自答して。ここで彩音に見つけられて、「一緒に食べようや」なんて言われても、自分はきっと断るだろう。そして、そんな彼女の無邪気さに、心臓を縄で縛りあげるような痛みをまた味わうのだろう。
 気がつけば、美香は自宅の最寄り駅にいた。いつもの電車に乗って帰ってきたはずなのだが、記憶がすっぽり抜け落ちていた。時間が過ぎている感覚だけが明瞭だった。盛り土をして敷地を高くしてある自宅。美香は自分の部屋に駆けこみ、パソコンをつけた。ブラウザで大型掲示板をひらく。
『学年主席頭悪すぎワロスwww』『いくら名門とはいえJKにどんだけの知識求めてんだよ』『↑と本人が供述しており』『侮辱罪と名誉棄損って細かいニュアンスは違ってくると思うんだけど、憲法違反はさすがに吹いたわ。こう言えば相手を威圧できると思ってるのは幼稚ってばっちゃが言ってた』『もうこれは嘘じゃね? お嬢様ごっこしてるだけの庶民とか』『成績と頭の良さはやっぱ別物だな』『【速報】学歴社会終了』
 美香はスレッドを心底恐れながら、それでも一気に読んでしまった。この書きこみのどれかが、彩音と由乃かも知れないって言うの? どれが彩音で、どれが由乃なの。学校ではニコニコ笑っていながら、裏でこんなことばかりしていたなんて。信じたくない。マウスを持つ手が震える。入学式で握手を求めた彩音。「同率とかすごいやん! これからよろしくな!」と、満面の笑顔を浮かべていた彩音。私に抱きついて喜んでいた彩音。人気者の村井彩音。その裏の顔。
 にわかには信じられなかった。だけど礼紗が嘘をつくとは思えない。ましてや彩音の欠点もいくらか把握している関係で、あの子がネット上で全く荒らしをしないと断言できるか、と聞かれればおそらくノーとこたえる。
 怒りと失望と、カテゴライズに困る雑多な感情が混ざり、冷たい諦念が美香を包む。
 鼻水を啜る。涙を耐えた。パソコンの画面を力いっぱい殴りつけたかった。
 どうして私が、と呟く。
 彩音と由乃は、多少苛立つ行動もあったけれど、確かに大切な友達だ。毒舌家だが馬鹿素直な彩音はよく自分を褒めてくれたし、根暗だが由乃の冷静さには常々感服していた。卒業しても年賀状のやりとりができるような関係には、なっていたかった。
 だけど、と美香は思った。たとえみぃなが自分だと気づいていなくても、彼女たちはネットで見知らぬ人を誹謗中傷して、平然と学校で楽しく笑っていられる人間だったのだ。ネット社会に溺れた現実逃避者たち。ネット情報を信じ、匿名で他人を傷つけ、ストレスを発散している。
 ――あれが彩音の本性なんだ。
 そう認めたとたん、これまで一緒に過ごしてきたまぶしい日々が、一気に透明な闇の中へ突き落とされたような気がした。落下する四肢。すでに壊れていた絆。
 そうだ、そもそも彩音は本音をTPO関係なしに言う子なのだ。あの毒舌をマイナスのベクトルに生かしたのが匿名のネットだ。本性は犯罪者予備軍だったのだ。そう気づけただけでもじゅうぶんな収穫だ。
 こんな人間にもう関わっていられない。同級生なのはどうすることもできないが、せめてその本性を剥きだしにしたネット上の彼女だけでも、ブログから追い出せないか。
 美香はすぐに、検索ボックスに「荒らし 対処」と叩きこんだ。トップに出たサイトを熟読するが、まるで役に立たなかった。サーバーを指定してアクセス制限をかけたら、善良な読者の人にまで迷惑をかけてしまう。かといって荒らしコメントがなくなるほど語句制限をかけようとすると、普通の書きこみまでできなくなる。コメントを全て消す作業も考えたが、あまりにも数が多すぎる上に、大型掲示板の書きこみまでは消せない。何より、コメントを消してしまえば、荒らしに負けたような気がする。
 警察に通報する方法も書かれていたが、『生活が困難になるほどでなければ刑事訴訟まで起こせない』と添えてあった。警察庁のサイトや質問サイトにも『コメントの削除』『アクセス制限』など、同じことのくりかえしだった。急に恥ずかしくなった。認めたくはなかったが、こんな荒らし行為はどこにでもある、慣れている人なら簡単に無視できるレベルなのだと思い知った。万策尽きたか、と椅子の上で脱力する。
 もう閉鎖するしかないのか。そうすれば、彩音と由乃もいずれ飽きるだろう。みぃなが私だということに気づかないまま、明日も笑顔で声をかけてくれる。もういいんじゃないか。いつもどおりの日常がつづくんだ。四人でお弁当を食べられる。移動教室も一緒で、放課後も一緒で。今までと何も変わらない。ブログの情勢に一喜一憂しなくてもいいのだ。それでいい。――私が黙っていれば、誰も傷つかずにすむんだ。
 大丈夫。そうやってしのぐことは慣れてるじゃない。
 美香はゆっくりと、管理者画面の『退会する』を選んだ。『完全に削除する』ボタンをクリックしようとすると、ふと、数時間前に見た光景が脳裡に浮かんだ。マクドナルドの前で談笑するふたり。少年漫画が好きな風宮と、彼と同じ漫画を読んで夢中になる彩音。じわりと滲んだ彼らの笑顔。あの無邪気な笑顔をふりまいた数時間後には、ケータイで私のブログを見て嘲笑っている。アホやなこいつ、また自慢しとるわ、と思い無表情にケータイをいじって中傷のコメントを書く。そしてまた風宮と仲良く話して、ネットで人を傷つけているとは微塵も思わせない笑顔で、友達に囲まれて、学年上位も取って……。
 ――駄目だ。
 ハッ、と素早く息を吸いこんだ。それを無理やり止めて、上下の唇をまとめて噛む。マウスを慌てて動かし、りぃのブログの新規投稿画面にアクセスした。
『お前ら人を中傷する人生楽しい? なあ楽しい?』『学校で泣いてばかりの優しいみぃなにどんだけ残酷なことしてんだよ!』『自分が正義だと思ってるとか神経大丈夫? 黄色い救急車呼んでやろうか?』『誰かの優しさに涙したことあんのかよ? 人に愛される資格もねえよクソボケ! 一生結婚すんな!』『漫画やアニメばっか見てねーで、美しい音楽や芸術品に触れたりしたら少しはみぃなみたいな成人になれんじゃね? まー腐ったゴミはリサイクルできねーか!』『一生幸せになる資格ねえよ犯罪者!!』
 熱気をめいっぱい叩きつけた長文記事を投稿したあと、ベッドにばさりと倒れこんだ。シーツを強くつかんだ手が小刻みに震える。気分を変えようと思って、男性アイドルグループのCDをプレイヤーで再生した。しかし、大好きな歌声も今はうまく聴こえない。
 耐えられない。私をこんなに傷つけておきながら、彩音が風宮と一緒に放課後、買い食いをして笑っているのが。理不尽だ。私は必死で戦っているのに、当の加害者たる彩音はブログが消されたら飽きるだけ。何も痛まない。自分はこの心の傷を一生引きずるかも知れないのに。それどころか、閉鎖してしまったら彩音の思うつぼだ。荒らされ損だ。ここは風宮との恋が叶う場所なのに。
 ――絶対に閉鎖なんかしない。
 許せない。犯した行為を自覚させたい。彩音が後悔するまで、みぃなを恐れて逃げるまで、彼女を自由にさせたくない。やらなきゃよかった、と思わせたい。叩き潰したい。
 ベッドから起き上がり、美香はふたたびインターネットにつないだ。りぃのブログは早くも罵詈雑言で荒れている。『なんかこいつのほうが必死すぎる』というコメントを無視し、みぃなのブログでいつもどおり『りぃちゃん、ありがとう!』という記事を書こうとした。が、荒らしコメントの海の中に、見かけない名前を見つけた。
『いつもROM専なので、初めて書きこみします。みぃなさん、最近ずっと荒らされっぱなしなのに、気丈に立ち向かってて凄いと思います。そんな強い心を持っているから、いじめにも勝ったんですね。負けないで! 頑張って! :歩美』
 短い書きこみだったが、美香はふわふわとした綿のようなものにつつまれたような気分になった。ROM専とは、コメントをせず、閲覧に徹している読者のことだ。いつも荒らしたちに対抗している姿が、ROM専の心にも響いたのだ。優しいぬくもりがじわりと胸に広がる。見知らぬ女の子の言葉が、こんなにも勇気を奮い立たせる。
 負けたくない。こんなことで挫折するような弱い人間になりたくない。強くなりたい。逃げない人間になりたい。この戦いの先には、しあわせな未来が待っているはずだから。
 彩音のようには絶対にならない。
『歩美さんへ コメントありがとうございます! 最近ずっとこんな調子ですが、みぃなは元気です。いちいち気にしていたらもちませんからね* それにみぃなは、喧嘩も得意なんですよ☆ 本気で論破しようとしたら、こんなカワイイいじめしかできない人には負けません! そうでもなきゃ、秀一くんにも真っ向勝負できないですしね!』
 畳から香る優しい藺草の匂い。嵐の歌声とマシンガンじみたキーボードの音が、頭の中で複雑に混ざる。いつの間にか、梅雨の空気を纏った粘っこい小雨が降っていた。
2013-10-03 00:59:59公開 / 作者:アイ
■この作品の著作権はアイさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
3話ぐらいで完結させようと思っています。

念のため記載させて下さい。
何かとツッコミどころが多いですが、この作品は完全なフィクションです。執筆時期は2010〜2011年です。
私の実体験などではなく、実際の事件や誰かの経験談とは無関係の、100%空想上の物語です。
特定の個人や団体や既存の作品を皮肉ったり批判するものではありません。
また、主人公たちの思想や価値観は私自身の考えを投影したものではなく、あくまで彼女たちのキャラクター、性格、個性として一から創作したものです。
彼女たちの意見が必ずしも私の意見と一致しているわけではありません。
作品にある彼女たちの犯罪行為やいじめなどに対しては、糾弾する姿勢でいます。

エンターテイメントとしてお楽しみください。
この作品に対する感想 - 昇順
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