『夏の火まわり 【完結】』作者:ゆうら 佑 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
年に一度のお祭りに行われる「火まわり」は、町の夏の風物詩だ。山上の神社を出発した五本の松明は、人びとの手から手、手から手へと受け渡され、町をひとめぐりして神社へ返される。その町に住む羽合まどかは十五歳。高校での新しい生活に胸をときめかせていたのも束の間、思わぬ不幸に見舞われる。それを合図にしたかのように、その年の夏、数奇な運命が次々と町をおそう。
全角89464文字
容量178928 bytes
原稿用紙約223.66枚
■第1章 春から夏


◆1−1 学校

 あれから五年経って二十歳の誕生日を迎え、成人式も済ませてから羽合(はわい)まどかは思うのだけれど、当時の彼女は臆病で、優柔不断で、行き当たりばったりで、どうしようもなく出来の悪い子どもだった。そしてさらにわずか数年の時間を遡れば、少し不安なことがあっただけで泣いてしまうような子どもでもあった。生まれた町以外のものを知らず、幼なじみ以外に友達もおらず、あの慣用句に出てくるような、カエルの住む井戸のような狭い世界しか知らなかった。よく父親から「ぼーっとしすぎている」だの「もっとアンテナを立てて生活しなさい」だのといわれるのに、そのときはその言葉の意味がわかっていなかった。まどかは確かにぼーっとしていて、アンテナも携帯の画面にぴんと立った三本にはほど遠かったけれど、十五歳のまどかは、それで十分頑張っているつもりだったのだ。

 二月は逃げる、三月は去る。そして、四月は知る季節だという。新年度が始まる四月は、確かに新しいことをたくさん知る月だ。とくに、その年のまどかにとって、四月は大きな事件だった。何しろ町からほとんど一歩も出たことがなかったにもかかわらず、高校に進学し、毎日自転車とバスで片道二時間かけてそこに通うことになったのだから。
 思い返してみればたしかに事件なのだけれど、当時のまどかにとって、それは自然な成り行きだった。幼なじみで高校まで行く人は少なかったけれど、家庭が比較的恵まれていた彼女は、当たり前のように進学を選んでいた。同級生で双子のように仲が良かった三倉すずみは、当たり前のように中学を卒業してすぐ働き始めてしまったというのに。この件でも、まどかはぼーっとしていたのかもしれない。ぼーっとしているうちに、足元に敷かれていた進学というレールに、いつの間にか乗っていたのかもしれない。
 両親はともに町の出身で、町の中で結婚した。そして新しい家を借りて住んだ。母は穏やかな性格でどこからどう見ても完璧な主婦だったのだけれど、父は、少なくとも町の中では、変わり者だった。伝統とか古いものとかが大の苦手で、町の恒例行事や独特のしきたりを良く思っていなかった。旅行に行っても寺や城は決して見ようとしなかった。けれどそれは、むやみに古いものを嫌っていたのではなくて、ただ単に古いからという理由でそれらを崇め奉る雰囲気を軽蔑していたのだった。いつの時代にもそういう人はいる、と、今のまどかはそうやって冷めた目で見ることができる。そんな彼でも昔のお芝居や人形劇は好んで何度も観にいっていたので、古くても、伝統に縛られていても、おもしろいと思うものは認めていたようだ。結局のところ、自分の好き嫌いにやたらと忠実であるという、まとめるとそういう人なのだとまどかは思っている。
 さてそんな父親だから、自分の一人娘を田舎の町で腐らせることには満足できず、外の世界に出て自由に勉強することをしきりに主張するのだった。もうずっと昔から、まどかが小学校に入学する前からそんなことをふきこまれるものだから、まどかが高校進学を当然と考えていたのは無理もないことだった。母も反対しなかった。実際町の外では、男の子でも女の子でも高校や大学に行くのは当たり前だったのだから、その意味でまどかの父は「普通」の人だったのだろうし、本人もよくそういっていた。

 学校は隔離の場だ。家庭や地域から子どもを守る場だ。

 その特別な日、教室の窓際の席に、五、六人の女の子たちが集まっていた。一年生の教室は一階で、窓からは中庭の景色が見えていた。景色といっても中庭は観葉植物が雑多に植えられているだけの粗末なもので、決して美しいものではなかった。それでもまどかの記憶には、春の日差しを受けて光と影を交互に落としてくる、背の高いソテツの木が窓の外に立つ光景が、しっかりと残っている。暖かな風が吹いて、葉は何とも心地よさげな音を立てていた。
 まどかはゆっくりと、忍び足で教室を横切った。窓際の女の子たちに話しかけるために。今でもその時の行動を、顔から火が出るくらいに恥ずかしく思う。そのころはまだ天真爛漫な子どもで、自分の身の程も知らなかったし、ほおのにきびを恥ずかしく思う気持ちもまるでなかった。それだけ、子どものころのまどかは幸せだったのだ。
 どんな話をしているんだろうと、まどかは女の子たちの話を盗み聞きした。入試のときの話、入りたい部活の話、出身中学の話。自分の通った学校以外にもたくさんの中学校があって、たくさんの子どもがそこで生活していて、それからまたたくさんの子どもが高校に入学するのだということを、まどかはその時初めて実感することになった。楽しげに話す同級生たちを前にして、新しい世界に出て行く一歩に、まどかはとても緊張した。なぜ、彼女たち――新保由伊やほかの子たちが、そんなふうに楽しげに話せていたのかわからない。なぜ入学式の日に、初対面の人があそこまで仲良くなっていたのかわからない。それとも、全て演技だったのだろうか。わからない。まどかがはっきり覚えているのは、黒ずんだ床の木目と、はげかけた壁の白ペンキと、チョークの跡が全くついていないきれいな黒板と、そんな教室が目の回りそうなほど詰め込まれた大きな校舎だけだ。
 そのすべてに同年代の子供がすし詰め状態で入っていて、同い年と思われる子たちだけでも何百人もいた。世界にこれだけ多くの子供がいるということを、まどかはそれまで考えたこともなかった。何しろ中学校までで会ったことのある「同い年」は、幼なじみの三倉すずみ一人だけだったのだから。

 女の子の一人がまどかに気づいて、はてなマークを頭の上に浮かべたような顔をする。それに続いて、ほかの女の子たちもまどかを見た。まどかはどぎまぎした。髪をてっぺんでまとめてお団子にした、にきびの目立つ顔がさぞかし赤くなっていただろう。知らない人と面と向かって話すのは、ほとんど初めてといってよかった。
 女の子たちは顔を見合せる。その一瞬の間が、永遠に続くように感じられた。中の一人が、好奇心を持った表情で、元気よく「どこの中学?」と聞いてきた。
 まどかは、その年の三月まで自分が通っていた中学校の名前を答えた。反応は予想通りのものだった。
 えーあんなとこから、と、女の子の一人が驚いたようにいった。アイラインの入った目が大きく開く。
「めっちゃ遠くない?」
 うん、すっごい田舎、と、答えるまどかの舌はもつれた。それでもぎこちなく笑っていた。まどか自身、今から考えると笑ってしまうのだけれど、当時の彼女は、とにかく明るく明るく振舞おうと努力していた。そう、努力していたのだ。それほど暗い子どもではなかったし、町ではうるさいくらいにしゃべっていたのに。もし今の自分が五年前の教室にいたのなら、後ろから抱きついてでも、昔の自分を引きとめたいと思う。
 その中学校、全校生徒どのくらい?
 九人くらいかな……
 一学年?
 ううん、全校で。
 一斉に、えーっという声が沸き起こる。まどかは一瞬きょとんとしてから、照れたように笑った。みんなが関心を持ってくれたのが嬉しかったのだ。テスト、学校で一番になったことあるで、とまどかがちょっと誇らしげにいうと、なぜか笑われてしまって、まどかはまたきょとんとした。
 まどかにとっては妙な質問だと思ったが、一緒の中学の人はいるん? と聞かれた。いるはずがなかった。
 ううん、と首を振る。
 じゃあうちらとも仲良くしてよお。
 一人が何気なくいったその言葉が、まどかには嬉しいというよりも、驚きだった。その女の子の声も、口調も、表情も、まどかはそっくりそのまま思い出すことができる。目元はお化粧をしていたのだろう、女優さんのような顔立ちに見えたし、たっぷりした髪を肩のあたりでふわりと巻いた、まどかが見てもおしゃれとわかる髪形をしていた。一方のまどかは、子どもの時から変わらないお団子頭だった、毎朝お母さんに結ってもらう、かわいいお団子頭だった。
 うちらもみんな、ばらばらの中学やから。よろしく。うち、新保由伊っていいます。由伊やで、由伊。覚えてな。
 まどかも自己紹介すると、ほかの子たちに、よろしくね、よろしくね、と口々にいわれる。それから順番に自己紹介が始まる。そのときのまどかはうなずきながら、笑いながら、やはりびっくりし通しだった。こんなにたくさん「友達」ができるなんて。まどかにとって知らない人と友達になるのは初めての経験だった。それまで、友達になるのは決まって誰かの友達だった。たとえば隣に住んでいた千早たづきの遊び相手だったり、近所に住む刀祢さんちの晴ちゃんだったりした。一瞬のうちに、まるでオセロの黒が白に反転してしまうように、周りの子が一斉に友達になっていくことに、まどかが驚くのも無理はなかった。

 同じ中学の人いないんやったら、不安とちゃう?
 入学式の日、学校からの帰り道、自転車を押しながら由伊はいった。学校から駅まで伸びる遊歩道は、オレンジと灰色のタイルで覆われた平らな道だった。西日が反射して、埋め込まれた雲母がきらきらと光っていた。もちろん、そのころは雲母なんて知らなかった。
 由伊の質問に、うん、まあ、とまどかは曖昧にうなずく。
 二人が歩く遊歩道の脇を、自動車が何台も走り抜けていった。黒いのや、白いのや、シルバーのが、日差しをいちいち反射させて走っていく。まぶしくて、まどかはそのたびに手を目の前にかざした。ほかの女の子たちはみんな部活見学に行ったのに、由伊だけは行かなかった。まどかも行かなかった。そして、二人とも向かうのは駅だった。
 まどかと同じ中学に通っていた人は、みんな違う高校に行ってしまったのか――というようなことを由伊が尋ねた。ううん、とまどかは首を横に振る。なぜ由伊が、子供は高校に行くという前提で話をしているのかがわからなかった。
「どうゆうこと?」
「仕事したり、とか」まどかは考え考えつぶやく。
「就職するん?」
「まあ、そう」
 へえー、と、由伊は目を丸くした。夕日に照らされた茶色い目は、教室で見るより明るい色に見えた。
「珍しいなあ」
「そうかなあ」まどかは首をかしげた。
 えー、だって、仕事見つけるん大変そうやん、と由伊はいった。彼女なりに言葉を選んでくれたのかもしれない。しかしまどかは理解していなかった。
「そうでもないと思うけど……おうちの仕事を手伝ったり、お店の跡継ぎになったりとか。お寺や神社で働いたりとか。あと、おうち以外のお店でも働けるし。でも、たまに、外に行ってしまう人もいてるよ」
 まどかはそこで口をつぐんだ。そのときまどかが考えていたのは、幼なじみの朝来(あさご)のことだった。幼なじみといっても三つ年上で、まどかにとってはお兄さんだった。中学を卒業してしばらく町にいたあと、この冬から外に働きに出て行ってしまっていた。あまり良い職場に巡り合えずに苦労していたに違いない。けれどまどかは、朝来が町を出てしまって寂しい、とか、住み込みの仕事ってかっこいい、とか、そんなたわいもないことしか考えていなかった。
 ふーん、と、由伊はしきりにうなずいている。
「変わってるわあ」
 由伊が感心したような、不思議がっているような口調でいった。
「そうかなあ。そうなんかなあ。まあ、そうなんかも」
 まどかは心細かった。由伊に嫌われてしまうんじゃないか、という不安と、恐さが、心のどこかにあった。
「だって、普通はみんな高校行って、それから大学行って、それから就職したりするやん」
 由伊が事もなげにいった。そっかそれが普通なんやあ、と、今度はまどかが感心した。まるで聞いたことのない話だったし、町からは大学どころか高校に行く人もほとんどいなかったのに、まどかは信じた。たぶん一つは父親の教育の賜物だろう。そしてもう一つは、それが新保由伊のいった言葉だったから、なのだろう。まどかは新しい世界を見た思いで、心底驚いたようにいった。
「わたしの町なんか、最近初めて大学行った人がいてるくらいやのに。撫子(なでしこ)さんっていう、優しいお姉さんなんやけど……」
 楽しそうやなあ、まどかちゃんのご近所、と由伊はつぶやいた。
 じゃあ、今度遊びにきてよ。
 何気なく、まどかはそういっていた。
 ほんまに? ありがとう。
 その時由伊が本気でそういったのかどうか、まどかにはわからない。
「じゃあまどかちゃんは?」ふいに、由伊に尋ねられる。
「わたし? 何が」
「大学行くん?」
 まだわからん、と、まどかはちょっと笑った。
「でも、行きたいかなあ。お父さんも、行けっていうし。一人暮らしって、ちょっとあこがれる」
 だよねー、と、妙なイントネーションで由伊も笑った。
 見知らぬ土地での一人暮らし。恐さとどきどきが、ない交ぜになったような気持ち。子どものまどかにとっては一人で生活することなんかできるはずもなかったのに、夢は胸の中でどんどんふくらんでいくのだった。
「大学行って、素敵な人見つけて、それで結婚して、幸せな生活送れたらええなあ」
 えっ、と、まどかは目を丸くして由伊を見つめる。
 由伊は笑う。「何よお。あの、まどかの知り合いのお姉さんやっけ、その人も彼氏ぐらいいてるんとちゃうん?」
「うん、そういえば夏に結婚するって……」
「ほらあ、ええなあ」由伊はだらりと腕を広げて夕暮れの空を仰ぎ、ため息をつく。「みんなそうなんやあ。あ、まどかちゃんは、今彼氏いてる?」
 いてへんわあ。
 じゃあ好きな人は?
 まどかは顔を夕日の色に染めたまま、黙ってしまった。

 二人は駅で別れた。朝は灰色だった駅の壁面が、今は西日をまともに受けて輝くように赤かった。「また明日」で別れて由伊は改札を通り、まどかはバスに乗るためにロータリーに向かった。町に帰るには、一時間ほどバスに揺られて、それからまた一時間ほど自転車で走らなければならない。直接町に向かう便があるにはあるのだけれど、その時間にはとっくに運行を終えてしまっていた。一日二回しか走らないバスを、まどかはこのとき初めて不便だと思った。
 どうしても帰りは遅くなる。だから、部活には入れなかった。由伊ちゃんはどの部活に入るんだろう、バレー部だろうか、テニスかもしれない、そんなことをぼんやり考えながら、バスに乗りこんだ。片足をステップに乗せたときのちょっとした振動が、まどかは好きだった。大きなバスが、むずがりながらも優しく自分を乗せてくれたような気がして、申し訳ないような、嬉しいような気になった。その日も中には誰も乗っていなかった。入学する前から何度も母親と乗る「練習」をしたバスだから、何も不安はなかった。
 まどかは一番前の左側、降車ドアのすぐそばの、少し高めの席に座った。そこがまどかのお気に入りだった。大きなフロントガラスから見える景色はもの珍しかったし、よくわからない機械や大きなハンドルを操る運転手さんを見ているのもおもしろかった。高校に入るまではほとんど乗ったことがなかったのに――いやむしろ乗ったことがなかったために、バスに乗ることが通学の楽しみになりそうだった。
 発車の時刻が迫り、運転士が戻ってきた。
 不機嫌そうな顔をした、髪の真っ白な初老のおじさんだった。礒橋勝(いそばしまさる)さん。プレートに書いてある。母と「練習」のために乗った時も、よくその人が運転していた。いつも口をへの字に曲げているし、まったくしゃべってくれないから、まどかはあまり好きではなかった。「早いね」「お帰り」などと、町の大人はみなよく声をかけてくれたものだったからだ。
 ブザーが鳴って、扉が閉められた。振り返ってみたけれど、乗客はまどか一人だった。バスはゆっくりと駅前のロータリーを回り、片側二車線の国道に出た。まどかはほっとため息をつく。じゅうたんのような生地の座席にもたれかかる。バスに小刻みに揺られながら、まどかはその時、それから始まるはずの高校生活のことに思いを巡らせていた。
 バスは国道をすいすい走る。
 高架の下に差しかかろうとした時だった。
 まどかはそのときのことを、今でも鮮明に覚えている。大きなフロントガラスの向こうに、まどかは奇妙な光景を見た。
 雷が落ちたような音とともに、何か大きなものが降ってきた。衝突した。次の瞬間まどかの体は浮きあがり、ぶ厚いフロントガラスを突き破って外に投げ出されていた。
 何が起こったのか、すぐにはわからなかった。怖いと感じるひまもなかった。

 気づくと、まどかは地面に倒れていた。動こうとしても、動くことができない。痛みがあるような、ないような、不思議な感覚がした。夢の中にいるような錯覚もおぼえた。ただかすむ視界の中に、不規則に並んだアスファルトの黒い粒と、そのまわりにくっついている白い砂が妙にはっきりと見えていた。目から涙があふれたのが、鼻やほおを伝うぬくもりでわかった。もしかしたら血だったのかもしれない。
 ぺた、ぺた、ぺた。
 小さな足音が聞こえた。
 ぺた、ぺた、ぺた。
 それは、死神の足音でも疫病神の足音でもなかった。まどかの目の前に現れたのは、小さくて白い何かだった。何となく、あんまんに色や形が似ていると思った。町の甘味屋で売っている、ほかほかおいしいあんまん。たづきくんの大好きなあんまん。それは毛だらけの体を小刻みに揺らし、おぼつかない足取りで、まどかの顔の前をうろつきまわった。
 ぴよ、ぴよ、ぴよ。
 一匹じゃない。たくさんいる。
 オレンジ色の、痛々しいくらいに細い足を必死に動かして、つぶらな黒い瞳をあっちに向け、こっちに向けしながら、機械の部品が散らばった道路の上を歩き回っている。
 そのうちの一羽がぴよぴよ鳴きながら、まどかの首もとにすり寄ってきた。あったかくて、くすぐったかった。誰かに抱きかかえられたような気がした。薄れゆく意識の中で、救急車のサイレンを遠くに聞いた。
 まどかの新しい世界は、こんなふうにして幕を開けた。


◆1−2 病室

 日差しがまだやわらかい朝の時間だった。
 まどかと目が合うと、千早(ちはや)たづきは観念したように病室に入ってきた。
 そして、大丈夫? と、だしぬけに聞いてきた。言葉を選んで、選んで、でもうまく選びきれなかったのだろう。まどかは大怪我をしたのだから、どう考えても「大丈夫」なはずがなかった。
「うん、もうだいぶ良なったで」
 ベッドに上半身を起こしたまま、まどかは答えた。全身包帯と湿布だらけだったけれど、もうしゃべれるくらいにまで回復していた。本当は寝ていたほうが楽だったのに、たづきが来ることがわかっていたから、まどかは朝からずっと座っていた。服もちゃんとよそ行きのを着ていた。それは四月の終わりだった。
 よかった、元気そうで、とたづきはいった。その表情も、言い方も、どこかぎこちなかった。その理由は、今のまどかなら何となくわかる。けれど十五歳のまどかは、たづきの顔を見ただけで舞い上がってしまっていて、相手のことなんか気にする余裕もなかった。
 たづきは朝来と同い年、まどかよりたづきのほうが三つも年上だったのに、彼はもうまどかを子ども扱いしなかった。もう、小さかった頃のように、ばかにしたり遊んだりしてはくれなかった。それが嬉しかったり、ちょっぴり寂しかったりした。特別な関係、といえば特別な関係だったのかもしれない。もちろん変な意味ではない。幼い頃は家が隣同士で、家族ぐるみの付き合いで、二人はいつもきょうだいのように遊んでいた。町に幼なじみはたくさんいたけれど、その中でも、たづきとは一番目か二番目くらいに仲が良かった。
 ぴよ。
 と声がして、シーツの中から一羽のひよこが這いずり出てきた。ぴよぴよいいながら、ベッドの上でまどかの周りを歩き回っている。小さな足を必死に動かして歩く様子は、毛玉が転がり回っているようだ。けれど元気がよすぎて、足を踏みはずしてベッドから落ちてしまった。
 おいおい、と、たづきがおっかなびっくりひよこを拾い上げて、手のひらでそっと包み込んだ。ひよこは太い指から逃れようと体をくねらせ、ぴーぴーやかましく鳴いた。
 何こいつ、と、たづきが困惑しながら聞いた。少し嫌そうな顔をしていた。子どもの頃は犬でも虫でもトカゲでも何でも触っていたのに。なぜかはわからないけれど、大きくなっていくにつれ、自分以外のものが少しずつ嫌いになっていくのは誰でも同じだ。
 ひみつ、とまどかはいった。
 事故から三週間以上が経っていた。あの時の状況はこうだ。国道の上を横切る高速道路で起こった衝突事故でトラックが横転、はずみで車体の一部が高架下に落ちてしまった。高架下を走っていたバスは、落下してきた荷台にぶつかり、急停止した。そして、まどかは投げ出された。
 事故を起こしたトラックは、養鶏場に向かう途中だった。積んでいたのは、四千羽のひよこ。生まれたばかりの、そして数か月後には大人になって卵を産むかお肉になるかする、ニワトリの赤ん坊たちだった。
「ありがとう」まどかはたづきからひよこを受け取る。節くれだった指の間から、小さな体がまどかの手にぽとりと滑り落ちた。そっと撫でながら、かわいいわなあ、とにっこり笑った。たづきはうなずき、そうやな、と答えてから、
「ええん? 病院で動物飼ってて」と聞いた。
 だから、ひ、み、つ。まどかはえへへと笑いながら、ひよこをまたシーツの中に押し込んだ。エサやその他の世話をどうしていたのか、今となってはまどかはよく覚えていない。それでもぴーちゃんと名付けたひよこは三週間のあいだ健康そのもので、みるみる大きくなっていた。もう、あんまんのようではなかった。
「でも、まどかのとちゃうんやろ?」
 何気ないたづきの言葉に、まどかはどきりとする。指先で羽毛の感触を確かめながら、まどかはあいまいに笑った。たづきも、まあええか、といって言葉をにごした。
 それからたづきはベッドのそばの丸椅子に腰かけたまま、しばらく黙っていた。
 何か話したいのか、それとも話すことが何もないのか、たまにまどかと目を合わすだけだった。何度目かでついに、なに、とまどかはいった。いってからふとにきびが気になり、うまく動かない左手を顔に持っていく。
「いや」たづきが目をそらし、窓の外を見た。「だいぶ長いこと入院してもたなあ、って。新しい生活、始まったばっかりやったのにな」
 入学早々こんな目に遭った自分をなぐさめようとしているのだろうかと、まどかは思った。もしかしたらお見舞いに来たのだって、そのためなのかもしれない。それなのに黙っている。優しいくせに不器用だ。竹細工を作る時の、繊細な手つきとはまったく正反対に。
 友達できたんよお、とまどかがいうと、たづきは意外そうに顔をあげた。
「由伊ちゃんっていう子と、亜希子ちゃんっていう子と、樹理ちゃんっていう子と、あと誰やったっけ……」
「よかったやん」
 しかし指を折りながら友達の名前を並べるまどかの顔が、わずかに曇った。
「どうしたん?」
 まどかは顔を伏せたままだ。
 そしてようやく、小さな声を絞り出すようにして、いった。
「もし、もしな……。わたしが、こんな長いこと入院してるせいで――まだまだリハビリもあるし、なかなか退院できやんのよ――高校の人らに、置いていかれてもたら、どうしようって」
 大丈夫やろ、とたづきはすぐにいった。
「ちょっと、スタートが遅れるだけやん。全然、気にするほどの差とちゃうって。ほら、山吹も長いこと高校休んでたみたいやけど、もう問題なく行けてるみたいやし。……別に、まどかが悪いんとちゃうんやし、みんな、助けてくれるやろ? 先生とかも。勉強の世話もしてくれるんとちゃうん? まどかが悪いんと違うんやから」
 たづきは高校に行っていない。中学を卒業してすぐ叔父に弟子入りしているからだ。そのためだろうか、まどかの高校入学をとても喜んでいた。まどかの将来を期待していた。そして心配もしていた。全寮制の高校にスポーツ推薦で入学した幼なじみの山吹――当時は高校三年生だった――が、体調を崩して町に戻ってきたことがあったからだ。
 たづきの言葉に、まどかはうつむいたまま、なるべく元気そうにいった。
「あ、電話きたんよ、高校の先生から。授業のことなんかはちゃんとまとめて整理しとくし、テストも何かわからんけど、助けてくれるって」
「よかったやん」
 うん! そういったまどかは、それでも顔を上げなかった。一方たづきはふと、特にわけもないのに、病室の壁の白さを気味わるく思った。まどかの背後の何もない壁が、ぱっくりと虚ろな口を開けているかのようだった。
「でも、誰も来てくれやん」まどかが寂しそうにつぶやいた。「由伊ちゃんも、亜希子ちゃんも、誰も、来てくれやん……」
 戸棚の上に、大きな花かごが飾られている。まどかのポーチには、幼なじみのすずみが持ってきたのだろう、回復祈願のお守りがいくつもぶらさがっている。枕もとの小机には何も載っておらず、そのうしろの壁の白さが際立っている。ベッドの脇に、町のみんなで作った千羽鶴が吊るされている。まどかの両親が持ってきた本やボードゲームの類が、あちこちに積まれている。
 枕もとの小机には何も載っておらず、そのうしろの壁の白さが際立っている。
「心配せんでええって」たづきはいった。「友達になったんやろ?」
 まどかはうなずいた。
「じゃあ、それ信じたらええやん」
 まどかはちょっと顔を上げて、シーツをじっと見つめながら、そやな、と笑った。
「うまいこといったらええな、高校生活」
 たづきの声は優しくて、どこも不自然ではなかった。ただ、彼がその時どんな顔をしていたのか、今のまどかなら容易に想像することができる。町の外のことを話すとき、あるいは町の外に出て行ってしまった人のことを話すとき、たづきがよくそうする顔。例えばたづきと年も近いけれど、外に働きに出てしまった朝来や、県外の高校の寮で生活する山吹、一人暮らしをして大学に通う撫子、そんな彼らのことを話すときの顔だ。
 数分は経っただろうか、かなり長い間黙ったあとで、たづきはぽつりとつぶやいた。
「まどかは、高校卒業したら、どうするん?」
 たづきに将来のことを聞かれるのは初めてだったので、まどかは少し意外に思った。
「うん、お父さんは、大学行ってもええんちゃうかって」
「お父さんは知らんけど。まどかはどうしたいん?」
 うん、とまどかはいったきり、答えに窮して、うつむいて、しきりに首をかしげるばかりだった。たづきも何もいわなかった。
 帰ってきてほしかったのだろう。
 いくらまどかの進学を喜んでいたとしても――まどかが町を離れることを望んでいるはずはなかった。自分は一生町から出られないのだから、なおさらに。
 もちろん、まどかには大学への憧れがあった。新しい世界がぼんやりと、けれど遠くないところに見えていて、まどかを引き寄せた。だがもし進学を勧めてくれる人が周りにいなかったら、そんなことは考えもしなかっただろう。由伊のような普通の女の子なら当たり前だったことでも。それでも閉ざされた町の中で、唯一まどかを外に導いてくれるのが父だった。子どもは自由にやりたいことをやるべきだ、生まれた環境で可能性をあきらめるべきではない、という言い分はもっともだと、まどかも思っていた。実際に、まどかは高校に入学し、その一歩を踏み出した。
「そうや、たづきくん」
 まどかはたった今思い出したように尋ねた。
「わたしらの町って、変わってるんかなあ?」
 何で? とたづきは聞き返す。その声のとげとげしさに、まどかは驚いて黙った。
「誰かがそういってたんか」
 うーん、とまどかはいいにくそうに、たづきから目を逸らせてうつむいた。
「高校行かんのは変わってるって。でも、変わってなんかないわなぁ? だってたづきくんも、すずみも、朝来くんも行ってないし」
 そうやな、とたづきは短く答えた。たづきは中学を出てから、叔父のもとで竹細工の修業を始めた。技と目と勘が要求される、職人の世界だった。けれどまどかは知っていた。ずっと昔から知っていた。それはたづきの意思ではない。そうしないといけなかったからだ。少なくとも、そうしないといけない、とたづきが思っていたからだ。
 別に変わってはないやろ、というたづきは、少し怒っているようだった。その口調は、どこかまどかを責めていた。
「わかってるよ。ただちょっと、……何ていうんやろ、普通とは違うんかなあ、って」
「普通と違ったらあかんのか」
 ちゃうよ、と、まどかは力なく答えた。たづきの顔を見るのが怖くて、腕の中に頭をうずめる。
「ちゃうけど、普通のほうがええやん」腕に巻かれた包帯を、恨めしげに眺めた。「今やってもう、十分普通じゃなくなってんのに」
「窓、もうちょっと開けるか」たづきはいって、立ち上がった。
 その声が意外と穏やかで、まどかはほっとした。
 まだ春先だというのに、病室は妙にむし暑かった。
 うん、とまどかもいって、体に掛かったシーツを少し押しのけた。ぴーちゃんが顔を出し、ぴよと鳴いた。たづきはベッドを回り込み、窓に近づく。もう既に窓は全開で、「もうちょっと」開ける余地なんかどこにもなかった。バスの時間が迫っていた。それでもたづきは、なかなか動こうとしなかった。
 暑いねえ、と、まどかがつぶやく。
 暑いなあ、とたづきが返す。
 もう夏、って感じ。
 そうか? 早いやろ。
 わたしだけ、春のままおいてけぼりにされそうな感じ。
 何じゃそりゃ、とたづきは笑った。


◆1−3 バス停

 病院の前のバス乗り場に、排ガスをまき散らしながらバスは停まった。生暖かい空気がたづきの体にまとわりつく。
『病院前、病院前です』運転士の無機質なアナウンスが響いた。
 前方にひとつだけある扉が開き、たづきは降りてくる客と入れ違いに乗り込んだ。その時、初老の運転士と目が合った。よく見る顔の人だ、と思う。頭に白い包帯を巻いているのが、制帽の下からちらりと見えた。彼はすぐに前を向き、いつもの気難しげな面持ちで、じっとフロントガラスをにらみつけていた。
 たづきの町と駅周辺を結ぶバスを、彼はよく運転していた。たづきは何となく、町と外の世界を結ぶ渡し守みたいなイメージを、彼に対して持っていた。町を囲む目に見えない河も、この四角い乗り物は悠々と乗り越えていく。閉ざされた町も、彼は自由に出入りできる。それが、十八歳のたづきにはとてもうらやましかった。自分とは別世界の人間として、紺の制服に身を包んだその運転士を見ていた。
 町に向かうバスだから誰もいないだろう、と思っていたから、乗客が残っていることにたづきは驚いた。そして、それが一人ではなく二人もいたのだから、もっと驚いた。
 ひとりは見知らぬ男だった。空いているのにわざわざ最後列に座った男は、暑苦しそうな黒のジャケットに身をくるみ、顔は野球帽で隠しているように見えた。
 もうひとりは真ん中あたりで二人分の席を占領し、地図のようなものを広げていた。たづきが乗ってきたことに気づいてちらりと目を上げる。目が合う。
 この男は知っている、とたづきは思う。けれど、誰なのかすぐには思い出せない。背が高く、短い髪はわずかに茶色く染められていて、さっぱりした縦じまのシャツを着ている。ネクタイはしていない。銀色の時計に、黒くて厚いかばん。それだけ見て取ったあと、たづきは男の真後ろに座った。バスが発車する。
 窓ガラスにこつんと額を預け、景色を眺めるともなく眺める。灰色のビルや、小さな郵便局や、和風の飲食店や、植木に囲まれたテニスコートや、場違いなファストフード店や、だだっ広い駐車場がのろのろと過ぎ去っていく。大きなエンジンのせいなのだろうか、足や腰に、気持ちの悪い振動がつねに伝わってくる。
 前の男が眺めていたのはかなり縮尺の小さな地図で、たづきの見慣れた海岸線や山の形がはっきり見て取れた。男は早々とそれをかばんの中にしまうと、しばらく小さなパソコンで何やら作業をしていた。三十分ほど経っただろうか、今度は雑誌のようなものを手に取って読み始めた。開かれたページは「商品になる人間」などと題された小難しそうな記事で、文字も小さいため読みづらかった。
 たづきが目をこらしていると、男はふいに雑誌を肩越しによこしてきた。口をぽかんとあけているたづきを、男は半ば振り返り、片目だけで小ばかにするように見つめている。
 たづきは舌打ちした。思い出したのだ。男は、たづきの町のことを嗅ぎまわっている記者だった。それまで半年も見かけていなかったから、とっくに手を引いたのだと思っていた。
「おう、ひさしぶり。すまん、きみ名前何やったっけ? 学校行かんでええんか? ああ、きみはもともと行ってないんか……」
 男はそんなことを早口につぶやくと、手を伸ばして窓際の降車ボタンを押した。ブザーが鳴る。前方の画面に示されているのは、たづきが降りる二つ手前の停留所だった。
「また、何か調べてんのか」
 たづきはいらだたしげにささやいた。バスが大きく揺れる。
「こんな田舎のこと調べて、何がおもしろいんや。新聞に書くことなんか何もないやろ」
 バスが止まり、たづきの体は一瞬、前に引っぱられる。男がかばんを持って立ち上がる。
「今はフリーや。フリーってわかるか? まあええわ。ところがなぜか、都会の人間には田舎の話がおもしろいんやなあ。とくに、こういう普通とちゃう所は」
「そんな変か?」たづきがにらみつける。
「さあな」男は噛んで吐き出すようにいった。「まあ良う思わん奴はいてるんとちゃうか。多いやろ、働きに出ていく人間とか、外にお嫁にいく女の子とか」
 男は運賃を支払い、何も言わずに降りていった。再びバスが走りだす。狭い道路の端にたたずむ男の姿を、たづきはできるだけ見ないようにした。ふと気づくと、雑誌はたづきの手に残されていた。
 すぐにまたブザーが鳴る。後ろに座っていた男が降りるらしい。彼はもう席を立ち、前のほうまで歩いてきていた。たづきの隣に立つ。たづきは横目で彼を見て、不審に思う。そのバスで知らない人間を見かけるのは、おそらくこの時が初めてだった。
 すると、男は遠慮がちに声をかけてきた。
「あのう、すみません。あの地区の方ですか? あの、次の」といって、彼はとくに意味もなく前方を見やった。
 口調はとても丁寧だったのに、たづきは乱暴な質問をされたような気がした。あの記者と同じようなにおいがした。ただ、声の感じではずっと若そうな男だった。もしかしたら自分とそれほど変わらないかもしれない、とたづきは思った。相変わらず顔は帽子のつばに隠れてよく見えない。色白で、ひげはきれいに剃られていた。
「何ですか?」と聞き返すたづきの声には、とげがあった。
「いえ、ちょっと。……今日は暑いくらいですね。いつもこんな感じですか」
 まあ、とたづきは答える。男の小ぎれいな発音が、癪にさわった。バスが止まったので、男は軽く頭を下げ、出ていった。
 たづきは前の座席の模様をにらみつけたまま、ずっと黙っていた。見慣れた山あいの景色も、聴き慣れた鐘の音も、たづきの体の中には入ってこなかった。
 気づくと、バスがまた停車している。
 たづきははっとして立ち上がる。ボタンを押していなかったのに、町はずれのバス停にちゃんと停まっていた。深く考える余裕もなく、たづきは財布の中をまさぐりながら、早足で座席の間を通りぬける。小銭を運賃箱に叩きつけるように放り込み、いつもなら絶対そんなことは無いのに、ありがとうもいわずに降りようとした。
「たづきくん」
 足が止まる。
 どこから声が聞こえたのか、すぐにはわからなかった。振り返ってみても、運転席の男は気難しい顔で、フロントガラスを凝視しているだけだ。
 開かれた扉からは、熱くてほこりっぽい空気のかたまりが流れ込んでくる。
 たづきは子どもの頃から、何度もバスに乗ったことがある。父や母と乗ったこともあるし、友達と乗ったこともある。その時交わした会話の中で、誰かがたづきの名前を呼ぶことは、一度や二度ではなかっただろう。
 それでも、まさか運転士に自分の名前を覚えられているなんて、たづきは思いもしなかった。
「毎日、おんなじ道ばっかい走っちゃある人間のいうことやから、あんま気にせんといてほしいんやけどな」
 礒橋はへの字に曲げた口をほとんど動かすことなく、前を向いたままでしゃべっていた。マイクを通さない彼の声を聞いたのは、たづきにとって初めてのことだった。
「あのまどかちゃんっちゅう女の子な。あの子が、事故に遭うて、もうひと月近く経つやろ。全然、学校に行ってないわな。ぼくも何日か仕事休ませてもろうてたから何となくわかんのやけどな、そういうのはな」
 礒橋はそこで少し、言葉を切る。「不安なもんなんや」
 たづきは小刻みに震える乗降口に突っ立ったまま、じっと彼を見つめていた。
「もう二度ともとの道には戻れやんのとちゃうかってな、えらい不安になるもんなんや」
 たづきは、病室のまどかを思い出す。
 もし、もしな、わたしが、こんな長いこと入院してるせいで、高校の人らに、置いていかれてもたら、どうしようって。
 誰も来てくれやん。由伊ちゃんも、亜希子ちゃんも、誰も、来てくれやん。
「どっか変わっちゃあるとか、人と比べて違うとかっちゅうんは、しんどいことなんや」
 普通のほうがええやん。今やってもう、十分普通じゃなくなってんのに。
 わたしらの町って、変わってるんかなあ?
「あの子は、まっすぐの――少なくとも自分ではまっすぐやと思うてる道の上を歩いていきたいんや。誰かてそうやろう」
 ただちょっと、何ていうんやろ、普通とは違うんかなあ、って。
 お父さんは、大学行ってもええんちゃうかって。
「きみがあの子のことを気にかけんのはな、わかる。妹みたいなもんやろ。そやけどな、誰にかて自分のレールがあるんや。その人だけのレールや。脱線するかどうか決めるんは、走っちゃある人間自身やで」
 礒橋はマイクを手に取ると、誰もいなくなった車内に向かって呼びかけた。
『お待たせいたしました。発車します。つり革、手すりをお持ちください』

 多少なりとも整備された道路を離れ、急な坂を下れば、そこは車一台やっと通れるくらいの町のメイン・ストリートだ。てんでばらばらに立ち並んだ店の間を縫うように石畳が敷きつめられ、黒や灰色の石の隙間から、目に鮮やかな細い草が、無数に顔をのぞかせていた。石畳はそんな商店街を抜けて民家が集まる住宅地の中まで這い巡っており、さらにその向こうには、白くかすむ山がそびえていた。たづきはくるりと背をむけて、今度はゆるやかな坂道を上り始めた。その先は竹や広葉樹の繁る小山であり、石段の上には神社が、山道を登れば寺が、海沿いの道を回り込めば叔父の家があった。
 たづきが住宅地の実家を離れて叔父の家に引き取られたのは、それほど昔のことではなかった。父親が事故で行方不明になり、母親が亡くなってから、当時はまだ数年しか経っていなかった。言い換えれば叔父のもとで竹細工の修業を始めてから、まだ数年しか経っていなかったということだ。
 それにもかかわらず、その年叔父は、たづきに大きな仕事を任せた。
 雨でも降ったのか、濡れた石畳がたづきの足を滑らせた。若葉を茂らせた木々や竹の林が日差しを受け、透きとおるように光っていた。吹いてきた風に乗って、潮の香りが鼻をついた。耳をすませば、波の音だって聞こえるだろう。たづきは石段を素通りして海に通じる道を選び、小さな山を回り込むようにして叔父の家を目指した。
 突然水のはじけるような音がして、たづきは振り返った。晴れた空一面に霧のようなものが輝き、うっすらと虹を作っていた。誰かが海で遊んでいるのだろうか。海辺は断崖絶壁になっていて、足を滑らせれば命を落とす。だから町の子どもはみな、海に近づくなと教えられている。嫌な予感がした。
 たづきは崖に向かって歩きだす。いつの間にか走っていた。松林をあっという間に駆けぬけると、地面に這いつくばるようにして崖の上から海を見下ろした。
 誰もいなかった。ただ白い光を反射させる波が、静かに海を漂っているだけだった。たづきは額の汗をぬぐおうともせず、目のくらむような明るい海を、いつまでも眺めていた。

 二度目の登校の日、制服は薄く白いものに変わっていた。破れてしまった靴やスカートも新しく替えていた。病院暮らしで清潔にしていたせいか、ほおのにきびはすっかり治っていた。髪も短くしてしまったから、もうお団子はできなかった。まどか自身、すっかり外見が変わってしまったような気がした。周りの人間が、これが羽合まどかだと気づくだろうか、と変な心配までしていた。
 自転車を押して町から歩いてきたまどかを、たづきはばつの悪そうな顔をして出迎えた。二か月前に礒橋のバスからたづきが降り立った、あのバス停の前だった。バス停といっても、屋根も、ベンチも、きちんとした標識もない。道端に錆びで汚れた看板が立ち、そこに空白だらけの時刻表がぶら下がっているだけだ。
 朝が早いから、まだバスは走っていない。ところ構わず顔を出した草花に、うっすらとわだちだけが残されている。木立に挟まれた道の、片側にだけぽつんと立った小さな看板には、雨や日にさらされた「編留神社前」の文字が、かろうじて見える。あみどめ。たづきはこの名前が好きだ。たづきの生まれ育った町と、そこで暮らす人々を、優しくつなぎとめてくれるような名前。なぜそんなにも好きだったのだろう。現実には、この町に人をつなぎとめるものなんか、何もないと気づいていたからだろうか。
「そうか、今日からか」
 たづきが、知っているくせに、聞く。
 うん、とまどかはうなずいた。「どうしたん、たづきくん。もしかして見送りにきてくれたん?」
 たまたまや、とたづきは顔をそむける。「叔父さんに用事いいつけられて、それで」
「たづきくん、頑張っててすごいわあ」まどかがまじめな顔をして、いった。「大変なんちゃうん? たづきくんの叔父さんこわそう。もう提灯とか作ったりしてるん? ……そうなんや、たづきくんのがお店に並んだら、わたし絶対買うわ」
 たづきは黙ってほほえみ、まどかに背を向けながら片手を上げる。
「ありがとう、頑張るわ。先は長いけど」
「待って」
 まどかが不器用そうに足や手を動かして、自転車を道端に停めた。たまに小さな虫がはねているくらいで、あたりには誰もいない。音もしない。夏を駆けまわる命の息吹は、朝はまだ鳴りを潜めている。まどかはたづきに近づくと、こころもち姿勢を正した。そしていった。
「ありがとう。たづきくんがお見舞いに来てくれて、元気出ました。あの、クラスの子らは来てくれやんかったけど、わたし、またみんなと友達やり直せると思う。たづきくんのおかげで、今回の怪我とかも、乗り越えられたんやと思う。これ、ほんまやで」
 たづきは精いっぱい力強くうなずいて、まどかに向けてひかえめに手を伸ばす。
「遅刻するで」
 うん、とまどかはうなずく。「なんか、これからも、たづきくんがいてくれたら、わたし何でも乗り越えていけそうな気いするわあ。あ、ごめん変なことゆって。なんか恥ずかしなあ」
 まどかは自転車のスタンドを苦労して起こし、おぼつかない足取りでそれにまたがった。当時の小さな――今でも小さいが――体には、不釣り合いではないかと思えるほど立派な自転車だった。娘のためにと、父親がわざわざ遠出して買ってきたものだった。凪が終わり、海の向こうから涼しい風が吹いてくると、それを合図にでもしたかのように、雲の間から顔を出した陽がまどかの髪や腕や足を白っぽく照らした。地面につま先しかついていなくても、まどかはきちんと乗れている。スカートはきちんとお尻の下に敷いている。
 たづきはその姿を眺めながら、彼と幼なじみの女の子をつなげるものは、もう何もないのだと気づく。自分の道を走り始めた彼女を、たづきが止める理由は何もない。まどかがこれから歩んでいく普通の人生を、たづきは思い浮かべる。また一人、この町から、たづきの前から、いなくなってしまう人がここにいる。
「バイバイ」まどかが小さな手を振った。
 力の入らない腕を胸くらいまで上げて、たづきも彼女の言葉を繰り返す。「バイバイ」
 たわいのない、いつもの別れの挨拶に過ぎないと、まどかは思っていた。その言葉の本当の意味に気づくのは、もっとずっとあとのことだ。



■第2章 夏


◆2−1 工房

 少し時間を巻き戻さなければいけない。

 千早明夫(あきお)は作業の手を休め、十八歳の居候の顔を鋭い目で見つめた。何で帰ってきとん、と、うめくような声が漏れた。朝来はうなだれたまま、答えない。明夫の手もとでは、細く裂かれた竹が好き勝手な方向をむいて揺れていた。
「何で帰ってきたんやと聞いとるんじゃ」
 明夫はあくまで静かにいった。だが顔は赤く、唇は震えていた。骨ばった顔や首は、意志が強く厳格な性格を、見事なまでに表していた。
 朝来は戸口に突っ立ったままだった。話し出そうともしない。工房に聞こえるのは、二台の扇風機がうなる音と、ひっきりなしに聞こえる蝉の声だけだ。
 答えろや、と、しびれを切らした明夫が怒鳴った。
「お前何でここにおんねん? 仕事どうしたんや仕事!」
 辞めたわ、という朝来の一言はそっけなかった。
「だからいうたやないか……」明夫は大きな体を動かし、朝来に歩み寄った。
 殴られる、とたづきは思った。
 明夫の甥であり、弟子でもあったたづきは、そのとき目の前で起きていた出来事をずっと窺いながらも、自分の仕事に熱中するふりをしていた。しかしさすがにそこでまともに顔をあげ、首に巻いたタオルで流れる汗をぬぐいながら、二人を見た。
 朝来は臆することなく、二回り以上も年の差のある明夫の顔を見つめていた。日焼けした顔に切り込みを入れたような大きな黒い目が、怪しげに光っていた。やせてはいるが、がっしりした体格。そうやって並んでみると、二人はどこか似ていた。
 殴られる、とたづきはまた思った。
 朝来はたづきと同い年だ。幼いころから親戚の間を転がり回って生きてきたらしいが、十歳の時にこの町にやってきた。百敷という老人のもとで育てられ、炭焼きの仕事を手伝っていつも顔を真っ黒にしていた。けれど十七歳の秋にその養父が亡くなったために、当時は千早明夫の家に居候しつつ、隣町で住み込みの仕事を始めたばかりだった。それを、辞めた。
 たづきは叔父の厳しさをよく知っていた。両親と死に別れてから、すでに何年も働かされてきたのだ。手をあげられることはしょっちゅうだし、怒鳴られたことなど数えきれないほどだった。それが当たり前だった。大人の暴力がしょっちゅうニュースになる今なら、問題になるだろうか。ただ、明夫はその道をゆく師で、たづきはその後をついて行く未熟者でしかなかったのだ。
「何やその目は」明夫がうなった。朝来に対してだ。
 たづきの座る位置からは、明夫の顔は見えない。短く刈り込んだ白髪頭が、小刻みに震えている。
「自分で決めたこととちゃうんか。覚悟してのこととちゃうんか。何や、文句があるんやったらいうてみい」
 なんもないわ、と、朝来は吐き捨てるようにいって、竹材の切れ端や作業道具で足の踏み場もない工房を突っ切り、家の中に消えていった。その動きは荒々しく、たづきは自分が手掛けていた品物を踏みつぶされないように、急いで場所を空けなければならなかった。
 作りかけの竹細工を抱えながら、おそるおそる、叔父を振り返る。
 明夫は気難しい表情を顔にはりつけたまま、工房のまん中で立ち尽くしていた。それから居候を追うこともなく、静かに自分の仕事に戻った。
 朝来は明夫の弟子ではない、だから何もできなかったのだろうか。それとも、弟子ではない若者に対して、どう接すればいいのかわからなかったのだろうか。
 明夫は何事もなかったかのように、細く裂いた竹を手で器用に編み上げていく。その手さばきはまるで魔法のようで、どのような技を使っているのか、傍目からは全くわからない。五年も修業したたづきでさえ、そうだった。当時のたづきは、自分では逆立ちしたって明夫には敵わないことを、身をもって知っていた。手や指の動かし方とか速さとか滑らかさとか、何から何までまるで違うことが、自分と比べてみるまでもなくわかっていた。彼との差を、たづきは諦めていた。そして同時に、心のどこかで妬んでいた。「こんなこともできないのか」だの「努力が足りないんだ」だの、自分を否定するようなことをいわれるたびに。
 いつか、どんな形でも、どんな些細なことでもいいから、見返してやりたいと思っていた。
 けれど、結局それは叶わなかった。
 それから五年が経ち、叔父が亡くなったあとも、たづきは彼の家の大きな工房で、竹細工を作り続けている。明夫が必要以上にたづきに厳しく当たっていたのも、その年、手に負えないような仕事を任せたのも、自分の老い先が長くないと感じていたからだろうか。それにしたって、早すぎる死だった。
「何や、よそ見してんと手動かせ!」
 たづきの視線に気づいた明夫が怒鳴った。たづきは身をきゅっと縮め、竹ひごをあぶって曲げる仕事に戻った。心臓が高鳴り、頭に血がのぼった。何度やっても、叔父のように細く竹を裂くことができない。何度やっても、叔父のように美しい曲線を作り出すことができない。

 何で辞めたん?
 夕食の後、部屋で二人きりになった時を見計らい、たづきは尋ねた。
 同じ部屋を朝来と使い始めて半年になっていた。最初は窮屈だったがもう慣れた。朝来は財産といえるものをほとんど持っていなかったから、そのおかげかもしれない。養父と住んでいた崖のそばの家を離れ、母方の親戚に引き取られるはずだった朝来を、明夫が半ば強引に、誘拐同然に預かったのだ。引っ越しの準備はすでに済んでいたから、朝来の荷物はその親戚の家に放置される形になっていたはずだ。それでも、朝来はとくに困ったそぶりを見せなかった。
 朝来は十歳まで町の外で暮らしていたから、幼なじみといっても付き合いは短いほうだ。だからだろうか、たづきは朝来を、何となくとっつきにくいと思うことがたびたびあった。けれどその原因は、おそらく朝来のほうにもあった。
 朝来の出生については謎が多かった。死んだ養父が本当に彼の親戚だったかどうかは疑わしいし、「母方の親戚」が本当にいるのかどうかも、実際はわからなかった。実は明夫の子なのではないか、とたづきは思うこともあったし、それらしい証拠もいくつかあったのだけれど、本人たちは知らんぷりをしていた。炭焼きで細々と口過ごしをしているように見えた養父が、その実、言葉は悪いが人身売買のようなことに手を染めていたことを考えれば、朝来自身、どこかから連れてこられた子どもだったという可能性もある。それはともかく彼としては、養父が犯した罪をずっと背負いながら生きるはめになった。養父の遺書の中で、数年前に町の女の子を誘拐し身売りに出したことが告白されていた――などと大人たちから聞かされては、気にせずにいられるほうがおかしかった。
 一つ屋根の下、兄弟同然に暮らしていたのに、たづきは朝来のことを何も知らない。趣味も、好きな漫画も、嫌いな食べ物も、好みのタイプも知らない。朝来はだいたい何もしていなかったし、本を持っていなかったし、何でもおいしそうに食べたし、異性について話すこともなかった。毎日顔を合わせて話をしていたのに、いったい自分は何を話していたんだろう、とたづきは今になって思う。
 なぜ仕事を辞めたのか朝来が答えないので、「いやなことでもあったんか」と、たづきは重ねて尋ねた。
 布団に寝転がった朝来は、返事もしなかった。
「いわんお前もお前やし、じいさんもじいさんやな」
 叔父のいないところでは、たづきは彼のことをじいさんと呼んだ。それほど悪意はなかった。実際、叔父は年齢よりも老けて見えたのだ。顔には深いしわが何本も刻まれていたし、髪はほとんど真っ白といってもよかった。バスの運転士といい勝負だった、叔父のほうがずっと若かったにもかかわらず。それほどまでに苦労を重ねてきたのだろうか。
 けれどたづきは、叔父のこともほとんど何も知らなかった。わかっていたのは、たづきの両親が残した負債のために、叔父夫婦が奔走しているということだけだった。それが叔父の寿命を縮めてしまったのかと思うと、何年も経った今も、たづきはどうしようもなく申し訳ない気持ちになる。けれど、もう遅いのだ。
 だからたづきは叔父夫婦に頭が上がらなかった。今でも、もちろん叔父が生きているときでもそうだった。どんなに馬が合わなくても、悪口をいいたくても、軽蔑していても、彼らに感謝して、彼らと一緒に生きていくのが自分の道なのだと、早くから決めてかかっていた。
 お前はいいな、自由に仕事辞められて。
 朝来の広い背中を眺めながら、そんな言葉がのどもとまで出かかった。
「朝来」
 たづきはごまかすように声をかけた。「仕事辞めたんやったら、これからどうすんの。ここで働くんか?」
 そんなわけないやろ、と、布団に突っ伏したままの朝来から、くぐもった声が聞こえた。
「たづきがいるんやから」
 おれか。机にほおづえをつきながら、たづきは窓の外から聞こえてくる虫の声に耳をすませる。何かを焦がすようなじいじいという音が、やむことなく続いていた。網戸にはなぜか、米粒のような白い虫がたくさんくっついている。そのむこうに茂る竹林は、月あかりに青白い姿を浮かび上がらせていた。
 そうやな、とたづきはつぶやく。窓に張り付いた蛾が羽ばたいて合いの手を入れた。「おれはもう一生、この町から出やんやろし」
「気楽でええな」
 朝来の言葉に、それはこっちの台詞や、とむっとした。けれど怒るのをたづきが躊躇するほどに、朝来の言葉は冷たかった。朝来がそんな話し方をすることは、もう長い間なかったのだが。
「もうすぐ火まわりやな」
 朝来がぽつりといった、今までの会話がうそのように。
 おう、とたづきは相槌をうつ。「お前、今年も太鼓か」
「たぶんな。まだ後継ぎがいてないし」
「期待してるわ」
「何いってるんや、太鼓なんか誰でも叩けるわ。たづきは何するんや。松明作り手伝うんか?」
 たづきは少しの間を置いて、いった。
「おれも、一本任されてるんや」
 声は自分でもわかるくらいに震えていた。
 そっか、いよいよやな、責任重大やぞ、がんばれよ、たづきも本格的に祭りの担い手ってことやな。朝来の大人びた言い方に、たづきは苦笑する。朝来らしい。山吹なら、もっとどんちゃん騒ぎをして祝ってくれそうなものなのに。けれど、今高校三年生の山吹は、県外で寮生活をしていて、いつ町に帰ってくるのかはわからなかった。
「山吹やったら泣いて喜ぶぞ」たづきの考えを読み取ったように、朝来がいった。「名前彫ったりするんかー、とか、聞いてきそうやな」
「教科書にあったな、そんな話」
 二人で言い合って笑った。
 朝来が仕事を辞めた理由は、ついに聞くことができなかった。
 それは、まどかがまだ入院していた頃の出来事だった。あの時朝来から話を聞けていれば、何かが変わっただろうか、とたづきは考える。いや、何も変わらなかっただろう。歯車が動き出したのは、もうずっと昔のことだったのだから。


◆2−2 神社

「今日? 学校終わったら整骨院。あ、でも、その前に部活に顔出さんとあかんのやけど」
 電話の向こうの山吹の声は、けだるい感じを無理やり作りながら、しかし嬉しそうなのが丸わかりだった。
「部活、ほんまめんどいわ。でも夏の大会近くて、ほかの三年とかコーチは忙しくてさ。しょうがないし、おれが一年に指導することになって」
「へー指導とかするんや。すごい、山吹くん」
 三倉すずみは白い受話器を耳に当てたまま、明るい声でいった。
 授与所の外では蝉が鳴きはじめていて、もうすぐ夏が来るんだなと思わせてくれる。けれど梅雨が明けきらないうちは、こんなふうに曇った天気が続くのだろう。
 怪我は良なってきてるん? と、すずみが聞いた。
 ま、頑張ってるから、という山吹。
 何それ、とすずみは笑う。
 山吹は町を出て県外の高校に進学していた。スポーツ推薦で合格するほどバスケが上手だったのに、一年生の時に腕の筋を切る大怪我をした。それがきっかけで、一時は寮に引きこもり、誰とも顔を合わせないような生活をしていたらしい。普段の山吹からは考えられないようなことだ。すずみはそれを知った時、なぜか泣いてしまった。
 バスケの道は諦めてしまったが、三年生になった当時もクラブとは関わりを持って、充実した毎日を送っているようだった。体育系の大学に進学し、自分の経験を生かして教員やトレーナーになることが目標なのだと、すずみは何かの折に聞かされていた。
「最近暑くなってきたよな」
「うん」
「夏って感じやな」
「うんうん」
 すずみは相槌ばかり打っていた。山吹の気障な物言いが楽しく、聞いていて飽きなかった。
「夏といえばお祭りやけど、もしかしてすずみちゃん、今年は活躍するんちゃう?」
「うーん、実はそうなんよ」
「そうか。それは見に行かな損やな」
「帰って来れるん?」
「さあ。でもお祭りの時ぐらい帰りたかったりするでしょ。あ、そろそろ時間か」
 山吹の声で、すずみは壁に掛かった時計に目をやった。一時少し前。昼休みが終わる。
 それじゃ。
 うん、またね。
 すずみは受話器をそっと置いた。胸がほっこりと温かかった。雲が晴れて、境内に少しばかり日が差し始めた。
 その年の春以来、山吹はいつもすずみの電話を受けてくれた。すずみにとって、山吹と話すことが大きな支えになっていた。つらいときや悩んだとき、山吹の楽観的でしかも気遣いのある言葉にはとても救われていた。家族に大小さまざまな問題を抱えていたすずみにとって、山吹は家族よりも近くにいる存在だった、かもしれない。
 すずみはパイプ椅子から立ち上がり、手で緋色の袴のしわを伸ばした。着物姿も、だいぶ板についてきたんじゃないかと自分では思う。
 ふしぎだと思う。つい数か月前までは、着物なんて絶対に着ようとしなかったのに。大晦日の鐘つきも初詣も、おしゃれとは程遠い格好で出歩いていたものなのに。いつでも我を貫いて斜に構えて大人に楯突いて、なのにいつの間にか町の中に居場所を見つけてしまっていた。
「あれ、新入りさん、また電話しとったんか」
 佐和子が入ってきて、いたずらっぽい目で笑った。
 もう新入りじゃないですよ、とすずみがふくれる。
「まだ三か月やないの。新入り新入り。なんや、男?」
 佐和子は親指を立ててみせる。
「違います。友達です」
 すずみはそういいながら、うつむいて着物のえりを整えた。
「そりゃ失礼しました。でもそんな毎日毎日うちの電話使われるんやったら、電話代、給料から天引きさせてもらうでえ」
「えっ」
 冗談やって、と、佐和子は屈託なく笑った。たまに、すずみは彼女の年齢がわからなくなる。
「で、ええ男なんか? 町の野郎か?」
「答えません」
 すずみは椅子に座り直し、祈祷用のお札作りに取りかかった。朱印が捺され、文字が書きつけられた木の板を、せっせと紙で包んでいく。日中の主な仕事はそれだった。大勢の人が訪れる行事が近かったからだ。この町の神社にとって、一年で最も忙しいのは元旦ではない。神事と火まわりが行われる、真夏の一日だった。小さいときから身近に接してきたお祭りだ。それなのに、すずみはその由来や意味をよく知らなかった。火のついた松明を捧げるのは、佐和子によると、神社が火の神様を祭っているからなのだという。古い書物にも出てこない、よくわからない神様らしかった。
 佐和子はいつの間にかいなくなっていた。すずみしかいない授与所に、時計の音だけが響く。もちろん、参拝客が来ることもない。
 すずみは手を休め、そばにあったパソコンの電源を入れた。旧式の箱型で、神社の仕事用に購入されたもののようだった。けれどすずみは一度も、佐和子がそれに触るところを見たことがなかった。おそらく、先代の神主だった佐和子の夫が使っていたのだろう。山に張りついているような急斜面の境内を眺めているうちに、ようやくパソコンが立ちあがる。
 メールボックスを調べて、いつものようにため息をついた。
 すずみはふと動きを止めた。窓から見下ろせる石段に、男が一人いる。
 古ぼけたジーンズに暑苦しそうな上着。野球帽をかぶっているから、顔はよく見えない。本殿まで続く長い石段の上で、のぼったり立ち止まったりしながら、しきりにあたりを見回している。
 佐和子さんを呼びに行こうか、と、一瞬思った。
 けれどすずみが動こうとしたとき、男はおもむろに石段を上りきり、授与所に近づいてきた。砂利を踏む音が、だんだん大きくなる。
 すずみは恐る恐る、窓から男の様子をうかがった。
 と、窓ガラス越しに、男とすずみの目が合った。
 若い男だ。町の人間ではない。どこか挙動不審で、空を見上げたり本殿のほうに目を向けたりしながらも、すずみのことを気にしているようだった。気味が悪かったが、すずみは窓に近寄った。ただの参拝客という可能性もある。首に大きなカメラを提げているところをみると、案外観光に来たのかもしれなかった。
 どうなさいましたか、とすずみが窓から顔をのぞかせると、男はふいをつかれたように体をこわばらせ、それから聞き取りづらい小さな声でいった。
「すみません、とくに何もないんですけど。いいところですね、静かで」
 はい、と、すずみは警戒心を強めながらいった。しゃべり方が変だ。わざと声を聞かれないようにしているような気もした。
 やっぱり、佐和子さんを呼んだほうがよさそうだ、と思う。
 男は授与所の窓際に並べられたお守りに興味を持ったのか、少し離れたところから眺めはじめた。
「三色あるんですね」
 はい、と無機質な返事をする。男はさらに近づいてきて、手に取って眺める。
「いくらですか」
「五百円お納めください」
 すずみは赤いお守りを一つ授けた。効能は縁結び、家庭円満。
 男は帽子のつばをちょっと持ちあげ、すずみを見つめた。授与所の床がかなり高いので、二人の目は同じくらいの高さにあった。肌の白い、不安そうな目をした男だった。
 ここって、と男がいいだす。「いろいろ行事とかもやってるんですか」
 まあ、そうですね、とすずみは答えた。
「結婚式とかも?」
「はい、たまに」
 妙なことを聞くなと思った。たしかに町の人が式をその神社で行うことは多かったし、その年の夏にも幼なじみの撫子の結婚式を控えていた。
「アルバイトの方ですか?」
 唐突に、彼はすずみに尋ねた。
「いえ、一応、正式の」
 男は感心したような顔をして、「いつから?」と聞いた。
「この春からです。中学校を卒業して……」
 ああ、高校には進学せずに、といった男の口調は自然で、嫌味なところはなかった。それで、すずみもちょっぴりだが心を許した。
「まあ、勉強が嫌いやったんで」
「けっこう多いんですか? 中学卒業して、高校行かずに就職する人って」
 そうでもないですよ、と、すずみはすぐに答えた。そういったものの、高校に進学した人はあまりいなかった。山吹と、まどかと、……
「最近では大学行った人もおるし」すずみは付け足した。
 寺の末娘だった撫子は、小柄なのに昔から勉強も運動もよくできて、その前の年から県外の大学に通っていた。高校生のまどかのように実家から通っているわけでもなく、山吹のように寮に入っているわけでもなく、正真正銘、町を出ての一人暮らしだった。
 けれど男は関心がないのかそれ以上深入りせず、話題を変えた。
「火祭りっていうのは、いつなんですか?」
 火まわりですか、とすずみが聞き返す。そうそう、と男はうなずいた。
「来月です」
「ええと、さっきいってた結婚式より先?」
 はい、とすずみがいうと、男はそれ以上何もいわなかった。
「火まわりを見に来られたんですか。どこから来られたんですか?」すずみはさりげなく、男の素性を探った。
 男は他県の地名を答えた。聞いたことがあるような気もするが、すずみのよく知らない場所だ。
「あ、それから変なことを聞くようなんですが」
 首から提げた大きなカメラを手でいじくりながら、男はぼそぼそといった。黒いレンズがきらりと光る。
「このあたりで誘拐事件があったって聞いたんですけど、あの、それに」
 すずみは力任せに窓を閉めた。

 すずみの連絡を受けた佐和子が授与所にやってきた時には、もう男の姿は消えていた。
「何や、大丈夫か?」佐和子が心配そうに声をかける。
 すずみは椅子に座りこみ、両腕を体に巻きつけるようにしていた。
「大丈夫です」小さな声で返事をする。「ちょっと……一緒に写真撮ってっていわれただけで。ちょっとびっくりして。それだけです」
「何や、ええやん、写真の一枚や二枚」
「いやです、あれ絶対オタクですよ、気持ちわるい」
 なんやようわからんけど、と、佐和子はにやにやと笑った。
「かわいい巫女さんに来てもらえたんは、うちにとってはええこっちゃで」
「ほめても何もでませんけど」
 すずみはもう、いつもの調子に戻っていた。
 昨年度まで中学生だったすずみは、無事に卒業し、その春から神社に勤めることになった。もともとすずみにその気はなかったのだけれど、佐和子には子どもがおらず、人手が足りないので是非に、と誘われたのだ。お金をたくさん稼げる仕事でないことはわかっていた。けれど格別町を出たいとも思っていなかったすずみにとっては、悪くない勤め口だった。
 ただ、すずみは巫女という職業が、五年経った今でさえも、よくわからない。
 テレビドラマやロケでよく見るのは、お祭りの日、初詣、合格祈願、いつも背筋をしゃんと伸ばして、お守りを渡しながらにっこり笑ってくれる、そんな若い巫女さんだ。けれどすずみにとって編留神社の巫女さんは昔から佐和子さんだったし、彼女が神主になっていた当時――今もだが――巫女はすずみ一人だった。
「そや、ちょっと来てくれるかな」
 授与所の扉を開けながら、佐和子がいった。何か仕事があるらしい。
 でもこの、と作りかけのお札を指さしたすずみだが、彼女は「あとでええから」と手招きした。
 神社の仕事など、たいしたものではないだろう。働きはじめるまでそう思っていた。
 それは半分正解で、半分まちがいだった。
 普段の仕事は、朝の掃除から始まる。小さな社殿のほこりを払い、猫の額のような砂利道と長い石段をほうきで掃いたら、せっせと祈祷用のお札を作る作業に移る。ただ参拝客がほとんどおらず、普段はすずみ一人だから、日中は授与所でだらだらしていることもできた。職場の対人関係云々もない。気楽なものだった。
 けれど、佐和子に教わる礼儀作法はちょっと堅苦しく、苦手だった。それに神事の際に奉納する舞も習うのだけれど、これが一番つらかったりした。昔から見慣れている上に前年までは後ろで笛を吹いてもいたのに、自分でやってみるとなるとまったく違った。何から何まで初めてのことで頭がパンクしそうになるのに加えて、三か月経っても全然上達しないことでさらに焦ってしまうのだった。五年が過ぎた今、二十歳になった今なら、そんなことに悩むこともない。意識しなくても、決まった通りに体が動くようになった。何も考えなくても、笛や太鼓の音に合わせて舞えるようになった。神事のときの腕の上げ方、足の出し方、指一本のこまかい動きまで、全部覚えてしまった。けれど十五歳のすずみは、そういう型にはめるにしては幼すぎたのかもしれない。自分では大人びたつもりでいて、実際はいい意味で未発達の、若い力のかたまりだったのかもしれない。
 だから、すずみはその年のことを、今でもよく覚えている。その年の夏はすずみにとって、大人になる第一歩だったように思うのだ。
「もうすぐ火まわりやろ」
 サンダルをぱたぱたさせて境内の奥に向かいながら、佐和子がいった。すずみは気が重くなる。歩く先には竹林が生い茂っていた。どれも年季が入っていそうな太い竹で、すずみでも少し圧倒されるくらいだった。実際、竹は神聖な植物なのだという。
 編留の町は海に面していて、しかも山のふもとにあった。その高くもない山の、ちょうど海とは反対の側に隠れるようにして、その神社はひっそりと張りついている。境内を囲む竹林が、だだっ広い境内の境界だ。いや、どこまでが境内であるのか、すずみは正確には知らなかった。今でも知らない。佐和子も知らないだろう。
「火まわりの松明、竹で作るやんか」
 立派な竹林を前にして、佐和子がいった。
 はい、とすずみはうなずく。心の中では、そうだったかな、と思う。
 そのお祭りでは、大きな松明たちが町の中を走り回る。いつも燃え盛る炎のほうばかり見ていたから、松明が何で作られているのかなんて、気にしたこともなかった。
「いつもここの竹使ってるんや。で、明日、伐り出す作業するで」
 はい、とすずみはまたうなずく。だが、それが自分にどう関係あるのかわからなかった。
「で、伐る前にな、巫女さんがちゃんとお祈りする。神様にちゃんとご挨拶するってわけや」
 すずみは首をかしげた。「巫女って、あたしですか?」
 あんたしかおらんやろ、と佐和子が笑った。「ちゃんとやってや」
「え、でも、あたしわかりません。お祈りとか」
 佐和子は、そんなん適当でええねん、といってあっけらかんと笑った。すずみはぽかんとする。
「とりあえず、簡単な仕事だけあるから、今から予行練習や。ええか、朝、明夫さんらとここに集まって、それからこう、林の中に移動するやろ……」
 そういいながら、佐和子はサンダルのまま竹林に入っていった。明夫の名を聞いてすぐたづきの顔が浮かび、すずみは何やら複雑な気持ちになった。

 日差しが砂利の上をすべって、濃く長い小さな影を無数に作った。砂ぼこりが景色をうっすらと濁らせながら山の斜面を漂っていた。空に向かって明るい色の葉を茂らせた竹が、わずかな風に揺られてさわさわと音を立てた。早起きの鳥たちが姿を見せずに鳴いていた。境内には佐和子とすずみ、そして竹細工職人の千早明夫、たづき、それから手伝いの住人一人。計五人が集まっていた。手伝いに来たのは刀祢という四十がらみの男で、体格がよく性格もよいので力仕事にはよく駆り出されていた。
 避けていたのにたづきと目が合う。すずみはそっぽを向いた。
 もう何か月も話していなかった。いつからそうなってしまったのかはわからない。すずみが勝手に腹を立てていただけかもしれなかった。たづきの中にどこか自分の悪い所を見るようで、結局は同族嫌悪というやつだったのだろう、ただ、当時はそれを認めたくはなかった。
 佐和子が幣を手に持ち、何ごとか唱えた。静まりかえった境内に、美しいが怪しげな声だけが響いた。それから千早明夫を先頭にして、一同は社殿を囲むように茂る竹林に足を踏み入れた。ひと足ごとに柴の折れる音がして、すずみの草履が深く沈みこむ。早朝の竹林は思ったより薄暗く、涼しい。浅く積もった落ち葉や枯れ枝の上に、ぎざぎざになった日差しが伸びていた。竹林は斜面になっており、坂を上るような感覚だ。
 明夫が手をあげて合図をし、皆が立ち止まった。明夫は一本の竹を指さしている。まだ若くて、色の明るい竹だ。
 佐和子が前に進み出て、また何かを唱えた。
「参り来てこのおん山を見申せや……」
 そのように聞こえた。それからすずみが打ち合わせ通りに根元の藪を払い、肩くらいの位置に鉄片の付いた朱色のひもを結びつけた。由来はよくわからないが、これが神様へのご挨拶になるらしい。
 よし、と明夫がいって、手にしたのこぎりを持ちあげた。
 手伝いにきた刀祢が、すずみや佐和子に下がるよう合図を送る。たづきが目当ての竹を支えるように手を添えた。明夫もその竹のそばにしゃがみ、ゆっくりとのこぎりを入れ始めた。
 ある程度切ってから、少し場所を変え、反対側からのこぎりを当てる。
 静かな竹林に、のこぎりの音だけが聞こえていた。さっきまでうるさかった鳥も、今だけは鳴くのを控えているようだ。
「倒れるでえ!」明夫が叫んだ。
 すずみは身を縮める。
 痛々しい音を立てながら、竹がゆっくりと傾いてくる。
 茂らせた葉を大きく揺らし、竹は地面に倒れ込んだ。どこに隠れていたのか、小さな鳥が一斉に飛んでいった。舞いあがったほこりが、すずみのほおをなでた。緋の袴が茶色く汚れる。
 すずみは息を吐き、同時にほこりにむせて咳きこんだ。なぜだか、それまで長いこと息を止めてしまっていた。それほど緊張する場面だったのだ。
「大丈夫か? ほら、次行くで」
 佐和子に声をかけられて、すずみは我に返る。
 そのあと、同じように三本の竹を伐り倒した。
 次で終わりやな、と、佐和子があくびを噛み殺しながらつぶやいた。火まわりに使う竹は五本だ。それを材料に使って、五つの松明を作る。
「お前、やってみい」
 突然、明夫の声が響き渡った。
 たづきに向かって、いったのだ。
「おれですか?」たづきは驚いている。
「お前や」
 でも、やったことないですし、とたづきは不安げな声を出した。
 明夫はそれでも、たづきにのこぎりを押しつけようとしていた。
「わかるやろ、何年も前からおれの仕事見てるんやさけ。そんなむつかしいことやない。自分で仕事する竹くらい、自分で切らんとどうするんや。ほら、やってみい」
 逆らえないのか、たづきはしぶしぶ、明夫からのこぎりを受け取った。細身のたづきが握ると、何だかのこぎりがさっきより立派に見える。
 どれ切ったらええんですか? とたづきが聞いた。
「それは切るもんが決めることや」明夫はぴしゃりといった。
 すずみはその様子を見ながら、複雑な気持ちでいた。たづきのことは好きではないが、もちろん嫌いでもない。たづきは昔からの年上の幼なじみだったし、今でもそうだ。気に入らないことがあっても、決して見下してなんかいない。たづきはもうほとんど大人だ。その人が子どもみたいに怒られているのは、見ていて楽しくはなかった。
 たづきが初めに選んだ竹は、明夫の、そんなん使えるかボケ、というひと言で一蹴されてしまった。次に選んだのも同じだった。そういうことが何回も続き、ようやく十本目近くになって初めて、明夫は「まあ、それでもええかな」といった。すずみには、何が違うのかまったくわからなかった。たづきが選んだ竹も、明夫が選んだ竹も、どれも同じに見えた。
 佐和子が苦笑しながら唱えごとをし、すずみは仏頂面で、今までと同じようにひもを結びつけた。
 いよいよ、たづきが竹を切る作業に入る。
「ちゃうやろ! お前今まで何見とったんや!」
 すかさず飛ぶ怒声。たづきの一挙手一投足に対していちゃもんが付くような感じだった。
 たづきは口を真一文字に結んだまま、黙々とのこぎりを動かしていた。
 竹がきしむ音がした。ほどなく、竹が傾きはじめた。
 あほう、と、明夫が大声を出した。竹はすずみや佐和子のいるほうにまっすぐ倒れてきていた。逃げようとしたが、つまずいて足がもつれる。
 刀祢やん、と明夫が叫ぶ。
 すずみは腕で顔を覆った。肩に衝撃が走るのと、だれかに押し倒されるのと、ほとんど同時だった。

 大丈夫か、という刀祢の声が聞こえ、すずみは目をあけた。大きな丸顔が、心配そうにゆがんでいた。すずみを助けようと押し倒したのは、彼だったらしい。
「あ……大丈夫です。ありがとう」
 そういって立ちあがろうとしたとき、すずみは肩に激しい痛みを感じた。
 あっ、と肩をおさえ、また背中から倒れ込んでしまった。血の気が引き、意識がもうろうとする。
「おい医者や」明夫が険しい声でいった。
 他のみんなもすずみの周りに集まっているようだ。何だか恥ずかしい。けれど、体がいうことを聞かなかった。
 すずみは痛みをこらえながら、薄目をあけた。すると少し離れたところに、棒立ちになっているたづきの姿が見えた。目は充血して赤く、まるで――。
 すずみは背中に冷たいものを感じた。
 まるで、何かに取りつかれているような、そんな目だった。
 歯を食いしばりながら、すずみはやっとのことで声を出した。
 たづき。
 たづきは驚いたようにすずみを見た。
「気にせんでええよ、しゃあないし」
 たづきは何かいいたそうに一歩踏み出したが、口を動かすだけで、何も言葉にはならなかった。すずみは担架に乗せられ、運ばれていった。なぜたづきに優しい言葉をかけてしまったのか、その時は深く考えもしなかったし、考える余裕もなかった。ただあとで考え直してみれば、その夏すずみもある意味で同じような境遇に置かれていて、彼に同情せずにはいられなかった、のかもしれない。
 ところで大きな役割を与えられて祭りに参加したその年は、確かにすずみにとって重要な一歩だったかもしれない。しかしもう一人、一歩を踏み出そうとしていた友人のことはすずみの目には入っていなかった。後悔先に立たず。「厄年でもないのに、まどかに続いて自分まで」と何となく不吉に感じはしたが、それ以来まどかのことを考えずに仕舞ったのは、たづきの鈍感さを馬鹿にできないくらいの失態だった。


◆2−3 再び、学校

 忘れちゃったのかな。まどかはそう思った。
 ようやく退院して、三か月ぶりに高校に戻ってきた。それなのに、由伊ちゃんも、亜希子ちゃんも、樹理ちゃんも、そのほかのクラスメイトも、誰もまどかを見てくれなかった。まるで、まどかが透明人間になったかのように。
 入学式の日にほんの数時間だけ一緒にいた女の子のことなんて、みんな、もう忘れてしまったのかもしれない。そう思ったりもした。だがそんなことってあるだろうか。まどかのほうはよく覚えていたのだ。由伊ちゃんのことも樹理ちゃんのことも覚えていて、ほかの子も名前はともかく顔はちゃんと覚えていて、この三か月、ずっと会うのを楽しみにしてきたのだ。また笑いながらおしゃべりすることを、楽しみにしてきたのだ。
「樹理、日焼けやばない?」由伊の声。
「うわっほんま」
「ちゃんと日焼け止め塗ってる?」
 集まってお弁当を食べながら、みんなは楽しそうに話している。まどかは一人ぼっちで席に座り、じっと自分の弁当箱を見つめていた。友達と一緒に食べるから、と、お母さんにせがんで豪華に作ってもらったお弁当。卵焼きや唐揚げや野菜やピラフがぎっしり詰まった、色とりどりのお弁当。まどかはまだ、一口も食べていなかった。
 たまたまだろうか、由伊がまどかのほうを見た。目が合った。
 彼女はすぐに目をそらして、そして、何事もなかったかのように友達とのおしゃべりに戻った。
 まどかは静かに弁当箱のふたを閉じて、席を立った。
 帰ってから、ぴーちゃんにあげたらいい。そう思った。
 だがトイレから出たとき、まどかは由伊たちと鉢合わせた。ちょうどみんなでトイレに来たらしかった。まどかはすぐに顔を伏せ、樹理ちゃんとナントカちゃんのそばをすり抜けて廊下を歩いていった。
 あたしやっぱりええや、と声がして、誰かの足音が後ろから迫ってきた。まどかは廊下の端に寄って道をあけた。けれど、その人はまどかの肩を軽くたたいた。
 由伊だった。
 あたりにすばやく目を走らせる由伊の顔は、まるでどこか痛いのを我慢しているように、まどかには見えた。
 まどかちゃん、と、小声で由伊はいった。
 教室からは騒がしい声が聞こえてくるけれど、廊下には誰もいない。
 まどかは何かいいたかった。けれど、声がのどでつっかえて出てこなかった。
「あたし、いわれて」
 由伊がいった。まどかに話しているようだったが、まどかのほうを見てはいなかった。床に向かって話しているみたいだった。
「その、まどかちゃんとは、あんまり、その」
 消え入りそうな声でいった由伊は、ゆっくりと顔をあげて、おびえるような目つきでまどかを見た。
 ごめんやで、という言葉を残して、彼女は行ってしまった。まどかには、彼女のいったことがよく理解できなかった。それまで信じていたものが、大きく揺らいだ。周りの人や風景が、急に遠くに感じられた。
 どのくらいの時間、廊下に立っていたのだろう。
 あたりが騒がしくなってきて、たくさんの生徒が行き来しだした。誰もまどかのことなど気にせず、自分達だけの世界を生きていた。無機質な声がいくつもいくつも階段や天井にこだました。まどかはおびえていた。学校は隔離の場だ。家庭や地域の因習から子どもを守る場だ。現に父親もそれを期待してまどかを高校に進めた。けれど生まれた町にどっぷりと浸かっていた子どもは居場所を見つけることができなかった。
 昼休み終了のチャイムが鳴った。まどかは、教室には戻らなかった。

 自転車を押して歩いていたまどかを、小さな白いバスが追い越していった。バスはすぐ先のバス停で止まり、誰も乗せることなく走り去っていった。
 降りてきたのは見覚えのある人だった。
 撫子さん、とまどかは呼びかけ、自転車を放り出して走りだした。大きな自転車が派手な音を立てて倒れた。撫子は驚いたように振り向き、まどかを迎えた。既に二十歳だったが、背丈はまどかよりずっと低かった。それでもまどかにとっては、昔からずっと憧れている、頼れる、優しいお姉さんだった。
 まどかちゃん、と、撫子はつぶやいた。「元気?」
「元気やよ。撫子さんは? もう夏休みなん?」
 六月の終わりだった。夏休みにしては早過ぎた。
 ちゃうけど、と言って、撫子はまどかに背を向けた。そのまま細い足を不機嫌そうに動かして、砂ぼこりの舞う道の上を歩いていく。
「撫子さん? どうしたん?」
 まどかの問いかけに、撫子は答えない。まどかは走り、追いつき、小さな背中に向かってまた問いかけた。離されるごとに走り寄って、ついには腕をとって「どうしたん?」を繰り返した。
 ええやんか、と撫子はいった。
「ええことないよ」
 一瞬、腕を振り払われたような気がした。だけどそれは気のせいだったのかもしれない。何にせよ次の瞬間、まどかの差しだした腕は、撫子の白く細い手につかまれていた。
 にっこり笑ってくれると思っていた。
 優しい声で話しかけてくれると思っていた。
 撫子のお人形みたいな顔は、昼の日差しのなかで妙に青白くて、黒い大きな目には、何も映っていないように見えた。
 まどかが戸惑っていると、そのまま撫子は、まどかの胸に顔をうずめてしまった。そして、泣きはじめてしまった。長い黒髪はぼさぼさで、服にもしわが目立つ。そんな撫子を、まどかは見たことがなかった。
 子どもをなぐさめるみたいに、まどかは撫子の背中に手を回し、優しくなでてあげた。
 だめになってもた、だめになってもた、と、撫子は泣きながら繰り返していた。
「何が? 何がだめになったん?」
 まどかが聞いても、撫子はなかなか答えてくれない。
「ねえ、何がだめになったん?」
 けっこ、と、撫子がしゃっくりするような声を出した。
 にわとり? とまどかがつぶやく。撫子は「ちゃうわあ」と首を横に振った。
 まさか、と思った。
「けっこん?」
 撫子はこくりとうなずきながら、まどかをさらに強く抱きしめた。
「うそや、何で?」まどかは声をあげた。
 撫子の結婚は冬のうちから決まっていて、もちろん気難しいお父さんの説得も済んでいて、七月の半ばには神社で結婚式を挙げる予定になっていた。
「何でだめになってもたんですか? 何で?」
 まどかは繰り返し尋ねた。学校からの帰りにとっくに枯らしたと思った涙も、撫子が泣いているのを見続けていたら、何の苦も無くあふれてきてしまいそうだった。
「何でなんですか? おじさんがまた反対しはじめたとか? それやったら、わたしらがもう一回説得しますよ。またすずみとか山吹くんにも手伝ってもらって、え、ちゃう? じゃあ何なんですか?」
 まどかはだんだん見境がつかなくなってきて、撫子の小さな体を強くゆすっていた。
 ちょっときついわまどかちゃん、といわれて、まどかは動きを止めた。
 撫子はしゃくりあげながら、
「むこうがな、むこうがなあ……」あとは聞こえなかった。
 むこうがどうしたんですか? と、まどかは撫子に顔を近づけた。
「あかんって、いうんよ。結婚、できやん、って」
 えっ、と、まどかは絶句した。
 あたりは静まりかえっていた。いや、客観的に考えてみれば、空からは蝉の声や時おり横切る飛行機の音が降ってきていただろうし、地面からはバッタの鳴き声や風に草花が揺れる音も聞こえていただろう。いつもそうだったし、その日も確かにそうだったはずだ。けれど、まどかの耳はそれをとらえることができなかった。
「何でですか」ぽつりとつぶやく。
 撫子は、まどかが一番尊敬する人だった。結婚できない。いったい誰がそんなことをいうのか、まったく理解できなかった。
「何でですか。撫子さんかわいいし、性格も優しいし。仕事もようできるし、勉強もできるし、優しいし、頼りになるし、何で……」
 撫子はいやいやをするように首を振り、吐き出すようにいった。
「ちゃうんよ。そんなんちゃうんよ。関係ないんよ。関係ないんよ、関係ないんよ……」
 泣いたらあかん、と思った。
 撫子さんに悪い、と思った。
 まどかは撫子を、さらにしっかりと抱きしめた。撫子の声は、もう言葉になっていなかった。
 撫子の髪をなでながら、まどかは必死に涙をこらえた。気づかれないように、真新しい制服の袖を目に押し当てた。
 自分が泣いたら、撫子はもっと悲しむ。
 だからまどかは、泣きたくても泣けなかった。


◆2−4 川辺

 その日町の集会場では、夜通し笛や太鼓の音が聞こえていた。撫子の結婚が取りやめになるかもしれないという噂は、ゆっくりと、けれども確かに町中を駆け巡った。まどかが誰かに話したわけではなく、撫子がおおっぴらに話したわけでも、もちろんない。それなのに皆知っているのだった。店先で、あるいは家の中で、人々は難しい顔をしてひそひそと話し合った。それでも誰かがそばにやってくると――例えば客があんまんを買いに来たり、夫が仕事から帰ってきたりすると――その話をぱたりとやめる。そして、にこやかに別の話を始めるのだった。式がとり行われるはずの神社にとって、この問題はもっと切羽詰まったものだったはずだ。それなのに神主も巫女もずっと口をつぐんでいた。彼女らに強いて尋ねようとする住人も一人もいなかった。そしてその日も町の集会場では、祭りの練習が熱心に行われていた。
 祭囃子も獅子舞も毎年続けていることなので心配事は特にないのだが、笛役に新しい子が入ったのが大きな変化だった。すずみが笛を引退し、その役を刀祢の娘、晴に引き継いだのだ。その年小学校五年生になったばかりの晴は教える必要もないほど上手に吹いたので、すずみはすぐ手持ちぶさたになってしまった。だから笛の音や、かけ声や、飛び交う罵声にまぎれて朝来が抜けだすのを見ていたのは、どうやらすずみだけだったらしい。
 集会場の裏の土手に、朝来は一人で立っていた。祭囃子の合間を縫って、静かなせせらぎが聞こえていた。すずみは近づき、声をかけた。
「何か妙に昔のこと思い出すんやけど、あたしらが初めて会ったんも、ここと違ったかなあ」
 朝来は振り向き、え、と意外そうに声をあげた。その様子を見て、すずみは「忘れてもたん?」とおかしそうにいった。
「ほら、蛍がいっぱい飛んでた頃。ここ、六月の始めにはいっぱい蛍が飛んでるやんか。朝来くん、ここで初めて蛍見たんと違う? それで、インスタントカメラみたいなやつで、蛍撮ろうとして」
 ああ、ああ、と、朝来はうなずいた。
「そう、何か、そんな気いする。よう覚えてるなあ。記憶力ええな」
「それであたしが、あかんーっ、て、大きな声出して」
「そうやったっけ? あんまり覚えてないんやけど」
「そうやって。朝来くん、めっちゃ驚いてたやん。もう、川に落ちそうになるぐらい。いきなり知らん子に声かけられたらびっくりするわなあ。というか、どんな気分やったん? ちっちゃい女の子に怒られるって。なんか今さらやけど申し訳ないわあ」
 すずみは楽しそうに笑った。その夜は巫女装束でなくTシャツとジーンズだった。着慣れた服は、心も開け放してしまうようだった。
「ちっちゃい女の子って、おれも子どもやったやんか」
「でも、朝来くんは十歳で、あたしは七歳やった。もうなあ、あたしから見たらものすごいお兄さんに見えたんよ。あの時の、ここに立って、下の川に向かってカメラ構えてる朝来くんの顔とか、かっこうとか、今でもよう覚えてる。こわかったんよ。ほんまやって。……そらそうやん。でもなんでかあたし、あの時えらそうに説教したわなあ。……え、ほんまに覚えてないん? 確かねえ、蛍は明るい光が苦手やから、フラッシュはあかんのやとか、いうたんと違うかな? そしたらねえ」
 すずみはくすりと笑う。「朝来くん、めっちゃ落ち込んでもて。目がどんよりして。あれ、いい過ぎたかな? って、あたし思ってもたもん」
「そうか。覚えてないけど」朝来は少しにやりとした。「まあショックやったんやろ。なんせ女の子に怒られるんやから。初体験やん」
「でその時、あそこの窓の電気がついて」
 すずみはそういって、川に覆いかぶさるように建っている古い家を指さした。はがれたトタン屋根や崩れた塀の輪郭が、かろうじて目に見えた。
「ぱっ、て。それで、川がさーっと照らされて。けっこう明るい光で。一瞬目くらんだもん。それで朝来くんが慌てて、『あかん、電気消すように頼んでこな!』って」
「何それ。そんなこといわんわ」
「いうたよお。で、急に走りだそうとして。あたしが止めやんかったら、絶対山口さんの家に乗り込んでたと思う。あれは絶対。すごいケンマクやったもん」
 朝来はじっと暗い窓を見つめていた。その窓からあかりが漏れてこなくなって、もう数年が経つ。すずみは話し続ける。
「今思い返してみたら、平等じゃないっていうか、不公平やったかなあって、思うんよ。だって朝来くんがちょっと写真撮るんはだめで、山口さんが電気つけるんはいいとか。だってそれ、毎日やもん」
「何かいってることめちゃくちゃやな。確か、ここの人の暮らしは何十年も続いてきたことやから、漏れてくる光も、流される水も蛍の生活の一部で、だから別にいいんと違ったっけ」
「なんよ、覚えてるんやん」すずみは笑った。
「ちょっとだけな」
「あたしらここに座って話したわなあ、そういうこと。あれ、こっちのほうやったかな? まあええや。朝来くんも、立ってやんと座ったら? ええん? ……なんか、観光地になって、人がいっぱい来て、ほたるが絶滅してもたとこっていっぱいあるらしいんよ。本で読んだ。でもここはそんなんにならなさそうで、よかった」
 すずみは突然、仰向けに倒れた。
「おい……」
 朝来が慌てて声をかけると、彼女は目をまっすぐ上に向け、ささやいた。
「見て」
 朝来も、空を見上げた。
 世界が広がるのを感じた。群青色の空に、いくつもの星が瞬いている。
「きれいやあ」
「うん」
 朝来は体を反らし、せいいっぱい空をながめた。吸いこまれそうだった。星は蛍の光に似て、けれども蛍と違って動かない。
「知ってる?」
 すずみがいった。
「今あたしらが見てるんは、何百万年も前の宇宙の化石なんやで」
 朝来は目をこらし、星をよく見ようとした。
「じゃあ、ずっと変わらんのか」
「ちゃうよ。変わらんのと違うよ」すずみはささやく。
「あれは今の姿とちゃうん。あたしらは、もうずっとずーっと昔の星の姿を見てるだけなんよ」
 すぐ近くで、虫がりりりと鳴いている。ふいに背後で物音がして、朝来は振り返った。しかし、小さな畑と古びた小屋があるだけで、誰もいない。
「猫や」
 すずみはそういって立ちあがった。スニーカーをトントンと鳴らす。「……なんか、ひさしぶりに昔のこと思い出してもた」
 朝来は黙っていた。
「ねえ、ごめん変なこと聞くけど、朝来くんはここに来る前、どうしてたん?」
 すずみは勉強が嫌いだったから、高校進学という選択肢をとっくの昔に捨てた。そして転がってきた仕事をしごく簡単に受け入れて、一生、その町で暮らす決心をした。父方の祖父が買ったという、町の住宅街の中でも比較的古くて大きな家に、一家はずっと住んでいた。だからだろう。彼女の知らない場所からやってきた朝来という男の子のことを、すずみはもっと知りたいと思っていた。養父に育てられ、良くも悪くも外側からその町を見つめることのできる朝来という男の子に、すずみは憧れのような、おそれのような、尊敬のような感情を抱いていた。
 朝来はこう答えた。
「いろんな家とか、いろんな人の中で育てられたような気いするんやけど、よう覚えてないなあ。優しい人もいてたし、こわい人もいてたなあ。昔はよく、自分の記憶をたどっていって、それで、自分を最初に育ててくれたんは誰かなあって、考えるんやけど、どうしてもわからんのよなあ。誰も教えてくれやんし。とにかく自分の生まれた場所のことは、知りたても全然わからんかった」
「今は? 今でもわからん?」
「今も。今もわからん」
「それって、忘れてしまうもんなんかな。わかったらええな、って……思う?」
「思わん」
「何で?」
「昔のことやから。どこで生まれたって、誰が家族やったって、いっしょや」
 はっと息をのみ、すずみはしばらく黙った。「……ほんまにそう? あたしは、あたしはお母さんがあのお母さんで、妹があの子でないと、いやや。絶対いや。そうちゃう?」
 そして、ぽつりと付け加えた。
「なんで、あの子やったんやろなあ」
「怒らん?」朝来がつぶやく。
「何が?」
 それには答えず、朝来は淡々といった。
「かわいかったし、健康やったし、でも体はまだ小さくて力も弱かったし」
「理不尽やあ」すずみはつぶやいた。「そんなん、勝手に連れていかれる理由にはならん」
 すずみの妹は五年前に行方不明になっていた。それが実は誘拐で、その手引きをしたのが朝来の養父の百敷という男だった――ということが、前年の秋に百敷の遺書によって明らかになった。
「おかしいんや」
 朝来が吐き捨てるようにいった。
「悪い事とええ事の基準が、狂ってるんや。自分らのやってることの何が悪いんか、いわれても気づかん。だからいつまでも、良くならんのや。ほかの人間が――外の人間が変な目で見てくるんも、当たり前や。おかしいんや、ここは。おかしいんや」
「どうしたんよ。変な目って何よ」
 朝来の激しい言い方にたじろぎながら、すずみが口をはさむ。
「変なんや。おかしな目なんや。でも、だから、どっちも変や。みんな変や……」
 朝来は何かに憑かれたかのように、ささやき続けていた。その様子に、すずみは何となく見覚えがあるような気がした。
 意味わからん、と、すずみがいう。朝来が首を横に振る。
「外に出たら、わかるわ。この町の外に出たら。嫌でもわかる。何もせんでも。すずみちゃんはずっと町にいてるから、わからんだけや」
「あたしかて出ていきたいわ」すずみも、思わず声を荒らげる。「出ていって、あの子探したい。何なん? あの子どこにいてるか、ほんまにわからんの?」
 朝来はゆっくりと首を横に振る。知っているのは、亡くなった彼の養父だけなのだ。いや、その男自身、売り渡した女の子の行方など知らなかったかもしれない。世界は、すずみが思っていたよりも、ずっと広く大きかった。それはすずみの知らないところで、すずみの大切なものを、次々と飲みこんでいくのだった。



■第3章 まどかの脱線


◆3−1 海辺(1)

 傍から見れば、何もかも元通りになったように見えていたのかもしれない。その七月のその一日も、何事もなく朝が来て、いつもの時間に、つまり学校に間に合うような時間に、羽合まどかは家を出た。
 けれどその日、玄関でまどかを見送るはずの母は、まどかと一緒に家を出た。
 早朝の空気は少し冷たく、むき出しになった腕には肌寒いくらいだった。霧の幕が町に下りているのだろうか、石畳を囲むように並んだ平屋や二階建ての家が、昼間よりもかすんで見える。明かりのついた窓はほとんどない。大叔母さんの家も、刀祢の家も、どこもかしこもまだひっそりと眠っている。新聞配達のおじさんとすれ違って、短い挨拶をした。彼が遠ざかってしまうと、町にはまた静けさが戻った。まどかの靴と母の靴がそれぞれ石畳を踏む音と、まどかの押す自転車のチェーンの回る音だけが、静かに立ち並んだ家々の壁にこだましていた。
 二人は、とくに何も話さなかった。
 母はただ黙ってまどかの隣を歩いていた。いつもの髪形に、いつもの眼鏡に、いつもの服。たまにまどかが母のほうを見ても、母の顔は前ばかりを見ていた。
 背は、もうほとんど同じくらいだった。

 その朝母が一緒に歩くことについて、母は何も話さなかったし、まどかもとくに何も尋ねなかった。そして母が何も尋ねなかったから、まどかも何も話さなかった。だから、まどかは母をだましたわけではない。聞かれなかったから答えなかっただけだ。いや、だましただまされたというよりも、二人は共犯だったのかもしれない。

「焼けたなあ」母はぽつりとつぶやいた。
 彼女の目がまどかのほうを向いたのは、その時だけだった。まどかは半袖から突き出した、自分の細い腕を見つめる。
「日焼け止め、塗らんと」母はいった。
 焼けたらなんか悪いん? と、まどかは聞いた。母はちょっと困ったような顔をして、痛いやろ、といった。ううん、と、まどかは首を横に振った。けれど、「将来病気になるかもしれやんし」という母の言葉には、素直に「そっかあ」とうなずいた。
 やがて住宅街を抜けて、山が間近に迫った道を這うようにして上り、バス停のある県道に出た。自転車をふうふういいながら押し上げるまどかに、母は何度も「大丈夫?」と尋ねたけれど、まどかはそのたびに黙って首を振るだけだった。
 まどかは自転車にまたがり、危なっかしい足取りでペダルに足を乗せた。
「いつものとこで、バスに乗るんやで」母がいった。
「わかってるって」
 まどかは努めて明るく答えた。
「気いつけて行き」
「うん」
「あの人はあんなこというけど、まどかの体が一番大事なんやから」
 あの人、というのは、父のことだ。
「うん」
「しんどかったらいつでもいってな。あたしはいつでもまどかの味方やから」
「うん」
「あの人なんかのいうことはまともに聞いたらあかんで。事故に遭ったばっかりで、まどかもしんどいやろになあ」
「うん」
「まどかの髪、結ってあげられやんと残念やわ」
 まどかはうなずくのをやめた。嫌になった。子はかすがいとはいうけれど、まどかはそんなに強くない。
 ほんまに気いつけてね、と、母はまたいった。それで終わりだった。ハンカチは、財布は、定期は――と、いちいち確認することもしなかった。
 彼女は、小さな娘の背中が木々や雑草に覆われるようにして見えなくなるまで、いや見えなくなってからも、その場に憂いを含んだ表情で立ち尽くしていた。

 その前の日のことだ。
 道路から聞こえた、自分を呼ぶ声に、まどかは振り返った。
 ガードレールから身を乗り出すようにして、三倉すずみが手を振っていた。ちょっと大きめのTシャツにジーンズという格好で、うしろで束ねた髪は風に大きくなびいている。傾きかけた太陽が、背後の樹林に大きな陰を作っていた。
 まどかも手を振り返す。すずみはガードレールをまたぎ越え、急な土手を小走りに駆けおりてきた。
 波から忘れられ、海岸にぽつんと取り残されたような大岩の上に、まどかは一人で座っていた。すずみはそれもよじ登って、とうとうまどかの隣まで来た。そして青から灰色になりかけた海を見つめながら、どこ? 見える? といった。
 見える、ほら、あそこ。とまどかは指をさす。
「どこ?」
「あそこやって。ほら、あの、今波が白くなったとこ。あの空の向こうの、雲がちょっと重なって、びろうどみたいにくねくね垂れ下がって、そう、暗い灰色になって海とくっついてるところの、ちょっとこっち側。ほら、今、動いた……」
「ほんまやあ」とすずみは声をあげた。「意外と大きいんやなあ」
 二人は長いこと岩の上に座って海を眺めていた。日は山の後ろに傾いて、あたりは暗くなりかけていた。濃い影が背後から迫る。まるで夜が手を伸ばして、二人を包みこもうとしているようだった。
 ぴ、と鳴き声がして、白いものがまどかの制服の胸元から顔を出した。
 すずみは大げさに驚いて、危うく岩から転げ落ちそうになった。まどかが慌てて助けようとするが、騒ぎを起こした当人はのんきにぴーぴーと鳴くばかりだった。
「何だ、ぴー太郎か」
「ちゃうよ、ぴーちゃんやよ」
「そかそか」
 すずみは首を伸ばし、まどかの顔の下をまじまじと見つめる。羽毛に覆われたつぶらな黒い目が、すずみを見つめ返した。
 ないしょにしてくれちゃある? とまどかがいって、不安そうにすずみを見上げた。
「あれ、秘密やったっけ?」
「そうよお」
「あ、おばさんに反対されたから?」
「違うけど、たぶん反対される」
「なんで?」
「なんとなく」
 すずみは何もいわずそっと手を伸ばして、ぴーちゃんをつついた。ひよこ、というよりニワトリといってもよさそうな彼女――どうやら女の子らしかった――は、嫌がるようにしきりに首を振った。
「もー、こんなん入れとかんといてよお。まどかこんな胸大きかったっけって、焦ったやんか」
 すずみがいうと、まどかは「パットもついてるし」と自分でもよくわからないことをいって、ふふと笑った。そして「隠しとくん、難しなってきたわ」とつぶやいた。ぴーちゃんの成長は、まどかが思ったよりずっと速かった。
「制服似合ってる」
 まどかの服を指して、だしぬけにすずみがいった。おしゃれな校章が刺繍された、中学校とは少し違った制服は、まだのりが効いていてぴかぴかだった。
「そう?」
 首をかしげながら、冷や汗をかいていた。
「高校どう? 楽しい?」
 まどかは反射的に「うん、楽しい」と答えていた。
「それやったらよかった」すずみは嬉しそうにいった。そんなすずみを見ているのが、まどかにはつらかった。
「まどかはすごいわあ」
「何が?」
「高校行ってて。あたしは絶対無理。あたしは挑戦する前にあきらめてもたから。まどかのこと、ほんまにすごいと思う」
「すごいんかあ」
「すごいすごい。あ、もうだいぶ暗なったなあ」
 すずみはよいしょ、と身軽に岩を飛び降り、手についた泥を払いながら、まどかに「もう帰らん?」といった。
「もうちょっと」
 まどかは暗くなっていく海を見つめながら、小声でいった。
 すずみはしばらく黙ってまどかのほうを見ていたけれど、やがて注意しないと気づかないくらい小さくほっと息を吐き、手を体の後ろで組んで声をかけた。
「クジラのこと、教えてくれてありがとお」
 まどかはうなずく。
「あ、一番星!」といってすずみは空を指さした。
 しきりにきょろきょろしながら、「見えやんけど」とまどかがいう。
「もう、ノリ悪いなあ」すずみがほおをふくらませて、それから笑う。
「ごめん」まどかも笑う。
「明日も来るわあ」
 すずみはそれだけいって背を向け、ガードレールをめざして歩きだした。
 途中で振り返ると、夕闇の中に、白い制服姿がぼんやり見えた。すずみにとってもう二度と着ることのない学校の制服。それは暗い海を背景にして妙に映えていた。そして、彼女をそんなふうに一人っきりにしてしまうことが、すずみにはなぜかとても申し訳なく、情けないことのように思えるのだった。


 電話の向こうの、山吹の声が変わった。
 怪我って、何。大丈夫?
「大丈夫やって。もう治った」すずみは冗談めかして、笑うようにいいながら、そこにはいない山吹を手ではたく動作をした。着物の衣擦れの音に、授与所の窓につるされた風鈴の音が重なった。
「ほんまに大丈夫か。医者には見せた?」受話器のこちら側からでも、山吹が慌てているのがわかる。手に取るようにわかる。いつもひょうきんで冷静な彼が、これほど必死になるのは珍しいことだった。彼は、人が傷つくことには人一倍敏感だった。それは彼自身、二度と立ち上がれないくらいに傷ついた経験があるからだろうか。それともまだ、その傷が治っていなかったからだろうか。冬空の下で、自分の夢を諦めなければならないと涙を見せた山吹の姿を、すずみはいまだに、まるで写真で見るかのように、はっきりと覚えている。
「それより、なんか」
 すずみは新しい話題を持ち出した。どちらからともなく言葉を途切らせてしまったからだ。
「海に、クジラが来てるんよ」
 クジラ? 海に? という山吹は、どうやら信じていない。
「そうそう、ほんまにいてるんやって。昨日見にいって」
「誰と?」
「さあ」すずみはおどけた。「今日も仕事終わったら、見にいくん」
 そうですか、と、山吹のすねたような声。
「海って、崖のとこで?」
「ううん」
 そのやりとりの後、まるで、本当に糸が切れてしまったみたいに、会話はぷっつりと途絶えてしまった。この町の、山と海の間にそそり立つ断崖は、すずみにとって特別な意味を持つ。妹と永久に別れることになった場所なのだから。それをわかっていながら、山吹が口に出したのは――ただの不用意なのか、それとも、心に何か思うところがあったからなのか。
 どうなの、と、山吹が静かに聞いた。
 どうしても話がそういう方向に行ってしまう。すずみは山吹を巻き込みたくないと思っていたけれど、彼はそれを許してくれそうになかった。
「まだ、まだまだ。そうすんなりはいかんって」
 パソコンに目をやりながらすずみがいった時、電話の向こうで予鈴の音がした。 

 袴を脱いでジーンズをはき、帯の代わりにベルトを締めると、その瞬間――ほんの一瞬で次の瞬間には消えてしまう感覚なのだけれど――もとの自分に戻ったような気になる。カミサマにお仕えする、という建て前の自分ではなくて、どこにでもいる普通の女の子になったような気になる。そして、すっと肩が軽くなるような気がする。
 まとめていた長い髪を一度おろし、指でかきあげる。ゆるやかな風が、汗のにじんだ首筋に心地よい。しばらくそうしていたあと、すずみは境内を出て山道を歩いた。落ちかかる蝉の声を無意識に聞きながら、まっすぐな長い石段を下っていく。
 いつもなら家に帰る。そして、祖母と二人きりで晩ごはんを食べる。母親はずっと寝床にいる。そして、妹はもういない。

 事件から五年以上が経っていたその当時でも、すずみはいつも、漠然と考えていた。今日こそ家に帰ればお母さんと妹が祖母と一緒に食卓につき、自分を待っていてくれるのではないか。今日でなくとも、いつかはそんな奇跡が起こるのではないか。

 けれどその日は住宅街へ向かわずに、前日と同じく町の外へ出る道をとった。藪とクモの巣に覆われた近道を抜けると、やがて少し、ほんの少しだけ舗装された県道に出る。そこは一日に数回だけバスの通る道だったが、そのわだちを、雑草が半日で覆いかくしてしまっていた。林を迂回するように延びていく道路は、やがて海に近づき、さびて赤茶けたガードレールの向こう側に、砂と岩が入り混じった海岸が見えてくる。
 そのはずだった。
 けれど道路に出て少しも行かないうちに、すずみは後ろから誰かが歩いてくるのに気づいた。すずみが足を止めると、背後の足音も止まった。ふと、いつか神社で言葉を交わした怪しげな男を思い出した。だがそれも束の間だった。すずみがまた歩きだすと、もう足音はついてこなかった。
「何なん、ヘンタイみたいなことして」
 振り返りざま、すずみは声をかけた。
 背を向けて立ち去ろうとしていた千早たづきはぴたりと動きを止め、のろのろと振り返った。見るからにおっくうそうで、不機嫌そうな顔だった。彼はしばらく口ごもり、聞こえないことを何やらつぶやいてから、
「どこ行くんかなって」といった。
 どこでもええやん、とすずみは返した。そして、「そっちこそ」と聞き返す。
「散歩」
「じゃあ、あたしも散歩」
 そういいながらすずみは、たづきの視線が常にすずみの左肩に向けられているのに気づいていた。けれど、すずみはまったく意に介していないかのように、堂々と胸を張って仁王立ちしていた。その日も大きめのTシャツを着ていたから、外から包帯は見えないはずだった。それにあれから何週間も経ち、打撲傷はほとんど治っていた。日常生活にも支障はなかった。だからそれを他人に気にされることは、すずみにはうっとうしいことでしかなかった。その人間が怪我の原因を作った張本人であれば、なおさらに。だから、もうそのことは忘れてほしくて、
「海に、クジラ、いてるんよ」とだしぬけにいった。
 うそや、と即座にたづきはつぶやいた。おそらく真剣に考えてそういったのではなく、すずみの言葉を理解するための時間稼ぎをしようとして、たまたま口をついて出たのだろう。そんなふうな言い方だった。
「うそちゃうわ。見に行ったら? あたしも見たんやけど、すごいでっかいんよ。こーんな。まどかなんかあれ見るためにずーっと海岸にいてるし。あたしも、これから行こうとしてたんやけど、急用思い出したから帰る」
 いうが早いか、すずみは駆けだした。口をぽかんと開けているたづきのそばを走り抜けるとき、左手で脇腹を殴ってやった。けれど意外としっかりした体で、すずみの腕が弾き返されそうになった。
 たづきのうめき声を背中で聞きながら、いい気味だ、と思う。でも、肩は鈍く痛んだ。


◆3−2 海辺(2)

 彼がその時何をいいたかったのか、何をいおうとしていたのか、まどかには知る由もない。まどかはぴーちゃんを抱きながら、あの大岩の上に座っていた。たづきはすずみと違って、岩の上には登ってこなかったし、まどかのほうも見なかったし、楽しい冗談もいってくれなかった。
 町で顔を合わせることもそれほどなかったし、二人がまともに言葉を交わすのは、まどかが入院していたあの時以来だった。数日前にバス停で交わした、ささやかな挨拶を除けば。いつしか季節は移り変わり、夏は容赦なく町を覆い、木々や草花や虫たちの命をあちこちで爆発させ、燃やし尽くそうとしていた。
 まどかも例にもれることなく半袖のカッターシャツを着て、汗をにじませ、夏という季節のまっただ中にいた。いつか彼女がいったように、季節に置いてきぼりにされるようなことはなかったのだろうけれど、それでも、夏はまるで突風か雷のようにやってきて、まどかの春の時間を奪っていった。
 町を包む草の息吹や、小さな生命の発するさざめきが、まどかには息苦しく感じられた。それに比べると、海はいつもおおらかな顔をして、途方に暮れるまどかをなぐさめてくれるような気がするのだった。

「そいつ、だいぶ大きなったなあ」
 ぴーちゃんを見ながら、たづきがいった。「まだ飼ってたんやなあ。その子。それってあの時、トラックか何かで運ばれてたんやろ」
 まどかはただ、うん、うん、とうなずいていた。
「どこ? クジラ」
 すずみに聞いたんやけど、と、たづきは一歩、波打ち際に近づいた。まどかは嬉々として海の一点を指し示し、クジラの背中が見える位置をことこまかに説明した。
 たづきはそれを見つめながら、「そういえば、あれ、いつやったかな。海の向こうから噴水みたいな、霧みたいなんがぶわーって上がって、虹ができたん見たことあるんよ。あれ、あのクジラやったんかなあ」といった。
 それ絶対そうや、と、まどかが嬉しそうにいった。
 しばらく海を見つめていたあと、たづきはまどかに、学校のことについてさりげなく聞いた。まどかははっきり答えず、逆にたづきに近況を尋ねた。
「相変わらずやよ」と、たづきはため息まじりに、自分の生活にうんざりしているようにいった。少なくともまどかには、そう聞こえた。
「竹割って、切って、曲げて、磨いて、組んで、また磨いて、まあそんなことばっかり」
 たづきはそんなふうにいった。だとしたらまどかの生活は、「朝ごはんたべて、家出て、ぴーちゃんと遊んで、家帰って、寝て、まあそんなことばっかり」だった。
「でも、今年は松明、任された。火まわりの」と、たづきは何でもないことのようにさらりといった。それでまどかも、それは何でもないことなのだろうと思った。
「たづきくんが松明作るん? たいへんそう。いっぱい作らなあかんやん」
「いや、一本だけや」
 なんや、とまどかはいって、無邪気に笑った。

 たづきがその松明作りに大きな重圧を感じ、毎日おじにしごかれ、またそれに関わることですずみに怪我をさせてしまっていたことなどをまどかが知るのは、ずっと後のことだ。まして、たづきがどれほど苦労し、恐れ、追い詰められながらその年の夏を迎えていたかということを、まどかが知るはずもなかった。

 まどかはこんなことを聞いた。
「たづきくんの松明、どこ回るん?」
 年に一度の神事にあわせて行われる「火まわり」は、町の夏の風物詩だ。山上の神社を出発した五本の松明は、バケツリレーのように住人の手から手、手から手へと受け渡され、町をひとめぐりして、また神社へと返される。誰でも一度は松明に触れることになるのだが、そうして戻ってきた五本が祭壇におさめられて初めて、ようやく神事の準備が整うというわけだった。
 まどかはたづきの松明を見てみたかったし、できることなら、あかあかと燃えるそれを手に持ってみたいと思った。
「そんなん、わかるか」たづきは呆れたようにいう。「別に、持たんでもええし」
 まどかは密かに、当日たづきの松明に触る策略を頭の中にめぐらしたけれど、簡単にはできそうになかった。

 その年の火まわりが七月二十日の土曜日だったから――ある理由で、まどかは曜日まで覚えている――海辺でたづきと話した時、祭りまで二週間ほどに迫っていたはずだ。きっとたづきの手はマメだらけだったのだろうけれど、まどかの記憶には残っていない。

 たづきが黙ってしまったので、まどかは話題を変えた。まどかは、少なくとも町の中では、困ってしまうくらい能天気なおしゃべりだった。
「朝来くんはどうしてるん?」
 たづきの家に居候していた朝来は、まどかにとっても兄のような人だったから、お世話になったことも、迷惑をかけたこともたくさんあった。たづきに振り向いてもらいたいがために、彼をだしに使ったこともある。それでも進展しない二人の仲を見て、すずみはきっとじりじりしていただろう。もっともまどか自身、自分の気持ちにはっきり気づいていたわけではなかったのだけれど。
「あいつ、仕事やめた」たづきがつぶやいた。
「うそお」
「何でかわからんけど」
「わからん?」
 話してくれやんからなあ、と、たづきはじっと海を見つめた。「でも、何か、えらい怒ってたわ」
 まどかの口から、ぽろりと言葉がこぼれ落ちた。
「撫子さんは、すごい泣いてた」
 たづきは怪訝そうに、岩の上のまどかを見上げた。沈みかけた夕日の光を受けて、彼の目がほんの一時、無表情にきらりと光った。
「いや、ごめん、何でもない」まどかは目をそらした。自分でもどうしてそんなことをいったのか、そもそも撫子のことをなぜそこで思い出したのか、納得のいく説明をつけることができなかった。
「たづきくんは、大丈夫?」まどかは何気なくつぶやいた。
 それに対するたづきの言葉も十分予想できたのに、まどかは思わず聞いてしまった。きっとたづきは、同じことを聞き返してくるだろうに。そうなったらまどかは何と答えただろう。大丈夫かといわれて、大丈夫だといえただろうか。
 けれどたづきは、何もいわなかった。
 その代わり、まどかに、町のお祭りは好きかと聞いた。まどかが好きと答えると、たづきは「よかった」といったきり、また黙ってしまった。

 その時彼が何を考えていたのか、今のまどかなら、手に取るようにとまではいかないまでも、少なくともその一部を理解することはできる。十五歳のまどかは、千早たづきという人間の表情と言葉を、そのまま受けとめることしかできなかった。けれど、それでよかったのかもしれない。

「帰りたいんちゃうかな」
 たづきの一言に、まどかは首をかしげる。無意識に、ぴーちゃんを抱く腕に力が入る。たづきはじっと海の彼方を見つめていた。そして波の散る一点を指さすと、「ほら、顔出した。泳いでる、泳いでる」とつぶやいた。たづきはクジラのことをいったのだ。
「帰り道、わからんようになったんちゃうんかなあ」とまどかはいった。
「じゃあ、何とかして帰してあげやな」
 うん、とまどかはうなずく。うなずくだけで、その方法はわからない。
「たづきくん、何かいい考えあるん?」
 ないわ、とたづきは首を振る。「まどかも考えてよ」
 まどかはまたうなずいて、海に目をこらす。「でも、なんでこんなとこに来たんかなあ。なんでひとりぼっちなんやろ。もしかして、家族とはぐれてもたんかなあ」
「さあ。もともと一匹やったんかもしれやんけど」
「クジラには家族、いてないん?」
 さあ、とまたたづきがいった時、まどかが声をあげた。
「あっ、あっちから船、いっぱい来たで。助けに来たんやあ」
 たづきは少し驚いた顔をする。
「おっと。どうするつもりなんやろ?」
「うーん、なんか、クジラのまわりでぐるぐる回り始めた。おどかして追い返そうとしてんのかなあ」
「たぶんそうや。あ、あっちからももう一隻来た」たづきは別の方向を指さす。「湾の外まで連れていくつもりなんや。でもあのクジラ、なかなか動こうとしやんなあ」
 まどかが身を乗り出し、目を細めて、海の彼方を見つめる。
「ほんまや、疲れてんのかな」
「だってもう何日もここにいてるんやろ。食べ物もなくて弱ってるんちゃうかなあ。ん、あれ、なんか怪我もしてるんちゃうかな。ひれのところがちょっと赤いで」
 うそお、とまどかは悲痛な声をあげる。
「いや、気のせいやった」まどかの慌てぶりを見て、たづきがすぐにいう。
「よかった。あれ、何この音。びーびーうるさいなあ。耳痛い」
「何それ。あ、わかった。音で遠ざけようとしてるんかも。あ、クジラ、もう見えやんようになったんちゃう? 行ってもたんかな」
「ちゃうわあ、見て。あんな船の近くに出てきた。あぶない! ぶつかったでえ。あ、暴れてる。痛がってる……」
「何でや。あいつ、耳、聞こえてないんか」
「かわいそうやあ」
「またこっちに戻ってくる」
「こっちちゃうで――っ!」まどかは叫んだ。その声が、水色の空の中に消えてゆく。
「やっぱり聞こえてないんや」
「どうしたらええん? 助けられやんの?」
「でも、下手に近づいたら、こっちも危ないし。クジラにも怪我させるかも。待ってあげやんか? あいつがどうするか」
 しばらく、二人は無言だった。刻々と太陽は傾いていき、少しずつ二人の影をのばしていった。水平線から吹いてくる風が、ふと弱くなる。引いていた汗が、再びまどかの額ににじんだ。
「あ……」まどかがつぶやく。
「どうしたん?」
「行ってまう……。クジラが、向こうに泳いでいく。ほら、ちょっとずつ、ちょっとずつ離れていってる。ああ、もうあんな小さなってもた。あれ? 見えやんようになった。もういてへん。……帰っていったんやなあ」


◆3−3 夜の道

「ちょっと走らん?」
 たづきの言葉に、まどかはうなずいた。たづきは土手を登っていき、ガードレールの外側に捨てるように置かれていた、まどかの自転車を持ちあげた。地面を離れた後輪がわずかに回り、音を立てた。それから道路に引き出してサドルをめいっぱい上げる。まどかには大きすぎる自転車もたづきには少し小さいくらいだった。たづきは自転車にまたがったまま、歩いて近づいてくるまどかを一度だけ見た。まどかの胸元で、ぴーちゃんがもの珍しそうな目をして彼を見つめていた。
 まどかが荷台に腰かける。遠慮がちに、片腕をたづきのおなかにまわす。
「ちゃんとつかまっとけよ」と、たづきにいわれてしまう。
 何度も何度もしてもらった二人乗りなのに、その日の二人乗りはどこか特別だった。

 たづきが漕ぎ出し、体が宙に浮くように感じられたとき、まどかは寒気のようなものをおぼえて身を縮めた。地面から離れる時の、本能的な怖れの気持ち。たづきの体もそれに合わせてか、いくらかこわばったように思えた。けれどその一瞬が過ぎると、まどかの肩からは力が抜けていった。自然と息がもれる。たづきの背中に頭を預けて、次々と通り過ぎていく風を肌に感じていた。
 これでいい、と思った。
 たづきくんに任せておけばいい、と思った。
 知らず知らずのうちに、自分がたづきやすずみから離れようとしていたことに、まどかは気づいた。まどかが一生懸命勉強し、成績を良くし、高校に行き、そして専門学校だか大学だかに行き、たくさんの経験を積むことで――彼らからはずっと離れたところに行ってしまう。それは、いやだと思った。たづき達のあとについて、昔からずっとそうしてきたように、みんなと同じ道を行きたいと思った。まどかはそっと目を閉じて、たづきの背中をより強くつかんだ。
 たづきが漕ぐのを休むと、そのたびに自転車のチェーンが快く鳴った。空気がぱんぱんに入ったタイヤが、小石の上を勢いよくはねた。潮風がまどかの鼻をくすぐり、髪をなでた。やがてこの風は、山からのものに変わるだろう。そうすれば日が隠れ、夜がやってきて、林の木々も海辺の岩も、何もかも黒いとばりで包み込んでしまうだろう。
 けれど、まどかはそれをまったく怖れなかった。夜になってもまどかが帰らなければ、両親が心配するだろうことも考えなかった。
「どこまで行く?」と、たづきが尋ねた。
 まどかは答えない。
「ねえ、どこ行きたい?」たづきがまた聞く。
 まどかはぽつりとつぶやいた。「バス停のとこまで」
 バス停? とたづきが聞き返す。まどかはしばらく黙ったあとで、心を決めたように一息にいった。
「高校行くんに、いつもバス乗るとこ。こっからずっと行って、一時間くらい」
「高校行くんか?」
 ちゃう、とまどかはささやくように、けれども強い口調でいった。
「何ていうバス停?」
 また少し間を置いて、まどかが答える。「『養鶏場前』」
 たづきは何もいわなかった。うなずきもしなかった。まどかも黙ったまま、たづきの太い首筋と、風になびく短い髪を見つめていた。ぴーちゃんだけが、何も知らないかのようにぴいと鳴いた。
 そこで火事でも起こっているように、空があかあかと照り輝いていた。光をさまざまな角度と方向にはね返す雲は、金色や銀色に染まって見えた。自転車が急な坂道を下っていくとき、正面に広がるそんな空を見つめていると、まどかはふとそれと同じ高さに自分も浮かんでいるような錯覚をおぼえた。
 そのうちに日がどこかに姿を隠してしまうと、紫色の空の下で、黒々とした山の間をすり抜けるようにして二人は進んだ。あたりは暗く、たづきは勢いよく漕ぐのをやめた。頼りになるのは、自転車の薄いライトだけだった。
 たまに、暗やみの中に二つの丸い目がきらりと光った。
 狐か、たぬきか、犬か猫かむじなかわからないけれど、それを見るたびに、まどかは片手でたづきを、もう片方の手でぴーちゃんを、しっかりと抱きしめるのだった。いたるところで虫が鳴き、ふくろうが鳴き、木の影がぬっと飛び出してきて、二人の行く手をさえぎろうとするように思えた。

 バス停に着いたのは、何時ごろだったのだろう。
 まどかは時間を確かめる気にならなかった。それに、そうする必要もないと思った。もちろんたづきの体力なら、まどかが一時間かけて走る道も三十分くらいで走り切ってしまっていたかもしれない。だからそれほど遅い時間にはなっていなかっただろう。けれど、もうまどかにはどうでもよかった。その日の朝、母親の前で偽りの出発をしたときから、まどかの心は決まっていたのだ。
 たづきは立派な屋根つきのバス停で、目をこらし、路線図や時刻表を読もうとしていた。そこに切れかかった蛍光灯が備え付けられているほかは、近くに明かりはほとんどなかった。蛾の羽音がうるさいくらいに聞こえ、屋根の裏側にはくもの巣が白く光って見えた。
 まどかは人気のない道をうろうろしながら、あたりを見回した。そのバス停は何度も使っていたにもかかわらず、周りを歩いてみるのは初めてだった。すぐそばにほとんど空の駐車場があり、そのむこうには窓にオレンジの明かりが灯った住宅が見えた。あとはフェンスとアスファルトだけでできているかのような、寂しい場所だった。
 星が瞬いているはずの空を、黒く大きなものが覆いかくしていた。

 駅行きのバスを待っている間、まどかはよくその建物を眺めていたものだ。最初は何の建物かわからなかった。けれどもある朝――二度目の登校の日、たづきとわずかに言葉を交わしたあの朝だったかもしれない――その無機質で大きな姿と、バス停の名前と、事故の際に拾ったひよこが結びついた。それなのに、まどかは、ずっと気づかないふりをしていた。頭の奥深くにしまいこんで、知らなかったことにしていた。
 だからたづきと並んで養鶏場の前に立ったとき、その四角い建物が急にまどかの前に立ち現れたかのような、奇妙な感覚さえおぼえた。そこに来たこと自体まどかの思いとは全然関係なく、たづきに勝手に連れて来られたような気さえした。

 それからの記憶は、かなりあいまいだ。二つ三つの場面が、さもあったことのようにまどかの頭の中をちらつく。おそらくどれかが現実で、残りは夢なのだろう。
 ある場面では、大きな養鶏場の扉は閉ざされていて、隣の事務所らしきところにだけ明かりがついている。窓ガラスから放たれている白い光に、目がちかちかした。二人が訪ねていくと、作業着姿の中年の男が出てくる。彼はまどかをうさんくさそうに眺める。それからぴーちゃんを見て、「もう売り物にならないから」というなりドアを閉める……
 別の場面では、その男はにっこりと顔をほころばせ、まどかの頭をなでんばかりに喜びながら、「よう届けてくれた」と何度もいっている。「きみは正直な子やな」などと、しきりにほめられる。そして、ぴーちゃんのことはまどかに任せるという。都合の良い記憶ばかりなので、これは間違いなく夢だとまどかは思っている。
 さらに別の場面では、夜にもかかわらず養鶏場には明かりがついていて、無数のにわとりが棚という棚にひしめきあっている。狭い通路を通って出てきた男は、初め驚いていたものの、まどかの話を神妙に聞く。そして、ぴーちゃんは責任を持って引き取ろう、とだけいう。いやその前に、大勢の仲間たちを見てぴーちゃんは騒ぎ、まどかの手から飛び出してしまう。ぴーちゃんは何を思ったのだろう。自分の行く末を怖れたのか、仲間を助けようと思ったのか……
 帰り道、もうぴーちゃんは一緒ではなかった。それだけは確かだ。

 暗い夜道をバス停まで戻る。どこからか、猿が騒ぐ声が聞こえてくる。たづきはすぐには自転車に乗らず、静かにまどかを見つめていた。
「まどか」と、呼びかけた声は低く、しんみりとしていた。
「何?」
「クジラも帰ってったし、ぴーちゃんも、帰ってったな」
 まどかは小さくうなずいたが、うつむいたままだった。早く自転車に乗って走りだしたいと思っていた。それなのにたづきはじっと立ったまま、動こうとしないのだった。
「誰にでも、行かなあかんとこがあるんやって。誰かがそういうてた。やっぱり、みんなそうよなあ」
「じゃあ帰ろ」
 まどかがそういったとき、たづきは自転車に背を向け、まどかの顔をまともに見た。
「まどかも、ちゃんと学校行けよ」

 あとになって思えば、たづきのその言葉はおかしくも何ともなかったのかもしれない。二人は明らかにそれぞれ異なる道を歩み始めていたし、だからこそたづきはまどかの進路を尊重しようとしていた。まどかの行くべき所は学校で、進むべき道もその先にあるのだと。ただそれは、まどかの望んだ言葉ではなかった。
 学校をやめて町に戻って来いとたづきがいってくれることを、まどかは心のどこかで待っていた。むしろ、そういってくれるに違いないとまで思っていた。けれど、それはもう、叶うはずのない願いだった。あまりにも幼い考えだった。

 まどかは何度か口をひらこうとして、それでも何もいえないまま、たづきの待つ自転車の後ろにまたがった。
 ゆっくりと、もと来た道を走ってゆく。夜風は夏の湿り気を含み、重たかった。遊歩道には誰もおらず、ときどき思い出したように立っている街灯が、二人の影を大小さまざまに落としていくだけだった。左右に広がる草むらでは、ひっきりなしに虫の声が聞こえている。アスファルトがうろこのようになったでこぼこ道に差しかかり、自転車が大きな音を立ててはずんだ。甲高い音がして、速度がゆるむ。
「チェーンはずれてもた」
 たづきがそういって、自転車を止める。まどかは降りて、車輪のあたりにかがみこんだたづきの背中を、じっと見つめていた。
 自転車を近くの街灯の下に持っていき、しばらくたづきは手を動かしたり、体をひねったりしていた。しかし、やがてため息をつきながら立ち上がり、まどかを振り向いた。「チェーンのとこ、カバーかかってるやん。なんか、ボールペンとか、硬いもん持ってない?」
 ううん、とまどかは首を振り、たづきに近づいた。するとたづきが手を隠すようにするのでよく見ると、指が赤く染まっていた。よほど強い力でカバーをはずそうとしたのだろう。
「手」と、まどかは息をつまらせた。「たづきくん、あかん」
「大丈夫やって」
 たづきは面倒くさそうにいうと、しばらくあたりを見回していた。それから「しゃあないし、押していくか」といった。
「わたしが押す」
「ええって」
「押すって」
 まどかは無理やりたづきを押しのけ、自転車のハンドルをつかんだ。
「今何時やろ」たづきがつぶやく。
「さあ」まどかも時計を持っていなかった。
「帰るん、だいぶ遅なりそうやな」
 自転車で一時間の道のりだ。まだ四分の一も来ていなかった。歩くとしたら、どのくらいかかるのだろう。
「ごめんやで」たづきがいった。
「ええよ」
 まどかは黙々と自転車を押していく。はずれたチェーンが、からからと変な音を立てた。いつになく口数の少ないまどかを気にかけてか、たづきが時々話しかけた。
「悪りな。明日も学校やのにな。起きられるか? ……そうか。宿題とかは? ……それやったらええけど。でも、学校行く途中に壊れやんで、よかったな。……え、なんでって。だって、遅刻したらたいへんやろ」
 まどかが歩くのをやめた。
 たづきも足を止める。「疲れた?」
 遊歩道と並んで走る狭い車道を、車が通った。まぶしい光がほんの数秒だけ、二人を照らした。
「あ」まどかが声を出そうとして、いいよどむ。「あの。もし、あたしが学校行かんようになったら。たづきくんはどう思う?」
 おかしな質問だった。
 たづきは、すぐには答えなかった。それから静かに、「行きたくないんか?」といった。
 すさまじい音が響き渡り、自転車がまどかの足もとに倒れた。まどかはじっとして動かず、顔を下に向け、目をぎゅっと閉じ、こぶしを強く握りしめていた。
「学校、いやなんか?」たづきが聞く。
 まどかはうなずいた。
「今の学校がいやなんか?」
 まどかはうなずかなかった。たづきの言葉の意味を測りかねた。
「行きたくないんやったら、行かんでもええと思う」たづきの声は落ち着いていた。「やっぱり。最近、なんかおかしかったしな。相談してくれたらええのに。でも、学校は行ったほうがええんちゃうかな、転校してでも。そうや、今の学校がいやなんやったら、ほかの学校に行ったらええんちゃうか。……ごめん、簡単にいうて。いろいろ、手続きとかもあるわな。お父さんとお母さんにも相談せなあかんしな。でも、そうしたほうが……」
 なぜ抱きしめてくれないのだろう。
 まどかはそればかり考えていた。
 なぜ、こんなにも冷静に諭されなければならないのだろう。
「ほら、帰ろ。早よ帰って、今日は早よ寝よう。先のことは、また明日考えよう」
「いやや」
「いやって」たづきは言葉を失う。
 雨が降り始めた。
 たづきが差し出した手のひらの上で、大粒のしずくが次々とはじける。
「雨降ってきた」
 たづきはいうが、まどかは動かない。雨はあっという間に強くなった。霞んでいく視界の中に、雨をしのげる場所はないかと、たづきは必死になって探した。
「まどか、風邪ひく」
 まどかの肩を覆うように、たづきの腕が触れた。
 強い光が雨を切り裂き、大きなエンジン音と共に車が近づいてきた。空気の抜けるような独特の音がして、その車は二人の前で扉を開けた。
「早よ乗れ」運転士に声をかけられる。
 たづきはまどかを無理やり引っ張るようにして、そのバスに乗り込んだ。自転車はそのままにした。道端に倒れたそれは、雨に濡れてまがまがしく光っていた。
 客は一人もいなかった。髪や服から垂れるしずくで、二人の足もとにすぐ水たまりができていく。
「送るわ」
 運転士は前を向いたままいった。扉が閉まり、バスが動き出す。
「ええんですか」たづきは荒い息をしながらも、あっけにとられて尋ねた。そんな時間に、町に向かうバスがあるはずはなかった。
「座っとき」彼はそれだけいった。
 バスは民家の敷地に入り込んで大きく方向を変え、嵐のような雨の中を突っ切っていった。
 しきりに鼻をすすっているまどかの隣に座りながら、たづきは、ほんの数日前、まどかに別れを告げた朝のことを思い出していた。揺れる車内で、まどかの腕はたづきのひざの上にあった。彼女の手に触れようかと迷いながらも、たづきはいつまでも通路にはみ出すようにして座っていた。ただ、路線を大きくはずれたバスは二人を乗せて、迷うことなくまっすぐに走り続けていた。
「あ、流れ星」
 たづきは窓の外を指さす。
 ほんまや、とまどかはつぶやいた。「願いごとせな」
 それは子どもの頃によくした遊びだった。道具のいらないおままごとだった。ほんとうはそこにないものでも、あるといってしまえば、あると思ってしまえば、星だって雨の中を流れるし、船だって山の中を進むのだった。
 けれども、まどかは疲れを感じた。まぶたが重くなる。
 視界が狭まってゆく。
 窓についた無数の水滴がライトにきらめき、点灯したままの降車ボタンは鮮やかに光り輝いていた。全ての色が、くっきりと際立って見えた。まどかは、世界を美しいと思った。




■第4章 結婚式


◆4−1 再び、工房

 もう起きてる、とたづきは思った。重いまぶたの、にじむ視界の中に、きれいに畳まれた布団が朝日を受けているのが見えた。気まぐれに鳴る年代物の目覚まし時計に手のひらをたたきつけ、布団の上にむくりと起き上がる。体じゅう汗だらけ、顔は火照るように熱い。のどはからからに乾いている。風邪をひいて熱でもあるのかもしれない、そう思うくらいの暑さだった。季節は夏になっている。それをいやでも思い知らされた。
 布団を片付け、目覚ましを勉強机の上に置こうとした――その机は、中学校を卒業してからは物置になっている。その前は叔父の物置だったらしい。その前は、もしかすると祖父の物置だったのかもしれない。そこに一冊の雑誌が載っていた。清楚そうな女性とけばけばしい文字が表紙を飾っているもので、そんなものが、なぜ自分の机の上にあるのかわからなかった。けれどすぐに気づいた。
 数か月前、バスの中で例の記者から渡された雑誌だ。何か記事を読めといわれたような気もするが、読まずに放り捨てていた。誰かがどこかから引っぱり出してきて置いたらしい。叔母か、それとも。
 叔父が大声でたづきを呼んだ。
 まだ頑固にのしかかってくるまぶたをこすりながら、工房に向かう。戸を開けると、目のくらむような光に顔を襲われた。天井近くの窓から白い朝日が差し込み、ほこりの舞う空気を一直線に裂いていた。竹やヤニのにおいがつんと鼻をつく。日差しはすでに肌を焼くように熱い。じりじりという音まで聞こえてきそうだ。
 たづきはおそるおそる、工房の隅に立つ明夫に近づいた。
「これ見てみい」叔父はほとんど聞き取れないくらいの声でいった。感情を抑えている時の癖だ。
 その一角には、火まわりで使う竹の松明が何本も立てかけられていた。厚めに削られた竹の板が幾重にも重ねられ、真っ白な縄で締め上げられ、たんぽぽの花のような姿を形作っている。茎のように伸びる軸を含めれば、長さは大人の背丈ほどもあった。しかしそのうちの一本の軸が、首元でぽきりと折れていた。
 明夫がふいに振り返る。工房と家屋の境の戸をへだてて、朝来が立っていた。明夫がいった。
「見たかお前、これ」
 朝来は首をかしげる。「それが?」ふてぶてしい言い方だった。
「お前か」折られた松明を指さす明夫の手は、小刻みに震えていた。
 たづきもすぐに明夫の言葉を理解した。松明を折ったのを朝来の仕業だと考えているのだ。だがそれは、朝来の顔を見れば明らかだった。怒っている、という言葉では足りないくらい、目をいからせ、口をゆがませ、むしろ憎しみともいえる表情で明夫を見つめていた――あとにも先にも、朝来のこんな顔をたづきが見るのは、この時一度きりだった。
 朝来は明夫を見つめたまま、いった。
「何で隠してたんや」
 その言葉を聞いた瞬間、たづきの体はこわばった。とっさに叔父に目を向けた。その数日、ずっと黙っていたのは、何も隠そうとしたわけではない。ただ叔父に、強いて話題には出すなと、釘を刺されていただけだ。
「結婚式のこと、何でおれにいわんのや!」朝来が数歩、明夫に詰め寄った。その迫力には、たづきも身がすくむほどだった。
「誰から聞いた」明夫が早口でつぶやく。
「ええ加減にせえよ! 取り返し、つかんようになるぞ!」
 撫子の結婚が取りやめになるかもしれない。
 それはたづきも知っていた。けれど朝来がこうまで取り乱しているのは理解できなかった。幼なじみが婚約を破棄された、その事実に驚いてはいた。だがその理由も、事の重大さも、何もわかっていなかった。よく考えればわかるはずだったのに、その夏のたづきはどうかしていたのだ。
 明夫は一言も発しなかった。朝来は一段と低い声で、松明をあらためるふりをする明夫の背中に、憎々しげに言葉をぶつけた。
「何でや。わかってるやろ」
「そやな」明夫の声は淡々としていた。「おれらも長いこと苦労してきたさけな。理不尽なことや。あほらしいことや」
「あほらしいことで一生台無しにされたら、かなわんな」
 朝来は皮肉たっぷりにいったが、明夫は動じなかった。
「ほんまにそうか?」朝来は続けた。「別に、理由のないこととちゃうやろ。あったんやろ、一昔前まで。子どもを金と引き換えに、どっかに売り飛ばすようなことが」
「売るんとちゃうわ」明夫はいった。「どこでそんなこと聞いてきたんや。お前、それいつの話や。今は時代もようなったし、生活も楽になったしやな。まあ昔はどこぞでそういうこともあって、戦争の後か、もっと前かもしれやんけど、問題にもなったらしいけど、この町ではそんなん、聞いたことないで」
 朝来は少し黙ったあと、ささやくように「おれはじいちゃんから聞いた」といった。明夫は一瞬眉をぴくりと動かしたが、すぐに「うそつけ。その手には乗らんわ」と吐き捨てた。
「まあ、昔は貧しかったからな」明夫はいった。「そういうことも、やむなく、あったかもしれやんな。それが、一番よう生きていける方法やったんや。ええか。生活に困って、仕方なしにされたことや。こんな辺鄙な町より、外のほうが仕事はぎょうさんある。畑仕事も漁業も、商売もできる。それに奉公に出る子どもかて、ちゃんとしたとこで働かしてもろて、ちゃんとした技術身に付けたほうが、よっぽど幸せやろが。親子共々のたれ死ぬよりか、よっぽどましやろ」
「結局、親の都合やろ!」
「お前に何がわかる」
 明夫がいった。諭すような口調だった。「お前に何がわかる。親が、何にも思わんと、子ども手放すと思うんか。それで何や、よその奴らからおれらが妙な目で見られるとしたら、とんだお門違いや。不当や。お前もな、外の奴らのいうこと鵜呑みにしてんのやったら、やめとけ」
「不当?」朝来は吐き出すようにいって、明夫をにらみつけた。そしてつぶやいた。
「あの誘拐」
 その言葉に、顔を伏せていたたづきもはっとして朝来を見た。叔父も顔色を変えた、ように見えた。朝来がいっているのは、五年前の事件だ。すずみの妹が誘拐されて、そのまま行方知れずになった。
「ほんまに誘拐か?」
 朝来の言葉が、ほこりっぽい工房の空気の中に飛び出し、そして消えていった。あとに残ったのは、重苦しい沈黙だった。
「何がいいたいんや」明夫がうなった。
「親も承知してたんとちゃうか?」
 やめろや、と、たづきがたまらず声をあげる。
 確かにすずみの家には祖母と母親だけしかおらず、生活は苦しそうだった。だが母親は娘を失って以来病気がちになり、今も病床にいるのだ。それを――。
 だが朝来は続けた。
「町の大人も全員、それ知ってて、それでみんなして黙ってるんと違うか」
 朝来の言葉はそこまでだった。明夫にまともに顔を殴られ、彼は工具をまき散らしながら倒れ込んだ。ほこりがもうもうと舞った。
「百敷」こぶしを固め、息を切らしながら、明夫は憎々しげにつぶやいた。顔は青白く首筋に血管が浮き出ていた。目の焦点が合っておらずほおが痙攣していた。そのまま倒れるのではないかとたづきは思った。
「この際やからいうといたるわ」明夫はやっとのことでいった。「全部あいつのせいや。百敷の。ほかの人間は、何も悪うないわ。全部あいつのせいなんや。わかったな、肝に銘じとけ。お前、たえちゃん、いや三倉の母親がどうとか、よういえたな? 町の人間がみんなどうとか、よういえたな? おい、いつまで寝とるんや。顔上げろ! 何泣いとんのや!」
「泣いてないわ」
 朝来は充血した目を必死に見開きながら、明夫をにらんだ。「悪いんはじいちゃんだけか。あの人だけか。じゃあ、おれらがどうのこうのいわれる筋合いはないはずやろ? 同じ町に住んでるからって、何も責任はないはずやろ? 何が違うんや? 山の向こう側に住んでる人間と、何が違うんや?」
「何も違わん」明夫はいった。冷たい声だった。「男が泣くな。仕事やったら、またいくらでも見つかる――」
「そんなんどうでもええ」
 朝来は激しく首を振った。「おれの仕事なんか。撫子さんはどうなる? すずみちゃんは? しおりちゃんは?」
 たづきと朝来の目が合った。その目は何かを語っていた。けれどたづきにはそれを測りかねた。一瞬ののち、朝来がつぶやいた。
「おれらは何もできやんかったな。……ヒーローにはなれんかったな」
 明夫が怪訝そうな顔をした。
 たづきが口をひらいた。「もう、やめよ」
「何をや」
「死んだ人のこと、どうこういうても、仕方ないやろ」
「それ、おれにいうとるんか」
 明夫が大きな声を出した。たづきは叔父には構わず、朝来に近づき、彼の肩に手を置いた。朝来は呆けたように、たづきの顔をまじまじと見つめた。
 一瞬の間があった。
「もうごちゃごちゃいうな」たづきは静かにいった。「この町は、この町やろ。山の向こうは山の向こうや。都会は都会や。違ってて当たり前やろ。そりゃ、ここはちょっと、普通とは違うかもしれやん。けど、それはある程度、受け入れやなあかんのちゃうか。だって、おれらはここの人間なんやから」
「もうええわ!」
 朝来が叫び、たづきを突き飛ばした。そしてあとは目もくれず、家の外に通じる戸口から出て行ってしまった。彼を追って走りだした明夫は、戸の前で足を止め、じろりとたづきを見た。その目は、どこか揺れていた。
「あほなこと、いいおってからに」
 たづきは身を起こし、座り込んだままでつぶやいた。
「あいつの育ての親のこと、悪くいうから……」
 明夫は舌打ちした。「聞かんかったことにしたるわ」
「松明折ったの、おれです」
 たづきがいった。
「ちょっと触ってたら、手が滑って、それで」
 明夫はちらりと、折れた松明に目をやった。
「お前が触ったぐらいで折れるんやったら、おれの造りが悪かったっちゅうことや。よかったわ、祭りの前にわかって」
 たづきの首筋を、汗が伝った。
「もっとええ松明作れるように精進してくれや。教えてもろたことを後生大事に守ることなんかないんやで」
 たづきは答えることができなかった。
 叔父はそれきり何もいわずに出ていった。たづきはいつまでもいつまでも、熱い陽の照りつける工房に座り込み、肩を震わせていた。


◆4−2 畑

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 差出人:amidomejinja00@――        送信日時:07/05(金)16:59
 宛 先:kurata.e@――
 C C:
 件 名:Re: 倉田です。ご依頼の件について。

 倉田さん
 三倉すずみです。調査、ありがとうございました。
 ごめんなさい、すぐに、返事をすることはできません。
 少し待ってください。
 火まわりは今月20日土曜日、朝10時からです。

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 垂れ下がった笹の葉の向こうから、まどかは声をかけた。
「すずみちゃん、どうしたん?」
 すずみははっとしたように目を上げて、ううん、と首を振った。「何でもない」と笑って、また、短冊を結びつけ始める。
 笹はまどかの背丈ほどの小さなもので、垂れた葉の先はしおれてしぼみ、色も褪せていて決して立派とはいえない。けれどその枝ごとに、画用紙で作った色とりどりの短冊がぎっしり吊るされて、思わず見とれてしまうくらい、美しかった。
 町のささやかな商店街、小さな店の立ち並ぶ通りは、西日に照らされて全体が白っぽく見えた。日曜日のためどの店も閉まっている。人の姿はほとんどない。電器屋のおじさんだけが、シャッターを半分ほど開けて夕涼みをしていた。
「そろそろ帰れや。悪い時間になるで」
 彼の大きな声が通りに響いた。すずみとまどかは口ぐちにはあい、と返事をして、飾りつけを早く終わらせようと急いだ。早く帰らないと、山の神様にさらわれてしまう。小さい頃はよくいわれたものだ。
 妹がいなくなってから五年、すずみは時折、妹は神様にさらわれてしまったんじゃないかと思うことがあった。誘拐された当時、大人の誰かがそんなことをつぶやいていたくらいなのだ。あの山かこの山で生きているんじゃないか、そんな想像もしてみたくなる。
 神様、もしそうなら、あの子を返してほしい。それで巫女さんになったのだといっても嘘ではない。ただ佐和子さんに聞いてみると、みんながいう山の神様と神社がおまつりする神様とは別なのだそうだ。かといって、もう、がっかりするような子どもでもなかった。
 近くの小学校や中学校、それから集落をトラックに乗って回ってきた笹は、最後にこの町に運ばれてきて、町の人々の願いを吊るした。ただしまだ学校に上がっていない子の短冊がほとんどだ。学校を卒業した大人たちは、七夕の笹飾りに全然興味を示さなかった。すずみはずっとそのことを不思議に思っていたのだけれど、中学校を卒業して、少しずつわかりかけてもいたのだった。一方まだ学校に通っている子どもたちは学校で短冊を吊るしてしまうので、町で笹を待っている人はほとんどいなかった。
 欲張って二人で十枚以上の短冊を吊るし終え、すずみとまどかは満足げに笑いあった。ひさしぶりに町で吊るすのは、笹を独り占め、いや二人占めできるみたいで気持ちがよかった。
「なんか、中学卒業したんやなあ、って気になるなあ。中学の頃は学校で願いごとつけてたし」
 すずみがいった。だがまどかは無言のままで、笹にぶら下がった短冊を一枚、手に持つともなく持ったまま、うつろな目で考え事をしていた。
「まどか」
 すずみに肩をつかまれて、まどかは小さく悲鳴をあげた。「ごめん。わたし、ぼーっとしてた?」
「してたよ、変な顔して」すずみは呆れたようにいった。「何か悩み事でもあるん?」
「悩み事? 何それ。ないよ……」
 夏に入ってからのまどかの様子は、明らかにおかしかった。本当はもっと前からだったのだけれど、長いこと入院していたから、すずみにも気づかれなかった。元気がないのも怪我のせいだろうと思われていた。
 けれどまどかが何かに悩み、その何かが当時通っていた高校に関係するのであろうことは、傍から見ているだけですずみにもわかったのかもしれない。ただ、まどかは意地を張ってしまった。
「すずみちゃんも何か悩んでるんとちゃうん?」
 思いがけない問い返しだっただろう。え、とすずみは言葉につまる。まどかが重ねて責めるようにいう。
「さっきもぼーっとしてたし」
「何もないよ」
「うそやあ」まどかは笹を回り込み、うつむくすずみの顔を下からのぞきこんだ。すずみは目をそらそうとした。けれどそれを許さなかった。まどかは口を真一文字に結び、ただならぬ様子ですずみの顔を見つめていた。いじわるしたかったわけではないのだ。ただ、楽にしてもらいたかっただけなのだ。
「じゃあ、こうせん?」まどかはささやいた。「二人同時に、悩み事いうん。いや? わたしは、すずみちゃんにやったらいえると思う」
 すずみは顔を背けた。まつげに夕日が反射して、光った。
「だめ?」まどかがまたささやく。
「一言では、いえやんと思う」
 すずみはやっと、それだけいった。
「そこは頑張らな」まどかはおどけた調子でいう。冗談なのか本気なのか、自分でもわからなかった。その声は弱々しく震えていた。「じゃあ、せーので。せーので一斉にいおう。いややったらええよ。わたし一人でいう。それでもええよ。いい?」
 すずみはどうしていいかわからないのか、うつむいたままだった。
 まどかがすずみのシャツの裾をつかみ、口をひらく。
「じゃあ、せーのっていったらな? せーのっていったらやで?」
 すずみはまた、小刻みにうなずいた。
 すっと息を吸う。
 吐き出してしまいたかった。泣きつきたかった。すずみの事情など考えもせずに。
「じゃあ、せーの……ちょっと待って」
 ふいにまどかの目は、すずみの背後の一点に釘付けになった。少し厚みのある二重のまぶたをいっぱいに開いて、驚いたような表情をした。すずみもすぐに振り返り、まどかの視線を追った。
 商店街のはずれ、バス停に続く町の入口ともいえる場所は、石畳もとうに終わり、砂利と雑草に覆われ、小さな畑が両側に見えるだけの粗末な道だった。黒いビニールシートがかぶせられた畝には、収穫まぢかの夏野菜が大きな体をふくらませ、淡い夕日を受けてつやつやと光っていた。その畑はまどかの近所に住むおじさんが趣味として取り組んでいたもので、季節ごとにさまざまな作物を育てていた。いつも両手で抱えきれないほどとれるので、まどかもよくじゃがいもや玉ねぎの収穫を手伝ったことがあったし、そうして育てた野菜も一人ではとても食べきれないからと、たくさんおすそ分けしてもらうことがしょっちゅうあった。昔は土に触ることも嫌いではなかった。それに、土から大きな野菜がにょきにょきと生えてくることが何よりおもしろかった。だから進んで手伝いをしていたのだけれど、とれるトマトやらスイカやらをもらいたいという下心も、ほんの少しあったものだ。それでも畑の持ち主はいやな顔をすることもなく、むしろ、まどかやほかの子どもたちに分けてあげるのが嬉しくて仕方がないのだ、というような様子だった。
 やがて数年のうちに彼は亡くなり、畑は荒れて、ほとんど跡形もなくなってしまった。そこに畑があり、多くの生命がたわわに実っていたことさえわからなくなってしまった。時間はあまりに早く過ぎ去ってしまうものなのだと、まどかは感じたものだ。いやその前から、時が流れて何もかも変わってしまうことを恐れる気持ちは、まどかの中にずっとあった。あの夏の初め、バス停で撫子が泣いているのを見た時もそうだ。自分が憧れていた、強くて優しい彼女はもう帰って来ないのだ、あの昔の撫子さんはもういないのだ、ということを、漠然とながら感じていた。
 その撫子が、畑のそばに立っていた。傍らには一人の男がいて、二人は話をしているようにも見えた。男は畑の持ち主ではなく、もっとずっと若い、まどかの見たことのない男だった。もちろん好奇心をそそられたけれども、まどかはじっと二人を見つめたまま、声をかけようか、かけずにいようかと迷っていた。
 見てはいけないものを見ているような気もした。

 この日の出来事は、五年経った今でもまどかの記憶に残っている。そしてふとした瞬間にふいに思い出し、その時の自分に対して苦笑いしたりもする。
 高校に行くか行かないか、父親に従うか従わないか、町に残るか町を出るか、というようなことは結局のところ、まどかの思い次第だった。それでも、いや、だからこそ、まどかはどうしていいかわからなかった。誰にも相談しなかったから、誰も何も教えてはくれなかった。けれど、仮に父親に「何か一言」いわれたりしたら、まどかは何の迷いもなく、そうやって示された方向に流れていっただろう。まどかが学校に行っていないことを父親が知るのは、もう、時間の問題だった。
 知らない男と一緒にいる撫子が、実際の距離以上に遠くに見えた。未来に向かって歩いていく彼女がまぶしかった。声をかけることなど、迷うまでもなく、もともと無理な話だったのかもしれない。
 それでも撫子のほうが気づき、畑のそばから大きく手を振った。まどかはすずみの顔をちらりと見て、その険しさに驚いたものの、連れ立って撫子と男のほうに近づいていった。電器屋のシャッターはとっくに下ろされていた。
 撫子がまどか達を男に紹介し、それから男のことを紹介した。無地のTシャツにベストのようなものを羽織った地味な服装をしてはいたけれど、それでもどこかあかぬけた印象をまどかに与えた。黒い髪は男性にしては少し長く、目や首筋にぱらぱらとかかっていた。彼は優しい表情で、まどかとすずみの二人を興味深そうに見つめていた。その時のまどかには、彼の背がかなり高いように見えたけれども、それは撫子と並んでいたためだったようで、実際は中背であることがあとでわかった。
 彼は佐藤と名乗った。
 すずみは最初から――まどかの目の先を追って振り向いた時から、彼がしばらく前に神社をうろついていた男であるとわかっていたのだろう。けれど佐藤のほうは私服姿のすずみに気づかない様子で、実際その会話の終わりまで、すずみに会ったことのある素振りは全く見せなかった。
 撫子は佐藤のことを、どこかのNPOに所属する人だ、とだけ紹介した。
 それ以上は特に何もいわなかったし、撫子自身との関係も「大学で知り合った」としか話さなかった。けれども、その男が撫子の大切な人であることを、まどかはすぐに見抜いた。別に自慢するような事でもない。彼を見つめる撫子の顔を見たら、誰にだってわかっただろう。まどかにだってわかったのだから。
 その夕暮れ、四人は短い言葉を交わしただけで別れた。佐藤について、それから結婚までのいきさつについて、まどかが詳しいことを知るのは少しあとだ。


◆4−3 山

 結婚式は予定通り行われた。つまり撫子がバス停で泣いていたことや、婚約破棄の噂が町に流れたことなどまるでなかったかのように、二人の結婚は日取りもそのままに執り行われた。ちょうど七夕の次の週で、祭りの日の一週間前だった。
 ただ花婿に付き添って出席したのは彼の母親と数名の友人のみで、親類はほとんどいなかった。しかしそのことに触れる人は誰一人いなかったし、式自体は和やかな雰囲気の中で進められた。梅雨明けのからりと晴れ渡った空の下で、どの人の顔も輝いて見えた。境内が狭すぎて石段の上に立たなければならなかった人も多く、まどかもその一人だった。それでも幼なじみの女性が結婚式を挙げているということに、どうしようもなく胸が熱くなるのだった。
 だめになってもた、だめになってもた、と撫子が繰り返したあの日のことを、まどかは忘れたわけではなかった。けれど何も尋ねないでいた。撫子のほうも話す気がないように見えた。だから、あれは何かの間違いだったのだ、とまどかは思うことにした。ただ自分が聞き違えただけなのかもしれない、とも思った。
 神前での結婚式が終わり、花嫁の実家でのつつましい披露宴が始まった。日はまだ高く昇っていて蒸し暑く、本格的な夏が来たことを皆が口に出した。そしてめいめい嬉しそうな顔をしたり、迷惑そうな顔をしたりするのだった。ただ海から吹く風は相変わらず心地よく、水平線のむこうには秋の国も冬の国もあるのだろう、とまどかは何となく思った。
 撫子の実家は山の中にある小さな寺だったけれど、宴会をする広さくらいはそれなりにあった。町中の人が来たのではないかと思うほど、大勢が本殿のすぐ隣の家屋に押しかけ、ひしめきあって酒を飲んでいた。大人たちが邪魔で撫子に近づくことさえできず、まどかは手持ちぶさたに廊下をうろうろしていた。
 飾られた壺のようなものをいじくっていると、若い男が奥から歩いてくるのに出会った。途端にまどかは顔を輝かせた。いつかまどかが新保由伊に「外に行ってしまった人」と話した百敷朝来だった。少し年が離れていたとはいえ、たづきの同級生で、仲の良い幼なじみだった。当時は一時町の外で住み込みの仕事をしていたこともあり、またまどかが入院していたこともあり、しばらく会っていなかった。それでまどかは結婚式で彼を見かけてから、ずっと話しかける機会をうかがっていたのだった。
「おうまどかちゃん。すずみちゃんどこにいるか知らん?」朝来が明るい声でいった。
 まどかはちょっと悔しい思いをしながら、「見てませんけど」と答えた。
「そうか、まあ忙しいんやろな」
「朝来くんは、お仕事どうですか?」
「仕事なあ、まあまあや」
「まあまあ」朝来の言葉を、まどかが繰り返して笑った。
 まあまあ、と朝来も笑った。
 ふいにまどかは、直前までまったくそんなことを思わなかったのに、彼にあることを聞いてみたいと思った。
「あの」
「ん?」
 廊下には誰もおらず、障子の向こうから人々のにぎやかな声が聞こえてくるだけだった。
「朝来くんは、なんで、この町で働かんかったんですか?」
 いってから、まどかはどきりとした。朝来の顔が急に険しくなったような気がしたからだ。しかし改めてよく見ると、彼の顔はいつもの優しい表情をしていた。
「まどかちゃん、今いくつやっけ」
「十五です」
「高校行ってるな?」
「高校……いって、ます」
 そうか、と、朝来は短い髪をぽりぽりとかいた。
「どう? 学校は。遠いやろ」
「片道二時間です。自転車とバスで」
「いやなこととか、ないか?」
「ないですよ」
 朝来はまどかの目をじっと見つめ、それからゆっくりと近づいてきて、まどかの肩に優しく手を置いた。
「ちょっと来なあ、まどかちゃん。ええもん見せちゃるから。ええって、ちょっと行って帰ってくるだけやから」
 大股に歩いていく朝来を、まどかは急いで追った。
 まどかの悩みも嘘も、彼にはわかっていたのだろう。

 寺の境内を抜け、墓地も素通りして、二人は林の中に分け入っていった。もちろん道はない。急な下りのため、危うく転びそうになることが何度もあった。その山では昔からよく遊んでいたけれど、道もないところに入ったことはほとんどない。見つかれば必ず大人に怒られたし、そうでなくとも迷って泣くことが多かった。だからまどかは内心ドキドキしながら朝来について行ったのだけれど、彼はためらうことなく藪の中を突き進んでいくのだった。真夏の太陽は木々の葉でさえぎられてはいたが、額にはすぐ汗がにじんだ。よそ行きの服を傷めないか心配になったが、もう後戻りはできない。
 十分近く歩いただろうか。先を行っていた朝来が太い木につかまり、追ってくるまどかを手招きした。ほとんど垂直の地面に足を滑らせたまどかの身体を、朝来はしっかりと支えた。それから前方をあごで示し、「ほら、あれ」といった。
 まどかは目をこらした。初めは、薄暗い林の中に丸太が何本も積まれているように見えた。それも何十年も放置されていたような、腐ってぼろぼろになったような丸太だ。まわりは藪に覆われていて、人が通った跡は全くなかった。
「何ですか?」まどかはいぶかしげに朝来を見た。
 よう見て、と、朝来はにやりとする。「船や」
 まどかは目を見張った。
 マストなんかはとうの昔に折れている。帆に至っては跡形も残っていない。かつては一分の隙もなく組み合わされていたであろう船底の板が、今は無惨にめくれあがり、こぼれ落ち、いたるところに苔を生している。船首とおぼしき場所は完全に崩れ落ちていて、まるで首のない亡骸を見ているかのようだった。町には漁をする人もおらずまどかには船の知識がまるでなかったから、それ以上のことはわからない。ただ、朽ちてしまったその姿を見るだけでも、船が何十年も、あるいは何百年も山の奥深くに沈み続けていたことははっきりとわかった。
「まどかちゃん」目を丸くしているまどかの脇で、朝来がいった。「この謎が解けたら、おれらの仲間入りやで」
「え?」まどかは口をぽかんとあける。
「なんとか戦隊アミドメレンジャーや」朝来は笑った。「メンバーは今のところ、たづきと、山吹と、撫子さんと、おれ。まあ、もうレンジャーっていう歳でもないんやけど。ここは、いうてみたら、おれらの聖地みたいなもんやな。誰にも内緒やで。絶っ対いわんといてよ、特におっさん達には。秘密の場所なんやから。まどかちゃん、まどかちゃんがこれから、新レンジャーのリーダーや。おれが任命する」
 まどかは慌てた。「わたしですか?」思いがけない言葉だった。
 うん、とうなずいた朝来は、どこか寂しそうに笑った。
「だっておれとかたづきは、もう遊んでる歳でもないやろ。山吹も町には戻って来やんやろし、撫子さんは、今日で引退や。だから次の世代に引き継ぎたいわけ、そろそろ。まどかちゃんが適任やと思う。晴ちゃんとかはまだ小っちゃいし、すずみちゃんはこんなん興味ないやろしなあ」
 その時背後で人の気配がした。振り返ってみると、すずみが枝の陰に隠れようとするところだった。あ、と朝来が声をあげる。「勝手に見とったな」
「最初からついてきてました」まどかが告げ口する。
「まどかだけずるい」
 滑らないように木の幹にしがみつきながら、すずみが口をとがらせた。結婚式の時の装束からすでに着替えており、いつものTシャツ姿だった。
「こんなんあるんやったら、あたしも見たかった。何で教えてくれやんかったん? 何でたづきとか山吹くんだけ。しかも、今もまどかだけ。何なん、興味ないやろって」
 ごめんごめん、と朝来が苦笑いした。
「隠すつもりはなかったんやけど」
 すずみはそれでもふくれていた。
 誰も口には出さなかったが、朝来は昔からすずみを避けているようだった。もちろんあからさまにではない。ただ、大勢で集まっている時は決してすずみには話しかけないとか、遊びを企画しても強いて誘うことはないとか、その程度のことだった。行方不明になったすずみの妹や朝来の養父百敷のことで、彼らの間には大きな溝があった。けれど当時のまどかには何もわからなかったし、それどころか、すずみに対するそうした朝来の態度に気づいてすらいなかった。子どもながらにそうした関係を秘め続けていた彼らに、まどかは痛みとともに尊敬の念すら抱いてしまう。
「じゃあ、二人に問題」
 朝来が改めていった。「この船はどうしてここにあるでしょう?」
「それ、ほかの人も知ってるん? たづきとか……」すずみが尋ねた。まあな、と朝来があいまいな返事をした。
 津波とか、と、まどかがつぶやいた。「津波が来たら、船も流されてしまうんちゃうかなあ」
「さすがまどかちゃん」
「こんなとこまで?」すずみが疑うようにあたりを見回す。「山の上やん」
「そうやけど……」
「でも今のところそれが有力」朝来がいった。「船がこんな山の中まで引き上げられるってことは、相当でかい津波やったんやろな。ってことは、百年前くらいやと思うんやけど、この町は一回、海の下に沈んだことになるんよ」
 そこで朝来はまどかに顔をむけた。
「まどかちゃん、さっき、おれが何で町を出たんか、って聞いたわな」
 まどかは小さくうなずく。けれど朝来の顔がとても真剣なのを見て、何か恐ろしい話をされるのではないかと、こわくてこわくて仕方がなかった。わかっていたのだ。朝来が町から遠く離れた地で働いている理由など、聞くまでもなく、心のどこかでとっくにわかっていたのだ。
「ここの人間が外でどういう扱いを受けるか、まどかちゃんは、気づいたことないか?」
 前触れもなく新保由伊の顔が浮かんできて、まどかは鼻がつんとした。それから思い出したくもない色々なことが、頭の中に浮かんできた。
「編留のやつらは今も身売りを平気でやってるらしい、昔からそうや、血筋があかんのや、と、こうや」
 朝来はおかしそうにいった。
 うしろですずみが息をのむのが、まどかの耳に入った。
「だから」朝来の声が、少し震える。「だから、おれは、この町からうんと遠い場所で働くことに決めたんや。だって、いややろ? しょうもないことで、変な目で見られんのは。おれは普通に生きたかったから。人買いが何や。先祖が、血が何や。この船、見てみい」
 朝来は朽ちた船を指さして、腕をぶんぶんと振った。
「昔あった集落なんか、とうの昔に沈んでる。誰が生き残ってる? 生き残ってたとしても、どんだけの人間がまたここに住みつく? あほらしい」
 彼は本当に愉快な話をしているかのように、少し笑ってみせた。
「でも、そのあほらしいことを信じる人間がいてるんや。いや、その人らにとったら、血なんかより住んでる場所のほうが重要なんかもしれやんけど。どっちでもええわ。とにかくな、それで、おれは出ていったわけ。誰もここのことを知らんような土地に行けば、おれも普通の人間やからな」
 まどかも、すずみも、黙りこんでいた。しばらくみな何もいわなかった。日が暮れてゆき、暗かった林の中がますますその影を濃くしていった。
「ごめん」朝来がつぶやいた。「こんな話、せんでもよかったかもな。でも知っといてほしかったんや、おれらが背負わされてるもんを。何か偉そうやけどな。だからこの船のことも、見といてほしかった。この船があることが、おれらにとっての救いやと思ってる。いざというときに、今のおれらは昔の人らとは全然関係ないんやって、いえるやろ。それもしょうもない考えなんやろけどな。でも、逃げ道はあったほうがええやろ」朝来は遠い目をした。「できることやったら、この船海に引っぱり出して、海の向こうに逃げていきたいわ」
「朝来くん」まどかがぽつりといった。だが、朝来は気づかない。木々の向こうに広がるはずの海を見つめたままで。
「正直、こわいんやで。外で暮らしてても、いつかばれるんちゃうかって。追い出されるんちゃうかって。そや、おれのこと聞いたか? 仕事辞めさせられた。何でかわかる? ここに住んでるからやって。まあ明夫さんには働く前から忠告されてたんやけど」
「朝来くん」まどかがまたいった。だが、声はむなしくしぼんでいった。
「おれにもわかってるよ。自分が外でどんなふうに見られるかって。百敷じいちゃんに育てられた張本人なんやから。やっぱりまだ、おれらは普通の人間としては扱われなさそうや。そういえば、あの佐藤って人。どういう人か知らんけど、よう撫子さんと結婚したなあ――」
「朝来くん!」
 まどかが大声を出した。
 朝来は驚いて目をしばたたかせ、薄やみの中でまどかをまじまじと見つめた。
「やめてや」
 まどかが蚊の鳴くような声でささやいた。「そんなこというん、やめて。何か変やで、朝来くん。わたしらのことばい菌か何かみたいにいうて。この町のことそんなふうにいうて。外の人らが間違ってるんやったら、その人らにそういうたらええのに。普通の生活って何? わたしらは、わたしらなんやから、もともと普通とは違うみたいやけど、それでええやん。何でほかの人と一緒にならなあかんの。だって優しい人らがいて、おもしろいお祭りがあって、そういうのわたし好きやし、何なん、ほかの人と仲良くできやんでもそれでええやん、この町が悪いとか、そんなふうないい方、やめて……」
 まどかの声はだんだん大きくなり、ついにしゃくりあげるようになった。朝来は呆然として、燃えるようなまどかの目を見つめ返していた。
「みんな頑張ってんのに。歴史とか、わたしそういうのわからん。けど、この町の人は頑張ってるやん。ここで生まれたことの文句なんか誰もいうてないやん。ここで生まれたんやから、ここで一生懸命生きたらええやん。だってそうやん。普通がええって、そんなわたしらのこと嫌いなん? たづきくんもいうてた」
 まどかはあふれる涙を袖でぬぐいながらも、ずっと朝来から目を離さなかった。そんなまどかの頭の奥には、いつかたづきにいわれた言葉がこびりついていた。
「普通と違ったらあかんのかって。何にもあかんことない。わたしはそう思てる。ここに、ここにこうやって立ってられるだけで幸せやん。にわとりか何かみたいに、狭いとこで育てられたり食べられたりするわけでもないやん。いいこといっぱいあるし、楽しいこともあるし、だから、もうそんなこと、いわんといてよ……」

 ――その時自分の中に渦巻いていたものを、まどかは大人になってからもうまく説明できないでいる。ただ、彼女にとって絶対だったものが、目の前で壊されていくような気がしたのは確かだ。まるで、自分が苦労しながら作り上げた砂場の山を、他人が何のためらいもなく踏みつぶしてしまうのを見ているかのように。相手のことが恨めしかったわけではないのだ。壊されたものが惜しかったわけでもないのだ。ただただ、悲しかったのだ。
 まどかは長い間泣いていた。山を下りてからも泣いていた。家に帰ってからも泣いていた。救いだったのは、すずみがずっとそばに付いていてくれたことだ。そして、彼女が朝来の横つらを力いっぱい張ってくれたことだ。ただそれを見てまどかは泣きながらも、この二人はもしかして仲が悪いのではないかと、のんきに心配したものだった。



■第5章 夏の火まわり


◆5−1 三たび、工房

「オコモリサン」
 戸の向こうから声がした。たづきが「ドウレ」と答えると、外から入ってきたのはすずみだった。たづきは少し面食らって、作業の手を休めた。工房にはほかに誰もいなかった。
 すずみはしばらく戸にもたれて中を見回していた。相も変わらず地味なTシャツにジーンズだった。たづきがまた松明と格闘し始めると、彼女はじっとたづきの手もとを見つめていた。松明を縄で締める音がさびしく続く。夜は深まり、外からは虫の音がうるさいくらいに聞こえていて、おまけに石油ランプの弱々しい灯に目は疲れていた。ついに耐えかねて、たづきは口を開いた。「何か用か」
 すずみが答える前に、さらに付け足す。「終わったんか、神社の準備」
「準備っていうか、まあ準備かな。もう始まってるんやけど」
「何が」
「お祭り。さっき神社でショウジンしてきたとこ」
「ようわからんけど」
「あたしも、初めてやからようわからんわ」
 すずみはほっと息を吐いて、壁際の腰掛けのほこりを払った。「毎年参加してたお祭りやのに、知らんかったことばっかりやあ」
 ふうん、とたづきは生返事をして、また縄を持つ腕に力を込めた。
「まだやってるん、それ」すずみがおかしそうにいう。「もう明日やのに」
「うるさいな、明日やからや」
「どういう意味よ」
 すずみが笑った。たづきは答えなかった。またしばらく、竹がきしむ音だけが工房を満たした。どこかで夜の鳥が鳴いた。すずみは座ったまま動かなかった。
「何か用なんか」たづきが舌打ちする。
「なんかふしぎやなあと思って」
「ふしぎ?」
「そう。あたしは巫女さんになって、たづきは松明作って、なんかあたしら、このお祭りのために生まれてきたみたいちゃう? 去年までは、全然そんなこと考えもせんかったのに」
「お祭りのため?」
 たづきは歯をくいしばり、手に一段と力を込める。薄く削がれた竹の板はさらに大きくきしんだ。乾いた音だった。
「しんどいだけや」吐き捨てた。
「まあ、いえてる」すずみがちょっと歯を見せて応じた。
 それむつかしいん? と、松明を指してすずみが聞く。
「当たり前やろ」
「叔父さんは上手に作ってるやん」
 工房の隅には、大きな松明が四本、きっちりと並べられて立っていた。暗がりの中でも大輪の花を咲かせたように美しくて、細やかで、一分の隙も見えなかった。そして、たづきを急かしているように見えた。
「それも当たり前」たづきはうなった。
 ふうん、とすずみがつぶやく。
「ごめんよ」
「何が?」
「怪我させて」
 たづきは床に片膝をつき、両手を使って力いっぱい縄を引いた。寝かされたたづきの松明はもうきしまなかった。腕の感覚がほとんどなくなっていた。
「もうええよ」すずみのそっけない声。
「まだ謝れてなかった」
「ええって」
 すずみはさも面倒くさそうにいって立ち上がり、小さな体で工房をうろつきまわった。
「てか事故やし、あれ。もうとっくに治ってるし。でも、なんか、あの時のたづきの目、こわかったで。なんていうか、真っ暗に見えて。何かに取りつかれてるんちゃうかって、思ったぐらい」
「それは、その通りかもな」
 たづきは額の汗をぬぐい、荒い息の下でいった。「何かに集中したら周りが見えやんようになるから。おれの悪い癖や」
 すずみはふっと笑ったが、特に何もいわなかった。
「でもやるからには、とことんやらな」たづきはまた縄を腕に絡める。「中途半端で終わるわけにはいかんもんな。誰かも……まどかも、おれの松明持ちたいとかいってたし。本気かどうか知らんけど」
 へえ、とすずみは短く答えた。その様子にたづきは少し胸が騒いだ。
「まどか、どうかしたんか」
「どうもないけど、でも」すずみは言葉に詰まった。「でも……あの子、学校行ってなかったみたいなんよ。たづきは知ってたん?」
「知らん」とぼけた。
「あたしも気づかんかった」
 うなだれるすずみを、たづきはなるべく見ないようにした。「それで?」
「お父さんにばれて、それで、すっごい怒られたみたいなんよ。明日の火まわりにも、参加させてもらえやんかも、って」
 たづきは眉間にしわを寄せた。まどかの父親のことはよく知らない。役所の仕事が忙しいらしく、町の行事にもほとんど出てきたことがなかった。
「そうか」乾いた口調でいった。
「そうかって、何その言い方」
「いや、何でもない。進路のことで悩んでんのとちゃうかな、まどか」
「進学するかとか、この町を離れるかとか、ってこと?」
 たづきはうなずいた。
 けれどもまどかが迷っているのは、そのためばかりではないことも知っていた。
「いじめられてたりするんちゃうん?」
 すずみの言葉に思わず反応してしまう。「何でや」
「だって朝来くんが、なんかそんなこというてたし。この町が……」
「やめやめ」たづきが強くいった。朝来の話もしたくなかった。「おれらはまどかの保護者とちゃうんやから」
 言い返されるかと思ったが、すずみは何も言わなかった。すずみはまた壁際まで近づき、天井近くの窓から夜空を眺めた。文句なしの満月が顔をのぞかせていた。空は澄みきっていて、月のうさぎのまつげまで目に見えるようだった。
「晴れそうでよかったわ、明日」
 ん、とたづきが鼻で返事をする。すずみには目を向けず、「そやな、明日やな」とだけつぶやいた。
「何で火まわりっていうか、知ってる? 火祭りじゃなくて」
「さあ。考えたことなかったわ」たづきがおざなりに答える。「町をぐるっと回るから?」
「それもあるけど、っていうか、もともとは一個一個の家を順番にまわってたから、火まわり、なんやって。刀祢さんに教えてもらった」
「松明が?」
「そう。それで家に福を招いたんやって」
「火事になるやん」
「昔はもっと松明も小さかったらしいで」
「それやったらこんな苦労せんかったのに」
「そういう問題?」すずみが笑った。「けど刀祢さんは、昔の風習をできたら復活させたいって。どう思う?」
「おれに聞かれても……」
「でも、たづきが跡継ぐんちゃうん?」
「そんな先のこと、わかるか」思わずきつい言い方になってしまった。「……でも、おれがどうこうできることと違うやろ」
「無理に昔みたいに戻す必要はないと思うし」
 たづきの心配をよそに、すずみは楽しそうに話し続けた。
「もっと面白いこともやってみようよ。何でも変わっていくから、続くんよ。変わらんものは、続いていかん。だって先に進むことができやんから」
「何の話や」
 たづきは呆れながら、ふと、いつも叔父が口にする言葉を思い出していた。

 大切なものを守る必要はない。残ったものが大切なんや。

 あとから考えれば、何と含蓄のある言葉だったことだろう。そして先に進もうとしていたのは誰あろうすずみであったことに、この時のたづきは気づいていなかった。
 たづきはまたしばらく黙って作業を続けた。一息ついて、ぽつりとつぶやいた。
「まどか、来週から学校行くんかな」
「あほお」すずみがけらけら笑った。「明日から夏休みやで。来週はもうないんよ」
「もうそんな時期か」
「おっさんみたいに。まあ、あたしも今日晴ちゃんに聞いて知ったんやけど」
「じゃあ猶予は九月まで、か」
「まどかは明日決めると思うよ」すずみが妙にはっきりといった。
「何でわかるん」
「ただそう思うだけ。あ、そういえば聞いてる? ちょうど夏休みやし、山吹くんが明日帰ってくるって」
 へえそうなん、とたづきは声をあげた。「珍しい」
「元気にがんばってるみたいやで。部活のコーチ役なんかやってるみたいやし」
「そりゃ、あいつやったら元気やろ。ああ、あれ思い出すな。石段の競走。いっつもあいつが一番速くて」
「神社の石段で? そうやっけ」
「小さい頃な。お前オリンピック出れるわって、皆でいってたわ。まあ結局バスケやってるんやから、似たようなもんか」
「全然違うやん」
 それきり会話が途切れた。
 いつの間にか月は窓から姿を消し、薄ぼんやりとした星がほのかに瞬いていた。虫も眠りについたのか、鳴き声が聞こえない。明日、本当にまどかは答えを出すのだろうか。すずみが聞いているのかいないのか確かめもせずに、たづきはふいに口を開けた。いつかまどかにいった言葉を思い出したのだ。
「別に普通でなくても、ええよな」
 すずみがたづきに体をくっつけた。そして絆創膏を貼ったたづきの手に、自分の手を重ねた。
「なんで怪我してんの。職人にとって手は命なんちゃうん」
 たづきは舌打ちする。「ただの不注意」
「先は長いなあ。あたしもやけど」
 すずみの小さな手がたづきの手をすりぬけて、松明に巻かれた白い縄をつかんだ。
「手伝うわ。二人のほうが早よ終わる」
「ええって。暑い」
「さっき何ていったん?」
 もうええよ、といってたづきは体をひねる。だがすずみは離れない。
「普通じゃなくていいって? まあ、そうかもなあ。てか普通とかそうじゃないとか、考える余裕もないんやけど」
「与えられた仕事をこなしていくしかないんやもんな」たづきの口から、思わず言葉がこぼれた。「悩むことしか能がないんやもんな。でも何にもせんかったら、食って、寝て、死ぬだけや。何にもせんより、ましや」
「そうやそうや。下手なうちはがむしゃらでええんよ。がむしゃらに頑張ってるうちが花やってさ。あたしも佐保子さんにそういわれたわ」
「そうか」
「それからねえ、しおりがどこにいるんかわかった」
「え?」たづきは縄から手を離しそうになる。冗談をいっているのかと思った。けれど、耳もとにあるすずみの横顔は真剣そのものだった。
「倉田さんからメール来たんよ、ちょっと前に。知ってるよね、この町のこと調べてた記者さん。あたし頼んでたんよ、しおりを探してって。そしたら見つけてくれた」
 いつか部屋の机に置かれていた雑誌。「倉田栄一」名義で掲載されていたのは、「商品になる人間」と題された小難しい記事だった。
「だまされてんのとちゃうか」
「さあ」
「さあって」
「でも写真も送ってくれた。間違いないわ。遠いとこで、幸せに暮らしてるんやって」
「幸せって……」
 たづきは絶句した。誘拐された子供が幸せに暮らしている。そんなことがあるのだろうか。
「幸せなんやから幸せなんよ。ねえ、あたしどうしようかな」すずみの声が湿った。「ごめんもう決めてるんやけど。あたしもこの町の人間なんやもん、あたしもさ、普通じゃない人生、選んでもええよね……?」


◆5−2 石段

 朝十時、五本の松明に火が灯され、おのおのが人の手から手へと渡されて山を下っていった。店の立ち並ぶ通りだけでなく住宅地の道まで石畳が敷かれているのは、すべてこの日のためだ。重い松明で地面を突けば、土やアスファルトではすぐに傷んでしまう。編留の町いっぱいに敷きつめられた石が、昔から祭りと暮らしを支えてきたのだ。
 燃え盛る松明は小一時間ほどで狭い町を回りきり、再び人の手を伝ってゆっくりと神社をめざした。ただ、この年は予期せぬ出来事が起こった。神社に帰ってきた松明は四本。一本足りなかったのだ。町が大騒ぎになっていることも知らず、まどかはまだ布団の中にいた。
 呼び鈴が鳴った。父親が母親を呼ぶ声がしたが、答える声はない。渋々父親が玄関に向かうのが気配でわかった。
 焦げ臭いにおいが漂ってきて、まどかは驚いて跳ね起きた。
 台所の不始末か、それとも火事か。玄関から声がする。のぞいてみると、戸口で父親と向きあっていたのは巫女装束姿のすずみだった。それも金銀桃色の糸で織られた神楽舞の衣装、顔もどこか大人びていていつもと違う、さらにその上、自分の背丈を優に超える松明を両手で抱えていた。炎が爆ぜて黒や赤の火の粉を散らし、煙がゆらゆらと天井を這っていた。
「まどか、朝早いんやね」
 すずみに声をかけられる。皮肉とわかるまでに数秒かかった。まどかはちょっと赤くなってから、寝間着を着替えるためにまた奥へ引っ込んだ。
「だから」すずみの声が聞こえる。「町のみんなが松明を運ぶことで、神さまに力をお与えすることができるんです。それで協力してくれたあたしたちに福を賜ってくれるんです。だからもし手伝わんかったりしたら、罰当たりますよ」
「くだらん迷信、やめてくれるか」
 まどかの父親が答えた。役所勤めでパソコンに向かっていることが多いから、まどかとは反対に夏なのに色が白い。ふちのない眼鏡の奥の小さな目が、人に冷たい印象を与えることが多い人だ。そういう意味では、すずみと似ている。ただあいにくすずみのほうは、内面が炎のように熱かった。
「それ、火事にでもなったらどうするんや。天井もどうしてくれんねん、真っ黒やないか。早よ外に出しいや。それからそれ、今年はちゃんと許可とってるんやろうな。大人数で火持って歩き回るやなんて、危なくてしゃあないわ」
「そんなこといわんでも」
「今に死人が出るで。忠告してあげてるんや」
「ちゃんと気つけてやってます」
 まどかは黙ってすずみの声を聞いていた。いつもすずみは大人に突っかかる。だから可愛がられるのはいつもまどかだった。
「ほらまどか、これたづきが一生懸命になって作ったやつ!」
「そうなん?」着替えを終えたまどかは再び出て行って、すずみの持つ松明をまじまじと見つめた。頭上に花のように広がる松明は一見立派で、いつもの松明と変わりないように見えた。
「まどか、寝ぐせ」
 すずみにいわれてまどかがまた引っ込むと、父親は煙に咳きこみながら話を続けた。
「たづきくんって、千早さんとこのか。君もそうやけど、まどかに変なこと教えやんといてほしいなあ。まどかは君らと違って勉強もできるし、将来性があるんや。ぼくはあの子には広い世界を見てほしいし、正直、君らにはあんまり関わってほしいとも思ってない。仲良いんはわかるけどな。でもしっかり線は引いてほしいっていうか。まさかとは思うけど、まどかが高校行ってなかったんも、君ら、何か知ってるんと違うか――」
「まどかのことは」すずみは力強くさえぎった。「まどかが決めることです。あたしらがどうこういう権利も何もありません!」
「そうか、何や、そんな怒らんでも」父親は一転してたじたじとなった。
 まどかは鏡の前で髪をとかしながら、自分の目がどんどん赤くなっていくのを見つめていた。
「とりあえずこれ持ってください。早くせんと中毒になりますよ」
「出て行ってくれるんやったら持つわ」
 まどかの父親は松明をひったくるようにつかんだが、危なっかしくよろめいた。
「何や、意外と重いな……熱っ。こんなもん子供に持たしたらあかんて」
「まどかにも渡してあげてください」すずみが静かにいった。「決まりなんで」
 寝ぐせを直したまどかは玄関に出た。ただ母がいなかったので、いつものようにうまくまとめることはできず、どこか野暮ったいまま肩のあたりに適当に垂らしていた。松明を持った父親がまどかを見た。すずみが注意する。
「わかってると思いますけど、あんまり持って歩かんといてくださいね」
 父親は舌打ちした。「来い、まどか」
 まどかはくつをはいて三和土におりた。そしてそろそろと松明に向き直る。
「気いつけえや」
「お父さん」まどかがいった。
 その時玄関の外から声がした。「すずみちゃん、早う。みんな騒いでるで」
「もうちょっとです」すずみが返す。
「お父さん、わたし」まどかが絞り出すようにいった。
 すずみに見つめられているのを感じた。
「わたし高校行く」
 そういってしまうと、急に心が重くなった。もう逃げられないと思った。だから、もう逃げたくないと思った。
「それからのことは、まだわからんけど……行けると思うけど……上手にやっていけるかどうかわからん。でもちゃんと、何が良いことなんかはわかってるつもりやから。そやから」
 まどかは両手をのばし、松明をしっかりとつかんだ。「自分で決めたいから。ちょっと待っとって」
 すずみが玄関の扉を勢いよく開けた。
「まどか、行こ」
 見ると家の外に刀祢をはじめとして、町の大人が何人か集まっていた。なんと母親の姿もある。「イエマイリなんて懐かしいなあ、何年振りや」誰かがいった。
 刀祢が松明を受け取るなり叫んだ。
「あほお! 消えかかっとるやないか」
 その通りだった。まだばちばちと火花を飛び散らせてはいるが、竹の板はあらかた燃え尽きてしまっていた。「初めてにしては上出来やと思うたけど」刀祢がつぶやくのをまどかは聞いた。
 すぐにリレーが再開された。大人たちの手から手へと、ものすごい速さで松明が受け渡され、遠ざかっていく。すずみに手を引かれ、まどかも住宅地を走り出した。
「えらい時間かかってもた。ほかの松明はもうとっくに着いてるやろなあ」
 きらびやかな衣装の袖を前後左右に振り回しながら、すずみがつぶやく。
「ごめん、わたしのせい?」
「ええって。刀祢さんらも協力してくれたんやし。なんかね、昔は一軒一軒の家に松明が回ってたんやって。今は簡略化されてもたけど。ほらあ、お祭りなんやから笑おうや」
 ありがとう、と、まどかは泣きながら笑った。
 熱い太陽に照らされて頭がくらくらしたが、それでも走った。
 商店街を抜けたあたりで大人たちが騒いでいる。松明が黒い煙を弱々しく吹き出し、今にも消えようとしているのだ。神社までは、まだ長い石段が残っている。
「すずみちゃん」誰かがすずみを呼んだ。
 見ると、バス停のある県道から山吹が下りてきたところだった。背が図抜けて高いので遠くからでもすぐわかる。女の子を一人連れていた。すずみは息をのんだが、すぐに叫んだ。
「山吹くん、走って! 上まで! 松明の火が消えそうなん。間に合わんようになる」
 山吹は数秒間目をぱちくりさせたあと、目にもとまらぬ速さで走り出した。ずらりと並んだ人々をかきわけかきわけ、いのししのように石段を駆け上がっていく。
「刀祢さあん!」すずみが精一杯背伸びをして呼びかけた。ちょうど石段の下のあたりで刀祢が松明を受け取ったところだった。
「山吹くん、上がったから! パス、パス!」
「パス?」刀祢が動きを止める。
「パス、パス!」石段の上でも山吹が叫び、両手を振っていた。
 昨日までたんぽぽのように花開いていた竹の板は、もう小指の長さほどしか残っていない。小さな火がわずかにくすぶっているだけだ。
 刀祢は力の限りに松明を投げ上げた。
 町の人の悲鳴が山を包んだ。ナイスパスとはいかなかったが、山吹が横ざまに飛んでつかみ取り、本殿の前に据え付けられた台に立てた。次の瞬間、火は消えた。
 並んだほかの四本の松明にはまだあかあかと火が踊っていた。黒く焼け焦げた残骸を乗せた一本の柄だけが、静かに煙を吹いて立っていた。
「無茶せんでもええのに」
 そばにいた佐和子が呆れ顔で山吹にいった。
 町の人たちはすぐに神事の準備に取りかかった。ここからが本番なのだ。神様を楽しませる舞楽奉納が、火まわりと並んでこの祭りのもうひとつの目玉だった。すずみは石段をのぼり、誰とも特に言葉を交わさないまま、狭い境内に設えられた小さな舞台に上がった。
 山吹はお囃子役として待機していた朝来たちを見つけると、遠くからピースサインをした。笛役の晴はぱちぱちと拍手をしたが、朝来はじっと太鼓の皮に視線を落としていた。
 すずみの神楽舞が始まる。


◆5−3 船の上

 町の人たちがどやどやと石段を上がってゆく。子供も大人も連れ立って山に向かう。山吹と一緒にいた女の子は一人取り残されて、道の端に突っ立っていた。
「どうしたん?」まどかは目を丸くした。
「バスで来たんよ。遠いなあ、まどかちゃんの町」女の子が答えた。新保由伊だった。柄物のキャミソールにデニムという軽めの格好。制服姿しか見たことのなかったまどかには一瞬別人にも見えた。
「何で? 何で山吹くんと」
「バス一緒やったから、案内してもらったん。ええ人やね」
 うん、とまどかはうなずく。
 そこで会話が途切れた。日差しが強く照りつける。風が道を渡っていく。笛と太鼓の音が、かすかに聞こえ始めた。
「約束したやん」由伊がつぶやいた。「遊びに来るって」
「そやけど」
 まどかには訳がわからなかった。あの学校での出来事が頭をよぎった。由伊はまどかを避けたのだ、そしてその理由は、まどかがこの編留の町に住んでいるからなのだ。
 その時男が近づいてきて、二人に声をかけた。
「ちょっとごめん。君ら、三倉すずみちゃんって知ってる?」
 ラフなシャツに茶髪。まどかはおびえて黙りこくった。由伊が一歩前に踏み出す。男は慌てたようにいった。
「怪しいもんとちゃうから。お祭りの取材に来ちゃあるんよ。一応名刺も渡しとこうかな」
 由伊が受け取った名刺を二人でのぞきこむ。フリーライター、倉田栄一、とだけ書かれていた。
「三倉すずみちゃんのことは、知らんかな?」男の口調はまじめで優しかった。
「今……」
 まどかは山をちらりと見た。祭囃子が風に乗って聞こえてくる。
「そうか、まだ何かやってるんやな」倉田はそういって歩き出す。「一緒に行こうや。君らも行くんやろ?」
 石段を急ぐともなく上りながら、倉田は振り返って話しかけてきた。
「さっきの火祭り、見せてもらったで」
「火祭りじゃなくて、火まわりです」まどかがいった。
「そやそや。すずみちゃんにも注意されたわ。すごいなあ、あの松明。でもあれ、何であんなことやってんの? 由来とかは?」
 由伊もまどかを見た。まどかは首をかしげた。毎年参加しているお祭りとはいえ、詳しいことは何も知らなかった。
「だいたい、火を焚くんは神さんのための道しるべやな」倉田が一人でうなずく。「ああ、だいたいっていうんは、全国的にっていう意味な。それを町の人全員が触るっていうんは、一種の火への信仰、あと祈願の意味もあるか。そういえばもともとは家まで入っていってたらしいから、町全体で行う意味合いが強かったわけや。祭りには民族の起源が示されてるなんていったんは、誰やったかな。おっと、ちょっと難しいか」
「確か、ここの神様は火の神様やって……」とまどかが恐る恐るいうと、倉田はなるほどなあ、といったきり黙ってしまった。
 境内では朝来の太鼓と晴の笛に合わせて獅子が駆け巡っていた。その後ろ、板と竹で組まれただけの屋根もない舞台に、すずみは立っていた。確かにぎこちなさはある。けれど腕をゆるやかに動かしながら舞う様子は、まどかの目からはとても今年から習い始めたとは思えなかった。化粧をした顔はりりしく、他の人とは別の世界を見ているようだ。トテン、トテン、トテテテン、という太鼓の拍子に笛の音がかぶさる。単調な踊りだ。けれど見ているだけで胸が高鳴る。
 まどかが興奮ぎみに、小声で由伊に説明した。「あの真ん中にいるんがすずみちゃんで、わたしらと同い年。笛やってるんは晴ちゃんで五年生。あ、去年まではすずみちゃんが吹いてたんやで。で、あのちっちゃい太鼓を叩いてるんが朝来くん、獅子舞は顔わからんけど、刀祢さんっていう太った人」
 すずみが何か声を発した。それを合図にして、町の人みんなで唱和する。
   これのお庭にまつ立つ時は
   生まれておりやれ我らもまわる
「由伊ちゃんもやってみる?」
 そういったまどかは、また大きく口を開けて楽しそうに歌った。由伊もちょっとまねをした。
   山なかの竹を引き立てんとすりゃ
   あさ草に日に照りかがやくかねの山
 倉田は何枚か写真を撮ったあと、まどかに聞いてきた。
「これいつ終わるん?」
「もうじきやと思いますけど。おじさん、すずみちゃんの知り合いなんですか?」まどかの声は自然と尖った。
「そう。頼みごとされてるから。取材とは別の件で」
「何ですか?」
「それはちょっと。おれ、一旦下りるわ」
 倉田はきびすを返して石段を下りていった。
 まどかはしばらくその後ろ姿を見つめていた。木陰が幾重にも落ち重なり、蝉時雨の降りそそぐ中を、彼は遠ざかっていった。
「行こ」
 由伊が背中を押してくれた。
 二人がついてくるのを見て、倉田がちょっと首をかしげた。「何や」
「すずみちゃんのこと、何か知ってるんですか」
「君らすずみちゃんの友達か」倉田が少し語気を強めていった。「友達やったら、知らんといてあげるほうが相手のためになるってことも、あるやろ」
 倉田さん、と声がした。すずみが装束のまま石段を駆け下りてくるところだった。気づけば神楽は終わっていた。すずみは倉田のそばまで行き、ぺこりと頭を下げた。まどかは驚き、同時にどこか裏切られたような気持ちにもなった。
「あのメール、ありがとうございました。あの、あれに書いてたこと、ほんまなんですよね」
 倉田はまどかと由伊を横目で見た。すずみが振り向く。そして由伊をじっと見つめた。
「まどか、その子、山吹くんの……」
「ううん、わたしの友達。高校の。山吹くんとバス一緒やったんやって」
「そうなん」すずみが興味なさそうに相槌をうつ。
 倉田がふいにたずねた。
「君、この町の子とちゃうんか」
 由伊は少し顔をこわばらせ、小さくうなずいた。
「見かけによらず、ええ根性やな」
 由伊が顔を赤らめた。まどかは荒々しく一歩を踏み出す。
「悪口いわんといてよ!」
「悪口と違うやろ」
 すずみが倉田に向き直った。「倉田さん、いいです、この二人やったら。別に隠してもしょうがないんで……。大人に聞かれやんのやったら、大丈夫です。すみませんちょっと待っててもらえますか? もうちょっとやることあるんで」
 巫女としての仕事が残っているのだろう。すずみは下の段からまどかを見上げた。
「まどか、倉田さんを案内したげてくれやん? どっか人のいないとこに。そや、あそこどうやろ。ほら、例の船の……」
 でも、とまどかは渋る。あそこは朝来から引き継いだ秘密の場所だ。だがすずみはいった。
「倉田さんにも見てもらったほうが、いいと思うん」
 すずみの目は力強く光っていて、七夕の時の不安そうな様子は、もうどこにも感じられなかった。

 これはおもろいな、というのが、倉田の感想だった。朽ちた船は撫子の結婚式の日と変わらず山の中に横たわっていた。
「乗れるんかな」といいながら倉田はクモの巣だらけの斜面をそろそろと下りていく。まどかもついていくが、茂ったシダが素足に絡みついて気持ち悪かった。ジーンズを履いて来ればよかった、と思ったがもう遅かった。
「由伊ちゃん、大丈夫?」
 まどかの心配をよそに、由伊は何だか楽しそうだった。
「あたし、こんな山の中入るん久しぶりやわあ」
「蛇出るかも。気いつけて」
「うそお」
 倉田は苔むした船底の周りを歩き回って何やら探っていたが、やがてあきらめたように船を仰いだ。
「もう完全にきのこの巣やな。腐ってべこべこや」
「たぶん津波やと思うんです」倉田が船にあまり驚いていないのをいぶかしがりながらも、まどかは自説を披露した。
「津波はない。地殻変動やったらありうるけどな。ただ……」けれども倉田は何かいおうとしたまま口をつぐんでしまった。たやすく考えを否定されてしまって、まどかは少なからずむっとした。話を戻す。
「あの、すずみちゃんのことなんですけど」
 すずみはまだ着いていなかった。しばらく時間がかかるだろうと思われた。倉田もそれをわかっていたのか、やがてまどかと由伊のために話を始めた。
「事件の調査や」
「事件って、何の」
「五年前の」
 まどかははっとして、それから由伊のほうを振り返る。由伊はきょとんとした顔をしていた。聞かせてしまっていいのだろうかと、少し、迷いが生じた。まどかは、由伊にとってのこの町の印象を、これ以上傷つけたくはなかった。
「五年前、この町の女の子が行方不明になった」
 倉田は腐りかけた丸太に腰をおろし、淡々と語り始めた。由伊に向かってだ。その話しぶりに嫌味なところはなかった。まどかも強いて制することができなかった。
「現場の状況から、初めは崖からの転落事故やと思われた。新聞にも一時そう載った。でも死体は見つからんまま、何年も過ぎた。去年の秋、この町のある老人が亡くなったんやけど、その人の遺書に、その女の子を誘拐したことが書かれてあったらしい」
 由伊は神妙な顔をして聞いていた。まどかは何度も何度も彼女の横顔をうかがっていた。
「ここまでは、君も知ってるやろ」倉田がまどかを見た。慌ててうなずく。「ここからの話は、君の知らんことや。まあ三倉すずみちゃんにはメールで伝えてあるから、君らにも話しとこうか」
「誘拐されたしおりちゃんっていうんが、すずみちゃんの妹なんよ」
 まどかがそっと由伊にささやいた。由伊はこくりとうなずいただけだった。
「ええか。ほんまは誘拐でもなかった。ちゃんとした国の制度を使って、あの子は今、別の家族のもとにいてる」
 まどかは言葉を失った。「え……?」
「もちろん、町の大人はみんな知ってたんや。子供の君らだけがだまされてた」
「うそや」冷静にいおうと思ったのに、大きな声が出た。
 倉田は首を横に振った。「うそと違う。君らかて、大人に隠れてこんな秘密基地を持ってるやないか。それと一緒や。大人にも、子供に隠れてこそこそやってることがいくらでもある。文句いうたらあかん」
 まどかは頭を激しく振った。町の大人たちの顔が浮かんでは消えた。刀祢さん、佐和子さん、たづきの叔父さん、百敷さん、お父さん、お母さん、……。
「もうちょっと詳しい話をしよか。三倉さんの家は当時生活に困っててな。働き手がいなくて、娘を二人も養っていくのは難しかった。それで、昔からの慣習もあったし、周りの人間は娘を里子に出すことを勧めたわけや。今は里親制度っちゅうもんもあるしな。母親もしゃあなしに受け入れた。……だから、誘拐なんかされてない。行方不明になった時の転落事故ももちろん狂言。町の子供らには、しおりちゃんが死んだことにしときたかったんや」
「何でよ。そんなひどいことする意味ないやん」
「君らのためや」倉田がゆっくりといった。「この町が背負ってる歴史を考えてみい。ただでさえ外からの評判は悪い。その上まだ身売りまがいのことをやってると、妙な噂でも立ったらどうする。犠牲になるんは、これからを生きていく君らの世代や。まあ身売りと転落死と、どっちがイメージ悪いかは、こら人の主観やけどな」
「おかしいと思います」由伊が震える声で、しかしはっきりといった。まどかは驚いて由伊を見つめた。
「おかしい?」
「だって、そこまでして里子に出したことを隠したんやったら、今頃になって誘拐なんていうはずないじゃないですか。誘拐のほうが、よっぽど評判は悪くなるじゃないですか」
「そやな。その通りや」倉田の声は静かだった。「おれの推測で申し訳ないんやけどな、遺書を残した百敷さん、あの人は、一人で責任をかぶろうとしたんと違うかな。奉公やの何やのというて子供を奴隷同然に扱ってきた歴史が、確かにこの町にもある。やけどその人買いの元締めとしてあの人が死ねば、責任はあの人一人に押しつけることができる。悪いんはあいつだけやった、ということにすれば――」
「意味わからん。町の人はそんなことせえへん」
 まどかの視界がぼやける。百敷のかがまった背中や、炭でまっ黒になった顔を思い出す。朝来とともに朝から晩まで働いていた。崖のそばの小さな小屋から、ひっきりなしに煙が立ちのぼっていた。
「まどか」
 気づくと、すずみに肩を抱かれていた。
「聞いて。倉田さんの話、最後まで聞いてあげて」
 まどかはいやいやをするように首を振った。
 倉田は肩をすくめた。
「実際、百敷の家は身売りの取り持ちで飯を食ってたやつらなんや。時代の産物やし、一方的に悪いとはおれもいわん。けど、そういう役割を担ってたってことは事実なんや」
 倉田はすずみを見た。「おれの話は終わりや。聞きたいんは、君の意見やで、すずみちゃん」
「はい」すずみはまどかから離れ、一歩進み出た。
「メールにも書いたけど、締切が近いんや。このこと雑誌に載せるけど、ええわな? 妹さんもすぐ帰ってこれると思うで。もちろん君の名前は出さんし、大人たちから恨まれる心配はないし」
「すずみちゃん」
 まどかは力なくつぶやいた。もし本当に記事が書かれたなら、この町はどうなるのだろう。警察が来るのだろうか。いやそれは問題ではなかった。大人たちと、その後どう付き合っていけばいいのか。そうなったあともこの町が好きだと、自信を持っていえるだろうか。まどかはそんなことを思って震えていた。
 ふいに右手を何か温かいものが包んだ。見ると、由伊だった。遠慮がちに、それでもしかとまどかの手を握っていた。
「公表は、せんといてください」
 すずみの声が林に響いた。
 倉田は何度かまばたきをした。「でも、君、妹さんは」
「あの子が幸せなんやったら、いいんです。この町のこと、これ以上引っ掻き回してほしくないんです」
「どうかしてるで」倉田が呆れたようにつぶやいた。
 それでもすずみの声に迷いはなかった。
「いいんです。もともと、普通の町じゃないんやし」
 倉田は立ち上がってズボンの土を払うと、冗談めかしていった。
「もう記事は書き上がってるんやで。タイトルは火祭りとかけて『戦後因習の残り火』、ちょっとくさすぎるか。まあええわ。じゃあ君、百敷さんがなぜ誘拐犯として死ななあかんかったんか、つまり、そもそもなぜこの町が身売りをせなあかんかったんか、それは理解してるか」
「それは……貧しかったから」すずみが遠慮がちにいう。
「何で貧しかったんや」
「……田舎やから」
「理由にならん。田舎と貧乏はまた別の話や」
「じゃあ」すずみはますます小さな声でいった。「何なんですか」
 倉田の答えは明快だった。
「差別されてたからや」
 しばらく、皆が黙った。
 まどかが我慢できずに口を開いた。「でも、それは逆と違いますか? 身売りとか誘拐とかのせいで差別されてきたんと違うんですか」
 先日も朝来がそう話していたはずだった。
「違う違う」倉田は首を振り、折れた船のへさきのほうに歩いていった。そして足で木材を蹴り飛ばし、藪を払いのける。すると遥か下に崖が見え、その先に真っ青な海が見えた。
「この町には漁師がおらんやろ。つまり、海に入って生計を立てる者がいてないやろ」
 まどかはすずみと顔を見合わせる。それまで考えたこともなかったが、そういわれてみれば、そうだった。
「知らんのやったら教えてあげるけど、この町の名前の編留っていうのは、ほんまは『網止め』、つまり、禁漁集落を意味するんや」
「禁漁……?」
「何かの罰で海の恵みを得ることを禁じられた集落、そういう意味。江戸時代より前からあちこちにあったらしいわ。つまりこの町は何百年も昔から、特別な町やったっていうことや。だから山と暮らすしかなかった。木を炭に変えて、硬い竹を曲げてくれる火を神様とあがめて暮らすしかなかった」
 まどかの腕が震えた。由伊がそれを押さえつけるように、さらに一歩まどかに身を寄せた。
「もちろんそれだけで生活できるわけもない。戦後には身売りも横行した。ますます集落の評判は悪くなる、悪循環。どう思う、君?」
 いきなり倉田は由伊に話を振った。
「あたしは」由伊は一瞬まどかを見て、それから途切れがちに言葉を継いだ。「あたしは、江戸時代とかに何があったんかわからんけど、身売りっていうのもよくわからんけど、でも、それと、町の人全体を差別してしまうんは、関係ないかなって思います……」
「優等生やな。見かけによらず。ほめてるんやで」
 倉田が笑った。由伊はまた顔を赤らめた。
「そういうことやな。仮に禁漁集落やったとしても、もう根拠を求めるんが難しいくらい昔の話や。ともかく町の外にはこの子みたいな人が大勢いてる。ちょっと広い目で見てみたら、ばかばかしいとさえ思えるような差別やしな。でもすずみちゃん。当事者の君が『普通じゃなくてもええ』なんていってたら、それは、理解してくれる外の人を拒むことになるんやで。自分らは特別やからその運命を甘んじて受けるんやとか、歴史を子供にも伝えていくんやとか、聞こえはええけど、それは差別の再生産やで。君ら自身が、君らの首絞めてどうすんねん、と。ほら、これ見てみい」
 倉田が船底に触れた。朽ちた木のくずがぼろぼろと崩れ落ちた。
「下に土台があるんが見えるか? これは正真正銘、この山の中で作られた船や。流されてきたもんと違う。材木を運ぶ手間を省くために、山の中で作ることはようあるんや。まあここ何百年かの地殻変動で海が近くまで来てるんやろうけど、何で禁漁集落の連中が船なんか作ってたと思う」
 太陽の光を受けとめて、波は銀色に輝いていた。まどかは目にちかちかするその光を見つめながら、昔ここに住んでいたかもしれない人々のことを考えた。彼らはこの船の上に乗って、あの海の向こうに行けることを夢見ていたのだろうか?
「君らもあきらめたらあかんて。まだ若いんやから」
 倉田は軽く手を振りながら、すずみの脇を通りぬけた。すずみは地面を見つめたまま黙っていた。倉田がようやく手ごろな枝を見つけ出して斜面をのぼりはじめたところで、すずみは振り返った。
「倉田さん」すがるような声だった。
「記事にはせんから、大丈夫や。それから、大人のことこれからも信じてあげてな。大人代表として頼んどくわ」
 そういって木の根に足を掛け、倉田は額の汗をぬぐった。「百敷さんが養育してた子、あれももともとはこの町から売られた子や。それを十年経って百敷さんが引き取ってきた」
 え、と、まどかとすずみが同時に声をあげた。
「あの人だけの判断でできることと違う。町の大人たちの了解があったはずや。とすると、しおりちゃんにもその可能性がないわけではない……ただの想像やけどな。あんまり期待させやんほうがええか」
「ちょっと待ってください」
 すずみが追いかけようとしたが、倉田はばたばたと坂を駆け上がり、やがて見えなくなってしまった。
 海からの風が林を吹き抜けて、船の残骸をみしりときしませた。すずみが細い枝につかまり、断崖を見下ろす。波の音もかすかに聞こえた。
 すずみちゃん、とまどかが声をかけた。けれど、そのあとの言葉が続かなかった。
「あたし、来年のお祭りの準備せな」すずみが振り返って笑った。「巫女さんやもん」
 そういい残して、まどかたちの隣をあっという間に駆けぬけていく。だが、藪につまずいて転んでしまった。
「大丈夫?」
 まどかが駆け寄り、抱き起こした。すずみはシャツの袖で目のあたりをぬぐった。そして、「あたしって、あほやなあ」とつぶやいた。
「そんなことないよ」本心から、まどかはいった。
「すずみちゃんは、わたしよりずっとずっと賢いよ。わたしにはできやんこと、考えられやんこと、いっぱいできて、すごいと思うよ」
 すずみは首を振った。「あたしも、まどかみたいに正直に生きたいわ」
 まどかは言葉を失った。すずみはその場に座り込み、ひざに顔をうずめた。
「一人にして。あの子、送ってあげて……」
 まどかは由伊を振り返る。それから「また来るわ」といって、すずみのもとを離れた。
「ええん?」由伊が小声で聞く。
「良くないけど」まどかは落ちかけた涙をぬぐい、先に立って斜面をのぼり始めた。

 季節外れの二匹の蝶が、戯れながら飛び去っていった。
「この前、NPOの人らが特別授業してくれたんよ」
 「編留神社前」のバス停で帰りのバスを待つ間、由伊が、町に来た理由をまどかに話した。「外国人差別とか、同和問題とか……それであたし、この町のこと気になって、授業終わったあとに聞いてみたんよ。NPOの人に。そしたらいろいろ教えてくれて。あの、禁漁集落のこととかも。それであたしなりに、いろいろ、考えてみて」
 あとでわかったことだが、由伊に話をしたのが撫子の夫だった。彼は父親に結婚を反対されてからそのNPOの活動に参加し始め、編留のことを徹底的に調べた、その上で撫子との結婚に踏み切ったのだった。
「ありがとう」まどかは目を伏せた。
「お礼なんかいわれる理由ないよ。それに……NPOの人にいわれたんよ。実際に自分の目で見てみないとわかんないよって。だから、来てみたん」
「そうなん」
 まどかは少し声を落とし、不安げに尋ねた。
「それで、どうやった? この町」
 うーん、と由伊は首をひねる。
「びっくりした、っていうのが正直な感想かな。いきなりすずみちゃんの妹さんのこと聞かされたし」
 まどかはうなだれる。
「あ、でも」由伊は続ける。「あたしまだ、自分の目ではほとんど何も見てないから。この町のこと考えるんは、まだまだこれからやもん。休みのうちにまた来てええかな?」
「いいよ、来て、ありがとう」
 まどかは思わず由伊に抱きついた。
「あ、まどかちゃん、バス来た」
 由伊の声もバスの音も、まどかには聞こえていなかった。我ながらみっともないとは思いながら、涙が止まらなかった。まどかが由伊を放すまで、バスは夏の日差しをさえぎりながらそこで待ち続けていた。


 ―おわり―

2014-01-24 18:05:02公開 / 作者:ゆうら 佑
■この作品の著作権はゆうら 佑さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 こんにちは。
 今年も七月から八月にかけ、各地でさまざまなお祭りが行われていますね。関西の有名なお祭りは、七月のうちに行われるものが多いような気がします。時期はずれにならないうちに……と、お祭りの出てくるお話を投稿させていただきます。二五〇枚程度の長さになる予定です。
 この作品は過去に書いた別の話を下敷きにしていますが、それをお読みになった方はさりげなく忘れていただいて(笑)、まっさらな気持ちでこちらを読んでいただけると嬉しく思います。続編として考えていただいてもよいのですが、設定を正確に引き継いでいないところがいくつかあります。(8月8日)

 九月も終盤となり、完全に夏が終わった感がありますが、気にせず書き続けます。次の更新は遅くなるかもしれませんが、今後もよろしくお願いします。(9月22日)

 真冬の完結となりました。視点がころころ変わる難があり、また個々の人物をもっと書き込んでみたいという思いもあります。しかし力が及ばず、ひとまずこれで完成とさせていただきます。まじめな話を書くのは疲れるなあ……と思った次第です。ただぼくとしては良い経験で、これを書くにあたって参考書を探した結果、いろいろと面白い本にも出会うことができました。もっと勉強したいと思っているところです。
 お付き合いいただきありがとうございました。(1月24日)

8月8日 第1章を投稿。
9月1日 第2章を投稿。第1章を若干修正。
9月22日 第3章を投稿。
1月24日 第4章、第5章を投稿。全体に少々加筆。
この作品に対する感想 - 昇順
拝読しました。
きれいな文章だなあと感じました。
ノスタルジーの漂う文章で「二月は逃げる、三月は去る。そして、四月は知る季節だという。」こういう金言もある。好きです。大好きです。

一文が長いところがあるので、佑さんが思っているよりずっと短くしたほうが良いと思います。
「一文が長いです。佑さんが思うよりずっと短くしたほうが読みやすいです」みたいに直接的に比喩使わず…。
夏とお祭りとノスタルジーと社会問題。大好きなものが揃っているお話なので、続編期待しています。
2013-08-11 16:40:29【★★★★☆】長崎 灯
>長崎 灯さん
 感想ありがとうございます!
 おっしゃる通り、一文をだらだら書いているところがあります……。難しいですね。短くするよう意識してみます。
 ノスタルジーですか。自分ではあまり考えていませんでしたが、言われてみると確かに。語り手の時系列というのか、そういうものを何年か先に設定していますので、そうした効果も出ているのかもしれません。
 いろいろ挑戦しつつ、次章以降も書いていきたいと思います。よろしくお願いします。
2013-08-13 18:27:52【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
 拝見しました!
 高校入学からの主人公の戸惑いや初々しらしさ可愛らしく、ふんわりした感じの話かと思ったのですが、急展開があって驚かされました。もう少しバスでの出来事は改行か空白を作ってもいいのかなと、少しスラスラと読めてしまって大変なことが起きたと感じれない部分もあったかもです。1−1は二十歳の、まどかの感情が結構多く入っていたよう感じるのですが、高校時代とは切り離してもいいのかなと思いました。
 病室内での、たづきくんの会話などから見え隠れする気持ちなど、ちょっとくすぐったい感じがして良かったです♪ それと一匹連れてきちゃってたのかぁ、これから何か関わってくるのか楽しみです。すずみちゃんの存在があるので、たづきくんは男友達の中で一番とした方がいいかなとちょっと思いました。
 色々と、これからも視点が変わるのかな。たづきくん視点でのバスでのやり取りは不安な気持ちになるというか、何か悪いことが起こりそうな感じがヒシヒシとしました。それから水のはじける音、これも何だったんだろうって残りますね。これから火廻りがあるのかな? どう進んでいくのか、まだ分からなくて楽しみです♪
 細かいのですが冒頭が作品説明の中にあるので、出だしは「それから五年」より「あれから五年」の方が、しっくりくる気がしました。もしくはプロローグ的なものを追加して「それから五年」でもいいのかなと。
2013-08-31 17:17:33【☆☆☆☆☆】羽付
>羽付さん
 感想ありがとうございます!
 五年後の登場人物の状況を踏まえて書く三人称、という、今までやったことのない書き方に挑戦しているため、やや混乱があったかもしれません。やはり切り離したほうがいいのかなあ。あと指示語は「それから」「それ以来」などと「それ」で統一していますが、確かに冒頭でいきなり「それ」って出てきたらよくわかりませんよね……。「あれ」でも意味は変わりませんので、直してみます。事故時についてのご指摘もありがとうございます。
 まどかとたづきの関係については……そうか、ふつうは年上の男の子より同い年の女の子のほうが親しいですよね。あまり考えていませんでした。お隣さんだったことが大きいと考えてもらえればと思います。
 いろいろと期待していただけるとモチベーションが上がります。よければ次回以降もお付き合いください。ありがとうございました。
2013-09-01 23:31:03【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
 拝見しました!
 明夫さん、ここの部分だけを読むと良いおじさんだったんだろうなって、ただ良くも悪くも頑固そうですけどね。朝来くんは気になる存在で、家に縛られているたづきくんを気楽だという部分が朝来くんを表現しているような気がしました。朝来くんの養父の存在も、まんま悪そうな人だったのか、実は……があるのか、すごい興味がわきました。そういえば、たづきくんも5年後の視点が入っているのですが、まどかはまだ冒頭に5年前の自分を振り返る部分があるのでいいのですが、たづきくんや、すずみちゃんには無いので少し違和感があります。
 すずみちゃんは巫女さんでしたか。5年後に山吹くんとの関係は、どうなったのか気になりますね♪ バスにいた若い人物は、誘拐事件の事を調べていたのかぁ。事件の関係者なのか気になるところで、このキーワードはグッと引かれますね。ただ5年後のすずみちゃんは、それが誰かなど知っている事だとすると、5年前と現在を完全に切り離した方が、5年後の視点が出るところと、確信に触れそうなところでは出てこないとかの区別をつけなくて済むような気がします。火廻りの準備も進んできて、すすみちゃんもかぁ、この何かありそうだけど霧がかかったようで見えない感じいいですね。刀祢さん急に出てきように感じたのですが、そういえばもう一人いたんだよなって、ちょっと吃驚しちゃいましたw
 由伊ちゃんの言葉や、撫子さんの事を読むと、まどかの住んでいる町に何かあるんだろうなって思えてきますね。2−4で誘拐事件って、そういうことだったのかぁと分かって、だとすると神社にきた若いカメラを持った人物は誰だったのか気になる! あと朝来くんの過去の優しい部分、なども読めて良かったです♪
 前回の、すずみちゃんの件は、双子のように仲がいいとあったので、それ以上に仲の良い、たづきくんというのが想像できなかっただけなので、すいませんでした。
2013-09-02 21:16:15【☆☆☆☆☆】羽付
>羽付さん
 丁寧に読んでいただき、ありがとうございます!
 やっぱりこの書き方は難しいですね。なるほど、五年後の視点がネタバレになる可能性もありますよね。都合のいいとこだけ未来視点を出そうとしていました……でもぼく自身、それだとバランスが悪い気もしてきました。それと、昔の自分を振り返る部分ですね。ちょっと考えてみます。この書き方、完結する頃には書きこなせていればいいなあと思います。
 刀祢さんは存在感が薄すぎました。すみません。またあとから絡んでくるので、ここで軽く登場させたのですが、中途半端だったかもしれませんね。
 「双子のように仲が良かった」って自分で書いていて、失念していました……! 申し訳ありません。たづきもすずみも、甲乙付けがたい仲の良さであるということにしてくだされば幸いです。
 朝来の養父とか、謎の若い男とか、町のこととか、きちんと伏線は回収するつもりです。ただ五年後の彼らについてはこの作品では書けないので、それがぼくにとっても残念なところです(笑)
2013-09-06 21:33:03【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
 拝見しました!
 今回の視点の切り替えなど、私の中ではすごいしっくりきて良かったです。きっと人それぞれに好みがあるので、どれが正解などはないと思うのですが色々な書き方に挑戦して出来ている、ゆうらさん凄いなって思います! まどかのどこか逃げたいるような雰囲気だったり、友達を支えたいと思っているすずみちゃん(抱えてるものは多そうだけど良い子だな)とか、今回の部分は青春だなって感じました。
 たづきくんとの会話も、二人の心情が伝わってくるようで良かったです。変な書き方ですが、クジラも良い味でてたように思います。
 バス停を目指す二人乗りの疾走感もあって、ドキドキしました。帰り道の焦燥感とでもいうのか、噛み合ったるようで噛み合ってない二人がもどかしい所や、バスの登場など面白く読めました。
 細かいことなのですが少し、3−1で朝の場面から夕方の場面への時間経過が、少しわかりづらかったです。‘すずみにとってもう二度と着ることのないその服’、もとから高校に通ってないので、もう二度とは変かなと思いました。3−2のクジラを追い立てる漁船など、やるなら普通は昼間じゃないかなと。3−3で‘その日の朝’とあるので日にちが変わってないのかな? でも3−1で、‘傾きかけた太陽’や、みすずが「明日も来るわあ」とあったので時間の流れが分かりづらいかもです。もしかして3−1は朝で、みすずも「また夕方に来るわあ」とかかな。
2013-09-23 11:57:09【★★★★☆】羽付
>羽付さん
 感想とポイント、ありがとうございます!
 火廻りとはほとんど関係のない第3章ですが、ぼくの中では一番書きたかった話でした(笑) 課題だった未来視点などの書き方もまずまず成功してよかったです。
 しかしわかりにくい点が多かったようで、申し訳ありません。
 ‘すずみにとってもう二度と着ることのないその服’は制服一般を念頭に置いていて、「もう学校に通うことは無い」くらいの意味でした。ややこしくてすみません。「その」って書いてるからややこしいんですね。
 クジラのあたりはわざと現実味が薄くなるように書いていますので、見逃してください><
 3−3の‘その日の朝’は完全なミスでした……。日にちは変わっています。ぼくの想定では、お母さんに見送ってもらった日=たづきと走った日なので、すずみと話すのは本当はその前の日ということになります。修正しておきます。ご指摘ありがとうございました。
 矛盾点などを指摘していただいて本当に助かります。できればこういうミスをなくしたいものですが……。
2013-09-27 07:03:34【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
 拝見しました!
 もっと早く読みたかったのですが、なかなか時間がとれず、こんな遅くなってしまいました。
 4章、5章と町についての秘密……過去について語られていて、なるほどなぁと思いながら、緊迫感みたいのもあって良かったです。今でも同じようなことはきっとあるのだろうけど、やっぱりどこか自分と関係ないかなと思っている所があって、由伊のように自分から知り関わろうとする事も大事だなって思いました。
 昔からある祭りでも、確かに細かい仕来りとか知らないことって多いだろうなとか、うんうんと頷いて読んでました。すずみの選択も間違いじゃないけど、倉田の言う事も分かるなって感じです。たづきとまどかの絡みを、もう一度いれて欲しかったなぁ。すずみが、体をくっつけたって所に少しドキリとしちゃいました。たづきは子供のじゃれ合い程度にしか思ってなかったみたいだけど。朝来も叩かれた後は、太鼓たたくだけの登場だし、もっと登場して欲しいキャラでした。山吹は、なかなか美味しいところ持っていてましたね♪ 盛り上がりもあって、面白かったです!
 細かいのですが気になった所を少し、4−1の出だし、目覚ましに対してだと分かるのですが、少し間があいていて一瞬だけ「ん?」ってなります。章の出だしなので、『重いまぶたの、……見えた。』と『気まぐれに鳴る……起き上がる。』の部分を順番入れ替えても、いいのかなと思いました。
 4−2、地の文はどの章も第三視点+登場人物の視点(心情)だと思うのですが、今までは小章ごとに誰か一人に絞られていたような気がするのですが、ここは「まどか」と「すずみ」が切り変わりが何回かあって、どちらかに絞った方がいいかなと思いました。
 あと4−1、4−2と空白行などもなく、突然に現在の心情が混ざってくると、やっぱり少し戸惑う感じがします。また現在(二十歳)を『五年後の今』みたいに表現すると、当時(十五歳)から五年前にも誘拐事件があり、分かり難さも少しある気がしました。
 4−3は、まどかの言葉などもジーンとして、すごいしっくりときて面白かったです!
 5−1、佐保子さんとなってる箇所が。5−2はシーンとしては、凄い盛り上がったのですが、展開が早すぎてもったいない気もします。5−3は、すずみの登場の突然感は演出としてもいいのですが、その後に少し説明じゃないですが言葉を足してもいいかなと思いました。また細かくダラダラと申し訳ないです。
2014-02-07 19:58:08【★★★★☆】羽付
>羽付さん
 お読みいただきありがとうございます! そして細かな指摘と評価、感謝いたします。
 扱った事柄についてはぼくの知識不足もあり、うまく書き切れたとは思っていませんが、少しでもなるほどと感じていただけたのなら良かったです。
 おっしゃる通りたづき、朝来についてはもっと書くべきことがあったと思うのですが……これ以上書くとさらに時間がかかってしまうと思い、いったんここで完結とした次第です。今年の夏に向けて改稿できたらいいな、とも思っています。また4−2の視点のぶれや過去と現在の視点の交錯など、まだまだ課題が多いですね……。
 ともかく第4章から第5章は試行錯誤しながら書いていたので、いただいた感想を読み、一応小説として盛り上げて終わらせることができたかな、と思えて励みになりました。ご指摘の通りもっとじっくりと書くことを心掛けたいと思います。
 丁寧に読んでいただき、本当にありがとうございました。今は数年前に中断してしまったファンタジーにもう一度手を付けようとしているところなのですが、それには羽付さんにも感想をいただいているので、何とか完成させるべく頑張っています。今後もお付き合いいただけると幸いです。


 ご指摘いただいた箇所を訂正します。すみません。
 ・5−1のすずみの台詞 ×佐保子 → 〇佐和子

 またわかりづらい時系列についてですが、
  五年前の事件――作品中の出来事(まどか十五歳)――五年後の現在
 という構成になっており、どっちも五年でややこしいので、対応を検討したいと思います。
2014-02-08 22:40:53【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
計:12点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。