『砂浜のラブレター』作者:ゆうら 佑 / AE - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角11753文字
容量23506 bytes
原稿用紙約29.38枚
砂浜のラブレター(短編)


 ふう、と空に息をはく。
「あっ」と声がした。
 ふりかえると、
 自転車にのった麻美がいた。
「市川くん」白いシャツに紺のスカート。
 学校の制服すがた。
「びっくりした…」、
 麻美は目を丸くしてから、それから、
 ぎこちなく笑った。
「おひさしぶり、です」
「あ、うん」
 ぼくはTシャツの袖で
 ひたいの汗をぬぐった。
 どきどきした。
 何日ぶりかな。
 会うのは、本当にひさしぶりだ。
「受験勉強、どうですか?」
 麻美はひかえめに聞いた。
 信号が青に変わって、
 カッコウの鳴き声が流れ出す。
 ぼくと麻美はどちらからともなく
 自転車を押し出して、白がまぶしい
 横断歩道をわたった。
「順調だよ」とぼくはいって、
 となりをゆっくり走る麻美を見る。
「学校行ってたの?」
「あ、はい」麻美が答える。「補習で」
「大変だね、夏休みなのに」
 しばらく、ぼくらは何もいわずに走った。
 麻美が歩道でぼくが車道。
 濃いかげを落とすポプラの木。
 ふりそそぐセミの声。
 車の音。電車の音。
 駅前はいつもさわがしい。
 まるで、黙っているのはぼくたちだけ
 みたいだ。
「あ、えっと」
 舌をもつらせながらぼくはいう。
「これから時間ある?」
 麻美はぼくのほうに顔を近づける。
 聞こえていないみたい。
「今日、ひま?」
 ぼくはすこし大きな声でいう。
「はい、ひまです」
「じゃあ、どこか行かない。
 ひさしぶりだし」
 麻美の顔に、
 かがやきとかげが同時に見えた。
「でも」
 線路がきしむ音がする。
「ほら、電車来た。早く」
 ぼくは自転車を放り出して、
 駅にむかって走る。
 麻美がうしろからついてくるのを見て、
 またどきどきした。

 今日はそこで終わっていた。
 志穂はほっとため息をついて、両手を空に突き刺すようにのびをした。透明の風は夏のにおいがする。日差しがすこしずつ傾きながら、海と砂浜の色を変えはじめている。砂に刻まれたいびつでどことなく優しい文字を、波がひたひたとかき消そうとしている。もうすぐ、潮が満ちる時間だ。
 スクールバッグをぶらぶらさせながら、志穂は堤防の上を歩きはじめた。
 受験かあ。
 何となくつぶやく。けどまわりには、だれもいない。行き所のない言葉は宙に消えた。志穂も「市川くん」と同じ、高校三年。なのに勉強なんか全然しないで、小説ばかり書いている。
 焦らない、といえばウソ。
 でも、まだ大丈夫。
 自分の将来なんか考えるのは、めんどくさい。
 だれもいないのをいいことに、志穂は口もとをほころばせてにやっとしてしまう。唇をだれかに糸で引っぱられるみたいに、自然とそうなってしまうのだ。
うれしかったから。
 受験勉強中の「市川くん」とその後輩の「麻美ちゃん」が、ひさしぶりにたまたま会った。しかも、これからデートに行くみたい。
 どこ行くのかな。
 志穂はぐるぐる想像をめぐらせる。
 あそこかな、いやあそこもいいな、と思って振りかえると、砂浜の文字はすっかり波の中に消えている。
 続きはいつだろう。志穂はどきどきする。市川くんみたいに。あれを読んでいるのは、たぶん自分だけなんだ。そう思うと、なんだかさらにどきどき。
 だれが書いているのかはわからない。ある日突然、小さな浜辺の砂の上に現れた物語。堤防から見下ろさないと読めない、ふしぎな小説。それを読むことが、志穂のひみつの楽しみだった。友達にも部活の子にも、もちろん家族にもいってない。もしかしたら、あれは空から落ちてきた星の足跡、それとも波が連れてきた妖精のいたずら? なんて。何でもいい。
 あれは、あたしのためだけの連載小説なのかも。
 いつからか、そう思うようになっていた。

 ガラガラガラ、と窓を開ける音が聞こえる。机から頭を持ちあげたら、おでこから汗がぽたりと落ちた。体が熱い。
「信じらんない」
 あきれたように言いながら、純はどんどん教室の窓を開けていく。カーテンがふわっとマシュマロみたいにふくらんで、風がゆっくりゆっくり入ってきた。汗をかいた体を、風がゆるくなでていくのがとても気持ちいい。
 しまったなあ。と思いながら、天井を突くようにのびをする。教室の風は木のにおい。
「何で閉め切ったまま寝てんのー? こんな暑い中。熱中症になるよ」
 純は両手で志穂の顔をはさむ。ほっぺがひんやりした。志穂はタコの口のまま笑って、もごもごといった。
「えー? いやー、なんかめんどくさくて。別に、寝るつもりはなかったんだけど」
「お前なー」
 純はため息をついて、スクールバッグからノートパソコンを取りだす。
「そんなんじゃ、男も寄りつかんぞー。てか化粧くらいしたら?」
「めんどくさーい。って、大きなお世話!」
 教室の外が、すこしずつ騒がしくなっていく。話し声、部活のかけ声。元気な声。どれも夏にむかって流れていく声のようで、志穂にはちょっとなじまない。
「一、二年もそろそろ来るんじゃない? あ、志穂、成績どうだった?」
「聞かないで」
 志穂はまた机につっぷした。「……純は?」
「まあまあかな」
「出た。まあまあ」恨みがましくいっちゃう。
「何その声。せっかく明日から夏休みなんだしさー、もっとしゃきっとしよーよ」
「でも受験もあるし。てかあんたこそ、そのしゃべり方……」
 そのとき教室に、わらわらっと女の子たちが入ってきた。一年生と二年生の部員だ。
 羽島西高校文芸部。部室は三階、HR教室から渡り廊下を隔てた棟にある、旧生徒指導室。別名、陸の孤島。
「おつかれー。ほら部長、全員そろったよー」
 純がパソコンのむこうから、志穂に声をかける。
「りょーかーい」
 志穂は立ちあがって、集まったメンバーを見まわす。一年生一人、二年生三人、三年生二人。総勢六人。
 数はすくないけれど、自分がここの代表なんだと思うと、知らず知らずのうちに、責任感とか高揚感とかが風船みたいにプクプクふくらんでくる。それに同じ目標を持った仲間が、同じ場所にこうして集まっているんだって思うと、なんだか胸がきゅんとする。
 自分の立ち位置はここなんだ、って、改めて思う。
「じゃあ文化祭誌の会議するよー」
 ここ最近で、いちばん大きな声が出た。

 夕方五時まで学校の図書館で、それから七時まで駅前のハンバーガー屋「BAMBAN」でねばったあと、志穂はついにギブアップした。
「うにゃー。書けーん」
 ノートとシャーペンを放り出して、いすにもたれる。純はパソコンから顔をあげて、ぷっと吹きだす。
「それかわいこぶってんの?」
「ちがうって」
「萌える萌える」
「ちがう! って」
 志穂はすっかりぬるくなった抹茶オレをすすった。店内に「蛍の光」が流れ出す。田舎だから、ファーストフード店も夕方に閉まる。
「あ、もうこんな時間。うわー、今日これだけしか書けてない」
 ノートをぱらぱらっとめくって、志穂はため息をつく。文章は消した跡や付け足しがいっぱいあって、ページはまっ黒だ。
「うわ、汚な」純がそれ見て笑う。
「うるさーい。芸術は爆発なのだ」
「それ使い方ちがうって」
 あきれたように笑いながら、純は自分で自分の肩をもむ。「わたしは13000字書いたよ」
「え、そんなのいちいち数えてんの?」
「ばか。ワープロソフトにそーいう機能があんの」
「すごーい」といって志穂はムンクの叫びみたいなかっこうをする。「すごいでしょー」と純もまねをする。
「志穂もパソコン使えば? 文芸部で使ってないの、志穂とはるちゃんくらいだよ。パソコンなら絵もきれーに描けるしさ」
「わたしがパソコンオンチなこと知ってるくせに」
 志穂はほおをふくらませて、純はくすっと笑った。
 店を出る。当たり前だけど、外は暗い。
「うわーどうしよう。初稿締切、まにあうかな」
 志穂はノートを頭の上にかざしてため息をつく。空はどんな絵の具を使っても描けなさそうな、白と赤と青のグラデーション。今日はなんだか、月も優しい顔してる。
「部長が遅れちゃだめだよねー」と純。
「うー」
 駅前をぶらぶら歩く。まともに店といえるのは、雑誌を外に並べた本屋とローカルのハンバーガー屋くらい。田舎。あ、カエルの鳴き声も聞こえてくる。
「でも最後の文化祭だしさ」純がいう。めずらしく、しんみりと。
「いいの作りたいよね。目標、何部だっけ」
 販売目標。
「1000部」
「お、大きく出たね」
「純がいったんだよ」
「え、うそ」
「ほんと。いったんだから責任持ってよ。わたしはおぼえてるから」
「はいはい。いったかなあ。あ、じゃあまたね」
 曲がり角で純が手をふる。志穂は海のほうに歩きだす。波の音が聞こえる。砂浜の連載小説のことを考えた。
 今日は書かれてなかった。明日は読めるかな。

「えっ、まじ?」
 教室の中で、純が変な顔してる。夏休み六日目、最初の集合日。
「どしたの」志穂が教室に入っていったら、純と話してた二年のかほちゃんが振り向いた。
 泣いてる。
「どしたの?」
 志穂はおろおろして近づく。純が小さな声で説明する。
「苅野高の二年に橋野さんって人がいて、あ、ほらかほちゃん、渉外係でしょ。他校の人に原稿頼むっていう。それで橋野さんとも仲良かったんだけど」
「あ、知ってる。橋野さんって、『はまゆう』っていうペンネームの人じゃない。去年の小説もイラストもすっごく」
「うん、そう。それでその、橋野さんが……」
 純、口ごもる。
「何?」
 かほちゃんは、うつむいたまま教室から出ていった。
「あ、かほちゃん」
 志穂はきょとんとなって、あとを追おうとする。
「待って」
 純が怖い顔をする。
「なんで」
「その、橋野さん、亡くなったんだって」


 電車の中に、真夏の日ざしが
 さしこんでいる。
 四人がけの座席の窓ぎわに、
 ぼくと麻美はむかいあわせに
 座った。
 夏休みなのに、ほかの席は
 いつも以上にがらがらだ。
 ふう、とぼくは息をつく。
 電車がゆっくり動きだして、
 外の世界が流れはじめる。
 日の光をうけてかがやく、
 家、店、ビル、そして道路。
 麻美はしばらく、
 窓の外をながめていた。
 ぼくは彼女をじっと見つめる。
 麻美といっしょに電車にのっている
 というだけで、すごくうれしかった。
 麻美がぼくのほうを見た。
 目があって、麻美ははずかしそうに
 目をそらした。
「電車、あんまりのらない?」
 ぼくはきいた。
「うん」麻美はうなずいた。
「自転車通学だし。
 いっしょにあそびにいくような
 友だちも、あんまりいないし。
 市川くんは?」
「ぼくは、いつもこれで通ってるから」
「いいな、電車通学。あこがれる」
「そう?」
「うん、うらやましい」
 麻美はそういってうなずいた。
 窓の外の景色はとぶように
 うつりかわって、
 たてものがまばらになり、
 畑や田んぼが多くなった。
 みずみずしいみどりが目に痛い。
「どこにいくの?」
「うん」ぼくは口ごもる。
 すぐには、
 いってしまいたくなかった。
「すごくいいとこ」
 とだけぼくはいった。
「えー」麻美は口をとがらせる。
「そうだ、さいきん、まだ小説かいてる?」
 ぼくは話題を変えた。
「う、うん」
「いそがしい? 文化祭も近いし。
 他校の冊子にのせる原こうも
 あるんじゃない」
「まあ。でも市川くんが
 勉強がんばってるのに比べたら、
 わたしなんかぜんぜん…」
「あのさ。よかったら、こんど
 ぼくにもよませて」
「え、それは…」
 麻美は目をそらしてうつむいた。
「だめ?」
 こくんと麻美はうなずいた。
 電車は木立の中をはしる。
 何本ものかげが、
 電車の中をはしりぬけていった。

 志穂はノートの入った手提げかばんを肩にかけて、歩きはじめる。太陽も、海のほうに傾きはじめている。
 なんだか、うれしかった。
 麻美ちゃんも、小説書くんだ。
 遠くの世界の住人だった麻美ちゃんが、ぐっと身近に感じられた。
 今日は八月二日。文化祭誌の原稿の、初稿提出日だった。部員はみんな、小説のプロットやイラストの下絵をもってくる。それをみんなで回しながら、意見をカードに書いて作者に渡す。
 その日の夕方、いつものようにBAMBANで純とだべりながら、志穂は渡されたカードを読んだ。
 筋が通っていないとか。
 描写がひん弱とか。
 文章が読みにくいとか。
 さんざんなことが書かれていた。
 カードは匿名だから、意見はどうしても厳しいものになる。といっても、字体でだいたいはわかる。この「る」の巻き加減は絶対かほちゃんだ、とか。
 でも、ここまでボコボコにいわれるのはさすがにひどい、と思った。部員のほうじゃなくて、自分が。後輩のと読み比べてみても、明らかに自分の小説はへたくそだと志穂は思う。
「部長シッカクー」
 二人掛けの丸テーブルに突っ伏して、志穂はうめいた。純は志穂のカードをトランプみたいにぱらぱらめくりながら、真顔でいう。
「これくらい、普通っしょ。わたしだって、いいことあんまり書かれてなかったし」
「あんまりー?」志穂は上目づかいで純を見る。
「あたしのほうは、ひとーっつも書かれてません!」
 純はアイスコーヒーを飲んでひとこと。
「ブランクだね」
「スランプのこと?」
「そう」純は咳きこむ。「まあ、わたしも今回の志穂の読んで、正直、いいとは思わなかったかな。今までにもっといいの書いてるし。ほら、あのひよこが出てくるのとか。だからさー、今はちょっと調子が悪いだけなんじゃない」
「そうかなあ」志穂は唇をつんととがらせる。鼻の奥もつんとして、ピントの合わない写メみたいに、目の前がみるみるぼやけた。「てか、何で今? 最後の文化祭なのに。ねー、どしたらいいのかな」
 ワラにも、いや悪魔にもすがる気持ちで純を見る。
「人によるかなー」純は細くてきれーな腕を組む。「わたしは気晴らしに、彼氏とよく遊び行ったりしたけど」
 志穂はとっくの昔に氷だけになった抹茶オレをすする。
「あとはね、」純が慌てていう。「うーん、いい作品を読むとか? 自分で『これ好きっ』っていうのを見つけて、研究とかしてみたらどうかな。読み直すだけでもいいと思うし」
「好きな作品」志穂はつぶやく。正直、あんまり思い浮かばない。
 砂浜の連載小説かな、とふと思った。
 志穂は夕日を背に、家までの道をたどる。視界の端っこで、自分の髪の毛の先が小さな宝石みたいにきらきら光っている。もし今日、続きが書かれているとしたら。あの砂浜の文字は、もう消えてしまっただろう。
 あの小説の作者は、何のために書いているんだろう。
 だれにも読んでもらえずに、ただ消えていくだけの文字を。
 まさかあたしのため? そう思って、志穂はくすっと笑う。ありえんって。
 そのときふと思い浮かんだことが、針のように、ちくりと胸を刺した。だれにも読んでもらえずに、ただ消えていくだけの文字。志穂が書いているものだって、それほど変わりはない。読むのは部員と、冊子を手に取ってくれた人で、せいぜい十人、二十人……。じゃあ、あたしは。
「何のために書いてるのかな」
 そうつぶやいてみたけれど、だれも答えてはくれなかった。当たり前だ。夕日はもうお休みの時間。風だって、きっと行くところがあるんだろう。

 次の日、志穂は朝から晩まで海辺をぶらぶらしていた。でも砂浜に来る人はだれもいなかった。田舎の、断崖に囲まれた小さな砂浜だ。海水浴客どころか、地元の人間でもめったに行かない。
 顔や腕をイチゴみたいに真っ赤にしながら帰る途中、自転車に乗った男の子とすれ違った。思わず髪をなでつける。同年代くらいだけど、見覚えはない。他校の人かもしれない。がっつり日焼けした、ちょっとかっこいい男の子だった。
 志穂はなんとなくため息をつき、また歩きだした。たとえじゃなく、本当に足が棒みたいになっている。
「平島さん?」
 うしろから声をかけられた。
 ふり返ると、あの自転車の男の子が、こっちをじっと見つめていた。白い歯を見せて、なんだかうれしそうにしている。
「やっぱり。あ、覚えてる?」そういって、自分の顔を指さす。「中学同じだった市川」
「あ」
 覚えてる。ような、覚えてないような。
「あ……」どうしてだ。言葉が出てこない。
「平島さんってさ、まだ小説書いてるよね。何だっけ、『ひよこのダンス』? あれすっごくおもしろかった。それじゃ」
 そういうなり、彼はまた走り去ってしまった。タイヤとアスファルトがこすれる、小気味いい音だけ残して。志穂は日に焼けた顔をさらに真っ赤にして、その場にしばらく突っ立っていた。

 志穂は部屋の本棚から、去年の文化祭誌を引っぱり出した。毎年文化祭のときに、文芸部のテントで販売するものだ。業者の人に装丁してもらった、けっこう本格的な冊子。ピンク色の表紙で挟まれた上質紙は、手が切れてしまいそうなほどぴかぴかだ。目次に指をすべらせる。

  ひよこのダンス    シホ ……………………………………32

 自分の作品。たしか五十枚ほどの短編で、友達や先生の評判もよかった。
 でも。
 どうして市川くんが、これを知ってるんだろう。文化祭に来てたのかな。てか市川くんって、どこの高校行ったんだっけ。考えれば考えるほど、作品を読まれた恥ずかしさがこみあげてくる。
 それでも懐かしくなって、冊子をぱらぱらめくってみた。純の作品を見つけて、思わず読みはじめる。
 夜が更けていくのに、志穂は読むのをやめられなかった。遠くの山のほうで、ふくろうか何かが静かに鳴いた。お母さんもお父さんも寝ちゃったらしい。家の中はしんとして、ねずみの足音もきこえない。
 冊子の最後のほうは、他校の文芸部の寄稿作品だった。よそに出すだけあって、毎年かなりレベルが高い。

  『夏のひまわり』  はまゆう

 ふと目がとまった。先週、部室で泣いていたかほちゃんの顔が思い浮かんだ。
「かほちゃんの友達……」
 急いでページをめくり、裏表紙のプロフィール欄に目を走らせる。そこには任意で、執筆者の簡単な紹介が書かれてある。
 志穂はだれかにのどをふさがれたかのように、息をつまらせた。

  はまゆう
    苅野高校一年  橋野麻美

 麻美。
「麻美……」志穂は何度も、その名前を口の中でくりかえした。麻美ちゃん。麻美ちゃん。
 砂浜の小説のヒロインと、同じ名前だ。

「お先に失礼します」と律儀にいって、かほちゃんはせかせかと教室から出て行った。
 文芸部のみんながくすくす笑いながら、窓ぎわに集まる。
「何なに?」
 志穂も気になって、窓から顔を出す。
 ちょうどかほちゃんが、自転車に乗って、男の子と並んで校門を出ていくところだった。
「なぬー」
 志穂は口をたこのようにする。「やるなあ、あいつ」
「えー志穂、知らなかったの」純がにやっとする。それからすこし声を落として、志穂にだけ聞こえるようにいった。
「でもよかったよね、元気そうで。ほら、橋野さんのことで、ちょっと落ち込んでたみたいだし」
「うん」あいまいにうなずく志穂。
 おつかれさまです。さようなら。ひとり、またひとりと、教室から部員がいなくなる。結局いつものように、志穂と純のふたりだけになった。
 ちょうど太陽が真上にのぼって、教室の中が影ばっかりになる。太陽とかくれんぼしているような、ちょっとした緊張感。このまま見つからなければいいのに。
「この前、去年の文化祭誌読んでさ、それで、橋野さんのも、あったよ」
「ふーん」純はパソコンの画面を見つめたまま、てきとうな返事をした。それきり何もいわない。
 志穂も、自分が何をいいたいのかよくわからなくて、黙った。
「何いいたいんだろ、あたし」
 そうつぶやくと、純が顔をあげてぷっと笑った。「なにそれ。志穂さん、だいぶ病んでおりますな? 元気出しなされ」
「別に」志穂は窓べりにもたれて、教室の床をゆらめく木の葉の影を見つめた。「なんかさ、別に橋野さんのことで思ったわけじゃないけど、人ってさあ」
「うん」
「簡単に死んじゃうんだね」
「うーん」
「信じられないよね。あたしらより年下の子が、もう死んじゃうとか」
 風が木の葉をすりぬけて、教室にまで入ってきた。そして、純の短い髪をさっとなでた。

 小さな駅で、電車を降りた。
 改札は無人。
 きっぷはポケットに入れたまま、
 ぼくと麻美は駅を出る。
 夏の陽ざしは、だいぶやわらいでいた。
「ここ、ぼくの家のもより駅で。
 いつもこの駅から乗ってる」
「そうなんですか」
 麻美は首をのばすようにして、
 興味深そうにあたりを見回した。
「あんまり見なくていいよ。
 何もないし」
 ぼくは恥ずかしくなってくる。
 駅の外はまともな道路すらなくて、
 「駅前商店街」といわれるところにも
 雑草や木がむぞうさに生い茂っていた。
「ううん、わたし、
 こういうとこ好きです」
 麻美がいった。
 ぼくらは並んで歩きはじめた。
 あるのは場ちがいな
 ファーストフード店や、本屋くらい。
 駅をはなれると、すぐに
 畑に面した小道に出る。
 やがて、潮のにおいが
 風に乗ってはこばれてくる。
「海が近いんですか」
 と麻美はきいた。
 ぼくは笑ってごまかした。
 行く手の木立に、
 太陽が沈もうとしていた。
 光は少しずつ赤みをおびていく。
 麻美には、まだいわないでおきたい。
 木立を抜けた先の、砂浜から見える
 きれいな夕日のことを。
 びっくりさせてあげたいから。

 志穂は顔をあげた。夕日が海に沈むところだった。怒っているように赤い太陽が、海を、砂浜を、志穂の白いシャツを染めている。
 どきどきしていた。今にも、「ぼく」と「麻美ちゃん」が、ここに来るような気がしていた。あの小さな駅からさびれた駅前通りをとおって、志穂がよく使うファーストフード店の前をとおって、畑の小道をぬけて、林をぬけて、そして……。
 二人の住む世界と、志穂の住む世界が、もうすぐひとつになるような、そんな気がした。
 志穂は堤防の上から、あたりを見回した。けれど駅のほうからも道の向こうからも、だれも歩いてはこない。がっかりした。でも、どうしても気になった。岩場を伝って、砂浜におりてみる。初めてのことだった。
 砂のキャンバスは夕日にきらめいて、影になった文字たちの線が、くっきりと浮かび上がって見えた。そして、岩陰に隠れるようにして、彼はいた。たぶん、いつもいたんだろう。堤防から見下ろしていた志穂からは、死角になって見えなかっただけで。
「あ」市川は驚いた様子で、志穂に目をむけた。
「ごめん、ちょっと、なんか気になったっていうか……」
 志穂は口ごもる。耳の中には聞きまちがいをさせる妖精さんがいるというけれど、口の中にも変な妖精さんがいるのかもしれない。
「なにが?」
「それ」志穂は砂浜の文字を指さした。白い波に洗われて、頭の数文字が消えてしまっている。
「市川くんが書いたの?」
 市川はこくん、とうなずいた。それから苦笑いする。「もしかして、読んでた?」
「うん。だめだった? いいでしょ、市川くんもあたしの、読んだんだし」
 志穂はにかっと口をあけて、わざとらしく笑った。
「そっかあ。ばかだなーあたし。なんか自分のために書かれてるような気になっててさ、それ。だってすっごいドラマチックだし。砂浜に書かれた小説とか。うん、なんか麻美ちゃんにすごい感情移入しちゃったりしてさ。ちょっと自分と重ねあわせたりしちゃって……でも」
 志穂は生ぬるいつばを飲みこむ。なぜだか、涙が出そうになった。
「これ、小説じゃないんだよね」
 市川はじっと夕日を見つめたまま、答えない。
 きっとそうだ、と志穂は思う。市川くんは橋野麻美ちゃんと同じ苅野高校で、だから彼女のことを知ってて、あの文化祭誌も持ってて、志穂の小説も読んでて……。
 志穂は波打ち際に近づいた。夕日が、そっと海にふれようとしている。キスするカップルみたいに。そのとき気づいた。海は、空にいちばん近いんだ。
「だから砂浜に……」
 志穂はそこまでいって、やめた。市川の顔を見て、これ以上いってはいけないんだとわかった。
「ごめん」
 波がひたひたと打ち寄せて、もう文字を半分くらいのみこんでいた。
「消えちゃうよ」志穂は思わず声をあげた。
「いいよ別に」
 市川はいった。志穂がびっくりするぐらい、元気いっぱいの声だった。
「残すために書いてるわけじゃないし」
「そうなんだ」
「そう」市川が志穂をふり返る。「あ、麻美がいってたんだけどさ、物語って、昔からいくつも生まれてきたんだけど、でも、それが文字や本になって残ってるのはほとんどなくて。だから、だれも覚えていない物語も、たくさんあるんだって」
「ふーん」
 だれも覚えていない。志穂は自分の小説が将来、だれにも顧みられずに忘れられていくことを想像して、切なくなった。きっと、そうなる可能性のほうが高い。
「それって、残念だね」
「ぼくは、そうでもないと思う」市川はぽつりといった。「伝えたい相手に伝えることができたら、それでいいんだと思ってるから。別に、何百年もあとの人に読んでもらうために、書いてるわけじゃないし」
「すごーい」
 志穂はつぶやいた。
 あたしは絶対、こんなふうには考えられない。そう思った。忘れられるのはしょうがないとわかってるけど、でも、やっぱりつらい。
「すごい」またいった。
 市川はその言葉を、すこしちがう意味でとったみたいだ。
「平島さんだって」
 市川にいきなりいわれて、志穂はきょとんとする。
「麻美がいってたよ。平島さんのこと。すごく上手な人がいるって」
「何が?」
「小説」
「うそ」
「うそじゃないって。楽しみにしてたよ、平島さんの次の作品読むの」
「あっ」
 志穂はそっとささやく。砂の文字の最後のひとかけらが、波にさらわれて消えていった。市川はそれを見届けて、薄いベールをかぶるように暗くなり始めた空を、ゆっくりと見上げた。
「ばかみたいだけど、ときどき思ったりするんだよね。いつか麻美が、この話の続きを書いてくれるんじゃないかって」
 空に、ひとつぶの星が輝いている。一番星だ。
「日が沈めば、星が輝く。星が消えれば、朝が来る」市川がつぶやいた。
「え?」
「これ、麻美の小説の文章。いいよね、なんか。いろいろつらいことあるけどさ、もうちょっとがんばってみよう、っていう気になる」
 志穂も覚えていた。『夏のひまわり』の、ラスト近くの一節だ。
 すごいな、麻美ちゃん。
 シャツの袖で顔をぐりぐりとこする。日焼けした肌がじんじん痛んだ。
「あたし、麻美ちゃんの小説読めてよかった」
「それ、ぼくも思う」市川がいった。
「市川くん!」
 志穂が泡立つ波を見つめたまま、勢いよく声を張りあげた。
「麻美ちゃんにお礼いっといて。あの小説の中で。平島志穂という女の子が、きみのおかげで勇気づけられましたといってたよ、って。だって小説なら、過去も未来も、書き放題でしょ」
 志穂は目尻にたまった涙を指ではらう。
 書こう。
 だれか一人でも、自分の作品を読んでくれるのなら。そしてこんなふうに、その人の何かを変えてあげられる可能性が、ほんのちょびっとでもあるのなら。
 夏空に浮かぶ星を見上げながら、そう思った。



 ―おわり―
2013-04-17 01:48:54公開 / 作者:ゆうら 佑
■この作品の著作権はゆうら 佑さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 ぼくが書けなくて悩んでいたころ、2011年の夏ごろの作品です。そのときのぼくの心境を反映して、なんだかカオスな内容になっております。創作ノートに全編が、Wordファイルに半分ほどが書かれていたものを発掘し、今回投稿させていただくことにしました。ぼくとしてはそこそこおもしろいというか、奇抜な感じがして楽しめると思ったのですが、いかがでしょうか……。よろしければご意見、ご感想などお願いいたします。
この作品に対する感想 - 昇順
 読みましたー。
 これはあれですね、暑い日に読みたい作品でしたね。雰囲気が出てました、季節が感じられたというべきか。少なくとも今の春のものじゃないんですよね。別に批判とかじゃなく、もっと季節があってるときにもう一度読みたくなる作品でした。
 短い作品でしたけど、主人公の葛藤があり、それの解をえる物語で無駄なく進んでいって、非常に綺麗にまとまっていたと思います。作品の長さの割には登場人物が多いような気がしたんですが、一人一人キャラがたっていたし、それぞれの物語があった。よくこの枚数で納められているなと、ちょっと驚かされました。
 難癖をつけるなら市川君登場唐突すぎるだろ、くらいですかね。あともうちょっと彼とのやりとりが欲しかったかもです。物語の中心ですし。最後に志穂にああいうことを言わすのなら、もっと彼とコミュニケーションをとってからの方が盛り上がったんじゃないかと。ただ自分は純が一番良い味をだしていたと、彼女は助演女優賞ものの活躍だったと思います。
 あとあれですね、「誰のために書いているのか」は、考えたことがありますね。というかここに来る人は常にこの問いととぶつかっているような気がします。やっぱり、感想新しく入ってないかな?とか、むっちゃ気になりますし、感想なかったらへこみますからね。志穂ちゃんが最後に出した答えは、ある種の理想に近い。
 大変面白かったです。では。
2013-04-18 01:23:59【☆☆☆☆☆】コーヒーCUP
>コーヒーCUPさん
 感想ありがとうございます!
 そうですね、時期をちょっと間違えました。そろそろ暖かくなってきたのでいいかな……と思って出したのですが、さすがに早かったですね。最近の京都はやたらと寒いです(笑)
 なるほど市川くんですか。たしかに現実のほう、あんまり活躍しなかったですね。やりとりやコミュニケーションを増やすなら、何かしら彼と会う場面をもうひとつ入れるとか、会話を増やすとかすればよいのかな。ご意見ありがとうございます。でも、ぼくは長い会話を書くの苦手なんですよね……すぐ話すことなくなっちゃうんですよ。『夜のピクニック』のラストのような会話を書くのが夢です。
 あ、純に注目されましたね。ストーリーにはまるで関わってないのに、なぜか目立っている不思議な子です。ぼくも好きです。本当はもっと活躍の場を与えたかったのですが、もしかするとなくて正解だったかも。
 感想はほしいですねー(笑) 志穂の出した答えはほんとに理想で、ぼくだって本当はあんなこと考えられませんけど、とりあえずキレイにまとめてみた、そんな感じです。いろいろと参考になりました。ありがとうございます。
2013-04-21 01:44:28【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
 こんばんは、ゆうら 佑様。
 御作を読みました。
 詩(うた)のように綺麗で、心地よい小説でした。志穂ちゃんが可愛らしかった。
 うーん、「小説を書く事」をテーマにした小説は、むずがゆくて感想を書きづらいですね。
 小説を書くって、変な趣味ですよね。内へ向けて篭るようで、実は逆、外へ向けて発信している。そして、これは、私の個人的な意見なのですが……。喩えが難しいな><
 父王の元で綺麗なものだけを見てきた釈尊は、老人に出会い、病人に出会い、葬儀に出くわして、生老病死の苦しみに気づき、修行僧を見て出家の意思を固め、悟りへの道を踏み出した、という故事がありますが、別に修行僧はシャカ族の王子様を導こうとか、何かを伝えようとかまるっきり考えてなかっただろう、って。
 小説だって、見て、読んだ人がどう受け止めるかは、見た人、読んだ人次第――。伝えたい、言葉を発したい、書きたいという望みは書き手のもので、「読んだ人の何かを変えてあげられる」という風に考えるのは、驕りじゃないかなあって。
 でも、人は伝えようとするし、声をあげるし、小説を書くんです。自分がそうしたいから。大変興味深かったです。
2013-04-22 21:49:40【☆☆☆☆☆】上野文
>上野文さん
 感想ありがとうございます。小説自体をテーマにした小説は書くのが初めてで、何だか新鮮な気分でした。こう、自分の行動や感情を見つめ直す作業のようで。
 変な趣味ですかね。けれどものづくりや芸術って、どれも内向きかつ外向きの作業のような気がします。でも地味さで小説の右に出るものはないかも(笑)
 はい、わかります。おっしゃりたいことはよくわかります。そして小説は……どうなんでしょうね。「読んだ人の何かを変えてあげられる」とまで思うのはたしかに驕りかもしれません。伝えたい、書きたいと書き手が思い、読者が何かしらを感じる。そのくらいが限度なのかもしれません。
 「変えてあげられる」ってなんだかメルヘンですよね。小説にもいろいろありますけど、読者に何か伝えたいと思って書かれたものは、むしろ「こうなんや! どや!」と強く働きかけてくるものですし。逆にこの作品の主人公が到達した結論は、釈迦の見た僧になろうとするものなのかもしれません。もちろん僧は他人への影響なんか考えてなかったでしょうけど、結果的に世界を変えました。で主人公は、自分の伝えたいことうんぬんではなく、書くこと自体に世界を変える力があるかもしれない、と思ったと……。うーん、全然まとまらなくて申し訳ありません。お読みいただきありがとうございました。
2013-04-30 01:38:16【☆☆☆☆☆】ゆうら 佑
[簡易感想]おもしろかったです。
2014-05-30 04:43:35【☆☆☆☆☆】Prakash
計:0点
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