『ドラゴンと騎士(仮)』作者:綾月 / t@^W[ - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
 シルベスティア女王国・白銀の薔薇騎士団団長、暁は、ある日ドラゴンが保護されたと報告を受ける。慌てて現場へ駆けつけてみると、まったくドラゴンに見えない優男、ナギの姿があった。異界からやってきたと言うドラゴンを、元の世界へ帰すまでかくまうことになる。 ドラゴンに見えないドラゴンと男より男らしい女騎士の初々しい(?)物語です。
全角100833.5文字
容量201667 bytes
原稿用紙約252.08枚


 北に位置するシルベスティアの冬は長い。暦上では春とはいえ、まだまだ寒さ厳しく雪が残る大地。今日は珍しくうららかな昼下がりだった。
 執務室で書類に目を通していた白銀の薔薇騎士団団長は、小さくため息をもらした。ふりそそぐ暖かな日差しとは裏腹に、物憂げな吐息は薔薇のような深紅の髪を揺らす。それを鬱陶しそうにかきあげ、窓の外に目を向けた。
「もうこんな時期か……」
 見晴らしのよい執務室の窓からは、真っ白い制服に身を包んだ女性騎士の姿が多数。もうすぐ国を挙げての迎春祭だ。それのために騎馬舞踏を練習しているのだろう。右へ左へ、前後へと器用に馬を駆けさせている。
 迎春祭は国あげての大規模な祭礼だ。無事に冬を越せたことを感謝し、一日も早く雪が溶けて暖かな日差しが降り注ぐように祈る。
厳しい冬が終われば種まきの時期が来る。決して肥沃とは言いがたい大地に、今年一年の恵みを願って天に祈るのだ。
「ようやく長かった冬が終わる。これから忙しくなるな」
 窓から書類に視線を向けて一人ごちたとき。廊下から慌ただしい靴音が聞こえてきた。
 常に冷静沈着を旨とし、騒がしさを禁じている薔薇騎士団にしては珍しい。形のよい眉根を寄せて、琥珀の双眸を扉に向けた。
「団長! 失礼いたしますっ!」
 ばたばたと半ば走るように執務室に入ってきた女性は、暁の顔を見るとほっとしたように安堵の吐息を漏らした。その様子に微苦笑を口はしに刻み、暁はペンを置く。軽く首をかしげて、年齢よりも幼く見えるの副官をたしなめるように言葉をかけた。
「珍しいな、更紗。そんなに慌ててどうした?」
「それがっ、暁団長、どうしたらいいのかわからなくて……」
 よほど混乱しているのだろう。滅多に言葉を乱すことのない更紗が、空色の瞳を涙で潤ませている。それほど大事が起きたのかと暁は険しい表情をにじませた。
「キルウィ・更紗副団長、落ち着きなさい。焦っていては終わるものも終わらない。まずは状況の整理をして報告を」
 語調を少しだけきつくして副団長の名を呼べば、はっとしたように更紗が居住まいをただす。
「は、はい。大変失礼いたしました」
 暁の冷静な声にようやく我を取り戻したのか、更紗は一度深呼吸をする。そして暁に最敬礼をすると、大きく息を吸った。
「白銀の薔薇騎士団団長、ノエル・暁殿に報告いたします。郊外の村にドラゴンが出没いたしました」
「ドラゴン!? それで被害は」
 大きな音を立てて暁は立ち上がり、更紗につかつかと歩みよる。こぶし二つ分ほど低い副団長の顔をにらみつけるように見つめれば、更紗の眼差しが困惑に揺れる。
「はい、被害は……ドラゴン一匹です」
「…………なんだと?」
「く、繰り返します。本日未明、郊外にドラゴンが一匹出没。野盗ら数名がドラゴンをとらえ、暴行を加えた模様。現在警邏のものが野盗を捕獲し、ドラゴンを保護しております」
「……ドラゴンを、保護」
 沈着冷静、取り乱した姿を一度も見せたことのない騎士団長が、はじめて愕然とした表情を見せた瞬間だった。



 更紗とともに馬を走らせること数刻。高かった日が徐々に西の空へと沈んでいく。あたりにはぽつぽつと人家があるだけで、雪が積もる畑と荒野が広がっている寂しい場所だ。
 この辺いったいを取りまとめる古い役所の前広場に、小さな人だかりが出来ていた。おそらく役人と件のドラゴン、そして捕らえられた野盗と警邏のものだろう。
 徐々に馬の速度を落とし、少し離れた場所で馬から下りる。同じように馬から下りた更紗に手綱を渡すと、暁は疾走で乱れた髪を乱暴にくくり直し、眉間にしわを寄せた。見間違いかと目をこするが、その光景は変わらない。
「あれが……?」
 思わず疑問系でつぶやいてしまうほど、さえない男が一人。他の人から遠巻きにされるように少し離れた場所で所在なさげに立っている。
 遠目の上、うつむいているために顔はよく見えないが、ドラゴンの名を冠するとはとうてい思えない。しかし、人――この場合はドラゴン――は見かけで判断していいものではない。暁は気を引き締めると、わざと音を立てて近づいた。
「ご苦労だったな。野盗の件は後ほど報告書を提出してくれ」
 ドラゴンからさりげなく距離をとっていた警邏の若者は、あからさまにほっとした表情で暁に敬礼する。若者は了解の証に一つうなずくと、そそくさと場を離れた。
 部隊が違うとはいえ、上官にあたる暁に対して礼儀がなっていないと、更紗は声を上げかける。しかしそれを視線で制し、暁は別の言葉を口にした。
「更紗、管理者殿が近くまできているはずだ。迎えにいってきてくれないか?」
「しかし、隊長が……!」
「私なら心配いらない。上官命令だ」
「……了解いたしました」
 かなり不服そうに、そして心配そうに暁に視線を向け、それでも敬礼すると更紗は足早にかけていく。
これで、近くには誰もいなくなった。役人は暁たちが到着するのをまってさっさと目の前の建物に消えていたし、警邏の若者も同僚と共に野盗をしょっ引いている。
 さて、どうしたものかと一瞬考えるが、黙っていてもはじまらない。かける言葉に迷いながら、暁は口を開いた。
「……もうすぐ春とはいえ、外では少し居心地が悪い。差し支えなければ、中に入ってもいいだろうか?」
 馬で駆けてきた分体は温まっているが、夜になろうとしている今、じきに凍えるほど寒くなるだろう。得体の知れないドラゴンと狭い室内にいるのは危険だが、体温が奪われれば動きが鈍くなる。それならば暖かい室内の方がまだ危険は少ないだろう。
 そう判断し、暁はドラゴンを役所の隣にある官舎に誘う。明かりがついていないことから、中は無人だと見当をつけてのことだ。
「ええ、かまいませんよ」
 長い髪と黄昏時の明るさでは表情までは確認出来ないが、その声は美しいと感じる音楽的な美声だ。そのことに若干驚きつつも表情にはださずに、暁はドラゴンを促す。彼はあらがうでもなく、すんなりと官舎の扉をくぐった。
 暁は薄暗い室内を見回すとまず明かりをともし、火をおこす。さっきまで誰かがいたのだろう。まだ暖かい室内と、消したばかりの炭はすぐに火がついた。
 ぐるりと狭い室内を一瞥すれば、目に入るのは古びた内装。壁は元は白かったのだろう。しかし今はところどころすすけたように黒くなり、何かのしみで黄色く変色している部分もある。
備え付けのテーブルと椅子は使い古されて角が丸くなり、カップは縁が欠けている。それでも屋外よりは断然居心地がいいし、暁自身はあまり装飾にこだわらないたちだ。ドラゴンも気にした風もなくきょろきょろと辺りを見回している。
 やがてドラゴンは無言で椅子に座り、それを確かめてから暁は湯の準備をする。乱雑に置かれていた鉄瓶に水を注ぎ、棚を物色して見つけたお茶と酒をそばに置いておく。ドラゴンの視線を痛いくらいに感じながらも暁は無言を通しぬき、ようやく腰を落ち着けた。
 パチパチと竈の薪がはぜる音と、鉄瓶が湯気を立てる音だけがしばらくの間響く。どちらも何も言わず、ドラゴンが口を開く気配もない。暁は沈黙するドラゴンを観察するように見つめた。
 柔らかな炎に照らされた髪は長く艶やかで、闇色というには暗く、漆黒というには明るい不思議な色だ。一番近い色を探すならば、月のない夜、星々に照らされた夜空の色か。
 くっきりとした二重の穏やかな双眸は見事な紫水晶。冷たく感じさせるその色も、けぶるような銀が散らばっているせいか、それとも口元に浮かぶかすかな笑みのせいか、柔らかな印象を与える。
 男性か女性かといえば限りなく女性に近い顔立ちをしているが、なよなよした印象はまったくなく、神話に出てくる妖精か精霊のように美しい。それがドラゴンだからなのか、それとも彼だからなのかはわからないが。
 目に付くのは、唯一装飾品らしい額のサークレット。中央に親指の爪よりも少し大きい宝玉がはまっている。瞳とあわせたかのような、見事な紫水晶。透明度が高く、透き通るガラス細工のようにも見える。
 ざっとみたところ怪我はみられないが、ずるずるとした黒いローブにところどころ鉤裂きがあった。これが野盗に暴行された痕跡だろう。
「僕の顔がそんなに珍しいですか? お湯が沸いてますよ」
 くすりと笑いながら告げられた言葉にはっと意識を取り戻す。いわれたとおり、鉄瓶からはシューシューと勢いよく湯気が立っていた。
「すまない。……酒は飲めるのか?」
「ええ。酔いはしないですが、お湯で薄めたもので結構です」
 暁の困惑気味の問いかけににこやかに返事が返る。了承の証に軽くうなずき、欠けたカップに薄めた酒とミントのお茶を注いで暁はテーブルへ戻った。
「先ほどは失礼した。私はシルベスティア女王国、白銀の薔薇騎士団団長、ノエル・暁。貴殿の名前を聞いても?」
「あなたが――」
 一瞬だけ大きく目を見開き、暁を凝視する。何事かつぶやかれた言葉はすぐに空気に溶けてしまい、暁の耳には届かない。訝るようにナギを見つめても、答えは返ってこずに。しかし、暁を見つめるその眼差しが和らいだことに気づく。
「何か?」
 ただ自分をまっすぐに見つめるその視線に負け、暁は戸惑ったまま口を開く。その声にはっとしたようにナギは首を振り、口を開いた。
「いえ、なにも。……僕はナギ。ドラゴンのナギです」
 人間ではないことを何でもないことのようにさらっというのは彼の性格ゆえか、それともドラゴンだからなのか。
この国のどこを捜しても対ドラゴンのマニュアルなんてものは存在しない。どうして先人は対処法を伝えてくれなかったのだと八つ当たりめいたことを考え、そして無意味だと気づき嘆息した。今はそんな馬鹿なことを考えている暇はないと意識を切り替え、暁は伝えるべきことを口にする。
「まもなくここに管理者殿が到着する。それまでの間、少し話がしたい」
「管理者?」
 場違いなほど優雅に見える所作で持ち上げたカップを口の手前で止めると、ナギは不思議そうに問い返した。その様子から、どうやらこちらの事情は何も知らないらしい。
「私も詳しくはないが……異界――失礼、私たちの世界から見て、ナギ殿の世界は異界と呼ばせていただいている。その、そこから来た客人にたいし、管理者と呼ばれるものが対応することになっている」
 管理者は、異界との境界にある扉を見守る役目を持っている。
扉が何時開くのか、開いた扉から何が出てくるのか、それは人間に危害をもたらすものなのか。はたまた、異界に落ちた人間はいないか。もしいた場合、無事に帰ってきたのか、どうやって帰ってきたのか。もしくは、帰ってこなかったのか。
そういった異界とのやり取りをすべて管理するものを管理者と呼んでいる。
「そんな人間がいるんですね。僕らの世界とは大違いです」
 若干苦笑気味でナギはつぶやき、薄めた酒で唇を湿らせる。少し辛口の酒は余り口にあわなかったのか、一瞬だけ形の良い眉根が寄せられた。けれどそれは口にせずにカップを置くと、にこりと微笑んだ。その微笑の美しさに暁は目を見開く。
今まで美しいと表現されるような人には多数出会ってきたが、ナギの美しさは彼らとは異なる美しさだ。たとえて言うならば、絵物語から出てきた主人公のような美しさ。異形のものであるがゆえに、惹かれてしまうのだろうか。
「わかりました。では、その管理者殿がくるまで、あなたの質問に答えましょう。ええと……ノエルさん?」
 名前を呼ばれ、暁ははっとしたように居住まいを正す。意識を切り替えるように冷めかけたお茶を流し込み、暁は腹に力を込めた。
「暁と呼んでいただいて結構。では……個人的な興味から聞きたいのだか、貴殿は本当にドラゴンなのか?」
「ええ、正真正銘ドラゴンです。……こちらの世界では、理が違うらしく本来の姿には戻れませんが」
 どうやら、ドラゴンの世界とこちらの世界では何かが決定的に違うらしい。それで人型なのかとうなずき、別の疑問を口にする。
「野党に襲われたと聞いたが、なぜドラゴンと名乗らなかった?」
「名乗りましたよ。だからあなたがいらしたのでしょう? でも、彼らは本当に僕がドラゴンと思わなかったらしくて」
 おかしそうにそういうと、暁はそういえばとうなずく。更紗から、確かにドラゴンが出たときいて慌ててかけてきたのだから。
 しかし、ドラゴンと名乗らなければどこからどう見ても優男にしか見えない。いや、ドラゴンと名乗ったとしても、優男にしか見えないことはたしかなのだが。
「その……失礼を承知で聞くが、ナギ殿はどうみてもドラゴンに見えないのだが。何が決定的な証拠となって、野盗らが貴殿をドラゴンと認識したのだ?」
「ああ、呼び捨てでかまいませんよ。敬称をつけられるとむずむずしますから。ええと……そうですね、腰の剣を貸していただけますか?」
 一目で飾りではないと見抜き、何気ない風に暁に頼む。剣を手放すことに若干の不安を覚えたが、よくよく考えれば相手は人間ではない。剣で太刀打ちできるかどうかもわからないのだ。しかも、複数の野盗に襲われても一見無傷ということは彼がやはり何らかの力を持っているのだろう。
そう思い込むと、装飾の一切ついていない剣を思い切って渡した。
「使い込まれた、いい剣ですね。……失礼」
 そう一言断ると、すらりと長剣を抜く。危なげない手つきは、剣をまったく恐れていないからだろう。しかし、子供がおもちゃに手を伸ばすような無邪気さはない。どこかで剣に触れたことがあるのか、それとも刃が己を傷つけるものではないと知っているからなのか。暁は無言でドラゴンの一挙手一投足を観察する。
 暁の視線を感じるはずなのに、ナギはなんの気負いもなく炎に照らされて鈍く光る剣をまじまじと見つめ、おもむろに掲げた。一瞬身構えるが、暁の心配は杞憂に終わり、彼はその切っ先を自分の左腕に当てた。
「なにをっ!」
 とめるまもなく、刃を滑らせる。けれど、切れたのはずるずるとしたローブだけ。血の一滴も流れ出なかったのだ。目を見張る暁に、ナギは淡く微笑む。
「ドラゴンの皮膚はとても硬くて丈夫なんですよ」
「…………なるほど」
 暁は完全に冷めたお茶で動揺を流し込むように一気に飲み干す。確かにこれならば、人ではないと明らかだ。
斬っても斬ってもまったく血が出ずに痛みを感じない相手では、さぞ野盗も驚いたことだろう。もしかしたら、逆にその騒ぎが警邏に気づかせたのかもしれない。あるいはつかまることを承知で、警邏に助けを求めたのか。ナギが暴行するとは思えないが、なにせ相手はドラゴンだ。人ではないところでそもそもが違う。
 一度深呼吸すると、もしかしたら野盗を退けたのかもしれない力があるのかを問いかけた。
「もう一つ。私は異界からの客人とは初めて会うのだが、貴殿らは不思議な力を使うのではないのか? おとぎ話かもしれないが、ドラゴンは火を噴くと聞いている」
「ドラゴンの姿に戻れば、確かに火を噴けますよ。でもこの姿でいる間は無理です。あとは……この世界では、無為に魔法――あなた方が言う不思議な力――は使えないようです。……いえ、使えることは使えるのですが、なんとも面倒くさくて使う気にならない、というのが正直なところでしょうか」
 ドラゴン本来の姿に戻れないということにつながるのか、それともただ単にナギが面倒くさがりなだけなのかは図りかねるが、今のところ体が硬いというだけで人間に危害を加える気はないようだ。もしかしたら、あくまでふりをしているのかもしれないし、人間などいつでも簡単に傷つけられると思っているのかもしれない。
それでもナギの言動からはまったく敵意が感じられず、暁は僅かにほっとする。しかし表情にはおくびにも出さずに、あっさりと返された長剣を腰に戻す。やはり、この重みがあるのとないのでは精神的な安定度が全然違うと内心苦笑する。ドラゴン相手に剣では無意味だとわかっているにも関わらず。
「ところで、僕からも一つ質問をしても?」
「あ、ああ。私で答えられることならば」
「あなたは……人間ですか?」
「…………は?」
 その質問は初めて聞いた。もうすぐ二十五年の年月を人間として生きている自覚がある暁は面食らったようにナギを凝視する。しかし、その紫の双眸にからかう色はなく、真面目に問いかけているらしい。一瞬迷った後、暁は嘘か本当かはわからないがと前置きをしてから言葉をつむいだ。
「曾祖母が、精霊の血を引いていたらしい。私が生まれたときにはすでに亡くなっていたので、真実かどうかはわからないが」
「ああ、そうなんですね。多分それは真実でしょう。あなたには炎の加護が強く出ているようです。僕が生まれる少し前は、こちらと僕らの世界は簡単に行き来が出来たそうです。もしかしたらその時にあなたの先祖と炎の精霊が結びついた可能性がありますね」
「生まれる少し前、ということは、その……貴殿はだいぶ長く生きているのか?」
 ふとした疑問を口にすると、おや、とナギが首をかしげる。一度目を閉じてから、ああと小さくつぶやいた。
「人間の寿命は百年ほどでしたか。ドラゴンの寿命は平均八百年から千五百年ほどです。種族にもよりますが、僕の種族はわりと長命なほうで、千二百年ほどが平均寿命です。僕はまだ二百年と少しなので、まだまだ若い方ですよ」
「二百年で、若いのか」
 呆れていいのか感心していいのか迷うような口調でつぶやき、やはり人ではないなと改めて納得する。
 空になったカップを持ち上げてため息を漏らし、新しくお茶を入れようとしたとき。ようやく待ちわびていた馬車の音が聞こえた。
「管理者殿がついたようだな」
 立ち上がりかけた腰を落ち着ければ、あわただしくドアが開く。入ってきたのは暁の腰ほどの小さな老人。更紗は外で待っているのか、入ってくる気配はない。
 女性の平均身長よりかはずば抜けて高い自覚はあったが、管理者の老人は男性の平均身長より大分低いらしい。背丈だけで見れば子供と同じくらいか。目が埋もれるくらいの長い白眉毛と口を覆う白ひげ、そして一つにくくった長い白髪がなければ子供に見間違えられるかもしれない。
 ぼんやりと頭の片隅で考えていたら、暁の前で立ち止まったことに気づくのが遅れた。慌てて膝を折ろうとすると、管理者自身に止められる。
「ああ、堅苦しいのはかなわんので、そのままでいいですじゃ。私はロウェル・時雨。管理者と呼ばれております者。で、こちらがドラゴンですかな?」
「ナギ殿です。先ほどドラゴンであることを確認いたしました」
 正確には、人ではないことを確認しただけだが、この際それはかまわないだろう。そう自分で結論付けると、目上の者に対する敬意を込めて一礼する。
「ふむふむ、ちょいと失礼」
 意外とかくしゃくとした足取りでナギのそばまでいくと、よっこいしょと掛け声をだして椅子によじ登る。手伝おうか迷っているうちに、時雨は意外と器用に腰掛けると、じっとナギの顔を見つめた。
「目は紫、髪は黒。……いや、濃藍かの?水のドラゴンとはまた珍しい」
「よくお分かりですね」
「これでも管理者の名をいただいておるからの。ドラゴンが落ちてきたのは四百年ぶりほどか。ちまちました客人はよくくるが、これはまた大物が来たらしいの」
 顔中毛だらけでもこもこしているせいか、表情が良くわからない。だが、声の感じからすると少し笑ったらしい。ナギは少し首をかしげると謎めいた微笑を口はしに刻む。
「大物かどうかは知りませんが……それで、僕は何時ごろ帰れるのでしょうか?」
「おお、それなんじゃが……まずは、こちらに来たときの詳しい状況を聞かせてほしいのですじゃ」
「詳しい状況」
 オウム返しでつぶやくと、思案するように何度か目を瞬かせる。そして困ったように表情を崩すと、物憂げなため息をついた。
「それが、よくわからないんですよ」
「わからない?」
 問い返したのは暁。じっと二人の様子を観察していたが、思わずといった風に口からこぼれた。
 ナギは時雨から暁に視線を向け、軽くうなずいてから思い出すように一度目を閉じる。
「ええ。空を飛んでいたら、急に嵐のように空気が渦巻いて、突風が吹き荒れました。そして気づいたら山の中に倒れていましたから」
「ふむふむ、嵐のような状況、とな。こちらについた時の時刻はどれくらいか覚えていなさるか?」
「多分……昨日の昼を廻ったころだと。目が覚めたときの太陽の位置が、だいぶ西に傾いていましたから。とりあえずここがどこかわからなかったので、ふらふらと山の中をさ迷っていました。で、今朝早く……というか、夜中ですか? 野盗の皆さんにあって、こちらへきました」
 野盗とのあたりはかなり端折ったのは故意か偶然か。そのあたりを詳しく聞きたかったが、今は管理者の質問が優先だ。そう言い聞かせるように暁はうなずき、時雨に目を向ける。
「昨日の昼過ぎくらいに、嵐のような状況。……ふぅむ。騎士様、これは少しやっかいなことになりました」
「どういうことだ?」
「通常異界で異変が起これば、こちらでも何らかの影響がでるのが普通ですじゃ。しかし、こちらでは突風も大雨もなく、いつもどおり平穏な日常だったわけですな。そうすると、何らかの力を持って無理やり扉が開かれた可能性が極めて高いのですじゃ」
「無理やり……だれが、何の目的を持って、と考えるのが妥当か」
「はい。こちらから無理に開くことは多分……よほどのことがない限り不可能と考えてよろしいかと。そうすると、異界側からの働きかけとなるのですが……ここ千年の間は異界とのやり取りもなく、世間一般ではもうおとぎ話の世界になりつつあることですがの」
「……理由はともかくとして、ナギ殿は帰れるのか?」
 黙って話を聞いているナギの表情は特に変わらない。ただあいまいな微笑を浮かべているだけだ。ちらりと横目で見ながら問いかければ、時雨は難しい顔で――といってももこもこでそうだろうと感じるだけなのだが――うなる。
「十日ほどお待ちいただけますかな? 扉が開いても、通れるかどうか……」
「どういうことだ?」
 扉が開けば誰でも行き来できるのではないのか? そう単純に考えていたのだが、時雨の言葉からするとことはそう簡単にいかないらしい。
「実は、扉はいつでもすぐに開ける状態になっているのですじゃ」
 たとえば、まっすぐ行った通路の先に鍵のかかっていない扉があるとする。それも、少しだけ開いている状態だ。それを見た人は少なからず何だろうと覗いてみることを考えるだろう。しかし、扉は思ったよりも頑丈でかなり重たい。がんばって引いてみても、なかなか開かない扉。
子供であれば隙間からするりと入ることが出来る。細身の女性ならば、もう少し広げればなんとか通れるだろう。しかし、大柄な男性ならばどうだろうか。がんばってがんばってあけてようやく通れるが、するりと簡単に抜けることはなかなか難しい。
「なるほど。扉の開き具合によって通れるか通れないかが決まっているのか」
「はい。小さいものであればすぐに帰れるといえるのですが、ドラゴンのように大きなものになると、少し時間をいただきたいのですじゃ」
「分かった。それまで、ナギ殿の身柄は私が責任を持とう」
 うなずいてそう確約すると、時雨の肩から力が僅かに抜ける。さすがにドラゴンを管理者の館に連れて行くのは困っていたのだろう。万が一暴れだしても、管理者たちではどうすることも出来ないのだから。
「お話はまとまりましたか?」
「ああ。すまないが、十日ほど時間をいただきたい。かまわないか?」
「ええ。僕は山の中に身を隠していればいいですか?」
 どこか笑いを含んだようにそういうナギに、暁は思い切り眉をひそめる。まさかドラゴンを野放しにするわけにもいかない。かといって、騎士団の砦に連れて行くわけにもいかない。連れて行ったら確実に蜂の巣をつついたような騒ぎになるだろう。一見人畜無害だが、何せ相手は人間ではない。それに、一般的に比べて見目麗しいのも問題だ。沈着冷静を旨としている騎士団だが、団員全員が女性で構成されている。一人二人規律を乱すものがいるとも限らない。
「いや……私の邸に来ていただこう。客人としてもてなす」
 少しだけ考えてから暁はナギをまっすぐ見て告げる。私邸ならば、気心の知れた者ばかりだ。なによりも邸の主として騎士団よりかは徹底しやすいし、自分の心をわかってくれる者ばかりだ。そういった思惑を含めて告げたのだが、ナギには少々以外だったらしい。紫の双眸が困惑したように揺れている。
「……どちらにしろ、こちらの世界では居場所がない身です。暁さんにお任せします」
「では、私は一足先に戻らせてもらいますの。迎えに来ていただいた騎士様をまたお借りしてもよろしいかの?」
「ああ、夜道は危険だ。更紗に送らせよう」
 うなずくと、すばやく立ち上がり火の始末をする。使ったカップは危急ということにして、申し訳ないがそのままにさせてもらった。
 あわただしく身支度を整えると、まずは時雨を先に外へ出す。次いで外へ出ると、ナギに視線を向けた。ナギも一つうなずき、招かれるままに外へ出る。少し待っていてほしいと暁が告げると、無言で立ち止まった。
「更紗、管理者殿を館まで送って差し上げてほしい」
「団長はいかがなさいますか?」
 ずっと不安で待っていたのだろう。暁の無事な姿に、安堵の表情が見える。しかし、告げられた言葉にまた不安を感じたのか、寒さに赤くなった指をぎゅっと握り締めた。
「私はドラゴンを移送する。今夜は遅くなるから、団員への指示は任せた」
 暁の言葉に一瞬不満そうに唇を尖らせるが、結局更紗は不満を口にすることはしない。ただ遠目に見えるドラゴンの影を強くにらみつけ、しぶしぶうなずいた。
「……了解いたしました」
 きっと、自分が聞いても暁は答えてくれないだろう。ドラゴンの移送先は極秘扱いされるはずだ。しかし、危険なところへ自分を連れて行ってくれないことに更紗は唇をかみ締める。そんなに自分は頼りないのかと、暗い感情にとらわれかけたとき。
「更紗。いつもすまないな」
「な、何がですか?」
「お前が優しいから、いつも負担をかけてしまう。結局甘えているんだな」
「そんなことありません!団長は……団長のほうが、優しいんです」
 そうやって、自分を、自分に限らず誰にでも優しさを隠さないところが。団長としては甘いと良く評価されるが、それが暁の長所でもある。だから、自分を含めて団員は文句も言わずについていくのだ。
「管理者殿を頼んだぞ。それから、陛下にご報告をしなければいけない。草案を考えておいてくれるか?」
 どうも私はそういったことが苦手で仕方がない。
 小さくぼやく団長に、副官は笑いを隠せない。そう、こういった少し抜けている団長だからこそ自分がしっかりしなくてはいけないのだ。
 そう言い聞かせるようにして頭を切り替えると、びしっと敬礼を返す。
「了解いたしました。道中、お気をつけて!」
「更紗も気をつけて」
 そうして管理者を馬車に乗せて見送ると、黙って待っていたナギを手招きする。素直に応じる姿に、なぜか大型犬を連想してしまい、暁はひっそりと苦笑した。大型犬なんていう可愛らしいものではないのにと。
「馬には乗れるか?」
「乗れるかといわれれば、はいと答えますが、多分乗れないでしょう」
 まるで謎かけのような言葉に目を瞬くと、ナギが無言で暁の馬に歩み寄る。乗り手の気性に合わせて若干気が荒いところはあるが、むやみやたらと興奮する馬ではない。それが、ナギが近寄るたびにせわしなく足を踏み鳴らしたり荒い鼻息をつく。
「リスティア、どうした?」
 珍しい愛馬の状態に思わず駆け寄りなだめるが、まったく静まらない。しかし、ナギの歩みが止まるとぴたりと静まった。つまり、ナギに対して怯えていたのだ。
 そもそも、馬は敏感で臆病な生き物だ。自分よりも力が強いものや大きな音にはがむしゃらに反応する。それをなだめるのも主人の務めだが、本能的な恐怖心は抑えきれるものではない。
「困ったな……。ここから歩いていくとなると、夜が明けてもつかないぞ」
「これを手綱につけてくれますか?」
 悩んでいると、ナギがなにやらごそごそと取り出した。それは華奢なブレスレットのようなもの。しかし、ブレスレットにしては飾り気がなく、細い銀環に濁った黒っぽい石がついているだけだ。
「これは?」
「僕たちがどうしても馬に乗りたいときにつけるものです。翼があるから基本的には馬に乗らないんですが……僕の友人と走るときはそれを馬につけていたんです」
 どうやらドラゴンのまじない道具のようだと見当をつけ、言われたとおり手綱に通す。すると、不思議なことにあれだけ怖がっていたナギへ、リスティア自ら歩み寄ったのだ。
「君は賢い子だね。少しの間君の背中を借りるよ」
 そういって馬の鼻面に額を寄せると、主人以外に懐くことのなかったリスティアが甘えるように鳴いた。いったいどんな魔法だと目を見張る暁に微笑みかけ、相乗りでいいですか、などとのんきに問いかける。
「ああ、かまわない」
 一瞬、背後から襲われたらどうやって対処するかと警告のようなものが脳裏にひらめく。けれどすぐにその考えを打ち消した。
 さっきまでの会話から、少なくとも今は自分や人間に危害を加える気はないようだ。もしかしたら演技かもしれないし、今でなくとも明日には己を含めて家人に危険をもたらす存在かもしれない。それでも、自分を見つめる穏やかな眼差しを信じたいという気持ちが大きくて。暁は迷いを振り切るようにリスティアにまたがった。
「後ろに乗ってくれ」
「ありがとうございます」
 暁の葛藤など知るよしもなく、ナギはのんきともいえる口調で礼を言う。
 相乗りに慣れているのか、暁の邪魔をすることなくナギはしっかりと定位置におさまった。
「飛ばすぞ」
「お任せします」
 自分を信用しているのかまったく警戒心のない返事。なんとなくペースを乱され、暁は困惑したように前髪をかきあげた。けれどすぐに気を引き締めるとリスティアの手綱を緩める。そのまま勢いよく腹を蹴れば、リスティアは風のように走り出す。
 いつもの心地よい疾走感を感じながら、暁は頭の片隅でドラゴンのことを考える。なんともよくわからない生き物だ。気を許しているのか許していないのかまず判断できない。何を考えているのかも良くわからない。何かを隠しているようで、実は何も考えていないだけなのか……このドラゴンはいったいどんな生き物なのだろうかと興味を持ったことは事実だった。



 駿馬の愛馬も、二人乗せていたせいか邸に着いたのは夜もふけたころだった。
「今帰った」
 厩舎に自分で馬をつなぐと、ナギを伴って邸に入る。声をかければ、夜更けにも関わらず正装した老家令が驚く風もなく出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、暁様」
 一瞬ナギに視線を向けるが、何事もなかったかのように一礼して暁を出迎える。暁も一つうなずくと、背後に控えていたナギを紹介するように一歩横にずれた。
「隣国からの客人だ。ナギという。しばらく邸に滞在するから、世話を頼んだ」
「かしこまりました。ナギ様、この邸を取り仕切っております東雲と申します。御用のさいは何なりとお申し付けくださいませ」
 深々と腰を折ってナギに歓迎をしめすと、どこか戸惑ったようなナギの顔。こんな風に接されたことはもしかしたらないのかもしれない。それが少しおかしくて、暁は口元をほころばせる。
「少し休んでから戻る。軽い食事と暖かい飲み物は用意できるか? あと、紅葉にリスティアの世話を頼みたい」
 何時までも玄関先に立っていることもないと、暁は上着を脱いだ。それを受け取りながら、東雲は当たり前のようにうなずく。
「かしこまりました。すぐにご用意いたします。温かいお茶とお酒とどちらにいたしますか?」
 どちらが好みだと目線で問うと、ナギは少し迷ってからお茶をいただきますと答えた。東雲は軽く一礼するとそのまま奥へと向かう。きっと紅葉を起こしてから食事の用意をしてくれるのだろう。
馬番の少年には少し申し訳ないが、リスティアをそのままほうっておいては体調を崩してしまう。自分で手入れをしてもいいのだが、もう少しナギと話をしてみたい欲求に抗えず、暁はナギを伴って正面階段の左脇にある扉をあけた。
 室内は温かみのある淡いクリーム色で統一された、品のある応接室。豪奢ではないが上質なテーブルとくつろげるソファ、いつでも火が灯せる暖炉と配置良く整えられていた。
 ソファにナギを誘うと、まずは暖をとるとばかり火を灯す。良く渇いた薪はすぐに勢いを出し、ぱちぱちとはぜながら部屋に暖かさをもたらした。
「私はすぐに砦に戻らなければならない。とりあえず十日の間はここにいてほしいが、かまわないか?」
 ナギの向かい側に腰掛け、改めて問いかければナギはもちろんとうなずく。どちらにしろ、自分には行き場所がないのだと少しだけ諦めたような表情。それになんと答えていいのか分からず、暁は視線を惑わせる。
「失礼いたします」
 その時ノックの音が聞こえ、東雲が食事を運んできた。無言で食事とお茶をテーブルに並べると、一礼して扉まで下がる。少しの間があいてから、東雲は暁に問いかけた。
「暁様、ナギ様のお部屋はいかがいたしましょうか?」
「ああ、深緑の間を準備してあげてくれ。ナギ、湯は使うか?」
 それは普段から使うか、という意味なのか、今夜は使うか、という意味なのか図りかね、ナギは首をかしげる。少し考えるように間を持たせてから、ゆっくりと言葉をつむいだ。
「今夜は、手足を注ぐお湯と洗面だけさせていただければ助かります。こちらでは、お湯は毎日使うのですか?」
「立場によるな。深窓の姫君ならば毎日湯を使うし、私は毎日湯につかることはしないが、体は毎日清めている」
「では、体を拭く布とその分の水……いえ、お湯だけいただければ結構です」
 そもそも、熱いお湯につかる習慣はドラゴンにない。しかしそれをここで言うわけにもいかず、まだこの国のしきたりに慣れていないのだとわざと誤解させるような言い方をする。もちろん東雲はその真意に気づくはずもなく、かしこまりましたと頭を下げて退出した。
 しばらく薪がはぜる音だけが響く室内。場所は違えど、郊外の役所とまったく同じだなと暁は内心苦笑する。一つ違うことは、自分がもう、この得体の知れないドラゴンに警戒心をまったく抱いていないことだけだった。
「食べるか?」
 優秀な老家令が用意してくれたのは、暁のために甘さを控えたクリームが添えられているスコーンとサンドイッチ。薫り高い紅茶には疲れが取れるようにとミルクと蜂蜜が添えられている。
 ふと、ナギに食べものや飲み物を勧めながら疑問に思う。そもそも、ドラゴンは何を食べて生きているのだろうか? 
「これはなんていう食べものですか?」
 その疑問を感じ取ったわけではないだろうが、ナギはスコーンをしげしげと眺めながら問うてきた。やはり見たことがないのかと当たり前のように受け入れ、暁は説明する。
「スコーンとサンドイッチだ。ドラゴンは何を食べて生きているんだ? まさか……生肉とか言わないよな?」
 ほんの僅かなおびえと戸惑いをない混ぜた暁に声を立てて笑い、ナギは否定して首を振った。耳に心地よい笑い後に表情を緩ませれば、ナギは微笑を残したまま言葉を紡ぐ。
「基本的には何も食べませんよ。ああ、生まれたばかりの子供は別ですが。人間が食べるものはほとんど食べません。幼いころは木の実や草の根を食べています」
「草食なのか。てっきり肉食とばかり思っていたが……」
「種族によっては肉も食べますよ。僕たちも食べないことはないですが、あまり好んで食べません。大人になると、口から食べものを摂取することはほとんどなくなります。僕は水に属する種族なので、水の近くにいれば問題ありません」
「食べものがいらないとは便利だな。そうすると……食べられないのか?」
「食べられますよ。一応、肉や魚も食べますが……あまり好きではありませんね」
 そういってスコーンを一口かじる。見たことがない食べ物を食べる割には、躊躇や戸惑いがまったく見られない。しかし、一口食べ終えると驚いたように目を見開いた。
「これは、すごく美味しい! こんなに美味しいものは生まれて初めて食べました」
「そ、そうか?」
 常になじんでいる食べものにそこまで感動されると、驚くというよりも引いてしまう。
このスコーンはきっと長く仕えてくれている乳母が焼いてくれたものだろう。暁の好みを知り尽くしているから、もちろん美味いとは思う。ただ、感動する美味しさかと問われたら首を傾げてしまうだろう。
「ええ。その白いふわふわしたものが特に美味しいですね」
 にこにことたっぷりとクリームをつけて食べる姿は、先ほどまでのナギとはまったく別人のようだ。もしかしたらこの人懐っこいような子供っぽいような姿が、本来の彼の姿なのかもしれない。
「以外と甘いものが好きなんだな。私はどちらかというと苦手だからあまり食べないんだ。最近腕のふるいがいがないと乳母にぼやかれてな」
 ハムとチーズのサンドイッチをつまみながらいうと、ナギは小さく微笑する。二つ目のスコーンもクリームをたっぷりつけ、ミルクと蜂蜜を横目で気にしながらほおばった。ナギの視線の先に釣られるように暁も目をむけ、笑いながらナギのティーカップに手を伸ばす。
「甘いぞ?」
 そういいながらも飲みかけの紅茶にミルクと蜂蜜をたっぷり入れて渡せば、ナギはありがとうございますと嬉しそうに笑った。そして幸せそうに紅茶をすする。
「人間の食べものは美味しいものがたくさんありますね。僕らは結局自然のものしか食べませんから、甘いものといったら果物くらいしかありません」
「でも、子供のころしか食べないんだろう?」
「基本的には。……僕は果物の甘みと木の実の食感が好きなので、今でも時々食べています」
 まるで悪戯が見つかった子供のように首をすくめていい、ナギはごまかすようにカップを口元に当てる。本当にコレがドラゴンなのかと驚く一方で、暁はその微笑ましい性格を一気に好きになっていた。
「そうだ。ナギ、字は読めるか?」
「ええ、読めますよ。……そもそも、人間に文字を教えたのは僕らドラゴンですから」
「そうなのか?」
 それは初耳だと目を丸くすると、紫水晶の瞳がやわらかく輝く。知らなくても当たり前だとうなずき、居住まいを正すようにカップをテーブルに置いた。
「まだ人間とドラゴンが……というより、人間と人間以外の生き物が仲良く共存していたときの話です。ドラゴンがこちらの世界に来なくなったのはざっと三千年ほど前です。その少し前に、人間がドラゴンに乞うて文字を教わりました」
「こちらでは、文字は天が人間に与えた知恵といわれているが……まさかドラゴンから教わったなどとは伝えられないか」
 人の歴史はどこかで必ず捻じ曲がって伝えられてしまう。それは仕方がないことだと分かっていても、真実の歴史が伝わっていれば、ドラゴンに怯えるということもなかっただろう。そう思うと、なんとも虚無感が胸に広がる。それを飲み込むように紅茶を流し込んだ。
「それなら、後で東雲に書斎を案内してもらうように言っておこう。私は読まないが、乳母やがよく読んでいる料理の本があったはずだ。シルベスティアの歴史書もある。興味があれば、暇つぶしに読んでみるといい」
「喜んで読ませていただきます。……あの、一つお願いがあるのですが」
「なんだ?」
「この邸では、笛を吹いてもかまいませんか?」
「ああ、皆休むのが早い老人ばかりだから、あまり遅い時間でなければかまわない」
 ドラゴンが笛を吹く。若干違和感を感じながらも暁は了承にうなずく。しかし、今は疑問を解決している場合ではない。そろそろ戻らないと、更紗が心配しているだろう。
「またゆっくり時間をとって戻ってくる。もし困りごとがあったら、東雲に手紙を渡してほしい。……字が読めるならかけるよな?」
「ええ、大丈夫です」
 にこやかにうなずくナギにほっとし、暁は紅茶を飲み干す。そしてあわただしく部屋を出た。扉の外から東雲と暁の会話がもれ聞こえるが、ナギはあえて聞かずにゆっくりと紅茶のカップを傾ける。甘いミルク入りのお茶を飲み、ナギは微笑した。その味が、友人に作ってもらったお茶とまったく同じ味で。そして表情を曇らせると憂いの顔で小さくつぶやく。
「彼女だから……こうなのですか?」
 何事にも一生懸命で、異端の存在である自分を受け入れようと必死になっている。
「君に聞いていた話と、ずいぶん違いますよ」
 誰かに問いかけるようにつぶやいても、もちろん返事は返ってこない。短い間しか一緒にいられなかった友人は、どこにもいないのだから。
「……紫苑……」
 ひっそりと友人の名をつぶやき、ティーカップにうつる自分の姿をみる。友人がいなくなってから、この自分をみるのは久しぶりだ。
 彼の名前と同じ紫の瞳。少しだけ見慣れない自分の顔が、まるで迷子の子供のように揺れている。
「もう一度、僕に人間の話を聞かせて下さい」
 ぽつりとつぶやいたその声音には、深い悲しみに彩られていた。
もう二度と会うことの出来ない友人の、静かな話し声が耳によみがえる。彼の話では、人間はとにかく野蛮。同族をためらいもなく殺し、強者におもねり弱者を虐げる。異端のものは決して受け入れずに、ただただ排除しようとするばかり。
 この世界で最初に出会った人間は、友人からきいた話とまったく同じだった。しかし、暁ときたらどうだろう。自分を怖がるどころか受け入れ、なんとか故郷に帰そうと躍起になっているではないか。
「どちらが、本当の人間なんでしょうね。君と、彼女が特異なのか、あの野蛮な人間が特異なのか」
 もしも、暁のような人間ばかりだったら、その時は――。
 迷うように瞳を揺らがせていると、控えめなノックの音が聞こえた。
「失礼いたします。ナギ様、お部屋のご準備が整いました。すぐにお休みになられますか?」
「あ、ええ。ご馳走様でした。とても美味しかったです」
 深々と一礼でナギに答え、東雲は無愛想とも呼べる表情でナギを二階へ案内する。もしかして突然の来客として歓迎されていないのだろうか。そんなことを考えていたら、東雲の口から意外な言葉が漏れた。
「暁様が男性のお客様をお連れするのは初めてでございます。どうぞ、暁様のよきお相手となって下さいませ」
「……え」
 驚くナギがなにか言い返す前に東雲はさっさと部屋を出てしまった。どうやら多大な誤解を与えてしまったらしい。
「……困ったな」
 どうがんばっても自分は彼女の「よき相手」にはなれない。それは種族が違うということもあるが、何より自分には使命がある。彼女を受け入れられるはずはない。
「…………本当に、困った」
 人間が、もっといやな奴ばかりだったら良かったのに。
 そう思わずにはいられない瞬間だった。





 あわただしくナギを邸にかくまってからはや五日。女王への報告やら迎春祭の準備、暖かくなるにつれて増える治安の悪化など諸々の対応にてこずっていたら、一度も私邸へ帰る時間がなかった。
「よし」
 最後の書類にサインを書き終えると、暁はペンを置く。凝り固まった肩と首を軽く動かしてほぐし、視線だけで辺りをうかがう。
 執務室にいるのは、いつもどおり自分と副官の更紗のみ。更紗は何やら調べ物をしているのか、熱心に本を読んでいた。仕事熱心なその姿に少しだけ罪の意識を感じるが、このままナギをずっと放置しておくわけにもいかない。暁は腹をくくるとわざとらしいまでに音を立てて立ち上がった。
「団長、今日はお帰りですか?」
 物音に顔をあげ、更紗は首をかしげて暁を見る。いつもは団員全員が帰るまで必ずといっていいほど執務室にこもっているのに珍しい。ほんの少しの好奇心を空色の瞳にのぞかせ、更紗は立ち上がって見送ろうかと腰を浮かしかけた。それを首を振ってさえぎると、机の上に散らばっていた書類を簡単にまとめる。
「ああ、すまないが今日ははずせない用事があるんだ。後のことは頼む」
ナギの一件は信頼できる更紗にも報告していない。ただ、安心できる場所に移送したとだけ告げた。
本当はきちんと伝えておくべきなのだろう。しかし、ただでさえドラゴンという異形の生き物に関することだ。更紗に限って取り乱したり口外することはないだろうが、どこから話が漏れるかわからないし、団員に無用の心配をかけるわけにはいかない。もし何かあったときに、自分だけが知っていたことならば一人で始末をつけることも責任を取ることも出来る。そう結論付けての行動だ。
「かまいませんよ。たまにはゆっくりして下さい。団長ときたら、休みの日でも執務室にこもりきりなんですから……」
 呆れたように笑って見送る更紗に、一瞬全てを打ち明けてしまいたい衝動に駆られる。しかし、話したが最後、きっと彼女は一般人――ノエル家の家人や、近隣の住民――を最優先に考え、ナギをどこかに閉じ込めてしまいかねない。
もしも自分が不可抗力で異界や異国にいってしまったときに、危険かもしれないからという憶測で拘束されてみたとしよう。確実に暴れる自信がある。何せ、自分は危害を加えるつもりは一切なく、そして暴れられるだけの力を持っているのだから。
 そう考えれば、ナギを不当に閉じ込めてしまうのは決して良策とはいえない。だからこそ自分だけの胸にしまっているのだが、心の奥底で果たしてそれだけの理由なのだろうかと問う声が時折聞こえる。それを無理やり押し込め、暁は更紗にあいまいな笑みを浮かべて部屋を出た。
 すれ違う団員に軽い挨拶を交わしながら、暁はナギのことを考える。
やたらと綺麗な声と穏やかなしゃべり方で、並の女性よりも綺麗な顔立ちの男。ひたすらに人畜無害にしか見えない、ドラゴンという生き物。知っていることといえば人間とは違う皮膚構造をしていることと、意外と甘いものが好きということ。まだ、それだけしか知らない。
そういえば、あの日、ナギを送り届けてそのまま中途半端に放ってきてしまった。いくら報告があったとはいえ、こちらの世界に詳しくないドラゴンを一匹放り出してきたようなものだ。東雲たちはきっとナギによくしてくれるだろうが、ナギ自身はどう思っているだろうか。何事も問題は起きていないだろうか。
いまさらながらに不安と焦りが募ってくるが、よくよく考えれば、ナギからも東雲からも手紙は届いていない。ならば大丈夫だろう。そう結論づけ、暁は足早に厩舎に向かった。
 騎士団の砦から邸までは馬で走れば一刻にも満たない時間でつく。暁はかなりの速度でリスティアを走らせ、いつもの半分の時間で邸にたどり着いた。
「暁様ー! お帰りなさいませー!」
 邸の門前で馬から下りると、ひょろりとした少年が走りよってきた。赤茶色の髪は鳥の巣のようにぼさぼさで、顔にはそばかすが浮いている。日に焼けない体質を嘆き、いつも顔を汚しているのが暁の悩みの種だった。
「紅葉、また顔を汚しているのか」
「僕はもっと男らしくなりたいんです!」
 むっとしたように言い返すその顔は、まだ幼さを十分に残している。背だけが伸びてひょろひょろしたニンジンのように感じるが、もう二、三年もすればすぐにがっしりとした体格になるだろう。そういっても紅葉はきかず、細長い手足をいつも気にしている。
「それよりも、お急ぎだったんですか?」
 珍しく額に汗を浮かばせている暁に首をかしげ、手綱を受け取る。たいてい昼間に帰ってくるときは、早駆けを楽しむような気分の主人にしては珍しい。
「ああ、すこし急用があってな。明日の昼までは邸にいるから、リスティアを頼んだ」
「喜んで! ……暁様はいつも砦にこもってらっしゃいますから、僕の仕事がないんですよ。せっかくこんな美人に会えたのに、僕はいつもいつも寂しいです」
「それはすまなかったな。ああ、それとこないだは夜中にすまなかった。助かったよ」
「いいえ! 愛しのリスティアのためなら、夜中に起きることくらいなんてことないです」
 満面の笑顔で鼻をこすりながら、紅葉はうっとりとリスティアの馬面を眺める。
 紅葉が大の馬好きで、とくにリスティアをかわいがっていることは周知の事実だ。リスティアも暁の次に紅葉を気に入っているようで、甘えるように鼻面を押し付けている。
 仕事も家も頼れる親族もいなくて、行き倒れていた紅葉を拾ったのはもう十年も前になるのか。ひ弱で体も弱く、いつも熱を出していた紅葉。自分には何も出来ないからと家を出て行こうとするのを何度も引きとめ、今はもう隠居した厩番の老人に預けた。もともと動物好きだったのだろう。すぐに馬の扱い方を覚え、また馬にも好かれる少年に育ってくれた。
 過去を懐かしむように紅葉を見ていると、紅葉はその視線に気づいたのかリスティアから顔を上げる。疑問の声を聞く前に、暁は首を振って暇を告げた。
「紅葉、頼んだぞ」
「はい!」
 元気一杯の少年に微笑を残し、暁は足早に前庭を抜ける。早咲きの花でにぎわっている花壇を楽しむ余裕もなく、少しだけ厳しい顔で扉を開けた。
「お帰りなさいませ、暁様」
 馬の足音を聞いていたのか、紅葉の声が聞こえたのか、しゃんと背筋を伸ばした東雲が迎え入れてくれる。うなずいて上着を預け、きょろきょろと辺りを見回した。
「ナギは?」
「ただいま千歳と一緒にお菓子作りをなさっております」
「…………なんだって?」
 千歳は長年暁に使えてくれている乳母だ。もういい年をした老婦人で、ノエル家の台所を一切取り仕切っている。その老婦人と何故客人――というかドラゴン――が一緒にお菓子作りをしているのか。
 思わずといった風に問い返すと、無表情でお世辞にも愛想がいいとはいえない老家令は再び繰り返す。
「ナギ様はお菓子作りをなさっております」
「………………そうか」
 それ以外なんとも答えようがなく、そして聞き間違えでなかったことに少なからずショックを受ける。
ドラゴンがお菓子作りとは、世にも奇妙なことが起こってしまった。いや、もしかしたらあちらの世界ではごくごく当たり前の光景なのかもしれない。
 そんなはずはないとわかっていても、無理やりそう納得させると大きくかぶりをふる暁。無言でいかがなさいますかと問いかける東雲に手を振ると、張り詰めていた糸が切れたように疲れがどっと押し寄せる。一瞬台所に殴りこみたい衝動に駆られるが、なんとか無理やり抑えると、暁は疲れた体を引きずって階段を上った。
 自室に入ると、行儀悪く応接室を抜けて寝室へ向かう。落ち着いた銀鼠色の壁紙に囲まれた部屋は、久方ぶりに帰って来た主人を歓迎しているようだ。
 靴を脱いできちんと整えられたベッドに体を投げ出せば、寝不足の体が心地よくほぐれていくのがわかる。暁好みにほんの僅かに炊かれた香の香りが鼻腔をくすぐり、睡魔を引き寄せる。それをなんとか押しとどめると、のろのろと体を起こした。
「ドラゴンが、お菓子作り。……なんだか、心配した私が馬鹿みたいだな」
 苦笑してつぶやき、今まで気をもんできたのはいったいなんだったのだろうと思わず首を傾げてしまう。
 深いため息をもらすと、結い上げていた髪をほどいた。ばさりと無造作に顔にかかる深紅のカーテン。幼い頃に亡くなった母と同じ色のこの髪は、そういえば兄のお気に入りだった。最後に頭を撫でてもらったのは、いったい何時だっただろうかと遠い記憶を思い起こす。
 暁には兄が一人いた。年の離れた兄だったせいか、暁をよくかわいがってくれて、自分もまた兄になついていたことを覚えている。兄はとかく穏やかな性格で、剣術も馬術も全く興味をもっていなかった。いつも木陰で本を静かに読んでいて、木の棒を振り回す暁をほほえんで見守っていてくれた。
 そんな兄に失望したわけではないだろうが、父は暁に剣と馬の師をあてがい、立派な騎士に育て上げた。母は少しだけ悲しそうな顔をしていたが、反対することはなかった。
 きっと兄の穏やかな性格は母に似たのだろう。父は酒を飲むと必ずといっていいほど、暁が男で兄が女ならよかったのにとつぶやいていた。特に、母が亡くなってからは頻繁に。
 もともと体の弱い女性だった母は、風邪をこじらせて暁が十五の誕生日を迎える前に亡くなった。兄は十六の誕生日を迎えた少し後に行方がわからなくなってしまい、父は二年ほど前に事故で亡くなってしまった。
 それからだ。公爵家として栄えていたノエル家はどんどんと没落し、今では暁のほかに東雲、千歳、紅葉、数名の下働きがいるだけだ。
 しかし、ノエル家は人であふれかえっていた時期がある。それは、暁が白薔薇の騎士団長に女王直々に下命されてからだ。
 訪れる者はすべて男性、いわゆる求婚者と呼ばれる者たちだ。しかし、どれも新興の貴族ばかりで、公爵という身分ほしさだと一目で知れて。剣か馬の試合で勝てたら結婚すると宣言したところ、誰一人勝てなかったという逸話がある。
 それをきいた更紗は「団長に勝つなんて無理がありますか」と怒っていたのだが。
 ふと、物思いを破るように応接室の扉がたたかれる。過去を断ち切るように髪を雑にくくると、応接室へでた。
「暁さん、ナギです」
「開いている」
 そもそもナギに会いに帰ってきたというのに、肝心の客人を放っておいてしまった。これでは本末転倒だと苦く笑う。
 静かに扉を開けて入ってきたその手には、ティーセット。千歳が用意してくれたのか、暁が愛用している白磁のカップだ。
 ナギをソファに招き、自分も向かい側に腰掛ける。かいがいしくお茶の準備をしているその姿はものすごく楽しそうで、手を出すのも申し訳なく感じてしまうほどだ。だからといって客人に全てさせるのはどうかと悩んでいるうちに、ナギが口を開く。
「さっき、千歳さんに教わって作ってみました」
 にこりと笑って悪びれるでもなくいうナギ。示されたそこには、さくさくと香ばしそうなクッキーが五つほど。添えられているのは宝石のようなイチゴのジャム。先ほどの力作なのだろう。どうぞ食べてみてくださいといわんばかりの満面の笑顔だ。
 見た目は千歳が作ったのと全く遜色がない。きれいなきつね色で、ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐる。だが、作った人物がドラゴンとなればまた話は別だ。暁が躊躇したのはほんのわずかな間。平静を装ったまま手を伸ばす。
「いただこう」
 別に毒が仕込んであるわけでもなし。千歳が教えたものだ。そう思うと、意を決して一つ口に入れる。
 さくさくとした食感にほろほろっとくずれる舌触り。甘さを押さえていて、暁の好みに仕上がっている。
「……うまいな。料理をしたことがあったのか?」
 職人が作ったとまではいえないが、素人が作ったにしては上出来すぎる。
もう少し幼いころ、千歳に教わって初めて作ったことがあったが、出来上がったものはところどころ黒こげで石のように固かったような。
 そんなことを思い出しながらナギに問いかけると、緩く首を振って否定される。
「いえ、初めて作りました。ずっと本を読んでいたら、千歳さんが教えてくださって。お菓子はこちらで初めて食べましたが、すごくおいしいですね」
 にこにこと心底楽しそうに笑ってナギはいう。
「向こうにいる友人にも食べさせてあげたかった」
 もう一つ、二つと手を伸ばす暁を少しだけ悲しそうに見つめ、ぽつりとつぶやかれた言葉。思わず手を止め、暁は不思議そうに首を傾げる。
「帰ったら作ってあげればいいんじゃないか? 何か作れない理由でもあるのか?」
「……そう、ですね」
 ナギはただうなずくことで曖昧にぼかし、暁は彼の言葉が過去形ということに気づけずに。訝るようにその悲しそうな微笑みを見つめるばかりだ。
 そんな微妙な空気を振り払うように、ナギはそういえばと話題を変える。
「何か用事があって帰ってこられたのではないですか?」
「いや、これというほどの用事でもないんだ。……慣れない場所で不便をかけていないか、心配になってな」
「心配……ですか」
 予想と全く違う言葉だったのだろう。紫の双眸をこれ以上ないというくらい大きく見開き、暁を凝視する。
 いったいこの人間は自分を本当にドラゴンだと認識しているのだろうか。それとも、ドラゴンが人間よりもか弱くて繊細だと思っているのだろうか。
 仲間のドラゴンにですらあまり心配された記憶がないナギにとって、暁の行動は理解不能に近い。しかし、なぜか胸にこみ上げる感情はそれと正反対に暖かくてうれしいものだ。こんな感情を覚えるのは、まだ母に守られていた幼い頃以来だ。
「私が心配するほどのことでもなかった気がするけどな。案外ドラゴンというのは適応力が高いのか?」
「……ええ、まぁ、どこででも暮らしていける種族ではありますから。特に僕たち水のドラゴンは特にそうですね。海水でも真水でも水の気があれば生きていけます。大地のドラゴン並に図太いかもしれませんね」
「水があればどこでもいいっていうのは便利だな。だが、その……ここには池や泉のようなものがないんだが、それでも大丈夫なのか?」
「僕は向こうで湖にすんでいましたから、ぜいたくを言えば湖の近くがうれしいです。けれど、毎日水……というか、ぬるま湯ですが、それをいただいているので、栄養不足になることはありませんので。心配無用です」
 水ならなんでもいいというと、節操なしのようにも聞こえる。しかし、人も食べられるものがあれば生きていくには不自由しないのだから、それと一緒なのかもしれない。
 一人でそう納得すると、暁はようやくほっとしたようにわずかに微笑んだ。その微笑は、大輪の薔薇が開くような艶やかなものではなかったが、庭の片隅に咲く小さな菫のようにかわいらしく。少し意外な気がして、ナギは思わず凝視してしまう。
「なんだ?」
「容姿よりも名前があなたを表しているのだなと思いまして」
「…………」
 真顔でそういわれると、なんと答えていいのかわからずにただ沈黙する。そんな恥ずかしい言葉を聞くのは、いつぞやの求婚者騒ぎ以来だ。
 なんとなく居心地の悪い思いをしながら、ごまかすようにカップを口に運ぶと、ナギは口はしをゆるめて思いの外優しい表情で暁を見つめる。それがまた面はゆくて、暁はさらに居心地の悪い思いをするのだった。



 管理者から知らせが届いたのは、約束していた十日よりもさらに三日遅かった。手紙には遅れてしまった旨をわびる言葉と、正直にナギがいつ異界に帰れるかわからないと几帳面な文字で記されている。
 その手紙を執務室で読みながら、どうしたものかと思案する。あと少しで迎春祭が控えている。そろそろ暁も指揮する立場として、いろいろとやらなければならないことが山積みだ。そうなれば、頻繁に邸に帰ることもままならず、それはナギを放っておいてしまうことになる。
 本来ならば、異界からの来訪者といえども暁がそこまで面倒をみる必要もない。過去にドラゴンがきたときは、まだ異界とのやりとりが頻繁だったこともあり、管理者が面倒をみていたようだ。しかし、現状を考えると管理者に頼むことは難しく――なにせ、時雨の年齢が年齢だ。ほかの管理者も同じような年齢の者ばかりだと聞いている――やはり暁が面倒をみる以外なさそうだ。このまま邸においておいても支障はないはずなのだが、どうしてか暁はナギが気になって仕方なかった。
「……砦に呼ぶしかないか」
幸いドラゴンといえども、今のところ暴れ出したりするわけでもなく、東雲の話によればたいてい書庫にこもっているらしい。ならば、砦に呼んでも別段悪さすることもなさそうだし、何より目が届くところにドラゴンがいるというだけで、安心感が違う。
 しかし、それはまず更紗に反対されるだろうことが簡単に予想できる。そして女王に報告と承諾が必要となる。そうなれば、すべての騎士団を束ねる黄金の薔薇騎士団団長にも話をしなくてはならない。芋づる式でつながってくる面倒ごとに、暁は思い切り顔をしかめてつぶやいた。
「……面倒だな」
 正直、黄金の薔薇騎士団団長は苦手だった。
 本来ならば女王の夫がその職に就くのだが、現女王はまだ十三歳の少女。前女王が病で早くに儚くなってしまい、今は前女王の夫、すなわち現女王の父がその職を担っている。
 暁が白銀の薔薇騎士団団長に就任するのに、彼の口添えが大変役に立ったことは事実だ。また、現女王が女王になるときも彼の一存で決まったといっても過言ではない。
だが、しかし。
「おおらかというか……大ざっぱすぎるのがな……」
 自分も几帳面とはいいがたいが、それに輪をかけて大ざっぱなのだ。考えているのか考えていないのかよくわからない。しかし、彼がすることに間違いが起こらないから誰も不思議に思わないし、それでいいと思っている。
「どなたがですか?」
 物思いに耽っていると、女性というよりも少女のようなかわいらしい声が聞こえ、カチャリと陶器がなる。ノックの音に気づかなかったのだろう。顔を上げれば空色の瞳とぶつかった。
「ありがとう、更紗。いや……黄金の団長殿が、な」
 透明な赤い紅茶は不純物が含まれていない証拠。まるで宝石を溶かしたようなそれをゆっくりと味わう。
 更紗のいれる紅茶は、彼女の几帳面さを現しているのか計ったようにいつも同じ味だ。五年も同じ味を飲んでいるせいか、千歳が入れてくれる紅茶と同じくらい舌になじむ。
「ああ、葉月様ですね。確かに豪放磊落というか……おおらかな方ですね」
 若干苦笑気味にいうのは、やはり苦手なのだろう。特に更紗は、几帳面すぎるほど几帳面だからか。実際、葉月にサインをもらいにいったときもろくに書面も読まずに適当に処理されたらしい。
彼曰く、更紗は何でもきっちりとこなしているから自分が改めて確認する必要はないそうだ。信頼されているのか単に面倒くさがりなのか計りかねるところだとぼやいていたのを思い出す。
 紅茶を半分ほど飲み終えて、暁はどう切り出したものかと思案する。先に女王や葉月を説得してから更紗にいってもいいのだが、事後承諾では絶対に遺恨が残ってしまう。先に難物を終えた方が楽だろう。逆に言えば、更紗がうんといってしまえば、葉月たちはむやみに反対しない。
 そう意を決して更紗を探すと、パタパタとせわしなく動いていた姿が止まっている。どうやら書類を探しているようだ。
 壁に備え付けられている書架はかなりの高さがある。背の低い更紗は少し背伸びをして目当ての書類を探しているようだ。
 いつも彼女がここを整頓してくれているのだが、暁が時折乱雑につっこんでしまうため、探すのに苦労をかけてしまう。何度いわれても直らない自分の癖をどうやらあきらめてしまったらしい。
「どれがほしいんだ?」
「昨年の迎春祭の記録を探しているんです」
「あれなら……」
 確か自分もそれを確認して、どこにしまったか。
 短い思考で思い出す。確か、書架ではなく引き出しにしまったような。
「すまない、こっちだ」
 思い当たって引き出しをあければ、案の定記録がでてくる。更紗が形のよい眉をつり上げ、怒りの言葉を吐く前に先手を打った。
「それより、話があるんだ」
「……なんですか」
 むすっとした口調でいうと、ため息をついて怒りを逃がす。大きく頭を振った瞬間、肩口で切りそろえられた薄い茶色の髪がさらりと揺れた。どうやら怒ることをあきらめたらしい。
「少し長くなる……かもしれない」
 そう前置きすると、執務机から少し離れたところにある長椅子へ更紗を呼ぶ。冷たくなったティーカップを未練たらしくもって向かい側に腰掛けた。
「回りくどいのは面倒くさいから、単刀直入にいう。ドラゴンを西の離れへ収容したい」
「西の離れ、ですか」
 騎士団の砦は、上から見るとひし形に見える。東西南北に塔が建ち、基本的にすべての塔は通路で直結していて扉で区切られている形だ。その中で東と西の塔だけが渡り廊下でつながった離れがある。
 北と南の塔は馬番や料理番、下働きのものたちが住む塔となっており、東と西は黄金と白銀の騎士団員が仕事場として利用している。
 騎士団員はたいがい私邸を持っているため、基本的に団員の数は昼間に多く、夜になると皆それぞれの邸へ原則帰ることになっている。しかし、宿直や暁のように泊まり込みで仕事をするものたちのために西の離れは存在していた。
 では東の離れはというと、主に王族が利用する場所だ。特に現女王はまだ幼く、そして葉月が目に入れても痛くないほどかわいがっているため、ほぼ女王専用といっても過言ではない。もちろん、宿直や仕事で団員が利用することは可能だが、あまり利用したがらないというのが現状だ。
「理由をお聞かせねがえますか?」
「管理者から、ドラゴンが異界に帰れる日がわからないと連絡がきた。現在隔離している場所は、私の目がなかなか行き届かない。西の離れならいつでもドラゴンの確認ができるから、というのが理由だ」
 正確には理由の一つだ、と心の中で付け加える。
 たぶん、自分は彼に興味を持っているのだろう。本を読むのが好きで、千歳に料理を教えてもらい、全くと言っていいほど無害なドラゴンに。今までイメージしていた異界の者、しかもドラゴンという凶悪なイメージが音を立てて崩れ落ちてしまったのだから。
「もう決めてしまっているのでしょう?私がどうこういえるわけもありません」
 少しだけすねたような声色は昔から変わらない。結局、更紗は暁に甘いのだ。そして暁はそれを知っているから、甘えてしまう。
「ありがとう。更紗も一度ドラゴンと話をしてみるといい。イメージがかわるぞ」
「……機会があれば」
 むすっとした口調でいい、お話はそれだけですかと目で問う。うなずく団長にそれならと口を開いた。
「私からもお話があります。迎春祭の騎馬舞踏なんですが、やはり団長に指揮していただくことはできませんか?」
 迎春祭の花形ともいえる騎馬舞踏は、代々副団長が先頭に立つしきたりだ。白銀の薔薇騎士団は、本来女王を警護する特別職。団長は女王の隣に常に控えていなければならない。
「難しいな。更紗なら十分先頭に立てるとは思うが、どうしてだ?」
「今年は先の女王陛下の喪が明けて初めての迎春祭となります。団長が騎士団長に就任してから、初めての、です。……女王陛下の隣には、今年は葉月様が控えられるのでしょう? そうなれば……」
 必然的に葉月に目がいき、暁は影のように目に入らなくなってしまう。本来ならば、ノエル家の公爵令嬢として羨望の的になるはずだったのに。それが、騎士団長としても公爵としても注目を集められないことが悔しい。
「そんなことを気にしていたのか? そもそも、私は注目を集めることが面倒くさい。目立たないならそれにこしたことないぞ?」
「ですが……」
 少しだけ呆れ気味の口調でいうと、更紗はすねたように唇を尖らせる。あからさまに不満の見える表情で暁を上目遣いで見上げた。
まるで子供が駄々をこねているような仕草に苦笑し、暁は少しだけ残っていた紅茶を飲み干す。かすかな音を立ててティーカップを置くと、諭すようにまっすぐ副官に視線を向け、わざと厳しい声で言葉を紡いだ。
「例年通り、私は女王陛下のおそばに控えている。……陽向様には幸い好意を持っていただいているし、葉月様にもよくしていただいている。かえって王族のおそばから離れているほうが目立つかもしれないしな」
 毎年白銀の薔薇騎士団副団長が指揮する騎馬舞踏。それが今年に限って団長が指揮したとなれば、副団長の資質に関わってくる。そして、黄金の薔薇騎士団団長や女王陛下の信頼厚い白銀の薔薇騎士団団長が指揮を執ったとなれば、何事が起きたと逆に注目を浴びてしまうことになるだろう。
 暗にそのことを含ませていえば、更紗は少しだけしょげたように肩を落とした。諦めの表情でうなずく。
「……わかりました。それで、ドラゴンはいつ離れに? 皆に伝えますか?」
「皆には私の客人とだけ伝えてくれるか? よけいな騒ぎを起こしたくない。陛下と黄金の団長に了解をいただいてから準備をするとして……三日後には移送したい」
「了解いたしました。では、三日後にくる旨を告知いたしまして、手の空いてる者に離れの準備をさせましょう」
「頼んだ」
 そういう細かな采配は更紗に任せておけば間違いない。琥珀の双眸を少しだけゆるめて、よくできた副団長に感謝する。
「これから黄金の団長と陛下に目通り願ってくる」
 更紗にあっさり了解を得られたことでだいぶ気分が楽になった気がする。一度大きくかぶりをふると、まるで出陣するような気持ちで部屋を後にした。



 まずは黄金の団長から先にと東の塔へ向かうと、偶然か必然か、女王とともに離れにいると教えてもらった。歓談中にじゃまするのは申し訳ないからしばらく待つといえば、逆に二人から招待されてしまう。そうすれば断るすべもなく、やや緊張ぎみに東の離れへ赴いた。
「白銀の薔薇騎士団団長、ノエル・暁です」
 扉の前で深呼吸してから名乗ると、幼い子供特有の甲高い声で入るようにいわれる。もう一度深呼吸してから意を決して扉を開ければ、膝のあたりに勢いよく何かがぶつかってきた。
「暁! あいたかったぞ。なんでもっとマメに会いに来てくれないのだ!」
「……陛下、はしたないですよ」
「いいのじゃ、どうせここには父上と暁しかいないのだから。それから、誰もいないときは陽向と呼ぶようにいつもいっておるじゃろ!」
 ぷくっとほっぺたを膨らませて暁をみるのは、まるで動く人形のように可愛らしい少女。
 ふわふわと細かく波打つ髪は日の光を凝縮したような金色。そばかす一つないなめらかな白い肌、熟れたサクランボのように艶やかな小さな唇。暁にあえてよほどうれしいのか、頬は薄紅色に上気し、碧玉のような双眸は喜びに輝いている。くるぶし丈の淡い藤色のドレスがしわになるにも関わらず、暁から離れようとはしない。
「陽向様。このままでは歩けませんよ」
 やや苦笑気味に名前を呼べば、陽向はようやく暁を解放する。そして街中にいる子供のように暁の手を握ると、早く早くとソファへ導いた。その手をソファ手前で優しくはずすと、少しだけ機嫌を損ねた陽向は唇をとがらせて父の隣に座る。
 並んで座る姿は、正直あまりにていない。葉月は明るい茶色の髪に、森の緑のような双眸。陽向の金の髪や湖のような碧の瞳は亡き女王――母に生き写しのだ。それでも時折見せる仕草や、しきたりごとを厭う性格は父譲りなのだが。
 暁は気分を切り替えるように大きく息を吸うと、すっとひざまずいた。
「我らが太陽、シルベスティア・ルクル・エル・陽向女王陛下並びに、黄金の薔薇騎士団団長シルベスティア・ルクル・ファド・葉月殿下。お目通りをお許しいただき、光栄でございます」
「相変わらず暁は堅いなぁ。もっと気楽にしたらどうだ? 少しは眉間のしわがへるぞ?」
 楽にしろと、笑い混じりで葉月が告げる。あまりの軽さに毎回毎回形式を重んじている自分が間違っているような気さえしてくる。重いため息を一つもらして何か言い返そうとする前に、可愛らしい声に気勢をそがれた。
「暁、わらわの隣に座るのじゃ!」
「……失礼いたします」
 女王自らにいわれてしまえば、それに従うしかない。軽い頭痛を覚えながらもう何度目かのため息を飲み込み、指定された陽向の隣に浅く腰掛ける。その横で、いそいそとうれしそうに、けれど優雅な手つきで暁の分の紅茶をいれ、自分用に料理長が手がけたクッキーやマカロンを取り分ける。さぁ食べるのじゃ! といわんばかりの満面の笑みをみせられれば、甘いのが苦手と逃げきることもできない。
「いただきます」
 なるべく甘くなさそうなバタークッキーを控えめにかじり、少し渋めの紅茶で流し込む。いつも陽向がいれる紅茶は少し濃いめで、どうやらそれが彼女の好みらしいということは最近判明した。
「で、どうしたんだ? 暁が東の離れにくるなんて珍しいな」
「先日ご報告したドラゴンの件なのですが」
「ドラゴン! 暁はみたのか? 翼はどんな形じゃ? 色は? 炎を吐いたり雷を呼んだりするのか?」
 最近侍女にせがんでいるドラゴン退治の物語がどうやら陽向のお気に入りらしく、葉月が何かいう前に勢いよく口を挟んでくる。あまりのきらきらした期待の眼差しに、暁が知るドラゴンを語るのをためらってしまいそうだ。しかし、これはおとぎ話でもなんでもなく、現実だ。たとえ陽向の可愛らしい夢を壊してしまっても、伝えねばならない。
「残念ながら、私はまだドラゴンの姿を見ておりません。ナギは――ドラゴンは、常に人の形で存在し、趣味は……その、読書と料理のようです。なんでも、甘いものが好きだとか」
「読書に、料理」
「甘いものが好き?」
 笑うべきかこらえるべきか迷った妙な表情で葉月がつぶやき、陽向は明らかに夢を壊されたショックで顔がひきつっている。先に立ち直ったのはもちろん葉月。
「で、そのドラゴンが?」
 それだけを聞く限りでは、悪さをしている感じはしないが。
 そう暗に含ませていうと、暁は軽くうなずく。
「管理者殿から、ドラゴンがいつ異界に帰れるかわからないと手紙が届きました。つきましては、西の離れに移送したいと思うのですが、その許可をいただきたく」
「ふむ……。ノエル家から何か苦情でも?」
 にやりと意味深に笑いかけ、葉月はまっすぐに琥珀の双眸を見つめる。葉月の深い緑の眼差しは、言葉の裏を読めと訴えていて。暁はゆっくりと一つ瞬きをしてそっと目を伏せる。
「はい。我が家の家令から少々苦情が」
「東雲が何かいったのか?」
 口元まで持ってきていたティーカップを寸前でとめ、陽向は不思議そうに問いかける。
 シルベスティアの中でも古参に当たるノエル家は、まだ没落する前は王家と親密な関係にあった。暁の父が存命の頃、ほんの二、三年前までは陽向もお忍びと称してノエル家に遊びにきたこともある。普段は暁にすら無愛想な東雲が、唯一陽向にだけは笑顔を見せたことにひどく驚いたことは本人には内緒だ。
 ともかく、陽向はノエル家の無愛想な家令がたいそうお気に入りで、まさか東雲がと若干傷ついたようだ。
「陽向、そうではない。暁の……白銀の薔薇騎士団団長の一存では、有害なドラゴンを王家に近い砦に移送することはかなわない。けれど、一般人……というか、世間的に苦情がくれば騎士団としては受け入れざるを得ないということだ。ま、建前だがな」
「むぅ……。なんだかややこしいのぉ。それほどまでに暁は……白銀の騎士団長は権限が低いのか?」
「たとえこれが、葉月様の一存であっても建前というものが必要なんですよ」
 まだ幼く無垢な女王には少し難しいらしい。唇をとがらせてすねてしまった陽向に、暁は柔らかな微笑を浮かべる。
「ただ、騎士団員にはドラゴンではなく、客人ということにしていただきたいのですが」
「ああ、それがいいだろう。ノエル家にかくまわれているというのもごく一部の人間しか知らないからな。下手に混乱を起こすこともあるまい。更紗は承知しているのだろう?」
「はい。お気遣いありがとうございます」
 やはり更紗に先に話を通しておいてよかった。
 そっと安堵の息をもらし、少しさめてしまった紅茶を一気に流し込み、暁は席を立つ。
「では、離れの準備が出来次第ドラゴンを移送いたします」
 表情を改めて報告し、そのまま部屋を後にしようとする。しかし、当然といった風に陽向に止められてしまえば、暁に抗うすべはない。
「もう少しドラゴンの話を聞かせてくれぬか?」
「ああ、俺も聞きたいな。料理好きで読書好きなドラゴン。いったいどんな奴だ?」
 父子に好奇心たっぷりの眼差しで問いかけられ、暁は諦めのため息を漏らす。
 かくして。気をもんだ更紗が迎えにくるまで、ドラゴンを知るという名目のお茶会は続いたのだった。





 葉月と陽向に了承を得た翌々日。離れの準備が整ったことを確認し、暁は私邸に戻った。道中なんといってナギに説明するかを考えていたが、どうにもうまくまとまらない。そもそも、回りくどい言葉や説明が暁は苦手なのだ。いつも単刀直入に言っては、更紗いわく敵を増やしているらしい。もちろん、そんなつもりは皆無なのだが。
 いつもよりもやや時間をかけて邸につくと、暁は紅葉に馬を預ける。考え事をしている主人に気を使ったのか、紅葉はとくに話しかけるでもなくただリスティアを預かって見送った。そんな小さな気遣いに心の中で感謝しつつ、暁は邸に入る。
出迎えた東雲にナギの居所だけ尋ね、そのまま上着も脱がずに二階の書庫に向かった。
「さて……なんといったものか」
 重厚な樫の扉の前にたたずみ、暁は思案する。道中あれほど考えたというのに、結局上手な言葉はみつからなかった。
改めて伝えたいことを頭の中で整理しても、管理者からもらった手紙の内容と砦にきてほしいということだけしか思いつかない。たったそれだけなのだが、やんわりと伝える言葉が見つからず、つくづく自分の単刀直入な性格がイヤになる瞬間だ。
 重いため息をもらし、扉をたたこうとして手をあげてはおろすという無駄な行為を何回か繰り返していると、笑い混じりの少し低い声が扉の奥から聞こえた。
「暁さん、開いていますよ」
 軽やかな楽器のように響く美声。その声を聞いただけで、ふっと心が軽くなったような錯覚まで感じる。
「……いつから気づいていたんだ?」
 ノックすることをあきらめ、暁は無造作に扉を開けた。少し奥まった窓辺にナギは座っていて、読みかけの本はしおりを挟んで閉じられている。
「帰ってきたときからですね」
 そういって窓の外に視線を投げると、そこからは前庭が見渡せるほど見通しがよい。書庫にはいるのはかれこれ何年ぶりだったかと遠い記憶を呼び起こしつつ、そういえばここからは父が帰ってくるのがすぐにわかったのだと苦く笑う。
「座っても、いいか?」
「ええ、もちろん。ここは暁さんの邸なんですから」
 少しだけ笑い混じりでいうナギに苦笑し、暁はナギの向かい側に座る。春めいた暖かな日差しが暁の深紅の髪を照らし、ナギは少しだけまぶしそうに目を細めた。
 会話の糸口を探して視線をさ迷わせる暁を見つめながら、ふと、ナギの表情が優しくなった。何かを懐かしむように表情を和らげ、無言で暁を見つめる。その視線に気づいたのか、暁は軽く首をかしげた。
「その……何の本を読んでいたんだ?」
 すぐに用件を伝えるにはまだ心の準備が足りず、暁は視界に入った本の話題をふる。ナギは裏返っていた本を手に取ると、どうぞと暁に差し出した。
「料理研究書?」
「千歳さんに教わっているんですが、なかなか奥深いですね。お菓子なら生地のこね方一つ、混ぜ方一つで味も食感もすべてが変わってしまいます。ほんの少し分量を間違えてしまえば、あっという間に丸焦げになってしまいますから」
「確かにそうだな。一度千歳と一緒に作ったことがあるが……あれは食べられるものじゃなかったな」
 たしか、まだ十にもならないころだったか。兄の誕生日にどうしても自分でケーキを焼いてみたくて、千歳にねだったのだ。簡単なパンケーキだったはずなのに、外は真っ黒なかは生焼けという初心者にはありがちな結果になってしまったが。
 それ以来作ったことがないと苦い顔をしていうと、ナギはおかしそうに首を傾げて暁をみる。その瞳はなぜかとても優しくて。東雲か千歳から、小さいころの話でも聞いているのかと渋い表情をすると、ふっとナギが視線を逸らす。
「……僕の友人は、なんでも器用にこなしていまいた。数少ない材料からとても美味しいものを作り出したり、僕の驚く顔が面白いからなんていって、見たこともないものを食べさせてくれたんです」
「その……ナギの友人は、ドラゴンではないのか?」
「ええ。……人間です」
 遠慮がちに問いかけた暁に、ナギは俯いたままつぶやいた。意外な答えに目を丸くし、暁はどうやって人間と知り合ったのだろうかと疑問に思う。けれど、そんなぶしつけな問いかけをしてもいいのか悩み、結局口をつぐんだ。
 なんとなく居心地の悪い沈黙があたりを包み込み、けれどそれを払拭するすべを暁は知らないまま。何か会話をしなければと焦る一方で、何も言葉が出てこない。葉月や更紗に言われていたとおり、社交辞令の練習を少しでもしておくべきだったかとほんの少しだけ後悔する。もちろん、後に悔やむから後悔であって、今どうにかなるものではないのだが。
「……友人は、どんな人間だったんだ?」
 搾り出すようにようやく問いかけると、ふわりとナギが微笑んだ。あまりにも無邪気で嬉しそうな微笑に、なんとなく胸の奥がちくちくする。
人間をまったく知らないと思っていたドラゴンが、自分よりも親しい人間と一緒にいたという事実に対する嫉妬。勝手に感じていた優越感が粉々に砕かれ、そしてそんなことを考えていた自分にめまいがするほど嫌気が差す。
「そう、ですね。……とても穏やかな人間で、争いごとを極端に嫌っていました。なんでも器用にこなすのに、誰かを傷つけることをいとって、身を守ることさえしない。そのくせ、実は頑固で、言い出したらてこでも動かないような、そんな人間でした」
 不意に、すべて過去形で言われていることに気づいた。しかし気づいたからといってなにもかける言葉が見つからずに、このまま気づかないふりをすべきなのか迷ってしまう。そんな暁の戸惑いに気づいているのかいないのか、ナギは俯いた。
「とても、とても大切な友人でした」
「……すまない」
 聞いてはいけないことだったのかもしれない。それほどまでにナギの口調は哀しみに満ちていて、暁は心のそこから申し訳なく思う。
 もしかしたら、泣きそうな声だったのかもしれない。はじかれたようにナギは顔を上げ、少しだけ悲しみの残る表情で首を振る。
「いいえ、あなたに、聞いていただきたかったから。……なにも、感じませんか?」
「何がだ?」
 問いかけられた質問の意図が分からず、訝るようにナギを凝視する。そのまっすぐな視線から逃れるように、ドラゴンは視線をそらした。
くくらずに背に流された長い髪がさらりと揺れ、その表情を隠してしまい。日の光の下で紫の宝石をみることができないのが、至極残念に思えた。
「……あなたは、決して視線をそらさない。まっすぐに見つめてくる。そんな仕草が……よく似ていますね」
「……誰にだ?」
 ぽつりと落とされた言葉。そこには深い悲しみと親しみとが混ざりあう、不思議な響き。なんとなく、聞くのが怖くて。一瞬この場所から今すぐ立ち去りたい衝動に駆られる。それが何故なのかわからないまま、暁は落ち着きなく身じろぎした。
 沈黙は一瞬なのか永かったのか。それがわからないまま、ナギの声が耳に飛び込んできた。
「僕の友人……あなたの、お兄さんに、です」
「な……」
 唐突な告白に、暁の思考は真っ白に停止する。
 なぜ兄を知っているのか。そもそも、友人というのはどういう意味なのか。いったいいつ知り合って、いや、その前にどうやって兄は異界にいったというのだろう。
 いろいろな言葉が頭の中をぐるぐるとかけめぐる。しかし言葉はでてこずに、ただナギを凝視した。
「あなたのお兄さん……紫苑と知り合ったのは、僕たちの暦で三年ほど前のことです」
 あえて暁に視線を向けず、ナギは窓の外を見ながら懐かしむように言う。もしかしたら、記憶の中の兄に語りかけているのかもしれない。
「三年……」
 もう、兄に会えなくなってもうすぐ十年を数えるころだ。こちらの世界と異界では時間の流れ方が違うのが、少しだけ恨めしい。三年前ならば、まだ兄の顔も声も、鮮やかに覚えていただろうに。
「ちょうど僕がそのころすみかにしていた湖岸に、倒れていました。人間をみたのはそれが始めてで……最初は何かと思いましたよ」
 くすりと思い出し笑いに頬をゆるませ、ナギは暁に視線をむける。光にきらめき、金色に見える暁の双眸は、戸惑いに揺れていて。その眼差しから逃れるようにそっと瞼を伏せると、大切な記憶のページをめくるようにナギは静かに語りだした。
「紫苑から自分は人間で、この世界ではないところからきたといわれました」
 彼は、穏やかな口調でたくさんのことを語ったという。自分がいた世界のこと、人間のこと、家族のこと、特に大事な妹が心配だということ。
 どれくらい語り合っただろうか。紫苑の話は、初めて聞くことばかりでナギはまるで子供のようにもっともっとと話をせがんだ。それほどまでに、異世界の話は興味深くて面白かった。
そして同じように、紫苑もドラゴンの話を聞きたがった。ドラゴンのこと、精霊のこと、魔法のこと。二人はまるで子供のように幾晩も語り合った。
「紫苑は昔からドラゴンや精霊に興味があったようで、いろいろなことをたくさん聞かれました。そして、僕に人間の姿になれないのかと聞いてきましたよ」
「……兄様は、ドラゴンが人間の姿になれるのをしっていたのか?」
「古い文献で呼んだようですね。僕は知らなかったので、すごく驚きました」
 その時のやり取りを思い出したのか、ナギの顔に穏やかな微笑が浮かぶ。それが少しだけうらやましくて、暁はごまかすように続きを促した。
「何度も紫苑に頼まれましたが、最初僕は嫌だと拒みました」
 人の姿になることにものすごく抵抗があったのだ。なにせ、目の前の小さな人間は翼もなければ爪もない。丈夫な鱗もなくて大きさはドラゴンの十分の一くらいなのだから。
 けれど、ナギはだんだんと自分の巨体が邪魔に感じるようになった。なぜなら、もっと間近で紫苑と話をしたいのに、大きな体ではそれもままならない。そして決心した。人間の姿に変わることに。
「人間を見たことがなかった僕は、紫苑と瓜二つにしかなれなくて。でも、それは紫苑が嫌だといいました。……鏡に向かって話をするようだと。僕には僕にしかない姿があるから、自分の姿を真似するのはやめてくれって頼まれました」
 人間をみたのは初めてで、彼以外参考にするものはなかった。けれど、そうしてしまえば彼と瓜二つになってしまう。それは紫苑から拒否されてしまい、結局は紫苑が考えてくれた。
「紫苑は、僕に絵を描いてくれました。本当に彼は器用で、ドラゴンの姿からこの姿を想像してくれたんです。きっと、人間になったら君はこんな姿だろうって」
「兄様が、考えた……?」
 今きている服は、たぶん父のものだろう。兄はそれほど背が高くなかったし、今の暁よりも若いときにいなくなったのだから。
 父が好んでいた渋い栗色の服は、あまりナギには似合わない。たぶん、父の髪が明るい茶色でナギの髪が柔らかな闇色のせいだろう。そして、その服に全く似合わない額のサークレット。はずしてはいけないものなのか、はずさずにしているだけなのかはわからないが、今のその姿には浮いていて似合わない。
 まるでナギのいうことを拒否するようにまったく違うことを考えていると、ほんの少しだけ形のいい唇が微笑をかたどる。そして暁から視線を逸らすと、幼子に語るように言葉を紡いだ。
「ドラゴンの姿から人間の姿を想像するのは、なかなか難しかったみたいですね」
 なかなか思うようにいかずに、三日三晩考えてようやくこの姿ができあがった。二人ともへとへとに疲れていたが、その夜は最高にうれしくて夜通し笑いあったのをよく覚えている。
 人間の姿に変われるようになってからは、ナギは常にその姿で行動した。紫苑といっしょに同じものを食べ、同じように歩き、同じように眠る。生まれて初めてできた友人と一緒にすごすのはとても楽しくて、心踊る日々だった。
「こちらにこれたのは、とても幸いでした。一度人間の世界……紫苑がいた世界がどんなところか、きてみたかったんです。……あなたに会えるとは思ってもいなかったし、予定外のことですが……」
「予定、外?」
 紫苑のことを語ったときとはまるで違う冷たい表情。先ほどの柔らかくて暖かな微笑は嘘だったのかと思えるほどに。
「いえ、こちらのことです。……お茶をいただいてきますね」
 なんでもないと緩く首を振ると、ナギはかたりと椅子を引く。まるで暁から逃げるような行動だが、混乱している彼女はそこまで気を回す余裕がない。機械的にうなずき、ナギを見送る。そしてぐちゃぐちゃに混乱した頭を抱え、俯いた。
「兄様……」
 唐突に、忘れていた記憶がよみがえる。
 兄が出かけてしまった最後の日。おみやげを買ってくるからいい子で待っていなさいと穏やかに告げた兄。男にしては繊細な手で頭をなでてくれたその感触。
 予定の日にちになっても帰ってこない兄。
雷が激しくなって、雨がひどく降っていて。
混乱したような、愕然としたような顔で一人戻ってきた御者。
見つからない兄。
土砂降りの中空を見上げて歯を食いしばる父。
「……ああ……」
 不意に目頭が熱くなり、あの日から流したことのなかった涙があふれてくる。こらえきれない嗚咽をこぼし、今が一人でよかったとどこか冷静な自分が考えている。
 きっと、兄はもう帰ってこないのだろう。自分の元へも、この世界へも。
 どれくらい一人で泣いたのか。はれて熱を持つ瞼を冷えた指先で押さえても、元に戻る気配はない。
「暁さん、入りますよ」
 頃合いを見計らってきてくれたのだろう。静かに扉を開けてナギが戻ってくる。その手には湯気の立つティーカップと糖衣のついた揚げ菓子。なんとなく気恥ずかしくて、暁はうつむいてしまう。
「千歳さんに教わった最新作です」
 おどけ混じりにいい、暁とは反対側の正面に座る。
無言で紅茶を一口のみ、暁には甘いと感じる揚げ菓子をそっとかじった。今は、この甘さと優しさがありがたい。
「兄様のこと、教えてくれてありがとう」
「……大したことではありませんよ。それよりも、何か用事があって帰ってこられたのでは?」
 すこしだけ悲しそうな微笑を浮かべてナギは首を振る。そういえば、と暁は思い出したように顔を上げた。少しだけためらったあと、言葉を飾っても仕方がないと腹をくくる。単刀直入にしか話すことのできない自分を、少しだけ情けなく思いながら。
「管理者殿から連絡があった。……異界の扉が開く日は、わからないそうだ」
「そう、ですか。……わかりませんか」
「すまない。管理者殿には、私からわかるまで調べるように頼んでおこう。それで、その日まで申し訳ないが砦にきてほしい」
「砦?」
「ああ、薔薇騎士団が在中している砦だ。客人として、滞在してほしい」
「僕はどこでもかまいませんよ。あなたの都合のいい場所で」
 少しだけ口端をゆるめ、穏やかにうなずく。その言葉にほっと安堵し、暁も表情をゆるめた。
「少し、失礼します」
 不意打ちのように形のよいナギの指が暁の眼前にくる。おもわずのけぞった体を追いかけるように、男にしては長い指先が瞼に触れた。
 ひんやりと水を当てられたような感覚。それは十秒と続くことなく離れる。
「なにを、」
「はれていましたから」
 暁が怒声をあげる前に、ナギは静かに告げる。光に反射する紫の双眸が悪戯にきらめき、暁の動揺をまるでからかっているようで。けれど、声音だけはなんということもなく平然としているから、怒るに怒れない。
「……ありがとうと、いっておくべきか?」
 憮然として口を開けば、ナギが声を立てて笑った。その笑い声が余りにも軽やかで、怒りを継続させるのが難しく、結局暁も苦笑を漏らす。
「それで、いつから移動すれば?」
「できれば明日の夜からでも」
「わかりました。支度するものなど特にないので、いつでも大丈夫ですよ」
「突然ですまない」
 当たり前のようにうなずくナギに、逆に暁の方が心苦しくなってしまう。そんな彼女にドラゴンは一瞬苦しそうに眉根を寄せる。けれど暁が気づく前にすぐにいつもの表情に戻し緩く首を振った。
「あなたが気に病む必要はありません。僕はこの世界の居候ですから。……それに、近くの方が都合がいい」
 口の中でつぶやかれた言葉は暁に届かず、暁はただありがとうと微笑んだ。



 二人が砦に戻ったのは、ちょうど夜と昼の境目の時間。騎士たちはばたばたとあわただしく動き回り、こっそりと戻ってきた団長と客人には気づかない。それを幸いにと、暁は誰に挨拶することもなくナギを離れに案内する。
「狭くて申し訳ない」
 がたついた薄い木の扉を開けると、簡素なベッドがひとつ壁際にあり、小さな丸いテーブルと椅子が部屋の中央に鎮座している。ベッドと反対側の壁には小物が入るだけの小さな作り付けの棚が一つ。
はめごろしの大きな窓のほかに、バルコニーへ続く両開き窓があるおかげで、さほど狭くは感じない。それでも、暁の私邸とは比べものにならないくらい質素な部屋だ。
「東の離れはこの間改装したんだが、こっちは使う者が限られていて昔のままなんだ。もし入用なものがあったら遠慮なくいってくれ」
「もし迷惑でなければ、お水を毎日いただけませんか?」
「わかった、用意しよう」
「ありがとうございます。それだけで十分ですよ」
 どうやら、基本的にこのドラゴンは必要最低限あれば満足する性格のようだ。異界がどんなところかわからないが、人の手が入らない分自然に近いのだろう。
そんなところで兄はどうやって暮らしていたのだろうか。もし機会があるなら聞いてみたいが、今はそれよりも目の前のドラゴンのことを知りたい。
「……少し、話をしていいか?」
 ナギを椅子に誘うと、自分はあいているベッドに腰掛ける。少しだけ琥珀の瞳を揺らめかせ、ためらいがちに口を開いた。ナギは答えずに、視線だけで促す。
「前に少し話してもらったが……貴殿は水のドラゴンなのだろう? 水のドラゴンとはいったいどんな種族なんだ?いろんなドラゴンの種族がいるのか? ……その、ドラゴンも異界も、正直おとぎ話としか思っていなかったんだ」
「異界と交流がたたれてから、あなたがた人間にしたら長い時間がたっていますからね。仕方ありませんよ」
 ふわりと微笑むと、ナギは立ち上がり窓辺へ向かう。締め切られていた窓を開ければ、少し冷たい夕方の風が吹き込む。まだ春にはなりきれていない、冬の風。冷たいそれもドラゴンには心地よいのか、ナギは大きく呼吸する。
「そうですね……水のドラゴンは、黒龍と呼ばれています。僕もそうですが、全身が黒い鱗に覆われていて、基本的に水の近くにいれば生きることができる種族です。他には、大地、炎、風のドラゴンがいますが、ドラゴン同士で交流はあまりありません。特にドラゴンの中でも黒龍は好戦的で野心が強く、頂点に立ちたがるところが多い。……他の種族と会えば、いつでもけんかしているような種族ですね」
 ようするに、なんでも自分が一番でなければ気が済まないのだろう。人間にもにたような性格のものは多いので、なんとなくイメージがつかめる。しかし、ナギとそのドラゴンの特性を結びつけることは難しい。その疑問を読みとったのか、ナギは暁をちらりとみるといたずらに笑った。
「僕は例外です。何事にもあまり執着しないたちなんですよ」
 生きていられるならそれでいい。そんな退廃的な考えが自分の中にあることは否定しない。
「唯一気にするといえば、笛とお菓子、ですかね」
 こちらの世界にきて、どうやら甘い砂糖菓子がいたくお気に召したらしい。職人並とはいわないが、素人が作ったにしてはかなりおいしい味だと素直に思う。これも好きこそ物のなんとやらにはいるのだろうか。
 暁には少し甘い味を思い出しながら少しだけ笑う。そしてふと首を傾げた。
「ドラゴンは音楽が好きなのか?」
「基本的には好きです。どの種族も歌うことが大好きです。僕は……教わったので」
 だれに、とはいわない。暁の兄であり、もうあうことのできない友人でもある。ちりっと感じた小さな胸の痛みに気づかないふりをして、暁はそれならと口を開く。
「一曲、聞かせてもらっても?」
「いいんですか? ここで吹いても」
「ああ、かまわない。皆には私の客人がいると伝えてあるから」
「ありがとうございます」
 きっと、彼女は邸でも笛を吹いていいか聞いたのを覚えておいてくれたのだろう。その心遣いがうれしくて、ナギは微笑んで礼を言う。その表情が余りにも優しくてうれしそうで、暁は少しだけ照れたように視線をはずす。
「では、一曲」
 腰に下げた革袋から笛を取り出すと、すっと唇に当てる。それだけで空気が澄んだような、喜んでいるような不思議な感覚が身を包む。
 試し音を出すようにそっと呼気を吹き込み、やがて旋律が流れだす。
 それは暁が一度も聞いたことのない曲だった。
 表すならば水。優しくせせらぎのように流れ、やがてそれは一本の川に変わる。緩く、時に激しく、静謐な湖へとどんどんと注がれる。
翠緑の湖には白い鳥が羽を休め、絵本でしかみたことのないドラゴンが身を横たえている。
 ドラゴンは時々戯れに水を跳ね上げて遊び、その周りで極彩色の小さな小鳥が歌うようにさえずっていた。小鳥たちをからかうように水滴を跳ねあげ、一緒に歌うように旋律を口ずさむ。
やがて遊び疲れたドラゴンは、そのまま心地よい午睡に微睡んだ。あたりはまた、静かな湖に戻り、何事もなかったかのように宝石のような湖面を輝かせている――。
「――きれいな曲だ」
 音楽にきれいという表現はおかしいかもしれないが、それ以外表現のしようがない。美しくてどこか心躍るような軽やかな曲。
「ありがとうございます。僕のお気に入りの一曲です」
 きっと、兄もこの曲を聴いて喜んだのだろう。ナギの眼差しには優しくて少し悲しい光が混ざっている。
 こうしてもういない兄を誰かと共有するのは、なんとも不思議な感じだ。誰にもいえず、誰にも理解してもらえなかったはずの記憶。それが誰かと語り合い、思い出に浸れるのはなんとも幸せな気分だ。
「大した物はないが、あとで水と焼き菓子を持ってこよう。甘いクリームも添えてな」
 いたずらに笑って告げると、ナギはまるで子供のように笑うのだった。



 カツン――コツン
 石造りの廊下に高い靴音が響く。時刻はそろそろ夜中を廻るころあいか。巡回の騎士にしては歩く速度はゆっくりで、まるで迷うように一歩一歩足を進めているようだ。
 実際、更紗は迷っていた。自分がドラゴンと話をしても、暁とドラゴンの関係に何か変わることはないだろう。それでも、暁のために、何よりも自分が納得するために更紗は西の離れに向かっていた。
 扉の隙間から灯りが漏れている。ドラゴンは眠らないのだろうか。それとも、眠れないのだろうか。そんなことを考えながら、扉のだいぶ手前で足を止める。幾度も深呼吸を繰り返し、それでも一歩が踏み出せない。もしかしたら、心の奥底でドラゴンに怯えているのかもしれない。
 得体の知れないドラゴン。ちらりと遠めで見ただけで、会話を交わした記憶はない。暁から聞いた話も端的で、ドラゴンの印象はよくわからないのが正直なところだ。いっそこのままきびすを返して部屋に戻ろうかとさえ考えてしまう。
「あいていますよ」
 不意に、男性にしてはやや高めな、それでも明らかに女性ではない声が聞こえた。どこか笑いを含んだようなその声は、まるで緊張をほぐすかのように耳に心地よい。その声に誘われるように更紗は重たい足を前に出し、そして扉を開けた。
 見慣れた西の離れに見慣れない客人がいるだけでがらりと印象が変わって見える。もしかしたら、客人の姿が思ったよりもずっと美しいせいかもしれない。
「こんな夜更けにお一人でいらっしゃるなんて、あなたは勇気がありますね」
 くすくすと笑いながら立ち上がり、入り口で立ち止まっている更紗をいざなう。少しだけためらってから、更紗は少しだけ足を進めた。それでも、いつでも部屋から出られるようにと座ることはしない。
「……団長がお一人でこられているのに、副官が怖くてこれないなんてばかな話がありますか」
 むっとしたように更紗が言うと、おやとナギが首をかしげる。そして納得したかのように幾度かうなずき、にこりと笑った。
「あなたは更紗さんですか。……どうぞ、座りませんか? 取って食いはしませんから。美味しいお菓子をいただいたんです。召し上がって下さい」
「……お菓子を食べるんですか」
 自分のことを知っていることよりも、ドラゴンがお菓子を食べることのほうが驚きだ。暁から、好き嫌いはないようだと聞いていたが、まさか甘味を好むとは。
 緊張していた自分が急に馬鹿みたいに思え、更紗は脱力したように椅子に腰掛ける。ナギは首をかしげて微笑むにとどめ、ナギは熱いお茶を差し出した。
「ドラゴンがお菓子を食べるのはおかしいですか?」
「……いえ」
 おかしいというか、比べる対象がないからよくわからない。けれど、自分の中のイメージは凶暴で凶悪で百害あって一利なし。それがドラゴンだった。もちろん、イメージはがらがらと音を立てて崩れ去ったが。
「どうぞ」
白磁の皿に上品に乗せられているのは蜂蜜をたっぷり練りこんだ一口大の小さなケーキ。フォークを使わずに手軽に食べられるということで、団員の中でも人気の一品だ。更紗自身は買いに行くほどではないが、それでも女子のたしなみというか甘いものは好きである。
「……いただきます」
 にこにこと笑っているドラゴンを前に、いらないと突っぱねるのもばかばかしい。そう思い、更紗は一つ口に入れる。ふんわりとした食感に、蜂蜜独特の濃厚な甘さが舌に絡みつく。けれど後味は意外とさっぱりしていて、これならいくらでも食べられそうだと微笑んだ。
「それで、何かお話でも?」
 更紗の緊張がほぐれたころあいを見はかり、ナギは穏やかに話しかける。それにはっとしたように居住まいをただし、更紗はためらいがちに口をひらいた。
「私は、団長からあなたのことをほとんど聞いていません。ですから、自分なりにあなたのことを確かめにきました」
「何を確かめるんですか?」
「あなたが、団長にとって……人間にとって、有害か否かを」
 水色の瞳がまっすぐに自分を見つめる。暁と同じ眼差しに知らず微笑み、ナギはさてと首をかしげた。どうやって彼女が判断するのか、まるで人事のように面白く思う。
「それで、どうなんでしょうか?」
「……あなたの目的を聞かせて下さい」
「目的?」
 ここにいる目的か、暁に近づいた目的か。それとも、異界にやってきた目的なのか。もしくは、その全てか。
 あいまいにごまかそうか一瞬悩み、そして開き直ったようにとぼける。暁にすら話していないことを、わざわざこの人間に話す必要はない。
「何のことでしょうか?」
「ごまかさないで下さい。あなたはドラゴンです。人間に見つかった時点で隠れるなり逃げるなり、人間を……殺すなり、どうとでも出来たはずです。それをせずに、何故私たちに見つかるようにするのですか? それがあなたにとって、なんの利益があると?」
「あなたは面白い人間ですね」
 暁とはまったく違う考え方に驚き、そして笑う。こんな人間もいるのかと、正直楽しくなってくる。
「僕は純粋に、人間に興味があるんです。僕らの世界に人間はいない。どういった生き物で、何を考えているのか。それが知りたい」
「知ってどうすると? 人間が近くにいないのならば、知る必要はないでしょう」
 まるで切り込むように鋭い口調で更紗はいい、険のある眼差しでナギをにらみつける。その視線を真正面から受け止め、ナギは面白がるようにいった。
「それならば逆にたずねましょう。この世界にはもういない、精霊やドラゴンを研究している人間がいるといいます。僕らと人間の交流は絶たれ、よほどの偶然でもない限り出会うことはないでしょう。それなのに彼らは研究し続けている。それは何故ですか? 純粋な興味と好奇心からではないですか?」
「それは……」
「それと同じですよ。……僕は人間が好きです。暁さんに、ノエル家の方々。そしてあなたも。人間はとても面白い」
「…………」
 黙りこんだ更紗に穏やかな微笑を浮かべ、ナギ告げる。心の底からそう思っているから、どんなに疑いの目を向けられようともひるむことはない。
 やがて更紗は諦めたように吐息を漏らし、少しぬるくなったお茶を飲んだ。
「……ご馳走様でした。私は……まだ、あなたのことがよくわかりません。だから、全面的に信じることはできない。でも……団長があなたを信じているから、私もあなたを信じましょう。また……きます」
「いつでもどうぞ。あなたが納得できるまで、お話に付き合いますよ」
 立ち上がり、更紗は部屋を出る。扉が閉まり、足音が遠ざかるまで見送ると、ナギは自嘲するように顔をゆがめた。机の上をそのままに、つかれたようにベッドに寝転がる。
「嘘は言っていません。僕は、人間が好きです」
 それなのに、なぜこんなにやるせない気持ちになるのだろうか。嘘は言っていないが、真実を全て話していないことが、心の重荷になってしまっているのだろうか。
 涙をこらえるように、ナギは硬く目を閉じた。





 岩壁に囲まれた洞窟の中で、ナギはなれない体をもてあましていた。まだ人間になり立てで、生まれたばかりのドラゴンのようにぎこちなくしか動けない。そんな自由が利かない体が嫌で、ナギはふてくされていた。
「よくこんな体でいられるな」
「生まれたときからこの体だからね。僕がもしドラゴンの姿にかわれたら、きっと君と同じように歩けないし飛べないと思うよ」
 笑いながら言われた言葉は、ひどく懐かしく感じる。
――ああ。これは夢だ。
 もう聞くことの出来ない声。穏やかで、まるで心地よい音楽のようだ。それを言うと、友人は君の声のほうがすばらしい、何度聞いても嫌味にしか聞こえないと怒っていたのだったか。
「そうだ、人の体になれるのにうってつけのものがある。君に笛を教えてあげよう」
「笛?」
「楽器だよ」
 そういって見せてくれたのは、穴が開いている棒のようなもの。いったいどうやって使うのか興味がわいてナギは体を起こした。
「どうやって使うんだ?」
 わくわくと子供のように問いかければ、友人がそれを唇に当てる。そっと呼気を吹き込むと、まるで風のように軽やかな音楽が流れ出た。
「魔法か?」
 思わず目を見張って真顔で問いかけると、友人は声を立てて笑った。そしてナギにそれを手渡すと、身振りで笛の使い方を教え始める。
「そっと静かに息をふいて。強くても弱くてもダメだ」
 上手く動かせない指が恨めしい。魔法が使えない人間が、まるで魔法のように美しい音楽を奏でていた。それがすごくうらやましくて、まねしてみたくて、ナギは必死に練習する。
「そうそう、その調子。ほら、だいぶ人の体に慣れただろう?」
 そういって楽しそうに笑う友人が、優しく見守ってくれている。それだけで、嬉しかった。
 笛を教えてもらってから何日経っただろう? ようやく指使いにも慣れてきて、安定した音が出るようになった。まずは簡単な人間の音楽を教えてもらう。それが上手に出来るころには、人の体にも慣れていて。
「ナギはすごいな。もう僕がいなくても大丈夫だね?」
 そういって友人は少しだけ寂しそうに笑う。
 ――違う。紫苑はそんなこといっていない。
 必死に否定するが、寂しそうな友人の顔は消えることなく。あたりはどんどんと暗くなり、やがて闇の底に沈んだように何もなくなってしまった。
――これは夢。目が覚めれば、紫苑がそこにいて、笑っている。
「……、ナギ。大丈夫か?」
 ――ほら、紫苑が呼んでいる。
「ナギ?」
「…………暁さん?」
 そこにいたのは、懐かしい友人ではなく心配そうな人間の顔。一瞬ここがどこがわからなくなり混乱する。しかし、それも僅かな間で、ナギは自嘲するように口端をゆがめた。
 ほんの少し眠るつもりが、どうやらかなりの時間眠っていたようだ。あたりはすでに暗くなり、枕代わりにしていた腕が痛い。
 まだぼんやりする頭を一度振り、近くにおいておいた水差しを引き寄せる。少しぬるくなった水を行儀悪くそのまま口に含めば、ようやく意識がはっきりした。
「珍しいな。ナギが眠っているところなんてはじめてみたぞ?」
 冗談めかして言おうと努力しているが、その表情は泣きそうなくらい歪んでいる。気配に敏感なドラゴンが、声をかけるまで起きなかったことによほどショックを受けたらしい。どこか具合が悪いのかと心配されてしまう。
「少し……夢を見ていただけです」
 苦笑して首を振るが、暁はまだ疑いの眼差しで自分を見つめている。そんな彼女をどうやって説得しようか悩んでいると、重ねて心配そうな声が耳に入った。
「大丈夫か? うなされていたぞ?」
「本当に大丈夫ですよ。そんなに心配しなくても、ドラゴンは滅多に病気になりませんから」
「……何か、辛い夢だったのか?」
 そんなに自分はうなされていたのだろうか。
 苦笑して首を振り、立ち上がる。窓を開ければ冷たい夜風が心地よい。意識して深呼吸すると、わざとらしくさえ感じる声でおどけて言った。
「こんな夜更けにどうしました? これでも僕はドラゴンですよ?」
 暗に一人で部屋に来るのは危ないと告げたのだが、どうやら暁には通じなかったらしい。首をかしげて、何を当たり前なことをと真顔で言われる。それには笑うしかなくて、ナギは困ったように苦笑した。彼女に危機感を感じろというのは無理な話なのかもしれないと、心の中で嘆息する。
「お茶を入れましょう」
 気を取り直すようにしてナギは戸棚に向かった。中には千歳が送ってくれた甘味やお茶があふれんばかりに詰まっている。
邸を出るときに、一番寂しがったのは千歳だったなとそれを見ながら暁は思い返す。乳母のあれだけ寂しそうな顔は、暁が騎士団に入ることを決めたとき以来だろう。迎春祭がおちついて、ナギがまだこの世界にいたら――もう少し千歳に付き合ってもらうように頼んでみようか。
 ぼんやりとそんなことを考えていたら、目の前に湯気の立つティーカップが置かれている。そしてふと疑問に思った。ここにはお湯を沸かす火は置いていないのにと。
「少しだけ魔法を使わせていただきました」
 まるで暁の疑問を読み取ったようにナギが笑いながら言う。なんとも便利な魔法だと感心し、暁はカップに口を付けた。
 しばらく、穏やかな沈黙が流れる。ナギが砦に着てからもう五日がたつが、いつもこの沈黙が心地よいと感じてしまう。あくまで彼は来客で、いつかは帰ってしまうというのに、この日常がずっと続けばいいのにと願ってしまう自分がいて。暁はそれを振り切るように口を開いた。
「もうすぐ、この国挙げての祭りがあるんだ」
 どこか迷う風な声色の暁にナギは軽く首を傾げる。しかし言葉を遮ることなく、瞬き一つで静かに話の続きを待つ。
「迎春祭といい、この国に春を呼ぶ祭りだ。……シルベスティアの冬は長くて、この祭りが終わるとようやく春になる。大事な祭りだ」
「誰もが楽しみにしているんですね」
 春がこなければ、人は飢えてしまう。ドラゴンにはない感覚だが、短くないつきあいを人とともに過ごしていれば、なんとなくわかる。
「ああ。昼間は城下でパレードがあって、広場では騎馬隊の演舞や女王陛下のお言葉を直接聞くことができる。特に今年は、先の女王陛下の喪が明けて初めてになるから、きっと盛大に行われるだろうな」
 どこか人事のようにいうその表情は、あまり芳しくない。むしろ、苦虫をかみつぶしたような渋いといってもいいくらいの表情だ。
 暁の立場――白銀の薔薇騎士団団長としては、晴れ舞台であるにも関わらず。
「何か問題でも?」
「……陛下が、ナギも招待したいそうだ」
 正確には、「わらわもドラゴンにあいたい! ドラゴンの話を聞いてみたいのじゃ!」と葉月と暁に訴えたのだが。
「僕はかまいませんが、人前にでても?」
 この世界にきてから深く関わった人間はノエル家と暁、時折尋ねてくるようになった更紗だけだ。王家はもちろん、薔薇騎士たちにもあっていない。それなのに、そんな大々的な公式行事に参加してもいいものか。
 そう問いかけると、少しだけ迷うように暁は視線を揺らがせる。
「ノエル家の客人ということであれば、問題ないと」
「あなたの立場が悪くならないならば、僕はかまいませんよ」
 この見かけならドラゴンだと気づく人はいないですから。
 管理者のように力がある人物ならばともかく、一般の人にナギがドラゴンだと気づかれることはまずないという。それは外見の完璧さもそうだが、遙か昔にあった精霊や魔法の気配というものを人間が感じられなくなったことが一番大きい。
「……私としては、なんだか見せ物にするようでいやなんだがな」
 正直なところ、葉月の「いいじゃないか、へるものでもないし」という発言がなければやんわり断ろうと思っていた。
なんとなく、この人のいいドラゴンを誰にも見せたくなくて、まるで子供のような独占欲が芽生えていることに気づく。そんな自分にも嫌気がさし、けれど衆目にさらすことはもっと嫌で。密かな葛藤に、暁はため息をもらした。
「ノエル家の……あなたのお客人というならば、あなたに恥じをかかせないようにしないといけないですね。なにか覚えておくことはありますか?」
「そう、だな」
 ナギの優しさに少しだけ胸が暖かくなり、暁は唇をほころばせる。招待といっても、公式行事に近い昼間の席だ。それも貴賓席に招いて座っていてもらうだけだから特に宮廷作法を覚える必要はない。異国からの客人ということで通してしまえば多少の違和感はごまかせるだろう。あえていうならば。
「いや、ナギには迷惑をかけないように何とかする。ただ、服装だが……」
 今は亡き父の服をきているが、寸法やそのほか諸々がナギには不適格だ。はっきり言ってしまえば似合わない。こればかりは一度採寸してきちんとした物をあつらえなければいけないだろう。
「それくらいたいしたことありませんよ。正装したあなたはきっと綺麗でしょうから、あなたに恥をかかせるわけにはいきません」
 真顔でいうナギの言葉が、一瞬耳を素通りする。しれっとしたなんでもない言い草だが、内容はひどく甘い。それに気づいた瞬間、暁の頬が淡く紅に染まった。
 暁の顔色の変化にナギが気づき首を傾げると、何でもないと無言で否定する。ナギにも、自分の気持ちにも。
「い、いっておくが、騎士団の正装だからな? ドレスは着ないぞ?」
 少しだけ動揺を隠し切れないまま口早に言うと、少しだけ残念そうな表情が視界の隅に入る。それをあえて無視すると、コホンとわざとらしく咳払いした。
「では、また時期をみて千歳に頼んでおこう」
 深い呼吸を一つすると、不思議そうなナギを残して暁は部屋を出るのだった。



 ばたばたとあわただしく日にちが過ぎ、いよいよ明日が迎春祭当日。もう日付が変わる頃になったが、どうしてもナギの笛の音が聞きたくなり、暁は迷いながら西の離れへ向かった。
 いつかと同じように扉の前にたたずんでいると、中から笑いを含んだナギの声が聞こえる。
「あいてますよ」
「……すまない、遅くに」
 ばつが悪そうにいうと、ナギは緩く首を振る。座っていた椅子から立ち上がり、暁のために場所を空ける。
「ドラゴンはそんなに眠らなくても大丈夫ですから」
 そういっておどけた風に笑った。暁もまねするように笑うと、ナギがあけてくれた椅子に腰掛ける。少しだけ迷ってから、笛を聞かせてくれと口を開いた。
「明日は迎春祭ですね。では……春らしい曲を」
 ナギが住む世界は、あまり四季の移ろいという物がない。いつも同じような気候で、場所によって寒かったり暑かったりするくらいだ。
 住むには過ごしやすくていいが、紫苑の話を聞き、実際に人間の世界に住んでみるとあちらよりも遙かに楽しいことがわかる。
 皮膚が厚く、暑さや寒さに鈍感な自分でも、日溜まりにいれば心地よく、冷たい夜の空気は空を飛んでいるときを思い出させる。自分ではなにもしなくても様々な感情を思い起こさせるこの世界が、ナギにはとても心地よかった。
「――ありがとう。これで明日はなんとかやれそうだ」
 物思いに耽りながら笛を奏でていたが、どうやら音色に変わりはなかったようだ。密かに安堵の吐息を漏らし、気づかれないように暁に背中を向ける。そのままの体勢で、戸棚からなにやら紙包みを取り出した。
「この間更紗さんにいただいたものです」
「更紗から?」
 いったいいつの間にと暁が目を丸くしながらみていると、紙包みみからできたのは木の実がたくさん練り込まれた焼き菓子。薄くて一口サイズのそれは、確か城下で人気の焼き菓子ではなかったか。
「暁さんから話を聞くだけでは物足りなかったようで。いろいろ質問されました」
 特に更紗から報告は聞いていないから、もしかすると彼女なりに暁のためにしてくれたんだろう。昔から暁に近づく人物――特に男性や明らかな下心を持った人物――を更紗がどうにかしてくれることはあった。きっと今回もドラゴンという人類的に考えて有害なものが、暁や王家の近くにいることが心配でならなかったに違いない。
「そうか、すまなかったな」
「暁さんのことをとてもよく思っていらっしゃるのですね」
 ノエル家の家人や葉月なんかには、更紗が男だったら暁の最高の見合い相手になるんだがなと苦笑されるほどだ。特に自分も更紗のする事、干渉されることをいやに思っていないから許せるのだが。
「迎春祭は暁さんでも緊張なさるんですか?」
「……なんだかその言い方だと、私が鈍いといっているように聞こえるな」
 憮然として言い返し、出されたクッキーを一つ口にほおばる。思ったよりも軽い触感のクッキーはコリコリとした木の実と相まって絶妙だ。
「まさか、そんなことはありませんよ」
「どうだか。……ナギに初めてあったときも、だいぶ緊張していたんだがな」
 どうやら自分はあまり表情にでないらしい。身近な人には慣れなのかそれともわかるのか気づいてもらえるが、あまり親しくない人や暁をよく思っていない人からは鉄面皮と呼ばれていることは知っている。
「そうだったんですか」
 心底驚いたのか、ナギの目が軽く見開かれた。どうやら初対面時の暁は、どっしりと構えて緊張のかけらも見受けられなかったようだ。
 少しだけむっとした表情で、暁はいらついたように乱暴に髪を解く。そのままがしゃがしゃと乱暴な手つきで頭をかき回せば、ただでさえ豊かな髪がまるで爆発したように見える。
「本当に、炎の精霊みたいですね」
 その姿を見てナギは少しだけまぶしそうに目を細めた。
 深紅の髪は淡い光に照らされて燃えているようにも見える。明るいところではあまりわからない琥珀の瞳も、ほのあかるい部屋の中では宝石のようにきらめいて。ナギ自身はあまり近づかないが、時折見かける炎の精霊とそっくりだ。
「精霊とは、どんな姿をしているんだ?」
 ふと興味をそそられ、暁が何気ない口調で問いかける。軽く首をかしげ、ナギはそうですね、と口中でつぶやいた。少しだけ考え込んでから、どういった説明が一番適しているかと悩む。
「ほとんどはその物質そのものが精霊の姿ですね。炎なら炎、水なら水、といった風に。けれど、長年生きて力を得た物は姿を変えることができます」
 僕が姿を人に変えることができるように。
 そう続けると、ナギは口の中で何か短くつぶやく。そのまま空中に指先で円を描くと、不思議なことに楕円の鏡のような物が現れた。
「これは?」
「簡単な魔法ですよ」
 少しだけいたずらに笑うと、常においてある新鮮な水を指先につける。塗れた指で鏡にふれると、波紋のように輪が幾重にもひろがった。ぼやけた鏡がまた静けさを取り戻すと、そこに移っているのはみたこともない誰かの姿。
 滝のように流れるまっすぐな真珠色の髪に、本来耳があるべき場所にある鰭のようなもの。瞳孔は猫のように縦に長く、瞳の色は虹色。明らかに人間ではない。まるで画家が描いた想像上の妖精みたいに見えるが、よくある子供向けの絵本には決して描かれないだろう。なにせ、真顔で無表情で、あまりにも美しすぎて逆に怖く見えてしまうからだ。
「彼女は水の精霊。僕が住んでいる湖にいるものです」
まとっている深い青のドレスは途中で周囲に同化している。きっと先ほどナギが言っていた、物質そのものが精霊の姿というのがこのことをいうのだろう。つまり、彼女は水そのものだから、まとっているドレスはそのまま水に変わってしまっているというように。
「これは……異界とつながっているのか?」
 おそるおそる鏡に指を伸ばし、数瞬ためらってからそっとふれる。ふれた感触は、堅い石のように冷たい。宝石にふれている感じに似ているだろうか。
「いいえ、これは記憶を映し出すもの。彼女は幻影です」
「記憶を……」
 つまり、これはナギが覚えている水の精霊の姿なのだろう。似せ絵のような物なのだろうが、そこに実際にいて、手を伸ばせば温もりを感じられそうなほど精緻だ。
 もしも、記憶を映し出すものならば、会いたい人にも会えるのだろうか。
 水の精霊をその瞳に映しながら、暁はまったく別のこと考える。まるでその考えを読み取ったかのように、ナギが問いかけた。
「……紫苑に、あいたいですか?」
 びくりと暁の肩が揺れ、視線が戸惑ったようにさまよう。
 会えるものならば会いたい。会いたくないわけがない。こうして、兄のことを知っていて、兄の姿を――いなくなった当時か、それよりも成長した兄の姿を見せることができる、魔法使いがすぐ近くにいるのだから。
 けれど。
「……話が、できるわけじゃないんだろう?」
「…………ええ」
 ただ、姿を見るだけ。
それならば。
「やめておこう。明日の祭りで、みっともない顔ででるわけにはいかないからな」
 きっと泣きはらした目をしていても、ナギがなおしてくれるだろう。けれど、そういいわけをしないと、今すぐにあいたいと叫んでしまいそうだった。
「あなたは……どうして、」
 その後になにが続いたのかはわからない。ただ、気づいたらきつく抱きしめられていた。
「な、なにをっ」
 腕の中でもがいても、ドラゴンの力はゆるむことがない。人間としての本能なのか、女としての本能なのか、暁はただ離れようとがむしゃらに暴れる。それを閉じこめるように、もしくはなだめるように、耳に暖かな吐息がふれ、ゆっくりと頭をなでられて。
「なにもしません。怖がらないでください」
 ささやくように吐息で告げられ、暁は反射的に抵抗をやめる。少しだけ腕の力が緩められるが、それでも解放されることはなく。
「紫苑に……あわせてあげたい」
 もしかしたら、顔を見られたくないのかもしれない。まるで、泣いているかのような切ない声音。抱きしめられているというよりも、すがりつかれているような気になってくる。
「紫苑から、あなたの話をたくさんきいていました。まさか、こちらで実際にあなたに会うとは思ってもいませんでしたが」
「……兄様は、どんなことを話していたんだ?」
「あなたがとてもお転婆で、女性にしておくのはもったいないとか。ドレスで走り回ったり、木登りをしては千歳さんに怒られていたとか」
「そ、そんな子供のころの話、覚えていなくても!」
 くすくすと笑いながらナギはつげ、真っ赤になっている暁を解放する。そして手の甲にそっと唇を寄せた。まるで騎士の挨拶のようなそれとナギの姿がまったく似合わずに、暁は思わず笑ってしまう。その笑顔にナギも小さく微笑し、もう一度口づけた。
「これは僕たちの間で女性に謝罪するときの挨拶です。精一杯の謝罪ですが、受け入れてもらえますか?」
「受け入れるときはどうすればいいんだ?」
「受け入れてくれるなら、僕の手を握ってください。受け入れないときは、手を払ってください」
 手を差しだし、ナギは静かに待つ。自分の手よりもよほど華奢で、繊細な指先。何となく嫉妬心を感じてしまい、暁は小さなため息でそれを逃す。
「急に、その、体に触れられれば誰でも驚く。それから、むやみに女性の……女性らしくないかもしれないけど、私も一応女だから……その、触れるのはやめるように」
 少しだけ気恥ずかしそうに告げて、そっと手を握る。たったそれだけのことで、まるで無邪気な子供のようにナギが笑った。
あまりにも無防備な笑顔に、本当にドラゴンなのかと疑いたくなる。けれど、他の人に比べて体温が明らかに低いのを感じ取り、人間ではないと改めて実感してしまい。明らかな種族の差にどうしてもため息を隠しきれない。
「疲れましたか?」
「あ、ああ、そうだな」
 きづけばかなりの時間をナギの部屋で過ごしている。明日は早い。そろそろ休まないと、体にさわるだろう。
「すまなかった。長居をしてしまった。……また、向こうの話を聞かせてくれ」
「いつでも、喜んで」
 暇を告げ、暁は立ち上がる。ナギに背を向けて一歩踏み出した瞬間、引き留めるように腕を捕まれた。
「なんだ?」
 驚いて振り返ると、少しだけ迷ったような表情。けれどそれは一瞬で、服の下にしまっていた鎖を取り出す。
「これを」
 鎖から引き抜かれたのは、金の台座に小ぶりの赤い宝石がはまった指輪。透き通った透明な赤い石は、光の角度によってオレンジにも見える。
「これは?」
「さっきのお詫びです。ちょっとした魔法の指輪ですよ」
「謝罪は受け入れた。もらう理由がない」
 困惑したように暁が告げると、ナギはかまわずに暁の手を取る。
 剣士の手。ごつごつしていて、傷だらけでぜんぜん女らしくない。握っている彼の手の方が、よほど繊細だ。
「あなたに、していてほしいんです」
 そういって左手の中指に指輪をはめれば、苦もなくするりとはまった。まるであつらえたようにぴったりだ。
「……外見に似合わず、案外強引だな」
 苦笑して指輪をはめた手を見つめると、ナギはただ静かにほほえむばかり。その微笑につられたように暁も笑う。
「ありがとうといっておこう。……私には、似合わないけど、気持ちはうれしい」
「そんなことはありませんよ。この指輪は、あなたにこそふさわしいものですから」
 真顔で告げる彼に暁は首を振って否定し、もう一度暇を告げる。今度はナギも引き留めることはせずに、そのまま見送った。
 軽い木の扉を閉めれば、何ごともなかったようにあたりは静寂だ。
「しっかりしろ」
 ナギの言葉に、行動に振り回されているような気がする。彼がなにを思って抱きしめたのか、指輪をくれたのか。その理由を、といただすべきだったのか。
 混乱する頭を一つふってよけいな考えを振り払うと、暁は私室へ向かった。





 翌日、迎春祭にふさわしい晴天のなか、暁は陽向の少し後ろに控えるようにたっていた。反対どなりには葉月が同じようにたっている。
 ナギはといえば、初めてあったときと同じような緩いローブをまとって貴賓席に座っていた。違いといえば、ぼろぼろになっていたローブではなく端々に銀糸の縫い取りがあり、控えめながらも、小さな宝石がついていることだろう。
元々貴賓席に彼はいる予定だったから、場所的には全く問題ない。問題なのは、時間帯だ。最初の話では、陽向の挨拶が終わった後に目立たないようにくるはずだったのに。
 無言で葉月をにらみつけるようにしてみていると、葉月の緑の眼差しが気づいたように暁をとらえる。そしてにやりと笑った。つまるところ、暁を困らせるため、もしくは自分が楽しむための確信犯だ。
「……陛下にねだられたのですか」
 唇だけで問いかけるとすっと視線が逸らされる。きっと図星なのだろう。暁は痛むこめかみをそっともみほぐすと、ため息をもらしていらだちを逃す。
ただでさえ見慣れない客人なのだ。しかも、シルベスティア人とは明らかに違う姿に、国民やほかの来賓からは戸惑いの視線がちらちらと向けられている。
 シルベスティア人は、基本皆明るい髪色で、ナギのような黒に近い色は珍しい。さらに言うならば、ずるずるしたローブを着る習慣はもうなくなっている。一般には忘れられている管理者か、精霊の信仰がまだ残っている南のチャルドールくらいなものだろう。しかし、チャルドール人は肌の色が褐色で、それともまた違う姿のナギは明らかに浮いている。
 ノエル家の客人ということで周知されてはいるが、どういう関係なのかとあからさまに勘ぐっている視線も混じっていて、暁としてはかなり不快だった。
「……葉月様。本当に彼をあそこに座らせていていいのですか?」
 ちくちくと刺すような視線に身じろぎし、暁は小声で尋ねる。葉月はといえばとぼけたような笑みを浮かべて首を傾げるばかりだ。
「本人が気にしていないからいいんじゃないか? 暁があそこにいく、もしくは彼をこちらに呼ぶと、もっと目立つぞ」
 確かにいわれるまでもなくそうだろう。一介の客人を王家のすぐ側に迎えればそれはそれで目立つし、逆に白銀の薔薇騎士団団長が警護につく――という風にみられる――だけで大騒ぎだ。これ以上の目立つことは正直避けたいところだ。
 仕方なく暁はため息で同意をし、ナギに視線を向ける。偶然か、視線を感じてか、紫の視線と琥珀の眼差しが絡み合った。その瞬間、ナギの唇がごくわずかに動く。
『心配しないでください。僕なら大丈夫ですから』
「っ!?」
 確かに聞こえた、ナギの声。それと同時に、もらった指輪がほのかに熱を帯びる。
『魔法の指輪ですよ。あなたにしか聞こえていません』
 まるで暁の考えを読みとったかのような言葉。まじまじとナギを凝視すると、安心させるかのように微笑まれる。
『あなたはなにも気にしなくて大丈夫です。僕は何も気にしませんから。ただ、あなたの傍にいられればそれでいい。あなたの重荷になりたいわけじゃない。だから……あなたは、何も気にせずにご自身の役目だけを考えて下さい』
 まるで元気づけるようにそういうと、そこでナギの声は聞こえなくなる。そんなに不安そうな顔をしていたのかと思わず顔に手を当てると、不意に陽向が振り返った。
「暁、後でわらわにも紹介してくれるか?」
 ドラゴンという言葉を明確に避けているが、もちろん誰のことかはすぐにわかる。
「もちろんです」
 返事をしながら、そういえば迎春祭の前に紹介する予定だったのだが、陽向の都合がつかずに結局彼女にも葉月にも紹介していなかったと思い至る。本来ならばそんなことはまかり通らないはずなのだが、ノエル家の客人、暁の知人、というだけでことが運んでしまったことが恐ろしい。
「夜会の前に少しお時間をいただければ」
「うむ、必ず時間を作ろう」
 にこにこと笑って陽向がいうと葉月も了承するようにうなずいた。と、タイミングを見計らったかのように白い礼装の軍服に身を包んだ騎馬隊が入ってくる。先頭を率いるのは更紗だ。陽向が一番楽しみにしていた、白銀の薔薇騎士団による騎馬演舞が始まった。
「今年は一段と壮麗だな」
「暁の時はかっこよかったが、更紗はどちらかというときれいじゃの」
 にこにこと笑いながら見る様子は、年相応の少女にしか見えない。本来彼女がこの席に着くのは、もう五、六年先の話だったことを考えるとなんとも切ない。
 あれだけ不安そうにしていた更紗も、先頭に立ち右へ左へと縦横に馬を操っている。乱れることない美しい演舞に、暁は満足そうにうなずく。
 そんなときだった。
「――――?」
 不意に、あたりが一瞬暗くなったように感じる。空を見上げても、周りを見渡しても異常を感じているのは暁だけのようだ。
 眉間にしわを寄せて勘違いかと首を傾げた瞬間、何ともいえない濃い水の気配がする。空は先ほど変わらない青空が広がり、雲一つない晴天だ。それなのに、雨が降る直前のような、嵐の前のような、何ともいえない気配が漂っているのだ。
「なんだ……?」
 小さくつぶやきをもらしても、帰ってくる声はない。葉月も陽向もなにも感じていないようだ。
 まるで水中にでもいるかのように息苦しい。空気を吸い込もうとしても、体に入ってくるのは水蒸気のような気がしてならない。浅い呼吸を幾度も繰り返していると、不意に叫ぶようなナギの声が耳をついた。
『いけない、まだ開く時じゃないっ!』
 思わず視線を向けると、真っ青な顔で堅く指を組み合わせ、空をにらみつけている。その唇がせわしなく何か言葉を紡ぐが、ここからでは読みとれない。
 もどかしさにはがみしながらも見つめていると、ナギが暁に顔を向ける。その顔には苦渋の表情。いつも穏やかな微笑を浮かべている彼にしては、かなり珍しい。
『笛を』
 ふいてもいいか、と問いかける声音。今この場で笛を吹けば、悪目立ちというだけではすまないだろう。下手をすれば、迎春祭を妨げたといわれてしまう。もちろん、それはナギだけではなく暁に、ひいては暁を騎士団長に任命した葉月に。それはよくない、というよりも避けなければいけない。それがわかるからこそ、ナギはためらっているのだ。
「暁? どうした」
 尋常ではない様子に葉月が気づき、小さく声をかける。暁は一瞬ためらうと、かいつまんで状況を説明する。とはいえ、詳細に気づいている訳ではないから、ほぼ憶測だ。
「異界の扉が、開きかけているようです」
「なに? 今か?」
「はい。ナギが……ドラゴンが押さえてくれているようですが……笛を、吹いてもかまいませんか?」
「わかった、許可しよう。だが、もう少しこらえられるか?」
 騎馬隊の演舞はもう終盤だ。あと少しで終わる。これが終われば女王の言祝ぎがはいり、祭りは幕を下ろす。
「……ナギ」
 大丈夫か、と眼差しで問いかけると、青い顔をしつつもナギはうなずく。今は、ナギに任せるしかない。
 なにもできない自分にいらだちを感じ、暁はきつく拳を握る。食い込む爪が痛みを呼ぶが、そんなのはナギの苦労に比べれば軽いものだろう。
彼はドラゴンだ。自分の推測が正しければ、このまま扉が開くのを待ってそのまま帰ればいいだけの話だ。それをしないのは、きっと暁の為なのだと思う。うぬぼれかもしれないが、この短くない間に少しはナギに気にかけてもらっていると思っていた。
「……もう少し」
 短いはずの終幕が、やたらと永く感じる。ほんの四半刻にも満たないはずなのに、馬の動きがやたらとゆっくりと感じてしまって。苛立ちと焦りをなんとかこらえる。
「――――終わった」
 ようやく騎馬隊の演舞が終わり、沸き上がる拍手の中白銀の薔薇騎士団たちが引き上げていく。それを見送ってから、立ち上がろうとする陽向を制し、葉月が口を開いた。
「皆に、紹介したい者がいる」
 毎年の迎春祭ではありえない状況に、重臣や国民から戸惑ったような視線が飛ぶ。それでもかまわずに葉月は鷹揚にうなずいた。皆のざわめきが収まるのを待ち、一泊おいてからナギに視線を移す。ゆっくりと染み渡るように言葉を紡ぐ。
「異国からの客人だ」
 視線が一斉にナギに向き、彼は一瞬戸惑ったように視線を揺らめかせた。しかし、葉月と暁のうなずきを受け止め、優雅ともいえる所作で立ち上がる。きっと、内心はひどくあわてているだろうに。
「春の言祝ぎに、わたくしから一曲。紹介の挨拶に代えさせていただきます」
 深々と腰を折ると、ナギは準備していた笛を取り出す。唇にあてがうと、静かに楽を奏で始めた。
 高く、低く。前に聞いた水のような曲とはまた違う。しみいるような静かな曲なのに、どこか喜びを感じさせる不思議な曲だ。きっと、彼にだけ意味のある曲なのだろう。もしくは、この場を白けさせないための気遣いなのか。
 まるで雪解けのような曲が終わると、あれだけ感じていた水の気配がきれいになくなっていた。深く息を吸えば、暖かな春の空気。きっと、成功したのだろう。
「すばらしい曲じゃ。異国からの客人、迎春祭に花を添えてくれたこと、心から感謝しよう」
「恐れ入ります」
 陽向の言葉に深々と腰を折り、ナギは席に着く。そのとたん、わっと割れるような大歓声と拍手が響きわたる。どうやら誰もがなんの疑いもせずに素直に笛の音を聞いてくれたようだ。
 たった一言、葉月が紹介しただけで彼は受け入れられている。ナギの笛の音がすばらしいのか、葉月が信頼されているからなのか、きっとそのどちらもなのであろう。
 ほっと安堵の吐息を漏らし、暁は感謝するように目を閉じた。



 暁は昼間の装いとは異なる礼装に身を包む。白を基調とした騎士団の服には違いないが、式典用にと金鎖やきらびやかな宝石がいくつか飾りとしてついている。
 装飾性の高いこの服は、陽向には好評だが暁自身としてはそんなに好む服ではない。鏡に向かって多少乱雑に髪をまとめながら、暁はため息をもらす。これからの夜会が憂鬱で仕方がない。
 先ほどの式典が終わるや否や、葉月と暁にナギについてあからさまな質問が相次いだ。それを時間がないからの一言で全て無視し、急いでその場を立ち去ったのだ。夜会にナギは出したくないと考えていたが、あの騒ぎではそういうわけにもいかないだろう。なにより、陽向のたっての要望だ。無視するわけにはいかない。
「団長、入りますよ」
 ぼんやりと鏡に向かっていたら、更紗が入ってくる。どうやらノックの音に気づかなかったらしい。
「またそんなに適当にされて……。せっかくきれいな髪なんですから、もっと丁寧にしてください」
 あきれたようにいう更紗の服装は、丈の短椅子カートにレースの下履きを合わせた礼装だ。上衣は暁のものとにたような作りになっているが、スカートをはくだけでぐんと女性らしさが強調されるから不思議だ。もちろん、自分に似合うとは思わないから着る気などさらさらないのだが。
「また男装ででられるのですか?」
 立ち上がろうとした暁を制し、更紗はその後ろに立つ。視線は視線は鏡に映る暁の足元。長い足が白いズボンと長靴に包まれ、もったいないというように更紗はため息を漏らす。
「私にはこれが一番いいんだ。……動きやすいから」
 最後はとってつけたようないいわけになってしまったが、実際陽向になにかあったときにスカートだと動きにくいというのが事実だ。もちろんなにもないに越したことはないのだが。
「わかっていますよ。でも、一度ぐらい着てみてもいいじゃないですか」
暁が適当ともいえるほど雑にした髪を丁寧にとかしながら、更紗は少しだけすねたような口調でつぶやいた。一度でいいから女性用の服をきた暁をみたいと思い、式典があるたびにいっているのだが聞き入れられたためしはない。
「高く結い上げますか?」
「任せる」
 やる気のない暁にため息で言葉を受け流し、更紗は絡み合った髪の毛を丁寧にほぐす。
 いつも暁の髪をみると、深紅の薔薇を連想してしまう。豊かに波打った髪は、まるで薔薇の花を束ねたようだ。
 普段は一つにくくられているだけだから、今日は高く結い上げようかと更紗が考えていると、暁がためらうそぶりで問いかけた。
「今日の演舞の時なんだが……なにか、異常を感じたか?」
「異常、ですか?」
「ああ」
 あの、水の中にいるような感覚を。近くにいた陽向も葉月もなにも感じなかったようだ。あれは、自分にしかわからなかったのだろうか。
 髪をいじる手を止め、更紗は思い出すように考える。思い当たる節はなかったのか、首を振って否定した。
「いえ、特には……。あ、ですが、馬が……何かにおびえていたのか、落ち着きがなかったような」
「……そうか。ありがとう」
 どうやら、人間の中であの異常を感じていたのは自分だけらしい。前にナギがいっていた、炎の精霊の血なのか、それとも魔法の指輪のせいか。あとでナギにきいてみようかと思いながらも、理由がわかったところでどうなるわけでもないとやけに冷静な自分がいる。
「終わりましたよ」
 ぼんやりと考えごとをしている間にも更紗の手は休みなく動いていたようだ。鏡に映る自分の姿に、思わず顔をしかめてしまう。
「お気に召しませんか?」
「いや、見慣れなくて変な感じだ」
 両脇からきっちりと編み込み、頭の一番高いところで盛り上げられている。まるで花びらのようにふわふわと毛先が散らされ、ところどころに真珠をもしたガラス玉がはめ込まれているのがいやでも目に付く。
自分にこんな華やかな髪型は似合わない。悪目立ちするだけだ。そう思っても、任せるといった手前まさかほどくわけにもいかない。
「そういえば、ナギとどんな話をしたんだ?」
 ふと、思いついたように更紗に尋ねると、更紗が口ごもる。けれどそれも一瞬で、すぐにはぐらかすような笑顔を向けた。
「大したことありません。ドラゴンが、暁様に害をなすかどうかを確認しただけです」
「……そうか」
 更紗が作る、まるで仮面のような笑顔。これは、深く詮索してほしくないときや、何かいいたくないことがある時に必ず見せるものだ。たぶん本人は気づいていないのだろう。無意識に向けられるその笑みに、暁は若干の寂しさを覚えながらもなにもいわない。それが、上司としても友人としても礼儀だと思っている。
「そろそろ陽向様のところへいってくる」
「暁様、少しだけ待ってください」
 立ち上がろうとする暁を制し、更紗は用意してあった小箱からなにやらとりだす。それを見た瞬間、暁はあからさまに顔をしかめる。
「お化粧くらいしてください」
 昼間は誰も間近で見る人がいないからまだいい。いや、本来ならば誰がみているみていないに関わらず最低限の化粧位してほしい。たとえそれが汗で流れ落ちてしまうにしても、だ。
普段から化粧化のない暁の肌は、うっすらとだかそばかすが浮いてしまっている。もともと色白で日に焼けない肌質なのだろうが、手入れをすればきっともっと美しくなるだろうに。そう思って更紗はいつもため息をついてしまうのだ。
「どうせ誰がみるわけでもない。陽向様も葉月様も、私が化粧を嫌いなことをよく知っているから」
「それとこれとは別です」
 きっぱりと断言すると、更紗はぐいっと暁の肩を押してもう一度座らせなおす。そこまでされてしまえば、暁に逆らうすべはない。あきらめの境地でため息をもらすと、それからしばらく、念入りに顔をいじられるのだった。
 あたりはすでに薄闇に包まれ始めている。更紗の化粧につきあっていたせいで、約束の時間をだいぶん回ってしまった。
 足早に西の離れに向かっていると、正面から足音がする。ぼんやりとした明かりの照らされるのは、見慣れない黒の上着。高襟の周りや袖口に金糸で縫い取りがされ、飾りボタンの変わりにやや青みがかった紫水晶が使われている、ずいぶんと豪華な服だ。
首元に覗くのは柔らかな真珠色のシャツ。緩く巻いたリボンタイにも、同じやや青みがかった紫水晶の飾り。そしてようやく見えた艶やかな闇色の髪に、やっとだれか思い当たる。
「ナギか?」
「暁さん?」
 距離としては二十歩ほど。間をあけてお互いに見つめあう。どちらも困惑した表情なのは、見慣れた姿ではないためか。
「驚いた。葉月様か?」
 千歳にお願いしておくと言っておきながら、結局時間が取れなかったのだ。一言伝えてはあったが、正直間に合うとは思えず、葉月にも頼んでおいたのだ。ところが、ナギが口にした答えはとても意外なもので。
「いえ、東雲さんに用意していただきました」
「東雲が?……珍しいこともあるな」
 基本的に、暁の身の回りのものや家人の衣類は千歳が用意している。東雲は、気が利くがあまりそういったものにこだわることが少なく、家人として恥ずかしくなければそれでいいと考えるきらいがある。その東雲が、ナギに夜会用の服をあつらえるとは。よほどナギのことを気に入ったのか。
「おきれいですね」
「……私が?」
 一瞬、自分のことをいわれているとは思わなかった。確かに式典用の礼装は華やかだし、いつもは自分で適当にしてしまう髪型も化粧も更紗に念入りにされた。それでも、自分がきれいだと思ったことはない。むしろ、更紗には申し訳ないが、滑稽だとすら思っている。平均よりも背が高く、女性らしさのかけらもない自分が化粧をするなどとは。
「ええ、とてもきれいですよ」
 にこりとほほえんでいうナギの方が、よほどきれいだと思う。男性にしておくのがもったいないほどに。
「……いこう」
 結局、答えるべき答えが口にでないまま、暁は羞恥心を隠すようにきびすを返した。きっと、耳まで真っ赤になっているに違いない。血が上って、頬といわず頭まで熱くなっているのだから。明るくないこの場所で心底よかったと、暁は安堵するのだった。



 いつもは侍女であふれかえっている陽向の部屋が、やけにがらんとしている。あらかじめ人払いがされていたのか、やや不機嫌そうな幼い女王と父親で後見役の葉月だけしかいない。
「遅い」
「そう怒るな。支度に手間取っているのだろう」
 せっかく暁が念願のドラゴンをつれてきてくれるからと、侍女をせっついて支度を終わらせたというのに。
 まだ足の届かないソファでぶらぶらと行儀悪くしていると、葉月が眉をひそめる。父親としてしかるか、女王補佐としていさめるか迷っていると、待ちに待ったノックの音が聞こえた。
「女王陛下、白銀の薔薇騎士団長ノエル・暁です」
「暁!」
 扉が開くよりも先に陽向はソファから飛び降りて駆け出す。暁が一歩部屋に足を踏み入れると、陽向が飛びつく寸前で足を止めた。
「ドラゴンか!」
 目をきらきらさせて自分を見つめる子供に、ナギは面食らったように歩みを止めた。いきすがら、暁から日向の人となりを簡単に聞いてはいたが、昼間の式典時とはまったくの別人のようだ。
「ナギ殿といったか。こちらへ。陽向と暁もここへ」
 葉月に呼ばれ、陽向はもう一度ドラゴンをまじまじと見つめ、満足したようにきびすを返す。最初に座っていた自分専用のソファに座ると、歩み寄る二人ににこりとほほえんだ。
「二人とも座るといい。暁、紹介してたもれ」
 示されたのは、陽向から少しだけ距離をあけた二人掛けのソファ。いつもはおいていないこのソファは、ナギと暁のために用意されたのだろう。私的な応接室とはいえ、女王の対面に座れる者は少ない。
 暁は軽く一礼をし、ナギを促して浅く腰掛ける。ナギもそれにならい、暁の隣に座った。
「彼は黒龍のナギ。異界よりこられたドラゴンです」
「お初にお目にかかります。先ほどは大切な式典に水を差してしまって、申し訳ございませんでした」
「気にするでない。危急のことであったのだろう? ならば大事がなかったことに、逆に感謝せねばならぬ」
 鷹揚に陽向はうなずくと、ちらりと葉月に視線を向ける。葉月は軽くうなずくと、暁とナギ二人険しい表情で尋ねた。
「昼間のことなのだが、いったいあのときなにが起こっていたのだ? 暁が、扉が開くかもしれないといっていたが……」
「……何らかの圧力がかかり、異界との扉が開きかけたようです」
 少しだけ顔をうつむけ、ナギは言葉を紡ぐ。故意なのか偶然なのか、長い髪に隠れて表情はよく見えない。なんとなく歯切れの悪いその言葉に暁は眉をひそめるが、口を挟むことはしなかった。
「そうか。あのまま扉が開いていたら、少事で住むことはまずあるまい。シルベスティアの女王として、改めて礼を言おう」
「……ありがとうございます」
 座したまま深く頭をさげ、ナギは一瞬強く唇をかみしめる。
暁を始め、人間とは何とも優しく鷹揚で――簡単にドラゴンを信じるのだろうか。やはり、最初に出会った人間が特異なだけなのだろうか。それとも、暁の周りににたような人間が集まっているのだろうか。
「して、ナギ。ドラゴンの姿は見せることができるのか?」
 俯いたまま何かをこらえるように目を硬く瞑っていると、わくわくと期待するような子供の声が聞こえる。一瞬言葉の意味が理解できずに反応が遅れるが、顔を上げて少しだけ申し訳なさそうに謝罪した。
「え……いえ、こちらの世界では、元の姿に戻ることができないのです」
「そうなのか」
 明らかにがっかりした様子に陽向に、ナギは困ったような笑みを浮かべる。それをみた葉月が苦笑し、口を開いた。
「陽向、無茶を言ってはいかんぞ。ナギ殿は好きで人間の姿でいるわけではないのだからな」
 葉月には魔法のことはまったくわからなかったが、彼がわざわざ人間の姿でいてくれるのは、ここが「人間」が住む世界だからなのだろう。ドラゴンの本性を現せば、たちまち混乱が訪れるのは必死。
 暁によれば、ドラゴンは食事をとらなくてもいいと聞いている。それならば、本来の姿に戻って山奥の人が近寄れないところにこもればいいだけの話だ。それができないのではなく、あえてしないのだと、思いたい。たとえそれが、人間のエゴであっても。
「龍体に戻ることはできませんが、ドラゴンの姿を見せることはできますよ」
「本当か!」
 ナギの言葉に陽向が少女のように笑った。さっきまでの威厳ある姿とはかけ離れた笑顔に、ナギは思わず苦笑する。十三歳という年齢は、ドラゴンにとっては生まれたての赤子と同じくらいなのだ。
「昨日の、あれか?」
「あれとは少し違いますが、にたようなものです」
 そういうと、ナギはきょろきょろと辺りを見回す。そして水差しを見つけると、一言断ってから空いているカップに注いだ。透き通った水はなみなみとそそがれ、今にもあふれそうだ。そこへ、ナギが小さく一言つぶやくと、一瞬ティーカップから水煙が上がる。次の瞬間、辺り一面が薄いもやのようなものに包まれた。
「なんだ!?」
 葉月が陽向を守るように彼女の前にたち、暁も立ち上がるとやや警戒しながら辺りを見回す。そこへ、ナギの穏やかな声が耳に届いた。
「ご安心ください。これはまやかしの霧。僕の記憶を映し出す、幻です」
 ふっと、薄かったもやが徐々にこくなり、あたりはミルク色に包まれる。しかし、それもわずかな時間で、じょじょにもやが晴れれば、そこは全く見慣れない場所。
 柔らかな紅灰色の壁も、自分が座っているソファも見えない。目に映るのはごつごつした岩肌。なのに、足元が沈むような分厚い絨毯の上に立っている感触はしっかり残っている。なんともちぐはぐで、奇妙な感覚。
 辺りを見回せば、なにやら広い洞窟のような場所。もちろん視界に移るだけで、しゃがんで地面を触っても冷たい岩肌には触れない。
「これは……」
「すべて幻です。ここは、女王陛下の応接室。ただ、目に映るものだけが違います」
 呆然としたような葉月の耳に、笑いを含んだナギの声が聞こえる。しかし、そこに見知った青年はおらず、辺りを見回しても誰もいない。
皆のいぶかる気配を感じたのか、遠くに見えていたミルク色の景色が突然きえ、現れたのはつやつやした黒い鱗。どこか蛇のようにも見えるその鱗は、しかし爬虫類とは全く違う。輝く宝石を固めたようだ。
「ナギ、か?」
 おそるおそるといった風に暁が声を出すと、鱗がぶるりとふるえた。きらきらと湖面のように輝きを増し、鱗が一瞬視界から消える。そして目の前に現れたのは、絵本や物語の中でしかみたことないドラゴン。
 額から二本の角がつきでていて、その中央には紫の宝玉が輝いている。瞳は同じ紫水晶。どこか笑っているように見えるのは、普段のナギを知っているためか。
 蛇やトカゲのようなものを想像していたが、実際にはまったく違う姿。気高く美しく、まさに至高の存在だ。
「あくまでこれは僕の記憶を映した姿です。……が、これがドラゴンですよ」
 ただでさえ大きな目をこぼれそうなほどに見開き、陽向は呆気にとられた表情でドラゴンを凝視している。その顔がおもしろいのか、ドラゴンが美しい声で笑った。その瞬間、あたりの景色が溶けるようににじみ、もとの紅灰色の壁が姿を表す。
「す……すご椅子ごいぞ、ナギ!!」
 白い頬をバラ色に紅潮させ、陽向は思わずといった風に立ち上がる。翡翠色の眼差しがきらきらと輝き、小さな手を一生懸命たたく姿は城下にいる子供と全く変わらない。そんな無邪気な一面に葉月も暁もほほえみ、ナギは少しだけ困ったように笑った。
「お気に召していただけたようで光栄です」
「今度は異界の話をもっとたくさん聞きたいぞ」
「お望みであれば、いつでも」
「そろそろ時間だな。ナギ殿、楽しい趣向に感謝する。暁、頼んだぞ」
「はい」
 葉月の言葉にうなずきを返し、暁はナギを促してたちあがる。そのまま一礼して退出すれば、やや険のある表情で侍女が出迎えた。どうやらそうとう時間が足りないらしい。明らかに早足で義務的な対応だ。
「すまない、長居をしたな」
「とんでもございません。すべては陛下の思し召しのままに」
 申し訳なさそうに暁が謝罪し、義務とばかりに一応廊下へ続く扉まで案内する。扉が閉まるか閉まらないかのところで侍女は二人に背を向けると、スカートを摘んできびすを返した。きっと、陽向に追い出されて仕上げができなかった彼女の支度をするのだろう。
「すまなかったな」
「いえ、暁さんが悪いわけではありませんから」
 苦笑してナギにも謝罪すれば、帰ってくるのは穏やかな返答。どうしてこのドラゴンは、怒るという事をしないのだろうか? きいていたドラゴンの気性とはまったくかけ離れている。
「暁さん、一つおたずねしたいのですが、夜会とはいったいどういうものですか?」
 そういえば、昼間の式典はただ座っていればいいとだけ教えたが、夜のことはまったく話題に出していなかったと思い至る。そして困った。昼間の騒動もあるし、なにより彼はドラゴンだが、一応ノエル家の客人で陽向と葉月の客人だ。ということは、挨拶やらなにやらといろいろ話しかけられてしまうだろう。どうやって切り抜けるか考えつつ、暁は簡単に夜会の説明をする。
「昼間は公的な行事だったが、夜会は……まぁ、無礼講のパーティーのようなものだ。陛下が簡単な挨拶をされれば、あとは社交界の噂話やらなにやら、あまりおもしろくないな」
 つまるところ、暁は夜会が嫌いなのだろう。
 没落した家なのに、女王からの信頼が厚く自身も騎士団長という華々しい役職に就いている。ということは、やっかみやひがみ、妬みなど様々な思惑が彼女を取り巻いてしまう。いくら必然であっても、それが好きなものはいない。ドラゴンの自分でさえそう思うのだから、人間の彼女は特にそう思っても仕方がないだろう。
「僕に何かできることはありますか?」
 暁の役に立てること、もしくは彼女の迷惑にならないことがあるのならば。
 そう尋ねると、暁は歩みを止めてまじまじとナギを見上げた。あまり背丈は変わらないが、少しだけ暁がナギを見上げるような格好になる。そんなことが今更ながらに気になり、ナギは内心苦笑する。
「どうして、そんなことを?」
 ただでさえ、ドラゴンにはまったく関係のない式典やら女王の願い事などたくさんきいてもらっているというのに。なぜ、そこまで気にかけてくれるのだろう。
 不思議そうに問いかける暁からそっと視線をはずし、ナギは一度だけかたく目を閉じる。
 今ここで、なにもかも話すことができたならば、どんなに楽になるだろうか。
 その誘惑をなんとかはねつけると、無理に口はしを持ち上げて笑みを形作る。
「紫苑がもしここにいたら、あなたのために一生懸命何かしたでしょう? それを、かなえてあげたいのです」
 大切な親友のためであり、これから彼女に迷惑をかけてしまうわびの意味もかねて。
「……ありがとう。それなら、私のそばにいてくれるか?」
 それは、ナギを好奇心から守るためでもあり、陽向に迷惑をかけないためでもある。そしてなにより、自分がナギにそばにいてほしいと、感じているから。この、お人好しなドラゴンのことを――
「喜んで」
 そこで二人同時に足を止める。目の前にはきらびやかな大扉。夜会の会場だ。
「さて、いくか」
 まるで戦場に出陣するような気分で、暁は表情を改める。そこにいるのは、ノエル家の家長であり白銀の薔薇騎士団を束ねる団長の姿でもある。ナギが守りたいと思った女性の姿はない。それでも。彼女の隣を歩けることを、今は光栄に思う。
「暁さん」
 すっと手を差し出すと、暁はびっくりしたようにナギを見つめた。まさか、エスコートされるとは思っていなかった。
「こういう場合は、これであっているのでしょう?」
「誰に教わったんだ?」
「東雲さんに」
 あの無愛想でいったいなにをナギに吹き込んでいるのやら。
 苦虫をかみつぶしたような表情でナギの白い手を見つめる。けれどそれは一瞬で、おそるおそるその手に自分のそれを重ねた。
「いきましょうか」
 きっと、昼間以上の好奇心の視線にさらされることになるだろう。それでもいいと、暁は思う。今は、このドラゴンがそばにいてくれるから。



 陽向の挨拶から始まった夜会も、もう終盤にさしかかっている。あらかた料理は手を着けられ、着飾った紳士淑女があちらこちらで歓談を繰り広げていた。それを横目でみながら、暁はあくびをかみ殺す。そろそろ夜会に飽き始めていた。ちらりと横目でナギを見れば、彼も疲れたのか笑顔はなく無表情に近い。その美しい顔立ちのおかげで淑女の熱い視線を一新に浴びているが、本人はまったく気づいた風もなかった。
夜会の一番最初に陽向と葉月から、異国からの客人で自分の私的な友人だという紹介が功を奏しているのか、取り囲まれるという事態にはならなかったのがまだ幸いだ。
しかし、勇気ある何人かは暁に直接話を聞きにやってくる。そんな彼らにさりげなく陽向の名前を出せば、それだけですごすごと立ち去っていった。そんなことを数回繰り返せば、直接聞きに来る者はいなくなった。だが、好奇の目は絶えることなく二人に向いている。
「暁さん、少し外へでても?」
「ああ、私もいこう。少し待っていてくれ」
 暁より先にナギが我慢できなくなったのか、小さくため息をもらす。それにうなずき返し、暁は足早に葉月の元へむかった。一言二言かわし、外へ行く了承をとったのだろう。更紗を手招きすると、目線だけで外へ行くと告げる。
「待たせた」
「いきましょうか」
 ごく自然にナギに手を取られ、一瞬自分がドレスを着た貴婦人になったような錯覚に落ちいる。胸がうずくような甘い感覚に苦笑し、緩く頭を振った。けれど、つないだ手はそのままに。なるべく人目に付かないようにそっと部屋を抜け出した。
 外へでると、清涼感のある風が二人の間を抜ける。大きく深呼吸して、ようやく息ができるような気になった。
 常に野外で生活していたナギには、息が詰まるような服も、人が食べる料理の濃い香りもすべてが息苦しく感じる。外の自然のままの香りがなによりもうれしい。
「つきあわせてすまない」
 繋いだままの手をはずそうかどうしようか悩んでいると、暁のどこかしょげた声が耳に入った。やや後ろを歩いている彼女の顔は見えない。けれど、ものすごく申し訳なさそうな顔をしているのは簡単に想像できて。ナギはそっと口端をもちあげた。
「僕が好きでつきあったんですから、あなたが謝る必要はありません」
 ふと目に入った東屋へ足を向け、ナギは首を振る。そう、自分が彼女の為に何かをしたかったのだ。それが己の好むことでなかったとしても。
「暁さん。先ほどの僕をみてどう思いましたか?」
 石でできた椅子はひんやりと心地よい。暁と隣り合わせで座り、ナギが尋ねる。
「ドラゴンか? そうだな……きれいだった」
 思い起こすように目を閉じ、数瞬の後に暁は吐息のように言葉をこぼす。まるで夢見るようなその表情は、彼女の本心を表していた。
「きれい……ですか?」
「ああ。もっと、爬虫類っぽいものを想像していたんだ。大きいトカゲかヘビのような」
 ほの明るい闇の中、暁は密やかに笑う。心底楽しそうな笑顔にナギも思わず笑い、続きを促した。
「でも、ぜんぜん違ったな。そうだな……宝石細工みたいに見えた」
 きらきらと輝く鱗は、黒真珠。額の宝玉は紫水晶。双眸は瑠璃細工。どこもかしこもきらきらと輝いていて、宝石の固まりのように見えた。
「……兄様は、なんていってたんだ?」
「紫苑ですか? ……あなたと同じく、きれいといっていましたよ」
「そうか……」
 あんなににていないと思った兄と同じ事をいうとは。それが少し意外で、どこかうれしく思う。
あえなくても、つながっていると、そう思える。
「暁さん」
「何だ?」
 不意に、まじめな口調で名前を呼ばれ、暁もおもわずかしこまる。すると、ためらいがちにのばされた腕が、優しく暁を抱きしめた。
「ナギ?」
 昨夜とまったく同じ出来事。ただ違うのは、暁が暴れずにナギも壊れものを扱うかのように優しく抱きしめていること。
「暁さん……その時がきたら……僕は、あなたに牙を剥くかもしれません」
「どういう意味だ?」
 訝るようにナギに問いかけると、返って来たのは苦しそうな声。
「僕には呪いがかかっているんです。自分では解くことの出来ない呪いです」
「呪い?」
 苦しそうに告げるナギの表情を見ようともがくが、その腕は決して緩められることはなく。優しい檻にとらわれたまま、暁はもどかしさに唇をかみ締める。
「もし、僕があなたに牙を剥いたら、ためらいなく反撃して下さい」
「そんなこと……! ……それを、私に頼むのか?」
 睦言のように甘くささやかれる、残酷な言葉。ナギの服を握り締め、暁は泣きそうな声で問いかけた。けれど、暁のほしい答えは返らずに。ただ、謝罪するようにこめかみに口付けられる。
「……わかった。けれど、そうならないことを……祈るくらいならかまわないよな?」
「……ええ、もちろんです」
 きっとその表情は泣き笑いのように歪んでいるのだろう。嬉しさと切なさを織り交ぜたような声でナギがうなずく。暁は一度目を閉じると、自らナギを抱きしめた。そしてまるで自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「大丈夫だ。ナギは……自分の意志で私にその爪を向けることはないのだろう? だから、大丈夫だ」
 ぽん、ぽんと幼子をあやすように、暁はナギの背中をたたく。びくりとナギの肩が大きくゆれ、やがて力が抜けたように暁に体をゆだねる。大きな子供のようなドラゴンをしばらく抱きしめていたが、やがてナギの方から暁を解放した。
「僕は、」
「大丈夫。何も言わなくてもいいから」
「暁さん……すみません」
「なにも謝る必要はない。ナギが悪い訳じゃないんだろう?」
「……」
 すべてを許すような、柔らかなほほえみ。
 なんで、この人間はこんなにもドラゴンに、人間の世界においては異端の自分に優しいのだろう。
 泣きそう表情を隠し、暁を振り切るように立ち上がる。そしていつもと同じ微笑を浮かべた。当たり前のように手を差しだし、さっきまでの話はなかったかのように振る舞う。
「戻るか」
 暁も、同じように微笑んでナギの手をとる。無理やりにでも微笑まないと、泣いてしまいそうだから。
 手を繋いだまま、くるときよりもずっとゆっくり歩いて帰る。まるでこのまま時間が止まればいいのにと願うかのように。





 迎春祭が終わり、今日で一週間がたった。外は日増しに暖かくなり、春の陽気に雪解けも進んでいる。
 ふと、書類を書く手を止め暁は耳を澄ました。かすかに聞こえる笛の音。ここ数日、ちょうど暁が疲れたと思う頃合いにまるではかったように音色が聞こえる。柔らかな音色に知らず微笑を浮かべていたことに気づき、暁は苦笑した。
「迎春祭が終わってから気がゆるんでいるな」
 一人ごちて、再び書類に目を向ける。と、今度はききなれた更紗の声が扉の向こうから聞こえた。
「団長、お荷物が届いてます」
「私に?」
 私邸ではなく、砦に届くのは珍しい。書類や手紙のたぐいならともかく、荷物とは。
「誰からだ?」
「ノエル家からですね」
 かすれてしまった名前を、眉間にしわを寄せて更紗が確認してくれる。東雲か千歳からの荷物にますます暁の表情が険しくなった。まさか、名前を語る誰かからの荷物なのだろうか。
「あけてみますか?」
「いや、私があけよう」
 飛び出す危険物ではあるまいしと、暁は荷物を受け取る。小刀で手際よく包みを開いていけば、でてきたのは美しい生地。さわり心地はさらりと手になじみ、色は光沢のある群青色。広げてみれば、それは一着のドレスになった。
「……ドレス?」
 いぶかるようにドレスをにらみつけていると、更紗の手が伸びてくる。背後から暁の体にドレスを当ててみれば、あつらえたようにぴったりだ。
「団長のために作られたもののようですね。きてみてはいかがですか?」
 少しだけ興奮したように更紗がいう。きっと家人が主人のためにあつらえたものあらば、着てくれるかもしれないという期待を込めて。
「執務中にドレスを着ては仕事にならないだろう。東雲か千歳か……。後で話を聞かないと」
けれど、返って来た声はまるで冬将軍のように冷ややかだ。やっぱりという思いともったいないという思いが入り交ざり、一瞬不満が更紗の中にたまる。それでも暁に何もいうことはせず、呆れた表情で机に戻る暁を見送った。
「そうですか……」
「更紗、そんな残念そうにいうな。私にはこの制服がある。ドレスを着て剣を振り回すことはできないだろう? 宝石を着けて、着飾って、陛下をお守りすることは出来ないだろう? だから、これでいいんだ」
 あまりにも沈んだ声でつぶやく更紗に苦笑し、暁はなだめるように告げる。更紗はまだ不満そうな顔をしていたが、無言で頭を下げると惜しむようにもう一度暁とドレスを見比べた。そして駄目押しとばかりに大きなため息をつき、更紗はドレスを丁寧に畳む。
布地を痛めないようにまた包み直すと、さてどこにしまおうかと悩む。隣は暁の仮眠室だが、果たしてそこにおいたら暁は捨ててしまいそうだ。
――トン トン
「あいている」
 不意に扉がたたかれ、更紗は荷物を抱えたまま居住まいをただす。やや遅れて扉が開くと、珍しくナギの姿があった。
 迎春祭の日にいわばお披露目となったナギが、時折中庭や暁の執務室へ姿を見せるようになっていた。しかし、よほど大切な用事がない限りは、滅多なことでは仕事のじゃまをしない。
 一度邸へ戻るかきいたが、どうやら西の離れが気に入ったらしい。大半は部屋にこもって本を読んだり笛を吹いて過ごしている。そんなナギが珍しく執務室へ姿を見せたことに、暁は驚きながらも笑いかけた。
「ここへくるなんて珍しいな」
「千歳さんから伝言を預かっていまして」
「千歳から?」
 そういえば、ナギの部屋には千歳からもらった手紙と甘味が山ほどあったなと思い出す。暁が甘味を好まないため、腕を振るう機会が少なかった彼女が、ナギのために日々精進しているようだ。
「ドレスが届いているかと思うんですが、千歳さんからのお祝いだそうです」
「お祝い? なにか祝い事なんてあったか」
 更紗に視線を向けて聞いてみると、更紗も首を傾げている。思い当たる節のない二人に苦笑し、誕生日ですよ、と告げた。
「……ああ」
 そういえば、今日が誕生日だったか。
 いつもは迎春祭と日が重なるため、多忙で忘れることが多かった。今年はたまたま迎春祭の後だったが、私邸に帰る暇がないと前もってつげてあったので、こちらへ荷物を送ったのだろう。いつもは私邸で千歳が腕を振るってくれるのだったが。
「そうだったんですか? 団長、おめでとうございます」
 短くはないつきあいとはいえ、更紗はまだまだ暁のことを知らない。素直に喜ぶ副官に苦笑し、静かにありがとうと告げた。
「暁さん、あとで離れにきていただいてもいいですか?」
「ああ、かまわない。夕方にはいこう」
「ありがとうございます」
 それだけ約束すると、ナギが暁のじゃまをしないように部屋を出ていく。更紗も太陽の位置を確認し、思った以上に時間を過ごしていることに気づいた。
「すみません、団長。私も失礼します」
 更紗からプレゼントを受け取る――というよりも、押し付けられると、暁は小さなため息をもらした。
毎年忘れていた誕生日。家族がそろっていたときは楽しみで仕方がなかったが、母が亡くなり兄がいなくなり、そして父も亡くなった。千歳が毎年ささやかに祝ってくれるが、そろそろ誕生日を喜ぶ年でもない。それに、祝い事のうれしさよりも家族のいない寂しさだけを強く感じてしまう。
「それにしても、今年に限ってなんでドレスなんて」
 首を傾げて手の中に収まる包みを見つめる。いつもは手料理だけだったのが、今年はいったいなぜなのか。
 考えても理由が思い当たらずに、暁はあきらめたように首を振るのだった。



 夕刻の鐘が鳴り、一日の仕事がようやく終わる。今日は宿直の仕事はなく、迎春祭という大行事が終わったばかりのためする事もない。凝り固まった体をほぐしていると、失礼します、と甲高い少女の声が聞こえた。
「暁団長、西のお客人から伝言です」
 まだ見習いの少女は、緊張と興奮に顔を真っ赤にしてメモを持ってくる。執務机までのほんのわずかな距離に二回もつまづきそうになりながら。
「ありがとう」
 ほほえましさに思わず笑いかけると、少女の頬がいっそう赤くそまる。そして大きく頭を下げると、ぱたぱたと走って部屋を出た。本当はもっと落ち着いて行動しなさいといいたいところだが、年齢からしてきっとまだ入ったばかりの少女なのだろう。少しくらい多めにみなければと苦笑する。
「今日は珍しいことばかり起こる一日だな……」
 メモにはたった一言、ドレスを着てきてくださいとだけ書いてある。思っていたよりも流麗できれいな字は、やや古風な書き方だったが、よめない範囲ではない。
「私にドレスが似合うはずがない」
 ため息をついてメモをくしゃくしゃにつぶし、怒ったようにくずかごに放り投げた。なにより、ドレスのきかたなど等の昔に忘れてしまったのだから。
「…………」
 ナギからのむちゃくちゃな注文に、一瞬会いに行くのをやめようかなとも思う。けれど、あの夜からもう一週間もたっているのかと思うと、胸がざわざわして仕方がない。なんとなくもやもやした気持ちを持て余し、暁はいらつきを逃すように深く呼吸する。幾度か繰り返せば、少しだけ冷静になれたような気がした。
「団長、失礼します」
「更紗、どうした? 今日は宿直じゃないだろう?」
 不意に扉が開き、仕事が終わったはずの副官が入ってくる。
「ええ、もう仕事は終わりました。ナギ殿からお願いをされましたので」
 にっこりと笑うと、更紗は暁の手を取りぐいぐいと隣室へ引っ張り込む。なにがなにやらわからないまま、暁は困惑したように副官をみた。
「更紗?」
「さっきのドレス、お手伝いいたします」
「……いったいいつのまにそこまで仲良くなったんだ?」
 あれほど毛嫌いしていたドラゴンの頼みを聞くなど、どういう風の吹き回しなのか。
 あきれたようにつぶやくと、無言の笑みで質問をかわされる。それにあきらめたようにため息をつくと、暁は渋々制服を脱ぎだした。
 肌着一枚になった暁に、更紗は手際よくドレスを着付けていく。
胸元には精緻な刺繍の縁取り。ゆったりとした袖は二の腕を隠すくらいで、引き締まった腕を華奢に見せている。
裾はあまり大きく広がらず、すとんと足元に落ちているような形だ。胸元のすぐ下に切り切り替えしがきているため、背の高さよりも足の長さが強調されている。全体的にすっきりとしていて、ごてごてした飾りは一切なく胸元とおそろいの刺繍が裾に施されているばかりだ。
特徴的なのは、前丈は膝が見えるか見えないかの長さに対して、後ろの丈はくるぶしまでの長さ。自然なドレープを描くドレスは、光の加減で菫色にも深い青にも輝く不思議な色だ。
「団長、すごくきれいです」
 うっとりとしたように更紗はつぶやき、微妙な表情の暁はあきらめた顔で化粧鏡の前に座っている。もう好きにすればいいと無言でされるままだ。
「髪型はどうしましょう。いつも結い上げられてますから、たまにはおろしましょうか」
 香油をたっぷりと髪になじませ、更紗は丁寧にすいていく。どんどん艶が増す深紅の髪は、薔薇の香りも相まって本物の花のようだ。
「団長は髪が豊かですから、全部おろすとちょっと重たいですね」
 うきうきとした口調でつぶやき、少し迷ってから手際よく指を動かしていく。
 こめかみのあたりから髪をすくいとり、くるくると器用にまとめていく。頭頂近くに金と真珠の髪留めでとめると、流した髪をさらにくしけずった。そしてとっておきなんですよ、と光にきらめく銀粉を散らす。耳には涙型に揺れる真珠の飾りを、開いた胸元には金鎖を幾重にも重ねたネックレスを。
 うっすらとおしろいをはたき、金粉で軽くまぶたをいろどったら、そこには見慣れた騎士団長ではなく立派な貴婦人の姿。
 最後にドレスに合わせた銀灰色の靴を差し出すと、更紗は満足そうに何度もうなずいた。
「完璧です」
「……あのな、更紗。こんなに着飾ったって私には似合わないし、第一ナギにあうだけなのになんでこんなに気合いを入れないといけないんだ?」
「千歳さんと東雲さんからのお願いなんです」
「千歳と東雲? いったい何の話だ?」
「いいんです、団長は分からなくても。ほら、早くナギ殿のところへいってください」
 ろくに理由も告げず、更紗は暁をせき立てる。結局暁は押されるようにして西の離れに急ぐのだった。



 離れに向かうまでに、団員の何人かとすれ違う。最初は誰かわからずにいた団員も、ぎょっとしたようにわざわざ振り返ってまじまじと見つめるのだから、居心地悪くて仕方がない。
夕刻の鐘からずいぶん時間がたっていて、昼間よりさほど人が多くないことがすくいだ。
 細いかかとの靴は歩きにくく、いつもの倍くらい時間がかかってようやく離れへたどり着く。そして改めて、ドレスを着ていることが気恥ずかしくなってきた。
扉から離れたところで悩んでいると、離れから人影が出てくる。いつもよりも明るい室内の光に、ナギの表情はわからない。思わずきびすを返して逃げ出したくなる衝動を無理矢理押さえると、軽くうつむいて唇を堅く引き結んだ。
「暁さん、お待ちしてました」
 夜会の時と同じ服をきて、ナギは暁に手を差し出す。当たり前のように差し出される手におそるおそる乗せると、紫暗の瞳がいたずらに輝いた。
「失礼します」
 一言つげ、ひょいと横抱きされて。突然の出来事に、暁は言葉を失う。
「な、な、な……っ!」
 なにをする、といいたいのか、ナギ、と怒鳴りつけたいのか、言葉がでてこな椅子たすたとためらいなく歩き出された不安定さに、おもわずナギの首にしがみついてしまった。羞恥と怒りと困惑に顔色を変え、暁はただ口をパクパクするばかりだ。
「ドラゴンの翼をみたことがありますか?」
「あるわけないだろうっ! それよりも早くおろせ!」
 じたばたと暴れる暁を難なく押さえ込むと、ナギは密やかに微笑する。
「しっかり捕まっていてくださいね」
 気づけば離れの窓辺にたっていた。すでにあけ放たれていた窓からバルコニーへ一歩でると、ナギが口の中で何かつぶやいた。とたん、ふわりと音もなく二人の体が浮き上がる。
「――――ッ!!」
 驚愕に叫ぶ声もでないまま、暁はきつく目をつむりただただナギにしがみつく。そんな彼女の耳に、穏やかな声が届いた。
「大丈夫ですよ、目を開けてみてください」
 いわれるままおそるおそる目を開けてみれば、周りは満点の星空。遙か彼方に砦の明かりがぼんやりと見えるばかりだ。
「すごい……」
 呆然としたようにつぶやき、驚きも忘れて暁は景色に魅入る。その様子に満足したように笑い、ナギは空中を飛び始めた。
「空を飛ぶって……こんな感じなんだな」
 なんとも表現しようがなく、まるで子供みたいなことをいってしまう。口に出した後羞恥を覚えるが、一度零れ落ちた言葉は消すことは出来ない。けれどナギは馬鹿にするでもなくただ微笑み、少しだけ速度を落とした。
 少しだけ周りを見回す余裕が出てきたのか、暁は好奇心を抑えきれずにきょろきょろする。ふと視界の端に何かが映り、暁は抱き上げられていることも忘れてナギの背後を見ようと首を伸ばす。
「ドラゴンの翼?」
「ええ。完全な姿には戻れませんが、一部だけなら戻れるみたいです」
ばさり、と風を切る音が聞こえ、今度はそれが良く見えた。てっきりコウモリの羽のようなものを想像していたが、見えるのは黒っぽいもやが固まったもの。見せてもらったドラゴンの姿と結びつかずに首をかしげると、ひそやかな笑い声が耳をくすぐる。
「ドラゴンの姿にもどったときと、形が違いますよ」
 まるで暁の考えを読み取ったかのように、ナギが笑いを含んだ声で告げた。驚く暁は、素直に眼を丸くして問い返す。
「そうなのか?」
「ええ。ドラゴンの翼は、この姿に不釣合いだって紫苑が言ったんですよ」
 確かに、穏やかで優しい外見にごつごつしたドラゴンの翼は似合わないだろう。想像してみてもあまりにちぐはぐで、笑えてしまう。そんな暁に、ナギは懐かしむように告げた。
「鳥のような羽かってきいたら、そんなふわふわしたかわいい翼じゃなくて、もっと綺麗な黒い翼が似合うって」
「兄様が?」
 顔を上向けて問いかけると、思ったよりも間近にナギの顔があった。端正な顔立ちに一瞬胸が高鳴り、あわてて景色に視線を戻す。そんな暁のどぎまぎに気づいたのか気づかないのか、ナギは静かに微笑んだ。
どれくらい砦から離れたのか。眼下に広がるのは、黒い森ばかり。山深いシルベスティアは、平地よりも山地のほうが多い。そう知識として認識はしていたが、改めて空から見ればそれが一目瞭然だ。
ほのかな月明かりに照らされる森は、美しいというよりも畏怖と恐怖を感じる。まるで今にも吸い込まれてしまいそうな奇妙な感覚に、暁は知らずナギにしがみつく。
 そんな暁に困ったように苦笑すると、ナギは無言で速度を緩めた。ゆっくりと空中散歩を楽しむようにふ、わりふわりと遊ぶように飛ぶ。
「無理を言ってドレスを着ていただいて、ありがとうございます」
「いや……千歳と東雲からの頼みなんだろう?」
 げんなりとしたように暁がいうと、ナギは苦笑してあいまいにうなずく。それの意味を図りかね、暁はなるべく顔を動かさないように視線で問いかける。
「千歳さんと東雲さんにお願いしたのが、僕なんです」
「どういう意味だ?」
 目を瞬かせて尋ねるその表情に、怒りの色は見られない。そのことにほっとし、ナギは悪戯が見つかった子供のように少しだけ首をすくめる。
「どうしても、あなたのドレス姿が見たかったんです」
「…………私の、ドレス姿が?」
「はい。あの夜会の日、あなたはすごく綺麗で……でも、きっとドレスを着たらもっと綺麗なのだろうなと思って」
「…………」
 あのエスコートされたときにそんなことを考えられていたとは思っても見なかった。
 損得抜きで綺麗だなんていわれたことはなくて、暁は恥ずかしさに顔に血が上るのはわかる。きっと顔どころか耳まで真っ赤になっていることだろう。暗い夜空でよかったと、心底安堵する。
「僕は、ずっとあなたに興味がありました。最初はどんな人間なのか、紫苑の妹だと知ったあとは、彼の言うことが本当なのか。そして……今は、あなた自身に興味があります」
 どこか熱を帯びた声。その艶めいた眼差しに別の意味で赤くなる。
 なんと答えていいのか分からずに沈黙する暁にどう感じたのか、ナギは静かに微笑んだ。そしてまたゆるりと翼をはためかせる。
「……紫苑からあなたの話をたくさんききました」
 なんとなく居心地の悪い思いをしながら実を縮こまらせていた暁は、はっとしたように視線をナギに戻した。しかし、その眼差しが交わることはなく。ナギは遠くを見つめたまま静かに語りだす。
「妹はとてもおてんばで、女なのに剣を振り回して馬にのって駆け回る。自分よりもよほど正義感が強く――自慢の妹だ、と。そう、紫苑が言っていたんです」
「兄様が……」
 おぼろにほほえむ姿しか覚えていない、優しい兄。その兄が、まさか自分をそんな風にみていたんて気づきもしなかった。ただいつも、何をするにしても決して反対することはなく、必ず自分の味方でいてくれたことだけはよく覚えている。
「僕はあなたに嘘をついていました」
 風を切る音があるのに、小さなナギの声がはっきりと聞こえた。もしかしたら、何か魔法を使っているのかもしれない。
「初めて出会った日、気づいたらこちらの世界にきていたといいました。でも……それは違うんです」
「どういう意味だ?」
 驚きの眼差しでドラゴンを凝視していると、ナギの顔に苦い笑いが浮かぶ。暁の問いに答えないまま、ナギは少しだけ悲しそうな顔で微笑むと大きく翼を動かした。
 どれくらいの沈黙か。気づけば、迎春祭の夜に話をした東屋の上にたどり着いていた。
「ナギ?」
 ふわりと羽のように音もなく暁を地面におろすと、すっと手を差し出す。その表情はいつもと変わらず穏やかで優しい。問いつめたい気持ちをこらえて、暁は手を取った。
「踊りませんか?」
「え?」
「年に一度だけ、ドラゴンにも祭があるんです。でも、みんなただ騒ぐだけでなんとも楽しくない」
 きっとナギはドラゴンの中でも変わり者なのではないだろうか。ふとそんなことを考えながら戸惑っていると、ぐいっと腰を抱き寄せられる。
「おど、踊れるのか?」
「ええ、みましたから」
「……みただけでステップが覚えられるのか」
「ドラゴンの記憶力は高いですから。踊れますか?」
 くすくすといたずらに笑えば、紫暗の瞳が子供のようにきらめく。その眼差しから逃れるように暁はうつむいた。
「……うろ覚えだ」
 ダンスなんて、いつぶりだろか。たぶん、まだドレスをきていたときだからそうとう幼い頃だろう。いつも夜会の時は誰とも踊らずにいたから。
「足を踏むかもしれない」
「大丈夫ですよ」
 笑い声を多分に含ませながら、ナギはステップを踏み始める。以外と軽やかな足取りにリードされ、なんとかついていく。時々足が当たったり踏みつけたりしても、ナギは表情にも出さない。
 いつしか、あたりは濃密な花の香りに包まれていた。薄曇りのなかから淡い月光が二人を照らし、それだけで舞台は完璧だ。
「暁さん」
 不意に、熱を帯びた声で名前を呼ばれる。夢のような時間に浸っていた暁は、はっとして顔を上げた。そして、どこか苦しそうな紫の眼差しとぶつかる。
「もしも、僕が一緒に来て下さいといったら、あなたはついてきてくれますか?」
「……え?」
 唐突な告白に、暁は目を見開いて言葉を忘れる。なにをいっていいのかわからず、どうしていいのかもわからない。ただ、時がとまったようにナギを凝視するばかりだ。そんな暁に切ない表情を浮かべ、ナギは泣きそうな顔で微笑む。
「あと、一週間後に扉が開きます」
「なん……だって?」
 それは、ナギが傍からいなくなってしまうこと。そのことにきづき、暁は呆然とドラゴンを見つめた。
「あなたと、離れたくない。あなたが好きなんです。僕の伴侶になってくれませんか? ……僕と一緒に、来て下さい」
 伴侶になって異界へ行くか。伴侶にならずにこの世界に残るか。答えは二択しかない。その真ん中の選択肢など、ないのだ。
 暁の戸惑いに気づいたのか、ナギが少しだけ悲しそうな顔をする。そして、言葉を紡ぐ。
「……すみません、忘れてください」
 あなたを、困らせるつもりはないんです。
 ほろ苦い微笑を浮かべ、ナギが告げる。
「私は……」
 なぜか泣きたい気持ちのまま暁はつぶやく。けれど、答えはでないまま言葉は空中に消えて。瞬き一つの時間なのか、それとも長い時間がすぎたのかわからないまま、うつむいた。
「戻りましょう」
 立ち上がり、手を伸ばす。さっきの告白などなにもなかったかのように。けれど、暁はその手を取ることができなかった。きちんと答えないままうやむやにしてしまうには、ナギの言葉が頭から離れないのだ。
「暁さん?」
「……すまない、もう少し、ここにいさせてくれ」
 ナギの顔を見れないまま、暁は小さな声で告げる。さらりと衣擦れの音がしてふわりと上着がかけられた。むき出しの腕に、ぬくもりの残る上着が暖かい、知らず抱きしめるようにしてそれでも俯いていると、そっとこめかみに口付けられる。
「だいぶ冷えてしまったでしょう? 先に戻ります」
 東屋からでたとたん足音が聞こえなくなったのは、そのまま飛んでいったためだろう。
 温もりの残る上着をきつく抱きしめ、暁は目を閉じた。
「ナギ……」
 ドラゴンの、熱を帯びた眼差しが忘れられない。壊れ物を扱うように抱きしめられたぬくもりが、今も身を包み込んでいる。
 答えを出せないまま、暁は静かに涙をこぼし続けた。



 翌日、寝不足のまま暁はベッドから身を起こす。あの後部屋に戻ってきてからほとんど眠れなかった。ナギの告白をどうすればいいのかわからず、一週間後に扉が開くということも実感がわかない。
 ため息をついて身支度を整えると、書き置きを残して部屋を出た。滅多に赴くことはないが、今回はどうしてもいって聞いてこなければならない。
 砦をでて馬を走らせることしばらく。森を抜けた先にそれはある。古びた石造りの建物で、城と呼ぶには小さく屋敷というには大きい。管理者たちの館だ。
 馬を手近な木につなぎ、古びたノッカーをたたく。しかし、人の気配はまったくない。少しだけ迷ってから、暁は扉を押しあけた。以外と簡単にあいた扉から、ギィッと小さなきしむ音が聞こえる。中は薄暗く、天窓から差し込む明かりに埃がきらきらと舞っている。カツン、と暁の靴がなる音が高く響いた。
「ノエル・暁だ。誰もいないのか?」
 暁の声は張りがあり、よく通る。少し大きな声を出せば、館中に声が響きわたった。
 少し沈黙してまっているが、やはり人の気配は全くない。あきらめのため息をもらすと、暁は仕方なさそうに歩きだした。
 玄関ホールの真正面――暁の目の前にある階段を上って二階へ行くか、左右にある扉をたたいてみるべきか。
 しばし迷ってから、暁は階段を上った。緩やかな螺旋階段を上ると、左右にまた扉がある。
「すまない、誰かいないのか?」
「おや? その声は騎士様ですか?」
「時雨殿」
 もこもこの顔が左の扉からひょいとのぞき、暁はほっと安堵の吐息を漏らした。手招きされるままに大股で歩みより、時雨がひっこんだ部屋へ入る。
「声をかけても返事がなくてな。勝手にはいってすまなかった」
「いやいや、おきになさらずに。今館には私一人しかおらんでの。気づかなくてすまなんだ」
 椅子の上に雑多に積み上げられた本やら小物やらを部屋のすみにせっせと運び、ようやくあいた椅子に暁を座らせる。少し待っていてほしいとつげ、時雨は隣の小部屋に消えた。
 手持ちぶさたに辺りを見回してみると、一見乱雑に見える部屋が意外と整頓されていることに気づく。なにに使うかわからないが、星見図のようなものや地図のたぐいがまとめられ、本は本と一つの場所にまとめられていた。ただ、整理されているかといわれれば答えは否だが。
「待たせたの」
 そういって時雨が持ってきたのはつんとした香りのするお茶。たぶんミントか何かのハーブティーなのだろう。
「して、騎士様じきじきにこちらにこられるとは、なにか重大事でも起きたのですかの?」
「いくつか、聞きたいことがあって」
 迷うようなそぶりの暁に時雨は首を傾げ、お茶を一口すする。無言で待ってくれる気遣いに微笑し、暁も唇を湿らせた。
 しばし無音の時がすぎる。時折開いた窓から鳥の声や木々のささやきが聞こえる以外、なんとも静かな空間だ。
 香りのよいお茶に、気づかず緊張していた体がほぐれていく。
「ナギ……ドラゴンから、興味深い話を聞いた。一つは、一週間後に扉が開くという話。もう一つは……人間を、伴侶にしたいという話し。この二つは、実現するのかどうか、伺いたい」
 暁の琥珀の眼差しが、どこか傷ついたように揺れている。それをみながら、時雨は密やかにほほえんだ。きっと、ぼやかした暁の言葉の真意に気づいたのだろう。どこかいたわるような口調で告げる。
「まず、扉が開くかどうかはあとで確かめてみますじゃ。そして、ドラゴンと人が交われるか。答えは是」
「本当なのか?」
 意外な答えに驚き、暁は時雨を凝視する。その強い眼差しをまっすぐ受け止め、時雨は話を続けた。
「古い文献になりますが、昔はそういったこともあったようですじゃ。精霊と人間、ドラゴンと精霊。多種族で交わり、血が混じったもの同士でまた交わる。今となっては考えられないことですじゃがの」
 よっこいしょ、と声をかけて椅子から降りると、時雨は確かこの辺にと、本が固まっている一角をごそごそとあさる。そしてあれでもないこれでもないといいながら、ようやく目当ての一冊を取り出した。
 それは革張りの表紙に金で難しいタイトルが書かれている分厚い本。だいぶ読み込まれているのか、昔は豪華だった装丁は剥がれ落ち、丁寧に修復した痕跡が見える。それを壊れ物のように机に置くと、時雨は迷いもなくページを開いた。
「これですじゃ」
 そういって開いたページは、暁には読む事のできない難解な古代文字。思わず顔をしかめると、時雨が声を立てて笑う。
「ドラゴンや精霊は人の姿となり、人間と交わった。人間は彼らを歓迎し、喜んで迎えた。しかし、蜜月は短かった。やがて、人の姿でありながら人間ではないもの、人の姿ではないのに人間のようなものに、人間は畏怖と恐怖を抱く。そのころから、異種族の交わりは少なくなっていった。そして、今まで行き来されていた扉は閉ざされる。人間は人間だけの世界に残ることになった」
 朗々とした声で読み上げると、古代文字を凝視している暁に視線を向ける。
「ナギ殿は、なんと?」
 穏やかで優しい声音。まるでずっと昔に亡くなった祖父とはなしているような気分になる。誰もいなくなった家族を思い出し、暁は不意に泣きたくなった。
目頭が熱くなり、あふれ出そうになる涙をこらえる。そんな暁に声をかけることなく、時雨はただ優しく見守る。やがて暁の胸を渦巻いていた激情が収まり、吐息とともに吐き出した。
「……私を、異界へ連れて行きたいと。……伴侶になってほしい、と」
 きっと誰かに話したかったのだろう。時雨に告げると、すっと胸が軽くなったような気分になる。
少しだけ落ち着きを取り戻した暁に時雨は優しい眼差しを向け、静かに問いかけた。
「騎士様はどうされたいのじゃ?」
「私?」
 当たり前のようで、まったく予想していなかった質問。暁は戸惑いと驚きに顔を上げた。そして何かを言いよどむように視線を揺らめかせ、迷子の子供のように唇をかみ締める。
「私は……」
 答えはきっと決まっている。心がナギを求めて叫んでいる。けれど、それを口にすることは出来ない。口にしてしまえば、後戻りは出来なくなるのだから。
「……そうそう、扉が開くかどうかも調べるんじゃったな。少し待っていてくだされ」
 黙りこんでしまった暁に、あえて軽い口調で時雨はいう。冷めたお茶を暁に勧め、再び小部屋へ消えた。きっと時雨なりの気遣いなのだろう。ぐちゃぐちゃの気持ちを抱えたまま、暁は緩く頭を振る。
「ナギ……」
 真剣な眼差し。いつになく熱を帯びた口調。抱きしめられたときの、ぬくもり。
思い出せば、心がふるえる。空を飛んだときの感覚も、魔法で見せてもらった彼の本当の姿も、なにもかもに魅せられた。
 けれど。
「……私は、白銀の薔薇騎士団団長だ」
 つぶやき、唇をかみしめる。暁という一人の女という前に、騎士団長という立場がある。それを捨てることはできない。――どんなにしたくても、捨てることは、できない。
「騎士様、お待たせしましたかの?」
「……いや、ありがとう。大丈夫だ」
 どこか吹っ切れたような表情の暁に声を立てて笑い、時雨は一枚の洋紙皮をもってきた。
「こちらを見てくだされ」
 そういって、複雑に描かれた図形の一点を示す。暁にはなんなのかさっぱりわからず、首を傾げると時雨が難しい声で告げた。
「これは、扉が開く時の天体図です。今日から一週間みてみたのですが、まったく変化がないのですじゃ」
「変化がない?」
「そう。扉が開く兆候は必ずどこかに現れるのが普通ですが……まったくかわりがない。ということは、自然現象で開くというものではないという事になりますじゃ」
「人の……ドラゴンの力で開かれるのか?」
「そうですじゃ」
 うなずき、落胆したように時雨は肩を落とす。自然に開く扉ならば、いつ、どこで開かれるのか確認することができる。しかし、なんらかの力であけられてしまえば、予想などできようはずもない。管理者としての力不足に時雨はやるせなさそうに首を振った。
「ほんに、申し訳ないですじゃ」
「いや、それがわかっただけで十分だ。ありがとう」
 暁は穏やかに微笑し、立ち上がる。そうとわかれば、ナギに聞くしかない。
「じゃましたな」
「騎士様」
 早足ででていこうとする暁を呼び止め、時雨は一瞬いいよどむ。黙って続きを待つ暁をじっと見つめ、告げた。
「私はドラゴンの血を引いております。もうだいぶ薄くなりましたが、それでもドラゴンの血を引いているのです」
「……そうだったのか」
「だから……どうか、悔いのないようになさってくだされ」
「……ありがとう」
 まるで暁の決意を知っているかのような言葉。ドラゴンとともに歩めるという、一つの道を示してくれたことに、暁は感謝する。



 管理者の館をでると、暁はまっすぐナギのとへ向かった。迷いのない足取りで離れに向かえば、まるで待っていたかのようにナギが出迎えた。
「そろそろお話にこられる頃だと思いました」
 ふわりといつもの穏やかな表情で暁を出迎えると、彼女のために椅子をあける。前もって誰かに頼んであったのだろう。テーブルの上にはナギが好んでよく食べるクリームたっぷりのスコーンに、暁のために甘くないレーズンを練りこんだパンが並んでいた。隣のティーポットには、二人分の紅茶が入っているのだろう。
「どうぞ」
 カチャとかすかな音を立ててカップが暁に差し出される。そのままナギは黙って暁の言葉を待った。どこか緊張をはらんだ沈黙は居心地悪く、暁はそれをごまかすように紅茶を一口飲む。そしてためらいがちに口を開いた。
「時雨殿から、一週間後に扉が開くかどうか話を聞いてきた。けれど、自然現象で開く兆候はないという。……全部、最初からはなしてくれるか?」
「……そうですね。どこからはなしましょうか」
 なるべくナギに負担をかけないようにと、暁は静かに言葉を待つ。口火を切ったことで落ち着いたのか、木々のざわめきと鳥のさえずりに、不意になにもかもよくなってくる。このままなにも聞かずに、ただ静かにナギと語らいたい。そんな衝動を押さえつけ、暁は深く呼吸した。
「きっかけは、紫苑がきたことでしょうか」
 遠い昔を懐かしむように、ナギが言葉を紡ぎ出す。口端だけで静かにほほえみを浮かべ、まるでそこに友人がいるかのような口振りで。
「あの日はひどい嵐の日でした」



 あたりは曇天に包まれていて、遠くで雷鳴の光が見える。雲を切り裂くように所かまわず光はあふれ、地響きのような腹に響く低い音が何度も聞こえた。
 その時ナギが住処にしていた湖にも例外なく嵐は吹き荒れ、たたきつけられるような雨粒に、ドラゴンである自分ですら顔をしかめるほどだった。
このまま湖深くにもぐってしまうか、それとも近くの洞窟に身を隠すか。とにかく雨の当たらない場所に避難しようと思っていた矢先だった。
「……なんだ?」
 突然、空が割れた。ぽっかりとそこだけ青空が見え、数日隠れていた太陽がそこにだけ顔を覗かせているのだ。
天変地異の前触れかと翼をはためかせようとした矢先。何かが空から降ってきた。
 それは見たことのない生き物で、けれどこのままでは湖にたたきつけられてしまう。重力にしたがって落ちてくる生き物をみて戸惑ったのは一瞬。ナギはとっさに魔法を使った。
 落ちる速度をゆるめ、空気の膜で包み込む。そしてゆっくりと目の前に浮かんだそれは、何とも小さくてすぐに壊れてしまいそうだった。
 ドラゴンの自分でさえいとうこの嵐に、この生き物が果たして無事でいられるのか。迷ったのはごくわずかで、ナギはそのままその生き物をつれて湖を離れた。ドラゴンの翼でほんのわずかな距離にあるそこは、雨も風も入らない洞窟。そこに小さな生き物を横たえ、そして途方に暮れた。
「……どうしたらいいんだ?」
 翼も爪もない奇妙な生き物。己の爪でつつけばすぐに壊れてしまいそうなそれは、ぐったりとしていてぴくりとも動かない。まさか死んでしまったのかと耳を澄ませば、かすかな呼吸の音が聞こえた。
「……おい、おまえ、起きろ。死んでしまうぞ?」
 細心の注意を払って爪先で何回かつつくと、その生き物はうっすらと目を開けた。そして唇だけで何かつぶやき、また目を閉じてしまう。
「寒いのか?」
 首をかしげて聞き返すが、また意識を失ってしまったのだろう。ナギは少しだけ考えてから、小さく歌を歌った。それは水気を払い、暖かな空気を呼び込む魔法の歌。水の性を持つ自分はあまり得意ではないが、とりあえず寒さを取り除いてやらないとひ弱な生き物は死んでしまうのだろう。
 やがて歌が終わるころ、雪のように白かった肌には僅かに紅色がさし、弱弱しかった呼吸も徐々に深く安定したものに変わる。ようやく安堵の息をもらし、ナギはまじまじと拾った生き物を観察した。
 姿かたちはドラゴンよりも鳥に似ているだろうか? 柔らかそうな長い毛が生えているが、全体的につるりとしている。造形だけみれば、ナギの感覚的に美しいと感じる生き物だ。
 傷つけないように細心の注意を払ってつつくと、柔らかな感触が返ってくる。どこか庇護欲を感じさせる生き物は、捕食の対象に見ることは出来ない。
「じいさまなら何か知っているか」
 ふと、黒龍の古老を思い出した。彼は黒龍一族の中でも長寿で、もうすぐ二千年を生きるかという老龍だ。
 外を見れば、あれほどひどかった雨はようやく小降りになり、所々青空が見え隠れしている。ようやく自分の好きな雨空に変わり、ナギは嬉しそうに笑う。そして生き物をその場に残し、洞窟の外へ出た。
小さく口の中で水精を呼べば、我先にと喜ぶように集まってくる。たくさんよってきた水の精霊に笑い、ナギはもう十分と声をかける。そして水精をより集め、巨大な水の鏡を作った。そこに三回角を押し付け、間空けてもう二回角を押し付ける。そうすれば、ぼんやりと滲むように景色が写りだした。
「ナギか、珍しいな」
 どうやら眠っていたらしい老龍は、のそりと首だけ持ち上げて億劫そうに口を開く。そんな彼にお構いなしに、ナギはせきこむように話しかけた。
「じいさま、一つ聴きたいことがある。さっき変な生き物を拾ったんだ。だいぶ弱っているみたいで、助けたいんだけどどうしたらいい?」
「変な生き物?」
「ああ。これだ」
 聞き返す老龍に、眠っている男の姿を見せる。それを見た老龍ががばりと勢い良く体を起こした。
「ほうほう、これは久方ぶりに見たな。人間だ」
「人間?」
「我々とは別の世界に住んでいて、かれこれ千五百年……いや、八百年にはなるか。もう交流はたたれたはずだが……迷子か」
「どうすれば元気になる?」
「お前が何かに興味を示すのは珍しいな」
 どこかからかうような老龍の口調にむっとし、けれど言い訳は口にせずにただ押し黙る。そんな若者の姿に微笑み、老龍は口を開いた。
「人間はとても脆弱だ。生きるも死ぬも、その人間の体力しだい。……そうさの。暖めた水を冷ましてから少しずつ飲ませてやるといい。薬草は強すぎる。お前の鱗を一枚せんじてやりなさい」
 ドラゴンの鱗は万病にきく薬だ。あまり誰かに分け与えるものではないが、親が子へ、恋人が愛しい相手に与えることは時々あることだ。一瞬鱗を与えることに嫌悪感を感じるが、鏡越しに見える老龍の眼差しがいつもに増して厳しいものだと気づき、ナギはうなずいた。
「わかった。あとは?」
「暑くもなく寒くもない気温でしか生きられない生き物だ。昔、鳥を世話していたことがあっただろう? あれみたいにしてあげなさい。しばらく何も食べれないだろうから水だけ与えておけば大丈夫だろう。ああ、お前の鱗は七日に分けて与えてあげるんだ」
 いくつかの老龍の言葉にうなずき、ナギは鏡を消す。口の中で何度か繰り返しながら、なんとも面倒くさい生き物だとため息を漏らした。それでも、見捨てる気分に慣れないのは不思議だ。
 そしてナギが人間を拾って三日がたったころ。ようやく意識を取り戻した人間は、ぼんやりと辺りを見回した。
見慣れない洞窟の中。遠くに見える出口からも、見たことのない景色が広がっている。
「ここは……」
 ポツリとつぶやくと、外から戻ったナギがゆっくりと近づいてきた。老龍の話では、人間はもうドラゴンを見たことがないらしい。驚くか、わめくか、逃げ出すか。どんな反応をするのかやや緊張しながらも、静かに声をかけた。
「目が覚めたか?」
「……ドラゴン? 本物か?」
「あいにく、偽者になった覚えはないな」
「……綺麗だ。美しい生き物だ」
 人間の言葉に、ナギは大きく目を見開き、まじまじと小さな生き物を見つめる。そんな反応をされるとは思ってもいなくて、逆にどう返事をしたらいいのかわからない。
「君が助けてくれたのか?」
「あ、ああ。空からお前が降ってきたんだ」
「空から……そうか、ありがとう。僕は紫苑。君の名前を聞いても?」
「ナギだ」
 それが、ナギと紫苑の初めての出会いだった。



 不意にナギの言葉が途切れ、暁は知らずつめていた息をゆっくりとはきだす。そして思い出したように冷めた紅茶を口に運んだ。
「目が覚めた紫苑は、なぜ自分がここにいるのかわからないといっていました。王宮へ向かう途中、落雷で馬が驚いて投げ出されたそうです。それから先のことは、まったく覚えていませんでした」
 きっと、その時に扉が開いていたのだろう。時雨の話では、扉が開くときはきまって天気が悪くなるということだ。
兄は、自ら姿を消したわけでもなく、誰かにかどわかされたわけでもなかった。その事実が嬉しくて、暁は硬く目を閉じる。知りたくてどうしようもなかった、兄が消えてしまった理由。自分を、家族をおいて姿を消したのは、仕方のないことだったのだ。
「……それで、どうしたんだ?」
 流れそうになる涙を飲み込むと、ナギに話の続きを求める。ナギは小さく微笑み、冷めた紅茶で唇を湿らせた。
「紫苑がきてから、一年ほどたったころでしょうか。僕と紫苑は、黒龍の長に呼ばれました」
 ナギの口調がどこか重々しくなり、表情は憂いに満ちている。きっと、ここからが本題なのだろうと暁も姿勢を正す。そんな彼女に気づいているのかいないのか、ナギは目を閉じて話し出した。
「長から紫苑のことや人間のことをきかれ、聞かれるままに答えました。じいさまと長は不仲でしてね。あまり人間の世界のことや彼らのことは知らなかったようです」
 そして、長が出した結論は。
「人間を奪い、ドラゴンという種族を生きながらえること。僕は、そのためにこちらへ行きました」
「人間を、奪う?」
「あなたのように精霊の血を引いているものや、ドラゴンの血に耐えることが出来ることのできる人間を探し出します。そして異界へ連れ帰り……ドラゴンと交わらせるのです」
「何のために」
 ナギの言葉の意味に暁は思わず顔をしかめた。まるで人間の意志を無視したその行動は、侮辱以外のなにものでもない。
 そんな暁の思いに気づいたのか、ナギも苦い表情で口を開く。
「……ドラゴンは、いえ、黒龍という種族は、今種の危機に陥っています。幾度も近親婚を繰り返し、他種族とはいっさい交流をたっていました」
 黒龍は特に誇り高いドラゴンの一族らしく、他のドラゴンと交わること、ましてや精霊や他の生き物と交わることなどもってのほかという古い考えが根付いている。しかし、それが災いとなった。
ドラゴンの中でも長命な黒龍は、もともと子が出来にくい。生まれてくる子も一つか多くても二つしかない。しかも、無事に大人になれる子供は半分しかいないのだ。特に魔法力の高い黒龍は、子に多くその力が受け継がれる。まだ不安定な幼いドラゴンの肉体に、魔法力が耐えられないのだろう。そしてなにより、近親婚を繰り返してきたために生まれてすぐに死んでしまう子や、石の様に固い子供が生まれてくることも多かった。
「さすがにこのままではいけないと考えたのでしょう。他のドラゴンと交わってみたり、精霊と交わってみたりもしてみました。けれど産まれてくる子供はどうやっても長生きしないのです」
 原因は一切分かっていないが、このままでは種が滅びてしまう。そんな危機感に襲われた黒龍の長は、人間の話を聞いて結論を下したのだ。
「繁殖力の強い人間ならば、子が長生きできるのではないだろうかと」
「ドラゴンは……魔法力の持たない人間と交わってもいいのか?」
 仮に子が無事に生まれてきたとしても、精霊や他のドラゴンと人間はまったく違う生き物だ。翼もなければ爪もなく、魔法も使えない。それでもドラゴンと呼べるのだろうか? 
「半々ですね。特に人間を獣以下と考えているものたちは、強固に反対しています。そんなドラゴンのなりそこないを黒龍とするのは嫌だと。……すみません、いやな言い方ですが」
「かまわない。実際そのとおりだからな」
 苦笑して相槌を打ち、ふと思う。では、実際にこちらへ来たナギはどう思っているのだろうか。
「ナギは、どっちなんだ?」
「僕ですか?僕は……正直、人間と交わるなんてありえないと思っていました。紫苑の話を聞いて、人間がどんなに醜い生き物か半ば幻滅していましたからね。……紫苑だけが、特別なんだと思っていました」
 その穏やかな微笑からは、紫苑への信頼が深く感じられる。ドラゴンの友情を得た兄への羨望とほんの少しの嫉妬が暁の胸をちりちりとさせた。けれど、それを顔には出さずに暁は問いかける。
「兄様は、なんて?」
「人間は、とても野蛮な生き物だと。ただただ強者におもねり、弱者を虐げる救いようのない愚か者だ。そういっていました」
自分と違い、父と一緒に王宮へ幾度も通っていた兄には、人間がそんな風にみえたのだろう。実際、自分も騎士団に所属したばかりの頃はそうだった。高潔だったのはごくわずかな人間。なぜこんな人間ばかりなのだろうと嘆いたことも少なくない。
「僕があなたの傍にいたのは、人間を観察するためです」
 不意にナギが冷たい口調でつぶやいた。その意図がつかめずに、暁は言葉の続きを待つ。
「もしも人間が……あなたの周りにいる人間が、紫苑が話していたとおり野蛮でどうしようもなく愚かな種族ならば、黒龍の血と交わらせるなんてもってのほかでした。だから、僕が滅ぼそうと思っていたんです」
 このまま人間が――黒龍の血を残せるかもしれない種族がいる限り、長はきっと諦めないだろう。それならば、いっそのこと種族後と滅ぼしてしまえばいい。そう考えていた。
「特別なのは紫苑と暁さんだけ。きっとそうなのだろうと思っていました。でも……実際はぜんぜん違いました。あなたの周りにいる人といったら……」
 どこか泣き出しそうな表情で暁をまっすぐに見つめる。その瞳の奥に、彼が出会った人間の姿が浮かんでいた。
「……たくさんの人に、出会いました」
 暁を含め、みな自分をいたわり不自由ないようにとたくさん尽くしてくれた。友人と同じように。思わず自分も人間になったかのように錯覚をしてしまうほど。
「だから、僕は決めたんです。無為に人間を傷つけたくない。そんなことをしてしまえば、誇り高き黒龍の名に泥を塗ることになる。……あの夜に、あなたに告げたことは嘘偽りない僕の気持ちです。あなたを無理やり連れて行くのは、あなたを傷つけてしまうだけだから。あなたが応えられないというならば……それでもかまいません」
「ナギ……」
「あなたの心が決まるまで」
「……すまない」
 答えは管理者の館でしっかりと出したはずだったのに、ナギの顔を見れば決心が砂のように崩れてしまう。自分の優柔不断さに嫌気がさし、俯いて顔を隠す。そんな暁にナギは微笑み、そっと暁の背後にまわった。そして座ったままの暁を優しく抱きしめ、燃えるような赤毛に唇を落とす。
「あなたの全てがいとおしい。暁……あなたは、僕の夜明けの女神です」
「……わ、私は、そんなんじゃ……」
 思わず真っ赤なって否定する暁にくすくすと笑いをこぼし、ナギはそっと腕をはずした。そのまま顔を見せないように窓辺へと向かう。
「もうすぐ日も暮れます。今日は……一人にしてもらえませんか?」
 暁への想いと、黒龍としての想い。その二つが入り混じり、心がざわめいて落ち着かない。
 暁は無言で席を立つと、そっと部屋を出た。気持ちが定まらない自分が今、彼の傍にいることはふさわしくない。決めたはずの心が揺るぎ、涙がにじみ出る。
「ナギ……私は」
 扉へもたれかかるようにずるずるとしゃがみこむと、暁は小さく吐息を漏らした。そうでなければ、ぐるぐると渦巻く熱をうまく逃すことが出来なくて。
 扉は、開かれることなく。暁は静かに涙をこぼし続けた。





 あの日からなんとなく顔をあわせないまま今日でとうとう七日目となった。
いつもは覇気に満ち溢れている団長がなんとなく物思いにふけっていたり、憂鬱なため息が多いことに、団員たちはみな心配している。もちろん、更紗もその一人だった。
「団長、何か悩み事でも?」
「いや、なんでもない」
 もう幾度となく繰り返された問答。腹心である更紗にも、ナギから聞いた話は何も伝えていない。もちろん、想いを告げられたことも。
何か感づいているであろう更紗は、時折苛立たしそうに視線を送ってくるが、暁はあえてそれを無視していた。
「更紗、一つ頼まれてくれないか?」
 気まずい空気の中もくもくと書類の整理をしていた更紗は、暁の声に顔を上げる。首をかしげながらも返事をすると、少しだけためらったような視線とぶつかった。
こんな表情をするときは、決まって自分にとっていやな頼みごとをするときだ。直感的にそう悟るが、もちろん更紗に断るすべはない。
「……なんでしょうか」
 あからさまにしぶしぶといった口調で返事をすると、暁は小さく笑う。きっと更紗の心の内などお見通しなのだろう。どこかなだめるような口調で告げた。
「きっと、もうすぐ私は騎士団を留守にする。葉月様にも陽向様にも伝えていない。その時がきたら……騎士団を頼みたい」
「いつ……いつ、お戻りですか」
 暁の話し方では、まるで戻ってこないような、別れを予感させる言い方だ。それが不安で怖くて、更紗はすがるように見つめる。
 凪いだ海のような琥珀の双眸と、不安に揺らめく空色の眼差しがしばらく交わる。先に視線をそらしたのは、更紗のほうで。
「……わかりました。でも! 私はあくまで団長の代理でしかありません。最終決定権は団長にあります。それだけは心に留めておいてください」
「分かった」
 これだけは譲れないと更紗が言い募ると、まるで母親のように暁が微笑んだ。それがまた悔しくて、せめてもの抵抗にと唇をかみにらみつけるように見つめる。
「……なんだ?」
 更紗にではなく、思わずこぼれたつぶやき。訝るように辺りを見回し、窓をみる暁。つられて更紗も視線を向けるが、少しだけかすんだような空が広がるばかりで異常はない。
「どうされました?」
「もう、きたのか? ……更紗、すまない。出かける」
「は、はい。……お気をつけて」
 もう一度、いつ戻るか聞きかけて更紗は言葉を飲み込む。きっときいても答えは返ってこないのだろう。暁は、自分が正しいと思ったらてこでも動かない頑固さがある。諦めのため息をついて敬礼すると、やや大またに暁が更紗に歩み寄る。そして首から提げていた鎖を無造作にはずした。
「これを預けておく」
「これは……」
 純銀で出来た、薔薇の紋章。そこに交差する剣と盾が描かれた徽章は、白銀の薔薇騎士団団長である身分証明。これがなければ、騎士団長を名乗ることが出来ない。
「受け取れません!」
「緊急事態だ。軍法第二百四十三章に書いてあるだろう? 己に危急の事態が迫ったとき、団長は自己判断でその証を譲る、もしくは一時保留することが出来る」
「ですが……」
「預かっていてもらうだけだ。頼んだぞ」
 それだけ告げると、暁は更紗の返事を待たずに掌に押し付ける。そして振り返らずに部屋を出た。ばたばたとあわただしく走り去る靴音が聞こえ、更紗は硬く目を閉じた。
「私は、白銀の薔薇騎士団副団長キルウィ・更紗。ノエル・暁団長が戻るまで」
 もしも騎士団や陛下に何かが起ころうと、この身にかけて守り抜く。
 手にした徽章はずっしりと重く、更紗はそれを握り締めて心に誓った。



 カツカツと大またで歩く団長の姿に、すれ違う団員はみな目を見張る。けれど、話しかけられるような雰囲気ではないことと、全幅の信頼を寄せる団長が何も言わないことに、ただ敬礼して見送った。そんな団員の姿に心の中で謝りながら、暁はナギのもとへいそぐ。
 もう幾度となく通った通路。今日はそれが少しばかり遠く感じながら、暁はただ足を急がせる。そして扉が目に入ると、問答無用で開け放った。
「待て」
 今にもバルコニーから飛び立とうとするナギを、暁の怒声が制止する。思わずといった風に振り返り、ナギは苦い表情で彼女を待った。
「私も行く」
「……危険です、といってもついてくる気なのでしょう?」
「当たり前だ。これは私個人だけの問題じゃない。ドラゴンと人間の問題だ。私が危険か危険じゃないかはこの際どうでもいいことだ」
「僕としてはあなたを危険にさらしたくないから、どうでもいい問題ではないんですがね」
 少しだけ自分よりも低い暁に苦笑し、ナギは諦めたように腕を伸ばした。そしていつかの夜と同じように抱き上げる。
「しっかりつかまっていてください」
 昼の日差しの下、ナギの背中から黒い翼が広がる。それはさながら黒いレース。極細の絹糸ですかし模様のように編みこんだ、繊細な芸術のように見えた。
「明るいところで見ると、すごく綺麗な翼だな」
「紫苑にはクモの巣みたいだって言われましたよ」
 くすくすと笑いながら軽口をたたくナギに緊張の色は見られない。それにつられるように、暁も自然と肩の力が抜けた。
 夜に飛んだときよりも少し高く飛んでいるのだろう。眼窩には米粒ほどに小さく町並みが見え、飛ぶように過ぎ去っていく。なのに身を取り巻く空気は陽だまりのように心地よく、頬に当たる風は穏やかだ。きっとまたナギが魔法を使って守ってくれているのだろう。いつも守る側にたっていた自分には、それが少しだけ気恥ずかしい。けれど、嫌な気がしないのは、きっとナギへの気持ちがあるからだ。
やがて石造りの建物は消え、あたりは一面の野山が広がりだした。時間としてはそれほど経っていないのだろう。まだ太陽の位置はそんなに動いていなかった。
「ナギ。私は……ナギのことが、きっと好きなんだとおもう」
 唐突な告白に、一瞬暁を抱く腕に力がこもる。けれど表情にも声にも同様は表れず、ただ無言でその続きを待つ。
「でも、私はこのシルベスティアが好きだ。陛下をお守りする騎士団長であることに、誇りをもっている。だから」
「その続きはいわないで下さい。知っていますから」
 苦しそうに言葉を紡ごうとする暁をとめ、ナギは少しだけ寂しそうに微笑んだ。視線は暁に合わせないまま、優しく告げる。
「あなたが、誇り高い騎士だからこそ僕は惹かれたのかもしれません。何事にもまっすぐで全力で取り掛かるその姿が、いとおしい」
 ふわりと、飛行速度が緩くなった。けれどとまることはせずに、空中散歩のようにゆるゆるとあたりを漂っている。そして唐突にそれは終わり、ゆっくりと地上へ降り立った。
 まるですり鉢の底にいるようなそこは、あたり一面を崖に覆われている。足元には可愛らしい黄色の花が咲き乱れ、上を見上げれば遥か遠くに空が見える。
 見覚えのない場所なのに、なんとなくナギが初めてこちらの世界におりたった場所なのではないかと思う。
「暁……」
 ぼんやりと考え事をしていたら、少しだけなじるような声音で前を呼ばれた。それと同時にきつく腕にとらわれる。まるで余所見は許さないとでも言うように。
そして、ゆっくりと近づく端正な顔。やっぱり見れば見るほど宝石のような瞳だと場違いな感想を抱いているうちに、柔らかな感触が唇を覆う。一瞬こわばった体は、やがて氷のように解けて。
 ひどく甘い口付けは暁の呼吸が苦しくなるまで続けられる。熱くなった体と羞恥心に今すぐこの場所を立ち去りたいのに、それと同じくらいナギの傍にいたい。せめぎあった心が勝ったのは、ナギへの想い。遠慮がちにナギの背中に手を回せば、返ってくるのは激しい抱擁と口付け。何度も何度も、まるで優しい雨のようにナギの唇が暁に降り注ぐ。
「…………」
 泣きそうな顔で暁は心の赴くままにナギにしがみついた。その低い体温を体中で感じていると、突然ナギの体がこわばる。
「……扉が、開きます」
 この至福の時間が永遠に続けばいいと願ったのは、果たしてどちらだったのか。それとも二人で願ったのか。
 緊張にかすれた声でナギが告げ、暁も一歩離れた位置に立つ。自然ナギの前にでるような格好になったのは、きっと無意識の癖だろう。
「っ――!」
 迎春祭の時と同じように、濃い水の気配が辺りいったいを包み込む。
突然風が強くなり、足元の短い草が根こそぎ吹き飛ばされるようになびき、遠くの壁からはがされるように岩が転がり落ちてくる。暁の体も風にさらわれそうになったとき、ナギがしっかりとその手をつかんだ。そして二人の周辺だけ風をさえぎるように魔法をかける。
 あれだけ明るかった空が一瞬で暗くなり、風が一段と強くなった。そして空が割れるような轟音の後に、何事もなかったかのように平静さを取り戻す。たださっきまでと違うのは、嵐の後のように地面が荒れていることと、見知らぬ男が一人立っていること。
「おやおや、出迎えご苦労だな」
 遠目に見えたその男は、ナギよりも少しだけ低い声で笑うように言った。ゆっくりと歩み寄ってきた姿は、紫を帯びた黒髪に同じ色合いのずるずるしたローブ。額には、どこかまがまがしさを感じさせるような柘榴石が光っていた。
「アグナ」
「よぉ、ナギ。早速人間を見つけてきたのか? ……珍しい。炎の精霊か。ちぃっとばかり相性は悪いが、ま、何とかなるだろう。ほら、よこせ」
 まるでモノのように扱われたことに暁は不快感を隠しきれずに眉をひそめる。そして威嚇するように一歩前へ出た。
「貴殿が黒龍の方か?」
「そうだ。俺はアグナ。黒龍族の長の息子だ」
「ではアグナ殿。今すぐ異界へ引き返してほしい。私を含め、人間は誰一人異界に行くつもりはないし、行かせはしない」
「……どういう意味だ?」
 まるでしゃべれないと思っていた獣が突然しゃべりだしたとでも言うように奇異な視線を暁に向ける。そして一瞬の間の後、怒りをはらんだきつい表情でナギをにらみつけた。
さっきまでは面白がるような青緑の双眸が、今は怒りのためか漆黒に染まっている。その眼差しをまっすぐに受け止め、ナギは静かに告げた。
「彼女の言うとおりだ、アグナ。僕は人間を傷つけたくない。だから、このまま異界へ戻る」
「何を寝ぼけたことを! 長の言葉を忘れたのか!」
「忘れはしない。けれど、長の言うことを聞くことは出来ない」
「ナギ……貴様っ!」
 逆上したアグナが大きく腕を振りかぶる。ローブからたしかに出ていた人間の腕は、鱗に覆われたドラゴンの腕へと突然変化した。そして鋭い爪がナギを襲った瞬間。
――キンッ
 澄んだ音を立てて、暁の刃がアグナの爪を押さえた。しかし、力ではかなわないのか、苦悶の表情を浮かべ必死だ。
 ちっぽけな人間が抵抗するのが以外だったのか、一瞬アグナの腕から力が抜ける。その隙を見逃さずに、暁は剣を振り上げた。そのまま飛び退って距離を開け、油断なく構える。
「面白い。たかが人間ごときにドラゴンの爪がはじかれるなんてな。なら……これならどうだ?」
 にやにやと笑いながら、アグナが高く口笛を吹いた。なにか魔法を使ったのかと警戒するが、特に変わった気配はない。そう思った瞬間。
「よけろッ!」
 切羽詰ったようなナギの声が、背後から聞こえた。ほぼ反射と勘だけで剣を振り上げ転がるようにしてよける。たった今まで暁が経っていた場所に、寸文の狂いもなくドラゴンの爪が食い込んでいた。
「ナギ!?」
 呆然としたように名前を呼ぶが、ナギはただ苦しそうな表情で必死に自分の右腕を抑えているばかりだ。訳がわからないまま、それでもナギを傷つけることは出来ずに暁はただ距離を開ける。
「こいつには呪いがかけらているんだよ。ナギはやたらと人間と仲が良かったからな。万が一を考えて、裏切れない呪いをかけたのさ」
「呪い!?」
「そうそう。俺の……ドラゴンの言うことをきくっていうな」
「最低だな」
 意志を奪い、まるで人形のように同族を扱う。その行いに苛立ちと嫌悪感をあらわにし、暁はアグナにはき捨てるようにいった。しかし、アグナはなんとも思っていないのか、勝ち誇ったような顔で告げた。
「何とでもいえ。どうせ呪いは解くことは出来ない。諦めてドラゴンの子を産むんだな」
 にやにやと高みの見物を決め込むアグナをにらみつけ、暁はナギと対峙する。いつも穏やかな紫の双眸が、無機質なガラス玉のように代わり、また元に戻ることを繰り返している。必死で呪いに抵抗するナギに、暁は迷うように視線を揺らめかせた。
『暁、さん』
不意に、苦しそうなナギの声が脳裏に響いた。きっと魔法の指輪を使ったのだろう。暁はアグナに気づかれないようにじりじりとナギに近寄り、途切れ途切れに聞こえる声に耳を傾ける。
『僕の呪いは……額の水晶に込められて、います。だから……壊して、下さい。水晶は、力の源。それがなくなれば……僕は、動けなく、なり……ます』
「……できない」
 小さく唇だけで答え、泣きそうな顔で緩く首を振る。
あの夜、確かに約束したこと。けれど、ナギの、自分の気持ちを知っている今、それをすることはできなくて。
動けなくなる。それは、その言葉の意味は、まるで――
自分の想像にぞっとし、暁は愛剣をかたく握り締めた。ナギがいなくなるくらいなら、このまま自分が消えてしまったほうがよほどいい。
そんな馬鹿な考えにとらわれそうになっていると、ナギの口端が歪むように微笑をかたどった。
『あなたなら……大丈夫、です。僕を……自分、を、信じて』
 そこでナギの声は途切れ、あれほど辛そうだった表情がまるで人形のように抜け落ちている。いつも柔らかな光をたたえていた瞳はガラス玉のように。微笑を忘れた唇は、硬く閉ざされて。
「ナギ……」
 一度、泣きそうな声で暁はドラゴンの名前を呼んだ。そして決意を秘めた眼差しでナギを強く見つめる。
どちらが先に動いたのか。ほぼ同時に地をけり、暁とナギが交錯する。硬い爪と鋭い刃が二度三度と交わり、暁の頬から血が流れ、ナギの服が破られる。
「はっ!」
 気合を込めた刃を振り下ろせば、硬いドラゴンの腕が難なくと防いだ。それを見越していたのか、暁のかかとがナギの腹を蹴り飛ばす。不意打ちにナギの体制が崩れ、そこにすかさず踏み込む暁。
 そして。
「ナギ、還って来い!」
 叫び、暁はナギを抱きしめるようにして地面に押し倒す。背中に硬い爪が触れた瞬間、暁はぶつかるようにして唇を押し当てた。
「暁、さん……」
 ほんの一瞬、ナギの瞳に光がともる。
嬉しそうに自分の名前を呼ぶ声。
泣き笑いの表情のまま、暁は長剣を投げ捨て、短剣を抜き放った。そのまま、思い切り額の宝石にたたきつける。
「なにっ!?」
 遠く後ろのほうでアグナが驚く声が聞こえるが、彼がなにか仕掛けてくるよりも早くナギの体が一度大きく痙攣した。振り下ろされた手が力なく地面に投げ出され、硬い鱗に覆われていた腕も少し冷たい人肌に戻る。
 けれど、ナギの目は開かれない。穏やかで暖かな紫の宝石が、自分を見つめることはない。
「ナギ……」
 まるで壊れた人形のように倒れたままのナギの頬を、暁はそっと撫でる。そして何かを振り切るように立ち上がると、怒りに燃える瞳でアグナをにらみつけた。
「今度は貴様の番だ」
 ナギとの激しい戦闘で髪は乱れ、琥珀の瞳は燃えるように輝いている。まるで炎の精霊のようだとアグナは顔をしかめ、両腕をドラゴンに変化させた。
「人間がドラゴンにはむかうだと? 何様のつもりだっ! たかだか人間の分際で!!」
 暁が迫るよりも早く駆けだし、アグナは激しく爪を振るう。だがそれは暁に寸前でかわされ、逆に懐に踏み込まれた。そのまま目前に銀の刃がひらめき、アグナは慌てて飛び退る。
「くそっ! 人間の、くせに!!」
 口では暁を罵りながらも、アグナの爪が暁に触れることはない。それは暁が訓練されているからというよりも、アグナが人間の体を使いこなせていないように感じる。そしてアグナの焦りが逆に暁を冷静にさせ、とうとう岩壁に追い込んだ。
「おとなしく異界へ戻るなら、このまま見逃す」
 額に切っ先を狙い定めたまま、暁は静かに問いかける。あれだけ怒りに輝いていた琥珀の瞳は、まるで湖のように静かになっていて。圧倒されるような神々しさに、アグナは知らず息を呑んだ。
「ナギを……ナギの子ならば産むのか?」
 まるで不意打ちのような問いかけに、暁の体がびくりと揺れた。痛みをこらえるように眉根をよせ、振り切るように一度だけ瞬く。
「おとなしく異界へ戻るか否か」
「……人間にしておくのがもったいないな。お前、精霊と契約を結んで俺の子を産め」
「何だって?」
 訝るようにして暁が問いかけると、アグナは口端だけで笑みを浮かべる。そして追い詰められているにもかかわらず、とうとうと言葉を紡ぐ。
「精霊と契約すれば人間ではなく半精霊になれる。少し前は人間の中にも精霊の力を使いたくてそういうやつがいたみたいだな。半精霊になれば、ドラゴンの子を産める確率はたかくなるし、人間の倍ほど寿命も延びる。どうだ? 俺の子を産むなら、ナギの力を戻してやってもいいぞ?」
「ナギの……力を戻す?」
「そうだ。額の宝石はドラゴンの力の源。あれが壊れてしまえば、ドラゴンはやがて力がなくなり死ぬ。だが、俺ならあいつの力を戻せるぞ? 戻せば、奴は生きれる。どうする?」
「…………」
 まるで悪魔のささやきのようなアグナの言葉。明らかに暁が動揺していることがおかしいのか、アグナの口元に余裕の笑みが戻った。そしていつのまにか人間の手に戻っていた指先が、なぞるように暁の頬をすべる。猫の子を愛撫するようなそれに不快を感じるが、アグナの言葉が頭の中をぐるぐるとまわって振り払うことが出来ない。
「何を迷う? このままだとナギは死ぬぞ?」
 徐々に腕から力が抜け、暁の手から長剣が滑り落ちた。からん、と音を立てて転がる愛剣に視線を向けることすらせずに、暁は魅入られたようにアグナから視線をそらせない。やがて、アグナがそっと暁を抱きしめ、耳元でささやいた。
「俺の子を産め。それだけで、ナギは生き延びる」
「ナギが、生きる……」
「そうだ。ナギは生きるんだ」
 まるで子供に言い聞かせるように何度も何度もいいきかせ、アグナはくるりと暁ごと体を反転させた。岩壁に体を押し付け、まるで睦言のように甘くささやく。
「ナギを助けたいんだろう?」
「……助けたい」
「それなら簡単だ。精霊の契約を結び、俺と交わればいい」
「精霊と、契約を……」
「そこまでです」
 ぼんやりと暁がアグナの言葉を繰り返した瞬間。まるで氷のように冷たい声がさえぎった。はっとしたように暁はアグナを押しのけ、慌てて離れる。
「ナギ!」
 アグナと暁の声がドラゴンの名前を呼んだ。そこには、少しだけふらつきながらもしっかりと自分の足で立つナギの姿がある。血の気のうせた蝋の様に白い顔色だが、その双眸だけは静かに燃えていた。まるで青白い炎のように、紫の双眸が怒りにきらめいている。
「何っ!? お前、何で立ち上がれる!? 力を……宝玉はもうないはずだ!」
 いつもナギの額を飾っていた宝玉はなくなり、ただ闇色の髪が額を覆うばかり。その姿に少しだけ違和感を感じながらも、暁はナギが立ち上がりしゃべっていることが嬉しくて仕方がない。
しかし、アグナは驚きと困惑よりもその姿に恐怖心を抱いているのか、さっきまでの余裕の表情はなくなり、怯えたようにあとずさっている。
「あなたには関係ないことでしょう?そんなことよりも……暁は渡しません」
 ぐいっと暁の手を引いて抱き寄せると、ナギが静かに言い放つ。さっきまで燃えていたその紫の双眸は、今はさながら冬の湖のように冷ややかだ。それに気おされたようにアグナがさらに一歩下がる。逆にその差を詰めるようにナギは前でると、ドラゴンの爪を長く伸ばした。
「このまま異界へ戻るなら、何もしません。僕も一緒に戻りましょう。けれど、暁を連れて行くというならば……容赦しません」
「お前はっ!黒龍の未来よりも、たかだが人間の女を選ぶというのか!」
「種はやがて滅びるもの。それが自然の摂理です。無理やり人間を奪って永らえた種に、なんの意味がありますか」
「この……裏切り者がッ!」
 アグナの黒い爪が長く伸び、ナギに襲い掛かる。それを少しだけ悲しそうな目で見つめ、一度だけ暁を振り返った。
「あなたにあえて、良かった」
 そしてナギが翔ける。
 アグナとナギ。
一瞬だけぶつかるように交わり、そして倒れたのは。
「ばか、な」
「馬鹿はあなたですよ。長の息子という立場に奢り高ぶった結果がこれです。……僕は、荒事が嫌いなだけで弱くはない。あなたよりも強いんですよ」
 やるせない表情でつぶやかれた言葉は、もう同胞には聞こえない。見ている間にアグナの体は小さく縮み――やがて、黒い球体へと変わった。
「本当に……愚かな」
 哀しみに満ちた声でつぶやき、ナギは何かをこらえるように仰向く。その頬は濡れていないのに、なぜか涙があふれているように見えて。暁はそっと歩み寄ると、ためらいがちに後ろから抱きしめる。
「……泣いても、いいんだぞ?」
 ここには誰もいない。ナギがとても優しいと知っているから、泣いても何も思わないと。そう静かにいえば、ナギは緩く首を振った。
「ドラゴンは、涙が流れないんですよ」
 嘘か本当かはわからないが、暁はやるせなさに抱きしめる腕に力を入れる。その手がそっと振り解かれると、正面から優しく抱擁された。そして慰めるように優しく唇をつばまれる。
「あなたの勇気と優しさに……僕は救われました」
「ナギが、信じろといったから。私は……ただ、それだけをした」
 少しだけ恥ずかしそうに頬を染め、それでも視線をそらすことなく暁はナギを見る。あらわになった額に指を伸ばし、名残惜しそうにサークレットのあとに触れれば、ナギがくすぐったそうに笑う。
「割れた水晶には、僕の魔法力が半分だけ込められていました。もう半分は、あなたの指輪に」
「これ?」
 それはいつか渡された魔法の指輪。まさか、ナギの魔法力が込められているとも知らずにいつも身につけていた指輪。それをまじまじと見つめた。そして急に怒ったようにナギをにらみつける。
「おまえな! そんな大切な指輪をやすやすと預けるなんて……これがもしも壊れたり私がなくしたりしたらどうするつもりだったんだ!?」
暁の怒声にナギは一瞬きょをつかれたような顔でその怒った顔を凝視する。それは小さな子犬がまさか噛み付いてくるとは思ってもいなかったというような、驚きと微笑ましさの入り混じった表情。あまりにも長く見つめられ、やがて暁のほうが根負けして怒りの表情を消してしまった。
「な、何かおかしなことをいったか?」
 あまりにも長い沈黙に、だんだんと自分のいったことに自信がもてなくなる。少しだけ小さな声で困ったように問いかけると、ナギが緩く首を振った
「……いいえ。そんなあなただから、僕は指輪を託したんですよ」
 純粋な子供のような笑顔。しごく嬉しそうなその表情に暁は顔を赤くしてそっぽを向いてしまう。しかし、その視界の先にあるはずのないものを見つけ、慌ててそれに手を伸ばした。
「ナギ、手がっ!」
「大丈夫です。人間の姿を保てるだけの力が、なくなってしまっただけです」
 ざらりとした鱗に、鉤爪のような黒い爪。明らかに人間とは異質なものに変わったその腕に、いまさらながら種の違いを思い知らされる。それでもナギを怖いとも気持ち悪いとも思わない自分に内心苦笑し、暁はその手を頬に押し当てた。
「指輪を返したら、元に戻るのか?」
「向こうに戻らないと、もう戻れません。……さっき水晶を壊されたときに、その指輪からも魔法力を戻しましたから、ほとんどからっぽなんです」
 見た目にはまったく変わりない指輪は、陽光をはじいてきらめいている。これの魔法力が入っていたり取り出されたりしたなんて、まったく実感がわかない。
「それに……アグナを、孵さないといけませんから」
 そういって切ない眼差しで地面に転がる球体を拾い上げる。
 それは黒真珠のようにやわらかな光沢を持ち、ナギの両手にすっぽり収まるくらいの小さな珠。吸い寄せられるように覗き込み、首をかしげて問いかける。
「それは?」
「卵です。彼は……もう一度生まれ変わります」
 それは一年後なのか千年後なのかはわからない。けれど、必ずもう一度黒龍として生まれ変わる。
「……お別れです。仲間を……たとえ、どんな事情があるにせよ卵に還すことは禁忌。僕は向こうで罰を受けるでしょう。何十年か……もしかしたら、僕の寿命が尽きるまで」
「そん、な……。不可抗力なのに?」
 泣き出しそうな顔で暁が言うと、ナギは静かに微笑んだ。そして緩く首を振り、手元の卵を大切そうに懐へしまいながら、悲しみと憐れみがない交ぜになった表情でポツリとつぶやいた。
「もとはといえば、僕が紫苑を……人間のことを話したことが罪です」
 そして、長の言うことに逆らわずにこちらに出てきたことが、最大の罪。もしもあの時、何を言われても何をされても反対していたならば、結果は違ったかもしれない。
「僕のことを忘れないで下さい。あなたが覚えている限り、いつか必ずあなたの元へと帰ります。たとえ、生まれ変わったあなただとしても……愛しています」
「私も……もし、私が――」
 衝動的に暁はナギに抱きつき、心のどこかで願っていたことを口にしようとする。けれど、柔らかな唇に言葉は奪われ、最後まで言い切ることはできない。
「ダメですよ。さっき、あなたは言ったでしょう? 騎士団長であることに誇りを持っていると。この、シルベスティアを愛していると」
「でも……!」
 このちっぽけな誇りと捨ててしまえば、愛するドラゴンと離れることはない。最後まで迷って、結局騎士団長の証を更紗に預けてきたのだ。それなのに、ナギに言っていることはまるで正反対で。ちぐはぐな自分の心にどうしていいかわからなくなる。
「あなたはあなたのままでいいんです。たとえ世界に隔てられていようと、僕はあなたを愛している。それではいけませんか?」
「ナギ……」
 俯く暁の顔を傷つけないようにあお向けさせ、ナギが優しく微笑んだ。涙で輝く琥珀の中に自分の姿を見つけ、嬉しそうに笑う。
「あなたに涙は似合いません。笑っている姿が一番好きですよ」
甘くささやき、そっと暁の柔らかな唇へと花びらのように触れる。離れた瞬間、暁の手がナギの手を握り締めた。
「……絶対に、帰ってきてくれるか? ……帰ってくる時までに、ドレスを仕立てておく。それから、ダンスの練習もしておこう。だから、必ず」
 まるで子供のような引き止め方だと自分でも思う。それでも、あの夜ナギが綺麗だと言ってくれたことが嬉しかったから。ナギが幸せそうに笑ってくれることが、自分にとっても幸せだと感じるから。
精一杯の想いで告げれば、くすくすと声を立てて笑われた。あまりに軽やかに笑われるから、思わずむくれてしまいそうになる。けれど、その笑顔が嬉しそうで暁も一緒に笑い出してしまった。
「楽しみにしています。あなたの一番美しい姿は、僕だけのものですから」
「約束だ」
 涙を無理やり飲み込むと、暁は一度だけきつくナギを抱きしめる。そして短剣を鞘ごとはずすと、ナギに押し付けるようにして渡す。
「父様からもらった、大事な短剣だ。この指輪は返さないから、代わりにそれを渡しておく」
 少しでも、自分のことを思い出してもらいたくて。
 少しでも、ナギとの思い出を手放したくなくて。
 俯いて顔を隠し、暁はナギから一歩はなれた。その隙間を埋めるようにナギがきつく暁を抱きしめる。
「愛しています。あなたを……あなただけを」
暁の双眸からとめどなくあふれる透明な涙を唇ですくい、唇といわず顔中に唇を落とす。まるで小鳥がついばむように柔らかくふれる唇に、やがて暁の涙は止まり、ただその身を預けた。
「早く帰って来い。じゃないと……結婚してしまうぞ?」
「ダメです。僕が先約ですから」
 冗談めかして言う暁に半ば本気でナギがすねる。そんなドラゴンがいとおしくて、暁はそっと唇を重ねた。
「早くいって、早く帰って来い」
 一瞬泣きそうに顔をゆがめ、けれどナギが好きな不敵な笑みを浮かべる。そんな暁がいとおしくて、一瞬このままさらいたい衝動に駆られた。それを無理やり押しとどめると、ナギはやわらかな微笑を浮かべる。
「わかりました。必ず、帰ってきます」
 ゆっくりゆっくりと離れる暁を名残惜しそうに見つめ、ナギは歌いだした。正確には歌ではなく魔法の呪文なのだろう。高く低く、時に緩やかに、どこか悲しみをたたえて。
 そして、アグナがやってきたときと同じように風が吹き荒れる。濃い水の気配を感じた瞬間、暁の周りだけ陽だまりのように穏やかになった。きっとナギが守ってくれているのだろう。それを思うだけで、暁は嬉しくなる。
 やがて歌が終わり、青空にはぽっかりと口をあけている不思議な渦。それと同時に、ナギの背中からドラゴンの翼が広がった。
人の体には不釣合いな、コウモリのような翼。前に見た、幻のドラゴンと同じ黒真珠のように美しい翼。翼は力強くナギの体を持ち上げ、渦に吸い込まれるように勢い良く空中へと飛び立った。
「ナギーッ! 必ず、帰って来い。約束だぞ!」
 どんどんと暁の顔が遠のき、その表情が泣いているのか怒っているのか判別がつかなくなったころ。ナギは一度空中にとどまると、振り切るように渦に飛び込んだ。元の世界に戻れるというのに、楽しい気分は一切ない。やはり、何が何でも連れ去るべきだったか。
「僕のガラじゃありませんね」
 小さくつぶやいて苦笑する。渦を抜ければ、懐かしいような見慣れた景色。もう、愛しい人には逢えない。
「必ず、迎えに行きますよ」
 彼女を花嫁と決めたのだから。そうやって微笑むその表情は、彼が愛した騎士とそっくりなほど不適な微笑だった。

2013-01-16 23:45:27公開 / 作者:綾月
■この作品の著作権は綾月さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ものすごくお久しぶりに投稿いたします。まずは、拙い作品を最後まで読んでくださってありがとうございました。

この作品は、しばらく前に某ラノベに投稿→落選作品です(苦笑)改稿したいなとは思うんですが、自分で上手くまとめられずに思い切って落選作品のままのせてみました。ご指摘、アドバイスどんどんお待ちしております。よろしくお願いいたします。
この作品に対する感想 - 昇順
 綾月様。ピンク色伯爵です。初めまして。御作を読ませていただきました。以下は読んだ感想です。失礼なことを書いてしまい申し訳ありません。しかし同じ新人賞を目指すライバルとして、包み隠さず書いていきたいのです。ここでオブラートに包んでは貴方に対しても失礼になるでしょうし。

【総合】(申し訳ありません;)
・終盤の顛末は良かった。書き手の筆が乗っていて、書きたいことを書けている。
・冗長。起承転結と序破急の基本フラクタル構造が意識されていない。
・出だしが魅力的でない。総合的に判断して構成に失敗している。
・キャラクターが不鮮明。描き切れていない。
・世界観が不明。イメージが不足しているのではないかと思いました。
・設定が設定でしかなく、物語に活かし切れていない。

【キャラクター】
 まず、三割くらい読むまで主人公の性別が「?」でした。まあそれは単なる描写不足だと思うのですが(ごめんなさい;)、それより問題なのは、彼女の人格が見えてこないことです。おそらく貴方の頭の中にこの物語に使えそうなキャラクターがなく、脳内からの抽出に失敗しています。例えば、生真面目で飾らないクールな騎士ならば、何故、彼女の人格がそうなったのか、考えなければなりません。キャラクターを『理解』するのです。これが出来ていないから、必然アウトプットに失敗しているのではないでしょうか。
 あくまで僕の手法ですが、次のように掘り下げます。
 何故気真面目なのか→武芸の嫌いな奔放な兄を見て、ああはなるまいと育ったから。何故、ああはなるまいと思ったのか→母にそう言い聞かせられていたから。→両親の言いなりに何となく勉強してきたエリート騎士。→ならば娯楽は知らないだろう。娯楽知ればこれにハマるだろう。→綺麗な洋服は好きでは無いのではないか?→外面よりも内面を重視する→表現するのは、飾らない美しさ→読者に「この人はいつも地味な服を着ている。だけどこの地味さがイイ!」と言わしめるような、具体的なエピソードが必要だろう。人間として、素朴な美人である彼女の魅力を伝える。欠点としては、騙されやすいこと→やや天然が入るか、世間知らずか→剣を振り回すことは得意だが、政治交渉は大の苦手。恋愛もちょっと……。以下続く。
 このあとキャラクター同士のかけ合いと短編を書いて、他のキャラクターとの関係性を『理解』する。それをもってヒロインの採用に足る人物かを判断する。掘り下げはエントリーシート。かけ合いと短編は面接試験。それをもって採用するかどうかを決定します。
 思いますに、貴方はキャラクターを理解しきれていない(気分を悪くされたらごめんなさい)。だから、薄いものになってしまっている。脳内にキャラクターが居ないのです。最低限主要キャラクターくらいは理解してあげて下さい(上から目線で申し訳ないです)。

【ストーリー】
 マズイです。物語の方向性が曖昧で、悪い意味で先の読めない展開になっている。構成に失敗しています。またそれ以前に、140DPを書き切るイベントを用意できていない。キャラクターの掘り下げが足りていないから、台詞や行動によって主要キャラクターの魅力が描かれるエピソードも存在しない。言ってしまいますと、読者を意識されていない。エンタメだということをそっちのけで、ただ自分の書きたいことを書かれてしまっている。読了後のカタルシスは、前半のせいでかなり薄いものになってしまっています。
 あくまで個人的な意見ですが、以下駄文を書き連ねます。
 キャラクターの掘り下げが足りていないのは置いておきまして、ストーリーの構成について言わせていただきますと、起承転結の中に、それぞれ序破急を作るフラクタル構造が意識されていないのではないかと思います。起の中に序破急、承の中に序破急、転の中に序破急、結の中に序破急。起は20%、承は30、転40、結10、割合はオーソドックスなものでこのようなものになります。
 割り振ったところでしなければいけないのは、特に起の序で、主人公とヒロインなど主要人物を登場させ、紹介を済ませ、物語の方向性を示さなければなりません。だいたい5DPから遅くても10DPまでに終わらせて下さい。一般論ですが、コイツを何のプランも無く破ると(実際分量を書いてくると、敢えて破ったりしますが、それはプロの仕事です)、冗長になったり、最悪分量の関係で本作のラストのように性急で唐突なものになってしまいます。
 この作品で表現したかったのは、人間と竜との愛。いわゆる異種族間恋愛ですね。ですから、異種族間恋愛を最初の5DPで読者に印象付けて下さい。これからこのような物語が始まるんですよーって、読者に暗示させ、期待させるのです。そして期待を裏切らずに最後までいく。無駄なバトルなどを無理やり詰め込むべきではない。そうすると、この作品は要素不足で、とても長編に耐えうる分量にはならないのですよね。異種族恋愛ならば、もっと異世界と現世界を巡る問題をだいたいてきに取り扱うなど(要は、ラストで問題になっていた、竜の絶滅問題を初っ端から展開するなどすべきだった)、要素を考えるべきだった。
 ただ、ここまで書いてこんなことを言うのはアレかもしれませんが……。異世界ファンタジーで異種族恋愛は今の時代受けません。異世界ファンタジー自体あまり受けない現状で、バトルや国盗り要素の無い(政治のせの字も出て来ない)作品は、読者を相当切ない気持にさせないと厳しい。うまく書けても埋もれる可能性があります。何故なら、現代で報われない恋を書いた方が読者はすんなりと受け入れてくれるからです。上位互換があるのです。異世界ファンタジーは世界観の紹介と言う時点で、本題である恋愛物を書くまでのプロセスにタイムラグがあり、結果、恋愛要素が圧迫されてしまうからです。異世界を書くなら、書くだけの理由――メリットが必要になってくるでしょう。だから、異世界ファンタジーとなると、戦記モノになってくるんですよ。戦記ものは異世界ならではの特産物だから。

【世界観・アイデア】
 異世界モノの武器である世界観ですが、本作には、それが武器になっていない。世界観が中世ヨーロッパで、こんなもんかなーで書かれているからではないでしょうか(失礼な指摘、本当にごめんなさい)。
 家令というより執事の方が、中高生はイメージしやすいでしょう。おそらく、彼らは執事やメイドは知っていても、家令は知らない。宮城谷昌光先生の歴史小説などを読んでいる渋いヤツなら知っているかもですが、ここは執事の方が分かりやすい。またナギが紫苑の笛の音に「魔法か?」と問うシーンがありましたが、あれは失敗です。音楽を知らないっていっても、耳が聞こえないわけはないのですし、空気の摩擦で音が出るという味気ない解答ならともかく、「魔法か?」はドラゴン世界の文明レベルを疑います。またスコーンを食べていますが、つまり舞台は小麦の産地なのですね? イギリスっぽい感じでしょうか? なんにせよ、文明レベルは火は使えるが、産業革命は起こっておらず、またかまどがあり、したがって当然鉄器は存在していると。馬に乗る描写があることから、遊牧騎馬民族の風習がどこからか伝わって来て(騎馬を持つ国は遊牧するため、小麦の生産は行わない)、軍があることから他国からの侵略もあるはず。だのに、そう言った政治事情は一切出て来ない。王政がしかれているが、税の徴収はどうなっているのか。騎士に給与があると言うことは、戦いがあると言うことですよね。そうすると、やはり他国が絡んで来ないのは不自然だ。ストーリー上絡ませたくないなら何かもっともらしい理由付けが必要でしょう。
 また、出てくる人びとは、戦争を知っている(軍があるから)にも関わらず、全く軍事的野心がない。竜を捕らえたら何をするか? 魔法が使えるなら、僕なら軍事のみならず、生活の向上のため魔法を竜に教わろうと交渉します。駄目でも、竜のウロコを求めて交易の商談を持ちかけます。そう言ったことが全く出て来ない。竜を捕らえて、政府はそれを領知していながら、幽閉するにとどめている。この国は本当に福利厚生に興味の無い、かつ危機管理のできない平和主義者の政治家しかいないのか? しかしそうすると、軍隊があるのは何故か……? 治安維持なら軍よりもお金のかからない自衛組織を組ませる方が経済的ではないでしょうか? そこまで政府は頭が回らなかった? 中世世界の人間は発想力に乏しいという設定なのでしょうか? 納得がいきません。
 また魔法、と一言出てくるだけで、生活に変わりはないのか気になります。竜が空を飛ぶのなら、その術を研究する人はいないのでしょうか。多分魔力で飛んでいる(一般的な物理法則からしてそうでしょう。作中の描写からしてもそうだ)のでしょうが、馬よりも効率的な移動手段は本当にないのか。竜に似せて作った飛行船くらいあってはいけないのかなあとか思ったり。
 あと文字は竜が教えたというのも、ぞっとしない話です。魔法も使える強大な相手に、文明を教わっているのです。知らぬうちに言語を利用して竜に支配されていたということはないのでしょうか。また竜は何故文化的支配を人間に施さなかった? 数が減っていたから、軍事力では人間に勝てなかったから? 人間を大々的に連れ去るのなら、言語を利用すれば良かったのでは? 言語というのは非常に強力な武器ですよ。

【構成】
 伏線が出てきたのが作品の6割くらいを過ぎたあたりで、問題が発生したのは作品のラスト一割でした。ナギが強かったという設定も、唐突ですし、最後の戦闘シーンはとってつけた感が半端ないです。竜と人の愛を描くのに必要だったのかもしれませんが、やはりこの構成はまずいように思えます。まず冒頭で引き込まれず、半分ほど竜と人間の日常が延々と書かれているだけで、これではさすがに退屈でしょう。最悪起承転結の各『急』の部分は何かしらイベントを起こして欲しかった。日常を通して竜と人間の愛を描く→だからと言ってだらだらと日常シーンを見せつけて良いと言うことにはならないと思います。何でも良いのです。イベントを、キャラクターの魅力を伝えるエピソードを。

少し長くなりましたが以上です。次回作、頑張って下さい。
2013-01-17 02:52:09【☆☆☆☆☆】ピンク色伯爵
ピンク色伯爵様

的確なご指摘をいただきまして、まずはお礼申し上げます。
自分でも投稿後に読み直して、まずいなー、なんか変だなぁという違和感を感じていたものなので、それをしっかりと言葉(文章)として説明していただき、ようやく理解できました(遅すぎる感満載ですが。。。)
もう少し登場人物たちとの対話をしっかりと重ねてから書くべきだと改めて反省しております。
一点、ラストの部分が一番苦労したので、その部分をほめていただいたのは心底うれしいです。
これは改稿という限界を通り越していますので、きっとまるまる書き直しになるかと思いますが、ピンク色伯爵様の助言を元に再度構築しなおしてみようと思います。

最後になりますが、突っ込みどころ満載なこの作品をきっちりと最後まで読んでいただき、なおかつアドバイスまでいただきましてありがとうございました(私なら、面白くないと自分で判断した時点で途中で投げ出すと思いますので……)ピンク色伯爵様の根気にとても感謝いたします。本当にありがとうございました。
また次作、もしくは書き直し作品を投稿させていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
2013-01-17 08:13:33【☆☆☆☆☆】綾月
綾月さま、始めまして。も、から始まる格ゲーマーともうします。御作拝読させて頂きました。大体の事は伯爵様が仰って下さっているのでアレなのですが、自分はこのタッチでの進行からして少年系では無くコバルト等の少女系ラノベを意識されて書かれたのかな? と思いました。状況描写、その時その時の心情描写を挟み冗長的になってしまってはいますが少女系ラノベの場合、本当に心情を掘り下げて掘り下げて書かれる作品が多いので、もしそちら側で応募されていたとしたら個人的に納得しちゃったり。
ただ、そうだとしても展開が非常に遅いです。メリハリが無く、ただただ状況を説明しているだけの文章が続いてしまうので読み手に飽きが来てしまうのは仕方がないかもしれません。綾月様が丁寧に描写をしようと書かれている文章も、頭のなかでキャラクターを動かしたイメージを順を追って説明してしまっている書き方になっているのも勿体ないです。構成はパースを意識し、映画やドラマのように大胆な流れを意識して構図はどの角度から書くかを考えてみるのも良いかもです。
ラストへと持っていくまで、書きたいところまで持っていくジョイント部分の難しさ。ここを我慢して、グっと展開を高める為の構図を描ければこっちのものですし! 最後まで作品を書ききる筆力がある綾月様ならこれからもっともっと素敵な作品が産み出されると思って、自分も楽しみにお待ちしております。
いじょ、何だか偉そうな事ばかりですみませんでした。格ゲーマーでしたー
2013-01-29 17:12:17【☆☆☆☆☆】も、から始まる格ゲーマー
[簡易感想]まだわからないので、続きに期待します。
2014-05-30 03:40:01【☆☆☆☆☆】Pablo
計:0点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。