『森の中の人魚 (一生の改訂と二章更新)』作者:のんこ / t@^W[ - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
都会の大学に通う時文は、毎年夏になると母親の実家である雨露村へと向かおう。そこは隣町以外とはほとんど交流のない、山と森に囲まれた静かな場所である。しかしこの村には語られることのなくなった伝説があるらしかった。それは「人間になった人魚の伝説」その伝説の真相を探るのが、時文の目的だった。海のない村に伝わる人魚伝説とは。そこで出会った、不思議な目の色をした女凜子の正体は。そしてそんな凜子に思いを寄せる、馴染みの少年明人の心は。人魚伝説。それは愛おしくも悲しい、呪われた血の歴史であった。
全角32012.5文字
容量64025 bytes
原稿用紙約80.03枚


「家を出た頃は曇っていたけれど、こっちは晴れているみたいだね。雨が降らなくてよかったよ」
 車を運転する隆文の呟きに、助手席に座る佳子がそうねと答えた。そんな両親二人のやり取りを、後部座席に座る時文は一度ちらりと見やってから窓の外へと視線を向けた。
 隆文の言うとおり、都会の街を出る時はどんよりとした灰色の雲が空一面を覆っていた。雨が降ったら道が悪くなると一家揃って危惧していたが、一時間も車を走らせたところで空模様は変わった。
 何処までも青い大空は、まるで一面絵具をぶちまけた様に澄み渡っている。雲一つない快晴だ。車の窓を開けると、吹き込んだ風によって前髪が揺れた。もう少し車を走らせればこの風に潮の香りが混ざる。海に面した小さな町を抜けた先に、一家がこれから訪れる村があった。
 夏の長期休暇の間、毎年家族は佳子の実家である雨露村で過ごすことになっていた。山と森と畑と川しかないその村で過ごす夏は、一家にとっては既に一年の内の決まり事となっている。しかしその度に喜んで自分達家族を迎え入れる祖父母とは異なり、都会育ちの時文には年々それが億劫な行事に感じられるようになっていた。
 まだ幼かった頃は、都会の街にはない豊かな自然に感動し、昆虫採集に植物採集にと様々な楽しみを見つけることが出来ていた。しかし成長して都会ながらの楽しみ方を幾つも覚えるようになってからは、小さな村での生活は退屈と言う言葉以外に適した表現が思いつかないものになっていた。
 高校生の頃に一度、そんな不満を母親である佳子に投げかけたことがあった。健全な都会の男子高校生にとっては、豊かな自然の中で過ごす穏やかな夏よりも、喧騒と友人との談笑に満ちた都会での夏の方がよっぽど有意義なものなのだということを唱えたのである。
 しかしそんな時文に対し、佳子は「あんたが仕事をするようになったら嫌でも村での日々が恋しくなるわよ」と言っただけだった。
 主張が挫かれたことによって更に嫌気がさし、絶対にそんなことがあるものかとなおも反発したが、結局一度も彼の意見が受け入れられたことはなかった。
 しかし言われてみれば、毎年仕事の関係で母子より先に都会に帰る父親は、村を離れる間際決まって寂し気な、名残惜しむかのような表情を浮かべて去っていく。
 それを思い出して、ああ確かに都会の中で忙しない日々を送る人にとって、あの何もない時間は喉から手が出るほどに欲しい時間であるのかもしれないと感じたのも事実であった。
 しかしそうは思っても退屈であることに変わりなく、そのため毎年少なからずの倦怠感を覚えながら雨露村へと訪う時文であったが、今年は様子が違った。
 というのも、この春都会の大学の歴史学科に進んだ彼にとって、その専攻に幾らか沿う内容の伝説が雨露村にはあるのだと言うことを知ったからである。
 幼い頃から歴史や伝承を学ぶことに興味を持っていた時文は、小学校の長期休暇に出された自由研究には都会の街並みや交通、特産、商業などありとあらゆる歴史について調べてまとめあげたレポートを提出していた。
 教師にも同級生にも褒められたそのレポートは、彼の歴史研究熱に拍車をかけた。都会の街で有名な公立大学でありながら、他学部に比べて著しく就職率が悪いと言われている人文学部の歴史学科に進学を決めたのも、趣味のような歴史研究を正当化するための理由が欲しかったからに違いない。
 しかしながら、そうして日々歴史研究に精を出し、気になれば街でも物でも人でもすぐにその成り立ちを探ることを習慣にしているはずの彼は、これまで一度も雨露村に興味を持ったことがなかった。しかしその理由もなんとなしには理解していた。
 ありふれて平凡な性質である母親を見ていると、そんな母親の故郷にそれほど大層な言い伝えがあるなどとは思えなかったのだ。調べたところで村の成り立ちについて申し訳程度に書かれた記述しか出てこないのだろうと、勝手に決めつけていた節もある。
 しかし伝説があると言われて考えてみれば、豊かな自然に囲まれ、交流と言えば隣町としかない、どこか閉鎖的な印象を受ける小さな村に何の背景もないはずがないのである。
 そもそも雨露というその名も奇妙であった。村は特段雨が多く降る土地ではないのだ。
(……人になった人魚の伝説、かあ)
 聞かされた伝説は、かつてこの村には人になった人魚が暮らしており、夜になると森の中から海を恋しがる人魚の歌声が聞こえてくるのだと言う、伝説と言うだけあって真実かどうかはかなり疑わしい内容のものであった。それだけの内容しか知らないので、それが怪奇伝説なのかそれ以外の類なのかどうかも解らなかった。
(……なんだってこんな伝説が生まれたのか。海のない小さな村なのになあ)
 普段時文は未確認な生物たちに対してそれほど否定的な態度を取っているわけではなかった。宇宙人も幽霊も、特段信じているわけでもないが、声を大にして「そんなものは存在しない」と主張する気もない。何処かに居たっておかしくはないんじゃないか、程度のものとしてそれらの存在を捉えていた。
 しかしそれが人魚ともなれば話は別である。幾らなんでもそれは、と言う気がした。何故宇宙人は信じられるのに人魚は信じられないのだと言われると、時文自身明確な理由は思いつかない。しかし強いてあげるとすれば、人間の想像の産物としか言いようにないその存在の美しさだとか、設定のロマンティックさなどがいかにも作り物臭く感じられるのだ。
 美しい歌声で男を誘惑するだの、人と結婚すれば魂を手に入れることが出来るだの、恋に破れれば泡になって消えてしまうだの。
 そもそも人魚と言う存在は宇宙人でもなければ幽霊でもなく、妖精や化物の類に分類され、どちらにせよそれは存在の疑わしい怪しいものなのである。
 そのような存在が自分の良く知る村に居たのだと言われて信じられるはずもない。自分が幼い子供であったとしたら少しくらいは胸をときめかせたのかもしれないが、そのような純真さも時文はもう持ち合わせてはいなかった。
 では何故明らかに疑わしい伝説について探る気になったのかと言うと、村内でそのような伝説が生まれるにあたった経緯を調べることはそれなりに面白いことかもしれないなと、そう思ったからに他ならない。
 伝説とその背景を調べていくにつれ、自然と当時の様子が浮き彫りになっていく。村人たちが何を信仰していたのか、何を恐れて、どのような生活を送っていたのか。
 今でも山と森と川に阻まれて地理的には孤立している小さな村が、その昔はどのようにして成り立っていたのだろう。隣町との交流は。争い事は。村民たちの主だった生業は。
 時文の興味は伝説そのものではなく、そういったものの裏側に隠れた真実へと向いていた。
 抱いた疑問自体は大層なものではなく、また真実の方も特段物珍しいものではないに違いないが、資料の少なそうな小さな村について調べることは、今後の大学のレポート課題や歴史を学ぶ上での足しにはなりそうである。それに、退屈な夏の中で暇をつぶす術を見つけるのは重要なことだった。
「それにしても、あんたも大概現金よね。今まで散々文句を言っていたくせに、途端に顔色を変えるんだもの」
 不意に、先ほどまで夫である隆文と話していたはずの佳子が、後部座席に座る時文を振り返ることなく言い放った。呆れたような声音に時文は肩をすくめる。
 車は丁度峠を越えた辺りで、見下ろす視界は一面山と森に覆われていた。名も知らぬ木々が生い茂り、名も知らぬ鳥が時々空を横切っていく。
 都会の街並みの景色に見慣れた時文にとって、車窓から見える風景は何もかもが静かであった。開け放したままの窓の向こうから聞こえてくるのは車が風をきる音のみである。都会の街に当たり前にある喧騒が一つもない。聞こえてくる風の音に耳を澄ませながら、風とはこのような音をしていたのかと、そんなことを思う。
 ついこの間までは、田舎の小さな村もその途中で出会うものも退屈なものとしか感じられなかった。しかし今は様子が違った。楽しみを見出した心がそう思わせているのか、目に見える全てに心が僅かに踊る。木々も鳥も自然の音も、普段は注意を払うべき存在ではなかったはずだ。
 そのような心境の変化を母親に言われるまでもなく時文自身自覚していたのだが、どうしてかその皮肉を素直に受け入れることには抵抗があった。
 それを大人は子供の意地だと笑うのかもしれないが、兎にも角にも時文は窓の外の風景に視線を向けたまま、努めて冷静な口調で言い訳をした。
「そんなこと言って、俺に雨露村の伝説を教えたのは母さんだろう。教えてくれなきゃ、今でも面倒臭がってたさ。逆を言うと、もっと前から教えてくれていれば訪れる楽しみが出来ていたのに」
「よく言うわよ。全く誰に似てそんな歴史マニアになったんだか」
「まあまあ、時文が興味を抱いてくれるようになったのなら、それでいいじゃないか。何せ毎年村に居る間中楽しくなさそうだったからね」
 息子の心変わりの理由を不純であると指摘する佳子であったが、穏やかな口調で二人の会話の仲裁に入った隆文の言葉には、未だにどこか腑に落ちない気持ちはありつつも幾らか納得して頷いた。
 確かにどんな理由であれ、息子が自分の故郷の村に興味を抱くことは喜ばしいことである。加えて、今まで散々息子の不満を無視し続けてきたが、佳子自身自分の故郷が都会での生活に慣れた若者にとって退屈なものであることは解っていたのだ。何しろ自分もその退屈さを嫌って村を出たのである。
「……でも時文。その伝説について、あまり年配の人には聞かない方がいいかもしれないわよ」
 佳子の言葉に、時文は思わず母に向き直った。バックミラー越しに目が合う。何故、と視線で問うと、彼女は一度悩むように視線を逸らし、再び向き合って言いにくそうに口を開いた。
「私もこの伝説についてあまり詳しくないし、まあ今となっては信じてもいないんだけど。小さい頃に一度おばあちゃんに……もう亡くなったあんたの曾おばあちゃんだけど、伝説について聞いたことがあってね。そしたら、渋い顔をされたのよ」
「渋い顔?」
「そう。それで、そんな伝説おばあちゃんは聞いたことないよ、って言われてね。なんとなく言いたくないことなのかしらと思って、それ以降は聞かなかったんだけど。それに、今となってはその伝説を知っている人の方が少ないみたいよ。同じ村の子供でも、知らない子が居たもの。あの頃はまだ子供が多く居たのよ」
「……へえ」
 頷きながら、時文は頭の中で佳子の言葉を復唱していた。
 伝説について問われて言い淀み、そうして白を切った曾祖母。その後語られることのなくなった伝説。ひょっとしたら今はもう真相を知るものなど居ないのかもしれない。
 しかし曾祖母のその反応は、見方を変えれば伝説が語られることが無くなる以前、それは忌まわしいものとして村人たちに語り継がれていたと言うことの裏付けにもなる。
 そしてその伝説は、曾祖母の代になって口にするのも憚られるおぞましいものになってしまったに違いない。そのようにして語られることのなくなった伝説は、世界各国何処にだってあるものである。
(雨露村の人魚伝説。調べてみると意外に奥深そうだな)
 数分前に母親が言った言葉などすっかり忘れ、時文は期待を寄せていた。

 峠を下り、更に一時間程車を走らせると海沿いの小さな町に出る。漁業が盛んなこの町は波町といい、潮の香りで満たされていた。この町に着けば雨露村まではあとほんの僅かの距離である。
 人口二万人程度の波町は、都会の街に比べると些かみすぼらしく思えるが、それでも生活に必要なものはあらかた揃っている。工場や商業ビルも幾つか立ち並んでおり、雨露村に比べると随分な賑わいを見せていた。
 町の中心地から離れて奥地へと進んでいくと、森の中へと続く道路が見えてくる。車がぎりぎり二台通れる程度の舗装されていない細い道路は、雨露村へと続く唯一の道であった。
 村と町を行き来する公共の交通手段はなく、そのため波町を訪れる際村人たちは自家用車か自転車、それ以外では自分自身の足を頼りにするしかなかった。徒歩であれば軽く一時間はかかる。しかしこの距離を、雨露村の数少ない子供達は通学のために毎日徒歩か自転車で往復していた。雨露村には学校がないため、波町まで通わなければならないのである。
 それに対して知り合いの村の子供が「もうすっかりなれたよ」と言ったのを、時文は信じられない思いで聞いていた。文系である上に低血圧な彼は、朝早く起きて一時間もの距離を移動する毎日など考えたくもない事であった。
 道なりに車を三十分ほど走らせていくと、森と山と畑に囲まれた雨露村が見えてくる。ぽつりぽつりと建つ木造建築以外に建物はない。辿り着いたころにはすっかり日が暮れており、橙色の光を浴びた村はより一層時の流れを感じさせない古い世界に見えた。
「相変わらず、いつ来ても景色が変わらないね」
 一年前に訪れた時と全く様子の変わらない静かな村の景色に、思わず時文が言葉を漏らす。するとその言葉にすぐさま佳子が反応した。
「私が子供の頃からこの村はずっとこのままよ。変化と言えば道路がほんの少し広くなった程度ね。森を切り開いて波町と合併でもしない限り、この村は一生このままでしょうね」
「でもまあ、変わっていく世の中で、こういう風に変わらない景色って言うのは大切だと思うよ」
 朗らかに笑いながらそう言った夫の言葉に、またもや佳子はそれもそうねと頷いた。
 退屈な村での日常に嫌気がさして、煌びやかな都会の生活を選んだ彼女であったが、毎年こうして故郷を訪れるのは他のどんなものでもごまかすことの出来ない愛着がここにはあるからである。都会の喧騒に触れて初めて、故郷の穏やかさのかけがえのなさに気付かされたのだ。
 そしてそれに快く付き合ってくれる夫の存在が、佳子は有難かった。しかしそれを言うと、いつだって隆文は「俺はこの村がとても好きだよ」と言って笑うので、全く良い夫を持った者だと彼女は一人頷くのであった。
 背後を山に、手前を森に囲まれているこの村の中で、祖父母の家は割合森に近い場所にあった。村に入って車を数分走らせたところにあるのだ。それはつまり波町にも近いという意味である。
 普通であれば歩いて一時間以上かかる距離を近いとは決して言わないだろうが、小さな村であるとはいえ、村内を端から端まで移動するともなれば徒歩でたっぷり一時間はかかる。そのためやはり「近い」と形容するのが正しいのである。このような不便な村で暮らしてみると、大凡の感覚が都会の街とは異なってくる。
 しかし何処を移動しようとも、見える景色は三百六十度山と森と畑であった。
「あらあらいらっしゃい。長旅で疲れたでしょう。時文くんはまた大きくなったわねぇ」
「ほんと、大きくなったなぁ。幾つになったんだったかな」
「じいちゃんばあちゃん、久しぶり。今年で十九になるよ」
 祖父母の家に着くなり、一家は暖かい笑顔で迎えられた。しかしながら、老人たちの関心は専ら孫である時文に注がれる。娘を差し置いて孫を愛でる両親にいつも佳子は若干の不満を抱くが、一年のうちほんの僅かな時間しか両親と自分の息子が一緒に過ごすことが出来ない環境を作り上げたのは他の誰でもない自分自身であったため、大きな声で文句を言うことは出来なかった。
「とりあえず、先に荷物を運び入れようか」
 隆文の言葉により、一家は一先ず車に乗せていた荷物を家の中に運び込む作業へと戻った。祖父母も再び家内に戻り、祖父は居間に寝転んでテレビを眺め、祖母は夕食の支度に取り掛かった。
 しかし一家の荷物はそれほど多いと言うわけではなかった。
 盆休みと称して夏の休暇を得ている隆文は、一週間程度しか村に滞在することが出来ず、先に一人車で都会の街へと帰らなければならない。
 対して佳子と時文は夏の間中雨露村に滞在するため、帰りは波町から電車を幾つか乗り継がなければならなかった。当然のことながら荷物は自分たちで運ばなければならないので、いつも必要最低限の着替えと村人たちへの土産くらいしか村には持ち込まなかった。
 しかし小中高校生時代の夏休みが約一か月程度であったのに対し、大学の夏休みはそれに比べて長く、一か月半近くある。その長い休みを丸々こちらで過ごすのかどうかは今のところ不明で、全ては佳子の気分次第であった。
「そう言えば、明人くんの姿が見えないわね。いつもだったら、おかあさんたちと一緒にこの家であんたが来るのを待っているのに」
 荷物を運びこみながら、不意に佳子が時文を振り返った。その言葉に、時文は小さく頷いた。
「……ああ、確かに見かけないね。だけど考えても見ればあいつももう中三だよ。俺に甘える時期も終わったんじゃないのかな」
 息子の言葉に、そんなものかしらと佳子は小首を傾げた。それにそんなものだよと答えながらも、時文自身いつもであれば真っ先に目に入ってくるはずの少年の姿が見えないことに幾らか疑問を抱いていた。
 明人と言うのは、この村に住む数少ない子供のうちの一人である。今現在村には明人の他、去年生まれたばかりの子供と小学校に上がったばかりの小さな子供がいるだけだった。数年前までは時文とそう歳の変わらない子供が数人居たが、彼らも成長し、現在は地方の高校や大学に進学し、ほとんど村に帰っては来ないらしかった。
 大人にも子供にも末っ子のようにして可愛がられて育った明人は、どうしてか昔から時文によく懐いていた。まるで金魚の糞のように後ろをついて回り、絶えず笑顔を浮かべながら「時兄、時兄」と彼の名を呼ぶのだ。
 そのようにして甘えてくる少年のことも、歳を追うごとに村への不満と同様に時文にとっては少なからず煩わしいものとして感じられるようになっていた。しかしいざ耳慣れた明るい声が聞こえてこないとなると、妙に物足りなく感じられるもので、そのように感じてしまった自分に対して時文は幾らか呆れる思いだった。幼子気質の抜けない少年を、成長したのだろうと言ったのは自分であるはずなのに、それが妙に寂しいことのように思われた。
 あらかた荷物を運び終えたところで、不意に家の扉を叩く音があった。手の放せない家主と両親に変わって時文が扉を開けると、そこには見慣れた女性が居た。明人の母である。
「直子さん。お久しぶりです」
「時くん、久しぶりね。そろそろ到着の頃だと思ってやってきたんだけど、忙しかったかしら。手伝うことがあれば手伝うわよ」
「いえ、もうすぐ終わるのでおかまいなく。もともと荷物は少ないんです。そうだ、色々とお土産がありますよ」
 時文がそう答えたところで、荷物を運び終えたらしい佳子がやってきて、玄関先に立つ人物を見て嬉しそうに声を上げた。
「直子! 会いたかったわ、久しぶりねえ、元気にしてた?」
「よっちゃん、久しぶり。こっちは何にも変わりはないわよ。あなたも相変わらず元気そうね」
 久しぶりの再会に、少女の頃のような明るい声音できゃあきゃあと盛り上がる女たちを尻目に、時文はやれやれと小さく溜息を吐いた。
 母佳子と直子は幼馴染である。歳は佳子の方が三つ上だが、村内にしては双方の家は近い距離にあるため、二人は幼い頃から姉妹のようにして育ったらしかった。明人が時文を兄の様に慕うのも、自分の母親が佳子を姉のように慕っている姿を見て育ったせいなのかもしれない。
 玄関先ですっかり話し込んでいる母親二人を見つめながら、これ以上ここに立ち尽くしていたところで何にもならないだろうと考えた時文は、居間へと引き返すことにした。退屈そうにテレビを眺めているだけの祖父の機嫌を取って、小遣いにでも期待することにしたのである。
 しかしそうして身を翻したところで、再び時文の存在を視界に捉えたらしい直子が声をかけてきた。
「そう言えば、時くん。明人とまだ会っていないでしょう。お客さんが来ていてね、それであの子、彼女に付きっきりなのよ」
「彼女?」
 直子の言葉に、思わず時文は足を止めて彼女を振り返った。怪訝に思い、首を傾げる。
 普段雨露村を訪ねてやってくる者などほとんどいない。地方に出て行った者が盆や年末の時期に里帰りにやってくるくらいである。そうして里帰りをする者だって、年々減ってきている。毎年必ず訪れる一家と言うのは時文の家くらいなものであった。波町をはじめ、村人が他の町へと出て行くことはあってもその逆はないのがこの村である。
 そうして毎年長い旅路を経てやってくる自分以上に優先する客が明人に居ただなんて、時文にとっては初耳であった。そしてそれは佳子にとっても同じだったようで、横で不思議そうに首を傾げていた。
「お客さん? なに、珍しく祐介兄さんでも帰ってきているの?」
 祐介と言うのは、村に滅多に帰ってこない直子の兄である。佳子よりも更に歳が三つ上で、高校を卒業後村を出て地方の食品メーカーに就職したらしかった。妻子持ちだが、毎年盆と正月の時期には妻の実家の方に行くらしく、ほとんど雨露村には帰ってこない。そのため時文もあまり面識がなかった。
 しかし佳子のその質問に対し、直子はそうじゃないのよと首を振った。
「違うの、今ね、大学生の女の子が来ているの。……そうだ、確か時くんと同じY大の学生さんよ。歳は一つ上だったかしら。なんでも研究の一環でこの村にやって来たんですって」
「Y大の? 専攻はなんだって言ってた?」
「ええと、なんだったかしら。確か人類……文化……」
「文化人類学?」
「あ、そう、それよ確か。とっても綺麗な女の子で、礼儀正しくってね。ちょうど一週間くらい前だったかしら。突然村にやって来たんだけど、この村、泊まるところがないでしょう。それで今うちに下宿させているの。明人がすっかり彼女のこと気に入ってしまったみたいでね」
 その言葉に佳子は「明人君もそんな歳になったのねえ」などと言いながら楽しげに笑っていたが、その横で時文は一人腑に落ちない顔をしていた。
 時文の通うY大学には、五つの学部がある。最も力を入れているのは法学部と工学部であり、近代化やグローバル化の影響で近年では経営学部と語学部にも力が入れられるようになった。
 どの分野であっても就職に生かすことが出来るため、就職率も大変良い。卒業生は皆優秀だと、企業側からも賞賛されていた。
 しかし残る一つである人文学部には、時文の選考でもある歴史学科と今話題に上がった文化人類学科という二つがあるのだが、それらはどうにも専門性が強すぎるためあまり社会では役に立たない学問だと言われていた。
 事実歴史学科の生徒は知識を生かすために教職課程に進んで小中高の歴史教師になるか、分野など全く関係ない企業に一般就職する他道はない。しかしこのような学問に興味を示す人間と言うのは大概にしてあまり社交的とは言えない人格の持ち主が多いので、苦労して就職した後であっても挫けてしまう者が多く、そのため有名大学卒と言ってもあまり企業からの評判は宜しくなかった。
 そしてそんな評判のよろしくない歴史学科の更に上を行くのが、文化人類学科である。文化人類学と言うのは多様な文化や社会の側面について研究する学問であり、時文自身は大いに興味を抱いている分野であったが、教授にでも登り詰めない限り、学んだ知識を生かす道はないと言っても過言ではなかった。
 そんな一般的とは言えない分野を専攻する女が居るのだと言うのも珍しかったが、しかしそれ以上に現地調査の一環としてこの村を選んだと言うことが、どうにも時文には腑に落ちなかった。
(普通、研究対象にこんな何もない村を選ぶだろうか。もっと民族色の強い土地へ行くべきなんじゃないか。それに一つ上って言うことは、二年生だろう。二年生の内からフィールドワークなんてするだろうか。普通、三、四年ですることなんじゃないか)
 そもそも突然やって来たと言うのもおかしな話である。研究の一環として大学の名を背負ってやってくるのなら、現地の住人には事前に連絡を入れるはずである。泊まるところがないともなれば尚更だ。
 しかしそうして一人、客であると言う女の素性に幾らか疑問を抱いて首を傾げている時文など構いもせずに、直子は笑いかけてきた。
「あの二人、今は多分森の方にいると思うんだけど。晩御飯は佐竹の家で御一緒することになっているから、もうしばらくしたら帰ってくると思うわ」
 佐竹と言うのは佳子の旧姓である。毎年一家が村にやってきた初日は明人や直子、そしてその旦那である良純が佐竹の家にやってきて皆で賑やかに食事をした。そのため今更食事を共にすることには驚かないが、それより前に行った直子の発言がどうにも奇妙で時文は思わず首を傾げた。
「森? なんでまた」
 この村の森に特段珍しいものはない。生い茂る木々と山菜、そして静かに流れる小川があるだけである。しかし恐ろしく広大なので、森の奥地には村人達であっても行かないようにしていた。
「調べ物の一環じゃないかしら。毎日午前中は二人で出掛けるのよ。明人が凜子ちゃんに村の案内をしているみたい。明人ももう部活を引退しているから、暇を持て余しているの。受験勉強って言ったって、波町のK高校なら人数割れしてるから、勉強せずとも受かるって言ってしないのよ。困った子よね」
 時くんの優秀さを分けてあげたいわ、と直子が溜息を洩らしたところで家内から佳子を呼ぶ声が聞こえてきた。どうやら夕食の支度を手伝ってほしい祖母が呼んだらしく、直子と連れ立って二人は家の中へと入っていった。
 それに時文も続こうとしたところで、しかし背後から騒がしい足音が聞こえてきた。そうしてすぐにけたたましい音を立てて扉が開き、見慣れた笑顔が視界に飛び込む。
「あれ、時兄もう来てたんだ、久しぶり!」
「……お前、やっぱり変わってないなぁ」
 約一年ぶりの再会にも関わらず、目の前の少年の笑顔も声音も記憶の中のものとほとんど変わってはいなかった。
 来年は高校生になると言うだけあって、去年会った時よりは背丈も伸び、顔立ちもほっそりした気がする。しかし落ち着きのない動作や言動がそう思わせるのか、目に映る明人は実年齢よりもずっと幼く見えた。時文を真っ直ぐに見つめる茶色い目は、まるで遊び相手を見つけて尻尾を振る子犬のようである。
 その様子を見て、やはりそう簡単に人は成長するものではないのかとそう思う。しかしそうして呆れる気持ちと同じだけ、変わらない少年の姿を捉えられたことに安堵する気持ちもあった。
 毎年訪れる度に纏わりついてくるこの少年を煩わしいと感じていたのは他でもない時文自身だった。しかしこの村に来たらこの明るい笑顔に迎えられなければ物足りなく感じてしまうくらいには、明人の存在は彼の中で馴染みあるものになっていた。
「……こんにちは」
 不意に鈴の音のような声が聞こえてきた。その声にハッとする。そうして視線を巡らせたところで、ようやく時文は明人の背後にいる人物の存在に気が付いた。気付いた途端に、小さく息を飲んでいた。
「……、」
 両の目が捉えたのは、思わず息を飲むほどに整った顔立ちをした女であった。あまりの美しさに、時文は瞬きをすることさえ忘れていた。
 呆然として見つめていると、不意に吹いた風に女の髪が靡く。胸下まで長く伸びた黒髪が揺れ、隠れていた白い首が露わになった。真綿のようなくすみのない白い肌と、烏の濡れ羽のように黒い髪の対比が酷く眩しかった。しかしそれ以上に印象的であったのは、自分を見つめる女の双眼であった。
 時文を見つめながら何故だか不安気な色を湛えたその目は、妙な具合に光を帯びて煌めいていた。しかしどうやらそれは光の加減によってそう見えるのではなく、もともとの瞳の色らしかった。珍しい色をしている。茶でも黒でもないその瞳は、揺れる水面のように灰色がかった色をしていた。
 水に濡れたようなその瞳を真っ直ぐに見つめ返しながら、こんにちはと言った声音が再び時文の頭の中に響いた。聞いたこともないような涼やかな音だった。まるで管楽器か何かが静かに鳴り響くように、良く通る美しい声であった。
 なるほど明人が気に入るのも無理はないなと、思わず胸の内で納得していた。よっぽど趣向の変わったものでない限り、このような女を見て興味を抱かない女はいないだろう。
「時兄、見惚れてんじゃねえよっ」
 そうしてしばらくの間ただただ目前の女と見つめ合っていたが、明人の批難めいた声音を聞いてようやく時文は視線を外した。
 そうして見やれば僅かに頬を赤く染めた明人が挑むような目でこちらを睨み付けていて、なるほどお前もそんな目で俺を見るようになったのかとおかしなところで馴染みの少年の心の成長を感じ取った。
 明人のその瞳には時文への対抗意識が含まれていた。それはこの綺麗な女を取られたくないと言う、嫉妬であるに違いなかった。自分を慕い後をついて回っているだけであった少年の心には、いつのまにやら男としての闘争心が芽生えていたようだった。
「……いや、見惚れるなって言う方が無理があるだろう。こんなに綺麗な女の人は今まで見たことがないよ」
「なっ……」
 からかうようにそう言うと、途端に明人は顔を蒼白させた。慌てふためくその様子に、やはりまだまだ子供だなぁと思いつつも、気にすることなく再び人形のように整った顔をした女へと向き直った。向き直った瞬間、僅かに女の肩が跳ねた。おや、と思いながらも、気付かなかったふりをする。
「ええと、凜子さんだったっけ?」
「……ええ。あなたは、」
「時文だよ。Y大生なんだって。俺もなんだ。学年は一つ下だけれど、学部も同じだよ。歴史学科の方だけどね。君みたいな人でも、文化人類学に興味を持つんだね」
「……、」
 しかしそうして話題を振ったところで、目の前の女の顔色が明らかに変わった。はっとしたようなその表情には、焦りと緊張が含まれていた。より一層彼女の瞳に水気が増したように思う。その変化を時文はじっと眺めていたが、彼女の方で耐えられなくなったらしく、静かに視線が逸らされた。
 そうして短い沈黙の後によろしく、と返されたが、その声音も幾らか上ずっていた。
(……ふうん)
 まるで隠し事がばれた子供みたいだなと、自分より年上であるらしい女を見て時文はそう思った。そうしてほとんど確信的に思う。目の前のこの綺麗な女は、どうやら何か特別な事情を抱えているらしいと。
 しかしその事実を彼女のことを慕っている明人の前で口にすることは憚られた。そもそも確信はしていても確証はないのだ。怪しいと、そう感じているだけである。そしてそれはほとんど好奇心に近い感情だった。このような何もない小さな村に秘密を抱えてやって来た不可思議な女のその真意を知りたいと、純粋に興味を抱いていた。
 かといって女の秘密を無理に探る気はなかった。何か悪意を持ってこの村にやって来たと言うのなら話は別だが、尚も怯えたように顔を俯けるその姿からは少なくともそう言った不穏な気配は感じられなかった。そもそも悪意を抱いてこの村にやってくる理由が浮かばない。
 隠し事の内容は確かには気になるが、居心地悪そうにする女を見る限り、自分に嘘がばれたことは既に悟っているのだろう。それならば居た堪れなさに耐え切れなくなった彼女が自分から打ち明けてくるまでこちらは待つべきなのだと思う。あくまでも隠し通すつもりなのだとすれば、それはそれで構わない。向こうが騙すつもりなのであれば黙って騙されておくのが男のたしなみと言うものである。
(……今年の夏は退屈しなさそうだなぁ)
 そのようなことを思いながら、時文はただ灰褐色の瞳が怯えたように揺らいだ様ばかりを思い出していた。



夜になり、仕事を終えて帰ってきた明人の父親を迎えたところで夕食は始まった。
 双方の母親同士は昔話や各々の息子の話に華を咲かせ、父親同士は麦酒を片手に互いの仕事の話などをしている。
 時文の父は都会の街で銀行員として働いており、明人の父は雨露村の役場に勤めていた。
 役場は村の奥地にある。明治中期に建てられたらしいそれは、村の家々と同じく木造の古い建物である。特段厳かな雰囲気もなく、村の景観にごくごく馴染んでいた。
 良純の話によると、婚姻の手続きや出生届を出すときくらいしか存在を思い出されることのない役場は、普段それほど村人たちに重要視されることもなく、仕事は至って暇であるらしい。地方の町では役場が主体となって町の情報を他地域に開示し、観光客の増加に努めているが、そう言った技術に長けている者が居ないこの村ではそのようなことも行われてはいない。そのため良純自身が自分を「給料泥棒」と称しているのを聞き、時文は内心「なるほどその通りだな」と納得してしまった。
 一方隆文の場合は仕事の上では年がら年中暇な日と言うものが無いようで、金銭を数え、外回りをして商談を成立させ、帰宅も遅ければ二十一時過ぎという生活を繰り返していた。都会の街で働く銀行員と言えば、そんなものである。
 仕事内容としては全く正反対の二人ではあるが、それでも延々麦酒を煽りながら口を動かし続けている二人には、働く男にしか解らない苦労や不満があるようだった。それを見ながら時文は、数十年もたてば自分もこのように仕事の話をするようになるのかと何故だか暗い気持ちになった。
 賑やかな両親たちと異なり、時文の祖父母だけは普段通り穏やかな笑みを浮かべていた。孫と慣れ親しんだ少年、そして新しくやって来た美しい女を見て嬉しそうに微笑みながら、あれも食べなさいこれも食べなさいとしきりに料理を勧めている。
 そんな祖父母に適当な微笑みで返し、勧められた料理を口に運びながら、時文はどうしたものかと一人考えあぐねていた。
(……人魚伝説について調べに来たはいいものの、どうやって調べたらいいかなあ)
 この村には図書館はない。そのため本を読むのはもちろん、調べたい事柄がある場合わざわざ波町の図書館まで行かなければならなかった。
 しかしそこに雨露村について書かれた本があるとは到底思えなかった。というのも、わざわざ隣町の図書館に置いてもらわなければならないほどの情報など、この村にはないからである。インターネットで検索してみても地図上の位置と簡単な説明しか記されていないこの村は、暮らしている人々にしか良さも悪さも解らないひっそりとした場所であるに違いない。
(やっぱり、資料があるのは村長の家かな)
 そうして時文は、十数年も前の古い記憶を手繰り寄せた。
 まだほんの子供であった時のことである。歴史にすら興味を示していなかった頃に一度、明人と共に村長の家に遊びに行き、そこの家の孫と一緒に探検ごっこと称して家の蔵内に忍び込んだことがあったのだ。
 懸命に古い記憶を呼び起こしてみると、薄暗く埃にまみれた蔵内の様子が頭に浮かんだ。自分よりずっと小さかった明人が、始終怯えたように服の裾を掴んでいた。
 そうして思い出す。工芸品や祭事に使われる道具が仕舞われている蔵内の一番奥に、扉付きの棚があったのだ。扉には小さな鍵がかかっていたのだが、探検仲間は準備の良いことに蔵の鍵と一緒に棚の鍵も持ってきていたようで、難なく秘密を暴いてしまった。
 しかし胸を高鳴らせて開けた扉の先には、古い文字で書かれた村の歴史書やら、年度ごとの村の収穫高など、幼い子供にとっては知ったところであまり面白くはない古い書物が山ほど収納されていただけだった。
 そうして全く興味を抱くことが出来ずにつまらなさ気に扉を閉めた子供の頃の自分を思い出して苦笑する。歴史になど興味を抱かぬままに成長していたとしたら、今頃自分はどんな人間になっていたのだろう。永遠にこの村に楽しみを抱くことなどなかったに違いなかった。
(……ともあれ一度、村長の家に行ってみるか)
 果たして閉じられた戸棚の中に目的の資料があるかどうかは解らないが、他に思い当たる節はない。もし資料がなかったとすれば、直接伝説を知る者に話を聞くしかないが、それは佳子に止められている。
(でもまあ、結局は誰かに話を聞くことになるんだろうなあ)
 というのも、このような小さな村に伝わる伝説というのは、大概にして子供に聞かせる伝承や怪談話のように、口頭で語り継がれる場合の方が多いためである。町であれば、そうした口頭伝承を過去の知識人たちが書き記して残そうとしただろうが、この村に知識人や後世のことを考えて暮らす人物が居たとは思えなかった。
(でもそうなると、いよいよ伝説の真相を知ることは難しくなるな)
 万が一にも口頭のみで伝説が伝えられていた場合、時が経つにつれその内容は当初のものからかけ離れたものになってしまっている可能性がある。そうなってしまえば、もとの伝説とそれが生まれた経緯を探るというのはなかなかに骨の折れる作業であるに違いなかった。それが今日でも語られている伝説であるならまだしも、そうではないのだ。語られることもなく、また資料もない伝説を探ることほど途方もないことはない。
(……まあ、そうなったら伝説は諦めて、大人しくこの村の歴史についてでも調べよう。それでも退屈しのぎにはなるだろうし)
 結論に至ったところで、不意に名前を呼ばれた。明人である。
「時兄、さっきから何ぼーっとしてんの? 考え事?」
 その声に向き合えば、明人の隣にいる凜子とも目があった。しかし合うなりすぐさま視線を逸らされてしまい、そんなに警戒しなくてもなぁと思わず肩を竦めてしまう。
 心配せずともこちらから問い質すような真似はしないつもりである。弱気な女を苦しめる趣味は時文にはない。もしそうは見えないと言うのなら心外である。
 そんなことを思いながら、再び明人へと向き直った。
(こいつが伝説について知っているわけはないか)
 見上げてくる双眼は、ただただ幼い。しかしそうして視線を合わせているうちに、明人が思いの外整った顔立ちの少年に育ったのだと言うことに気付いて驚いた。
 考えても見れば、今までこんなにもまじまじと明人の表情を見たことはなかった。それまでは付き纏ってくるその存在に対して煩わしさばかりを感じ、彼の気分を害さぬようにと気をまわしつつ軽くあしらうことに力を注いでいたのだ。
 しかしこうして改めて見てみると、なるほど顔は小さく、鼻筋はよく通っているし、頤もすっきりと尖っている。二重の目が人懐っこそうな印象を与えているのが彼の一番の特徴かもしれなかった。何処となく母親である直子に似ている気がする。
 この騒がしい性格が吉と出るのか凶と出るのかは解らないが、つい数か月前まではテニス部員のエースとして試合の度に名を馳せていたと言う話も聞いていたので、ひょっとしたら中学校ではそれなりに注目を浴びる存在なのではないだろうかと、そんなことを思った。
「お前、女の子に告白とかされる?」
 そうして何の脈絡もなくそう問うと、一瞬ぽかんとした後に明人は焦ったように僅かに頬を赤く染めた。それにおや、と思う。この少年の性格上、てっきり「そんなの当たり前だろ! 俺は何処に至って人気者さ」なんていう自信に満ちたふざけた返事が返ってくると思っていた。
 しかし何事かを呻きながら明人がちらりと真横の凜子に視線を向けたのに気がついて、ああそうか、彼女の前でこういった質問はすべきではなかったのかと気付かされた。
 弟のような存在であるこの少年の興味は、やはり今現在隣に座る女に向いているらしかった。歳が五つも離れた、一際綺麗な素性も知れぬ不思議な女にだ。
 なんとまあ愚かしいことだろうと思いつつも、普段騒がしいばかりの明人が頬を染め困り果てた様に眉尻を下げるその姿は兄貴分の自分の目には幾らか可愛らしく見えたので、何にともなくそうかと答えて時文はこの話題を終わらせた。
 そうしてちらりと凜子を見やると、彼女は何事かを考えるように視線を落としていた。何故だかその様子が傷ついているように思えた。
 食事を終えた時文たちは、食卓を離れて居間の隅にあるテレビの前へと移動した。背後では未だに大人たちの談笑する声が聞こえている。酒を飲んで楽しげに笑い声をあげている大人達とは違い、若者三人はこれと言った会話もせず、ただぼんやりとテレビを眺めていただけであった。
 流れる番組はバラエティだが、時文にとってそれはさほど面白いと思える内容のものではなかった。普段彼はあまりテレビを見る性質ではない。唯一積極的に見る番組と言えば、遺跡の発掘や歴史上の人物に関わる特集くらいなものである。そんな彼にとって、人々を笑わせるためだけに作られた番組はただただ騒がしいもののように感じられた。
 しかしそんな自分とは異なり、いかにもこの手の番組を好いていそうな明人が終始無言である様子は、時文の目にも幾らか奇妙に映った。
 凡そ沈黙と言う言葉が似つかわしくない少年が、笑い声の一つも上げずにただジッと画面に視線を向けている。その目が脳が流れる内容を捉えているのかどうかすら疑わしかった。何処かぼんやりとしているようでもあり、何事かを思案しているようでもあるその姿からは、普段の明るく元気な少年の姿は思い浮かばなかった。妙な静けさを纏ったその姿は、酷く大人びているようにも見える。
(……なるほど、こいつはこんな表情もするのか)
 今日一日の間に、慣れ親しんでいるはずの少年の意外な一面ばかり見た気がした。そして彼の変化の背景には傍らの女が関わっていると考えてまず間違いはなさそうである。しかし明人のその変化が彼にとって良いものなのか悪いものなのか、時文には判断することが出来なかった。
 そして件の女はと言えば、出会い頭に比べれば幾らかその警戒心も薄らいだようではあるが、それでも時折窺うような視線をこちらに向けてくるので、時文はいっそ面倒に思い、それ以降彼女の方に視線をやるのを止めてしまっていた。
(そんなに視線を向けられちゃあ、自分から進んで怪しんでくださいと言っているようなものじゃないか)
 こちらとしては、ただ怪しんでいるだけに過ぎないのだ。何かはっきりとした確証を得た訳ではない。そしてそんな曖昧な状態で「お前は何か隠し事をしているだろう」と悪戯に相手を問い詰めるほど、時文は不躾な性格ではなかった。
 それなのに始終怯えた目で見られたのでは、どうにもこうにも対応に困ってしまう。少なくともこんな状態ではごく一般的な世間話を投げかけることにすら躊躇いを覚えてしまう。事実時文は、最初の挨拶以来、一言も凜子と言葉を交わしてはいなかった。
 せっかく綺麗な女に出会ったのに、全くもって残念な話だ。
 しかしそうして思わず吐いてしまった溜息にも僅かに肩を震わせた凜子の姿を視界の端に捉え、ますます時文は気が滅入った。
 普段特別猜疑心が強いわけでもないのに、なんだって彼女の素性を疑ってしまったのか、数十分前の自分を時文は恨めしく思った。こんなことなら初めから騙されておくべきだったと、今更後悔したところで遅い話である。

 大人たちの宴会は二十二時を回ったところでお開きになった。どちらの両親も揃って顔を赤くし、足元も覚束なかった。すっかりアルコールが回ってしまったらしい大人たちの様子に、明人と二人溜息を吐く。酔っ払いとは得てして厄介なものである。
「父さん、そんな状態で明日仕事いけるのかよ」
 明日は平日なので、明人の父親はいつもの様に朝早くに起きて出勤しなければならない。それを心配して明人が声をかけても、良純はだらしなく笑っただけだった。
 子供達が主体となって片づけを終わらせると、明人の両親は自分たちは佐竹の家に泊まらずに自宅に帰ると言った。凜子もそれに連なったが、明人だけが少し悩んだ末に、今日はこちらに泊まると言って帰らなかった。
「じゃあ明人、迷惑かけないようにするのよ。朝ご飯もご馳走になってくるの?」
「うん、多分こっちで食べていく。何時戻るかは解んないや。昼前には帰るんじゃないかな。……それより、凜子、一人でこの二人を送っていけるか? 家まで俺も一緒に行こうか」
 話している間中ふらふらとよろめいている母親の様子に、ひょっとして家に帰る途中で寝てしまうのではないだろうかと心配した明人が凜子へと向き直った。しかしその提案に凜子は緩く首を横に振った。少しだけ、笑っているようにも見える。
「大丈夫よ。ちゃんと無事に連れて行くわ。朝も私が早く起きて良純さんが仕事に遅れないように注意するわね」
「凜子ちゃんは本当にいい子ねぇ。娘に欲しかったわあ」
「母さん、凜子に絡むなよ。ごめんな、ありがとう。凜子も気を付けてな」
 そう言って心配そうに両親と凜子の背中を見送る明人を見つめながら、いやはや一丁前に男らしいことを言ってのけるものだなぁと時文は感心していた。少なくとも去年までの明人は好き勝手に人を振り回すだけの子供であった。
 これまで何度こちらの都合に構わず遊んでくれと頼みこまれたか解らない。本を読んでいれば「そんなのはいつでも読めるだろう」と諭され、昼寝をしていれば「こんなに天気がいいのに眠るのはもったいない」と一方的な理由をつきつけられて腕を引かれた。そんな明人の強引さを煩わしいと感じたことは何度もあるが、嫌悪と呼ぶほどの感情や苛立ちを覚えたことはなかった。
 恐らくそれは明人の強引さの裏に隠れた子供らしい純真さや、歳の近い遊び相手があまり居ないことに対する寂しさを時文自身が感じ取っていたからなのだろう。
 明人が人を振り回すのは、構ってほしいと願う少年の心の表れである。それを周囲の大人たちも皆理解しているのか、騒がしい明人を注意することはあっても、それを笑って受け流す彼に対して本気で咎めようとする者は居なかった。
 しかしそうやって周囲の人々に容認され甘やかされて育った明人が、よもや年上の女相手に気遣いなどと言うものを見せている姿は彼を良く知る人物にとってはちょっとした驚きですらある。
「お前も人に気を使えるようになったんだな」
 それともその心遣いはあの女にだけ向けられる特別なものなのだろうかと、そのようなことを思いながら明人を見やると、途端に彼は気まずそうに視線を逸らした。俯いたその頬が僅かに赤い。
 その様を見て一瞬時文は呆けたように目を見開き、それからすぐに小さく笑った。気になる女の前では格好つけたいと願う男の心理を垣間見た気がした。目の前で頬を赤く染めるその姿は間違いなく未だあどけなさを残した少年ではあるが、その心は身体とともに確実に成長しているのだ。
「そうやってお前も変わっていくんだね」
 半分冗談のようにして笑いながらそう言ってやると、どうしてか縋りつくような弱々しい眼差しでもって見つめられて時文の方がたじろいだ。そんな目を向けられるとは思っていなかった。
 見たことのない色を浮かべる明人のその瞳に、全くもって今日はおかしな視線にばかりかち合うなあと思わず眉を寄せる。しかし無言の眼差しにはもはや辟易していたので、こちらからどうしたのかと問い質すことはせずに、明人を置いてその場を後にした。明人と言いあの女と言い、何かあるのなら直接言葉で表して欲しいものである。目は口ほどにものを言うと言ったって、自分には瞳の奥の感情を読むことなど出来そうにもない。
 祖父母の家はどこもかしこも古めかしいが、広さだけは十分なものであった。3LDKの賃貸マンションに住む時文からすれば、羨ましい限りの広さである。
 しかしこのような田舎の土地は、都会に比べるとぐんと価値が低いので、どこの家も当たり前のように広い敷地に大きな屋敷を持っているのだ。そしてこの豪邸の様に広い家は、場合によっては都会の街のマンションの一室よりも価値が低かったりする。
 祖父母の家の一階には、十畳程度の居間の他に部屋が四つある。一番小さな五畳程度の和室を祖父母が寝室として使っていた。残りの部屋は主に客間として使われており、時文の両親もその中の一つを使っている。
 引き戸一枚を隔てた形で居間と隣接している台所を抜けると廊下に繋がり、その先に風呂、トイレと二階に続く階段があった。
 古い和装の家の中で唯一、風呂場とトイレのみ数年前に改装して洋式の新しいものになっていた。風呂にはシャワーも取り付けられている。つい先程時文は汗を流してしまっていた。今現在は明人がシャワーと浴びている。浴室へと向かう明人の背中を見送りながら、時文は二階へと続く階段を上がった。
 二階には三つの部屋があり、廊下を進んで一番奥の一部屋を毎年時文と明人が使っていた。
 昔から時文の滞在中は明人も佐竹の家に泊まりに来ていた。中学生を上がる頃にはそれもなくなるのだろうと思っていたが、予想外に明人は時文の傍を離れなかった。次の日朝早くに部活がある日でも変わらず明人は泊まりにやって来て、時文よりも早く起きて支度を済ませると、自転車を走らせて学校へと出かけるのである。そんな活動的な一日を送る明人の姿が時文には信じられなかった。
 しかし今年の夏をそれまでの夏と同様のものとして考えても良いものか、時文は解らなかった。
(あの子が居るから、今年は明人も家で過ごすのかな)
 今現在、明人にとって一番に優先すべき対象があの女であることは明らかである。事実いつもは誰よりも先に姿を現して笑顔を見せる彼が、今日は時文を優先することをしなかった。時兄来てたんだ、なんて関心薄く呟いただけである。
 そのため、てっきり今夜は家族や凜子と一緒に自宅に帰るものだと思っていたので、この家に残ると言った明人に時文は幾らか驚かされた。その表情の下に、何かしらの意図を感じていた。
 そうしてあれこれと考えを巡らしながらも、時文は入浴中の明人に代わって押し入れから二人分の布団を引っ張り出した。間隔を開けて並んで敷いた布団を見ながら、何故か酷く疲れた気持ちになった。欠伸をする。僅かに思考に靄がかかる。眠いのだ。
 しかしなんとなく明人が戻ってくる前に布団に入るのは気が引けたので、時文は鞄の中から文庫本を一冊取り出すと、読書の姿勢をとった。しかし薄ぼんやりとした脳では活字の羅列を理解することは困難だった。
 そうして読むでもなくただ文字を目で追っていると、ぎしぎしと階段の軋む音が聞こえてきた。どうやら明人が入浴を終えたらしい。近づいてくる足音を聞きとめて、時文は読んでいた本をぱたりと閉じた。それとほとんど同時に部屋の引き戸が開く。視線を上げると、濡れた髪のままの明人が立っていた。
 寝間着も何も用意してこなかったと言う明人は、今日だけ時文の持ってきた短パンとTシャツを借りて着用している。自分の服を着ていてもそれほど違和感のない明人に、ああやはり彼は成長しているのだと実感した。
 記憶の中の明人はいつだって自分より一回り以上小さかった。しかし今はまだ自分より幾らか背の低い明人も、これから数年の間にもう少し身長を伸ばすのだろう。そうしていずれは自分の背丈を抜くに違いない。明人の姿は何故だか今まさに伸びようとしている若い草木を連想させた。
 短めに刈られた髪の毛からぽたりと雫が落ちる。落ちた雫がじわりと畳に滲んだ。
「髪の毛を乾かせよ。夏風邪はお前みたいな馬鹿が引くんだぞ」
「馬鹿じゃないよ。もう寝るの」
「眠くなってきた。お前は寝ないのか」
「……ん」
 同意なのか否定なのか解らない曖昧な返事をしながら、明人は時文に倣って布団に潜り込んだ。その様子を見ながら、最早彼には髪を乾かす気などないのだと知る。そんな明人に溜息を吐きつつも、まあ短い髪の毛は放っておいてもすぐに乾くだろうし、今の時期であれば風邪を引くこともないだろうと考え、時文は天井からぶら下がる明かりの紐を引いた。
 部屋にはカーテンがない。そのため電気を消した後も、窓から差し込む月明かりによって僅かに室内は明るかった。薄暗闇の中、何処かで鳴く虫の鳴き声と、自分と明人の息遣いとが小さく響いている。
 僅かに聞こえてくる音は、無音の世界よりも更に静けさを増幅させた。瞼を閉じると、より一層音のある静寂は脳内に浸透する。導かれるように今日一日の出来事が蘇った。祖父母の変わらない笑顔、楽しげに笑いあう大人たち、以前より背が伸びた明人、そして驚くほど綺麗なあの女。
 慣れ親しんだこの村で、よもや見知らぬ女と出会うことになるとは思わなかった。しかしそれよりもなによりも、珍客を疑うことなく受け入れている明人やその両親、その他の村人たちにも幾らか驚かされる。
 時文にとって、凜子と言う女は疑わしい存在以外の何ものでもなかった。不安げに揺れる瞳も、噤む唇も、その何もかもが疑念を抱く対象であった。
 しかしここに住む人々にとってはそうではないらしい。大学の研究でやって来たという女の言葉を、皆一様に信じているようだった。少し考えてみれば、この何もない村に研究すべき対象など一つもないことに気付くだろうに。
 とはいえ高校を卒業した若者のほとんどが隣町や地方に出て就職をするこの村では、都会の大学に通う若者など未知の存在であるに違いない。そのため時文にとっては大いに訝しむ対象であるあの女も、彼らにとっては真面目で熱心な学生にしか見えないのかもしれなかった。悪く言えば世間知らずな村人たちに、見知らぬ人物は疑えと言っても難しいことなのかもしれない。
(ここの人たちは皆のんびりしているからなあ)
 都会の街に生きる人々は、絶えず移り変わっていく世の中にすっかり慣れてしまっている。人も景色も、少し前までは心底愛おしんでいたはずのものでさえ、いつかは記憶の奥底にまみれて曖昧なものになってしまうのだと知っている。
 そのようにして日々新しいものに対応して生きていく人々にとっては、古い物を抱えたまま変動のない狭い世界の中で生きる村人達の姿は一種非現実的にさえ映る。事実時文も、村に来る度に歴史を幾らか遡ったかのような気分になるのだ。
 例えば朝早くに何処かで鳴く鶏の声を聞いた時。例えば数年前から壊れたままの祖父母の家の玄関の鍵を見た時。例えばすれ違う人全てに「佐竹さんの家のお孫さんだね」と微笑まれた時。
 それらは時文にとって決して当たり前と言えるものではなかったが、しかしこの村ではありふれた日常の光景の一部としてもはや気に留めるべきことではなくなっているのだ。
 鶏が鳴くことも、家の玄関の鍵を閉めずに出かけることも、すれ違う人物が何処の家のものであるのか考えなくても解ることも、全て当たり前のことなのだ。そんな生活にうんざりした者だけが、この村を出て地方での暮らしを選ぶ。しかしこの生活を享受する者が、村にはまだ百人近く存在しているのだ。
 そんな彼らを否定するつもりはない。しかしどうしたって近代的ではないと思う。
 少なくとも時文の場合は、万が一にもこの先村で生活することを強いられたとしたら退屈で気がおかしくなるに違いなかった。年に一度訪れることですら、目的が無い限りはうんざりしてしまうのだ。この地に永住することなど考えられることではなかった。
 そんなことを思ううちに、幾らか時文の思考には靄がかかり始めた。次第に考え事をするのも億劫になり、このまま寝てしまおうかと思ったところで不意に名前を呼ばれた。ハッとして目を開ける。静かな部屋に、自分の名を呼ぶ声はやけに響いた。言わずもがな明人の声である。とっくの昔に眠ってしまったのだと思っていた。
「時兄、まだ起きているの」
「……寝かけていた。何かあるのか」
「うん。ごめん。でも、聞きたいことがあるんだ」
 そう言われて薄暗闇の中視線を右隣へと動かすと、真っ直ぐにこちらを見つめる明人の目と出会った。
 双眼が月明かりを反射させて潤んだように輝いている。それを見ながら、時文は一瞬あの女の目を思い出した。流れる水のような色をした印象的な目であった。
 月明かりを浴びた明人の目は、女の瞳よりも明るく、あの目が水ならば彼の目は大地の様だと感じた。輝く茶色の瞳にはこちらが逸らすことを許さないような奇妙な強さが含まれている。今まで気づかなかったその色合いに、時文は目を細めた。
「時兄、凜子をどう思う」
 不意の質問に、時文は細めていた目を見開いた。予想外の言葉であった。しかし投げかけられた質問の意味がよく解らず、言葉に詰まってしまう。そうして時文が口を噤む間も、明人は窺うようにじっと視線を寄越すだけで、見慣れた少年の見慣れない仕草を訝らずにはいられなかった。
「……どう思うって、それは一体どういう意味でだよ。好きとか嫌いとか、そういう話か」
 沈黙の合間にあれこれと考えを巡らせてみたものの、明人の表情の理由も質問の意図もはっきりとは解らなかった。求める答えが何であるのか解らない。
 どう思うと言われたら、怪しいとしか答えられない。しかし果たしてそれをこの少年に伝えても良いものだろうか。好意を抱いている相手のことを疑われて、快く思う者はまず居ないだろう。
 かと言ってそれ以外にあの女についてどう思うのかと問われたところで、良い回答は思い浮かばなかった。好きか嫌いかと問われても、そのような感情をあの女に抱く程の関わりを持っていないのだ。
 しかしそのようにして思考を巡らせる時文に対し、明人は静かに言った。
「違うよ。そんなことが聞きたいわけじゃないんだ。……時兄、凜子を怪しんでいるだろう」
 予想外の言葉に思わず時文は目を見開いた。しかしその様子を答えと取ったらしい明人が苦笑交じりに「やっぱり」と呟いたのを見て、思わず眉を顰めてしまう。
「……だったらなんだっていうんだよ」
 自分が呑み込んだ言葉をよもや目の前の少年に見透かされていたのだという事実に、時文は驚かずにはいられなかった。やっぱりと、そう呟いた明人の表情にも思わず息を飲む。お前はそんな顔をする奴だったのかと、内心で問いかけた。それは良く知る無邪気な少年の顔ではなく、人の心の奥底を見極めることの出来る賢さを持った者の目であった。
 瞬間、何故だかこの見知った少年に警戒心を抱いて思わず声を潜めると、そんな時文を見て機嫌を損ねたと勘違いしたらしい明人が慌てたように視線を泳がせた。幼さを取り戻したその表情を見ても安堵することが出来なかった。躊躇うように、言葉を選ぶように何度も開閉する唇を目で追う。明人が何を言いたいのか、解らなかった。
「……ごめん、違うんだ。疑っているからって、だからどうってわけじゃない。時兄を責めるつもりなんかないし、凜子を信じろと言ってるわけでもないんだ。ただ、」
「ただ、なんだよ」
「……ただ、黙っていてほしいんだ。少なくとも、母さんたちに凜子が怪しい、なんてことは言わないで欲しい」
 まるで自分のことの様に不安げに歪められた表情でそう言われ、時文は幾らか肩透かしを食らった。瞬間、それまで張りつめていた何かがふっと解ける。気が抜けるのと同時に、何だそんなことかと思わず眉を寄せた。しかしそれを否定の意味と解釈したらしい明人は、より一層必死な声音で頼むよと時文に縋った。
 そんな明人を宥めるように、時文は小さく笑いかけてやった。それに明人が目を見開く。その目に先ほど感じた強さは宿ってはいなかった。
 すっかり冷静さを取り戻した今、やはり目の前の少年は年下の少年に過ぎないのだと悟る。安心したように眉尻を下げるこの少年に、何をあんなに身構えることがあったのだろうと、数秒前の自分を思い出して時文は苦笑した。
「言われなくても、そんなことは言わないよ。事実今日一日、なんにも言わなかったじゃないか。それなのにお前もあの人も俺に対してびくびくとした態度ばかり取るものだから、こっちのほうが舞ってしまうよ。まるで俺が弱みを握って脅しにかかる悪党みたいじゃないか」
「……ごめん。時兄にそんなつもりがないってことも解ってはいたんだ。ただ、念のためにと思って……」
「いいよ、俺だって解っているよ。あの人を気にかけているんだろう。だけど、そうやって俺に釘を刺すってことは、やっぱりあの凜子っていう人には何かあるんだな」
 そう言うと、より一層困り果てたように明人は眉を垂らした。まるで飼い主に叱られた犬の様である。言葉を聞かずとも、その反応が時文に答えを与えていた。あの女にはやはり何かあるのだ。しかし明人は口を噤んだままである。
「……お前、なんでそんなにあの人のこと庇うんだよ。そんなにあの人のことが好きなのか。ついこの間知り合ったばかりの人だろう」
 抱いた疑問を口にすると、明人は表情を変えぬままにちらりと一度視線を寄越して、再度俯いた。一瞬何か言おうと唇を震わせていたが、結局それは音にはならなかった。しばしの間、部屋には虫の鳴き声だけが響いていた。
明人があの女に恋をしているというのならそれはそれで良い。しかしそれが真実だとして、先程見た明人の狡猾さも大人びた様子も、そうして今現在のこの頼りなさ気な姿も全て抱いた恋心のためだとでも言うのならば、大した変化である。
 恋心ひとつで、人とはこうも変わってしまうものなのなのか。それは普段の自分を見失わせるほどに強い感情だというのか。
 それまで本気で誰かを好きになったことのない時文には、今現在の明人の心境は計りかねた。所詮興味本位での恋愛しかしたことがなかった。好きだと言われて交際を始め、まるで義務のように相手の機嫌を窺うことを恋愛だと呼ぶこともせず、ただ人付き合いの一環として捉えていただけだった。
 そんな自分の恋愛に対する姿勢を、時文自身決してまともなものではないのだろうと感じてはいた。しかしだからと言ってそんな自分を否定したことも、疑問に思ったこともなかった。というのも、昔から自分が特別情に厚い性質の持ち主ではないことを知っていたからである。
 これまで家族や身近な存在以外の人間に対し、特別な感情を抱いたことはない。心から愛おしんだり、何に変えても助けてやりたいなどと思ったことは一度もなかった。
 他人に対し、自分の出来る範囲で手を貸す分には構わないが、不利益をこうむってまで助ける気にはならない。そうした際に向けられる感謝の言葉も非難の声も、同じ類のものとして受け流すことが出来た。特別気に留めるべきものではないのだ。そんな自分を、いつだか友人の一人は淡泊だと言っていた。
 思えば随分昔、遡れば小学生以前から自分はそのような振る舞いをし続けてきたように思う。恐らくもともとそういった性質を持ち合わせた人間であり、そしてそれはこれから先も変わることはないに違いない。平気で人を切り捨てたり、気まぐれに助けてみたりして生きていくのだろう。
 そんなことを頭の隅で考えながら、時文は尚も沈黙したままの明人を見つめた。そうしているうちに、次第に時文の胸の内には明人に対する憐憫が生まれた。
 自分が淡泊な人間であることは認めている。事実目の前の見知った少年のことも、幾度となく優先順位から外そうとしたことがあるのだ。しかし自身が口にした疑問により、得年頭を悩ませている少年を素知らぬふりするほど薄情ではなかった。身内への情は彼の胸の内にも確かに存在しているのである。
 そうして一つ息を吐くと、時文はゆっくりと唇を開いた。
「明人、もういいよ。悪かったな、変なことを聞いて。別に言いたくなければそれでいいさ。無理して答えなくても良い」
「時兄……」
「お前に言われるまでもなく、俺は自分からあの人に関わることはしないよ。疑問に思うことは幾つかあるけれど、だからと言って無理に知ろうとするほど野暮でもない。そもそも人に知られたくないから隠し事をするんだしな。向こうが言いたくないというのなら、こっちだって聞かないさ。お前にも聞かないよ。だから安心しろ」
 言い終えるなり、明人の顔がぐしゃりと歪んだ。泣き出す直前の子供のような、頼りなさ気なその表情に面食らう。そんな反応が返ってくるとは思わなかった。気を遣って言ってやった言葉に対し、てっきり苦笑交じりに感謝されると思っていたのだ。予想外の反応に、時文は一瞬瞬きをすることすらも忘れてしまった。
 僅かに息を飲んだ後で、一体どうしたのだと、何故そんな顔をするのかと問うと、ようやく明人が唇を開いた。焦燥に駆られたような、それでいてどこか冷静な声音が部屋に響く。普段の明るい明人の姿はそこになかった。
「違うんだ、言えないわけじゃないんだ。……実を言うとさ、俺も詳しいことは何一つ聞かされていないんだよ。凜子について、何にも知らないんだ」
 驚きに時文の目が見開かれた。目前の明人は、見たこともないような苦しげな表情を浮かべている。
(何も知らないだって?)
 ならば明人は、全く素性の知れない女を庇っていると言うのか。心の内を一切明かすことをしない女に、恋心を抱いているというのか。
 こんなにも苦しげな表情を浮かべてまでして、何故見知らぬ女の肩を持つことがあるのだろう。それは普段の自分を幾らか見失ってまでして守る価値のあるものなのだろうか。そのようにして沈黙を続けてあの女の傍にいることは、明人にとって意味のあることなのだろうか。
 山ほどの疑問を抱きつつも、それら全てを口にしてしまえば再びこの少年は泣きそうに顔を歪めるに違いないので、時文はただ静かに続く明人の言葉に耳を傾けた。
 凜子と出会ったのは偶然だったんだ。視線を落としながら明人が独り言のように呟く。幾らか落ち着きを取り戻したのか、その表情からは陰りが消えていた。しかし聞こえる声音には、相も変わらず聞き覚えのない静けさが宿っていた。
「波町に行く途中、自転車で森の中を走っていたら、知らない女の人がこっちに向かって歩いてくるのが見えたんだ。それが凜子だった」
 まるで静かに降りそそぐ雨の様に、明人は静かに語った。溶け込むように耳に馴染むその声に妙な違和を覚える。どうしてか落ち着かない心地のまま、時文はぼんやりと明人の語る言葉通りの情景を頭の中で再現した。
 慣れ親しんだ森の中を自転車に乗って軽快に走る明人。不安そうにあたりを見渡しながら歩いてくる、一際整った顔立ちの女。風に舞う長い黒髪、回る車輪の音、木々のざわめき、虫の鳴き声、射し込む木洩れ日、そうして通う二人の視線。
 瞬間、瞠目する女。水に濡れたようなあの目が揺らぐ。その女の表情を、明人の茶色い瞳がじっと見返している。その胸の内で何を考えていたのだろう。どんな心持ちであの目を見つめ返していたのだろう。生まれた沈黙の合間に、あの女は何を思ったのだろうか。
「……こっちにむかって歩いてくる凜子の姿を見た瞬間、何故だか心臓のあたりがざわついた」
 静かに、明人が言葉を続ける。
「怪しいと思う気持ちも当然あったよ。だってさ、こんな何もない村に若い女が来ることなんて普通ないだろ。だけどどうしてか、それだけじゃなかった。何ていったら良いのか解らないけど、素通りすることは出来なかった」
 普段人を疑うことなどしないであろう明人が疑念を抱くくらいなのだから、やはり凜子と言う女は相当怪しげな雰囲気を纏っているのだろう。
 しかし明人は、それだけではなかったのだと言う。怪しいだけではない、心の奥底をざわつかせる何かをあの女に感じたのだと。それは一体なんだというのだ。
 まるで記憶の中の光景一つ一つを思い出すようにしながら、明人は言葉を続けた。
「だけど実際、目があってしばらくはお互いただ黙って立ち尽くしてた。何て声をかけていいか解らなかったんだ。だけどそのまま突っ立っているわけにも行かないから、とりあえずこの先には雨露村って言う小さな村しかないよって教えてあげたんだ。道に迷ったって言う可能性もなくはないだろ。だけどさ、俺の言葉に凜子は頷いたんだ」
「……それで?」
「誰か知り合いでもいるのかって聞いたら、首を横に振った。じゃあ何か用があって来たのって聞いたら、躊躇いがちに、大学の研究で、なんて言うんだ」
「……」
「どこの大学に通っているんだって聞いたら、Y大学だって言うだろ。それを聞いて真っ先に時兄の顔が頭に浮かんでさ。知り合いもY大学に通っているよって言ったら、隠し事がばれた子供みたいな顔をするんだ。それを見て、ああこの人何か別の目的があってこの村に来たんだなって思った。Y大生だなんてのは嘘なのかもしれないって」
「嘘だと思いながら、お前はどうしたんだ」
 疑問に思ってそう問えば、一瞬の間の後に僅かに笑みを浮かべながら、明人は「騙されてやることにした」と言った。それに思わず言葉を失ってしまう。
 彼の取った行動は、普段あれこれと事態を考え分析するよりまず先に行動に移す明人らしいと言えば明人らしかった。しかしそんな自分の行動を思い出して呆れるように笑うその姿は、普段の衝動に身を任せて生きるだけの子供っぽい姿からは幾らか離れていた。
 何も考えていない無邪気な少年ではなかったのだ。そう思う。嘘だと気付いて尚騙されてやろうと思えるくらいの物分りとあざとさを、明人は持っていたのだ。
 それに気付くと同時に、それまで明人に対して抱いていた純真無垢なだけの子供のイメージはばらばらと音を立てて崩れていった。
「……騙されてやったお前は、それからどうしたんだ」
 何故だか酷く緊張しながらそう問うと、明人は真面目な表情を浮かべながら一度頷いた。
「実際俺が騙されたからってどうこうなる問題じゃないだろ。村の皆はあまり人を疑うことはしないけれど、突然若い女が一人でやってきたら流石に不思議に思うはずだ。そんな中要領を得ない曖昧な理由を言われたんじゃ、疑う人も出てくるかもしれない。だから、言ってやったんだ。嘘を吐くならもっと上手につかなきゃダメだよって。俺はその嘘に騙されてあげるけど、他の人たちも同じように騙されるとは限らないんだからって。そしたら、縋り付くような目で見つめられて、」
「……」
「ほっとけなくなったんだ」
 そう言って視線を伏せた明人の表情が驚くほど大人びていて、時文は信じられない思いで息を詰めた。
 無邪気なだけの少年なんかではない。この見知った少年は、いつの間にやら他人を驚かせるだけのしたたかさを身に付けていたのだ。
 秘密を携えてやってきた凜子は、初めて出会った村人がこの少年であることに恐らく感謝しただろう。でなければ今頃何の問題もなくこの村に滞在することは出来なかったはずだ。
「この村にはどのくらい居るつもりなんだって聞いたら、調べ物が終わるまでってっていう返事が返ってきて。だけどここには泊まる場所なんてない。どうするつもりなんだって聞いたら、波町に宿をとるつもりだって。だけどそれって、往復三時間近くの距離を毎日徒歩で行き来するってことだろ。俺たちみたいな村人はそれにもある程度慣れてるけど、どうみたって歩くことになんか慣れてなさそうだったからさ。それで俺……、」
「家を貸すことにしたっていうのか。直子さんたちはすぐ了解したのか」
 手のかかる息子であるに違いない明人はもちろん、毎年やってくる時文のことでさえ自分の息子のように可愛がってくれる直子は、元来穏やかで情に厚い人である。その夫である良純も気さくな人柄であった。こんな二人からこの騒がしいばかりの少年が生まれたなどとは信じられないほどに、良く出来た人たちである。
 しかしだからと言って、見知らぬ女を夏の間中家に滞在させることに対し、おいそれと頷くとは思えない。そう思って疑問を口にすると、明人は頷いた。
「うん。だから二人で考えたんだよ。話によれば、凜子は大学のことなんかなんにも知らなかったみたいなんだ。だけどY大学だったら、誰でも一度は耳にしたことのある有名校だろ。それで咄嗟に出た言い訳があれだったみたいなんだけど、それじゃまずいよなってことで、ちゃんと使える言い訳を考えることにしたんだ」
「どうやって考えたんだ? お前だって大学についてなんて知らないだろ」
「波町の図書館にパソコンがあるんだ。インターネットが使えるだろ。だからそれでY大学について調べて、言い訳に使えるだけの内容にしようと思ってさ。それで凜子を自転車の後ろに乗っけて、波町まで行ったんだよ」
 そう語る明人の声音は冷静そのもので、ともすれば聡明ささえ感じられるそれに、時文は軽い眩暈すら感じた。ここまでくるとこれが本当に自分の良く知るあの少年なのかと、疑わしくなってくる。それほどまでに現在の明人の様子は時文の記憶の中の姿とはかけ離れていた。
 少なくとも時文の頭の中には、パソコンを扱う明人の姿など想像することが出来なかった。
「大学生だというのなら、まず専攻はなんなのかって言うのは重要だろ。だけど時兄の言うとおり、俺も大学についてなんか碌に知らないからさ。まずは凜子がこの村に来るための言い訳に使えそうな学部があるのかどうかを調べなきゃいけなかったんだけど、そんな学部があるのかどうかさえも解らなかった。法学部と工学部が有名なのは知ってたけど、そんな学部の生徒がこんな辺鄙なところに来るわけがない。だからY大学っていう設定自体変えようかと思ったんだけど、学部を見ていたら、文化人類学科なんていう訳わかんないものがあるだろ。なんだそれって思いながら調べてみたら、いろんな社会とか文化とか民族について学ぶ学問で、そのために現地調査もするって書いてあったからさ。これなら使えるんじゃないかなって思ったんだ」
「……」
「ちゃんと調べたおかげで、大学について知らない父さん母さんや村の人たちは簡単に騙せた。だけどさ、言い訳を考えることにばかり夢中になって、俺時兄がY大生なんだっていうことをころっと忘れちゃってたんだ。しかも文化人類学科って時兄と同じ学部だろ。学年こそ違うけど、現役大学生の方が俺らなんかよりよっぽど事情を知っているに違いない。後からそのことに気付いて凜子と二人でどうしようって悩んで、一瞬いつもみたいに先に時兄に会いに行って事情を説明しようかとも考えたけど、万が一にも時兄が素直に事情を受け入れてくれる可能性も考えると下手な真似も出来なかった」
 それにもし嘘に気付いたとしても、時兄なら黙っていてくれるような気がしたんだ。
そう言った明人に対し、そんな段階から自分は明人にも凜子にも警戒されていたのかと時文の方が驚かされた。
 明人の予想通り、自分は彼らが苦心して考え上げた嘘を容易く見抜いてしまった。しかし更に言えばたった今明人が告げたように、自分はその嘘を黙認することまでを選んだのだ。
 全て明人の思った通りであったのだと言う現実に、何故だか時文は目の前のこの少年に負けたような気分になった。当然二人の会話に勝ち負けなどはなく、勝負をしていたつもりもない。悔しいと感じるわけでもなかった。ただただ純粋な驚きが時文にそう思わせた。
「……お前がそんなに利口な奴だったなんて知らなかったよ。ずっとただの馬鹿なんだと思ってた」
「馬鹿だって思われている方が都合がいいんだ。可愛がられるのは頭の良いヤツより、愛想の良いヤツだからね。何も考えていないんだと思わせておけば、力を発揮した時に普通よりも高く評価される」
 そんなことを軽々しく言ってのけた明人に対し、彼の言う通り時文自身見知った少年の隠れた狡猾さに長年騙されていたのだということに気付かされた。自分だけではない。明人の両親も、村の人々も、学校の友人も、皆明人に騙されているのだ。それまで彼の中に利口さなど見たことはなかった。いつだって記憶の中の明人は呆れるほどに無邪気な笑顔を浮かべていた。
 しかしそうして貼り付けられた明るい笑顔の裏に、こんなにも静かな瞳で淡々と語る強かな本質が隠れていたのだ。しかし隠された真実に一体誰が気付くだろう。気付いた者などいないに違いない。それは見事なまでの嘘が時として真実になり得るのだという証明であった。
 そうして驚愕とも関心ともつかない思いに時文が戸惑いを抱いていると、何処か気落ちした様子で明人が言葉を続けた。
「だけどやっぱり、俺は馬鹿なんだと思う。だってそうだろ、年上の女に対して俺が守ってあげなきゃ、なんて思うのは自惚れ以外のなんでもない。こんな小さな村で、碌に外の世界も知らないで育っただけの自分に何が出来るんだって、秘密を抱えてやって来た凜子の何が解るんだって、そう思う。事実何にも解っちゃいないんだ」
「……」
「だけど俺、凜子が好きだ。ただ綺麗だからっていう理由じゃないよ。抱えてる問題のなにもかもを俺に預けてくれたら良いのにって、そう思う。相手はほんの数日前に会ったばかりの、素性も知らない女なのに」
 馬鹿だよねと、そう言って僅かに笑った明人に対し、時文は返す言葉が見つからずに静かに瞼を閉じた。
2012-09-18 16:38:14公開 / 作者:のんこ
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■作者からのメッセージ
懲りずにまた人魚のお話です。今回はダークなファンタジーという感じの新しい試みです。新しい試みなので自分でもどのような作品に仕上がるかはわかりませんが、明確な設定とラストは決まっているのでそれにむけてがんばります。結構生々しく重々しいお話になるかもしれません。長めのお話です。
この作品に対する感想 - 昇順
[簡易感想]少しだらだらとしすぎた部分がありました。
2014-05-30 04:10:41【☆☆☆☆☆】Fadli
計:0点
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