- 『魔王の元で正義をかざす』作者:音無 霧都 / t@^W[ - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
- 魔王国は、六つの国と戦争していた。魔王国民のクーア・イージスは考える。なぜ、自分たちは理不尽にも戦争に駆り出されるのかと。そんな中、何も知らない彼らは戦火の中へと放り込まれる。
- 全角25522.5文字■プロローグ それは彼の決意
容量51045 bytes
原稿用紙約63.81枚
君のためなら、何でもできると思っていた。
君が笑ってくれるなら、前だけを向いて歩いていけるのなら、この、僕のちっぽけな命なんて、捧げようと思っていた。
君が僕を大切に想っていてくれていたことは知っていたけれど、僕も君を大切に思っていたから、君がいない世界なんて考えたくも無かったし、生きていたいとすら思わなかったのだ。
そうすることで、僕が死んだときの、君の気持ちなんて考えたこともなかった。
僕を愛してくれた君が、僕が死んだらどうなるかなんて。
だって僕は君が生きていてくれるだけで幸せだと思っていたし、あまつさえ、僕の命を捧げて君が笑ってくれるというなら、奇跡とすら考えていたのだ。
自分のために誰かが傷付くことを嫌がる君が、僕が死ぬことによって笑顔を見せるわけがないのに。少し考えればわかることを、僕は自分のエゴのために、気づかなかったのだ。
だから、守れなかった。
君は、死んでしまった。
僕が君を守るんだと決意してしまったから。
僕が君を守るために努力してしまったから。
僕が君を守るのだと、やる気になってしまったから。
君は、僕のせいで死んでしまったのだ。
だから僕は、全てを捨てた。
全部、全部、全部。
大切なものも、好きな人も、飼っていた犬も、お母さんがくれた指輪も、お父さんの形見も、君との思い出さえ。
自分のことだけ考えて、自分が生き残ることだけを考えて、他人の心配を一切せずに。
誰かが、僕の身代わりにならないように。
何も考えず、何も感じず、何も思わず、誰かを愛することのないように。
僕は全てを呪って、世界は汚いと決め付けた。
理不尽なこの世界に、僕は全てを諦めた。
人として平和に暮らすことも、平和な日常を過ごすことも。
頑張ったところで何も変わらないと決め付けて努力を怠り、何も考えずに適当に生きてきた。
けれど、思った以上に世界は美しくて、僕が見たことのない素敵なこともあって、僕はそこで初めて、穢れていたのは世界ではなく、僕自身なのだと気づく。
しかし、気づくのが、少しばかり遅かった。
気づいたときには、すでに僕らは戦火の中にいた。
彼女を失ったとき努力を止めた僕が手の付けられない、地獄のような戦火の中に。
かつて天才と言われた僕は、何も出来ない。
彼らを助けることも、その場から逃げることさえ。
もう嫌だと泣き叫びたかった。
人殺しと罵られていた過去でさえ愛おしいと思った。
それでも、僕はもう、逃げるわけにはいかない。
だから、もう一度、努力してみようと思う。
全てを失った僕に、手を差し伸べてくれた全ての友を救うために。
僕のことを、仲間だと言ってくれた友のために。
ひいては、僕を過去から救うために。
君のことを、もう一度、愛するために。
■第一章 魔王国
「うーん……これって、一人くらいサボっててもばれないんじゃないか?」
細い木々が生い茂る中で、クーア・イージスは呟いた。
周りには返事をするような人影はなく、ただ彼の声が響くだけだ。
「実際のところ、俺は作戦に加えられてないに等しいしねー。うーん、俺寂しい奴だ」
一人で納得して一人で落ち込むということを繰り返しながら、口ではそう言いつつも、クーアは歩き続ける。
その姿は臆するというわけでもなく、身を隠すというわけでもなく、まるで散歩にでも行くような軽快さで。
鳥が羽ばたいているという演出も相まってか、和やかな時間が彼の周りにはあった。
「おい、イージス! てめぇ何処にいんだよ!」
そんな空気は、急に聞こえた大声によって消え失せる。
こう、耳にキーンときたのか、クーアはその場で蹲り、僅かに身を捩る。
「うー……伝達魔法で大声ださないでくださいよ。もう着きますから」
納得したのかしていないのか、舌打ちの後、またその声は聞こえなくなる。
その声に、急に現実に引き戻されたような気がしたクーアは、一人ため息をつく。
「心配しなくても、ちゃんとやってるっつーの」
サボる云々で悩んでいた彼に説得力はまるでない。
それでも先程の言葉の影響からか、クーアの足は僅かに速くなり、ついにその森から抜け出すことが出来たのだが、しかしクーアの顔は晴れない。
「あー、ヤダヤダ。サボりたいなぁ」
とか言いつつも、そんな彼の手には一本の枝がある。それを空中に躍らせると、何の変哲もない枝に合わせるように光が色を変え、クーアを包んでいく。
そして、
「【交信・力を司る精霊、再現するは《異常なる速さ》】」
クーアの体が、僅かな七色の光に包まれて、辺りに一瞬つむじ風ができる。
しかしそのことに何の感動もせずに、
「風が集えば宴が始まる。踊り狂え【交信・風を司る精霊、再現するは《七つの風》】」
そう言葉を続けた。
そして、クーアは走り出す。
その速さと言えば、彼が走り去った後の草木がしばらく揺れ続けるほどで、先程と同じような魔法を使い、肉体を強化していなければ目で追うのは難しい。
そんな速さでクーアは走り、
「クーア・イージうぐっ!?」
目的地であった敵地のど真ん中に着いたと思いきや、それこそ顔が反動で反対を向いてしまうような威力で、名前を叫んだ男を切り飛ばした。
その声に、その場にいた人が全員こちらを向き、魔法を唱え始める。
「あーらら。めんどくせーなぁ」
本当に、心底めんどくさいと思ってます、といった表情のクーアに、完成された魔法は襲い掛かる。
「まぁ、一応、用意はしてきたんだけどね」
と、ここで先程クーアが唱えていた魔法が放たれる。
魔法名すら唱えずに魔法を発動したクーアに全員が目を見開くが、すぐに苦虫を噛み潰したように表情を眇めた。その答えは一つしかないことを、全員が知っている。
魔法を最後まで詠唱しておきながら、術者の任意のタイミングまで発動はさせずに空間に留めておく方法がある。しかしそれはとても難しく、新しい魔法を習得するほうが簡単とさえ言われている。
この国の兵士ともなれば話は別だが、クーアと年齢が同じでこの技が出来るのは珍しい。つまり言ってみればクーアはいわゆる「天才」といわれるような人種なのだがしかし、
「この……、調子のってんじゃないわよ、落ちこぼれがッ!」
そう罵られて、
「んー? 調子にはのってないんだけどねぇ」
とゆるく返す。
もう、覇気だとか、やる気だとか、そういった類のものは彼には存在しない。
だが、そんな態度は今の状態では逆効果だったのか、周りにいた人々は、怒りをあらわにした。
その様子に、やはり何も分かっていない様子で、クーアは間抜けな声をあげながら首を捻る。彼からすれば、どうして彼らが怒るのか、本当に検討もつかないのだ。
それでもそんな様子に、クーアは満足そうに笑みを浮かべそうになった。
確かに、味方から作戦という作戦を与えられたというわけでない。それでもクーアは、伝達魔法で怒鳴り散らしていた味方の班長から、「囮の囮」をしろと命じられていたのだ。場所と時間を言われただけで、その方法は一切聞いていない。まぁ、また魔法で怒鳴られないということは、こうして適当に、敵がいるところで魔法をぶっ放す方法で間違いではないのだろう。
それに囮というからには、何らかの時間稼ぎなのではないだろうか。つまり相手が怒ってこちらに集中してくれればしてくれる程、作戦という意味では良いのである。
とはいえ。
そこまで考えたクーアは、先程の敵側よりも酷く顔をしかめた。
「あれ? ってことは何だ。ここにいる奴ら相手にすんの? 馬鹿じゃね?」
なんてことに気づくが、もう遅い。
「【交信・火を司る精霊、再現するは《被爆炎》】!」
「あーもう、魔法名が怖い!!」
慌ててその場から離れると、すぐに小規模な爆発が起こる。あんな物を直撃していたらと思うと、クーアのやる気は著しく低下し始める。
そのまま、魔法を使った女子の元へと近づき、軽い蹴りを放つ。それはもちろん簡単に避けられるが、避けた先には、
「え、あ、きゃあああ!」
後ろにいた男子が放った魔法が直撃した。雷だったのが幸いだったのかもしれない。
その光景を見て、周りにいた人々は動きを止め、こちらを睨み付けてきた。
ここで怒り狂ったりしたのなら楽なのに、と少しげんなりする。
尤も、そんな奴はここにはいられるはずが無いのだが。
と、そんなことを考えている間にも、魔法は放たれ始める。
先程の接近戦を見てなのか、魔法は近づかせないように放たれていて、容易には近づけない。それに、先程のこともあってか幾分か冷静になってしまったかのように思える敵に、クーアは面倒くさそうに舌打ちをする。
そしてついに、魔法を撃って、避け、撃って、避け、という均衡は崩れた。
「おいおい……何でこっちに来ちゃってんのよ、コフィー班長」
魔法で作られた氷を避け、クーアは頬を引きつらせながらその人物の名を呼ぶ。
魔法を放ち続けていた敵の向こう側から現れたのは、敵側の班長であるコフィー・アルベニアであった。
その姿に、クーアは無意識に一歩引く。
今のクーアに、コフィーを相手取るほどの力はないのだ。それこそ一対一ならまだしも、こんなに敵がいるところでは到底無理だ。
そんなクーアに、コフィーは嘲るような笑みを浮かべる。
「何、こっちでお前が暴れていると聞いてな。本拠地は副班長に任せてある。心配はいらんよ」
「いや、別に心配してないし。つーか、敵同士だってわかってます?」
「わかっているからこっちに来たんだが? お前を完膚なきまでに叩きのめすために」
「……敵前逃亡して良いですか?」
「駄目だ。よし、戦おう」
「意味がまったく理解できん」
と、会話はここで途切れる。
クーアに聞こえたのは、風切り音だった。その僅かな音を頼りに頭をずらすも、首に僅かに痛みが走る。切れたことはわかっていたが、ここで気にしていては、次こそ首と胴体はおさらばしているだろう。
「冗談じゃない!」
めんどくさいと思う。
本来ならこんなめんどくさい役じゃなかったはずだし、今頃なら木の上でお昼寝していた頃だ。
だというのに、この、目の前の化け物のせいで、ちょっとした命の危機にさらされているわけで、これはもう、まったくもって笑えない。
「【交信・力を司る精霊、再現するは《異常なる速さ》】」
と、ここでようやく動きを止めたかと思うと、コフィーは魔法を唱えた。
ここに来て、ようやく。
つまり、先程までの尋常じゃない速さだとか、そういうのは全部、純粋な彼の強さだということで。
「あー、もう降参したい」
それができないことはよく分かっている。だからこそ、クーアは、
「コフィー班長、本拠地にうちの班長がフラッグ奪いに行ってるの、知ってます?」
コフィーが走り出す前に揺さぶりをかけてみようと思った。あわよくば、ここで彼が本拠地のほうに帰ってくれれば、万々歳なのだけれど。
「知っているがどうした?」
どうやらそう上手くはいかないようで。
「心配じゃないんですか?」
「心配する、とは」
「あー、だからつまり、自慢じゃないですけどうちの班長強いですし、フラッグ奪われるかもしれないし、まぁ端的にいえば、本拠地戻んないんですか? てか、戻ってください」
「本拠地は副班長に任せてあると言っただろう。アイツにも経験を積ませておきたい。フラッグが奪われたとしても、十分な収穫はあるだろう。そんなことよりも、俺はお前を叩きのめしたい」
「……えー」
「何、お前みたいな弱者が目の前をちらついていると、腹立たしいのだ」
いい笑顔で言ってみせるコフィーは本当に楽しそうで、これはもう例えフラッグを奪われそうになっても、本拠地に戻ることはないだろう。
そしてそんなことを考えながら、クーアは体から余計な力を抜く。
今、クーアがすべきことはどれだけコフィーの攻撃を避けるか、である。クーアの言葉を聞いて、何人かがその場を去るが、まぁ本拠地側に五、六人増えたところで、そちらにいるクーアの味方たちは、コフィーを相手にするより相当楽なはずだ。
問題は、何も無い。この、目の前の化け物以外は。
「心配するな、意識はしっかりと刈り取ってやる。あと一ヶ月くらいは目覚めない程度に」
「ふざけんなああああ!」
「大真面目だが?」
なんて言葉が終わるよりも速く、クーアは身を捻り、森の中へと舞い戻る。
「無理無理無理! 何考えてんだよ、馬鹿じゃねぇか!?」
怪我をしない云々かんぬんではなく、これはもう命の危険を感じる。もう、割と真剣に。
確かにコフィーは強い。それこそクーアよりも何倍も。
ならばどうするのかと言えば、それはもう逃げるしかない。
あれから時間は経っているし、そろそろこちらの班長がフラッグを奪ってもいい頃だと思うのだ。それまで逃げ切れば良い。
なんて、思っていたのだが。
木々の間を縫うように走る。錯乱という意味もあるし、ただ単に、直感で走りやすい場所を走っているのだが、さてコフィーはどれくらいだろうと後ろを振り返り。
「うおお!?」
「むっ」
「危ねぇっ!」
すぐ後ろで拳を振り上げていたコフィーと目が合い、咄嗟をかわす。ギリギリで避け、クーアは僅かに体勢が崩れたコフィーの顔面に向かって拳を振るうが、それは余裕の表情で避けられる。
そのことに悔しさだとかは湧かない。想像していたし、目的は自分の体勢を立て直す時間稼ぎだ。
そのまま、今度は後ろを向かずに全力で走る。
足音はまだ追いかけてきているが、問題はない。
と、順調に逃げていたにも関わらず。
「うわっ」
そこでなぜ躓くのか疑問に思うような木の根に足を取られて、思いっきり転倒する。
「……、お前、何をしているんだ?」
「あー、気にしないでください」
木の根に引っかかったときに捻ったのか、右足首が少しズキズキする。
呆れたような、見下したようなコフィーに軽口を叩きながら、クーアはぼんやりをここからの逃亡経路を見つけ出そうとしていた。
そして確信する。完璧な手詰まりだ。
「どうした、魔法を使わないのか?」
もちろん、その手詰まりは魔法を使わなければ、であるが。
「風が集えば宴が始まる。踊り狂え【交信・風を司る精霊、再現するは《七つの風》】」
先程と同じ詠唱。ただし今回は空間に固定しておくなんていう面倒なことはせずに、攻撃威力にのみ集中する。
その魔法は、十秒かけて完成した。
その魔法に対して、コフィーはゆったりとした動作で手を横に振り、
「【交信・土を司る精霊、再現するは《守護の盾》】」
クーアが完成させ、コフィーを巻き込み吹き荒れようとしていた風の魔法の間に、土の壁を確立させる。
その様子に、クーアは何も考えずに、左に駆け出した。土が消え、クーアがいないことに気づいたコフィーなら後ろに逃げたと思うと考えていたのだが、しかしそこから三歩も動かないうちに、クーアは何者かに蹴り飛ばされてしまう。
「ぐ、ゲホッ」
「丸分かりだ、馬鹿が」
コフィーの声が聞こえるが、その姿を見ることは出来ない。思いのほか効いていて、鈍い痛みが腹部を襲う。少し身を捩るだけで、もう胃の中身をぶちまけそうだった。
そんなクーアを見て、コフィーはため息をついた。
「なぜ、魔法を有効に使わん。風の魔法は攻撃には不向きだ。肉体強化をしているようには到底感じられない」
「あー、一応、肉体強化はしてるんですがね」
「肉体強化であの遅さなのか!?」
素で驚かれてしまった。コフィーが驚くなんてあまりない。
ただ一言だけ文句があるとすれば、肉体強化の魔法をかけているクーアの速さは、平均的に見れば確かに遅い。それでも肉体強化をしているとわかる程度には速いはずだった。
肉体強化の魔法なしで、肉体強化の魔法ありの速さについて来れるのはコフィーくらいのものである。
すでに、それだけで化け物だ。
「それに、知らないのかな、俺の噂」
「噂の類は嘘が多いからな。諜報員の話以外は聞いていない」
「つまり俺ごときの噂は班長に伝える価値もないってわけね。んじゃ、これは本当のことなんだけど、俺、肉体強化魔法と、さっきの風の攻撃魔法の二つしか使えないんだよね」
「……馬鹿にしているのか?」
「ん、そういうつもりはないんだけど」
そうクーアが言い訳するように苦笑すると、コフィーの表情は険しくなる。
そして、コフィーは手を振る。魔法を使うように。
その動作に、初めてクーアの顔は焦ったように歪む。
「ちょっと待てよ、俺はもう戦えない!」
「この演習に降参やらリタイヤは存在しない。嫌なら魔法を直撃しろ」
「んな殺生な。それにこの距離で直撃なんかしたら」
「【交信・雷を司る精霊、再現するは《怒りの雷撃》】」
詠唱を聞いて、今度こそクーアの顔は青ざめる。
その詠唱を、クーアは前に一度聞いたことがあったし、その魔法の威力を見たことだってある。
そのときの記憶は今でも鮮明に残っている。あんな魔法を直撃すれば、怪我どころか体がきちんと残るかさえ怪しい。それほど危険だとクーアは見た瞬間から思っていた。
今回そんな魔法を使うかもしれないと警戒していなかったのは、《怒りの雷撃》なんていう、対大多数を想定した、威力と範囲を最大限に高めた魔法を、彼がたった一人の人間に使うとは思っていなかったからだ。
別に油断していたとは思っていない。それでもこの状況に、クーアはもうどうしようもないくらいに参っていた。
《七つの風》は攻撃魔法と言われているが、実は防御にも使える便利な魔法だ。術者の後方に七つの風の渦が生まれて、その風が敵に襲い掛かるという至ってシンプルな魔法だ。
だがそんな攻撃魔法も、敵の攻撃に合わせて放てば、その魔法を霧散させることも可能だし、それが不可能でも、逸らすことが可能だ。
しかし、この風はあくまで攻撃系の、しかも初歩に近い魔法だ。
こんな魔法でコフィーの魔法を防げるわけが無い。特に《怒りの雷撃》は本物の雷を五つ空から落とす魔法だ。ここで下手に風なんかを使えば、更なる被害が生まれるかもしれない。
結局のところ、クーアに打つ手はなかった。
「俺がお前を嫌いな理由が分かるか?」
顔を青白くさせたクーアに、コフィーは腕に雷を纏いながら問いかける。
「は、あ?」
そんな質問に、現在進行形で命の危機に晒されたクーアが正常に答えられるわけもなく、生返事に終わる。
コフィーはやはり嘲るように、クーアを見下す。
本当に、虫けらを見るような目で。
「お前の容姿だとか、話し方だとか、そんなものじゃあない。その弱さでも、体力のなさでもない。そんな奴は俺の班にもいる。俺が貴様を嫌いな理由はただ一つ。自身の鍛錬を怠り、弱さを甘んじて受け、努力をしようとしないからだ。何が天才だ! 今、天才はかつて落ちこぼれと呼ばれたこの俺に、敗れているではないかッ!」
コフィーは激昂する。
顔を歪め、怒りに身を任せて怒鳴っても、尚も湧き出る怒りに震えている。
そんなコフィーを、クーアは無表情で見た。
未だ魔法が消え失せることはなく、コフィーの怒りも相まって至る所でスパークしている。それでも、もう彼の顔に恐怖だとか、焦りだとかはない。
本当に、何も考えていないような無表情だった。
そんな表情で、クーアは思う。
別に、何も俺のことを知らないくせに、だとか、そんな子供じみたことを言うつもりはない。自分から知ってもらおうともしていないのに、そんなことを言う資格はないから。ただ。少し、悲しくはなったけど。
なぜ、彼が自分を天才と呼ぶのかはわからなかったけど。
その全てが、過去の出来事と被って、少し泣きたくなったけど。
それでも、そのコフィーの言葉に、クーアはいつものように全てを諦めた。
その魔法を回避することも、全部。
そして、
「俺は、お前が嫌いだ」
無情にもコフィーは腕を振るい、魔法はクーアに向かって放たれ、
「十三班がフラッグの争奪に成功しました。模擬侵略戦を終了します。本拠地に戻ってください」
そんな放送とほぼ同時に、コフィーの魔法は見張りの教員たちの手によって霧散する。
魔法は、クーアに当たる寸前に、消えた。
しかしそのことに安堵の表情を漏らすこともなくクーアは立ち上がり、その場を去ろうとする。先程まで震え、怯えていた様子はない。
コフィーはその背中を悔しそうに睨み付けながら、
「何故、かつて天才と呼ばれたお前は、努力することを止めた」
そう尋ねた。その言葉に返事は無い。
コフィーは少しその背中を見つめた後、自身も本拠地に戻ろうと背を向ける。
その背中に、今度はクーアが声をかけた。
「一つ言うなら、俺は努力をしないんじゃない。しちゃいけないんです」
その言葉に、コフィーは思わず振り返る。
努力をしない人間はいても、してはいけないという人間はあまりいない。それこそ病気や怪我ならまだしも、そんな人間なら今ここにはいないはずだ。
そこまで考えて、コフィーは背を向ける。
「そんな人間などいるものか。いつかお前は、後悔する」
聞こえてるのか、聞こえなかったのか、クーアは何も言わずに木々の間に消えていった。
▲ ▼ ▲
約百年前、この世界は混沌としていた。
治めるものはおらず、犯罪は増え、誰もが恐怖し、嘆き、願いを聞き入れてなどくれない神に何度も祈っていた。
そんなある日、一人の男が立ち上がる。
世界から争いや貧困や悲しみを無くすため、彼は世界を旅し、民を導き、そしてついに世界の統一を成し遂げた。後に彼は「真王」と呼ばれるようになり、この大陸の中央にある世界一大きな木の元に神殿を建てた。
そして大陸を七つの国に分け、共に旅をし、世界の統一に尽力し、彼が信頼していた七人の友を王とした。
世界は七人の王と真王によって管理され、秩序を保ち、平穏に時は過ぎていった。
七人の王と真王は定期的に会談し、どうすればもっと素敵な世界になるのか、毎日話し合っていた。
しかし時は過ぎ、人々は次第に平和に麻痺し、スリルを求めて犯罪が起こり始めていた。
そのことに気づいた七人の王と真王は、どうするべきなのだろうと思い悩み始めた。
そして、真王は言う。
「この世界の全ての民が協力しあわなければ倒せないような、そんな必要悪を作ろう」
その真王の言葉に、反対したものはいなかった。
その意見の筋は通っているようにも思えたし、何より世界を統一した真王の言葉なら間違いなく成功するだろうと信じていたからだった。
そして真王は続けて言う。
「そして、その必要悪は単体では駄目だ。すぐに殺されてしまうし、何より世界が危機感を抱かない。そこで、魔法を操ることに長けている魔王、お前の国に世界を相手取って戦争を仕掛けてもらいたい」
そして白羽の矢が立ったのは、魔法を操ることに長けていた魔王国だった。
魔王国に白羽の矢が立った理由は、民のほとんどが強力な魔法を使えたからというものもあったが、何よりも魔王は真王が世界を統一するための旅に出る前からの親友で、彼ならば任せられると、真王は確信したからだった。
そして十年の月日がたち、ついに魔王国は六つの世界を相手取り、戦争を仕掛けた。
最初こそすぐに終わるだろうと高を括っていた世界中の民たちは、次第に魔王国の力に恐れおののき、世界の民は力を合わせて魔王国に戦いを挑んだ。
そして開戦から二十年がたち、世界中の民が疲弊し始めた頃、魔王は真王に、そろそろ魔王国は全面降伏したいと提案した。世界はすでに平和を求めていたし、何より魔王国の民はすでに力が尽きかけていたからだ。
しかしその提案を、真王は許可しなかった。それどころか、
「魔王国は力をつけすぎた。魔王国は世界を征服しようと目論み、魔王は真王の位を狙っているのだ。今ここで魔王国は滅ぼすべきである」
その言葉を、魔王がいくら否定しても、六つの国の王は信じ込んでしまった。真王は正しいのだと信じ込んでいるからだ。そして、争いは今も尚、続いているのである。
▲ ▼ ▲
授業が終わり、少し世界史の担当教師に呼び止められたと思ったらすぐにコレである。
相変わらず人気が衰えない食堂で、クーアは片手にお金の入った布を持ちながら立ち往生して、ため息をついた。座席が一つも空いていないのである。
ここで立ち往生していても仕方ないと、クーアはパンを買いに行こうとする。パンなら教室でも食べれるからなのだが、食堂からでる寸前、クーアは呼び止められた。
「クーア、こっち空いてるぞ!」
ふと見ると、そこにはクーアと同じ班のメンバーが四人座っていた。確かに席は一つだけ空いている。
しかしその面子を見て、クーアは顔を歪めた。別に、今呼び止めたジオ・キシューが嫌いなわけではない。その隣に座るミンファ・スターチスでも、こちらに見向きもせずにもくもくと食事を続けているユーリ・ドルシナが嫌いなわけでもない。
ただ、そのジオと向かい合って座っている、一人の男子生徒があまり気に入っていないだけで。
「あー、いいよ。俺、外で食うから」
「まーたそういって食べないんでしょ? いいから座りなさいよ」
微妙に図星なので、何も言えないクーアを呆れたように見つめて、ミンファは手を引いて無理矢理に空いている席に座らせた。
そしてそのままミンファは立ってどこかへ行ってしまい、クーアは気まずそうに隣を見た。相変わらず、表情は変わらないその男子生徒は、ただ無表情のまま食事を続ける。
その様子を少し見つめてから、クーアは顔を正面に向けた。
この、隣に座る男子生徒はアズー・カドマスといい、クーアのことを徹底的に無視する、クーアと同じ、十三班のメンバーだ。それこそ、クーアが敵の魔法に当たってぶっ倒れていても無視して進んでいくような無視っぷりだ。つまり、鬼畜の極みなのである。
だというのに、このアズーという鬼畜は、クーア以外の班のメンバーにはかなり優しいと評判で、むしろクーアがアズーに何かをして嫌われたんだろ、とまで言われている。
しかしクーア自身、そんなことは身に覚えがない。
「ジオ、俺は訓練場に先に行っている」
何かしたかなー、と疑問に思っていると、皿を空にしたアズーがジオにそう言い、立ち上がる。ユーリの頭を撫でてから、アズーは机を離れた。
そのアズーと入れ違いにミンファが戻ってきて、呆れたようにクーアを見る。
「アンタ、相変わらずアズーに嫌われてるわね。なんかしたんじゃないの?」
「んー、覚えはないんだけどなぁ」
「ま、こいつは無意識で相手を馬鹿にするような奴だからな」
「それもそうね」
「うわー、俺、仲間内での評価最悪だな」
「お前がいつもそんなことばかりしてるからだろう」
ジオが楽しそうに笑うのを、クーアはのんびりとした様子で見た。
「それよりほら、時間もないしこれ食べなさい」
ミンファが差し出してきたのは、スタミナ定食と呼ばれているものである。この食堂ではわりと量が少ないといわれているスタミナ定職なのだが、それを見て、クーアは嫌そうに顔を背けた。
「何これ、ミンファ」
確認、というように聞くクーアに、
「食べなさい」
ミンファは、笑顔で脅す。
「俺が少食と知ってのこと?」
「だからじゃない。アンタいつからご飯食べてないの?」
「……一昨日の夜?」
「馬鹿じゃない?」
コフィー先輩といいミンファといい、今日は随分と馬鹿にされた目で見られるなぁ、とクーアは思いながら、渋々といった様子で、スタミナ定食に手をつける。決してミンファが怖かったからではない。決して。
そんなクーアを見て、ジオは苦笑いを浮かべる。
やる気のない目で黙々と食べるクーアは、先日の模擬侵略戦で単独で行動していた。その時、彼が班長から与えられた命令を、ジオ達は聞いていない。
だからミンファはクーアがどこかでサボっていたと考えているし、ユーリがどう思っているかは知らないが、ジオの知る限りでは、実はクーアが別の作戦に参加していたとは誰も思っていない。
だがジオは、クーアはきっとどこかで作戦に参加していたと確信しているし、そしていざとなれば頼りになる奴とさえ考えているのだ。
そんなものをクーアに求められても、存在するわけもないのだけれど。
今もなおクーアはやる気なさげにスタミナ定食を食べている。
その様子に相変わらず苦笑を貼り付けて、ジオは面倒くさそうなクーアに話しかけた。
「なぁ、クーア。お前、相変わらず模擬侵略戦で見かけないけど、いつもどこにいるんだ?」
「んー? 適当にそこらへんで寝てるよ」
「それにしては、模擬侵略戦できちんとポイントとれてるじゃないか。あれ、先生が評価してつけてるし、不正は無理だって言われてるんだぞ。きちんと戦ってなかったらポイントは得られないはずだ」
「そりゃあ、呼び出しとか補習は嫌だから適度には戦うよ。でもそれだけだ」
「そんなもんか?」
「そんなもんだ。それよりジオ、今回はお前がフラッグ奪ったんだって?」
明らかに話題を変えたクーアに、ジオは目を細める。それでも追求はせずに、話を続けた。
「まぁな。この兵士育成所じゃまぁまぁの成績ってとこなんだろうけど」
「フラッグ奪っておいてその台詞か?」
「だって班長はいつもフラッグを奪っている」
「ばっか。お前、班長と比べるほうが間違っている」
コフィーも然ることながら、クーアたちの班長もなかなかの化け物と呼ばれる人種だった。加えて、コフィーはきちんと手加減ができる人なのだが、十三班の班長であるシエル・カルロスは手加減のできない、いつでも全力な人だった。
そんな相手を基準にしているジオを見て、クーアは隠すことなく嫌がる。
「大体、シエル班長は俺らより四つも年上なんだぞ? 技術も何も、追いつけるわけがない」
「関係ないよ。戦場ならね」
それは、確かにそうなのだけれど。
基準がやはり一か十しかないジオに、クーアは深い深いため息をつきながら、こっそりと嫌いな野菜を端っこに除けた。
約四十年前、魔王国が世界に戦争を仕掛けてから、この国から笑顔が耐えたことがない。それは本当に楽しいとか嬉しいとかではなくて、笑ってないとやってられなかったのだ。
戦争という言葉に、初め国民は、魔王がご乱心なさったと騒いだ。
しかし、魔王が本当は国民を犠牲にするようなことはしたくはなかったのだということが広まり、ついにはどこでそんな情報を仕入れたのか、真王が命令したのだということまで広がった。
そして、みんなは笑った。
あまりに理不尽な命令に笑い、そしてそんな理不尽な命令が他国にされずによかったと。
どこまでもお人よしが集まったこの国から、笑顔が耐えたことはない。
しかかし同時に悲しみも広がった。
父や夫や長男が出兵し、女や子供はいつも泣いていた。
それでも子を生し、今まで国が滅ぼされなかったのは、魔王が国民に尽くしてくれたからだ。
誰よりも前線に立ち強力な魔法を放ち続け、男がいない家庭の生活の保障まで手を回し、寝る間を惜しんで働くその姿に、国民は嘆いている場合ではないと気づいたのだ。
そうして民間で立ち上げられたのは、この兵士育成所だった。
ここでは十歳の子供から二十歳までの青年たちまでが学んでいる。もちろんその学びは、戦術や実践がほとんどだが。
この訓練所は、魔王のために強い兵士を育てようという意思もあるが、何よりも、子が強くなり、少しでも長く戦場で生き延びれるようにという親たちの願いからだった。
そうして、国内にいくつかある育成所では兵士候補たちは全二十の班に分かれており、定期的に模擬侵略戦を行い、戦争で生き抜くための「練習」をしていた。
その上、クーアやジオやミンファやユーリが通っているこの育成所はいくつか存在する育成所の中でも軍を抜いて優秀を言われている。
のだが……
「こぉら! 野菜を残すな!!」
「あでっ」
決して優秀とは言いがたいクーアに、食堂にいる候補生たちの目線は冷たい。
もっとも、それはクーアが落ちこぼれと呼ばれるような生徒だからというだけでなく、あの、天才といわれているジオ・キジューが仲良く話しているからだ。
ついでに、赤髪で容姿端麗と言われるミンファ・スターチスや、探索魔法やトラップ魔法の天才と言われているユーリ・ドルシナと仲良く話しているのだから、仕方ないともいえる。
そんな、羨望や嫉妬や侮蔑が入り混じった視線に、あーなんか視線がうざー、というなんともしまりの無い感想を抱いて、クーアはようやく強敵(野菜)を咀嚼する。口の中に独特の苦味が広がって、クーアはコップの水を飲み干した。
食べ終わったクーアに、見計らったようにジオは言う。
「クーア、これから俺たちは訓練所に行って自主的に特訓するんだが、一緒に来ないか?」
「うん?」
そのニュアンスに、クーアは首を傾げる。
見れば三人の皿はすでに空で、つまりはクーアを待っていたのだろうと予想はできる。しかしクーアは、だるそうに首を振った。
「俺はやめとくよ」
「あのねぇ、こんなこと言いたくないけど、アンタはいっつも同じ魔法しか使わないくせに、自主的に特訓している姿は見ない、実習授業の時は木陰で寝ている。そんなんじゃ、どうせ新しい魔法の練習なんてしてないんでしょ。戦場では、魔法が二種類しか使えないなんて、殺してくださいって言ってるようなものよ。これは、アンタのために誘ってるのよ」
「って言ってもなぁ……今日は眠たいし、アズーには嫌われてるしねぇ」
「アンタが眠たいのはいつも。アズーにアンタが嫌われているのもいつも通り!」
「何それひでぇ」
「とにかく、頑張ろうよ!」
と、ここでクーアは言葉をとめた。
今まではけだるそうな様子だったが、今は少し刺々しい。
「嫌だよ、努力なんて。報われないし。人間にはできないことがたくさんあるんだって。嫌なことから逃げることは悪くない。そうだろ?」
それでもヘラ、と笑みを浮かべて言ったクーアに、三人は何も言わない。
呆れて何も言わないわけではないことは、三人の雰囲気でわかった。けれど、だからといって納得したような雰囲気ではなかったし、どこか刺々しい雰囲気をクーアは感じていた。
何となく重々しい沈黙を破ったのも、一番に席を立ったのも、ミンファだった。
「くだらないわね。そこがアンタの限界だと思っているならそこで立ち止まってしまえばいいわ。私は、先に行くから」
そして、ミンファはお盆を持って席を離れていく。
二番目は、今までずっと喋っていなかったユーリだ。
「後悔は後で悔やむから後悔なのです。でもでも、クーはすでに、いつか後悔することを知っています。なのになぜ努力しないのか、ユーはわかりません。気づいていますですか? この先、後悔して『あのときに努力しておけばよかった』と思う『あの時』は、今なのです」
同じように席を立ち、お盆を持って離れていくユーリを、クーアはぼんやりと見つめる。
そんなことを言われても、どう反応をするべきなのか、クーアはわからなかった。
そんなクーアに、ジオは無表情のまま呼びかける。
「なぁ、元天才」
そこまで言うと、クーアはゆったりとした動作でジオに目を向けた。
しかしそのクーアの目は、まるで睨み付けるように鋭い。
その瞳に改した様子も無く、ジオは続ける。
「俺は、嫌なことから逃げても構わないと思うんだ。そこで無理矢理に頑張って、心を壊してしまうよりは。だがな……やらなきゃいけないことから目を背けて逃げることは、絶対にしちゃいけないと思うんだよ。これを、お前がどう受け取るかはわからないが……お前には、やるべきことがあることを忘れるなよ」
そう言って、ジオは同じようにお盆を持って席を立つ。
何故か説教をしたジオが苦しそうな顔をしながら、食堂を出て行く。その姿をずっと見送って、クーアはため息をついた。
「天才ねぇ」
その言葉は、長らく呼ばれていなかった。
本当に、今日は見下される日だなぁ、と思う。
クーアにとって『天才』と呼ばれることは、貶されることと同意だった。
昔、天才と呼ばれたクーアは、これほど天才と呼ぶにふさわしい者はいないと、頭のいい宮廷の魔術師たちに絶賛されたくらいである。
その名を今すぐに捨て去りたいと、クーアは思っていた。
天才と呼ばれ、奉られ、史上最年少で『賢者』とかいう地位まで上り詰めて。
そうして結局、大事な場面でクーアは彼女を守れなかった。
天才という、賢者という地位や名誉を手に入れ、この魔王国の中で大人にも引けをとらない力があるはずだったのに。
自分には力があると過信して、全てを守れると嘯き、終いには全世界の人々を笑顔にしてみせるとやる気になって、最後には守れなかった。
死に際を見ることすら叶わず、無惨にも八つ裂きにされた、彼女と両親。
大事な、それこそ全世界を捨て去ってでも守りたかった存在なのに。
彼女がいるから、彼女が喜んでくれるからこそ、世界を守ろうとしたのに。
「お前がいないんじゃ、頑張る意味がないよ……エミリア」
そう呟いて、寂しそうに笑う。
彼にとって天才と呼ばれることは、過去の傷をえぐり返すようなものだった。
嫌なことからは逃げてもいいと思う。だからクーアは今まで、頑張るということから逃げてきた。強くなることを望まず、ただ自分だけを守れればいいと言い聞かせて。
それなのに。これからも、もちろん逃げ続けるつもりだったのに、なぜかジオの言葉が胸に突き刺さる。
もし、ジオの言葉が天才という名から、過去から、逃げ続けていることを指すのならば、やるべきことというのはなんなのだろうか、と。
考えれば考えるほど深みに填っていき、段々と息苦しくなってくる。
僅かに痛む胸を抑えて、クーアは辛そうにテーブルに突っ伏した。
「痛いよ、エミリア……俺は、怖い」
「何が怖いのかなぁ? クーアくん」
一人だと思っていたクーアがゆっくりと顔をあげると、そこには長い金髪に寝癖をつけたままの少女が立っていた。
クーアにとってかなり予想外の人物だったためか、僅かながらに目を見開いた。
「キャロル先輩。珍しいですね、食堂にいるなんて。いつもは班長と仲良くお弁当のはずでしょう? 何か俺に用事ですか?」
「うん。実は、班長に君を呼んでくるように言われてね」
はて、と。
これ幸いというように、クーアの脳はすぐに先程までの考えを捨て去り、キャロルの言葉に首を捻る。
別に今回の模擬侵略戦にて失敗をした記憶はないし、命令違反をした覚えも、怒られるようなことをした覚えもない。そりゃ、先日、キャロルからクッキーをプレゼントされたのだが、もしやソレだろうか。もちろんつき合ってるとか、キャロルもしくはクーアが相手に好意を持っているとか、そんな浮ついた理由ではない。
クッキーを貰ったことを知っているならば、その理由もわかっているとは思うのだが、何かの手違いで、本当にそれが呼び出される理由になったのではないか?と頭を抱える。
これはネタではなく本気の懸念である。
というよりもそれ以外に理由が見当たらないので、クーアは本当に顔が真っ青になるような気がした。キャロルの顔を思わず見てしまうが、彼女が知っている様子はない。
「うん? 私の顔に何かついているかなぁ?」
……この、少し失礼ではあるが、頭のネジが二、三本は抜けているキャロル先輩に、つまり、なんというか……シエルは、ぞっこんなのである。
恋は盲目とよく言うが、本当にシエルはそんな人間で、キャロルからお菓子を貰った人間は今まで、シエルによって葬り去られてきた。
言い訳をするならば、先ほども言った通り、クッキーをもらったのは、キャロルが無銭飲食(先輩の威厳のために言うのなら、食べた後にお金が足りないことに気付いたのだが)をしそうになっていたところ、クーアがたまたま通りかかり、代わりに払ってあげたのである。
その次の日にお礼としてクッキーをもらったのだが、あの時は手紙で呼び出されてこっそりと渡されたし、シエルにはバレてはいないと思っていたのだが。あの人の情報網はどうなっているのかと、クーアは肩を落とす。これはもう、死を覚悟しなければならないのだろうか。
一応、とため息をつきながら、クーアはポヤポヤとどこか違うところに目線を泳がせていたキャロルをこちらの世界に呼び戻して、頭を撫でてやる。
「キャロル先輩、何の呼び出しか聞いてます?」
「うんにゃ、聞いてないよ。なんでも全員集まってから説明するんだって」
「うん? ってことは、俺以外にも?」
「結構な人数が呼び出されてたよ」
頭を撫でたからかご機嫌な答えに、なら心配はないかな、とクーアは安心したように胸を撫で下ろす。流石にそんな大人数がキャロルとの関係を疑われるようなことにはなっていないだろう。もちろん、クーアだって違うが。
万が一、怒られる展開だったとしても、それだけ人数がいれば均等に怒られるだろう。
そんなゲスな考えを端に追いやって、クーアは立ち上がる。
「キャロル先輩は、他にも呼びに行く人います?」
「私は君だけ任されたんだよ」
「じゃ、行きましょうか」
キャロルが後ろから着いてきたのを確認して、クーアはお盆を食堂のおばさんに渡して、食堂を後にする。
廊下にはクーアの僅かに踵を擦る足音と、なぜかぽてぽてという足音が響く。
チラリと振り向くと、キャロルはすでに自分の世界にダイブしていて、ぼんやりとした顔で歩いていた。しばらくその顔を見つめていると、ふいに彼女と目が合い、ほんわかと笑みを浮かべられる。
その笑みにどう返すべきか迷い、結局、クーアは気まずそうに顔を前に戻した。
また会話は、途切れてしまう。
その沈黙を苦しいとは思わずに、クーアもクーアでのんびりと外に目を向けた。
暖かな風が顔に当たり、眠気が襲う。こんな空気の中にいると、いくら兵士育成所にいようとも、この国が世界を相手に戦争しているとは考えられない。
戦争なんて、実は起こってないんじゃないか?と、時々、クーアは感じるときはある。
この育成所ではみんな楽しく笑っていて、そりゃあもちろんコフィーのような堅物はいるし、模擬侵略戦なんてものもあるけれど、それでも、本当に時々、思うのだ。
しかしそんな幻想も、外から聞こえてくる爆発音や、足から感じる振動が、彼を現実へと引き戻す。
そして、また思う。
ああ。紛れも無くこの国は、戦争をしているのだ。
それなのに、クーアは未だに幻想にしがみついている。戦争だって実際の所は激化してなくて、クーアみたいな子供はまだ出兵する必要なんかなくて。むしろ、二十歳になる前には戦争なんてものは、終わっているのではないか?
それは、もちろん夢物語だと自覚しているが、でも、現実は、とても生きづらいものだから。
だからクーアは死んだように生きる。
漠然と、呆然と、釈然としないまま。
空気が澄んでいて、とても暖かな風が吹く中、訓練所から爆発音や怒声が僅かに聞こえてくるが、それに対し、頑張ってるなぁとどこか他人事のようにクーアは呟いた。
食堂で、本当は誰よりも頑張らなければお前は落ちこぼれなのだからと、言外にミンファに言われたが、クーアは何も変わる様子はなかった。
ただ、いつもより、訓練所から聞こえてくるその声が眩しく感じるだけで。
訓練所を横切り、クーアとキャロルは一つの建物の中に入っていった。
この育成所の敷地には大きな訓練所が五つあり、そして班ごとの寮が並んでいる。また戦略などを学ぶ大きな校舎が一つある。
その中でも、二人は十三班の寮へと入った。
黒を基調とする寮内は静まり返っていたが、クーアは迷うことなく、左右に分かれた廊下を右に曲がり、最奥へと進む。
そこからは異様に人の気配があるし、会議室というプレートの下がるこの部屋以外に、大勢の人間が入りきる部屋は存在しないのである。
ふいにクーアの後ろを歩いていたキャロルが前に出て、勢いよく扉を開ける。
その大きな音で室内にいた人間が一斉にこちらを向き居心地が悪くなるが、正直、この扉を自ら開ける勇気はなかったので、まあマシだろうという結論に至った。
「やっと来たか、イージス」
「はぁ。すみません」
「まあいい、空いてる席に座ってくれ。キャロルは俺の隣だ」
少し声色が嬉しそうだったのは、気のせいだろう。
さてこれは何だ?と、クーアのいつもは発動しない嫌な予感が、妙に警鐘を鳴らす。
適当に空いている席に座ると、前の方にはジオたちの姿も見られた。特訓を始めた頃に呼ばれたのか、僅かに汗ばみ、ミンファに至っては露出度の高い服にも関わらず、胸元から空気を送ろうと躍起になっている。
その様子を真剣な目で見ている男子を呆れたように見て、クーアは机に頬杖をついた。
これから何の話が始まるのかは、全く予想はできなかったが、少なくともクーアが『選ばれて』呼ばれたわけでないことは、ここに十三班の班員が全員集まっていることからわかる。
けれど、今日は班での定例会議の日ではないし、そもそもそんな会議があるなら、あの優等生のジオが忘れて特訓に行くとは考えられない。
少なくともそうではないとしたら、班員の誰かが何かをやらかして連帯責任となってしまったか、もしくはーーーー。
「さて、これから十三班の臨時会議を行う」
そこまでクーアが考えていると、班員たちと向かい合うように座っているシエルが、ようやく口を開いた。何やらざわざわと話し合っていた班員たちも、同時に口を閉ざした。
何となく、嫌な予感が膨れ上がってきたような感覚に背中を振るわせながら、珍しくもクーアは姿勢を正したまま、シエルの話に耳を傾けた。
「みんなも知っての通り、我々十三班は、この兵士育成所の中にある二十の班のうち、模擬侵略戦ではかなり良い成績を残している。特に最近の模擬侵略戦では、ジオ・キシューやユーリ・ドルシナを初めとする第六階生や第七階生などの低階生の活躍もあり、教官からはかなり高い支持を得ている。そこで、魔王様からの勅令にて、我々十三班、そしてコフィー・アルベニア率いる七班は戦地へ赴き、実習訓練を行うこととなった」
「んなっ」
思わず叫び欠けたクーアは、無意識に浮かせていた腰に気づき、静かに椅子に座り直す。
確かに、クーアの所属する十三班は最近ではかなりの好成績を残し、最高学年である十階生だけでなく、六階生のような者たちも、それなりにフラッグを奪える程度には活躍しだしていた。このまま戦場に送られても、他の班よりは確かに良い動きができるとは思う。
けれど、模擬侵略戦は、所詮は模擬であり、本当の戦場とは空気が違う。
魔王の狙いは、そんな戦場の空気に慣れることだろうとは察することができたが、それと受け入れることは全くもって異なる。
それこそ、シエルやキャロル、コフィーなどの猛者ならばまだしも、それより年下と言えば使えないことは確定だ。それこそ足を引っ張るどころの話ではない。
ここにいる十三版は全員生きて帰ることは出来ないと、そう断言できる。
クーアはそんなことを考えつつも、どこかでそんな勅令をだした魔王を、冷ややかな気持ちで恨んでしまう。
他の班員たちも流石に戦地の赴くとは考えもしなかったのか、僅かに顔を強ばらせている。あの、ジオでさえも、だ。
そのことに少なからず驚きながら、しかしまだ何か言おうとしているシエルにまた目向ける。
「落ち着け、話はこれで終わりじゃない」
その言葉に、部屋は再び静寂を取り戻した。
「戦地と言っても、何も激戦区に行くわけじゃない。この首都から近い、ブランハルツの森の近くだ。どうやら敵の少数精鋭部隊が、この首都を目指しているらしくてな。そいつ等と戦う。人数的に負けるわけがないし、そこは他の戦場にも近くないから、流れ弾がくる心配もない。今回の目的は、戦場の空気に慣れることだ。何、真剣に臨めば、死ぬことはない。実際のところ、敵を相手にするのは宮廷魔導師二人、賢者一人、騎士団員五名だからな」
賢者、という部分で、大抵の班員は表情を緩めた。
魔法というのは、精霊と契約し、その精霊たちにお願いをして、超常現象を引き起こしている。その精霊にはランクがあり、下級精霊、中級精霊、上級精霊、精霊王、という順で強さが決まっているのだが、この賢者というのは精霊王たちと会話をし、そして認められた者たちを指す。もちろん、認められれば上級精霊と契約することも可能となる。一般人では中級精霊三体と契約すればかなり優秀と言いわれている中で、これはかなり優秀なのだとわかる。
だからこそ、そんな賢者がついてくれるなら、何の心配はないだろうと、班員たちは考えたのである。
だが一方で、クーアは表情を苦く歪めた。
例え賢者と言われようが、力及ばず守りきれない場合もある。しかもそれが、二人三人ならまだしも、こんな大人数である。
過去にその称号を与えられたことがあるからこそ、クーアはその賢者を、いまいち信用できずにいた。
しかし、話は班員たちが落ち着きを取り戻したためか、どんどんと進んでゆく。
「出発は二日後の朝日が昇ってからだ。各自、準備をしっかりとしておくように。また今日から二日間は訓練への参加はなし、もちろん自主的にも、だ。素振り程度に済ませて、疲れないようにしておけ。話は以上だ。解散」
シエルの合図に、班員たちは次々と部屋をあとにする。
ジオたちも少し四人で話し合っていたようだが、しばらくすると同じように、波に乗って出ていってしまう。途中、ジオがこちらに気づくも、ミンファに引きずられて出ていってしまう。
これから、準備をするのだろうと、出ていく班員たちをクーアはぼんやりと見送った。
そしてついに、班員は全員、この部屋からいなくなる。残されたのは、クーアとシエル、キャロルの三人だけだった。……いや、まあ、キャロルはシエルの膝で寝てしまっているのだが。
「どうした、イージス。さっさと部屋戻って準備しねぇのか?アイツらはもうでてったぞ」
キャロルとの二人の時間を壊されたくないのか、少し、シエルはそっけない。
むしろ早く出てけコノヤローと聞こえなくもないが、クーアはどうしても、なんとなく話しておきたいことがあったのだ。もしかすると、それは愚痴だったのかもしれない。
いつもは考えないようにしてきた過去が、ジオたちに説教されて蘇ってきてしまったことに対する。
「班長。戦地に赴くのって、俺たちだけなんですか?」
「あ? 何言ってんだ、お前。七班と一緒っつったろ」
「すみません、言い方を間違えましたね。他の兵士育成所からはいかないんですか?」
「…………、俺が教官に聞いた話では、この育成所だけだそうだが?」
「今後の予定では?」
「上手くいけば他のところでも送り出す予定だそうだ。これは、名誉なことだぞ」
「後付でしょ」
つい流れで大きく言ってしまっては、口を閉ざしてももう遅い。
顔色が何も変わらないシエルに顔を歪めながら、クーアは呟くように言葉を漏らす。
「戦場に比較的安全とか、そんなもんがあるわけないでしょうが。この首都を出てしまえば、魔王様の絶対的な盾もなく、身を守ってくれる壁もない。少なくとも、誰かは死ぬでしょうよ。これは実験なんでしょう? 俺たちが選ばれたのは、単に俺たちが戦争孤児だからだ!」
そう叫ぶと、クーアは勢いよく立ち上がった。
こんなふうに、シエルに八つ当たりしても、仕方がないとクーアが一番よくわかっている。こんなことをしているくらいなら、少しでも生き残れるように何か準備をした方がよっぽど良い。
それでも、全部仕方ないのだと諦めていたはずのクーアは、何かに憤っていた。
何に対して怒っているのか、本人でさえわかってはいない。ただの勢いだけで、クーアは言葉を続ける。
「どうせ魔王様や大臣たちは、戦争孤児たちがいくら死のうが、悲しむ家族もいないから、楽だって思ったんだ。少数だから? 賢者や騎士や宮廷の魔導師がいるから? 本当に、それで絶対に助かるわけではないのに! ここにいる奴らは、みんな馬鹿だ。戦争が、俺たちが真っ先に戦地へ向かわされる理由を考えもしない! そのことに何の疑問を抱かずに、現状を受け入れるだけだ!何で、みんな気づかないんだよっ」
自分が今、国家反逆と言われても仕方がないようなことを叫んだと、クーアは理解している。もしかしたら、シエルは国にこの言葉を報告するかもしれない。いや、もしくはそんなことを口にするなと怒られるか。
それとも、シエルも何を馬鹿なことをと笑い飛ばすか。
しかし予想に反し、シエルから、答えはない。
何とも思ってないように振る舞ってはいたが、それでも内心はどうなるのかとおそれていたのか、クーアは俯いていた顔をゆっくりと正面に戻す。
座ったままのシエルは、怒りに体を震わせるわけでもなく、キャロルの頭を撫でていた。
少しだけ、クーアは今の話を聞いていなかったのだろうかと不安になる。
それでも答えを求めるように黙り込んでいると、シエルはついにキャロルを起こさないように、その背に背負って立ち上がってしまう。
やはり、と。
クーアは諦めたように肩を落とし、椅子に座り込んだ。
しかし、座り込んだというよりは椅子に倒れるように座ったので、ガタンと大きな音がしてしまう。それにキャロルが僅かに呻いた。
しまったと思うも、シエルから激高が飛ぶことはない。いつもならば「キャロルが起きるだろうがッ!」などと怒鳴られるのだが。
そのことに、クーアは少しだけ気を緩める。
そして、シエルはキャロルを抱ままクーアが座っている席を通りすぎる。
クーアはその足音を聞きつつ、自己嫌悪に陥っていた。
自分の価値観を押しつけようとして、あまつさえそんな考えに意見をもらおうとまでしていた。自分は間違えたことは言っていないと思いこんで、そしてシエルが答えなければ勝手に被害妄想を始め、最終的にシエルを悪者に仕立て上げていた。勘違いも甚だしく、そんな考え方はクーア自身が嫌悪しているものだったはずなのに。
あり得ない、とクーアは机に頭を打ち付けた。
少し、頭を冷やそうじゃないか。
物や人にあたるのはよくない。自分の中でじっくり考えて結論をだそうと。
結局、そんなことをしても余計に度壺に填るだけなのは目に見えていたが、あえて気づかないフリをして。
しかし、
「クーア・イージス」
てっきりもう部屋を出ていったと思っていたシエルの声に、クーアは体を驚きから震わせる。
独り言を言わなくてよかったと本気で考えていれば、シエルは返事を期待していなかったのか、勝手に話を進める。
「俺も、そう思う。正直、俺も怖くて、誰かに怒鳴りてぇ気分だ」
そう言って、そこでようやく、扉が閉まる音がして、人の気配が部屋から消える。
机に伏せたままのクーアはじっと動かなかったが、少しずつ体が小刻みに揺れて、段々とうめき声に似た笑い声が聞こえてくる。
「く、ははっ……何だよ。俺は、怖かったのか」
ぎゅう、と、笑ったからではなくて、違う何かの感情から震える体を、自らの腕で抱きしめる。
そうだ、確かにこれは、怖いという感情だ。けれど、この恐怖に震える体を抱きしめてくれる人は、もういない。
▲ ▼ ▲
「クーアは大丈夫かなぁ?」
会議室から少し歩き、すでに声は聞こえなくなったころ、背中で眠っていたはずのキャロルが呟いた言葉に、シエルは苦笑を漏らした。
背中にいる彼女は、班員からはかなり可愛がられているが、その大半はなんだか母性をくすぐるだとか、守ってあげたくなるとからしい。
しかしシエルは、彼女がシエル以外には見せない、まじめで、知的な部分を見ているため、そんなことを語っている班員を見ては呆れしか出てこない。
本来はこうして聡い彼女は、いつも実力を隠すような言動をしている。先ほどの会議中も、膝の上で寝ていたのはフリであり、実際は寝てなどいないし、むしろ薄目を開けて班員たちの反応を見ながら、実習訓練のために作戦を考えていたのである。
こうして背負って部屋から出てきたのは、彼女が悲しそうに顔を歪めていたからである。
一応、頭を撫でてやったのだが……気休めにしかならなかった。
他の班員ならば問題はないのだが、キャロルの些細な表情に、クーアは敏感なのである。それこそ、他人にはわからない程度にキャロルが悲しそうな表情をしていても、クーアは気づくだろう。だから部屋から急いで出てきた。キャロルの表情にクーアが気づく前に。
魔法や体術などは衰えこそ、そういった部分での『天才』は、衰えることを知らない。
尤も、部屋を出てこなくとも、あんなに取り乱していれば気づかなかったかもしれないが。
「いつもいつも、耐えてたのが爆発したんだねぇ。そりゃあ、怖いよねぇ」
キャロルはどうにも、クーアのことがお気に入りだった。
もちろんシエルも同じ班員として気に入ってはいるが、彼はどちらかと言うとジオやアズーの方がお気に入りなので、そこまで心配するキャロルが理解できなかった。
それこそ、秀才や天才と呼ばれる彼らが、その名の重みに耐えきれないのではないのかと気が気でないのだ。
それでも、キャロルの言葉は続く。
「クーアは可哀想なんだよ。天才だとか、賢者だとか、そんな大層な呼び名を、たったの五歳で与えられたんだよ。でも、そんなの彼には、必要なかったの。名前なんて、ただの飾りだから。無理矢理押しつけられた名は、クーアを食い尽くしちゃった」
その言葉に、ジオとアズーを思い出す。
いつか、彼らも食われるのではないか。
「クーア、さっき痛いっていって、胸を抑えてた」
「何? アイツ、体悪ぃのか?」
「ううん。どこも悪くないよ。心が痛いの。大方、ジオ君やミンファちゃんやユーリちゃんに、何か言われたんだろうね。どうしてだろう? クーアは最近、痛いって泣いてばっかりいる」
そうして悲しそうな声に、シエルは思わず振り返りそうになった。
「でもでも、一人で立ち上がるしかないんだよね」
そうだな、と返すことしか、シエルには出来ない。
「あ」
とそこで、短くキャロルが声をあげる。
何事かと思うと、キャロルの手が頭に置かれた。そしてそのまま、頭を撫でられる。
いい年して頭を撫でられる、ということに恥ずかしさは多少あれど、シエルはそのまま撫でられていた。
「シエルも、怖いんだもんね。でも、シエルには私がいるからね」
ポンポンとあやすような手つきに、今日はなぜか振り払えず、されるがままになっている。そんなシエルに、シエルが落ち込んでいると不安になったのか、キャロルは眉を寄せて「大丈夫?」と顔をのぞき込もうといてきた。
その顔をやんわりと防ぎながら、「大丈夫だ」とだけ言葉を返す。
今の顔は、情けなさすぎて見せられるものではない。
怖くて怖くて泣きそうだった。
班員の前ではそんな素振りさえ見せられずに、クーアのように喚くこともできず、耐えるだけだった。
本当は、クーアが怒鳴ったことを、シエルは思ったことがある。
けれど、そんなことを考えれば自分の存在理由がめちゃくちゃになる気がして、その考えを放棄していたのだ。
キャロルに頭を撫でられ、言葉を投げかけられ、少しずつ消えていく恐怖心の中で、シエルはクーアのことを考えた。
以前、自身が考えることを放棄したことを、彼はずっと考えていた。
きっと何度も自分の存在理由を消されかけただろうし、恐怖に震えたに違いない。
けれど、その考えをシエルのように放棄できないと言うのならば、自ら答えを見つけるしかないのだと、シエルは思う。
向かうは死地。
けれどそこでくたばるわけにはいかないのだと、シエルは背中に暖かな体温を感じながら、ゆっくりと自分の中にあるスイッチを切り替えた。
(続く) - 2012-04-02 21:16:35公開 / 作者:音無 霧都
■この作品の著作権は音無 霧都さんにあります。無断転載は禁止です。 - ■作者からのメッセージ
初めまして、音無霧都と申します。
初心者ですが、よろしくお願いします。
今回の作品は、ライトノベル風ですね。純文学のような硬さはなかったかと思います。
この作品はかなり長くなる予定なので、シリーズ化すると思います。
第一幕は、クーアが国に帰るまでです。
キャラについての言葉、その他は、完結してから書きたいと思います。
これからもよろしくお願いします。
2012.4.1 投稿開始
4.2 誤字訂正
- この作品に対する感想 - 昇順
-
はじめまして、音無 霧都様。上野文と申します。
御作を読みました。
魔王国の成り立ちですが、マスティマ、だったかな? 人間の信仰心と善性を見極めるための必要悪として創られた天使。しかし、後世においては「悪魔」とされ、忌み嫌われた。そんな神話を思い出しました。
色々と大丈夫なのかな、この世界? という強引さはありますが、パワーがあって読みやすく、面白かったです。2012-04-01 23:15:58【☆☆☆☆☆】上野文上野文様
感想ありがとうございます。確かに、現段階では説明不足も相まって、少し世界観に違和感等があるかもしれませんね。これからはパワーだけではなく、丁寧さを取り入れていきたいと思います。
本当にありがとうございました。2012-04-02 21:19:55【☆☆☆☆☆】音無 霧都計:0点 - お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。